初出と補筆の概説 うめず氏の生活 |
附 貸本マンガ概説 |
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簡単な、楳図かずおの作家生活史。まだ、作成中。記述には特に根拠を示してないが、だいたいは[作品目録]に書いてあるはず。
また、主要なインタビュー記事を掲げる。
- 『恐怖への招待』(高取英ほか編・河出書房 1988、文庫版 1996)
- 『ウメカニズム』小学館 1995
- 『まんだらけ』16号 1997
- 『ほう書月刊』弘隆社 5月号、6月号 1997
1936年(昭和11)9月3日、和歌山県高野山に生まれる。戸籍上は9月25日生れ。血液型O型。後に、奈良県五條市に転居。子供のころから絵が上手で、3歳のときに、留守番中の来客の名前を忘れたが似顔絵を書いたところ家の人がそれを判別した、というエピソードを持つ。
初めて描いたストーリーマンガは『まほうのつぼ』という作品。中学2年の頃には既に複数のマンガサークルに入り、習作を発表する。手塚治虫は、その画力を「天才が現れた」と評した。中学から高校時代は、ほぼマンガ漬け。
プロデビューは、1955年6月の『森の兄妹』(水谷たけ子と合作)。同年9月の『別世界』が単独デビュー。大阪の貸本屋版元である三島書房、わかば書房、金竜出版社(金園社)などから単行本や短編誌を出す。単行本では、少年探偵岬一郎シリーズなど。短編誌では『鍵』(三島・わかば)、『花』(わかば)、『虹』(金竜出版社)、『花詩集』(三洋社)などで連載執筆。内容的には、人類(終末)モノ、恐怖モノ、ギャグ系、ロマンス系、等多種多彩。
大手出版社の集英社『少女ブック』の連載、別冊の執筆もあり、また講談社『たのしい五年生』『たのしい六年生』に『人形少女』を連載。
新書判コミックスがまだ出る前の時代。貸本業者は、原稿を切って読者にプレゼントしてたりしてたせいもあって、連載作品を単行本化するという例は、このころはあまり無いと思う。
貸本業界の衰退により、大阪の版元が軒並倒産。佐藤まさあきのヒキで、1963年8月、上京。ただし、東京でも貸本業界は退潮。『ガモラ』など佐藤プロの単行本、短編誌(『劇画マガジン』『セブンティーン』『花』など)のほか、ひばり書房(つばめ書房)、東京トップ社『恐怖の地震男』、東邦漫画社などで単行本を執筆。佐藤プロとの関係は、1969年くらいまで続くようである(出版として。個人的な付合いとしては70年くらいまでありそう)。内容的には、恐怖モノ、人類終末モノ、ロマンス系が多いかな。
佐藤プロが、『花』で連載したものを、単行本化する例がいくつかある。同版。
この時期はまだ、雑誌掲載分を単行本にもして儲ける、という発想が大手出版社には無かった。
貸本業界での実力を買われて、大手進出。
『少女フレンド』で1965年、講談社デビュー。以下、『ねこ目の少女』、『百本めの針』、『ママがこわい』、『呪われた屋敷の少女』、『まだらの少女』、『あなたの青い火が消える!』、『紅グモ』、『木の肌花よめ』、『4年目がこわい』、『へび少女』、『人魚物語』、『黒いねこ面』、『怪談』、『雨女』、『ミイラ先生』、『人こぶ少女』、『ふりそで小町捕物帳』、『赤んぼう少女』、『影姫』、『まぼろしの蝶』、『うろこの顔』を連載あるいは別冊。1968年まで。多くは生物的恐怖系。
講談社『なかよし』に『ロマンスの薬あげます』、『女の子あつまれ!』などをロマンス系を発表。また、貸本時代の作品をトレイスして、『なかよし』などの別冊附録になるものも多かった。
講談社『少年マガジン』デビューは、1965年から1967年までに『悪魔の手を持つ男』、『半魚人』、『ひびわれ人間』、『肉面』、『ウルトラマン』、『復讐鬼人』、『人喰い不動』、『死者の行進』を発表。
少年画報社は、1966年の『首なし男』(『少年画報』)から、『地球最後の日』、『原子怪獣ドラゴン』、『双頭の巨人』、『笑い仮面』、週刊誌『少年キング』で『猫目小僧』、『残酷の一夜』などを執筆する。
その他、平凡出版『月刊平凡』で『みやこ新聞エミ子シリーズ』(『恐怖』)(1966〜1969年)、主婦と生活社『ティーンルック』(1968〜1969年)などで佳作を連載。恐怖モノも、即物的・生物的恐怖から、心理的恐怖への移行期作品。
小学館の仕事は、1968年『小学三年生』が最初。同年中に、創刊されたての青年誌『ビッグコミック』で『イアラ』シリーズを連載する。1969年春から『少年サンデー』に『おろち』を発表する。このころ『おろち』『イアラ』二本同時連載の時代。心理系恐怖や人類(終末)モノ。
大手の単行本(新書判コミックス)は、1966年のコダマプレスが最初(楳図作品は随分あとになって1984年『楳図かずお傑作集』を出す)。楳図作品の大手新書判コミックスは、秋田書店のサンデーコミックス『黒いねこ面』1967年が最初。以下、『おろち』『恐怖』『アゲイン』『怪』などが続く。『怪』シリーズは貸本時代の作品が多いが原画が無く、すべて書き直している。大手の雑誌初出作品も、『アゲイン』までは単行本化の際に補筆が多い。
朝日ソノラマ(サンコミ)も楳図を出し始める。最初は『紅グモ』、続いて『うろこの顔』『女の子あつまれ!』『半魚人』。
講談社など、まだ専門の単行本を出していない部門では、『少女フレンド』等の連載作品をA5判やB6判・新書判なで佐藤プロが出していたりする。
『おろち』連載(1969〜1970年)の途中だか終ってからだか、たまに短編も描くが連載はつねに一本、という生活が始る。連載は『少年サンデー』『少女コミック』『ビッグコミック』『ビッグコミックスピリッツ』で、『アゲイン』(1970〜1972年)、『漂流教室』(1972年〜1974年)、『洗礼』(1974〜1976年)、『まことちゃん』(1976年〜1981年)『わたしは真悟』(1982〜1986年)、『神の左手悪魔の右手』、『14歳』(1990〜1995年)。内容的には、人類(終末)系子供モノ。
単行本(新書判コミックス)では、『おろち』以下の秋田デーコミは、既に触れたが、1970年以降の話で、本来こちらに記すべきですね。現在でもすべて絶版無し!(最近絶版となりつつある)
小学館が新書判コミックスも商売になると思いつくのが、1974年の少年サンデーコミックスのシリーズのころから。栄光有るSSC第1号作品が『漂流教室』第1巻(サンデー74年24号に発売決定の記事あり)。『イアラ』のゴールデンコミックスのシリーズなども(SSCより先にあったが、このレーベルは『カイム伝』がメイン)、次に文庫でも出したりと、秋田書店の商売をまねたような感じ。1990年代にはいって、さまざまな版で出しては絶版というあくどい商売で(失礼!)他社を一気にぶっちぎる。
が、朝日ソノラマ・サンコミもせこさで負けていない。ぼつぼつ出してただけだが、1981年に『こわい本』シリーズを出す。新書判に2種類あり(サンコミとハロ少と)、現在では文庫判(全15巻)のが読める。
肩こりがひどいそうで、描いた作品は『自伝かずおちゃん』、『ガモラ〈エピローグ〉』くらいだと思う。
この印(※)は、「例外もある」という意味です。
貸本屋用として作家が描き、それ専門の出版社が印刷・製本し、専用の流通が有り、され、貸本屋へ供給されたマンガ作品(※)。単純に、「貸本屋にあるマンガ」とは言えない。
江戸時代: 最も典型的な読書形態の一つ。荷い(配達)貸し中心。古書販売兼。新刊本と古書とで見料が違う。讀本・草双紙。明治に入って、翻訳物なども。代表に、池田屋清吉。江戸で50店舗くらいか。
明治20年頃から: 東京の書生相手の商売になる。西洋の文明物中心で高度化。貸本目録も作成。閲覧・喫茶室、教習所まで備えるものもある。新本・古本とりまぜ、店貸し・配達の併用。保証金貸し制度。マンガなどは無い。代表的な店に東京のいろは屋貸本店(小林新造)。東京で200店舗くらいか。
戦後: 「ネオ書房」(神戸の貸本屋)型の貸本屋の抬頭(1948年)。店貸し、新刊本の会員制信用貸し制度。1960年代中頃から衰退。最盛期で全国に30000〜20000軒あったという。大手出版社の書籍(小説)や雑誌もあり、貸本小説もあった。
金沢の貸本屋。弘文堂。わかば書店。
大手出版社・大手取次(トーハン・日販・日教販・中央社等)に対し、弱小(貸本用)出版社・同取次(特価本、ゾッキ本、新古本を扱う※)。
大阪の松屋町、東京の御徒町・神田。
昭和20年代後半から始まり、30年代が全盛期(1955〜64年)。
戦後直後、赤本マンガ、紙芝居。
大手出版社の月刊誌。「少年クラブ」「少女クラブ」(講談社)、「漫画少年」(学童社)、「少年」(光文社)、「少年ブック」(集英社)、「少年画報」(少年画報社)。マンガより絵物語が中心。
1959年、大手出版社の週刊誌「少年マガジン」「少年サンデー」
1963年「少年キング」
1967年 大手のコミックス単行本刊行へ参入。ダイヤモンドコミックス、サンコミ、コンパクトコミックス、キングコミックス、秋田サンデーコミックス等。
1968年「少年ジャンプ」
B6丸背上製本(赤本以来)
A5ソフトカバー(1960〜※)
B6ソフトカバー(1965〜)
新書版(1966?〜)
冒頭の4色カラー。薄墨。
厚い紙で束をだす
写植ネーム
形式: 短編誌/単行本
内容: 劇画(時代物含む)/陰々滅々怪談/継子もの/少女ファンション系/青春もの/学園もの(※)
ビニールカバー、紐の補強綴じ、店の判子。二番館、三番館制度があって、判子などを押さないところもあるらしい。
版元からの販売もある。原画プレゼント。
辰巳ヨシヒロの命銘。『影』や『街』を中心に、リアルさ、現実の暗さなどを強調した。『少年マガジン』に路線が引き継がれたように見える(※)。現在は発展的に死語化。
「劇画」は貸本マンガの代名詞のように見えるが、実際は、怪談系、お笑い系、少女系など、貸本マンガは多岐に渉る。
版元と作家は専属契約の関係にある(※)。いくつか出版社と作家を列記。
日の丸文庫(阪) | 影、 | 辰巳、さいとう、佐藤、水島、梅本、山上 |
セントラル(名) | 街 | 辰巳、さいとう、佐藤 |
太平洋文庫(東) | ||
三洋社・第1期(東) | 白土 | |
わかば書房(阪) | 楳図 | |
三洋社・第2期(東) | 楳図 | |
兎月書房(東) | 水木、つげ、月宮美兎 | |
若木書房(東) | ||
金園社(東) | 楳図 | |
東京トップ社(東) | 楳図、さいとう | |
東京漫画出版社(東) | ||
鶴書房(東) | 藤子 | |
曙出版(東) | 赤塚 | |
東考社 | 水木 | |
佐藤プロ | ||
ひばり書房(東) | さが、 | |
立風書房(東) |
貸本マンガについて
戦後の漫画は、赤本漫画、貸本漫画、月刊誌、週刊誌という風に推移してゆきます。貸本漫画と月刊誌の時代は、重なっています。この頃のが、その貸本漫画です。ながくみて、1950年くらいから1968年まで。最盛期は1955年から1965年の10年間。
一般の小売書店と貸本屋とは、作家・版元・流通ともに別でした。貸本屋用の版元が有り、貸本屋用の流通組織(組織というほどでもないかも知れない)があったのです。作家も、大手に描けるマンガ家と貸本専門のマンガ家と立場が違う(マンガ家の版元専属制もあったため)。トキワ荘で青春を送ったひとたちは、だいぶ苦労したように見えますが、彼らは大手のマンガ家の超エリートです。
まるで、書物問屋と草子屋ですよね。
大手の作家は、月刊誌に描いていました。
定義・分類としては、版元や作者によって厳然と区別出来るはずです。光伸書房(日の丸文庫とも。貸本から出てきた劇画の火付役の版元)などは貸本の版元。コダマプレスや朝日ソノラマは大手の出版社。白土三平、水木しげる、楳図かずおやさいとう・たかをなんかは貸本マンガ畑の出身。貸本マンガが壊滅したのち、かれらは大手に引抜かれてゆくが、転職してやめた作家が八割以上いるとか言われてます。
貸本業界が壊滅したのち、昭和40年くらいに、日販・東販ら、日本の取次ぎ一元帝国主義が完成するようです。
書型としても、B6ハードカバー、A5ハードカバー、A5ソフトカバーへと変ってゆきます。最初の8頁ほどが四色カラーで、あとはモノクロ。紙質は厚いぼったい。後期には新書判の貸本マンガも小数ながらなくもないです。
内容的には、1作品のみを収めた「単行本」や、月刊誌の如く毎月出て三〜五人の作家の連載が読める「短編誌」とがあります。