絵の具 | 素材(マテリアル) | 用(機能) |
図像 | 形態(フォルム) | 美(装飾) |
マンガは記号の体系である。記号とは、表現されたもの(指示・意味)である。*ソシュール記号学は、シニフェエ(意味されるもの・内容)、シニフィアン(意味するもの・形式)ともに物質性を含まない。造形芸術論としては、ここにいかに物質性を回復するかが問題である。
記号・文法とは普遍化された方法であって、誰が使っても同じ結果をもたらすものである。(赤信号はどんなものでも、止まれを意味する)。では、記号だと言われるマンガ記号も、そうなのか。そうなのかも知れない。しかし、個々の作品には、そこでのみ達成された(事後的な)意味があり、研究とはそれを(事後的に)記述していくことである。作品の固有の価値・方法を記述すること。事前に確定されるものは芸術(新しいものの達成)ではない。マンガには、記号や文法を超える力がある。……と考えるべき。記号や文法を指摘するのが学問だと考えるのは、素人の科学主義者である。
(例)私が初めて読んだ、松本大洋作品『ピンポン』 next
あらゆるモノには、二面性がある(物理性と観念性)。 このことを、一見古い!と思うかも知れませんが、最も原理的に理解するために、古代ギリシャ哲学を参照しましょう(あらゆる学問=理解の基礎が哲学であり、かつ原理的な思考方法として現代にも――かたちを変えながら、生きています)。
アリストテレス哲学におけるエイドス(eidos 形相・フォルム、イデア)とヒュレー(hyle 質料・マター)は、ひとつのものの二面性を言う概念である。一般にエイドスとヒュレーとは分離可能と考えられてきた。母の頭像は粘土で作ることもできるが、木材で作っても青銅で作ってもよい。母の像(エイドス)と素材(ヒュレー)とは独立である。プラトン『パイドン』によれば、肉体は魂の牢獄であり、死は魂の解放である(そして、哲学はその死の練習だ。そう言ってソクラテスは死んでいく 80E)。つまり、エイドス(魂)とヒュレー(身体)とは分離可能である。
プラトン | アリストテレス | ||||||
ヒト(認識能力) | モノ(外的世界) | 生成変化として | 生成変化の例 | ||||
物理性 material | 肉体(感性・五感) | 現象 | ヒュレー(質料) マテリアル・素材 | デュナミス (可能態) | 種子↓ | 樹木↓ | 木材↓ |
可分離 | 不可分離 | ||||||
観念性 ideal | 魂(理性) | イデア | エイドス(形相) フォルム・かたち | エネルゲイア (現実態) | 樹木 | 木材 | 家具 |
プラトンは実在するのはイデア(エイドス)だけであり、物質性は虚構・幻想だと考えた。万物の生成変化も認めなかった。しかし、弟子のアリストテレスはこれを批判した。物質は実在するし、エイドスとヒュレーとで互いに切り離せない関係というものがある。それが、時間や運動といった生成変化のうちにあるものの本性である。種子が樹木になる。樹木から木材が切り出される。木材から家具が作られる。それらの生成変化は、ヒュレーがエイドスとなり、そのエイドスをまたヒュレーとして別のエイドスを生成していく、そうした変転の繰り返しである。このとき、エイドスとヒュレーとは区別がつかなくなる。およそ分別不能なこのエイドスとヒュレーとを、アリストテレスは、それぞれエネルゲイア(現実態・現勢態あるいは現われた働き actual)とデュナミス(可能態・潜勢態あるいは始める力 virtual)と呼び替えたのである。
アリストテレスには、運動・変化や因果関係を4つの要素から説明する四原因(しげんいん。形相因・質料因・作用因・目的因)説もある。作用因は力であり、質料因とあわせてデュナミス概念を作る。目的因は働きの結果であり、形相因とあわせてエネルゲイア概念となる。
物理的な線(インクの染み、黒鉛の粉)が、図像(意味対象・観念)を作り出している。単なる物理的なモノが、観念・概念へと飛躍している(モノからココロへ、個別から一般へ)。或いは、対象再現という意味で言えば、鉛筆の粉やインクの染みが、描かれたものそれ自体であるかのような超出を実現している。 これは、実にあたりまえの事ではあるが、極めて不可思議な、奇跡のような現象である。
描線 | ||
①表現するための物理性、線そのもの | ||
エネルゲイア | 描線が実現する意味、観念性。表現されたもの。 |
デュナミスには、①エネルゲイアに全面奉仕する、単なる物質性である側面がある(アリストテレス的・エネルゲイア優先)。のみならず、②決してエネルゲイアに達しない物理性のままにとどまる力がある(非アリストテレス的・デュナミス優先)。
松本大洋『ピンポン』より。松本大洋の描線の魅力。安易に図像(描かれたモノ、像の意味)への還元を許さない、描線の厳しさ。豊かさ。
とは言え、ネコの図像の持つかわいらしさは、最終的にはネコという意味(エネルゲイア)に回収されてしまう。
それに対して、われわれが、さきのチャイナ(孔文革)の左手に、見るべきは、《「左手である」という意味》以上のナニカである。
このナニカ=デュナミスに触れ得ないかぎり、学問は芸術の外のピント外れの傍観者でしかないだろう。
記号学(semiology)・図像学(iconology)を超えて!芸術の中へ!
再説
エネルゲイア(実現されたもの・意味の表現)。それを実現しているのは、たしかに線そのもの(線の物質性・デュナミス)である。
しかし、コマには、意味に還元出来ない描線のちからがある。デュナミスには、エネルゲイアに至らない部分が必ず残る。
デュナミスがエネルゲイアを生成する。
ただし、デュナミスには、エネルゲイアに至らない部分が必ず残る。
なおプラトンも、実は、イデア論とは別に、こうした物質の力を認めていた。最晩年の著作『ティマイオス』のコーラ(場所)、物質の海。プラトンの場合の物質は、この世界の普遍的な物質であり、イデアも普遍的な存在(ヒエラルキー)をなす。対して、アリストテレスは、その普遍性を個別化していく。つまり実在するものは普遍者ではなく、個物である。
だから、マンガは絵画と小説との単なるあいのこ Hybrid なんかじゃないんだ。
コマとコマ Panels の間で起こるこの不思議な効果は、
マンガでしか作り出せないんだ
(スコット・マクラウド『UNDERSTANDING COMICS(マンガ学入門)』岡田斗司夫・監訳)
②「表現媒体に即した独自の表現形式の解明へ」
cf. 絵画(物語性、再現性、色・かたち、平面性)
彫刻(再現性、平面性、量塊性、重力)。
デザイン・工芸(機能、装飾)。
文学・音楽(時間芸術)、演劇・映画・マンガ(総合芸術)
マンガ(言葉、描線―記号、コマによる表現形式)
描線と文字(フキダシのセリフ)によって、コマは単体として意味(エネルゲイア)を実現している。
描線 | ||
デュナミス | ①表現するための物理性、線そのもの | |
②エネルゲイアに達しない物理性=芸術性 |
文字 | ||
デュナミス | 字体、筆跡、韻律(リズム)、言語遊戯性、声質 |
意味は、定量的に内在しているものではなく、常に生成変化する。コマ単体の持つ意味も、常に変化する。ほとんどの場合、世界は分らない所から分る方へ、不思議不可解なものから見慣れたものへ、傾斜している。しかし、見慣れたものがある日突然不可解なものへと逆に変容することもある(異化作用。反意味)。
コマは単独で機能しているわけではなく、連なっている。映画のモンタージュにも比すべき、マンガのコマの特色である。
ストーリー(運動・時間)の実現 継起性 エネルゲイアは強い | ||
ページ・見開きへの配置(大きさ・形・位置) 並存性 エネルゲイアは弱い |
第1段階 洞窟壁画の時代から、運動は表現されている |
アルタミラの洞窟画の例(ネットより) | ||||||||||||
これらを総合的に理論化したのがレッシング (独、Gotthold Ephraim Lessing, 1729~1781、詩人・劇作家・啓蒙家) | |||||||||||||
美術評論書『ラオコオン』での重要な点。 1.ラオコオン像の成立年代、作品価値について。 2.芸術ジャンルについての諸整理。
因みにフランスの芸術分類、第一芸術から第七芸術とか第九芸術とか(建築、彫刻、絵画、音楽、詩(文学)、演劇、映画、ラジオ・TV・写真などのメディア、マンガ)。なお、芸術分類に定説はありません。諸説あるだけです。 3. 空間芸術における運動表現 | |||||||||||||
空間芸術においては、運動を描くために「最も含蓄有る瞬間」を切り取らねばならない。「絵画は、……行為のただ一つの瞬間しか利用することができない。したがって、……最も含蓄ある瞬間を選ばなくてはならない。」
(絵画は瞬間を描く。だから、対象が静止していない感じに、変化しつつあるように、描くべし。それが運動表現である、と)
(しかし、これは本当か? 実は、おーきな勘違いではないのか?!) 九鬼周造『文学の形而上学』第二節(岩波文庫『時間論』青146-6 p.120)
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T・ジェリコー『エプソンの競馬』(1821年) |
※1 一般的な物語絵画は、洋の東西をとわず、異時同図的な描き方や、様々な様態の積み重ねなどによって、運動を描いている。
※2 ベルクソンによれば、時間は流れであり持続であり、瞬間などというものは存在しない。現実の世界は持続する時間のうちにある。それに対して、見ることは本質的に、視線および対象が動いていてさえも、無時間化しうるものである。それがテオリア(観照 theoria)である。芸術の課題は、ここから再びいかにして時間(持続)を回復するかにある。
絵画が瞬間でなく、そこに時間が内在していることを、改めて指摘するなどばかげている。絵画は対象を無時間的に(一望のもとに)描くことができるが、マンガはそうしないで、次々と小出しにコマへ分割しているのである。
空間芸術と時間芸術の二分説を否定する論が様々ある。主な論点は、空間芸術にも時間はあるというものである。例えば、絵画・彫刻を見る際に、文学を読み音楽を聞くような時間が必要である、だから空間芸術も時間芸術なのだ、といった意見である。具体的には、彫刻の後側を見るためにぐるりと廻る時間、絵画の諸モチーフを見るための時間、絵画のモチーフが何であるか分かるための時間(これはテーブルでカードをする男である、と言語である以上、時間が不可欠である)等々である。しかし、これらは、空間芸術が時間を持つことの決定的な打撃にはなっていない。空間芸術性が主張しているのは、諸要素を順に(継起的に)見ていくとして、その順番が決まっていない、明示されていない、ということである。文学や音楽は、文字や音が読まれ、発せられる順序が決まっている。入れ替わったら、まったく別の作品、無意味な作品になってしまう。
※3 レッシングの論を詳しく抜き出しておきます。概してレッシングは、絵画は瞬間を描くべきだと主張しながら、それを必ずしも厳守しなければならないと思ってはいなかったようにも見えます。
「ホメロスは、2種類の存在と行為とを扱っている。すなわち、目に見えるものと、目に見えないものと。絵画はこのような区別をつけることができない。絵画ではすべてが目に見え、しかもその見え方は一様である。」(12章、p.172)→絵画の中に見えないものはない、本当か?絵画とは見えないものそのものではないのか(絵の具が作り出す図像)
「要するに、絵になる事実と絵にならない事実とがあるのであって、歴史家は最も絵になりやすい事実をも非絵画的に語ることができるように、詩人は最も絵になりにくい事実をも絵画的に表現することができるのである。」(14章、p.191)
「問題を解く鍵は次の点にある。すなわち、これら二つの題材〔弓を引き射る。大勢での酒宴〕は、目に見えるものとして、いずれも本来の絵に適するものではあるが、両者のあいだには次のような本質的な相違がある。すなわち、前者は目に見える継起的な行為であって、そのさまざまの部分は、つぎつぎに、時間の経過とともに起こるのに反して、後者は、目に見える静止的な行為であって、そのさまざまの部分は空間中に並存しながら展開するのである。ところが絵画は、ただ空間においてのみ結びつけることのできる記号、ないしは模倣の手段を用いるのであるから、時間を描くことは全く断念しなければならない。だとすれば、継起的な行為は、継起的であるがゆえに、絵画の対象とはなりえない。したがって絵画は、並存する行為、あるいは、その配置やポーズによって行為を推測させるような単なる物の姿を描くことで満足しなければならない。」(15章、p.196)
「私は次のように推論する。絵画は模倣のために文学とは全くちがった手段ないしは記号を使う。すなわち、絵画は空間における形と色を、文学は時間における分節音を用いる、ということが正しいとするならば、また、記号はかならず描かれる対象と適正な関係を持たねばならないとすれば、並列された記号は、並存する対象、あるいはその諸部分が並存するところの対象しか表現できず、一方、継起する記号は、継起する対象、あるいはその諸部分が継起するところの対象しか表現できないことになる。
並存する対象、あるいはその諸部分が並存するところの対象は物体と呼ばれる。したがって、目に見える諸性質をそなえた物体こそ絵画本来の対象である。
継起する対象、あるいはその諸部分が継起するところの対象は一般に行為と呼ばれる。したがって行為こそは、文学本来の対象である。」(16章、p.198)
再掲「絵画は、その共存的な構図においては、行為のただ一つの瞬間しか利用することができない。したがって、先行するものと後続するものとが最も明白となるところの、最も含蓄ある瞬間を選ばなくてはならない。」(16章、p.199)
他方、絵画に時間が孕まれていることにレッシングは自覚的である。
「どうしても離れていなければならない二つの時点を同じ画面に持ちこむこと、たとえば、フランチェスコ・マッツオリが、サビニの処女たちをローマ人が掠奪する場面と、彼女らがその夫すなわちローマ人と、その親族すなわちザビニ人とを和解させる場面とを同一画面に持ちこみ、あるいはティツィアーノが、放蕩息子の物語の一部始終、すなわちその放埒な生活、その悲惨、その後悔をすべて同じ画面に描きこんでいるのは、詩人の領域への侵害であって、よき趣味はけっしてそれを是認しないであろう。」(18章、p.222)
「このこと(文学と絵画という敵対的な国家が、その境界線上で和解することもありうる)の例証として言うのではないが、偉大な歴史画においては、本来ただ一つであるべき瞬間が、ほとんど例外なしにいくらか拡大されている。そして、人物の非常に多い絵では、どの人物も、主要行為の瞬間にとるべき運動や姿勢を完全にしめしているという作品は、おそらく一つもないのである。ある人物はいくらか前の、ある人物はいくらかあとの動きや姿勢を見せている。……この場合、美術家が二つのちがった瞬間を一つの瞬間にまとめていることは明かである。…(足の位置と服の襞との時間的相違の例)しかし、こうした二つの瞬間を同時に見せた方が有利だと考えた画家に文句をつける者もあるまい。むしろ、表現のより大きな完全性を達成するために、あえてそのようなささやかな過失を犯した彼の分別と勇気をほめない者はあるまい。」(18章、p.224)
「これと同じ自由は、詩人に対しても当然みとめてやるべきである。詩人の描写は、もともと継起的であるから、詩人が一度に触れうる範囲は、物体的対象のただ一つの側面、ただ一つの性質に限られる。しかし、言葉をうまくあやつって、それをただの一言でやってしまうことができたとすれば、ときには第二の言葉をつけ加えても悪いわけはあるまい。それだけの値打ちがあれば、第三の言葉、いや第四の言葉でもつけ加えてもかまわないではないか。ホメロスが船と言えば、それは黒い船か、うつろな船か、速い船か、せいぜいのところ、立派に櫂の揃った黒い船のことである、と私は〔先に〕言った。…こうしたささやかな贅沢が〔車輪を描写するに形容詞を四つも付けたこと〕、少数の然るべき個所では、いかに見事な効果をあげうるかを感ずるならば、これもホメロスのおかげだと感謝しないではいられないだろう。」(18章、p.226~7)
第2段階 (1880年代) | 連続写真。エドワード・マイブリッジ(英)。映画の先駆。コマ割りの先駆。 |
(マイブリッジ『ギャロップする馬』1878年) | |
時間写真(クロノフォトグラフィ)。エティエンヌ・マレー(仏。生理学者・写真家)。 | |
残像表現。 | |
(マレー、幾何学的クロノフォトグラフィ、1887年) | |
のぞきからくり式のもの 左・フェナキスティスコープ。右・ゾーエトロープ マイブリッジ、マレーについては、松浦寿輝『表象と倒錯 エティエンヌ=ジュール・マレー』(筑摩書房・2001年)が詳しく、面白い。図版も同書より。 | |
第3段階 (1895年) | 映画(シネマトグラフ)。リュミエール兄弟(仏)。継起性の完全な獲得(空間芸術から総合芸術への変換)
マレーが述べた良い映画装置の条件、(ア)画像数の増加、(イ)画像の静止。つまり、回り灯籠形式のもの(下掲図)では、(ア)長い物語は作り得ず、(イ)確実な静止状態を作れず画像がブレる。この両者をクリアしたのが、リュミエール兄弟のシネマトグラフであった。なお、映像・動画の根本に「画像の静止」があるという点は今日でも同じ。液晶技術で要求されるのは、短時間での停止である。また、映画カメラ(撮影も写影も)でも、フィルムは不断に巻き取られてるのではなく、動と静との間欠運動を繰り返している。 |
第4段階 (20世紀初頭) | 未来派(伊)。伝統的な美の拒絶、機械文明の礼賛。 |
絵画における運動表現。 M・デュシャン(仏)。マレーからの影響。 →動線表現。残像表現。 | |
M・デュシャン 『階段を降りる裸体 No.2』 (1912年) |
※ もちろん、どこまでやっても、映画とちがって、絵画自体が動くわけではない。動いているように感じるだけである(意味として、観念として、エネルゲイアとして、動いている)。しかし、人間(意味を見いだす存在)にはそれでも十分なのである。
動く(ように見える)技術はあるだろうが、動く(ように見える)文法があるわけではないだろう。
一枚絵であっても動いている(動いて見える)。ここには、結晶化した時間がある。「直観において持続する現在」(九鬼周造)である。
複数のコマによって、同一性と差異(変化)とを勘案して、想像力がコマを繋いでいく。
……では、そのバラバラなコマを繋ぎうる想像力とは何か?神秘が別の神秘に置き換えられただけではないのか。この問題は、最終問題としてひとまず置いておこう。点としての現在と持続としての現在の問題として、改めて問うことにしよう。
コマのつながり方は、極端に言って、2通りしかない。同じモノが描かれているか(○同一性)、違うモノが描かれているか(×同一性)、である。ただし、同じモノを続けて描く場合でも、どう描くかその叙述の仕方によって細分化できるだろう。同じように、違うモノを描く場合であって、やはり細分化できるだろう。こうして、マクラウドは、次のように6通りに分類したのである。
なお、マクラウドのコマ分類に関しては、私の著書『楳図かずお論』の第7章、第8章でかなり詳しく検討しています。この二つの章は、元の発表論文がネット上で読めます。概要は、ここで説明しますが、もし興味が有れば見てください(長いです)。
第7章「楳図かずおのコマ割り理論」 _ 第8章「マンガにおける二つの省略」
1. | 瞬間型 moment | 同一物の一連の動作を表現するとともに、その動作のニュアンスや共示的意味、動作主体の心理を表現する。または、対象全体における一部分の変化を表現している。 *ショットの切り替えがあっても可 | 女の目が→閉じられた 土星に→近付く |
2. | 動作型 action | 同一物の一連の動作を、外示的(字義的・リテラル)に表現する。または、対象全体における総体の変化を表現している。 △ショット・アングルの切り替えも可 | ボールを→打つ 注がれたシャンペンを→飲み→げっぷ |
3. | 主体型 subject | ①非同一物を描く。人であれ物であれ、描く対象が切り替わる。すなわち視点の変化がある(ショットの切り替え)。 ②対象自体を外示的に表現する。 △同一対象のショットの切り替えでも可 | 惨殺行為が→夜行われた 男→女→電話 |
4. | 場面型 scene | 非同一場面を描く。別の場面・時間への転換。順序は不可逆的。 | その10年後(時間的転換) 世界中(空間的転換) |
5. | 局面型 aspect | ①同一場面での種々の様相(局面)を描く。順序は可逆的で、ストーリーは進行しない。 ②一部を見せることで、場面全体を表現する(提喩的表現)。 | クリスマスの諸相 日差し→サングラス→雲、でなく郊外で空虚な気分、いずれも可逆的 |
6. | 関係なし型 non relation | 無関係。ストーリー優先でない。 | アトランダムな狂気 明白な意味を持たないインサートショット |
このコマ分類は、正解か不正解か、というよりは、作品の読み・理解そのものである。たとえば、部屋→机→ナイフ、の場合、単に「部屋ですよ」なら局面型だが、「後に凶器となるナイフがここにありましたよ」なら主体型である。つまり、初読が二度目かでも変わってくる。
まとめ:
対象物、連続 | 意味・表現 | 分類型 | |
同一物 | 一連 | 共示的、部分的 | 1. 瞬間型 moment |
外示的、総体的 | 2. 動作型 action | ||
非同一物 | 一連 | ①同一場面、②外示的 | 3. 主体型 subject |
非連続 | 非同一場面、②外示的 (時空の転換) | 4. 場面型 scene | |
一連 | ①同一場面、②提喩的 (諸様相) | 5. 局面型 aspect | |
非連続 | 無関係、インサートショット (時空の転換) | 6. 関係無し型 non relation |
図版:再掲
修辞学(レトリック)余談:比喩の4態
名称(別名・英語) 特徴と原理: 例文 直喩(明喩・シミリー simile) 類似性:
(似ているもの)両者の明示: 雲のような綿アメだね 隠喩(暗喩・メタファー metaphor) 比喩対象の隠匿: その雲おいしそう。うらなり、やまあらし、坊ちゃん 換喩( 転喩・メトニミー metonymy)近接性:
(近くのもの)赤頭巾ちゃん、赤シャツ、メガネくん。
ランドセルが歩いてきた。
親戚を県名や都市名で呼ぶ提喩(シネクドキー synecdoche) 全体と部分:
(包摂関係,集合と要素)人はパンのみにて生くるに非ず(パン<食物)。
しずこころなく花の散るらむ(花>桜)。
漱石を読む(人物>作品)。
絵を見る(ジャンル>作品)。
ガンバレ日本(国籍>日本人選手)。
大阪人は笑いのセンスがある(府民>個)注:類似性(似ていること)と近接性(近くにあること)とで比喩を区別するのは、明快だと思います。この二つの性質は、連想を成立させる二つの独立要素とも言えます。それに比べると、提喩は換喩と明快には区別できないと言う人もいます。近接性とは全体における部分の置きかえだ、というわけです。メガネや赤いシャツはAさんの近接的な置きかえであるが、Aさん(全体)における一部(装身具や衣裳)だとも言える。以上をまとめると、類似性と近接性とは区別可能だが、近接性と全体・部分とは境界が曖昧だ、ということです。
類似性に基づく比喩のうち、比喩表現と比喩対象とがどちらも明示されているのが直喩、比喩対象が隠匿されているのが隠喩です。近接性に基づく比喩には、比喩対象が隠匿される例しかなく、どちらも明示される例が無いのはなぜでしょうか。「三つ編みのセーラー服が歩いてきた。」(換喩)、「三つ編みの髪形でセーラー服を着た中学生が歩いてきた。」これは比喩ではなく、字義的な表現ですね。
以下、実際に適応してみましょう。
(ひらいまさね『幸福の合唱(コーラス)』金園社・刊記有り・1956年刊)。舞台劇的手法。多少の場面転換はある。動作型と主体型である。もっとも単純なコマ割り。小津安二郎風?
マンガにおける映画的手法の内実。
①はワンショット、③④はモンタージュ、②はどちらでもありうる。マンガにおける「映画的手法」という場合、これらの諸点が混同されて語られるので、きちんと区別しないといけない。今日では、映画的=手塚、というわけではない、という議論がなされている。
左・大城のぼる『汽車旅行』1941年、右・手塚治虫『新寶島』1947年
【図】石森章太郎『龍神沼』1961年の作品。カットバック(正確にはパラレルアクションと言う。複数の舞台を切り替えながら表現する。動作型と場面型の複合)
やっぱり大友はすごいな、という気はしますが、技術的な意味ではすでに石森が十分に展開している。amazonレビューに「単純明快で良い」とか書いてあるが、とんでもない。1961年段階でこんな作品が描けるなんて、異次元人である。楳図も、もうすこし地味な作品を描いている(か?)。
1・3・5のみを取り出せば、単純に動作型。その間へ2・4を挿入している。つまり主体型として、ショットの切り替えがある。カットバックもまた映画の手法であったが、それがマンガにも応用されたのである。
マンガは、他の映像メディア(映画)と比較すると分かりやすい部分がある。
*感動的なので、あとで全部見ておいてください。私がこのVTRで言いたいのは、正真正銘のノーカット、まさしくワンショットであるということです。白紙をよむ勧進帳。
*ショットの切り替えがあることを確かめて下さい。描かれた時間は連続していますが、ショットは切り替えられています。映像を特に意識して作ったり見たりしていないと、この切り替えに気付かない人もいるのではないですか。 以下、セリフを書き出していますが、 ---- のところで、ショットの切り替えがあります。カメラは二台で、一発録りでしょう。[cf. 男はつらいよ/寅次郎紙風船]
----(クリスマス音楽)車さん、速達です。
はいごくろうさん、ども。
お兄ちゃん。これお兄ちゃん宛よ。
だれなんだ。
----
日の丸物産株式会社。
寅が試験受けた会社じゃないか。
ほら、ちゃんと通知、来たじゃないの。
いいチャンスだぞ、お前の人生を変える。
そうだよ。
----
折角だから、封切ってみるか。
うん。
----
どれ、おれが見てやる。
ねえお兄ちゃん。
ん。
----
みつえさんとの間に何があったか知らないけど。一ヶ月でも二ヶ月でも働いてみたら、あの会社で。ね。そしたらまた新しい世界が開けるかもしれないじゃない。ねえ、おいちゃん。
ううん。
どしたの。
なんて書いてあんだい。出社はいつだ。
----
見えねえんだよ、メガネがないから。
しょうがないねえ、ちょっと貸してごらんよ。「このたびは当社の就職……」あたしも見えない。
何やってんのよ。
----
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お前も目、悪くなったのか。
----
ごめん。不採用だって。
----
(音楽~)
ふふふふ。はははは。こらあ、とんだ三枚目だ。
(それにしても四人とも上手いです。寅はテキヤで、職業に貴賎はないとすべきだが、徹底して定職持ちのみがまともな人間として描かれている。残酷な差別主義を背景に描かれた、監督山田洋次はもちろんその残酷さに自覚的である、人情悲喜劇である。寅自身もずいぶん我がままな存在として描かれてもいる)
[cf. AC広告機構 黒い絵]
用語の確認:ショット(フィルムの切れた単位)、シーン(描かれた場面の単位)、シークエンス(描かれた物語の単位)
この作品には、時間的な飛躍(場面転換)があります。場面は、学校(教室、教務室)、少年の自宅、病院(診察室、病室)、体育館。マクラウドのマンガのコマ分類は、こうした映像作品のシークエンス分類にも、おおよそそのまま使えます。冒頭部分、黒い絵の前に三つの絵が提示されます。ピカチュウ、ピンクの兔、クワガタムシです。このシークエンスが表わしている意味はなんでしょう。ある子は黄色いピカチュウを、ピンクのウサギを、茶色いクワガタをそれぞれ描いている、でしょうか(これなら主体型です)。そうでなく、それぞれほかの子はみな全員カラフルな絵を描いている、ではないでしょうか(これだと局面型です)。主体型はそれ自体を示しているのに対して、局面型は描かれたものを含む全体を表現しているわけです。作中、描かれる病室で黒いクレヨンを塗っているシークエンスも、「黒く塗っています」という動作型というより、「ともかく描き続けています」という局面型でしょう。両親、教員、医師や看護師がもう呆然としていますが、その中で、担任教員が少年の机の中から何かを見つけます。ここの意味はなにでしょうか。呆然としているだけなら局面型ですし、何かを見つけたも局面型です。ここは、パズルのピースを見つけた!という動作型、いや、机の中にあったパズルのピース!という主体型でしょう。担任教員の動作は緩慢で気付きにくいものですが、続く看護師の動作は大きく、ここで一気に何かが発見されたことが、この大きな動作で明示されます。最後に現われたものは、何でしょうか。クジラでしょうか。あるいは、たんに黒い何かかもしれません。すこし分かりにくいですよね。それが何か、そのエネルゲイアが明確でなくても良いのです。それが何であるか分からないこと。未規定なもの。デュナミスこそが想像力を起動させるのですから。《子供から、想像力を奪わないでください》。……なぁんてね。
マンガと映画の対比に戻っていきましょう。
モンタージュ……物理的には至極単純。つなぎ方には2種。オーバーラップ(二重露光、ディゾルブ。フェイド)、ストレート・カット(そのまま繋ぐ)
モンタージュ理論……モンタージュを使った映像の典型例がエイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』(1925年、ソ連)。クレショフ効果。男の顔→スープ、というモンタージュと、男の顔→女性からの手紙、というモンタージュ。男の顔は同一であるにも拘わらず、前者の顔は「空腹」を意味し、後者の顔は「失恋」を意味する、といった効果。
クリスティアン・メッツによるモンタージュ・タイプ(「フィクション映画における外示の諸問題」『映画における意味作用に関する試論』浅沼圭司訳、水声社。2005年刊。原著はジェイムズ・モナコ『映画の教科書』フィルムアート社にも)。連辞(=シーン、ショット)が、どのような関係で編集されているか、それを8つに分類した。
連辞(シンタグム、サンタグム):もともとは、論理学や言語学の用語。主語と述語など、言葉をつなぐ、その関係。映画では、映画作品を構成する諸要素(ショット、シーン、シークエンス)の物理的な連続配置が、意味的にどのような関係にあるか、これを連辞関係として転用している。
同一(対象、時間・場所)か否か、物語的な連続がある、外示的か組織的か、これらの観点により8つに分類される。
以上のメッツのモンタージュ分類が恣意的で分類困難なものも多いのは、マクラウドのコマ分類と同じである。が、ある程度有効。また、この二つは、必然的に類似してくる。同じものか違うものか。時間順か否か。それ自体か(字義的)、それを含む全体(比喩的)。そしてどちらも言語還元的。
しかし、決して同じではない。それはマクラウドとメッツの性格的厳密さの違いか?、あるいはマンガと映画の違いか?
メッツ・モンタージュ | マクラウド・コマ | |
1. 自律的ショット インサートショット ショット=シークエンス | 6. 無関係型 4.場面型 | |
2. 並行連辞 | 4. 場面型、3.主体型(非因果的) | |
3. 括弧入り連辞 | 5. 局面型(可逆的) | |
4. 記述連辞 | 5. 局面型(不可逆的) | |
5. 交替連辞 | 4. 場面型、3. 主体型(因果的) | |
6. シーン | 1. 瞬間型、2. 動作型、3.主体型 | |
7. 挿話的シークエンス | 1. 瞬間型、2. 動作型、3.主体型、5. 局面型 | |
8. ふつうのシークエンス | 1. 瞬間型、2. 動作型、3.主体型 |
複数の場面・主体を交互に描いている(因果あり、因果なし) |
一連の場面・運動・出来事を複数の局面によって提喩的に描く(可逆、不可逆) |
一連の場面・運動・出来事を一つの連続体として字義的に描く(多少の比喩表現はあり) |
結論:映画には、瞬間型と動作型の区別が無い。
↓
ショットの不確定性:描かれた連続体がワンショットかジャンプショットか区別不能。
マンガのコマは、そもそもとぎれである。が、連続表現を実現しているからだ。
☆用語説明:インサートショット(インサートカット)。挿入(インサート)されたショットはすべてインサートショット、というわけではありません。一連の映像表現の中で独立的なショットがインサートされている場合を特にインサートショットと呼んぶのです。独立せずに連続している(一連のものになっている)ショットは、ふつうのモンタージュ(マクラウドで言う主体型、あるは視線の同一化)です。たとえば、本を読んでいる人物のショットの間に、本自体のショットを挿入する。
関係なし型と関連して補足すると。マクラウド自身は「そもそもコマとコマとで「まったく何のつながりもない」ってことはあるんだろうか?……僕はないと思うね」(八一頁)と自問自答するように、関係無し型でも何かしらのニュアンスは表現されるだろう。ただし、逆もありうると私には思われる。インサートショットはもとより、描かれたものがたとえ同一物であっても、二つのコマに意味的なつながりを見いだせない場合、これを関係なし型と言うことができる。たとえば、二人がファーストキスをする。その動作の間に三日月を描いたコマが一つインサートされる。本日の月は三日月です、三日月が見ています、と言いたいならば主体型だし、夜ですと言いたいのなら局面型だろう。しかし、このコマの意味は一呼吸置くインサートショットつまり関係なし型なのだ。あるいは、Aさんが部屋で寝転んでいる、机で手紙を書いている、畑仕事をしている、と三つコマが連続しているとしよう。Aさんののどかな田舎暮しを意味しているならば局面型であるが、それぞれに意味的なつながりがなく、ただたんにAさんが何か(何でも良い)をしていることしか意味しないとき(ショット=シーケンス)、これが関係なし型である。
映画だと、小津安二郎のインサートショットが、ピローショットといわれて有名です(が、youtubeなどでは、分かりやすい例が見つからない)。
まず気付かされることは、マクラウドの局面型は、メッツ的観点からは「3.括弧入り連辞」と「4.記述連辞」とに細分できるということである。どちらも因果関係は持たないが、単純な前後関係は持つ。局面型において示される複数の局面が、可逆的な場合と不可逆的な場合とで区別可能であり、メッツはこれを区別している。ただしこれはマクラウドとメッツの違いであって、マンガと映画の違いではない。しかし、次の点はそうではないだろう。
メッツには、マクラウドの言う瞬間型と動作型の区別はない。メッツ的には、瞬間型も動作型も、ある一つの連続する動作の表現(メッツの6~8)でしかない。連続する映画では、この二つは同じものなのだろう。
このことから逆に(相反的に)、気付かされることがある。
一連の運動・出来事の表現のうちに、メッツはシーンとシークエンスを、飛躍・とぎれ(hiatus)の有無によって区別していた(メッツの6と7・8と)。シーンとシークエンスの区別は、たぶん専門の映像作家でも曖昧または印象的なもので、その上でさほど支障なく使っている言葉だと思うので、それを学者が厳密に定義付けることにどれほど価値があるのか私は判断しないが、ただいまの私の興味という点からは、このメッツの区別は極めて示唆的である。とぎれのあるものがシークエンスであり、とぎれのないものがシーンだとして、マクラウドのコマ分類にはそうした区別がなかった。なぜだろうか。それは、マンガにはそもそもコマの間に飛躍・とぎれがあるのかないのか議論のしようがないからである。と言うよりも、すなわち「断絶としてのコマ」は、とぎれそのものでしかないからなのだ。
このことをメッツに即して言うなら、マンガのコマは連続するシーンを作れず、シークエンスしか作りえない、ということになるだろうか。マンガにおけるメッツ的な意味でのシーンは、一コマ画面の内部でしか成立しないのだろうか。 そんなはずはない。むしろ逆で、コマというとぎれによって連続する運動を表現しているのがマンガなのだ。
映画は、ショット(連続して撮影された1単位。カット)をモンタージュ(編集、合成)している。ならば、次のように対応しているのか?
マンガ | コマ単体 | コマ |
映画 | ショット | シーン・シークエンス |
そうではない。マンガの連続するコマは、ワンショットのシーンも描き出している。なぜならわれわれは動いていると思ってマンガを読んでいるのだから。さきほどの連続的運動性はこの例である。しかし、それがワンショットの一連の運動であるという証拠も、また無い。
ショットの不確定性(例1)
この、走ってくる博士は、ワンショット(途切れがない)か、ジャンプショット(中抜きショット)なのか。
ふつうはワンショットに見えるが、ジャンプショットとして読むことも可能である。逆に言えば、複数のコマによって「決定的にワンショットでしかない」運動を表現するのは、不可能である。どれほどコマを増やしてみても無限分割は可能だからだ。古代ギリシャのパラドクスになぞらえるなら、飛んでいる矢は動かない、である。それは、運動(線)は瞬間(点)に還元出来ない、逆に言えば点(瞬間)を集めても線(運動)にはならない、という意味である。「点としての現在」と「直観において持続する現在」との区別(九鬼周造)である。
ちなみに、ベルクソンは『創造的進化』第4章で、映画を批判して、瞬間によって運動・時間といった持続を合成しようとするがそれはニセモノである、つまり映画の運動はニセモノだ、あるいはアキレスと亀や飛んでいる矢は動かないなどのパラドクスは映画的なウソだ、などと言った。これに対してドゥルーズは『シネマ』で映画を擁護して、映画の運動と時間はニセモノではなく、ベルクソンもまた『物質と記憶』第1章ですでにこうした「運動イメージ」を、「動く切断面(ショット)」と「時間的な平面(ショット)」がショットとモンタージュを通して与えているのだ!と評した。が、マンガについては映画やアニメーションとは全く違うとして、ディスっている。「映画は、連続しているという印象を与えるように選ばれた任意の瞬間に即して、すなわち等間隔の諸瞬間に即して、運動を再現するシステムである。これとはまったく別の或るシステムがある。それは、一方のポーズが他方のポーズのなかに移るように、つまり一連のポーズが《変換 transform》されるようにそれらのポーズを映写 project してゆくことによって、運動を再現する、と言えそうなシステムであるが、それは映画とは無縁である。」(『シネマ1』、p.10)
私たちは、ドゥルーズが映画を擁護するために敬愛するベルクソンを批判したように、マンガを擁護するために敬愛するドゥルーズを批判しなければなりません。マンガはポーズ(姿態)のプロジェクト(投影)ではない。 ☆
用語説明:ジャンプショットとは、同一物の一連の動作を、同じ画角(アングル)からの断続的な(中抜きされた)ショットによってモンタージュしたもの。ショット同士は連続かつ不可逆(対応する現実の順序通り)に接続されるが、時間の「とぎれ」がある。自然数から3の倍数を中抜きして1,2,4,5,7,8,10……、の類。無理矢理な中抜きの結果とぎれが生じ、時間は短縮される。以下実例を示したいが。博士が走ってくるような適切な例が案外見つけられない。かわりに、ユーチューブでよく見かける、ブチブチ切れた解説動画。これが現在のジャンプショットの典型で、撮影上の不手際か、無駄な部分を省いただけの単純な時短テクニックだろうが、なんとなくリズムが生まれる。マンガ的で、映画のマンガ化といっても良いか。
これも、ジャンプショット(=ショットの切り替えがある)に見えるだろうが、ワンショットとして読むことも不可能ではないだろう。映画の手法をマンガが学んではいるが、マンガの手法がすべて映画に還元可能なわけではないのである。
大友克洋『童夢』1983年、双葉社、216頁
「ショットの不確定性」説
コマによる連続的な表現は、映画でいうところのワンショットに相当するのか、それとも、ショットの切り替えやジャンプショットのような表現なのか、判別できない。という説。
マンガは、映画から多大な影響を受けている。あるいは、借りている。しかし、直系の子孫ではないだろう。
ショットの不確定性とは、たんに映画文法に依拠しすぎたために生じた概念ではない。むしろ、マンガのコマ割りは、映画の ショットやモンタージュには還元できないものであることを示している。
未定稿 2021-04-21 (Wed)
絵巻、紙芝居がある日本文化
「日本はなぜこんなにマンガが発展したのか?」という(日本すごい式の)問いに対して、「手塚治虫がいたから」という回答が一時期流行った。一人の天才に理由を求める態度であるが、半ば事実かもしれない。手塚が亡くなった直後、その顕彰の意味でリップサービス的に流行ったとも言える。手塚はいつもトップランナーだったわけではなかった。
「間を大切にする日本文化」みたいな言説は、先のS・マクラウドも述べていたものである。私はそうした文化の本質主義(当該文化にはそれがそうなる必然性がある、と考える)を嫌うが、 なぜなら、そもそも、かつてほど日本のマンガの優位性は保証されていないからである。90年代以降、アメコミも水準はあがったし、フランスのBD(ベーデー)はそれまで日本人があまり知らなかった。
とはいえ、マンガ家で理論家でもあったみなもと太郎が言う「紙の視覚文化が発達した日本」という説には、すこし惹かれるものがある。絵巻や、紙芝居など、外国には無いのだそうである。本当か?古代エジプトの壁画は?パペットなどの人間劇は世界中にあるが、紙で劇を見せる文化は日本にしか無い!?
細木原青起『日本漫画史―鳥獣戯画から岡本一平まで』大正3年刊(岩波文庫 2019年刊、青582-1)は、日本のマンガを歴史的に跡づけて、その起源を伝・鳥羽僧正作『鳥獣戯画』と見なし、その他の絵巻物。大津絵、近世絵画(英一蝶、探幽。北斎など浮世絵)、明治以降の漫画など通覧している。途中はさておき、鳥羽僧正『鳥獣戯画』と葛飾北斎『北斎漫画』は、日本マンガを語る時のメインキャラクターの一人でアリ続けた。
こんにちさらには、アニメーション作家・高畑勲の『一二世紀のアニメーション』などで、絵巻物がまさしく動く絵(アニメーション)そのものだ、と指摘した。この本は、絵巻を研究する日本美術・日本文学研究者らも一目置くほどのレベルである。
ところが、他方で、私も嫌う日本文化の本質主義的な態度を、さらに徹底的に批判するがゆえに(か?)、今日のマンガ(戦後マンガ)に『鳥獣戯画』や他の絵巻に求める態度を完全否定する立場の人々もいる。その実績的な中心は大塚英志である。かなり説得的な議論を展開していると思われるが、私は、それは言い過ぎのような気もしている。
これらの説を、すこし頭のかたすみにおいて、次の並存性の問題に移っていきましょう。
マンガが映画と違う点は他にもある。
マンガはあくまで、見開き単位で鑑賞する芸術だろう。継起性にくわえて、マンガは総合芸術として並存性も有している。
レオナルド・ダ・ヴィンチならば、マンガの並存性をバカにしただろう。フレスコの壁画について、次の様に述べているからだ。
アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂 ピエロ・デッラ・フランチェスカ。こういうのはダメだというわけ。
レオナルドは壁画の原理として、アリストテレスがかつて悲劇の定式化をして述べた時・場所・行為の三一致にも比すべき、「一壁画、一空間、一場面」という三一致の原則を打ち立てているのである。そうしないと絵をみて感情が沿わない、と言います。比較的短い時間を描いた『最後の晩餐』などはそうなっている。
レオナルド『マギの礼拝』(修復)。ただしこれは壁画でなく板絵。
主題を真ん中におき、他を小さく脇に配置していくという、遠近法的な異時同図。さて、だとすればボッチチェッリ『モーゼの試練』は、大きさも同じ異時同図だから「愚かさの極み」なのか。
そもそも人類には、さかのぼるとこういう絵がある。やはり「物語」ではあるが。《センネジェムの墓》エジプト、テーベ。ゴンブリッチは次のように言っている。
エジプト人たちは、イメージ(図像)を違った目的で用いていた。ここでわれわれはレオナルドの問題に再び戻ってくる。古代エジプトの墓室の壁では、イメージは、たしかに何段にも重なった層に分かれている。しかしその役割は、象形文字による銘文から死者に奉仕するためのさまざまの仕事や死後に待ち受けている裁きの場面にいたるまで、なによりもまず象徴的なものであり、ほとんど絵文字と言ってよい。それらのイメージは、ちょうどテキストを読むように順を追って読まねばならないものであり、そのためには、何層にも重ねることはほとんど不可避のこととなるのである。E・H・ゴンブリッチ『手段と目的―フレスコ画の歴史』高階秀爾訳、24頁
ゴンブリッチは非常に頭が良いが、時によすぎてしまう。絵(イメージ)と文字(テキスト)との区別を、自明視することで、レオナルドの(無理な)主張を是認しようとしている。「絵を重ねて描いてはいけないが、文字なら重ねてもしょうがない。エジプトの図像は文字なのだ……」と、ゴンブリッチは解釈した。レオナルドの主張は絵における感情移入の一つの理想だが、しかし、ボッチチェッリの妥協のほうが正しいと、マンガ研究者の私は思う。
何層かに重ねられたマンガは、絵文字によるテキスト(象形文字の文章)なのか?まさか!壁画ほど大きくない(視点の高さを問題にする必要は無さそうである)せいもあるが、マンガはあくまで絵画だ。なぜなら、順序を必ずしも一元的に決定されていないからである。(すごい絵だから、前に戻ってしまう。絵画は一望的な対象だが、それは、順序を定めず視線が動きうることを意味している。ならば、一意に順序を決定しないコマ割りは、まさに絵画=一画面である)
もちろん、層をなすフレスコ壁画も、レオナルドの希望に反して絵画だ。……と言いたいわけです。
(例1)大場つぐみ・小畑健『デスノート』第8巻
このシーンを最も感動的に読む読者は、右頁1コマ目の、総一郎の目の色の変化に興奮し、読むのに(理解に)時間がかかる『デスノート』。
マンガのコマ割りには、読むべき順序が記号・文法的に決まっているにも拘わらず、われわれはその順序を飛び越えて、読み進めてしまう。作品が読める、とは記号順に操作しうることでなく、自分のペースの順序を対象から読みとることである。この時現われるのは、絵画の本質的欲望である一望性(並存性)である。段にわけられているものを一望する。それは技術(読む技術、さらにはそれに信頼した書く技術、習熟を必要とする)ではあるが、文法(だれもが使える方法・手順、習熟を必要としない)ではない。
いわゆる「早すぎた埋葬」。死者が墓所からよみがえってしまった!しかも腐ったまま。このしつこいコマ割り。もどって読んでしまう。瞬間型よりさらに、あらたに反復型と私は名付けました。
(例2)楳図かずお『おろち』
(例3)大友克洋『サン・バーグズビルの想い出』(所収は『SOS大東京探検隊』講談社)もっとスマートでシャープな例。
自作解説で大友は次のように述べる。「内容は、全体的にペキンパーの影響が強いです。「ワイルドバンチ」なんかの同時進行的なカット割りみたいに細かいカットをランダムに並べた銃撃戦とかを、描きたくてしょうがなかった。これはそういう映画独自のカット割りを漫画でやりたかった作品です。」
この室内での早撃ちの銃撃シーンは、コマの配置もコマの内容もランダムで一意な継起性を形成しない。
ワイルドバンチ 銃撃シーン 約6分
(例4)1970年前後の石森章太郎
画面の並存性をもっとも重視・展開したのが天才・石森章太郎であろう。
コマの並存性
礼拝堂の壁に絵を描く者たちが皆従っている一般的なやり方は、まことに嘆かわしいものである。彼らは、風景とか建物をある高さのところに描いて、ついでその上に、違った視点による別の場面を描き、さらに三段目、四段目という具合に、一つの壁に四つの視点から見られた四段の絵が上下重なるように描くが、これらの画家たちのやり方は、愚かさの極みというべきである。われわれがよく知っているとおり、視点は、その場面を眺める者の目の高さに対応しなければならない。(絵画論『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』岩波文庫、二四一頁)
さまざまの事件に内容が分かれている聖人の生涯を一つの壁面に描くときにはどうするかともし君が尋ねるなら、私の答えはこうである。君は、その場面を見る観客のちょうど眼の高さのところに前景の平面を設定し、その面の上に最初の場面を大きな尺度で描き出さなければならない。それから、奥の方のいろいろな丘とか野原に人物や建物などを次第に小さくなるように描いていって、全体の物語のための舞台設定をしなければならない。そして、壁面の残りの部分に関しては、人物と関係させて大きな樹木を描き込んだり、もし物語の内容がそれに適しているならば天使とか、あるいは鳥とか雲などで埋めるようにすればよい。もし他のやり方で描こうとするなら、君は無駄に努力を費やすことになるだろうし、君の作品も駄目になってしまう。(前文の続き)
タテぶち抜きのコマ(『闇の嵐』) | これはパクリではないか。工夫としては、パラレル・アクションを使ってある。 (手塚治虫『日だまりの樹』) | |
風とフラッシュのカットバックから、黒ベタの大ゴマへの落差。(『仮面ライダー』)
アップ、ミドルショットなどの配分は完璧だろう。マイナンバー(右頁4コマ目のネームの国民総背番号制)も仮面ライダーにやっつけてほしい。(『仮面ライダー』)
戦闘シーンを不等辺四角形でモンタージュし、そこにかぶさるオノマトペ。動作を局面的に見せている(『イナズマン』)。地味だが、職人業的にうまい。
1コマ目のカーテンのゆれは、怪人の侵入を表現している。2コマ目へはイマージナリーラインを越えるが、極端な俯瞰からゆえ気にならない。2コマ目以後も石森ならではの幾何学的なコマ割りで、長ゼリフも飽きさせない。
(『ロボット刑事K』)
単純ゆえに大胆な4段割りで、静と動とを対比的に表現する。これを逆に、このままアニメにしたらチープな映像になってしまうだろう(『サイボーグ009』)。そこが、アニメと漫画が違う、不思議なところ。
動線とコマ枠が一体化している。そして、カットバック(落下中のライダーと、ライダーの視界)を、因数分解したような(セリー毎に集約している)コマ構成。加速落下のみならず、ゆるやかにスピンしているのに気付きましたか?
(『仮面ライダー』)
大ゴマに点景としての人物。これも石森は多用するが、ともかくすごいコマ構成。
びっくりして前に戻って確かめるのでなく、じっくり最初から絵を理解して読み進めたい。
(『ロボット刑事K』)
見開きで見せる絵は、ノドの部分で切れているからみっともないし不自然だが、それを自覚してギザギザを入れ、装飾的にこれを回避してしまう。こういうアイディアを天才的って言うのでしょうね。
(『龍神沼』)pdf ただしカナビポータルのアクセスのみ
(例5)楳図かずお
「漂流教室」1972年。継起性を重視した細かいコマ割りが楳図の基本である。
『わたしは真悟』1982年、しかし、実際は並存性も利用している。エレベータで東京タワーを昇る、さとるとまりん。
継起性と並存性の両方をひととおり見た上で、あらためてレッシング的な2つの芸術形式(時間芸術/空間芸術)の区別を、総合的に考察してみよう。
連辞と連合―言語学の用語/あらゆるメディアが有する二つの性質(継起性と並存性)
連辞(れんじ) syntagm | → 継起性 succession | 連接関係(仮言的) conjunction |
連合(れんごう)paradigm (範列とも・はんれつ) | → 並存性 coexistence | 離接関係(選言的) disjunction |
連辞―連合の関係は言語をモデルとしているが、継起性―並存性とパラレルの関係にあり(つまり観想と時間の対立のうちにあって)、または連接的―離接的とも言い換えられる。
[連接的]主述の関係(AガBスル)、修飾関係(BスルA)、因果関係(AガBナラバ、CハDデアル)
[離接的]どれか一つしか選ばれない関係。例えば、サイコロの目は、離接的である。では、性は離接的か?結婚相手は離接的か?人生は離接的か?性も結婚相手も。並存性とは複数のものが同時に選ばれている関係である。
さらに、連辞―連合関係は、言語以外の諸媒体にも想定可能であり、それぞれの媒体において顕在(現働化)/潜在(潜勢化、または抑圧)の関係を見ることができる。
言語 (もっとも基本的本来的な連辞―連合関係)
私は―真っ赤な―リンゴ―です
―青い ―梨
彼は―
子犬は―白い ―天使 ―です
おれは―金美の ―学生 ―ではない
言語において、連辞は顕在化しているが、連合は離接的であり、潜在化(抑圧)している。
[時間芸術]時間は自然に自動的に作り出されており、瞬間的な一望(観想)は不可能である。
しかし、和歌における掛詞【かけことば】は、連合を顕在化させることができる。だじゃれ、かばん語。
わびぬれば身を浮草の根を絶えて さそふ水あらばいなむ(往なむ/否む)とぞ思ふ。
また、ドゥルーズ=ガタリの言う「離接的総合」とは、ほんらい離接的な要素が同時に表われることで、具体的に言えば相矛盾する世界(パラレルワールド的な)のこと。ただし、それは決してSFの夢物語ではなく、この現実世界においてもそれは可能だとされる。実現したこの世界は、実現しなかった様々な夢から成り立っている。
潜勢的なものの現働化とは、こんにちドゥルーズ=ガタリなどの現代思想の一大モチーフだが、突き詰めればアリストテレス哲学の現代的な読み換え・建て直しである。現働化 actualizeはエネルゲイアであり、潜勢化 virtualize はデュナミスである。この場合のデュナミスは、エネルゲイアに還元される単なる素材ではなく(可能性 potencialize)、還元されきらず実在する、他の可能性の共存としてのデュナミス、それがヴァーチャリティである。
絵画
赤いリンゴ(の絵)
天使のような白い子犬(の絵)
絵画において、連合は顕在化している(並存的に一挙に与えられている)。連辞は成立していない(?)。
[空間芸術]無時間的。観想(theoria テオリア)。一望可能性。絵画はじつは修飾関係(BスルA)であって、主述関係(AガBスル)ではないのだ。
絵画においては、その一望的な並存性において連合は顕在的である(画面上に様々なものを同時に並べうる)。対して、連辞(継起性)は潜在的であり、抑圧されている。描かれたものが何であるか判明する限りにおいて(例えば、この絵にはテーブルでトランプをする二人の男が描かれている)、そこには言語的な連辞関係が成立するはずなのだが、テオリア(観想)はそれを無時間化してしまう(主述関係を修飾関係に置きかえていく)。
絵画を言語的に見る学問が図像学(イコノロジー)である。
cf. テオリア(観想)について ―「愛の時間」(加藤幹郎)と「知の時間」(テオリア)
写真
赤いリンゴ(の写真)
天使のような白い子犬(の写真)
写真は、絵と全く同じである。……とは、かなり荒っぽい議論ですね。「図像」という点では当然共通しているが、写真は外界の光学的射影であって、すなわち外界を直接に(?)写し取っている。絵画は、人間的な(間接的に)操作が加わっている。この図像に含まれる時間も同様で、写真は外界(の時間)を直接に写し取っている。「それは-かつて-あった Ça-a-été. That-has-been-inter.」(R・バルト『明るい部屋』)INTERSUM (撮影された過去と見ている現在との)間にある。に加えて、同時性を実現している。「それは-かつて-ともに-あった That-has-been-with.」。絵画は、この同時性を虚構的に作り易く、その点ですべての絵画は異時同図なのである。逆に言えば、絵画では異時か同時か保証・証明することができない。写真は、時間の間とともに、空間の間をも実現している。
絵画はさらに恣意的であるが、厳密であるように見えて写真は、映画とは異なった方法で、時間を延長したり、外界世界を虚構化したり、している。
映画
天使のような白い子犬が、赤いリンゴに出合うストーリー
[総合芸術]
一画面においては絵画的。ストーリー展開としては言語的。
(連辞・継起性の拡大)二つのとぎれ:①物語的な省略、②モンタージュ。時間の切り貼り(連続する一つの音楽に、不連続な複数の動作・風景が合成される。あり得ない世界?)。音楽が全体を一つに繋げてはいるが、ジャンプショットと違い、もはや対応する(ひとつの)現実は存在しない。それは(映画の中の)現実である。
(連合・並存性の拡大)テイクの濫用。 ショット、シーン、シークエンス。
・映画を構成する物語的諸要素として、ショットに先だって、テイクという要素がある。役者は同じ演技を何度か行い、通常、最も良いテイクが一つだけ採用される。テイクは、他のテイクに対して離接的、連合的である。しかし、アラン・レネ『去年マリエンバートで』や紀里谷和明『CASSERN』は、複数のテイクを採用して連合関係を混乱に陥れた名作である。
紀里谷和明『キャシャーン』 あなたは戦ったでしょ。 今この国のためにやらなければならないことがあるということです。 自分から望んで戦争に行ったじゃない。 お前は戦争がどんなものかを知らない。 ルナ、逃げろ。 何言ってるの。 おれと一緒にいたら、お前まで殺されてしまう。 またわたしをひとりにするの、 ひとりにしないで。 ルナ、聞くんだ。 お前も見ただろう、人間が、人間でないものに何をするのか。 あなたがどんな姿でもいいの。あなたはちゃんとした人間じゃない。やさしい人間じゃない。 おれはもう人間じゃないんだよ。 でも、あたしには、鉄也しかいないのよ。 ルナ。
すこし分かりにくいだろうが、この映像は4つの要素から出来ている。「白いスーツをきた鉄也(伊勢谷裕介)と父親(寺尾聡)のシーン」「モノクロの戦争場面」は、回想である。他方、「鉄也とルナ(青いバック)」と「鉄也とルナ(セピアのバック)」とは、(恐らく)物語進行中の現在である。回想は、現在に挿入されているだけだと了解できるが、現在が複数被さっているのは、テイクを濫用した、極めて異例な映像である。
可能世界、離接的総合の実現。この画期的な映像手法も、じつは、監督の紀里谷和明自身は、音楽PVの手法なんだよね、と種明かししている。たとえばyoutubeで「宇多田ヒカル colors」で、オリジナルのPVを検索して見てください。連続する一曲の歌を、黒い服の宇多田ヒカルと赤い服の宇多田ヒカルが、それぞれにおいても場所を変えて、歌っている。『キャシャーン』状態であるが、これは音楽PVの常套手段である。つまり、音楽は複数のイメージ(図像・映像)の統合なのである。唯一かつ連続する均質・同質な空間を作り上げることが音楽の目的ではない、ということだ。(例えば、絵画において線遠近法などは唯一かつ均質な空間を作り上げることを目的としていた)。
Kylie Minogue - Come Into My World (Official Video) *川原浩平くんに教えてもらいました。R・ハインライン『輪廻の蛇』状態ですね(一つの時間に、複数の自分が存在してしまう)。重ねられた平行世界(交わる平行)。ただしそれは論理的な因果関係の問題であって、映像の問題ではない。平行線が交わっているのは、論理的に(意味的に)であって、映像的にではない。ふつうの特撮であって、映像的には何も特別なことはなされていない。……か?
音楽
音楽の3要素。連辞は旋律【メロディ】、連合は和声【ハーモニー】、調子【リズム】はとぎれであり、そのいずれもが顕在化しており、マンガは音楽に一番よく似ている。ちなみに、アルベジオはハーモニーをメロディに展開したもの。映画におけるテイクの濫用は、映像のハーモニー、あるいはアルペジオですね。
マンガ
継起性
並存性 どちらもが顕在化している。
二つのとぎれ:①物語的な省略、②コマ(連続かつ非連続)が、継起性と並存性を成立させている。
【まとめ:音楽とマンガの類縁性/他人的類似】
音楽:メロディーは連続した流れであり連辞。ハーモニーは歌声を同時に重ねであり連合。とぎれ(hiatus)がリズムを生み出す。このリズムは、散文には無い。言語は本来とぎれ(離散的)であるが、散文も韻文も、連辞によって抑圧・隠蔽されている。
漫画:全体のストーリーは文学と類似する連辞、見開きは絵画や写真と類似する連合。とぎれが隠蔽されている映画に対して、マンガは途切れが顕在化している。
絵画の欲望は、長い物語(聖人の一生)を一つの画面に収めてしまうことである。一望可能性である。
それに対して、マンガは、絵画が絵画を捨てて、絵文字(=文字)に戻った形式ではない。絵画の、一望性とは別の可能性を展開したものである。
むしろ、マンガのコマは、世界を、コマに分割することによって、むしろ一望不可能なものへと展開しているのである。絵画は諸対象を一望可能なものとして描くことができる。しかし、マンガのコマはそれをせず、一望不可能なものへと分割しているのだ。
問題は、バラバラにされたコマが、なぜ一つの物語として繋がるか、という問題はやはり残る。エジプトの絵文字のように、位置が繋がる順序を保証してくれるのか。
バラバラでも繋がっている、ということについて。文学1で今年書けたことを、こちら(文学3)にも転載します。
テクノロジーの進化によって、人間の身体的機能じたいが、進化する!?
映画には、「モンタージュ」というのがある(フランス語で構成・組み立ての意味。英語だとカッティング)。ベラ・バラージュ『視覚的人間』(Balazs Bela,岩波文庫、原著1924年)は映画の黎明期に書かれた映画理論書・基礎的名著だが、映画によって、それまでになかった視覚体験が人間の新たな能力となる、という著書で、映画の手法「クロースアップ」や「モンタージュ」などの効果が説かれている。 (じっさい、新たなテクノロジーが、それまでの人間の身体的限界を超えて、人間を新たな生物に変容させる。石器、鉄器、紙、印刷、蒸気機関、自動車、電気、電信電話、写真、コンピュータ、youtube、など)
実は、それだけではない。映画以前から、人間は、映像的な描写を実現してきている。(詳しくは、文学2の井原西鶴、俳諧などで紹介します。映画の無かった時代でも、映像的な文章は可能であった。マクラウドやメッツのコマ・モンタージュの分類は、絵・映像を言語に置きかえるもの=言語学モデルであるが、映像自体はじつは言語に置きかえられないものなのである。置きかえられる部分もあるが、それだけではないのである。デュナミスのすべてがエネルゲイアに実現していかないのと同じ原理である)。 高橋明彦「浮世草子における視点の問題」「はじめに」の部分だけ読んで下さい。
そして、人間の意識というものはけっして全部が言語的なわけではなく、映像的である。映像とはそもそも分断的=接続的な、パラドキシカルなものである。単独的であり、それで?というもの。現在の知覚と過去の記憶との区別は、付くだろう(付かない病気もあるだろうが)。しかしそれらは、決して言語にすべて還元されない。(そして、福永武彦の文章や、井原西鶴の文章など、映像的な文章というのは、そうしたアクロバットを実現している)。
つまり、人は常に、現在の知覚と、過去の想起とを、同時に意識に置いて/流れて、生きている。これを小説にしているのが『忘却の河』なのだ(二〇世紀的小説)。知覚と想起とは、さほど無理なく、われわれの中で、区別され、繋げられている。唐突でややこしそうだが、さほど無理なく、場面は繋がっていく。
場面が繋がらない | 未規定性 | 世界はバラバラで、区別がなされず、連続状態にある | 物質(無時間) | 現実界(物質・もの) | |
場面は繋がっている | 規定性 | 現前(presentation、知覚像) | 知覚(現在) | ||
再現前(re-presantation、表象 image) | 図像 | 記憶(過去) | 想像界(精神・こころ) | ||
想像(未来) | |||||
言語 | 概念(無時間) | 象徴界(意味)=物語 |
近代の心身二元論(物質と精神)を、どう調停するかは哲学的な問題だが、これに対するその文学からの回答が、本作『忘却の河』である。
繋げるとは、ただ接着させ、混淆させることではない。むしろ、区別して並べることである。
お わ れ て み た の は い つ の ひ か じ ゅ う ご で ね え や は よ め に ゆ き お さ と の た よ り も た へ は て た と ま っ て い る よ さ お の さ き
なお、三木露風「赤とんぼ」も、現在の知覚と過去の想起との同時性によって実現された詩である。
これをみなさん、もう区切って読んでいませんか。読むとは区切るということだ。区切る形式を、コマという形で既定化しているのがマンガである。
引力というのは、離れているのに力が働いている関係である。リズムとは、離れた音(断続音)だから成立する。
二つを繋げているのは、言語の持つ接続機能(文法、連辞機能)ではない。映像自体には、接続の機能はない。想像力が繋げるわけだが、それは言語とは違い、また映像自体が持つ力としてある。
バラバラでも繋がっている、ということについて。これを「視線誘導」の観点から考えることも可能です。
ポイントを予め述べれば、視線、視界(アングル、構図)、視野(範囲)があり、視野の拡大・収縮が継起性・並存性を対立・総合させているのである。
こちらへとんでください
描線 (および色・言葉) | 質料性 mmmmt 素材 デュナミス | ↓ 生 成 力 ↓ | ↑ 反 意 味 ↑ | 描線論
形相性 | エネルゲイア 並存性 | コマ割り論
| 継起性
| | sss意味sinn 記号論 | |
マンガの基本は描線である(コマ枠自体も描線である)。描線は、意味(エネルゲイア)を実現する素材・物質(デュナミス)であるが、エネルゲイアに達しないまま物質として実在する余地を常に残している。
描線の性質とは、質料と形相の二面性である。描線の質料性を見る研究が描線論であり、描線の形相性(意味作用)を見るのが、記号論である。描線の質料性とは、描線の物質的力である。描線の形相性とは、図像的意味である。
コマは、継起性と並存性の二つの性質を持っており、これもエネルゲイアとデュナミスにおよそ対応している。
意味(エネルゲイア)は、定量的に内在しているものではなく、常に生成変化するものである。単なる物質が、ある時突然、像に変わる。記号体系や文法とは、こうした結果として成立する。あるいは、初めはデュナミスとして感じられたものであっても、見慣れるに従い、作者のスタイル等、意味・記号へと傾いていく。もっとも、見慣れたものが突然、不可解なものへと逆に変容することもある(反意味 contraduction)。
観念的なストーリーや主題も同様に、変化のうちにある。
なぜ生成・反意味は起きるのか。つまり、単なるモノがコトに生成したり、コトがモノに解体したりするのか。それは、それを見る側の能力(想像力、心理的な)にすぎないのか。これをモノの性質ととして捉え直すのが唯物論的想像力論である。
あるいは逆に、表現でないもの(それ自体であるもの)が、絵なのか?一般に、言語でも、詩的言語と伝達言語を区別したりします。前者はそれ自体でしかなく(置きかえ不可能で)芸術として、後者はコミュニケーションツールとして、それぞれ理解されている。つまり、伝達可能か否かで区別できるのか。しかし、その論理も破綻する場合がある。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』に出てくる「私的言語」の不可能性という主張がそれである。
しかし、実際には古代から、図像と言葉とは、一方で同一視され、他方では区別されてきた。
例えば、本質を意味するエイドス(形相)は、かたちであり、映像(影像)でもあった。想像・空想(パンタシア、想像 イマギナシオン)は、像を作ることであった。(同一視の例)
他方で、プラトン『ティマイオス』には、魂の三分説を踏まえて、次の様なくだりがある。人間の魂(心のはたらき)を智恵・激情・欲望の三つに分け、それぞれ都市と人体とになぞらえられる。(ちなみに魂の三分説は、ギリシャ古代においては身分制度に対応していたが、近世とくにカント(1724~1804、ドイツ)に至って、能力へと転化した。そして、知性・感情・意志=知情意=真善美に配置され直される)
肝臓は図像を作りだし、言葉でわからない胃袋に様々教える(食い過ぎるな!とか)。
カントは、もうちょっと現代的に、スマートに区別している。
/近藤和敬『数学的経験の哲学』p.51より― 心にうかぶもの
中世スコラ哲学(1266~1308、スコットランド)のドゥンス・スコトゥスが、トマス・アクィナスを批判・継承して、「直観」を、知的能力の一つとしてみとめた最初の人物である。八木雄二『カントが中世から学んだ直観認識―スコトゥスの想起説読解』(知泉書館、2018)より。
プラトン、アリストテレス以来、知性と感性とは対比・区別されてきた。
知性―言葉―普遍(本質)
感性―図像―個物(実存)
この二つを、「直観」が繋ぐ、という認識論は、いかにして可能であるか。デカルト、スピノザ、カントなどで否定lされてきた、直観論。
直観は、こんにち(一〇〇年前だが)ベルクソンによって、再び肯定されている。
この対比をデュナミス(質料性)とエネルゲイア(意味)に再び応用してみる。
(未定稿)
連続するものと非連続なものについて
魂の三分説 人体器官 都市空間 古代の身分 近代の能力(対象) 智恵 頭(頭脳)=言語 城砦(アクロポリス) 市民 知性(真) 激情 胸(心臓) 兵舎(コロシアム) 戦士 感情(美) 欲望 腹(胃袋)=図像 まぐさ桶(馬小屋) 農民・奴隷 意志(善)
表象 represantation (意識をともなわない表象) 知覚(意識をともなった表象)
感覚(主観にのみかかわる知覚) 認識(客観的知覚) 直観(個別的・直接的) 概念(一般的・間接的) 経験的概念 純粋概念 悟性概念 理性概念(理念)
高橋明彦「浮世草子における視点の問題」「はじめに」の部分だけ読んで下さい。
記述的 descriptive 叙述的 narative 走る馬 馬が走る 図像的 言語的 直観的 論理的 デュナミス エネルゲイア