2012-07-25 (Wed)旧版
2018-05-23 (Wed)新版
画面上で読者の視線はどう誘導されるか。鑑賞の問題だけでなく、描くテクニックとしても、またマンガのみならず映画等でも、こうした視線誘導はよく話題になります。が、たんに「読者を乗せて、読ませること」くらいの意味で使われているにすぎず、その内実・メカニズムは了解されているわけではありません。
(非公開バージョン)本ページで使用している図版の多くは、そのへんのサイトでてきとうに拾ってきたものなので。
[定義]並存的なメディアにおいて、意図した順序どおりに動作を行わせ、理解に導くために、継起性をもたらすためのテクニック。
継起的なメディアでは、意図した順序の動作を行わせるのは、比較的容易である。順序通りに音声などで、「右を見て」「左を見て」「前に進んで」「ここで止まって」と指示を出せばよい。(危険を知らせる場合、多くは音で知らせる。カーナビゲーションは、地図で図示する一方、曲がる手前に来て声で指示する)。この場合の継起性が「区別して並べること」であるのは、いうまでもない。区別とは順序であり秩序であり(order)、たんなる並存ではないのだ。
この4つの動作を、並存的に指示する時(たとえば、一枚の紙で)、必要になってくるテクニックが視線誘導である。 行うべき、動作の順序と見る順序とが一致していると、理解しやすいでしょう。逆だと理解しにくいでしょう。次のAとBと、内容は同じはずですが、どちらが理解しやすいと思いますか。
位置による視線誘導
A | 1. 右を見て |
2. 左を見て | |
3. 前に進んで | |
4. ここで止まって | |
B | 3. 前に進んで |
2. 左を見て | |
4. ここで止まって | |
1. 右を見て |
構図(位置・配置)に、順序や運動を組み込んだものが、視線誘導である。ここではまず、構図について考えておこう。
まず構図とは、並存的メディア(二次元であろうと三次元であろうと)に対象(オブジェ)を配置・構成することである。
対象の配置、および範囲(二次元性)
画面全体のうちで、上手に対象を配置するとよい。上手に、とはある種の秩序であろう。あるいは、画面全体をどう限定するか、それがトリミング(trim,crop)である。
対象の正面性とアングル(三次元性)
対象には正面という概念が成立する。(ルネサンス時代の彫刻像は、教会の壁面に飾られており、見る位置・見られる面が固定していた)。この正面概念は実体ではなく、関係である。ここに地と図の関係が出来る。ハイボレーはひねって打つから正面が分かりにくいが、ボールの飛ぶ方向(つまりゴール)が正面だろう。
球体には正面はない。あるいは、全てが正面である。雲も、地面に対してのみ正面が成立するのか。
対象のむこうがわに分析的に引かれた線は、何を意味するのか。画家は、先に線を引いてから絵を描くのか。ただ描かれた絵に、研究者があとから線を引いているだけなのか。
黄金分割/絵画的に美しいのか。数学的に美しいのか。向川惣一、大谷正幸らの研究がある。
1:√2は、半裁しても相似形が保たれる比率。紙のA判もB判もこの比率である。
フラクタル図形/色が美しいだけじゃないのか(まさか!)。全体と部分とが調和する、ある種の秩序の美しさがここにある。
数学的な美。モノを投げた時の軌跡は、Y=ax2という二次方程式で表される。これに典型な様に、自然現象はすべて数式で表現可能である。カオス(混沌)でさえ、その方程式があると言われる。一見無秩序で偶然と思えるこの世界には、必然的な数学の秩序がある。秩序(コスモス)こそ美である。……という、アポロン的な世界観・美観がある。他方、無秩序をよしとするデュオニュソス的な世界観・美観もある。アナーキズム。
「美は乱調にあり」(大杉栄=瀬戸内晴美)
モチーフの移動、運動/尾形光琳『群鶴図』、素晴らしい)
モチーフの移動、運動2/月岡芳年『月百姿』、素晴らしい)
指示による誘導/「月を指さすとき、馬鹿は指を見る」(中国のことわざ)
指さす行為そして指がデュナミスであり、指さされた月がエネルゲイアである。
色彩による誘導
C | 1. 右を見て | 2と3とがセットのように見えるだろう |
2. 左を見て | ||
3. 前に進んで | ||
4. ここで止まって | ||
D | 3. 前に進んで | 4だけが独立して目立つだろう |
2. 左を見て | ||
4. ここで止まって | ||
1. 右を見て |
現実世界での視線誘導灯
対象をなぞって画面上に引かれた線は、視線の軌跡ではないだろう。視線とは本当は、眼と対象との間にあるものだ。しかし、視線の先の一点が画面上で運動するかのように考えられ、その視線が視線誘導だと考えられている。眼球運動測定器(アイカメラ)、視線測定装置(アイトラッキング)のようなものが、この幻想を助長している。
これまでの視線誘導論には、無意識的な前提がある。それをちゃんと意識化しておく必要がある。
1. 視線の先は常に点である。(←マチガイ)
本当は人はもっと広い範囲を見ているのである。コマ割りは、全体を見ているからこそ、読む順番を間違えないのである。竹内オサムは視線誘導論に「視野」という概念を持ち込む必要性を早くから述べていた。これを、高橋の文脈で言い換えると、視野の拡大と収縮こそ、継起性と並存性が両立するマンガ・メディアの本質的条件だ、と言える。継起性と並存性の両立は、コマの配置それ自体にではなく、そもそも視野の拡大・収縮に拠っていたのだ。
2. 視線の軌跡は一筆書きである。(←マチガイ)
ホースで水を撒くとき、水は絶え間なく噴射されている(か?)。視線の先の点も、目をつむらないかぎり、画面上を切れ目無く続き、一筆書きの線を残すであろう(か?)。本当は人は、対象を切れ目無くみているわけではない。AからBへと誘導されて移る視線は、端的に言えばAとをBとを見ているのであり、複雑に厳密に言えばAとBとの間で震動しているのである。それは、Aという過去(記憶)とBという現在(知覚)という別個の要素から、ABという一つの連続した生きた現在(感覚―運動)への縮約(contraction)である。一筆書きで簡略化されて描かれる誘導線は、事後的に引かれた抽象的な線にすぎない。
3. 視線は理解を意味する。(←マチガイ)
人は、それが何であるか分かるまで見続けるだろう。分かったら、次へ移るだろう。長く見続けた場合、それは重要なモノのような気がするだろう。しかし、じっと見つめているから重要だとは限らない。じっと見ているから好きだとも言えない。視線(眼球運動や脳内信号)と理解(認識)との関係こそが、心身二元論の問題であり、未だ解明されざる謎なのだ。
以上の3点は、けっきょく心身二元論の難問として、まとめられる。つまり、(1)視点は物理的に認定できるし、視点の運動範囲を視野と見るならそれも物理的に認定できるが、しかし、視野の本質は「理解された近傍」なのであるから、物理を超えた観念の働きである。(2)現在と過去との個別の要素は、物理的に認定可能だが、生きられた現在としての縮約は、もはや観念の働きである。(3)眼球運動や脳内物質と認識それ自体との関係こそ、未だ解明されざる大問題である。
それでも大量のデータを採集することで、ほぼ客観的な動向はつかめるのではないか。そして、それは認識(観念)に関する完全な真実ではないにせよ、おおよそ対応する物理的現実ではないだろうか?あるいは、物理的な条件を、要素に分解していくことで、視線誘導のメカニズム自体は記述できるのではないだろうか?
……そんなことは、じつは嘘っぱちなのだが、それでもすこし信じたフリをして付き合ってみよう。
軌跡は人によって違うだろう。その違いを、大量のデータで埋めたとしても、大切なのは、個人差ではないだろうか。(読みの個人差)
この2例はそれぞれ別人が引いた線だが、2例とも、作品の面白さをまるで読めていないようにしか見えない。私の軌跡を示せば、次の通りだが、あるいは私の理解が遅すぎるのか?!
視線は、人によって読む早さも違うだろう。軌跡(軌跡の密度)も違ってくるだろう。それらの違いを超えた普遍性は、画面のどこかにあるのだろうか。結局それは、ひとがその画面をどう読んでいるか、認識しているか、ということとイコールでしかなく、それが画面の読解・認識である以上、言語的に解明できるものでしかなく、つまりはわざわざ視線の誘導などを考えるまでもなく解明しうることなのである。
事柄を整理しよう。まず、誘導するモノ・要素は3つに分けられる。
@ コマ、コマ割り
A フキダシ
B 図像
コマ割り自体が、まずは平面を誘導している。読む順番が決まっているとは、そういうことである。小さなコマばかりの頁では、フキダシも図像も、視線誘導にはあまり関係がない。しかし、大ゴマが含まれる場合、コマ割り以外に見られるポイントが出てくる。
フキダシには文字がある。これは、ほぼ例外なく読まれる。例外は、やたらと文字が多い場合など(楳図も、文字が多くなると面倒くさがって読者が読んでくれないのではないかと心配すると言っていた)
図像は、図と地とに分けうるが、いずれにしても図像全体の構図の問題である。
けつろん:AとBとが同一線上に並ぶと、読みやすいとされるのである。
なお、読みやすいとか分かりやすいとかは、経済性、効率性である。より経済的、効率的に対象を認識するか、である。それと、映画にはAはない。(字幕への視線は無視される)
この認識される事柄には二通りある。
@ それが何であるか(What is it?)
ストーリーの前後関係・因果関係をつなぐもの。言語的。何が何をしたか、という連鎖。対象のエネルゲイア。ある程度の普遍性を持つもの。
A それがどうであるか(How is it?)
快不快、美醜。感覚的。マチエール(物質性)としての、対象のデュナミス。普遍性は少し低く、個人差があるもの。
これら二つの認識される事柄と視線の軌跡との相関関係について、まず@は相関関係があるかもしれない。すでに述べたように、人は、それが何であるか分かるまで見続けるだろう(分かったら、次へ移るだろう)。長く見続けた場合、それは重要なモノのような気がするだろう。眼球運動測定器のようなものが、この「幻想」を助長している(再説)。
しかし、じっと見つめているから重要だとは限らない。じっと見ているから好きだとも言えない。電柱の貼り紙「テッポウするな」はストーリー理解とは関係がない。ましてや、Aは、視線の軌跡となんの関係もないだろう。
[参考1]最新の赤外線レーダーは、ビル内の人間の位置まで探索するが、レーダーに写された人の影が、テロリストか、拘束されている人質か、テロリストに内通している人質か、までは区別できない。
[参考2]脳波測定と認知内容とで、何らかの相関関係にあると思い込んでいるのは、素人だけで、脳内の動き[物理現象]と思考そのもの[精神活動]とは、いまでも完全に対応できてなんかいません。おおよそ、そうだろうと思って進めているだけ。
Aは後述します(f.参照)。が、そもそも「(知的)理解」とは異なるものです。ただ感じる、感じられるものです。
1. コマ・図像・フキダシの一致
最短距離で進みつつ、かつ画面全体をフォローしているような視線の軌跡が理想的である。
2. 対象誘導的な動きと、読者の内面化された読む方向との一致
上述1でみた対象による視線誘導は、作者が意図的に行ううるものである(A)。他方、読者もまた、自分のなかに進むべき視線の運動(B)を持っている。それがマンガ読める、持続として感受する、ということである。
このAとBとが一致するとき、作品が読みやすくなるだろう。慣れてきて読みやすくなったり、あるいは好みが合わず最後まで読めないというのは、このAとBとの一致がないからであろう。
視線誘導論は、とてつもない幻想をともなって、期待されることが多い。
1. 視線誘導は、マンガを描く上で重要なテクニックである。(?)
まったく重要ではない、とは言わないまでも、もっと重要な事柄は沢山ある。コマの割り方や対象へのアングル(構図の採り方)のほうがよっぽど重要である。映画で言えば、モンタージュとフレームワークである。(むしろ構図という並存的な概念を、視線誘導という継起的な概念で置きかえ、説明しているに過ぎない)
2. 視線誘導は、マンガを読む上でも重要なテクニックである。(?)
これもかなりマユツバである。むしろ、ストーリーと視線誘導との関係は無いと考えるほうが健全であろう。登場人物が左向きだと物語は好ましい方向へ展開しており、右向きであれば敵対者が大手振っている……。こうした画面上の意味作用は、あり得ない。南向きの明るい部屋を好む人は性格も明るく、北向きを好む人は根暗である、といった思い込みと同じレベルの偏見にすぎない、と考えるべきである。また、右は始まりであり、左は終わりである……、などということもありえない。われわれは、一つ一つのコマを単体で、認識の中心に置いて読んでいるからである。(認識の中心とは一望性である。つまり、一望性こそ絵画の本質である)
描線のデュナミスとは、描線が何を意味するか(エネルゲイア)でなく、どう存在しているかを純粋に見る時に、現われるものだと言いました。視線誘導の快楽も、それが何である(エネルゲイア)に還元されず、純粋に画面上での視線の移動があるときに発現するだろう。
【けつろん】並存的なメディアにおいて継起性をもたらすためのテクニックが視線誘導ではあるが、それは、@それが何であるか=エネルゲイアに還元される時、視線誘導など考える必要は無くなってしまう(継起的な誘導抜きで、一望可能であるから)。むしろ、Aそれがどうであるか=デュナミスであるかぎりにおいて、一つの快楽、芸術性として成立しうる、
参考になる、かもしれない言説。
夏目房之介のインタビュー すがやみつる
泉信行(イズミノウユキ)のサイト
書籍、菅野信之『漫画のスキマ』(ほとんど、ノストラダムスの大予言レベル)