忘却の河.文学I.半魚文庫

文学I

301教室……2024

福永武彦『忘却の河』を読む

*内容は更新されています。授業開始前にリロード(↻再読み込み)してください。

  • 2024-04-15 :第1回 入学おめでとう、およびガイダンス
  • 2024-04-22 :第2回 一章 忘却の河[私]小説世界への唐突な導入、場面転換について
  • 2024-05-07 :第3回 一章 忘却の河[私]小石のこと―贖罪・救済について.
  • 2024-05-13 :第4回 一章 まとめ1(現在と過去の総合)、まとめ2(メディア的救済)
  • 2024-05-20 :第5回 二章 煙塵[美佐子]忘れられた記憶、香水について―共感を媒介する物質性
  • 2024-05-27 :第6回 三章 舞台[香代子]母の生を反復すること1、「出口なし」や実存主義
  • 2024-06-03 :第7回 四章 夢の通い路[わたし]恋愛小説における恋愛不可能性
  • 2024-06-10 :第8回 四章 夢の通い路[わたし]不倫ともののあはれ
  • 2024-06-17 :第9回 五章 硝子の城[先生]芸術における批評家と実作者、恋愛可能性と罪の回避
  • 2024-06-24 :第10回 六章 喪中の人[香代子]本当の恋愛―母の生を仮想的に反復することについて2...
  • 2024-07-01 :第11回 七章 賽の河原[私]ふるさと―贖罪と救済のあいだに見出だされた記憶【前編】...
  • 2024-07-08 :第12回 七章 賽の河原[私]ふるさと―贖罪と救済のあいだに見出だされた記憶【中編】
  • 2024-07-17 :第13回 七章 賽の河原[私]ふるさと―贖罪と救済のあいだに見出だされた記憶【後編】
  • 2024-07-22 :第14回 忘却の河、創作ノオト
  • 2024-07-29 :第15回 福永武彦と二〇世紀小説、『死の島』について

  • 第1回 入学おめでとう、およびガイダンス
  • [NEXT][TOP][LAST](2024-04-15)

    グーグルクラスルームをつかいます(クラスコード n7ldd4v)

    そして。まずは……、

    1. * 金沢美大へ、入学おめでとう \(^お^)/ サクラサク

      あまりおめでたくない(!?)、この世界。パンデミックから世界?大戦へ。軍国化、テロリズム?民主主義の崩壊。ソレハサテオキ

      置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子というひとの名言。本がある、amazonで900以上の評がついている、酷評も含め)

      F・ニーチェの「運命愛」(与えられた条件を肯定して生きる。その条件しかないから我慢する、ではなく、他の条件がもし選べても私はこの条件を受け入れる、という考え方)に通ずる考え方だとおもうけど。搾取とか、毒親とかもか?

      子曰。里仁爲美。擇不處仁。焉得知。(論語・里仁篇) (子曰わく、里(さと)は仁(じん)を美(よし)と為(なす)。択(えら)んで仁に処(をら)らずんば焉(いぞく)んぞ知(ち)を得(え)ん。 )

      朱子の解釈:「孔子先生はおっしゃった。住む場所は、仁の行われている場所(よい風俗の場所)が良い。そこを選んで仁を拠点としなければ、どうして善悪・是非を判断する知を得ることができようか」cf. 孟母三遷の教え

      荻生徂徠による、少し異なる解釈:「仁(まごころそのもの)に寄り添っていれば、美(よいこと)が自ずと付いて来る。」→場所でなく心構えの問題である。『論語』の読み・意味も、読みかえられる。が、いずれにしても、自ら選ぼうという考え。選べない人はどうするの?

      古典の解釈も一定していない!

      ☞ つまり、「場所はどこでも良い」という説と「良い場所を選んで住め」という説と、相矛盾する二説がある。どちらが真実か? あるいは、いわゆる名言でもいつも両面があるのか。真理を言い当てた言葉があるのではなく、相矛盾する二つの命題から、中庸(ちゅうよう、メソテース)を取ることが、よく生きることである。じっさい!

      ちなみに、先の3年間(2020〜2022年)は「場所」自体がなかった。バーチャルな空間であった。遠隔授業!遠隔実技!入学休学!(こういう授業態勢!)。そして、パンデミックが明けたとたん、世界戦争?(ウクライナ/ロシア、パレスチナ/イスラエル、東アジア?)

      欧州に留学してその伝統を目の当たりにしてショックを受けた。「それから私は日本に帰って来て考えた。伝統は私自身の内部に新しく築くほかはない、風土は私個人の周囲に見出だすほかはないとね。日本人にはエスプリ・ド・ジェオメトリイ(幾何学的精神。数学的・論理的に考える力)が伝統的に不足しているのだから、いきなりアブストラクト(抽象表現、抽象概念)を与えたって、描く方も見る方も、あっけにとられるだけです。」(『忘却の河』第5章、画家・秋田治作のセリフから)

      ☞ ともかく、金沢美大という「場所」に来て、おめでとう!

      もう一点。正解は予めある(先生は答えを知っている)ということはない!ということ。試行錯誤(すぎるのもどうか、とはいえ)の連続。AIは正解を知っている?→文脈(場所)に依存した、状況に応じた、正解があるのみ(だろう)。それは全くの普遍的価値はありえない、という意味でもなく。

      競争を(させられて)勝ち抜いて。受験戦争。

      入試の試験監督:共通テストと2次試験。われわれ一般教育の教員は共通テストのみ中心的に担ってきたが、昨年のみ初めてたまたま専攻の2次も手伝った。お客さん(よそのこ)と我が子の違い。もちろん共感・愛情は拡大されなければならないけれど。「潜在性(可能性)の哲学」G・ドゥルーズ、実現しなかった可能性もふくめて、この現実世界なのだ!私たちの現実(アクチュアリティ)は、さまざまな実現しなかった潜在性(バーチャリティ)を含んでいる。パラレルワールド的?(ライプニッツ的) -->

      次に、または、そのためにも。

      自身の向上と他者との競争とは全く違うものです。(自己の絶対性/他者との相対性)いかに競争から足を洗うかが人生の意味です。「いやいや、人間は肩書きだ」「人は見た目で決まる」とか世俗の価値観からいかに脱却するか。

    2. 生は根本事実であり、その背後はない。(ウィルヘルム・ディルタイの言葉)

      ☞ 生まれて、生きていること。それを背後から指令する理由・原因・目的は無い。生きる目的は、(予め)与えられてはいない。自分で見つける、作るものだ。「神話」ではなく、「物語」を作るのである。

      実存は本質に先立つ。(J・P・サルトルの言葉)『忘却の河』第3章で、関連して扱います。

    3. 人は、物語を生きている、ということ。虚構と現実の関係。芸術のアクチュアルな価値。

      文学研究は、ともすれば現実社会とコミットしていないと考えられがちだが、それは誤りである。私たちは、つねに「物語」のなかを生き、ときに、より「大きな物語」による抑圧を受ける。そのような抑圧にあらがうために、私たちは「物語」自身のみならず、その「物語」を発信・受容するシステムや、「物語」のコンテクストを読み解く力を持たなければならない。そのような広い意味でのリテラシーを得ることができるのは、文学研究の分野である。そもそも、現在の私たちをとりまき脅かす「大きな物語」の原型は、すべて過去にすでに語られたものなのだ。そのようなアクチュアルな学問の形として、文学研究はある。(菅聡子・お茶の水女子大教授の言葉)

      ☞ 文学や芸術のような虚構(フィクション)の世界と、政治や経済、社会や生活、教育・医療といった現実世界と、二つの別個の世界があるのか。そうではなく、この現実世界自体がある種の物語として書かれ読まれているのではないか。偉人伝を読んで、その人を手本として生きたいと思うことがあるのはなぜか。フィクションであっても、偉大な芸術作品は、直接にわれわれの人生を変える力を持つのではないか。

      ただし、良い方へばかりとは限らない。あるいは現実の出来事、地震や大量殺人、津波や原発事故とて、パンデミックも(?)、人によっては、それはTVの中の絵空事にすぎない。

    4. 現在の世界情勢

    現代は、どんな時代か。それを、文学作品の読解を通して、考えていく。考える力を付ける。

    さて、本題です。

  • テキスト、福永武彦『忘却の河』(新潮文庫)ISBN 978-4-10-111502-3 C0193 \590(税別)

    ▸ 学内の売店・かゆう堂で売っています。本格的には、来週から使います。

    今回は、あらかじめ音読したデータを、グーグル・クラスルームの「ドライブ・フォルダ」に置いておきますから、ダウンロードするなりして(なるべく小さなサイズになるようにしました。フォルダ毎一括してダウンロードできるはずです)、事前に聞いてみておいてください。テキストを見ながら聞くのが、理解のためには有効でしょう。

    ◎高橋個人サイトから(リンクを知っている人すべてアクセス可能)http://hangyo.sakura.ne.jp/lec/kawa_read_aloud.zipZIP形式でアーカイブ
    △グーグルクラスルームから(リンクを知っている人すべてアクセス可能)https://drive.google.com/drive/folders/1002WTifjkMnV40A9mbxWq52-uGPn5UJR?usp=sharing

    この授業じたい、そもそも「音読」してきました。文章が美しく細やかで、細部と全体と対応的な構成も素晴らしく、そうした素晴らしさを味わうためには、ともかく一緒に読むことが第一なので、授業で「音読」してしまうのですが、ただ「わざわざ授業で、先生が読んでくれなくても良い」という意見も、毎年多少ありました。多くは「読んでもらうので有り難い」という意見であり、実際、私もまずは読まないと、説明もしにくい。ちょうど、絵画作品を目の前で見せないと説明しにくいのと同じでした。

    ただし、本作は、そのまま朗読されるべき、ラジオドラマのようなものとして書かれた作品ではなく、やはり黙読(目で文字を読むこと)を前提としていることは、読んでみて、あらためて分かります。ちなみにコロナ初年の2020年は、テキストが入手しづらく、最初は音読データだけで授業を開始しました。まあ、そうした悪条件において享受してみるのも、今回(昨年)のような悪条件下には似つかわしい趣向(おもしろみ)ではないだろうか、となぐさめて。

    なお朗読しているのは、森本レオさんではなくて、まあ私自身ですが、思った程上手じゃないですね(がっくし)。それも一つの、与えられた(悪)条件として、置かれた場所で、咲いてみてください。

    ▸ 朗読データは、次の通りです。2020年に初めて作ってみて、面白い経験でもありました。通読に必要な時間も、判明しました。

    一章 忘却の河(全18ファイル)207分
    二章 煙塵(全9ファイル)85分
    三章 舞台(全8ファイル)53分
    四章 夢の通い路(全9ファイル)99分
    五章 硝子の城(全6ファイル)67分
    六章 喪中の人(全5ファイル)40分
    七章 賽の河原(全11ファイル)116分
    全部で11時間ちょっとあります。しかし、これは11時間あれば全部読める、ということを意味するものではありません。計画的に聞いてほしいし、また二度以上聞き、読まないと、課題のレポート(8月末ころ提出)はできないはずです。

    この作品は、堂々と言いますけど、最初の一章は読み始めさっぱり面白くないだろうなと思います。ぐだぐだ心境が書かれているが、小難しく、ぜんぜん面白くない!とか言うのではないでしょうか。少なくとも、青春の若者向けの楽しさは、そこには無さそうです。しかし、勉強だと思って、最初は我慢してください。途中から、主人公の若かった時代を振り返る部分に入り、そこからは、ストーリー的にも非常に面白くなります。ただし、苛酷です(今日風に言えば、ゲス野郎というのですか)。

    二章、三章、四章と、堂々と言いますけど、文句なく面白いはずです。今日の洒脱な小説(80年代以降、または00年代以降?よしもとばなな以後?あるいは、村上春樹以後?二人とももちろん良い小説家です)も悪くはないでしょうが、六〇年代の圧倒的な構築力と表現力をそなえた傑作のすごさを、ぜひ味わってほしいです。

    予備知識なんか、まったく不要です。作品にじかに入っていってください。

    特に、視覚的描写のものすごさ(描写のうまさと、その構成)を味わってほしいのです。(つまらないであろう)一章にも顕著ですが、場面の入れ方が、転換のしかたが、たぶん映像的、映画的なのでしょう、突然切り替わるのだが、それが決して不自然ではない。

    ☞ 授業で使うもの、やり方。再説。

    シラバス 文学1

    ▸ 授業は対面。音声アーカイブなどは残しません。

    ▸ 話す内容は、このページに予め書いておきます。親切?私が話す台本でもあります。

    ▸ 授業後に、何か質問などあれば受け付けます。なんでも聞いて下さい。

    ▸ 出席は、終了後に授業に関する内容を含んだメールを送ってもらうことで、証明してもらいます。授業を聞いていることが分かるような内容を含んでいないと出席扱いとしません。(とても興味深い授業でした。主人公はひどいやつだと思いました、など漠然とした、聞いてなくなって書けるような感想ですからね。まあ、みなさんも工夫してみてください)。

    グーグルクラスルームの「提出物」というシステムがあります。点数設定などもできるようです。これを使って、工夫したいと思います。適宜指示しますので、掲示を確認して下さい。今日の1回目に関しては、授業で話された内容に関して、簡単にまとめ、自分の意見などを書いて、締切り(3〜4日)までに提出してください。

    字数制限などは、特にさだめませんが(多く書ける人もいれば、少ない人もいるから、一概に決められない)、4年間をとおして、文章を書くことを嫌がらずにできるようになってほしいと思います。苦手意識は、人と比べることで生まれます。そうでなく、自分の好きなようにかけばよいのです、楽しく書けばよいのです。上手でなくても、ぜんぜんかまいません。(上手になりたくて、教えて欲しい人には、いくらでも、上手になり方を教えますけど)。

    あと、メモをとるくせをつけるとよいです。スケジュール手帳(スマホで?)、スケッチ帳、などと同じように、言葉でスケッチする。そのシステム、スタイルを自分で考え、作っていくのです。

    ChatGPTなど生成系AIの使用は認めません。簡単に短時間で課題をこなすのは良いことかも知れませんが、文章力はつきませんし、機械があなたの代わりに文章を書いたり、絵を描き、作品を作り、あなたの代わりに(華々しく)生きてくれて、それが幸せですか。

    はい、質問ありますか。廊下でも、お気軽にお声をおかけ下さい。小さい大学ですし、教員とも学生同士とも、話をしたほうが良いです。(メールでの、あんまり細かい質問には、すべてはお答えしませんが)。ゆっくり雑談でもしながら、話を進め、深めていきたいですね。

    ▸ あらためて、入学おめでとう!

    「文学」とは?。私の担当する教養科目、文学1は現代文学を1作品、文学2は古典文学を連続・文学史的に、文学3は言語以外のメディアも含め(まんが。ちな他の先生だが文学4は映画)。

    本授業では、一作品を扱うが、「二〇世紀小説」の全体を講義します。心理と出来事を描く19世紀小説に対して、二〇世紀小説は意識と時間を描いた。という福永武彦の定義がある。M・プルースト、J・ジョイスに始まる二〇世紀小説。知覚と記憶の二重性を描いた、とも言える。現働性(現在)と潜在性(過去=未来)。

    ややこしい話になりましたが、純粋に、作品が面白い(筋立て、解き明かし)。のみならず、美しい描写(心理と風景〜情景)。構成!

    福永武彦(1918 〜1978)。他の代表作『草の花』、『死の島』。


  • 第2回 一章 忘却の河[私]小説世界への唐突な導入、場面転換について
  • [NEXT][TOP][LAST](2024-04-22)

    朗読データ。今日は、ファイルの bo064_1_11.mp3 くらいまで進む予定です。 (ファイル名は、bo064は共通、真ん中の一桁は章、最後の二桁は章ごとに振られた連番です。フォルダ、ダウンロードの仕方、各ファイルの容量時間などに関しては、第1回を見てください。)

    1. シラバス(授業概要・計画)の記載 シラバス

      授業概要:『忘却の河』は、とある戦後の中流家庭の諸肖像を描きながら、人間の生死、愛憎を扱った、極めて優れた典型的現代小説です。テーマ的には重々しいが、読者を引込む巧みな構成と美しい表現力を持っています。本授業では、戦後文学を題材にして、描かれたテーマを味わい、同時に文学を研究するための基礎的方法を学びます。

      到達目標:大学生の一般教養として、文学作品を読む力を養うために、次の3点を心掛けます。1、2、3の順に難度が上がるので、是非挑戦してください。☞ 虚構(文学作品)を通して、現実世界を読むリテラシー(言語活用能力)を身につける。

      1. 複雑な構成の作品を、前後関係などに注意して、丹念にたどって読む。☞ 意識の流れとしての二〇世紀小説
      2. 作品の背景となっている哲学や芸術思想などを理解しつつ、作品を読む。☞ 抽象主義、実存主義、それらの限界
      3. 作品から見出だされるテーマを読み取り、自分の生き方と関係づけて読む。☞ 自己の物語として。小説の愉悦

      授業計画:講義・講読形式で授業を行います。作品は全七章から成っていて、週割りと章・各主題との対応は次の通りです。(少し変えました。また、今後変わる可能性もあります。変ります)

    2. 予備知識は不要!

      作者・福永武彦(1918 〜1978)については追々。作品は1964年(昭和39年)5月刊行。「初版後記」(朗読ファイルbo064_7_14.mp3)参照。1963年の後半期に、7つの各章それぞれが異なる文芸雑誌に掲載された。「私には各々の章が独立した作品であるかのような印象を与えたいという意図があった。それゆえ雑誌発表の際には、あるいはそれらが長編小説の一部であることに気がつかれなかった読者もあるかもしれない。

      1963年くらいの作品、その時代が舞台……、だけでじゅうぶん(予備知識)

      「一章(の前半)は面白くない」と先週言いました。「途中から面白くなる」「二章からはたぶん面白くなる」「三章からは絶対面白い」とか、これ自体がほんと余計な知識です。 ☞ というわけで、実際に読んで行きましょう。

    3. はじまり、はじまり

      朗読データを授業で流したりはしません。教室でやっているときは、朗読していましたが、今のこの形式のほうが、授業の内容としては良いでしょう。

      冒頭文「私がこれを書くのは私がこの部屋にいるからであり、ここにいて私が何かを発見したからである。」と始まっている。みなさん、どうですか?外国語翻訳調、理屈臭い? 書くことは、未規定な状態・対象にたいして行われる規定作用である。(よく「おれ、こいつが犯人だと最初から思ってたよ」と言って自慢する人がいるが、複数の容疑者への疑いの気持ちのうち、犯人が確定した段階で、その犯人たる人物に対する疑いの記憶だけが回想されているのである。未規定状態での確定は間違いか当てずっぽでしかない)

      作者は、かなりのインテリ(知識階級)であるが、「私」=「作者」ではもちろん無い。読者は、与えられたことを受取るだけである。以下、しばらく心境の告白(しかもかなり理屈くさい)、あるいは眼に映るものの描写のようなもの(アパートの部屋の描写)が続くが、実際、全体を一度読んだ後、再び読むと、上手に書いてあることは分かる。情景が目に浮かぶようです。「あの女は洗いざらい自分のものを持って行ったわけではなかったから、」(p.10)などともある。また、先の冒頭文につづく二文目は「その発見したものが何であるか、私の過去であるか、私の生き方であるが、私の運命であるか、それは私には分からない。」とある。分からないんだったら書くな!と突っ込みたいが、過去:生き方:運命は、たぶん過去:現在:未来に対応しているのである。言葉は、てきとーに選ばれてはないのです。

      さらに三文目「ひょっとしたら私は物語を発見したのかもしれないが、物語というものは人がそれを書くことによってのみ完成するのだろう。」とある。「物語」は「書か」れなければ、完成しない……とはどういう意味なのか?これは必ずしも、本作中では明示されないが、すくなくとも「私」は、実際に「書い」ている。また、福永武彦は本作の前の長編『草の花』「書くことは定着させることだ!」とも作中序盤で主要登場人物(詩人)に言わせている。漠然とした感覚を浮遊させているだけではだめだ、という思いなのだろう。本作においては、「私」が自分を、第三者のように見つめている。「この部屋の内部に閉じこもっていると、ふと私が私ではなくなり、まったく別の第三者のように見え始めるのだ。そうすると私は「彼」の中に私の知らなかった別の人間を発見したような気になる。」

      「この部屋」には、具体性がある。(キューブに閉じこめられている、など)SFやおとぎ話ではなさそう。「私の部屋と言えるような言えないような、貧しいアパートの一室」、詳しい描写がつづくが、これはお手本のような的確な描写。そして、窓の下には「掘り割りのよどんだ水」があって、ツンといやな臭いがする。ドブ(以上の)臭い。日本の河川は、高度成長期には大いに汚れたが、70年代の公害訴訟以来、環境改善がされて今はずいぶん奇麗になっている(時代的な変化、しかし今や再び重大な公害をまき散らした!2011年に)。

      さらに、ここへ来る途中の文房具屋で買ってきた原稿用紙にこれを書いている。「私は何かを書こうと決心し、ここへ来る途中の文房具店でありあわせの原稿用紙を三帖ばかり買って来た。万年筆はパーカーで、これは私が社長室のマホガニイのテーブルの上で書類にチェックしたり小切手に署名したりする時に使うのと同じ万年筆だ。」(p.10)(具体性がある。架空の寓話ではない)。唐突な始まりにも拘わらず、じつはさりげなく、状況をわかりやすく、順序よく、過不足無く、説明してくれている。パーカーはアメリカ製高級万年筆である。「私」は社長室に、良い机に座っている。小切手に署名するのだから、社長本人である……。うまい……。なお、同じ万年筆、は a pen made by parkerでなく、the pen made by parkerであろう。同じ種類のでなく、同じそのもの(個物)。僕もきみと同じ三菱のハイユニを使っている(これは種類)。

      さて、この「私」の回想、執筆内容。話しはあちこちに飛んでいきます。

      [補足]『忘却の河』は、一見、糸が複雑に絡まり合ってこんがらがっているように見えるが、実際は、ほどけない結び目はひとつもなく、すべてつじつまが合っています。夢見がちな回想ののち気付くと不思議の国にいた!なんて展開には全くなっていない。もとの場にきちっと戻っています。先週、上手い!といったのは、まずこのことです。ただし、このへんは、上手に作りすぎてあるかもしれない。上手すぎるのは時に欠点となる。ほどけない結び目、つじつまの合わない部分は、推理小説でなら欠陥だが、現代文学においては肯定されもする。破綻はすこし在っても良いと私は思う。なぜなら、この現実世界じたいが、実は破綻しているから=つじつまが合っていないから(!?)。ちなみに福永武彦の最後の完成作になった『死の島』(1976年作品)では、こうしたほどけない結び目が、いくつかある。現実が1つに収まらない)

      なお、小説は、唐突に始まるのがよい。唐突でなく、丁寧な説明があるほうが良いのでは? ぜんぶあらかじめ説明しておくのは難しい。たとえば政治には丁寧な説明が必要(丁寧に議論していくと言う大臣は、実際はおよそ丁寧ではない)。しかし、小説は……。そして授業も、唐突に始まって良い(なかなかできない、丁寧に説明したくなる、してます)。5W1Hなどといって、明示的に分かりやすく書く方法が「国語」では推奨されているが、そして小中学生にはそういうのを教える必要はあるが、芸術においても、効率よいコミュニケーションにおいても、それは虚妄の説である。(When,Where,Who,What,Why,How → そんなうまく説明できるかっつーの)

      だた、過不足無く説明の要素をちりばめてはいます。 「私はここで一人きりだ。誰も私がここにいることを知らないし、妻や娘たちが知ったら、とんでもないパパだと一層信用をなくしてしまうだろう。会社の者たちが知ったら、無理もないことだ、それ位は当然だ、とかえって私に同情してくるかもしれない。」(p.11)家族関係など。

      突然の場面転換の最初(p.11)。社長室での秘書との会話が入る(現在―場面転換なのか、回想―過去なのか)。判別が難しいのは、耳で聞いているからという理由も、(半分だけ)ある。本文は次の様にあります。

      「私は一人きりで、たまにここに来て誰もそのことを知らないとおもうだけで、気持ちがほぐれて来るのだ。それは私の秘密といったものだろう。(改行)あら社長さん何かいいことでもあるんですか、と秘書が茶を運びながら私に言った。どうして。だって一人でわらっていらしたもの。」(p.11)会話文にカギカッコをつけていないが、読める。(ちなみに朗読では、わたしはそれっぽく朗読してしまっている)。

      ここには、「意識のアトランダム」がある。回想は、アトランダムに行われる。アトランダム(順不同)=非・シーケンシャル。"不意に思い出す" M・プルースト的なメソッド&テーマ。

      なお。耳で聞かせるのは、メディア的限界がある。実際、黙読を前提として書かれていることが、読み、聞いてみると、感じられると思う。 文字(さんしつとか)、句読点や改行、会話のカギ括弧がない。このテキスト(作品)にとって、黙読は対象をきわめてプレーンに浮かびあがらせるが、音読にはすでに解釈が入っている。抑揚、句読点の休止など。

      「きみのところの秘書はなかなかのユウブツじゃないか」→「尤物。美人」。
      「びーじー」→「BG、ビジネスガール、OLの古い言い方」。
      「のうかのさんしつ」→「農家の蚕室」。
      これらは、黙読の際には漢字で示されているので、意味が分からないということはないし、もし分からなくても、余り気にならないだろう。しかし、耳でのみ聞く場合は、ずいぶん不利であろう。

      ここまでのまとめ:唐突に始まり、場面転換するにしても、じつは(1)要素をじょうずにちりばめてあり=作者の上手さ、(2)読み方でも解釈して、分かりやすく読んで居り=朗読と黙読の違い、(3)最終的には、バラバラなもの(未規定なもの)は繋がっていく(規定作用)=二〇世紀小説の本質的特徴。バラバラなものとは、意識(知覚と記憶との混淆)である。

      このことを、具体的に詳しく述べていきます。

    4. 場面転換について(今回のメイン・テーマ) ― 小説とは何か?何を描くのか?(サブテーマ)―人称、視点

      小説とは、そもそも何を描くものか。西洋では、小説(ROMANCE、ロマンス)。中国では、論説という意味。日本では坪内逍遙『小説神髄』(明治20年)。いずれも、「詩」(韻文)に対する散文・俗語だが、おなじ散文でも「物語」が物語り・叙事という古代からの形式であるに対して、小説は基本的に近代以後の文学形式である。近代とは人間の時代である。「我思う故に我在り」(デカルト)に始まり「神は死んだ」(ニーチェ)で完成する、美術で言えば、線遠近法の成立(ものの大きさは、見る位置によって変わる。世界・対象の形を、私の目にどう見えたか描く)に始まり、印象派(光、色もつねに変化し続けており、私に見えた光、色を変化のままに描くのみ)で完成する。世界は、私に与えられている(世界とは、私に感じられた世界である)。

      ただ起こった出来事、ストーリーを書くだけなら、叙事(詩のパターン、叙事・叙情・叙景のうち)でなされてきた。小説の特質ではない。叙情はもっぱら詩の役割であり、物語ではなかった。日本の場合、江戸時代から小説が認められている。

      「私」の位置は、「人称」によって示される。「人称」に対する自覚を持つのが小説。対して、物語は無自覚のうちに三人称が選ばれている。「むかしむかし、おじいさんとおばあさんが、いました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました」。しかしこれが小説であれば、「私が宝車をひいているのは、鬼退治に行ったからであり、鬼退治で何かを発見したからである。その発見したものが、何かであるか、私の家来(犬猿キジ)、私の家族(爺と婆)であるか、私の胞衣(えな=桃)であるか。ひょっとしたら私は生まれるべき桃を発見したのかもしれないが……」などと。一人称で語りはじめれば『桃太郎』はもはや小説である。

      本作でも、人称は厳密に使い分けられている。一人称の「私」(父)と「わたし」(母)、三人称の「彼女」(二章、三章とでの使い分け)。

      近代は、世界を私に与えられた対象として捉えた時代である。ただし、現代はその近代の解体時期でもある。(いつからが現代かは議論が可能だが、少なくとも近代が完成したからはもうその解体は始まっていった。世界は、私に明確に与えられず、再び渾沌としていくプロセスが現代の諸相である。20世紀はほぼその現代だし、21世紀もテクノロジーはさらに進むが、まあその解体・展開のバリエーションではないか)

    5. 作品に描かれた出来事について―叙述の順序、つまり構成

      伝統的な小説は、物語と同じく、出来事が描かれている。ストーリーとも言う。ストーリー(語り、歴史)とプロット(企て、構成)の区別。 ☞ 実際に起こった時間順と、それが語られる順番とは、同じでなくとも全く構わない。同じ一つの試合でも、見方、語り方によってこんなにも違う。

      ▸ 例1)前半始まってすぐに先制されたが、30分にCKから同点に追いつき、後半選手を積極的に入れ替え、システムやポジションも変えた結果、2点連取。終了間際に1点返されたが、勝利。

      ▸例2)大変な試合だったが、後半はわれわれのペースが上手く作れた。立ち上がりは選手の距離感がまずく苦しかったし、終了間際の失点も不要だが、勝てたのは何にもましてよかった。3対2。(ほめている)

      ▸例3)結果的に勝ったことになっているが、内容的にはまったく我々のチームのサッカーではない。チームワークもなってなくて、まったく試合に入れていない。終了間際の失点もひどい。後半冒頭で連続得点できたのは、たまたまにすぎない。(けなしている)

      ☞ しかし『忘却の河』の構成の上手さは、たんに出来事の語る順序を変えた、というものではない。「意識」はそもそもアトランダム(連想)に流れる、というだけでさえない。おそらく世界の存在がランダムなのだ!この小説が持つ構成の巧みさは、その洞察によって実現されたものである。

      このことは、人に教えてもらうのでなく、自分で気付くのが楽しい、ベストであるが。(cf. 小学3年の時、お盆に遊びに来ていた親戚の叔父さんが、お盆の小遣いで買ったプラモデルを、親切心から作ってくれたときの悲しさ。ネタバレを否定する1つの根拠)

      ☞ このことを踏まえた上で、ストーリー、出来事を追ってみよう。 【梗概・一章前半】

      「私」はストーリーを語り出す。「それはまずこういうふうに始まったのである。夏の終りというよりも秋の初めで、今年はあまり大物の台風は来なかったが、それでも一晩大いに吹き荒れたことがある。朝になって風もやや収まり、この分なら学校もあるだろうと下の香代子を連れて、美佐子と女中とに見送られて表へ出た。」(p.16)

      会社の前に着き、車から降りたとき転びそうになり、向かいのビルの台風の雨に濡れた窓ガラスに「眼」を、無数の眼を見る。(p.17)

      社長室に着くまでの間に、戦時中のジャングルの軍隊の描写が入る。(p.18 徐々にこれは無関係の人物ではなく(パラレルワールドものSFでも、人格解離サイコサスペンスでもない、たんなる実験小説でもない)、社長である「私」の過去の出来事・体験であり、その回想であろう事がわかる。回想であることを明確に記しづけるために、会社のビルのエレベーターに乗り、(回想部分が語られ)、エレベーターを出る、と続ける。じつに上手い。窓ガラスの眼、戦友の眼のイメージ(図像・映像)の交差!罪はあがなえるのか(身代金を払えば…… p.24)。そして、また原稿用紙に書いている「私」に戻る。寝たきりの妻のことを思い返したりしている。

      書かれている時間は、出社後、社長室に入った時にきちんと戻る。そして、「昨晩の女」のことを思いだし、会社が終わって、病院に行く。ただし、さらに次の様につづく。

      「しかし私はこうしたものを書くのに不馴れだから、どうも途中から始めてしまった。やはり一番初めから書くのが自然だろう。前の晩、つまり台風が大いに吹き荒れていたその晩にこの偶然が起こった。それが本当の始まりだった。」(p.26)

      ☞ 初めて書いたにしては、すでに見たようにこの社長は上手すぎる、しゃあしゃあといまさら「やはり一番初めから」とか抜かしています。このストーリー(語られた順)を、プロット(本来の出来事の時間順)にもう一度まとめ直すと、次の様になる。

      台風の夜、帰宅途中の「私」は、道ばたに倒れている若い女を見つけ、タクシーを拾いアパートに送り届けるが、さらには一人住まいであり容態も悪そうで、公衆電話から救急車を呼んで病院に運んであげる。(自分は病院からハイヤーで帰宅する。また、タクシーに渡した「千円札を一枚」「つりはいらない」は今で言えば、五千円か一万円札くらいだろう。)

      道ばたで見つけたとき、女の顔を見て「鈍痛」(p.27 l.2)を感じる。アパートに送り届け、「帰らないで」と言われ、そこでも回想が始まる(p.31 l.8 農家の蚕室での看護婦との逢引きシーン。「わたし、あなたが行ってしまったら、きっと死ぬわ、と彼女は言った。きっと死ぬわ。」(p.32 l.7)。この挿入も美しい……、というか官能的。

      因みに、この繰り返された「きっと死ぬわ」の部分、この書き方を自由間接話法と言います。直接話法(カギ括弧でくくられて、会話内容がそのまま示される)、間接話法(カギ括弧を使わず、会話内容を三人称に直して書かれる)に対して、会話内容がカギ括弧でくくられず、そのまま地の文に示される。

      直接話法:「お願いです、私を信じて下さい」と彼は人々に涙ながらに訴えた。
      間接話法:お願いですから自分を信じてほしいと彼は人々に涙ながらに訴えた。
      自由間接話法:お願いです、私を信じて下さい。彼は人々に涙ながらに訴えた。

      自由間接話法は、『忘却の河』では、そもそもカギ括弧が全く無いせいもあって、全編に多用されています。が、わかりにくさはほとんど無い(ですよね?バラバラにならず、繋がって読める)

      自由間接話法は、世界が明確に私に与えられているわけではない、重層的な状態を表わしているであろう。視点が、一人称と三人称との間で浮動する。アトランダムな回想と合わせて、現代小説の形式である。

      アパートから救急車を呼びに、公衆電話をかけにいく(p.34〜)。この間にも、引き続き、回想が挿入されている。妻のことを回想し、女(看護師)のことを回想する。救急車が来て、入院させる。

      翌日の晴天、出社時に、向かいのビルの濡れた窓ガラスに「眼」を見出だす。

      (p.39 l.7)女の入院先をたずね、戦後に死んだ戦友の実家を山陰地方にたずねた「友達」の話をしてやる(p.40 l.9)。 女は寝てしまったので、部屋を出て、事務室で容態を聞くと事務員は「ああこの人は流産しました。若いから直に癒ります」と言う(p.46 l.9 個人情報 😣)。「私」は煙草を何本か吸って病院を去る(p.49 l.13)。(自分の生きている罪の感覚)

      (p.49 l.1f)三日後、女の入院先で、女に友達の話とは叔父さんのことだよねと言われる。叔父さんはさびしい人だから、優しくしてくれる、とも言われる。みやげのマスカットを食べ、自分も若い頃、病室でミカンを食べたことを回想している。退院にむけて、病院代も渡す。

      数日後、退院した女のアパートを訪ねる。アパートには川が流れており、幼少期に恐怖を感じた「胞衣(えな)の流れてくる川」を思いだす。……生まれなかったかもしれない自分。「間引きぞこない」。また、女は、日本海を望む自分の田舎が嫌いで、ある映画のロケにきていた俳優(スター)に誘われ、そのまま家出してきた、と言う。ただし俳優は最近自分に会ってくれない、とこぼす。「私」は同時に、若い頃、学生時代に左翼運動に身を投じ、検挙されかけたが、結核となり、釈放されて療養所に入る。投げやりな気持ちでいたところに、看護婦と知り合って生き生きと回復していく、その頃の楽しい記憶を思い出している。今の若い女と、昔の看護婦と、そっくりではないが、すこしばかり似ているのである。イメージが重なっている。女は私はあなたが好きだ、と言う。

      ☞ このへんも、一章のまとめとして、来週へつづきます。 【梗概・一章後半】へ

    6. 課題(提出物)のポイント(3つ)

      ▸ 導入について。唐突な始まりから、どのようにして徐々に開けていくのか。

      ▸ 場面転換について。バラバラ(?)な要素(対象、視点)について(それはどう構成されているか、読むことで構成するのか。映像的な書き方。現在の知覚と過去の記憶との交差・交配、視点の交錯)。

      ▸ その他、あなたが感じたこと。それと、参考までに、どこまで読んだか、聞いたか、教えて下さい。

      なお、 美しい表現力、描かれたテーマ、人物像については、来週のお話とします。来週は一章の終りまでを対象とします。読んで(聞いて)おいてください。はい、質問はありますか?

      提出は、グーグルクラスルームから。「ドキュメント」で提出して下さい。皆さんの感想は、読んで楽しいです。私の返事も、ちょっとだけですが書いてあります。 クラスコード「n7ldd4v」。事務局からの招待はすこし時間が掛かります。みなさん自分で入ってきて下さい。


  • 第3回 一章 忘却の河[私]小石のこと―贖罪・救済について
  • [NEXT][TOP][LAST](2024-05-07)

    1. 先週のと、今回のと、あらすじ

      ……って、前回はそもそも二〇世紀小説は「あらすじ」ではないという話をしたのです。「あらすじ」とはふつう、「起こった客観的な出来事」を意味しますが、二〇世紀小説は「現在の知覚(対象は現在起こっている出来事の、主観的な提示)」と「過去の記憶(対象は、内面化された過去の出来事、または未来の想像)」との混淆(まざりあい)であると前回言いました。ビルの窓が「眼」に見え、同時に戦時中に死んだ戦友の眼を思いだす。また、助けた女の顔を見て、無理に忘れてきた若い頃の看護婦との悲恋(?)を思いだす。知覚と想起の混淆という、意識の記述が小説の本体であり、すじは二次的な派生物である。

      しかも本作『忘却の河』の場合、この一章では、ほんとうの現在はいま原稿用紙を前にこれを書いている現在であって、知覚すなわち書かれた現在は既に起こった過去の出来事(記憶)ですから、もはや順番・構成は自由自在です。つまり、台風の翌日向かいのビルに「眼」を見た話を先に書き、ついで前日の台風の晩に若い病気の女を助け病院に運んだ話を後に書くことができた。つまり「起こった客観的な出来事」(プロット)は「物語上の展開順序」(ストーリー)として組み立て直される、これが意識を描き時間を自由にあやつる二〇世紀小説の形式的特徴です。

      なお、『忘却の河』は、現在と過去とでいりくんだ時間が描かれつつも完全につじつまはあっており、対象たる客観は一つに収束します。この点では、あり得ない現実に収束するタイムパラドクスもの、現実が一つに収束しない福永の最高傑作『死の島』パラレルワールドもの、近年流行のリープもの、などとは違う。『忘却の河』は不明瞭なスタートから、徐々に霧が晴れるように、闇が明けるように、明瞭なぜんたいが判明していくが、その開ける順序は一見混乱しているようでいて、じっさいは計算しつくされている。……というような話(形式の話)を前回しました。今回は、内容の話をしましょう。この「私」(社長、父)の話です。

    2. あらすじ(梗概)

      【梗概・一章前半】(第2回講義で語りました)

      【梗概・一章後半】

      「私はそのあと幾回かその女のアパートへ通ったが、振り返ってみるとそれが夢であったのか現であったのか定かではないような気がする」。(p.64 l.7 以下、引用ではすこし漢字を減らしています)。窓の下の「その川は澱んだまま流れず、次第に水の腐っていく掘割であることが私には分った。」また、その女は映画スターである彼のこともすきだが、やさしい小父さんも好きよ、という。「私」は同時に若い頃の、療養所での看護婦との逢引きを思い出している。看護婦もまた、私を好きになって、ほんとうに、ほんとうに、と言っていた(p.67 l.5)。

      ☞ 看護婦と逢引きをかさねる「農家のはなれ」の「蚕室(さんしつ)」の「天窓をもれてくる光線」の比喩的展開が素晴らしい(テクニック弄しすぎかも p.67 l.1f)。「彼もまたその時真実彼女を愛していて、この瞬間に死ぬことができたならどんなにか幸福だろうと考えていたのだ。ただ、彼女を抱いていることが、自分が今もなお生きていることの証拠ではあるまいか、その生き残っていることの後ろめたさが欲望にまじっている故にこの経験がたとえようもない快楽として感じられているのではないか、という自覚が、徐々に、官能がまだ全身をけだるく包んでいるにも拘らず、極めて徐々に、彼の頭脳の中に忍び入って、この夢のようなうつつのような境界に、天窓から細かい塵の浮遊しているのを照らし出しながら漏れてくる一筋の光線のように、射し込んだ。」快楽を思考が破る比喩として。

      備考:「蚕室」/生糸は戦前の日本の重要な輸出品であった。いわゆる軽工業だが、産業革命が繊維産業から始まったように、繊維産業は工業の中心であった。また、蚕の改良は江戸時代から行われており、幕末に開国した際、すぐに世界最高品質であると認定された。ただし、その背後には女工等の搾取がある。『ああ野麦峠』参照。

      ☞ 以下、原文は現在と記憶とが絶妙に交差して書かれています。絶妙・神妙です!

      「彼」は、大学時代に左翼運動に関わり逮捕された。治安維持法により、自由な思想・政治活動が出来ない時代である。転向(マルクス主義を捨てる)すれば釈放されるが、それは仲間と自分への裏切りである。「私」は結核になったために釈放され、また養父がそうとうの官吏(公務員・政府の役人)であったことも恐らくは幸いして、療養所へ入れられたのである。

      「彼」は療養所で、看護婦の熱心な看病や彼女との愛情によって生きる希望を再び見出だす、結核も治る。

      或る日、アパートにいくと、映画スターの彼と一緒に住むことになった、と女の書き置きがある(p.70 l.7)。水盤にいけた花が枯れている。そこに「眼」を見る。「私」は、その後、このアパートを借り続けることにした。(そして今、この部屋でこうして原稿用紙に書いているわけだ)。

      p.70 l.4f「部屋の片隅に楕円形の水盤があり、しおれた菊がいけたなりになっていた。それは私が、この部屋があまりに殺風景なので花と水盤とを買ってきて、自分の手でいけたものだ。女はそばで見ながら、小父さんて器用なのね、と言った。私は水盤ごとかかえあげて入り口の流しへ捨てに行った。そしてしおれた花を剣山からはずした。水盤の中にはすこし蒼味を帯びた水がゆらゆらと揺れていた。私はその暗い入り口の流しの上に、真っ白い楕円形の水盤が、水を湛えて、眼のように、私を見つめているのを見ていた。それは涙を含んだ眼のように私を見た。そして私はその時、夏の終りの台風の来た翌朝、私が舗道で見た濡れたビルの窓々の眼を思い出した。それがこの物語の初めだった。そしてそれが初めであるように、この水盤の眼が私に語りかけるものが終りであるに違いない、と。……お前は忘れているのか、忘れたままで生きていることが出来るのか、とビルの窓々の眼は私に語った。この水盤の眼は何を語っていただろうか。死者がそれによって語りかけるもの、そして生者がそれによって思い出すものは。私が思い出していたのは、去っていった女のことではない。もっと遠くの、もっと昔の、もっと実体もない陰となった愛する者たちの面影だった。」(p.70 l.4f〜 p.71 l.4f)

      ☞ この文章的な美しさを、映像的な美しさとして作り替えることは可能だろうと思う。水を美しい映像にするのは、案外しやすいし。

      だれにも話した事のない、看護婦との思い出を、「彼」は、ジャングルの洞窟で戦友に語る。p.72 l.9

      「彼」は看護婦と愛し合い、逢引きを重ね、結婚の約束をして、東京に帰った。しかし、(養父母である)両親に話しそびれているうちに、縁談話を決められて、慌てて看護婦のことを言うが、両親とも納得してくれない。はては結婚を受入れることにし、看護婦の彼女におわびの手紙を書くが、返事はこない。「彼」は思いあまって結婚式の一週間前に療養所に行くと、彼女はもう退職しているという。その足で彼女の実家のある「日本海」の町へ行き、家を訪ねると、母親らしき人から、「娘は身ごもったことを恥じて、断崖から海へ身を投げて自殺した」と言われた(p.75 l.7)。本文は次のとおりである。

      「己は療養所から見違えるほどの丈夫な身体になって東京の家へ帰った。しかしいざ親たちに受け明ける段になると、なかなか決心がつかないものだ。すぐにというわけにはいかなかった。そのうちに父親のほうからいい縁談があると言って己に持ちかけた。己はびっくりし、そこで言い交わした娘のことを話した。もし己にもっと勇気があり、もっと早くその話をしていたなら、親父だって考えてみてくれたかもしれない。しかしそれは遅すぎた。父親はこの縁談は断るわけにはいかないし、そんな看護婦なんかをうちの嫁にもらうことは出来ないと言った。己たちは親子げんかをし、おふくろが仲裁にはいったが己の味方というわけではなかった。」(p.73 l.5f〜 p.74 l.3)

      「己の訪ねて行った家に、その娘はいなかった。母親らしい婦人がきっと己をにらんで、娘は身ごもったのを恥じて、身を投げて死んだと言った。
      彼はそして黙った。それ以上言うべきこともなかった。洞窟の奥から見ると、狭い入り口の外には眩しいほどの太陽の光線が充ちあふれて、二人のいる場所の地獄のような暗さを一際濃くしていた。彼はそのとき思い出していた。あの農家の離れの天窓から漏れてくる塵の舞っていた一筋の光を。
      可哀そうに、と戦友がつぶやいた。
      その一言が彼の意識をふと現実に戻した。可愛そうに、と、それは娘を指して言われたのだろうか。それとも彼を指して言われたのだろうか。眼が暗闇に馴れると、彼は戦友の落ちくぼんだ眼に涙が浮かんでいるのを認めた。それは外界の光明をかすかに反射してきらりと光った。それなのに彼の眼は乾いていた。彼のながすべき涙の泉はすでにかれて、この昔話がひとしずくの涙を彼によみがえらせることもなかった。そして彼は驚いたように、この友達の眼に浮かんだ尊いしずくを見つめていたのだ。
      今も私の眼は乾いていた。私は水盤の水を流しへ捨て、また六畳間のほうへ戻り、ちゃぶ台の前の赤い座布団にどっかりとすわった。部屋の中はうそ寒く、隣のラジオが薄い壁を通して甲高く響いていた。」(p.75 l.8〜p.76 l.6)

      看護婦の彼女が、彼に、自分の田舎の貧しい風景を語ってくれたことがあった。日本海に面した狭い土地で、段々畑があり、断崖があり、浜辺に洞窟がある。賽の河原と呼ばれ、地蔵がまつってある、等々。

      一人になったアパートで、こんなことを考えている「私」。そして、こうとも言う。「清純なままに死んでいくのがいいのか、汚辱にまみれても生きていくのがいいのか、わたしは道学先生ではないから答えることができない。」道学=朱子学のこと、戦前の儒教道徳のことをバカにした言い方。

      ある冬を間近にひかえた日曜日(p.81 l.8)、「私」はこの部屋に来て、家から持ってきた石を、掘割りに投げる。それは、彼女が死んだ断崖、賽の河原から形見として拾ってきた石であった。(一章 終り)

      「私は立ち上がり、着てきたオーバーのポケットを探って小さな石を一つ取り出した。それは私が賽の河原から拾ってきて、今まで大切に保存してきたものだ。妻はおそらく気がついたこともなかっただろうが、それは私にとって、彼女と彼女の生むべきはずだった子供との唯一の形見だった。その小さな石には、私が忘れようと思い、忘れてならないと思い、しかも私がもう何年も、いや何十年も、忘れたままになっていた無量の想いが籠められていた。その石は私の罪であり、私の恥であり、失われた私の誠意であり、みじめな私の生のしるしだった。石は冷たく、日本海の潮の響きを、返らない後悔のようにその中に隠していた。
      私は再び窓へ行き、その石をじっと掌の中であたためてから、下の掘割の中へ投げた。ゆるやかな波紋が、そこに浮かんでいるがらくたを、近いものは大きく、遠いものはかすかに揺るがせながら、しかし、いつのまにかその輪を広げて、頓て消えていった。」
      (p.85 l.1〜l.2)

    3. 学生運動、戦前の政治思想について

      自由主義(リベラリズム、民主主義、資本主義)、マルクス主義(社会主義・共産主義、革命、国際主義)、国粋主義(ナショナリズム・民族主義)の三つどもえ。自由主義は大正デモクラシーの主体だが、思想信条の自由と経済活動の自由(格差の拡大、不景気や恐慌)とがセットになっている。マルクス主義(左翼思想)は、社会主義革命をへて平等や平和を実現する二〇世紀の希望であったが、その分、激しく弾圧された。戦前はナチズムと共存し(独ソ不可侵条約)、戦後は権威主義的国家となった。国粋主義(右翼思想)は天皇主義・軍国主義・帝国主義を背景にファシズム(全体主義、国家社会主義)に進む。なお一般に第二次世界大戦は、連合国=デモクラシーVS枢軸国=ファシズムの戦いと言われたが、本質的には、先進帝国主義VS後進帝国主義の(つまり資本主義国家同士の)戦いとも考えられている。

      ちなみに、戦後は東西冷戦が続き、西側の資本主義VS東側の社会主義。しかし、1989〜91のベルリンの壁崩壊、ソ連邦解体など西側の勝利、歴史の終焉。しかし、1970年代以降の新自由主義の蔓延。先進国内での格差の拡大。他方、南北問題からグローバル・サウスの台頭。

    4. 病気について

      結核は当時、不治の病である。戦後、特効薬ペニシリン=抗生物質が発明され治癒が容易になったが、それ以前は危険な外科手術をするか、あるいはともかく安静にして自然治癒力にゆだねるかしかなかった。最も恐ろしい病気であった。癌(ガン)などは?もちろんあったが、平均寿命が短いということは、癌をわずらうまえに人は死んでいったということである。

    5. かつてセンター試験に出題されたことがある。

      http://cgi.tky.3web.ne.jp/~toyokura/cgi-bin/vote3.cgi ※選択肢は平成5年のセンター試験の追試問題そのままです。 『忘却の河』第一章の終わりで「私」が堀割の中へ石を投げたのはどうしてだったと思いますか?

      (1)かつて自分の子を宿した女性を死に追いやったことに激しい悔恨を覚えている「私」は、生まれるはずであった子どもの唯一の形見である「小さな石」を掌で暖めてから堀割に投げ込むことで、そこに深い鎮魂の思いを託しているのである。

      (2)自身の過去を振り返る時、犯してきた様々の罪のみが思い返される「私」は、それら幾つもの罪の証である「小さな石」を堀割に投げ入れることによって、そうした過去の一切から目をそむけ、新たな心で生き直そうと決心しているのである。

      (3)これまで数々の死に立ち会ってきた「私」にとり、「小さな石」とはそれら死んでいった人々への自己の不実さを常に突き付けるものであったが、それを堀割の底に沈めることで、「私」は自責の念を心の深部に抱き続けようと決意しているのである。

      (4)「私」にとって過去とは多くの人々との死別や生別を意味するものであり、「小さな石」はそうした惨めな生のしるしに外ならなかったが、それを堀割に投げ放つことのうちに、「私」は幸福な人生の新たな始まりを予感しているのである。

      (5)深い罪の意識の中で過去につきまとわれている「私」にとって、「小さな石」とはそのような過去を象徴するものであり、それを堀割に投げ捨てることに、「私」はそうした過去に対する拘泥から解き放たれることへの願いをこめているのである。

      ☞ 正答が作れないのなら、出題するな!どれもみんな、帯に短し襷に長し。出題委員的には(3)だろうが、浅い。単純な倫理的正しさに依拠した浅い読みである。まず「私」に、新たな決心みたいな主体的な意志はないと思いますよ。また、沈んでいくことは忘却の本質であるのだから、忘却が「深部に抱き続ける」ことになる理由は、不明である。(5)は、三分の一くらい正しい。「過去に対する拘泥から解き放たれたい」とは、もともとの願望である。それが無理であることも、もう重々知っている(かといって、3「深部に抱き続けようと決意」はポジティブすぎるアホ)。それと、「過去につきまとわれている」「象徴」もウソ(似た言葉は使っている)。なぜなら、これまで忘れていたのだから。この点はで、(3)のほうが正しい。

      文学に「正答」はありませんが、有効な読み・読解はあり得ます。有効な読みは、一章だけでは完結しません。

      2019年から、センター試験が共通テストに変りました。高校の国語も変更が予定されている(古文の縮小や、論理国語と文学国語を分けるなど。2025年度からの「実用文」)が、この国は大丈夫か? 高校生を終えたみなさんも、そのつもりで生きて行ってほしい。文学主義=主情主義は私も実は嫌いだが、論理国語はマニュアルや法律、定款を読む能力ではない。あと、詰め込むべき知識も教えないといけない、と思います。知識無き思考力など無力です。

      第一章の内容的な面に関して、メモを残すべく、感想を書いて下さい。未来の自分への手紙として。あるいは、過去の自己を「彼」として描き出す「私」について。その形式を選ばざるを得なかった出来事=内容について。自己を客観視しているというよりはむしろ解離している自己。


  • 第4回 一章 まとめ1(現在と過去の総合)、まとめ2(メディア的救済)
  • [NEXT][TOP][LAST](2024-05-13)

  • 一章に描かれたモチーフ(まとめ)

    河のイメージ

    • ◎「私」が幼少期に恐れた、えな(胞衣。胎盤、プラセンタ)の、そして新しい生命の、流れてくる河
    • ・「私」が助けた女のアパートの前の、濁った掘割。

      水(湿)のイメージ、光(乾)のイメージ、共通する「眼」。あざやか!

    生まれる前に断たれた命

    • ◎「私」が愛し、約束を守れず、身ごもったまま自殺した看護婦。
    • ○「私」と妻との、最初の子ども(清ちゃん、抱影童子)。
    • ○「私」が助けた女の流産した赤子
    • △生まれなかったかも知れない、間引きぞこないの「私」

    「私」が助けた女のイメージ

    • 私が愛した看護婦に似ていた。特に目。果物。寂しい日本海。「死んでもいい」。
    • 流産していた
    • アパートの前に、掘割(河)がある。

    眼(台風の後のビルのガラス、若い女の眼、戦友の眼、水盤の眼)

    • 想起のきっかけ。忘れようと努めていたこと、しかし忘れられないこと。お前を見ているよ。
    • 二つの告白(「私」が病気の若い女へ、「彼」が戦友へ)
    • イメージを複層化するもの(繋げるもの)。反復的なイメージ(心象=図像)。

    罪の意識・後悔の原因、状態

    • ◎胞衣の流れてくる河への恐れ→ 生まれないことへの恐れ(死への断絶)
    • 大学時代の、左翼運動の挫折。仲間への裏切り。
    • 看護婦との出合い(もう一度生きよう)。しかし、自身の優柔不断と看護婦の死。
    • 結婚(再婚)、最初の死。

      生きることの失敗、しかし、生まれてこなかったことへの根源的な恐怖(死ぬことも出来ない)。あらかじめ断たれた、生および死

      現実における罪・後悔。しかし、別の可能性をも否定されている。

      いわゆる「ゲス」、非人道的、反倫理的。ひどいやつ。炎上?ネット叩き?の対象。人間の原罪か、個人の資質か。あるいは、個人の資質の問題を、原罪にすり替えていないか。ともかくひどいやつ。看護婦も可愛そうすぎ(これではヒットしない)。

      許してくれる人がいない。私秘性。この一連の事件の真相は自分しか知らない。世間に知れれば反省するしかないが、そうではないからしらばっくれることもできる。近代的自我。

  • まとめ……唐突な導入、場面転換について

    テクノロジーの進化によって、人間の身体的機能じたいが、進化する。

    映画には、「モンタージュ」というのがある(フランス語で構成・組み立ての意味。英語だとカッティング)。ベラ・バラージュ『視覚的人間』(岩波文庫、原著1924年)は映画の黎明期に書かれた映画理論書・基本的名著だが、映画によって、それまでになかった視覚体験が人間の新たな能力になっていく、という著書で、映画の手法「クロースアップ」や「モンタージュ」などの効果が説かれている。

    (新たなテクノロジーが、それまでの人間の身体的限界を超えて、人間を新たな生物に変容させる。石器、鉄器、紙、印刷、上記機関、自動車、電気、電信電話、写真、コンピュータ、youtube、など。)

    そもそも、人は常に、現在の知覚と、過去の想起とを、同時に意識に置いて/流れて、生きている。これを小説にしているのが『忘却の河』であった(二〇世紀小説)。知覚と想起とは、さほど無理なく、われわれの中で、区別され、繋げられている。唐突でややこしそうだが、さほど無理なく、場面は繋がっていた。

    場面が繋がらない未規定性世界はバラバラで、区別がなされず、連続状態にある物質(無時間)現実界(物質・もの)
    場面は繋がっている規定性現前(presentation、知覚像)知覚(現在)
    再現前(re-presantation、表象 image)図像記憶(過去)想像界(精神・こころ)
    想像(未来)
    言語概念(無時間)象徴界(意味)=物語

    知覚は物質のハタラキに還元しうるが(知覚は単に精神作用だけでなく、物質の作用反作用、酸化還元、有機合成、生命の代謝なども知覚と見なすことができるが)、記憶は物質のハタラキに還元(説明)できない(物質の持続で説明できるかな。物質の記憶とか言う作家もけっこういますね)。一応出来ないとして、ベルクソンは知覚に物質(身)を、記憶に精神(心)を対応させた。近代の心身二元論(物質精神)を、どう調停するかが、哲学的問題だが、これに対するその文学からの回答が、本作である。

    繋げるとは、ただ接着させ、混淆させることではない。むしろ、区別して並べることである。

    お わ れ て み た の は い つ の ひ か じ ゅ う ご で ね え や は よ め に ゆ き お さ と の た よ り も た へ は て た と ま っ て い る よ さ お の さ き

    なお、三木露風「赤とんぼ」も、現在の知覚過去の想起との同時性によって実現された詩である。

    夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か
    山の小陰の桑の実を小籠に積んだは幻か
    十五でねえやは嫁に行き お里の便りも絶え果てた
    夕焼け小焼けの赤とんぼ 止まっているよ棹の先

    下手に組み立てると、わやくちゃな作品になってしまう。どう並べるかは、やはり腕の見せ所である。

    唐突な始まり、場面転換があっても、案外繋がる、分かるのは、なぜか?読み手・聞き手が、想像力で補うからか。一般にはそう考えられるが、意識(精神)はもとより、世界(物質)までもが、そもそも、そういうもの・そういう関係(アトランダムな連想関係)にあるからである。

    メディア的救済―小説として

    メディア的救済―映画またはTVドラマとして

    小石を投げる

    些細な問い

    根源的な問い

    このひどいやつの話、しかしまだほんの一面が示されたにすぎません。引き続き次章をお楽しみに。今回の課題は、「私」のやったことについて、掘り下げてみて下さい。ストーリーをしっかり読んで、全体を把握しておいてください。


  • 第5回 二章 煙塵[美佐子]忘れられた記憶、香水について―共感を媒介する物質性
  • [NEXT][TOP][LAST](2024-05-20)

    ▸ 時間が余れば、二章に入っておきましょう。

    1. 復習

      ▸ 一章はどうでしたか。 一番最初に「一章は面白くない」と言い過ぎたかな。「さっぱりわかりません。」「ぜんぜんおもしろくありません」「小説は読み慣れていません」などと書いてきた人は、ほぼいなかったですね。

      緊密な構成でできている点については、みなさん理解してくれたようです。二章以降、さらに驚きは増えていきますよ(今日もお話していきます)。登場人物の言動の倫理的な面に関して、一つは、まず自分のこと、自分の友達のことのように、実在の人物のように本気で考えるというのが小説の楽しみの一つですから、「彼」はゲス野郎だ!と考えるのは、きわめて妥当だと思います。私もまったく同感です。逆に、「人間らしい」という意見の人もいます。他方で、フィクションは、現実を読み解き見破るリテラシー(言語活用能力)を養うものであり(菅聡子さん)、またじっさいこれまでの人間の行動パターンは、それほど多くはなく、世界というものはすでに誰かが言い行った事柄からしかできていない。だから、登場人物がゲスであることは、自分の代わりであり、有り難いことでもある(感謝?)。

      もう一つ、メディア的救済と言いました。つまり真面目に考えるとあまりに悲劇で、酷い話で、救いようがないが、小説として考えると明らかにこれは森鴎外『舞姫』の酷さが意識されていますよね。パクリ? 盗作・剽窃は基本やってはイケナイ。でも日本には本歌取りという伝統もある。

      春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるゝ横雲の空(新古今和歌集38 藤原定家)
      風ふけば峰にわかるゝ白雲のたえてつれなき君が心か(古今和歌集601 壬生忠峯)

      言語使用は伝統のうちにある(権威・オーソリティ、正統性・レジティマシー)、これを誇るありかたが本歌取りで、個人の創意(オジリナリティ)を誇るのではない。個人の自由=孤独に基礎を置く近代以降(我思う故に我在り以来、神は死んだ以来)は、オリジナリティが重視されます。オマージュ、パスティーシュ、パロディなどという外国語での、伝統に連なろうとするあり方もあります。日本語文脈では、「もじり」とか「やつし」とか言います 。一章を『舞姫』を意識したものとして、近代小説の伝統において考えると、近代の立身出世、残酷性、孤独などの「物語」を一つのパターンとして考えることができるかと思います。

      ▸ また、「清純なままに死んでいくのがいいのか、汚辱にまみれても生きていくのがいいのか、わたしは道学先生ではないから答えることができない。」ともありましたが、夏目漱石の『こころ』などは、状況がこの一章とは別、逆ですが、ある種の清純さを生きようとした悲劇、死による清純性の回復、とも考えられますね。同じ問題を共有しているのでしょう。

    2. 二章 煙塵(えんじん)全体のストーリー

      「彼女」は伊能(いのう)とわかれて、バスに乗る。「病気の母と閉じこもっていることが多い彼女」は、「空が青かった」と思いながら、「どこかへ行きたい」と思っている(p.89 l.3)。そして、幼い頃の田舎道の春ののどかな懐かしい風景を思い出してもいる。しかし、この思い出は、その母親に言わせれば、そんなはずはない、田舎へ疎開したときもうお前は小学校に上がる頃だったろう、と言われるのであった(p.90 l.1)。母親は、彼女の記憶を強く打ち消す。

      土曜日の夕方のバスは、だんだん込んできた(p.90 l.2f)。伊能と見た映画も特に見たいものでなかったし、伊能のことじたい興味はなかった。そして、これから食事かというタイミングで、「彼女」は伊能に、お母さんが一人で可哀想だから帰る、と言った。伊能は、「美佐子さんはいつでもお母さんだな。それじゃ、お嫁に行けませんよ」と言う。彼女は「ええ」と答えた。伊能は、「美佐子さんは他に好きな人でもいるのですか」と言うが、彼女は「いいえ」と打ち消した(p.92 l.8)。

      彼女は、バスの中で老婆に席を譲るさい、周りの視線を強く感じていた。(老婆に対しては、「ここにおかけなさい」などと案外えらそうな口を利いている)。

      ☞ 二章は、これが一章とどうつながっているのかまったく説明も前置きも無く、始まる。この始まりもまた、うまい。繋がるということは、接触していることを意味しない。離れて繋がるという関係もある。ただし、この段階で、「彼女」を美佐子だ!社長の長女だ!と決めつけるのは即断、早合点というものでしょう。現段階では、全く別の話、あるいはパラレルワールド的な関係、など様々な余地を残している。しかし、果たして、一章と完全に一致する世界が、二章で展開されていきます。(ひかくてき常識的な世界か。徹底的な三人称世界=唯一の「彼女」)

      家の者(お手伝いさん、母親)は、彼女の早い帰宅に驚く。「この次はと聞かれて、「ええ、この次は」と答えただけよ。」「わたし、あんな人と一緒にごはんをたべるのは、いやだわ」(p.95 l.1)

      お父さんは出張だし、香代子は土曜日といえばいつも遅いし、私がはやく帰ってあげなければ、と彼女は言う。いつもならすぐほだされる母親も、しかし、けげんそう。彼女と伊能との付き合いは、お見合いとして始まったもので、父親も母親も、「彼女」の将来(結婚)のことを心配してくれている。しかし、寝たきりの母親の面倒をみているのは、「彼女」であり、母親もまた「彼女」の世話しか受け付けないのだから、結婚してお嫁にいけるはずもない。母親も父親も、私のことなどほんとうは気に掛けていないのだ、と彼女は考え、いらいらする。家族などというものはこうした「欺瞞(ぎまん)」の上になりたっているのだ、と思う。

      ひがみっぽく愚痴を言う母親を見て、私はこの母親の娘なのだ、と思い、ぼんやり自分のことしか考えていない父親を見ては、私はこの父親の娘なのだ、と思う。そして、家族なんて欺瞞だ!みんな欺瞞の上になりたっているんだ!と考えている。伊能との見合い話が進み、結婚したりすれば、一番こまるのは母親なのに、進めるふりをする。父親もまた、世間体しか考えていない。

      美佐子は、一人で遅い夕食を食べながら、一日を振り返り、そして、(予約ドタキャンされて)伊能さんは怒っているだろう、と思うと「少しおかしかった。」(p.97 l.9)☞ (えーっ!嗜虐的?)

      そして美佐子は、別の人のことを、三木先生のことを思い出していた。美術評論家で、高校の美術部で講演会に呼んだことがあった(p.97 l.6f)。 美佐子は展覧会の人混みやがらんとした画廊で絵を見るのが好きだった。画廊の署名簿に、三木の名前を発見する喜び。三木から展覧会の案内葉書などを送ってもらうようになり、そこには小さく日付と時間とが書いてあった。美佐子にはその時間にいける時と、行けない時とがあった。

      実は数日前、そういう風にして会い、展覧会後、三木と喫茶店でお茶を飲んでおり、見合いをしているという話をしていた。「君はその人に気があるの」という三木に、「いやな先生!お見合いなんて娘たるものの義務ですわ。」と言っていたのである。話はそれていき、三木はぼくたちはみな不可能なことで埋まっているんだ、と言う。

      ☞ 二章も一章と同じように、現在進行形の物語と、過去の時間とが、交じって構成されている。が、全体が一人称でまとめられている一章では、それが現在の知覚と過去の想起との混淆であるのに対して、

      三人称で書かれた二章は、時間の上手い構成というに、とどまっている(か)。美佐子にとっては、一章の「私=彼」ほどの、対立(現在と過去の対立)は存在していない(か)。

      鈴が鳴っていた(p.100 l.2 現実に戻る)。寝たきりの母親はテレビを見ている。テレビは、子供の童歌を流していた。「蝙蝠こっこ、えんしょうこ。おらがの屋敷へ巣つくれ」という童歌、子守唄を思い出す(p.101 l.5)。疎開の時か、別の時か、小さい頃に見たはずの風景とともに、思い出された。母親は、この歌を知らない。「赤いまんまにととかけて」という歌の節も。この記憶は……?(p.102 l.10)

      ☞失われた、はっきりしない記憶。一章での、意志的に忘れられた、しかし忘れようとしても忘れられない、付きまとって離れない記憶、とは性格の異なるもの(か)。

      お母さんが寝たきりになったので、私は大学にも行かず、結婚もせずにいる。三木先生は私をなぐさめるために、不可能な状況に苦しむんだ、と言ってくれたのであろうと思う。 そう語る三木の顔や手、爪を見て、美佐子は、小さな爪切りを先生にあげよう、と思う。(p.104 l.9)

      ☞こういう、ぜんぜん本筋と関係の無い意識が記される。これは現在の知覚と過去の記憶の対比ではない、現在の複数の知覚が描かれている。千々に乱れ、分岐していく、一つに定まらない、意識。そのありかた。

      美佐子は思い出して母親に聞く「うちにねえやがいたわねえ」(p.107 l.2)。母親は、忘れたと取り合わず、美佐子たちが生まれる前、さきに死んだ「ぼうや」のことを思い出す。それは、「母親につきまとって離れない妄想」(p.107 l.4f)である。☞(一章でも語られていた。母親の存在と常にセットで語られる、母親の持つ記憶である) 母親は父親と気の染まない結婚をし、子供が生まれれば夫婦仲もよくなるかと思っていたのに、生まれて4、5日で、名前を付ける前に死んでしまった「ぼうや」。その子さえ生きていれば、と母親が語るとき、美佐子にはそれがあたかも、その子さえ生きていれば、美佐子も香代子もいらなかったといわんばかりに聞こえる。勝手な人だ、と思い、可哀想な人だ、とも思う。しかしそれにしても、「人は取り返しのつかない過去のことばかり、こんなにも考えて、生きているものだろうか。」

      ☞母親の身勝手さに想いをはせるべきだろうか。それもいいが、このくらーい姉娘も、十分にやばいのではないか……。さらには、父親を主人公して描いた一章も、そういうテーマであった。

      妹・香代子が帰ってきた。朗らか、楽しそうである。(p.108 l.4f)

      「こんどの公演の、配役が決まったけど、私はイネスの役が決まったの。」サルトルの『出口無し』をやるって言ってたでしょ。遠慮したんだけど、演出の3年生下山さんが是非にっていうじゃない。そねまれちゃうなあ。大学生の香代子は演劇部で、まだ2年生だが、重要な役に抜擢され、自分でも驚き、興奮しているのである。母親もその話を楽しそうに聞いている。「明日も早いから私もう寝る」といって自分の部屋にひっこむ香代子に、美佐子は、「香代ちゃん、その言い方はすこし棒読みね。」(p.110 l.5)。香代子は「やられた!」と言うが、楽しそうである。母親も香代子をかばう。美佐子は思う、お母さんにとって私は看護婦にすぎないのだ。

      ☞ 看護婦、この何気ない一言。父親はこの場にもちろんいないけれど。ある普通の言葉が、別の文脈では毒のように作用する。

      少しして、美佐子は二階にあがった香代子の部屋に行き、話をする。香代子は「祝杯」としてビールを二人で飲む。 雑然とした部屋の描写、「この部屋の壁には、まだ小さかった香代子が何かのことでひどくあばれ出して、端から物をぶつけた時の傷がまだ残っていた。もっとも香代子はその痕を、じょうずに写真などを貼って隠してはいたが。小学生の頃の香代子は、甘えっ子で、わがままで、怒り出すと手が付けられなかった。そして彼女の方は部屋の片隅に座って、白い画用紙の上にクレヨンでせっせと絵を描いていたのものだ。」(p.112 l.3)

      演目のサルトルの『出口無し』の話。大学後のことも、あまり考えていない香代子。

      他方、香代子も、元気がない美佐子のことにようやく気付いて、今日デートだったのではないか、「振られたの?」と聞く。「そんなんじゃない」と否定する美佐子に、「姉さん、さては他に誰か好きな人がいるな。誰なのよ?」とも言う。否定する美佐子。「もしいても、お母さんがいるかぎり、私はどうともなれない」とも言う。「ママは関係無いでしょう!」と香代子は言う。

      カン、するどいよね。それはさておき…

      姉妹で、親の呼び方が違う、なんてことがあるのだろうか。一つのグループで呼び名はふつう一定していくものだ。学生同士のあだななど、最初は複数の候補があっても、しばらくするうちに一つになる。姉妹で違うのは、二人がそれぞれ別の共同体に属しているから、としか考えられない。

      「ビール美味しいわ」と彼女が言った。(p.114 l.7f)

      ☞人称代名詞もまた、自覚的に使われている。二章で使われる「彼女」は、すべて美佐子である。ならば、三章は?

      子守唄のことを、香代子にも聞いてみる。香代子も、その歌を知らない。あたしひとりがこの歌を聞かされて育った。 「ママに聞いてみれば?」「お母さんはしらないって。」☞(姉妹の別がやっぱり分かりやすい) 美佐子は、香代子と、顔も性格も何一つ似ていなかった。わたしはもらい子ではないか、と考えてみた。(p.116 l.3) 突然、香代子は「何を言うの!」とみるみるうちに青くなり、泣きわめきはじめた。「そんなのうそよ、うそよ」

      その夜の夢。時計の針が逆に回る。☞(困惑、混乱。ちょっとベタなイメージ)

      翌日は日曜日である。母親は、窓の外を見たがる。ガラス戸を明けてあげると、今にも雨が降りそうな天気である。「はや夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く」と言う。清元の一節だと言うが、美佐子は「そんな風流なものではなくてよ」と言う。「霧と煤煙がいっしょになったもので、スモッグだ」。☞(晴れれば光化学スモッグ、降れば酸性雨)

      ☞1960年代の公害の社会が描かれている。一章でも、どんよりした、臭く腐敗した、汚れきった川が描かれていた。二章は、空、空気である。モチーフのこの対比的構成!

      おじいさんは(父の父、養父)は、政府の役人だったが、戦後も闇のものは買わずに栄養失調で死んだ。

      ☞戦中、戦後直後の物不足(悪性インフレ)で、すべてが配給制になったとき、それを遁れた闇市(やみいち)が建った。闇で成金になった人もいる。しかし、餓死したのはほんのひとにぎりであったろう。たとえば、当時の裁判官が有名である wiki 山口良忠。法律で人を裁く立場の人間としての思慮、苦悩。賭け麻雀の検事長(2020年5月#検察庁法改正案に抗議します)とは大違い。インフレ、デフレ。貨幣量と生産力の相関関係

      「その日曜日は単調に過ぎて行った。」(p.120 l.5f)父親が外出から帰ってくる。 ☞父親は、どこへ行っていたのでしょうね?

      その夜。(p.121 l.2f)美佐子は夕刊を見ている父親に、伊能との付き合いを断ってほしいと言い、ちょっと言い合いにもなる。涙声になった美佐子を父親は慰める。

      「こうした親密な気分が二人の間に訪れたのは久しぶりのことだった」(p.123 l.5f)。美佐子は、父親に「ねえや」のことを尋ねる。父親は、「初ちゃんか」と言う。美佐子も思い出す。甲府の田舎の出身で、行儀見習いで来ていた明るいよくしゃべる娘だったという。生家のある場所も教えてもらう。

      数日後(p.124 l.8)、美佐子は個展に出かけ、三木と会い、今度、甲府に旅行に行ってみるという。旅行と言っても日帰りだが。三木はしきりに、いいなあ、旅はいいなあ、と言っていたが、美佐子は、たとえ日帰りでも、三木先生と旅に出ることなど許されるはずもない、と思う。コーヒーを飲み終わって席を立とうとした時、美佐子は「先生にこれをさしあげたいんですけど」といって、小さな包みを出した。「明けても良いですか」と言いながら、三木はもう包みを広げた。それは小さな爪切りだった。「気を悪くするんじゃないかしら」。まさかと言い、「君はよく気の付く人ですね」と言ってくれる。その足で、デパートに付き合わないかと誘い、化粧品売り場で店員に何か告げ香水を買った後、リボンに包ませ、そのまま「これを君にあげます」と三木は言う。驚く美佐子「まあ先生、そんなの困ります」。売り子たちも好奇心をあらわにして、こちらを見ている。「じつは僕も何か君にあげたかったのだが、ものを上げたりするといやなやつだと思われるかと、今まで遠慮してたんだ。でも君が優しい心遣いをしてくれて、そのお蔭で助かった」。「君はいいお嫁さんになるでしょうね」と言って、すたすた帰っていた。

      ☞「たとえ日帰りでも」この感覚、わかりますか?

      翌日(p.127 l.5)、美佐子は、新宿駅に向かった。 「あたしは何を探しているのだろう。何のためにこうして初ちゃんを尋ねようとしているのだろう。答えは返ってこなかった。その代わりに細かな塵のようなものが、彼女の心に降り積もった。」(p.127 l.4f)☞(よどんだ水の中に沈んでいく一章、空気の中に降り積もる二章)「汽車が動き出すと、それでも久しぶりに旅へ出る喜びが心の中ににじんで来た。」☞(こういうところは、可愛らしいね)。そして、「あたしたちはみんな宙ぶらりんだ、宙ぶらりんのまま生きているのだ、と彼女は考えた。生きることもできず、死ぬこともできず、惰性のように毎日を送っているのだ。いつかは何とかなるだろうと、それだけを信じて。時計の針が反対の方向に動いていることにも気がつかずに。そして彼女はかすかに身ぶるいした。」(p.128 l.3)

      ☞このあたりでだんだんハッキリしてくると思いませんか。つまり、もうこれ以上どうにもならない、と思う人が、死ぬことができるのである。そうやって死んでいった人が、いたのだ、ということが分かってくる。生きることがいいのか、死ぬことがいいのか。しかし、ともかくそれぞれ生きるひとと死ぬ人とがいるのである。生は分岐していくのである。

      父親から教えられた駅で汽車を降り、駅前の店で食事をし、その店で教えられたバスに乗った。雨が降り出していた。バスをおりてしばらく歩き、ある旧家の百姓家にたどり着いた。記憶の中とくらべても、風景も、家も、何一つ思い出すものは無かった。そうなると、初ちゃんに聞いて確かめるしかない。用意してきた手土産を渡した、その家には、おばあさんや兄嫁という人はいたが、初江さんは駅前のバスに乗ったその町の雑貨店の奥さんになっているのだそうだ。

      バスで駅前に戻る(p.130 l.4)。雑貨店というよりはマーケット(スーパー)で、客が立て込んでいた。「彼女は売り子の一人に訊こうとして、あたりを見回し、それから店の奥のレジのところにいる中年の女のそばへ歩み寄った。あなたは初江さんじゃありませんか、と彼女は訊いた。
      どなたさまでしたかね、とその女は言った。彼女が名前を言った瞬間、その女は大きな声で叫んだ。お嬢さま。それは見栄も外聞もない心の暖まるような大声だった。お嬢さま、とその女は繰り返した。」
      (p.130 l.8)

      ☞福永武彦は理知的な仕掛けや理屈臭い小ネタが得意なだけのテクニック作家なのではない。こうした人間のストレートなまごころ、庶民的な人情も描けるのである。「見栄も外聞もない心の暖まるような大声」、なんと素敵な表現だろうと思う。

      そして美佐子は、「マーケットじゅうの人がみなこちらを向いたらしかったが、彼女は全身を固くして、背中でその視線を食いとめた。」☞(やっぱテクニカル^^;。目立ちたがり屋とは到底思えない美佐子、人の視線を集めた三回目。「眼、眼、眼」と根本的に異なる態度)

      初ちゃんは、「お宅に奉公していたお蔭で、こうして町の人のところへ片づくことができましてね。あたしは田舎は大嫌いでしてね」とも。

      (p.131 l.7f)「女は長々としゃべり、彼女は安らかな気持ちでそれを聞いていた。それは確かに初ちゃんだった。昔よりは肥り、いかにも商家のお内儀さん然としていたが、その話しぶり、その表情の動きを彼女は次第によみがえってくる過去の記憶と一々照らし合わせた。二十年も経っていながら、その間の時間を飛び越してこうして心が通うというのはなぜだろうか、と彼女は考えた。すると心がまた揺らぎ始めた。彼女は相手を遮って訪ねた。初ちゃんがうちにいてくれたのは、あたしがいくつ位のときのこと。そうですねえ、と女は小首をかしげた。たしかお嬢さまが三つ位の時から、六つか七つ位の時まででしょうね。おとなしくて、それはお可愛かった。
      やっぱり違うのだ、と彼女は考え、多少の安堵を覚えた。あたしは、それが違うことを確かめにこうしてやってきたのだ。そして違うのが当たり前だ。初ちゃんがあたしのお母さんだという筈はないもの。しかし彼女はもう一つの質問をした。ねえ初ちゃんこういう歌知らないかしら。蝙蝠こっこ、えんしょうこ、って歌。昔きいたことがあるような気がするだけど。
      ええ、知ってますよ、と女は答えた。それはぐさりと彼女の心に突き刺さった。こうでしょう、と言って女は小さな声で歌い出した。」

      初江はこの辺で歌う童歌であり、私がお嬢さまに歌ってあげたのだ、という。しかし、もう一つ、「赤まんまにととかけて」は「しりませんねえ、聞いたこともない」と言う。

      初江は帰りがけに美佐子に缶詰を袋一杯にくれ、駅まで送ってくれた。美佐子は、土産がなにもないことに気付き、プラットホームで、昨日三木先生からもらった香水が鞄に入ったままになっているのに気付き、それを初江にあげた。

      彼女はその家に小一時間も引きとめられ、もうじき主人が帰ってくるから、と言うのを、これ以上遅い汽車だと困るから、とやっと承知させて、そこを出た。女はどうしても駅まで見送ると言ってきかなかった。お土産にと、彼女が遠慮するのを無理に、缶詰のたくさんはいった大きな紙袋をくれて、停車場まで車で送ってくれた。切符を買うときに、彼女はハンドバックの中に、昨日三木先生からもらった外国製の香水が、リボンに包んだまま入れてあったのに気がついた。プラットホームに上がってから、彼女はそれを出して初ちゃんに渡した。あたし何もお土産を持って来なかったでしょう。だからせめてこれを取って頂戴。そんなもの頂けませんよ、初ちゃんは断ったが、彼女は相手の掌にそれを押し込んだ。先生はきっと怒らないだろう、と彼女は考えていた。先生にならあたしのこの気持ちが分かってもらえるだろう。初ちゃんはその手をおしいただいて、丁寧に礼を言った。汽車の窓から、彼女は初ちゃんが涙を浮かべているのを見た。

      ☞恐ろしいまでの爽快感!

      そして、彼女は、「みんな宙ぶらりんなのだ」と思いながら、帰途についた。終着駅で網棚から重たい紙袋の缶詰をおろした。小さな爪切りがこれに化けたのかと思うとおかしかった。彼女はその紙袋を片手で抱え、時々ハンドバックと手を替えながら、駅の改札を出た。

      「明るいネオンが相変わらずスモッグのかかった都会の空ににじむように明滅し、眼に見えぬ煙塵(えんじん)が彼女の心にしずかに降りそそいだ。」(二章終わり)

      ☞しかしラストは、もうすこし陰鬱である。煙塵=エアロゾル。

    3. 考察

      二章の主人公/美佐子の性格、その描写について。

      ここからはわたし(高橋)の好き嫌いが入ってしまいますが。美佐子の性格はしょうじきひがみっぽいと言っても的外れではないでしょう。魅力的な暗さ?病んでる感じ?

      プロデューサーとしての私(仮)は、本作『忘却の河』を、映画(二時間でケリを付けなければいけない)でなく、テレビドラマにしたいと思っています。全8回。一章だけは2週連続、他の章は1回づつでいけると思う。あるいは7章も2回にして全9回か。さて、美佐子役は完全な美人女優。テレビドラマはだいたい、美男美女ばっかし出しますが、特に美佐子は分かりやすい美人女優で、しかし性格はぜんぜんさっぱりしていない、くらーい感じにする。美人台無し、みたいなくらーい感じ。香代子の話は来週ですけど、はつらつとした新人女優(カタチだけのビジンではだめ)

      母親の世話は私でないとと思っているにも拘わらず、母親は私より妹を可愛がっていないか。よりということはないにせよ、私としては、自分たち姉妹が親から平等に扱われていることさえ不満に思う、というような感覚。

      「プレゼントを、封も開けずに他の人にあげるなんて、マナー違反です」か?

      美佐子は、はっきり言いますが、三木先生が好きですよね。この「好き」の意味は曖昧で、多義的だろうとは思いますがともかく、広い意味で好きですよね。好きな人から何かもらって、嬉しいよねたぶん。それなのに、かばんに入れっぱなしだったというのは、どう思います。美佐子は、実際、自分に関する過敏性とは別に、他に対しては案外排他的、上からで、残酷。ほんとはけっこう鈍感な女……なのか。三木先生からのプレゼントを、明け忘れていた、のか。

      あるいは、話をおもしろくするために、入れっぱなしになっていただけで、美佐子の人物造形・性格設定とつなげて解釈すべきではない、という立場もあるかもしれません。でも福永武彦のようなテクニシャンが、そんなへまをするでしょうか。二章は、はしからはしまで、美佐子の複雑かつ単純な精神のあり方ばかりを追っているのではないでしょうか。

      「先生はきっと怒らないだろう、と彼女は考えていた。先生にならあたしのこの気持ちが分かってもらえるだろう。」

      三木先生に対する、この信頼感!これこそが三木に対する「好き」「愛」ではないだろうか。それは、軽い、ほのかなものであるにせよ、安心して、相手にゆだねる気持ちである。

      そして、じっさい、三木はどう思うと思いますか。顔では笑うけど、心では、「えっ!僕がわざわざ買ってあげた(シャネルの)けっこう高かったのに。人にあげちゃってって。なんてヤツ……」などと思うでしょうか。「彼女は、僕のこと、あんまり気にしてないんだな」とか思うでしょうか。三木先生は、美佐子が心から嬉しく思った人へのプレゼントとして、自分のあげたプレゼントを(同等と見て)あげたのだから、美佐子にとって自分もまた大事なひとだと思っている証明だと思って良い。

      もう一つ、個人所有ということを考えてほしいと思います。美佐子にとって、三木からもらった小さなプレゼント包みは、自分のものではあるが、かならずしも自分が持っていなければその価値が保証されないようなものなのであろうか。繋がっているということは、自分がそれを所有しているということだけを意味するのだろうか。そして、これと同じ構造が、第一章のラストで、すでに描かれていたのではないだろうか。

    提出課題:✎ 描かれた美佐子の性格について、一章との対比的・反復的関係について。この2点について、考えるところを記してください。

    予告:毎回の章ごとの感想をまとめて、6月中頃に(4章が終わるころ)、1から4章の感想を提出し(10点満点)これを公開することにします。いわゆる「合評」形式です。これまで提出したものを適宜手直しして提出してもらいます。間近になったら案内しますが、まずは毎回の感想の精度をあげておいてください。