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週刊『少年サンデー』1972年23(5月28日号)〜1974年27(6月30日号) 連載105回
翔たちを現代に帰してほしいというお便りを、みなさんからたくさんいただきました。わたしもずいぶん迷いながらもこのような結末でペンを置きました。この力強い少年たちに、人類の明日(あす)をたくしたかったのです。(楳図かずお) (2頁めのアオリ) この大長編をかきあげられた先生。しばらくは放心状態だった。今月末から、待望の単行本となって発売されるが、約2300枚の画稿には、先生の執念がこめられている。まとめて読めば、きっと新しい魅力にぶつかれるだろう。(白井記者) (3頁めのアオリ) ★絶望の現代に見出した、一点の希望!! 楳図先生の願いがここに生きる!! 次回作にご期待を!! (最後の頁のアオリ) | ||
最終回(全20頁)の扉。74年27号。残念ながら一色。 | 最終回の最後のページ。単行本とはちょっと違う。 |
少年サンデーコミックス(SSC)『漂流教室』1974〜1975 全11巻
表紙の絵は、だいたい初出誌で扉として描かれたものを利用してある。
SSC 表紙絵と初出号 | |
第1巻 | 1972年32号、34号 |
第2巻 | 1972年46号 |
第3巻 | 1972年48号 |
第4巻 | 1973年 8号 |
第5巻 | 1973年17号 |
第6巻 | |
第7巻 | 1973年13号 |
第8巻 | 1973年44号、46号 |
第9巻 | 1974年 2号 |
第10巻 | |
第11巻 | 1974年27号 |
小学館SVコミックス(SVC)『漂流教室』1993〜1994 全5巻
こちらも、表紙の絵は、だいたい初出誌で扉として描かれたもののうち、SSCで使われなかったものを利用してある。
SVC 表紙絵と初出号 | |
第1巻 | 1973年31号 |
第2巻 | 1972年45号 |
第3巻 | 1972年31号 |
第4巻 | |
第5巻 | 1972年40号 |
小学館文庫(SB)『漂流教室』1998 全6巻
小学館 My First WIDE(MFW)『漂流教室』2002 全4巻
保谷くんは柳瀬くんに、ぜんぶ直ってます。でも、仲田は5年2組だぜ。
角川文庫『漂流教室』1986 全5巻
原作を実に忠実に小説化しつつ、いやみにならない程度に科学的な説明を付加している。ラストの、スペースシャトルを翔たちの地点(時間)へきっちり到着できたところまでも科学的な説明を入れてしまうあたり、やりすぎのような気もするが、まあ、全般的に悪くない。原作を知って読むと、なお許せ、たのしめる。
この表紙の絵は、オリジナルの初出の扉絵を一部つかったり模写したりして、作られている
SVC 表紙絵と初出号 | |
第1巻 | 1974年21号 |
第2巻 | 1972年32号 |
第3巻 | |
第4巻 | 1973年38号 |
第5巻 | 1974年24号 |
映画・カナダ版『漂流教室』について 1999-12-02 (Thr)
1999年度の授業「文学3」のレポートのうち、上述の映画版について書いてきたものがあるので、公開させていただきます。以下全文、実名で掲げます。西岡さん、ありがとう。
なお、レポートの課題は、「マンガか『漂流教室』に関係してれば何でも良い。ただ、授業での方法論が活かされてばなお良い」というものでした。読んでいただきたいのは、レポートしての良し悪しではなく、レビューとして参考になるだろう、という点です。それから、アメリカ版ではなくてカナダ版だかオーストラリア版だかのはず。
映画「漂流教室」工芸専攻 西岡生久子
この映画は、大林宣彦監督のものではない。1995年、J・J・MIMURA監督の「漂流教室」アメリカ版だ。
私はこんな映画の存在も知らず、大林監督のものを借りようと思い、ビデオショップわかばに行った。店員は当然の様にこれを出してきた。しかも同じものを2本も入荷していた。今回、この偶然を装った、アメリカ版「漂流教室」との出合いに感謝し、論文のテーマにしようと思う。
映画の冒頭はアメリカの国防省で、人工衛星の故障で落ちてきそうだという事だ。この辺で、ちょっと違いそうだという予想を立てておく。次のシーンで、ぜんそく持ちの小学生ケニーがいとこのバスケットの試合を見に、モンローハイスクールへ行く。家でママに「病院はどうするの。」と言われるが、「でもママ……行きたいんだよ。」と。ケニーは「くそババア」とも言わなければ、ママは「おまえなんか帰ってくるな!!」とも言わない。
そして原作との決定的なちがいは、舞台が小学校ではなくハイスクールだという事。
ハイスクールは安っぽいCGと青い光につつまれて漂流するのだが、未来の地球は砂漠に黄色いセロファンを半分かぶせた程度のものだ。ケニーのいとこのジョンがリーダー格で、日系人のオオトモとひともめやったり、サキッペらしい金髪娘のナンシーを助けに行ったりと大活躍(?)するのだが、洞くつの中で瓦礫の下敷きになりアッサリ死んでしまう。ジョンが翔だと思っていた私はアッケにとられたが、その内ケニーがゆうちゃんと翔を合わせた様な役割をもっているのだという事に気が付いた。しかしこの映画では原作の登場人物となぞらえる事自体に無理があるのだが、そうでもしないとB級映画としても楽しめたものではない。
関谷は、キングという脱獄犯だ。しかも、このキングは超能力を使う。目が赤くポワーンと光り、女生徒達を洗脳する。この洗脳された女生徒の一人が「女王様」になるのだが、簡単にみんなに蹴られて死んでしまう。
未来人間などにおいては、ここで取り上げるのもめんどうくさい。
とにかく、もしまだ観ていなければ、観ていただきたい。それでもし観ていただいて、怒るのは分かるが、そこで怒ってはいけない。原作の「漂流教室」がいかにおもしろく、すぐれたものかがこれ程分かりやすくなるのだ。
そして、B級映画のおもしろさも実感していただきたい。特におすすめなのが、オオトモのカンフーシーンと、オオトモと日本人サキコの会話、単語と単語を区切って棒読みで言うので、英語の勉強になる。ママがケニーの声を聞いて武器をおくのだが、そのスプレーらしき武器が何の役にも立たないところや、未来人間をやっつけた銃と同じ銃でケニーを過去に戻すのだが、その事に誰も疑問をもたない所もいい。役者の動きはのろのろとテンポが悪く、セリフも順番が来たら言っているという感じもいい。そして、CGや音楽のシンプル(チンプ)さ。
大林監督の「漂流教室」もみたが、劣悪と噂されるこの映画さえも、何と金をかけ、原作に忠実なのかと思えてしまう。よけいな要素はかなり入れていたが、少なくとも迫力はある意味あった。人間ひとりひとりの、奇妙な生ぐさい迫力があった。しかし、まもとに観れない、気持ちの悪い映画だった。
アメリカ版も日本版も、類いをみないひどい映画だ。原作のおもしろさや持っている意味がこれ程までに全く活かされていないところに、私は芸術とひらきなおりの感動を覚えた。
映画・大林宜彦監督『漂流教室』について 2000-12-18 (Mon)
福井大学の岡島昭浩先生が、中古ビデオで『漂流教室』を買われて、ご自分で見た後、私にただで送ってくださいました。ありがとうございます。岡島氏の感想としては、「原作を知ってる人は怒り、知らない人は流れがつかめない、映画化にあるパターン、しかしそれにしてもひどい」とのことでした。
まったく同感。僕は、いちどテレビでやったときすこし見た程度だが、テレビゆえカット版だろうとは思っていた。今回初めて全部みたわけです。
あらすじを述べたりする価値もないので、なにが一番「大林的」で、最悪なのかだけを指摘しておきたい。
大林映画のなにがキライかって、変態的なマザコン趣味である。僕も基本的にマザコンではあるが、かなり質的に大林とは違う。おとなのオヤジ(ひげづらの)が、自分より若い母親にじゃれついている感じがして、じつに汚らしい。『異人たちとの夏』なんかに典型。 加えて、この映画では、母親・恵美子のみならず、学校の先生たちがかなり活躍する。すぐに殺されたり自殺したりしない。また、現代のほうでは、大学の先生とかいうのが出てきて、「タイムスリップです」とか説明している。「大人はわかってくれている」のである。大林映画には、そういう甘ったるさがある。
あと、それと、冒頭がやたらハイテンションで、細かいショット割りが多い。そのわりには、スカっとはしておらずジメっとしている。他方、ラストシーンでは、その後の人々の姿をくどくどと説明的に映像化する。これは、『さびしんぼう』なんかでもやってたね。ともかく、説明的、解説的。すべて台無しにしてしまう感じ(まあ、最初っからコワレているけど)。
また、原作では「水が無いこと」は渇水と飢餓を意味していたが、映画では「風呂に入れないこと」を意味しているらしい。怒りを超えて爆笑である。
この作品をけなすのは誰でもやることだから、逆にひとつだけホメておくと、怪虫は、恐怖の具現化ではなくて、獰猛ではあるが水を生成する動物であり、将来、人間と共存してゆくであろう動物として描かれている、と言う点。でもまあ、たいしたアレンジとも思えないが。なお、この動物、字幕では「イヤー」とか書かれてたが、たぶん「ERA」(=イアラ)なんだろう。
楳図先生が警察官役で出演している。あまりに端役すぎて、すこしオーバー目な演技は、作品中でただただ浮いてしまっている。もう少し、大きく扱ってもよかったはずである。