忘却の河.文学I.半魚文庫

文学I

301教室……2024

福永武彦『忘却の河』を読む

*内容は更新されています。授業開始前にリロード(↻再読み込み)してください。

  • 2024-04-15 :第1回 入学おめでとう、およびガイダンス
  • 2024-04-22 :第2回 一章 忘却の河[私]小説世界への唐突な導入、場面転換について
  • 2024-05-07 :第3回 一章 忘却の河[私]小石のこと―贖罪・救済について
  • 2024-05-13 :第4回 一章 まとめ1(現在と過去の総合)、まとめ2(メディア的救済)
  • 2024-05-20 :第5回 二章 煙塵[美佐子]忘れられた記憶、香水について―共感を媒介する物質性
  • 2024-05-27 :第6回 三章 舞台[香代子]母の生を反復すること1、「出口なし」や実存主義
  • 2024-06-03 :第7回 四章 夢の通い路[わたし]恋愛小説における恋愛不可能性
  • 2024-06-10 :第8回 四章 夢の通い路[わたし]不倫ともののあはれ
  • 2024-06-17 :第9回 五章 硝子の城[先生]芸術における批評家と実作者、恋愛可能性と罪の回避
  • 2024-06-24 :第10回 六章 喪中の人[香代子]本当の恋愛―母の生を仮想的に反復することについて2...
  • 2024-07-01 :第11回 七章 賽の河原[私]ふるさと―贖罪と救済のあいだに見出だされた記憶【前編】...
  • 2024-07-08 :第12回 七章 賽の河原[私]ふるさと―贖罪と救済のあいだに見出だされた記憶【中編】
  • 2024-07-17 :第13回 七章 賽の河原[私]ふるさと―贖罪と救済のあいだに見出だされた記憶【後編】
  • 2024-07-22 :第14回 忘却の河、創作ノオト
  • 2024-07-29 :第15回 福永武彦と二〇世紀小説、『死の島』について

  • 第1回 入学おめでとう、およびガイダンス
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    グーグルクラスルームをつかいます(クラスコード n7ldd4v)

    そして。まずは……、

    1. * 金沢美大へ、入学おめでとう \(^お^)/ サクラサク

      あまりおめでたくない(!?)、この世界。パンデミックから世界?大戦へ。軍国化、テロリズム?民主主義の崩壊。ソレハサテオキ

      置かれた場所で咲きなさい(渡辺和子というひとの名言。本がある、amazonで900以上の評がついている、酷評も含め)

      F・ニーチェの「運命愛」(与えられた条件を肯定して生きる。その条件しかないから我慢する、ではなく、他の条件がもし選べても私はこの条件を受け入れる、という考え方)に通ずる考え方だとおもうけど。搾取とか、毒親とかもか?

      子曰。里仁爲美。擇不處仁。焉得知。(論語・里仁篇) (子曰わく、里(さと)は仁(じん)を美(よし)と為(なす)。択(えら)んで仁に処(をら)らずんば焉(いぞく)んぞ知(ち)を得(え)ん。 )

      朱子の解釈:「孔子先生はおっしゃった。住む場所は、仁の行われている場所(よい風俗の場所)が良い。そこを選んで仁を拠点としなければ、どうして善悪・是非を判断する知を得ることができようか」cf. 孟母三遷の教え

      荻生徂徠による、少し異なる解釈:「仁(まごころそのもの)に寄り添っていれば、美(よいこと)が自ずと付いて来る。」→場所でなく心構えの問題である。『論語』の読み・意味も、読みかえられる。が、いずれにしても、自ら選ぼうという考え。選べない人はどうするの?

      古典の解釈も一定していない!

      ☞ つまり、「場所はどこでも良い」という説と「良い場所を選んで住め」という説と、相矛盾する二説がある。どちらが真実か? あるいは、いわゆる名言でもいつも両面があるのか。真理を言い当てた言葉があるのではなく、相矛盾する二つの命題から、中庸(ちゅうよう、メソテース)を取ることが、よく生きることである。じっさい!

      ちなみに、先の3年間(2020〜2022年)は「場所」自体がなかった。バーチャルな空間であった。遠隔授業!遠隔実技!入学休学!(こういう授業態勢!)。そして、パンデミックが明けたとたん、世界戦争?(ウクライナ/ロシア、パレスチナ/イスラエル、東アジア?)

      欧州に留学してその伝統を目の当たりにしてショックを受けた。「それから私は日本に帰って来て考えた。伝統は私自身の内部に新しく築くほかはない、風土は私個人の周囲に見出だすほかはないとね。日本人にはエスプリ・ド・ジェオメトリイ(幾何学的精神。数学的・論理的に考える力)が伝統的に不足しているのだから、いきなりアブストラクト(抽象表現、抽象概念)を与えたって、描く方も見る方も、あっけにとられるだけです。」(『忘却の河』第5章、画家・秋田治作のセリフから)

      ☞ ともかく、金沢美大という「場所」に来て、おめでとう!

      もう一点。正解は予めある(先生は答えを知っている)ということはない!ということ。試行錯誤(すぎるのもどうか、とはいえ)の連続。AIは正解を知っている?→文脈(場所)に依存した、状況に応じた、正解があるのみ(だろう)。それは全くの普遍的価値はありえない、という意味でもなく。

      競争を(させられて)勝ち抜いて。受験戦争。

      入試の試験監督:共通テストと2次試験。われわれ一般教育の教員は共通テストのみ中心的に担ってきたが、昨年のみ初めてたまたま専攻の2次も手伝った。お客さん(よそのこ)と我が子の違い。もちろん共感・愛情は拡大されなければならないけれど。「潜在性(可能性)の哲学」G・ドゥルーズ、実現しなかった可能性もふくめて、この現実世界なのだ!私たちの現実(アクチュアリティ)は、さまざまな実現しなかった潜在性(バーチャリティ)を含んでいる。パラレルワールド的?(ライプニッツ的) -->

      次に、または、そのためにも。

      自身の向上と他者との競争とは全く違うものです。(自己の絶対性/他者との相対性)いかに競争から足を洗うかが人生の意味です。「いやいや、人間は肩書きだ」「人は見た目で決まる」とか世俗の価値観からいかに脱却するか。

    2. 生は根本事実であり、その背後はない。(ウィルヘルム・ディルタイの言葉)

      ☞ 生まれて、生きていること。それを背後から指令する理由・原因・目的は無い。生きる目的は、(予め)与えられてはいない。自分で見つける、作るものだ。「神話」ではなく、「物語」を作るのである。

      実存は本質に先立つ。(J・P・サルトルの言葉)『忘却の河』第3章で、関連して扱います。

    3. 人は、物語を生きている、ということ。虚構と現実の関係。芸術のアクチュアルな価値。

      文学研究は、ともすれば現実社会とコミットしていないと考えられがちだが、それは誤りである。私たちは、つねに「物語」のなかを生き、ときに、より「大きな物語」による抑圧を受ける。そのような抑圧にあらがうために、私たちは「物語」自身のみならず、その「物語」を発信・受容するシステムや、「物語」のコンテクストを読み解く力を持たなければならない。そのような広い意味でのリテラシーを得ることができるのは、文学研究の分野である。そもそも、現在の私たちをとりまき脅かす「大きな物語」の原型は、すべて過去にすでに語られたものなのだ。そのようなアクチュアルな学問の形として、文学研究はある。(菅聡子・お茶の水女子大教授の言葉)

      ☞ 文学や芸術のような虚構(フィクション)の世界と、政治や経済、社会や生活、教育・医療といった現実世界と、二つの別個の世界があるのか。そうではなく、この現実世界自体がある種の物語として書かれ読まれているのではないか。偉人伝を読んで、その人を手本として生きたいと思うことがあるのはなぜか。フィクションであっても、偉大な芸術作品は、直接にわれわれの人生を変える力を持つのではないか。

      ただし、良い方へばかりとは限らない。あるいは現実の出来事、地震や大量殺人、津波や原発事故とて、パンデミックも(?)、人によっては、それはTVの中の絵空事にすぎない。

    4. 現在の世界情勢

    現代は、どんな時代か。それを、文学作品の読解を通して、考えていく。考える力を付ける。

    さて、本題です。

  • テキスト、福永武彦『忘却の河』(新潮文庫)ISBN 978-4-10-111502-3 C0193 \590(税別)

    ▸ 学内の売店・かゆう堂で売っています。本格的には、来週から使います。

    今回は、あらかじめ音読したデータを、グーグル・クラスルームの「ドライブ・フォルダ」に置いておきますから、ダウンロードするなりして(なるべく小さなサイズになるようにしました。フォルダ毎一括してダウンロードできるはずです)、事前に聞いてみておいてください。テキストを見ながら聞くのが、理解のためには有効でしょう。

    ◎高橋個人サイトから(リンクを知っている人すべてアクセス可能)http://hangyo.sakura.ne.jp/lec/kawa_read_aloud.zipZIP形式でアーカイブ
    △グーグルクラスルームから(リンクを知っている人すべてアクセス可能)https://drive.google.com/drive/folders/1002WTifjkMnV40A9mbxWq52-uGPn5UJR?usp=sharing

    この授業じたい、そもそも「音読」してきました。文章が美しく細やかで、細部と全体と対応的な構成も素晴らしく、そうした素晴らしさを味わうためには、ともかく一緒に読むことが第一なので、授業で「音読」してしまうのですが、ただ「わざわざ授業で、先生が読んでくれなくても良い」という意見も、毎年多少ありました。多くは「読んでもらうので有り難い」という意見であり、実際、私もまずは読まないと、説明もしにくい。ちょうど、絵画作品を目の前で見せないと説明しにくいのと同じでした。

    ただし、本作は、そのまま朗読されるべき、ラジオドラマのようなものとして書かれた作品ではなく、やはり黙読(目で文字を読むこと)を前提としていることは、読んでみて、あらためて分かります。ちなみにコロナ初年の2020年は、テキストが入手しづらく、最初は音読データだけで授業を開始しました。まあ、そうした悪条件において享受してみるのも、今回(昨年)のような悪条件下には似つかわしい趣向(おもしろみ)ではないだろうか、となぐさめて。

    なお朗読しているのは、森本レオさんではなくて、まあ私自身ですが、思った程上手じゃないですね(がっくし)。それも一つの、与えられた(悪)条件として、置かれた場所で、咲いてみてください。

    ▸ 朗読データは、次の通りです。2020年に初めて作ってみて、面白い経験でもありました。通読に必要な時間も、判明しました。

    一章 忘却の河(全18ファイル)207分
    二章 煙塵(全9ファイル)85分
    三章 舞台(全8ファイル)53分
    四章 夢の通い路(全9ファイル)99分
    五章 硝子の城(全6ファイル)67分
    六章 喪中の人(全5ファイル)40分
    七章 賽の河原(全11ファイル)116分
    全部で11時間ちょっとあります。しかし、これは11時間あれば全部読める、ということを意味するものではありません。計画的に聞いてほしいし、また二度以上聞き、読まないと、課題のレポート(8月末ころ提出)はできないはずです。

    この作品は、堂々と言いますけど、最初の一章は読み始めさっぱり面白くないだろうなと思います。ぐだぐだ心境が書かれているが、小難しく、ぜんぜん面白くない!とか言うのではないでしょうか。少なくとも、青春の若者向けの楽しさは、そこには無さそうです。しかし、勉強だと思って、最初は我慢してください。途中から、主人公の若かった時代を振り返る部分に入り、そこからは、ストーリー的にも非常に面白くなります。ただし、苛酷です(今日風に言えば、ゲス野郎というのですか)。

    二章、三章、四章と、堂々と言いますけど、文句なく面白いはずです。今日の洒脱な小説(80年代以降、または00年代以降?よしもとばなな以後?あるいは、村上春樹以後?二人とももちろん良い小説家です)も悪くはないでしょうが、六〇年代の圧倒的な構築力と表現力をそなえた傑作のすごさを、ぜひ味わってほしいです。

    予備知識なんか、まったく不要です。作品にじかに入っていってください。

    特に、視覚的描写のものすごさ(描写のうまさと、その構成)を味わってほしいのです。(つまらないであろう)一章にも顕著ですが、場面の入れ方が、転換のしかたが、たぶん映像的、映画的なのでしょう、突然切り替わるのだが、それが決して不自然ではない。

    ☞ 授業で使うもの、やり方。再説。

    シラバス 文学1

    ▸ 授業は対面。音声アーカイブなどは残しません。

    ▸ 話す内容は、このページに予め書いておきます。親切?私が話す台本でもあります。

    ▸ 授業後に、何か質問などあれば受け付けます。なんでも聞いて下さい。

    ▸ 出席は、終了後に授業に関する内容を含んだメールを送ってもらうことで、証明してもらいます。授業を聞いていることが分かるような内容を含んでいないと出席扱いとしません。(とても興味深い授業でした。主人公はひどいやつだと思いました、など漠然とした、聞いてなくなって書けるような感想ですからね。まあ、みなさんも工夫してみてください)。

    グーグルクラスルームの「提出物」というシステムがあります。点数設定などもできるようです。これを使って、工夫したいと思います。適宜指示しますので、掲示を確認して下さい。今日の1回目に関しては、授業で話された内容に関して、簡単にまとめ、自分の意見などを書いて、締切り(3〜4日)までに提出してください。

    字数制限などは、特にさだめませんが(多く書ける人もいれば、少ない人もいるから、一概に決められない)、4年間をとおして、文章を書くことを嫌がらずにできるようになってほしいと思います。苦手意識は、人と比べることで生まれます。そうでなく、自分の好きなようにかけばよいのです、楽しく書けばよいのです。上手でなくても、ぜんぜんかまいません。(上手になりたくて、教えて欲しい人には、いくらでも、上手になり方を教えますけど)。

    あと、メモをとるくせをつけるとよいです。スケジュール手帳(スマホで?)、スケッチ帳、などと同じように、言葉でスケッチする。そのシステム、スタイルを自分で考え、作っていくのです。

    ChatGPTなど生成系AIの使用は認めません。簡単に短時間で課題をこなすのは良いことかも知れませんが、文章力はつきませんし、機械があなたの代わりに文章を書いたり、絵を描き、作品を作り、あなたの代わりに(華々しく)生きてくれて、それが幸せですか。

    はい、質問ありますか。廊下でも、お気軽にお声をおかけ下さい。小さい大学ですし、教員とも学生同士とも、話をしたほうが良いです。(メールでの、あんまり細かい質問には、すべてはお答えしませんが)。ゆっくり雑談でもしながら、話を進め、深めていきたいですね。

    ▸ あらためて、入学おめでとう!

    「文学」とは?。私の担当する教養科目、文学1は現代文学を1作品、文学2は古典文学を連続・文学史的に、文学3は言語以外のメディアも含め(まんが。ちな他の先生だが文学4は映画)。

    本授業では、一作品を扱うが、「二〇世紀小説」の全体を講義します。心理と出来事を描く19世紀小説に対して、二〇世紀小説は意識と時間を描いた。という福永武彦の定義がある。M・プルースト、J・ジョイスに始まる二〇世紀小説。知覚と記憶の二重性を描いた、とも言える。現働性(現在)と潜在性(過去=未来)。

    ややこしい話になりましたが、純粋に、作品が面白い(筋立て、解き明かし)。のみならず、美しい描写(心理と風景〜情景)。構成!

    福永武彦(1918 〜1978)。他の代表作『草の花』、『死の島』。


  • 第2回 一章 忘却の河[私]小説世界への唐突な導入、場面転換について
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    朗読データ。今日は、ファイルの bo064_1_11.mp3 くらいまで進む予定です。 (ファイル名は、bo064は共通、真ん中の一桁は章、最後の二桁は章ごとに振られた連番です。フォルダ、ダウンロードの仕方、各ファイルの容量時間などに関しては、第1回を見てください。)

    1. シラバス(授業概要・計画)の記載 シラバス

      授業概要:『忘却の河』は、とある戦後の中流家庭の諸肖像を描きながら、人間の生死、愛憎を扱った、極めて優れた典型的現代小説です。テーマ的には重々しいが、読者を引込む巧みな構成と美しい表現力を持っています。本授業では、戦後文学を題材にして、描かれたテーマを味わい、同時に文学を研究するための基礎的方法を学びます。

      到達目標:大学生の一般教養として、文学作品を読む力を養うために、次の3点を心掛けます。1、2、3の順に難度が上がるので、是非挑戦してください。☞ 虚構(文学作品)を通して、現実世界を読むリテラシー(言語活用能力)を身につける。

      1. 複雑な構成の作品を、前後関係などに注意して、丹念にたどって読む。☞ 意識の流れとしての二〇世紀小説
      2. 作品の背景となっている哲学や芸術思想などを理解しつつ、作品を読む。☞ 抽象主義、実存主義、それらの限界
      3. 作品から見出だされるテーマを読み取り、自分の生き方と関係づけて読む。☞ 自己の物語として。小説の愉悦

      授業計画:講義・講読形式で授業を行います。作品は全七章から成っていて、週割りと章・各主題との対応は次の通りです。(少し変えました。また、今後変わる可能性もあります。変ります)

    2. 予備知識は不要!

      作者・福永武彦(1918 〜1978)については追々。作品は1964年(昭和39年)5月刊行。「初版後記」(朗読ファイルbo064_7_14.mp3)参照。1963年の後半期に、7つの各章それぞれが異なる文芸雑誌に掲載された。「私には各々の章が独立した作品であるかのような印象を与えたいという意図があった。それゆえ雑誌発表の際には、あるいはそれらが長編小説の一部であることに気がつかれなかった読者もあるかもしれない。

      1963年くらいの作品、その時代が舞台……、だけでじゅうぶん(予備知識)

      「一章(の前半)は面白くない」と先週言いました。「途中から面白くなる」「二章からはたぶん面白くなる」「三章からは絶対面白い」とか、これ自体がほんと余計な知識です。 ☞ というわけで、実際に読んで行きましょう。

    3. はじまり、はじまり

      朗読データを授業で流したりはしません。教室でやっているときは、朗読していましたが、今のこの形式のほうが、授業の内容としては良いでしょう。

      冒頭文「私がこれを書くのは私がこの部屋にいるからであり、ここにいて私が何かを発見したからである。」と始まっている。みなさん、どうですか?外国語翻訳調、理屈臭い? 書くことは、未規定な状態・対象にたいして行われる規定作用である。(よく「おれ、こいつが犯人だと最初から思ってたよ」と言って自慢する人がいるが、複数の容疑者への疑いの気持ちのうち、犯人が確定した段階で、その犯人たる人物に対する疑いの記憶だけが回想されているのである。未規定状態での確定は間違いか当てずっぽでしかない)

      作者は、かなりのインテリ(知識階級)であるが、「私」=「作者」ではもちろん無い。読者は、与えられたことを受取るだけである。以下、しばらく心境の告白(しかもかなり理屈くさい)、あるいは眼に映るものの描写のようなもの(アパートの部屋の描写)が続くが、実際、全体を一度読んだ後、再び読むと、上手に書いてあることは分かる。情景が目に浮かぶようです。「あの女は洗いざらい自分のものを持って行ったわけではなかったから、」(p.10)などともある。また、先の冒頭文につづく二文目は「その発見したものが何であるか、私の過去であるか、私の生き方であるが、私の運命であるか、それは私には分からない。」とある。分からないんだったら書くな!と突っ込みたいが、過去:生き方:運命は、たぶん過去:現在:未来に対応しているのである。言葉は、てきとーに選ばれてはないのです。

      さらに三文目「ひょっとしたら私は物語を発見したのかもしれないが、物語というものは人がそれを書くことによってのみ完成するのだろう。」とある。「物語」は「書か」れなければ、完成しない……とはどういう意味なのか?これは必ずしも、本作中では明示されないが、すくなくとも「私」は、実際に「書い」ている。また、福永武彦は本作の前の長編『草の花』「書くことは定着させることだ!」とも作中序盤で主要登場人物(詩人)に言わせている。漠然とした感覚を浮遊させているだけではだめだ、という思いなのだろう。本作においては、「私」が自分を、第三者のように見つめている。「この部屋の内部に閉じこもっていると、ふと私が私ではなくなり、まったく別の第三者のように見え始めるのだ。そうすると私は「彼」の中に私の知らなかった別の人間を発見したような気になる。」

      「この部屋」には、具体性がある。(キューブに閉じこめられている、など)SFやおとぎ話ではなさそう。「私の部屋と言えるような言えないような、貧しいアパートの一室」、詳しい描写がつづくが、これはお手本のような的確な描写。そして、窓の下には「掘り割りのよどんだ水」があって、ツンといやな臭いがする。ドブ(以上の)臭い。日本の河川は、高度成長期には大いに汚れたが、70年代の公害訴訟以来、環境改善がされて今はずいぶん奇麗になっている(時代的な変化、しかし今や再び重大な公害をまき散らした!2011年に)。

      さらに、ここへ来る途中の文房具屋で買ってきた原稿用紙にこれを書いている。「私は何かを書こうと決心し、ここへ来る途中の文房具店でありあわせの原稿用紙を三帖ばかり買って来た。万年筆はパーカーで、これは私が社長室のマホガニイのテーブルの上で書類にチェックしたり小切手に署名したりする時に使うのと同じ万年筆だ。」(p.10)(具体性がある。架空の寓話ではない)。唐突な始まりにも拘わらず、じつはさりげなく、状況をわかりやすく、順序よく、過不足無く、説明してくれている。パーカーはアメリカ製高級万年筆である。「私」は社長室に、良い机に座っている。小切手に署名するのだから、社長本人である……。うまい……。なお、同じ万年筆、は a pen made by parkerでなく、the pen made by parkerであろう。同じ種類のでなく、同じそのもの(個物)。僕もきみと同じ三菱のハイユニを使っている(これは種類)。

      さて、この「私」の回想、執筆内容。話しはあちこちに飛んでいきます。

      [補足]『忘却の河』は、一見、糸が複雑に絡まり合ってこんがらがっているように見えるが、実際は、ほどけない結び目はひとつもなく、すべてつじつまが合っています。夢見がちな回想ののち気付くと不思議の国にいた!なんて展開には全くなっていない。もとの場にきちっと戻っています。先週、上手い!といったのは、まずこのことです。ただし、このへんは、上手に作りすぎてあるかもしれない。上手すぎるのは時に欠点となる。ほどけない結び目、つじつまの合わない部分は、推理小説でなら欠陥だが、現代文学においては肯定されもする。破綻はすこし在っても良いと私は思う。なぜなら、この現実世界じたいが、実は破綻しているから=つじつまが合っていないから(!?)。ちなみに福永武彦の最後の完成作になった『死の島』(1976年作品)では、こうしたほどけない結び目が、いくつかある。現実が1つに収まらない)

      なお、小説は、唐突に始まるのがよい。唐突でなく、丁寧な説明があるほうが良いのでは? ぜんぶあらかじめ説明しておくのは難しい。たとえば政治には丁寧な説明が必要(丁寧に議論していくと言う大臣は、実際はおよそ丁寧ではない)。しかし、小説は……。そして授業も、唐突に始まって良い(なかなかできない、丁寧に説明したくなる、してます)。5W1Hなどといって、明示的に分かりやすく書く方法が「国語」では推奨されているが、そして小中学生にはそういうのを教える必要はあるが、芸術においても、効率よいコミュニケーションにおいても、それは虚妄の説である。(When,Where,Who,What,Why,How → そんなうまく説明できるかっつーの)

      だた、過不足無く説明の要素をちりばめてはいます。 「私はここで一人きりだ。誰も私がここにいることを知らないし、妻や娘たちが知ったら、とんでもないパパだと一層信用をなくしてしまうだろう。会社の者たちが知ったら、無理もないことだ、それ位は当然だ、とかえって私に同情してくるかもしれない。」(p.11)家族関係など。

      突然の場面転換の最初(p.11)。社長室での秘書との会話が入る(現在―場面転換なのか、回想―過去なのか)。判別が難しいのは、耳で聞いているからという理由も、(半分だけ)ある。本文は次の様にあります。

      「私は一人きりで、たまにここに来て誰もそのことを知らないとおもうだけで、気持ちがほぐれて来るのだ。それは私の秘密といったものだろう。(改行)あら社長さん何かいいことでもあるんですか、と秘書が茶を運びながら私に言った。どうして。だって一人でわらっていらしたもの。」(p.11)会話文にカギカッコをつけていないが、読める。(ちなみに朗読では、わたしはそれっぽく朗読してしまっている)。

      ここには、「意識のアトランダム」がある。回想は、アトランダムに行われる。アトランダム(順不同)=非・シーケンシャル。"不意に思い出す" M・プルースト的なメソッド&テーマ。

      なお。耳で聞かせるのは、メディア的限界がある。実際、黙読を前提として書かれていることが、読み、聞いてみると、感じられると思う。 文字(さんしつとか)、句読点や改行、会話のカギ括弧がない。このテキスト(作品)にとって、黙読は対象をきわめてプレーンに浮かびあがらせるが、音読にはすでに解釈が入っている。抑揚、句読点の休止など。

      「きみのところの秘書はなかなかのユウブツじゃないか」→「尤物。美人」。
      「びーじー」→「BG、ビジネスガール、OLの古い言い方」。
      「のうかのさんしつ」→「農家の蚕室」。
      これらは、黙読の際には漢字で示されているので、意味が分からないということはないし、もし分からなくても、余り気にならないだろう。しかし、耳でのみ聞く場合は、ずいぶん不利であろう。

      ここまでのまとめ:唐突に始まり、場面転換するにしても、じつは(1)要素をじょうずにちりばめてあり=作者の上手さ、(2)読み方でも解釈して、分かりやすく読んで居り=朗読と黙読の違い、(3)最終的には、バラバラなもの(未規定なもの)は繋がっていく(規定作用)=二〇世紀小説の本質的特徴。バラバラなものとは、意識(知覚と記憶との混淆)である。

      このことを、具体的に詳しく述べていきます。

    4. 場面転換について(今回のメイン・テーマ) ― 小説とは何か?何を描くのか?(サブテーマ)―人称、視点

      小説とは、そもそも何を描くものか。西洋では、小説(ROMANCE、ロマンス)。中国では、論説という意味。日本では坪内逍遙『小説神髄』(明治20年)。いずれも、「詩」(韻文)に対する散文・俗語だが、おなじ散文でも「物語」が物語り・叙事という古代からの形式であるに対して、小説は基本的に近代以後の文学形式である。近代とは人間の時代である。「我思う故に我在り」(デカルト)に始まり「神は死んだ」(ニーチェ)で完成する、美術で言えば、線遠近法の成立(ものの大きさは、見る位置によって変わる。世界・対象の形を、私の目にどう見えたか描く)に始まり、印象派(光、色もつねに変化し続けており、私に見えた光、色を変化のままに描くのみ)で完成する。世界は、私に与えられている(世界とは、私に感じられた世界である)。

      ただ起こった出来事、ストーリーを書くだけなら、叙事(詩のパターン、叙事・叙情・叙景のうち)でなされてきた。小説の特質ではない。叙情はもっぱら詩の役割であり、物語ではなかった。日本の場合、江戸時代から小説が認められている。

      「私」の位置は、「人称」によって示される。「人称」に対する自覚を持つのが小説。対して、物語は無自覚のうちに三人称が選ばれている。「むかしむかし、おじいさんとおばあさんが、いました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいきました」。しかしこれが小説であれば、「私が宝車をひいているのは、鬼退治に行ったからであり、鬼退治で何かを発見したからである。その発見したものが、何かであるか、私の家来(犬猿キジ)、私の家族(爺と婆)であるか、私の胞衣(えな=桃)であるか。ひょっとしたら私は生まれるべき桃を発見したのかもしれないが……」などと。一人称で語りはじめれば『桃太郎』はもはや小説である。

      本作でも、人称は厳密に使い分けられている。一人称の「私」(父)と「わたし」(母)、三人称の「彼女」(二章、三章とでの使い分け)。

      近代は、世界を私に与えられた対象として捉えた時代である。ただし、現代はその近代の解体時期でもある。(いつからが現代かは議論が可能だが、少なくとも近代が完成したからはもうその解体は始まっていった。世界は、私に明確に与えられず、再び渾沌としていくプロセスが現代の諸相である。20世紀はほぼその現代だし、21世紀もテクノロジーはさらに進むが、まあその解体・展開のバリエーションではないか)

    5. 作品に描かれた出来事について―叙述の順序、つまり構成

      伝統的な小説は、物語と同じく、出来事が描かれている。ストーリーとも言う。ストーリー(語り、歴史)とプロット(企て、構成)の区別。 ☞ 実際に起こった時間順と、それが語られる順番とは、同じでなくとも全く構わない。同じ一つの試合でも、見方、語り方によってこんなにも違う。

      ▸ 例1)前半始まってすぐに先制されたが、30分にCKから同点に追いつき、後半選手を積極的に入れ替え、システムやポジションも変えた結果、2点連取。終了間際に1点返されたが、勝利。

      ▸例2)大変な試合だったが、後半はわれわれのペースが上手く作れた。立ち上がりは選手の距離感がまずく苦しかったし、終了間際の失点も不要だが、勝てたのは何にもましてよかった。3対2。(ほめている)

      ▸例3)結果的に勝ったことになっているが、内容的にはまったく我々のチームのサッカーではない。チームワークもなってなくて、まったく試合に入れていない。終了間際の失点もひどい。後半冒頭で連続得点できたのは、たまたまにすぎない。(けなしている)

      ☞ しかし『忘却の河』の構成の上手さは、たんに出来事の語る順序を変えた、というものではない。「意識」はそもそもアトランダム(連想)に流れる、というだけでさえない。おそらく世界の存在がランダムなのだ!この小説が持つ構成の巧みさは、その洞察によって実現されたものである。

      このことは、人に教えてもらうのでなく、自分で気付くのが楽しい、ベストであるが。(cf. 小学3年の時、お盆に遊びに来ていた親戚の叔父さんが、お盆の小遣いで買ったプラモデルを、親切心から作ってくれたときの悲しさ。ネタバレを否定する1つの根拠)

      ☞ このことを踏まえた上で、ストーリー、出来事を追ってみよう。 【梗概・一章前半】

      「私」はストーリーを語り出す。「それはまずこういうふうに始まったのである。夏の終りというよりも秋の初めで、今年はあまり大物の台風は来なかったが、それでも一晩大いに吹き荒れたことがある。朝になって風もやや収まり、この分なら学校もあるだろうと下の香代子を連れて、美佐子と女中とに見送られて表へ出た。」(p.16)

      会社の前に着き、車から降りたとき転びそうになり、向かいのビルの台風の雨に濡れた窓ガラスに「眼」を、無数の眼を見る。(p.17)

      社長室に着くまでの間に、戦時中のジャングルの軍隊の描写が入る。(p.18 徐々にこれは無関係の人物ではなく(パラレルワールドものSFでも、人格解離サイコサスペンスでもない、たんなる実験小説でもない)、社長である「私」の過去の出来事・体験であり、その回想であろう事がわかる。回想であることを明確に記しづけるために、会社のビルのエレベーターに乗り、(回想部分が語られ)、エレベーターを出る、と続ける。じつに上手い。窓ガラスの眼、戦友の眼のイメージ(図像・映像)の交差!罪はあがなえるのか(身代金を払えば…… p.24)。そして、また原稿用紙に書いている「私」に戻る。寝たきりの妻のことを思い返したりしている。

      書かれている時間は、出社後、社長室に入った時にきちんと戻る。そして、「昨晩の女」のことを思いだし、会社が終わって、病院に行く。ただし、さらに次の様につづく。

      「しかし私はこうしたものを書くのに不馴れだから、どうも途中から始めてしまった。やはり一番初めから書くのが自然だろう。前の晩、つまり台風が大いに吹き荒れていたその晩にこの偶然が起こった。それが本当の始まりだった。」(p.26)

      ☞ 初めて書いたにしては、すでに見たようにこの社長は上手すぎる、しゃあしゃあといまさら「やはり一番初めから」とか抜かしています。このストーリー(語られた順)を、プロット(本来の出来事の時間順)にもう一度まとめ直すと、次の様になる。

      台風の夜、帰宅途中の「私」は、道ばたに倒れている若い女を見つけ、タクシーを拾いアパートに送り届けるが、さらには一人住まいであり容態も悪そうで、公衆電話から救急車を呼んで病院に運んであげる。(自分は病院からハイヤーで帰宅する。また、タクシーに渡した「千円札を一枚」「つりはいらない」は今で言えば、五千円か一万円札くらいだろう。)

      道ばたで見つけたとき、女の顔を見て「鈍痛」(p.27 l.2)を感じる。アパートに送り届け、「帰らないで」と言われ、そこでも回想が始まる(p.31 l.8 農家の蚕室での看護婦との逢引きシーン。「わたし、あなたが行ってしまったら、きっと死ぬわ、と彼女は言った。きっと死ぬわ。」(p.32 l.7)。この挿入も美しい……、というか官能的。

      因みに、この繰り返された「きっと死ぬわ」の部分、この書き方を自由間接話法と言います。直接話法(カギ括弧でくくられて、会話内容がそのまま示される)、間接話法(カギ括弧を使わず、会話内容を三人称に直して書かれる)に対して、会話内容がカギ括弧でくくられず、そのまま地の文に示される。

      直接話法:「お願いです、私を信じて下さい」と彼は人々に涙ながらに訴えた。
      間接話法:お願いですから自分を信じてほしいと彼は人々に涙ながらに訴えた。
      自由間接話法:お願いです、私を信じて下さい。彼は人々に涙ながらに訴えた。

      自由間接話法は、『忘却の河』では、そもそもカギ括弧が全く無いせいもあって、全編に多用されています。が、わかりにくさはほとんど無い(ですよね?バラバラにならず、繋がって読める)

      自由間接話法は、世界が明確に私に与えられているわけではない、重層的な状態を表わしているであろう。視点が、一人称と三人称との間で浮動する。アトランダムな回想と合わせて、現代小説の形式である。

      アパートから救急車を呼びに、公衆電話をかけにいく(p.34〜)。この間にも、引き続き、回想が挿入されている。妻のことを回想し、女(看護師)のことを回想する。救急車が来て、入院させる。

      翌日の晴天、出社時に、向かいのビルの濡れた窓ガラスに「眼」を見出だす。

      (p.39 l.7)女の入院先をたずね、戦後に死んだ戦友の実家を山陰地方にたずねた「友達」の話をしてやる(p.40 l.9)。 女は寝てしまったので、部屋を出て、事務室で容態を聞くと事務員は「ああこの人は流産しました。若いから直に癒ります」と言う(p.46 l.9 個人情報 😣)。「私」は煙草を何本か吸って病院を去る(p.49 l.13)。(自分の生きている罪の感覚)

      (p.49 l.1f)三日後、女の入院先で、女に友達の話とは叔父さんのことだよねと言われる。叔父さんはさびしい人だから、優しくしてくれる、とも言われる。みやげのマスカットを食べ、自分も若い頃、病室でミカンを食べたことを回想している。退院にむけて、病院代も渡す。

      数日後、退院した女のアパートを訪ねる。アパートには川が流れており、幼少期に恐怖を感じた「胞衣(えな)の流れてくる川」を思いだす。……生まれなかったかもしれない自分。「間引きぞこない」。また、女は、日本海を望む自分の田舎が嫌いで、ある映画のロケにきていた俳優(スター)に誘われ、そのまま家出してきた、と言う。ただし俳優は最近自分に会ってくれない、とこぼす。「私」は同時に、若い頃、学生時代に左翼運動に身を投じ、検挙されかけたが、結核となり、釈放されて療養所に入る。投げやりな気持ちでいたところに、看護婦と知り合って生き生きと回復していく、その頃の楽しい記憶を思い出している。今の若い女と、昔の看護婦と、そっくりではないが、すこしばかり似ているのである。イメージが重なっている。女は私はあなたが好きだ、と言う。

      ☞ このへんも、一章のまとめとして、来週へつづきます。 【梗概・一章後半】へ

    6. 課題(提出物)のポイント(3つ)

      ▸ 導入について。唐突な始まりから、どのようにして徐々に開けていくのか。

      ▸ 場面転換について。バラバラ(?)な要素(対象、視点)について(それはどう構成されているか、読むことで構成するのか。映像的な書き方。現在の知覚と過去の記憶との交差・交配、視点の交錯)。

      ▸ その他、あなたが感じたこと。それと、参考までに、どこまで読んだか、聞いたか、教えて下さい。

      なお、 美しい表現力、描かれたテーマ、人物像については、来週のお話とします。来週は一章の終りまでを対象とします。読んで(聞いて)おいてください。はい、質問はありますか?

      提出は、グーグルクラスルームから。「ドキュメント」で提出して下さい。皆さんの感想は、読んで楽しいです。私の返事も、ちょっとだけですが書いてあります。 クラスコード「n7ldd4v」。事務局からの招待はすこし時間が掛かります。みなさん自分で入ってきて下さい。