電視 : 嫌い見ない払わない 悪癖の使い魔 |
作成日:2003-10-14
ツイッターをやり始めて、このページの更新がほとんど無くなってしまっていた。ツイッターはツイッターで面白いのだが、これをまとめて後で見ることもなく、ログの取り方もよく分からず、全くの書き捨てで無駄な労力と言ってもよい。対して、このページをたまに見変えすと、やはり自身においては意味がある。ある種の日記でもある。私は高校時代から、国語の教員に言われてメモを取り始めたが、それが日記のようになり、20代まではおよそそれを書き続けてきた。30代からは研究にいそしんできたが、メモには必ず日付けを入れたし、40代からはこのページが日記のかわりだっかもしれない。
さて、岸田文雄は3年近く総理大臣に居座り、安倍晋三以上の働きをしてきた。それはもはや緊急事態条項、憲法停止状態だったと言って良い。その間、れいわは支持を徐々に伸ばしてきたし、現在の衆院3議席から増えることはほぼ確実であったので、もう「いつでも選挙してくれ!」と思ってきた。が、岸田は選挙をやる必要なんかなかったが、実際、統一教会や裏金問題などで支持率が保てず、ふたたび総裁選挙をして、意外にも石破茂が勝ち、その石破もあっという間に手のひらがえしで、支持を上げ保ったまま選挙を乗り切ることは出来なかった。
れいわは、事前の予測では最大15までいくとのことだった(朝日新聞)。9で止まったし、完全に私の希望のメンバーではなかったが、まずまずの結果だ。データは、ネット上からお借りしたもの。
共産党の退潮については、余裕を持って申し上げるに、可哀相というほかはない。自業自得だとも思うが、私の感覚では愛憎半ばしていることを正直に告白しておこう。(これはツイッターに書いたもの:共産党の長期的退潮が顕著だが、党内の異論・分派を認めないのが最大の原因だろう。自己同一性保全のために異論を排除する、とは自浄作用が働かないということと同意だ。れいわは左右両翼をねらっているが、他方、まともな左翼であればれいわを当然高く評価する。日共はずっと自身以外の左翼を認めないできた。比例一位の制度など滑稽でしかない。なぜ辰巳コータローが1位なのか意味が分からない。杉田水脈か。)
いずれにしても、すべてのブロックでほぼ(東京は除く)れいわは共産党の得票を上回った。ばんらーい!
若者の国民民主支持が、どうにもげせない。
参政党や日本保守党が議席を持ってしまったのは、自民党が石破を選び高市でなかった副作用で、まあ受忍するしかないだろう。こんな泡沫はどうでもよい。
最大の問題は、あらためて闘う野党が再編できるか、である。具体的には、立民を左右に割らねばならない。もっと言えば、連合をつぶせればベストだが。それは経団連を潰すのと同意であってなかなか難しい。
(空白である。書こうとして書けなかったのだろうと思う。2024-11-04)
まず、浅草キッドの水道橋博士がれいわから出ることになった。さらに、山本太郎は選挙区それも東京都から出る、と発表された。20日に発表された。
東京選挙区から出ることは、私の当初の予想通りだった。かつてザッケローニ時代か、選手交代などの采配がほぼ私の予想通りだった時期があった。やはり、まともな采配は正しい推論により予想可能だということである。
さて、東京選挙区で山本太郎が出ることによって、立憲と共産の側から批判する人がいるようだ。「与党からも野党からも嫌がられる」というれいわのキャッチコピーは、野党のダメさも批判するものである。立憲に関しては、連合に引っ張られている点である。他方、共産に関しては、もう少し深い対立があるように思う。
いまでこそ日本共産党は、まともな左翼政党であり、古きよき日本の保守政党でさえあるような顔をしているが、講座派と労農派の対立以来、そしてスターリンVSトロツキーの対立以来、左翼内で嫌われ者だったのだ。全共闘的な運動がれいわ新選組なのだ、と思う。まあ、正確には言えませんが、ただ、ああした流れの最も良質な部分はずっと社会の影に隠れてみえてこないままだった。で、残念ながら共産党にはそれを受け止める器ではない。
日本のこのひどい状況は、マスコミの責任は大きいですが、同時にそれを信じ込む一般日本人にも問題がある。というこの堂々巡りについて、ひらめきました。私はもちろん天皇制を良いと思っていませんが、平成帝は実にりっぱな人で、これが平和主義の国民統合の象徴であるなら、天皇制もありかな(憲法改正せずにすむ)などとさえ思っていましたが、今上はそんなでもない、つまり憲法について触れず、改憲に関して中立を守るとは、憲法99条違反でしょう。
ともかく、まともな天皇が一人いたために天皇制を肯定していた、という間違いを犯していたわけです。
マスコミも同じだと気付いたわけです。戦後しばらくジャーナリズムがまともに機能した時代があった。一億総中流化し一億総白痴化といわれたTVも、日本人の教養を高めるのに役だった時期もあった。だからこそこのページも存在している。しかし、そんなのは一時期にすぎなかった。TVなど大手メディアなんて、信じるものではなかった。批判的に見るべきものだったのだ。それを忘れてしまっていた、ということだ。
2022-05-21:jacobn.comでは第二次世界大戦終了後から70年代新自由主義が台頭するまでの30年間を黄金の時代と呼んでいた。自由・平和・平等が実現しかけた奇跡の時代だった。
4月15日(金曜日)、地域美術演習初回が終わって研究室でパソコンを見ると、山本太郎議員辞職!というニュース。まさか!そうか、参議院に鞍替えか。そんなあざといことをしなくとも、とも思っていたが、えぐい戦法としては有りなのはわかっていた。で、じっさい衆議院の現状では予算委員会はじめ一人前扱いされず、次の参議院のあとは最大3年間国政選挙もなく、自公(維新、国民)は好き勝手をやるだろうという、その危機感がいまなさ過ぎる、という山本太郎の見立てである。
さて、驚いたのは、比例区ではなく選挙区から出る、という話である。選挙区はすでに、大阪、福岡、東京を発表している。比例としてはキムテヨン、辻恵、大島九州男、高井たかし、である。ここまでほぼ順当だろう。見立てでは、残る選挙区は神奈川、埼玉、兵庫だそうだ。先の衆院選ではまがりなりにも野党共闘が存在し、東京8区は山本太郎で、という話もあったが、お粗末なことに立ち消えになったわけだ。この選挙区選定は長らく秘密にされ、関東か関西かと見せ掛けたうえで、もっともオーソドックスな選択である東京8区だった。それを考えると、参議院選挙区も東京しかないだろう。東京なら勝てるだろうが、他ではかなりハードルが高いだろう。
よだかれんサンも、新宿区議を辞めて立候補表明しているわけで、おろそかに扱えないだろう。特定枠を使うと宣言されているが、よださんを特定枠で比例に移し、太郎さんが東京に出る、というのが一番の気がする。まあ、よださんが、大島、高井、辻といった面々より優遇すべき人材かという問題はあるかもしれないが、LGBTの当事者として特定枠1位ということを認めるなら、高井、大島、辻の3人は株を上げる。
しかし問題は山本太郎本人だ。もし落選したら、あと3年間バッジ無しである。その3年でれいわは解散すると書いていたやつもいたが、さすがにそんなことはないと思うが、代表として全国行脚しても、党勢拡大にはなりにくいだろう。日本人は、ギリギリの勝負よりも、確実に勝つ試合のほうが好きではないか。その意味で、東京選挙区から出るか、あるいは比例区で出るか。
N国というのが早速「山本太郎」の同姓同名を比例区で出す、と言って来たようだ。このクズ戦法をさらに撃ち返す方法は、3人目の山本太郎を比例区で出し返す、というやり方がある。
すこし話題をかえて。昨年11月26日は、山本太郎の金沢市の街宣でした。この時の質問で、フィリバスターの話が出るのですが、これたぶん初めての質問だと思うのですが、「山本太郎のフィリバスター」とすぐに資料が投影されて、すごい対応力だと思います。
大石さんも、反対討論でもっと長演説してもいいんじゃないか。
写真の日付けが変なのは、久しぶりに引っ張り出したデジカメの設定間違いです。2021年11月26日です。罰ゲームではありません。
補記 2024-11-04 (Mon) :この記事は2022年夏の参院選前にかいたもので、おしゃ会のyoutubeと写真は、2021年10月31日の衆院選の後のもの。このころは辻村ちひろさん(北信越ブロックで出てくれた!)はあまりよく分かっていなかったが、今回2024年の衆院選で埼玉5区から出てくれて、まさに討ち死に覚悟で出てくれて、長谷川ういこさんとコンビで北関東を回ってくれた。辻村さんは、自然環境と社会人権とを生命の問題としてシームレスに捉えることの出来る素晴しい人であることがよく分かった。来年(2025年の参院選にぜひ期待します。長谷川ういこさんも素晴しかった。
ツイッターを始めたが、書き方がいまいち分からない。このページは、ひっそり書いてあって、反応の範囲も知れているが、ツイッターのほうはまだスタンスが掴めない。情勢がいろいろあると、楳図や浮世絵の楽しい話題ばかり書いているのもつらくなる。私は、このページではある時から政治的な話題を解禁したのだが、それはべつに承認欲求や自己顕示などからではない。2014年には「戦前を生きる」と書いたはずだ。恥ずかしくない生き方をしなければ、と思ったのだ。たんなる高見の政治批評ではなく、立場を明確に宣言することを避けずに、時には自らに強いてさえきたのである。
たまに人も読むようだけど、このページは自分への日記なのだ。他方、ツイッターは人への宣伝である。あちこち気に入らない人にコメントを付けていくほど暇も勇気も興味も無いはずだ。気に入った人にでも、ねえねえ聞いて、ばかりではいやがられるだろう。まじでいやがられる。そして、たった1ヶ月だけれど、その構造もおおよそ見えて来た。字数制限があるのもきつい。
さて、ウクライナ情勢である。侵攻じゃなくて、侵略と書かねばダメなのかな。私は、プーチンを良いとか思ったことは、言い訳でなく、一度も無い。プーチンがロシアのオリガルヒを排除してきたというのは、自分に与しないそれを排除してきただけで、自身もオリガルヒの側でしかないだろうと思っている。トランプ大統領がDSと闘っていると考えるのと、全く同じパターンだと思っている。ファミコンやプレステではない。ディープステイトだ。初め聞いた時は、なんだそれ?と思ったが、聞けばいわゆるユダヤの金融資本のことで、マルクス主義的に言えば資本家のことで、今日的には「1%」のことで、それはたしかに実在している。ただ、DSと言っている人らは、トランプを信用しすぎている。トランプがDSとたたかうなら、それは花札の任天堂か。というぐらいわけがわからない。
次に、NATOの東方拡大はたいへんけしからんと思っている。人の良いフルシチョフやゴルバチョフをばかにした西側が許せない。ツイッターじゃないとここまで気軽に書けて、たのしいわ(大丈夫か私)。西側のいわゆるDS的なやつらのなかには、ジャパンハンドラーはただ対日経済を研究しているだけの人たち、ネオコンはふつうに優秀な官僚、CIAはあくどいことはせず世界の新聞を読んでいるだけ、などと言ったり思ったりしているやつらがいる。ほんとうにいる。
いいかげんにしてくれ。やつらは、中東のみならず、東ヨーロッパにも資金、情報、人材戦を長らくしかけてきているのだ。うそだと思うのは勝手だが、うそだと思わせるのも、彼らの謀略の一つである。ちなみにこれはフロイト精神分析のパターンの一つで、「君は潜在意識では女性を蔑視陵辱している」「いやしていないよ」「その否定が潜在意識のあらわれだ」式の水掛け論なのは承知の上だが、DAPPIだのJSCだの、日本会議だの日本財団だの、潤沢な資金によって様々な情報戦略が実際にくりひろげられているじゃないか。
戦争反対。あらゆる戦争に反対する。私は、根源的には暴力を否定してはいないが、国家の戦争に反対する。このくらいのことはツイッターでも十分書けるのだが、今、非常に気に入らないのは(3月1日午前1時)、ウクライナのゼレンスキー大統領が、ロシアとの停戦会議の前に、EU即時加盟を要求していることである。私は、EU加盟とNATO加盟との関係がいまひとつよく分かっていないが、ゼレンスキー大統領というのは、ちょっと調子に乗りすぎていると思う。とんでもない食わせ物だ。だだだ!ロシア以外のほとんどの「国際社会」がウクライナの味方をしてくれている。武器供与をうけ市民に銃を配り、火焔瓶を作らせている。そうして守る国は、どんな国なのか。ビートルズが聴きたくて、ジーパンが履きたいだけの国か。あるいは、国有財産を西側や国内の新興財閥に売り渡すための国か。ネオナチ化した狭隘な民族主義者の国か。そうではなく、旧ソ連の抑圧と搾取から脱して、資本主義の力で豊かで自由になった国、なのか。
ウクライナはロシアよりは小国ではあるから、守るべき相手だろう。が、しかし、手放しで協調できるような状況に置かれた国なのか。その内部に巣くう悪や、外部から貪る悪を、助長するだけではないのか。
DSとか言っている人たちは、東ヨーロッパにこそネオナチが大挙して湧きだしていると言っている(アメリカのニューズウィークなどは、それを否定している)。ただ狭隘なナショナリズムはネオナチ化するのは確かであり、フランスのネオナチなどよりさらに悪質な歴史がある、という説である。ウクライナでいえば、ステパン・パンデラなどという名前を初めて聴いた。
プーチンも調子に乗りすぎている。実際の侵攻に出たのはもちろん良くないが(人道的にはもちろん、戦略的にも)、東部のドネツク、ルガンスクの2州だけでなく、首都キエフまで侵攻する予定のようで、しかも、その割りにはまったく成功できていない。「やるなら上手に(戦術的にも)素早くやれ」などとは全く思わない。かつて2018年3月だったが、アメリカが北朝鮮に侵攻しトップを謀殺する、という計画があった。私はキム王朝もひどいと思うが、でもやってはいけないと思ったし、どうせそんな簡単にいかず泥沼化するだろうと思っていた。実際にはやられず、トランプとキムはその年握手をした。トランプがいて、メルケルがいれば、トランプの今回の暴挙はなかったのかな。
橋下徹は最近のにくにくしい面構えもだが、ほんとろくでもないやつだとおもうのだが、ツイッターを見ていて(回ってくるのだ)、今回ばかりは「あれっ?」と思う。政治のリアリズムとして、ロシアには勝てるはずがないのだから、西側首脳はウクライナのNATO不参加を約束して、ロシアをなだめろ!と言うのである。これは全く正しい。れいわ新選組は、この間、中国やロシアへの批判決議案に反対し、さらには明日(3月1日)、ウクライナ侵攻への非難国会決議も反対するという。れいわの声明には次のようにある「・今回の惨事を生み出したのはロシアの暴走、という一点張りではなく、米欧主要国がソ連邦崩壊時の約束であるNATO東方拡大せず、を反故にしてきたことなどに目を向け、この戦争を終わらせるための真摯な外交的努力を行う」ほかにもあるが、このようにある。さて、橋下の言っていることは、その先までいけている。橋下は、自分は戦場に行けない、とも言っていた。こういう臆病体質は、政治家向きだ。安倍晋三と一緒にTVに出て、日本の核武装(核共有)を検討すべき、参議院の争点にしたらいい、とか言ったらしいが、安倍は頭がわるいので勇ましい(つもり)。
わたしはまじで、参議院の争点にしてほしいと思う。さすがに日本人はそこまで劣化しておらず、つまり大阪都構想の賛否はほぼ拮抗したが、カジノ建設については反対のほうがだいぶ多いようである。同じく、九条改憲についてはほぼ拮抗しだしているが、さすがに核武装までしたほうがいいと思っている国民は多数派ではないだろう。3割はガチの安倍信者だとしても、それより少ないと思う(10%以下でしょうね)。昨年の衆院選で維新が伸びたのは、岸田文雄をリベラルだと勘違いしている右翼が大勢いた、ということである。右翼でこれまで自民党に入れてきた層が、維新に流れたのである。かつて、橋下と石原が一緒になり一年で分裂したとき、私は、維新と右翼とは別だと思いこんでしまった。が、これはやはり間違いだった。ウクライナのオリガルヒ(新興財閥)でも分かるように、ネオリベとネオナチとは同化しているのである。
ツイッターではどう書いて良いか分からないことを、どっちゃり書けた。
ちなみに、以下の文言をツイートしようかどうか迷って、やめた。
「みなさんの声援で勇気もらいました」などとサッカー選手が言うのを、「声援関係ないだろう。普段通りにプレイすればよいだけでは」と思うのは素人です。授業も同じで、学生の反応が良いほうが、講義の内容も良くなります。だから、逆があります。ウクライナ侵攻のせいで、締切りが守れませんでした。
この間、ZOOM授業で感じたのは、学生の反応がほぼ分からないところでひとりごとのように話すほうが、さらに講義の内容が良くなる、ということでした。反応を気にしないで集中できる。
こういうふざけたネタをツイートできるほどの余裕が今は全く無い。まだまだ締切り仕事に追われている。
こんにちは。日本文学を研究している金沢美術工芸大学教授の高橋明彦と申します。わたしはもちろん野党共闘支持です。そして、れいわ新選組、一択!です。いま、日本の民主主義や平和主義、人権思想はひどい状態になっていますよね。与党自民党はコロナ対策にも失敗し、看板掛け替えのために一月掛けて総裁選、つまり党の宣伝をマスコミで演出しましたけど、ここにきて、一昨日の静岡の参院補選などでも明かなように、案外党勢回復はできてないみたいですね。
もしかしたら、本当に政権交代が可能かもしれません。安倍・菅政治がひどかったので、十分にありうることです。立憲は、政権交代した際、最初の閣議決定でのモリカケ桜の再調査を約束しています。犯罪者は逮捕ですよ、そしてこれは自民党岸田政権では絶対できません。どうです?よくありませんか? 枝野さん約束守るかなと疑念を持つ人もいますか。でも、それを疑い始めるのなら、もう維新に入れるか(笑)、棄権するかしかないでしょう。これが政治不信、ですね。
はい。たしかに政治家は信用できませんね。民主党政権時代、下野していた自民党は、「TPPは日本を切り売りする、地獄への乗合バスだ」と言って、TPPに反対していました。しかし、政権に返り咲くや否や、手のひらがえしをした。私でさえ、びっくりしました。自民党は改心したのかと思ってましたから。そして、それなら「人体にただちに影響は無い」と言った枝野さんも同じかも?政治不信、ですね。
TPPの場合で言うと、連立を組んだ公明党がある程度これにストップをかけることもできたはずですが、安保法制の時なども結局、まったく自民党の暴走を許しました。いま立憲にだきついている共産も、公明党と似た危険性を抱えていると、私は思っています。だから信用できないと思うのは、間違ってない。
さて、でも、こうした自公政権の例と、今回の野党共闘とが違う点が、れいわ新選組の存在です。国会で一人牛歩をやってきた、山本太郎の存在です。与党にも、野党にも、いやがられる存在、というのが山本太郎のキャッチフレーズです。れいわ新選組は、野党共闘のマグマといって良い。バラマキ合戦とも言われてますけど、そういう積極財政を打ち出し、消費減税5%というラインを提案したのは山本太郎です。緊縮派の立憲も結局これに同意して、野党共闘が成立しました。山本太郎は野党共闘の原動力、マグマなのです。消費減税実現のために、選挙区調整でれいわで一本化された区が一つもないのに、そして東京8区でもひどい扱いをうけたにも拘わらず、いまじっとがまんしています。大人です。あちこち立憲や共産の議員も含めた応援演説に走っています。ただし、約束が守られなかった場合には、あばれる、とも宣言しています。それは安全弁、ベントじゃない。噴火です。阿蘇山が噴火したばかりだから、言葉を選び直せば、「山本太郎というミサイルを国会に着弾させてください」ですかね。本人がそう言ってるんです。
何があっても心配するな。れいわ新選組は、いま世界の潮流でもある反緊縮の、人々の政党。やっと日本に、そんな頼りになる政党ができました。心から応援しています。政治と言葉に、信頼をとりもどす。君らが日本の希望です。
菅義偉はずっと国会を開かず、野党が「国会開け」「職場放棄」とか批判しているが、あらためて考えると、この国会停止状態は、緊急事態条項さえなくもう無前提でダイレクトに国会停止をしているわけで、これはナチスの手口(全権委任法)より大胆ではないか。
8月7日に亡くなっておられ、ニュースになったのは、先々週くらいであったか。何か一言、私なりにお悔やみに言葉を書かねばと思っていた。近年すこし体調がお悪いのではないかと危惧されていたのだが、あたってしまった。70歳代でいらっしゃり、まだまだはやい。『風雲児たち』は未完で終わってしまうことになるが、これは正直、完結するはず無いと、私は思っていた。みなもと太郎は連続好きであり、それはベルクソンのようだ。人生も歴史も、完結など無いのだ。わたしは『風雲児たち』論を書いたことがあるが、前編で中断したままだ。みなもと先生も連載されておられた竹内オサム先生の『ビランジ』に載せたていただいたのだが、みなもと先生からは、結局ご感想をお聞きできないままであった。それまではみなもと先生の論文の感想などをメールすると、気さくに、そしてご丁寧で洒脱なお返事をいただいていたのだが。よっぽどお気にいらなかったのか。そんな筈はないとおもうのだけれど。ご冥福をお祈り……とか、あまりそういう気がしない。ほんとうは、みなもと先生が御機嫌をそこねるような失礼な『風雲児たち』論を書くのが、私の野望なのだが、私にはまだそこまでの歴史的知性が備わっていない。それは、後編の、またその次の論である。前編で私は、前野良沢を題材に『風雲児たち』の連続性の問題を示唆した上で、学問のあり方を論じ、作品の魅力を論述できたはずだ。まだ書いていない後編は、さらに唯一の飛躍(非連続)のモチーフを見つけ出すものである。その後、みなもと太郎、倉多江美、横山光輝の三人の歴史(マンガ)観を論じ、最後に楳図の歴史観(『イアラ』による)がこれらを脱構築しているのである。偉大な三人の歴史マンガとその歴史観とを楳図を元に批判していくわけである。しかし、わたしにはまだ歴史の勉強が足りない。みなもと先生は、勉強しながら描いているというが、そんなだれもができるものでもない。ベルクソンだって完結なんかしなかった。みなもと太郎が描いてきた明治維新は、有司専制(薩長のオトモダチ政治)という意味ではマジで、完結していない。進行形の物語なのである。
9月3日金曜日、研究室でひとしきり稲垣先生と無駄話をして別れたあと、すぐに先生が戻ってきて「ニュース見ました?」と仰るそれは、菅退陣(笑)。「オシムと言っちゃったね」国家じゃないけど、この国は次が気になって、過去の反省は一切しないらしい。5日現在で総裁選に出る候補者が六人並んで、話題をこれ一色にした上で新総裁で衆院選を乗り切ろうという思わくなのだろうが、議席減を最少で食い止めたとしても国民を騙しきれるとはあまり思えない。
2009年、政権交代があった時は、旧民主党の閣僚なんだかJ2 オールスター感がぬぐえなかったが、いまや自民党の長老(5G)らの次のメンバーは、じつにろくでもないやつらばかりである。岸田がまあまだふつうレベルってことだろうが、あとは右翼やネオリベ、レイシスト揃い。菅が河野太郎支持を表明したりしている。
この10年の劣化は目を覆うばかり。菅が安倍をまったく継承したように、このこれらの候補もまた同様である。岸田や石破もあやしい。誰の推薦を取り付けるか、とかやっているのだから。
昨日の段階では、立民も似たようなもんかと思ったが、こちらも代表選でもやって話題作りしないといけないだろう。キャッチコピーは「変えよう。」だそうだが、代表を変えれば、もうすこし浮上するかもしれない。
世界のポピュリズム左派の中でも演説力はたぶんトップの山本太郎が率いる反緊縮で人権主義・民主主義的なれいわ新選組一択!と言いたいところだが、北陸信越に比例候補を立てる余裕があるのかどうか、大いに心配である。
名古屋市長の河村たかしが、オリンピック優勝の表敬訪問に来た選手の金メダルを許可無くかじったとして、大きく非難されている。大切なメダルを許可無くかじるなんて、選手に対するリスペクトがない、冒涜だ、デリカシーがない、感染症対策としてもどうか、等々。私の感触は少し違う。表敬訪問の一部始終をビデオで確認してみると、河村は開口一番、選手に向かって「でかいな!」とか言っている。女子選手は笑って応じているし、かじられた時も、笑っている。まあ、笑っているしかないわけです。これは女性の性被害における、受けた行為が曖昧で微妙な場合での典型的反応だ。ほかにも、「旦那は?」「真っ黒にして」だの失礼な言い草のオンパレードなのだが、あまり嫌な顔を見せているようには見えない。この点をネット上では、大人の対応、すばらしい、みたいに選手を擁護する声もあるようだが、これは女性を褒めたことにならない。寧ろストレートに「やめてください!」と言わないほうが悪い、という事になってしまうだろう。もっと言えば、メダルにベタベタ触られたり、首にかけてあげたりするのを承知の上で、表敬訪問しているのだろう!?という事になってしまうのではいだろうか。
河村たかし名古屋市長がおそろしく愚劣な人物であることは、すくなくとも愛知トリエンナーレの弾圧、および大村秀章愛知県知事リコール署名捏造事件への関与だけでも、ハッキリしていたはずだ。私が、選手の父親か指導教員であれば、「ほんとうにお前はそんな人に会わなければならないのか?いろんな義理で会わなければならないのであれば、よっぽど用心してかかりなさい。ひどい心ないことを言われるはずだけれど、そんなとき、ニコニコして応じてはいけない」と言って聞かせてくだろう。
また、メダルを噛むのと、表現の自由をねじ曲げた上で、署名捏造を容認するのと、世間の批判の熱量が全然違うことのほうに、私は愕然としている。今回は叩いてよいフラグが立ち、愛トレの時は叩かないフラグが立っていたように見える。人々はそのフラグに反応しているだけである。もしこの選手が私の娘や学生でなく(そういう事を直接言う立場になく)、逆に今回はこころよく思っていない五輪の、しかも金メダリスト(つまり五輪を盛り上げる立役者、商業主義と政治利用の権化)であるとすると、そんなやつのところに行く方が悪い、というだけの話なのだ。表敬訪問なんて江戸時代でいうお見えであって(旗本が将軍に謁見する)、訪問される側(政治家やマスコミなどの権力者)の利得のために、プレーヤーやアーティストがやってあげる行為なのだから、へこへこする必要は無い。それとも、なにか欲しくて出向くのか?(欲しいのであれば、どうどうと訴えれば良いだけだ)。選手のほうだけを被害者扱いする気にはなんだかなれない。そしてともかく、表現の自由の弾圧と民主主義への冒涜のほうが、商業主義の権化(メダル)を冒涜したのよりはるかに大問題だと思う。
尾張藩には河村秀根などの国学者がいるが、河村たかしはその子孫なのだそうだ。春日一光につらなる政治家で、残念ながらろくなものではない。大村知事だったら、こんなに下品ではなかったのだろう。
ともかく、全く見てないけれど、愚劣な話題に事欠かない五輪がようやく終わる。日本の成績の良かった競技や選手をちやほやし、思ったほど成績があげられなかった選手や競技はスルーされる、そういう期間がまだしばらく続くだろう。
『パンケーキを毒味する』という映画が、7月30日に封切られたそうです。youtubeの日本外国特派員協会ので会見があり、本日これをたまたま見るまで、知らなかった。2ヶ月ほど前からアナウンスはされていたようである。
プロデューサの「河村光傭」という名前を聞いてすぐピンとくるのは、『新聞記者』のプロデューサだ!ということである。『新聞記者』は、このサイトでも書いているが、芸術的にも優れた作品である。今回の『パンケーキを毒味する』は、菅義偉が首相になって、しばらくしてから特定の新聞記者を選んでパンケーキを振舞ったとき、河村氏はこうしたドキュメンタリー映画を作ろうと思ったそうだ。本作は、政治諷刺のコメディであり、おそらく『新聞記者』が芸術作品として独立できているように、こちらもコメディとしてまずはよくできているのではないか。
パロディとしては、次の様な関係なのだろうが、きちんと日本化できている。
また、政治に興味が無いという「某大学の芸術学の学生」に見せたところ、全員が全員、今度から選挙に行くと答えたのだそうだw。若者こそ見て欲しい。
河村氏は、今秋に予定されている衆議院選に向けて、この映画を作ったそうである。どこかの政党を支持するとかいう意味でなく、間違っていることは間違っている、と言いたかったそうである。批評姿勢を失い劣化した今のマスコミに比べて、文春、赤旗と並ぶw、日本の良心である。
前川喜平氏を交えた舞台挨拶も、聞いたけど、面白い。 監督の内山雄一という人は、テレビマンユニオンというTV制作会社のかただそうだ。これも伝説的な(いまでも健在)制作会社である。左端のかた。右端が河村氏である。
コーネリアス小山田圭吾につづいて、絵本作家のぶみと来た時には、カモフラージュかとさえ思いましたが、さすがにラーメンズ小林賢太郎のホロコースト揶揄で解任!と来ると、もうしわけないが、笑わずにはいられなかった。私はラーメンズで初めて笑ったのだ。今日の昼前、このニュースをヤフー記事あたりで読んで、思わず声を出して笑ってしまったのである。本番直前なのに、もうズタズタなのだ。コロナ感染対策とか、バブル方式に穴とか、おもてなしの1600円ハンバーガーとか、もうそれ以前なのだ。もう明日ですよ。
まず、ラーメンズについて。何度か見た記憶があるが、そしてかつて立川談志がこれを絶賛してた記憶もあるが、私は面白いと思ったことがない。演劇チックで、東京03やアンジャッシュをあまり好めないのと同じ感覚である。美大出身というのも、気に入らない。美大の固定イメージそのものなのだ。今回のホロコーストを揶揄したネタというのを、あらためてyoutubeなどで見てみた。コメント欄もふくめ、その他、脳科学者茂木健一郎氏など、一部の切り取りで非難するのは良くない!といった擁護意見も結構あるようだ。全くあきれる。
作品は、NHK教育の「できるかな」のパロディ(善人を偽悪的露悪的に描く、あるいは善人の欺瞞を告発する)である。で、「ユダヤ人大量虐殺ごっこしたときの」という台詞が出て来る。善人そうなのっぽさんが、ヒドイことを言い、やっている、というギャグである。作品最後で、こののっぽさんとゴンタ君とは、互いの愛情をてれながら確認するというオチなので、(否定されるべき)悪人としては描いていない。
すでに多くの人が言っているが、これは単なる語彙の用い方では済まないし、小さな問題でもない。「原発事故奇形スモウレスラー」、あるいは「原爆投下ケロイドごっこ」や「ひめゆりの塔虐殺ごっこ」といったおぞましさがある、と言えば、日本人にもぴんとくるだろう。
ただ、ラーメンズの作品じたいは他のものを見ても全く好きになれないが、いくつか確認しておきたいこともある。,海慮贏辰郎鄰罎療仂貎擁の発言であること。作者本人(生身の人間)がホロコーストを揶揄しているわけではなく、登場人物(設定上の人)がホロコーストを揶揄しているのである。何にしても揶揄はしている(ネタとしてばかにしている、軽視している)が、「ホロコーストは無かった!」とか論文なりで書いた歴史修正主義の『マルコポーロ』とは次元は違うだろう。⊂林賢太郎は、橋本聖子が読み上げた謝罪文の中で書いているように、これは笑いをとるための浅はかな行為であり、その後は人を傷つけない笑いを目指してきた、と言っている。著書でも既に人を傷つけない笑いを目指すと書いていた。まあそれは信じてあげてもよいのかなとは思うのだが。
私個人としては、人を傷つける笑い自体をすべてなくせ!とは思っていない。もちろん全く好きではないし、ツービートとかも全く笑えなかったが、それらを「禁止」とするのはためらわれる。ステージ毎に配慮すべきか、と思う。下劣な人間だけ集まって、あるいは一人だけで、こっそり楽しむ分には、それはそれで許されて良いだろうと思う。でもふつう、公でそれを肯定する発言はしないだろう。未成年者にはもちろん、成人していても学生には見せる勇気はない(この先生狂ってると思われる)。ましてや、平和の祭典で見せるものではないだろう。
まあ、その点では、今回のヒドイ五輪に相応しいとも言えるわけです。そういう連中で作り出した(アンダーコントロールされた)イベントなのだ。
さて、小山田圭吾である。小林賢太郎は、口で「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」と言ったの(だけ)である。言葉の暴力ではあるが、物理的な暴力ではない。私は裁判官ではないから、どちらの罪の量が多いとか軽々に判断するのは避けるべきではあろうが、小山田圭吾のほうは、物理的な暴力を、長年にわたって継続し、未だ反省しているそぶりもなく、むしろ(今も当時も)これを擁護する側は、こうした鬼畜系のパワーがエンターテイメントとしてプラスに作用している、くらいのことを言っている。また、国内の障害者差別やいわゆる「いじめ」問題よりも、ユダヤ人揶揄のほうが国際問題として大きい、みたいに言っている人もいたが、単発的な口頭による作品中での暴力表現と、長期継続的な物理的精神的な現実世界での暴力実体と、差は大きいのは明かだろう。
ニュースでQUICK JAPAN No.3の表紙をチラリと見て、あれっ見覚えあるなと思ったのだが、この号には楳図かずおの記事もあって、私も所蔵していたのだ!今回初めて記事を全文読んだが、ともかく驚けます。小山田というのは和光学園の出身で、おそらく障害児との今でいうインクルーシブ教育を背景にしているのだろうが、しかしそうした高い志の教育方針のもとで、ここまで凄惨な「いじめ」が行われているとしたら、これは笑っては済まされないですね。共同教育を掲げる方々の奮起を期待します。
小山田圭吾にしても、のぶみ(まったく知らないが)にしても、小林賢太郎にしても、彼らを批判するのは新たないじめだ(過度な社会的制裁だ)みたいな、論調は言語道断である。悪質などっちもどっち論、脱構築主義のなれの果て、である。彼らはいわゆる今後もう「公職追放」といったおもむきだろうが、しかし、「ナチの手口を真似たらどうかね」と言った麻生財務大臣や、国会で虚偽答弁を118回行った悪逆非道で有司専制(オトモダチ政治)の安倍前総理、イラク戦争に真っ先に賛成し竹中平蔵と一緒に日本の雇用をぶっこわしたのに今や原発反対などといってのける小泉純一郎、それらからすれば小物だが、菅(指摘は当たらない)や橋下徹(おまゆう大賞受賞)が平然と公職、準公職に居るのは、検察の問題か国民の問題か。
「いじめ」は人間社会が続く限りなくならない、などと言う人がいる。半分は当たっているが、根本的な理解が足りない。ほっとけばいじめのような暴力がまん延していくのが人間社会であるが、それを避けるシステムは、あるいは少なくとも軽減していけるシステムは、十分に可能である。ただし、上記のような悪い政治家が跋扈していると、むりです。
国家の暴力装置(ARE)、国家のイデオロギー装置(AIE)に対して、コミュニティの暴力装置(CRE)、コミュニティのイデオロギー装置(CIE)を作り出すのは不可能ではないだろう。人々の力で、支配原理としてでなく、暴力を制御し、思想(たとえばいじめを拒絶する)を整流することは、不可能ではないだろう。しかし、アスリートに罪はないみたいな外地で頑張ってる兵隊さんにお手紙を書こうが再現されているこの国では、まだ難しいだろう。オリンピックはいまもはっきり典型的なAIEである。
以下、スポーツのコーナーにも書きましたが、こちらにも転載しておきます。
「どうせみんな反対・中止といってたって、始まったら見るんだろう」とか舐められていますから、私はしっかり宣言したいと思います。サッカーも、なでしこも、だいぶ気になりますが、今回に関しては一切見ません。昨年末くらいまで、私もオリンピックという組織がこんなに利権にまみれたヒドイものだとは分かっていませんでした。不明を恥じます。
久保建英が、初戦の相手南アフリカがコロナ陽性者を出していることについて、自分らにとっては「マイナスではない」などと発言したと伝えられている。この程度のフェアプレイ精神も学習してないのかと思うと、まったく情けない。吉田麻也にしてから、無観客には疑問があるなどと発言している。バカである(と思う)。子どもたちのお手本にはならない。
二〇一四年来ずっと『14歳』を講じておりまして、いまだまとまらないのですが、第3章「地球重態」において世界の首脳陣が懺悔しあう場面があります。で、ただし、各国首脳は真実を国民を伝えることはパニックを引き起こすだけだとして、真実を隠蔽します。これについて、2015年段階と、2021年段階とで、私の感想の違いが次の様な感じです(授業用サイトからの引用)。
▸ cf.2015年7月15日の授業で、ここを読みました。(安保法制が衆議院で可決された日です)
『14歳』と同時代のマンガである宮崎駿『風の谷のナウシカ』で、当初名君だった土鬼(ドルク)の初代神聖皇帝は、土民の愚かさを嫌って圧政を敷くようになります。両者に共通するのは愚民思想ですが、ここには《圧政者にも一理あり、それは民衆自身が反省すべき部分である》というものでした。しかしそれは90年代の古い思想でしょう。今や政治家は法律を守りません。学生のリアクション・ペーパーより。
▸ cf.2021年、あらためて了解されることは、こうした事態は、政治家や資本家によって作られたものというよりは、フランシス・フクヤマの言う「歴史の終り」(社会主義の崩壊、自由主義の勝利)から三〇年経ってみてわかる、人類と資本の戦いだということです。自由主義が生み出した非合理=巨大なグローバル資本は、もはや人間を超えた存在・関係・環境である。たとえば戦争は、かつての国家連合総力戦(ふたつの世界大戦)を経て、代理戦争へ、さらにはテロとの戦いへ(国家と非国家との暴力関係)、低強度化され(LIC ローインテンシーコンフリクト)、さらには非軍事化されている。戦争が無くなって良かった、か?進化を遂げて今ここにあるのは「資本の住民に対する戦い」である。マウラツィオ・ラッツァラート「資本の戦争的本性とその回帰」『資本の専制、奴隷の反逆』航思社、2016年、廣瀬純・訳編著)。「今日の植民地戦争はかつて「第三世界」と呼ばれたような外部に対するものではもはやなく内部に対するものとなった。」(六三頁)と言う。この二〇年間の消費増税、緊縮財政、郵政民営化、奨学金返済制度は「与党の間違った経済政策」というよりはむしろ資本の素顔である。収奪対象としての人民、具体的には日本の分厚い中間層が収奪の対象となって初めてデフレーションが二〇年も続きうるのである。
結論を言うと、「スカイネット」(AIによる人類の支配、映画『ターミネータ』の世界)はもはや完成している。では、このディストピアを、どのようにして打ち倒すか。
朝ドラ「おかえりモネ」は、現代(2014年)が舞台で、ヒロインが気象予報士を目指すとか言うので、例年と異なり、あまり期待できませんが、目覚まし代わりに見ている人は多いかとおもいます。主演の清原果那は、いつも低く垂れ込めた暗いふゆぞらみたいな表情をした女優で、朝ドラがヒロインに要求する無邪気そうな表情が実に似合わずヘタとしか見えませんが、ときたま急にこれがきらりと稲妻が走ることがありますので注意してください。それは、世界の破滅に直面した時に、です。モネは3年前高校入試の際に3.11に経験していますが、それは受験直後の仙台市でのことで、実家の気仙沼ではないため、3.11を家族や地元の友人たちと共有できなかったという孤独と無気力が前線となって停滞しています。
この作品には、こうした深刻そうな側面と妹や同級生等との呑気な青春群像、さらには舞台となる気仙沼(海岸部・漁業)と登米(山間部・林業)と、そうしたギャップがいまだ埋まらない感じがあり、ちぐはぐで、つまり3.11後かつ若者の話なのかと思いきや、または海の話なのか山の話なのかも焦点が定まらず、ぐずついたハッキリしない空模様がつづきます。そしてたぶんこの後は、朝ドラおきまりの舞台は西に移動するでしょう。主人公は上京して東京を舞台として(浅草編みたいになって)、ところにより試験勉強編があり、合格し、夕刻からはお天気キャスターになってハッピーエンドが予測されます。今日一日、脳天気に終わるでしょう。
しかし、急な変化には注意も必要です。6月14日の週から、実家気仙沼での愚かな父親や愚鈍な同級生のサブエピソードが終り、本題であろう登米に戻ってきて、天気の勉強を始めますが、このあたりから雲行きが変ってきました。山と海とは水を介して繋がっている、というのが作品のテーマであることが、これは未明から祖父を介して伝えられていたものですが、はっきりし始めます。これはエコロジーを主たるモチーフにしたドラマです。「天気予報は未来が分かる」というテーマですね。さらに、世界の破滅女優・清原果那が演じてくれるのは、もしかしたら現代版「グスコーブドリの伝記」ではないでしょうか。早朝で一度、彼女はケガをした小学生をぎりぎりで救っています。さらに、夕刻から夜半にかけて、天候予測の能力を習得した彼女は、彼女にしか分からない世界の危機を察知し、彼女ひとりの自己犠牲的な活動により、破滅から救うかもしれません。もちろん、『純情きらり』は意外すぎましたが、ふつう朝ドラなら主人公を死なすことはないでしょう。明朝には、彼女はふたたびみんなに元気な姿を見せてくれるでしょう。嵐の夜に誕生した彼女ですが、いまふたたび嵐の海の果てから、世界を救って茫然とした表情の女神として復活を遂げるでしょう。この予想が外れる確率は80%ですが、くれぐれも警戒を怠らないよう、ご注意ください。
補足:2021-07-22:7月14日付けのメモで私は次のように書いています。「自分が自分の夢を追っている間に、だれか自分の大切な人がつらい目に遇っていたら...。それがモネの不安である。お姉ちゃん、津波見てないもんね(妹の言)。」災害から自分だけが生き残ったという罪悪感の、別バージョンですね。恐ろしいテーマです。これを描こうとしている作品であることが分かった。そして、この週で気仙沼・登米編が終り、今7月19日の週から東京のTV局編に移りました。予想ばっちり当たりました(笑)。誰でも分かるか。でも、恐ろしいテーマのほうは、予想を超えているかもしれません。
補足:2021-10-26:コロナは描かれない、つまりコロナの無い別世界が描かれるかと思いきや、本日の放送では、モネの実家に挨拶に来た菅波先生が、急用ということで東京に(感染症対策で)呼び戻される。二〇二〇年一月一四日、という設定である。コロナを描くのである。朝ドラがここまでハードな現実を描くのだろうか。菅波は、ダイヤモンドプリンセス号に乗り込み、感染症と闘い、そして……。菅波がもし死ぬような事があれば、しかし、そうであっても、モネは生きていかなければならないのだろうか。愛する人を失うとは、どういう意味を持つのか。戦時中の女性は、理不尽にも、当たり前のように、夫を戦争で失ってきた。これはあまりにも苛酷である。
補足:2021-10-29:最終回。結局、コロナは描かれなかった。メインは、封印していたサックスを吹くというモチーフで終わっており、菅波は2年半ぶりにモネと(海辺で!)会う。なんじゃそれ。コロナはただ「会えなかった期間」でしかない。あるいは、みんなマスクはしておらず、それはパラレルワールドかも知れないし、あるいはモネが再会したのは既に亡霊となった菅波なのかも知れない。新たな悪夢の始まりである。どっちにしても、よく分からない作品だった。毎朝見た、右頬のカギ型の四つ星だけがみょうになまめかしかった。
菅義偉総理大臣のことではなく、枝野幸男立憲民主党代表のことである。6月9日水曜日に二年ぶりの党首討論というのをやって、菅のようなろくにしゃべりができない人を相手に、ふつーに落ち着いて話をさせていた。よく言えば、引き出し上手なのかもしれない。東洋の魔女、アベベやヘーシングの思い出話を十分に語らせてあげて、これには台本があるのかと思わされるほどである。
今ごろようやく、しかし「時限付き」とか言って、消費税5%を受け入れるみたいなことを、やっと言った。山本太郎が腰を低くして譲歩してきた条件を、2年近くも無視してきた。しかし今の問題は、コロナとオリンピックである。5月中に解散、総選挙すれば、安倍とちがって菅では自民党は勝てない、はずだった。9月解散でも、菅の勝ち目は薄いが、それ以上にだめだめなのが枝野だ。自民党(経団連)と連合とは、基本的に利害が一致しており、立憲が連合のいいなりである以上、これはまったく八百長相撲である。
医師たちはオリンピックに対しては敢然と反対あるいは無観客を主張していて立派だが、ことワクチンに関しては安全かつ摂取主導の立場を決して崩そうとはしない。私には、ダブルスタンダード、ポジショントークとしか思えない。
『純情きらり』再放送:2020年7月8日 - 2021年1月8日:月曜日 - 金曜日 16:20 - 16:50(1日2回ずつ放送)
女主人公に幾多の困難が降りかかることは朝ドラの定番であり、たとえば父の死などは定石でさえあることは、『とと姉ちゃん』で了解済みのつもりだったが、それにしても、あこがれの東京の音楽学校受験に失敗すること、女学校の教員で父無き一家を経済的に支えてきた長女が戦時体制教育に反発して辞任すること、などなど結構ハードな展開を選ぶなあと関心して観ていたのである。「危機、あっけなく去る危機」とは楳図かずお『神の左手悪魔の右手』を評した際に思いついたフレーズだが、楳図は大きな危機的状況を作り出し読者に提示するが、次にすぐにあまりにあっけない種明かし的回答を示す。窓に恐ろしい顔が!クラスメイトでした。ハサミが頬を突き破る!触れただけでした。口が耳まで裂けた!そんなの目の錯覚よ。これを何回か繰り返すことで、読者はもうストーリーを甘く見るようになる。獲物を深く誘い込むワナだともしらずに。
初恋の人・斉藤先生(劇団ひとり)との別れも、そうした一例である。しかし、なんと言っても最大の危機は、夫となる「達彦さん」の出征である。結婚の約束をした達彦さんに赤紙が来て、達彦さんは、桜子に「音楽をわすれるな!」と言葉を残して出征する。達彦さんは中国戦線の前線に送られ(長沙作戦と明記される)、長らく消息不明となる。実家の八丁味噌屋「山長」で、女将さん(義理の母)と店をまもる若女将・有森桜子は、達彦の生存を信じてまつが、女将さんは癌をわずらい、有る時、二人の枕元に達彦が現われ(たようにみえ)る。これはもう日本幽霊文化の伝統においては、死んだというお約束である。結婚の約束をした男が戦死するのは、在り来たりの不運だろうか。しかし私には、なかなかハードである。苛酷な試練を生き抜くのが朝ドラの女主人公である。
女将さんは、達彦は死んだと観念し、また自らの死も受け入れる。戦争が終わり、女将さんの一周忌の日に、達彦が奇跡の生還を果たす。この回の再開シーンは感動的である!ただし、達彦は戦争のPTSDで、桜子に心を全く開かない。
もう一つ、戦時中の事件として、桜子には長女・笛子(寺島しのぶ)の夫である杉冬吾という絵かき(大宰治がモデルである)への憧れがあり、この二人が不倫関係にならないかと心配される。正直ふたりの関係は、だいぶやばい。そもそも桜子は、松井達彦と恋愛関係になる前から、絵かきの杉冬吾に尊敬の念とともに淡い恋心を抱いていたはずである。それが極限状態の中で、目を覚ますか!朝ドラは昼ドラぎりぎりを描いている。
やばイでいえば、次女の杏子(井川遥)が、やばい。私は井川遥をこれまで魅力的に思ったことなど一度もなかったが、こんかいは、『広辞苑』第七版的な意味でやばい。正確に引用できないが、つまり対象の魅力に抗しえず引きずり込まれてしまいそうになる、である。
勝ち気な姉・笛子と自由奔放な妹・桜子とにはさまれて、自分のことを頭も良くなく夢もなく美しくもないと思い込んでいるが、実はじっくりと物事に当たれる性格なのである。井川遥という女優の美貌を、マゾヒスズムを媒介に抽出し、最後に堂々たる自立を獲得していくのである(これに比べると、いまやっている『おちょやん』の高城百合子役は、単純でつまらない。魅力的ではない)。
達彦さん役の福士誠治という若いイケメンの役者については、あまり記憶が無かったし、なんか単純にイケメンなだけで観ていて最初はあまり好ましく思えなかった。が、そのうちに、そのおぼっちゃんながらも誠実な人柄に徐々に心が打ち解けていくのである(桜子がでなく、私がである。笑い)。すこし調べると、2002年の『漂流教室』にも出ていたことが分かる。辰巳君役だというが、そうそう!思い出す。この顔だった。『漂流教室』には山ピー、山田孝之などがまだ新人っぽい感じででいて、彼らと比べると今の活躍ぶりはすこし地味だが、歌もうまく、かっこよく、かしこそうで、活躍してくれていて嬉しい。私はファンだ。
さて、主役の宮あおいであるが、私はこの宮あおいをちゃんと観た記憶がなかった。なかったと思っていたが、このページのごく初期のほうで『ちょっとまって神様』のことを書いているはずで、このドラマは私には強烈な印象を持っていたのだが、理由の一つは、原作が『秋日子かくかたりき』であること、もう一つは泉ピンコのが主演であること。しかし、宮あおいのW主演だったのに、まったく覚えていないのだ。よく、漫才コンビで見始めのころ一人のほうしか印象に残らないということがあるが、あのパターンである。やすきよのきよし、阪神巨人の阪神、ダウンタウンの浜田、トータルテンボスのスキマスイッチ。『ナナ』という映画もあって、中島美嘉とW主演だが、中島しか思い出せなかったのも同じ。
なお、片方だけしか認識されていなかったにも拘わらず、あるとき認識の中心が逆転するあり方を名付けて、をオセロの中島効果とネーミングすることにしました。白黒反転という意味でも的確なはずである。
さて、私は、大河ドラマ『篤姫』も朝ドラ『朝が来た』も観ていないし、シーチキン食堂のCMで観た印象だけが残っている。「シーチキンをまぜた料理を食いものと称して食わせる食堂なんて……」と思ってしまっていた。うーむ、井川遥以上に、『広辞苑』第七版的な意味でやばいのである。正確に引用すると「△里瓩蠅海澆修Δ任△襦「この曲はくせになって・―い」」。
姉の夫との不倫沙汰も、夫たる達彦さんのPTSDも、姉夫婦の子ども(亨ちゃん)の失明の危機も、最終的には解決する。あっけなくではないにしても、すっかり完全に回復する。そして、最後の週になって、妊娠した桜子がピアノの発表会を控えて病気だという。しかし、そんなのもあれこれありながら回復して、あとは音楽家・作曲家として成功し、幸せに味噌屋の女将さんとして生きて行くのだとばかり思っていたら、なんと!まじで、不死の結核であり、妊娠した赤ん坊を中絶することなく出産を選び、(山長の後継ぎを遺すという意味がある。男子を産むことを嫁=家に嫁ぐ女の義務と見なす家族主義思想である)、産んだ子供に一度も触れることなく、メッセージだけを遺して死んで、物語は終わりとなるのだ。
産まれた子供(輝一。鬼一ではない)以外とは、病室で大勢で医師や看護婦抜きで面会しているのに、輝一とだけは会えない。とかツッコまないけれど、苛酷な試練を健気に生き抜くではなく、死んでしまうのだ。もはや抜け出ることの出来ない、覚めることのない悪夢である。
桜子は「まだ見ぬ我が子へ」というメッセージを遺す。次のとおりである。
輝一ちゃん、元気ですか。ひもじいおもいは、していませんか。おとうさん、おじさん、おばさん、あなたのまわりの人たちも元気ですか。おかあさんは、あなたを抱いて育てることはできません。そして、あなたがものごころつくころには、きっとこの世界からいなくなっていることでしょう。
おかあさんの人生は、人からみれば、あっけなくて、つまらない、さびしいものに映るかもしれません。
あんたもそう思うかもしれんね。
ほいでもね、ちがうんだよ。おかあさんは、十分に生きた。十分に輝いた。おかあさんの人生には、すてきなことが山のようにあった。その中でも、いちばんすてきなことは、あなたのおとうさんに出会えたこと。そして、あなたに出会えたことです。
意味のない人生なんてない。さびしい時は、ピアノを弾いてごらん。輝一ちゃん、おかあさんはそこにおる。ほら、あなたのそばにおるよ。
これはハードである。あっけなく逃れうると思い込んでいた朝ドラの罠から、しかしこれは決して逃れられない人生を突きつけられるのだ。
私は、一〇年前に母が死んだ時、母が可哀想でならないと思ったが、すこししてから、母の人生は可哀想なものとは無縁なとても幸せなものだったはずだと思い至った。逆に言えば、死はどんな死であっても可哀想なのだ。
ここには封建思想は感じられず、良い脚本だと思うが、こんなに若く死ぬ朝ドラ主人公は、ほかにあるのだろうか。(詳しく知らないが、非常に気になる)。
本作のオープニングのテーマ曲には、歌詞はついておらず(劇中一度だけ上妻歌唱で歌われるが、その一度きりである)、印象的な優しい平凡な曲だが、これが劇中では、達彦さんとの再開シーン、そして、桜子が「まだ見ぬ子へ」と題して作曲したピアノ曲として使われている。「松井桜子作曲」。この曲はくせになって・―い。心憎い演出と言ってよいと思うが、この達彦さんとの再会シーンはNHKサイトで確認すると第135回だが、次の136回でも繰り返される。しかし、繰り返しの時にはもうこのオープニング曲を使わないのである。
原作の津島祐子『火の山 山猿記』は、古書価格が高騰している。ただし、本作が描いた範囲は原作の一部に過ぎないようである。また、家族メンバーも原作はもっと多い。
本作の脚本家・浅野妙子という人は、『ちょっと待って神様』や『NANA』の脚本家でもある。宮あおい専属にちかい。サクラコ、アキヒコ。ハチ?
福士誠治と宮あおいで『ヒミズ』を撮る、というのもあり得たかも知れないもう一つの現実だ。
昨年末(12月22日)に久しぶりに『ヒミズ』を読み直し、また園子温監督作品映画『ヒミズ』を初めて見て、その感想です。
古谷実『ヒミズ』(2001年)。住田君は中学三年生。自らの不遇と相俟って夢や理想を追うことをせず、そういう図々しいことを言う人間が嫌いで、その代わり「一生誰にも迷惑を掛けない生き方をするから、オレにも迷惑を掛けるな」と思っている。家は川沿いで貸しボート屋を営んでいるが、母のみ。離婚した父がたまに顔を見せる、いわゆる毒親である。幻覚的に一つ目のような餓鬼のようなものを見ている。「最底辺」の人びとが描かれている。町金融か、父親の600万の借金取りが来て、住田君は殴られる。住田君は、自分はたまたまクズのオスとクズのメスの間に生まれたが、オレはクズじゃない、オレは立派な大人になる、と言い返す(12話)。同級生の夜野正蔵(すこし知恵遅れ的)は知り合った町の不良と強盗をして一〇〇〇万を手に入れ、住田君の借金を返してやる。この日、住田君は偶々帰宅した父親をはずみから殺してしまう。もう普通の人生は送れなくなった、と思う。選択肢は4つある。自首、自殺、このまま放任。4つ目は残りは「オマケ人生だ」と考え、世の中の役に立とうと、悪人殺しを始めようとするもの。包丁を紙袋に入れて、悪人を捜して町を彷徨する。一見まともそうなホームレスやヤクザ(先の町金)など、ろくでもない大人ばかりである。ヤクザは住田君にピストルを渡す。何にせよ住田君は至って冷静である。悪人を捜せないまま、家に帰ると、茶沢さんや夜野くんら友達が貸しボート屋の建物を直してくれている。茶沢さんには自首するよう説得され、明日、警察に行くと約束するが、その夜更け、ピストル自殺する。
生きることの意味・問題が、不運不遇や貧困愚劣と重なって顕在化しているだけだとも言えるが。住田君はある種の深淵意識におかされており、最後は自殺するのであろう。
ヒミズとは、日不見と書くモグラ科の小動物。「Fimizu 太陽を見るとすぐ死んでしまう、ネズミに似た小さな動物」(『日葡辞書』)。なるほど日ノ本にそういう小さな動物たちが生きているのである。
ちなみに、映画(2011年、園子温監督・主演染谷将太、二階堂ふみ)も見ました。住田君は父を殺す以前から暴力的で(茶沢さんをすぐに叩いたりしている)、父殺し後は狂気へ以降する。震災直後に撮影したこともあって、自殺の結末を選ばず、茶沢さんと川原道を「住田頑張れ!」と叫びながら走るシーン、津波後の石巻の風景・曇天でラストとなる。監督はラストを迷ったらしいが、震災直後の映画人としてこれを選択したと言っている(メーキング映像より)。また、茶沢さんもまた親から虐待を受けている設定が盛り込まれているが、これは原作には無い。毒親を持つ少年少女同士の共感という意味・説明かと思うが、説得力があるか。こういう二人は共依存・傷の舐め合いになりがちではないか。むしろ茶沢さんは絶対的な希望として描いて良かったのではないか。
異世界転生モノというジャンル?形式が流行っているそうである。いまさらですいません。セカイ系を継いで、という意味でずいぶん前からの話なのだろうと思いますが、ちょうどスピノザからライプニッツへ、という関係かと思います。世界と自己(原因)とが同心円的に連続する世界観たるスピノザと、複数の可能世界の存在を許容するライプニッツと、セカイ系/異世界転生モノとが対応するわけです。
異世界転生ものの本質は、厭離穢土・欣求浄土の浄土信仰です。浄土信仰は日本文化史上、平安末期に現われ石山本願寺滅亡まで、浄土真宗の共和国を形成しましたが、豊臣秀吉の現世享楽主義によって消滅させられました。現世享楽主義の近世的展開が井原西鶴「好色一代男」ですが、秀吉も西鶴も日本資本主義発祥の地である大坂を舞台としていることは示唆的です。大阪は2020年11月1日の住民投票によって消滅しますから(しませんでした!)、400年を経て再び異世界転生思想が復活したわけです。大阪消滅賛成派が夢みる希望の来世は、万博、カジノ、うめきたの成長戦略です。儚く、親鸞はそんなの認めないでしょうね。
(備忘のためにここに記します)
いやあ、今日は『未来少年コナン』の最終回でした。毎週楽しみに見ていました。が、うわさに聞いていた(斎藤美奈子が感心していた)『アンという名の少女』も最終回だったようで、ついでに初めて視ました。なんか面白かったです。
あと、大阪維新の会とかいうネオリベカルト集団も最終回だったみたいです。ばんらーい!
同期していましたね。
『半沢直樹』、今日が最終回。いま毎日曜日は、『駒ちゃんのクスリ』も楽しみにみているが、一番の中心はなんといっても『未来少年コナン』である。私はこれを高校生の時に見て、衝撃を受けたのである。今コロナ渦にこれを40年ぶりに観るのは、不思議な思いがする。
さて、今日はあまりにも『半沢直樹』と『未来少年コナン』とが同期していたので、記しておくことにしました。
女性の部下が正義に目覚め、寝返るチャンスをも捨て、勇気をもって悪い上司に反逆すること。正義と誠実のひとは、優しく美しいこと。見事に同期しました。同じお話しでした。そして、ピンチをものともしない主人公の馬鹿力も(笑)。決して諦めないこと。ただし、コナンやラナはもう「国家」を超えている。
私はもちろん、最終回のモンスリーを知っています。ダイスがうらやましいってか。ばかね!
余談:悪が善に帰ることを近世演劇用語で回忠(かえりちゅう)と言います。単なる「裏切り」とは少し違う。『半沢直樹』がおかしいところ(感心するところ)は、現代劇(TV)を支えているのがけっきょく歌舞妓の演技力だという点である。最近の人はこの演技力のことをアドリブと呼んでいるが、実際、演技は脚本を常に超えているのだ。
[補説:2020-11-08]出演者には、歌舞妓に加えて、劇団出身者が多いようですね。江口のりこという女優は東京乾電池だそうで、柄本明と子弟(?)共演なわけです。今年の流行語大賞に「顔芸」というのがあって、これが『半沢直樹』によるらしいのだが、「顔」だけの問題ではないと思いますよ。さらに追加すると、『半沢直樹』がおかしいところ(つまらないところ、作品は現実を描ききれていない)は、脚本の根本的な部分なのだが、カタキ役はきちんと犯罪をおかしている点である。現実は、忖度させることによって、本人自身は犯罪をおかしてはいないのだ。「トランプが敗北を認めず、法廷闘争に訴えるのは合法なのだ」などという論法と同様の問題が、残されたままである。(補説終わり)
あと、『駒ちゃんのクスリ』だが、明智一族は11年前(1556年長良川の戦い道三死、1567年稲葉山の戦い龍興敗走)に旧領明智荘を追われたわけだが、その間ずっと藤田伝吾(徳重)たちが田畑と家屋敷を守っていてくれたという。ちょっとヘンですよね。伝吾は百姓(武装農民)であるから田畑を耕すだろうが、年貢を納める領主はいて、当然斉藤家臣の武士であろう。美濃国が織田家の領地になれば、織田家臣の領地であろう。あっ『駒ちゃんのクスリ』でなく、『麒麟がくる!』でした。
『半沢直樹』では、白井大臣の回忠を促すアイテムとして桔梗が用いられていた。これは、『麒麟』を実際に意識して踏まえたのかもしれないが、さすがに『コナン』と同期したのは計算外だったろう。
政府の対応が後手後手に回っていると言われて来たが、後手後手どころか、ぜんぜん手を打っていないと私は思っていた。そして、先月27日に首相は、全国の小中高等学校養護学校の一斉休校を要求したわけですが、やってやったぜ感満載で、「だんちょうのおもいです」などとも29日の会見では言っていましたね。一斉休校は、ハギウダ大臣さえも反対していたらしいが、ポジショントーク(身の丈に応じて)とは言え、反対してくれてたようで、良かったです。しかし、首相は「断腸の思い」の意味を実際は知らないと思う。
それにしても、彼らが一番心配しているのは国民の感染それ自体よりも、オリンピックが開催できるかどうかだと私はにらんでいる。オリンピックのためなら、学校なんていくらでも休みにして良いと、彼らは思っているのだ。だからこそ、大学生にボランティア要請などするのである。
なぜオリンピックにこだわるかと言えば、経済効果に期待してなのだが、それでも一斉休校にし、また国民の移動を制限をすると、これはほんとうにゴーストタウン化してしまい、文字通り元も子も無い。
どうせ大胆な先手を打つなら、「オリンピック返上の検討をJOCに要請します」とすればよかったのだ。
実際には、突っ込んだ飛車は、そのまま取られてオシマイである。もうちょっと大局を見て手を打たねばならない。真面目な話をすれば、ともかく、検査の拡大が最重要であろう。理由はよく知らないが、ともかく政府は検査をする気がないらしい。したがらないらしい。
それから、インフルエンザの特措法が、新型コロナには適応できないから、特措法自体を改正しないとイケナイ、と言っているようである。立法府を無視して、閣議決定でなんでも決めてきて、決済もとらずに公務員の定年延長も解釈で認めている内閣が、よく言うよ。ほんと、よく言うよ。
立憲民主党と国民民主党が本格的に合流するらしい。せっかく、右派と左派とに分かれたかと思われた旧民主党であったが、数合わせでまた一つになる。それはけっきょく「連合」の政党だったということである。連合は、久留米の人が言っていたように、「組合の皮をかぶった経団連」である(そうでなければ、消費増税を陳情なんてするはずがない)。
この合流の狙いは「れいわ包囲網」である。連合は、消費税廃止を訴えている「れいわ」なんかに主導権を握られてはこまるのだ。野田や前原はもちろん、枝野にしても、一つになってしまえば「野党の皮をかぶった自民党」に逆戻りである。小沢一郎も、立国再統一を理由に、山本太郎もその軍門に下れと言っているらしい。山本太郎は、それの言うことをきくのか。あるいは、いいなりにならないために旗揚げしたのか。
ちなみに解説しておくと、経団連とは、人民に戦争を仕掛けている金融資本そのもの(その日本版)である。
連合のなかにも旧総評系のまともな組合もあるのだろう。
れいわ新選組が政党としてのシステムを持っていないことを批判がましく言う人がいる。党員制度がない、たんなるボランティア団体に過ぎない、役職を置いていない、等。政党のシステムは、そのまま「だめな」組合依存の活動をつづけざるを得ない。旧総評系のまともな組合は、連合の支配からの解放を模索すべきである。立民、国民にいる心ある議員も、同じである。
世界情勢を正確に分析しておく必要があり、それを踏まえて、政党を選んでいく必要がある。分析結果に合致した政党の出現を歓迎したいと思う。
前作好評により……。
子供:ねえねえ。この中で日本庭園がよく似合う素敵なおとなってだあれ?
大人:わたし、行っていいでしょうか。
子供:日本庭園には何がある?
大人:松やね。庭石やね。あとは、池やね。
子供:池には何がいる?
大人:鯉やね。きれいな錦鯉やね。
子供:色とりどりの錦鯉がいるね。
大人:そやね。きれいやね。
子供:どうして錦鯉はいろとりどりなの?
大人:そりゃ、掛け合わせたんや。色の奇麗な鯉を掛け合わせて、錦鯉になるんや。
子供:いや。だから、どうして錦鯉はいろとりどりになるの?
大人:そりゃ、突然変異やね。
子供:いや。だから、どうして突然変異するの?
大人:えっ。突然は、突然するんじゃないの?理由なんてあるの?
子供:ぼーっと生きてんじゃねえよ!
語り:いまこそニッポン人に問います。なぜ錦鯉は突然変異するのでしょう。もちろん、DNAのコピーミスでしょうが、ではなぜDNAのコピーミスは起きるのでしょうか。錦鯉の赤い天冠が、広島カープの赤ヘルになっていることも知らずに、「出て来い、出て来い、池の鯉」だの、「未必の故意」だの、不均衡進化論だの言う日本人のなんと多いことか。でもお子ちゃんは知っています。
子供:錦鯉がいろとりどりなのは……、進化の順番待ちをしているから!
学者:5才なのに、オーダーステップ進化論を知ってるなんて、すごいね。進化には、内臓的機能的、骨格的形態的、皮膚的視覚的の3要素があるんだけど、この順に進化や突然変異はしやすくなっているんだ。エラ呼吸から肺呼吸に進化するよりは、尻尾が短くなったりするほうが、さらには皮膚の色が変わったりするほうが、しやすいんだ。鯉は、鮒(フナ)から進化して、金魚へ進化していったと考えられているけど、形態的、視覚的な進化要素の複合形式だけど、これは決して一方向とは考えられていない。形態的な進化を足踏み状態で順番待ちしている際、さらに容易な進化が促進されている、と考えられているんだ。つまり、形態的に金魚なんかに変化・進化をした金魚に対して、形態的な変化が無い時期には、かわりに順番待ちをしている皮膚が、色なんかを変化させることがあるんだ。
お子ちゃんは、何か順番待ちしていることはあるかな。
子供:シュッレダ―。
子供:ねえねえ。この中で新聞や雑誌がよく似合うおとなってだあれ?
大人:わたし、行っていいでしょうか。
子供:新聞は、いつ読む?
大人:そりゃ、朝や。
子供:何しながら、読んでる?
大人:何しながら?朝ご飯食べながら……やね。
子供:雑誌は、どんなとき読んでるの?
大人:お昼に、ラーメン食べながらやね。
子供:朝ご飯やお昼ご飯の時、新聞や雑誌を読んだりしてるんだね。
大人:テレビを見てることもあるけどね。情報を収集してるんや!
子供:でも、ほんとは何でも良いから、読んだり見たりしてるんじゃないの?
大人:たしかに、なんか目的があって読んだり見たりしてるわけや、ないね。なんかがほしいだけやね。でも、なんかほしくなるね。
子供:どうして食事時には新聞や雑誌がほしくなるの?
大人:わかった!新聞や雑誌も、おかずのうちなんや。
子供:ぼーっと生きてんじゃねえよ!
語り:なぜ朝ご飯には新聞、お昼の食堂やラーメン屋では週刊誌やマンガ雑誌を拡げているのでしょう。奥さんに「あなた、ドレッシング、変えてみたんだけど」と言われて、新聞を読みながら「美味しいよ」と生返事していませんか。「新聞や雑誌もおかずのうち」だの、「今週の○○砲はスケールが違うね」だの言いながら、実は内容なんて何でもいいサラリーマンのなんと多いことか。でも、お子ちゃんは知っています。
子供:何か読むのがほしくなるのは……、味のまずさを、ごまかすため!
学者:5才なのに、刺激のスピン効果を知っているなんて、すごいね。食事中に何か読んだり見たりするものがほしくなるのは、食事のつまらなさやまずさを、別の刺激でまぎらかして、意識させないように、脳が働いているからなんだよ。
フランス料理店や高級寿司店で、新聞を読んでいる人がいないのは、料理を味わうことに集中しているからだよ。新聞や雑誌の代わりに、会話や周りの景色も代用できるんだけど、それはおかずとして、味の刺激を統合的に高めているわけではなくて、味わうことをまぎらかして、意識させないようにしているんだ。実験でも、脳の刺激伝達の回路が味覚と視覚とで別だということが証明されているんだよ。
お子ちゃんは、何をまぎらかしたいかな。
子供:桜を見る会。
映画「ジョーカー」を見てきた。バットマンシリーズなどにはこれまで全く(生まれてこの方)興味がわいたことなんか無かったのだが、某サイトで『JORKER』と『翔んで埼玉』と比較した記事に興味を持った矢先、学生の強い薦めもあって、この偶然に機縁を感じ、わざわざ見にいったのである。
貧困、社会の分断を原因として悪が誕生する。見る前から、『JORKER』と『EXORCIST』との関係を私は予測していた。実際見て分かったことは、『JORKER』には数多くの先行する映画との関係が示唆されているということである。映画の歴史はもはや125年を数え、その間には、今と同じように、資本主義が生み出す格差と分断をすでに一度経験しているのだ。チャップリンの『モダンタイムス』なども本作の重要な先行作品である。
『エクソシスト』については、かつて本ページで書いた事がある。悪魔払いの途中で休息をし、メリン神父がデミアン・カラス神父に語りかけるときのもの。小説版からの引用を採録する。
「やつ(悪魔)の狙いは、われわれを絶望させ、われわれの人間性を破壊することにある。いいかね、デミアン。やつはわれわれに、われわれが究極的には堕落していて、下劣で獣的で、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在なのだと自覚させようとしている。この現象(悪魔つき)の核心はそこにある。」(五〇〇頁)
JORKER(アーサー・フレック)とEXORCIST(デミアン・カラス)とは、境遇は異なるが、状況は似ている。即ち、此方は障害を持ち貧困で無能であり(ピエロ)、彼方は社会性があって倫理的で優秀である(聖職者)。しかし、双方とも苦悩しており、直る見込みのない母を養い、階段から降りて(落ちて)いく道を選ぶ(この共通点は絶対的である)。双方とも、神(善なる者)に対する憧れを持つが、その庇護に保証は無い。
ジョーカーはもちろん、単なる悪でなく、暴動、ゼネストから革命へを希望・幻想している。これは、エクソシストにおいて、悪に打ち克つ善を信じる気持ちと(不安と)、まったく変わらないものである。
私は、バットマンというのが億万長者だということも、よく知らなかった。学生は、ジョーカーを見る際の予備知識が必要であれば『ダークナイト』くらいは見ておいてもよいかも、と教えてくれたので、帰りがけシネコンで安売りされているそのDVDを買ってきた。帰宅して最初の三〇分くらい見たが、忙しいし、なんかばかばかしくて、見終わっていない。セリフがいかにも説明くさくて子供向けであるのもあるが、それだけではないだろう。社会批評性が全く無い。なににせよ、『ジョーカー』では、少年ブルース・ウェインは殺されずに生き残った。こいつが後にバットマンになるのだそうだ。陳腐であり、ばかばかしい。大金持ちの子どもなんかに全く感情移入しないからだ。
なお薦め教えてくれた学生は、ジョー村さんである。
私が朝ドラ・ファンなのはもはや周知の事実であろう。今年のA系(NHK東京制作)「なつぞら」については、しかし一切記事がないですね。毎朝楽しみにしていたし、良い作品だと思っていたが、「なつぞら」ロスはあっという間に解消された。現在のB系(NHK大阪制作)「スカーレット」が大変素晴らしいからである。私はこれまで経験上、大阪系は好きではないと思っていたが、今回のはとても良い。川原喜美子という主人公の子役時代の役者が素晴らしく魅力的なのである。「女にも、意地と誇りは、あるんじゃい!」と叫ぶ表情と声とが実に可愛らしい。
信楽の女性陶芸師のさきがけをなしたかたがモデルだそうで、子役がおわり今それを演じる戸田恵梨香にもだいぶ慣れてきた。うまく、可愛らしい。さて彼女は中学卒業後、心ならずも信楽を離れ、大阪で住み込みの女中奉公をする。3年を経て余裕も出来てきた頃、再び心ならずも信楽に帰ることになる。職場の丸熊陶芸で、あこがれの絵画(絵付け火鉢)に魅了される……。絵付けの先生(フカ先生)から、「絵付けをやりたいのか?、絵付け師になりたいのか?」と問われる。この二つの問いの意味の違いは、実は不分明である。単に趣味や芸術としてやりたいのか、あるいは、職業・金もうけとしてやりたいのか、という違いなのだろうか。芸術/職人、あるいは無償/有償なのか。喜美子は、自らに問い掛けた上で、答えはその何れでもないと言う。「私は、フカ先生の弟子になりたいんや。先生の生き方に憧れて、それを信頼して、付いていきたいんや……」。それはこれまで強制と願望との間での選択を余儀なくされてきた自身に対する、新たなもう一つの自身の発見である。
私自身は立場上、このフカ先生の位置にいるから、こういう学生こそかわいく、大事に育てようと思う。見えているゴールでなく、進むべき道をセンス(意味・方向)として、選べる学生こそかわいく思うわけである。
先週の学会で、いつも(思想的研究的に)お世話になっている京都の廣瀬先生との会話で、「朝ドラ見てますか?」と聞くと、「わたし、見たこと無いなあ」とおっしゃるので、こちらも少し気恥ずかしくなって、「朝ドラっつーのは女性の自立をテーマにしていますが、まー男から見てほどほど丁度良い女性が描かれていますからねー」などとごまかした。川原喜美子は、素晴らしく良い子だが、正直、男の価値観から見ての良い子かもしれない。川原家の次女は幼少期に戦災を経験しており、事有るごとにヒステリックにわめく。長女の喜美子はそれをいつも上手にあやし、たしなめる。
アルチュセールのイデオロギー論によれば、自由と強制の間には、説得とか納得とかいう形態があり、それこそ国家のイデオロギー装置(AIE)なのだそうだ。すなわち、強制としての暴力装置に対する、説得を可能にする装置である。それはもちろん男性原理であろう。
浅田彰「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」より
山本太郎の全国ツアー第二弾九州編のうち、久留米でのもの(10月27日)に、会場から極めて聡明な意見が出たので、そして私はとても感動したので、これを文字起こしして記録しておきたいと思います。野党共闘に関して述べられた意見であるが、山本太郎じしん、たぶん感動したと思う。彼はこれを終始ニコニコして聞いていたからである。本文は以下の通りである。
当該のyoutube39分あたりから44分ころまで
ありがとうございます。私は、結論から言えば、れいわは5%を掲げて、単独で臨まざるをえない、というふうに思っています。これは、政権取りには回り道のように見えますけれども、結果的には最短コースになるだろうと思っています。そして、この時に、れいわは二つの問題でバッシングを受けると思いますが、何も心配はいらないと思うんです。まず、なぜ単独で臨まざるをえないと思うのか、ですが、太郎さんは政権取りのためなら5%まで譲歩するだけでなく、粉骨砕身して働きますよと腰を低くして申し入れていますよね。しかし、立憲はこれを無視するだけでなく、消費税推進派の大魔神・千葉のあの人、Nさんですね、を招き入れました。これは事実上の拒否回答だと思います。で、立憲は連合の支援が無ければビラ一枚貼ることが出来ない、連合におんぶにだっこの政党ですけれども、この連合の正体は、私は、何かというと、組合の皮をかぶった経団連だと思っています。でなければ、政府に消費税増税を陳情なんてするわけないでしょう。というわけで、立憲が5%を飲む可能性は限りなくゼロに等しいと言って良いと思います。次にれいわが単独路線をとったときに予想される二つのバッシング、一つは野党共闘を分断するのか、二つ目は野党を共倒れさせて三分の二をとらせて憲法改正を許すのか、ということだと思いますけれども、これにはいずれも明確な反論が出来ます。まず、野党を分断するのかというバッシングへの回答は、政権取りは城造りのようなもので、トロイの木馬なんか城へ入れたらあっという間に城は崩れる。先の民主党の崩壊は、これが原因でした。立憲のグループにはトロイの木馬が何頭も残っていますが、最も巨大な木馬、今や大魔神の風格ですが、これは千葉の、例の野田さん。この人、毒まんじゅうを食べる前はですね、シロアリ演説とか今とは真逆の立派なことを言っていました。それから、れいわと立憲が異なる旗を立てて選挙を戦う姿を、二つの競い合う商店にたとえてみます。れいわという小さな商店には消費税廃止という目玉商品があります。一方立憲という大きな商店には、れいわ商店のような目玉商品がありません。おまけに商品全体にソフトフォーカスがかかっていて、商品の具体的内容が全くよく分からない。だとしたら、立憲という商店がつぶれるのにそう時間はかからない。それだけではなくて、立憲にも心ある議員はいますから、デフレが二十年も続いて、国民がこれだけの窮状にあるときに、こんな公約じゃとても選挙を戦えないと言って、もし二人でも三人でも脱藩してれいわに加わるようなことがあったならばですね、立憲の崩壊は加速すると思うのです。政権を取るという城造りをするには、こういうまがい物を淘汰するのが遠回りのようで、近道になると思います。二つ目のバッシングですが、共倒れさせて三分の二を、つまり憲法改正を許すのか、という攻撃への答えはこうです。いま政権がほんとうに恐れ、手こずっているのは、野党ごっこをしている野党の党首ではなくて、山本太郎です。三国志という物語がありましたけれども、関羽と張飛というたった二人の英雄が、曹操の大軍を大いに苦しめました。今度の選挙で関羽や張飛にも匹敵する山本太郎が、三〇人にも五〇人にもなった状況を想像してみて下さい。いくら議員の数が多くても、いくら多額の費用を投入しても、とても改憲が出来るとは思えない。議員は数ではない、質なんだ、ということです。心配は要らないと申し上げたい。以上、太郎さんには釈迦に説法ですが、支援者の仲間に、覚悟を決めよう、心配は要らない、ということを訴えたくて時間を頂きました。ありがとうございました。(場内拍手)
山本太郎:ぶっこんでやれと。ははは(爆笑)。空気を読むな、ぶっこみにいけと。というご支持でした。ありがとうございます。ははは。
立憲の支持者はカンカンでしょうね(笑い)。でも、当たっている。久留米にはこんな明晰な人がいるのか、と思った次第です。こんな明晰でかつ覚悟をきめた人とともに、遠く離れたところから一緒に、勝利を味わいたいものです。
昨日くらいのニュースで、山本太郎は、馬淵澄夫と消費税減税研究会を立ち上げた、という。「トロイの木馬」には気を付けてほしいが、二人でも三人でも、脱藩者が出ることを願いたい。しかし、それにしても、立憲の変節は目を覆うばかりである。永田町の論理で数合わせはしないと枝野代表は言っていたはずなのに、あっという間に立憲・国民に野田佳彦らまでが統一会派になってしまった。折角わかれた者同士が、お互いの「トロイの木馬」に逆戻りである。国会議員を単なる数勘定に戻す行いである。
連合赤軍をモチーフにした『光の雨』(2001年、高橋伴明監督)という映画があり、山本太郎が森恒夫役(倉重という役名である)を演じている。久しぶりにVHSでこれを見た。森恒夫というのは、赤軍派の中では日和見な下っ端だったのだが、幹部クラスの逮捕などにより、あれよあれよという間にリーダーになってしまい、京浜安保共闘の永田洋子とともに、組織内の集団リンチを主導し、逮捕後1年ほどで獄中自殺してしまうのである。とても救いようの無い悪い奴でしかなく、それを見事に演じている山本太郎青年もまた、そんな狂人のように見えてしまうわけで、これは革命家かつアジテーターの山本太郎をディスるにはちょうどよい材料のように見られてしまいかねないだろう。
『光の雨』には、メイキング映像もあって、ここには役者たちの本当の肉声がインタビューで残されている。山本太郎は、2001年の段階で、次の様に答えている。「倉重鉄太郎」というのは、この映画での、森恒夫に相当する人物である。
「かみしめるように、説得する」。それはまさに今、彼がやっていることである。
去年亡くなった父は、元気だった頃、人生に思い残すことは特に無いが、一つだけあるとすれば、日本の一千兆円の借金がどうなるかということだ、と言っていた(もちろん冗談である)。今、これに笑ってしまうほど明快な答えを与える山本太郎の存在を、父と語り合ってみたかったなと思う。高橋洋一なんかの本を買って読み、父にも勧めていた自らを哀しく反省する。「国の借金は家計の借金とは違う」、「誰かの借金は誰かの資産である。」これが山本太郎の答えである。
ただし、山本太郎は、国民の貧困は政府が国民に投資をしないからだ、ドケチ国家だからだ、と言うが、この点に関して私は、今ではもうすこし別の観点を持っている。マウリツィオ・ラッツァラート「資本の戦争的本性とその回帰」(『資本の専制、奴隷の反逆』廣瀬純編訳、航思社、2016年)で、「住民に対する資本の戦争」と呼ぶ概念がそれである。「ギリシャで起きたのは従来の階級闘争ではない。資本家と労働者との対立ではなく、資本とその社会的形態とによる住民(population)に対する攻撃なのです。シリアに目を移せば、こちらでもまた国家間の戦争がもはや問題になっていないことは明白です。戦争は社会の内部で起きている。」(同書 p.60)
資本は日本の中流階級を対象に戦争を仕掛け、そこから収奪してきた。国鉄・郵政の民営化、消費増税、国家戦略特区、派遣法・移民法、コンセッション(水道、カジノ、民間英語試験)……。いずれも、人民に対して資本が仕掛ける戦争である。そして、それがこの20年に渉るデフレの正体なのである。それは同時に、山本太郎自身がいつも指摘する「世界で一番企業が活躍しやすい国」(安倍晋三)の正体でもある。
私の嫌いな評論家などが《右でも左でもポピュリズムは良くない》とかツイートして山本太郎を批判しているのを見ると、改めて嫌いで良かったと嬉しくなる。
ポピュリズムを大衆迎合主義の訳語とただ理解してした時代(小泉時代)と較べて、アメリカや欧州では左派ポピュリズムが台頭している、こちらのポピュリズムは良いほうのポピュリズムだ、みたいな言い方をしてきたのは、つい最近のような気がする。同じ現象でも右派は悪で左派なら善だというだけならとんでもない論理であるが、有り難いことに、そういう事では無さそうで、良かった。
ファシズムと民主主義とが地続きであるのと同じように、人民中心主義は迎合主義へと結びつく可能性がある、ということである。山本太郎が演説がうまいことを理由にポピュリズム扱いしているとしたら、それはよほど物事を見聞きし吟味する能力がなさ過ぎる。ナチスや麻生太郎や橋下徹が言うような、障害者を集めて殺してしまえ(少なくとも、否定はしていない)というポピュリズムと、「あなたを生かしたい」というこちらとは、異なるものである。
私が山本太郎の仕事を最初に自覚的に評価したのは、国会でジャパンハンドラーのことを追及したニュースを知った時であった。2015年の8月ころ、つまりは安保法制の頃である。安保法制はジャパンハンドラーの完コピだ、というような言い方をしていた。ちなみに、ジャパンハンドラーの巣窟がCSISというシンクタンクで小泉進次郎なんかはここに留学している。
前川喜平さんの講演などをyoutubeで見ていて、今年から教科化された道徳の検定教科書に載る教材がひどいという例で、「星野君の二塁打」という話があるそうだ。吉田甲子太郎という人の中学生くらい向けのオリジナル短編作品が先ずあり、それをダイジェスト風に小学生低中学年向けくらいに書き直したものがあり、後者が道徳の教科書に載っている(どちらもネットで検索すると全文が読めます)。
監督の指示は犠牲バントだったが星野君は自分の判断で二塁打を打った。試合に勝ち甲子園出場が決まるが、監督はみんなが納得したはずの指示に従うというルールをやぶった星野君(エースであり三番打者である!)を甲子園本大会に出場させない、と言う。
オリジナル版から監督の言葉を、一続きのまま、引用してみよう。勝ったのだから良いのではないかというチームのキャプテンの助け船に対して、次の様に諭す。
「いや、山本君のは結果論というやつだ。いくら結果がよかつたといつて、統制をやぶつたという事実にかわりはないのだ。――いいか、諸君、野球は、ただ勝てばいいのじやないぜ。特に學生野球は、からだをつくると同時に精神をきたえるためのものだ。團体競技として共同の精神を養成するためのものだ。自分勝手なわがままは許されない。ギセイの精神のわからない人間は、社會へ出たつて、社會を益することはできはしないぞ。それに実際問題としても、あのとき星野君の打つた球のおかげで、ダブル・プレイでも食つたとしたら、どうなつたと思う。ワンヒット・ワンランのチャンスもないのに、あの場あいヒッティングに出るなんて、危險きわまるプレイといわなければなるまい。」
一見まともにみえるが、精神論(勝利度外視で統制に従う)と技術論(勝利の方法論、ダブルプレイ回避)とを同時に語っている。これは監督の自己保身である。監督は、自分の判断が正しかったと選手たちに納得させるために戦術論もまぜて語っているが、それを保身というのである。
監督は、勝利度外視で統制に従うべきだと主張し星野君を更迭するのであれば、自らもまた辞任すべきである。
「星野はじつと涙をこらえていた。いちいち先生のいうとおりだ。かれは、これまで、自分がいい氣になつて、世の中に甘えていたことを、しみじみ感じた。」
事態はむしろ逆である。監督こそが、子どもたちを前に、自らの統率だけで勝利に導いてきたかのような錯覚に陥っていたのでないだろうか。「自分がいい気になって、世の中に甘えてきた」のは、監督自身ではないのだろうか。
それにしても、選手の自主的な判断を全く認めない監督が、どんな競技であれ、今日、存在しているとしたら、それはあまりに教育というものを分かっていない。
道徳にせよ、倫理にせよ、あるいは哲学にせよ、そしてたぶん宗教にせよ、さまざまな可能性のあることを理解して、その結果、一つを選ぶのである。選ぶ力を付ける、あるいは選べる環境に身を置く。それが教育ではないだろうか。
前川喜平さんの講演をyoutubeであらかた見て、そのお話の中に、臨教審の話があることに改めて驚く。臨教審(臨時教育審議会)というのは、中曽根内閣時代の教育改革の一つで、その狙いは国家主義的・復古主義的な教育の復活であった。が、前川氏によれば、審議会は議論の過程(第一部会と第三部会の対立)で、結局、国家主義的なもくろみを無害化し、多様な教育の可能性を開いた答申を行った、と回顧している。実際はその後の「ゆとり」という(どうもいまいちな、笑い)結論に結びつくものでしかないが、悪を無毒化しのであれば、その手際はお見事と言うべきである。
とはいえ、前川喜平さんの先輩が、臨教審やゆとりを主導した寺脇研である。「ゆとり」に関しては、斎藤貴男『機会不平等』(文藝春秋)が紹介している文化庁長官・教育課程審議会会長を歴任した三浦朱門の発言がすごい。勉強はエリートだけがすればいい。凡才は、実直な精神だけ養えばよい、と言うのである。貧乏人や凡人は、決して二塁打を打ってはいけないのである。
存在は知っていたが、いまさら見る必要はあるのかなとも思い、忙しいからという理由で躊躇していたところ、一昨日、大谷先生が「新聞記者、見た?」と、当然のように話しかけてきたので、そうですかそんなら見ましょう、と思い本日(7月6日)、家族揃って見てきました。
素晴らしかった!正直、モリカケ、萎縮忖度、レイプ事件など官邸の《現実》を忠実に(笑い)描いただけの際物映画ではないのか、とたかをくくっていたのだが、そんなレベルの低い批評をまったく置き去りにして、素晴らしかった!
新聞記者の英雄的行動(勇気)を描いた映画としてはダスティン・ホフマンとR・レッドフォードの『大統領の陰謀』だとか、最近ですと『ペンタゴン・ペーパーズ』などがあるが、それらより素晴らしい作品ではないだろうか。それら優れたアメリカ映画が、メディアの(局所的)勝利と(局所的)正義の実現という《史実》に基づいて作られたノンフィクションであるのに対して、『新聞記者』は未だ終わっていない事件を描いている点が、まず重要である。未だ終わっていない事件とは、つまりは対応する《史実》を持たず、現勢態(エネルゲイア)ではなく、勝利と正義は未確定であるということである。勇気と理想を描くとは、勝利と正義の潜勢力(デュナミス)を描くことなのである。
描かれている「内調」では官僚たち自身が、ネトウヨアカウントを持ってカキコしていたり、あるいは特区の新大学では軍事転用目的の細菌研究が企図されていたりと、これらを「盛りすぎ」と評する向きもあるようだが、私にはそうは思えない。こうした部分は、官邸の《現実》を(比較的)忠実になぞっているに過ぎない部分である。それは《すでにここにあるファシズム》なのだ。
本作が目的としているのは、そうしたすでにあるファシズムを忠実になぞっていくことと同時に、それらをどう打破するかそのあり方の描き方である。今の状況はおかしいのはないか。自分のやっていることは明らかに間違っているのではないか。そういう疑問を、押しつぶすことなく、あらわにすることはいかにして可能なのか。現実にそういうことが出来た人が現にいるとして(劇中座談会に登場する前川喜平、そして原案提供者である望月衣塑子のような勇気の人)、そういう英雄的な存在は、たしかに人を動かしうるだろう。
杉原の良心の根源には二つのポイントがある。一つはまず新人時代の官僚としてのあり方で、先輩である神崎による教えである。もう一つは、娘に恥ずかしい事はできない、という思いである。杉原は、吉岡エリカの父親の死を知る。神崎は、自分の娘に対して、不正が許せずに自殺したのである。娘が生まれた杉原もまた、娘に対して責任を感じる。
この作品がリアルタイムの作品である証拠が、ラストのあり方である。杉原は東都新聞にリークした後、自らの実名を出して良いと許可する。それにより東都新聞のリークは一面を飾る。新聞紙が印刷され、配達されていく情景は、カタルシスである。内調は、杉原に威しと同時に懐柔を試みる。東都新聞の吉岡は最悪で杉原の自殺を予想するが、生きている杉原の姿を横断歩道を挟んで見る。杉原はさえない顔をしているが……。ここで映画は終わる。暗転して、映画館の暗闇は私たちを「現実」に引き戻す。杉原が正義を通しきれるか。私は本作を見ている途中から、ラストをどうするか、すごく気になっていた。結末は二通り考えられる。一つは、杉原は実名で名乗り出て記事は誤報でないことを証言する。正義を貫くのである。理想主義である。もう一つがあり得る。杉原はやはり証言できないと言い、あるいは吉岡らとの接触を避け、あるいはさらに、それは誤報だと証言する。正義が結局負けるというリアリズム(現実主義)である。日本がもっと平和だった時代には、フィクションにおいては後者が好まれた。しかし、今は、前者こそが望まれる。
「コントラストの無い世界から」
うちの子どもは見終わるや『相棒』の一作目のほうが上だな、といったことを言っていたが、それは違うだろうと思う。『相棒』は木下右京さんの理想主義はもはや確立しており、むしろ約束されており、アイデアリズム(理想主義)の結末は、単に英雄に与えられた役目に過ぎず、凡人たちに勇気を与えないだろう。本作に関しては、不可能だと思っていた一人一人が声を挙げることを実現させる勇気である。出来ないと思っていたことをやるのが奇跡なのだ。
本作は、理想主義と現実主義との間にたって、そのどちらを選ぶかは視聴者自身なのだと告げている。この暗転は、『ブレードランナー』のディレクターズカット版で見たものである。もう一つ思いだすのは、『戦艦ポチョムキン』が、あるバージョンではモンタージュが映写者によって変更されていて、あたかも戦艦上での反乱が鎮圧されたかのように見える結末になっており、革命に不可能性を謳っているように鑑賞者に強く印象づけた、という話である。
政権に不都合なニュースのコントロール 謀略 諜略
単なる反権力作品ではない、という言い方で本作を誉める人がいるが、それは『この世界の片隅に』を戦時中の生活を丹念に描いてあって単なる反戦映画じゃないと誉めているのと同じような、とんちんかんな(コントラストの無い)評価である。『この世界の片隅に』は、どこをどう切りとっても、戦争がいかに庶民の生命を軽んじているか、しかもその庶民が加害者にさえならざるを得ない、という反戦映画であるように、『新聞記者』もまた反権力・反ファシズムである。権力が好きな人は、この作品を見て、好きな権力に使われており、人を虐げていることに気付くべきである。内調の諜報活動も、謀略(ネトウヨの実態は内調である!笑い)、官邸の私物化も、新聞の権力忖度も、国家レベルでの生物兵器も、みんなフィクション(物語=陰謀論)なのだ、ネトウヨと同根なのだ、などと本作を批判するサイトが結構ある(たぶん内調が作っているサイトだろう)。
こういう諷刺を、「印象操作だ!」とか「アンチアベのプロパガンダだ」とか言っている人は、ほんとうに困ったものだと思う。ノンフィクションも含めて、世界は解釈から成り立っているのであって、すべてが「印象」だし、「エビデンス」(証拠)もまた、切り取り方次第なのだ。自分がどう印象を持つか、自分の視点と自分の印象をもてるかどうか、操作されているのは織り込み済みであり……、などと考えているのだろう。脱構築のやりすぎで、ばかになってしまっているのだ。
来週は参議院選挙である。あれだけひどいことをしている安倍政権に対して、しかし改憲勢力が三分の二に迫る勢いだという情勢分析である。そうなると、情勢分析も、そして投票自体も、内調が絡んでいるってことなのか(笑い。笑うしかない)。もはや、ここにあるファシズムである。戦後の平和主義、基本的人権の尊重、主権在民にしてからが洗脳なんだとネトウヨ=内調は言うに違いない。
[補論]ファシズムの定義は難しいが、カリスマや「内調」や秘密警察による諜報と謀略によって、一般人の意識が統一されている状態である。
映画館でDVDが安売りしていあって、『ペンタゴンペーパーズ』(原題・The Post)が一〇〇〇円で売っていたので、買ってきて見た。ベトナム戦争が戦況不利ゆえこれを隠蔽して国民を戦争に駆り立てている国防総省の機密文書を内部リークした実話である。ニクソン政権にとっては、ウオーターゲート事件の前段階の事件なのである。七〇年代初頭のワシントンの町並と、ワシントンポストの社内が極めて忠実に再現されていて、まあ金かかってんねーという映画なのだ。それに較べると我が『新聞記者』は今此処にあるファシズムを描いていることを幸いに、ロケもセットも、そのままで、ほぼ金が掛かっていない。で、ストーリーも『ペンタゴンペーパーズ』をなぞっている点がいくつか指摘できる。特に、記事を掲載するか否か決定することを大きなクライマックスとしている点、掲載を決定した後、新聞が印刷されて封じられ早朝に配達される一連のシーケンス、権力からの圧力に対して他紙も次々に同ネタを掲載し始める点、などである。
最も大きな違いは、「報道の自由」に関するスタンスである。アメリカ映画は、報道の自由と社会正義を当然の行動として選択している。日本映画には、そういう決然たる勇気のようなものが描けない。そう描くと、子どもっぽい映画になってしまうからである。絶望的な国である。
補記 2020-03-06 (Fri) 本日、日本アカデミー賞というのがあり、『新聞記者』がノミネートされているので、実は興味を期待を持って、でも期待しすぎないように、いやどうせ期待なんて出来ないだろうと思いながら、見ていたのだが……。まず、シム・ウンギョンが主演女優賞に選ばれる!本人があっけに取られたような顔をしており、スピーチで泣き出す(美しい……)。「日本映画界、素晴らしいと思います」と言ってくれればよかった。ついで、主演男優賞、これは他に並んでいるのが、つるべ、すだまさき、なかいきいち、ガクトであるから、松坂桃李がもらってほとんど不思議はない。スピーチもじつに聡明!さて、私は、シム・ウンギョンと松坂桃李のダブル受賞で花を添えた、ってことかなと思っていた(あまり期待しないでいた)。実際、監督賞も脚本賞も取れなかった。で、作品賞である。興業成績の良いキングダムかなと思っていた。そしたらなあんと、「新聞記者!」だという。ほんと、「日本映画界、素晴らしいと思います」。テレビ界もしっかりしてくれよ。いや、学会もか。
すっかりご無沙汰していました。南くんから「もしかしたら、先生も、書くのいやになったのかなあと思いましたよ。たしかに、もう書くのもイヤになりますよね」と言われていて、もう何を書いても無力感というかんじはありました。
元号なんて基本的に使わないし、興味もないのだけれど、ちょっと行き掛かりがあり、また考えてたら良い案が浮かんでしまったので、記念にこっそり書いておこうと思う。実際は、だれかが的中させた場合、予定を変更して撤回するらしいから、原理的に的中は不可能なのだ。しかし、総理大臣が先日皇太子に「内奏」に出向いた。これはつまりもう実際は決まっているということであり、撤回不能な時期に入っており、だとしたら私は的中させてしまうかもしれない。だが、嬉しくないし、不名誉だなあ。
実は、こんな事を書くのは、私がファンになっているある人が新元号を「桜花」と予想したのでショックを受けたからである。「桜花」は私にはどう考えても最悪である。特攻飛行機の名前だし、宣長の歌「朝日に匂ふ山桜花」は「同期の桜」日帝軍国主義に同期しているし……。私の同世代の有名な宣長学者は《宣長の歌は「匂ふ」つまり咲くと詠んでいるのであって、散るなんて全く言っていない。宣長歌を「同期の桜」と同調させるのはお門違いである》と言うのだが、和歌の言語は「咲く」と言って同時に「散る」まで含ませてあるのではないだろうか。それが和歌言語の反語的な本質ではないだろうか。「咲いた花なら散るのは覚悟」はきわめて順当な推論なのではないだろうか。
でまあ、しかし、そのかたからは、「桜花」を右翼的な表象から奪還せねばならないのだよ、と反論されました。ああなるほどね、とも思いました。学者は、既定の表象の解読にのみ専念して、意味を奪還するなど、考えてもいなかった。しかし、現実にはそういう事はありうる。「代々木」という言葉は、戦前は陸軍を意味していたそうだ。戦後はもちろん日本共産党を意味していたが、80年代には予備校を意味するようになった。あるいは、坂口安吾の『桜の森の満開の下』などは、本居宣長=小林秀雄式の(つまり日帝残滓=残滓の漂白的残存の)「桜花」の表象を、アナーキーな立場から奪還していると言えるかもしれない。日本のダークな庶民性がともあれ、それが文学のアクチュアルな力なのだ!
「桜下」「桜森」「桜満」「桜開」なら賛成ですね。「桜成」オウセイは、王政・旺盛と通じていて、はイマイチである。それから、「櫻花」でなく「桜花」だとすれば、すこしは新しいかも知れない。
さて、私案を披露しよう。瑣末な条件は省略して、重要な条件だけ述べると、
この二つを両立させるのである。ずばり「治成」である。
明治を肯定的に使用するのである(明治は、罪科ばかりでなく、もちろん良いところもある)。で、「明成」はMが明治と重なるからダメ(加藤明成みたいでダメでもある)。
出典は探せていない。しかし、もっと大きな問題がある。歴史的に「治」はジとか訓んでいない、チとは訓まないのである。つまりチセイでなく、ジセイと訓むのが順当なのである。私としては知性に通じさせてチセイとしたかったのだが、ジセイになる(ヂセイではない)。まあしかし、どちらであっても、ヘーセーとまるで似てなく、耳で聞いても紛らわしくはないだろう。そして、Jである。日本人の好きなアルファベットでしょ。
安の字が入るか否かを大きな問題にしている人たちがいる。「成」を使うとなると、「安成」は「安政」(1854〜1860)と音が同じだから排除される。「成安」も、Sだから排除される。つまり、「成」を使うと「安」の入る余地がなくなる。(なんか象徴的)
とは言え、私自身は、「安」の字が入ったからと言って忌み嫌うのはおかしい、と思っている。まず「安」の字を使った元号はこれまでやたら多い。次に「安」は決して安倍晋三のものではないからだ。むしろ「安倍」という苗字の印象を、安倍晋三から奪還したいと思っている全国の安倍さんはかなりいるんじゃないかとも思う。安倍晋三が元号に「安」の字でも「晋」の字でも使うように決めたとしても、けっしてそれは安倍晋三のものなんかではない。本質的に、文字はだれか個人のものではない。ウィトゲンシュタインは私的言語を否定したが(個人にしか通用しない言語はあり得ない、人と共有されるから言語なのだ、という趣旨)、同じように、私的文字は存在しないのだ。加えて、誰が作ったかも関係ない。アメリカが作った憲法でも、中身を充実させていくのは日本人である。
平成の最後にあたって、一言宣言しておこう。平成天皇は立派な人だったと思う。父親の戦争責任を、父の批判を一切せず、しかし受け止めた。無言で受け止めひたすら行動で払拭に努めた。「天皇」という悪しき表象を、まさしく奪還した。しかしそれでもやはり私は、天皇「制」には反対である。超越的権威無しでやっていける、そうした歴史を作ってきた、隣の共和国がまぶしく見える。
[2019-03-03 追記]本日の『北陸中日新聞』日曜版に図解で「琉球処分」が大きく取り上げられてあった。思えば、沖縄もまた王朝を失っている。かつては日本と中国、今は日本と米国の、両国支配下にあって、民主民権的な共和国たらんとしている。県民投票は二月二十四日に行われ、七割が反対票を投じた。ヤマトンチュを救ってほしい、と思うが、これもある種の無力感である。 大事なことを書き忘れています。私は、基本的に昭和も平成も元号なんてほぼ使わずにこれまでやってきました。ていうか、使えません(ぜんぜん分からない)。それと明治・大正・昭和も「時代」とは思っていません。新元号も、もしも的中させても、まず使いません。
[2019-03-13 追記]今日のニュースによれば、「国文学者」がメインで元号の案を出すのだという。これまで国文学者といえば、古事記・万葉、あるいは平安だったが、現在、文化勲章レベルの国文学者となれば、近世文学者かも知れない。ここはご専門の洒落本から「大通」でどうであろうか。大通元年、いいですね。「気散」もありだな。気散元年、もっといいな。まあしかし、こんな極端な例をあげなくとも、中国古典から取らないというだけでもう十分、「日本の伝統」も空洞化されている。右翼の伝統が儒学にあることを、いまの右翼は知らないのだろう。国粋主義と排外主義を単純に同一視しているのだろう。しかし、国粋主義が強力な説得力を持つのは、実は国際的な普遍主義を背後に持つ場合なのである。
[2019-03-14 追記]やば。「大通」は、中国・梁の元号で使われてました!因みに、梁には、「普通」もあるそうです。じゃあもう、「不通」か「半可通」でいくしかないか。私がファンのそのかたは、「「安」の字を使いたければ「慰安」にすれば良い」、と書いておられました。あはは。
[2019-04-01]「令和」だそうだ。正直ほっとした。案外まともな選択で、逆に安倍の支持率は高まるだろう。国文典拠も古事記でなく万葉だということで、言われてみればなかなかの選択。しかしそれは安倍の野望をくじいたわけではない。安倍は目先の欲望より実質を取ったのである。「令月」は良い月という意味だとTVで言っていて、ふーんと思ったが漢和辞典を引くと「二月」のことだとも書いてある。皇太子(令和天皇)は二月生まれだからちょうど良いのか。また、梅や蘭の花を歌った出典であるから、中華趣味である。しかし「令」の文字は、人をあつめてひざまづかせる、という意味だから(やっぱり命令の令なのだ)、ひざまづかせて和するわけである。けっきょく安倍的(笑い)。談話の中でも「防人」とか言ってたな。
(追加。岩波書店のツイートより)やっぱしね。出典とされる万葉集の句自体が、文選を出典としているのだ。 [2019-04-02]このネタ、正直なかなか止まない。今朝はボツになった他の案四つが示されていた。英弘、広至、万和、万保。ひでひろ・ひろし・まな・まほ、人名である。昨日来、令和(のりかず)さんが数名紹介されていたが、れなちゃんという女の子もいた。
世間一般では、「孫引き」の使い方を間違えているようだ。孫引きとは、A→B→Cの影響関係があるとして、CがBしか見ていないのにAから引いたと言うものである。今回の場合、CはAを知らず、Bから引いた、と言っているのである。今回の場合だと、Cを孫といい、Bが子、Aを親ガメというのである。
「令和」をあくまで国書典拠だと主張し思い込んでいるひとがおおいけど、最大譲っても、日本で作った四川料理みたいなものです。中国で育てた松坂牛みたいなものです。万葉仮名でなく漢文体だし、ギョーザやラーメンほどまだ日本化も進んでいない。 「英弘」は、古事記の序文「敷英風以弘國(英風を敷きて国を弘めたまひき)」がたぶん出典ですね(太安万侶が書いた)。天武天皇の武威を称揚した文言で、これはかなり植民地主義的。かなりヤバイ。こんにちまずあり得ない(補記:武威ではないかも知れません。徳化・教化かも知れません)。他方、万葉集に関しては平民も含む平和的な雰囲気ばかり喧伝されているが、戦前には「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍」だとか、「醜の御楯(しこのみたて)」だとか、結構ヤバイ思想をも含んでいる。古今集の「たおやめぶり」に対して万葉集の「ますらおぶり」だとか、今回まだあまり喧伝されてはいないが、首相が談話で「防人」の語を口にしたことなども含め、十分注意しておくほうが良い。
[2019-04-03]万保は漢籍典拠だと報道されているが、菅原道真の『菅家文草』にも見える言葉である。つまり令和と同じく、万保も国書出典だと言い張ることもできたわけである。万保は「万機保安」で、天皇務めを滞りなく行うことである。
[2019-04-04]新聞に、令和の英訳はorder and harmony ではなく beautiful harmony だと諸外国へ通達した、という記事が出ていた。語尾の令が命令や秩序であるのに対して語頭の令は麗しい美しいだと言う説明をしていた人がいたが、語頭の場合は名詞に付く。名詞化した和は、和する(調和する)ではなく和国であろう。つまり「美しい国ニッポン」じゃないか(笑)。やはり安倍!
世間(学者も含む)の反応を見ていると、《直接万葉集から採った言葉なのだから、万葉出典で良い》という説が巻き返しているように見えますね。さらに言えば、今回の場合は発案者(万葉集研究)が文選なり帰田賦なりを知らないということはあり得ないですが、一般的には、原拠(文選)を知らず万葉だけ見た、ということもあり得ます。そしてその場合、原拠まで典拠・出典と言うのはおかしいんじゃないか、という反論が出ることも、まあありえそうです。じっさい近世文学研究などでは、原拠を優先せず、直接使った本を見つけることが大事だとされています。しかしそれは、江戸文学の言語使用者(作者)の教養程度(低さ)を知るためでもあります。言語文化の本質を考えなくてはなりません。前から書いているように、言葉は誰か一人のものではない(安の字は安倍晋三のものではない)。ある言葉の意味は、使っている人が自覚していようがいまいが、これまでの使用の歴史の中にあるのです。使用者が知らない過去の用例もまた、典拠なのです。誰も使ったことがない、筐底に仕舞われた日記もまた、言語活動・歴史の一部分でしょう(しかし、筐底に仕舞われた日記は、与える影響力は実際には低い)。また、影響下にありつつも、特出したオリジナリティが産出される場合もあります。教養が高ければ高いほど、オリジナリティは低くなります。井原西鶴が、それ以前の仮名草子作家にくらべてオジリナリティが高いのは、彼が教養人ではなかったためです。大伴旅人も山上憶良も、あるいは菅原道真などは言うまでもなく、教養人ですからオリジナリティは低く、漢籍に関する規範意識が高いでしょう。万葉学者もそうでしょう。反対に、安倍晋三のような教養の低いひとは、オリジナリティが高いでしょう。令和と美しい国がイコールで結びつくような解釈を可能にするのは、無教養のクリエイティビティです。皮肉ではありますが、誉めています(笑)。
典拠はさかのぼれるだけさかのぼるべきか、という問題ではない。元号制定にあたってわざわざ所信表明をした安倍首相は、令和があたかも日本固有で万葉集オリジナルの言葉であるかのような説明をしたから、そうじゃないよ!と一斉に反論しているのです。「この本(万葉集)に、良い言葉があったので、使わしてもらいました」というだけなら、まだアリの説明でしょう。そういう謙虚な人に「あなたの見つけた良い言葉は、先に使っている人がいるのですよ」と言っても、その謙虚な人はとくに傷つかないだろう。だが、この総理大臣は、「この言葉は、日本固有の言葉なんです」と言ったから、みんな一斉にちがいますよ!と反論しているのです。
典拠論をめぐって、学者も含めて、分かってないひとが多いなあ。コメンテーター的には、面と向かって官邸に反抗しづらいとは思うけど。
「和せしむ」はないと思うけど。調和させる、和やかにさせる、か。束にさせる。その平和はファシズムですよ。むしろ、和やかなるより、いろんな風が吹いていたほうがいいと思うなあ。
帰田の賦に比べて、万葉集の序は二月を一月に変え美しい自然描写を加味しており、それが日本の美意識だとか言っている学者までいるわ。あきれるなあ。
「孫引き」という言い方が間違っていることは、既に書いた。また「パクリ」に関しても一応言っておくと、万葉集が文選をパクっているとか言ってディスるのはナンセンス。パクリはこの場合、正当性(正統性)の証明なのです。言語使用は、オリジナリティ(独創性)とオーソリティ(正統性、レジティマシー)との反比例の関係にある。これも既述しましたね。
あともう一点。元号は漢字を使うわけで、つまりは漢語である。日本オリジナルの漢語は「和習」と言って漢学者が最も嫌い軽蔑したものである。
昨日、日大アメフト部の悪質タックルの当該選手自身が単独会見を行った。概要をニュースで見て、陳述書を新聞で読んだが、世評と同じく「よくやった、りっぱ」と思う。本日の北陸中日新聞では斉藤美奈子「本音のコラム」が、本件についてこのー麕甜圈↓¬仁畆圈↓実行犯という段階的な強圧命令系統の伝統は旧日本軍以来であり、森友学園問題などにも同じ構図があると指摘している。
なるほどな、と思う。‖膺叩↓⇒財局長、8従譴凌Πという抑圧の委譲は、同じ構造だというのである。ならば、この日大の学生(選手)は、会見・謝罪を行うことで、森友事件の職員のようには自殺という道をえらばず、また、人倫を(最終的に)踏み外すことなく、生きることを選べた、というわけである。伊藤詩織さんしかり、テレビ朝日の女性記者しかり、である。そして、では、なぜ、あの自殺した職員は、この選手のような道を選べなかったのだろうか。という疑問が残されてしまう。
正義を描くのが少年マンガであり、正義は相対的でしかないことを描くのが青年マンガである。私は、ずっと、こうした青年マンガ的発想によって生きてきた。それは、単純な(独りよがりな)正義(という過ち)を排するためであったが、この青年マンガ的発想はタライの水ごと赤んぼうまで捨てるがごとく、正義そのものもまた捨ててしまうことになっていないか。実際、これは私の今日的課題である。即ち、正義はいかにして可能か。
少年マンガには、正義を、一巡した青年マンガ性を超えてなおも成立させているような作品は、あっただろうか。マンガにあんまり詳しくないので(笑)、どうもぴんと来ない。
すこし以前、藤子不二雄A先生のエッセイで、これからは老人マンガの時代だ、みたいな文章があった。団塊の世代にむけたマンガ、といった程度の意味でしかなかったし、具体的な内容についても言及されなかったと思う(健康とかが話題?)。しかし、今すこし思うところがある。前川喜平氏がそうだが、職場にいるうちは、なかなか反旗を翻せないが、退職後は不可能ではない、ということである。少年には果たせない正義があるとすれば、もしかしたら、定年後の老人には、正義が可能かもしれない。
ただしもちろん、それを可能にするのは、若い時からの心掛け次第ではある。定年で職場から離れればだれもが正義を実践できる、というわけではないだろう。面従腹背とは、そういう心掛けであるだろう。
(追記 2018-05-25) 23日の日大側(監督・コーチ・司会者)の記者会見が、あっけにとられるほど、面白すぎる。危機管理がまったく出来ていない。しかし彼らの発言を聞いていて、正直なところ、思ったことがあった。私は当初、敵チームの有力選手を負傷させるために、自チームの選手を追いこんで、実行させた、という事件だと思っていた。監督等の言い訳を聞いているうち、さすがにそうではなくて、身体能力は極めて高いが、さらに闘争心あふれるプレイヤーに育てたいと思ってあれこれプレッシャーをかけているうちに、選手自体が混乱してしまった、という事なのかな、と思ったわけである。ともかく怪我させるのが目的ではなく、相手の怪我なんか気にしないで自らの闘争心に火を付けろ、みたいな指導をしていた、ということなのかなと思ったわけである。その点では、つまり負傷を目的としていない点では、ケガを指示したわけではないということになるわけだ。反則退場してベンチに戻った時に選手をしからなかったのも、ケガさせたことを誉めているわけではないが、ケガさせたこと(ミス)をあげつらうべきではないという教育・指導の一環なのである(積極的プレーでおかしたミスは責めてはいけない)。もちろん、学生が勘違いした段階で、充分にパワハラである。ただ、指導のしかたが悪かったのであって、本来的には善意に根ざしている……。
うちの奥さんに言わせると、あーたそれはよくとりすぎだよ、とのことであるが、私は、やつらをかばっているのではない。やばいことに、その路線で上手に説明すれば、賛同者も出てきかねない、ということを心配しているのだ。それが証拠に、安倍晋三の「妻の関与はない」「かけ関係者には会っていない」は、正しい目的(たとえば憲法改正)の前の必要悪でしかなく、それがうそだとしても肯定してしまう国民はすでにけっこう(3割り)いるからだ。
「憲法第九条は一字一句たりとも変えてはいけない」と最近言ったのは、枝野幸男でもなければ志位和夫でもなく、自民党のむかしの大物・古賀誠なのであった。岸田派の重鎮である古賀は、安倍の後、岸田派で政権を担うためにも、九条は一字一句たりとも変えさせないという方針で行くべきだと言ったのである。(4月24日付け朝日新聞朝刊)
ほっとするような、うれしいような、脱力させられるような……。自民党議員でさえ古い時代のまともな議員はそう思っているのだ。逆に言えば、立憲民主党にしても新しい若いやつら(枝野含む)は「われわれは護憲派でない」などと言ってしまうのだ。
護憲派とは、憲法九条に象徴される戦後の平和主義を国是として国家像を創っていこうと考えるものたちである。改憲派とは、武力による威嚇、武力の行使を国家の当然の権利として諸外国にも、義務として国民にも、これを示し課そうとする者たちである。そういう国家があっても良いだろう(まあ普通の国はそうであろう)。しかし、日本は大日本帝国時代、そういう思想を最も辛い形で経験した国なのだ。帝国臣民はそういう思想をもっとも悲惨な形で体験した人たちなのだ。その反省のもとに、日本国憲法が作られ、選び取られた。
憲法に首相の解散権の制限を掛けるために変えようと考える人は、自分のことを「われわれは護憲派ではない」などと発言すべきではない。話をごっちゃにしてはいけない。
昨年の危機感に比べて、今、未来は急に明るくなってきた。改憲派に未来は無さそうである。国内情勢として、安倍内閣の劣化は極限に達しているように見える。特に、イラク日報問題は、自衛隊にミソを着けたであろう。自衛隊は、仝従の憲法のもとで強い制限が掛かっているから、■魁ィ隠韻呂犬畉匈乙濬で活躍したから、という二つの理由で国民が支持しているのであって、しかし放っておけば、やはり暴走しかねない権力を握っているわけである。
モリカケ、安倍昭恵、財務省セクハラ、山口メンバー(これはちがうか)……。
もうひとつは、国際状況の大きな、(偉大なる)変化である。わたしの師匠高田先生は一昨年頃か「トランプ、金正恩、安倍晋三は三大白痴である」などと手紙に書いておられたが、いまやトランプと金正恩はこの白痴競争から脱落し、わが美しい国の安倍晋三はここでも安倍一強体制をしいているのである!(笑)。
朝鮮戦争が終結する。これが意味することは、そもそも日本が「逆コース」を歩みはじめた原因が終結した、ということである。アメリカが日本に再軍備を要求し始めた原因が、解消されるのだ。朝鮮半島は米中の緩衝地帯として平和の主役を果たすのである。東アジアのこうした平和的な展望に対して、中東アラブの悲惨なこと。そして、日本もまた、平和外交のらち外にいる極右政権が支配する国に落ちこぼれているのだ。
安倍政権もいよいよ終わりかとは思う。長い暗闇だった。
この国はつくづく変われない国なのだなあと思う、といった意見を言う人がいるのではないだろうか。三分の二まで取って、極めて危機的な状況にありながら、内と外との絶妙な大逆転。劇的な。内については自業自得だが、外のほうはまったく九回裏とかロスタイムでの大逆転である。トランプと金正恩がいいもんだったなんてストーリーは、映画や小説では通用しない!(笑い)。国会の三分の二をとるということは、仲間優先(有司専制)とセットであり、その結果、自業自得となってしまったのも何かの必然だったのかもしれない。
新しい時代に合わせて、憲法も変えた方が良い、という意見がある。公明党が、環境問題を入れようと言ったりしたりている議論と会わせて、北朝鮮の脅威もまた、この「新しい時代」の条件だったのだろう。
この半年、公私にわたって(笑)、大変だった。しかし、こうした明るい出口が用意されているとなれば、話は別である。
(2018-05-16 追記)今年こそは憲法記念日に書いておかねば、と思って書き始めていたのだが、公私にわたって忙しく(笑)、結局まとまらないまま。しかし、古くなってもしょうがないとは思わず、載せることにした。とはいえ、この10日ほどで事態は随分変わってしまった。内閣支持率は最低レベル以下には決して下がらない。 ブロガー「世に倦む日々」氏の分析によれば、これは安倍政権の右翼的信念に共感している層が三割存在しており、彼らは方法的な間違いも目的の正しさ(たとえば憲法改正)によって許容されると考えていると言う。つまり彼ら右翼にとって安倍晋三はどこまでいっても正しい人なのだ、と。なるほどと思う。米朝関係については、アメリカのいわゆる産軍複合体が北朝鮮殲滅をこれまでもこれからも狙っており、トランプの邪魔をしていると言う。トランプ、がんばれ! 他方、中東情勢。アメリカの、イランの核合意からの離脱、そしてエルサレムへの米大使館の移転、トランプの中東政策のひどさ! これじゃあノーベル平和賞はむりだろうな。また、古賀誠にしても、その後の朝日の記事では、憲法九条は一項二項が守られていれば、これに自衛隊を明記する三項を加えていく安倍の案は一定の評価に値する、と述べているらしい。なんだ全然違うじゃん。こんなやつに期待した私が間違いだったとは言え、がっかりである。
映画『ブレードランナー2049』を見ましたよ。(以下、ネタバレを含みます)。僕は1982年、大学生になった年に新宿でオールナイトでたまたまなのだが、封切り日に『ブレードランナー』を見て、驚愕したのである。ストーリーはあんまりよく分からなかったが、猥雑な未来像(しかもスラム化して、雨が降っている)に、ほんとうにびっくりしたのだ。その後ストーリーや思想も、原作者P・K・ディックの小説を読むようになって、『ブレードランナー』ファン、P・K・ディックファンになったわけです。
今年の一年生はなんだか授業態度が悪くて、授業中もすこし気分が悪くなることがある。しかし僕はそういう時、逆に自分のことを思い出す。僕も授業中によく私語をしていたが、それは仲間と授業内容について議論したりでもあって、授業の邪魔ではあろうが、実は生産的な活動でもある。そういうのを頭ごなしにしかりつける教員ではありたくないと思うのだ。かといって、見逃すのもねえ。同時に思い出されるのは、ディック短編集の「まえがき」にある、ディックは若い頃からずっと「態度が良くないぞ」と言われ続け、警官や教師、そしてペットフード店の店主にまでそう言われないかと怖れ続けていたというエピソードである。僕は今年の文学2(常ナルモノをめぐる日本文学)を始めるにあたって、この「まえがき」をプリントアウトして授業で読んで紹介した。この「まえがき」には、最後のほうで「仏教の観念論者たち」の話が出てきて、実は「常なるもの」の問題と内容的にもリンクしているのである。無常を絶対的に宣揚する仏教の観念論者に対してディックは、つまりこの世界は実在せず観念に過ぎないと考えても何の差し支えもないと考える仏教に対してディックは、大笑いした末に、この世界の実在を認める道をこそ選ぶべきだと考える。この部分の解釈は、じつはすこし難しい。僕自身ずっと、ディックは世界の非在《無》を肯定しているのだとばかり思っていた。最近ここを久しぶりに読み直して、まったく自分が誤読していたことに気づいたのである。ディックは、世界の《無》からどうしたら逃れらるのかに苦心しているのだ。だからこそ、彼の「この世界は現実か?たんなる幻にすぎないのか」という問いが意味を持つのだ(僕は、なんでそんなことに気づかなかったのだろう!?)。もう一つのディックの問い「人間らしさとは何か?中には単なる反応機械もいるのか?」と合わせて、現実と人間性の実在の肯定がディックの文学の挑戦なのに。
封切り日(10月27日)の翌日だが、見て来た。かなり良い作品だったと思う。まず、未来像であるが、灰色にくすんだ農地、太陽光パネル群、スラム街などが描かれる。商業主義に毒された繁華街も出てくるが、その微妙に活気がない感じが、絶妙である。高度にハイテクなのだが、なんか活気がないのだ。そして、地上に降り注ぐのは、雨だけでなく、雪である。カリフォルニアに雪が降るのか?そう、気候はすでに大きな変動を余儀なくされているのだ。雪の降る映画はこれまで沢山あったろうが、この雪は独自だ。こんなにポリティカルにしてエコロジカルな雪は初めて見た。タルコフスキー『ノスタルジア』の雪よりも良い。
SFとして、ドンパチはつきものだ。観客は、われわれ夫婦よりもさらに年上の御夫婦もいたりして、おとなのSFはこうあるべきだと思う。まず上映時間がびっくりすることに2時間半もある。長い!この長さは、大人映画には必要である。そして、SFにおけるドンパチのうち、もっとも子供っぽいと思うのが、「反乱軍の活躍を描く」ってやつである。SWしかり、P・K・ディック原作であっても(類似作品であっても)、『トータルリコール』『ターミネーター』『マトリックス』など、いずれも「反乱軍の活躍」である。現実世界において反乱軍(革命軍)は好きだとしても、映画でそういうのを見たいわけではない。本作にも、排除対象のネクサス8型の残党による「反乱軍」が後半ちょっとだけ出てくるが、その活躍ではなく、絶望的に孤独な戦いが描かれているから、老夫婦でも安心して、期待して良い。
本作で最も感心させられたのが、レプリカントの生殖という観点である。ハリソン・フォード演じるところのリック・デッカードは、『ブレードランナー』公開後10年以上経って、人間かレプリカントかで未決定な疑問が提示されたようだが、本作にはレプリカントであったという設定が引き継がれている。私は『ブレードランナー』を見るに当たってその設定を受け入れがたいと思うが(ロイの苦悩が相対化されてしまうからである)、『BR2049』については、それでも良いと思う。『BR2049』では、主人公Kが既にレプリカント(ネクサス9型)であることが明示されており、であるなら、デッカードもまたレプリカントであったほうがストレートである。問題は、レイチェルのありかただけだからである。
前作でデッカードとレイチェルは逃亡し、4年しか生きられないのか、そうでないのかは分からない、とされていた。レイチェルは妊娠し、子供を産んだ、というのが本作である。レプリカントは人間と身分けが付かぬほどにそっくりなのだから、生殖能力があっても不思議はない。むしろ、そっくりであるというのなら、生殖能力も持ってなきゃいけないだろう。
ディックのSF的想像力で、驚かされたもののうち、たとえば、機械兵器が自己増殖能力を持つ、つまりオートメーション化された兵器工場で人類滅亡後も兵器が製造され永遠に戦争が続く、という悪夢のような喜劇のような絶望的未来像がある(『変種第2号』など。映画『スクリーマーズ』の原作)。私はその再生産を、メカニカルなものとしてだけ想定していた。レプリカントもまた、メカニカルに作るか、バイオ的に増殖させるのか、分からないが、いわゆる生殖(有性生殖)とは考えてこなった。
意識の実在を、人間に特有で稀有な特徴とは考えず、行動を持つ生命体にそれぞれに応じて備わるある種の現象だと見なす考え方を、私はベルクソンから教わっているはずである。同じように、愛をふまえた生殖という営為と、繁殖、再生産、生産という物理的なプロセスとを、根本的に区別するものなどないことを、ほんとはもっと前から分かっていなければならなかったのだ。
製造、再生産、繁殖、生殖。おどろくべきことに、これらの語彙は、英語だとみな reproduction なのだそうだ。
メカニカルな再生産と、人間(生命)的な営為である生殖とが大きく異なるのは、生殖は必要な条件が最もパッケージ化された再生産の方法だという点である。有性生殖の場合、異性的な二つの個体が存在し、その個体だけで再生産が可能である。個体を保持するエネルギーは必要だが、それ以上のたいした設備もいらないし費用もかからない(ベッドがひとつあればよい?笑)。作業はすべて個体に任されている。はては、産まれた子供を養うという単位(家族)までパッケージされている。たしか、マルクスは家族を労働力の再生産の場所だと言ったはずである。私はL・アルチュセールの『再生産について』という本を買ったが読めておらず中身を全然理解していないが、もしかしたら、こういう恐るべきことが書いてあるのか。ともかく、生殖は最も安上がりな再生産の方法であって、資本主義や権力はこれを支配したがるはずの方法なのだ。実際、奴隷制は、それを実現していたわけだ。
性(セクシュアリティ)の問題ってものが、はじめて見えてきた気がした。以前読んだ小泉義之『生殖の哲学』を再読しないといけないと思う。フーコーの『性の歴史』もか。
もう一点。本作では、ディックの問題「人間らしさとは何か」を、別の点からもアプローチしている。レプリカントを捜査するKは、レイチェルが産んだ子供もまた捜して処分する役目を負うが、捜査の過程で徐々に、自分がその子供ではないか、と疑いを持つ。『猿の惑星』では、ジーラとコーネリアスの子シーザーは、密かにかくされて成長した。シーザーは猿の惑星の最初の知的指導者であり、英雄である。Kは、自分は単なる平凡なレプリカントだと思っていたが、実は、密かな英雄願望もあった。Kは、反乱軍のリーダーから、「大義のために命をなげうつことが人間らしさだ」と言われる。この言葉は、実に興味深い。脚本家は、P・K・ディックの思想を完全に理解している、と私は感動した。ディックは、もっともこうしたヒロイズム・犠牲精神を嫌っており、彼が肯定した「人間らしさ」とはもっと具体的な場面場面における他人に対する優しさである。『流れを我が涙』のラストシーンにおいても、救世主信仰そのものを描いたような『VALIS』シリーズにおいても、抽象的なヒロイズムは否定されている。脚本家は、それを承知で、反乱軍のリーダーにそうしたヒロイスティックな言葉を言わせて、反乱軍思想を否定している。Kは、反乱軍に言われたようには、父(ではないが)デッカードを殺すことなく、生かして助けるのだ。Kはジョーという(平凡な)名前を、ホログラフィの恋人(この設定がまたおぞましくもすばらしい。ディックの思想の究極である!)から与えられ、恋人なきあともまた、巨大な看板の女性(同じくジョイであろう)から、あなたは良い人だ(good joe)と言われる。父(ではないが)を救い出し、本物であるところの娘に会わせ、自分は、雪の中で自分というものにもういちど向かい合う。それはレプリカントも、人間も、二つの区別を越えて有する孤独である。前作の鳩のかわりに、わたしたちは雪を見たのだ。
本当の記憶と移植されたにせの記憶とを区別する方法はあるだろうか。「まえがき」を誤読していた頃の私であれば、無いというだろう。懐疑主義、相対主義の若き日の私である。本作のKは、幼少期の木馬の記憶を、まずは当然移植されたにせの記憶であると理解していた。ついで、自分がその子供ではないかと疑うにつれて、本当の記憶かと思うが、ステリン博士に確かめて、やはりにせの記憶であることを受け入れる。しかし、それと時を同じくして、彼はそうした疑いの中で、警察の上司にウソをつくようになるのだ。幼少期の記憶と現在の記憶とは、その不確かさにおいて同等なはずである。しかし、上司にウソをつくようになり、ホログラフィの恋人から「あなたにはJoeという名前がある」と言われ続け、そして父(ではないが)に母の名前を執拗に尋ねる時、KはKでなく、ジョーという名前は自分が人間であり、その記憶がもまた実在であることを確かにしてくれるのである。
わたしたちはベルクソンから、記憶とは観念であることを既に教わっている。アイデンティティであるとか、記憶はまさしく観念である。
二〇一七年の衆議院選挙が事前の予測(自民党の五〇議席減!小池首相誕生?)に反して安倍晋三の勝利に終わり、安倍家の最後の野望=憲法改正に対し、私たちはあらためて立ち向かわねばならない関係に入ってきた。まとまった文章にはならないが、考えるべきヒントや、勉強の積み重ねとして、ここに考え方のメモを順次残していこうと思う。
一昨年の終戦記念日の北陸中日新聞で、石破茂がインタビューに答えて「憲法九条を守れと言う人に、では暗唱してみてくださいと言うと、ほぼみな言えない」と言っていたのを読んで、私はたいへん恥ずかしく思い、暗唱できるようになりました。すなわち、「にほんこくみんはせいぎとちつじょをきちょうとするこくさいへいわをせいじつにききゅうしこっけんのはつどうたるせんそうとぶりょくによるいかくまたはぶりょくのこうしはこくさいふんそうをかいけつするしゅだんとしてはえいきゅうにこれをほうきする。ぜんこうのもくてきをたっするためりくかいくうぐんそのたのせんりょくはこれをほじしない。くにのこうせんけんはこれをみとめない。」
はい、よく言えました。石破さん、ありがとう。
九条が追い詰められているのは、古くはソ連、今なら中国そして北朝鮮との関係を背景にして、次のような問いに対してであろう。
1. 自衛隊など現実の戦力と整合していない。現実は違憲である。立憲主義的でない。欺瞞である。
2. 自衛戦争も放棄するのか。国家の自主独立を放棄させられている。国家のていをなしていない。
1は現実(現在どうあるか)との問題、2は理念(国家観。何を目指すか)の問題であろうか。
立憲民主党(枝野幸男)の九条改憲に関する反対意見の意味するところは、この間の選挙でのテレビインタビューなどで、極めて明確に分かった。と言うか、初めて彼らの意見を明確に理解出来た。すなわち、自衛隊の存在は認めるし、北朝鮮等との緊張関係において、専守防衛の必要性は高まっていて、軍事力(防衛力)自体はむしろ強化すべきであるが、二〇一五年に専守防衛の範囲をはるかに超える集団的自衛権を認める安保法制が成立してしまった現在、自衛隊の存在を憲法に明記してしまうと、集団的自衛権に合憲のお墨付きを与えることになる、だから個別的自衛権・専守防衛に徹するという意味で、反対!という説明であった。よく分かった。
他方、社民党は活憲(憲法を活かす)といって、自衛隊も縮小していこうという平和路線なのだろうと思う。共産党は、社民党ほど明確な平和路線とは違う気がするが、ともかく、共社は、立憲民主党とは少し違う。立憲民主党は、専守防衛に努めるという意味で、まったく昔の平和主義を内包していた自民党ハト派の理屈および実践である。実践というのは、アメリカからの難題に対して、「アメさんの言う通りにしたいのはやまやまなんですが、なんてったって九条があるもんで――アメさんのつくってくださった、軍備増強も出兵も出来ないんですよ」と、なんとかやり過ごす知恵である。
現代日本の問題(まさに国難!笑)は、こういう知恵や理屈をもうまともに理解し共感する日本人が半分くらいに減ってきたところにある。アメリカの押しつけだの、日本の誇りだの、日本偉いだの、世界的な流れではあるがナショナリスティックな反知性主義の横行(教育も含む、若者の保守化)にある。《対米従属》への批判についても、もともと平和運動と一体だった左翼の反米主義が、「護憲派の欺瞞」などと言われて、左折改憲と同じく、平和運動から乖離していこうとしているのである(独立のための再軍備)。ただし、旧社会党の非武装中立論に対して、共産党は非同盟中立論を唱えていて、それはけっして非武装ではなかったことを思えば、最初から、そういう問題は、そこに孕まれていたのかもしれない。
まず、私の率直な感想を述べておこう。一番単純な回答は、先の専守防衛に徹して軍備を持つこと、であろう。どこの国もそうなのだ、と(「普通の国」論)。枝野の言い方で言えば、安保法制さえなければ自衛隊を明記してもよい、ということになる。で、私の率直な感想というのはナニカといえば、そういう回答は、第二次世界大戦という意味を考えようとしていない、ということである。第二次世界大戦のもんだいとは、勝者か敗者かの別なく、戦争を人類史的問題として捉えようとする立場である。第二次世界大戦を単によくある(これからもある)戦争=人類の一コマにすぎず、人間は愚かな生き物だ、と考えるのであれば、そこまでである。しかし、侵略戦争の放棄のみならず、自衛戦争まで放棄し、かつそのために常備軍を持たない、交戦権を国に持たせない、というかなり過激な思想を、人類は(アメリカは?日本人は?)言語化して、憲法にしたのである。これを人類の達成と言わないで、何が達成だろうか。月に行くよりはるかに難しいし、価値有ることではないか。このことを考えなければならんでしょ、というのが私の率直な、直観的な感想なのである。常備軍の廃止というのは、柄谷行人によれば、カント『永久平和のために』あたりから出てくる思想らしいが、近代の人類の挑戦が日本国憲法によって初めて萌芽したのである。そして、まがりなりにも70年、機能している。
どういう本を読んで勉強すべきか。言えるのは、憲法は法律問題であるのと同時に、哲学の問題だということである。まず、基本として、丸山真男「憲法第九条に関する若干の考察」という論文をあげるべきなのかと思う。これは既に2015年に読んでいる。1958年あたりの論文だが、まったく古びていない。また、柄谷行人の九条論は先のカントの論を援用したもので、重要だろう。それから、内田樹編『9条どうでしょう』(ちくま文庫)も、昨日はじめて読んだが、非常に参考になる視点が沢山ある。ぜんぜん悪くない本である。あと、日本国憲法は全体で見た時に自衛戦争を違憲と考えていない、という説は、木村草太の『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』に詳しく書いてあった。
打ち砕くべき敵(理論的な敵)は、たんなる改憲派ではなく、むしろ左折改憲(加藤典洋など)や脱構築派(井上達夫など)である。前者は「禅問答に疲れた連中」(斎藤美奈子)であり、後者は禅問答しかやってない連中である。前者については、本頁の2015年11月11日の記事を見てほしい。斎藤美奈子が小気味よく批判している。後者はリベラリズムの立場から改憲・護憲双方の欺瞞を暴くものだそうだが、ある問題に対して自分の知的優位性(頭の良さ)を自慢できさえすればそれでよいという式の、全く無効な邪魔なあり方である。
それから最後に枝野だが、彼は「われわれは護憲派ではありません」という言い方を意識的に行っている。憲法を一字一句変えないと言うのが護憲派であれば、という条件付きで、首相の解散権については憲法で制限すべきと言っている。「護憲派」という言葉を貶めるこの言い方が吉と出るか凶と出るか、私にはまだ判断が付かない。
ともあれ、随時これらの問題を考えていき、いざというときのために、用意しておこうと思う。
毎朝欠かさず『ひよっこ』というのを見ている。NHK朝ドラを欠かさず(1、2回見逃しているが)見たのは、生まれて初めてである。明日が最終回。今日は、谷田部家が家族揃って歌合戦に出場していた。最終回には、家族がすずふり亭で食事をして、重箱を返してもらうのだろう。
全体的にパロディ色が強いが、それは60年後半に対する共感に基づいており、私も賛成するものである。まずは、田舎の農家という設定が、そしてその風景が、新潟の農家に生まれた私としては、全く共感するのだ。今ではもはや、稀少貴重な風景ではないだろうか。
書きたいこと、書くべき事はたくさんあるが、まずは、記憶喪失の母(父)を探すというストーリーは、60年代から70年代にかけて最もポピュラーなドラマネタであったということである。本作は、そのパロディとして、新たな家族像を作り上げている。ふつうであれば、記憶を取り戻すことが唯一の家族の回復の道であるが、本作は記憶を取り戻さないまま、新たな家族の回復の道を選んでいるのである。ここが優れている点である。ただし、家族が回復された証拠を見せるための、たった一つだけ、回復されるべき記憶がある。それは谷田部実がすずふり停に預けたままの重箱である。楳図かずお『イアラ』では、小菜女の生まれ変わりかと思われる女性が、時代を超えて何人も出てくるが、いずれも違っており、最後の一人が小菜女であった、というストーリーだが、その時、その小菜女は、「私が本当の小菜女です。今、記憶を取り戻しました」などとは言わない。ただ一言、小菜女が死ぬ間際に残した言葉「イアラ」を再び言うだけなのだが、それは過不足無き一言なのだ(拙著『楳図かずお論』第11章)。これと同じ働きが重箱にはあるはずだ。谷田部実は、すずふり亭のハヤシライスを食べて、重箱の記憶(だけ)を思い出すのである。(他の記憶もすべて思い出したら、だめな脚本である)
二つ目は、出てくる女達の多くが、二度目の恋を実現させるということである。過去(一度目)の否定でなく、不共可能な一度目と二度目との、同時の実現である。これをG・ドゥルーズの用語では、離接的総合と言うのですが(矛盾する2つの事象を、同時に実現させること)、これも同じく拙著を御覧ください(笑)。みね子(島谷とヒデ)や愛子(戦時中の恋人とすずふり亭のシェフ)だけではない。一度目の恋を一途に貫いた早苗(シシドカフカ)も、一度諦めかけた上での再会であり、冨さん(白石加代子)も、相手が死んだ後、生まれかわろうと衣装を変えるのである。もっと驚くべきことには、木村佳乃演じる母親は、肉体的に同一で精神的に異なる記憶を取り戻さない夫に対する二度目の恋を、菅美穂演じる世津子は、実在した雨男さんに対して不在の雨男さんへの二度目の恋を(精神医学的に、記憶喪失者は記憶を取り戻すと、喪失中の記憶を忘れるのだそうだ。離接的なのだ)、それぞれ実現するのだ。木村と菅野とは対比的であり、こんな複雑な描きわけをする脚本家を私は天才だと思う。
個人的に、上手い女優だな、素敵だなと思ったのは、木村佳乃である。このページの初期の頃、『ニコニコ日記』を見て、全然感心しなかった木村佳乃であるが、今回はほんとうに素敵だと思う。本作で最も盛り上がった場面は、初期の頃、東京の警察で発した言葉、「イバラキです」と言い、「東京の出稼ぎ労働者が居なくなったのではない、谷田部実という名前を持った個人が居なくなったのです」。この場面であった。個体化の問題についても、拙著第11章を参照して頂けると良いが、なんか拙著の宣伝ばっかですね。ともかく、木村佳乃は、若く美しい農家の働く母親を演じていたが、こんな美人が田舎にいるかよと突っ込まれそうだが、いや実際にこういう女性はいるのだ。私の母がそうだった、と言いたい。わはは。谷田部家は、稲作を縮小し、花作りにシフトしようとしているが、この時期の農村は実際何をやってもジリ貧である。三男や時子の兄は家を継いだが、ちよ子はもちろん、進も勉強のでき次第だが、この奥茨城の実家を継ぐことはないだろう。
警察のシーンでもそうだが、この脚本では、初期の頃は特に、まずはキレるが話していくなかで相手と共感をとり結び、最後には頭をさげてお願いする、という展開の台詞が多いように感じた。心地よかった。後半は、「えーっ」の連発に並んで、台詞のなかに「あれ」が多かった。
向島電器までは純粋に面白く見ていられたが、赤坂(茜坂)すずふり停に入ってからは、正直ダレた。救いは、向島電器の遺産。時子や永井愛子(和久井映見)。行き詰まると豊子や澄子を出してくれた。すずふり亭の娘を演じた由香(島崎遙香)は、最初は何だコイツという感じであったが、みね子と対照的な、欠かせない存在だった。安倍米店の娘さおり(米子)というのは、『女王の教室』に出ていた子役であった。見て、しばらくして気づいた。近いうち、兼平豊子(藤野涼子)か安倍米子(伊藤沙莉)は、朝ドラの主人公になるだろう。最低でもスピンオフは作られるだろう。
赤坂編では、ビートルズとインパール作戦とを搦めたあたりまでは期待できたが、身分違いの恋愛、マンガ家、新メニュー・新ユニフォームはほんとにダレた。母と娘の対立(母と娘とライバルなのだ。拙著第4章『洗礼』論をご参照ください)、その代理戦争的なみね子と世津子との対立は、結局描かれないまま終わった。向島電器で予告されていたはずの、警官対労働・学生運動の対立も、一九六八年の安保闘争も、描かれないまま終わった。社会派的な流れは全く消えたわけだ。ただし、作品は一九六七年を描いて終わっているのは、50年前という数字的なきりの良さを意識しているからであった。最後、裏庭では「50年後はどうなっているかな」なんて台詞もあった。
それにしても、よくも毎朝、桑田圭祐の歌声を聞き続けたものだ。テキトーなひどい歌だった。昨年は『とと姉ちゃん』をかなり見たが、宇多田ヒカルの歌が最高によかった。ミスチルはほんとうに嫌なので(むしろドラマの内容かな)、べっぴんさんも見なかった。次は松たかこらしいですね。しかしドラマ自体が、裕福な子供が逆境に陥って頑張る、っていういつもの話らしい。ばかげている。
国政に関わる事柄である。野田佳彦という馬鹿者が大失敗をして民主党政権をつぶしてしまったが、その更に上をいく前原誠司という小人物が民進党自体をつぶしてしまった。小池百合子という悪魔に乗っ取られたわけだ。
小池百合子という悪魔は、安倍晋三という悪魔にくらべて、どっちが上であろうか。分からないし、分かりたくもない(笑)。ただ一つ、救いのように思うのは、小池百合子はこれまで何一つ成し遂げたことはないということである。安倍は機密保護法、マイナンバー(国民総背番号制)、集団的自衛権の閣議決定、安保法制、共謀罪と、岸=安倍家の野望を確実に実現してきた恐るべき相手である。モリカケから集めた金もあるし、内閣人事局という官僚管理機構を持ち、NHKを初めテレビ局を押さえ、ネトウヨによる強いサポーターもいるが、小池には金も権力も組織もない。しがらみがない。小池の実績といえば「クールビズ」くらいではないか。女性初の防衛大臣ともいうが、任期は2ヶ月弱にすぎず、稲田朋美よりも実績がないのだ。豊洲問題も、オリンピックも、放り出す。金も組織も、あつまり様がないのだ。女性初の総理大臣は、たとえば細川護煕がそうであったように、一年も持たないのではないだろうか。
私は全く、「安倍を倒すためなら悪魔とでも手を結べ」なども含めて、小池に賛同する者ではない。小池は、実績もないが、能力も無く、ブレーンも手足も(ろくなやつらが)いない。(こんなやつ、なぜ人気があるのだろう?いや、金や権力ではなく、人気しかないのだ)
女性初の総理大臣は、自希公の大連立で成し遂げられるはずである。いわゆる野党は社共しか残っていないから、希維だけの連立内閣では過半数にならない。公明党と繋がる場合には、自民党もくっついてくるだろう。自民党内の非安倍勢力は、小池の軍門に下るだろう。この時、小池が悪魔の本性(原発推進派、極右思想、差別主義者、新自由主義、軍国主義)を、具体的な政策でどこまで実現できるか。自分で書いていて笑ってしまうが、ほとんど安倍が実現してしまっているのだ。小池は座りしままに喰らうのであろうか。(しかし、何を!?)
前原は、小池を使って今を切り抜け、いずれ改めて代表選をやったりすれば良い、主導権を取れる、と思っているのかもしれないが、そこまで長続きする政党とは、そもそも思われない。別の人間ならば、小池を使えるかもしれないが、単純すぎる前原には無理だろう。
かつて大連立構想は、福田・小沢の自民民主時代に、可能性があった。今思えば、あのときであれば、保守/中道、あるいは保守/リベラルの、対等な与野党再編が出来たかもしれない。今は、かなり右よりにだけなっていて、リベラル新党受け皿を立ち上げる人材が、まったく思いつかない。TVで見ていると、民進党の両院議員総会では前原案を最終的には満場一致で承認したのだそうだ。前原の隣に座っていた枝野幸男は、ニコニコしている。度胸も覚悟もない男なんだなと思う。
モリカケ問題で安倍一強が揺らぎ始める前、例えば今年の一月頃、少し希望(ああ使ってしまったね、この言葉)かなと思ったのは、自民党内での派閥の再編がすこしだけ進み、安倍の支持母体(いわゆる森派)の独走状態ではなくなりはじめた点にあった。大きくなりすぎると、分裂するわけである。同じ意味で、今、求められていて、明きがあるスタンス・ポジションは、リベラル新党受け皿である。社共ではなくて、この動きが作れさえすれば、小池のような悪魔の出番は無くなるのだろうに。枝野、長妻、辻元などは、なぜ分党しないのだろう。
タイトルは、民進党に火の雨が降った、ということである。日本全体が火の海に包まれないことを祈るばかりである。降らすのは、北朝鮮などではない。もはや北朝鮮がミサイル発射や核実験を選挙前にどれだけ行っても、安倍の支持率回復には繋がらないだろう。小池もまた、北朝鮮とは戦争しても良いと思っているからである。
[補記 2017-10-02 (Mon)]上の記事は28日の夜に書き、29日に後半を書き足してアップロードしたものである。上の『ひよっこ』の記事は、28日金曜日の放送分を見て書いて、そのままアップロードしている。28日のTVニュースで合流が報じられて、両院議員総会での枝野の顔などを見て、私はディスっている。前原の話だと、民進党はまるごと合流であり、また小池は「寛容な保守」だった。私も、「希望」の勝利を消極的に受け入れ(安倍の敗北を積極的に受け入れるために)、その上でなお小池の極右ぶりを忘れてはいけないというつもりで、上のアーティクルを書いた。しかし、この2日で話はすっかり変わってしまう。小池は「全員は受け入れない」、「受け入れの条件は、憲法改正と安保法制の賛成」だと言う。二十数年前「排除の論理」が流行語になったそうだが、当時TVを持っていなかったのと、保守政党の離合集散などに全く興味が無かったのとで、だれが排除されたのか実は今まで知らなかったが、旧民主党結成の際にさきがけの武村が排除されたのだそうですね。当時、興味が無かったのと同時に、「排除されたなんて被害者(いじめられっ子)みたいに言うのは、弱っちいなあ」と思う。政治家は社会的弱者ではあるまいに、と今も思う。
今朝のTVの論調では、自民党(特に小泉進次郎)からの小池批判がもっともらしく取り上げられ(出ても無責任、出なくても無責任。無責任のジレンマ)、小池の衆院立候補・都知事辞任に賛成しない国民が七割いて、側近と言われた若狭勝は小池は出ないし政権交代も今回は無いと発言するし(こいつは総理になりたい(だけ)の小池の足を引っ張っている。逆に言えば、こんなレベルの人間しか集まってこないのが小池新党である)、石破茂は小池の自民党との大連立はあり得ると宣伝するし、大阪の松井には「ここの三人は選挙に出ない」などと言われ、小池への風のピークは28日で、あとは収束していくだけかも知れない。あるいは、首班指名では「山口ナツオが良い」と公明を持ちあげた頃がピークか。しかし、いまや極右の本質は露呈した。アレテイア。小選挙区で、保守は極右と票を奪い合えあえば良い。思えば、前回の衆院選で絶滅したかに見えた極右勢力(次世代の石原系)が復活を狙っているだけなのかもしれない。(日本のこころに長島などがくっついている)。小池は主役気取りで、いさぎよく(笑)「排除します」なんて宣言してしまったから、反感と覚悟を生みだしたのだろう。人気の秘訣でもあろうけど、悪魔的女王様的体質が先走り過ぎたかな。
枝野は、すこし行動が遅かったような気がするが、一応間に合うタイミングで、新党結成の乗り出したようだ。当たり前ですよ。政治家生命をここで賭けなくてどうするよ。逆に言えば、このタイミングで民進党が割れるのがベストかも知れない。小池が騒ぐ前より、枝野が代表戦で勝つよりも、いま、小池に排除された後のほうが対立軸が鮮明になる。枝野新党は、どの程度、門戸を拡げることになるか分からないが、民進党が(離党者は別にして)希望合流を白紙撤回することなどなく、すこしでもあちらに魅力を感じる人間は、一旦出てってもらった方がよい(自分で出て行くんだから排除ではない)。共社との連携はやりつつも、非共産の枠組みで平和主義の護憲・立憲、格差是正と中流層の復活、原発ゼロなどを目指す。仕分けはもうしない。消費増税もしないほうが良い。
枝野がこの劇場の主役におどりでる。不可能ではないだろう。山本太郎とも(小沢は小池が好きらしい)、小林節や木村草太などの憲法学者、T・ピケティなどの経済学者、沢田研二や桑田圭祐・長渕剛(笑)などの歌手とも連携を拡げてほしい。
石川県の民進党は、いまのところ希望へ合流することになっているそうだが、連合石川は自治労も労金も総評系ではないのかな。路線撤回して枝野新党に推薦を出してほしい。
[補記 2017-10-05 (Thr)]TVは今のところ、急激に小池潰しに走っている。これは自共共闘に近い奇妙な現象である。他方、立憲民主党については、擁立が50人程度だという点で、まったくあきれてしまう。前原ほどではないにせよ、枝野もまた政治オンチだと思う。共産と合わせて三分の一を取る、という姿勢を見せなければならないのだ。本気であれば、100人を超える立候補者を立てねばならない。希望の側で小池が立候補するかしないか、と同じレベルの問題なのだ。つまり、都知事ほっぽり出しの批判を怖れて出ないとすれば、それは政権交代でも反安倍でもなく、大連立模索でしかないということ。同じように、立憲も、自らの政治生命ではなくて、日本のあり方(憲法九条)を守る視点で、戦わなければならんのだ。
しかし、希望は立憲民主党に刺客を送り込むが、立憲民主党は希望へは刺客を送らない。潔いとも言えるが、われわれ(これまでだめな民主党を応援してきた)の怒りを代弁してはいないと思う。
石川県では、三区とも希望の公認で出るらしい。田中美絵子さん、連合石川、民進党石川県支部などに抗議のメールを送ろうかと思ったが、メールアドレスがわからない(明記されていない)。電話番号は分かるが、さすがに迷惑だろうから掛けはしませんけれど。かわりに、福山哲郎事務所に応援メールを送りました。以下全文です。
福山哲郎事務所御中
石川県金沢市の美術大学で教員をしている高橋と申します。安倍政権の暴走と、
民進党のだらしなさ(人の良さ)に怒り、あきれていましたが、枝野さんがよ
うやくリベラル(保守)・左派・中道が安心して政治を託せる枠組み(非極右、
非共産)を立ててくれたと思って、安心しました。立憲民主党こそ、本来の民
主党の正当な後継者だと思っています。(単純に左派の受け皿ではない)
福山さんについては、安保法制の際の素晴らしい演説に、心底感動していまし
た。と同時に、民主党(民進党)の中には必ずしも本気で集団的自衛権を否定
しない人もいることをうすうす感じてはいました。
国際平和は戦争や威嚇では実現しません。国民の半数以上が、九条改憲を望ん
でいません。平和外交の力を信じているのです。そして、そのための国会議員
は絶対に必要です。
福山さんについては、あの演説以来、すごく良い印象を持っていました。今回、
立憲民主党への参加を表明されたことに対して、応援するために、勝手ながら
メールを送らせていただく次第です。
今日の速報では、幹事長就任らしいですね。枝野・福山コンビ。これは強力ですね。若狭・細野コンビの間抜けぶりとちがう。どんどんTVに出てほしいですね!
[補記 2017-10-06 (Fri)]TVで、福山が枝野と握手をし、「すっげえスッキリした」と、いい表情で語っていた。福山は、こういう明るさが良いし絵になる。そして溜飲が下がる。国民が見たいのは(期待したい、尊敬したいのは)、こういう政治家である。
小池百合子は昨日、前原と面談して、その後記者団の前で「ラブコール」いただいたが出馬はしないと明言した。新聞などでも、(安倍退陣の上で)自民との連携模索、のように書いている。僕は、出馬の可能性(サプライズ)はまだあると思っている。むしろ、好機は熟してきた(熟してしまった)とも思う。小池は緑のタヌキというあだなが与えられているが、他方でAIとも言われている。世間の風をアンケートなどビッグデータで読むというわけである。今回の出馬見送り論は、JXとかいう会社の七〇パーセントが都政投げだしはけしからんというアンケート結果によって始まったものであった。が、AI的なあり方は小池の一面であり、もう一面のほうがより強い小池を作り出したものである。それは予測を無視した勝負勘であり、前後の論理性の無さ。すなわち「偽ナルモノの力能」である。リゾームがイスラム国の版図であるように、偽ナルモノの力能もまた(G・ドゥルーズの概念である)、左翼的・革命的な自由への運動原理というよりは、ネオリベ&独裁的な(左翼革命とも親和的でもあるが)ものへと姿を変えて最も活動しているというわけである。
どういうことかと言うと、論理的に考えれば出馬はもはや一〇〇パーセントあり得ない。にも関わらず、平気でウソをつき、一〇日に出ますと発表するとすれば、どうなるか。世間から強くバッシングされて、どんどん票を落としていくだろうか。私はそうは思わない。TVはサプライズに飛びつき、批判がそのまま肯定に転じてしまう。タイミング的にも、判官贔屓的に、いまの小池たたきはもっとも良い。そもそも小池がAIではない点として第一に挙げるべきは、昨年の都知事選挙に出馬した時のことで、これを思い出してみるだけでよい。あの段階では、少なくとも私は、いまさら小池百合子に何が出来るとたかをくくっていたのである。私一人ではないだろう。アンケートをとってみて、出馬宣言以前、小池百合子が都知事に相応しいと考えた人が国民に何パーセントいただろうか。蓮ほうという話はあったが、小池はなかったはずだ。しかし、小池は政治生命を賭けたのだ。敵失(鳥越)もあるにせよ、勝ったのだ。10日に、ご批判は承知で出ます。私が総理候補でどうですか?それを国民に問います。そう言えば、あとはTVが劇場を作ってくれるだろう。主役は、居ることで十分であって、演技自体は問われないのだ。相手は安倍だから、勝てるわけである。
小池百合子のこの「潔さ」「明快さ」に対抗できるのは、理念としての立憲主義ではない。福山哲郎の「ずっげえすっきりした」という国民感情の代弁である。枝野は、安倍と小池とに内容では全く負ける可能性は無い。今少し足りないのは、この福山的な明るさである。
[補記 2017-10-10 (Tue)]本日が公示日で、実際、本当に小池百合子の立候補はなさそうである。そして、希望の党への支持もすっかり落ちている。それは良かったと思っていられないのは、立憲民主党が60人くらいしか立候補していないことである。共産党合わせても、三分の一が取れないことがもはやはっきりしたのである。これは愕然とせざるを得ないし、国民への裏切りだと思う。下手をすれば、安倍続投と成ってしまう。
[補記 2017-10-29 (Sun)]衆議院選挙から1週間が経った。結果は、安倍の勝利で終わった。翌日月曜日(23日)の自民党の幹部会などでは、喜びの表情はなく神妙にしており、みなみな言葉使いも「謙虚に」で一致していた。(その後、水曜だが木曜日頃、麻生太郎が「(勝てたのは)北朝鮮のおかげ」と発言する。麻生太郎はほんとに爆笑させてくれる。僕はほんとうに、麻生太郎が総理大臣だったらもっと愉快なのになと思う。鳩山一郎の宇宙人ぶりと比べても断然勝っていると思う)。 安倍さん、まだやんのか……とは、自民党内でも思っているはずだ(笑)。
野党第一党が立憲民主党になったのは、ちょっとした瓢箪から駒であったろう。もともと怖れていたような、自希公維の大連立(この場合、小池百合子首相)でも、あるいは自公政権(安倍続投)と野党第一党希望(小池党首)という見せかけの対立でも、なくなったのである。それらは憲法改正(九条改正)まっしぐらであった。立憲民主党は、九条改悪に明確に反対(自衛隊の明記に反対)である。旧民進党は先の福山事務所へのメールにも書いたように(そうそう、福山事務所から応援有り難うの返事メールが来ました。わざわざごくろうさま!)、右から左までいて、わけが分からないのですが、私の父親に言わせれば、「自民党から出馬できなかった人が、民主党から出ただけの話」なのだそうだから、むべなるかなである。旧民進党は今のところ四つに分かれたと言われている。希望、参院民進、無所属、立憲民主である。毎日新聞社による今回の当選者へのアンケートがあって、そのサイトを見ると、九条をどうするかについて意見を表明している。一人一人分かる、大変良いサイトである。九条に自衛隊を位置づけ制限を明記すべきだ、という項目があるらしく、これは積極的に自衛隊を認める立場と、集団的自衛権を認めさせないとか、あるいはいわゆる左折改憲論まで含む、少し広い選択肢ではあるが、枝野などは「認めない」と答えている。
菊田真紀子や山尾志織などは、明記すべきだと回答していることが分かる。
旧民進の後始末としては、右派の受け皿が必要である。こぞって立憲民主党にまいもどってこられても困るからだ。長島や松原仁、立憲とは一緒になりそうもない連中は、戻ってくるはずもないので、私が心配するには及ぶまい。一番良いのは、若狭勝のように落選して引退してくれることだが、いわゆる「実力者」がけっこう居て、扱いに困る。野田佳彦とかがそうである。前原を典型とする反共的な中道右派などは、これからどうするのだろうか。希望は民主・民進時代の左右雑居を未だに維持しているわけだ。このまま続いてくれれば問題ないが、早晩解体するだろうから。
野党第一党が、九条改正を認めない立場の立憲民主党が占めたことは、良かったと思う。同時に、希望の失速振りには笑うしかないほどだが、七割がもはや安保法制反対だという。踏み絵を踏み抜いてしまっている(笑)。わが石川県の近藤和也などもその一人だ(あはは。頑張れ!)。維新も前ほどの影響力は無く、そもそも強烈な改憲主義者でもなかったようだし、日本のこころなどという自民党の野良犬みたいな連中も居なくなって、野党の側には積極的な改憲勢力がすっかりいなくなってしまっているのである。数ではまだまだ随分少ないが、十分に戦える体制になったように思う。国会での論戦が始まれば、共産党や社民党も併せてだが、立憲などの連中のほうが、おそらくはるかに弁が立つはずで、国民の半数より少し多いはずの、憲法九条をこのまま残してほしいという声を、力強いものにしていくことができるだろう。たとえ、国会発議が国会を通っても、国民投票でどうどうと受けて立ちましょう。
2017年2月11日付けのメモを、後期の授業開始にあたって、転記しておきます。
文学2のレポートの結果が、近年あまりにひどい。かつては、私もおどろく程のレポートがごろごろしていたのだが、最近では皆無に等しく(ゼロではない)、今年はとうとうヤフー知恵袋にまで出てしまった。「日本文学における常なるものの系譜について教えてください」。授業を受けていない人には、この問いの意味がまず分からないでしょう。しかし、その学生はそんなことも分かっていないし、他方、私としても屈辱である。
無常でネット検索を掛け、方丈記や徒然草をサイトからコピペしておわり、というレポートが(出典サイト名も明記せず)5〜6本あって、これらは出席数に関わらずD(不合格)とした。
ネットを使って調べる事自体は悪いことではないから、これを禁止するのはばかげている。しかし、授業の配布史料だけで十分にレポートは書けるのだ。
私が作った模範解答をネットにあげて、これを手書きしたらCを保証する、という方法を思いついた。本学のモットー「手で考える」の最も退廃した姿である。しかし案外いい方法ではないだろうか。そして、現実問題そんな学生だらけになってきているのだ。「考えて」いるかどうかはともかく、ある種の修行ではあるし。
このことを、レポートが難しかったといっていた油画の伊藤さんに言ったところ、「先生、それをやってはいけないと思います。それはだめです。自分で考えさせなくてはだめです。」と言っていた。こういう学生がいるかぎり、私は教育の可能性を信じようと思った。ソドムとゴモラに火を降らせるのはやめた次第である。
転記はここまでである。文学2では、「無常」をキーワードに古典文学を概観している。無常(観)は中世の仏教的世界観のように思われがちであるが、「常なるもの」を求める古今東西に普遍的な人間のあり方で、伊勢物語から始めて、古代・中世・近世と散文や韻文を概観しつつ、私の専門の気質物浮世草子をこの文脈で読み、とりあえずはもののあわれ論まで教える、みたいな感じの講義です。
今日、共謀罪が衆議院を通過するそうだが、NHKは国会中継をしないらしい。国民のうち賛成している人の幾パーセントかは、おかみにたてつくような輩は計画段階で集めて虐殺してよい、と考えているようである。羊の群れはいずれ悪夢を見ることになる。もちろんそれは夢では済まない。
結局イラクには大量破壊兵器が無かったということを忘れてはいけない。あのときと全く同じシナリオである。
この事に関してだけは、公言しておきたいと思う。
世相的には嫌なことばっかりつづきますが、このたび非常に嬉しく楽しいイベントが出来ました。星野先生はもちろん、参加された方々、ありがとうございました。 芸宿(げいしゅく。代表・別府くん)にも感謝です。聞き手(発案者兼)として、事前に台本として書いたダラダラした秘密のメモと、それを当日配布用に簡略に(A3一枚程度)にまとめたものと、希望者が多数でしたので(本当です!)、アップロードしておきます。たしかに少しは役に立つかもしれません。べたなテキストファイル(SHIFT-JIS)です。
台本(長文。私の感想など書かいてある版
御本は、明晰で素晴らしい研究です!
8年前、オバマが世界に抱かせた期待と、8年後の今、世界平和も格差是正も期待外れであった現実とを照らし合わせてみるならば、今回のアメリカ大統領選挙の結果に関して、何一つ希望を持てないことは言うまでもない。バーニー・サンダースの
知性主義の欺瞞。以前の息子ブッシュの頃もそうだったが、頭の良いまともな人間と、教養のない愚かな人間との対比は、思考し判断する能力の有無ではなくて、裕福か貧乏かの区別に対応している。この対立に基づく限り、いくら知性の回復を訴えても効果はない。中流層の復活だけが、世界平和への希望であるが、それこそが焦点である。
相模原で起きた障がい者施設での大量殺人事件は、戦後最大級の殺人事件であるということのみならず、人の命に対する挑戦的な侮蔑であって、言語を絶するものがある。こうした優生思想はまさしく「ナチの手口に学んだもの」(麻生太郎)、「いつまで生きているつもりか」(麻生太郎)である。加えて、ここにも社会の貧困などに起因する諸問題が絡んでいるとは思うが、同時に、この事件は未然に防げたのではないか、という思いも強く残る。出した手紙を読む限り、ナチ的なこの犯人は確信犯であり、大島衆院議長宛に犯行予告を出しており、警察もこれを完全に把握していたはずなのだ。
予防的な過剰警備は、時に暴走し、思想犯などをさしたる理由もなく逮捕したりする。ゆえに私はそういうあり方には反対であるが、しかしこんな事件が起きると、予防も防犯カメラも必要だと思わされる。こうした、情報管理社会をどう受け止めるべきなのだろうか。
先日、DVDを買って30年ぶりに『未来世紀ブラジル』を見た。二十世紀の未来が舞台で、情報管理社会で、かつ経済格差が拡大しているが、同時に移民排斥などを背景として、テロが横行している。東西冷戦時代の作品でありながら、むしろ今日的(イラク戦争後)な状況が舞台である。この作品から改めて気づかされたのは、情報管理によってテロは根絶できない、という視点である。
思想調査や行動の管理などを強化しても、実際の運用は恣意的であって、今回のような、野放し状態の凶悪犯がいなくなるわけではないのだ。
人の命を軽く見るようなあらゆる思想を、私は支持することはありません。そして、この度の惨劇によって命を落とされた方のご冥福を祈り、ご遺族の方々に弔意を表します。怪我を負わされた方の一日も早い回復を祈ります。
政治ネタはもうおよそ書く気が(書ける気が)しないほどげんなりしていた。数日前の報道では、三分の二超えは確実という。参院選では争点を隠し、国会が始まったとたん昨年の如きものすごい勢いとなりふり構わない暴挙で憲法改正を通していくのだろうことが目に見えるようだ。国民投票の過半数を取らせるために様々な策略も練られているのだろう。
いまテレビは見ていないのだが、「野党統一候補になるのだったら立候補する」という会見らしい。そして、「他に野党統一候補が出るなら、応援する」というものでもあるらしい。石田純一ならば、小池百合子に勝てる(増田なんちゃらなんて誰も知らない)。
そして、二日前とぎりぎりだが、このタイミングで、野党共闘の最大の宣伝をしている。すこし智恵の回る人間なら思いつくアイディアでもあるが、実際にこれが出来る人間はきわめて数が限られている。
石田純一さん。あなたはもしかしたら、戦後日本の最大の危機を救う大英雄になるかもしれません。断固支持します。
(ps. 宇都宮けんじと民進党右派は、とっとと引っ込んでください。まったく信用しておりません)
2016-07-11 補記:結局三分の二は超えてしまったが、民進党が30議席を超え、一人区の野党共闘も11勝して岡田代表即自退任はなくなった(岡田は安倍内閣での憲法改正総てと、9条の改正自体と、それぞれ拒否している)。最悪のシナリオではなかった(民進党が惨敗して民主党として出直す、というシナリオも捨て難かったけど)。参院選に対する石田純一の影響力は殆どなかったのかもしれない。民進党は現在石田と古賀との間で調整しており、今日午前中には決定するようだ。マスコミやネット上では、早速石田潰しが始まっているが、TV出演やCMの違約金の増大を宣伝しているようだ。石田純一が都知事をやり古賀が副知事をやれば良い。
2016-07-11(11時半) 補記:現時点で、石田純一の出馬見送りがネットニュースで報じられている。本日中に不出馬の記者会見をするらしい。古賀茂明が統一候補となり石田純一が応援に回れば、すこしは勝ち目もあるかもしれないが、れんほう、いしだと二つ続けて勝てる勝負を失ってしまった。
それから。参院選が終わったとたん、「争点はアベノミクス」と言っていた官邸もマスコミも、憲法改正を云々し始めたが、だまし討ちも何も、これが今までの官邸・政府・与党のやり方だ。去年だって、安保法制だって大丈夫です、戦争にはなりませんからと言ってたくせに、安保法制が参議院の委員会を通過したとたん「戦後日本の大きな政策転換!」とテロップが出ましたからね!
ここ10年くらいで、日本育英会の奨学金も原則全額返金という制度になった。むかしは、教員になると返却免除されるという制度があって、私もそのくちなのだが、私は600万円くらいもらっていて、それを免除されているのだ。
なんてありがたいことだ。私はしっかり教員をやらねばならないなあ、と思う。
今のように、原則全額返金となれば、勉強は自分の力だけでやってきたのだ!ということにしかならないと思う。若者の育て方として、間違っているよね。
総理大臣は、かなり本気モードで憲法改正を狙っているようである。
日本国憲法をGHQによる押し付けだと言い、自主憲法の制定を!と自民党は言うが、この自主憲法制定を!という要求じたいがアメリカの押し付けであることを、いま改めて確認しておきたい。
丸山真男「憲法第9条についての若干の考察」を読むとそのことがよく分かるが、まあ普通の客観的事実を指摘しているだけだから、読まなくても分かるはずのことなのだ。浅田彰も、平和憲法を日本に与えたのはアメリカの誤りだった。アメリカは失敗したのだ、という発言をしているが(世界の終わりを超えて。柄谷行人との対談)、この裏付けも同じである。
1953年11月に、ニクソン副大統領が来日して、そういう発言をしているのである。アメリカは、東アジア戦略の変更に絡んで、日本の位置を変えたのである。
自国を守るには独自の軍備が必要だ、という理屈に関しても、
最終講義というのは一種の葬式(生前葬)だなと感じた。それは自分の人生を自分が振り返るものであるから、あんまりかっこよすぎるのもどうかと思うが、かといって日常的なべたべたなのも、つまり普段の授業通りという感じのだらしなくカッコ悪いのもどうかと思われる。2月20日に行われた、ある最終講義は、K先生の31年の学究生活を反映した、先生に相応しいものであった。私はK先生の存在に強い影響を受け、因縁もあるが最終的にはお世話になったという御礼の思いが強いので、これを記念して自分のサイトに気づいたことを書いておこうと思う。
私の「人間と文化」は版本書誌学の実習と近世出版史の講義からなる授業である。和本トリビアや江戸時代の古い話が中心だが、実は現代とあまり変わらない問題がさまざまあって、現代もその反復にすぎないことを理解してほしいと思っている。特にここ数年は、「表現の自由」という問題に派生的に触れることが多く、むかしも今もあまりかわらないように思うのだが、今、テストを採点していて、記述式の課題のうち「その他、特に授業で触れたこと」という選択肢で、次のような解答があった。
全員がこのレベルですぱっと分かってくれていると、私は嬉しい。(なお、思考も大事ですね)
あけましておめでとうございます。2015年はいろいろショックなことがありすぎて、どうでもいいつまらない話にはもうコメントしないことにしてきたら、それでも、沢山言いたいことがたまってしまった。
報道ステーションの後任は、富川アナに決まったらしいですね。彼がどこまでがんばれるかな。古舘は、個人的には好きでなかったが、ほんとうによくがんばったと思う。しかし、政治状況は、全く好転する兆しはみえませんね。北朝鮮の水爆実験だそうですが、やつは安倍総理の手下なのでしょうか。(体質が似ているのかも)
ちょっと今、極度に忙しくて、あれこれ余裕に浸っている暇はないのだが、学生が遅れたレポートを持ってくると言っているので、研究室で待っているのだが、まだ持ってこない。以上、その暇に書きました。
今年は良い年でありますように!
「心の哲学」などというと、優しさとは?とか理性と感性とは?とか考えるのかと思いそうだが、この英米系の哲学は極めて歪んだ人間性を露呈したものであって(笑)、世界は私の見ている妄想ではないことはどう証明できるか(できない)、とか、彼が心を持たないゾンビやロボットでない証明はできるか(できない)、みたいな、ともかく狂っているとしか言いようがないものなのだが、こういう屁理屈をこねることが頭が良いことだと勘違いしているようなふしがある。つまり、やつらは実際にはそんな問いに心を悩ましてはいないのだ。こんなことを思いついて悩めてるおれってかっこいい的なやつにすぎないのだ。
「心の哲学」には、私は私の表象の世界から脱出できるか、という問いが根源に有る。ベルクソン『物質と記憶』は、こうした風潮以前(ウィトゲンシュタイン以前)に書かれたものだが、こうした風潮を敵として書かれたものだと言って良い。ベルクソンはよく常識人だというような誉め(?)方がされるが、間違えてはいけないのは、凡庸な常識人ではなくて、過激な常識人だということである。『物質と記憶』第1章には、内的な表象と外的な実在の間をとって、「イメージ(image)」というアイディアがある。それは、世界は私に見えたまま実在する、という常識的な立場である。ベルクソン以後に現れる現象学のような、意識一元論とも異なるものである(現象学は、外界の実在を判断中止=エポケーすることで逆説的に認めている。無視を宣言することは、相手の存在を認めていることなのだ、という構造。その後、これまで通りの観念論を心置きなく展開するのが、現象学の方法であろう)。
『物質と記憶』第3章に「無意識的表象(unconscious representation)」という言葉が出てくる。これが、独我論とも現象学とも違った、ベルクソンの天才性を表す概念である。現象学者は、世界は私の表象に過ぎないことを受入れますと言う凡庸なものであり、心の哲学(独我論)の連中は、世界は私の表象でしかないのでは?!とおののいて見せる非常識なものだが、ベルクソンの「常識」は、もっとさらに非常識な結論を呼び寄せるものだ。無意識的表象とは、私に見えていないものまで実は私は見ているのだ!ということである。つまり、「世界は私が見えているだけのものかもしれない!世界は実在していないかもしれない!」とおののくやつらをむこうに回して、「世界は実在している!なぜって、私には、私が見えていないものさえ、見えているのだから!」と言って見せているのだ。無意識的表象とは、すべてのイメージは、私のイメージでなくとも私の表象なのだ、という意味である。
ベルクソンの知覚理論は、五感に与えられた感覚与件を悟性や理性で統覚・判断するといったカント=朱子学的なものではなくて、知覚とは、対象に対して何をなしうるかという関係に入ること、可能的行動の尺度である、という陽明学的なものであるが、それは即ち、知覚の対象とならないもの(暗い闇中に置いたままにされた対象)を無意識対象と呼ぶのだが、それは、私の視界に入っていたかどうかはもはや関係ないのだ。
ベルクソンは、世界の実在の信憑性をヒュームとは違ったかたちで与えようとした。世界の実在の因果性を恒常的連接と呼んだヒュームと、家族的類似と呼んだウィトゲンシュタインとは、似ている(家族的に)。
昨日、学校でハラスメント講習会があって、そこでもやはり「怒りは二次的感情だ」という説が紹介されていました。
講習会はパワハラ防止のためですから、怒りをコントロールする(上手に抑える)のは良い事だ、ほうっておくと爆発する、という話でしたが、僕が個人的にもっとも不思議に思うのは、現在の日本の政治状況のテキトーさに対して、それに見合うだけの怒りがまったく醸成されていないようにみえることです。つまり、爆発しないように怒りを消す方法がどこかにあるのです。
夜飲み会のあとで、大谷先生が「アンガーマネージメントなんていうのは、怒りをおさえるなんていうのは、ぜったいおかしい。怒っていいんだ。怒りの感情が生命の進化の過程で無くなっていないということは、必要で有効な感情なんだ」と言っていて、なるほどと納得させられた。
ドゥルーズによるヒューム論で示唆的な(いつも私が書いている)、社会の害悪は利己主義よりも狭い共感である、共感は拡大されねばならない、という説とパラレルのように思う。怒りは、狭い対象に対する怒りは害毒にしかならないが、それが拡大される時には、有効なエネルギーになる。
本日、北陸中日新聞には斎藤美奈子による明快な左折改憲批判が出ていた。断固支持。パチパチ。
「世に倦む日々」というブログ・ツイッターがあり、9・19のショックからあれこれサイトを見たりしていた中で初めて見付けたのだが、非常に示唆的である。左側からの改憲の動きをいちやはく批判していた。なお、丸山真男をちゃんと読んで見ようという私の動機は、じつはこのサイトの影響である。
浅田彰×柄谷行人「歴史の終りを超えて」でも、憲法9条の哲学的意義が語られていた。護憲=古い、という図式が、右派(極右)によって作られた印象に過ぎないのだ。のだが、そうでないことを学者は言語化せねばならない。この夏、憲法学者はずいぶん頑張ってくれたと思うが、違憲か合憲かのレベルでのみ、議論が終わっていた感がある。
安倍総理は、来年の夏、衆参同時選挙を行い、三分の二をとって憲法改正にまで行きたいらしい。9条改正よりさきに、緊急事態条項を先に加憲するとか言っているようだが、これこそナチの手口である。憲法停止・戒厳令である。民主主義のセキュリティーホールである。
前回の続き。脱構築が教える「正義」と同じく、「他者」も近い関係にある言葉である。理解(包摂)不可能な対象としての他者、というわけだ。しかし、その他者観は、他者を大切にすることには育たず、対立を正当化するにとどまってしまっている。この他者観は、対象を無時間的に捉えるから生じるものではないだろうか、と思う。そうではなく、他者を時間性において捉えるならば、それは理解可能になるのではないだろうか。泳げるか泳げないかあれこれ言わずまず水につかってみるように、ゆっくりと話し出せばいつか分かるときがくるのではないだろうか。それに対して、脱構築は、ここぞとばかりに反撃してくる。そういう理解観自体が暴力なのだ、と。
ドゥルーズは、脱構築の人ではないな、と改めて思う。ドゥルーズは犬や猫のような、人間にすり寄ってくる動物が嫌いなのだそうだ。動物を人間的に理解するのが嫌いなのだそうだ。それに対して、クモやダニやシラミが好きなのは、彼らは彼らの世界を持っているから、だそうだ。批判されるべき暴力は、そういう「世界」を否定する力のあり方をいうのであろう。「動物になる」とは、人間的ではない関係の結びかたをいうのである。
脱構築にまじめに付き合ってしまうと、他者同士が話し合ったあげく意見が一致したりすることを、否定しなければならなくなってしまう。盥のお湯と一緒に赤ん坊も流してしまう、というやつである。しかし、脱構築は恐らくここぞとばかりに反撃してくるだろう。人間化した関係と動物的な関係とを区別するいかなる方法も私たちは持ち合わせていないのです、などと。
「解釈は事前には確定されないが、事後には一つに決まることがある。記号学やテクスト理論は、この事前と事後という区別を持たない。」(拙著『楳図かずお論』312頁)この部分は、脱構築批判として読みかえたほうが良いな。
前のアーティクルを書いて、もう一ヶ月が経つのか……。
この夏、「立憲主義」というものがいかに大切なのか、ということを思い知らされ、実際去年(一昨年?)あたりから、「憲法は、権力を縛るものだ。これが立憲主義だ」などという説を聞いて、ほうなるほど、などと思っていたが、正直言うと、僕はそうは習ってこなかったのだ。立憲君主制は絶対王政に対抗する手段ではあるが、国民主権と同レベルにあって、すでに憲法を守るのは君主だけではなく、国民もどうようである、と理解してきた。また、明治憲法のような欽定憲法というものもあって、これは、君主が自らを既定はしていても、やっぱり国民の義務や権利が明記されているものである。「あたらしい憲法の話」にもあるように、12条にもあるように、国民の義務や権利や自由は不断の努力によってこれを保持しなければならないものなのだろうと思う。「立憲主義とは、権力を縛るもの」という理解は、やっぱりちょっと一面的ではないのか。そして根本にあるのは、描かれた理想をきちんと守ろうとすることである。
反知性主義という言葉も流行語のようだ。去年か今年か、この言葉も、へんだなとは思っていた。山形浩生氏が、内田樹氏の用法に対して、意を唱えているようである。内輪もめはしたくないが、私自身、内田氏の使い方には疑問がある。山形氏は英語が専門の人だからか、ホフスタッターを論拠として内田批判をしているが、本サイトでも何度も書いているように、英語圏ではC・S・パース、W・ジェームスのプラグラティズム、M・ポランニーの暗黙知、フランス語圏ではH・ベルクソンの知覚-運動機構、M・メルロ・ポンティの現象学的知覚論、など、いずれも反知性主義である。ふつうは、反―主知主義と呼んできた。これは普遍的なあり方の一つで、それ自体、良いとも悪いとも言えないものだ。この実例として、私などに最も分かりやすいのが、朱子学の先知後行説と陽明学の知行合一説の違いである。知ることによって行うことが出来るのであって、正しく知ることを最も重視する朱子学に対して、知ることと行うこととは一つであるとする陽明学である。陽明学の反―主知主義と、吉田松陰や三島由紀夫のような過激派を生み出すこととは、無関係ではない。しかし、知偏重の主知主義に対して如何に反論するかが、近代哲学の課題でもあったのだ。
ふたつの話は一つになる。憲法解釈は、与えられたものではなくて、行動することの中で意味を持つということだ。行動を手放せば、悪い人に解釈を牛耳られてしまう。そしていまがそれだ、ということである。丸山真男が言っていた、「である」でなく「する」が大事ということだ。
一週間くらい前の北陸中日新聞(東京新聞)の「こちら特報部」に、9条を変えて自衛隊と個別的自衛権を明記すべきだ、というような記事が載っていた。
バカか!愚かな!
正直、十年くらい前、僕もやけになって「9条9条と、9条に固執してたから負けたのだ!」くらい思っていた時期もあったのが、その後認識を改めた。人類の希望として、9条がいかに大切かは、先にも書いた。「(130) 未来に希望をもつことについて」。「特報部」は恐ろしいことを書いていることに気づいているのか。文言を直せばOKという考えがだめなのだ。また、直された文言は、戦争を認める立場であって、ふつうのこれまでの改憲論者と同じ主張だということに気づいていないのがダメなのだ。
最近突然、かっこいいヒーローものの映画なりマンガなりを作りたくなっている。主人公は武器を持たないが、丸腰なのに、めっちゃくちゃ強いのだ。賢いが、超能力を持つでもない。武器を持った狡賢いやつらから狙われ、襲われるが、そいつらを倒す。しかし、なぜ彼はそんなに賢くて強いのか。その誕生の秘密を、希望として描くヒーローものである。もちろん、痛快娯楽作品である。
脱構築は、正義というものを基準づけることは出来ない、と教えて来た。脱構築の前には、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する立場は、独りよがりな自己中心主義、虚妄として映るだろう。しかし、脱構築もまた、ある種の主知主義である。正義という瞬間状態を想定して、それを脱構築しているにすぎないだろう。正義は、希求する(しつづける)ものであって、話し合うことによって、どちらがより正義であるか、そういう議論を可能にするだろう。
世の中上手くいかないことばかりでほんとうに滅入る。仕事にならない。不安でうつ病になってしまう人が、案外おおいのではないか。勝てた筈の試合を、みすみす落としてしまう。この落胆。サッカーやラグビーの話ではない。
安保法制に関連して、いくつか確認しておこうと思う。まず、
)[問題として。集団的自衛権の行使容認は憲法違反であること。集団的自衛権とは、先制攻撃の口実を作るものであって、専守防衛に反する。また、憲法違反とはたんてきに立憲主義への挑戦であって、それではもはや近代国家のていをなさない。
∧儔修垢觚充造旅餾歉霎の問題として。中国や北朝鮮の脅威に対しては、個別的自衛権で十分に対応できる。ただしこの場合、専守防衛が大前提である。
さて、そうなると、国民のうちの一部には、「戦争をしてもよい」「戦争できる国になってほしい」と思っている人々が現実にけっこういるのだろう。この事は、大学の先輩の新聞記者(デスク)がメールのやりとりでそう書いていた。この現実は、法案通過後、世論調査では法制への賛成が若干増えていることにも反映されているだろう。
安倍内閣の命も安保法案までだと軽くいなしてきたが、あれだけの暴挙をやっておきながら、今一つ内閣支持率が下がらないのは(40%→35%)、どういうわけなのだろうか。来年夏の参院選挙、そしていつ仕掛けてくるかわからない衆院選挙で、首相は、憲法改正も争点だと明言している。同時に、経済の再生や福祉充実などを第1の争点にあげている。私には見え透いたうそにしか思えないが、だまされたい人も多いのだろう。
参院本会議で、ひとり牛歩戦術を行い、葬式のパフォーマンスをした山本太郎が、参院議長から厳重注意を受けたそうである。山本議員本人も陳謝したらしい。私は言いたい。山本太郎、あなたはよく頑張った。あなたの言うとおりだ。誉めてあげたい。
ざ産党が、民主党に選挙協力を呼びかけている。たいへん良い事だと歓迎する。以下は、要点だけ記して置こう。
民主党の中には、集団的自衛権の行使を容認したい勢力が一定以上いる。この勢力をあぶり出す必要がある。前原や細野や野田などは、ほんとうは法案が通って嬉しいのではないだろうか。さて、共産党は、表玄関から民主党と協議するのではなく、勝手連でやるほうが本格的で有力な戦術となるだろう。落選運動の方針で、民主党の候補者にアンケートを配り、集団的自衛権の行使容認に反対の候補者の区では、対抗馬を出さない。そういうリストを作成して、民主党に渡せば良いだけだ。しかし、逆の場合、つまり民主党支持者が共産党の候補者に票を入れる、などという事態を共産党が期待すとしたら、それはぜったい間違っている。むりだ。
また、志位委員長は「国民連合政府を!」などと言っているが、実際は本気ではないはずだ。共産党はあくまで「確かな野党」であって、政権担当能力は無い。民主党政権から連立離脱した社民党以上に、政権には向かないのだ。だから、首班指名の時に、民主党党首なりに勝手に入れれば良いのだ。あとは閣外協力で、新政権が集団的自衛権の行使容認の閣議決定を撤回するのを見届けること。かつ、集団的自衛権を認めない内容の「安保関連法案」の再検討・修正に入ればいいのだ。「確かな野党」として、民主党を批判・チェックしていけば良いのだ。ていうか、政権を取らず万年野党でいることが彼らの延命を可能にする、彼らの党利党略なのだ。そして今、彼らに追い風が吹いている。ただしそれは安倍内閣をさらに利する風である。
そもそも共産党は、非同盟中立と言っていた。旧社会党の非武装中立とは違うのである。自衛隊を解散して、あらたな民主的な国民自衛軍みたいなものを作る、といっていた(今では自衛隊の存在は一定認めている)。
実家の父親とも話したが、共産党は社会党と協力関係があった七〇年代まででも、自分の得になるときしか協力していないのだそうだ。今回、民主党に呼びかけて、民主党が最終的に断ったとして、共産党のメンツは立つ。しかし、民主党だけが悪者で、共産党は頑張っていて、というストーリーで一番得をするのは、安倍首相である。共産党は自民党の補完勢力だと父が言っていたが、そうならないことを強く望む。父は、民主党ってのは自民党から(選挙に)出られなかった連中なんだ、とも言っていた(ただし、1回で見限らず育てて行かなくてはならない、とも言っていた)。寄せ集めでもあり、自ら変われる力はない。生活の党のような左翼勢力ではないが、これは利点でもある。共産党は、自分の得ではなく、ほんきで閣議決定の撤回と法案撤廃を可能にする方法を歩んでほしい。両党の間をつなげられるのは、たとえば小林節のような大物ではないだろうか。小沢一郎、小泉純一郎とならんでだが、私が小林節を頼りにする時代がきたとは驚くべきことである。ははは(力無い笑い)。
ゥ螢船磧璽鼻Ε◆璽潺董璽検▲献腑札奸Ε淵い箸い辰織▲瓮螢の年次報告書で日本に要求を突きつけてくる連中の本を、ちょっとしっかり読んでみようと思う。山本太郎が言うように、安保法制およびその説明対象(ホルムズ海峡封鎖、中国の脅威)などは、まさしく完全コピーなのだ。共和党・民主党に関係なく、(東アジア)日本対策の専門家である。このジャパンハンドラーの子分にあたる人間に、マイケル・オースリン、デビッド・アッシャーといった名前があることを今回知った。オースリンは、集団的自衛権を利用して、イスラム国空爆後の治安維持活動を日本の自衛隊にやってほしい、と言っている。イラクで証明されたように空爆は相手(一般市民も)を殺すだけだが、治安維持活動では自国軍の兵隊も数多く死ぬのである。アッシャーは、安保法制をテコにして、南沙諸島で中国と日本とが軽微な軍事衝突を起してほしい、と言っている。アメリカがここに介入する口実を作ってほしい、ということなのだ。このインタビューは、昨年12月の報道ステーションが放送している(ネットで映像が見られる)。彼らは、恐ろしいことを簡単に口にするが、しかし彼らの言うことを唯々諾々と実行しようとする安倍政権は、もっと恐ろしい。
アメリカには彼らのような「知日派」がいるとして、日本の学者や研究所は、なぜこうもアメリカべったりなのか。日本の知力の衰えもまた、アメリカ年次報告書の思惑通りである。
高校生の頃、『ワイルド7』の最終話「魔像の十字路」を読んだ。ソ連脅威論を背景に、秘熊首相という独裁者が現れるのだ。草波はワイルドを権力側に売り渡し(たようにみせかけ)、草波も飛葉もそれぞれ絶望的な戦いに挑むのだ。当時から最近までずっと、こんな悲惨な事態は日本にはまずおこらないなと思っていたが、そうでもなかったのだなと思う。
あんまりすっきりしないが、ともかく、自分の仕事にもどろうと思う。
高校・大学ときわめて親しかった、大好きだった、同級生・修一くんは、大学3年の際に訳あって絶交し(笑)たが、一昨年、私は都合で欠席したものの高校の同窓会が開かれ(我々の学年が幹事だったらしい)、友人を通じて、メールのやりとりを何度かするようになった。が、あまりは長続きはしなかった。30年はあまりに長かったのだ。
昨日、1年ぶりにメールが来た。文面が意味不明なのは、酔っぱらっているからか、しらふなのかは分かりませんが、まあいつもこんな感じなのです。今回はすぐに返事を返したが、思い直して改めて書いたメールが以下のものです。
>じゃあどうでしょう。人類と国家は常に既に世界征服なんですか?それって一体?
(1回目のメール)
僕の『楳図かずお論』は読んでもらっていますか?青弓社3888円です。話はそれからです。
(2回目のメール)
もしかしたら、安保法制に関連して話題を振ってくれたのでしょうか。それだったら、ピント外れの返しで、申し訳ありませんでした。まず、拙著が出来ました(楳図かずお論)。高校・大学と貴兄から受けた様々示唆が、絶縁していたこの三〇年間貴兄の不在の現前として(いつも貴兄の影があった、ということ)、本書にはあふれています。あなたは忘れていただろうけど、私は忘れていなかったよ、ということです。(あなたは勉強するのを辞めてしまったね、ということです。こういうセリフが吐けて、僕は満足です。本屋などで見かけたら、手に取ってみてください。
安保法制に関しては、日本の外交能力の劣化(対中国)、小選挙区の弊害(議員の自主性の崩壊)、首相の人格破綻(血縁にまつわる心理学・病理学的問題)が、元凶だと思っています。いずれも、あまりに非常識な原因に拠っていますから、自然に治る可能性もあります。一般市民や若者・母親、学者や法律家、元官僚まで、かつて無く反対運動が盛り上がっていることを思えば、政府は墓穴を掘ったと思います。マスコミも、案外頑張っている部分もあります。来年夏には国民はすっかり忘れているかどうか、試されてはいますが、あまり《負けた感》を醸し出すのは、やめたほうがいいと思います。現政権では、改憲はできないでしょう。違憲状態が続いていることを、引き続き批判していくべきです。
御提起の件ですが、ヒュームは、無限に拡大するエゴイズムを法的契約(知的かつ合理的)によって制限しようと考えた社会契約説を批判しています。世界は共感(情的・非合理的)から成立しており、社会の害毒となるのはエゴイズムではなく、狭い共感である、共感を拡大しなければならない、と考えました。アダム・スミスなどは、この共感の系譜にあります。
半魚(#本止)
[補記 2015-09-20]
終戦と敗戦とを区別する人がいる。区別の根拠があまり明確に分からなかったが、私の場合、次のように考えれば良いと思うようになった。終戦とは完了した状態を表す言葉であり、敗戦とは継続する条件を表す言葉である。終戦はリセット可能状態であり(勝利も含むからである。勝者は条件を付ける側である)、敗戦は条件付けられる側である。戦争放棄は戦後日本の状態ではなく条件なのだ。
憲法学者に対して、政治学者というのがいるが、この政治学者というのが実に質が悪い。安保法制に賛成してきた(国際)政治学者というやつらは、安保法制を法律論に閉じこめず現実の国際社会の問題として考えないとだめだ、などと嘯いている。国際情勢は刻々と変化していて、日本も一国平和主義ではいけない、云々。賛成派の議論は、アメリカ中心主義の非常に底の浅い議論でしかないが、それは差し引いても、「国家」の拠って立つ条件を理解していない点で、あわれな連中である。
条件づける側は、また条件付けられる側にも依存している。といった共存関係をあばくのが脱構築主義である。世界の根源的な無根拠性である。現実は、矛盾した条件から成り立っている。
私自身は、上のメールで書いたように、自然に治る可能性などと楽観しているわけではない。ただし、首相の個人的な資質(祖父由来の)の問題というような、普通私なら言わないような、非構造的・実体論的な理解は、半分以上当たっている気がしている。
現在の国際政治的な要因として、安保法制を必要とするような喫緊の課題など、まったく無いのだ。喫緊の課題には、安保法制よりも、中国・韓国、ベトナム・フィリピン・インドネシア等とのしたたかな外交こそが必要であって、安保法制ではない。今回の法律は、この東アジアの関係をややこしくするだけだ。
半魚(#本止)
この春先に大阪都構想の住民投票で敗れた際、政界引退を明言していたはずの橋下徹大阪市長は、松井大阪府知事と一緒になって、維新の会を脱退して大阪グループで国政政党を作る準備に入っているようである。こいつの精神構造はどうなっているのだ!(そうなっているのだろう)。
情報筋によれば(笑)、当初は本気で辞めるつもりだったが、安倍・菅とヒミツ会談を行って、翻心したようである。何が語られたかは推測の域を出ないが、かれらが安保法案や憲法改正を本気で狙っている連中であることは確かである。
私は、安倍の力によっては、安保法制は通せても憲法改正はできないし、安倍以降にも、それだけのカリスマは自民党に居ない、と考えていた。石破で参院選は戦えない(圧勝は出来ない)。安保法制の一端凍結を試みない限り、安倍の支持率回復はない(凍結すればV字回復が可能である)、と考えていた。つまり、自民の手もここまでだ、と。
情報筋によれば、安倍は橋下への禅定まで臭わせている、というのだ。維新大阪グループには、片山虎のような自民との関係がややこしい連中も多少いるが、いずれ早いうちに自民と合流し、総裁選に担ぎ出されるのが橋下だというわけである。常識的には、そんなバカなと思うが、憲法改正という大義名分を前に党内の無条件一致団結(という名の小選挙区的締め付け、公認取り消し・刺客送り込みをちらつかせる)が優先されるのだ。ノセダイコが総裁選に出られないのと同じ理由である。
石破で参院選は戦えないが、橋下なら戦えるのだろうか。大阪で人気がまだ多少あるだけで、もう再燃はしないというのであれば、安心なのだが、百田や島田あたりまで乗っかってくる懸念はぬぐえない。
ファシモト市長は、デモで政治をきめちゃだめだ、といったことをツイートしていたようだ。こいつはほんとうにバカなのか、利口なのか。自分に都合のいい理屈ばっかり、平気でならべようとする。デモは、氷山の一角なのだ。そして、直接的な暴力は用いないにせよ、力(権力・暴力・強制力)の圧倒的な誇示なのだ。選挙や代表制と、原理は同じなのだ。ファシモト自身、住民投票という手法を使ったではないか。やつらが得意とするポピュリズムの典型が、デモであり選挙だと言っても良い。しかも、与えられる選挙よりも自主的に勝ち取るのがデモである。やつらはそれを分かっているからこそ、デモにびびっているのだ。
半魚(#本止)
アベ総理の奥方であるところの安倍昭恵さんは、反戦・反原発などの立場から家庭内野党などと少し前から宣伝されていたが、あまり信用していなかった。が、布袋友康との密会云々の報道はさておき、池袋の反戦バーに長年通っている、等、結構本気なのだな、頑張ってほしいな、などとも思う。
私の知人で、東京オリンピック招致が決まった頃だからちょうど二年前だろうか、「東京招致は賛成じゃなかったけど、まあ決まったからには、良いオリンピックになってほしいし、協力する」と言った人がいた。この「決まったことは守る」は、正しいあり方のようにも思うが、そうではないようにも思う。
戦前とか戦時中とか、そういう事態を想像してみる。
戦争が始まったと仮定して、それが第二次世界大戦の日本国内であるならば、「戦争反対」と口走っただけで特高に捕まるだろう。今の日本で、これからもし戦争が始まるとしても、そういう事態(逮捕)にはすぐにはならないはずだ。表現の自由は憲法で認められているからだ。たとえばアメリカは、ベトナム戦争で、そういう経験をしているのだ。自分の国が戦争をしているのに、その反対デモとか大々的にやっているわけである。これがある種の民主主義だろう。
国会前や新宿のデモなどの映像を見るにつけ、近年無かったこの熱意は、さらに育っていってほしいと思う。
安保法制は違憲状態であることに間違いはなく、そして、国がやることは最終的に賛成し協力すべきだ、などと思う理由は何一つ無い。
30日は出張中でしかも用事があったので、デモには行けなかったが、ふらふらと行って見るのが、正しい(笑)参加のしかただと思う。また、香林坊や武蔵が辻(金沢市の繁華街)で反対演説の街宣車が止まっていたら、私も私の奥さんも、ちゃんと(まわりにこれ見よがしに)手を振ることにしています。うちの家庭は一致している。
半魚(#本止)
かつてよく言われたと思うが、アイドルなどが自分のことを「わたしドジなんです」とか、自己否定的な事をいったりしていたことについて、その裏には「自分は可愛い」という絶対的な自己肯定がある、などと看破した例があったりしたはずだ。
私もまったくその通りだと思う。自己を否定できる人のうらには、自己肯定が潜んでいる。しかし、それは決して、醜い身勝手な心情などではまったくなく、むしろ好ましいことだと思う。
自己を肯定できないから、人に謝ったり自分の過失を認めたりできないのである。
しかし、国会議員が若い頃やんちゃをしたとか自慢したりするのとは、これは全く無関係な話です。
SEALsが「戦争したくない」と言っているのは、自己中心的な考え方だ、と批判した武藤貴也という国会議員(自民党)がいたが、驚くしかない。万引きグループから抜けようとしている友だちを「自己中だ」と非難するようなものである。SEALsのサイトを見てみれば、武力に拠らない外交政策を!と彼らは訴えている。
8月4日(火)に東京出張で、お昼に神保町の交差点を通ると、共産党が宣伝をしていた。署名はしたが、彼らの演説を聴いていてだいぶがっかりした。安保法制廃案に向けて共産党がどれだけ頑張っているか、という話をしている。共産党に清き一票を、なのだ。そうではなくて、共産党は廃案に向けて共産党以外の人たちともこれだけ連帯しています、と呼びかけない限り、誰も共感しないだろう。
ホリエモンなども含めて、デモに行くような学生は就職面接で落とされる、などとおどしを掛けているらしい(ホリエモンは、まだ面接する側のつもりなのか)。会社を良くする社員になれるのは、デモに行くような学生だと思いますよ。
武藤という議員などに典型だが、どうやら、近代の人権思想じたいを自民党は否定しているのである。おそるべき連中である。麻生副総理が、この議員を批判して「今は法案を通すのが第一だ。意見が言いたければ、法案が通ってからにしてくれ!」と言っていた。これにものけぞる。批判は、内容に関してじゃないんだ!
8月である。
半魚(#本止)
昨日、安倍総理がフジテレビにでていた。解釈改憲を肯定して、もともとは自衛隊だって個別的自衛権だってPKOだって、憲法学者は違憲だって言ってたじゃないか。でも、実際には戦争にもならずに上手く運用されてるじゃないか、というようなことを言っていた。
冗談もほどほどにしてほしい。
安倍首相も、首相の母方の爺さんも、単純に、いつでも戦争が出来る国したいのでしょう。これまで、戦争をせずに済んだのは、あなたらのおかげではなくて、あなたらと全く逆の立場の人たちの智恵によるものだったのですよ。
ベトナム戦争の時、憲法9条を持っていた日本と違って、大韓民国はアメリカ軍に32万人の兵士を送ったそうである。朝鮮戦争の特需でもうけた日本にあやかりたくて、進んで派兵した側面もあるらしい。この事態をもって、嫌韓派の日本人は、韓国がベトナムで残虐なことをした!と批判するらしいが、そんなことより問題なのは、どういう理由からアジア人同士が殺し合いをせねばならないのか、ということではありませんか。
半魚(#本止)
二つ前のアーティクルで、反対項目に「新国立競技場」を入れようかどうか迷ってたのだが、結局入れなかったのは、私に似合わない成功した未来予知だったかも知れない(私はいつも人が良くて・笑、未来を楽観して、失敗する)。
東浩紀が次のようにツイートしている。「新国立競技場、本当に見直すみたいだね。驚いた。安部政権の人気取りとの側面が強いとはいえ、日本がまだいちおうはなにかを「止める」ことができる国だとわかったことは、素直に歓迎したい。」
デリダを研究していてこういうことが書けるのだから、本当にあきれてしまう(しかし、このての保守派は、昔からジャーナリズムの王道かも知れない)。
安倍がもしここに来て、「安保法制も、国民が理解が進んでないし、白紙撤回します」と言えば、支持率は95%くらいまで高まるだろう。ただし、もうしそうなっても、それはこれまでの自民党の従来の見解に過ぎないことを忘れてはいけません。
世界(IOC参加国)への約束を反故にできるなら、一国への約束の反古なんて、軽いものだろう。
半魚(#本止)
(2015-07-21)未来予測は難しいが、本日の段階で、内閣支持率37パーセント。回復の見込みはまず無いだろう。野党や市民のこれからの攻め方にもよるが、来年の参議院で自民党が負ける可能性は十分にある。私が今、安倍にやってほしくないのは、安保法制の白紙撤回である。これをやれば、先に書いたように一気に支持率は未曾有のレベルへ上がるだろう。私は間違っていないが、しかし国民の理解が進んでいなかったので……。しらじらしく言うのである。その後の安倍の戦略は明白である。来年夏の参院選は、改めて安保法案の是非を問う選挙に位置づけるのだ。アベノミクスでごまかした前回衆院選と違って、正面切って正々堂々(?)と。隣組の火事に譬える稚拙な説明をやめて、あらためてこれから一年間、集団的自衛権は戦争法案ではありませんよキャンペーンを張るのだ。上に書いたように、実際のところ、警察予備隊をつくった時から、日本は違憲状態だったのだ(のか!?ここは議論が分かれるところだ)。今回、3人の憲法学者の違憲判断で潮目が変わったが、一年かけて、あらためて「時代の変化に合せて、憲法は解釈を変えていくべきなのです」キャンペーンを張るのだ。残念なことに、ある程度の耐性が国民にはできてきている(アレルギーは無くなってきている)。そして、安倍さんはいい人だ、物事の本質をよく捉えている人だ、たしかに東アジアは緊張を増している、ということになって、おそらく最終的には改憲にまでもっていけるだろう。なお、自民党の改正憲法案は基本的人権を制限するというとんでもないものだから、来年夏以降の改憲は、9条に限定すべきだろう。おそらく、いま自民党内で、9条改憲までやりたい人で、それなりのカリスマ性を持っているのは、安倍一人だろう。石破では、改憲はできまい。法律は廃案にできる。しかし、憲法が変わってしまったら……。改正は難しい。私は、今回のミスによって安倍政権が終ることを願っている。
12時過ぎ。さきほど、憲法と矛盾する法律が可決されただとか。ばかな国だ。
NHKは、この衆院特別委員会を中継していないのだそうだ。正気なのか。ネットで中継しているが、アクセスが込んでいて繋がらない。
3連休があるから、国民の怒りは和らぐだろうと、菅官房長官あたりは考えているらしい。こんな連中が、戦争を始めようとしているのだ。
若者に言っておきたい。こういう連中を、絶対に信用してはいけない。嘘を平気でつけるやつがいて、言ってることとやってることが全く違うやつがいるということを、胆に銘じておいたほうがいい。
これらを書いた後、授業をやりました。文学3は、いま楳図『14歳』(UP!版・第2巻)を読んでいます。少し順序を変えて、今日は各国首脳が懺悔するシーンを読み、解説しました。岬首相は、法律と経済だけではだめで美意識が必要だったと訴えます。ただし、懺悔しつつも、人民に真実を知らせない道を選びます。同時代のマンガである宮崎駿『風の谷のナウシカ』で、当初名君だったトルメキアの神聖皇帝は、土民の愚かさを嫌って圧政を敷くようになります。両者に共通するのは愚民思想ですが、これは《圧制者にも一理あり、それは民衆自身が反省すべき部分である》というものでした。それは90年代の古い思想でしょう。今や政治家は、法律さえも守れません。
学生のリアクション・ペーパーより。
楳図氏も当時、日本の与党が憲法を無視するようになるとは思っていなかったでしょう。このまま暴走するのでしょうか。(彫刻)
今日の国会、やばかったですね。美意識がないとだめですね。(工芸)
これ以外、全部で60枚あったけど、政治のことはよく分かりませんが……とか書いている学生もいました。
うちの学生はまあこんな感じだが、全国的には、かなり火がついているような気もします。安倍内閣、完全に見誤ったのかもしれませんね。この運動は、違憲ゆえに反対というものでなく(改憲して戦争したい人も安保法案には反対している)、最終的にきちんと反戦運動へと連続していくもののように感じられます。3.11後の閉塞感が、ここで一気に噴出するかもしれないように思います。私も連帯します。
2015-07-17 (Fri)
内田樹氏が、東京新聞のインタビューに答えて次のように発言している(氏のサイトに文章が載っている)。次のような個所がある。
安倍首相が「戦争できる国」になりたいのは、戦争ができると「いいこと」があると思っているからではない。それが世界に憎しみと破壊をもたらすことを知っているからこそ戦争がしたいのである。
前述の、岬首相のような90年代的発想とは、「悪人にも悪人なりの正義がある」というものである。ここから私なんかが学んだのは、「悪人の正義」を理解・分析することでしか悪は解体できない、というものである。他方、内田氏の言い方は、絶対的な悪であろう。しかもそれは、明治以降の日本に染み付いている邪悪さだというのである。こうなってしまうと、我々が「善」を選択する根拠が無くなりはしないか。この時期は世界的な帝国主義的な時代だったのではないか。
私も、安倍という人は特殊だと思っている(共感が出来ない人間である)。安倍をのさばらせているのは、数人の同類の人間と、小選挙区で縛られた自公国会議員と、あとけっこういる戦争で儲かる人間と、そして多くの分断されてナショナリズムにしか依拠できない多くの貧困層だと考えている。(たしかに、憎しみだけがナショナリズムという大きな巨大な集団幻想を可能にするだろう)。
別に今は内田氏にケチをつけたいわけではない。今、SEALsらと緊密に活動をしている内田氏に、心から連帯したい。
あと、それから、一部の映画監督なんかにいるが、「われわれの芸術は無力だったということだ」などど言って、《負けた感》を醸し出すのはやめてほしい。バカ(共感が出来ない人間)相手に、皮肉は通じない。
安保法案に反対します。
日本国憲法および立憲主義をないがしろにする現政権を強く批判します。
戦争や武力行使による国際紛争の解決に反対します。
マイナンバー制度の導入に反対します。
普天間飛行場の辺野古移設に反対します。
原発再稼働に反対します。
安倍政権は、対話も民意も拒絶するようなやり方で、国民を愚弄するような意味不明の説明と数頼みによって、強行採決を行おうとしています。こういうやり方こそが、テロを生み出すのです。閉塞状況を打破しようとして、暗殺などの暴力に訴える者が出てくるのです。自民党や公明党の国会議員の中で、このやり方ははおかしい、国民の理解をまだ得ていない、と発言する者が出て来ないのは、目先の選挙(党の公認を得ること)を考えてのゆえなのでしょう。しかし、もっと恐ろしいことが、その後に待ち構えていることを、あなたたちは想像すべきです。この法案においては邦人保護を名目に立てながら、この政府が後藤健二さんを見殺しにしたことを、わたしは忘れてはいません。
戦争を拒否し、話し合いを開き、理解と共感を拡大していこうとする、すべての人々に賛意を表し連帯します。
百田氏が自民党の若手国会議員の勉強会「文化芸術懇話会」(なんて名前!)に講師で呼ばれて、「沖縄が中国に占領されたら……」とか「沖縄の2紙はつぶさなあかん……」とか言ったという。
「文化芸術懇話会」というのは、文化面で人民を操ろうという、いわば「ナチの手口に学んだもの」(麻生副総理)かと思うが、それにしても笑ってしまうくらいにお粗末である。
一時期、マスコミのうちとくにTVは、全く批判精神を欠いていたが(ほとんど死んでいた)、小林節氏・長谷部恭男氏・笹田栄司氏ら憲法学者3氏が「安保法制は違憲である」と明言し始めてから、すこしつづ息を吹き返してきたように思う(NHKはだめだが)。今回の百田氏の発言も、勢いづかせてくれて(?)いる。
たかじん本でこけた百田氏が、ここで一気に挽回のつもりで張り切ったのだろう。打った弾の当たった先は、宰相Aである。火消しにやっきだ。
フレンドリ・ファイアーとは同士討ちのことである。連中のストラテジーなんて、しょせんこの程度なのだ(笑)。百田が『永遠の0』の中で偉そうに批判している戦前の軍部の無能さと、彼自身とは、まったく変わるところがないのだ。百田氏の発言に同調するマスコミはさすがに居ないだろう。本人は思いきったことを言って溜飲を下げたのだろうが、当然のことながら、世論的な共感はまったく得られない。
先に、ファシモト市長が、従軍慰安婦発言で一気に失速し、その後が今のていたらくとなったことがある。
日本の国民は、まだまだ大丈夫そうだ(笑)。あるいは、自民党のなりたて国会議員等のレベルが低すぎるだけか。「分厚い保守政治を目指す会」とか言う自民党内の別の勉強会が中止になったのだそうだが、うすっぺらな右翼政治が政権を牛耳っているわけだ。
安全保障法案に反対する学者の会 http://anti-security-related-bill.jp/
1997年に神戸で起こった殺人事件に関して、犯人の少年Aの本が出版されて、これがかなり売れているらしい。『宰相A』より売れているだろう。
ただ、ある情報によれば、少年Aの本は、もともと幻冬舎で進められていた企画だったが、幻冬舎は百田氏のやしきたかじん本でコケてしまい、百田氏も社長の見城氏も、オトモダチであるところの宰相Aの評判を下げはしないまでもあげることはできなかったために、少年Aから手を引くこととし、これを太田出版に押し付けた(ゆずった?)のだそうである。現在、喫緊の課題は、安保法制である。国民の目を法案への批判からそらすために、今このタイミングで、少年Aの本が出されたのである。
安保法案は、憲法学者も内閣法制局長経験者も、そろって違憲だと言い始めた。国民的にも、宰相Aはどうも少年Aなみにあほだということがばれはじめてきた。なんとか目くらましが必要だ、というわけである。
とまあ、陰謀説をあばく記事ではなくて、陰謀説を振りまく記事でした。
以上はもちろん冗談だが、「表現の自由」をめぐって、少年Aの本じたい、わたしは実際、どう考えるべきなのか、よくわからない。ヘイトスピーチを表現の自由として認めるかどうか、という問題と似ている。難しい問題だが、法的にその自由を認めることと、自分はその自由を行使しないこととを、同時に宣言すべきだろうとしか言いようがない。つまりこれは、態度の問題であって、もはや権利(法律)の問題ではないのだ。「しないことができる」ということである。言い換えると、ひとにそれをさせないのは、法律ではなく、倫理(共感)でしかない、ということかな。あまいかな(共感の背後には暴力も附随したりする)。
6月25日に『楳図かずお論―マンガ表現と想像力の恐怖』が販売されますが、少年Aの本の影響で、話題にならないだろうな。ぶつけてきやがって!これも陰謀ではないだろうか(もちろん冗談です。これはたんなる宣伝です)
神戸の事件は、たしかにおぞましいものだったが、ほぼ20年経ってみて、今思うのは、あの事件をおぞましいと思えていたころの幸せや豊かさである。新興住宅地の平穏な幸せを脅かす恐怖に対して、今年になって起こった二つの事件、川崎市や刈谷市で起こった中学生や高校生のいじめからくる殺人には、格差や貧困がすでに背景にあって、実に寒々とした風景が広がっているように見える。そこには、脅かされる幸せではなく、日常的な不幸が存在しているように思えるのだ。名古屋の女子大学生による殺人もまた、おぞましい。かつて、永山則夫『無知の涙』というものがあったが、知識・学力・知性は殺人を止めることが出来ないことを、女子学生は実践してみせたわけなのだ。
笑い話を書くつもりだったのに、すっかり、げんなりしてしまった。代わりに景気づけに、ヘイトスピーチでもかましましょう。 だれかがツイッターで、学会の司会をしていると、たしかに「はやく質問しろよ」と言いたくなる、と書き込んで、僕の友人がそれに「わかるわかる」などとリツイートしてたりするのを見付けてしまうと、ほんとがっかりする。
以前、国会中継は午前中好きで見てたりしたが、今はいやなので、見ない。(新聞を読めば十分だし、だいいち読まなくてもわかる)。ところが、いまやNHKは国会中継をやらないらしい。私は、テレビなんてほとんど見てないのだが、それでも受信料は払っている。NHKは、見る気がない国会中継でも、ちゃんと放送すべきである。
ニュース番組でまともなのは、ニュース23くらいですかね。昨日も、知的障害者の施設での暴行の訴えを取り上げていた。番組に直接寄せられた投稿なのだが、暴行の訴えは、いわば内部告発であり、下関市にも先に訴えたが調査の結果暴行は認められないと結論づけられたそうである。警察や役所も、しょせん国の手先いや出先に過ぎず、そこをただすのがマスコミの仕事であるわけだが、マスコミの中でいまやTVはそうした機能を放棄している。唯一、ニュース23あたりがその役目を負っているのだろう。
「はやく質問しろよ」とやじったおやじは、品がないだけでなく、学もないようだ。法律の解釈をめぐって、中谷防衛大臣と、見解が異なっている。中谷や石破や、あのあたりのほうがまだ法律に対しては誠実なのだろう。総理大臣のほうは、官僚の用意したペーパーを、たどたどしく読んでいるだけである。言いくるめ、言い逃れているようでもあるが、そもそも分かってないのではないかとも思われる。
総理大臣のあの態度は、いずれ国民から見放されるだろう。友人も、問題は質問じゃなくて、発表者のほうだったことに思い至ることがあるだろう。
関西テレビ(カンテレ)の『戦う!書店ガール』というドラマを火曜日にやっていて、これ結構おもしろいなと思って視ていた。渡辺麻友が放埒なのだが逆ギレしていいことを言う、というカタルシス系ドラマである。いちおう本好きとして、喜んでみていたのだが、先週なんかちょっと感動しちゃって、わざわざホームページまで探して見て、そこで川柳募集というので、もう川柳まで考えて応募しちゃったのである。たぶん選からは漏れるだろうから、わざわざここに公表しておきます。
稲森いずみの父親役の井上順が脳梗塞で倒れてしまい、稲森さんは朝礼に遅れ、またもちろん不安をかかえる……という展開があるのだが、リハビリも上手くいっている様子。その時の井上順の演技があまりにテキトウで、あのくらいグーチョキパーができるなら大丈夫だな、と感じたもの。
孫に歴史の本を買ってあげたいという客に、まゆゆが勧めたのが、みなもと太郎先生の『風雲児たち』。よい選書だが、しかし幕末編(全体の第2部に相当する)の、かつ一巻目じゃなかったように見えたので。あれは本編1巻目、関ヶ原の戦いから読まないとだめなのです。かっこいい句またがりの句。
本好きとしては、本を作る側や買う側、読む側の意識はあったのだが、本作が描くような、稲森いずみや渡辺麻友が熱弁する本を売る側の情熱には、正直ぜんぜん気がつかなかった。しかし、単なる金儲けや身過ぎ世過ぎでなく、こういう気持ちで本を売ろうとしているのか、と感動して思いついたのがこの句です。しかも、吉祥寺は楳図先生のおひざもとですから。『楳図かずお論』(青弓社)をどうぞよろしく(笑い)。
ただし、私の宣伝をしたいのではないのだ!本作に関して、一番よく出来た句が、次のものです。
本が好きで、たたき上げからこうして吉祥寺店の店長にまで上がってきて、仕事が認められたのかとおもっていたら、実は吉祥寺店は閉店を予定しており、自分は人員整理のためのつなぎの店長でしかなかった。閉店をしっかりやれ。稲森いずみは、会社上層部にそう言われて、深夜の吉祥寺店に帰り悔しくて書棚のまえで泣き崩れるのだ。(美しく泣ける女優はほんとうにいいね)。ついで事務室のシーンで、現状打破を訴えるまゆゆに対して、稲森は、閉店は既定路線なのだ、それが私の仕事なのだ、分かってほしい、と説得する。まゆゆはだんだん興奮してきて逆ギレして、そして、このように言うのだ。「じゃあなんで泣いてたんです!本の前で」。セリフそのまんまを句にした(笑い)。まゆゆは、さっき陰から店長を見ていたのだ。暴力的な逆ギレが相手の心を捉えることがある、というアポリア(暴力を肯定するのか!?)。しかし、ここには抗しがたい救済願望があるし、人を勇気づける根源的な秘密が描かれてもいるように思うのだ。
こんな素晴らしい作品なのに、なのになのに。11回の予定が、9回で打ち切りなんだって、さ!
それを昨日知って、びっくりしました。吉祥寺店は閉店しないけど、本編打ち切りというリアリズム!
しかし、そう思って見てみると、たしかに、へたくそだなと思える部分もある。いや多い。会社自体が自社の発展に前向きでない、という不可思議な設定。男ワル者・女イイ者という単純すぎる善悪の対比。木下ほうか演じる前店長が、たんにいやなオヤジでしかない(むなくそわるいだけ。木下ほうか可哀想)。稲森の恋愛下手・不運の側面と有能な女性店長という側面とがまるでかみ合っていない。まゆゆのお嬢さまで放埒な側面(店長と対立する)がすっかりなくなってしまって、店長を助ける役でおさまってしまっている(それゆえまゆゆが全然活躍しない)。あと、全体に話が散漫。たとえば、娘の仕事に無関心を装っていた父親が、実は人一倍気に掛けていた、というのは良いエピソードだとしても、第2の舞台となる沖縄料理屋の常連であった必要はまったくないだろう。
さいきんリメイクもされたと思うが、以前『高原へいらっしゃい』という田宮二郎主演のドラマがあった。子どもの頃放送していたときにはよく分からなかったが、大学生になった頃に再放送で見て、すごくおもしろかった。つぶれる寸前のホテルの立て直しを依頼され、来るが、従業員と対立する。対立は克服されるが、経営の危機は去らず、廃業を覚悟せざるをえない。その覚悟によって最後のサービスを行う。最後はハッピーエンド。単純明快なのだが、わかりやすく感動的。『白い巨塔』の悪役ぶりとは違って、田宮二郎の絶望にうちひしがれたような表情の演技が、一般人にはたぶん耐えきれないほどに辛気くさい。のだが、ぜんたいでぎりぎり調和している。田宮二郎は、もともと上手い俳優ではない。しかし、存在感は圧倒的である。稲森いずみの演技も、それに近いようにも思うのだが、ほめすぎか。
『戦う!書店ガール』は、複雑すぎて、ごちゃごちゃしているように見えてしまうのだろう。
(2015-05-28 Thr)
誉めていた仲間を、他からの悪評によって、けなし始める……高橋は心の冷たい男です(木下ほうかの役みたいな)。そう思われては心外ですよ。芸能ニュースなどを見ても、番組打ち切りの戦犯捜しが始まっていたりする。ああ、ひどい!かわいそう!
実は今朝、郵便がきました。選にはもれたが(まあ当然だ、四句目はさておき)、抽選のプレゼントがあたっちゃいましたよ。ありがとう、関西テレビさん。数字じゃないですよ、ね。元気を出して!
本気か?自分でも何を言っているか、よくわからない(笑い)。
大阪都構想の直接選挙が実施され、僅差であるがファシモト氏は負けて、政界引退を言明した。従軍慰安婦発言ですっかり求心力を失っていらい、今回の引退宣言を残念がる国民は、もうかなり少ないだろう。
自民党は大阪都構想に反対していたにもかかわらず、安倍総理と菅官房長官は憲法改正への協力を取り付けてるために協力していたという。まったくおぞましい。連中は、大阪なんかどうなったっていいと思っているのだ。
新聞などよれば、都構想じたい何がどうなるのかよくわからないと考えた大阪市民が多かったようである。実際、そもそもちゃんとシミュレートできてなんかいないし、議論も説明もできてないのだ。白紙委任状態なのだ。フランスはナポレオン・ボナパルト時代に3回も国民投票を行ったが、ナポレオン人気にあやかった白紙委任の状態になっていることを認識して、それ以降、国民投票に慎重になったのだそうだ。
維新の江田憲司はさっそく代表を辞めた。それは責任をとってというより、維新を出るためのようだ。みんなから自民よりが抜け、維新からは次世代極右老人が抜け、ついでファシモトが抜け、解党して民主党に合流するだろう。非常に上手に《浄化》が進んだ。むしろ問題は、民主党自身かもしれない。
単に二重行政の無駄を省きたいだけなら、大阪都にする必要は無いのだ。橋下のやり方は、かたよった二者択一を国民に迫るものである。自分の力を誇示したいのだ。橋下風のお好み焼きを食べるか、食べないでがまんするか、どっちだ?みたいな選択である。人は普通のお好み焼きが食べたいだけなのだ。
安保関連法制が昨日閣議決定され、この後、国会に廻されるという。政府は今国会での法案成立を目指しているという。
集団的自衛権行使を閣議決定で容認していることも含めてだが、順序が逆である。これらはみな、憲法違反である。この国はいわば憲法停止状態にある。
私が思う「我が国」の存立危機とは、この事態そのものだ。守るべき「我が国」とは、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権(立憲主義)を体現した国ではないだろうか。
国破れて山河あり、ではないが、これまで続いてきたこの「国」は、じつは「国」ではない。国家は歴史的な存在である。徳川幕府が崩壊しても、大日本帝国が崩壊しても、人民は残る。天皇制を廃止したとしてもこのクニは今後もやっていけるだろう。おそらくは、ショッカーに征服されても、なんとかやっていく道はあるだろう。しかし、集団的自衛権や安保関連法制(一束)が想定している「我が国」のアイデンティティは、明治以降の天皇制、戦後のアメリカ依存関係、一部資本家や官僚(または保守化した市民の)既得権、程度しか意味していない。そんなものは、守るに値しないものだ。
総理大臣は記者会見で、今後自衛隊員などが海外の戦争で命を落とすことになるのではないか、という質問に答えて、これまでも自衛隊員は1800人の殉職者を出してきた、と答えている。国家のために死ぬことを尊いこととして宣揚しているが、つまり、国家存立のための犠牲を肯定している。総理大臣は、「自衛隊員たるもの、死ぬ覚悟は当たり前」と言っているのだ。この破壊された人間性。この肯定によって、「日本国民を守る」「外国の戦争に巻き込まれることはない」と主張しているのだ。ここにあるのは、守るべき命を、命そのものによって守る、という矛盾である。われわれが、第二次世界大戦や311フクシマや沖縄基地問題で問われているのは、《だれかの直接的な犠牲のもとで実現される国家》という問題だったはずだ。「平和を守るために、戦争をしましょう」。既に一度通ってきた道だ。
グローバルな世界情勢において日本だけが平和でいられない、と首相や右翼は主張しているが、世界的な流れはむしろ、東西冷戦終結からさらにアメリカ一強時代の終焉にむかっている。対米従属の外交、グローバル化は、非常に危険である。
長山靖生『バカに民主主義は無理なのか?』(光文社新書)を読んで、なるほどと思った視点がある。戦後の公共事業が景気対策であったように、戦前において戦争もまた景気対策だった、という視点である(この背景に、戦前は文官武官にエリートがいたが、戦後のエリートは文官のみとなった、とある)。リスクが大きいほど儲けも大きくなる。原発がそうだ。そして、戦争もそうなのだ。命を犠牲にするとき、もっとも大きなリターンが期待される。それが戦争だ。大きく効率よく危険な原発でなく、効率は悪く儲けもすくないが、ほどほどに使えて安全な発電を模索すべきであるように、一気に景気回復とは言わずに、なんとかやっていける持続可能な社会を、しんからもとめなければならない。アベノミクスは、戦争と込みなのだ。爆撃で死んだ一般市民は特に補償されないだろうが、敵はこれから自衛隊員の給料と遺族年金などの保証を大きくしてくるだろう。カネだけではない。彼らに栄誉を与えるのだ。彼らの尊い犠牲の上に私たちの平和が守られているのです……、と。そう、これはすでに僕らがよく聞かされた論理なのだ。
2つ前に書いた事を、早速訂正しなければならないようだ。
政府自民党が教員の国家免許化を図っているという。今日、教員資格が都道府県の教育委員会から出されているのは、戦前の国家統制的な教育制度への反省からなれている。政府の狙いは、教育の国家的独占である。
道徳教育が、倫理たりえ哲学たりうるためには、良いプログラム(教材とノウハウ)とそれを実現する教員の手腕や資質を必要とするだろう。逆に、価値観の押し付けに留まるためには、疑問を持たない教員が不可欠である。政府が右と言えば、国営放送は右にならざるをえない、などという放送会社の会長と同じような、教員がぞろぞろこれから出てくるかもしれないのだ。この時、思考を肯定し哲学へと続く道徳教育は不可能となる。
次に、思考は、その純粋なかたちにおいては、懐疑的で不決定的な状態を持続しつづけうる、という前提が間違っていたのかも知れない。事実的に難しいだけでなく、権利的にも、じつはそれは難しいのかもしれないのである。思考もまた、歴史的な行為であり、何かしらの前提(前時代)を持っており、そこから逃れることは出来ないのである。
『差異と反復』第3章「思考のイメージ」は、このことをテーマとしている。
昨日、人間劇団サバラン3周年記念春興行(オリジナル第11作)を見た。ダブルキャストの2公演とも見た。
サバラン作品の大きな特徴は、人形劇とは何か?という、その存在理由をつねに問うている姿勢である。通常の人形劇は、まずセットがあって、つぎに人形がいて、あたかもそれ/そこが現実であるかの如くに存在していることを前提として、観客はその前提を共有してそこへ参入する。虚構へと没入する。サバランは、この前提を拒否している。
大きな物語が終わって、世界の虚妄性はいよいよ明らかになっている。平和や公正さ、可愛さや真心、愛と美、女の子であること、女であること、母であること(母になること)。さまざまになされる規定があるとして、しかしその規定を受入れる前提となっている諸制度もまた虚構にすぎず、それゆえもはや人はそんな規定を受入れられない。母は母でなく、女は女ではないのだ。(人形はもう人形ではない)。そのことに気づいてしまっている。
母の日に上演された今作「忘れっぽい天使」は、忘却によってそうした虚構性を受入れ、強く生きて行く(ことさえ意識しないで生きて行く)女の子の生を、軽やかさや気楽さと、シリアスでぞっとする現実の対比の中で描いたものである。良く出来たかわいらしい人形(部分健忘症であり、外傷はない)と、それを操る包帯ぐるぐるまきの白い身体の対比が、なんともユーモラスであり、まったくおぞましくもある。この決定的な二元的対立が、サバラン作品の「人形劇」と「虚構性」への問い掛けなのである。
かつてサバランを評して私が言った「身体の実在性と人形の表象性、およびその可逆性」とはそうした事態をいわんとしたものである。この「可逆性」(逆も可能であるということ)が重要なのだ。
ただし、前提は拒否しているが、事後的に没入が実現してしまうこと自体を拒否はしていない、とも見るべきだろう。端的にいって、彼女らの作品と演技と仕掛けは、かわいらしくて、非常に見やすい。そうではない見づらさや違和感がサバランに感じられるとして、その理由を彼女らが下手だとか深く考えてないからとか思う人がいるのではないだろうか。それはまったく外れているよ。彼女らをあまくみると、あとで痛いしっぺ返しを喰らうだろうよ。彼女らが作る空間は、いつもフィクショナルな仕掛けに満ちている。
最近、劇団べれゑ(金美演劇部)が好んで演じる寺山修司の作品は「夢」をモチーフにしたものだが、夢とは現実と虚構の間をとった半透明でグレーな空間である。サバランが提示しているのは、そういう「あいだ」の思想ではなくて、両立不能な(離接的な)Aと非Aとの同時的成立というモチーフである。ただし、Aと非Aと可逆的であることに気づくことが、ある種の救い(希望)ではある。彼女らにとってそれは、作品を作り、演じることであろう。暗いテーマでも、見た感じすごくすがすがしいのは、そういう洞察を彼女らが有しているからだとおもう。簡単にいえば、つくることはなんだかんだいって楽しいよ、ってことである。
少し前のテレビで、小学校の道徳教育と成績付けについて小学校の先生たちが苦悩し工夫しているのを見た。最初わたしは批判的に見ていたのだが、そのうちに、あれー?これって良いかも?と思い始めたのである。
毎日消しゴムを忘れてくる隣の児童に、消しゴムを毎回貸してあげるべきか。そういう問いを子ども与え、理由も含めて考えさせる。評価・成績は、貸してあげるかあげないかではなく、思考の深化におうじて付けるのだという。子どもは、可哀想だから貸してあげるとか、忘れてもいいやと思わせないように貸さないとか、いろんな意見が出る。
私が考えても、正答はないことがすぐわかる。また、あるべき正答は個別的であることもわかる(怠惰ゆえか貧乏ゆえか、相手によって事例は様々だ)。そして、こうした問いは、一般的な解答があることよりも、議論することによって様々な意見があることを知ることが、もっとも教育的である。
徳目を教え込むのが道徳だ、という道徳観がある。明らかにこの授業が狙っているのは、そうした信念体系の植え付けでなく、むしろ疑うことの育成である。そうした観点に立つとき、道徳は倫理であり哲学たりえ、宗教ではなくなる。(哲学は思考し、宗教は信念するものとして、両者を区別する)。
私は教育者として、思考すること、思考を可能にすることに、可能性を見いだし期待をしている。道徳の教科が、このように組み立てられる以上、それは何かを信じることを教え込むのではなく、思考し解答がないことを知り生きる教科となりうるだろう。小学校の段階で、このレベルの問題があることを知り、その練習をしていくことは、非常に有効である。
もっとも、道徳教育は特定の価値観の植え付けでなく、価値の多様性を養育するものだ、という主張は、どうやら保守派の基本主張らしい。彼らは、こんなときばっかり多様性を認めよう風のことを言って、現場では価値観を植え付ければ良いのだと思っているだろう。しかし、思考することをやつらの側の論理として奪われてしまうのは、なんともなさけない。
大人の顔色をうかがう子どもは、道徳の成績付けだけでない。成績を付けることで、子どもはよりまじめに考え抜く力をもつだろう。(それが、教育において評価・成績を出す効果である)。
問題は、そういう授業を小学校の教諭が組み立てていけるかどうかである。雑用に追われて大変だろうが、頑張ってほしいと思う。また、もっとゆったりした時間が必要なのだ。
国家主義的で滅私奉公、七生報国、鬼畜米英のような徳目を教え込む教科に成り下がるか、それともそうでなく、思考することの可能性を高めることになるか。前者の可能性が高いから止めた方が良いというひとは、そもそも近代教育制度自体を拒否すべきだろう。これはあながち冗談ではない。実際、あらゆる教科が暗記科目になっているのはその証左である。暗記科目になる理由は、それが効率的な(受験)勉強法だからである。
私が最近じぶんでも気に入っているのが、《小さな永遠の謎》という思考のメソッドである。ちょっとした疑問は辞書や事典を引いてすく調べるべきだし、今はネットなどですぐにわかる。逆に、これをやらず、ずっと心に秘めて、自分で考えるのだ。前に書いた、歌謡曲の歌詞なども、これに含まれる。コントノスラを延々考えるのだ。私は今、ある英語の有名な歌の意味と状況をぼんやり考えている。1980年高校生だった頃に初めて聞いたこの歌は、1974年に発表されたもので、たぶんベトナム戦争を歌っているのではないかと思う。終結40年を経た先日、急に思い出したのだ。ほんとうかどうか、ネットで探せばすぐ分かるだろうが、もったいないからそんなことはしないでいる。
答えを知ることを引き延ばし、疑問を持続する態度は、訓練しないと育たない。
半魚文庫のことではなくて(笑)。
官邸にドローンをとばして、先日自首してきた福井県の男のサイト「ゲリラブログ参」は(リンクははりませんが)、今でも普通に読める。公安警察やサイバー警察もなども、これをまったく把握していなかったようだ。そして、彼には、まんが作品もあって、ニコニコ動画で公開されている。私は、ニコ動のアカウントをこれまで持っていなかったが、この作品を読んでみたくて、無料会員に登録しました。なかなか良く出来ている作品です。
逮捕されたのだから犯罪者であることには間違いないのだが、主張があって、それを表現する力を持っていて、節度も持ち合わせている人物、というように私にはうつる。こういうのを、字義通りの意味で「確信犯」と呼ぶのだ。
サイトを読めば、彼が、反原発運動において、効果的なデモンストレーションを模索していたことがわかる。春の統一地方選での投票の呼びかけなども書いてある。これで前科1犯になってしまったが、彼の有している節度とは、彼が非人間的なテロリストではなさそうだ、という点である。テロリストとそうでない者とを区別するのは、たんなる暴力の有無ではなくて、共感(ポピュリズムとは異なるものとして)の有無だろう。イスラム国が決定的に欠いているのが、この共感である。マスメディアでは抑圧と自主規制が吹き荒れているが、それは物理的ではないが、社会的な暴力である。何が暴力か、とか、どんな暴力は許されるのか、とかいう問い掛けは、事態の把握を誤らせるだろう。
芹沢俊介『子ども暴力論』によれば、イノセンス(無垢さ)とは、責任や罪が無いことである。実際、生まれたことは自分に罪(責任)がない。暴力とは、こうした罪の不均衡を言うのである。本書を読んで初めて知った観点だったが、非常に示唆的だと思う。
いろんなハラがあるようです。高橋ショージ・三船美香(元?)夫妻の騒動や、昨日あたりですと、米倉良子さんなどの芸能ニュースで話題になっている。モラハラとは何か?
言葉でいろいろいじめるみたいに説明されている。「犯罪ではないが、モラル的には許されないいやがらせ」といったような説明では、よく分からないので、とりあえずwikipediaを見てみると、フランス人の提唱したカテゴリーで一九九九年くらいからある言葉なのだそうだ。安富歩氏の解説も付されていて、フランス語のmoral は「気力、精神的」という意味だそうである。辞書を引いてみると、道徳のほうのモラルは「morale」と書き、他方、アルセルマン・モラル(Harcèlement moral)は、精神的ないやがらせ、ということらしい。
言葉によるイジメや嫌がらせは、昔から指摘されてきたことではないだろうか。そして、それは当たり前のことではないだろうか。物理的暴力と精神的な暴力とは連続しており、区別できないのではないだろうか。逆に、モラハラという概念によって、《暴言》が持つ犯罪性が隠蔽されかねないのではないだろうか。
僕はてっきり、道徳的な正しさによる指導や注意が、相手の更正に資することなく、逆に嫌がらせにつながっているあり方を言うのかな、などと思っていたのである。パワーハラスメントとは、力による by ハラスメントではなく、パワー(権力)を背景に行われるハラスメントである。おなじように、モラハラはモラル(道徳)を背景になされるハラスメントかなと思ったわけだ。しかし、ちがったようだ。
どんなに正しいことでも、あんまりそれを振りかざされると、困るわけです。米倉良子さんは、結婚したばかりの夫から「お前の人生は間違っている。お前の友達もおかしいやつばっかりだ。お前の髪型も服装も、爪も化粧も、靴も鞄もおかしい」とか言われたそうだ。「お前の夫が一番おかしい」と付言していれば、夫婦仲は保たれたかも知れない。(こういうのを自虐と言ってはいけない。余裕というのだ)
島尾敏雄『死の棘』を、高田先生の評論をきっかけに、いますこしづつ読んでいる。よみはじめたばっかりだが、ここに描かれているのは、モラハラそのものではなくて、相手のモラハラ的な行動にえんえん付き合っていく異常さ、ではないかと思われる。ただし、相手に単純に順応しているわけではない。ずっと平行線である。
2ヶ月前には、下掲のように書いてみたのだが(期待もこめて)、やっぱり皮肉に終わったという……。テレビ朝日は、会長をはじめ数人の安倍お友だちの狙った報ステのジャックに成功したようである。古賀が批判していたのは、イスラム国に対する日本政府の対応に対してであり(I am not ABE.)、菅なども一番痛いところを突かれていたわけである。バッシングがあったかどうか、実際のところ、私がその証拠を持っているわけではもちろんないが、今、テレビではもう政権批判などはタブーであるような状況くらいは、非常によく分かる。古賀が、自分の仕事が一つ減って怒っている、などというレベルでないことぐらいのことは明白である。しかし、キャスターも、謝罪してしまうのだから、あきれた覚悟である。
しかし、この国の「自主規制」という風土には、なんとも情けないものがある。
今日の新聞に、「江戸しぐさ」というのには、なんの史料的根拠もない、って話が書いてありました。別に肯定していたりはしていませんが、かといってまるっきりのデタラメだとも思っていなかったなあ。僕がそれを知らない、初めて聞いたのは、僕の勉強不足からであって、まあ、あったんだろうなあ、とか思っていました。ただし、江戸しぐさ伝承者が明治維新の際に虐殺された、とかいう話は知りませんでした。そんな嘘くさい話であったら、最初から信じる可能性もなかったでしょう。さかのぼって、発明される古典や伝統というのは、ままあります。「江戸しぐさ」という言い方じたいが、江戸時代が終わってから遡及的に付けられた名前であろうことは明白ですが、実際、江戸時代のものはそのパターンが多いのです。「浮世草子」なんて言葉は、普通、江戸時代では使われませんでした(明治以降の学術用語です)。井原西鶴、松尾芭蕉、上田秋成、滝沢馬琴なども、そういう呼び方では呼ばれていません。大岡越前とか。
「イスラム国」による日本人人質事件は最悪の結果を迎えたが、その後の展開もまた、非常に悪い方向へ進んでいるように思える。政府のやろうとしていることは、放火からの火事場泥棒である(放置・救出失敗からの戒厳令的世論形成・憲法改正)。古舘氏の覚悟の程については、二つ前のアーティクルで揶揄してしまったが、今はこれを根本的に撤回し、支持を表明したい。
いま、報道ステーションが一番まともな報道をしている。
古舘氏の言っていた覚悟の程とは、この事だったのか、とあらためて思う。マスコミのみなさん、今が正念場ですよ。
あけましておめでとうございます。去年の紅白歌合戦では、薬師丸ひろ子のうたが断然光っていましたね。とは言っても、昔は嫌いな女優だったせいもあり、この歌もさほど記憶に無かった。サビの部分で、ああ知っていると思うが、ユーミン作曲のこの歌、いい歌ですね。(ただし、歌の最後の「眠り顔を見ていたいの」の「の」で下がるのはかっこわるい。それはちょうど「ひこうき雲」の最後が「おーきぐーも」と下がるかっこわるさとおなじように)。
Youtubeで改めて聞き直してみると、近年の歌声も良いが、最初のレコード音源も良いし、しかしなんと言っても若い頃のライブ映像が非常に良い。薬師丸ひろ子ってこういう声してたよなあ、としみじみする。テクニックを弄することなく、まったく生まれたままのそのみずみずしさに感動してしまう。
さて、松本隆によるこの歌詞だが、この歌に死のおもかげを見る解釈があるらしい。愛を失いそうになっている男を殺すような、石川さゆり『天城越え』のごとき、無理心中のような、死のイメージである。歌詞には「一瞬で燃えつきて、あとは灰になって」とか、「朝の陽がさすまで、せめて眠り顔を見ていたい」とかあり、分からなくもないが、しかしその解釈は全く間違っている。この歌には、それとは全く違って、死ではなく、生でしかない決定的なイメージがあるのだ。
それは「ああ時の河を渡る船にオールはない。流されてく」である。サビの部分だ。時間は私の思いや行動を超えて、流れていく。時を止めたり、時に抗ったりすることは、決してできない。ここにあるのは、死によってさえも止めることのできない、生のイメージなのだ。
ドゥルーズ『差異と反復』第2章の時間論の中に、「蝶番の外れた時間」というのが出てくる。ハムレットに由来する詩句だが、ドゥルーズにおいては、これがカントの時間把握として捉えられ、後に『シネマ』へと展開もされる。蝶番(ちょうつがい)とは、それを中心にして扉が回転(運動)するものであり、時間の蝶番とは、運動によって作り出される時間のことである。無変化で不動のものは無時間である、というのが近代以前の時間観である。鏡のような水面は無時間であり、その上で、オールの運動がはじめて時間を作り出すのである。あるいは、死は永遠であり無時間である。これに対して、カントが発見した時間とは、運動に先立つ絶対時間である。ニュートン的な絶対時間・絶対空間に由来するものだが、これこそが運動に依存しない、蝶番のはずれた時間である。運動、変化、主体的な行動から独立した時間を、オールのきかない河としてイメージされているのが、この松本隆の詩であり、映画における戦後の現代性、時間イメージなのだ。
メモ:ドゥルーズの「蝶番の外れた時間」に関しては、『差異と反復』よりも、『シネマ』よりも、『批評と臨床』第5章「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」が分かりやすい。おすすめです。
(このページは私が見たテレビの感想を書くコーナーなのです)
昨日の夜、古舘伊知郎のトーキングブルースという特番を見た。締めに近い部分で、姉、40代と50代でそれぞれ死んだ親友、その三人への見舞いの場で、余命幾ばくもなく意識の混濁が始まっている彼らに対して、一様に、「また来るよ」としか言えず、その場をやりすごし取り繕ってきた自分の「覚悟の無さ」を告白していた。もう来れないことは明白なのに……。38年、しゃべりを仕事にしてきた自分だが、これまで一番大事なところで、まったくきちんとしたことがしゃべれなかった……、と。
感動して聞くべきところなのだろうが、私はともかく、古舘氏が全然好きではなくむしろキライで、でもそういうせいではなく、全然感動しない。古舘氏は、自分に「覚悟がなかったからだ」と言い、これからはあらためて、覚悟を以て、放送にも臨みたい、だから来週からの報道ステーションを見ていてくれ、と言った。「番宣かよ……」と、僕などは突っ込んでしまう。
近く死を迎えることが明白ではあっても、そんな相手に「また来るよ」と言ってしまうのは、それほどだめなことなのだろうか。逆に、そこで何か気の利いたセリフ、はっとするような警句や人生訓、生きる事を肯定するような美しい言葉、あるいは死を前にした悟りの言葉、そうしたものを発することが、それほど素晴らしいことなのだろうか。嘘くさいだけではないだろうか。死を前にして、人の言葉が凍り付いてしまうのは、許されるだめさではないのだろうか。
放送は、別である。権力に対して、きっちりと対決してほしいと思う。気の利いた言葉で応酬してほしい。その点で、来週からの報道ステーションの古舘さんの覚悟のほどは、期待していますよ。キライだが、ミヤネより(ハトリもかな?)よっぽど良いと思っていますので。
安倍首相の言葉ではない。私の言葉です。
TV見ればよかったな。この「大勝」は、実質的に、安倍自民党の負けに等しい「大勝」です(パレスチナ相手に4―0で大勝、みたいな)。最悪の事態にならなくて、ほんとうに良かった。まだ、戦前ではない。朝、新聞を見て。
当選数をつらつら見るなら、議席を減らしたのはまず自民党である。ついで、次世代というやつである。これは、旧維新の極右グループであり、新維新に残った中道グループが議席を守り、極右が全滅した、ということである。戦争が起これば自分にもチャンスがあると思っている日本の貧困若年層は、それほど多くなかったということだ。また、石原が引退したらしく、これで日本の極右の根は枯れていくだろう(自民の一部に根付いてもいるが)。さて、現在の維新ならば、民主とすり寄せが比較的可能である。
ここ数年、私の政治的予測はことごとく外れているが(笑い)、一つだけ当たったことは、橋本と石原の共闘は1年もたないだろうと予言したこと。もしかしたら私は、今後、橋本を応援するようなことになるかもしれない。
次に、みんなの党うち、自民党につきたいグループ(渡辺嘉美)が落選し、反自民の結いの党は維新に合流した。つまり、野党再編が進んだのである。それは、極右を含まない中道路線である。ここに左派路線が共闘すれば、現在の安倍自民党の極右・非民主的・新自由主義的な傾向がはっきり浮かび上がり、対立軸が見えてくる。
民主党が議席を増やしたのは、そもそももう増えるしか無い数だったせいもある。でも、減っても文句は言えないくらいだったのに、増えているのだ。海江田代表の落選は良いニュースである。党首を新しくして、出直しやすくなった。菅元首相が落選すればもっと良かったのに。
共産党が議席を増やしたが、二〇〇九年のように、全選挙区に候補者を立てない路線を歩んでほしい。今回は、3人立候補して民主+共産で、自民を上回った選挙区がかなりあった。石川1区、3区もそうだった。(前回は、どこも民主+共産を足してもまったく自民に足らなかった)。こういう可能性のある選挙区では、どうぞ候補者を立てないでほしい。今が緊急事態であることを認識して、自民党の補完勢力であることをやめてほしい。
憲法改悪については、特に9条については、公明党がある程度の歯止めになるだろう。がんばれ公明党(笑い)。
民主党は、平和主義・脱原発を明確に打ち出し、非共産の枠組みで左派勢力の受け皿を作れば、さらに支持を伸ばすことができる。世論調査では、9条改正反対、再稼働反対は、賛成より多いのだから。
小選挙区制度は、オセロゲームのごとく、当落が変わる。大逆転がありうる制度である。事前の大勝ニュースにも関わらず、自民が議席を増やせなかったことは、この国民にも多少の希望を持てるということだ。まったく揺れのない中選挙区制度もありだが、こうなってみれば小選挙区の面白さもある。しばらくこれでやってみれば、国民もバランス感覚が身についてくると思う。ラジカルにいこう!
午後9時。ヘッドホンで音楽を掛け、不愉快なので、テレビは見ていません。
今まで僕は、与えられた平和や自由をどう守り、どう生きて行くか、という形でしか社会というものを考えたことがなかったが、与えられた時代は、決して何ら特権的なものではなく、愚かな人類の歴史の一ページでしかないという認識が必要なのだと、ちょっと思っています。今、自分はもはや戦前を生きているのだという自覚。どう生きるべきか。恥ずかしくないように生きたいと思います。
秘密保護法、集団的自衛権行使の閣議決定、原発再稼働、内閣改造直後のウチワ問題、ワイン問題、そして大義無き解散と来て、こりゃさすがに現議席より少しは減らしてやや現状維持、ただし与党三分の二には甚だ遠いか、と楽観していたところ、新聞などによれば自民党は三〇〇議席をうかがう勢い、なのだそうだ。維新が議席を減らし、その分はほぼ自民党にいくのだろう。ただし、有権者の半分近くはまだ投票先を決めていない、らしい。これが何かの希望かとも思うが、どうやらそうでもない。 ため息しか出ません。
何度も書きますが、大河ドラマ『龍馬伝』の最終回、暗殺される龍馬の顔の上に、「○○県知事選△△氏当確」とテロップが出た。 この件に関して主演の福山雅治さんはラジオ番組で、「いいじゃないですか。メリケンでは、まつりごとをつかさどる志のある人を、入れ札でみんなあが選ぶがじゃ。それが横井小楠先生に教わった、デモクラシーちゅうがじゃ。と、龍馬は、それに向けて命をかけて戦っていたんですからね」と答えたのである。
選挙権もまた、普段の努力によってこれを保持しなければならないものなのだ。
表現の自由もしかり。党派を超えて、堂々と反原発や反戦を訴えた菅原文太さんのご冥福を祈ります。芸能人の多くが、自分の身を案じて発言を控えている中、堂々とやっているのは、菅原文太が正真正銘の大物だからだろう。
今年の美大祭で最もショックだったことを、備忘録的に書いておこうと思う。三日の日、「見に来てくれ」と誘われたので、某専攻の一年生有志が作ったという「映画」を観に行った。50分もある大作で、夏の頃、学内で撮影しているのを見かけたし、見てもいいかと思って行ったのだが、ともかくこれがほんとうにひどい代物なのであった。安易で幼稚なすいたはれたセカイ系のテーマ、予定調和的で他者不在の支離滅裂なストーリー、絵描きと思えない何も考えていない構図、どこにも何も一つたりとも工夫の見られないディテール、ショットのつなぎという映像文法への無知さかげん、演技が下手なのは織り込み済みだが……。彼らはたぶん映画というものを見た事がないのだろう、というレベルであった。中心になった学生は、上映の最後に「今後ともつくっていきたい」と挨拶していた。彼らが今後さらに向上していくことを望んでいるのであれば、厳しい批評をしてあげるのも優しさというものだ。そもそも、美大の授業(合評会)などは、そういうボコボコにされる/するのが仕事なのだ。彼らの所に行って、「映画、見たよ。それにしてもひどかったねー。君たち、映画ってものを見たことないでしょ。脚本は何日で書いたの?えっ三日。それじゃあやっぱりね」などと言ったのである。さっきまでわーいと騒いでいた子ども達はみょうにしーんとしてしまって、すごく変な空気になった。掃除をさぼって担任の先生にしかられている小学生みたいな感じで、急に神妙に押し黙ってしまったのである。やつら、あれをダメだと思ってないのだな、と私はようやく理解した。
我が美大生は、たとえ一年生であっても、およそ何かしら光る才能を持っているのが通例である。その筋のエリートたちなのであって、私との年の差などは関係無く、ある部分では対等に話ができる、だれでもできる、と思って大人扱いしてきたのだが、それがもはや虚妄に過ぎなかったことを、昨日の一件で思い知らされたのだ。学生と話すときは、もっと用心深く、注意しなければならない……。私は、昨日受けた衝撃に耐えきれなくて、いまここにこのことを書いてしまう。
……なんて言っているが、実際、このレベルの学生は、たしかにゼロではないにせよ、それほど多くは無い。私が年とともに感じるのは、彼らの無限性である。私が担当している、文学やら思想やらなんて、彼らにとっては小さいな領域なんだなあ、としみじみしてしまう。
全体、女子が元気が良い。
講演会で呼ばれたのは、数年前の卒業生、井上涼さんであった。youtubeで、あらためて彼(彼女)の作品を見てみるが、おそるべき才能だと思う。
アフリカンダンス部(今は女子ばっかり)を久しぶりに見たが、もうもろ肉食系女子(笑)である。それは、単に性的に積極的だというような意味ではなくて、身体を介して生を肯定するあり方をいうものなのだ(後掲の奥村愛子に関する考察を参照されたい)。
人形劇団サバランは、さらにすばらしく進化している。身体/人形の関係は、実在/表象の関係をつねに裏返していく。われわれの身体とは、そもそもそんなものに過ぎないのだ。新作『ピンクのイドラ』は、文化人形を抱き、スマホを携帯しスマホと会話する女子高校生が主人公であるが、テーマとして切り裂いているのは、平成の文化人形たるスマホである。スマホは、他者なのか自己なのか。実際、そういう境界性をぎりぎりの場面で生きているのが、女子高校生あたりだというだけで、すべての人間に共通につきつけられたテーマなのだ。健全か不健全かとか言ってる場合じゃない(笑い)。みんながそうなのだ。ただ、明確にそれに気付き、その中で生きているのが、彼女たちだということなのだ。
スマホもそうだが、様々な機器の発達は、「自己表現」を容易にしている。楽器さえ、ずいぶん扱いやすくなった。簡易なビデオカメラとパソコンのスペックの高さと編集ソフトは、だれでも映画を作れる時代になってきた。脚本だって、三日でなく、あと一週間も練れば、ハリウッド程度の起承転結は作れるだろう。それらをひっくるめて、「イドラ」というのだ。自己表現やクリエイティビティが、強迫観念として働いてしまっている。
才能のかけらも感じさせなかった、あの一年生たちが、自分たちの武器とモチーフを見付けてくれることを、願っています。
少し前に、イスラム国に行こうとした北海道の大学生がいた。「フィクションの日本ではなく、リアルな世界へ」みたいな事を言っていたようだが、ようは、就職活動がうまくいかないとかいう、閉塞感があってのことのようだ。
従軍慰安婦は国家の強制で行われたか否かの議論をめぐって、朝日新聞の記事が虚偽であったことが判明したが、国家が直接慰安婦制度を主導していなかったからと言って、国家が無罪無垢なわけではない。同じ理由で、たとえば徴兵制を敷かなくても兵隊を集めるができる。国民を貧困に置いておくことで、男は兵隊へ、女は慰安婦へと、自発的に(強制でなく)進むのだ。慰安婦なんて昔の話かと言えば、必ずしもそうではないようだ。鈴木大介『最貧困女子』(幻冬舎新書)という本があって、21世紀の風俗産業において貧困や知的障害などを食いものにしているおぞましい実態が描かれている。
防大の受験者、入校者が増えているという記事が『週刊ダイヤモンド』(2014年10月18日、64頁)にあった。この記事では、東日本大震災での活躍などに憧れてではないかと分析しているが、勘違いも甚だしいだろう。貧困や格差と無関係のはずがない。
しかし、貧困は、支配層にとっての好条件だと思っていると、大間違いである。貧困こそがテロリズムの温床であるという常識を、今一度かみしめておくべきだ。貧富の差や閉塞感を現状を打開したくて、防大に行く若者がいる一方で、イスラム国に行く者もいるのだ。万国のプレカリアート(貧困・不安層)は団結できず、どんどん増殖し分裂していくのだ。
2014-12-24 (Wed) 追記
「……〈帝国〉の強大さは革命的主体性としてのマルチチュードの強大さでもある。つまり、〈帝国〉が自己の権力を強化させるとき、〈帝国〉はその同じプロセスをとおして、みずからの転覆と崩壊の可能性を増大させているのである。」ネグリ=ハート『〈帝国〉』(p.515 訳者あとがき、2002年刊)
12年前にも、すでにこれを単純な希望のようには私はもう読んではいなかったが。がん細胞のように、革命の成功は個体の死を意味しているのではないだろうか。
今日、学校で、アンガーマネージメント協会っつーところの人がきてしゃべったんですけどお。なんかむかつく。うさぎとかめはそれぞれ何を見てたと思いますか?とか初っぱなに言ってきて。「ある小学校で聞いたら、小学生が『うさぎは夢を見ていて、かめは現実を見ていた』」って。なんだ大喜利か。おれは、亀はNHK見てて、うさぎはyoutube見てたと思うって答えたけど。
問題は、怒りは二次的な感情なんだって、さ。誰の説でしょうか。怒りの背後には、悲しみや寂しさや一時的な感情があり、それを見出だすことは、怒りの原因を見出だすことであり、怒りを静める一助になる、みたいな。それ、たんなるプラトニズムです。そんな実体論で収まれば、世話ないっつーの。怒りはストレートに怒りではないのでしょうか。そうでなければ、複合的なのではないでしょうか。おれはすっごい怒ってます。
昨日は皆既月食でした。今もまた、良い月が出ています。
今、グーグルで検索してみると、やはりこのうさぎとかめのネタも、もとがありますね。僕はこの質問を聞いて、「亀はゴールを見ていた。うさぎは亀を見ていた」と最初に思いました。これを回答にしているサイトがあります。ありがちですね。次に僕は、「兔は天を見て、亀は地を見ていた」と思いました。隣の研究室の先生と、この答えはかぶったようです。次に思いついた、NHKとyoutube がベストアンサーだと思っています。(ツイッターとユーチューブのほうがいいかな)
コピペ検索ソフトを悪く言うつもりは全くありませんが、しかし、少し気になるのは、コピペかどうかを教員がソフトを使って機械的に判断しているとしたら、それはコピペしている学生と同じレベルではないか、ということです。少なくとも、教員(専門家)なら、その専門分野について、それが誰かの意見のコピペかどうかは、読んでいてぴんときませんか。「ぴんとくる」というのは、グーグル等に掛けるべき用語がどれか、すぐに分るということです。専門家は、特別なソフトを使わなくても、効率的に、サイトからのコピペを検出することができます。
自分で読まず、助手なんかに検出させるには、便利なソフトかもしれませんね。「君のコピペをみつけたぞ。ただしソフトを使って」では、あまり説得力がないでしょう。
今、朝ドラの『花子とアン』というのを見ています。お盆前に実家に帰って、そこで見はじめたのですが、吉高由里子という女優さんは、すごくうまいですね。それまであまりいい印象は無かったのですが、すっかり大好きになりました。作品じたいは、ラジオ放送が国民世論を作りだしていった極初期の時代を、描いていました。戦争への荷担という問題を、誠実に描いています。NHKはいいドラマを作りますね。その直後に放送される情報番組のキャスター二人(えらそうな感じの女性アナウンサーと人の良さそうな壮年アイドル)が、ドラマの感想を語るのですが、これがまたあさーい読解で、世論操作の構造はいまもむかしも変わらないことを証明しています。
7月1日に集団的自衛権の行使容認についての閣議決定がなされた。まず、閣議決定は、その後に天皇の署名をもらうそうである。田中正造記念館に足をはこぶ今上天皇にあらせられては、ご無念であつたのではないかと思ふ。
この閣議決定を、憲法9条を実質的に廃棄に追い込むものだ、といった論調で批判するものがあるが、わたしはそうは考えない。閣議決定の持つ効力は、「すべて首相が決められる」程度のものでしかない。つまり、憲法を無視した手法でしかなく、小児の戯れ言にすぎないのだ。やつらの狙いは、最終的には憲法改定である。解釈改憲は、あくまで道程にすぎない。解釈改憲の結果、自衛隊が海外で武力行使を行うかもしれないが、それはあくまで憲法違反の可能性を持つのだ(いまのところ合憲の解釈可能性が高いにせよ)。いずれにせよ、グレーゾーンなのだから、今の時点で負けたかのように考えていてはいけない。
同じ理由から、私は、公明党をいまだ責めることはしないでおこう。教室の中にいて割り算の出来ない子どもとすこしちがって、割り算をしているふりはしてしまったが、けっして教室から出てはいない公明党を、まだ責めないでおこうとおもう。
憲法改正に関する96条の改正は、すでに白紙に戻っている。憲法改正をさせないこと、させる数をやつらに与えてしまったら、このときこそ敗北がくるかもしれない。
日本国憲法 第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
反対だと声明を発表しておかなくてはならない事柄ばっかりで、ほんとにいやになります。鼓腹撃壌は遠きにありて思うもの。しかし、日本国憲法を守る立場にあるみなし公務員として、憲法および憲法の精神を否定するものにたいして、きちんと反対の声明をだしておきます。
集団的自衛権の行使容認というのは、それをすすめている岡崎久彦という人の意見などを見るに、世界情勢において中立など選ぶべき選択肢ではなく、対立するどちらかの陣営において重要な役割を担うことこそが安全保障に寄与する、という発想を基礎においているようだ。カール・シュミット風の敵対性としての政治論(の程度の低い解釈)である。具体的には、アメリカとの同盟関係を完全なものにし、中国を(仮想)敵国と見なす。しかし、アメリカにとって中国はもはや仮想敵ではなく、うまくやりたいパートナーである。日本がどれほどアメリカにすりよっても、日本と中国の関係は良くならないし、(集団的自衛権容認論者が期待しているような)日本が優位に立つ可能性もないだろう。日中の領土問題は、日中で解決・対決(軍事衝突なしで)していかねばならない問題であって、アメリカに全面的に助けてもらうことはできない。それから、アメリカを嫌っている中東・アラブ、あるいはアフリカや南アメリカの一部に対しては、日本は完全に敵対していくこととなる。国際世界において、およそ賢明な選択肢ではない。イラクの自衛隊派遣において丸腰が心配されたが、丸腰ゆえにイラク人から信頼されたという報告もある。要は、自身の賢明さであって、武力装備でも親分が誰かでもないのだ。
やつらは結局、ずいぶん時代遅れの親米右翼にすぎないのだ。
次に、集団的自衛権の行使容認を、改憲によってでなく、閣議決定による解釈で行うというのが、とてつもなくひどい話である。小林よしのりらを始め、憲法改正(改悪)主義者のなかにも、閣議決定による解釈改憲を批判している人達がいる。これはこれで、立憲主義の意味を分っている。それに対して、岡崎久彦という人は、集団的自衛権の発動や範囲の決定は総理大臣が行う、と言っている。法の精神を共有しない、おそるべき人である。
公明党はずいぶん以前から(自公連立のはるか以前の八〇年代から)「キャスティングボードを握っているのは我が党だ」みたいなことを言ってきた。創価学会が異例の反対声明(これまでの政府見解の支持)を出した。がんばれ、公明党! あるべき、敵対性としての政治とは、その敵対対象が変動可能であることだ。一生あいつとは敵で、こっちとは味方、というような安易なものではない。公明党は連立離脱も辞さない構えで日本の平和主義を守るか、それとも唯々諾々と自民党にべったりでいくのか、試されている。
昨日、福井地裁で大飯原発の再稼働は認められないという判決が出た。今朝の新聞(北陸中日新聞)でその判決要旨を読んだ。最近よく判決文というのを読むのだが、これは法令の文章の持つ無味乾燥とも、文学の華美流麗とも、哲学の晦渋荘厳ともちがって、簡潔明解なのに人を感動させ、美しい。もちろん、中身があっての美しさである。
天皇皇后両陛下が、渡良瀬遊水池や足尾銅山などを旅して、田中正造の直訴状なども見学してきたそうだ。17日には、うちの父親も同じコースを旅している。天皇陛下も「足尾から来た女」を見たのかな。
いま「濃ーいトマト」というあめだまを舐めているのだが、これすっごく美味しい。
ニュースが盛りだくさんで、もう訳が分らない。その中で一番どうでも良い話題がこちら。多量の蔵書を見て、「この本、全部読んだんですか?」と聞く直球を投げてくる人(学生とか)がいる。これをどう切り替えす(?)か。ト学会の唐沢氏の本で「切手マニアに、この切手、郵便物に貼るんですか?と聞くようなものだ」というのを読んだことがある。面白い。高校時代と教育実習でお世話になった加藤先生は、「読めると思いますか?と聞き返している」とお答えになった。これも面白い。20年くらい前から僕が思っているのは、そもそも「読む」ってどういうことか?である。1、本を開いたことがある(買ってまだ開いていない本もある)、2、ページを順番にめくって文字に目を通した(分らなかった、とばしとばし読んだ)、3、一度中身を理解したはず(でも忘れた)、4、今でも中身を記憶している(たいしたことなかった)、5、現在私の一部になっている(すべての本がこうなるはずはない)。以上の五段階があるとする。「読んだけど忘れた」が最も人間ぽいまともな回答だとすれば、3をもって読んだことになるのだろう。でも、実際、そんな読書は暇つぶしにすぎない。そうなると、4か5が「読んだ」ことになるはずだが、しかし、それはおかしくないか。書籍とはそもそも外部記憶装置なのだ。それをわざわざ内部化して良いことだと思うような態度は間違っていないか。 武雄市の図書館が、指定管理者というシステムで、ツタヤがこれを運営しているというのが、昨今、新聞なんかで読んだ。話題になっているようである。私は、ツタヤとかブックオフとか大嫌いだが、彼らが文化をこわすとまでは思っていない。広い意味で本屋であり図書館の味方だと思っている。公立図書館は公立図書館で、存続意義のために来館人口を増やさなければならず、四苦八苦している。そもそも、出版文化自体が商売を基本にしているのだ。学問の理想にへんな幻想を抱かないほうが良い。
閣議による解釈改憲を行おうとする安倍首相は酷いが、ロシアのクリミア侵攻(?)と中国でのウイグルの虐殺とを見れば、結局最も酷いのは旧東側の大国ということなのか!?佐村河内守のゴーストライター事件。日本最初のゴーストライターが誰だかみなさんは御存知ですか、江島其磧です。作品そのものでなく、作者がブランド化するとき、ゴーストライターが生まれるのです。同じように、STAP細胞もまたすごい話である。昨日の理研の会見は見ていないのだが、今日の新聞を読むかぎり、すさまじいものがあるかんじがする。まあ、多少無責任な言い方をすれば、ふつうコピペはやらないだろう。それよりも、そもそも万能細胞という発想自体がすさまじい。 アンネの日記を破っていた事件、犯人らしき者が逮捕された。予想したとおり、たんなる勘違い野郎のようである。日本では、韓国や中国に対する差別は厳然とあるが、狂信的な確信に満ちた憎悪による反ユダヤ思想はあまりないのではないか、しかし有ったら怖いなと思っていたので、へんな言い方だが、たんなる勘違い野郎のようで、脱力したというか、安心した。
森東京五輪組織委員長の失言に対しては、まともなことを言っている式の擁護論を言うマスコミもいる。発言の全文を読めば、浅田選手個人を批判しているのでなく、団体に浅田選手を出させた体制に苦言を呈したのだ、というわけだ。五輪組織委員長の発言はたしかに、勝てるはずのない団体に浅田選手を出して恥をかかせる必要はなかった、という趣旨のものであるが、その「恥をかかせる」は浅田選手への気遣いではなく、日の丸に対するそれだろう。東京五輪組織委員長にとって、転んで低い得点で終わることは、どこまでも日本の恥なのだ。選手への気遣いなどでは決してない。
(五輪に出るレベルではないと、リード姉弟の批判もしていた。こういう事を言う者が、第二次世界大戦中、日系アメリカ人を差別し虐待したのだろう。)
浅田選手は団体に、いやいや出ていたのか。鈴木明子選手は年長のリーダーとして、浅田選手は日本最高の選手として、自信と責任を持って団体戦に出たのではなかったか。浅田選手に恥を欠かせないために出場させなければ良い、という発想は、どうせ死ぬのだから生まれてこなければ良かったと言うのに近い。浅田選手はそもそも、転び、恥をかくかもしれない前提で、その覚悟で、オリンピックに出場しているのではないだろうか。
勝つことが義務付けられていて、失敗することが許されない選手は、新しい技、完全ではない技には挑戦させてもらえない。そうした自由がないのだ。なぜなら、オリンピックに出ることは国家のためだからだ。
内村航平以上に金メダル確実と思われた高梨沙羅選手、7位から一段ずつ昇っていき最後にしかし4、4となった上村愛子選手。彼女たちもまた、自らの基準を示したのである。(高梨選手はいずれ取るのだろうけど)
学校教育法109条に謳われている大学の自己点検評価については、かねてから「評価疲れ」等の批判がなされてきた。存在意義を示すためにアリバイ的な文書をひたすら作成し、無駄な労力を費やす、愚行の極致である。実際、システムを最も効率よく動かすためには、点検などせず、どんどん動かすのが良いのである。サッカーで言う「勝っているチームは下手にいじるな」である。もっと言うなら、最も効率の良いシステムは暗黙知として成立するものであって、言語化も点検も不能であり、それこそが良いのだ。
……と、思っていたのだが、最近では私も「やはり、点検は必要ではないか」と思うようになったのである。私も年を取り、自己点検をされる側からさせる側になり(自己点検なのに、される・させるがある。笑い)、体制側の発言をするようになったから、ではない。3.11フクイチを経験して分ったことは、効率を第一において慎重な点検を忘れることが最も恐い、ということであった。
教員の個人評価についても、私は、他からの基準によって人から評価されるのではなく、自らの基準で自らを評価するのが大切だ、と考えている。評価されるのではなく、自主的・主体的に評価するのである。これに対して、「それは欺瞞というもので、実際は、上からやらされているのだ」という見方がある。近代的支配の本質は、規範が外から与えられるのではなく、内面化されるという点である。それゆえ、主体的な行動と強制的な行動との区別は出来ない、というわけである。
しかし、もう少しこの問題を具体的に考えてみよう。たとえば、授業はわれわれ教員にとって、主体的に取り組むべき仕事か、あるいはいやいやアリバイ的にでもやらねばならない業務か。私が教員をやり始めた20年前、私の前任者の坪井先生は研究第一の学者肌で「授業なんて、面倒くさいし、ばかばかしい」と言っておられた。かっこいい!と思ったが、今日では、こういう発言をする大学教員は随分少なくなっているはずである。今や授業は、主体的に取り組むべき業務なのだ。授業に取り組むことと研究を成就することとは今では決して対立しない。
教員の自己評価も、今後、そういうものになっていくだのだろう。少々流行の言い方で言うなら、自己評価はセルフ・プロデュースである。表面的なもので終わるか、意義あるものになるかは、プロデュースする御本人次第ではないだろうか。(ちなみに言えば、もちろんセルフ・プロデュース以前に、セルフ・マネージメント(自己管理)が出来てないといけない。大学教員は社会的弱者ではないからだ。)
なお、本学の教員個人評価の方法は、結果を数値化して教員を序列化しようとするものではないし、また、基本的には給与や昇格に直結させるものでもない。国立大学法人などで初期の頃から行われているやり方とは、目指している点がまるで違うということは理解してほしい。
それから、目標を立てたが、予算(競争的な研究費など)が無いとそれはできません、みたいなやり方を安易につかうべきではないと思います。それは、評価を研究費に反映させるものである。今の若手には、むしろもっと評価してほしい、と考える者がいる。相対的に、若手はつねに評価される側であるし、評価の基準を握られている側である。つまり、弱い側である。にも関わらず、評価を求めるのは、自分は高い評価を貰えると信じているからだろう。自分さえ良ければ良い、という発想だとまでは言わないが、自分は評価されると思っている点で、笑ってしまうほどに楽観的である。大切なことは、評価の基準を自らが握ることである。
NHK『足尾から来た女』(1月18日、1月25日、前後編)を見た。父も入院先の病院で見たようだ。けっこう良いドラマだったと思う。路面電車を実車で実現している点なども良いが(笑)、ともかく制作の志が良い。人を犠牲にして国など成り立ちはしない、そういう田中正造の思想を鮮やかに描いている。男は色に迷って金や名誉に溺れて志をわすれるが、女はそんなに馬鹿じゃない、そういう福田英子の思想も描かれている。(ははは、耳がいたい)。100年前と何もかも同じ日本。
平民宰相と言われ、普通選挙を行った原敬が、足尾銅山の副社長だったなんて、知らなかったなあ。
電話で話した父は、今はテレビなんか見てもすぐ忘れるが、今回の前編後編はちゃんと覚えているよ、と笑っていた。父は、若い頃に石川啄木ファンだった。先頃までは大逆事件に連座した小千谷市出身の内山愚童師の顕彰碑建立に関わっていた(昨年11月に完成しました)。このあたりはみな人脈が関係している。
福田英子の『妾の半生涯(わらわのはんせいがい)』(岩波文庫)を、このドラマをきっかけに、この度読んだ。鈴木保奈美が演じた雰囲気は、けっこうさばさばした女性(脇役っぽい)であったが、『妾の半生涯』の福田英子は、もっともっとおてんばで快活で(人生の主役っぽい)、朝ドラの主人公のようだ。しかし、19歳で爆弾を運んだり(大阪事件)、入獄したり(獄中の様々な逸話がまた傑作で爽快だ)は、朝ドラには無理だろうなあ(笑)。
NHKは安倍政権成立以後、原発に関しても秘密保護法に関していて政府よりの報道ばかりしていてたしかにけしからんけれど、全部が全部というわけではなく、こうした骨のあるドラマをこの時期に作ろうとする意志と予算があるのだ。そこは率直に讃えたいし、期待もしたい。フクシマのフの字も出て来ないが、このドラマのメッセージ性は明白である。TVというのはそもそも薄っぺらなメディアにすぎないが、だからこそ、見る側が十分に知って、自ら補って見ていかねばならないのだ。
と、ここまで書いたが、以上を全面撤回する。NHKはやっぱりダメだ。籾井勝人というNHK会長は、安倍首相のお友だち人事のようだが、ひどすぎる。
芦田直宏『努力する人間になってはいけない』という本が、すこし前の北陸中日新聞の書評で激賞されており、著者は哲学を学んだ人であるらしいということもあり、興味を持ち読んだ。大変良い本でいろいろ目から鱗状態なので、二点ほどメモを残しておきたい。
吉本『言語美』に見える指示表出と自己表出という二分法をどう考えるか。私は、日常言語(対象を指し示す言語)と詩的言語(対象を作り出す言語)の対比だと、その程度のもんだとばかり思っていた。そして、作られるのは結局自己かい、自己中心主義かい、と思っていた。吉本ファンの芦田氏によれば、そうではないらしい。すなわち、要素を積み上げて全体を作り出そうとする科学主義、サイバネティック、ファンクショナリズムの思想が指示言語であり、それに対する全体性が自己表出なのだそうだ。ドゥルーズ風に言い換えれば、ヒューム/カント的問題すなわち経験は如何にして認識に達しうるか、アプリオリな総合判断は可能か、という問題である。つまり、経験論的問題(要素が全体を作りうるか?)/超越論的問題(経験を超えた全体性を可能にする条件とは?)の問題なのだ、というのだ。吉本隆明はみずから依拠した非AのコージブスキーやS.I.ハヤカワの言語論からそこまでの問題が引き出せたとしたらほんとに天才ですよ(笑い)。
さて、吉本=芦田氏の解釈は、サイバネティック、ファンクショナリズム的な要素主義を徹底して批判するものらしいが、かといって、ではどのようにして全体性が可能であるかは、本書からはよく分らない。氏が依拠するハイデガーも(まあ僕は何も知らないけど)、レヴィナスが批判するような、全体性としての存在論なのではなかろうか。それは、ファシズムとほぼ同義の全体性ではなかろうか。ベルクソン、ドゥルーズなどが志向するのは、機械論(ファンクショナリズム)と目的論を同時に乗り越えることであり、経験に内在して超越論的なものを構想することである。
二点目。受験勉強の効用を述べた件が目から鱗であった。人はヒューマンスケールのコミュニケーション共同体から、それを超えた世界を体験するようになり、それが大人になることだ、と説く。口が上手くて相手を言い負かせるとか、腕っ節が強くてなぐって勝つとか、そういう人間的な力が及ぶ世界の外側にまた世界は広がっているのだということを知ること、この経験が人を大人にするというのである。なるほどなぁ。受験は、全国規模で偏差値に割り振られ、自分の位置付けが決められる。こういう世界を知ることが受験の効用なのだ、と。ちなみに、AO入試・一芸入試など人間力を問うあり方は、これに逆行しているという(それらはハイパー・メリトクラシーと呼ばれる。メリトクラシー実力主義を超えた、人間力とかコミュニケーション能力とか、ベタな力である)。
やっぱ、なるほどなぁ、と思う。
ここで気付かされるのは、この受験の問題もまた先の超越論的問題と同じだということだ。ただし、それで言うならば、子どもは模擬テストや受験によって初めて経験を超えた超越論的領域を獲得するわけでは決してない。田井実地子のように、受験をしなくても、本を読むだけで、超越論的経験は可能なのだ。あらゆる経験は、その背後に、経験を超えた領野を持つのだ(それはちょうど、コピーを取るだけの単純な作業にも段階があると芦田氏自身が説くように)。逆に、受験もまた一つの経験(経験的経験・日常)に堕していく。
ちなみに言えば、政治は典型的な超越的世界であろう。政治に興味が無いという層と低学歴層とはかなり重なるだろう。経済も十分に難しい範囲だが、給料やバイト代をもらい、消費生活を送る以上、まるで見えない異界ではないだろう。芸能ゴシップなどは、遠い世界のはずなのに、近い。これは経験化されている領域である。受験も、慣れてくれば、手なづけられたテクニックの世界になってしまう。
なお、タイトルは一見センセーショナルだが、努力というのは自己のやり方を変えない、考えない、思考欠如のやり方だ、という趣旨。ドゥルーズが言うような、積極的な意志自体をすべて疑問視し否定するようなところまでは、言ってはいない。
かつて民主党による政権交代の頃、自分がまさか小沢一郎を支持することになろうとはと驚いたものである。そして、いまや、私が小泉純一郎を応援するようになるなんて!(なお、細川護煕元首相は、当時も今も特に嫌いでもなかったが、全く好きではなかった)
僕は小泉純一郎元首相を現在に至っても全く信用などしていないが、それでも、現在の政府自民党の極右横専には非常に危険なものを感じるので、ここは何であっても細川−小泉路線に戦略的にも連帯すべきだと思うのである。宇津宮ケンジ氏に一本化を打診した社民党はまともだと思う。「脱原発以外にも、論点は多い」という意見は、自民党によるまやかし的論理である。これを言っている宇津宮氏は、自民党の補完勢力でしかないことを強く自覚してほしい。「世の中がどんなに酷いことになっても、私が正しい道を歩んでいられればそれでいい」という考え方は間違っている。「私が金を儲けてうまいものを喰っていられればそれでいい」と全く変わらない。
桝添氏と自民党は、本気で選挙に勝ちたいなら、タモガミという人にも、一本化を打診したら良いのではないだろうか。まあ、彼らの心配を私がしてやる必要は無いが。一本化されるといやだな、と正直思う。実際、そういう連中が我々の敵なのだ。
「地元へ帰ろう」という歌がある(らしい)。何となくこのフレーズが気に入らないのは、流行語(新古語)であるジモトをさもうまく使っている点である。たしかに「フルサトに帰ろう」でも「イナカへ帰ろう」でもないのだ。それらでは言い表せないものが、ここにはあるのだ。それはまさしくジモトなのだ。
院生に「先生は高野文子さんを読みますか?」と、しばらく前から言われていたのだが、もちろん知らないわけはないが、あんまり興味もなかったのである。別の学生に『ラッキー嬢ちゃんの……』という本を読ませられたこともあり、お勧めという『黄色い本』という作品を昨年暮れに読んだ。読み進めて少しして「あれれ?」と思う。使われているセリフは方言なのだが、これ新潟ではないか。私の地元だ。
『黄色い本』は、1960年代の田舎の女子高校生が『チボー家の人々』を読み進めたという記録である。日常としての家庭があり、高校生活があり、進路や勉強を気にかけつつ(恋愛云々は特に出て来ない)、第一次世界大戦を背景に革命運動をこころみるジャック・チボーらの生き様を、あたかも自分の友人であるかのように読んでいくのだ。本を読むとは、そういうことだ。私は『チボー家』は読んでいないが、高校生の時、9ヶ月掛かって『ジャン・クリストフ』を読んだ。友人のようにおもって、励まし励まされ、読んだものだ。
チボー家の人々は、もちろんフィクションであり、また時代も国も、時空を異にする。にも関わらず、彼女にとってはあたかも隣に居るごとく、あるいはすこし遠いが、結局はこの地続きの場所にあるかのように、感じられる場所(トポス)なのだ。
ベルクソンが言う現在と過去の同時性とは、現在(物質・知覚)と過去(精神・記憶)は常に同時に生起する、ということである。宗教者ならばこれを、この世界はいつも神と共にあると言うところだろう。
『黄色い本』では、主人公の女の子は結局、革命運動に身を投ずることはなく(つまり、東京へ進学し学生運動に身を投ずる、トックリ男のようなことはなく)、読み終えた『チボー家の人々』を図書館に返す。彼女は地元のメリヤス産業に就職する。
先日、新潟の実家に帰ったら、親父が片付けていた本の中に『絶対安全剃刀』が入っていたを見付ける。私のではなく、たぶん弟の蔵書だろう。捨てられるのを救い出して、すこし読んで見る。「田辺のつる」が名作の誉れ高いのは前から知っていたが、やはりあまり感心しない(なぜだか分らないが)。
「あぜみちロードにセクシーねえちゃん」という作品がある。これを読んで「ははーん」と思う。これは『黄色い本』と全く同じ話である。「あぜみちロード」は、同時代の80年代が舞台であり、主人公の女子高校生は、日曜日か、自宅の自分の部屋で、コンポ(笑い、大笑い)でFMラジオを聞いている。彼女は近所からも良い子だと言われている。高校を卒業したら地元に就職して、いずれ近いうちにまともな結婚をすると見なされているからだ。 ところで、なぜ自分の部屋にある30センチ幅のコンポーネントステレオで笑わねばならないのか、すこし世代が違うと全然わからないだろうなあ。コンポーネントステレオっつうのは、僕らの世代の絶対的なアイテムだったのだよ。それは信ずべき豊かな未来の象徴だったのだよ。尾崎亜美も沢田研二も、YMOもブライアン・イーノも、これで聴いたのだよ(その後、すぐにウォークマンへ音楽の王座は譲られる)。自宅に高価なコンポーネントステレオを置けるのは、東京進学をしないこととの、交換条件なのだ。ドリカムの『未来予想図II』の若者がバイクやサンルーフ付きの四輪車を乗り回せるのも同じ理由からだろう。
閑話休題。この女子高校生は、しかし「良い子」であることは、じつは嫌だとも思っている。この短編作品は、聴いていた生放送のラジオ番組から電話が掛かってきて、彼女はその電話に出る、という小さな「事件」が起こるだけの話である。彼女は、地元で生きる未来を余儀なく選択しているが、東京のラジオにはがきを書いて送っているのだ。東京とは、絶望的に遠い、しかし地続きのあこがれの地なのだ。彼女はラジオからの質問に、大学生ではない、高校三年生である、受験勉強はしていない、と答える。しかし、来年の五月にライブをやるんだが、とか言うラジオのDJかアーティストかに対しては、来年の5月には東京にいるはずだ、とも答える。密かに大学進学か就職(あるいは家出)を考えているということか。または、単にその場の流れで、ラジオに対して嘘を吐いた(または、見栄をはった)のか。その判断は今しないでおこう。ただ重要な事は、私にとっての地続きの別の場所が存在するということなのだ。
高野文子自身は、東京を選んだ高校生だったはずだ。私もそうだった。あぜみちロードのセクシーねえちゃんも、黄色い本を読んだ田井実地子も、実現しなかった可能なる自己である。あるいは、作品において初めて実現したのかもしれない。そちらのほうが真実の姿なのだ。ゆえにそれは歌われるのだろう、「地元へ帰ろう」。
昨日参議院の委員会で強行採決され、今国会中(今日中)に自民党と公明党が通過させようとしている悪法である。私も、表現や学問、言論に関わる人間として、そして日本国民として、反対の表明をきちんとしておこうと思う。
統治の方法には2種類ある。人民を賢くさせ、人民による自己組織化を図るものと、人民を愚かなままにして、それを外部から組織する方法である。人類の歴史は人民が徐々に賢くなっていく過程だったはずであるが、その道のりはいつも途絶してきたのもまた歴史の教えるところであろう。人類のピークは1968年あたりだったのかなとも思う。統治の方法の問題は富の分配と複雑にからまりあっているゆえに、賢愚もまた分化・発生するものであり、資本主義のシステムの結果によるものとも見える。だとすれば、資本主義のループからの脱出は不可能なようにも見える。
『風の谷のナウシカ』において、抑圧者であるトルメキアの王は、もともとは民主的な君主であったが、人民は本質的に愚かであり自立できない存在だと見限り、それから圧政を行うようになったという。圧政を肯定するこの思想(悪は悪なりに自ら信じる正しさを生きている)を、ナウシカとともに超えていかなければならない。
吉田喜重の『エロス+虐殺』をDVDで久しぶりに見た(大学生の時一度見ていたが、『キャシャーン』を見て以来、無性に見直したくなったのである)。大杉栄を描いた映画だが、著書の中でこの自作について次のように語っている。大杉栄の虐殺は、国家権力による抑圧の結果でなく、大杉栄による抵抗の組織化であり、抵抗の結果である。こう考えるときに大杉栄は私たちの希望になり武器になる、と。吉田喜重『見ることのアナーキズム』より。
山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学』は、今年最高の本ではなかろうか。ガタリ論も附されているが、次のような説を紹介している。割り算ができない子供は、学校による抑圧の結果ではなく、学校への抵抗戦略であり、割り算の拒否によって自己の状況を組織化しているのだ、と。山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学』P296。
デモをテロリズム呼ばわりする石破幹事長は、じっさい、デモを恐れているのだ。人民に権力を!
今年の美大際を少し備忘録的に。初日の2日にChim↑Pomのエリイさんの講演会があって、会場の美大ホールは比較的すいていたが、良い講演会だった。紹介された作品もよかった。相馬市で作ったという「気合い100連発」という作品なんか、すごく良いと思う。印象的だった質疑応答を記しておく。
まず、「作家として食べて行くにはどうしたら良いか?」という質問。これは最近特に院生あたりがやたら話題にしている問題(?)なのだが、それに対する回答。「仕事なんていっぱいある。作家で食べることもたいして難しくない。けっこうやっていけるし、スポンサーだって、そのきになれば案外すぐにつく。しかし、スポンサーが付くと、それに応じた作品を作らなければならなくなってしまうだろう。問題なのは、自分がどこにその線を引くかである。自分たちは、そういうかたちで自由を放棄したことはない。たんにお金を稼ぎたいだけなのか、それとも美術をやりたいのか、そこをはっきりさせておかないといけない。」
「エリイさんは若くて美人で、それを売りにもしている。年を取ってしまったらどういう戦略を考えているか?」「若いことやかわいいことには、たいした価値はない。それを売りにしたつもりはないし、今は今なりに、クソババアになればクソババアなりにやれば良いと思っている。」質問者に較べて、覚悟のレベルがまるで違う。
こんな質問もあった。「Chim↑Pomさんがいくら反原発などの作品を作っても、現実には、国会議員や東電社員のほうが力を持っている。」……あまりに素朴で衝撃的だったので、よく覚えていない。入場者はうちの学生ばかりではないようなので、こんなクソ野郎がうちの学生でなければ良いのだが、と思う。エリイさんは、あきれもせずにきちんと答えてくれてた。
(念のために書いておくが、「国会議員」も、ましてや「東電社員」も、敵ではない。彼らはむしろ急所を掴まれた捕虜である。加えて、あるいは彼らが敵だとしても、勝てないと思い込んでいる時点で、君はこれから未来、弱い者イジメくらいしかできない人生を歩むだろう。)
2日と3日には、美大の人形劇団サバランの公演があって、これはどちらも見た。女の子だけで組織された劇団である。団長が脚本等を書くが、彼女もエリーさんという。昨年の美大際公演の時の作品は、それぞれ違った欠点を持つ二人の少女の友情物語で、まだ平凡なおとぎ話という感じもしたが、オリジナルの脚本を作り、オリジナルの人形を作っている点で期待はされた。今年の春に発表されたフランソワーズという作品、五芸祭で発表された白いもやという作品(これは金沢を舞台にしている)は、もう自律的な世界が展開されている。どんどん成長している。今回の「肉と花」は30分くらいの長めの作品になっている。彼女らは、人形劇の前提、すなわち表現としての人形とそれをあやつる背後の人間という二世界的前提を自明視していない。人形は人間が作り出した作品であることをむしろ肯定している。それは彼女らが彫刻や絵画を学ぶ者たちだからだろう。人形浄瑠璃において太夫は人形の背後に隠れず、自身の身体をさらすが、人形劇団サバランの発想は、それに沿い、それを超えさえしている。
彼女らの順調なる成長ぶりにあまり感動したので、なんか出来ることはないかと思って、批評文を作ってみた。最初作ったのをプリントアウトして、「これを模擬店の店内に貼るように」と渡したが、その後文面が気に入らず、少し直した別のを持って行ったが、最初のほうが良いと言われて却下されました(笑)。自分の基準を持つのは良い事です。
最終日4日のお昼から、美大ホールで劇団べれゑの公演があった。作品はサルトルの「出口なし」だ。「出口なし」なんて、実は見たことないです。テレビでもない。まずはこれが見られて良かったのだが、出来はそれ以上だった。ボーイも上手かった。ガルサン、イネス、エステルの3人。この3という数字・関係の絶対的な不安定さ描く脚本を、十分にこなしている。福永武彦『忘却の河』には、大学生の藤代香代子がイネスを演じるのだが、出来の良い大学生なら十分に演じられることが、べれゑで証明された。イネスは昨年からべれゑの主演女優の2年生だが、ボーイ、ガルサン、エステルは1年生である。それぞれの個性が上手に出ていて良い。演出の藤本君は、背後でエレキギターを弾いているが、これがまた上手い。
DVDか何かにしてほしい。来年の授業で、学生に見せたい。あるいは、youtubeで公開してほしい。べれゑは通常おしげもなく、次から次へと演目をかえていく。このまま埋もれさせておくのは惜しい。
私が私のゼミでくずし字を教えた学生たちで去年くらいから「くずす会」という研究会を開いている。彼女らは今年、模擬店を出していた。私もちょくちょくそこへ寄ったが、私の写真を売ったりしている。非常に恥ずかしいが、馬鹿にしているわけではないと連中は言う。なお、私はリベートなり使用料なり一切取っていません。今年は、美大際パンフレットにも取り上げていただいて、大変有難い(と言わざるを得ない)のだが、まあタカハシは楳図研究や近世文学・出版研究もなーんだかイマイチで、売れて美大際パンフレットレベルかあと思うと悲しい秋であった。
『笑っていいとも』が来年三月で終了だと、今日の新聞に書いてあった。
僕は若い頃、タモリの脱力した無責任男っぽいテイストが好きになれなかったし、この番組の「みんなが見てて当然」ふうを装う文化ファシズム的な雰囲気が大嫌いだった。「いいとも!」とか言うかけ声も大嫌い。始まった1982年は、ちょうど大学に進学した年で、同級生が「〜していいかな?」などと言い、「いいよ」とか言うと、「いいとも!って言ってくれなきゃ。わかってないなあ」みたいな展開になって、不愉快というかばからしいというか。自慢ではないが、僕は一度も脳天気に「いーとも!」などと口走ったり叫んだりしたことはない。今の人には信じがたいと思うが、初期の数年間は、ほんとに「いいとも!」とか言うやつらが町中にあふれていたのだ。
初期の頃、中村泰士がコーナー司会を務める替え歌替えメロというコーナーがあった。「おたまじゃくしに足が出て、替え歌替えメロ蛙の子……」とかいう歌を、タモリと中村泰士が振り付きで歌うのが、そのオープニング。歌詞を替えたり、メロディーを替えたりして、素人が結構面白い歌を作ってきた。高校生くらいの細身の男子が連続して出てきて、中森明菜(デビュー曲の『スローモーション』)風で歌を歌ったりしていたのがすごく感心した。
ただし、基本、この番組はだいきらいだった(笑い)。
金曜日は、タモリとさんまとが丸テーブル一つはさんで立ち、ただしゃべるというスタイルだった。有吉佐和子がテレホンショッキングに出演して、最後まで居座った回も、たしか見ている。黒柳徹子が出て、久米宏に「次に呼ぶのはあなたではない」と電話を掛けたこと(繋がらなかったような気がする)も、たしか見てたと思う。初期のころは、ブッチャー小林という人が、電話をとりついでいたなあ。
ただし、基本、この番組はだいきらいだった(笑い)。実際、ほとんど、まったく見ていない。最近、テレホンショッキングが、友だちを呼ばないシステムになっていたのを知って、軽いショックを受けた。最初からともだちの輪などやらせ・しこみ・演出だとは思っていたが、逆にここまで開き直られてもなあ。
僕自身が三〇代を過ぎてから、タモリ倶楽部などでのタモリの面白さを味わえるようになって、嫌いではなくなり、特に赤塚不二夫の葬儀の際、おそらく日本一忙しい芸能人が、しかし義理を欠くことなく出席し、しかも、愛情と感謝にあふれ、身をわきまえた謙虚な、そして素晴らしい弔辞を読んでから、むしろタモリは僕が尊敬する人物になった。しかもあの名文は、勧進帳(白紙、そらで読んだもの)なのだという。話術の達人、天才とは、こういう人のことをいうのだろう。
今テレビは主役をおりつつあるメディアである。しかも、島田紳介やみのもんたといった過度にブレイクした司会者が消え去ろうとしており、それを好ましいことだと歓迎されているこの時期、タモリは(久米宏なんかもそうだったが)、僕が比較的好きな芸能人である。テレビの人を好ましく思うことが、かならずしも良いことだとは、思ってもいないけれど。芸能人にしても政治家にしても、テレビは、いやなやつが出るメディアであることのほうが、はるかに健全なのかもしれないのだとしても。
近世の基本思想は朱子学ではなく、陽明学である。近世期に陽明学は多く研究され、影響を及ぼしており、近世文学などに見られる「情」を描くものもまた陽明学の流れにある、という説がある。
学問的に精密に論じられているにもかかわらず、この説があまり感動をもたらさないのは、典拠論として論じられているからである。日本近世のだれそれは李卓吾を読んでいる、だれそれの説はそうした影響下にある、と、そんな感じでいくら実証してみせてもあまりぴんとこないのは、人間というものを言説を伝える箱としてしか見ていないからである。人は読んだり教えられたりすればそのようになるわけではない。読んだり教えられたりしてもなお、それを自ら選択しているのだ。その選択は、典拠論的な実証を超えている。たとえ似たようなことを言っていても、それは、その説を読み教わったからかどうかは、実証不能なのである。説の共通性は、直接的な影響関係ではなく、人の思考の自然の傾斜によることがある。人はおよそ同じ頃に同じようなことを考えている、という偶然にも似た邂逅や発生はよくあることなのだ。だから、ある人がある説を読んでいることを実証できても、その説に心酔しているかどうかはまた別なのだ。つまり、人間の心は朱子学で言うような「理」一辺倒ではなく、「情」的な側面があり、江戸文学はそれを描いていたとしても、それはある種の普遍性の表れであって、だれか(陽明学)から教えられたものでないければならない理由などどこにもないのだ。
人間の心をどう観るか。どの時代にもいつも二種類のパターンがあったということを理解しなければならない。
心は、真たりえ善たりうるか? この問いに対して、生得的に可能だという思想がある一方で、不可能であるか、あるいは可能ではあるがその根拠はないとする思想がある。西洋哲学で言うなら合理論は前者であり、経験論は後者である(カントは前者、ヒュームは後者である)。朱子学は前者であり、陽明学や仏教は後者である。これは、特定の思想と思想家に限定されるものではなく、また直接的な影響関係(典拠関係)を必要としない、古今東西変わることのない、心に対する二つの発想のパターンである。
日本近世は陽明学だという説は、小倉紀蔵著『入門朱子学と陽明学』を読むと、さらに別のかたちでも瓦解する。本書によれば、日本近世は朱子学でさえないのだそうだ。朱子学は、イデア論と人間主義とが合体した究極の楽観主義である。天の理(イデア)は一つであり(一理・プラトニズム)、同時にあらゆるもの・ことに内在する(万理・アリストテレス主義)。世界は理によって一貫している。人間は本然の性を発現することができ、自己実現はだれにでも可能であるし、せねばならない義務でさえある。この思想は、将軍だの天皇だのといった世俗の身分制を超えたものである。それに対して、日本近世の朱子学なるものは、上司の命令はどんな不条理でもいつも絶対だ、等、身分制を擁護する思想に過ぎない。本来の朱子学はそんな思想ではない。つまり、日本近世のそれはぜんぜん朱子学ではないのだそうだ。朱子学が成立していない場所で、陽明学もまた対立的に成立しようがない。あるいは、その本然を現わしようがない。(日本近世に流行った陽明学的なものは、むしろ仏教的な情緒・感傷を背景にしているだろう。それは極めて日本的なものだ)
楽観的人間主義(性善説)で有名なのは孟子である。『孟子』のなかで孟子に対立して敗れる告子という人がいる。告子は、人間の心はいつも制御可能ではないし、またそのことを受け入れざるを得ないと分っている。陽明学的な発想の源は、ここにも見られる。
前にTVでやっていたのをちらと見て、「あれー。この作品は、昔の人気アニメにあやかって、あとはCGを使えば何とかなると思った程度の愚劣な映画などでは全くなくて、ものすごくいい作品なんじゃないだろうか?」と思った。が、全部を見ることはできず、それっきりだった。先日、古本屋でDVDが1200円で売っているのを見付けて、買って、見た。
すばらしい作品だった。
作者は、アラン・レネ『去年マリエンバートで』などを完全に理解している。つじつまの合うストーリー、たった一つの現実。世界はそうではないことを、これらの映画は描き出している。
この世界は、起こった出来事だけで出来ているのではない。起こった出来事の背後には、様々な起こらなかった出来事がある。起こりうる可能性のうちでたった一つしか実現しないが、その一つの出来事は、起こらなかった出来事に支えられている。このことを理解して映像を作っているかどうか、である。(しかし、世界はやはり一つでしかない。その残酷さ!)。世界がそのようでなかったかも知れないあり方のことを、可能性という観点からは「可能世界」論として、偶然性という観点から「離接的偶然」として、論ずることができる(九鬼周造『偶然性の問題』岩波文庫)。
具体的に話そう。現在の時間に対して、回想シーンがある。たとえば、第7管区での戦闘シーン。回想は反復を伴い、そして、実現しなかった他の過去が、回想と混じり合う。そのうちに、回想と現在の時間との区別もつかなくなる。たとえば、鉄也とルナとが戦闘から逃れて、第7管区近くで老医師に発見される直前の、ふたりの抱擁シーン。それらは、複数化・複層化された映像である。それらは、現在なのか、実現した過去なのか、実現しなかった過去なのか、もはやわからなくなる。他にも、作品の最後に流される、16ミリフィルムの映像。その映像の荒さは過去であることの表徴だが、同時にそれは期待された過去、あるいは未来だっただろう。しかし、映像(イメージ)=事実は(そういうものとして)そこに実在している。
映画のストーリーは様々なシーケンスから成り立っている。シーケンスはシーンから、シーンはショットから、成り立っている。ショットは、撮影のテイクから成り立っている。採用されたテイクの背後には、採用されなかった様々なテイクがある。それら捨てられるはずのテイクを編集してしまうとき、本作や『去年マリエンバートで』が成立する。
作品にこめられたメッセージもまた素晴らしい。争いは、僕たちで止めよう。キャシャーンは恋人ルナにそう語りかける。これを「青臭い、ありきたりの反戦思想」などと言う人は、分ってないと思う。「命というものがたった一つでないのなら、どうして私たちは必死になって生きようとするのですか」。これは、悪役(西島秀俊である)が吐くセリフなのだが、こんな立派なセリフを悪役に言わせてしまうプロットはすばらしい。悪は悪なりに、自ら信じる正しさを生きているのだ。そして彼もまた、世界(命)は結局一つでしかないことを受け入れているのである。
キャシャーンは、結末近くで、母親(既に死んだ)をめぐって父親とはげしく対立する。父親は新造細胞技術で死んだ妻みどり(母親)を生き返らせることができる。しかし、キャシャーンは母親を抱き上げ、父親には渡さないと宣言する。キャシャーンは、たとえ恋人(上月ルナ)を捨てることになったとしても、死んだ母親のほうを取るのだ。このキャシャーンのあり方は馬鹿げた虚構であり、崩壊した人物設定であろうか。私にはこれはおぞましいまでのリアリズムとしてしか見えない。つまり、まったく共感してしまうのだ。
沢田研二は、かつてテレビの中の存在だった。テレビの中で最も輝いていた。今の学生などは沢田研二のことをぜんぜん知らない。沢田研二はかっこよかったし、放埒で無思想だった。テレビというものがそういうメディアだからだ。
最近の、3.11以後の沢田研二の活動は、すこしだけ知っていた。それらの曲はyoutubeなどでも聞ける。憲法9条を守ろうという歌や、原発バイバイという歌を歌っている。今、沢田研二は全国ツアーをやっており、7月14日は金沢・本多の森ホールだという。もうこれは行くしかない、と思った。正直いって、沢田研二コンサートなんか私がいくはずはないと思っていたのだが。沢田研二はテレビで見るものであって、ライブにいくまでのことはないだろう、と。いくら好きでも、と。
客層は、笑ってしまうほど、おじちゃんおばちゃんばかりだった。私ら夫婦はかなり若いほうである。そしてみなほとんど普段着。ファッショナブルにドレスアップ、などしていない。これも、テレビの延長としてジュリーを見ていることの表われかもしれない。
歌も演奏も、すばらしかった。
沢田研二は、いまテレビには全く出ない。テレビで懐メロなんて歌わない主義なのだそうだ。
最近の新曲のうちに「DEEP LOVE」という曲がある。3.11で愛する人を失った男を歌ったものだ。この曲は、沢田研二がこれまで歌ってきたラブソングの中で最高傑作ではないだろうか。ラブソングというものがこの世に実現してしまったという悲劇を、この歌が表している。また、歌謡曲という形式はアメノウズメノミコト以来のの巫女的・憑依的・演劇的なものであったが、それはこうした悲劇的な現実を前にして虚構にすぎなかったことを正直に吐露し、その上でなお、沢田研二は共感の成立を描き出している。
何を言ってるのか分らないだろな(笑)。歌謡曲の形式は、歌手が歌の世界の体現者として自己を表現するものである。女が自分の元から去っていくのを壁際に寝返りを打って知らない振りして聴いているのは、沢田研二の演じるところの男であると同時に、沢田研二本人なのだ。この演劇的・憑依的な二重性が、歌謡曲の基本形式である。果して、この形式を、3.11で妻を失った男へ当てはめることが出来るだろうか。3.11は、こうした演劇的・憑依的形式を拒絶するだろう。悲しみはその人のものでしかなく、だれも代わってやることができない。沢田研二自身、それが無理であることを、正しく痛いほど感じているのだ。沢田研二は、妻を失った男たちをTVの動画で見ているだけである。しかし、そこからふたたび共感が生じ、妻を失った男と沢田研二とが同化していく。「DEEP LOVE」はそういう歌である。
いちおう書かなければいけないのでしょうか。ともかく6年前の参議院選挙で負けた安倍が、こんどは勝った、という話……らしい。「ねじれ解消」などとキャッチコピーが飛び交うが、「ねじれ」は別に悪いことではない。
共産党は増えたが、自民党が伸びる時は共産党も伸びるんだ、と実家の父は言っていた。旧体制で、相互補完的なのだ。
自民一強のガリバー型時代に逆戻りしたようにも見えるが、こんなのがいつまでもうまくいくはずはない。96条改定については、いったん足踏み状態である。とりあえずよかった。
あの大阪市長に関しては、そもそも根本的な思い違いをしているとしか言いようがない点が多すぎるが、それでも、以前、市立高校が体罰によって自殺者を生み出した時、彼は、これまで良い体罰というものもありうると思っていた、しかしもう二度と決して体罰を肯定するようなことはしないと宣言していた。このとき、何一つ好きになれないでいた彼のなかに、すこしばかり好意的な人間性を見た思いが私はしたのだけれど。
今回、新聞などによれば彼は「銃弾が飛び交う中、命をかけて戦っている猛者なのだから、彼らの性的エネルギーをコントロールする必要がある」。「沖縄米軍の司令官に、沖縄での風俗営業を活用せよと言ったら、司令官は凍り付いたような顔をして、否定した。そんな建て前論で考えて居るからだめなのだ」(以上、大意)というような発言をしていたようである。
戦争は命をかけるものという発想は、日本のローカルな戦争観にすぎない。それを知らないといけない。アメリカにとって戦争は、命をかけて行うものではない。命を大切にし、死にそうになれば降伏する。これが当たり前のやり方なのだ。彼らは、旧日本軍のバンザイ・アタックを極度に恐れるが、それはそこに《完全に破壊された人間性》を見るからだ。彼らにとって戦争における勝利は論理的な帰結であり、ゆえに戦争にもっとも必要な能力は理性的な行動を可能とするちからなのだ。勝利は、精神的な祈りや情念によって、奇跡として得られるものではない。そこが日本的な発想との違いである。わたしたちは、日本式の神秘主義とともに、アメリカ式の合理主義(理性的行動による戦争)もまた、超えて行かねばならない。
「維新の会」の支持率は今急激に落ちているらしい。たぶんここで一気に話題沸騰、人気回復でも狙って発言したのだろう。たしかに、夜のニュース番組はこの発言を大きく取り上げた。しかし、このように国内外から批判を浴びていれば、もはや決してプラスには作用しない。やつの嗅覚も鈍り始めている。
80年代には仮想敵国と呼んでいた国と、今は並んで写真におさまり互恵関係をなどと言っているのは隔世の感がある。アメリカや中国とは別の、日本独自の外交ルートを持つのは良いことだと思う。
とは言いながら、結局、並んでる二人は、憲法を変えたいだけのやつと、私腹を肥やしたいだけのやつじゃんか、とも思う。
ついで中東を訪問。イライラ戦争、イラク攻撃以降、それまであった日本独自のルートが冷め切って、日本はアメリカのレールに従わざるを得ない状況になっていた。独自のルートを持つのは良いと思う。
とは言いながら、原発をセールスしているらしい(憲法を変えたいだけではなかった)。売れそうなものならゴミでも不良品でも、不完全な技術でも、何でも売るのか。自国が儲かるならなんでもいいのか。毒入りギョウザとあんまり変わらないと思うよ。
アベノミクスという名前の妖怪が跋扈している。《仕分け》の民主党政権時代はもちろん、財政規律か財政出動かが問われていた自民党政権下でさえ、ここまで露骨で見え透いた甘いワナは無かったように思う。財政出動は、年金や医療などの社会保障をどうにかして存続させるための方法であった。他方、福祉切り捨てや大企業優先の規制緩和は、財政規律のスタンスに立っていた。アベノミクスは、大企業優先の財政出動である。そして、あたかもバルブ経済が復活するかのごとき安直な幻想を振りまいている。国民はこれにまんまとひっかかっている。
安倍政権の狙いは憲法改正にある。変えたい9条を直接国民に問うことなく、96条から変えるという悪辣な方法に進んでいる。このままでは、96条も、9条も、基本的人権や個人の尊厳も、表現の自由も、遠くない未来に「改正」されるだろう。
民主党政権は「空白の三年三ヶ月」と断じられて、日本国民のみながそうだったと思っているようだ。私はまったくそうは思っていない。うまくいったとは思っていないにせよ、すくなくとも日本は変われる、日本には別の選択肢もある、という希望と実験の期間だったと思っている。たとえ、自民党に政権が奪還されても、ふたたびいずれ民主党が政権を握る可能性はある、という希望である。「空白の三年三ヶ月」という断定が意味するのは、もはや再び政権交代は起こりえない、日本には自民党しか選択肢はない、ということである。これを絶望と呼ぶ。絶望とは、他の道が閉ざされている状況を言うのだ。
憲法9条は、戦争の放棄をうたうものである。国家において対立が生じ紛争が起きそうになったときでも、武力の行使を行わないと先に宣言しておくこと。このように宣言することは、絶対的に呑気で脳天気だと見る人がいるが一方で、絶対的な智恵と勇気を必要としている。より困難なみちなのだ。憲法9条が問うているのは、人間に(あるいは日本人に)これだけの智恵と勇気があるかどうかということである。
維新の会の綱領には、次のようにある。
日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。(日本維新の会、綱領。項目の1)
「絶対平和という非現実な共同幻想」!このおそるべきリアリズム(幼稚な。それにしても「絶対平和」なる言葉はどこに由来するのだろうか?)。やつらが狙っているのは、人間は猜疑心に凝り固まった愚かな存在にすぎないと信じ込ませることである。人間性の破壊である。もちろん、彼らはただたんに、ふつうに戦争のできる国になりたい、と思っているだけなのだ。コスタリカと日本を例外として、あらゆる国家は、戦争を国際紛争解決の手段として有しているからだ。……というような理屈で。
憲法9条を典型とする日本国憲法が掲げた理想は、戦後60数年において、意味のある働きをしてきたと思う。そう遠くない将来、これが投げ捨てられるとすれば、それが意味するのは何か。人間(日本人)には、国際紛争を解決する手段として戦争を放棄することはやっぱりできなかった、ということである。最終的には戦争以外に選択肢は無いと思い知る、ということである。三年三ヶ月か六〇数年かという違いがあるが、それらを称して絶望と言うのである。
それゆえに、いまあらためて、希望にみちあふれた文章を読み直してみたいとおもうのである。以下がそれだ。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
歯を支えているのは歯茎でなく、その下の骨。歯周病を放っておくと骨まで解かします、と呼びかけるCMがある。その映像は、歯のレントゲン写真を早送りで流して、骨が溶け出し歯が倒れていく、というものである。
[解説1]レントゲン写真による、動く切断面。撮影の間、被写体はどのようにしているのでしょうか?
[解説2]ま、CGでしょうけど(JAROの対象ではあるまいか)。CGだったとしても、そのCGが描き出しているのは、撮影の間数ヶ月間ベッドに拘束されX線を照射されつづけた被験者である。
[解説3]CG全盛の今日、これまでの実写ではカメラを持って行けないようなアングルからの撮影が可能になった。これが「視覚的人間」(B・バラージュ)の変容の現代バージョンである。そんなアングルに入り込めて、何ヶ月何年でも粘れ、粘らせられる(被験者を拘束する)人間は、よく考えると、怖ろしい。
ここ二年ほど『創造的進化』をけっこう詳しく読んでいるのだ。授業で読んでいるのだ(ワイルドだろう)。最初はちんぷんかんぷんだったぜ。2008、2009年と『物質と記憶』を二回やって、2011、2012年に『創造的進化』を読んだのだ。間の2010年には『差異と反復』第三章を読んでたぜ。ベルクソンを読んでおくと、ドゥルーズもだいぶ分かるようになるよ。 さて、『物質と記憶』も『創造的進化』もちくま学芸文庫版で読んでいた。ハンディサイズで安価(比較的)で読めるのはいいが、『創造的進化』で、 さて、すなわち以下の四版を、気づいた範囲で読み比べてみたわけである。
引用して読み比べると予想外に長くなってしまったので、予め結論を先に書いておこう。それぞれにみな良い訳だ!(笑い)。逆に言うと、決定的に良いというものは無い。最初は、ちくまはけしからんと言うつもりだったが、ちくまにも良いところはある。あえて厳しく言えば、竹内訳もダントツ良いというわけではない。上から読んでも下から読んでも、どちらから読んでも同じだというのが結論だ。
ウソばっかり書いてあるから、ウソ比べというわけである。
フランス語版も二種類持っている。OEUVRESは一冊本の全集。ハンディ判の辞書みたいな本である。LCB版(衝撃!ベルクソン、ってすごいタイトル)は分冊のもので、かねてよりあった分冊版に新たに注などを施し直したもののようである。字が大きいのでこちらのほうが見やすい。
○生は持続であること
さて、読み始めた当初、何度読んでも意味が分からなかったのが、たとえば次の文であった。みなさんはいかがですか?最初の一文だけでも読んでみて下さい(二文以降は、いま仮に改行しました)。
もしわれわれの存在が分離した状態によって構成されていて、ある無感動な「自我」がそれらの状態を総合しなければならないとしたら、われわれにとって持続は存在しないだろう。
なぜなら、変化しない自我は持続しないし、次の状態に取って代わられない限り自己同一的であるような状態も同じく持続しないからだ。したがって、諸状態を支える「自我」の上にそれらを次々に並べても無駄である。固体に繋がれた固体が、流れる持続を作り出すことは決してないだろう。実は、このようにして内的な生の人為的な模造品を手に入れるのである。この模造品は、まさにそこから実在的な時間を取り除かれているという理由で、論理と言語の要求によりよく応える静的な等価物になるだろう。しかるに、それを覆い隠す象徴(サンボル)の下で展開している心理学的生については、時間がその生地そのものであることに人は苦もなく気づく。《ちくまP21》
この文章の分かりにくさは、内容的なものではなく、形式的なもの(訳語の選びかた並べかた)によるものなのです。
これを、世界の大思想(白水社全集と同文)で読んでみたら、すっきり分かりました。次の文がそれです。
もしわれわれの存在が個々ばらばらな諸状態からできており、何ものにも動かされない一つの《自我》がそれらの状態を綜合しなければならないとすれば、われわれにとって持続は存在しないことになるであろう。なぜなら、変化しない自我は持続しないからであり、一つの心理状態は、それがつぎの状態によって取って代わられないかぎり自己同一的であり、やはり持続はしないからである。してみると、それらの状態を支えている《自我》の上に、それらの状態を相互に一直線に列べてみたところでむだである。或る固定したものの上に数珠つなぎにされたそれらの固定したものは、決して、流動する持続をつくりだすことがないであろう。事実、このようにして得られるのは、内的生活の人為的な模造品であり、静的な等価物である。この等価物は、まさに真の時間がそこから消し去られているしまっているので、論理や言語の要求にはいっそうよく適合するであろう。けれども、もろもろの記号に蔽われながらその下で展開しているような心理生活に関しては、時間こそがその実質であることを、われわれは容易に認めうる。《白水社全集P20/大思想P143上》
人(の意識)はさまざまに変容する諸状態から成り立つが、それを貫く不変の「自我」など無い。不変のものは持続しない。そこに列べられたさまざまな諸状態は、本当の変化の模造品にすぎない。論理や言語によるアプローチにはそうした模造品は相応しいが、本当の時間・運動ではない。
さて、少し日本語は古いが、岩波文庫もまた正確だし分かりやすいと思う。
もしも私たちの存在がはなればなれの諸状態から合成され、それを不感受な「自我」が綜合せねばならぬとしたら、私たちにとり持続は存しないことになろう。けだし、変化せぬ自我は持続しないし、心理状態もつぎの状態にとってかわれれぬかぎり自己同一をたもつようならやはり持続しない。したがってそれらの状態を自我の下地の上でつぎつぎにいくらつなぎ合わせても駄目で、固体の上に数珠つなぎにされたそれらの固体の列はけっして流れる持続にならないであろう。実は、そのようにしてえられるものは内なる生命の人工による模造品であり、静的な等価物なのである。そこからは事象的な時間が消去されており、だからこそいよいよ論理や言語の要求にかなうことになる。しかしそれらの記号の下におおわれている流れる心理的生命の方はどうかといえば、時間がそれの生地にほかならぬことは容易に知られる。《岩波P24》
さて、お待ちかねの竹内信夫新訳であるが、『物質と記憶』にもまして訳注も豊富となり、懇切丁寧に訳文が作ってある。ここまで説明されれば分からないというほうがむりだ、というくらいの丁寧さである。これが最後まで続いていく。
われわれの存在が、仮に分断された心理状態で構成されており、何にも動じない「自我」なるものがそれらを総合しているとするならば、持続というものもわれわれにとっては存在しないということになろう。なぜなら、変化しない自我であれば、持続することもできないし、自己自身に対して常に同一性を保ち、その後に続いて生起するもう一つ別の心的状態に置き換えられるだけの心的状態であれば、それもまた持続するものではないからだ。そうなれば、いくら頑張ってみたところで、これらの心的状態を下支えしているというその「自我」〔という基体〕の上にそれらの心的状態を次々に並び立ててみたところで、固体であるもの〔=自我〕の上に並び立てられた固体群〔=心理諸状態〕が、変転流動する持続というものに成ることはできない。本当のことを言えば、こうして手に入れたものは、内的生命活動の人工的な模造品にすぎず、論理や言語の要請に適合させるための静的等価物にすぎない。その理由は、まさしくそこからは現実の時間が削除されているからだ。しかし、それを覆い尽くす記号群の背後に展開されている心的生命活動について言えば、ほかならぬ時間こそがその生地(きじ)そのものであることに、われわれはすぐにも気づくはずなのだ。《竹内P19》
ベルクソンは、線を点の集合だとし、運動を座標軸に位置づけうるとするような、あらゆる幾何学的発想を拒絶している。「逃走の線を引く」などとかつてよく言ったものだが、それが運動であることをの重みを感じなければならない。「早くあれ。たとえ、その場を動かぬ時も!」(ドゥルーズ=ガタリ「リゾーム」、『千のプラトー』)。
○生の持続は、知性によっては、いかに超人的な知性であっても、捉えられないこと
ちくまがいかに分からないか、もうすこしお付き合いください。次の文をごらん下さい。
しかし、知性は、たとえ人間を超えたものであっても、このまったく抽象的な要素を具体的に有機的組織化するところの、単純で不可分な形式を予見できないだろう。《ちくまP24》
「たとえ人間を超えたものであっても、」が最初さっぱり分からなかった。知性(人間のもの)がどうやって人間を超えるのだろう?なんて考えてしまった。哲学書なんてどうせわけの分からないことが書いてあるものなんだ、などと思って全集を読み比べてみると、これがすんなり分かるのである。
けれども、まったく抽象的なそれらの要素にその具体的な組織を与えている唯一の不可分な形式は、たとい超人間的な知性をもってしても、これを予見することはできなかったであろう。《白水社全集P23/大思想P145上》
けれども、そうしたまったく抽象的な諸要素に具体的な組織を与える単一で不可分な形相を予見することは、たとい超人間的な知性にとってもできなかったのではないか。《岩波P25》
しかし、どんな知性も、たとえそれが〔ラプラスの魔のような〕超人的知性であっても、これらのまったく抽象的な要素群にその具体的組織化を付与する単一にして不可分の形相を、予見することはできない。《竹内P22》
竹内訳、たしかにここまで説明されれば分からないほうが難しいでしょう。
○物質も持続する(砂糖水のたとえ)
次の例を見比べてみよう。ベルクソンの中で一番有名な、砂糖水の比喩である。ベルクソニズムにおいて「生成」を一言で表した比喩である。砂糖水を作るには、コップの中で砂糖が溶けるのをともかく待たねばならない。この待っている時間は、単なる数字や間隔、抽象化された時間ではない。私の待ちきれなさ・待ちきれない私という明白な実在に対応した、実在するひとつの時間なのだ。砂糖が溶ける時間と私の実在とが対応する、私の生きるひとつの時間なのだ。
私が一杯の砂糖水を準備する場合、何をしようと、私は砂糖が溶けるのを待たなければならない。この些事はたくさんのことを教えてくれる。《ちくまP28》
一杯の砂糖水をこしらえようと思うならば、私はとにもかくにも、砂糖が溶けるのを待たなければならない。この小さな事実の教えるところは大きい。《白水社全集P27/大思想P147下》
一杯の砂糖水をこしらえようとする場合、とにもかくにも砂糖が溶けるのを待たねばならない。この小さな事実の教えるところは大きい。《岩波P31》
わたしが、今、一杯の砂糖水を作ろうとすれば、如何(いかん)せん、砂糖が溶けるのをわたしは待たないわけにはゆかない。この些細な事実は多くの事を教えてくれる。《竹内P26》
ここではちくまはとくに悪くはない。しかし、竹内「如何せん」は、いかんせん、古くないか。また、ちくま、砂糖水と些事(匙)が縁語であることに今気付いた(しかし、角砂糖かもしれないが)。
○機械論は、目的や意志を完全に拒絶する(意志を持った塵のたとえ)
『創造的進化』第一章は、変化・進化を説明するふたつの哲学原理、目的論と機械論とを共に乗り越える試みである。機械論は純粋な物理的化学的法則に支配されている。目的論は、そこに何らかの意志(神の意志、あるいは諸個体の意志)を見ようとするものである。この箇所の「もし塵が意志をもって動いたら」という比喩が面白いが、訳としてはちくまが一番きれいである。
しかし、目的論は、機械論と違って、確固たる輪郭を持つ学説ではない。目的論は望まれるだけ、変更を受け入れることができる。機械論的哲学は採るか捨てるかのいずれかだ。もしほんのちっぽけな塵が、力学の予見した軌道から逸れて、ほんの少しでも自発性の跡をみせようものなら、その哲学を捨ててしなわねばならないだろう。逆に目的因の学説は決定的に反駁されることは決してないだろう。《ちくまP63》
それにしても、目的論は、機械論とちがって、すじみちの固定した学説ではない。この学説には、いくらでも屈曲をつけうる余地がある。機械論の哲学は、認めるか棄てるか、二つに一つしかない。ごく微細な一粒の塵が力学の予見した弾道から逸れて、ほんのわずかでも自発性の痕跡を示すようなことがあれば、機械論はすてられなければならないだろう。これに反して、目的因を立てる学説は決して決定的に論破されることがないであろう。《白水社全集P59/大思想P167上》
そうはいっても、目的論は機械論のように動きのとれぬ線で描かれた教説ではない。ひとがやわらか味をもたせようとすれば結構それに堪えられる。機械論の哲学は採るか捨てるかしかない。かりにごく小さな塵の一片が力学の予想した軌道からはずれてごくわずかでも自発性の証跡を示すことがあれば、この哲学は捨てられねばなるまい。これに反し、目的因をたてる教説は決定的に論破されることは決してないであろう。《岩波P64》
いずれにしろ、目的論は、機械論のように、筋目立った教義ではない。目的論は、いくらでも手直しできる余地を含んでいる。機械論的哲学は、取るか捨てるかの二つに一つである。もしごく小さな埃の粒が、機械論によって予見された軌道を逸(そ)れて、どんなにわずかでも自発性を発揮することがあれば、機械論はそこでおしまいである。それに反して、目的因を主張する学説は、決定的に否認されるこということはあり得ない。《竹内P58》
機械論はちょっとした反例で崩壊するが、目的論は完全に論駁されることはない、というものに、たとえばこんな例がある。むかしよく戦った例である。作者の意図はない、と主張しようとして、いつも「意図がないという意図がある」と反論されてきた、それである。意図=目的は、どのようにでも立てうるのだ。
○目的論は、目的を小さな範囲に狭めることで哲学的生命を保ってきた
目的論は、目的を小さな範囲に狭めることで哲学的生命を保とうとしてきた。具体的に言うなら、かつて目的は世界全体にわたって一つであったが、どんどん小さく狭くなった。生命の目的はかつては神のみもとにあったが、つぎに種のためのものとなり、最後にいまでは個体のための利己的なものとなった。ここの「砕く」とか「粉砕する」とかが僕は当初さっぱりわからなかったが、よくよく読むに「目的を小さく砕いてきた」ということを言わんとしている部分なのである。だから破壊するかのごとき「木端微塵に粉砕」してしまう竹内訳は間違いである。
早速述べておくと、ライプニッツの目的論を無限に分割することでそれを緩和するとき、間違った道を進むことになるように思える。……このテーゼは実のところ古くからある合目的性の考え方を粉砕しているのだ。《ちくまP21》
ただちに言えることであるが、ライプニッツ流の目的論を無限に砕くことによってその調子を和らげるのは邪道であるように思われる。……このテーゼは、結局、目的性についての古来の考え方を細分するところにある。《白水社全集P59/大思想P167下》
早速いわせてもらうと、ライプニツの目的論を無限に砕くことによって緩和するのは道を誤っているように思われる。……そのようなテーゼの要点は、底をあらえば、古来の目的観念を細かく砕くところにある。《岩波P64》
すぐに言っておきたいのは、ライプニッツの目的論を無限に細分化してその主張を緩和しようとすれば、それは道を誤ることになるということだ。……この命題は、つまるところ、古い時代の目的概念を木端微塵(こつはみじん)に粉砕することを意味している。《竹内P59》
○ ただ一度の分断不能な抱擁で生命全体を包み込む
次はエラン・ヴィタールの初出部分で、感動的な一文である。物質の世界は、目的を持たない機械論的な世界である。それに対して、生命の世界にはやはり目的がある。この目的は、神の目的(意志)とか、種とか個体とか、未来に見出だされるものではない。生命は、発生当初において、多様かつ高度な可能性を実現しようという最初の目的があり、その爆発をエラン・ヴィタールとベルクソンは呼ぶ。それが、すべての生物に一つのものとして繋がっているのである。ちくまで言えば、「生命の世界に合目的性というものがあるなら、合目的性はただ一度の分断不能な抱擁で、生命全体を包み込むのだ。(S'il y a de la finalité dans le monde de la vie, elle embrasse la vie entière dans une seule indivisible étreinte.)」。何度読んでも涙!こうなると難い日本語のちくま「ただ一度の分断不能な抱擁」も悪くない。
驚くべきことに竹内訳はindivisible (分断不能な)をinvisible(不可視な)で誤訳している(白水社に手紙を出すつもりです)。また、「生命活動全体」などと細かく(正確に)訳す必要も無いだろう。逆に口説くなってしまう。
では、個体の生命原理はどこから始まり、どこで終わるのだろう。少しずつ時代を溯っていき、最古の祖先たちにまで行き着くだろう。そこで、生命原理は、それぞれの祖先たち、つまり、おそらく生命の系図の根元にある、ゼリー状の原形質の小さな固まりに結び付いていることに気づくだろう。生命原理は、ある程度、この始原にある祖先と一体をなしていて、子孫へと分岐しながら進む途中でそこから離れていったものすべてとも、同様に結び付いている。この意味で生命原理は、見えない紐によって生物全体に結びつけられていると言える。それゆえ、生物の個体性にまで、合目的性を狭めたと言い張っても無駄である。生命の世界に合目的性というものがあるなら、合目的性はただ一度の分断不能な抱擁で、生命全体を包み込むのだ。《ちくまP67》
そうなると、個体の活力原理なるものは、どこから始まりどこで終わるのか?だんだんさかのぼっていけば、ついには最も遠い祖先たちにまで達するであろう。個体はそれらの祖先のどれにもつらなっており、生命の系統樹の根のところにあるゼリー状の下形質の小塊にもつならっているということがわかるであろう。個体はこの原初的な祖先と或る程度まで一体をなしているのであるから、それはまた、この祖先から末広がりに派生してきたすべてのものにもつらなっている。この意味で、個体は、眼に見えない紐帯で生物全体に結びつけられている、と言うことができる。してみると、目的性を生物の個体性だけに限ろうとして、むだである。かりそめにも生命の世界に目的性が存するとすれば、この目的性は唯一不可分の絆をもって生命全体を抱擁する。《白水社全集P62/大思想P169上》
すると、個体の生命原理はどこに始まりどこで終るのか。ひとはだんだんと後退して、最古の祖先たちに行きつくであろう。個体がどの祖先とも連帯しており、生命の系統樹の根にあるはずのあのジェリー様の原形質の小塊とも連帯していることがわかるであろう。個体はこの始祖とある程度ひとつものである以上、それはまたこの始祖から末拡がりに派生してきたあらゆる子孫ともやはり連帯している。この意味で、個体は生きものの総体と目にみえぬ線でつながったままでいるといえる。してみれば、目的性をちぢめて生物の個体にかぎろうとしても仕方がないであろう。生命の世界に目的性がいくらかでもあれば、それは生命全体を不可分なひと抱えで包括しているのである。《岩波P67》
それでは、個体の生命原理は、どこで始まり、どこで終わるというのだろうか? それを順次に遡ってゆけば、われわれはそのもっとも遠い祖先のところまで遡ることになるだろう。その個体が、ありとあらゆる生命体に繋がっており、生命の系統樹のおそらくは根源に位置する原形質の小さなゼリー状の塊に繋がっていることを、われわれは見出すことになるだろう。その個体は、ある意味で、その原初の祖先と一体を成しているのだから、そこから多様に枝分かれしてきたすべての生命体とも一つに繋がっているのだ。そういう意味で、その個体は、今もなお、目に見えない多くの絆によってすべての生命体と一つに結ばれていると言えるだろう。だから、生命活動の目的性を、生きて活動する生命個体に狭く限定するのは、意味のないことなのだ。生命世界に目的性があるとするならば、それは、一つの目に見えない抱擁によって生命活動全体を抱き取っているのである。《竹内P61》
○ ベルクソンの反復論
次の例は、ベルクソンの反復論である。ベルクソンは、反復は常に新しいものの創造だなどとドゥルーズのようなことは言わなかった。ベルクソンのいう反復は、真の時間の側でなく、空間化された知性の側にあるのだ。(知性は思弁のためでなく、行動のために、要請されている。行動は、反復を必要とする。)
レエル réelleに四版ともに違う訳語を当てている。ちくまの「実在的」が一番良いのではないか。また、「事象性」という訳語は『思想と動くもの』で河野与一が採用している語彙だが、すこし古い。おそらく近いうちにでる竹内版新訳がこれにとどめを刺してくれるであろう。なぜなら書名自体が『思考と動くもの LA PENSÉE ET LE MOUVANT』と(正しく)改めてあるからだ。
実在的な持続〔duree réelle〕は、事物に噛み付き、そこに歯型を残すような持続である。もしすべてが時間の中にあるなら、すべては内的に変化し、同じ具体的な実在が反復されることは決してない。それゆえ反復は抽象的なものにおいてのみ可能なのである。反復されるものは、われわれの感覚、とりわけ知性が、実在から切り離したこれこれの側面なのである。それはまさに、知性の努力全体がそこに向けらるところのわれわれの行動は、反復されるものの中でしか動くことができないからだ。知性は反復されるものに集中し、同じものを同じものに溶接することに専念して、時間から眼をそむけてしまう。知性は流れるものを嫌い、触れるものすべてを固形化する。われわれは実在的な時間を思考してはいないのだ。しかし、われわれはその時間を生きる。なぜなら生命は知性をはみ出しているからだ。《ちくまP70》
真の持続は事物にくいこみ、そこに歯型を残すような持続である。すべてが時間のうちにあるならば、すべては内的に変化する。決して同一の具体的実在が反復することはない。したがって、反復は抽象のなかにしかありえない。反復するのは、われわれの感覚やことにわれわれの知性が、実在から切りとったあれこれの相である。というのも、まさに、われわれの知性のすべての努力がめざすわれわれの行動は、反復されるもののあいだでしか動くことができないからである。かくして知性は、反復するものに心を奪われ、同じものを同じものに接合することにひたすら専心するので、時間を見ることをやめてしまう。知性は流動するものを嫌い、手に触れるものをことごとく固体化させてしまう。われわれは真の時間を思考するのではない。われわれは真の時間を生きるのである。というのも、生命は知性の手から溢れ出るものだからである。《白水社全集P65/大思想P171上》
事象的な持続は事物に噛みいり、そこに歯型を残すものである。一切が時間のなかにあるなら、一切は内的に変化して、おなじ具体的な事象が二度と繰りかえすことはない。つまり繰りかえしは抽象のなかでしか起こりえない。繰りかえすのは、私たちの感官や、なかんずく私たちの知性が事象から切りとったあの相この相である。それは他でもない、私たちの知性の全努力の目ざす行動は繰りかえすもののなかでしか動けぬからである。こうして知性は繰りかえすものに気をとられ、似たもの同士を鑞づけすることにひたすら専心しているので、時間に目をとめないでそっぽを向く。知性は流動するものを嫌い、触れるものをことごとく固形化する。私たちは事象的な時間を考えないのである。しかし、生命が知性をはみでるからには、私たちは事象的な時間を生きている。《岩波P71》
現実存在する持続とは、外界の事物群に喰らいつき、そこに噛み跡を残すものだ。すべてが時間のなかに存しているのだとすれば、すべては内的に変化し、具体的な現実存在は決して反復されることがない。反復は、だから、抽象物のなかでしか可能ではない。反復しているもの、それは、われわれの感覚が、特にわれわれの知性が、現実世界から切り取ったあれこれの局面である。そうであるのはまさしく、われわれの行動は、われわれの知性のすべての努力が展開されている行動というものは、反復される事象群のなかでしか動くことができないからである。かくして、反復されるものに注意を集中し、同じものを同じものに溶接することに専念するあまりに、知性は、時間のヴィジョンから目を逸らすのである。知性は流動するものを嫌悪し、その手が触れるものをことごとく凝固させる。われわれ〔の知性〕は、現在存在する時間〔=持続〕を思考することができない。それは、われわれは生きているのだ。なぜなら、生命活動は知性を超え出るものであるからだ。《竹内P64》
○ 「適応」という概念(グラスに注がれた水とワインのたとえ)
次いきましょう。生物が生存条件(環境)に「適応する」という時の「適応」概念に関して、ベルクソンの比喩がさえる。ただし、この比喩、具体的にどういうことなのか、いまだによく分からないのです。まあ少なくとも、一つのコップの中でワインの水割りが出来ているのではないと思うのだが。そのうえでだが、ならば、一つはワイン、一つは水が入った二つの同じ形のコップがあるのでも、一つのコップにまず水を注ぎ(それを飲み干すかして空にし)、その後でワインを注ぐのでも、どちらでも良いだろう。ともあれ趣旨は、不動のフォルムを有するコップと違って、《進化によって実現するフォルムは、進化という行為以前には存在していない》というもので、これは自由(未決定性)の根底に時間(不可逆な生成)がある、というベルクソニズムの典型モチーフである。
同じグラスに水とワインを交互に注ぐとき、この二つの液体はそこで同じ形をとるだろう。形が似るのは、中味〔matiere〕が入れ物に同じ仕方で適応するからだろう。この場合、適応はまさに機械的な組み込みを意味している。つまり、内容物が適応する形式は、すっかり出来上がって、すでに存在していたのであって、形式は内容物に自分の形状を押し付けたのである。しかし、ある有機物が生存条件に適応する、と言うとき、すでに存在して自分の内容物を持っている形式などどこにあるというのか。これらの生存条件は、生命がそこに組み込まれて、自分の形態を受け取るような型ではない。そのように推論するとき、比喩にだまされているのだ。形態はまだ存在していない。生命こそが、自分に課される諸条件にふさわしい形態を、自分自分に作り出すだろう。《ちくまP86》
同じ一つのグラスに、水とぶどう酒とを、かわるがわる注ぐならば、この二種類の液体はグラスのなかで同じ形を呈するであろう。形が相似になるのは、内容物が容器に適応するときのしかたが同じであることから来ている。このばあい、適応とはまさしく機械的なはまりこみの意味である。というのも、内容物の適応すべき形態はすっかり出来あがってすでにそこに存在していたのであり、この形態が自分の形状をその内容物に強いたのだからである。けれども、有機体が自分の生活の場となるべき諸条件に適応するといわれるとき、あらかじめ存在していてその内容物を待ちかまえているような形態は、どこにあるのか?外的諸条件は、生命がそこにはまりこんでそこから自分の形態を得てくるという意味での鋳型ではない。そう考えるならば、比喩にだまされたことになる。形態はまだ存在していないのである。生命は、自分に課せられた諸条件に適する形態を、自分のためにつくりださなければならないのである。《白水社全集P79/大思想P179下》
ひとつコップに水と葡萄酒を入れかわりに注げば、二種類の液体はコップのなかで同じ形をとり、そして形の相似なのは内容の容器にたいする適応が同じだからだということになろう。このばあい適応は明らかに機械的な型入れを意味している。物質の適応する形態がそこにすでにできあがっていて、その形態が自分の形状を物質におしつけたのである。しかし、有機体がその済むべき環境にたいして適応をおこなうといわれるとき、どこかに形態が先在して自分をみたす物質を待っているであろうか。環境は鋳型ではない。生命がそこに流し込まれそこから形態を受取るといったふうなものではない。こんな理屈をいうひとは譬え話にだまされているのである。また形態などはなく、生命が自分の仕事として、課せられた条件に適する形態を自分のために創造するのである。《岩波P84》
今仮に、わたしが、同じグラスに、交互に水とワインを注ぐと仮定してみよう。この二種の液体は、そのグラスの中で同じ形をとるだろう。この形態の同一性は、内容物が容器に同じ適応をしたことに起因している。このとき、適応という語は、〔液体の容器への〕力学的挿入を意味している。つまり、質料が適応するべき形相はすでにそこに前もって、既成のものとして存在していたのであり、その形相が質料に対して、自らの形状を押しつけただけである。しかし、一個の有機体が、あおのなかで生きてゆかなければならない諸条件に適応するという場合、どこに適応する質料があり、そこでに既存の形相があるというのだろうか?生存の諸条件は、生命活動が自らをそこに差し込み、そこから自らの形相を受けとるべき鋳型などではない。そのように推論するとすれば、それはわれわれが比喩に欺かれている、ということだ。そこには、形相はまだ存在していない。自らに与えられた諸条件に適応する一つの形相を自らのために創造すること、それが生命活動の為すべき務めであるだろう。《竹内P78》
私は竹内訳が悪いなどとこれっぽっちも思っていない(訳注などほんとうにすばらしい。読んでいて楽しい!ちなみに、メショニック『詩学批判』の竹内氏の訳者解説も私は読んでいる。この解説もすばらしい)。しかし、あまりに丁寧なものは逆に読みにくい。『創造的進化』を一回しか読まない人に竹内訳はベストである。しかし、何度も何度も読むものにとってはすこしくどい。わたしは二年前にはじめてちくまで『創造的進化』を通読し、意味が分からないところがあり、岩波や大思想を読んで意味が分かり、だったらちくまもちゃんと訳せよ!と怒っていたが、いまこうして何度も読んでいると、ちくまの文でなんの差し支えもなくなってくるのである。ベルクソンの言うとおり、怖れずに水に入れば、いずれ泳げるようになる(後出)。これが運動図式の獲得である。
○ 生物と無生物のあいだ(線路の転轍部のたとえ)
次の例に移ろう。私がしたいことは、四版の訳文の比較ではもはやなく、『創造的進化』のダイジェストである。ごくごく初期の生命体の運動は、たんなる物理化学的反応とさして違いはない。生命と非生命の間に関する、ゆらぎ的な視点について。
「原物質の抵抗」が最初さっぱりわからなかった。これを分からせるためには「生の物質の抵抗力」と言い換えてもだめだろう。焼いたら柔らかくなるのかな、とか思ってしまうだけだろう。言い換えでは対応できない分からなさがここにはある。われわれの身体は物質から作られている。「原物質」とか「生の物質」とかは、生命を作っていない物質を言うのである。ただし、竹内氏は、カント的意味における物質だと訳注を付けている。深い。
なお、離れていくためにはすこしの間同じようによりそって進まねばならぬ、という「線路の転結部」の比喩が絶妙である。
原物質の抵抗は、最初に避けなければならない障害である。生命は下手に出ることで、それに成功したように思える。つまり、生命は目立たぬよううまく入り込んで、物理化学的な力をうまく避け、それらと道を同じくすることにも合意したのである。線路の転轍部が、離れようとしている線路とすこしの間同じ方向を採るのと同様である。《ちくまP133》
只の物質の抵抗は、まず第一に回避されなければならない障害である。生命は卑下という手段で、この障害をうまくきりぬけたように思われる。生命は自分をきわめて卑小なものにし、うまく取り入るような態度をとり、物理的、化学的な力に調子をあわせ、それらの力に途中まで同行することに同意さえしたのである。ちょうど、鉄道の転轍機が一方の線路から離れようとするとき、はじめしならくのあいだはその線路の方向をとるのに似ている。《白水社全集P122/大思想P206下》
なまの物質の抵抗がまずこなされねばならぬ障害であった。生命はそれを謙遜という手でうまくやったらしい。しごく小さくなりいたってお世辞がよくなり物理的な力や化学的な力にばつをあわせ、ちょうど鉄道の転轍機がレールからはなれたいときはもとの方向にしばらくついていくように、それらの力と途中まで道づれになることさえ承知するのである。《岩波P128》
生(なま)の物質の抵抗力は、生命活動がまず最初に回避しなければならなかった障害である。自らをごく小さく、ごく控え目な存在にするという卑下(ひげ)の力によって、生命活動はその回避に成功したように思われる。物理的、化学的諸力の影響を回避し、そればかりか部分的にはそれと歩みをともにするという妥協もあえてしながら、である。それは、初めはレールと同じ方向に沿っているように見えて、いつの間にかそれを望む方向へと導いてゆく鉄道の転轍装置のうごきに似ている。《竹内P121》
○ 胃を持たない生物の栄養摂取と脳を持たない生物の意識
意識を作り出すのは何か?ダンゴムシにも心はあるか、である。脳が心を作るのではない。唯脳論粉砕!(笑い。まあ人間において脳の優位性は動きませんが)。
冒頭文くらいは私でも訳せそうだ。「運動性と意識との間には明白な比例関係がある。」と訳したほうが良いだろう。「明白な報告がある。」と訳した例はひとつもないのは幸いである。
運動性と意識の間には明白な関係がある。〔Entre la mobililité et la conscience il y a un ràpport évident.〕 ……ある動物が脳を持たないからといって意識を認めないのは、胃を持たないので栄養摂取ができないというくらい、ばかげたことだろう。……つまり、最も低次の生物でも、それが自由に動く限り、意識的である。《ちくまP146》
可動性と意識とのあいだには、一つの明白な関係がある。……或る動物に脳がないからといって、その動物に意識がないと考えることは、或る動物に胃がないからといって、その動物に栄養をとる能力がないと主張するのと同様、不条理であろう。……最も下等な有機体も、それが自由に動くかぎりにおいて、意識的である。《白水社全集P134/大思想P214上》
運動性と意識のあいだには明白な関係がある。……つまりある動物に脳がないという理由で意識もないとするのは、胃がないから養分をとることができぬというのに劣らず愚かしい言い分であろう。……すなわち最下等な有機体にもうごく自由の度に応じて意識があるということになる。《岩波P140》
運動能力と意識とのあいだには、明かな関係がある。……そして、脳を持たないからといって、その動物に意識の存在を認めないのは、胃のない動物は栄養摂取ができないというのと同じほどに馬鹿げたことである。……つまり、もっとも貧弱な有機生命体であっても、それが自由に動いている限り、意識を持っているということなのだ。《竹内P134》
○ indétermination(1)ベルクソニズムのみなもと
さて、indétermination は、非決定性とか不確実性とかと訳されているが、これはすでに『物質と記憶』でもキーコンセプトとして出てきたものである。『創造的進化』においても、物理法則の必然に対する自由、その根拠たる indétermination として、同じ意味で使われている。ベルクソンには直接繋がっていかないかもしれないが、G・ドゥルーズ『差異と反復』第一章の冒頭にも、détermine indétermine は出てくる。財津理訳では規定、未規定と訳される(河出文庫、上、P87〜90)。
さて、個人全訳である竹内訳では『物質と記憶』では「未決定性」と訳されていたのに、今回は「不確定性」が採用されている。これは、どちらかに揃えるべきだろう。僕は、『物質と記憶』を最初ちくまで読み、そこで使われていた「不確定性」を使ってきたが、竹内訳に接して惚れ込み「未決定性」と言い換えてきた。今後どうしようか悩んでいる。
前の章で仄めかしたように、生命の奥底には、物理的な力の必然性に、できる限り多くの非決定性を接合する努力があると想定してみよう。《ちくまP151》
すでに前章で示唆したように、生命の根底には、物理的な力の必然性にできるだけ多量の不確定性を接木しようとする努力があると考えて見よう。《白水社全集P138/大思想P217上》
前章で垣間みてもらったように、生命の底には物理力のもつ必然性にできるだけ多数の不確定性を接木しようとする努力がひそむことを仮定しよう。《岩波P145》
第一章〔の終わり〕で予備的に述べておいたように、生命活動の根底には、物理的諸力の示す必然性に対して、可能的最大限の不確定性を接ぎ木しようとする努力が潜んでいるということを、前提として考えてみよう。《竹内P139》
○ 形式が思考(知性)を可能にする
小学生は、先生がこれから分数を言いますと言えば、分母と分子が与えられる前にまず横棒を引いておく。知性は、質料〔matiere〕なしで、形相だけで、知の対象にしうる。その例としてベルクソンがあげるのがこの小学生と分数の比喩である。
知性と本能とを比較した部分である。
なお、人の言葉をまねるオウムやインコは、物真似のごとく、声質まで真似ていることがある。お父さんの言う「新聞はどこ?」と、娘の言う「おやつほしい」とを、声質まで真似る。これを賢いと驚くのは早合点である。オウムは、形相をでなく、質料を反復しているのだ。一方で、馬は「草一般」を認識する。一般化された段階で、それは形式(形相 forme)である。オウムより馬が賢いというわけではない。オウムもエサ一般を認識する。形式的な思考は、決して純粋思弁に接続しているわけではない。行動に接続しているのである。
竹内氏は訳注で、この「哲学者たち」を新カント派としているが、なるほど勉強になる。訳語としては必ずしも複数にする必要はないと思う。岩波は卓見である。日本語の「哲学者」は、必ずしも単数形を意味するわけではない。
哲学者たちはわれわれの認識の質料と形式を区別する。質料は、手が加えられていない状態の認識能力によって与えられたものである。形式は、体系的な知識を構築するためにこれらの素材の間に立てられる関係の全体である。……知性は、その生得的な部分では、形相〔形式〕についての知識であり、本能は質料の知識を含んでいる。《ちくまP190》
哲学者たちはわれわれの認識の素材と形式とのあいだに区別を立てる。素材は、生(なま)のままの状態にある知覚能力によって与えられるものである。形式は、体系的な認識を構成するために、これらの素材のあいだに立てられる諸関係の総体である……知性は、生得的なものをもつ点で、形式の認識であり、本能は素材の認識を含む。《白水社全集P173/大思想P238下》
哲学者は私たちの認識に素材と形式を区別する。素材とはなまの状態にあるときの知覚能力によって与えられているものをいう。それらの素材間に関係がつきひとつの認識体系が組みたつと、この関係の総体が形式である。……知性はその生得的なところについていえばある形式の認識であり、本能にはある素材の認識が含まれる。《岩波P181》
哲学者たちは、われわれの認識するものの質料と形相を区別する。質料とは、生(なま)の状態で捉えられた知覚の諸能力によって与えられるものである。それに対して、形相は認識対象物相互間に定立される諸関係の総体であり、対象物の体系的認識を構成するものである。……知性に先天的に備わっているものは形相の認識であり、本能が元来内包しているのは質料の認識である。《竹内P174》
○ 本能による理解。共感論。ジガバチはアオムシの傷つきやすさを向かい合っただけで知る。
ある種のハチは、アオムシに針を刺して麻痺させ、殺さずに生かしておく。生きたエサとするのだが、アオムシのどこに針を刺せば良いのか、ちゃんと知っている。それはなぜなのだろうか。昆虫学者のように、試行錯誤して学習したのだろうか?
ハチは知性でそれを知ったわけではない、本能で知っているのだ、とベルクソンは言う。これはベルクソンの共感論である。
アオムシの急所を刺しえたハチだけが、刺せなかったハチとの生存競争に勝ったのだ、などと考えるのは愚かである。
しかし、ジガバチとそのいけにえの間にある共感(共に苦しむという語源的な意味での sysmpathie)を、アオムシの傷つきやすさについて、いわば内側から教えてくれるような共感を想定すれば、事情はもはや同じではないだろう。この傷つきやすさについての感情は、外的な知覚に何一つ負うところなく、ただジガバチとアオムシが向かい合っただけで生れるだろう。このときそれらは、二つの有機体ではなく、二つの行動性とみなされる。《ちくまP222》
けれども、アナバチとその獲物のあいだに一種の共感(語源的な意味での)を想定し、それがいわば内側から、アオムシの急所をアナバチに教えてくれるのだと考えるならば、事情はもはや同じではないであろう。急所のこの直感は、何ら外的知覚に負うのではなく、アナバチとアオムシがただ向いあうだけでうまれてくるものかもしれない。そのとき、アナバチとアオムシはもはや二つの有機体とみなされるのでなく、むしろ二つの活動とみなされる。《白水社全集P201/大思想P255下》
けれども、アナバチと餌食とのあいだに(言葉の語源的意味での)共感を想定するならば、事情はもはや同じではなくなろう。この共感がいわば内側から青虫の傷つきかたを教えるものとするのである。この傷つきかたについての感じは、外部知覚には何ひとつ負うところがないかもしれない。それはアナバチと青虫とがひとつところにもちだされて置かれた、というだけのことから生ずるのかもしれぬ。そのばあいアナバチと青虫とはもはやふたつの有機体としてでなく、ふたつの活動として見られている。《岩波P210》
しかし、もし〈アナバチ〉とその犠牲となる〈幼虫〉とのあいだに、一種の共感(語源的意味におけるそれ)が存在しており、その共感が〈アナバチ〉に、言うなれば内側から、〈幼虫〉の弱点を教えていたと考えられるならば、事情は変わってくるだろう。この弱点の感覚は、外的知覚に負うものは何もなく、〈アナバチ〉と〈幼虫〉がただ同時に存在しているだけで、それも二つの有機生命体としてではなく、二つの行動として同時に存在しているだけで、生じてくるのである。《竹内P203》
《二つの有機体でなく、一つの行動性として》なら意味がわかるが、あくまで《二つの行動性》なのである。ハチとアオムシとは、それぞれで「体」でなく「行動」だ、ということか。
なお、ハチは、ジガバチとかアナバチとかと訳されている。これについては、竹内訳(124)にも触れてあるように、紛らわしいらしい。遠藤彰「「狩蜂」の本能」(『ことばの力』京都大学学術出版会)という論文が、この件に関して最も詳しいのではないだろうか。それによれば、Spehex は訳語としてはアナバチとなるが、アナバチは狩りをしない。これではあたかもベルクソンが間違えているかのようのである。当時は、Spehex と Ammophila ジガバチとは混同されていた。だから、ジガバチ(狩りをする)と訳して良い、ということである。vulnerabilite も、急所、弱点、傷つきやすさ、傷つきかた、と多彩である。急所や弱点のほうがすっきり分かるが、傷つきやすさは辞書的な逐語訳かもしれないにせよ、案外、ロマンティックで、訳として認めたい。
○ 知性の根源
次の例である。ベルクソンが目指している、物質性の発生と知性性の発生との相関関係を知る試みについて語られている文脈である。先にも見た、「運動性と意識との明白な比例関係」の延長上にある問題である。この試みは、これまでの一般の学問(心理学、宇宙論、形而上学)よりもさらにいっそう大胆なものになる、と言う。
ここは端的に、ちくまは誤訳、勘違いである。
(なお、ちくま学芸文庫 P262の「problematique 」を「「問題点の多いもの(プロブレマテイツク)」〔不確かなもの〕」と訳しているのは、どう考えようと、誤訳。おそらく考えすぎ。カント的な定訳「蓋然的」と訳す方が良い)
なぜなら、心理学、宇宙論、形而上学は、知性をその形式と質料において生み出すことが問題であるのに、この試みは知性の本質的なものを措定することから始めるからだ。《ちくまP238》
なぜなら、心理学も、宇宙発生論も、形而上学も、はじめから知性をその本質的な点で与えられたものとみなしているのに反して、ここで問題なのは、知性を、その形式とその素材において、発生させることだからである。《白水社全集P214/大思想P264》
心理学や宇宙誕生論や形而上学は知性をその本質的な点でまず認めてかかるのに、この試みでは知性の発生を形式・素材の両面からたどるところが狙いなのである。《岩波P225》
なぜなら、心理学も、宇宙論も、形而上学も、その本質的要素として、知性をまず前提条件としているからである。それに対して、わたしの試みは、知性をその形相とその質料において産み出そうとするものである。《竹内P218》
○ 知性を知性的に考えてはいけない。悪循環からの脱出(水泳のたとえ)
次の例は、知性や理屈を知性的に理屈で考えてはだめだ、というくだりである。泳ぐことを知らない反論者なら言うであろうという「泳ぐなんて不可能なことです。泳ぎ方を覚えるためには、まず、水の上に浮かんでいなければならないでしょう。ということは、すでに泳ぎ方を知っていなければならないからです。」が面白い。ベルクソンは、そんなことを言わずに恐がらずにゆっくり水の中に入ってみよ、と言うのである。論理の circle を行動がうちやぶる、と言う。
なお、この論理は、パラダイムの対立を考える時にも役に立つだろう。一般に、パラダイムは共約不能であるとされる。A文化圏とB文化圏とが共約不能だとして、Aに住むaさんがBに長く住み自然とBの文化を身につけることを、パラダイム理論は説明してくれない。
とはいえ、そのような理屈を使えば、いかなる新しい習慣も獲得できないことが証明されるだろう。所与の循環にわれわれを閉じ込めるのが、理屈〔推論〕の本質である。しかし、行動はこの循環を打ち破る。……が、率直に危険を受け入れるなら、おそらく行動は、理屈が自分で結んでおきながら解くことのできない結び目を断ち切るだろう。《ちくまP245》
けれども、そういう理屈でいけば、新しい習慣は何一つ獲得されえないことが、立証されるだろう。与えられたものの円内にわれわれを閉じこめるのが、理窟の本質である。しかし、行動はこの円を破る。……けれども、われわれがすなおに危険を受けとめるならば、おそらく行動は、理窟が結んだまま解きほぐすことない結び目を、断ちきるだろう。《白水社全集P221/大思想P268下》
けれども似たような理窟でおしてゆけば、およそ新しい習慣もやはり何ひとつ獲得されないことになるのではないか。私たちを所与のものの円環にとじこめることも理窟の本領なのである。ところが行動は円環をやぶる。……けれども危険を虚心にひき受けるひとには、理窟がこしらえたきり解いてくれない結び目を行動が断ちきるにちがいない。《岩波P231》
しかし、それと同じような論理によって、何であれ新しい習慣を獲得することの不可能性を証明することもできるだろう。所与のものという輪の中にわれわれを閉じ込めるのが、論理というものの本質なのである。しかし、行動はその輪を打ち破る。……しかし、天真爛漫にそのリスクを受け容れれば、論理が結び合わせた、論理によっては解きほぐすことのできないその固い結び目を、わたしの行動が切り放ってくれるかもしれないのだ。《竹内P224》
この「理屈のcircle に閉じこめられる」は、理屈という円の内部に閉じこめらるのか、理屈という悪循環に閉じこめられるのか、どっちだろうか。岩波・筑摩は円環、白水社二著は円・輪である。中略を挟んで出てくる「理屈が自分で結んでおきながら解くことの出来ない結び目を、行動が解く」という「結び目」を対比的表現として考えると、悪循環(円環)のようにも思えるが、断ちきられた結び目によって円の内部から脱出すると考えることもできる。私は、見出しに見えるように「悪循環」ではないかと思う。
○ 知性のバラスト(起きあがり小法師のたとえ)
次の例の、コルクの人形という例も面白い。ちくまで最初読んでいた時は、なんのことかさっぱり分からなかった。岩波の「おきゃがり小法師」はママである。竹内訳は途中までは初読でも分かるであろう名訳だが、最後の「バラスト」は無いだろう。原文は〔lestée de géométrie〕である。舟の底荷を意味する語だが、あくまで比喩なのだから。
足が鉛でできたコルクの人形の一つに、ありとあらゆる姿勢をとらせてみよう。仰向けに寝かせてもよいし、頭を下にして逆さまにしてもよい、空中に放り投げてもよい。その人形は常に自動的に立ち上がるだろう。物質についても同じことが言える。物質のどこを掴んでも、どんなふうに扱っても、物質は常にわれわれの数学的な枠組みのどれかの中に落ちていって、そこに収まるだろう。なぜなら、物質は幾何学という錘りをつけているからだ。《ちくまP279》
底に鉛を入れた起きあがり小法師は、どんな姿勢に置かれて、たとい仰向けにされても、逆立ちさせられても、空中に放りだされても、つねに自動的に立ちあがるであろう。物質のばあいも同様である。物質をどの端でとりあげ、どんなふうに扱っても、そこには幾何学というおもりがついているので、物質はつねにわれわれの数学的な枠のどれかに落ちこんでいくであろう。《白水社全集P251/大思想P287上》
おきゃがり小法師〔ママ〕は脚部に鉛がはいっていてどんな姿勢をとらせても、仰向けにしても逆立ちさせても抛りだしても、かならず自動的に立ち直る。物質も同じことである。物質は幾何の錘りをつけているために、どこの端でつかまえどんな扱いをうけてもかならず私たちの数学のどれかひとつの枠にやがてまた落ちつく。《岩波P262》
足に鉛の重りを付けられたコルク製の小さな人形を、あなたの思うままの姿勢に置いてみるがよい。仰向けに寝かせても、頭を下にして逆さまにしてみても、空中に放り投げてもよい。その人形は常に立った姿勢を、それも自動的に、取るだろう。物質に関してもそれと同じことなのだ。物質をどの点で捉えようと、どのように取り扱おうと、物質はわれわれ人類の数学的枠組みのどれかに落ち込んでゆくことになるだろう。なぜなら、物質には幾何学というバラストが仕込まれているからだ。《竹内P255》
○ 生の切断面(1)
「生命のうちには物質が下る坂を上る努力がある」(ちくまP313)、「生命とは、落下する錘り(weight)を上に持ち上げる努力のようなものである。確かに、その落下を遅らせることしか成功しなかった。少なくとも、錘りが上昇するとはどういうことであったか、その観念をわれわれに与えることができる。」(同P314)。ただし、物質においては一見自由な一瞬の上昇や、または最終的な落下は、結局のところ科学法則の必然の埒内にある。それに対して生命は「みずからを解体する創造的な動作」(同P315)なのである。「みずからを解体するものを横切ってみずからをつくる、ある実在」である。この創造的なプロセスは、あくまで「流れ」なのである。次の第四章で詳述される論点がここで先取りされている。
ただし今問題にしたいのは、切断面〔coupe〕である。
しかし、事物や状態は、われわれの精神が取った生成の瞬間写真でしかない。事物など存在しない。あるのは作用だけだ。……しかし、行動〔作用〕が前進しながら増大すること、それが進展と共に創造することは、われわれが各々、自分が行動するのを見るときに確認することである。諸事物は、われわれの悟性が所与の瞬間に、この種の流れの中で行う瞬間的な切断によって構成される。切断〔断面 coupe〕同士を比較するときには神秘的であったものが、その流れに立ち戻ると明晰になる。《ちくまP316》
けれども、事物や状態は、生成に対してわれわれの精神がとらえる眺めでしかない。そこには事物が存在するのではない。そこには行動だけしか存在しない。……けれども、行動は前進しながら増大しているということ、行動は自己の進歩に応じて創造するということ、これはわれわれが誰しも、行動する自己をみつめるときに、確認することである。悟性は或る瞬間にかかる流動のなかで瞬間的な切断をおこない、それによって事物が構成される。かかる切断を相互に比較するときに神秘に思われるものも、もとの流動に照らしてみれば、明白になる。《白水社全集P282/大思想P306下》
けれども、ものとか状態とかは私たちの精神から生成を見てとった眺めにすぎない。行動があるばかりで、ものなどはない。……けれども、行動は前進ながら大きくなり進展につれて創造してゆくもので、そのことは行動する自分をかえりみるひとなら誰にでも確認される。そのような類の流れを知性がある与えられた瞬間にさっと切断すると、ものができあがる。断面を相互に比較するだけでは神秘的なところも、もとの流れに関係させてみれば明白になる。《岩波P294》
しかし、事物や状態は、生成する事象をわれわれの精神が捉えたときの視像にすぎない。事物があるのではない、あるのはただ行為だけである。……しかし、行為が進展しながら大きく成長すること、行為がその進展とともに何かを創造しているということは、自分が行動するを観察するとき、われわれ誰もが確認できることである。事物群は、ある瞬間において、このような〔進展の〕流れのなかで、悟性が執り行う瞬間的切り取りによって構成されるものだ。それらの切り取りを相互に比較するときには神秘的と思われることも、その流れのことを考え合わせてみれば明快なものとなる。《竹内P288》
○ 生の切断面(2)動く切断面、動かない切断面
ここで話題にしたいのは「切断(coupe)」のほうである。この語はドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』の冒頭に出てくる。まず「動かない切断面 coupes immobiles」によって運動を再構成することはできない、というベルクソン『創造的進化』第四章に基づく分析として。次に「動く切断面 coupes mobiles」という、ベルクソンが『物質と記憶』第一章において既に発見していた運動イメージとして。ドゥルーズによれば映画が表現している運動は、ベルクソンが言うような「動かない切断面」によって再構成されたもの、絵札〔コマ〕にあとから運動や抽象的な時間が加わったもの、ではない。映画は直接に動くイメージを与えている。ただし、『物質と記憶』第一章のみならず、『創造的進化』においてさえも、瞬間は「動かない切断面」だけでなく、運動・時間は持続であり、持続という全体における「動く切断面」なのだということが認められている、と言う。ここでのドゥルーズの議論は、まだ分かりにくい。『シネマ1』の財津理氏の訳注などを参考にした上で、『物質と記憶』第二章の冒頭部(第一章の内容をまとめている部分)も見ておこう。次のようにある。
それゆえ、〔身体から〕独立した記憶は、諸イマージュを時間に沿って、それらが生じるにつれて拾い集めるが、われわれの身体ならびにそれを取り巻くものは、これらのイマージュのうちのあるイマージュ、生成一般のなかに瞬間的切断面を作ること〔en pratiquant une coupe instantanée dans le devnir en général〕でわれわれが絶えず獲得する最新のイマージュでしか決してないかのように、すべては進行するにちがいない。この切断面の中で、われわれの身体は中心を占めている。〔Dans cette coupe, notre corps occupe le centre.〕《ちくま『物質と記憶』、P100》
したがって、事情はあたかも独立した記憶力がイマージュを、生れるにつれて時々刻々とり込むかのようであり、また私たちの身体は、周囲のものと並んで、ただそれらのイマージュの中にあるひとつ、最後のイマージュ、すなわち私たちが全般的な先生の中でたえず瞬間的切断を成しとげることによって達成するイマージュにすぎないかのようであるはずだ。この切断面の中で中心を占めるのが、私たちの身体なのである。《白水社全集『物質と記憶』P90、田島節夫訳》
それで別に一つの獨立的記憶があつて、時間の流に從つて繼起する形像を掻き集めるやうに思われる。また吾々の身體並びにその環境はそれらの形像中の一つに過ぎず、この一般的生成の流を刹那的に切断したところに生ずる最後の形像であるやうに思はれる。この切断面の中心を占めるものは吾々の身體である。《岩波文庫『物質と記憶』P99、高橋里美訳》
したがって、身体とは独立の記憶力が、時間の流れにそって現われるイマージュを、順に拾い集めているはずであるし、われわれの身体、および身体周辺のイマージュは、この時間系列におけるイマージュのうちの、あるイマージュ、すなわち、われわれが生成全体の流れを、時々刻々切断する断面のうち、いつも最後に得られる断面のイマージュにすぎないはずである。この切断面で、身体は中心を占めている。《駿河台出版社P81、岡部聰夫訳》
したがって、見たところはあたかも、ある一つの独立した記憶機能が、時間に沿ってさまざまなイメージが生起するのに応じて、それらのイメージ群を取り集めているかのように思われるということだ。そしてまた、われわれの身体は、その周辺世界とともに、それらのイメージ群のなかにある、ある一つのイメージにすぎないかのように、すべてが推移している。この切り取りのなかで、われわれの身体は中心の位置を占めている。《竹内P105》
○ 生の切断面(3)切断面=身体というイメージが構成する感覚―運動機構(運動イメージ)
記憶内容は脳の中にあるのではない。ベルクソンは次のように述べる。「イマージュそのものであるこの身体は、諸イマージュを蓄えることはできない。というのは、この身体は諸イマージュの一部をなしているからだ。そういうわけで、過去の知覚あるいは現在の知覚でさえも脳のなかに位置づけようとする企ては荒唐無稽である。これらの知覚は脳のなかにはない。脳のほうがこられの知覚のなかにあるのだ。」この後を読み比べてみる。
しかし、他の数々のイマージュの真ん中で存続し、私が私の身体と呼ぶこのまったく特殊なイマージュは、各瞬間に、われわれが言ったように、万物の生成の一つの横断面〔une coupe transversale de l'universel devnir〕を構成している。したがってそれは、受け取られた運動と送り返された運動が通過する場所〔lieu de passage〕、私に作用する事物と私が働きかける事物とのあいだの連結符、ひとことで言えば、感覚―運動的諸現象の座〔des phénomènes sensori-moteurs〕なのである。《ちくま『物質と記憶』、P100》
しかし他のイマージュのただ中に厳として存続し、私の身体と私がよぶこのまったく特殊なイマージュは、すでにのべたとおり、一瞬ごとに、一般的生成の横断面をなしている。だからそれは、受けては返される運動の通過地点であり、私に作用する事物と私が働きかける事物との連結線、一言でいえば、感覚―運動的現象の座である。《白水社全集『物質と記憶』P171、田島節夫訳》
然し私の身體と呼ばれて他の諸形像の間に存續するこの特殊なる形像は、吾々が既に確説したやうに、その瞬間その瞬間に一般的生成の切断面を構成するものである。故に身體は受領されまた返還される運動の通過點である。私に働きかける事物と私が働きかける事物との間の連環である。――一言でいへば、感覚―運動的現象の座である。《岩波P189》
しかし、このまったく特殊なイマージュ、すなわち、諸々のイマージュの中央にあり、われわれが、自分の身体と呼ぶイマージュは、すでに述べたように、絶えず生成する宇宙の、横断面を構成する要素になっている。したがって、身体は、受けた運動と、返す運動との通路、わたしに作用をおよぼす事物と、わたしがはたらきかける事物との間の、トレ・デュニオン(連結符 le trait d'union)、要するに、感覚―運動現象の座である。《駿河台出版社P198、岡部聰夫訳》
しかし、ここにきわめて特殊な一つのイメージ、あくまでも他の多くのイメージ群のただなかにあり続けるイメージ、わたしがわたしの身体と呼ぶそのイメージがある。先にも述べたように、〔わたしの身体という〕このイメージは、有為転変する世界の横断的切り取りを、各瞬間において、行っている。それはまさに、受け取られ、送り返される運動の通過する場なのであり、わたしに作用する事物とわたしが作用を返す事物との連結符であり、要するに、感覚=運動に関わる諸現象の在り処なのである。《竹内P208》
四つも五つも並べる必要は無かったか。しかし、竹内訳は「切断面」でなく、「切り取り」と訳語をあてている。
切断面というと羊羹を切ったその切り口のように思える。切り取りというと、ピザをいくつかに分割したように思える。あくまで、立体物に面を与える、次元をひとつ落とすものでなければならない。
○ 生の切断面(4)動く切断面とは感覚―運動機構(運動イメージ)である
さて、この「切断面」とは、『物質と記憶』第三章の有名な逆円錐でいうならば、円錐の頂点Sが接する平面Pのことである。
次の例を見よう。原文は「coupe transversale」だから横断面と訳すものが多い。それでも良いが、ここは「水平な切断面」と訳してはどうだろうか。逆円錐の図ゆえに、ベルクソンは時間を垂直にイメージしているのである。時間に対する水平な切断面が平面Pなのである。
さて、その続きを読んでいけば、ドゥルーズの言いたいことも見えてくる。面Pが感覚―運動現象の座としての切断面だそうである。つまり、感覚―運動を可能にする場こそが、この切断面であり、すなわちそれは「動く切断面」なのである。
ついでに、ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』(宇波彰訳、P54、法政大学出版局)にも、これに関する言及がある。「記憶内容はどこに保存されるかという問題は、にせの問題、つまりよく分析されない混合されたものを含んでいる。ひとびとはあたかも記憶内容がどこかに保存される、たとえば脳がそれを保存できると考えている。しかし、脳はすべて客観性の線〔物理的存在であること〕の上にある。脳は、物質の他の状態と、いかなる性質の差を持っていない。脳においては、脳が決定する純粋な知覚の場合と同じく、すべてが運動である。(また、運動 mouvement という用語は持続する運動の意味ではなく、《瞬間的な切断》の意味で理解すべきものであることは明白である。)これに対して、記憶内容は主観性の線の一部になっている。」《瞬間的な切断》は coupe instantanée(原文),instantaneous section(英訳)。
なるほど。ベルクソンの言う「運動」には、持続する真の時間としてのそれ(潜勢的な運動)と、すでに現実に行動化され空間化されたそれ、感覚―運動機構として、現在としてのそれ(現働的な運動)とがあるのだね。ドゥルーズはほんとうにあたまが良い。(メモ:瞬間的とは言え、切断された現在は、時間的に幅を持ったものが縮約 contract されたものである)
○ indétermination(2)必然性に自由を注ぎ込む
次の例も「不確定性」の例である。また、エラン・ヴィタールは、竹内訳では「いのちの躍動」と訳してある。白水社全集でも「生命の躍動」だから似たようなものである。なお、ちくまの(élan le vie)は(élan de vie)の誤植。
われわれが語る生命の弾み(élan le vie)とは、要するに、創造への要請に存している。生命の弾みは絶対に創造することはできない。なぜなら、それは眼前の物質、つまり自分とは逆の運動と出会うからだ。しかし、生命の弾みは、必然性そのものであるこの物質を捉え、そこに、可能な限り多くの非決定性、つまり自由を挿入しようとする。《ちくまP320》
われわれの言う生命の躍動は、要するに、創造の欲求のうちに存する。生命の躍動は、絶対的なしかたで創造することはできない。というのも、それは物質に、すなわち自分の運動とは逆の運動に、出会うからである。けれども、生命の躍動は必然性そのものたるこの物質をわがものにし、できるだけ多くの不確定と自由とをそこに導きいれようとする。《白水社全集P285/大思想P308下》
私が生命のはずみというのはつまり創造の要求のことである。生命のはずみは絶対的には創造しえない。物質に、すなわち自分のとは逆の運動にまともにぶつかるからである。しかし生命はそうした必然そのものとしての物質をわが物にして、そこにできるだけ多量の不確定と自由を導入しようとつとめる。《岩波P297》
わたしが言うところのいのちの躍動とは、要するに、創造への飽くなき欲求とでも呼ぶべきものの上に、その基礎を置いている。いのちの躍動は、〔神のように〕絶対的創造を為しうるわけではない。なぜなら、それは、物質世界、言い換えればその躍動とは逆向きの運動に、直面せざるを得ないからである。しかし、いのちの躍動はその物質世界、必然性そのものである物質世界を取り押さえ、そこに可能的最大限の不確実性と自由〔grande somme possible d'indétermination et de liberté〕を導き入れようとする。《竹内P291》
○ réalité は不断の生成である
次の例も〔réalité〕を何と訳すかである。「実在」で良いのではないか。意味は、もの(実在)が、物質であろうと精神であろうと、それは絶え間ない生成である。作られたり、壊されたりするが、ただ一つ既にできあったものではないことだけは確かだ、ということ。「出来事」と訳すのは意訳過ぎるが、ニュアンスは近い。「事象」がそれに近い。
物質にせよ精神にせよ、実在は絶え間ない生成としてわれわれに現われた。実在はみずからを形成する。あるいはみずからを解体する。しかし、決してすでに出来上がってしまった何かではない。《ちくまP345》
物質にせよ精神にせよ、実在は、われわれにとって、不断の生成としてあらわれる。実在は、できていくか、こわれていくかのいずれかである。けれども、実在は、決して、できあがった何ものかではない。《白水社全集P307/大思想P323上》
物質にせよ精神にせよ、事象はつねなる生成として私たちに現われた。それは出来るか壊れるかしていて、とにかくある出来上がったものではけっしてない。《岩波P320》
物質にしろ精神にしろ、現実存在は不断の生成としてわたしの前に現われていた。現実存在は自らを作り出し、あるいは自らを壊すことがあっても、作り終えられた既製品では決してない。《竹内P315》
○ indétermination(3)未来の未決定性(フィルムの束のたとえ)
先の文章も感動的だが、次もまた涙が出てくるほどだ。「未来は現在の瞬間において完全には決定されていない」と断定するこの力強さ。私もこのようにして生きていきたい。
……なぜ宇宙は、繼起する自分の状態を、私の意識にとっては真の絶対であるような速さで展開するのだろうか。なぜこの規定された速さで、他の任意の速さではないのか。なぜ無限な速さで展開しないのか。言い換えれば、例えば映画のフィルムの上ではそうであるように、すべてが一挙に与えられないのはなぜか。この点を掘り下げれば掘り下げるほど、次のように私には思える。第一に、未来が、現在の横に与えられているのではなく、現在に引き継いで起こる以外にないのは、未来が現在の瞬間において完全には決定されていないからだ。《ちくまP428》
……何ゆえ宇宙は、私の意識にとって真の絶対である或る速度をもって、その継起的諸状態を展開するのか?何ゆえ、他の任意の速度をもってでなく、この一定の速度をもってするのか?何ゆえ、無限の速度をもってしないのか?いいかえれば、何ゆえ映画のフィルムにおけるように、すべてが一挙に与えられないのか?この点を深めれば深めるほど、私にはこう思われてくる。将来が現在のかたわらに与えられるのでなく、現在にひきつづいておこるように定められているのは、将来が、現在的瞬間においてまったく決定されていないからである。《白水社全集P382/大思想P369下》
……どうして宇宙は状態をつぎつぎと展開するのにある速度を、それも私の意識のまなざしには掛値なしの絶対とみえる速度を要するのであろうか。なぜその速度はこの決まった速度であって、むしろ他の任意の速度ではないのか。なぜ無限の速度ではいけないのか。換言するならば、一切が一挙に、ちょうど映画のフィルムのように帯状に連ねて与えられてしまわないのはどこに由来するか。この点を掘りさげるにつれて私にはそう思えてくることがある。もし未来は現在の後につづく定めにあってこれと並んで与えられるようにはなっていないとすれば、それは未来が現在の瞬間にのこりなく決定されてはいないからである。《岩波P369》
……なぜ、世界はその継起的状態を、わたしの意識から見ればまことに絶対的強制と思える速さで、展開するのであろうか?なぜ、この一定の速さであって、それ以外の任意の速さではないのか?なぜ、無限大の速さではないのか?言い換えれば、映画のフィルムの映像のように、すべてが一挙に与えられていないのは、どういうわけなのか?この点を深く考えれば考えるほど、わたしには次のように思われる。すなわち、未来が必ず現在の後に続くのであって、現在の傍らにあるのでないとすれば、それは、未来が現在時点で完全には規定されていないからであり、……《竹内P393》
それはそうと、私がここで気になるのは、「映画のフィルムの上ではそうであるように」の一節である。勘違いしてはいけないのは、ベルクソンはここで「映画フィルムの上では」「すべてが一挙に与えられている」と言わんとしているということだ。映画の上では映像が次々に継起的に与えられている、とは言っていない。もし、そう読むなら、映画をめたくそに言ってきたベルグソンが急に映画の擁護者になってしまう。私はここを岩波文庫で読んで、ベルクソンの卓抜な比喩に気づいて大笑いした。原文は〔comme sur la bande du cinématographe?〕である。直訳するなら「映画が帯状であるごとく」であろう。岩波が「ちょうど映画のフィルムのように帯状に連ねて与えられてしまわないのは」と訳しているのが最も明晰だ。映画のフィルムは帯状になっていて、あるいは巻かれて缶に入れられていて、ぽんと(一挙に)渡せるものとして実在している。映画の時間(映画の物語)とはそんなものにすぎない。それが映画的時間なのだ。しかし、生きられる生の時間はそうではない。時間に沿って展開されねばならない。するしかない。それはなぜなのか? ベルクソンはそう問うているのだ。「過去、現在、未来の歴史は一挙に扇状に展開されうることをいかに含意するとしても、それでもやはりこの歴史は徐々に繰り広げられているのである。」(ちくまP28)。「過去、現在、未来の履歴は扇子を広げるように一挙に展開できるものであるかもしれない。それでもなお、……」(竹内P26)。
以上、全体の結論である。もともと、ちくま版『創造的進化』はけしからんな!と思っていたのだが、馴れてくるとそれほど悪くはない(本能の記号は固定的だが、知性の記号は動的なのである)。また白水社の旧全集も、岩波文庫も悪くはなく、また白水社竹内個人訳も良いところはたくさんあり、ともかく、どれで読んでも良いということ、これが結論なのだ。最初は誤訳を指摘(うそくらべ)するなどと僭越なことを考えていたのだが、失礼な話であった。上から読んでも下から読んでも同じだ。先日の研究会の飲み会ですこし年上の会員が「最近の中国と韓国はけしからん」と息巻いておられた。そのうちに「どれほど中国が進んでも、ノーベル賞を取っているのは日本だけだ」とか始まった。だれかが「文学賞を取ったよ」と言うと「あれはインチキだ」とすかさず返してみなに爆笑されていた。そもそも、日本が中国や韓国より優れていると言いたくて「ノーベル賞」を出してしまうあたりからして、ナショナリスト失格(笑い)のような気がするが、ともかく話をもどすと、ベルクソンの著書でこれだけの翻訳を持っている日本の学識は自慢されて良いだろう。自慢で終らず、これを活用しなければ何にもならない。それでほんとうのクール・ジャパンであろう。
改めて僕が(僕ごときまでもが!)宣伝しておくと、いま岩波『思想』で不定期連載されている国分功一郎の「ドゥルーズの哲学原理」はすごい。国分功一郎という人は、見取り図の描き方、頭の良さは半端ない。最低でも浅田彰以来と言いたい(この間20年くらいの人たちをすべてすっとばして。失礼を承知で申しますが)。
さて、ドゥルース『意味の論理学』に「ミッシェル・トゥルニエと他者無き世界」という付録論文がある。これはドゥルーズの他者論である。世界が実在するということの信憑性を保証してくれるのが他者なのだ、という趣旨の論文(みたい)だ。子供の頃など、世界は目の前にしか広がって居らず、後の世界は振り返った時にだけに出現する、振り返った時には、さっきまで見えていた目の前の世界は消失している、とか感じていたことはありませんか。泊り掛けの旅行に出て、自宅がそのまま存在しているのか。目の前のリンゴは、目に見える表面だけ存在していて、裏側は実は空虚ではなかろうか、等々。実在に対する懐疑が可能である。この懐疑は、本質的に独我論の一種である。無人島で一人で生きている人(たとえばロビンソン・クルーソー)、つまり他者がいない世界に生きているような存在において、生じうる懐疑なのだ。
私がリンゴをある一面だけから見ている時、他者は別位置に立っていて、私とは違う知覚像を有している。幸いなことに(!)、他者は私と同じ位置をしめることが出来ない。私は彼にはなれない。しかし、却って、このことがリンゴの裏側は空虚ではないということを保証してくれるのだ。彼は私に言ってくれる。「こっちのほうは空虚じゃないよ。君のほうはどうだい?」
簡単な問題から先に片付けておこう。会田誠展を見た日、その前に「風が吹けば桶屋が儲かる」展(東京都現代美術館)も見てきた。あえて挑戦的に書いておくけれど、驚くほどに幼稚である。自分の持てる荷物を肯定しよう。しかし、それは、重い荷物はもう持てません、と言っているのと同じだろう。3.11以降、同時に様々な恫喝を受けて以後。この国には自民党しか選択肢がないのだと思い知らされて以後。荷物や絶望はたしかに大きすぎる。だからそうなってしまうのもわかるが、その論理では、彼らにとっては他者と合一することだけが世界の救済なのだろう。抽象化された通俗的な倫理がはびこるだけだ(風が吹けば桶屋が儲かる云々の件は終わり)
もちろん、他者の存在自体が空虚だとかほんとはゾンビだ(心ヲ持タナイ)とかいう、さらなる懐疑は可能である。この他者が独我論を完全に論駁してくれるわけではない。ただ、世界の実在に対する信憑の成立という問題として、面白いなと思うわけである。まあ、この他者の構造をドゥルーズが初めて言ったのか、他にだれかが言っているのかは、ちょっとよく分からない。E・レヴィナスはこうは言っていないと思う。しかし、メルロ=ポンティなどは言いそうな気がする。あるいは、英米の心の哲学系は言っていそうな気がする。
他者が世界の実在を保証している、という体系(信憑体系)は、視覚に強く依存して成立している。世界を視ることに拠ってしか信じないから、人は他者を必要としている。逆に言うなら、他者は、世界と私の存在を保証してくれるだけの存在(道具)にすぎない。レヴィナスが批判しているのは、そうした道具としての他者観だろう。他者は絶対的に私を超越しているのだ、とレヴィナスは強く主張する。
他者が世界の実在の信憑性を保証してくれるというこの構造は、実際には他者の一般化を呼び込む。つまり、具体的な他者である必要はなく、抽象化された他者で良いのだ。他者は、二つの方法で一般化された。一つは古代の方法であるが、《神》として。もう一つは近代の方法で、《我》がそれである。《我》には他者たる《神》の作用が内面化されている。視覚による内面化の方法こそが、マッスの概念である。
本題はこちらである。2月11日に豊田市美術館の田中信行展を見てきた。田中信行氏と建畠晢氏との対談もあるから、どうせ見に行くならとこの日にした。
この美術館に関して、まずは脇道から。併設されている漆の高橋節朗展というのがあったが、私はこの人の作品をみて「ああ、村上隆はこういう人になりたかったのだな」と妙にひとり合点した。閑話休題。
対談で、田中氏は、2つのエピソードを紹介していた。一つは、これに先立つ戸谷成雄氏との対談で「工芸ではなくて彫刻だと言った方が良い」と言われたが、私の作品は彫刻ではないのだ、という話。もう一つは、大学を卒業したばかりの頃に描いたドローイングを久しぶりに見直して、極めて触覚的なドローイングであったことを再発見した、という話。建畠晢氏は、彫刻を成立させているのはマッス(量塊)の概念だと言う。マッスの概念とは端的に言って、見えていない部分もまた実在するという概念である。実在の信憑性を視覚によって成立させることにマッスの概念の本旨がある。田中氏はそれを受けて、対象の把握において日本的なそれは極めて一面的だ、一面的なものがパタパタと連続しているにすぎない、一つの量塊を形作っていない、例えば興福寺の阿修羅像なんて彫刻的にみればヘンテコですからね、と言う。「一面的なものがパタパタと連続しているだけ」というのは、それぞれに有る知覚像がしかし連続的に統合されてマッスを形作ることはない、ということである。これが視触覚(神なき視覚、他者なき視覚)である。
ちなみに言えば、大森荘蔵はたしか「複数の知覚正面(その無限集合)と、それを連続体として連結させるアリゴリズムとが、立体形状を可能にしている」と言ったはずである(「キュビズムの意味論」、『時間と存在』青土社)。瞬間と連続(持続)との関係を問うて、問題はそれをつなぐ「アルゴリズム」そのものであるにも関わらず、ここを簡単に「アルゴリズム」だとか「知覚正面の無限集合」だとか言ってしまうところに、この(英米系の)大哲学者の限界を私は感じてしまう。「アキレスと亀」等のゼノンのパラドックスに関しても、ベルクソンの解釈を大森氏自身の幾何学的理解たる「点時間への批判」に還元し、問題を矮小化している。そもそも大森氏は、視覚と触覚を似たようなものと考え、これに聴覚を対比させ「大我」なるものを想定するのだが、この自我に対する大我こそが、ベルクソンのいう「知覚」概念そのものではないだろうか(ベルクソンにおける知覚とは、ある外的対象を私の身体〔自我〕の可能的行動へと関係づけること、である。本サイトでも何度も書いている)。それから、知覚においては、視覚・触覚と聴覚とのあいだには大森氏が期待するような差異はたぶん無いだろう。閑話休題。
田中氏は、若い頃に描いたドローイングを見直して、自分自身が世界を触覚的に把握しようとしていたことに気づく。それは彫刻の方法ではない、別のしかたでの把握であるが、昔から自分はそうだったんだと気づくのだ。《我は触れる。故に我は在る。》それは、他者を内面化した《我》ではない。裸のままの《私》である。視触覚(神なき視覚、他者なき視覚)とは、視覚を呼び起こす触覚などでは断じてない。視覚を解体する、触覚的なあらたな秩序(試み)である。
田中氏の漆作品は、乾漆で、板状の作品が多い。フォルムは発泡スチロールで作るが、その際に、表と裏とが出来る。これまでは、表も裏も同じように漆をほどこし丁寧に磨いてきた。表も裏もない、一つの漆という(虚構の)空間あるいはオブジェを作りだしてきた。わたしがそれを一回りした後、それは完全体・統一体として実在する、美しいオブジェであった。そのようにして、作品は幾分か彫刻的な色彩を帯びていた。
展示には、若い頃からの作品と並んで、近年のそうした到達点 inner-side outor-sideなどもあるが、今回の「彫刻ではない」という話のあとに見た最新作「流れる水、触れる水」(特に1)は決定的な《次の一歩》だった。《私》にとって裏側はいつでも未知なるものである。私が知ることの出来ない裏側というものはある、このことを受け入れ肯定すること。人を信用しないとかいうことではないが、人を私が生きるための道具のようには扱わないということでもある。
それは、私が私の孤独を生きていこうという覚悟である。田中は田中の孤独を生きようとしている。私は展示室で作品からその覚悟を読み取り心を動かされた。高橋は高橋の孤独を生きていくだろう。佐藤は佐藤の孤独を生きてほしいものである。
話題の会田誠展「天才でごめんなさい」(森美術館)に行ってきた。性暴力を肯定している等々の抗議があったりして、話題になっていたので、興味を持ちました。
まず、肯定的に書きますが、タイトル通り「天才」かも知れない、と思った。多作であり、意図がよく分かる。面白い。美少女やエロばかりではない(それは一部に過ぎない)。戦争画シリーズなんて、ほんと素晴らしいと思う。
しかし、否定的にも思うのです。美大(私の勤務校)には当然、会田ファンも多いから、批判は中途半端には書きにくい。ここはきちんと書きたいと思う。
多作で、頭の良い作家だが、これは「枠組みで描いてる」のではないか、という感じを強く受けました。本人も言っているように、パロディ、シミュレーションの作家である。戦争画、美人画、児童画、ポスター、思想や哲学、オタク、様々な絵画の枠組みがあり、それを使ってモチーフをイレカエしているだけではないか。もちろん、テクニックはあるし、頭も良い。が、そのモチーフが描きたい、のではない。私はそれを強く感じた。
性差別、性的虐待の肯定だとされた作品の一つに、科学特捜隊のフジ隊員が描かれたものがあるが、あれは陵辱云々以前に、キングギドラ云々よりも、葛飾北斎の蛸云々よりも、「フジ隊員の巨大化」という枠組みを知らないといけない作品である。そっちのほうがずっと重要な作品なのである。
また、手足を切断されて首輪を付けた少女がモチーフではあるが、これらも「犬」というタイトルで「雪月花」のシリーズである。本人が言うように、日本の美人画にそういう嗜好が潜んでいるかもしれない。が、作者は「犬」を「雪月花」の枠組みで描いてるだけであって、手足を切断された少女(が描きたくて)描いているという感じがまったくしない。この「18禁部屋」には、「美少女」という文字を見ながら会田氏が素っ裸で自慰を行うという映像作品が流されていたが、自慰という枠組みにおけるオカズが変遷しているだけであって、作者が行っているのは、こうしたイレカエにすぎないのだ。
性的虐待云々の問題にしても、そういう意味で、抗議は的外れと言って良い。しかし、私にとってこのことは、性差別よりも決定的な欠点である。抗議している人は、絵の中に性を感じ取り読み取っている。この思いなしこそが、作品を作品たらしめているのである。これを否定してしまえば、作品として何も残らない。作者が描いているのは枠組みだけなのだ。「にんげんだもの」などとパターン化された一見寛容的な言説をしゃあしゃあと羅列しつづける、似たような名前の人と同じものを私は感じる。
滝にスクール水着の少女たちが大勢いる。胸に名札を付けているが、「岩渕」「清水」など水に関係した名前が並んでいる。ここからふと気づく。なでしこJAPANもまた、水の名字が多いな、などと。沢、荒川、川澄、岩清水、高瀬、岩渕、京川…。海堀、鮫島、磯田、池田。なんていうのはウソです。丸山、大野、永里、阪口、矢野、山郷、これらはむしろ土、全然ミズではない。なんだけど、なんだか水だなと思う気持ちが物語を作るのだ。作品とは、そういうふうに仕組まれているものなのだ。
もう一つ、別のオチを。会田氏が枠組みで描いていると言ってみてから、では他の画家たちは枠組みで描いていないだろうか、と改めて問い直してみる。対象を描くとして、それを既成の枠組みにあてはめるのではなく、《対象そのもの》に出会い、《対象そのもの》を描いている、だろうか。……ほとんどが枠組みで描いているような気がしてきた。このことに自覚的であって、「天才」と呼ぶべきかはともかく、会田誠という作家はすごいなと思った次第である。
芸術家が戦うのはカオスに対してであるというよりも(というのは芸術家はある種の仕方でカオスをこいねがっているから)、むしろオピニオンのもつ「紋切り型の表現(クリシェ)」に対してであるということだ。画家は未使用のカンバスのうえに描くのではないし、作家もまっさらな紙面に書くのではない。紙面あるいはカンバスは、あらかじめ存在しあらかじめ打ち立てられた紋切り型の表現によってすでにはなはだしく覆われてしまっているのだから、まずはじめに消し、ぬぐい、でこぼこをならし、ずたずたに切りさえしなければならないのであって、こうすることで、カオスから流れ出てわたしたちに《視(ヴィジョン)》を運んでくる一陣の風を通すことができるのである。(G・ドゥルーズ/F・ガタリ『哲学とは何か』、1991 Minuit p.192、財津理訳:河出書房289頁、河出文庫342頁)
画布は白い表面ではありません。すでに画布は紋切り型でいっぱいになっています。たとえそれが目には見えないとしても。画家は、もはや何も見えなくなる瞬間を、視覚座標の崩壊を、経験しなければならないのです。だから私は、絵画はカタストロフを統合し、そのカタストロフはタブローの母胎でさえあると言うのです。それはすでにセザンヌやヴァン・ゴッホにおいては自明なことです。(G・ドゥルーズ「絵画はエクリチュールを燃え上がらせる」1981、『狂人と二つの体制 1975-1982』鈴木創士訳:河出書房新社・260頁)
ゴールデンボンバーというグループがエアバンドだと知った時に、これまで感じたことのない衝撃を受けたことを正直に告白しておこうと思う。シンセサイザーを使うバンド(YMO)、破壊的なほどに人数が多い(おにゃんこくらぶ、モー娘。AKB)、生声で歌わない(パフューム)、もはやバーチャル(初音ミク)など、音楽という存在・制度に叛逆的な衝撃的な試みはこれまでもあったと思うが、それでもこのエアバンドというシステムが一番衝撃的だった。
これは中学生のわるふざけのレベルだろう。そのレベルで、紅白歌合戦とかにでてしまうのだ。この叛逆性・破壊性はすごい。
昨日、そのゴールデンボンバーを特集している番組をちらちらと見ていると、リーダー(?)の鬼龍院くんという人には難聴の彼女がいて、自分がやっている音楽というものを彼女に聴いてもらうことが出来ないというジレンマの中で音楽活動を続けてきたのだ、というのである。
鬼龍院くんは、ベートーベンとはまたちがった困難な音楽を生きている。
かれらの試みは中学生のわるふざけではなかったのである。私は不明を恥じるばかりである。彼女にはメロディーもコードも伝えられない。ただし彼女は、リズムは分かると言うのだそうだ。友だちとカラオケボックスにも行き、リズムを楽しむと言う。リズムと踊り(パフォーマンス)が鬼龍院くんの「音楽」の根幹となる。
右足を出して左足を出すと歩ける、という当たり前体操というのが流行っているが、僕はこういう無意識な差別的な言動が大嫌いなタイプである。右足を出して左足を出しても歩けない人はいるのだ。それは当たり前ではないのだ。お笑いに目くじらを立てるのは大人げない、などと言う大人が差別を助長している。当たり前だと言って笑っているのではなく、当たり前だと思っている人や常識を笑っているのかも知れない、などというメタ化が自らの差別を正当化させる常套手段である。本当に必要とされるのは、直接に訴えかけるリズムでありパフォーマンスなのだ。それを発見し選び出すことなのだ。
Youtubeを見ていて、二人の天才的な女性の歌手を発見しました。一人は、宇多田ヒカルという名前の子で、歌唱力もあり、作詞・作曲もする。映像もすごい。(とまあ、ナイツ風のぱくりでもうしわけない)。
宇多田ヒカルの歌は、ちゃんと聴いたことが無かったのです。あらためて聴くと、ほんとすごいなと思う。まずは、桐谷の映像がすごい。「トラベリング」「さくらドロップ」が双璧で、図像的にも色彩的にもすごいのだが、何よりも歌っている宇多田ヒカル自身がめっちゃくちゃカワイイのだ。このことがすごい。監督の桐谷は宇多田ヒカルとデキてるな、という感じである。
宇多田ヒカル本人は、ただしあまり肉体的ではなく、かなり観念的・理念的な存在である。最も感心させられるのが、その歌詞で、詩的な死語を復活させる力がすごい。「トラベリング」には「春ノ夜ノ夢ノゴトシ」などと『平家物語』が引用される。「COLORS」に至っては「オレンジ色の夕日をとなりで見てるだけで、よかったのになあ。口はわざわいのもと」という歌詞がある。「口はわざわいのもと」って、こんなバカみたいに平凡なことわざを使った作詞者は戦後一人もいないだろう。ところが、宇多田はこの死語を宝石のようによみがえらせている。秋風が身にしみて悲しいなどという陳腐なパターンを芭蕉は「身にしみて大根からし秋の風」と詠む。「大根」という庶民的・俗語的文脈を掘り起こすことで、芭蕉は死語ともいうべき和歌的な感興を現代の詩としてよみがえらせるわけだが、宇多田はこれに匹敵する。
「COLORS」は、理想的観念的であり、悪く言えば「きれい事」を歌っているにすぎない。が、私はそういう理想が好きだ。色彩をこれほど単純に肯定する歌詞は、美術大学にいると逆にうらやましく思う。自分にはもう夢の無い絵しか描けないなどと言うことなく、何度でもキャンバスを塗りつぶして書き直せば良い。白い旗は諦めた時にだけ掲げるものだ。黒い服は、死者に祈る時にだけ着るものだ。赤いケープを颯爽とひるがえして、真っ赤なルージュをひいて!そして、私はもう、あなたの知らない色彩を生きている……。
宇多田に色気があるとすれば、それは、彼女を撮る映像の側からのものである。「COLORS」のPVは、桐谷の作品ではないが、これもまたすばらしい。宇多田がおそろしく美しい。
宇多田ヒカルは意外なことに、そんなに声量があるわけではない。あんがい細い。しかも、甘いとか辛いとか、分かりやすい(言語化しやすい)味ではない。無限の深みとこくがある。蕎麦ボイスと名付けたい。つゆはほとんど付けないでたべる。
もう一人は、奥村愛子である。こちらはそれほど有名ではないのだろうと思うが、学生に聞くとやっぱりみんな知っているようだ。それにくらべておじさんは今夜いつもまちがえて上村愛子と言ってしまう。
TV『戦国鍋』の音楽を担当しているのが奥村愛子のようだが、彼女もまた作詞作曲して歌も歌う。彼女の楽曲は、レトロ風、昭和歌謡風などと言われているようだが、この昭和っぽさというのは便利なぶんさっぱり意味の分からないくくりである。
「いっさいがっさい」とか「蝶」とか、ゴージャスな感じの曲が彼女の代名詞らしい。が、私がすごい曲だなと思って魅かれるのは、シングルカットはされておらずアルバムの中にある曲のようだが「今夜あなたは抱いてしまう」と「あなたの髪を切ったこと」という曲である。前者はまず、恋にあこがれる女は、しょせんは電球にむらがる虫のような存在なのだ、とさらりと言ってのける。この、身も蓋もない冷徹な視点がまずはすごい。それはおそらく不倫なのだろう、成就するはずのない不毛な愛である。あなたは私に気がないふりをしている。だから、わたしがあなたに抱きつと、いつもあなたは途方にくれたようにふるまう。しかし、あなたはじつは私を突きはなしたりはしない。あなたはずるい、と私は思う。そして、男もまた弱く、虫にすぎない。あなたは今夜この愚かな娘を抱いてしまう。そう謡うのである。女は自分を一人称と三人称とで混濁している。
つくづく女はこわいなと思う。これにひっかかると「人生オワタ」(こういう風に使う言葉かな)になる可能性があるから、男は要注意ですよ。
この歌には、みかん色の(裸?)電球にむらがる虫とかよごれた部屋とか、女のセリフで「〜のさ」とか、なんか全体的に雰囲気がおかしい。また、相手の男もモデルや社長や会社員というよりは、思想や哲学を語る人らしい。思想家か革命家か、最低でも詩人や作家ぐらいではあろう。この雰囲気を昭和レトロと呼ぶならば、それは戦前のそれである。もしかしたら大杉栄とか幸徳秋水とか(伊藤野枝や管野スガ)を歌っているのではないだろうか。
もう一曲「あなたが髪を切ったこと」は、「あたし」が別れた「あなた」を街で見かけたという設定である(実体験に基づいて、すこし盛って作ったそうである。2018.10.09 Shibuya Cross-FM 竹内藍AiTubeでの本人談話)。同じ流れであるところの竹内まりあ「駅」よりもよく出来た名曲ではないだろうか。まずは、いまでも思い出すのは、あなたの髪を切るときに頭越しに見ていた風景だ、と言う。たぶんベランダに出て切っているのだ。ベランダから見る風景を、あなたと別れた今でもたまに思い出すのである。そして、こうしてあなたの髪を切るのがすきだったなと思い出すのである。あたしはあなたの髪を切ってあげるのが好きで、よく切ってあげいていた。そして、町で偶然あなたを見かけたのだ。今見るあなたのえりあしは(後ろ姿によって思い出しているのだ)きれいに揃っていて、今はどうしているのだろうか、サロンに行っているのだろうか、あるいは別にあなたの髪を切ってくれるひとがいるのだろうか。そして、「まっすぐで、まっくろで、やわらかい髪」それに触れたい、と歌う。今はどうしているのだろうか、あなたが悲しいとき、その頭を抱いてくれるひとはいるの。歌詞はあなたへの呼びかけの形をとるが、それはあのころの不器用でまっすくにあなたを好きだったころの自分への呼びかけでもある。
あなたの髪にふれたいという歌詞で理解できるのが、最近言われるところの肉食系女子というカテゴライズである。それは単に性的に積極的だというような意味で理解していてはもったいないものを含んでいるように、この曲を通して思った。恋愛を、身体性を介して表現するのが肉食系なのである。
この程度の歌のうまい女はごまんといる、といわれるかもしれないが、そうだろうか。裏声を多用する甘い声であるが、しめっぽさ(色っぽさ)とは違う。シュガーボイスというよりは、このドライな感じは落雁ボイスと呼びたいと思う。
かつて私は、矢野顕子や小川美潮が歌が上手いと思っていた。上手いか下手かというレベルだけで言うなら、一番うまいと思うのは、EGO WRAPPIN の中納良恵であろう。最高に上手い。この顔だって、私は好きだ。かっこいいと思う。ただし、情緒がない。上手くてかっこいいだけなのだ。残念ながら歌手の魅力は上手さだけではない、ということだ。
奥村愛子の曲でもう一曲すきなのは「冬の光」という曲である。これはすごく良い曲だが、演歌である(どう聞いても)。演歌歌手に歌わせたら良い感じになりそうな曲なのだ。が、だれに歌わせても、やっぱり奥村愛子の歌うほうが良いだろう。それだけ彼女は歌が上手い。
2013.11.10 「フライデーナイト・トーキョーナイト」という曲も好きだ。9月からずっと「冬の光」と「フリージア」とこればっかり聞いているのだ。奥村愛子版の「東京砂漠」である。ただし演歌ではない。ジャズぽいピアノに絡むギターのリフが超カッコいいのだ。都会の絶望的な生を生きる若い男女を歌っている。未来が見えず不安がる私に、君は「大丈夫だ」と気軽に言ってくれる。涙が出そうだ。そして、私はせめて君のことを守って生きて行こうと思うのだ。ほらね音楽も聞こえてくるじゃないの、って。歌詞に何度聞いても分らない箇所があった。二人が並んで仰ぐというコントノスラというのが分らない。カクテルの名前だろうか。2番ではボンノノスラと言い換えている。数日間ずっと考え続けていたが、とうとうネットで歌詞を紹介しているサイトを探して「答え」を見てしまった。歌謡曲には似つかわしくない語彙が使われていて、逆に良い。ああなるほどと思った。が、謎のままでも良かった。
歌詞が分らない同じような経験は、宇多田ヒカルでもあって、COLORSに「半端なガモウには標識も全部灰色だ」というところがある。どこまで考えても蒲生氏郷くらいしか思い浮かばなかったので、結局、歌詞を紹介しているサイトを探して見てしまった。まあ良い歌詞だと思うが、やはりなぞのままでも十分である。
YouTubeを見たりアップロードしたりする人、つまりYouTubeユーザーのことをYouTuber とかようつ兵衛とか呼ぶのだろうか。1995年のインターネット元年以来ざまざまなサービスがあるわけだが、Googleの横断検索より、オークションより、ツイッターより、最もすごいと思うのがこのYouTubeである。(注。今検索したら、YouTuber という言葉はあるのですね。投稿と広告収入で生活する人のことを言い、世界的に有名な人もいる。ようつ兵衛という言葉はまだないようです)
とは言っても、ネットの投稿画像というの自体には実は興味が無い。TV番組でネットの投稿画像を紹介するとかいうのは、NHKもやっているが、本末転倒だろう。
「歌ってみた」とか「踊ってみた」とかの自己表現媒体としてのYouTubeに特に感慨はない。それはサイトやブログにおける「書いてみた」と質的に違わないだろう。歌ってみた、踊ってみたで改めて知るのは、プロの上手さである。素人のカラオケや踊りは、どこまでいっても素人である。プロとの間には歴然と質的な差異がある。また、実際のプロも、自分の演奏等をアップロードしている場合もある。
正確に言うと、われわれの記憶は「映像作品」という形で保存されている、ということである。子供の頃に見たテレビ番組などがそこに保存されているのだ。すっかり忘れていたが、たしかにそれを見ていた番組があったりする。
過去が保存されているだけではない。過去に名前だけ知っていた音楽だとか、手軽に見ることができる。(これでは、たしかに音楽CDなど売れなくなる道理である)。あやふだった記憶は、Youtubeで今見直すことで確実な記憶へ変換されてしまい、過去と現在の区別が無くなってしまう。実現されるべくしてある潜在性(すべてエネルゲイアに達してしまうデュナミス)。そして、ここにアクセスすれば(いずれ)なんでも確認することができる、という確信を成立させていく(再認可能性こそが知識を構成するものである)。
さて、本題である。
名前だけ知っていて、具体的にあまり聞いたことが無かったものの例として、ドイツやフランスのロック音楽がある。1980年、私は高校二年生であり、YMOの大ファンだった。クラスメイトの何人かはその先を行っていて、ドイツやフランスのロック音楽を聴いていた。その中でも最も進んでいた友人が佐藤日高くんである。
日高くんは、楳図『まことちゃん』でも投書が採用されたりした(「まっぽのきよ」というネタです)、私の自慢のそしてあこがれの友人である。彼からもらった手紙をいまでも大切に取ってあるので、ここに紹介しようと思う。当時YMOファンだった僕が、僕のDJ入りで「坂本龍一の世界」と名付けて、しかし実は全曲細野晴臣の曲だという、そんな趣向でテープに録音したのをあげたのだ。文面から、その返事の手紙だろうと思う。色は、実際そういう色のサインペンで書いてあるのだ。所々経年変化で消えている部分がある。〔 〕は高橋の補足です。
その1
おぐまくん、なんで俺と好みが同じだといやなんだ!仲間がいたと喜ぶべきだ。
さて、例のテープを僕も聞きましたが、DJ入りでおもしろい。実は僕もことばを入れようと思ったのだけれど、家族に聞かれても恥ずかしいし、夜中に一人でしゃべるのもあほらしいのでやめました。君もよくやるねえ。しかし、いい声しているね。僕の声はテープによるときもちわるくて聞けたものではないが、君の場合は写真写りがよいのと同じく、テープとられがよいです。坂本りゅういちよりよい。
ところで、むかし、テレビにほそのはるおみがでていた時、司会の中学生がどんな音楽をきいているのか、というようなことをきいた時、彼〔細野〕は、クラフトワークの名をあげていた。クラフトワークは僕の好みではないが、もしかしたら、おまさんはあの手のが好きなのではないだろうか。僕はあの手をピコピコとよぶのだが、どうでしょうか。別にピコピコという音に対してそう呼ぶのではなくて、まあ意味はないけど雰囲気で。
お宅のいうとおり、現在、YMOをけなすのはファッションになっています。その点、長〔クラスメイト。ほら吹きだった〕はえらいが。
僕がYMOをけなすのは本質を見抜いていないからだとおっしゃいますが、まあそれは事実ですが、自分の好みでない音の本質を果して見抜けるでしょうか。たとえばあなたはAMONDUULに本質なんてない、とまで思ったのではないでしょうか。さらに、AMONDUULの本質なんてどうでも良いと思ったのではないかな。
僕にとっても、YMOなんてどうでも良いのです。彼らがENO以上だったとしてもどうでもよいのです。
ENOも、僕はプロデューサーとしての腕はすごいとおもうけど、個人のソロとしては、全然聞いてないようなものだが、たいしたことないような気がします。ANOTHER GREEN WORLD は、聴いたことないので、もってたらかして下さい。
その2
ファッションの話にもどるが、僕の場合は、たとえばJAPANを好きなことからも、少なくとも意識的には彼ら〔YMO〕をファッションとしてけなすのではない。ではなぜけなすかというと、前述のとおり、YMOには何も感じないからで、価値をみとめていないからです。
別の言い方をすれば、これは何もわからないということになります。つまり、YMOに価値を感じている人にいわせると、何もわかっちゃいないくせに、となるわけです。ところが、こっちはわかりたくもなんともないわけですので、そういうことをいわれると、むかっとくるのです。
しかし、わかってないのは事実だから、何も言いかえせない。いらいらします。
まあ、そんなこんなで、YMOはどうでも良いのです。同様に、坂本くんもどうでもよいのです。これは、君がエルドンやアモンデュールに対する感情とおそらく同じだろうと考えます。
君がアモンデュールに対してはどうでもよく、坂本やほそのやユキヒロに対して深いなにかを感じているのは、それはそれで良いのだが、それは僕がエルドンやアモンデュールに思い入れしていることとなんらちがいはない〔消え〕、ほそのをそんけいしているように〔消え〕、エルドンのリシャール・ピナスを本当〔消え〕、と思っています。そのことについて〔消え〕、どーのこーのいわれるのは君も〔消え〕、けなされてくやしいのと同〔消え〕、君にとってエルドンが坂本龍一より下でも、僕にすればはるかに上です。リシャール・ピナスは元来ギタリストです。テクニックが初歩なのはしかたないかもしれない。しかし、テクニックだけで上下をきめるなんて君らしくないよ。
その3
ヨーロッパには電子音楽はそだたない、ああいう土じょうでは、とありましたが、なんだこれは!ヨーロッパにそだたなければ日本にそだつとでもいうのか。まあアメリカではないな。
日本で電子音楽といえば、トミタにキタロにYMOくらいじゃないのですか?それも、どれもが最近(わりと)の人達ばかり。電子音楽と言えば、ルーツはやはりヨーロッパ。それもドイツが中心ではないだろうか。YMOも、ドイツの音楽に影響されてるみたいだし。
ドイツの電子音楽のグループといえば、クラフトワーク、タンジェリンドリーム、アシュラ、ファウスト、クラスター、ノイ。それなのにヨーロッパの土壌ではそだたない、とはどういうことだろうか。
ヨーロッパにはシャンソン、カンツォネなんかのくさいもののほかにもなんでもあるのだ。
シンセサイザーの理論のわかってない国だとおっしゃいますけど、日本はわかっているというのですか?日本なんて、P―モデルをはじめとしたくさいバンドが、時世にのってシンセサイザーで味つけしているではないですか。ある番組では、小学生がYMOのコピーなんかしてるし。あれはわかってやってるんでしょうか。本当にわかっている人なんて、ほんの一握りの人達だけです。僕だってシンセサイザーの理論なんていうのはしりません。わかる必要なんてないんじゃないですか。リスナーにとっては。
演る人にとってはわかる必要があるかもしれないけれど、それなら日本なんかよりフランス、ドイツなどの国のプレイヤーの方がずっと理解していると思います。
日本のほとんどはポーズでシンセをやっている〔消え〕そのうち、僕はシンセサイザーのレコードをよくきんだよ、なんてのがファッションになってしまうかもしれない。まあとにかく、電子音楽はヨーロッパでうまれ、そだち、他の国々へわたってきたということ。坂本がヨーロッパのシンセシーンをひにくっているなどというのをむこうのシンセ奏者がきいたら、ふんがきめが、我々あってのおまえだろうが、となるのでは?
その4
アバンギャルドは、テクニックによる裏づけがなければできない。そして、やっている人はすべてテクニシャンだ、と八木先生が言っていた。
僕ははっきりいってアバンギャルドなんてよくわかりません。
あれはアーティストの自己満足によるもの(としかおもえない)であって、本当に意味なんてあるのでしょうか。ある番組で、中学生が自作のT・Gスタイルの曲を流していましたが、あれはぜったいわかってやっているのではありません
僕も、ああいう音が心地よいからきくだけで、作者におどらされている感じもしますが(ブームにおどらされているのではない)音楽なんて楽しければそれでよい。たとえそれがJAPANでもYMOでもかまわないのだ。ふつうのロックと、アバンギャルドロックをわける必要なんてない。
私が自慢するのもお門違いというものでしょうが、しかし1980年の段階で、こんな田舎の高校生で、アモンデュールやエルドンなんて言ってるのは、けっこうすごいと思うのだけど。
それにしても、日高くんと比べると、彼の文面から推測するに僕のほうは、YMOや坂本龍一がすごいとばかり言っていて、電子音楽はヨーロッパでは育たないとか、かなりめちゃくちゃなコトを言っていたらしい。何を知ってるわけでもなかったのに言ってるのである。かなりはずかしい(まあこの頃は、僕はほんとにばかだったのです)。それにくらべて日高くんの文章は丁寧だし、かわいげがありますね。「ふん、がきめ」などと罵る一方で、「もってたらかしてください」とか。
文脈を復元するなら、日高くんはドイツやフランスの電子音楽系を聞いており、八木さん(同じく同級生。大人しかったが趣味は全般にわたって高尚だった)はアバンギャルドロック(スロビング・グリッソルとか?)を聞いているようだ。冒頭にでてくる「おぐまくん」は、今長岡の博物館館長をしておられるが、ヨーロッパのハードロックが好きだったように記憶している。電子音楽も聞いていたのだろう。で、僕はといえばともかくYMOで、あとJAPANが好きでした(でも、ほんとは渡辺真知子と八神純子と尾崎亜美が好きだったんだよね)。
また、別な時にもらったメモだと思うが、こちらには辛辣なことが書いてある。坂本龍一の『B-2 unit』を彼に聞かせて、その返事だろうと思う。『B-2 unit』の一曲目「ディファレンシア」は当時ものすごく素晴らしい曲だと思っていたが、実際どのように演奏されているのかはさっぱりわからなかった。サンプリング音をキーボードに割り当てているのだというのは、この日高くんの指摘を聞いて、しばらくして理解した。文面から察するに、こちらのほうが先の手紙かと思う。
ご意見書
君は坂本くんを高く評価しすぎている。YMOが好きなため、どうしても主観がはいってしまうだろうが、いけないよ。A―1をほめていたが、あれは、反復音を利用した曲だが、古い。たとえば、スロッビング・グリッスルの世界では、もっと進んだ段階での反復音(リズムマシーン等による複雑な音)を使用しているが、りゅう一のは、ドラムの音をくり返しているにすぎない。さらに、スロビング・Gの方は、反復音にシンセサイザーの音を、プログレッシブかつアバンギャルドに重ねていって、音を厚いものにしているが、(坂)は、ドラムの音のほかは、ほんのつけものにすぎない(かすづけ)。彼はこの世界にはいっているべき男ではなかった。ウぉーヘット等で楽しく演る人間だ。
おまけ
ところで、A面のあまりにフランスのあのHELDON(エルドン)の4まいめのLPから少し録(い)れてある。このくらいの仰々しさ、存在感、どろくささがあれば合格ではないか。るういちくんのはくさいだけ。不可。B面のあまりには、ASHRA(アシュラ)っつうのをいれておいた。←ドイツ。これは一部で、テクノロックだといわれているグループで、一時シュルツも在籍していた。ところりういちは、テクノかよう曲です。「やっぱり」←一同納得
おまけの曲は私のテープライブラリーからよりすぐったものをダビングしました。
HELDONもASHRAも〔やぎ〕はきいたことがない。じまんしよう。
エルドンは、大学に入ってから東京で一枚LPを買っている(東京にはなんでもあった)。当時のLPはみな人にくれたりして手元に無いが、いまこうして、Youtubeで聞き直せるのがすごい。過去は電脳空間に保存されている。
リシャール・ピナスを、いま検索してみてあらためて驚かされるのは、彼がパリ大学出でジル・ドゥルーズの教え子だということである。ドゥルーズ関係のサイトを管理しているのである。日高くんのいうとおり、リシャール・ピナスはほんものだ。
また、これ(歴史的圧勝)を書く時期がやってきた。
それにしても、ほんとうに「裏切られ続けた三年三か月」だったのだろうか?それは、マスコミと検察のプロパガンダではなかっただろうか。三年三か月以前のままだったら、沖縄には他の選択肢は最初から無かったし、原発事故ももっと隠蔽されていたのではないだろうか。造反は無理であり、この国に革命は不可能である――このことだけを刻もうとして、プロパガンダされてきたのだ。
たしかに、民主党もさまざまに間違えた。対応を間違えた一番の相手は、財界とか、マスコミとか、官僚とかではないだろう。小沢一郎である。それは人柄の問題ではない。政策・方向性の違いだ(その結果の具体的政策として、原発や消費税問題、TPPなどが出てくる)。右派・新自由主義と左派・社会民主主義といった(ふうなもの)との対立を、民主党自体が抱えていた。
福田内閣時代に小沢民主党との大連立構想があったが、今になってみれば、それを行うべきだったのだなと思う。大連立の後、新たな政界再編を行う。それは、新自由主義と社会民主主義との再編になっただろう。いまや、社会民主主義路線は日本の政治からほとんど一掃されてしまった。(谷垣の自民党でなく)安倍の自民党も含めて極右政党ばかりになってしまった。
自民党自体が分裂する可能性は、現時点でほとんどないのだろう。少しの希望は、憲法改正をめぐっては、自民党と公明党とでスタンスが微妙に違うことだろうか。いずれにしても、今の自民党の中に、九条は守るべきだと考えている議員はほとんどいないのではないだろうか。
つくづく思うのは、社民党と共産党の仲の悪さがことごとく日本の左派勢力をだめにしてきた、ということである。
こうした左派勢力の退潮は、結局のところ、「人の心配より自分のこと」を意味している。「絆」なんて言っても、結局は自分の生活のほうが大事なのだ。「絆」は劇場でしかないのだ。ただ、それは、人の心配までしていられるような余裕が無くなっている、ということでもある。
政治は国会の中にだけあるのではない、とは思うのだが。それにしても憂鬱……。
それは「書斎のつくり方」というテーマで書かれた本で、読んでみると、著者は自宅の地下室に二十二畳の書庫があり、書架はみな移動式だという。知的な生活をおくるための最適な室温は、本を安全に収蔵するための温度と異なるから、書庫は書斎と別にあると良いのだとか。
こんな話が参考になる人が、どれくらいいるのだろうか。
追伸:これを書いたあと、ある研究会の飲み会でこの話をした。私もいれて四人で話していたのだが、あまりぴんときてくれない。うち二人は書庫としてアパートを別に借りている。一人は蔵王に別荘がある。一人は三十代で一軒家を建てたが、この度、別の家を建てた。なんだみんな金持ちじゃん。
――妖怪を使った町おこしについて、どう思いますか?
妖怪は、柳田国男の定義によると、落魄した神々である。かつて信仰されていた神々が、何かの事情で信仰されなくなり、その残滓が妖怪だという。
近代(柳田民俗学)において、こうした前近代(失われた世界)が再構成されてきた。近年の妖怪研究で分かってきたのは、そういう民俗学的な裏付け無しで成立する、多くのキャラクター的妖怪(擬人化された妖怪)である。江戸時代の妖怪の多くは、民俗的な裏付けよりも、都市のなかの人びとの生活習慣、それにたいする批判や教訓、たんなる楽しみやダジャレなどから生まれた。また、現代においては、単純に創作妖怪も存在する。江戸時代から、現在に至るまで、それらは、図像を伴ってキャラクター化してきたのだ。
ただし、民俗学的な妖怪と、人間生活的な妖怪とは、やはり共通する根源的性格を持つ。それは伝説と都市伝説とが共通の心的条件を持つのと同様である。妖怪は、人間と自然、あるいは社会との関わりの中に潜むのだ。妖怪は、われわれの鏡だ。
町おこしというのは、トピックやイベントで耳目を集めて、経済効果をねらうのをもっぱらとするが、それは決して、金さえ集まれば成功だというものではあるまい。金を集めるのもまた、人の暮らしやつながりを目指すがゆえのことであろう。妖怪が目指していたのも、まさにそれである。
結論を出しにくい難しい問題に対して、何の躊躇もなく自信満々で解答を導き出せる者がいるとしたら、彼はすこしまずい。
自分に決定権がある問題というものがある。自分が決心すれば良いだけなのに、それができないのはだれかの圧力のせいだとおもっている。権力は、すでに自分が持っているのだ。
とかく11月というのは、なんだか憂鬱になる。以上、ひとりごと。
(2012-11-11)
問題はもっと複雑だった。難しい。旧態依然たる態度で臨むべきか。新たな時代に即した柔軟な態度を取るべきか。頑迷でまじめなやつの味方をすべきか。物事を明解に考えてニコニコしてくれる人の味方をすべきか。
父に電話したついでにすこしこのことを愚痴ると、次のように言ってくれた。「迷ったときは、いつも原則に立ち帰って、正しい判断をしろ」。そう言って笑ってくれた。でも、お父さん、なにが原則なのかが複雑で分からないから困っているのですよ。
しかし、そうではないのだ。じっくりと目を凝らしていけば、やはり、原則が何であるかが見えてくるのだ。ドゥルーズだの、ベルクソンだのと普段言ってる僕のテヅガクが問われているなあ。ははは。
(2012-11-25)
私のデヅガグはどこにある?この間、二つの原理の間で迷った。《原則に立ち戻って、正しい判断をする》という原理。それは可能だ、という原理。それに対して、それはできず、むしろそうした不可能性を抱えていきているのこそが人生なのだ、という原理。このままだと、われわれの組織は信頼関係を完全に失ってしまいバラバラになってしまう、という心配がある。しかし、M先生がなにげなく語ってくれた話にも一理ある。ある組織Nでは数年前のある案件PをめぐってO氏が大いなる裏切り行為に走った。しかし、今、組織Nにおいて彼らは何事も無かったような顔をして付き合っている……と。
(なんだこのイニシャルトークは! 決してギャグではありません)
まさに一理ある。そうなのだ。信頼というものは、そうした数限りない裏切りの果てに幻想されているにすぎないのだ。
それはほんとうだろうか?
『エクソシスト』という有名なホラー映画がある。子供の頃みた時は怖いだけだったが、2000年頃か、ディレクターズカット版が公開されて劇場で見て感動し、その後DVDも買った。
次のセリフは、悪魔払いの途中で休息をし、メリン神父がデミアン・カラス神父に語りかけるときのもの。オリジナル版にはなく、ディレクターズカット版にしかないセリフだが、小説版から引用しよう。
「やつ(悪魔)の狙いは、われわれを絶望させ、われわれの人間性を破壊することにある。いいかね、デミアン。やつはわれわれに、われわれが究極的には堕落していて、下劣で獣的で、尊厳のかけらもなく、醜悪で無価値な存在なのだと自覚させようとしている。この現象(悪魔つき)の核心はそこにある。」(五〇〇頁)
DVDにはフリードキン監督の音声解説が入っている。カラス神父は悪魔を自分に憑依させ、そして窓をやぶって石段を落ち自殺する。この結末をフリードキンの音声解説は、次のように言う。
「この作品から得られるものは、見る人しだいです。信仰の神秘を信じ、悪に打ち勝つ善を信じるならば、作品もそれを与えるでしょう。悪が世界を制覇すると思っている人は、そのように伝わるでしょう。私やこの物語の作者のブラッティ氏に限って言えば、これは善が悪に打ち勝つ物語です。」
実は昨日『エクソシスト』を読んだのです(創元推理文庫)。ブラッティの原作本を、たまたま古本屋で見付けて買い、昨日、読んだのです。この出会いは偶然ではないだろう。
東京芸大・芸術リサーチセンター主催のシンポジウム「芸術実践と研究」を聴講してきた。芸術(教育)において博士課程とは何か?といった問題で、金沢美大でも議論してきたし、そもそも芸術においても根本問題である。
芸大に招かれているJ・エルキンス先生による問いかけがある。「芸術の知は、言語化できるのか。あるいは不可能か」。この問いは魅力的であり、それゆえ、この問いに対して決然たる態度表明をしないかぎり、芸術的な博士論文の議論は始まらない、というような問題機構を設定してしまう。
エルキンス先生のスタンスとは無関係に、言語は諸対象を解釈し透明化するプロセスだと思われているふしがある。表現と疎通における最終審級であるかのごとくに思われているふしがある。
言語は、ある一つの表現の道具(しかも不完全な)にすぎない。知をすべて決定している、といった言語への幻想は捨てた方が良い。
金沢美大の博士課程の論文指導では、ある素朴な言語への信頼がある。制作を言語化することは、制作を解釈する(しきる)ことではありえず、たんに別の表現を試みることである。そして、そのことによって制作自体が鍛えられる。そういう素朴な、言語への信頼である。
批判する主体が批判の対象に基礎付けられている、といった依存関係を暴くのが脱構築の典型パターンである。この方法は思考を開始させることがなく、むしろ思考の停止を余儀なくさせてしまわないだろうか。それは非生産的なことではないだろうか。思考の開始に理由はいらないのではないだろうか。完全な道具を持たないかぎり仕事ができないと言い始めたら、われわれは何もできないままだろう。言葉が不完全であることはむしろ幸いだと私には思われる。
芸大プログラムを拝読していて、もう一つ、別の問題を思いついた。
プログラムの中に、「実践ベースの研究 practice based Research」というスタンスがあった。体系付けられた純学問に対して、アドホックな問題設定と解決の積み重ねからなる研究方法のことだと言う。芸術実践をそう位置づけているのである。興味深いが、この実践ベースの研究には普遍化へ至る回路が在るのだろうか。絵画の平面性を追究している学生がいるとする。彼は、完全に独自にそれを考えても良いが、フランク・ステラの研究を通してそれを考えても良いだろう。そして、また、それらとは別の純学問としてのフランク・ステラ研究がある。私の指導は、純学問ではなかったが、独自性を重視するものでもなかった。自分の問題と、たとえばベルクソンの問題とを無媒介で繋ぐような研究である。
芸大プログラムにならって、名付けるなら、それは「セカイ」ベースの研究と呼ぶことができるだろう。マイクロポップな実践ベースの研究に対する、「セカイ」ベースの研究である。
なお、もう一点言っておくならば、「純学問」という概念も幻想にすぎないだろう。私は院生なりたての頃、学会発表を聞いていて先輩(高木さん)に教えてもらったことがある。「どういうのが良い研究発表だと思う?」と聞かれ、「きちんと調べてあって、なんか発見があるとか、ですか?」と答えると。高木さんは言った。「ちょっと違う。これまでの文学史の図式を塗り替えるような研究が、良い研究だ」と言い切った。これは今でも鮮明に覚えている。既に体系づけられている学問などはなく、常に変更可能であり、また体系内にのみとどまり何かを補足していくだけの学問などはつまらないものだ、ということである。
さっき、マツコ・デラックスと猿岩石の有吉の『怒り新党』という番組で「新三大・ウルトラマンの負けっぷり」というのをやっていて、『帰って来たウルトラマン』や『ウルトラマンタロウ』が負けるシーンというのを見る。怪獣の名はそれぞれバードン、ドロボン、スノーゴン?
(今、変換して気づいたが、この番組は「怒り心頭」のダジャレなんですね)
たしか小学2年と4年とで、3本とも当然見ているはずなのだが、まったく印象に残っていない。なぜだろうか?端的に言うなら、全然衝撃的でないからである。子供ながらにばかばかしいと思って、本気では見ていないのだ。
彼らは負けたり、死んだりするのだが、すぐに生き返るのである。かつて、初代マンがゼットンにやられた。新マンがベムスターを倒せなくて、セブンからウルトラブレスレットをもらった。このくらいまでは鮮明に覚えているのだが、その後はみなそれらの出来損ないのパロディでしかないのだ。
なぜなら、彼らは死ねないからだ。
ウルトラマンは、まさしく絶対に負けられない戦いをしている。それが彼らのドラマツルギーの限界である。
ウルトラセブンでのいくつかの名作は、勝ち負けでないストーリーを作り上げ、成功している(ダークゾーン、ノンマルトの死者、等々)。セブンは最終回も死にはしない。傷つき、明けの明星とともに地球から去るのみであった。
なお、絶対に負けられない戦いは、時に「不寛容」と相似関係にある。
今日、院生の提出物を読んで、新しい言葉を一つ覚えました。
マイクロポップ
美術大学にいるけど、はずかしながら知りませんでしたね。私は別に美術が専門ではないのでね。それに属しているらしい作家の何人か(グループも含み)は、専門ではない私でも知っているのだが、その用語?造語?概念?自体は、知らなかったなあ。私の不勉強のせいよりも、言葉自体が知られていないのではないかとも思う。
大きな物語崩壊後に代替的な物語(例えばクールジャパン、だそうだがどこが大きい?)に依存するのではなくて、自分のまわりの小さな日常を相手にしている美術……、みたいな発想のようだ。愚劣だ。日常をアートにすることが愚劣なのではない。いわゆるポストモダン思想のつもりなんだろうが、幼稚すぎ。リオタールもドゥルーズ=ガタリも泣いているだろう、そこが愚劣なのだ。やってる作家がというよりも、こういうまとめ方をする美術評論家が、だ。
「セカイ系」という言葉?概念?は、困ったものだとおもいながら、まだしも救いがあることが分かる。セカイ系は、セカイと繋がろうとしている。マイクロポップは、繋がるべき世界というものがあることを知らないのだ。
子どもじみた無知さ、世間知らずな小ささ、そんなあり方を肯定している美術評論家……、愚劣でなければ、わるい冗談とか言いようがないね。ほんと、のんきな仕事ですね。
小学生を旅行鞄に詰め込んで誘拐したり、見つかりそうになったからと父親を殺してみたり(殺してみた、のだと思うよ)、無計画で場当たり的な彼らこそが、今やまさしくマイクロポップ・スターだろう。
(2013-04-01 補記)
まあ、何もしないよりはましだろうと思って、私もパブコメを送っておきました。https://form.cao.go.jp/aec/opinion-0027_conf.html
各地でも、無作為抽出された人びとによる公聴会というのが開催されていて、電力会社の幹部だとかが選ばれていて「福島原発事故で、放射能(線)被害で直接死んだ人は一人もいない」などとしゃあしゃあと発言していたので、さすがに驚き怒りを感じたわけです。畜産がだめになって自殺した人がいました。これは直接に放射能の影響でしょう。いじめと自殺の因果関係と似たような関係であって、そもそも因果関係というのは論証しようがない部分があるのです。それをもって、因果関係がないと主張するのは欺瞞なのです。大森荘蔵はあるとき「自動車が走るのが不思議だ」と言ったそうです。弟子の岩田靖夫が驚いて「えっ。ガソリンエンジンがあるから……」というと、「君、ガソリンが燃えること自体が不思議じゃないのかい」と言ったそうです。また、《猟奇的なエロ漫画を読んで猟奇的な事件を起こすわけではない。科学的に証明されていない》という説にも、私は反対しています。こちらを参照。
ともあれ、大切なのは、停電・値上げ・経済の沈滞等々の攻撃や恫喝に屈しないことです。経済的な凋落を過度に怖れないことです。(そもそも、お金だけに支えられている食料や住居の構造、自給率の低さが危険なのです)。
出張で一昨日アパホテルというのに初めて泊まりました。聖書の代わりに、田母神発言は正しいとか大東亜共栄圏の確立をとか書く本が三種類も置いてありました。二度と泊まってはいけないと知りましたが、それでも私は「敵」に呼びかけます。
国土(皇土?)を未来にわたって穢す原子力を放棄しよう。ナンチャラ共栄圏は、日本だけでなく、アジアだけでなく、地球全体にひろげよう。
「科学技術の粋を集めた原発が、クラゲごときに……」と発言していた、大飯原発の関係者もいましたね。こういうやつは「反対派ごときに」と言うのでしょうね。
若者は、汗かいて水分・塩分・糖分を補給して、暑い夏を健康にのりきってください。今、グランドではこの暑い中、ソフトボールやってる連中がいるよ(笑)。私も、びっちょびちょになって、今は自転車に乗っております(18年ぶりに自転車を買い換えました)。ワイルドですよ。あと、夏は昼寝ね。
若手の動物行動学者の著書で、自分でダンゴムシを飼育し迷路実験などをさせ、それと同時に上記の哲学的問題に取り組んでいるのである。結論から言うと必読書である。
誰にとって?もちろん、芸術を愛し、ベルクソンを敬愛する者にとってである。
ベルクソンは、心(意識)はゾウリムシにもあり、その本体は神経系が作り出す未決定性 indetermination である。つまり、生命体はある刺激に対して反応を返すが、その反応が決まり切っていないことが心(意識)なのだ、という。機械は常に同じ反応しか返せない。単細胞の動物も似たようなものであるが、神経系が複雑になれば、反応の選択肢は増えてくる。大脳を典型とする神経系はその複雑さを実現している。ついでに言えば、人間くらいになると、逆に同じ反応を返すようになれることが大事であり、そのために練習とか修行とかをするのである。最初は覚束なくても、修行を積めばその動作を「意識しないで」行うことが出来ようになる。つまり、心(意識)とは、点いたり消えたりするものなのだ。
本書は、ベルクソンにまったく触れていないが、こうした理論の流れに位置していることは明らかである。森山氏は端的に「心とは行動の抑制である」という。
また、次のようにも言う。「もしあなたが心の存在を実感したいと思う対象があるならば、その対象から予想外の行動を引き出すために、未知の状況を設定しなくてはなりません。」これは、フィクションの登場人物に対してどうして人は心を見出だすのかという問題を共有している。そういう者にとっての必読書である。登場人物達は、未知の状況(それはむしろ読者にとっての未知であるかもしれない)へを行動するのだ。
こういう研究ができる理系の学者を私は尊敬する。
京都の廣瀬さんから共著『ことばの力』(京都大学学術出版会)を送っていただき、ちょっと読む。論文集で、中に遠藤彰というかたの「狩蜂の本能」という論文がある。知性に対等の権利を持つ「本能」を昆虫を通じて論じている。ある意味、標題たる「ことばの力」を超えた問題設定である。この方はこのほど亡くなられこれが絶筆となった、とあとがきにある。立命館大学の先生だそうで、小泉義之『生命の臨界』の共著者でいらしたなと気付く。
今年の一月、東京に出た日、日曜日に多摩動物公園に40年振りくらいに入ってみた。温室ドームの中で群れ飛ぶチョウチョに感動する。今はそれらを、生物多様性の保全などと呼ぶが、つまりは生命の分岐、エランヴィタールである。
[最近の][以前の](2012-02-06)(2012-05-01 公開)
私も、たとえば毛筆・変体仮名で書かれた百人一首を小学生や中学生の国語教材として活用することなどには大賛成である。まず、百人一首を暗記する。次に、毛筆・変体仮名で書かれた取り札を使ってカルタを行う。高校生になったら、百人一首の用例を元にして古典文法を教える。推定の助動詞「めり」は終止形接続であるが、既習の「あはれことしの秋も往ぬめり」によって補強されるのである。
和本リテラシー論は、次のような理論的構成を有する。すなわち、1、文字による文化遺産を学ぶ(読む)ことは良いことである。2、文化遺産は概算で二〇〇万点あるとして、活字で翻刻されているのは1パーセント程度であり、総てを読むことが出来ない。
文字を読めることと文を読めることとをあたかも同一視しているかのような態度に、和本リテラシー論の論理的欠点がある。和本は、変体仮名で書かれているから難しい(ので/だけで)はなく、文語文じたいが難しいのではなかろうか。文語文リテラシーなら、活字でも養うことが出来る。文語文はほぼ完璧に読めるがたんに変体仮名が理解出来ない、などという人はかなり特殊な人間(ほとんど学者)である。
活字ではなく和本を読めというのは、選ばれた古典作品でなく、あらゆる文字的文化遺産が読めるようになれという意味である。実際、そんなものを読む必要があるのだろうか。人生は短い。英語も、あるいはフランス語やドイツ語も読めたほうが良いに決まっている。文学だけじゃなくて、経済学だとか物理学の詳しい知識もあったほうが良いに決まっている。毎朝ジョギングしたり散歩したりするのが良いのに決まっている。だが、良い事だから絶対やりなさいというのは、下に書いたように、パワハラと同じ構造である。
文字だけ読めるが文が読めない学者を私も大勢知っている。
ドイツ語やフランス語を勉強している者は大勢いる。少ない和本を読める人を増やせ、という意見もある。人間は数であろうか。問題は、それぞれの《私》が何を読めるようになるか、ということである。《私》はスキマ産業のために存在している応援要員ではない。
きょう学校でアカハラの先生がきて、アカハラのこうしゅうかいがありました。ぼくは、きょうじゅかいのあと、それにでました。先生は、わかりやすくアカハラのことをせつめいしてくれました。
うけたひとのかんじで、ハラスメントになるかどうかがきまる、ということは毎年きいていたので、ぼくも知っていました。
きょうのこうしゅうかいで思ったのは、先生がねっ心に教えすぎてアカハラになることでした。先生はこれはむずかしい問だいですねといいました。そして先生は、アカハラにならないように学生をさけるのも、コミュニケーション不足をまねいて、かえってハラスメントのおんしょうになるといいました。
そのとおりだとおもいます。
ねっ心に教えすぎるというのは、けっきょく自分がなにをやっているか分ってないってことだと思います。
ハラスメント問だいが、じぶんのいとでなく、あいてのうけとめかたできまってしまうから、よく、あいてがどうかんじるかまでかんがえて話さなければならないなんてとてもたいへんだ、といいます。でも、それはまちがっているとおもいます。ベルクソンは、かんかく―うんどうきこうとしてのちかくは、かいろなのだといっていたからです。ひとは、はじめから、あいてがどうりかいするのかつねにかんがえさぐりながら、ことばをはっしているのだとおもいます。
発話を、きまりきったラング上でのコードのこうかんであるというコミュニケーションかんは、もくてきろんてきなよていちょうわです。たほう、発話をつねにくらやみのひやくとかんがえるのは、きかいろんだとおもいます。
ぼくたちは、ベルクソンとともに、もくてきろんときかいろんとどちらものりこえなければいけないのだとわかりました。アカハラをする先生はやめてほしいです。たかはしあきひこ。
少し前に目にしたタイプの、これはジョークか、と思うようなもの。
「日本語は死にかかっている。紋切り型の表現にばかりたよっている。だから私は、流行語は使わないようにしている。流行語は、ある種のポピュリズムである」
まあ説明しますが「死にかかっている」などという表現こそが紋切り型であり、ポピュリズム自体が流行語だということである。ポピュリズムは、もちろん昔からあった用語かとは思うが、むかしは日本語で大衆迎合などと言ってきたはずだ。小泉政権下で、はじめて僕は聞いた。あのころ急にこの英語が流行語になったはずだ。
言葉が、定型的な決まり文句に堕している、という批判はよく聞かれる。その場その場に応じた最適な表現をすべきだ、などと偉い方々は言ったりする。だが、言語によるコミュニケーションは、すべてそんなである必要はない。言語使用者がみな詩人である必要は全く無い。
定型的な表現は、それはそれで有意義である。タクシーに乗って運転手さんと決まり切った会話をする。「雪降って大変ですね」「ほんとうに降ったねえ」。これで良いのだ。テレビだって同じだ。
紋切り型の表現、コミュニケーションは、ベルクソン=ドゥルーズ風に言えば、感覚―運動機構としての言語であり、運動イメージである。詩人的なその場に適切な表現とは、記憶であり、時間イメージである。
もう一件、これを言ったのは別の人だが。
「最近のマスコミの力量は目に見えて落ちている。テレビの報道番組なども、まったくダメである。だから私はNHKしか見ない。」
ギャグでしかない。
こんな組合、ぬるすぎます。そう怒り驚きあきれる気持ちは、まあ分らなくはない。私も、これがベストだとは思ってません。しかし、要求貫徹をうたってデモやストライキを行うのだけが組合活動ではないのです。
決して、譲歩しようとか、不況だから無理は言わないでおこう、とかではないのです。その場に応じた戦略が(まさに君らが言うように)必要なのです。そして、この「ぬるさ」も、れっきとした戦術なのです。
君たちは、本当の意味での革命運動は、ほぼ挫折の歴史であったことを知っていますか(実際は、人間の政治的試み―プロレタリア革命もファシズムも議会制民主主義も―がすべて、敗北と挫折の歴史だったのかも知れないにせよ)。私たちは、このことから学ばなければならないのです。しかし、この敗北と挫折を理解出来ず、職業的・アリバイ的に革命運動を模倣するというパターンがあります。私はそういうやり方を最も嫌悪します。組合運動はそういうもの(ばかり)では断じてありません。勝てる(勝つということが何を意味しているのか、それ自体を問いながら)戦術を模索しつづねけばならないのです。
デモやストが、有意義な戦術である場面もあるでしょう。この職場の場合は、すこし違う。論点は二つあります。
まず、一つ目ですが。革命運動の初期の段階での苦悩は、大衆の組織化でしょう。ひとりひとりの人民を革命的に主体化させねばならない。自立的でありつつ、協力を惜しまない、という(矛盾した)個人を作り上げる。矛盾を統一的に抱え込むことが出来る、不屈の個人を作りあげるのです。しかも全員を。現実にはかなり難しいだろうし、これが形骸化した姿が、日本からもミサイルが届く距離の某近くて遠い国に残っている。ただし、これが絶対無理だなどというつもりはありません。むしろダメなのは、これを可能とする普遍的な方法がありうるなどと思い込むことでしょう。そういう輩はおうおうにして、大衆を組織化できないまま過激路線を走る。これを、レーニンは小児病とか極左冒険主義とか言いました。暴力過激路線に走ることだけを意味するのではありません。大衆の共感を勝ち取ることなく、ただ単に「私はどんなときも正しい事を申し上げ、筋を通す」という姿勢も、これと同じです。私個人はレーニンよりも、冒険主義と批判されたほうに共感するとしても。
二つ目です。テロリズムが、国家(国家権力)という裏付けを持たぬ虐げられた者の権力(武力)発動の手段であるとすれば、同じように、ストやデモは、虐げられた者の有する権利でしょう。
大学教員(教授会構成員)は、虐げられた者でもなければ、被支配層でもありません。大学教員には、直接間接に、大学運営に意見する回路を持っているし、大学運営のまさに当事者です。一般論はともかく、この大学は、とくにそうです。若年の講師のはてにまで、選挙権も発言権も認められ、活動(すなわち研究と教育)の主体なのです。
たとえば就業規則への意見書として、「第○条は、労働者の権利を無視したものである。第○は、……」などと文句ばっかり書き連ねるタイプのものがあります。本当にひどい就業規則なら、そうすべきでしょう。しかし、意見書の段階でそんなことを書くのは、理事会は決定権をすべて掌握する支配側であり、組合はそれにしたがうだけの被支配者だという権力構造を追認し強化するものにほかなりません。組合が為すべきは、意見書の段階でなく、就業規則の作成それ自体に直接関与することであり、もっと良い就業規則を作ることなのですなのです。すくなくとも、うちの組合はそのように戦ってきました。これがなすべき権力の奪取です。
最初のうちは、あきれることも多いだろうとは思います。そして、私らもこれがベストとは思ってません。ただ、これをぬるいと感じ、なんとかすべきだと思っている、君たち一年生には、素晴らしく期待するのです。いままで、あまりいなかったタイプの人達ですから。この期待を伝えたいために、わたしはこの文章を書いています。是非、一緒に活動しましょう。
談志さんが亡くなり、上記の名言がTVで紹介されていた。初めて聞いた。曰く「講談や浪曲は立派で偉い人間が出てくる。それに対して、落語には、愚かで弱くて卑怯でずるい人間が描かれる。でもそれは、落語が人間というものを、人間の業(ごう)というものを肯定しているからなんだ」云々、という意味なんだそうである。少々感銘を受ける。いい言葉だなあ、と思う。
「若く貧しく無名であれ」。これは、若くも貧しくも無名でもない、毛沢東の言葉である。同じ関係で、上掲の名言は、いつも威張って偉そうな談志さんの言葉なのである。談師さんもそうだが、円楽さんとかもほんとに頭が良くて立派で偉い。しかしまあ、あの偉そうな態度が、小心翼々とした師匠の本性なのだろう。だから実は、そこに矛盾はない。
この名言にからんで、二つの出来事が思い出される。
ひとつは、最近、学内の講演会で質疑応答の際に、男子学生が手をあげて、(文脈はさだかでないが)「それはロックじゃない」と言っていた。「ロックじゃない」とは、「それは良くない」という非難の言葉である(ようだ)。なんと懐かしい(笑)。僕は使った事がないセリフだ。ロックは正しさの象徴である(若者の反抗はいつも正しい)。
もうひとつは、たまに思い出してくちずさむ、チューリップである。「わがままは男の罪。それを許さないのは女の罪」。「今夜だけは君を抱いていたい」(JASRACの承認は受けていません)。ほんとにひどいヤツだ。なんで、こんな自分勝手な発想が、「うた」になりうるのだろうか。フォークって、だいたい自分勝手である。ずるくきたない。そして、加害者であることの自覚が欠如している。だから、およそ愚かである。ちなみに、演歌も愚かだが、いつも敗者である。しかし正しくあったがゆえの負け犬なのである(日陰者の演歌)。正直者がバカを見ている。そして、ロックはいつも正しく、勝利を夢見ている。フォークは、勝利と敗北を越えて、損か得かで物事を判断している。「義」に生きてはいない。
つまり、ロックは講談である。浪曲が演歌であり、落語がフォークなんだろうなと、すっきりわかりました。
我が大学で、久しぶりに「リレーショナルアート」という言葉を聞く。博士課程の院生が、会話しているのだ。数年前、遊具連関の面々が院生だったころ、リクリット・テラバーニャに代表されたそれが、彼らの話題の中心だった。「素材との対話」みたいな凡庸なテーマが続いて、久しぶりに復活してきたかなと期待する。
リレーショナル・アートが目指しているのは、究極の自己実現と言って良い。美は対象にでなく、それ見る側にしかない、というものである。客観的な美を否定するという意味では相対主義であるが、主体性の問題としては究極の実体主義でもある。
この、美に関する主体主義を推し進めれば、結局、何もしなくてよくなってしまう。座禅をくんでいるのが一番になってしまう。これは、どこかで間違ったのではないか、と今は思う。芸術は行為にあるはずなのだから。
「気付き」も、リレーショナルのキーワードであった。ここに潜む誤りは、「気付き」とはしょせん知的な関与に留まる、というところにある。そうでなく、身体的かつ回路的な連関が必要である。
ベルクソン『創造的進化』を今読んでいる。この本でベルクソンが試みるのは《運動・変化の肯定》であり(ベルクソンはいつもそうだ)、そのために敵として批判するのが目的論と機械論である。目的論とは、神(イデア・テロス、等)の意志による予定調和としての運動・変化観である。他方、機械論は、意志の非在を根底に持ち、物質はただ科学法則に従って展開するという運動・変化観である。すなわち運動・変化はすべて偶然の産物である。両者は、意志の有無において一見正反対に見えるが、無時間的な法則という点で同じ公準を持っている(神の意志としての法則、物質的自然法則)。目的論は、未来からひっぱられて現在の状態が決定されるが、機械論は、過去(直前)の状態から押しだして現在の状態が決まるのである。
気付き的なリレーションは、予定調和を否定するあまり、機械論に陥っているのである。
ベルクソンは、ゆるやかな目的論を提唱している。意志は在る(エランヴィタールとして)。しかし、それは分岐・分化する。同時に、個体として主体化する。ドゥルーズはこれを、持続とは自己に対する差異であり、反対に物質は持続せず反復するだけだ、と言っている。持続は意志である。
はたして、僕も、随分前に書いた川口の「投球論」のモチーフに戻るのである。生きたボールは、自ら解を出す。
ちなみに、コンプリレーションは、このあたりのことを完成の問題としてとらえ、自覚的に問題としていたわけである。今の博士の連中は、はやくこのレベルにまで追いついてきてほしい。
『マンガ文献研究』というミニコミを知り、すこし読んでみる。3号に若手研究者のエッセイがあり、そこにトマス・ラマール「マンガ爆弾」『はだしのゲン』の行間」という論文が紹介されている。マンガ描線を、意味(形式、フォルム)への収斂、物理性・力動性(質料、ディナミス)の抑圧、というプロセスで捉えた論文のようである。ネットで公開されており、本文をさきほど読む。
描線のディナミスと私が言ってきた事態を、明確に捉えている論文だと言って良い。なんか、やられたなと思う。ティエリ・グルンステン『線が顔になるとき』も、読む前はやられたかなと思ったが、読んでみると結局は意味(顔というフォルム)へ収斂するものだったので、安心(?)したが、今回はちょっとやられた感がある。
ただし、出発点はずいぶん違う気がする。ラマール氏のほうは、デリダ風の脱構築主義。あるいは、ターゲットに暴力と抑圧を見出だす、いわゆる文化左翼(Cultiral left)ではないか、と思える。
文化左翼は、対象に暴力と抑圧を見出だすことが世界を救うことだと勘違いしている。暴力と抑圧が、《同じ一つの身体における、二つ表現》の一面に過ぎないことを分っていない。だからダメなのだ。
ラマール論文のほうに戻っておくと、論じたいはすごく良いと思う。だって、僕と言いたいことは同じなんだから。それは、意味(フォルム)に収斂しない描線の力動性を言うものなのだから。
ラマールさん、おれの論文も読んでみてよ、と思う。次の3本です。
「描線のデュナミス――児嶋都『笹江さん』における表情の問題」『ユリイカ』2005年2月号(特集:ギャグまんが大行進)
「起源のない富江と中心のないうずまき――伊藤潤二の描線・コマ・単一世界」青弓社『ホラー・ジャパネスクの現在』(ISBN:4787291785)
「ペコの左手アクマの右手――松本大洋『ピンポン』における超越と内在」『ユリイカ』2007年1月号(特集:松本大洋)
私の場合は、アリストテレス的な生成哲学だが、それの持っているエネルゲイア優先の目的論的な在り方を排除したもので、まあベルクソン=ドゥルーズ風という事なのですが。なんか、哲学者の名前だけあげてブランド合戦しているみたいで恥ずかしいですね。
要は、何を問題とするかであり、どう問題とするかである。文化左翼は、あらゆる側面で暴力と抑圧(隠蔽)があると言うが、それはひがみ根性というものである。
栗の季節である。だが、栗はいけない。なぜなら、栗林には暴力とその隠蔽にあふれているからだ。栗は、イガという視覚的に暴力の劇場を演出している。しかし、この劇場こそが本質的暴力の隠蔽なのだ。栗は、イガを破って出てくる。ここにこそ本質的な暴力がある。
……アホか。文化左翼が言ってるのは、ほとんどこれに近い。フーコーもデリダも、墓場の下で泣いているだろう。政治による倫理の内面化などと言って批判するが、内面化されない倫理など倫理ではないし、それによってしか自立(政治を批判する批判主体)は成立しないのだ。競争を否定して、みんなで手を繋いでゴールさせれば良いと主張するのと、同じである。描線が意味に生成してしまうのは、子供が大人に成長してしまうことと同じであり、悲しいことかもしれないが、批判したりすべきことではない。フレームの不確定説にも似たひがみ根性を感じる。フレームの不確定性の隠蔽なんて、まったく意味がない。
西田幾多郎『善の研究』という本を、私は最近はじめて読んだのだ。自分の名誉のために言えば、はじめて「読めた」のだ。
独我論は、もちろん他我問題とセットである。「心を持っているのは私一人である」。「世界は、私の夢かも知れない」。愚かな問題設定だが、原理的にこれを論駁することはかなり難しいらしい。私は、考える必要も無いと思っていたが、西田幾多郎は『善の研究』(岩波文庫)の序文で、「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」と語り、「これによって独我論を脱出できた」云々と書いてあった。
この一節、そそりますね。どのようにして独我論を脱出できるのだろうか。
かつて僕は、西田幾多郎をずいぶん軽く見ていた。座禅とか組んで主客未分とか言っているのだろう、くらいにしか思っていなかった。もう、武道とかの精神論そのまま、みたいな。スポーツに熱中している時だけ、自己の存在の悲しさを忘れらるだけにすぎない、とか。
次に、西田幾多郎の「純粋経験」という概念は、主客未分を出発点にしている時点でダメだと思っていた。主客未分を前提とした議論なんだから、主客未分が成り立っているのはあたりまえじゃないか、と思っていた。加えて、記号論、テクスト理論を学んできた(きてしまった)私としては、言語分節以前は存在しないと考えていた。言語分節以前とは、これは深層―表層という二元構造だと思った。ちなみに、小泉義之『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)を初めて読んだとき、《潜勢力としてのひしめき合う差異》というモチーフにすっかりたまげたものだった。なんだこりゃ、深層構造にすぎないじゃないの、と。要は、深層構造ではない、生成プロセスのモデルを考えることが可能なのだろう。
現勢態(すでにそのように―意味として―あること)に対して、潜勢態(いまだそのように―意味として―はない、それ以前の状態)の実在を認めるかどうか。ポストモダン的、表層批評宣言的な立場は、潜勢態は実在しないと言い切る。潜勢態とは深層構造であると批判する。しかし、それは世界の生成変化を認めない考え方である。
世界の生成変化を認め、同時に生成変化の未確定性をも認めること。なされるべきは、深層構造=潜勢態が現勢態を決定しているわけではない、ということを認めるような深層―表層(潜勢―現勢)構造を考えることなのであろう。
さて、『善の研究』の純粋経験は、ドゥルーズの《出来事》概念とほぼ同じである。あるいは、ベルクソンの《イマージュ(イメージ)》も、ずいぶん近い。
『善の研究』の純粋経験は、主客未分であるのと同時に、主述未分でもあると理解すると分りやすい。馬がいて、馬が走っている、のではない。走る馬という全き表象(イメージ)が与えられるのだ(言語分節以前である)。世界は、連続するこのただ一つのイマージュなのだ。ちょっとこれを敷衍しておこう。
デカルト「我思う。故に、有り」は、この1' を出発点にしている。しかし、西田幾多郎に言わせれば「思う我」が既に与えられているのだ。西田による独我論の超克とは、たぶん、独我論が前提とする《我》の自体性の解体によるものなのだろう。
ニューラルネットワーク(神経網)について。
ノイマン型・直列型コンピュータモデルと異なる、並列型コンピュータ。ファジーな曖昧さ、パターンの認識を可能にし、かつ自ら学習するコンピュータ。例えば、手書き文字の認識。音声入力。顔認識など。今日ある程度実現している。
これは、具体的にどのように実現されているのか。個別の真理とその照合(データベース処理)から成り立っているのではない。一つ一つの要素に真偽が既に対応しているとなると、個別の真偽は表現出来ても、全体の概念を形成することは不可能である。例えば、顔認識。顔が、輪郭と両目・口の4つのパーツから成り立っているとしよう。この4つがどのような状態にあれば、それが顔たりうるのか。(^_^)/ :-)
それぞれのパーツの正しい在り方(個別の真理)をアプリオリに決めてしまうと、すこしでも違う目が出てきたら、それをもはや目とは認識できなくなるだろう。世界中のあらゆる目の写真をデータベース化して、複数の内部状態(データ)として持っていなければならない。それは無理な相談であり、つまり顔認識は原理的に不可能となる。
われわれの脳は、そういう風に顔を判断してはいないだろう。すべての人の顔を見たことがなくとも、それが顔だとわれわれは分るのだから。
ニューラルネットワークにおいては、最初はまったくデタラメから始めて良い。四つのつまみを互いにチューニングしていき、それが顔だと判断されるように、毎回学習するのである。だから、真偽の決定を行う先生は必要である。先生がいないと、何万回やっても、正しい成果は出てこない。
すべての顔をみたことが無くとも(それは不可能だ)、それを顔だと認識できるようにチューニングされた一つの内部状態を持つこと、これが知っているということ(知的だということ)なのである。cf、柴田正良『ロボットの心』(講談社現代新書1582。2001年刊)第五章。
人間は、一つの内部状態において、善悪、魔仏、愛憎といった両極の状態を実現するのである。
東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)は悪夢のような好著(笑)だが、そこに描かれた人間像はデータベースモデル(ノイマン直列型)である。ニューラルネットワークで構築し直すべきである。
哲学するとか、修行するとかいう行為は、ただ一つの内部状態においてあらゆる対処を行えるようにすることである。複数のつまみをチューニングする。(つまみの発見が先であろう)。
この七月に、柴田正良『ロボットの心』を読んだ。すごく良い本です。英米系の哲学者・書で、そこにあるのは、いわゆる他我問題である。「彼に心はあるのか?」というのが他我問題である。まあ、信じがたい問題設定である。「行動は必需品だが、思弁は贅沢品である」(H・ベルクソン『創造的進化』)。贅沢品は無駄遣いしてはいけないのだ。他我問題とかやっているやつらが、軽トラに乗って秋葉原のホコ天に突っ込んだりするのだろう。彼の脆弱さは、他人に心が実在することに懐疑しても、自分の乗っている軽トラの実在を疑わないところにある。愚かである。
ロボットに心はあるのか(心は可能か?)という問いかけは、この他我問題を、ちょうど逆から進むやり方である。向きを変えただけで、他我問題は生産的なものとなっている。それが柴田先生の『ロボットの心』である。
他我問題の本来的な元祖は、L・ヴィトゲンシュタインなのだろう。クリプキだが『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』の第四章は、「人の痛みが分るとは、どういうことなのか」という問いかけであった。
常識的に考えて心がなさそうな対象に心の可能性を見いだす試みは、哲学の問題であるのかもしれないが、純然たる文学の問題でもある。文学では、人物が生き生きと描かれていることが大事だとされる。生き生きと描かれるとは、泣き笑い、悩み、あたかも人間であるかのように、リアルに存在しているように、ということである。ロボットの心という点で問題になるのは、あたかも人間のように行動・言動が可能であっても、それは精巧にそのようにプログラミングされているだけではないのか、という懐疑である。そして、文学(フィクション)の登場人物とはまさに、そういう存在である。
心があるように見えるのは、それを見る側の感情移入や共感の問題かもしれない。が、もっと純然とした対象自体の性質の問題ではないだろうか。「そのように見えれば、それでよい」というのはソフィスト(相対主義者)の発想である。ここは哲学(すなわちプラトニズム)で、そのものの性質として考えたい。
とは言っても、例をすこしばかりあげるだけだが。まず、坪内逍遙『小説神髄』は、八犬伝を批判するに際して「仁義八行の化け物」と呼んだ。あるいは、人間が描けているとされる西鶴と比べて江島其磧の小説は、登場人物の言動はいつも理屈臭い(登場人物たちはいつも「理を責めて」いる。詳細はいずれ論文にするよてい)。はたまた、儻偶物浮世草子と気質物浮世草子との根本的違いの問題。以上は、近世文学での例だ。
ドゥルーズで挙げるなら、感覚―運動機構が機能している運動イメージに対して、それが機能しなくなる時間イメージである。
そして最後に、ベルクソンで言うなら、不確実性の中心としての身体である。生物と無生物との間は比較的なだらかであり、不確実性の程度の差でしかない。程度の差しかないが、良くできた不確実性こそが、心の本体である。そして、感情移入論に戻るなら、このことが、物質に対しても感情移入を可能にしているのだろう、とも思う。
(追記 2011-12-23 (Fri) )子役のあしだまなちゃんが不気味なのは、子供は無邪気なものだという予測に反して、彼女が確たるクオリアを有している感じがするからであろう。
少量を用いれば薬だが、規定量を超えてしまうと毒として作用する。毒か薬かは、そのものそれ自体の性質ではない。あらゆる物質がこうした傾向を有している。栄養満点の食品であっても取りすぎれば身体をこわすように、どんな物質にも致死量というものがある。逆に言うなら、一般にいうところの毒とは、少量で致死量に至る物質をのことをいうのである。
そして、その毒を、さらに微少に使用する時、薬として作用するのである。(これも、一つの身体の二つの表現である)。
ここでいう作用をエネルギーにおきかえてみよう。標的はもちろん、原子力エネルギーである。石油等に比べて、少量で大きなエネルギー(破壊力・生産力)を生み出すのであろう。(一見)コストも低い、というわけだ。ここから読み取れる法則は、低コストで済む(とされている)エネルギーは、極めて危険だということでもある。
死は、一か多か。もちろん、多に決まっている……。それぞれに個別の生があるように、個別の死があるのだから。しかし、個別の死であることは死者行方不明者は三万人を超えるか二万人強かとか、あるいは次々に話題として提供される著名人・芸能人の死とか、消費的に対象化されしまう。だからといって、しかし、大文字の、本質的な《死》があるわけではやはりないだろう。
弔いは、いかにして可能なものとなるのか。「わたしのことを忘れないでほしい」と言った佐伯さん(村上春樹『海辺のカフカ』)。僕は、忘れるわけないよ、と言ってあげたい。しかし他方で、忘れてゆく死(幸せな)もないわけではなかろう。
菅聡子『女が国家を裏切るとき』(2011、岩波書店)を、注文して読んだ。樋口一葉、吉屋信子を主な対象として、女性らしさといったかたちで表現される(文学的)感傷が、いかにして戦争等の国家的暴力へ回収、または積極的に参与していくか、そうしたさまを描き出した本である。菅さんの本は初めて読んだのだが、頭は良くて明晰だし文章もきちっとしていてかっこいい。根本にあるのは、近代の女たちが、いかにして自己確立を行ってきたかという問題であろう。自己確立と共同体への依存とは、《同じ一つの身体の、二つの表現》である。(たとえば、侵略戦争への奉仕も革命への団結も、どちらも共感という同じ一つの身体の、別の二つの表現である。すなわち、相対立する善と悪とが一つのシステムから生成される)
本書にはいくつか、自明の前提がある。一つ目は《暴力はいけない》というものである。二つ目は《体制・国家は悪である》。三つ目は《戦争は悪である》。いずれも同じことである。
暴力が悪として表現されること。なぜ社会はアドホック(その場その場)でなく、体制という形を取らざるをえないのか。本来決して自明ではない、こうした問いそのものを丁寧に腑分けしてみせる必要がある。(問い自体を腑分けするのである)。
(以下、補記 2011-07-09)
菅さんとは、十年くらい前に一年間だけ一緒に仕事をしたことがある。特に親しかったわけではないが、著書を読んであらためて、研究成果と社会的立場とを見事に融合させ、明晰かつ決然と立論できる知性が、こんなにも早く失われてしまったことにこの世の非情と残酷を感じた。ご著書を拝読することが、私なりの弔いだろうと思い読んだのである。遺著『女が国家を裏切るとき』は、おそらくまだ前半だったはずである。女はまだ国家に領属されており、自ら利用されている段階である。後半の、ほんとうの裏切り編を彼女は書くつもりだったのだろうと思う。この問題は、彼女一人の問題ではないし、社会というものが続くかぎり、おそらく解決はないだろう。だから、忘れませんよ、と思う。合掌。
50才を少し前にして自分を振り返ってみると、何も作ってこなかったかな、何も残ってないな、などと思ってしまう。母の死も一因なんだろうが、なんか空しい人生だったなと思う。院生後半から就職する頃までは、将来を嘱望された(と思っていた)若手だったはずだが、なんかいろいろ無為に過ごして来たな、などと思う。
最近のTVはいまだにクイズ番組が多いが、爆笑問題が司会の雑学クイズは、ずいぶん前から、《雑学》の名を冠した企業の宣伝クイズでしかない。「ひどいな」などと茶々を入れながら見ている(見たり見なかったりしている)。「シルシルミシル」は私が好きなバカリズムがナレーターを担当しているという理由だけで、結構見るのだが、こちらはもう最初から企業宣伝番組というスタンスを偽悪的に隠さないでいる。それに対して、クイズ番組に偽装する雑学クイズのほうが罪は深い、などと思い始めて、いや思いとどまる。民放および資本主義(マス)メディアは本質的に企業宣伝なのだ、と。
とは言いながら、雑学クイズは、出ている芸人のレベルが高くて(笑)、やっぱり面白い。この前、「伸び悩み芸人枠」で小坂大魔王が出ていた。この「伸び悩み」という言葉に感心する。いや、共感する。それはある種の救済観念である。
話はかわるのだが、youtube を見ていると、「ニョキニョキ」と女の子(たち)が叫ぶ映像によくぶち当たっていた。最初は、下ネタ・お色気系かと思っていたが、そうでもないらしい。次に、お笑い芸人かと思っていたが、そうでもないらしい。音楽をやっているアイドルっぽい。私は子供の頃からアイドルに興味はない。しかし、この春くらいに、その二人組の女の子があれこれ読者からの要望にチャレンジするという10分くらいの番組を順番通りすべて見通して、けっこうこの二人組が好きになった。こまっしゃくれたいやな感じではあるが、頭は良くて機転も利く、まじめな良い子たちなのである。悪い大人にだまされた感じのかわいそうな子供たち、ではない。彼女らは、294(つくし)という二人組で、CDデビューしており、2曲くらい出している。歌はうまいほうだ。樫原伸彦という人が作詞作曲する歌も、実にかわいらしくステキだ。294のテーマは、歌と笑い(ニョキニョキ)を通して世界平和を目指すというものである。かわいらしくもこまっしゃくれていて、ちょっと憎たらしいくらいの感じが、すごく良い。ただし、都会的な殺伐とした感じでなく、田舎の良さがある。それは楽曲のコンセプトにも表されてもいるのだが、土・みどり・自然を通した世界平和の実現なのだ。コンセプトとともに、彼女らには、タレントとしての才能(機転、フリートーキング)がある。私は、294(つくし)に最大限の賛辞を贈りたいのだ。
さて、あれこれ調べてみると、294(つくし)の二人は、2007年ころからネットを舞台に活躍を始めたが、体調不良から2010年3月に解散し、現在は芸能活動をまるで辞めているようである。彼女らは、今ネット上で、記録としてのみ存在している。彼女らが、たとえばAKB○○とか、だっちゅーののパイレーツなどに代わって、マスメディアで大ブレークできない理由は、何一つなかったはずだ。
同じくyoutube で、吉祥寺のローカル番組「吉番」というものを、先日見た。武蔵野市は、私の田舎である小国町と姉妹都市なのだが、「吉番」は姉妹都市である小国町にロケに来た。昨年の10月くらい、1泊での収録である。知っている場所、人物などが紹介される。ロケに来ている「吉番」の出演者は、男1人、女3人なのだが、彼らは何者なのだろうと思う。どこかの芸能事務所所属の売れないタレントとかモデルとかなのか、などと思い、調べてみる。吉祥寺を本拠地として活動するミュージシャンなのだという。3人の女性は、チャボ&チョップという女性3人か4人のバンドのメンバーである。男のほうは、見た目ユースケサンタマリアに似ており、頼りなさげな若者なのだが、番組のなかで案外きちんとレポートが出来ている。彼らがどんな音楽をやっているのか、これもyoutube で見る事が出来る。チャボ&チョップのほうは、すまない、特に好きではない。ボーカルの女の子は堂々としていて(髪もドレッド)、何もやらせても好ましいし、あとの二人は「吉番」番組中は影が薄いが(どちらがどちらなのか、結局最後まで私は区別が付かない)、バンドではそれなりにかっこいい。男のほうは青江好祐という名で、基本ソロなのだが、「チン青江とアッパーカッツ」という名で昭和歌謡のコピー(パロディ)をやったり、女性だけ集めて「青江好祐と女たち」というユニットで(本人はギターとボーカル)やっている映像がある。チン青江のほうは、才能に満ちあふれてはいるのだろうが、どうかと思う。しかし、自然体で演じる「青江好祐」は、「吉番」での頼りない感じと全く逆で、すばらしくかっこいい。曲もオリジナリティがあるし、声も良い。ユースケサンタマリアっぽさが少し気持ち悪いという意見もあるかもしれないが、そこも含めて僕はかっこいいと思う。(念のため申し上げるが、私は20代の頃、ユースケサンタマリアに似ていると言われたことがあり、そのころはそれが誰なのか知らなかったが、いずれにしても好意を持っている)。さて、この青江好祐も、彼がミスチルの代わりに大ブレークしていてはいけない理由は、あまり無いのではないか、と思うのだ。
「青江好祐と女たち」には、チャボチョップのボーカルはコーラスとして参加しているが、あとの二人は参加していない。なぜなのだろうか。ここになんだか不気味なリアリズムを私は感じる。しかしもっとも驚かされるのは、このユニット「女たち」のドラムである。私は正直、音楽のうまい下手は分らない。が、このドラマーが可能性のあるうまさを持っていることは確実だろう。しなやかな手首から繰り出されるリズムには、独特のクセがあって、それが妙なうねりを作り出している。調べると、ウツミエリという名前のようである。ブログもあるが、たいした情報はない。colors department というバンドが本務のようである。このバンドの楽曲 cross road も見てみる。男2人、女1人の三人のバンドである。ドラムは相変わらず良い。そもそも3人のバンドで、いちおうこれだけの音の厚みが出ているのは、たいしたもんだ(ほどんとドラムの好印象によるのだが)。しかし、やっぱり、ああダメだな、と思う。まず、cross raod なんていうタイトルを付けている段階で凡庸である。ついで、ボーカルの声も良くない。だいたい、バンドの名前も、センスがない(長すぎるし、意味不明。ひとりよがり)。そもそも、ちょっとコンセプトが古いんだろうな、と思う。今のはやりは、ミスチルやらスピッツやらのプライベートな感じのもの(フォークの再生)、ゆずとかコブクロとかの倫理的・道徳臭いもの、であろう。プライベートで道徳的でないコンセプトとしては、パンク、ヴュジュアル系、ヨーロピアンサウンド、この3つの要素をどう配分・調合するかが問題なのだが、それこそが90年代までで終わったコンセプトだ。全体ひっくるめて、「都会的でスタイリッシュな」というやつなのかもしれないが。ボーカルの声が良ければ、ラルカンシェルで通ったであろうが残念だ。しかし、私は、このcross road 、すごく好きだ。
彼らも既に解散しており、ドラムのウツミエリも、あちこちかけ持ちしつつ修行中なのだという。まだまだ若いから、頑張れとしか言いようがないが、君の才能なら大丈夫だ、とも思う。が、思うと思ってから、まてよとも思う。才能があるのに芽が出ない連中というものはやたら多いのだ。
才能があるのに評価されない、ということへの対処は、たとえば上田秋成の「命録」という観念(救済観念)もその一つである。それは運命というものだからあきらめなさいという考え方だが、さっぱりした諦観ではなく、基本的には恨みがましい観念である。また、近世儒学における折衷学派というのも、同じ問題を扱っている。超越可能性を前提とし、超越を文献主義的な方法論に従って可能だとする徂徠学。それにたいする懐疑主義が、折衷学派である。
わたしは、ドラム以外を評価していないcolors departmentのcross road がなぜすきなのか。それは私が、80年代90年代の、パンク風味付けを持った、ヴィジュアル系でありヨーロピアンサウンドでもある(たとえばラルカンシェル)が好きだからなのだ。久しぶりに、その味付けを味わったからだ。冒頭のギターによるピコピコサウンド風のアレンジ。歌詞もあまり感心しない。しかし、感心しないなどと書いているということは、じっくり聞いたことを意味していることを、メンバーの彼らには分ってほしい。サビの部分にこうある。
村上春樹『海辺のカフカ』において、母たる人の息子(田村カフカ)へのメッセージはただひとこと、「私のことを覚えておいてほしい」というものなのだそうだ。その声はとまりかけていた世界を、ふたたび動きださせるのであろう。あなたの声を思い出すたびに、わたしは伸び悩んでいるなどと愚痴るよりもともかく前に進んでいこうと思うのです。
2011-06-09 (Thr) 公開
ツイッターだとか、フェイスブックだとか、ソーシャルネットワークというらしい。ネットワークは、だいたいソーシャルなものだろう(社会的であり、人間関係的であること)。データがころがってるいだけでも、じつはすでにソーシャルだろう。ネーミングだけで、根本的に新しいような幻想を振りまいている連中を気に入らないとか言うのは、おじさんになってきている証拠だろうとは思う。
ツイートというのは、英語だと「(鳥の)さえずり」らしい。日本語では「つぶやき」という。「ホームページ」(個人サイトのこと。誤用だが)が流行りだした95、6年ころから、個人の発言を「つぶやき」と称する例が多くあったと思う。《他者が聞いているかどうか分らないけれども、声に出す(見てくれるかどうかは分らないが、書く)》という意味なのであろう。レスポンスが出来る掲示板とは違う、それ以前のシステムでの用語であろう。
私は「つぶやき」という言葉を持っていないし、「つぶやく」こともしない。独り言はよく言うが、つぶやきはしないのである。言うときにはでかい声だし、聴いてなくても構わない。「つぶやき」には、なんか「聞いてほしい」感が満載で、私は恥ずかしいと思う。ただし、(何度も書くが)独り言は言う。
私自身、掲示板まではやった。その後、メールでの対談(それを編集してサイトに公開する)とかもやった。それ以前、パソ通時代、匿名の喧嘩とかもやった。同時に、ハンドルネームは半ば実名的な扱いでもあった。表面や量は随分変わったと思うが、基本的なところはパソ通と同じだよとか思う。これもおじさん的な証拠でしょうけど。
なお、私はこうしてあれこれ書いているのだけれど、これは断じてつぶやいているのではない。かなりでかい声でしゃべっている。(聞こえるかどうかは別だ)
- パソ通の時代から(つまり私が二十代でまだ若かった時代から)、私は自分のアーティクル(これも懐かしい用語だ)を「対話拒絶型」と称してきた。聞いてほしい感満載がいやなのだ。
レスポンスがあるのは嬉しいものだが、実際、いつでも嬉しいレスポンスばかりとは限らない。僕が、半魚文庫から掲示板を消したのも、そういう理由からだった。
以上。「高橋先生も、ツイッターやんなよぉ」と言って下さった某先生への回答。
このまえ小説を読んだんですけど。今、世界からの注目されているらしい日本の小説家で、村上春樹って御存知ですか。ヤホーで調べました。と、ナイツ風の出だしでごまかすしかないだろう。ともかく今頃初めて『海辺のカフカ』という小説を読んだのだ。師匠の高田先生が「上田秋成と『海辺のカフカ』」という論文を書かれておられるから(岩波書店『文学』)、読んだのだ。『海辺のカフカ』を読んだ上でのほうが、高田先生の論文もさらによく分る。
ついで、積ん読だった内田樹『村上春樹にご用心』も読む。私は熱心な内田ファンではないが、『街場のマンガ論』だかいう本も買って読んだ。本の中身の薄っぺらいのも不快に感じるが、なによりも仲間(脳解剖学者、文芸評論家、サブカル系の批評家)へのこびへつらいが非常に鼻につく。学者がジャーナリッスティックな場面に出て、売れっ子と友達であることが自慢で、彼らの仲間入りがしたくてこびを売っているような、そんな風に見えるのである。とても恥ずかしい。がっかりする。
ただ、今回『村上春樹にご用心』にも、仲間へは媚びて、敵(蓮実重彦、松浦寿輝、四方田犬彦など)には徹底して容赦しないコントラストを、読んで同じ感触を得る。(まあ、蓮実重彦に媚びるよりは、茂木健一郎に媚びているほうが罪は無いと思うけど、ほんとうにそう思うけど)。他方、なるほどと関心する話題があったので、それについてメモしておく。
帯のコピーには「ウチダ先生、なぜ村上春樹は世界で読まれるんですか?それはね、雪かき仕事の大切さを知っているからだよ」とか書いてある。まず、自分を「ウチダ先生」などと呼ばせているセンスが嫌いである。ジャーナリスティックな場面(ある種の平等社会)で大学教員という立場を特権的なものとしてアピールしている感じがやらしい。(まあ、それをやらしいと思う私のほうがやらしいかもしれないが、半魚先生)。しかし、「雪かき」である。これは本書を読むと、村上春樹本人の言葉らしい。だから内田氏の責任ではないのだけど、それにしてもなのだ。雪かき仕事とは、《だれもやりたがらないけれど、だれかがやらないと困る仕事》なのだそうだ。雪国の私から言わせると雪かきは、《やらないと、自分の家がつぶれる仕事》である。エゴイスティックな仕事なのである。他方、雪は春になれば自然と消える仕事(という比喩も可能であろう)なのである。なんかずれてるなと思う。つまり、内田先生の問題としては、これは取り上げるべきセリフではないろうということである。
本題にはいろう。幾つも関心した箇所があったが、特にすごいなと思ったのが、ハイデガー『存在と時間』における、「存在」「存在者」をそれぞれ「死者」「生者」と置き換え、それでも十分に意味が通用する、といったくだりである。教科書的で生骨な理解では、つまり素人の生半可な理解では、決して到達出来ない達人の境地であるなと感心する。内田氏は、加えて、存在論などを持たない社会はいくらでもあるが、死者論・幽霊論といった理説を持たない社会は存在しないと言う。かっこいい。ともかく、ウチダ先生の解釈に感心し、二週間ほどことあるごとに(トイレでとか)反芻する。
その上でだんだんわかかってきたことなのだが、つまり、教科書的なハイデガー理解だと、存在者/存在の対概念を、顕在/潜在のように考えてしまう。実在するのは存在者だが、存在をわれわれは忘却している、存在こそが存在者の根底にあるのだ云々。すなわち、存在あっての存在者、そういう順接的な生成として考えてしまう。他方、生/死は対立的に考えてしまう。きちんとこの文脈を理解するために必要なのは、一見対立に見える構造が、実は顕在/潜在の順接的生成に過ぎないことを見抜く力だったのである。あるいは逆に、順接的生成の中に、一見絶対的に見えるほどの大きな対立を見出だすことである。非常に単純な話なのだ。すなわち、この場合でいうなら、生と死は対立するのではなく、生は死に基礎づけられている……ハイデガーの教科書そのままだ。だから、対立的なもので『存在と時間』を言い換えてみれば、すべてこの構造が当てはまる。白は黒に基礎づけられている、男は女に基礎づけられている、資本家は労働者に基礎づけられている、大人は子供に基礎づけられている、なんでもいけるのである。そして気づくのが、この方法こそが二項対立を超える方法、いわゆる脱構築の方法だということだ。素人でも到達可能な、普通の話である。
内田祐也は私にとって、嫌いだという程には知らないために、あまり好きではないというレベルに止まっている。比較されるのも迷惑だろうが、矢沢栄吉もよく知らないが、テレビ等で歌うのを見るたびに、話すのを聞くたびに、かっこいいな、この人はたしかなものをつかんでいるな、と感心させられるのにくらべ、内田氏のほうはそういう経験が全くなく、ああこいつバカなんだろうな、と思う、というわけだ。問題は社会がそのばかを許すかどうか、である。
今日、何が好きでないのか、じっくり考えてみた(20秒くらい)。「ロック、ロック。ロックンロール」と言っているのが、嫌いなのだ。聴いていると、ロックは内田祐也のものであり、内田祐也のためにロックがあるかのように聞こえてくるのだ。それが僕は嫌なのだ。
《自分たちこそが文学を愛しており、分っており、文学の危機を危惧しており、文学を救おうとしているのだ》といわんばかりの、いや言っている某学会があり(ここは匿名にさせてください)、かつて、そのスタンスがすごくいやだった。そこに逆に排他性とその背後の傲慢さを感じたからである。
内田祐也がロックロックというのを聞いて思い出すのがこれである。現在、僕は、文学は誰かのものではないと思っており、だから私のものでもあると思って排除感は感じないし、もちろん私が文学を救おうとか分っているとかそんなふうに思わずに済んでいる。某学会は、今は好きだ。嫌いだったのは10年くらい前かな。
なお、本記事の誤字は意図的なものです。
先週の金曜日、DVDでやっと『ゲド戦記』を見た。いい作品じゃないですか。
登場人物の顔の表情がぎこちないのは認める。でも、そういう技術的なうまさばっかり見せられたとしても、我々はすでに飽きがきている。
原作のル・グインによる感想というのが、あちこちのサイトにアップロードされているので、読んだ。グインは『となりのトトロ』を見て感激し、ジブリに自作のアニメ製作を許可したという。しかし、ハヤオミヤザキがこれを作らず、かつ出来も良くなく、ゆえに大いに不満のようである。特に、原作とはかけ離れているのが、暴力に訴えて問題を解決しようとしている点だという。グイン様、あなたは勘違いしておられます。父上のハヤオミヤザキ自身は素晴らしい人格者でもあり平和主義者でもあると私は思いますが、他方、アニメーターとしては暴力を極めて華麗に描いてきた作家なのです。暴力シーンこそが父上の真骨頂だと言っても良い。それとくらべて本作の戦闘シーンは、そういう魅力には欠けています。このほうが平和的です。
あまり、『ゲド戦記』を誉めているように聞こえないかな。
私がもう一つ本作で感動したのは、 『ゲド戦記』の彼らは、決して空を飛んで逃げようなどとはしなかった。自分の足できっちり走るのである。われわれが見習うのはこれである。空を飛ぶ感覚の技術のうまさだけ見せられても、私たちはもうあきあきしている。
さっきニュースで言っていた。
こういう事態を、多田南嶺なら、医者が見立て違いで患者を殺しておいて薬代を取る、と言うだろう。ほんとにとんでもないはなしだ。
……と思ったが、そうだろうか。賠償金は神様が出してくれるわけではない。国もお金はなさそうだし、(国庫も含め)結局はだれかが負担しなければならないのだ。結局は国民である。
ああそうか。つまりは、賠償金も含めてコストであるということなのだ。今更分ったことだが、 産地偽装、もう何を信じていいのか分らない……などともっともらしげな主張をする。それが典型的な消費者根性である。自分の舌を信じるだけだ。放射能は舌では分らない?確かに。(税金をとっている)国が、国民の様々な安全をまもるべきだ……もちろん、その通りだ。私もそういう意味での、国家主義者ではある(左っぽい)。しかし、お国のために死んでこい的な国家主義やファシズムも、これと同根である。いいとこ取りは許されない。
昨日の新聞には、今後原発をどうすべきかという世論調査が載っていたが、「廃止すべし」と「やむをえず現状維持」がほぼ半々、むしろやむを得ずの方が多かったようである。この期に及んで、《やっぱり原発》神話にすがるのか。《絶対の安全を求めて》とか言うのであれば、ともかく、低コストでは済まないことを自覚すべきである。30%程度の節電は比較的楽だろうと思う。ただ、それをさせまいとする力がどこかで働いていただけだったのだ。
この公共広告。聞かされるたびに、ちがうと思う。心が見えない事に特には異論を唱えないことにしよう。しかし、心遣いを見ようとしない人、見えていない人はたくさんいるではないか。
心遣い(の行動)は、それがそれである(アイデンティファイされた)シニフィアンとして認知されうるような動作では決してない。ここに、シニフィアンの記号論の限界がある。意味(シニフィエ)は、シニフィアンと表裏一体ではない。意味は生成されるものである。ただし、その生成も、シニフィアンによってではない。ベルクソンは、知覚は可能的行動の尺度である、と言った。対象を知覚するとは、対象の意味を読み解く、知的なコード解析ではないのである。対象に対して何をなし得るかそれを選択する関係に入ること、これが知覚することである。
ドゥルーズ風に言えば、「記号(シーニュ)を学ぶこと」である。ヴィトゲンシュタイン風に言えば、心遣いの言語ゲームを習得することである。ドゥルーズの記号概念と、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームとは、全然遠そうに見えて、たぶんかなり近い。「痛みの想像(Vorstellung)は像ではない。そしてこの想像は、この言語ゲームにおいては、我々が像と名づけるであろうものによって置き換える事は出来ない。―――痛みの想像はたしかに、ある意味で、この言語ゲームに入り込む。ただし像としてではなしに。」(探究・三〇〇節)。この「痛みの像」とは、痛みのシニフィアンである。そうではなく、「痛みの想像」こそが痛みのシーニュを学ぶということである。
某居酒屋チェーンの会長が言った言葉らしいが正確な出典は知らないので、匿名のままにしておく。この会長は、教育にも一家言をもっているそうだ。いずれにせよ、ひどい人である。品の無い言葉である。戦後民主主義教育とかは関係なく、教育者がそういうことを言ってはいけない。あるいは、その程度の知性しかないのではいけない。
人はそもそも別の人のために死ぬことは出来ない。人物Aの死は人物Aのものであり、人物Bがそれを代替することはできない。それぞれの死は個別的なのである(生が個別であるように)。もし代替するなら、その時それの死はもはや別物である(生も)。
ただし、これが出来るように見えることがある。たとえば、かならずどちらかが死なねばならない状況があって、どちらが死を選ぶか、といった場合である。《救命ボートには一人しか乗れない》等である。Bさんを生かすために、Aさんが犠牲になる、それはAさんがBさんのために死ぬことである……一見そう見えるだろう。しかしこれは、Aさんの死とBさんの死とを代替可能なものとして措定して済ました顔をしているだけなのである。二人のうちどちらか一人は死ななければならない、という物語を可能にする算術的枠組みが前提とされているだけである。
何人死ななければいけないのか、予め分っている出来事は、存在しない。大災害が起こるとして、事前に三〇〇〇〇人が死ぬように義務づけられている、その三〇〇〇〇人が秘密裏にクジで選ばれている、などということはあり得ない。これが在るとしたら、それは、だれか暴君が居てその人の差し金である場合だけだ。則ちこれこそ算術的災害である。
津波からAさんだけ助かって、Bさんは死んだとする。しかし、BさんはAさんのために死んだのではない。現実には、二人とも死ぬ、二人とも助かる、どちらかが死ぬ、のうちのどれかである。「ために」という因果関係は、人間のある心理が作り上げているのである。
こんな問いがまともな問いだと思ってしまうところに、正義の問題の根本的な危機がある。
[最近の][以前の](2010-11-29)
同僚の先生から「東京都の青少年保護条例について、ちょっと勉強しておきなさい」と言われたもので。いろいろ書いてみたのですが、考えがうまくまとまりません。
(2011-05-13)
以下、とりあえず言えることだけ。
まとめ。私は法律ってものをよく分ってないのだな(笑)。すくなとも、信用してないのだな。それが文学研究者なのだ。
あるところに、三人の兄弟が一つの家に住んでいました。兄弟は自分の家について、村長から窓を増やすように命令を受けましたが、その命令の通りにすると家が傾いて倒れてしまうと思っていたので、命令を無視していました。村長は、そんなことで家は倒れないと言い張りました。そして、村長の命令は絶対なので、最後には窓を造らざるをえませんでした。
兄弟は、家が倒れないように十分に努力して窓を造りました。そうしたら、家は倒れずに窓ができました。それを見た村長が、ほら私の言った通りだったろう、と言いました。
これで良いのです。私は、次のような結末をこそ心配するのです。即ち、兄弟は、窓を造りましたが、家はすぐに倒れませんでした。兄弟は、嘘をついていたと思われたくなかったので、自分たちで自分の家を倒しました。
あるところに、カラスは白いと思っている男がいました。そこへ旅人がきて、カラスは黒いと言いました。男は、この旅人は何もわかっちゃないと思い、広場に連れて行きました。広場の人々は、カラスは黒いと言いました。男の息子は、カラスは白いという意味も分っていたし、カラスが黒いことも知っていました。しかし人々はカラスが黒いとだけ言った旅人のほうを正しいと言いました。
彼らにとっては、カラスは白いか黒いかが問題でした。
この話は、カラスはただ単に黒いということであり、それを知らなかった男を非難するよりも、白かろうが黒かろうがカラスはたんにカラスでしかなく、息子自身が力強く生きていくしかない、ということです。
「調査票は、黒の鉛筆で記入してください。黒の鉛筆がない場合は、シャープペンシルで記入してください。」
いろんな意味でおもしろい。
我が家のNHKの人気アナウンサーと言えば登坂淳一さんであったが、最近見ないなと思い調べたら、札幌に転勤されていおられた。変わって今人気なのが、小野卓司氏である。お歳のようだが、後ろ髪が長いのが少し異質な感じなのである。解説委員ならばありの髪型なのだが、アナウンサーとしてはどうか。
ネットでリンクをたどっていき、「あれ?」と思う。趣味は古書漫画だとおっしゃる。NTT出版『描きかえられた『鉄腕アトム』』の御著者なのである。ああ、あの!小野卓司氏!びっくりである。手塚研究の最先端の成果は私は不案内だが、本書は漫画研究における文献学的アプローチとして、極めて有効・重要なものだ。
この学者気質。後ろ髪の長さは相応しい。
英国のブックメーカーによると、日本がカメルーンに勝ち、オランダには負けたが最少失点差であることで、オッズが随分変わったらしい。この英国のブックメーカー云々というのは、よく聞く話なのだが、実際にこれで賭けている人がいるのやらいないのやら、そういうことは私は知らない。
実はサッカーの話題ではない。本題である。大相撲が野球賭博で大騒ぎになっている。殺人、暴行、麻薬などをやってきて、ここに来て更に最大の山場なのであろう。が、おそらくそれも本丸ではないだろう。本丸は、推測するに大相撲自体の八百長&賭博である。「有るに決まっているよ!」とテレビじゃ言えないのだろうが、そんな純粋なわけはないよ(と結構思っているのではないか)と私は思ってしまう。名古屋場所の放送、または興業自体が白紙の段階だとも言われている。まあ必然的な帰結だろう。そう思うのは、特に私が大相撲ファンではないから、という理由はある。これは一応認めておきましょう。
元NHKの杉山さんがTVでコメントしているのを聞いた。杉山さんは当然、大相撲のファン(?あるいは象徴)である。曰く「大変悪い事だ。が、興行しないとか放送しないのはいけない。それでは、日本の伝統文化たる大相撲が広域暴力団に屈したことになってしまう。」
まず誤解の無いようにしたいが、私は杉山さんが好きだし、私利私欲のない真摯な人だと思っている。これはまず強調しておく。が、である。これは詭弁だよね。むしろ、一度、興業・放送中止したほうが、暴力団に屈しない毅然とした態度の表明になるだろう。どんなひどいことをしていても興業も放送も行うのだとしたら、そちらのほうが暴力団の思うつぼだろう。
しかし、問題にしたいのはそこではない。
杉山さんの詭弁は、伝統文化と広域暴力団を対立的に扱っているところである。神農道・任侠道・祭祀・興業・勝負事・賭博、いずれも同根であり隣接的・連続的な関係にある。すなわち、相撲もヤクザもテキヤも伝統文化である(よい悪いは別にして)。
もちろん、昔の話と今の話とは別だろう。ならば、近代とは何か、問題はこれである。たとえば個別に存在した暴力を国家権力へと集中し、善なる暴力と悪なる暴力とに分別したのは近代国家システムである。まあこれは確かに必要な事だろう(現実主義(笑)として)。同じ構造で、戦争は良いことでテロは悪いこととされている。殺人も国家によるものは正当であり、個人では許されない。さて、博打も、国が管理しているものは善であり、個人や国家以外で行われると悪である。しかし、こうして列記していくなら、だんだん区別すべき根拠が薄れてくるのは確かだろう。英国のブックメーカーと暴力団の野球賭博と、違いは誰が胴元かだけである。TVの解説によれば、野球賭博で掛け率を決めるハンデ師というのは、そのへんの野球解説者なんかよりすごい眼をもっているのだそうだ。あたら才能を!(笑い)。
さて。大相撲の野球賭博問題が、大騒ぎしているわりに、ぜんぜん人間的倫理のような琴線に触れてこないのは、こうした近代的前提の上での議論に過ぎないからだ。殺人や麻薬といった、生命それ自体(これは近代的前提を超えた問題である)を脅かすものではない。「暴力団の資金源になっている」と言ったって、暴力団のベンツや背広に消えている資金源だとしたら、まったくかわいいものだ。生命の問題や生命に直結する所有の問題ではなく、税金が取れないから国が怒っているといった、単なる国家の税収の問題に過ぎない。勿論、ピストルや麻薬に変わっていくなら大きな問題だろう。しかし、それはそもそもピストルや麻薬それ自体の問題である。
「暴力団の資金源になっている」と言う批判だが、それはちょっとおかしい。そもそもにしてから賭博は、伝統的にヤクザの仕事なのだ。賭博(英国のブックメーカーとかトトとか)は認めるが暴力団は認めない、というのは論理的におかしい。または近代的幻想である。
まあそもそも広域暴力団というのは無いほうが良いだろうことは私も十分そう思う。それが「平和な市民生活」を脅かすものであるかぎりにおいて。だから、暴力団は必要悪だなどという論調に私は与しないが、しかし、それは確かに光と影のようなもので、近代のシステムが大きくなればなるほど、影のほうも大きくなってしまう嫌いはあるだろう。経済の繁栄が格差容認(国外国内ともに)によって成されている、そういう「現実主義」と五十歩百歩であって、暴力団はそのバリエーションにすぎず、暴力団だけが独立して悪なわけではない。本当の社会悪はもっと別のところにある。そういう表裏一体のものである事を自覚して(反省して)、そのうえで事にあたるべきであろう。暴力団にチケットを取ってあげた事は裁かれるべき罪なのだそうだが、いわゆるかつての興行師というのが、今でいう「暴力団」なのだから、出世したので貧しかった頃にお世話になった親戚を足蹴にしているようなものだ……そういわれてしまうだろう。チケットをとってあげたがわ、すなわちドロボウにも一分の理はある。「いやそうではない。もはや大相撲はクリアな組織なのだ」と言いたいのであれば、伝統文化など名乗らず、純然たるスポーツだと言えばいいのだ。現状はねじれている、あるいは都合良く立ち回っている。それは卑怯だ(反スポーツ的行為)。
なんと言っても情けないのは、相撲協会の対応である。伝統文化はそれ自体では善でも悪でもない。ただ古いってことだ。そして、善悪は近代が決めてくれるものだなどと思い込んではならず、我々一人一人の中(およびその間)にしか、実は無い。これを根本として生きていくことが大切である。その辺の覚悟の無い相撲取りや協会が、なんとも哀れである。
2010-07-26 (Mon)補記
名古屋場所が終わった。優勝は白鵬という横綱だった。この間、元若島津の松が根親方らが、地方場所での部屋・土地の用意で暴力団(関係者)との関係が取り沙汰されて、追加的に騒ぎとなっていた。まったく「ヤクザに人権無し」である。人権は、近代においては納税とセットで保証される権利である。ヤクザにだって死刑囚にだって、当然人権はある。なければならない。そして、そもそも、地方での興行から土地まですべてそういう人の世話になってきたのが近代相撲の歴史というものであろう。「切っても切れないんです」と、なぜ言わないのか、と思う。表彰式では天皇賜杯と総理大臣杯が無かったそうだ。総理大臣杯は当然無いだろう。近代国家は、ヤクザといった国家権力以外の暴力的統治機構を認めないのだから。それとくらべて、我が美しい国日本の天皇制は、近代を超えているはずだから、有ってしかるべきだったのではないか。天皇制は、四民の外でもヤクザでも、臣民、天皇の赤子たることを保証してくれていたのではないのか。そしてそもそも、現在、本気(?)で街宣車を廻して万歳と頑張って(?)いるのは、暴力団の隠れ蓑たる政治団体の方々だけではないのか。……自分で書いていて、笑えます。
朝10時に党の議員総会で鳩山首相が辞意を表明、だという。昨日の夜、小沢・輿石と三者会談をし、マスコミの前で親指を立てていた鳩山首相だったが、マスコミはこれを続投の意志とだけ受け取っていたようだった。秘密はきっちり守られていた。
普天間問題にとりあえず(あくまで、とりあえず)ケリを付けたうえで、「政治とカネ」問題も含めて、責任を取るというかたちにしたわけだ。昨年3月の西松建設の折に、タイミングを見計らって小沢氏が代表を辞任して大成功したことを思えば、小沢氏は選挙前に必ず辞めると私は思っていた。およそ見事なタイミングで、首相・幹事長が辞めたわけだ。これがそのまま形勢逆転につながるとは思えないが、現在で最良の(彼らにとって)選択であったろう。福島瑞穂大臣を罷免したのもこのシナリオが出来ていたからで、自分も辞めるのだから罷免やむを得ずということだったのだろう。
実際、国民は、マスコミが言うほどには民主党・鳩山内閣をダメだと思っていない、とわたしは考えている。自民党の支持率は決して伸びてはいない。自民党自身が、多くの離脱者を生んでいるし、野党にまわって本命(しかし、それはだれ?いるのか?)を温存し(そこね)ている。国民は、自民党はいまだ期待を回復しておらず、民主党もダメだとなれば、あとはもう選択肢がないのだと思っている。だから、データ的な支持率ほどには思っておらず、民主党でもう少しやってみてほしいと思っている、ということなのだ。(なお自民党の本命は小池百合子氏ではなかろう。小泉進次郎氏だ。彼はカリスマだ。私は非常に危険なものを感じる)。
率直に気持ちを書くのだが。私は正直、残念である。普天間問題のまずさは、自分で期限を切ってしまったところにある。というか、そこにしかない、と思う。現行案・県内移設で決着したのは、民主党の中にも(自民党と同じく。そして、実は沖縄県内にも)、海兵隊が沖縄に居てほしいと考える人たちが居たからであろう。グアム移設がいくら実現可能なプランであっても、悲しいことに、絶対に無理だったのだ。
鳩山首相は、素直な人だ。びっくりするほどピュアである。政治家には向かないくらいの素直さだ。安倍元首相も似たような性格なのかもしれないが、政治信条的にわたしはまるで共感できない。頭も悪そうだ。鳩山氏には、それとはちょっと違うものを感じてきた。いや、ただ感じただけなのだが。私は鳩山にだまされたとは思わない(私は沖縄県人ではないが)。出来なかっただけだ、そう思う。諸般の事情で、理想は実現できなかった。走っている車(自民党時代から)をUターンはできない。それだけのことだ。
トップにリーダーシップなどというものを求めてはいけない。鳩山氏を、社会人としての基本的な資質にさえ欠ける、とみる意見がある。私はそれに与しない。政治家向きでない、嘘のつけないタイプの人が政治のトップにいる国。これは理想の国家だ。このタイプでつとまる役職は、トップしかないのだ。御神輿は、こういうタイプでなければいけない。トップに相応しい人物とは、誠実で倫理的な人である。それが理想の国家だ。(取り巻きは、きっちり嘘もつけたほうが良い。下手な嘘ではない。悪魔的な嘘でもない。むしろ、これが居ないことが民主党のダメなところではないか)。私は民主党の外交政策が良いとは全く思っていない。経済政策も、ハズシていると思う。しかし、これからテレビで、あの実直な受け答えが見られなくなるのかと思うと、それが残念なのである。
補記 2010-06-22 (Tue)
表紙が変わって支持率がV字回復したのもつかの間、その現実主義路線の前で、じわりじわりと下がっている。「現実主義」というのは、単に現状追認に過ぎないなどとは言わないが、しかしかといって、現実を誠実に見つめているなどというスタンスでは決してない。選択肢の内の一つのあり方にすぎず、それが正しい保証は実はない。このことだけは知っておくべきだ。
関連記事はこちらにあり、自分でもちゃんと考えてみたいと思ったので、(長くなりそうだから)自分のサイトに書くことにしました。
まず、大前提を申し述べますが、《文学研究者としての私》は統計的処理というものを全く信用していません。文学、美学・哲学、社会学、心理学などの諸方法が入り交じるマンガ研究の世界を垣間見て、改めて気づきました。文学的研究と社会学的研究の根本的差異はどこにあるか、という問題についてです。有る現象に享受的に関与する人間(文学なら読者、経済なら消費者など)を、個別的・質的な存在とみるのが文学研究であり、量塊的に見るのが社会学です。もちろん、研究の実質においてこれら方法論の境界は曖昧ですが、理念として、この区別は有効です。社会学やマクロ経済学は人間を量として換算します。ある品物を買う人間がいる。その人がそれをどう使って、そのためにどう変わったか変わらなかったか、といった質的な問題はすべて捨象してしまう。これが社会科学です。もちろん、批判しているのではありません。量的に扱うことで分かる学術的成果というものがありますから。
これに対して、文学研究(人文科学)において、享受者は質的に扱われます。ある特定の個人が存在しその人がある作品を読む、この一つの事実から出発するのが文学研究の根本的立場です。文学研究には、個別的・経験的読者しか存在せず、普遍的・理念的読者は居ないか、または研究結果として帰納されるだけです。とは言え、実際の研究においては、当時の読者は『日本永代蔵』をこれこれこのように読んだ(はずだ)、などと普遍的読者像を想定・前提しがちですけど。しかし私は、マンガ研究において社会学的アプローチに抗していくため(カッコイイ……と言ってる自分に笑い)、普遍的読者を前提としない立場を、ここ10年くらいで自覚しました。作品の意味は読者の中にしかない、というごりごりのテクスト主義者の私としては、この立場を堅く守っていく。文学研究のなかにもこの立場に反するプラトニズムは根強いですが、その代表とも言えるU・エーコのような「モデル読者」の発想(最も理想的な読者はこの作品をこのような意味で読んだ、と考える方法。そして、モデル読者を作品の意味の根拠に据える。これは端的にトートロジーです)は、私には断じて認められないのです。具体的には、古典に対する当時の読みを言うのであれば、実際にそのように読んだという事実(随筆などでの感想など)にのみ依拠する。それが発見できないのであれば、私がどう読むか、それにしか依拠するものは無い。当時の読みを注釈的に再構成するのは可能ですが(私も普通にやってますが)、それは統計学的処理と似たり寄ったりの真理でしかありません。そこにあるのは事実ではなく、説得性のみです。学問的にはそれも貴重な真理ではあるが、あくまで構成されたものであります。
とは言え、《日常生活を送る私》は統計学のもつ効力を十分に知っています。政党支持率の統計調査結果のとおり、7月の参議院選挙で民主党は確実に惨敗するでしょう。シュレーディンガー『生命とは何か』(岩波文庫)の中に、人体に対してなぜ細胞はこんなにも小さいのか、といった問いかけが書いてありました。一つ一つの細胞は不穏で意外な動きをする。しかし、極めて小さい(すなわち、数が多い)ために、全体の方向性としては生命体の目的性と均衡が保たれてるのだ、というのが答えらしい。すなわち、統計学の勝利である。統計学を信じないカッコイイ文学研究者(笑)であっても、この考え方は受け入れざるをえないだろう。
さて、本題に入ろう。問題は、こういう事だ。要素数の異なる集合Aと集合Bがある。要素数は2:1だとしよう。次に、時間とともにその要素数が減少していくとする。ある時点での集合A・集合Bの要素数は、元の2:1のままであろうか。
「減少」の内実が明らかにされなければならない。集合A・Bがともに平均・平等に減少するのなら、元の比率は保持されるだろう。元の個数が多く、かつ時間が一定以上の長さであれば、いっそう元の比率は保持されるだろう。統計で重要なのは、この点である。人体に対して細胞が極めて小さいように、もともとの数が多いことが必要である。そして、減少にさいして何か影響を受けるという点で言うなら、一定以上の時間・回数が必要だということである。世論調査がおよそ2〜4千程度とか、500とかで行われる事で言えば、2万という数は、十分にこの要件を満たしているだろう。
逆に、保持されない要因を具体的に考えてみよう。
上述の3点目が大きな問題であろうと思う。しかし、それもクリアされたと見なしておく。統計学の素晴らしいところは結局、こうして、「現存しているとはどういうことなのか」という質的問題(3点目の享保以前・以後という問題)を全く介入させることなく、それらをすべて捨象しうる、という点にある。「現存するための条件」だけ考えれば良いのだ。「浄瑠璃本は保存の対象だったかのか、だとしたら、それはいつからか」などという質的問題は、すべての浄瑠璃本に平等な係数でしかないのだから、統計学的には捨象可能なのである。問題とされているのはあくまで、浄瑠璃本のベストセラーであって、他ジャンルも含めて浄瑠璃本が売れたかどうか、ではないのであるから。
そもそも今回の御発表の浄瑠璃ベストセラーに関して、私が全く違和感を感じなかったのは、ベストスリーが『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『ひらかな盛衰記』と、きわめて常識的・穏当な結果だったからであろう。かつて近世文学会で浄瑠璃上演の統計的発表があって、それは上演回数を幕末までの年数で割るかした計算を行い、一位は幕末の佐倉宗五郎ものになってしまった発表があった。その違和感たるや、絶句ものであった。今回は全く違う。ただし、四番目の『国姓爺合戦』については、わたしはその作品の影響力を無視出来ないのだな、と思った。
他に、予備的な問題も記しておこう。近松門左衛門の世話物である。文学史の一般的記述として、浄瑠璃の代表作に近松の世話物が挙げられるのは偏った見方ではないか、という問題提起があるらしい。私が習った高校の文学史では、『曽根崎心中』『女殺油地獄』などとともに『国姓爺合戦』、そして竹田出雲の名前もあったのだから、それほど問題ではないだろうと思う。最近初版本が富山の黒部で見つかったのは(見付けたのは発表者の神津さん)、『冥途の飛脚』でなく『曽根崎心中』でしたね。失礼しました。初版本『曽根崎心中』の本文が、これまでの通行本と同じことが分かったと、私は新聞記事で読んだだけのダメ学者だが、正本なのだからそうなんだろうと思った。それはさておき、古い時代は、年数に比例した以上に、保存には不利であろう。やっぱり問題はここ、つまり上述の3にあるだろう。もちろん、発行部数自体も少ないのだろう(つまりベストセラーではなかったのだろう)ということはあるにしても、だ。この「享保以前係数」は統計学的にも無視出来ない気はする。
浄瑠璃にべったり関係しているのが、八文字屋浮世草子である。八文字屋本の主力も気質物ではなく時代物である。が、時代物の中にも案外、『曽根崎心中』、『心中天網島』、山崎与次兵衛、椀久などの世話物をネタにした作品がある。これを思えば、世話物の人気は、やっぱりかなりあったはずだ。しかし、人気と丸本ベストセラーとは、必ずしも一致しないのだろうとも思う。近松風の世話物(三巻仕立て)は、近松以降、代表作・人気作はほとんどない。新作が作られても、みな焼き直しである。近松門左衛門は不利であると今さっき書いたが、浄瑠璃本はロングセラー商品である。こうした世話物人気の継続を考えれば、本来もっと売れていて(すなわち残っていて)良い気もする。しかし、現実に現存していないのであれば、やはり売れてはいないのであろう。なお、浮世草子の登場人物の中にも浄瑠璃語りに熱中している人が出て来るが、彼らが読んでいるのは、まだ抜き本ではなく、丸本であろう。節もついており丸本は読み物だけではなく、素人の練習本としても使われているのだろう。
ベストセラーという問題。ベストセラーとは、決して譬喩ではない。それは端的に「売れた数」を意味し、それ以上ではない。人気とも必ずしも一致しないばかりか、読者の理解度(経験的読者の)や作品の質とも全く無関係である。上演の実入りとも無関係かもしれないし、後代への影響力とも相関関係が無いかもしれない。いわゆる文学研究的アプローチとは無関係である。しかし、ベストセラーという問題設定にはもちろん有効性もある。それは、本がかなりの大衆を相手に販売される対象であることを前提としている。寛政期に仮名付きの漢籍がベストセラーとなった、という具合に、多数・多層の読者層を前提としている。特殊な読者層しかいない(たとえば)和刻本漢籍のベストセラー、などという問題を立ててみても、結構むなしいだろう。漢学は大衆のものではないからだ。漢学の変容は一人の天才でもなし得るものだからだ。八文字屋本でさえ、販売と同時に担い商いの貸本で読まれているから、ベストセラーという問題は立てにくそうだし、実際、浄瑠璃正本ほど現存していない。浄瑠璃正本は、ベストセラーという問題を立てるに値する対象だと思う(貸本屋を通して読まれていても)。洒落本や黄表紙が江戸の知識層を対象としており、かつロングセラーを意図していないことを思えば、浄瑠璃正本ほどには適切ではないだろう。合巻や人情本もロングセラー商品とは少し違うだろう。だから、御自分がせっかく調査したのだからたまたま統計的にも処理して発表してみた、というものではない、ちゃんとした必然性があるのだ。
単純に思った疑問もある。
ベストセラーが、単純に、売れた数を意味するのであれば、版の数を問題にすればいいのではないだろうか。10行本と7行本とで板株も違うのですよね、たしか。そして、同じ板株でも、何度か版木を新しくしている。その版の数である。ふつう版木はダメになるまで摺るとすれば(3000部とか)、単純に版の数を掛けた部数を摺っていることになる。摺った部数と「売れた」部数はイコールでないにせよ、版を変えているのだから、ダメになるまで摺ったはずであるし、書籍の在庫もないのだろう(つまり、売れた)。2版なら2を掛ける、4版まであれば4を掛けるといった類の処理しか出来ないから、もちろんそれは概算でしかない。しかし、丁寧な調査において、それぞれの版の摺りの善し悪し、版元(相版元)の変化など、詳細なデータをお持ちのはずであるから、いろいろプロな処理を行えるだろう。そして、統計的近似値ということであれば、これで十分な気もする。
実際、ご調査によれば、ベスト4の『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『ひらかな盛衰記』『国姓爺合戦』は、7行本で4版まであるが、他の三作品の現存本のほとんどが4版であるのに対して、『忠臣蔵』のみ3版と4版が同じくらい多く(3版のほうが多い)、これは何を物語っているのか。『忠臣蔵』は3版で数を稼いでいるのだ。これはどういうことなのか。
浄瑠璃本の出版は、上方・江戸との提携関係、版権のありかた、様々な点で物の本(出版記録に残る)とは違ったデータを持っているはずである。近世の草紙出版の典型である。私が分かってないだけでなく、まだまだ分からない点もあるのだろうと思う。出版研究というのは、基本的に社会学、量の学問である。ただ、文学研究者がこれを行うことは、ちょっとした意味もあるはずである。ともかく、発表者の御著書は注文しました。勉強させて頂きます。
なるほど、これがやはりプロの知見ですね。現存数ではなく、摺った数自体が、『本朝廿四孝』は『ひらかな盛衰記』の四版分に相当する、ということですね。そして、『廿四孝』に後刷のひどい版面のものがけっこうある。こういうのは、数を実地に見たプロだけが言えること。逆に素人(の私)などが考えるのは、ヒット作品はひどい版面のままでも売れるということかな、と思ってしまいます。ま、あながち間違ってはいないだろう、『ガロ』の長井勝一氏は、戦後の赤本マンガ出版をしていたとき、錯簡があっても飛ぶように売れた、と証言しています。とまあ、単純な算術ではない、きわめて常識的・学術的見解に戻るわけである。すなわち、ヒット作品の版木は長く使われる、と。
この他、素人はそもそも、どのようなときに版が変わるのかも分かっていません。いや。浄瑠璃本の「版」の概念さえわかっていないことにいま気づく。浄瑠璃本は、おしまいのほうに作者連名があって、その後に、これは○○座正本ですという極めの文句と版元が銘記されるが(いわゆる刊記)、この刊記にやたらバリエーションが多い。使い回しもある。常識的な書誌学用語としては、刊記の違いは印(刷)の違いにすぎない場合もあり、他方、刊(版)とはあくまで本文の版木が異なることを言うのだろう。加えて、外題簽等に「再板」などと銘記してある作品も多いと思うが、これは、同じ行数の本からの再版もあれば、たぶん行数を変えたものも言うのであろう。ともかく、ややこしい。かなり作品によって個別的である。それから、版を変えるのは、何も版木がダメになったばあいのみならず、(謡本のように)正本の本文の変更とかも有るのかな。
正本の極め文句の部分(いわゆる刊記?)の使い回し、その実態調査も、出版研究的には有効でしょうね。これは、神津さんはじめ早稲田の方々がずいぶん以前から取り組んでおられた研究だったかな。
あとまあ、浄瑠璃本の調査の大変さは、本がかなり疲れている、刊記などの部分に欠丁が多い、とかにも有ると思う。読まれた結果だろうが、せっかく調べても、本それぞれが必須データを必ずしも完備していないのだ。表紙や初丁も後表紙や刊記も無い、なんて結構ザラ。でも、プロは、文章をちゃらっと読み、ノド丁づけの略された題を見て、すぐにどの作品か分かるのだ。20000という数がそのステージを用意している。すごい。
ともあれ、これらのことは、神津さんの著書を読めば分かるのかもしれない。あらためて結論――勉強させて頂きます。
上の追記で私は間抜けなことを書いているが、刊・印の理解は、そのとおりであった(よかった)。論文を読み、七行本は大坂系、十行本は京都系などと基本的な事を知る。これ、常識なのかな。僕も浄瑠璃本は見たことくらいはあって、竹本座は山本九兵衛(京都)、山本九右衛門(坂)、鱗形屋孫兵衛(江)の刊記を備え、豊竹座のものは西沢九左衛門(坂)、鱗形屋孫兵衛(江)の刊記を備える、これが早い頃の本だということくらいは知っていたのだ(その後、どっちがどっちだったかさえ忘れてたが)。つまりは三都版なんだろうと思っていたのだ。上述の常識は、祐田善雄氏の研究や、大橋先生の御論文、そしてその後、長友先生の御著書などで出版記録(一九九九年刊)と共に銘記されていくようである。僕が浄瑠璃本を見たことがあったのは1990年〜95年くらいで、その後は全く興味を持たなくなるので、そんな時期を考えると、私がばかだっただけでもないだろうと、すこし自分をなぐさめる。ははは。
さて神津論文だが、版元住所に依拠した刊・印の前後関係の考察は明証的で、そして記述も図版も過不足がなく、中身のややこしさに反して極めて読みやすいものになっていますね。この考察から、そのまま、大坂版の七行本(のみ)を表にしてみました。自分でやってみると、素人にもよく分かる。つまり、『忠臣蔵』の一版・二版は最初の15年間で役目を終え、三版がおよそ100年、四版も(第四刷が明治一九年印だそうなので)約50年の間、現役だったわけである。一・二版と三・四版の寿命の極端な差異は、何によるのか。また、これと残存点数の違いも興味深いものがあるだろう。ともかく、日本に流通革命・文芸革命が起こる寛政期(鈴木俊幸)が怪しいな。なお、刷の回数と、実際の部数には単純な算術的関数は成立すまい。この辺は、個別的(作品ごと)にじっくり論じていくしかないだろう。
また、素人が漠然と刊記を見ているだけでは、版元の連名は単なる相版にしか見えないし、たぶん前後関係さえ分からない。出版資料や先行研究を十分に活用しつつ、かつ、現存諸本を可能な限り集めて、初めてわかる結果なのですねえ。加えて大事なことは、まずは『忠臣蔵』のみならず他の七行本が作品の数だけ、こういう版木委譲の表に描けるということ(そこには、かなり明確に似たパターンが描けるはずだ)。次に、他に一〇行本も同じように存在しているということ。それら総てを見通す研究が氏によって達成されつつあるわけだ。驚異としかいいようがないな。これらの問題のかなりの部分は、御著書に書いてあるのだろう。いずれにしても、「ベストセラー」とか、キャッチーな事を言ってる場合ではないですね(笑)。ご研究の射程は、想像以上に広く遠くまで、だ。
『仮名手本忠臣蔵』大坂出来七行本全四版の板株移動と刊記の書肆連名(神津論文より)
吉川宗兵衛 刊 あと、気になるのは、ここで言われる開板と、他の相版者との関係ですね。単なる売弘めではないのだろう。山九は、板株を委譲した後も、寄生的に権利を持っていたんじゃないのかな。まあ、このへんについても御著書に書いてあるだろう。
この他、メモ(御著書につけば、書いてあるのかも)
演劇書を扱う本屋においても同様であった。江戸橋八日市上総屋惣兵衛は、「書林 本屋」の看板を出すが、次のような摺物交告がある。
義太夫丸本 俗ニとふし本
同じような内容を持つ摺物が東京大学教養学部図書館蔵本『善光寺御堂供養』の見返にも貼付されている。それは「辰七月 本屋仲間中」が出したもので、見料は「五冊ニ付五七日限り御戻し被下候」となっている。
○浄るり丸本 一冊ニ付十二銅(文)
貸本屋における主力商品が浄瑠璃丸本(俗にいう通し本)なのだとして、現存本において、貸本であったものはどのくらいの割合であるのだろうか(これは、貸本屋の印ですぐ分かるだろう)。これも知りたいな(貸本屋を経て、(たとえば近代にはいってから)個人蔵本となるものであっても)。また、貸本での享受が主流であったとすれば、我々が今日言う「ベストセラー」という概念とはすこしくずれるのではないだろうか。戦後、貸本屋を通じて享受された『影』『街』等の劇画の持つ影響力を、「ベストセラー」というかたちでは捉えられないように。『経典余師』はベストセラーだっただろうが、私は浄瑠璃丸本を同じように考えていた。
なお、貸本の次の主力商品が軍書であるのも面白い。貸本は大衆の読書のしかたであるとして、やっぱり大衆は浄瑠璃と軍書を読んだのだ。
とは言え、貸本研究の視点から見ていくと、近世の本はみんな貸本で読まれていて、個人で本を買わなかったような印象を持ってしまう。これはマンガ研究でも、同じような側面がある。
これと関連する話題。丸本は読み物、抜本は稽古用だというのは正しいだろうが、数は少なくても、例外はあっただろう。一例をあげておくと、『今昔出世扇』(八文字屋本全集・18巻27頁)に、浄瑠璃を自宅で竹本座の太夫から教わっている幼児の話があるが、挿絵があり脇の文字には「竹本今太夫じやうるり語る」「悴市松五才にてつれぶし」とある。太夫と子ども市松の前にあるのは丸本であろう(中央に題簽があるから)。そして、子どもはそれで練習しているが、その本は貸本ではないだろう。まあフィクションだが。
例外ついでに。長友『同書』59頁に、早稲田図書館蔵の『好色一代男』はもと城の崎温泉の貸本屋中屋甚左衛門蔵本で、巻六の見返しに読者による書き込みがあるという、曰く「長/\と面白からぬ物語」。一代男をつかまえて面白くないと言い切れる一般人を、私は尊敬したい。そして、社会学でない、文学研究的享受研究は、こういう具体的・個別的な読書経験の資料によって成立するのである。もっとも、これくらいじゃ何も言えないが(笑)。
長友先生の『浄瑠璃本出版の研究』は、研究室にあるので、月曜日に大学に行ったら見てみよう。
なお、抜本の出版に関しては、鈴木俊幸の研究があったが、抜き刷り、どこだったかな。なにかしらのモチベーションが無いと、論文って読んでも忘れるのだよね。
机辺を整理していて、あらためてまじまじ読んでみたのだが。中国が国家プロジェクトとして、中国古典の英文訳に取り組むそうだ。胡錦濤国家主席や温家宝首相が、これらの本を持っている写真まで載せている。そのパンフレットに曰く。
★本叢書の編集・出版に対し、中国の党と国家は極めて重視し、絶大な支持を与えた。極めつけの国家プロジェクトである。
特に確証はないが、この宣伝文はネイティブによる日本語ではないと思う。主述はねじれ、語感がずれていて、語彙にも間違いがある(極めつき、が正しい)。この程度の語学力・言語感覚で大丈夫なのか、心配になる。日本語はともかく、英語は得意なのかな。叢書のラインナップはほぼすべて、日本語版があるなじみのもの。現代中国語に一度直したものを再度英訳するくらいなら、いっそのこと日本語版を日本の学者に英訳させたほうがよっぽど良いものになるのではないかと思う。
世の中はカネで動いているという考え方をとりあえず受け入れるとしても、それを動かす利権団体は不変ではないということが分った、実感した、実現した、それだけでも政権交代を行った意義はこの国にあったと思うんだが、マスコミは、今の総理・内閣に対して、ぶれてる・腰が据わってない云々の宣伝を繰り返して、国民もそれに乗っかってしまった感がある。あっちもダメだがこっちもダメ。しかし、希望のなくなったそういう社会に対する不安は、意外と表面化していない。なんだか、国民全体が他人事のように考えているように見える。だいじょぶか。
基地問題ひとつとっても、前政権時代の宿題なのだし、アメリカとの約束を守らずズルズル引き延ばしたとして、そんな度胸(?)は前政権には無かっただろう。それだけでもエライと思うのだけどね。
「21世紀枠に負けて、末代までの恥」と言った野球部の監督が、辞任だと言う。
たしかに、愚かしいセリフではある。野球はよくしらないが、21世紀枠というのは、以前たいして強そうとも思えない柏崎の高校(我が郷土の近く)もこれで出場してたはずだが、決してお情けで弱小チームを出させているわけではないらしい。その趣旨を理解しない発言だろう。しかし、監督(部活顧問)を解任するほどの問題発言だろうか。高野連は、ともかく厳重注意なりをすれば良いし、したほうが良い。問題はこれを受け取った側である。この発言は、ありがちな、愚かな負け犬の腹いせ発言でしかないだろう。言論の自由に照らしてみても、本人なりが恥をかけば済むだけで、公共の福祉や公序良俗に反する明確に反する、というほどではないだろうと私は思う。島根県全体がこう考えているなんて、だれも想像しないだろう。
本件は、監督が勝利のために野球部員に無理なしごきを強要したとか、暴力を振るっていたとか、日常的に間違った価値観を教えていたとか、それらとはレベルが異なるものだ。強打者相手に全打席敬遠の指示をした(これは戦術以上の様々な問題を含んでいる)、よりもはるかに小さい問題だ。本件程度のバカは許されるべきである。
今、日本中で、瑣末な厳罰主義が横行している。
大人の対応なら、こうあっただろう。まず、当該高校の校長が、相手の高校にお詫びに行く。相手の高校の校長は、次のように言う。「いやあ、ひどい言い方だなとは思いましたけど、負けて気が立っていたのでしょうね。監督さんにはよろしく言っておいてくださいよ」。これが大人の対応だ。
そして、当該高校も、校長なりと監督本人なりとが、平身低頭謝れば良いのだ。謝るだけでいいのだ。もちろん、事の本質を理解しての謝罪でないといけない。島根県にまで迷惑を掛けた、という理由ではなく(こういう代表意識は、逆に鼻持ちならない)。罰として解任することより、発言の意味を自覚するほうが大事である。
当該高校は、なぜその監督を守ってやらないのだろうか。そうでなく、多少変わり者ではあっても、生徒(野球部のみならず)に信頼された教員であったなら、ちゃんと守るべきだろう。いや、そうでなくても、守るべきなのだ。もしも日常的に問題のある監督なら、それ以前に、きちんと指導すべきだろう。この監督は美術の教員でもあるらしい。どんな授業をしているのか知らないが、美術の先生は、少々変わり者くらいで丁度良いはずである。
厳罰主義は、不寛容(イントレランス)とセットになると、たんなる恐怖支配でしかなくなる。
スポーツの尊いところは、勝敗を通して最終的に勝敗を超えるところである。良い試合をして、勝者も敗者もなくなる。しかし、この境地に立つためには、勝つことと負けることをまず先に体験しなければならない。負けて、非常に悔しい思いをする。これなくして、最初から「勝っても負けてもいいんです」などと言っているのは、本当の意味で勝敗を超える価値をつかむことはない。《あんなやつに負ける、悔しい》、これを口に出すか出さないかは品性の問題ではある。が、そうした感情それ自体は、持つべき貴重な経験である。その悔しさ、恥ずかしさは、自らを強くしていく大切な経験である。この感情を持つことで初めて、敗者に対しても優しくなれるのだ。
しかし、そうした悔しさを、解任といった形で封じ込めてしまえば、俗耳に入り易い安直で型通りな敗者への気配り程度の、表面的な優しさしか育たないだろう。まあ、教員をクビになったわけではない。しかし、勝利しか考えてない高校野球の監督が、この失敗を通して、勝利とは何かまでを考え至る機会を逸してしまったとは言えるだろう。それは、このニュースを受け取る社会全体にとっても同様だろう。
煙草を吸っている生徒と談笑していて出場できなくなった高校があったようだ。これが、たとえばだれかに暴行したとかいう悪質なレベルと同じなのかどうか。談笑してたレベルで罰を与えるなら、そういう教育は、チクって仲間を売る子どもしか作らないだろう。
三月は別れの季節である。私が(正式に)論文指導を担当したのは、君で三人目だが、前の二人が学位を取れたのに対して、君の場合は、学位を取らずに満期退学する。生まれ故郷の教員の本採用が決まっての別れなので(かつ、才能有る美しいお嫁さんを連れてでもあるので)、何一つ悲しむべき事などないのだが、それでも私としては、失敗したなという思いが残る。君にとっても、それは多少あるだろう。満期論文も悪くはなかったです。
自分の経験としておもうのだが、教員を教員として成長させるのは、こうした失敗からだと思う。思うしかない、とも言えるが。前の二人は上手く行き過ぎたのだろう。君の場合は、能力的には前の二人以上にあったはず(あくまで、はず)だが、うまくいかなかった。
教員には、相反する二つの公準が存在する。
(命題1)生徒がダメなのは、すべて教員のせいである。
(命題2)教員は、生徒のすべてをコントロール出来るわけではない。
教員は、この二つの命題の挟間で、失敗を重ねて成長するのだ。「君は心の傷だから」。これは、今回ふと思い浮かんで直接君に言った言葉だが、某監督なみの暴言かな。お互い苦笑いである。君も、そういう立場に四月から本格的に立つわけだ。ざまあみろとも思う。それで少し私も救われている。
2010-03-26 (Fri) 補記/今さっき、一人目の個展を見てきました。良い絵が並んでいた、いいスペースでした。二人目は、この春から東京で、もう引っ越してしまったらしい。餞別を渡す用意はありますよ。
北大の川崎さんが、黒沢清作品の論文を書いておられるので、気になっていたが、いまようやく見始めています。メモがわりに感想などを書きましょう。
まずは、カメラワーク。一言で言って、経済的ですね。無駄がない。移動はしないか、あっても最小限、最短距離。これは、小津以来とも言える。
編集。むやみなモンタージュが無い(これも経済的である)。同じことだが、モンタージュでごまかしていない。最近のハリウッド映画の格闘シーンなど、すごい回数のモンタージュがなされていて、それを良しとしているが、これらは単なるごまかしである。
ストーリーは、理屈っぽい人なのだろう、理屈っぽい。あるいは、寓意的。ただし、ベタ(わかりやすいはず)なわりには、表現として非常に弱い。か細い。
役者の演技。あんまり演技していない。演技のうまい役者のほうが浮いてしまう。ただ、役所広司は上手いというべきなのか下手なのか、私はよくわからない。(私の観点からは、下手だと思う)。
見た作品は、まだ途中だが、以下見た順番通り。
CURE ストーリー的には、どーかなー、まいったなー、という感じ。こんなのでいいのか、という感じ。
LOFT ストーリー的には、……同前。川崎さんの論文のほうが作品自体よりよっぽど良い。CURE ともあわせてだが、洋画『シークレット・ウィンドウ』などとの類似点がすごく気になってしまう(つまり、2作ともまったく感心しない)。安達ゆみが上手かった。豊悦は、かっこいいなーといつも思っていたのだが、これはあんまりよくないな(この程度のかっこよさなのかもしれない)。舞台となっている草や森の緑色の彩度の高さがあざとくて気になる。
回路 ストーリー的には、前同。心理・幽霊的な映画かと思ったら、世界の破滅・パニック映画だった。落下シーンは1ショットで流していて、見どころ。逆に、モンタージュをたくさんつかった小雪がそれに出会うシーンは、ウザい。『リング』などでさんざん見飽きたかんじ。
叫 ストーリー的には、やはり前同。これらのホラー作品(?)は、洋画の華やかさや複雑さと比べても、伊藤潤二の想像力と比べても、かなり劣るのではないか。小西真奈美の泣き顔がすばらしく美しかった、これだけのためにある作品。なぜ妻を殺していたのか、そういう過去の原因が描かれないので、ストーリー的に弱い。
ニンゲン合格 主役の西島秀俊は、楳図『蟲たちの家』で見ていて、『LOFT』にも出ていたが、こういう演技で良いのだろうか。80年代以降の流行かもしれないけど。最後のほうの、冷蔵庫が落ちてくるショットは、見どころである。ごまかしがなく、たいへん素晴らしい。しかし、死んで終わりというストーリーは安易だと思う。
復讐1 ストーリー的には穏当、及第点(こういうストーリーで、駄作を作るほうが難しいだろう)。おもしろい。それなりに緊張感もある。ただし、暴力シーンなどは、北野武映画でさんざん見た、という感じもする。
復讐2 やはり北野武映画っぽい感じがするが、こちらのほうが面白い。弱小暴力団の親分が、大変面白く、はまり役。知らない人だが、『ニンゲン合格』のお父さん役の人であろう。両方あわせてストーリーは、暴力団も暴力も肯定しておらず、わりと教訓的。悪をのさばらしてもいない。私も、勧善懲悪のほうが好きだが、しかし、これでは弱い。なお、哀川翔演じる主人公は、過去を背負った男である。
トウキョウソナタ はい、きました。トウキョウソナタの感想を書くために、この記事を書いているのです。感動したわ。素晴らしい。ユーモアを交えて、力強く明快に現われている。役者も全員すばらしい。事前の情報一切無し(リストラされた父、という程度)。原作脚本付きだが、母親と長男のエピソードは、黒沢監督オリジナルの追加らしい。すばらしい。一口に言うなら、
そういうことだ。上にあげたどのホラー作品より、怖い。そして、リストラそのものより、それが家族にばれることのほうが、もっと怖いのだ。笑えるが、これが真相だ。
その意味でこの映画は、「崩壊寸前の家族」を描いているわけではない。家族ってのは、そういうものなのだ。実はまるで向き合っていない。これが普遍的な家族像なのだ。
とまあ、これはDVD付録のパンフレットにも、書いてあったことだ。
『叫』では、人を殺してしまっているという「秘密」が、本人の中での葛藤になっていない。『LOFT』では葛藤があるが、そもそも本人(豊悦)の責任ではない。ストーリーが弱く、感情移入できない(つまり、他人事だからまるで怖くない)。
秘密を告白する、あるいは自分で受け入れることで、家族を回復する物語は多いと思う。本作の解決はそうではない。
本作で、最後のピアノのシーン。途中でも何度も感動したが、やはりここがきちんとクライマックスになっている。余計なセリフはない。いじわるを言えば、「天才的能力(中学受験という新たな目標?に対応する)によって、家族が回復された話」ということにもなるかも知れない。そうではなかろう。ピアノの美しさそのもので、家族が救われたのである。あるいは、作品が救われたのだ。これはある種のごまかしだが、映画そもののが我々の問題を解決してくれるのではないのだから、これはこれで良いはずだ。
ドゥルーズの『シネマ2』をふたたび少しづつ読んでいるのだが、これは改めて書かれたベルクソン論なのだね、とよく分かる。
一般に、運動イマージュはレベルの低い表現で、時間イマージュがレベルが高い、みたいな理解だったが、ベルクソンを踏まえると、そういうことではないのだよ、と思う。ベルクソンは、二種類の記憶を区別した。身体化された記憶と、イマージュ想起。そして、二種類の再認を区別した。身体化された再認(すぐ分かる再認)と、記憶との回路を持つ再認(注意深い再認)と。身体化された再認は直接的に運動へと結びつく。知覚―運動機構としての脳=身体がこれである。注意深い再認は、知覚に対して、過去へと記憶を探しに行く。知覚と記憶との回路が出来る。この回路は、幾重にもかさなる回路となる。この時、運動は停止している。
たとえば、人混みの中で「あれっ、どこかで見た人だな」と思う。記憶を探り「学生かな、卒業生かな、研究会で会ったかな、近所のお店の店員さんかな」いろいろの知覚―記憶の回路が出来ている。「ああ、おでん屋の店員さんだ」と再認する。これが記憶の現働化(エネルゲイアへの生成)である。現働化されれば、次にそれは何らかの運動へと延長されていく。
ドゥルーズの言う運動イマージュは、知覚(刺激)が運動(反応)へと導かれるようなものである。時間イマージュは、現働化の失敗、現働化されきらない、潜勢態のままの回路の状態を言うものである。この、現働化の失敗こそが肝要(らしい)。つまりは、なんだかよく分らず、視覚と聴覚は、対象の表面を漂うだけ、という状況だ。
(この程度の読者を持ったドゥルーズがかわいそうである、と切に反省はしているが。まだ全部読んでないし、1はまだ入手してない)
ギャラリー点(金沢市)で、廣瀬陽子展を見てきました(3月6日)。描かれた対象は、TVで見るもので、実際に逢った人たちではない。ウォーホルのM・モンローなど、まずはすぐにシミュレーショニズムの問題が思い起こされるはずである。シミュレーション問題としては、前提は同じだが、二つの立場があると思う。(1)世界は、シミュレーションに囲まれている。本物との関係を回復しなければならない。(2)世界は、シミュレーションに囲まれている。本物はもはやどこにも無い。
この二つには共通する公準というものがある。どちらも、対象を真偽の問題(知的な問題)で捉えている点である。シミュレーション(シミュラークル)でない本物が、あろうと無かろうと、その在・非在において立ち止まっている、ということである。世界には本物などもう無いのだ、と言っているだけではだめだ。こちらが本物なのだ、と見せてみるのもダメなのだ。シミュレーションという問題設定の前で、その表面で立ち止まっている(シミュレーションという時間イマージュである)。そうでなく、この問題自体を無効化しなければならない。
なお、ドゥルーズの解決法は、(1)と(2)のいずれでもない。シミュラークル自体が力能(パワー)だというのだ。これはアリス論『意味の論理学』から書かれていたものかな。偽であることの力能だ。私は、これが実はぴんと来ない。真偽の問題を超えてしまったほうが良いのではないかと思う(その点、私は真のほうの立場に立っているのかも知れないが)。
私の思う解決法は、本物があろうが無かろうが、私はその刺激に対して何らかの行動を起こす、というむしろ運動イマージュの宣揚の立場である。絵で言えば、何かを描く、ということだ。ともかく、何かを見て、そして描く。「鮮やかな見え」(鈴木良平)についても触れておこう。描く事に何らかの必然性・根拠を与える(ことになる)「鮮やかな見え」そしてそうした対象との出合い、これは有るに越したことはないが、こういうものを求めてはいかんのだ、ということではなかろうか。描くことに根拠を持たせず、ただ描くこと。肩の力を抜いて描くこと。ただ呼吸するように描くこと。日常の中で。廣瀬陽子はそういう絵が描けるようになったと思う。などと、偉そうに描いてしまったが、私も、そういう風に絵を見ることができようになった。実際、作品そのものは、対象の(再認の)エネルゲイアにとどまらず、日本画画材のディナミスにもあふれている。
2010-03-10 補記『シネマ1』、入手しました。これ、ベルクソン注釈としてもすごい明快な本だという印象。こっちちゃんと読まないといけませんね。
「襤褸(ボロ)は着てても心の錦」とか言う。あるいは、いわゆるツッパリ風の若者が電車で老人に席を譲る姿を見たりする(僕は高校生の時、祖母と東京に行って、この体験をした)。
国母選手は、記者会見でふてくされていないで、「スノボーは、腰パン文化なんです。これが正装なんです。これも含めて、スノボーを世界に認めてほしいと思っているんです」てな理屈で、オトナをぎゃふんと言わせてやれば良かったのだ。そういうことができないといけない。これとて、「心の錦」を知的(というよりはある種の屁理屈だが)で代替しているだけなのだが、相手(マスコミや大衆感情やら)は、そこまででさえないのだから、屁理屈でぎゃふんと言わせてやればよかったのだ。そうしたら面白かった。亀田興毅は、親父さんの一件でたたかれた際、これが出来た。そして、プレイの質は当然としても、石川遼のすごいところはそこだ。大人(マスコミ)もびびってしまっている。私は、「キレてねぇよ」とつぶやいた石川遼が大好きだ。大人と対等に渡り合うことと、大人に迎合するのとは全く違う。
菅木志雄展から帰ると、今日は『崖の上のポニョ』が初めてTV放映される日だという。大学院時代の後輩の近藤君から、「あれは世界系ですよ。世界を救う話なんですよ。面白いとも言えないけど、面白くなくもない。まあ、見て下さいとしか言いようがないようです」ってな事を言われて居たので、気にはなっていた。「人魚姫ってことになってますが、あれは道成寺ですね。」とも言うので、非常に興味があった(ま、結局見なかったわけだが)。
是非見ようと思って構えていると、まずは事前の宣伝番組などをやっている。家人に確かめると、本編(笑い)は9時からだそうだ。しばらく宣伝番組を見ていて、ほとんどのシーンを断片的に流している。だいたい分ってしまう。波を擬人化しているそうだが、なんだか今更ながら宮崎駿がディズニーを真似ているのではないかと不安になる。番組のゲストがいちいちうるさい。
ばかばかしくなってきたので、自分の仕事をしたりする。
九時になったので見始めるが、親子関係がクレヨンしんちゃんみたいなテイスト(みさえというかわりにりさという)で、かつ話も進まず、すこし寝てしまう。トイレに立ったのをきっかけとして、まだまだ話は進みそうにないなと思い、また自分の仕事をする。一時間くらいして、また見ると、町はもう海に沈んでいた。どうやら、ポニョが波に乗ってやってくる部分を見逃したらしいが、あまり残念でもない。ポニョの母親という人も、もう出ずっぱりになっている。クレヨンしんちゃん(を行儀よくしたような)子どもとポニョがローソクのポンポン船で、沈んだ町を渡っている。ポニョは魔法が使えるのだそうだ。さっきの宣伝番組でも言っていたように、この水没した町を散歩するのは、『パンダコパンダ雨ふりサーカス』でもやったネタである。同作は、84年くらいか、大井武蔵野館で見ている。『パンダコパンダ』は良いとして、世界の破滅(の兆候)なのに、ピクニック気分である。こんな描き方で良いのだろうか。途中を見ていないためかどうか、クレヨンしんちゃん(を行儀良くしたような)ソウスケ君とポニョが海底の父母のところへ連れて行かれ、「ポニョはおさかなだけど好きだ」とか言って、世界は救われてしまった。完。
こんなに簡単に世界が救済されて良いのだろうか。人間以外も愛しましょう、という話だったのかな。
宮崎アニメは全部見ているわけではないが、少なくとも日本人の誇りだとナショナリスティックな感覚でこれまでずっといた。違和感も多少はあったとは言え、このナショナリズムはそうした違和感を打ち消してきた。しかし、抑圧されてきた違和感が一気にいま噴出する。
まず、「主人公は五歳の男の子」というが、実際、この子はまるで五歳なんかじゃない。極めて都合良く、幼くなったり、大人びたり、道理を弁えたり、その場その場で(作家の希望通りに)自由自在である。これは卑怯だ。それはちょうど、三角塔の端っこに追い詰められたコナンがラナを抱えて跳躍するが、身体がビヨヨヨヨーンとなるだけで無事でした、みたいなご都合主義的な問題解決法と同根である。
私は、ストーリーの面白さでは『ラピュタ』が好きだし、世界観では『ナウシカ』だな、と思う。画面の迫力(特に浮遊感や移動)では、『狸合戦』の冒頭、狸らが坂を駆け下りるシーンだけで涙があふれたし(笑い)、『千と千尋』の冒頭の自動車のシーンだけで満足した(あとはどうでもよかった)。『耳をすませば』(だったかな)の木陰・木漏れ日の映像に驚嘆した。『狸合戦』の図書室の書架の移動シーンも感動した。が、つまり、映像的には毎回見所があるが、ストーリー的に感心したのは『ナウシカ』『ラピュタ』どまりである。音楽は毎回良いし(ただ、あざとすぎるともおもうが)、声優も『トトロ』の糸井重里をはじめ、キャスティングのセンスは並外れているなと舌を巻く(糸井重里が、あんな良い声を出せるなんて、だれも思うはずがない)。
『ナウシカ』も世界の救済の話、いわゆる世界系であった。世界を救う一人の少女の話のようでいて、実際、世界を救っているのは地球の自浄作用、つまりは人為を離れたところでなされているのだ。『ナウシカ』にはそういう根本的な謙虚さがあったと思う。深く深く、いつまででも考えさせられる思想がそこにはある。一口に言えば死と再生のテーマかも知れないが、かなり深い。そして、理想郷・ラピュタは科学のディストピアであった。しかし、それと比べて『ポニョ』は一体何だ。世界的にヒット(したのかどうかは知らないが)させるためには、あまりに良い作品ではむしろ成功せず、かなりダメダメにしないといけない、そういうアメリカ・ハリウッド的な匂いがぷんぷんする愚作である。宮崎駿の世界の救済思想はここまで地に堕ちたのか、と思う。こんな簡単に世界が救済されるのならだれも困らない。この一つ前、『ゲド戦記』がこけた分を取り戻すために御大が出張ったのだろうことは、特にジブリファンでもない私でも分る。ジブリ内では”ゲドセンキ”は禁句なのだろう。しかし、こんな『ポニョ』よりダメな『ゲド戦記』とは、一体どのくらいダメなんだろう。「命を粗末にするやつなんか、きらいだ」というキャッチコピーがかなりバカにされていたと記憶するが、「ポニョ、ソウスケ、大好き!」のほうが、似たところはあるが、はるかにひどいと思う。
「好き」であれば世界は救われる……これで済むなら、ばかばかしくて、まじめに考える人間はなくなるだろう。
片町という金沢の目抜き通りにラブロという大和デパート系のビルがあって、かつては繁昌したのだろうが、ここ最近は閑古鳥が鳴いている(らしい)。らしい、というのは私は滅多に行かず、よく分らないからだ。B1にはビレッジヴァンガードが今でもあって、ここにも今はあまり行かなくなった。そして、1〜4階は全く用がない。10年くらい前まで、3階だか4階だかに加能屋という金沢の古書店が入っていて、それが有った頃には私もちょくちょく行っていた。加能屋が撤退したのは、同店のご隠居さんが言うにはビルの経営者だか経営方針だかが変わって、完全なファッションビルにしたい、古本屋は方向性が違う、ということだったらしい。たぶん、加能屋が有った頃のほうが、ラブロに広い年代の人が集まっていたのではないだろうか。ファッションビルとは言え、二〇代前半までの女性客のみがターゲットなのだ。しかし、その後は、ユニクロやABCマートが入っており、私が思うに、それはどう考えてもファッションビルではなかろうと思う。しかし、2年くらい前だか、それらまでも撤退して結局、空きスペースになっていた。これを金沢市が買い取ったのだか、借り受けたのだかして、今は、金沢市の観光案内のようなスペースになっている。なにせ金沢の中心街のビルだから、空いたままにはしておけない、ということらしいのだ。
途中経過は省くとして、そこに金沢美大のアートギャラリーというコーナーが大々的に出来て、その第一回展覧会が菅木志雄展だというわけである。菅氏は周知のとおり「もの派」の作家の一人であるが、今年度から金沢美大の大学院教授でもある。
昨日2月5日が、オープン前日の内覧会ということで、出かけてきた。金沢で菅木志雄作品がこれだけまとまって見られるという事がまずすごいのだが、作品も大変良かった。良かったので、感想を書いておきたいと思う。
「シンプル」という言葉があるが、この言葉の意味がよくわかった。作品をじっくり見て、その「シンプル」さに、心が洗われるようだ、と(まあ少し凡庸な言いぐさかもしれないが)思った。作品はたくさんあったが、決して、「いわゆるシンプル」とは違う。幾種類かの物体が複数有って、それを組み合わせる、というのが作品の基本的特徴である。たとえば、大きな筒、角材、鉄パイプ、といった種類の物体がそれぞれ複数有る。角材を花のように生けた(?)筒がぽんぽんとおいてある。その角材の突端を鉄パイプで繋いである。鉄パイプと角材とは、よく見ると木ねじで留めてあるが、角材は筒にいれっぱなしで、だから傾いている。筒、角材、鉄パイプ、みなそれぞれ長さもアトランダムに違う。筒がおかれている場所も偶然としか言いようのない位置であり、角材も筒に生けた(?)状態のままだから傾いている。木ねじで留めてあるとは言え、雰囲気としては、角材の上に鉄パイプを渡してみて、ちょうど良い長さで切ったようにも見える。実際は、綿密に計って構築しているのかもしれない。が、極めて不規則で偶然的に見える。で、問題はここだ。偶然的なように見えて、その形でしかあり得ないようなタイミングで作品が静止しているのである。
太い角材の上に生木を渡してある作品も、同じ趣旨である。これは図録で見たことがあったが、さっきの作品と並べられていて、簡単に言えばバリエーションなんだろうが、作家の明晰さがよく分るという思いがする。以前、ゲルハルト・リヒターを見て感激したときと、同じ気分になった。作家が何を考えてこれを作ったかは分らないけれど、作家の中に明晰な意志がある、ということだけはよく分るという、作家の明晰さに打たれる気分である。
私が今回分った「シンプル」さというのは、不規則ゆえ一見複雑そうに見える構築物が、実は複数の単純な要素・材料の組み合わせから成っている、という意味でもある。が、もう一つ、より重要なの点はこちらである。すなわち「シンプル」さとは、この作家の意志が直接作品となっている、その様相を言うものである。リヒターの時とやはり同じように、これは知的な興味なのかもしれない。が、その意志の明晰さに「心が洗われる」という思いがしたのである。そういう意味で「美しい」とも思う。
その明晰さとは、偶然のなかで唯一を選択する作家の意志であろう。簡単に言えば、ここしかない、これしかない、他は要らない、無駄なものはなんにも無い、そういう明晰さ・明確さである。
菅氏は今、金沢美大の大学院教授だが、その前任者でいらしたのが篠田守男先生である。私は、篠田先生に大変親しくしていただき、実は篠田作品を持っている。小品ながらブロンズのちょっとかっこいい作品もあるのだが、もう一つお気に入りのものに、篠田先生の金沢のお宅にお邪魔した際、「ちょっと遊ぼう」と言われて、方眼紙に赤い丸シールを点々と張ったことがある。それをそのまま頂戴した作品である(サイン入りだぜ)。この時、「どうやって決めて張るんですか」と聞くと篠田先生は「いやもう、感覚。」と仰った。間隔ではない。そんなもんかと思ったが、篠田先生のほうがやっぱりさまになっている。まあ当然だ。私の方はありきたりっていうか、あるいはぎこちない。張る位置を決めるその行為は、その時は分らなかった。が、菅作品を見ながら、この時のことを私は思い出していた。
話を戻そう。この他、小品で、木の板を二枚、段差をつけて重ね、一辺が三〇センチくらいの正方形を形成している作品があった。壁掛け作品なのだが、正面部分だけ真っ赤にペイントしてあり、四方の縁に沿って釘が並んで打ってある。釘は根本まで打込んでいない。二枚の赤い板の段差を超えて、高さを揃えてあるのだ。偶然的に重ねられたような板と、正方形・高さの揃った釘という秩序との対比。偶然(すなわち自由)の問題と、それに拮抗する必然性(存在と意味)が、この作品で穏やかに融合している。小品の中ではこれが圧倒的に良い。「これが一つの理想世界です」。作品はそう言っている。
私が感じた、菅木志雄展の最も面白いところは、この偶然と必然との調和である。相克ではない。穏やかに調和しているのだ。その穏やかさは、ある種、死のような穏やかさと言っても良い。偶然と必然の調和が死であるということを、批判のたねにすることも、おそらく可能であろう。私自身、死に憧れはない。先程の、筒・角材・鉄パイプにしても、生けてあるだけの角材は、そして(木ねじで留めてあるとは言っても)角材の上に渡された鉄パイプは、もっと不安定な感じを醸し出しても良いはずなのだ。視覚的には、不安定なはずのそれらの物体の関係(生けてあるだけ、載せてあるだけ、ということ)はよく理解出来る。にも関わらず、触覚(視触覚かな。触っていないからね)的には、完全に静止している。死と再生などというテーマではない。永遠の死である。
この静止した感じは、たとえば合板の一部をえぐって、えぐっていない部分のみペイントしてある、絵画のような作品にも言える。合板をえぐってあるから、木の年輪の如く、層が見えている。えぐった形もえぐり方も、鑿(のみ)で手でやったのであろう、不定形である。にも関わらず、手作業の持つ生命感が全く消されている。
木材で長方形の枠を作り、枠の中に下から順々に木材を積み重ね、上のあまった部分には斜めに木を渡してある、木の壁のような直立した作品もある。木材は全部同じサイズだが微妙に揃って居らず、積み重ねられて隅などには透き間もある。オレンジ色にペイントされた部分もあり、そもそも十分乾燥させた木材なのだろうし、木が反ったりするわけではないだろう。が、この木が反るというような運動を全く感じさせない。作品は完璧な形で、自存している。木の枠に土嚢を積み上げていって壁を形成した作品も、同様だ。明晰。
こうした作品に比べると、入り口にどんとおいてある、四角い石材と古木材とを交互につないでコの字に並べた大きな作品は、ちょっと生命感があるが、それは石の切り出されたままの表面が持っている印象のせいだろう。前述のとおり私は死に全くの憧れを持たないが、むしろこの生命感のほうが邪魔に思えてしまう。カルダーのモビール作品の現物を、去年、田中信行展の帰りに富山県美術館で初めて見て、わあこれが特定の形態を持たない(形態からのがれた)彫刻か!と感動したが、今回、菅作品を見て、そういう動き・運動のほうが邪魔に思えた。
言葉や意味は世界の必然を作り出す因子である。必然に対抗する手段として、運動を喧伝するのではなく、むしろ静止の中ですこしづつ必然ならざるものを探ろうとする。先に動けば負けである。動いているつもりで、実は必然によって動かされているだけだからである。静止の中で、一瞬の隙を見逃さず、一太刀(ひとたち)だけ振り下ろす。必然としての一太刀。しかし、それがこの作家の自由なのだろう。
最近、何度か「視触覚」という言葉を目にした。ドゥルーズの言葉らしいが、知らなかったですね。美術の分野で使われているので、たぶん『感覚の論理』であろう。訳書をぱらぱらとめくってみて、だいたい分った(適当なやつですね)。
一般に、「視触覚を感じさせる」のが良いことのように言われているようであるが、どうも、そうじゃないだろう、という気になりました。ドゥルーズが言っていることは、単純化すれば非常に単純で(トートロジーだからこれは真である)、《コスモス―カオス―カオスモス》、これが基本である。秩序―混沌―混沌イコール秩序、これである。ただし、正―反―合の弁証法ではない。すなわち、カオスモスは同一性ではなく、常に動きつつ流れる差異性であるということ。この点だけを気を付ければ良い。
(この程度の読者を持ったドゥルーズがかわいそうである、と切に反省はしているが)
視触覚という場合、視覚=秩序を根拠づけるもの、触覚=混沌、という前提があり、その上での、カオスモスの美術版が視触覚である。だから、安易に使えない概念だなと思う。視覚=秩序、触覚=混沌という前提が、ほんとかどうかかなり疑わしいからである。視覚には視覚なりの混沌があり、触覚には触覚の秩序があるだろう。ドゥルーズを美術評論に使う場合、ここで言う視覚・触覚を実体や実感のように考えてはならず、あくまで比喩としてつまり秩序的なものの比喩としての視覚支配、混沌的なものの比喩としての触覚、と理解しておかなければならない。そうでないと、「視触覚」は、「見ただけで触った感じも受ける」というだけのことになってしまう。「見ただけで触った感じも受ける」とか「水色は冷たい感じがする」は、極めて常識的な感情の反射(affection)に過ぎない。そこに特段の価値はないだろう。感情(affection)とは、語源通り、刺激に対する意識内での多様な反射なのだ。むしろ、こうした反射を排除した、純粋な視覚・純粋な触覚を実現するほうがよっぽど難しく、不自然なのだ。
加えて、触覚というものも、極めて秩序的な側面をも持つ感覚である。その最も極端な例である「点字」はさておくとしても、柔らかい・堅い・ぐにゅぐにゅ・ぬるぬる・すべすべ等々、触覚を言語に置き換えることはぜんぜん不可能ではないし、ひとつひとつの触覚にはそうした言語的秩序からはみだした差異性・個別性があるにせよ、それを無視してわれわれの日常生活は十分に成り立っている。これとちょうど逆の関係で、視覚が最も対象を認識する際に適した感覚のように思われがちであるが、錯視の例は持ち出すまでもあるまい、視覚的認識からはみ出す差異性を対象は常に持っている。
先日(11/23)、富山県入善町の発電所美術館に、田中信行展を見に行った。強烈な個性を持つあの建物の中で、展示形式はむしろオーソドックスに、作品がぽんぽんと置かれている感じである。が、その空間がぜんぜん間延びしていない。むしろ、作品が多すぎるかなと思うくらいである。作家・田中信行は私の勤務校の同僚でもあるから、けなすより誉めたいのであるが、ほんと素直に誉められる作品で助かった(いや、こんな言い方をすると誤解を招くだろうが)。私は美術は素人だしかつ学者(理屈の人)だから、たとえばG・リヒターのような、極めて分りやすい作品(私にとって)でないと、さっぱり分らないのだ。さっぱり分らないと、誉めようも無い。こういう私に誉められて作家は悦んでくださるとは全く思っていないが、私自身は、その作品の「分りやすい」ことに、感動できるのである。学者は言葉で対象を作り直す人たちなのだから、漆で作品を作って納得するのと、構造は同じである。百パーセントの納得ではないにせよ、この達成感は学者にも許されるだろうし、むしろそれが糧である。
なお、リヒターについては、この頁の「よく分かった、ゲルハルト・リヒター」を御覧下さい。
展示作品の中では、インサイド・アウトサイドという作品が決定的に良かった。Uの字に湾曲した二畳分くらいの不定形(おおよそ四角形だが不定形)の物体が、朱色の漆と黒い漆で鏡面のように磨かれていて、床に置かれて自立した作品である。湾曲しており、形も不定形だから、直線的な要素(線そのもの、または運動)を全く持たない。その湾曲度合いも、おおよそU字型ではあるが、なだらかにでこぼこが無くもなく、その鏡面に直線が映り込んでも直線として反射されない。そして、最も重要なのは、塗られ磨かれた漆である。そうそう、田中は漆の作家である。黒い漆とその下に塗ってあって磨きでうっすら出てきている朱漆と混ざっている。それだけでも美しいが、その美しさは、いわゆる伝統工芸の美しさに過ぎないし、漆自体が持つ美しさにすぎない。一般に鏡面は光を反射する。二メートル以上離れれば、その作品が何であるか、視覚的に認識することが出来る。しかし、Uの字の湾曲は、真上から見てUの字なので、われわれはその内部に立つことが出来る。ここから、この作品が劇的に変化するのだ。音楽記号のフェルマータで言えば、作品が半円弓型の部分、私は中の点である。そこに立つと酔いそうな感じになる。先ず、黒い鏡面に対して全く焦点が合わないのである。もちろん視覚が酔いそうな感覚をもたらすことに何か価値があるわけでは全く無い。感覚の反射(affection)は日常茶飯事である(とはいえ、この視覚が失われる感じ、闇の感覚は、少々インパクトがある。目を明けていて、何も見えない感じ)。それでも、焦点が合わないにもかかわらず、私にはナニカが見えている(目を閉じていないのだから)。実際、黒漆やその下の朱は見えている。漆という素材は、そもそも、ドゥルーズ臭く言うと、「襞」である。襞とは、内在的な高さ(超越)である。超越(コスモス)―内在(混沌)―襞(カオスモス)である。漆で言えば、表面であるにもかかわらず、奥行きが感じられる微妙な透明感のことである。もっと簡単に、即物的に言えば、表面そのものでも、木地そのものでもなく、表面と木地との間に無限の距離を作り出してしまうような半透明感である(理屈臭い言い方だが、これは漆を見ればすぐわかることだ。ただし、透明感が全く無くて、表面そのままの漆製品もけっこうあるのかもしれません。それから、「木地」と書いたが、田中作品は麻布に漆を塗る、広義の乾漆技法であって、木材に塗っているわけではない。それと、いわゆる「造形芸術」という点では、木地なり乾漆なり、そのフォルムが問題になるのかも知れないが、田中作品においては、私はフォルムなどに全く意識は行かなかった。フォルムなんかどうでもいい。ただし、本作品の鏡面反射を実現しているのはこのU字のフォルムではある。その意味でのみ、このフォルムは偉大である)。さて、この作品がすごいのは、そうした漆自体が持つ襞的な性質を、作品自体がシミュレートしているという点である。シミュレートが嫌な言葉だとすれば、漆という素材それじたいが作品存在とアナロジカルな関係にある、と言い換えても良い。素材の性質が、作品の存在を体現している、ということだ。ただし、作品がドゥルーズの襞概念(漆)を体現しているからすごい、と言ってるわけではない。ただ、ドゥルーズの襞概念は、いろんな意味で(どのようにかは省略する)重要であるし、いろいろものを考える際に良い視点を与えてくれるものである。さて、作品の中に立つと、さっきも書いたように、焦点が合わなくなる。それは、漆の黒、曲面であること、その二つの相乗効果によるものであろう。反射は漆の表面で行われているにもかかわらず、私には、反射像も認識できないし、反射基体(作品そのもの)も認識できない。しかし、何も見えない(闇しか見えない)わけではない。これは、視覚へのかなり根源的な挑戦である。おそらく、ガラスや金属でこの曲鏡面を作っても、この効果は出せないのではないかと思う。ひずんだ像が見えるし、どこで反射しているのかも分かるだろう。漆のこうした作品のみが、この私と表面と像との三者の位置取りを無限化してしまうようなもの、つまり襞的な関係を作り上げるのである。漆という素材が持つ襞の無限が、作品と鑑賞者との関係そのものなのである。
曲線についても一言触れておこう。ここに描かれた(映りこんだ)曲線は、すくなくともJ・ポロックがしたたらせた曲線よりも、はるかに、完璧に「自然」である。ただし、自然の草や木が作り出す曲線とは違って、人為が到達し得た最大の曲線である。リヒターは「鏡は完璧な絵画である」と言ったそうだが、田中のアウトサイド・インサイドは、鏡と曲線とを一挙に実現している点で、ポロックとリヒターとを同時に超えている。もちろん、超えていることに特段の価値はない。後に生きている人なのだから、超えていなければ困る。とはいえ、なかなか超えている人は少ないだろうし、問題の所在を分っている、あるいは感じている人も少ないだろう。
私は素人なので、私の興味という点で、作品と鑑賞者の関係を最も重視してしまう。どういう関係を作りあげる作品かどうか、それが一番の興味である。「美」という観念などはまるで二の次であり、そもそも「美」など、個人の趣味(しかも本人の限界が恥ずかしいくらいにあらわになる)でしかないと思っている。もちろん、私なりの「美」はあるにしても。
「私は素人だから」という言い草を、卑怯な感じに聞くひとがいるだろう。そんなつもりは全く無く、私は卑怯ではなく、むしろ傲慢なのだ。素人は、歴史的背景や素材的知識など気にする必要はなく、自分なりに好き勝手に見る権利を持っている。ただ、単なる傲慢に終わらないために、自分に発言のリスク等を引き受けて責任を持ちさえすれば良いだけである。最も心配しているのは、作品タイトルをしっかり覚えていなかったことである。タイトルなんて気にならない作品であった、とこれは言い訳。
補記 (2009-12-07)今日、田中氏から展覧会パンフレットを頂いて、作品名を確認しました。Inner side-Outer side でした。内部と外部ですね。境界ですね。インサイド・アウトサイドじゃ、サッカー用語だな。失礼しました。
鳩山総理の国連演説。オバマ大統領やブラウン首相などと比べて、遜色ないと思う。絵になる。「鳩山イニシアチブ」というネーミングも、ストレートでたんにそのまんまであるが、かっこいい(今回は―チブが正しいのでしょう?)全く恥ずかしくない。
小沢一郎でなくて正解だったと思う(笑)。
鳩山一郎は、京大滝川事件の時の文部大臣なのですね。先日、黒澤明監督の『わが青春に悔いなし』を見たあとで調べて知った。それにしても、本作に出てくる原節子は、どの小津作品の原節子より良いです。そう考えると、小津監督はやはり悪い独裁者なのかも知れない(これも、笑)。
CO2の25%カットについてだが、経済界が反対していると言う。世界の企業が日本から撤退して、日本の作業が空洞化する、と言う。全く以て、こんな考えではダメだ。
温暖化対策や資源問題は地球の問題である。稼げる場所がなくなってドロボウが日本から撤退する、という論理でしかない。
日本の自動車産業は世界一である(だった)。新幹線などの鉄道技術もそうだった時期があろう。古くは零戦などの戦闘機にもそんな頃があった。IT技術だって日本はかなり進んでいた筈であった。戦闘機はすぐに追い抜かれたし、IT技術ではアジアの隣国と比べても完全に遅れをとってしまった。
次に人類に不可欠となる技術はエコ技術であるに決まっている。ドロボウまがいのヤラズぼったくり連中は、いずれ地球上から消え去らねばならない。IT技術で完全に失敗した日本産業界の再生のチャンスである。ヨーロッパに負けるな。
ついでに、連休明けで、いろいろ書きたいことがある。まずはシルバーウィーク。私は、文化の日前後をこう呼ぶものだとばかり思っていたが、今回の連休がシルバーウィークなのだそうだ。そして、この次これが実現するのは六年後だという(なんじゃそりゃ!)。「今年のゴールデンウィークは、9連休の人も出てきます」とか、「今年は飛び石連休です」(最近はなくなったが)とか、毎年あるものではないのか。
連休明けに、前期の成績を事務局に提出してきたのだが、事務に「ありがとうございます」と言われた。丁寧なのもいかがなものか(ここは麻生前総理風の反語)。教員が成績書を提出するのは単に給料の内だから、感謝されるのは変である。「いや、こちらこそ」と答える私も、如何なものか。
学生の使う挨拶にも、いろいろ違和感があることが多い。授業前に、ゼミの予習などに来た学生に、あれこれ指導してやって、帰る際に学生は「ありがとうございました」という。オフィスアワーも普通に給料の内だし、第一、間違えたまま調べてレポータを担当されても困るのは私の方であるから、事前にちゃんと来てほしいのである。これにも私は「いや、こちらこそ」と答えてしまう。
この「いや、こちらこそ」は、実は私の得意語彙のひとつなのだ。前任校で助手をやり始めた頃、予算執行などの絡みで、書店や出版社などに電話することを初めてやるようになった際、電話すると「はい、○○社です。」「お忙しい所、恐れ入ります、こちらは東京都立大学の国文学研究室です」「はい、お世話になっております」と言われてしまうのである。電話の営業経験などない私にとって、次の言葉がしばらく浮かばなかった。「はい」というのも変だ。「美しい(いい男)ですね」「ありがとうございます」みたいな、芸能人の応答法がそれだ。私は、初めて掛ける電話の人に「お世話になっています」と言われても、とまじめに思ってしまっていたわけである。が、あるときから「いえ、こちらこそ」と答えてみて、なんかピタリ来たのである。否定ではあるが、相手を立てているのが気分良い(気分良いという、優位に立つ応答法であるが)。
知り合いから電話を掛けられて一番嫌な第一声は「寝てた?ごめん」である。
あと、学生から言われる違和感ある言葉としては、学校が引けたあとの挨拶である。「お疲れ様でした」と声を掛けられる。一所に仕事をしていたわけではない。今、帰り道で会っただけである。そして、よくTVなどでも「ご苦労様でした」は目下の者に掛ける言葉であり、目上の人には「お疲れ様でした」と言うべきである、などと紹介されることが多いが、この「お疲れ様でした」もかくのごとく多用されたあげく、敬意値(?)も下がっているのではないか。「さようなら」と言えばいいのである。また、一所に仕事をして分かれる時には、「ご苦労様でした」という言葉も、私などは、そんなに悪い感じがしないのだが。たとえ相手が目上であっても、その人が本当に立派に仕事をされたなあと思った場合、「ご苦労様」だったと思うよ。それに比べて「お疲れ様でした」は、なんか仕事が徒労に終わった感じがする。
んー、「ご苦労様」も、言い方によっては徒労感だけが漂うかな。
尤も私も、言葉を知らないヤツだなどと思われたくなくて、「お疲れ様でした」を使うことがけっこうある。まったくテキトーなやつだ。
今日は、同日に三つも書いた。今月締め切りの論文を一本抱えていて、暇なわけではない。こんなのを書いている場合ではない。お疲れ様でした。ご苦労様でした。さようなら。
2〜30年くらい前、中学から大学生にかけて、大相撲は結構見ていた。大錦や大寿山といった地元力士が活躍していたし、38世代と呼ばれた人と私も同世代だったし。若貴兄弟があまり好きでなく(先代貴乃花も好きではなかった)、それ以後、大相撲を見るのをやめた。忙しかったというのもある。それでもたまにテレビで映っている事もあるが、力士などさっぱり分らなく、私は興味はただ一点、東方花道の観客席の中に元NHKアナウンサーの杉山さんを見付ける事だけだ。ただし、いつもすぐ見つかる(朝青龍騒動の一時期を除いて)。
昨日、たまたま20分くらい見て、改めて気づいた事がある。東方力士が左に映っているということは、カメラは北から南に向けて撮っているわけである。力士二人が対面するわけであるから、イマージナリーラインは東西を結ぶ線上に存在することになる。このイマージナリーラインを侵犯する映像が二つある、ということに気づいたのだ。一つは力士が帰る花道を控え室のほうから撮った映像。ただしこれはもはや舞台は土俵ではないから、あまり問題ではない。もう一つは、力士が塩を取る、その顔から狙うショットである。これは一般に言ってルールの侵犯でありながら、極めて自然な映像と見えてしまう。不思議といえば不思議だが、そうではないと言えばそうでもない。ルールというもの自体が、括弧付きなのだ。
ただし、(もう去年の話であるが)、ずっと東方であった朝青龍が、西の横綱として土俵に立ったとき、とてつもなく違和感があった。これは映像のルール云々の問題ではないにもかかわらず、その違和感はヴィジュアル的なものであった。これが不思議であり、面白い。まあ、一番違和感があったのは、朝青龍本人なのだろうが。もちろんそれはヴィジュアル的にでなく、身体=運動的にである。
「国に翻弄された地元住民」という意味では、三里塚・成田空港などと同じなのだろうなと思う(八ツ場ダムの反対運動には新左翼は関わっていなかったのかな)。ともかく、民主党政権の最初の(いくつもあるもののうちの)試金石となる懸案なのだろう。
大型の公共事業で最終的に儲かるのはたぶん東京のゼネコンで、地元経済としては中小規模の公共事業を展開して、地元の活性化を導く方がいいのだろうなと思う。ムダな公共事業の見直しという意味では、完成までに予想される四〇〇〇億なにがしの金額以上に、実際は掛かるだろうと思うから、当初予定の金額は、その全額を地元への保証へ回すしかないのではないか(かなりの大盤振る舞いである)。それでも最終的にはわずかであるが国庫的に黒字になるという計算である。
純然たる利水・治水的な意味では、もはや効果が薄いというのは本当なのだろう。ダムがないほうが、温泉も自然環境・生態系も保持される(されやすい)のであろう。とはいえ、地元への保証のなかには当前、道路整備や橋の完成などが含まれるだろうから、完全に生態系が保持されるわけではない。温泉街が賑わうためには、当然、自然は犠牲となるだろう。とはいえ、箱根や湯河原のような大歓楽街というものでなく、隠れ宿みたいなところらしいし、地味に経営・生活を安定させることだけが大事なのだろう。なお、作りかけの橋は、あのまま放置というわけにもいくまいから(老朽化すると極めて危険)、作ってしまうしかないのではないか。壊す、という方途もあるのだろうが。私にはよく分らない。
保証の半分はお金で片が付くとしても、残りの半分は根強い地元民感情であろう。もともと建設反対だった住民たちは、半世紀をかけてそれを受け入れ、立ち退きに応じた人々も多いという。これは新政権といえども無視するわけにはいかないし、地元住民の意見によれば着工時は自社さ政権であったという。
地元住民感情を、どのように納得させるのか。
利水・治水の効果が薄いのであれば、やはり、八ツ場ダムは不要なのである。そこで、こう考えては如何なものか、とおもうわけである。この「如何なものか」は麻生前総理の口癖ではない。麻生前総理のは反語であり、今回の私のは疑問(提案としての)である。
国が戦争をすると決めた。戦場となる地域があり、そこから兵隊も徴用するという。夫や息子を送り出す、非戦闘員たちも、いわゆる銃後の守りで、ともかく総動員体制である、と国が決めた。その地域では戦争反対を唱えてきたが、最終的には「お国のためだ」と自らを納得させ、総動員体制を受け入れた。しかし、戦闘がいよいよ本格化するかという時期に来て、国は急に戦争はしないと言い出した。地元住民は、これまで受け入れてきた総動員体制における、物理的な犠牲と、精神的なアイデンティティ、それらが水泡に帰してしまったことに憤ることになった。
もちろん、このたとえは作為的であろう。逆のたとえも可能である。隣国で大災害が起こり、救援隊を送ることを国が決める。救援隊を要請された地域は、負担が大きいから初めは拒んでいたが、救援の必要性を納得し受け入れた。準備がそろった段階で、国は急に救援を取りやめると決定した……。
戦争の例と救援のそれと、どちらが相応しいたとえなのかは、ダムが本来に目的に照らして意味があるのか、という一点に掛かっているだろう。それはもはや経済の問題ではない。
前原国交相は、今後、普段着で自ら自動車を飛ばして現地にふらりと寄ったりして、地元住民と世間話などをして、イメージの回復から勤めた方がいいだろう。堅苦しいイメージの人物だが、この八ツ場ダムを乗り切ったら、岡田外相や長妻厚労相と比べても、断然総理大臣が近くなるだろう。改憲論者である前原氏に対して、個人的に私はそうなってほしくない思いもあったりして痛し痒しであるが、全国にこれに匹敵する懸案のダムが一四〇ヶ所だか二二〇ヶ所だか有るというのだから、休日毎に車やヘリコプターを飛ばしても、そしてたとえ四年間任期を全うしても、できっこなさそうである。ともかく大変な激務である。
それから、このあともしも自民党政権が復活したりした場合、ダム建設再開というような事にならないような手立ても必要である。
今回の「続編」に対して、「正編」は四年前に書いたものである。あの時といまとで、変わったと言えば変わったし、変わってないと言えば変わってない、と思う。
昨日の衆院選の結果を受けてTVなどでもいろいろ言われているようだが、ひとつあきれた論理があった。田原総一郎の生テレビでの発言(発言者は茂木敏光だったか、違うか。山本一太ではないと思う)や朝の番組での石破茂(現農水大臣)などの、自民党の寿命は森内閣時代で実は終わっていた、というもの。それを自分らで言っているというのも十分あきれられるが、問題はそちらではない。要約すると、自民党のモデルおよびアイデンティティは、55年体制(冷戦体制)および高度経済成長に即したものであり、それ以降の変化に即応していなかった、という趣旨である。
何を今更馬鹿なことを言っているのだろう。そんな事は大前提で政治をやっていたのではないか。なのにいまさら、原因がそこにあったように分析している。それは原因ではなく、議論の前提なのである。
そして、この理屈は、構造改革路線の総括をしないまま終わらそうという発想でもある。構造改革路線は、純然たるポスト55年体制だったはずである。「美しい国」にしても、福祉政策ではもちろんありえず、経済政策でも外交政策でさえなく、政治というよりは精神論に近かったが、ポスト55年体制だったのではないか(プレかも知れないが)。ともあれ、それが失敗したのが森派=自民党の一〇年である。実質はキャラクター依存のポピュリズムにすぎなかったわけだが。
しかし。批判すべきところがまだまだいくらでもある自民党だが、下野したからには、いまはもうそれを言ってもしょうがない。
他方、民主党の数がほんとにすごいが、これは小選挙区選挙というのがそもそもそういうものだからだろう。決して国民は、前回同様「風」に踊らされている、というわけではない。国民はともかく何かに希望を見いだしたいだけ、ということである。それが愚民の常と言われればそれまでだが。ただし、四年前の選択よりは随分良いと思う。
昨日の朝生では、結局、景気回復の即効力のような話に終始していた感がある。が、そういう問題なのかなあ、などとも思う。
考えがあまりまとならない。まあ、しばらくは民主党政権の「生活が第一」という、構造改革路線でも公共事業による内需拡大でもない政策に期待しようと思う。公務員の給与は減り続けるし、配偶者手当も廃止され、幼子がいないと実質増税になるのだろうが、それは目先の問題というものだ。べつに、ヤケで言っているのではなく。これはおそらく、日本もヨーロッパ型の資本主義すなわち社会民主主義への(ふたたびの、あるいは本当の)第一歩になるのかもしれないので。アメリカのほうが一足早いのかな。
考えがまとまらないのは、私のこの方面の暗さばかりでなく、お名前はここに書かないけれど、28日にある近世文学研究者がお亡くなりになったこともある。新聞で見て絶句する。研究会等も含め直接の先生ではないし、学会では挨拶するとすこしお声を掛けていただく程度のおつきあいしかして来なかったが、西鶴の画期的な研究者として、論文はたくさん拝読してきた。その先生のご逝去に、なにか、すごく不安な気分になっているのである。お弟子さんにあたるかたからメールをもらうが、書き様も無く、返事も出せない。ともかく、得たいの知れない不安を感じてしまうのである。
国営漫画喫茶とか言われて発表当時から評判も悪く、八月末の衆院選挙の後には立ち消えになるのだろうが、私なりに思う事がある。
ほんの数年前だが、京都の国際日本文化研究センターについて、中曽根さんが作ったんだよね、とそこの小松先生が言っていた。「ああ!」とびっくりしたのである。そういえば、私がまだ大学生で、総理大臣は中曽根康弘で、ロン=ヤス関係やら浮沈空母発言やら、ともかく当時ろくでもない総理大臣であったわけだが、噂に「中曽根が日本文化の研究所のようなものを作る」と聞いていたのだ。その時には、「あの右翼の総理が日本文化の何かを作るんだから、戦争賛美だとか、特攻精神だとか、ろくでもないものを作るのだろう」と思っていたのだ。そんなことはすっかり忘れていたのだが、小松先生がそう言った時、「ああ、あの計画が、いまのこれか!」とつながったわけである。果たして、その日文研は、東大京大等にまさるとも劣らぬ日本の知性を(かなり派手に)集めた場所となっている。
日本の知性というものを、もうちょっと楽観的に考えてもいいのかな、ということである。アニメの殿堂も、まあ作り方次第であろうが、純粋に学問的にそれを設立しようとして作るなら、そんなひどいものにはならないのではないか、と思う。勿論、予算規模や、既に似たような研究施設はあちこちにあるし、疑問視されるのは当然なのだが、日本の経済人よりは、楽観視も許されるだろう。
2009-08-27 補記:
上記の記事はてきとうな脳天気な言いぐさである。まあ正直、どうでもいいのだ。研究は資料集めが一番楽しいわけで、行けば資料がそろっている場所が最初から分っている研究は、冒険ではなく作業に過ぎない。これは個人的関心だがつまり、私的にはどうでもいいのだ。ただ、書いてしまったので、逆に少々気になっていたところ、ちょうど早速、方針案のようなものが出されたようだ。第6回設立準備委員会というのが21日に開かれたとかいうニュースである。やることは、展示などもあるが、保存・修復などらしい。研究機関というよりも、フィルムセンターがかなり色気を出している感じなのかな。場所がお台場というのは白紙らしいが、建設費120億円というのはそのまま。ただ、運営費は入場料等の自己収入でまかなうのだとか。ああ、だめだこりゃ。文化に対して、国は金を出すべき。あとは、研究者の確保ですね。
保存なら、国会図書館みたいに、アニメ(DVD等)やゲーム会社に納本制度を義務化すれば良いのではないか。(これは、なされていませんよね?)あとは、ちょっとした閲覧スペースと、火事を出さない保管庫があれば良い。フィルムセンターって、行ったことがないのでわからないが、国会の分館の上野にある子ども図書館(旧上野図書館)は、小さい建物ですよ。古いものの有効利用だよね。京都のMMもそうですね。地味な建物で十分。問題は、きっちり保管すること。あとは、専属の研究者を置くこと(司書さんらの教育を高度化するのでも良い)。京都のMMに関しては、精華大が定期的に研究会を開くなどして(このページでも少し書いたことがあります)、かなり高度なことをやっています。お客はもちろん、高度さに見合ってたいして多くない。が、そういう研究を積み重ねないとダメですよね。客寄せもたまには良いでしょうが、「経済の活性化」のためのものじゃダメですね。早晩飽きられてお荷物になる。そうでなく、国文学研究資料館などが入っている立川公園内に建てるのが、最も理想的でしょう。
『ユリイカ』2008年6月号「マンガ批評の新展開」などを読むと、西洋のマンガ研究のレベルが、映画研究のレベルに連動していることが分る。これが良いことなのか悪いこと(逆に迷路にはまる)なのか、いまひとつ判断できないが、すくなくとも日本のそれよりは先を行っている感じがする。日本のマンガ研究のレベルは、断然進んでいるとか思っていたのに。アニメについても、似たような状況はあるのだろうかと思う。
先日、お笑い芸人のカラオケ大会のような番組で、U字工事が五木ひろしの当該曲を歌っていて、久しぶりに聞き、違和感の正体が少し見えた感じがした。
この歌詞を初めて聴いたのは、もちろん発表当時であったが、その時から「何かへんだ」と思っていた。が、よく分らなかった。その時は、単純に「契る」という語彙が、精神的なものではなく、なんか露骨にフィジカルな感じがして、下品だなと思った程度だったのだ。
古語的に「契る」は行為そのものを示す語彙だからフィジカルなのだが、歌謡曲としてはもうちょっとお上品なものであるべきだろう。中学生に「あなたの女の子の一番大切なものをあげるわ」と歌わせる、メタフィジックなものとフィジカルなエロティシズムとを醸し出すような効果ではなく、五木ひろしのほうは、きちんとした大人なんだから、上品であるべきだろう。それに、これは毎夏恒例の戦争賛美映画(笑い)のタイトルソングだったはずだし、戦争賛美は常に形而上なるものへ訴えかけるものだから。
「あなたは誰と契りますか」が、何がへんなのかと言えば、「契る」という活動を、その相手対象から独立させている点である。精神的でお上品な「契る」活動は、その相手と出会って初めて、事後的に成立するものなのである。世の未経験者が清潔で上品なのは、(たとえ話として知っていたとしても)「契る」という活動(行為と精神とをどちらも含んで、今活動としておく)を実体験として知らない、という点にある。そういう者にとって、相手との出合いがあって、その後「契る」事によって、「ああ、これが契るということなのか!」と思う。そうして初めて、「契る」が実体化するのである。つまり、相手の存在が動因なのである。相手がまだ居ないのに「契る」を言うのは妄想的なませがきか、若者を嫌らしい目で見ている悪い大人である。
まあ、この歌、その他の歌詞をあまりよく知らないのだが。
この土日は東京出張だった。用務は土曜で終わり、日曜日は移動日である。多摩図書館に行き最終列車まで稼ごうかと事前には思っていたが、暑くてかなり疲れたので、夕方遅くならないうちに帰ることにした。それまで何をしようか、と考えた。
思いついた。私は前から、新小岩に行ってみたかったのである。新小岩には、大学4年の秋から2年半アルバイトで通った○○進学スクールという学習塾があった。基本は週2だったと思うが、多いときには週に4日ほど通っていた時期もあったと思う。なぜ辞めたかというと、時給が1600円とずいぶん安かったし、大学院入学後はもうすこし高いところに移らねば喰っていけなかったからだが、塾の人にはさすがにそのままは言えず、「今度、修士論文の年になったので、勉強に集中したいと思いまして」と申し出て辞めさせて貰ったのだ。その後、自由が丘の予備校、高田馬場の予備校など、アルバイト先を替え、それぞれにいろいろな思い出はあるが、この新小岩の学習塾は初めての受験産業のアルバイトだったせいもあり、また、自身いろいろ苦しい時期というか、海のものとも山のものともつかぬ不安定な時期と重なっていたこともあり、たくさんの思い出がある。ちなみに、私の雅号である半魚は、この塾の子供が私に付けた渾名であり、それを自身の雅号(パソ通時代はハンドルネーム)として使っているのだ。
学習塾の代表は、武山さんと言って、当時はずいぶん年上に思っていたが、改めて思うに30代半ばだったのだろうと思う。物静かないい人だが、物事をずばり見抜くような所もあって、私は正直苦手だった。私の子供への教え方も、かなり下手だったせいもあって、引け目もあった。が、それ以上に、すきのない立派な人すぎるのだ。苦手だったとは言え、本当に感謝している。武山先生が私に「人間、いつもかっこよくはいかないからね。」と言ってくれたことがある。どういう状況での言葉なのかは恥ずかしいから書かないが、今でも覚えている言葉だし、私自身好きな言葉として刻まれ、他の人に対して何度も使ってきた。塾の講師は、代表の武山先生のほか、武山先生の弟さん、数学の小林先生、英語の十川先生などがおられ、彼らが専属的な存在だった。この他に学生アルバイトの講師がいたが、その塾の出身者で東大生だった中田さん、学芸大の藪田さんとか何人か居た。頭の良い人たちだった。私は2年半やっていたので、辞めるころには私よりも後から入った人も増えてきた。しかし、名前を忘れてしまったなあ。車(父親の高級車)で塾に来ていて終わってからよく新小岩駅まで送ってくれた若者は、たしか吉田君と言ったような気がする。カーステレオからはいつも久保田利伸『ミッシング』が掛かっていた。
数学の小林先生には、仕事が終わってからちょくちょく晩飯をおごっていただいた。小林先生は、以前戸越銀座に住んでいて、私も大崎に住んでいたから、いろいろ戸越の話をしてくださった。また先生はもともと理系の方なのだが、司法試験の勉強を続けておられた。やはり30代行ったばかり、という年齢だったろうと思う。団藤重光という法律学者の法解釈・法哲学がすばらしいのだ、ということを熱を込めて語ってくださったことが何度もあり、分らないながらに聞いていた。小林先生は、ある時私に「あなたは、同じ年代の若者の中では、ずいぶん大人っぽいね」と言ってくれたことがある。大学時代私は先輩とかから「タカハシ、軽い!」とか言われていたので、そういう人物評価は初めてだった。私は、年上の人と話をするのが嫌いでなかったから、小林先生はそう言ってくれたのだろうと思う。私が最初に書いた活字論文は、「私もここまで来ました」という意味を込めて、この先生にも郵送しているのだ。
十川先生は、ふつうの変わり者で、カラオケがともかく下手であること、東大の哲学を出ていること、この二つしか印象がない。私が聞くと「黒田亘なんて、バカだったよ」と特に表情も変えずにおっしゃっていた。みなは十川先生に歌を歌わせ、全員でコケる、というのが定番ギャグであった。
先生方の思い出もあるが、何よりも強い記憶(トラウマ?)になっているのが、子供たちである。中学生の補習・進学塾である。5〜6人の少人数クラスをつくり、そこで私は英語を教えていた。クラスはいくつかあるので、教える子と教えない子と出てくるわけだが、しばらく居れば、みな顔見知りになる。ぜんぜん勉強の出来ない、する気の無い子から、かなり出来る子まで、ずいぶん幅があった。フルネームで書かなければ問題ないだろう。最初の年に1年だった、ぜんぜん勉強の出来ない、うるさい女の子が居たが、この子の名前をもう忘れてしまった。この子が、サンリオのハンギョドンに似ているという事で私をハンギョと呼ぶようになったのだ。この子は、残念ながら3年になった年に塾を替えてしまった。この学年には、私はほとんど教えなかったが、圭坊と呼ばれていた少年や、牧野という女の子が居て、この二人はかなり生意気だったがよく勉強が出来た。滝沢君という勉強の出来る子もいた。最初の年に2年生だった学年では、男子にはイッパ君といういまひとつ勉強の出来ない明るい子と、名前はほんとに忘れてしまったが、勉強はさほど出来ないわりにものすごくずるがしこいいやな子供がいた。私は全くその子に翻弄されていた。女子に、吉田・新井・吉沢といった子たちがいた。高校受験まで私がなんらかのかたちで担当したはずだ。高校になってからも遊びにきたりして、ずいぶんからかわれた。ほんとに、こちらはなめられ通しだった。連中も、天衣無縫というか、ほんとくそ生意気だった。もうちょっとちゃんと英語を効果的に教えていたら、すこしは尊敬される面もあったのかもしれない。3年目つまり私が辞めた年、最後の授業の時にも、吉沢さんが遊びに来ていて、ずいぶん私に悪態をついたりからかったりした後、別の校舎に移動したらそこで高橋がやめると聞いたらしく、あらためて塾に電話してきて、私にちょっとした感謝の言葉を述べてくれた。「ハンギョ、辞めちゃうの?」と切り出し、「さっきはごめんね。」などと言ってくれたはずだ。学区では小松川高校・城東高校というのが良い進学校で、彼女はもともと成績はいまひとつで、3年生になってからはかなり勉強に身が入ってきたが、伸び切れず、それらの高校には行かなかったように思う。しかし、基本的には頭が良い子で、案外素直な所もあった。その後、別の予備校などで私自身のノウハウ等が増えて来た頃、思い出しては、今の私なら彼女にもうちょっと良い勉強をさせられたのになと思うこともあった。しかし、当時は全くそこまで出来なかった。彼女に限らず、子供らは全般的にうるさく、反抗的で、まともな会話が成立したのは、前述の圭坊、牧野、滝沢らだけだったが(彼らは大人っぽかった)、正直一番苦労させられ、その分、よく覚えているのが、この吉沢さんや吉田さん、新井さんである。苦労したが、私も嫌いではなかった。
子供たちの自宅がどこにあるかなどは勿論知らないが、中に一人、商店街の呉服屋さんの娘が居て、その子の担当になったことは全く無かったと思うが、この子は勉強の出来る良い子だった。こんなごみごみした猥雑な商店街に生まれ育って、こんな素直な良い子が育つのか、などと思った記憶がある(東京の下町に対する偏見である)。ただし、名前は全く思い出せない。
新小岩駅にあらためて降り立って、駅前の風景を目にしても、まったく記憶が戻らない。右側に西友があったことは思い出した。あとは、アーケード街があったことは確信を持っていたが、ルミエールという名前であったことも思い出せない。22年ぶりに降り立ったのだ。その間、様々に別の事を経験しているのだ。あったはずの呉服屋も無い。
かつていろいろ買ったはずの古本屋に入った。が、これも全く記憶に無い。50年も前からやっておられるというが、位置もここではなかったような気がする。20年ぶりに来てみましたよ、みたいな会話をする。土用の丑の日だったので、うなぎ屋に入った。老夫婦ながらチャキチャキで良い関東風な感じの方々で、そこも50年もやっているお店だという。呉服屋はなかったか?実は、昔近辺の学習塾にアルバイトに来ていて、というと、素性がそれなりに知れて安心されたのか、呉服屋さんは今はもうやめてしまわれたとおっしゃり、「○○さん」と苗字を教えてくれた。そこに娘さんがいて教えていたのだと言うと、「あつこ。○○あつこ!」と名前を言い、結婚して二人子供がいる、とおっしゃる。フルネームで言われてもぜんぜんピンと来ない。が「敦子」だったような気がしてくる。そうえいえば「あっちゃんと呼ばれていたなあ」と、おかみさんに言った。このうなぎ屋さんとは今でも普通につきあいがあり、今日も、この後、鰻をとりにくるはずだと言う。
うな重は、柔らかく、薄めのタレでもちろんうまかった。値段もきわめて順当なものだ。お金を払って帰ろうとすると、おかみさんは「お名前だけでも聞いておきましょうか?」とおっしゃってくださったるが、「いやあ、むこうが覚えてるかどうか」。実際、ほんとうにそう思った。印象が強かった講師だったとも言えない。そして、そもそも、覚えて居てくれても、そして今かりに再会したとしても、それで何があるというのか。なんか気まずいか、そらぞらしいだけではないだろうか。しかし、折角の粋な計らいなのだからと感じて、「タカハシと言います」といってきた。タカハシと名前を聞かされ、覚えてないと返事をする光景が目に浮かぶようだ。彼女の顔は中学生のままなのだが。
それでも私が今、この思い出をサイトに書いているのも、なんというかこの、過去の思い出を文字にすることで、それの息の根を止めようと思っての事なのだろうと思う。普段は全く思い出さないし、実際かなり忘れているのだが、時たま思い出していたのは、新小岩に二度降り立つことが無かったからであろう。
私は私なりに、その塾を当時からいとおしく思っていたし、子供達にもずいぶん苦労させられたが(私はそのころは全く講師がつとまるレベルではなかった)、愛していたと思う。塾では、一度、箱根に慰安旅行に連れてってもらったことがある。また、学期の終わり毎に、教室で先生たちでビールを飲んでカラオケなどをやったりした。何度目かのその会の時、私は自分の歌の番が回ってきて、「新小岩の歌」を歌った。当時、毎日聞いていた吉田美奈子に「恋のてほどき」という曲がある。『モノクローム』以降の吉田美奈子は、低音の魅力を全面に押し出した感じになるが、「恋のてほどき」はそれ以前の天使のソプラノ(しかも色っぽい)の曲だ。その一節に「ああ、恋はいつの日も新しい驚き」という歌詞がある。私はいつもこれを「新小岩いつの日も新しい驚き」と歌っていたのだ。その時、アカペラで歌った「新小岩の歌」は、元歌をみなが知らないせいだけでなく、ぜんぜん受けなかったが、私は今回22年ぶりに新小岩に来てずっとくちずさんでいた。塾自体は、最寄り駅が新小岩(葛飾区)なだけで、江戸川区松江にあったのだ。これも受けなかった原因なのかもしれない。商店街を歩きながら、吉田美奈子の「新小岩の歌」を久しぶりにくちずさむが、これも意外なことに、歌詞を完全には記憶していない。とは言え、忘却は必ずしも悲しいことはでなく、むしろ、安心して忘却できる思い出というものは貴重であるなとも思ったりした。
2011-02-12 補記:
今、古い手紙を整理しているのだが、その中で気づいた。数学をご担当されていた先生は、阿部先生であった。小林先生なんて方はいない。阿部先生だった。あれだけお世話になっていたのに。なんで思い出せなかったんだろうか。その後しばらくは年賀状もお送りしており、お返事もいただいていた。本当に申し訳ない。
私としてはどうでもいい話題だが、去年の10月にも一度話題となり、それを機縁に携帯ストラップを外したという経緯もあるから、メモとして残すことにした。東国原宮崎県知事の、自民党(古賀選対)からの衆院立候補要請に対する回答の件である。
東国原知事は、自民党総裁候補としてならばと条件を付けた、というわけだが。もし東国原氏が総理大臣になったとすれば、主張通り、地方分権は進むのだろうと思う。私は、単純に地方分権が良いのかどうかは分らない(理由は省略)。総体として、もしかしたら東国原総理大臣になると政治は良くなるかも知れない、とかも思う。それに、二流の映画俳優が大統領になるのと、二流のお笑い芸人が総理大臣になるのとは、あまり変わらないと思っている。むしろ、三代政治家であってプレスリーの物真似するほうが恥ずかしいと思うし、また、今のマンガ太郎総理より学識・見識の劣る人物のほうが珍しいくらいだろうとも思う。そして、良い仕事をするなら県知事を一期任期途中で辞めるのもありだろうよ、としか言いようがない。……ともかく、東国原知事がどうしようが、どうなろうが、実は大勢に影響はないのである。小沢の西松ショックから鳩兄に移っても支持率がまるで落ちないことを考えれば、自民党総裁が総理大臣にならないことは明々白々なのだから。
私が今回思った事は、そもそも自民党って何なんだ?ということである。「永久不滅の与党」という「記号」でしかないのだな。
細川内閣などで一時下野したが、その後あれこれ55年体制の崩壊があったが、実際崩壊したのは日本社会党だけであって、看板として生き続けた「自民党」は、新自由主義体制の小泉路線としてそれまでの自民党と全く違ったものとなり、そして今、その揺り返しがきているわけだが、中身が変わっても、看板として、構造として、引き続いて中心にありつづけている。問題は構造なのだから、東国原総裁になっても良いわけである。東国原に反感を持つ連中は自民党内のヘゲモニー争いに力点を置いているのだし(旧田中派の利権が森派に移行したように)、東国原を利用したい連中は、この構造の普遍性を信じる者たちなのである(ただし、次期衆院選で自民党は下野を余儀なくされるだろうが)。
予言というほどのことでなく、明白に見える近未来であるが、民主党内閣になっても、世界経済が上向きになることは無いわけで、高い評価や支持を得ることはおそらく不可能であろう。火中の栗を拾う行為である。だからともかくがんばってほしいとしか言いようがない。私は二代政党制(特にアメリカ的な)に別段期待は持っていないが、それでも定期的に政権政党が替わるのであれば、官僚にももっと別な緊張感が出て、良い影響を及ぼすのではないか、と思っている。しかし、今後の日本で定期的に政権交代が起こる体制となる可能性・期待を、今のところ私は持てない。私が恐れるのは、「やっぱり自民党でなくてはだめだ」という感情が、近い将来強い反動として復活するであろう、ということである。そもそも、小泉路線への期待は、そのようにして醸成されたのである。
ただ、小泉内閣の背後には、ブッシュ政権という時代の流れがあった。次の次に、オバマ政権という時代の流れの中で「永久不滅の与党」が復活するなら、自民党でも結果オーライなのかもしれないが(落胆的な嘆息)。こんな選択肢しか、この国にはなさそうである。
『西鶴諸国咄』に「忍び扇の長歌」という一節がある。大名家の姫に一目惚れして、なんとかしてその武家の奉公に有り付く中小姓がいる。特に美男なわけでもないが、忠実に仕事を勤めるうち、その姫の外出の御供衆にも加わるようになる。姫も、身分の差を抜きに、愛情を持つようになる。ある夜、姫は自分を連れて駆け落ちするよう扇に長歌をしたため男に渡す。駆け落ちし裏長屋で世帯を持つが、すぐに苦労を味わうことになる。しかし、姫自ら水仕事もけなげに行っていた。大名家のほうではその間姫の行えを探していて、結局二月ほどで見つかってしまう。中小姓はお手討ちとなり、姫は押し込めとなった上で、「不義」の沙汰を咎められ自害を勧められる。しかし、姫は納得しない。「不義」とは夫が居る身で外の男と通じたり、後家になって外の家に嫁することである。私は一生に一人の夫を持ったのであり、これは「不義」ではない。身分の差を越えての愛は古今にも例は多い。そう言って姫は、夫がお手討ちになったことを悲しんで泣き、その後は尼となって夫の菩提を弔った。
この話は、婚姻における封建的制度への批判と言えよう。が、封建的制約/近代的自由の保障(婚姻の自由)といった制度の問題で収まるものではないことは明らかである。相異なる二つの制度が衝突した話ではないのである。かといって、制度/個人意志(愛情)という、社会/個人の問題でもない。義理と人情(の板挟み)という言い方があって、その場合、義理とは純然たる制度なのか拡大された個人意志なのかという大きな問題があるのだが(人情は個人意志であろう)、ともかく、義理(社会制度)と人情(個人意志)の対立の問題でもないと思う。
この咄に受ける私の感動は、この姫の屹然とした態度にあるのだろうと思う。なぜ感動するかよく分らないから、思うだけの段階である。姫の態度が屹然としているのは、一方ではまず、反論が論理的であるためでもあり、その論理性は「不義」論や「古例」の引用など、結局、制度を問題にしたものである。つまり、そこだけみれば、やはり単なる二つの制度の対立の咄なのだ。が、私にはそういうふうにはこの姫が映ってこない。人情(愛情)の根本には社会性(義理)が存在している(すなわち、義理とは拡大された個人意志である)。にもかかわらず、姫の主張は、個的なものとして自立している感じがするのである。これは単に、姫が「泣く」からでもあるまい。おそらく、倫理とはそういう主体性の成立を言うものである。個人意志が拡大されて制度(義理)が生成されるのとは逆の筋道で、主体性というものも生成される。ただし、単なる総和ではなく、生成後は異質なものとして。すなわち、論理的に明解な制度・法とは異質なものとして。
昨日、三浦さんがパソコンが変だというので見に行った。彼は、パソコンが苦手だそうで、後輩のS先生は「パソコンなんて所詮道具ですよ」というのだが、特にこういう調子の悪い時のパソコンは、どうしてもそれが道具に見えず、人間のように見えてしまう、そう言っていた。
なるほど、と思う。さすが画家の感覚は敏感なのだな、と。ベルクソン『物質と記憶』風に言えば、事実の総和でしかない予測可能な物質の世界に対して、精神の世界すなわち人間は不確実性の中心である。人間っぽさは、予測不能な反応において/によって立ち現れる。予測可能な物質の世界とは、科学の世界を言うものだが、文学においては既存の制度・法の世界である。上掲の西鶴とちがって、八文字屋本時代物浮世草子が、いくら筋立てを複雑にしても今ひとつ感動を覚えないのは、登場人物たちがいつも「理を責めて」「理を尽くして」行動しているからである。尤も、八文字屋本もそれを超える様相をもって顕れることもあるが。
金沢も路上喫煙が禁止になりつつあるが、たぶん東京ほどではなかろう。出張で東京に出たりすると、まあ徹底されてきているなと思う。吸える場所として、区などが設置している場所とは別に、煙草屋などが敷地内に喫煙コーナーを設けていたりする場所もあって、そこには店のポスターやらが貼ってあり、自然と目に付くのだが、喫煙マナーの川柳みたいなのが貼ってあった。中身は忘れたが、いまいち関心しない。なんか、マナーを守りなさいと命令されてる感じ。あるいは、自主的にマナーをよくしろよ、しないとかっこわるいよ(とやっぱり指導あるいは脅迫されている感じ)。まあ、いずれにしてもまともでストレート過ぎるのだな。それから、喫煙者はマナーが悪いという大前提に立っているような感じも、あまり好ましくない。川柳を投稿したりするような趣味を私は持たないが、喫煙マナーが良い事には全く賛成なので、その時考えたのが次の作品。
良い喫煙マナーはもちろん良い事だが、そこにただよう硬直度合いをもう一度笑いでデコンストラクションした上で、再度マナーを構築していきたい、という願いを込めています。
小津作品は大学生の頃、近所にあった大井武蔵野館で連続上映していた際、まとめてみたのが最初で最後だった。全作品の半分くらい見ている。1985年ころだろう。今、DVDでまとめて全作品を順に見ているのだが、あの頃はまるで分ってなかったな、と思う。いくつかメモを残しておく。
まず、女優がみんなうつくしい。昔は『秋日和』の岡田茉莉子につきる!と思っていたが、そしてたしかに今見ても、あの頃岡田茉莉子がいいと思った理由もわかるが、しかし、そればかりじゃないね。まず、原節子がいい。この良さが分かる年になったか、とか思うと笑える。『晩春』が特にいいと思うが、『麦秋』もいい。
ストーリーだが、わりかし倫理的なんだね。戦前の作品などは特にそう思う。
戦後の、娘を嫁にやる話などに典型だが、ホームドラマを描いたなどとよく評されるようだ。作品をみれば明らかだが、決して単純に、家族の愛情や幸せを描いているのでもなく、家族の崩壊を描いているのでもない。あるいは、崩壊した家族の回復とかでもない。家族が別れて暮らしていく、ということを描いているんだな、と思う。家族はいずれ別れていく、ということ。単純に一般化すれば、人は死を前提として生きている、ということとパラレルなのだろうが。
脚本的に。説明調な会話が一切無い。これがすばらしい。登場人物同士では常識に属する事を、視聴者への説明をかねて台詞になっている脚本というものが、まるっきり無い。
映像的に、これも同様。カメラが「ここを見よ」と言わんばかりの動きを一切しない。カメラは主体的に活動せず、常に受動的である。カメラの有る位置に対象が入っている/くるのである。それは、相手の語りを受け止めて、過不足無く(特に過が無く)返す会話と同じである。なんと言っても特徴的なのが、スクリーンというフレームの中に、入れ子式のフレームが存在する画面構成である。屋内の廊下のショットなど。何層にもわたっての入れ子のフレーム上を、人物が出たり入ったりしているのである。
映像的にもう一つ、モンタージュの特徴。1ショットに1台詞という凡庸な編集がメインだし、フレームの制約もご都合主義的にモンタージュが解消してくれている。が、もう一つの特徴としてはイマージナリーラインの侵犯である。吉田喜重『小津安二郎の反映画』によれば、これは確信的に行っているのだそうである。フレームの問題と通底するのだろうが、映画的文法は内部からしか破れないということだろうと思う。尤も、私はこれがまだよく言語化出来ない。
ドゥルーズ『シネマ2』で知ったが、『晩春』のラスト近くの壺の寓意が、父への近親相姦的な愛情を意味するかどうか、という議論があるらしい。二つの点でくだらない。一つは、作品の意味は、内在的な意味よりも、読み手の側の意味づけが常に優先される事、一つは、小津に象徴主義はなじまない事、それらを理解していない点でくだらない。小津はもっと即物的であり、受動的である。たとえ小道具一つがこっていても、脚本の複線や反復にすごく工夫がこらされていても。
小道具で言えば、戦前の学生のペンはつけペンがほとんど。『父ありき』は戦中かな、笠智衆はセルロイドの万年筆を使っている。『晩春』で笠はエボナイトの黒い万年筆。カラー作品になって『秋日和』で司葉子や渡辺文雄が使っているのは、それぞれモンブランの赤軸とパーカーの金張りキャップのだろうかなと思う。重役の佐分利信は赤鉛筆の芯ホルダーを使っているようだ。説明調な画面ではないから、アップになってくれないのが残念。ビールやウイスキーなどは、サッポロや朝日のラベル、ジョニ赤など、遠目でもよく分るのだが。
レプカ 蓑部幹事長
モンスリー 白井国交大臣
コナン 半沢
ダイス 大和田
ラナ 上戸彩(?)
ジムシー 賀来(?)
さて、アルチュセールはこの国家装置の働きをふたつの機能に分けて分析する。暴力的な機能とイデオロギー的な機能である。最も単純化して言えば、この両者はそれぞれ強制と説得に対応するものである。すべての国家装置はこの両者を併せもっているが、そのうち暴力的な機能が圧倒的なものを国家の抑圧装置、イデオロギー的な機能が圧倒的なものを国家のイデオロギー装置と呼ぶ。
僕自身の持っているものと、倉重と、較べてみると、相反するものが多すぎるな、と。当時の連合赤軍のやった革命というのを世界的なものと較べてみると、やっぱり、言葉はすごく悪いですけれど、すごく幼稚だったんじゃないかな、と。だから、どうしても暴力って方向に行ってしまって、最終的には、倉重は自分自身で命を絶たなければいけないような状況になってしまったんだと思うんですけど。たとえばアジテーションっていって、みんなの前で演説することとかを考えてみても、いままで革命というか、人々を動かしてきた人、ムーブメントを作ってきた人は、マルコムXにしろ、キング牧師にしろ、みんなことばが通じるように、ひとつひとつかみしめるように、説得するというか、演説していきますよね。でもそうとは違って、ナントカナントカ!ナントカでーぇ!という風にアジテーションをやっていくわけですよね。そういう意味でも、ちょっと、何かを変えたいというのもあっただろうけど、自己陶酔の匂いがするな、と。でも、なんやろうな、でも彼らのことを全く分からないわけではなくて。暴力というのも、始まってしまうと、どんどんエスカレートしてしまって、あんな結末になってしまうってことは、十分に、だれにでもあり得ることというか、みんながそれぞれ持っているけれども、その扉を開くか、開かないかは……。台本を読んでいても、思いますけれどね。
安倍首相、学者にまんまとだまされたね!
(大漢和を引けばすぐに分かったのに。私が引いた漢和辞典、新字源でした。)
担当した学者は、新元号によって文化における日本の独自性や優位性を見出だそうとしたナショナリストをまんまと騙したのです。
しかし、外国由来を自国のものだとしてありがたがる、この構造こそが無知に由来するナショナリズムそのものなのだ。
自民党幹部が喜ばず神妙な面持ちであったのは、たぶん、期待に反して、安倍一強がまだ続くことが保証されてしまったから、であろう。
配布資料(簡略版としてまとめたもの)
授業で触れた「表現の自由」に関し、これを可能にするのは「法律」「主体性(思考)」「技術」であった。そしてこの内、「技術」を抑圧することで表現の自由は規制される、という話が興味深かった。(VD一年)
彼は「悪いこと」がしたいのである。
国際社会から「善い国だが弱い国」と思われるよりは、(中国や北朝鮮のように)「嫌な国だが、怖い国」と思われる方が「まだまし」だという心情が安倍首相には確かにある。
これは安倍首相自身の個人的な資質も関与しているだろうが、明治維新から敗戦までは大手を振って発揮されてきた日本人の「邪悪さ」が戦後過剰に抑圧されてきたことへの集団的な反動だと私は思う。
私も署名しました。
サイニーブ!宰相Aを血祭りに!
リハビリはもうだいじょうぶグーチョキパー(PNなし)
風雲児たち一巻から売ってくれ(PN:歴史ファン)
まゆゆにも売ってほしいなぼくの本(PN:6月にぼくの本が出ます)
じゃあなんで泣いてたんです!本の前で(PN:店長よ、反撃だ!)
全体の四割以上を占める投票先を決めていない人たちは、結局棄権するのだ。
脳に詰め込むために本があるのではなく、脳に詰め込まないで済むように本はあるのだ。
そして重要なのは、記憶そのものではなく、記憶を取り出す回路を保持していることである。「記憶は脳内にあるのではない。脳内にあるのは、記憶を行動へと繋ぐ回路だけだ」というのが、ベルクソンの記憶理論である。本がどこにあるのか探せないとか、重複して買ってしまうとかは、やはりまずい。どこにあるのか探せる状態になっていれば、十分に、読んだのと同じ価値があると言えるだろう。
トルメキアの王様が四〇〇年も生きていられるのは、万能細胞のおかげ。悪魔の科学である。
『キャシャーン』の新造細胞というのも、同じものを言っている。
転ぶことが出来るのは、挑戦し続けている者だけだ。
割り算の出来ない子どもや、虐殺された大杉栄が、自らに課された負の条件をもって逆に抵抗へと自己組織化するように、浅田真央選手は金メダルをとらないことによって、メダル云々では測り得ない基準を獲得した。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
ときどき何度読んでも意味がわからない箇所
にぶちあたっていた。岩波文庫版も持っていたが、これは日本語が少し古いからあまり読みたくなかった。「それらはシンホニーのなかで間遠に鳴りわたるチンパニの鼓音なのであろう。」(岩波P23)では、ベルクソンがかっこわるい。岩波文庫は1961年に出た後、1979年の改版の際に文章もだいぶいじってあるようだが、それでもまだ古いのである。ベルクソンの文章はユーモアがあり楽しいが、とても明晰で、なんと言ってもかっこいいのだ。白水社の全集はずっと持っていなかったが(去年秋にやっと買った)、それ以前に河出書房・世界の大思想『ベルクソン 時間と自由/創造的進化』を古本屋で500円で見付けて持っていた。これは松浪信三郎・高橋允昭訳であり、白水社の全集とどうやら全く同じである。なんど読んでも分からない箇所が、岩波や白水社で読み直してみるとすぐにきちんと分る。ゆえにちくまはけしからんなと思っていた。白水社からは、竹内信夫氏が一人で訳した新訳もいま出始めており、『創造的進化』もすごく期待していた。この二月に出た。
ちくま学芸文庫 合田正人・松井久訳、2010年刊 岩波文庫 真方敬道訳、昭和36年(1961)初刊、1979年改訳 白水社ベルクソン全集 松浪信三郎・高橋允昭訳、1966年初刊 白水社新訳 竹内信夫訳、2013年刊 OEUVRES PUF 1959,2001 LCB LE CHOC BERGSON L'volution crétrice, PUF 1941,2001
Youtubeのすごさは、これが記憶のデータベースだというところである。
その後、松井みどり編著『マイクロポップ:夏への扉』(PARCO出版)を買い、拝読しました。「マイクロポップ」概念はドゥルーズ=ガタリ『カフカ』からインスパイアされているのだなどと言ってのける度胸にも驚かされました。しかし、よくよく思い出すならば、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』『ミル・プラトー』からインスパイアされている浅田彰『逃走論』の「スキゾキッズ」の焼き直しでしかないのが、このマクロポップなのだ。八〇年代なら許されたああした幻想も、いまや学級崩壊を個性の尊重だとか言い抜けるわるい冗談でしかない。「マイクロポップ」が概念として薄っぺらな感じしかあたえないのは、そこに無力な子供として生きていることの生きづらさが全く捨て去らされてるからである。松井氏は、子供のつらさに共感も同情もすることなく、子供を宣揚している。大勢集めた子供たちに芸をやらせ物乞いをさせているガロフォリ親方とか戸塚ヨットスクールとかに似たものがあるのではないだろうか。
個人
高橋明彦
石川県金沢市********
会社員・公務員
40代
076-262-****
********@kanazawa-**.**.**
ご意見の概要(100字以内)
原発依存0%を目指すべきです。
「科学技術の粋」は、原発以外の発電技術の開発にそそぐべきです。
原発技術の輸出もすべきではありません。
御意見及びその理由
毒と薬のちがいは相対的なものです。通常、少量で致死量に達するものを毒といいますが、毒もさらに少量使うときに薬になります。薬も取りすぎれば、毒になります。
少量で大規模な発電を可能にしている原子力エネルギーは、ひとたび事故が起これば毒そのものとなります。放射能が国土を奪います。
発電技術は、小規模の発電を遍在させる方法を模索すべきでしょう。
全き、一つの表象 主述に分析された表象 3. 《走る馬》という一つの表象 →3'. 馬が走る。 2. 《《走る馬》を見る私》 →2'. 私が、走る馬を見る。 1. 《《《走る馬》を見る私》が存在する》 →1'. 私が存在する。私は、走る馬を見る。
あなたの声なら届いているさ。
この「あなた」はそれまで一度も出てこないから、誰だか分らない。それ以前の歌詞は、さまざまなものが自分の上を交差して通り過ぎていくが、そのため逆に自分の存在は不確かなものでしかない云々ということを述べている。それが「とまりかけていた世界」であろう。それが、「あなたの声」によって、また動き始めようとしている、と歌うのである。ぼくらは、この「あなた」を自由に読み替えれば良いのだ。
目に見えるくらいのたしかさで。
とまりかけていた世界が今動き始める。
登場人物が目的地まで自分の足で懸命に走っている
ところである。父親のほうの映画は、危機に見舞われたり、急いでいたり、そんなときにはつねに空を飛んできた。私は最初は、その浮遊感が快かったし感動もしていた。が、ある時からこれ、つまり危機が迫ると空を飛ぶことに気づいてからは、まともに宮崎アニメを見るのがばからしくなってしまった。三角塔においつめられたコナンは、ジャンプする(地面にはビヨビヨーーンと着地する)。危機を生きるとはこういうことなのか。魔法使い。この脳天気さは、大爆発を起こして髪の毛が焦げて顔を真っ黒にして(そんな顔をして生きている)科学者とか、原発事故を経てもなお結局頼るしかないよねと言っている愚かでかわいそうな国民とか、これらと同じである。結局は自分は助かると思い込んでいるのだ。
原発は低コストではなかったというだけのことである。電気料金の値上げで対応すべきである。
漢籍と浄瑠璃本であれば、当然、漢籍は保存されやすく、草紙である浄瑠璃正本は保存されにくい。漢籍とて、大本の貴重本は保存されやすいが、中本や小本、仮名付きなど消耗品的な本であれば、保存されにくい。では、浄瑠璃本どうしではどうか。もちろん、丸本と抜本とは違うだろう(早くから存在した丸本と、寛政期以後に増える抜本とは、時期的な問題もある。次項で述べる)。では、丸本どうしではどうか。名作・人気作は保存されやすく、不人気な作品は保存されにくいだろう……と言えるだろうか。私は、言えないと思う。ジャンルが同じであれば、減少しにくい要素と減少しやすい要素とのバイアスの差異は、統計的に無視出来るだろう。
加えて言うなら。名作だから残る、残るから名作だ、等の鶏と卵の問題、あるいはそもそも名作とは何かという問題、これらと統計学とは全く相関関係はありません。だから正確に言うなら、統計学が明らかに出来るのは、残っているという事実だけで、残った原因を要素に見出すのは全く別の方法に拠らねばならないのです。
東京は、近世から火事が多く、また関東大震災・東京大空襲では実際に貴重な文化財が失われている。京都は、応仁の乱以後、幕末の動乱を含めて文化財はさほど失われていない。地域によって、減少にさらされる状況が異なる。集合Aが東京に集中し、集合Bが京都に集中していれば、集合Aのほうが一層減少していただろう。しかし、集合AとBとが、その比率(たとえば2:1)にしたがって東京と京都に分布していれば、減少する比率も保持されるだろう。つまり、場所によって減少のバイアスが異なったとしても、場所への分布そのものが均等であれば問題はない。また、場所ごとの減少のバイアスが異なっていても、長い年月の間にはそれもかなり緩和されるだろう。
念のため、特定の場所の集中というケースを考えておこう。江戸浄瑠璃の最大の人気作が『神霊矢口渡』だとして、これが江戸で多く購入・保存され、震災や大戦で他の丸本より多い割合で失われている――そういうことはあるかもしれない。しかし、寛政以降、全国的な流通が実現した後、江戸浄瑠璃が江戸に(他の丸本よりも)一極集中して保存されていると考える必要はないかもしれない。
300年間減少にさらされた集合Aと、100年間の集合Bと、減少の状況が同じであれば、集合Aは三倍減少しているだろう。1748(寛延元)年刊の『仮名手本忠臣蔵』と1749(寛延二)年刊『源平布引瀧』と、この一年の違いは統計学的には無視できるだろう。この二作と1715(正徳五)年刊の『国姓爺合戦』とではどうか。1945年を基準に考えると、230:200である。100:85で、古い『国姓爺合戦』のほうが不利であろうか。1746(延享三)『菅原伝授手習鑑』の現存数が206本。206×0.85=175だから、187本の『国姓爺合戦』のほうが元の数(売れた数)が多かったようにも見える。
単純な算術ではなく、もっと具体に即して考えるべきだろう。浄瑠璃本が蔵書(消耗品でなく)の対象となるのがいつからかははっきり示せないが、一般庶民層(学者や武士以外)が蔵書を形成していくのは、はやく見積もっても享保(1920年代)以降、実質は寛政(1790年代)以降であろう。完全な庶民(地方の蔵書家、庄屋クラス)ともなれば、化政期・天保期(1800〜30年代以降)からであろう。しかし、寛政以前のものはみな平等だとも言えるかもしれないが、享保以前の本はそもそも不利であろう。つまり、近松門左衛門は極めて不利だろう。
追記/2010-05-21 (Fri) 本家のサイトでは発表者ご当人も登場されて、(いわゆる釣れた状態で)なんだかいよいよ盛り上がって来ています。
神津さんが、こう書かれておられました。引用させていただきます。
たしかに板の数の多少で判断するのがもっとも素直だと思うのですが、しかし廿四孝のように、一板で盛衰記四板分・信仰記三板分に匹敵する点数を摺出す事例(摺次の遅い本は読めない位ですが)もあり、一概に板の数の多さ=摺部数の多さとはいえないように考えました。
追記/2010-05-22 (Sat) 注文した御本は、もちろんまだ届いていません。机辺を片付けていたら(いつも片付けばかりやっている)、神津さんの「『仮名手本忠臣蔵』の諸本」(『京都語文』第五号・二〇〇〇年)のコピーが出てきました。あらら。読んでないな、たぶん(泣)。読んでても理解してなかったな。
刊
(版)一版 二版 三版 四版 板株
移動
山本九右衛門
玉水源次郎
紙屋与右衛門加島屋加島清助 加島屋竹中清助 時期 寛延4(1751) 宝暦5(1755)以前 明和1(1764) 嘉永3(1850) 現存
点数18 19 83 55 印
(刷)
記
連
名一刷 山本九兵衛(京)
山本九右衛門(坂)
一刷 山本九兵衛(京)
山本九右衛門(坂)
鱗形屋孫兵衛(江)
一刷 山本九兵衛(京)
吉川宗兵衛(坂)
鱗形屋孫兵衛(江)
一刷 山本九菓亭(坂)
玉水源次郎(坂)
紙屋与右衛門(坂)
今井七郎兵衛(京)
松本平助(江)
加島屋清助(坂)
二刷 山本九兵衛(京)
山本九右衛門(坂)
鱗形屋孫兵衛(江)
二刷 山本九菓亭(坂)
今井七郎兵衛(京)
前川六左衛門(江)
玉水源治郎(坂)
二刷 加島屋清助(坂)
三刷 山本九兵衛(京)
山本九右衛門(坂)
鱗形屋孫兵衛(江)
三刷 山本九菓亭(坂)
今井七郎兵衛(京)
松本平助(江)
玉水源治郎(坂)
三刷 竹中清助(坂)
四刷 山本九菓亭(坂)
今井七郎兵衛(京)
松本平助(江)
玉水源治郎(坂)
四刷 竹中清助(坂)
五刷 山本九菓亭(坂)
玉水源治郎(坂)
今井七郎兵衛(京)
松本平助(江)
紙屋与右衛門(坂)
六刷 山本九菓亭(坂)
玉水源治郎(坂)
紙屋与右衛門(坂)
今井七郎兵衛(京)
松本平助(江)
加島屋清助(坂)
七刷 山本九菓亭(坂)
玉水源治郎(坂)
紙屋与右衛門(坂)
今井七郎兵衛(京)
松本平助(江)
加島屋清助(坂)
これは東北大学狩野文庫『韓和聞書帖』(天明七年奥書)に貼付された摺物である。ここにいう『朝顔日記』とは『生写朝顔話』であり、この広告によって天保三年(一八三二)正月二日刊行前後の広告であることがわかる。(後略)
新本古本何品ニ而茂御座候間御求之程偏ニ希上候 且又御不用ニ相成候節は外之丸本と見料ニ而御取替仕候 尤代銀ニ而御返し之義共御断申上候 以上
大坂五行抜本類品々
朝顔日記丸本 新浄瑠理売出し申候
前者と比べると貸本内容は同様であるが、値段は一様に安い。即断できぬにしても、「辰」は元治元年以前、安政三年の辰年かとも推測する。
一和漢共軍書るい 一冊ニ付六銅
同軍書敵討るい写本 一冊ニ付六銅
絵本仮名物るい 一冊ニ付八銅
同新板るい 一冊ニ付十六銅
諸国名所図絵るい 一冊ニ付弐十銅
《大中華文庫》(中英対訳)
〈LIBRARY OF CHINESE CLASSICS〉(CHINESE-ENGLISH)
偉大な中華文化を全世界に理解してもらう!
それは何世代にもわたる中国の人々の願望と理想である!
★今、本叢書を(中英対訳)で全世界に向け発行する意義は、中国の文化成長とグローバル化のアピールに最適のタイミングと捉えたからである。
★本叢書の編集・出版に動員された学者たちは、中国内における最も著名な”中国と西洋の文化に精通”している言語学者、翻訳家、出版家などが主要メンバーである。
★『大中華文庫』委員会は厳格に事実を重んじる学術精神で中国内の文学・歴史・哲学・政治・軍事・科学技術などの各領域で最も代表的な百余点の名著古典書籍を精選し、すべての底本についてその内容と版本を各々入念に校勘、整理の上、専門家が漢文から現代中国文に翻訳し、さらに現代中国文から英文に翻訳した、画期的な出版物である。
幽霊よりもリストラのほうがよっぽど怖いのである。
何流と聞きたいほどの良いマナー