dialogue.umezu.半魚文庫
ウメズ・ダイアローグ(3)
わたしは真悟
(その5・final)
樫原かずみと高橋半魚の楳図対談です。この対談は、メールによって行なわれました。対談期間: 2000-09-17
2000(C)KASHIHARA Kazumi / TAKAHASHI hangyo
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● final・そして最後に一言づつ
◆ Apt :1 樫原かずみ「視点の魔術師」
樫原 では、僕は「絵的」な面でのまとめをつららつらと述べたいと思います。
楳図作品の「絵」の特徴は4分割の1頁にヘタすると12コマまで入るという驚異的な作業の場合もあります。この中でロングとアップの比率の具合が巧みに織り交ぜてあり、非常に読者には読みやすい感があります。そして最もな特徴がページ全体に流れる「ダーク」かつ「陰鬱」なイメージ!
実質的に「わたしは真悟」は「漂流教室」に次いで大長編となる作品ですが過去の作品群の「集大成」的な「絵」として君臨してるといっても過言では無いと思います。緻密に描かれたトビラ絵、当時のコミックで重要視されていたリアルな背景描写、そして随所に見られるタチキリ線や見開きページ。
過去のコマ割りを踏襲しながらも、当時の読者にも受け入れられるサービス精神があふれており、ストーリーのテーマそのものが難解ではあるものの初めて楳図作品に触れるもの、既に楳図作品に携わっているものにとってもこの醍醐味を味わっていただけるものと思います。
美少女を描かせたらピカイチだった楳図先生。この作品でも少女群はピカピカ光って生きてます!!
◆ Apt :2 高橋半魚「喪失感の彼方へ」
半魚 僕は、かつて『わたしは真悟』をどのように読んでいたのか。では、僕はテーマ的というか、『わたしは真悟』を激愛していたかつての自分に捧げます。
22歳のぼくにとって、『真悟』の主題は、「子どもの時にしか出来ないこと」の一点につきていた。そして、『真悟』は「さとる」の物語だった。腕の傷の絵を眺めて「もう二度とこんなに上手には描けないよ」というさとる。まりんにはもう二度と会うことは無く、大人になってしまうさとる。大人になるとは、子どもを捨てることでもある。自分の過去を切り捨ててしまうこと、「行ってしまえ!」と。
22歳で『真悟』を読んだ頃、僕は不安定で自信がなく、だからこそ強く生きてゆきたかった。鈍感で粗暴ゆえの強さでなく、さとるのような敏感で優しいがゆえの弱さに自分がどう向合ってゆくか、その中で如何にして強さを作ってゆくか。他人に対してではなく、自分に対して禁欲的に律することで強くあろうとした強さ、僕はそれをさとるの生きた跡の中に見ていた。
フラッグを撃ち殺す『仔鹿物語』には、大人の夢想する理想の子供、喪失感のテーマが一抹ながら感じられた。しかし、『真悟』にはそうした過去の感懐に耽る甘ったるさは無い。まさしく僕にとって未来への物語だった。
だが、30代後半になって、実はもう、さとるの感情を思い出せなくなりつつある。多分、もはや取り返しの付かないほどオトナになってしまったからであるが、しかしまた、僕の感情の頂点(エルサレム)を過ぎてしまったからでもある。そんな今の僕ではあるが、僕も人に愛を与える存在として生きていけるだろうか。現在の僕にとって、『わたしは真悟』がよくやく「シンゴ」の物語になりつつある。
生きてゆくさとると、死んでゆくシンゴ。与えられなかったさとると、与えていったシンゴ。
(対談やってみると、「まりんも好きだった」って書いてあるけどね。笑い)
対談期間: 2000-04-15〜09-17
2000(C)KASHIHARA Kazumi / TAKAHASHI hangyo