EDNA-5.profile.半魚文庫


HP と言えば、猫の写真でしょう 6

最終更新日:2020-1-15

[解説]

エドナが亡くなった時、しばらくして母から電話があり、その折のことを当時書いたものです。母は「明彦には連絡できないなあ」とか思っていたらしいのですが、2〜3日して、電話してくれました。11月17日のことで、たしか11月19日は日文協の研究発表会があってそれに当たっていて、どうせ遅れて聞かせてくれるなら、学会が終わった後にしてくれよ、とか思ったものです(笑)。いや、笑いではなく、とてつもなく衝撃だったので。ちなみに、学会で高田先生から「これは文学研究ではありませんね」と評されたのがこの時です。さんざんな目に合いました(笑、そうこれは笑いです)。

エドナの死も悲しかったが、その後、いま20年も経って、私も様々な経験をしたなと思います。なによりも、母も、父も、亡くなってしまった。そのことが大きいですね。知人が飼い猫を亡くされたそうで、それを読み、私も、母の命日にちなんで、いま初めて公開します。ただし、もうエドナは元気だった母の思い出です。

[本文]

さらば、我が愛しのエドナ

エドナは、かつて若かった頃の僕の唯一の愛情の対象だった。僕の青春は、エドナとともにあった。

2000年11月17日、夜8時過ぎに母から電話があった。日曜日でもないのに変だなとはおもったのだが。母の口から出た言葉は、「エドナが死んだよ」の一言だった。3年ほど前に近所の猫(チョン)に噛付かれけがをし、その後、蓄膿ぎみのくしゃみをして、それがしなくなってからは頻繁に嘔吐を繰返すようになったエドナ。今年のお盆に帰省したときも、たまに吐いてはいた。

エドナは、1989年5月5日生れ。千葉県の都築さんから頂戴した猫だった。6年弱、ぼくとくらし、のこりの6年弱を僕の実家で、母に育ててもらった。

亡くなったのは11月15日だったそうである。午後7時半ごろ。前日までは爪とぎなどもふつうにしていたが、その日は、朝からすこし行動がちがっていたそうである。朝、母が父を送り出したのに付いてゆき、外へ出て、そのまま午前中は縄張を見廻りしているらしく、帰ってこなかった。11時半ごろには、あまだれの垂れる場所にじっとしてしゃがみこみ、雨だれを見ていたという。午後、2階の建彦の部屋のたんすの上にいたり、祖母の部屋の押入にいたりしたが、祖母の部屋では少し吐いたらしい。

夕方には、風呂場に水を飲みにいき、そこで一時間くらいまたしゃがんで水を見ていた。夕刻、母がこたつにいると、脇にきて小一時間そのままでいたが、2階に上がるそぶりをして歩いていったが、その後姿がすこし足がもつれている感じで、母はあわてて後についてゆくと、階段の途中のひだりへ曲がる踊り場でエドナはへばってしまった。母はエドナをだきかかえて、2階の部屋の既に敷いてある蒲団の上に寝かせてあげた。父が帰宅し、夕食を食べたあと、片付けもせずに2階にあがってみると、すこし瞳孔が開いた感じで、姿もいつものようにまるくならず、だらっとした感じである。母はすこし覚悟していた。「がんばれや」となぜながら声をかけてあげた。呼吸はふつうであったが、途中からハーハーと強い呼吸をしだした。1〜2分くらいであった。「なんぎいがあか(難儀、苦しいのか)」と声をかけた。頭や首をなでてやるが、すこし苦しそうである。急いで水をもってきてあげて、鼻や口を水でぬらしてやるが、ペロンとする力もないようである。呼吸はふつうにもどってきている。きゅうに「ニャオン」とかすれ声ではあったが、一声だけ鳴いて、向こうを向いた。見られているのが嫌なのかなと母は思い、母もエドナをみないようにした。しかし、エドナはまたこちらを向いた。すこしよだれをたらしていた。母は、ここまでは淡々と普通に話してくれたが、ここで絶句していた。電話で母がすすり泣くのを聞いたのは初めてである。母はエドナに「エドナ、もう楽になっていいぞ」と声をかけてあげた。その後、エドナは、まったく苦しむこともなく、静かにおだやかに、蒲団のうえで、母にみとられながら、逝った。

母はエドナの目をつむらせてあげ、タオルをかけておいてやった。その顔は、いつも通りのかわい気なものだった。

翌日、家の横の茗荷畑のあたりに、僕がもっていった遊び道具や最近買ったブラシなども含めて、タオルにくるんで、埋めてくれたそうである。

母は、この事を僕に話せないなあと思っていたそうである。

僕はエドナの面倒を最後までみてあげられなかった。しかたないと言いながら、最期をみとることも、この5年間を一緒に暮すこともできなかった。僕には、こうしていつも後悔が蓄積されてゆく。

しかし、エドナは幸せだったとおもう。母は、エドナを僕が実家に連れてゆくようになってから、猫を好きになったと言う。そして、この間、エドナで楽しませてもらった、と言った。猫はほんとうに可愛い。猫を好かない人もいるが、それは人生の楽しみを一つ知らない人だとほんとに思った、と言った。しかし、しばらくは飼えないとも。

エドナが死んだ翌日、父の出勤の時に、ネクタイはあっちが良いとか、ズボンはこちらがいいとか、あれこれ言うので、父が、うるせえなあと言ったら、いままでエドナに掛っていたぶん、こんどはあなたに世話を焼くようになるかもなと言ったという話や、猫の寿命の話、近所の猫の話、父が、着物を着てない子供が一人いるつもりでかわなきゃだめらと言っていた話などをしてくれたが、僕は、終始、ふんふんと相槌を打つので精一杯だった。ここまで育ててくれて、ありがとうございました。そして、かあちゃんだけつらい思いをさせてしまってすいませんでした。そう言うだけで精一杯で、僕もこらえていたが、やはり泣けてしまった。おまえもゆっくり泣いてくれ、といって母は一方的に電話を切った。

さらば、我が愛しのエドナよ。おまえの、駆け抜けた人生は、僕の孤独の青春とともにあった。そして、お母さん、ありがとう。

電話を聞きながら、ぼくはホームページにのせたエドナの記事や写真を開いて、ほんとうに元気だった1〜2歳のころのエドナの姿をみていた。

ひとつの喪失。それは、僕にしかわからない。ただ、エドナについては、母とそれを共有できる。お母さん、ありがとう。

死はつねに、センチメンタルなものではない、ひとつのつらい現実である。エドナは、すでに死んだ。私にとって、エドナは何者だったのか。そして、それが既に過去のものになってしまったということは、何なのか。

2000年11月17日 夜9時半




[猫の写真でしょう4へ(back)]
[猫の写真でしょう6へ(now)]

[自己紹介(内省のディスクール)に戻る]
[ホームページに戻る]