おろち.umezu.半魚文庫

誰が何を知ったのか

Orochi no yachimata

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このページの目次(ページ内でリンクします)
  1. 大概
  2. 楳図かずおの作品制作史
  3. 初出と諸本
  4. 本文校合
  5. 本文解釈・注釈
  6. 作品論
  7. マンガのコマ割りと時間

    (2003年度の反省) 書誌情報、本文注釈等でなく、あくまで絵柄・コマ割り・視覚等にこだわり授業を展開するつもりだったし、いろいろ準備も出来てたのだが、なんせ『おろち』の現行本が存在しないことが分かり、ほとんど『おろち』の授業になりませんでした。小学館・秋田書店ともに、現在『おろち』の在庫が無いのです! 授業には、「骨」の初出サンデーと単行本とを学生の人数分コピー配布し(たいへんくたびれた)、それなりにやってはみたものの、力尽き、映画(イントレランス・戦艦ポチョムキン・ミザリー)を見たり、松本大洋『ピンポン』を題材にしたり、ほとんど『おろち』の授業になりへんでした。来年度はどうしようか、すごく悩んでます。(2003-09-09)

  1. 初出と諸本

  2. 本文校合 [このページのTOP]

    1. 校合の必要性/諸本の本文批判(テキスト・クリティーク)。

    2. 本文校異/コミックス版で読む時の参考にしてください。

  3. 本文解釈・注釈 [このページのTOP]

    最も好まれる心理サスペンス、純文学的。cf.猫目小僧

  4. 典拠論 [このページのTOP]

    新たに楳図番となった編集者白井勝也(現取締役専務)が、楳図に様々な情報を提供し、映画館を廻り、一緒に本を読む等して、ストーリー作成に協力したと思われる。『おろち』は、同時期の『イアラ』の持つオリジナリティと比べ、関連作品・参照作品が指摘できるのはそのためである。基本的に、映画・小説等の他者のタネを使わない楳図先生だが、この『おろち』にかぎり、白井氏の趣味もあるように思うが、かなり楳図を取材・素材利用の方向にむけようとしているように思われる。小説や映画を読み見まくる楳図の様子を嬉々として「担当記者より」コーナーで記しているのである。

    ただし、『おろち』がそれらの典拠を変容させ超えている点は十分に指摘できる。だから、これを以って「パクリだ」云々という指摘は当たらない。そもそも、オリジナリティと引用(盗用・剽窃)との境界は絶対的ではないのであるが、楳図の場合、ストーリーが自分で作れないから人から借りた盗んだ、などというレベルでは決してない。

    タイトル関連作品
    1. 姉妹 自作の「血」のリメイク的作品
    2. 小説(ポー)「早すぎた埋葬」
    3. 秀才 小説(三浦綾子)「氷点」
    4. ふるさと 映画「光る眼」
    5. 小説(ウィリアム・アイリッシュ)「非常階段」
    6. ステージ イメージは、ボーイからスカウトされた森進一か
    7. 戦闘 小説(武田泰淳)「ひかりごけ」などか。映画「山」
    8. 映画「暗くなるまで待って」
    9. 映画「何がジェーンに起ったのか」

    (2021-11-23 補記1)

    上述のような、ネタもとばかり気にする読解態度はまちがっている。『おろち』に表れた作家の根源的な態度に注目すべきである。

    キャラクターとキャラの区別などがマンガ研究で話題になりますが、根本的に分かってないなと思う。キャラクター(統一的、連続的人格)とキャラ(非統一的、断絶的、図像的人格)なんて区別は、19世紀的な思い込みにすぎない。そもそも、人格的な連続性が自明とされるのは19世紀文学までであって、20世紀小説は人格の不連続性が描かれている。

    統一的な人格概念は19世紀小説の前提であって、20世紀小説はテーマ的には人格(あるいはストーリー、時間)の分裂を受け入れ、生き、作法的には不連続な断片などを多用する小説です(たとえば福永武彦『20世紀小説論』)。19世紀文学は心理と出来事を描いてきたが、20世紀文学は意識と時間を描いた。しかも楳図がこれを実践したのが『別世界』1955年。小説や映画を手がかりに実現したのが『おろち』である。

    『おろち』第一話「姉妹」。これは、十八歳を過ぎると醜く変化するという血筋を持つ、龍神家の美しい姉妹の物語である。彼女らの母(すでに醜くなっている)が死ぬ間際、妹にだけ告白をした。告白を聞かされた妹によれば、彼女は養女であり龍神家の娘ではない(つまり十八歳を過ぎても醜く変貌しない)という。十八歳を過ぎれば二人ともそれぞれ醜くなり始めると覚悟を決め冷静だった姉は、嫉妬に狂い始め、ついには自らの顔を火箸で焼いてしまう。それを見た妹は、養女なのは実は姉だと公表する。妹は?をついていたのである。嫉妬に狂って妹を虐待する姉のありさまも恐ろしく描かれている。だが、もっと恐ろしいのは母の告白を聞き、?をつきとおした妹のほうである。

    「姉妹」と『赤んぼ少女』との共通点は何か。本当の娘であるかどうかという共通点は重要ではない。思ってもみなかった秘密を聞かされた、という点が共通しており重要なのだ。「姉妹」に描かれるのは、知ることの衝撃によってあとへは戻れなくなる人間の意志と行動である。ある秘密があり、それを知ることで突き動かされる生であり、『おろち』全九話はすべてがそういう話である。

     『おろち』第三話「秀才」には、憎しみ合う母と息子・優とが描かれていた。彼らに血のつながりはない。実の息子・優を一歳の誕生日に殺され、殺した強盗の同じ年頃の幼児を引き取って育て、その名で呼び、虐待にも近い勉強をしいてきた母親。実子ではないことを小学五年生のときに偶然知り、それ以後は母親がしいる勉強をすべてやり通し絶対に負けまいと生きてきた息子。母と息子とは敵同士である。しかし、憎悪の果ての結末部において示されるのは、それぞれ「優っ」「おかあさんっ」と呼び合う姿である。おろちはこれを見て言う。「にくみあっていたとしても、こんなに長い間…いっしょに生活してきたのだ……。ふたりは親子なのだ。そうでなければ、ここでいっしょに生活してはこれない……」。一緒に生活してきたという事実。ただ近くにいること。それが憎しみを超えるのだ。これが楳図が与えた、南条家とは別の答えである。

    『おろち』第四話「ふるさと」では、超能力少年・新次は母親に「猫の舌を焼いて喰いたい」と言い、猫を殺させようとする。また、楳図作品中でいちばん猫が殺されているのは『猫面』であるが、猫面城主秀信は年齢的にはもう子どもではない。子どもの無邪気さは、大人の論理を超えており手が届かないという意味で、聖なるものである。子どもの、この聖なる資質および身体において、無邪気に暴力が発現しているのである。子どもには行為のクオリアが欠如していて、自分が何をやっているのか実感がないという意味で、恐ろしいのである。子どもと違って、大人は死んだ猫をきちんと埋葬してやることができる(『おろち』第七話「戦闘」)。

    『おろち』第九話「血」が初読誌で連載された際の第一回で、全二十四ページがすべて裁ち切りで構成され、見てのとおり、複雑で不規則な不等辺多角形でコマ構成がされている(図33)。連載当時の担当編集者白井勝也は同誌翌週号において「先週の全ページワイドな画面でもわかるように、この作品に打ち込む、先生の意欲はすごい。この第九話で、愛憎と恐怖を、徹底的に追求するといっている」云々と宣伝している。

    『別世界』について

    単独デビュー作品、SFに見えないSF作品、終末SF。cf.恐怖の地震男)

    デビュー作として、1955年6月に『森の兄妹』、同年9月に『別世界』が刊行された。楳図かずお本人は、この2作をそれぞれ中学時代、高校2年までに描いているが、刊行された時期は、高校を卒業した年で、卒業後である。

    特に『別世界』は、『森の兄妹』と比べてもさらにクオリティが高く、しかも芸術を意識した児童画のように見なされた。

    出来事でなく、地を背景に図が活動するという出来事が描かれるのではなく、図地一体のイメージとその変容を本体として描かれたマンガの別の可能性、ポスト手塚治虫以前のマンガの可能性そのもの。

    正直、ストーリーがよく分からないとも言える。 しかし、絵柄が地と図の区別が曖昧で、全体で絵柄を作る装飾的。オールオーバー。平面の分割であり、内側と外側(強度と延長)の分割としての装飾。(本質たる機能・表現に対する偶有性としての装飾ではなく、世界分節の本質作用として装飾 cf.ヴォリンゲル『抽象と感情移入』知的作用としての、岡ア乾二郎『抽象の力』身体的行為としての)

    具体的なモチーフとして、「幾年故郷来てみれば」「ガイコツ岩」。『イアラ』のラストが映画「猿の惑星」1968年に似ているが、それ以前からの「故郷の廃家(はいか)」のイメージを楳図は持っている。『おろち』「ふるさと」にも引用される犬童球渓『旅愁』もいい訳詞である。それにしても、はたち前の青年がなぜ故郷にこうした崩壊を持っているのか、不思議といえば不思議である。

    『花びらの幻想』について。 楳図かずおの恐怖概念

    民俗性、怪奇性、幻想性の三点が統合された初期の最高傑作が『花びらの幻想』(一九五九年、正続二冊)である。タイトルからうかがわれるように少女向け作品で、絵柄の可愛らしさも含め、幻想的な美しさを作品全体で発揮した傑作である。これもまた母子物の範疇に入るが、その幻想性については、そうした全体に漂う雰囲気の他、タイトルにも明記されている。また主人公のバレリーナ・浦島歌女が母(母もまた一流のバレリーナであった)から教わるのが「幻想のバレエ」であるなど、作品中で何度も繰り返され謳われている。

     民俗性という点からも見ておくならば、浦島太郎と雪女という二つの民話をもとにしてストーリーが巧みに構成されている。すなわち、歌女の村は、彼女が龍宮城にいた三日間で米軍の空襲により壊滅しており、帰ってみればもとの風景は喪われている。または、戦後、死んだと思った母に再会し一緒に幸せに暮らすのだが、結末において、玉手箱をあけたために母は春の花びら(雪のような)のなかに消えていく、などである。それらは民俗的要素を作中で自在に操るものである。

     怪奇性という点でも、歌女が助けた亀に連れられていく龍宮城は、空襲にあって沈んだ、母が乗っていたその沈没船なのである。一ページ一コマで描かれるその図像は、龍宮城に行くなどという一見子どもだましのお伽話が、全くもってリアルなおぞましさをたたえるのである(図2)。また、荒廃した戦後の東京の描写などは、気の狂った人や売春婦までも描き込まれていて、少女物としては極めて悪趣味と言える。

    『楳図かずお論』追加部分 p.41 さらに三点補足しておきたい。まず、そのストーリー構成の巧みさについて。本作は、怪異・幻想(虚構)を肥大させ、それを現実へと回収させることで物語的に安定を図るも、それによってもう一つ別の虚構が成立してしまうという構造を持っている。すなわち、龍宮城へ行くという不思議な体験は夢だったとして現実に回収される。なぜなら、死んだと思っていた母は生きていたからだ。しかし、その現実が実は幻想(虚構)に食い破られてしまう。玉手箱をあけてしまい、母は春の花びらのなかに消えてしまうからだ。つまり、本作は「北風物語」のパターンと「お百度少女」のパターンとの二つをつなぎ、組み合わせているのである。次に、作品のテーマについて。注目されるのが、戦時中および戦後の荒廃した人心を芸術(バレエ)によって復興させるという基本哲学である。《マンガは芸術でなければならない》と考えるのが楳図かずおだが、すでに本作に、芸術が世界を救済するという発想が見て取れるのである。

    また、私が個人的に最も驚くのが、母はすでに死んでいると気づき、去ろうとする母を追って言う歌女のセリフである。「まってッ。お母さまお母さんが何であってもかまわないいっしょにくらして!」。読者の方々はこれをどう聞くであろうか。生きた母ではなく、母は幽霊であったり、あるいは狐狸や蛇蝎のたぐいが母になりすましているのかもしれないとしたら? 極端にすぎる滑稽なセリフであろうか。そうではない。これはおよそ母を亡くした者にしか思いつけないセリフだろう。しかし、まだ両親が健在の二十歳そこそこの青年は、こんな言葉をすんなり書いたのである。ちなみに、監督脚本映画『マザー』(二〇一四年)にも「僕は幽霊でもいいから母と会いたかった…」という台詞がある。

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