セカイ系として.わたしは真悟.楳図かずお.半魚文庫

(アンチ)セカイ系として
楳図かずお『わたしは真悟』を(ゆるく)読む

2020-02-24 (Mon) 於 石引パブリック
  1. 楳図かずおについて
  2. 『わたしは真悟』について
  3. 同時代評(1)ピント外れから子供論へ
  4. 同時代評(2)描かれた80年代的モチーフ
  5. 「セカイ系」とは何か?
  6. 世界は救われている、その実態―犠牲
  7. 世界は救われている、その方法―偽計

  1. 楳図かずおについて
  2. 1936年、和歌山県生まれ。奈良県五條市が父の故郷で本籍地。小学5年生の時、『新宝島』を読んで漫画家になる決心をして以来マンガ漬け。1955年、プロデビュー。1963年、上京。貸本マンガ、大手雑誌マンガを通してほぼ第一線で活躍。傑作は多いが、ただし、アニメヒットなど一般向けには恵まれない。1995年、『14歳』を最後に休筆中。1975年、『漂流教室』ほかで小学館漫画賞、2018年、『わたしは真悟』がアングレーム国際漫画祭遺産賞。代表作、『へび少女』(1965年)、『赤んぼ少女』(1967年)、『おろち』(1969年)、『漂流教室』(1972年)、『洗礼』(1974年)、『まことちゃん』(1976年)、『わたしは真悟』(1982年)、『14歳』(1991年)。ホラーのみならず、SF、少女もの、ギャグと、ジャンルは広い。作品数およそ300作、執筆枚数4万枚。

    元気陽気な変人作家?不気味不愉快な俗悪作家?私には理知的な天才作家と見える。
    「赤い楳図、黒い楳図、白い楳図」拙著『楳図かずお論』青弓社

    本トークイベントを論文にしました。
    偽計と緩束 --(アンチ)セカイ系として楳図かずお『わたしは真悟』を(ゆるく)読む:『サブカルポップマガジンまぐま』PB12 12 82-101, 2021 小山昌宏編

    認識論:「追っかければギャグ、追っかけられればホラー」ギャグとホラーの同根的異質性、遠近法主義

     世の中の出来事は、それを見る立場で、怖いと感じるか、おかしいと感じるか、それだけのことだと思う。  恐怖の場合、追いかける者と、追われる者の、二通りがある。追われる側は、自分を傷つけるものに追われて、怖いと思うけど、追いかける方には、切迫した理由で追いかけてない限り、すごく楽しいんじゃないか。だから逃げてる人を見て、すべったりころんだりする様を笑うことができる。逃げながらぶつかったり、ころんだりするのを、おかしいと思うことができる。  だから、ギャグか恐怖かは、そこだけの違いだと思う。(楳図かずお『恐怖への招待』p.87、『楳図かずお論』p.37)

    存在論:「宇宙ではどんな想像も許される」(『14歳』の最後の言葉 2008年増補、宇宙=子供=自由)

    神とはこの世界の実在性と必然性を保証してくれるものである。しかし、いわゆる《楳図神学》の神は違う。神がそうであるように、恐怖にもまた、同じ構造を見いだすことができる。立ち位置によって変化する認識論的な恐怖ではなく、存在論的な恐怖がある。それはこの世界が存在する必然性はどこにもなかったという可能性が持つ恐怖である。私という存在は、そしてこの世界は、存在しなかったかもしれないという恐怖である。平成版『まことちゃん』の最終話「神さまひとりぼっち」が描き出すのは、そんな世界のあり方である。しかし、その可能性を受け入れたとき、人間の自由が始まるのだろう。(『楳図かずお論』p.39)

  3. 『わたしは真悟』について
    1. 初出『ビッグコミックスピリッツ』小学館[◎114回全2234頁]
      1982年 4月30日( 8号)〜1986年 9月 1日(27号)

    2. ストーリー
      @東京タワーまで(少年・近藤悟と少女・山本真鈴が出合い、子供を作ろう!と考え、行動する。そして子供が生まれる)
      Aエルサレムまで(少年と少女は別れ、その子供は父の言葉を母に伝えるべく旅へ。進化。キカイ―人間―神)
      Bエルサレム以後(子供は、次に母の言葉を父に伝えるべく、神として奇跡を起こしながら、旅を)

      ただし、起こったことはだれも気付かない。登場人物は、さとる・まりん・クマタ4.5→モンロー→真悟。真悟の進化を助ける、ハッカー少年・たけし、異形の少女・松浦美紀。さとるにまとわりつく、しずか。まりんにまとわりつくロビン。また、真悟は、□ただの箱から、△他のコンピュータと繋がり、○地球と同化し、エルサレム(岩のドーム)で、「もっとすばらしいもの」へ、段階的に進化する。キカイ―人間ー神の内在的ヒエラキー(楳図神学)。エルサレム以後は、神として奇跡を起こしながら……。

      ストーリー・テーマが分かりにくい?一回読んで分かるようなものではない。が、『洗礼』がそうであるように(拙著第6章)、ストーリーの破綻は一切無い。

  4. 同時代評(1)ピント外れ(?)から子供論へ
    1. 呉智英(八〇年代の芸術作のうちでも最高傑作、欧米との経済摩擦を描いた)、浅田彰(科学と生命の結合)、スピリッツ編集部(ニューエイジ・コミック)、大塚英志(大人へのイニシエーション)、綾辻行人(子供論)。

      そもそも子供論とは?『楳図かずお論』第3章「子供と暴力」、およびp.322、324。

      cf.1 松本大洋『鉄コン筋クリート』、『GOGOモンスター』、『ナンバー吾 ファイブ』

      cf.2 ローリングス『子鹿物語』、ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」、普遍的なテーマ。

    『楳図かずお論』第2章「わたしは真悟、内在する高度」(初出2004年)、熊田正史の楳図評「恋愛は罪である。その罰は、大人になること」という子供論以後の立論として書かれたもの。脱子供論。与える存在としての神について。私としては、さらにそこを超えて、踏まえて、先へ進みたい。そのためのテーマ―世界の救済のための偽計・犠牲。いずれ文章化します。

  5. 同時代評(2)描かれた80年代的モチーフ
    1. 恋愛ものとして。楳図かずおはラブコメの創始者である。恋愛をゲーム・駆け引きとして描く。楽しい男女関係をマンガに持ち込んだ。

    2. 経済摩擦を描いた作品。圧倒的な日本の経済的優位。そこからの転落、中産階級の解体、世界の貧困まで。

    3. 機械文明への警鐘、INS(Infomation Network systems)の時代

      「インターネットも無い時代に……すごい!」。ほんとうか? 1960's ARPANET、1982 TCP/IPの標準化、1984 junet(東大・東工大・慶応大のネットワーク)、1988 WIDEプロジェクト、1989 NSFNET(アメリカの大学ネット)への接続、1992 JPNIC、1995 インターネット元年(商用化開始)。しかし、インターネット(アメリカ型ネットワーク)に統合される以前、英仏等各国には独自の国内ネットワーク構想があった。日本の場合、電電公社(NTT)のINS(ニューメディア、CAPTAIN、VAN)、ある程度、衛星放送やパソ通などは実現されていた/いく。

      逆に、「装置が古い……ださい!」。『14歳』はもっと古くてださいが、逆にいまでは、レトロなスチーム・パンク、チューブ・パンク。『真悟』も昭和レトロ。古典はへたに現代化しないほうが良い。古びていない作品は、見かけではない。

    4. ロボットものとして。戦後マンガのメインストリーム1。手塚治虫、横山光輝、石森章太郎、永井豪。自意識も、SFを射程に入れれば、さほど特異なテーマとは言えない。

    5. 核状況下の世界、INF(中距離核戦力全廃条約)の時代

      1987年、レーガン=ゴルバチョフにより締結。東西冷戦、キューブリック『博士の異常な愛情』1963年。80年代、「核状況下の文学」(大江健三郎)などと言って、世界破滅の危機は目前にあった、とされた。が、今思えば当時の世界情勢は極めてフェアで、戦争は全人類の問題であった。今や戦争は局所化され(中東の出来事)、低強度化され(LIC low Intensity Conflict)、非軍事化されている(資本の人民に対する戦争状態、マウラツィオ・ラッツァラート『資本の専制、奴隷の反逆』、この20年間の消費増税や緊縮財政は「誤った経済政策」(山本太郎)ではない。収奪対象としての人民)。

    6. 終末ものとして。戦後マンガのメインストリーム2。人類滅亡、地球最後の日。 手塚治虫『来るべき世界』、石森章太郎『赤いトナカイ』、楳図『漂流教室』。ただし、『わたしは真悟』はロボットものだとは言えても、終末ものとは思われないできた。ちょうど『14歳』が終末モノだとは言えても、動物モノとは思われないできたように。終末ものとして『わたしは真悟』を読むことはピント外れではない。

  6. 「セカイ系」とは何か?
    1. 現象:終末モノとBMG恋愛モノのダイレクトな結合。

      前島賢『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』SB新書、2010、7頁によれば、
      ・少年と少女の恋愛が世界の運命に直結する。
      ・少女のみが戦い、少年は戦場から疎外されている。
      ・社会の描写が排除されている。

    2. 定義@エヴァンゲリオン以後、90年代のサブカル社会現象(時限的な事象として)前島賢

    3. 定義A中間的な社会関係の欠如、素朴さ、自意識過剰で引きこもりの主人公(普遍的な事象として)東浩紀

    4. 反論@引きこもり(碇シンジ)VS決断主義(夜神ライト)宇野常寛

    5. おわび:タイトルに掲げておきながら、ジャーナリティックなセカイ系論の立ち入る準備も用意もございません!文章にするさいにはもう少し厳密に記述したいとおもいますが、正直難解!

    6. 反論(私の):いずれにしても90年代、00年代といった時限的な話題に限定しすぎ(時代を読む?)。古典学者としては、文学が主人公を立ててこの世界を描く以上、中間的な社会関係が省略されるのは(叙述の経済としても)仕方ない、ありふれた制約。例えば、地球防衛軍の予算?汚職?醜聞?(そういった中間項は)普通省かれる。あるいは、救世主が存在するとして、その母親や父親の話、弟子や近所の人々の話は、書かれるのが文学の方法。

      脱構築された世界において、行動できなくなっている者に対して、行動を決断する者が出現した。00年代の特徴(?)。むしろ普遍的な二様では?擁護したいわけではないが、批判しきるのは無理があり(文学の否定)、肯定せざるをえない普遍的なテーマである。〔率直な感想〕

    7. 普遍性の例1:キリスト、シャカ、(マルクス、悪魔くん)。救世主に、中間的な社会関係は不要である。セカイ系批判は、人々に無力感を内面化させる教えとも言える。また、いたいけな女子に世界を救わせるのと、イエスに救わせるのと、どっちが残酷なのか分からない。

    8. 普遍性の例2:P・K・ディック「追憶売ります」(1965年)。

      記憶の自由な移植が許可され商品化されている近未来。さえない安サラリーマンのダグラス・クエール(クエイド)は毎夜夢を見るほど火星に憧れているので、火星旅行の記憶を移植してもらおうと、リコール社に行く。移植は、記憶の内容を移植するが、移植したという行為の記憶は残さないことになっている。なのに、不完全なので(移植行為を思いだす)クレームを付けに社に行く。社は、クエールには既に火星滞在の経験・記憶があり、それが封印されていたことを見つけていた、と白状する。クエールはインタープラン(惑星間警察)の秘密捜査員で、しかも非合法の暗殺部隊要員だったのだ。5年間の活動の記憶を一切消されていたのに、これをきっかけに、その記憶をも復活させてしまったのだ。自宅の机の引出しには、いままで気付かなかったが火星の遺品がある。脳内には、当局の常時管理下におくべくテレパシー装置も埋め込まれており、気付いた当局が出張ってくる。非合法活動を伏せるために、クエールは抹殺されかねない。逃げ出し、テレパシー交渉の結果、インタープラン時代の記憶を思いださないほどに強い別の願望・記憶を改めて植え付けてもらう、ということで当局と折り合う。精神分析医がそんな願望を分析したところ、出た結論は、クエールは少年時代、宇宙人の地球侵略を一人で阻止した、という記憶である。田舎道を一人で歩いていて、宇宙船と野鼠のような大軍に出合う。蹴散らしたのか。そうではない。少年は、その野鼠のような宇宙人たちが地球を侵略せざるを得ない状況を理解してやり、愛情をしめしたことで、宇宙人たちはその少年が生きているかぎり、地球侵略はしないと約束してくれて、証拠の感謝状や魔法の兵器ももらった、というわけである。素晴らしい美談!だが、リコール社や当局のものたち、そしてクエール本人も、驚きあきれ、あるいは傲慢だとも言う。(さらに、秀逸なオチが待っているし、破綻、強引と言われるディックの中でも用意周到、全体は完璧。クエールが殺されるような事も無く、ハッピーエンド!である)

      ディック(1928〜1982)については拙著でも2回くらい触れている。現実とは何か、人間らしさとは何か、この二つを追求したディックにおいて、優しさ、思いやりを描いた、恐るべき傑作。シュワルツェネッガー主演『トータルリコール』の原作、寺島武一『コブラ』第1話、『ウルトラマン』メフィラス星人「禁じられた言葉」(地球を売り渡す言葉を言わない少年……)の元ネタでもあるが、どれもがこの話の「徳、優しさが世界を救うのおぞましさ」を展開することは出来ないできた。この話では女の子は戦わないが、私の理想(?)とする、セカイ系のおぞましさを表現した話だと思う。

    9. 中間休止:哲学的には、セカイ系のようなあり方を肯定するのか、批判するのか、という問いは、次のように換言される。すなわち、世界は救うべきか(当為)、あるいは世界はあるのか(存在)、あるいはそもそも世界は救えるのか(可能)、あるいはなぜ世界は崩壊するのか(不可能)、あるいは世界を救う方法(技術、暴力、犠牲、徳義、法律、愛情、、)を肯定するのか、という前提問題があるでしょう。

      そして、文学的には、世界の価値は、世界を救う方法と共同しているだろう。世界を救う方法を考案することで、世界に救う価値があるかどうかを問い直しうる。世界の自明性に疑問を附しうるだろう。

  7. 世界は救われている、その実態―犠牲
  8. 楳図は、少女が自分を犠牲にして「世界」を守る話を何度も描いている。

    例1:「赤いハンカチ」(1960年):山のまがり角の先に雪崩があることを知った寝たきりの少女が、いつも通る汽車に赤いハンカチで危険を知らせる。赤いハンカチは少女が自身の血で染めたものであった。

    例2:「丘の上の少女」(1960年):丘の上に住む小児麻痺で歩けない少女が、地震のあとの津波が来ることに気付き、海岸で祭に興じている村人に、自分の家に火を付けて報せ、村人を津波から救う。

    例2b:「稲むらの火」があり、戦前の国定教科書(小学国語読本11)にも載っていた。

    例2c:「稲むらの火」は新海誠監督『君の名は。』の原話であるが、「丘の上の少女」と『わたしは真悟』とを組み合わせると、出来はしないか、というのが私の意見1。

    丘の上の少女:少女の犠牲的行動により津波から人々が救われる。

    東日本大震災:津波の被害で多くの人が亡くなった。

    わたしは真悟:天からの飛行物体(人工衛星)がある(世界の崩壊とは限らないが、核ミサイルはとばす)。

    君の名は。:津波の被害を、天からの飛行物体(流星)に変える。

    つまり、まるで遠いように見える楳図かずお『わたしは真悟』と新海誠『君の名は。』には、意外に近い部分がある。では、なぜ近いのか。そして、にもかかわらず、なんでこんなに違うように見えるのか。

    意見2:まりんは自らを犠牲にして、世界を救っている、と考えざるをえない。世界の終りは、もちろん子供の世界(の終り)で、この世界の終りを救っている。

    まりん、転落・破片・破滅のイメージ1

    まりん、転落・破片・破滅のイメージ2

    まりん、転落・破片・破滅のイメージ3

  9. 世界は救われている、その方法―偽計
  10. 333ノテッペンカラトビウツレ。

    少年さとると少女まりんが出合い、父親が勤める町工場のコンピュータ制御の工業用ロボットを自由に操作している。ふたりは結婚して子供を作ろうと決意し、子供の作り方をロボットのモンローに尋ねる。モンローは「333ノテッペンカラトビウツレ」という答えを出す。(二人は本気にして)、333は東京の高さだと考え(見抜き?当てて?)東京タワーをよじ登る。てっぺんまでたどり着くが、どこに飛びうつれば良いか分からず、また地盤沈下によって東京タワーは30センチ低いと知らされるが、足りない30センチにランドセルを足して、二人は救助のヘリコプターにトビウツル。二人は結局大人たちを騒がせただけで互いのことを忘れると約束して、予定通りまりんはイギリスへ転居する。果たして、モンローが二人の子供として自意識を持つ。

    →地盤沈下の30センチは、ランドセルで補う必要があるのか、という問題はある。それはさておき。子供が生まれる理由・根拠になるのか、疑わしい。にも拘わらず、本気にしてしまう。つじつまが合っているように思う。付会。ねじれた、楳図ワールド。しかし、世界の因果は、そもそもそのようにねじれているのではないか。それが現実ではないか。

    約束―約束が破られれば恐ろしいことが起きる。破約。

    例1:「おみっちゃんが今夜もやってくる」(1960年)、「---おみっちゃんが今夜もやってくる---/これもやはり『虹』に連載したものです。小泉八雲の「破約」から発展させてみました。」。いわゆる嫐(うわなり)打ち。死んだ前妻の幽霊が、現在の後妻をさいなむ。これを、娘の死に書き換えた。

    偽計―ウソの(恐ろしい)約束が守られる。無関係な事象を繋げてしまう。無理な因果。連合 association に対する 分離 disociation でなく、付会 missociation。

    例2:「地蔵の顔が赤くなる時」(1966年)

    例2b:『宇治拾遺物語』唐に卒都婆血つく事(卷二ノ一二)、山上の卒塔婆に血の付くとき山が崩れこの地が海になるという言い伝えを代々信じて毎日山上にのぼる老婆がおり、これを若者らがからかって血をわざと付ける。翌日老婆はこれを見て驚き、里人に告げて逃げ出す。若者らは笑っているが、その夜山は崩れ、笑ったものたちは死んだ。説話論的にこれを偽計説話と呼ぶ(山本一氏)、守られてしまう、ウソの約束

    例3:「ねがい」(1975年)、友達がほしいと願う等くんは、モクメというロボットを手作りし、命を持つよう、念力をかけると良いと、人から聞く。机の電気スタンドに割れるよう念力をまいにち掛けるが、スタンドは割れない。そのうちにクラスに可愛い女子の友達ができ、モクメを放っておき、最後にはゴミに捨ててしまう。両親が遅くなるある晩、自室から音がし、見るとスタンドが割れている。はたして、ゴミ捨て場からモクメが動き出して、等くんのところへ来る。等くんは恐怖におびえる。

    緩束―恐ろしい約束が守られないために、何も起きない。(守られていたら恐ろしいことが起こっていた)。約束 promise、妥協 compromize に対する緩束(かんそく) parapromise。

    例4:「ロージン」:20歳以上の人間がもはや存在しない近未来。5歳の少年(まなぶ)が、70歳の「ロウジン」を公園の落とし穴の中に見つける。少年は、穴から出られないロウジンという未見の異形に驚き気味悪がっている。少年のとロウジンのやりとりの中で、次第に、ロウジンの存在よりも、ロウジンが知られないこの世界のほうが異形であることが分かる。ロウジンは、少年の住む少年ウナギに見立てて自分の指を裂いてくれ、そうしたら若返る、と頼む。穴から出してあげるが、指を引き裂けない。

    例5:「猫目小僧」「手」(1976年):少年は白昼夢で、お母さんが地獄に堕ちてしまいそうになるを引っ張り上げる、という幻を見てから、握りしめた手が開けなくなる。ある時、川で溺れている怪物(ねこ目小僧)を見つけ、思わず手を開く。少年は悔やむが、果たして、助けたねこ目小僧は溺れた女性(少年のお母さん)を引き上げ、実はお母さんも助かる。

    例6:『宇治拾遺物語』蔵人得業猿沢池の龍の事(巻一一の六)、蔵人得業明恵は鼻が大きく、大鼻の蔵人のちには略されて鼻くらと呼ばれていた。あるとき、猿沢の池に「某月某日ここから龍が昇る」という立て札を竊かに立て、人々の大きな噂となる。その月になり、人々は近国からも集まり、鼻蔵は自分のいたずらに人々が動いているのを楽しんでいたが、いまではなんとなく龍が昇るような気がしてきた。自分も見物に出かけてしまう。人々一緒に待っていたが、何も昇らなかった。帰り道、暗くなってから、橋を渡る時に盲と行き会い「あな、あぶなの目くらや」と言えば盲は「あらじ、鼻くらなり(目が暗いのではない、鼻先が暗いのだ。主観でなく客体の否定)」と言った。

    山本一氏ご教示。

    ふたたび、世界は救われる価値があるのか。宮崎駿『風の谷のナウシカ』は、世界(=人間)に救われる価値はないと結論づけることで、救いを許容している(ように見える)。因果(理由)の破綻・崩壊によってしか、救済は保証・肯定されない。

    L・アルチュセールによれば、因果には三通りある。(今村仁司『アルチュセール』現代思想の冒険者たち22・講談社、p.334)

    推移的因果:原因が結果を直接に決定する。部分同士の関係。機械論的。火のないところに煙は立たない、風が吹けば桶屋が儲かる。塵も積もれば山となる。

    表出的因果:部分と全体の関係。全体が原因で部分が結果。結果の中には、全体が埋め込まれている。ライプニッツ、ヘーゲル的。カエルの子はカエル。身から出たサビ。三つ子の魂百まで。

    構造的因果:部分と全体の関係。全体が原因で部分が結果だが、結果の中から全体を見出だすことができない。原因に還元できない結果。構造分析でしか原因(構造)は見いだせない。「構造の不在的現前」。スピノザ、マルクス的。一寸先は闇、犬も歩けば棒にあたる、覆水盆に帰らず。

    表出的因果を構造的因果に置きかえたのが、アルチュセール(スピノザ、マルクス)だとすれば、推移的因果を偽計的因果に置きかえたのが、楳図かずおである。二階から目薬、連木で腹を切る、鰯の頭も信心から。偽計的であるが故に、部分が全体(世界)を作る(偽装する)。偽計・緩束がタイトル(ゆるく)の意味です。以上がまずは、楳図作品に対する栗原裕一郎の「めぐらない因果」(拙著p.123など参照)に対する、私の修正である。

    補足1:セカイ系かどうかはともかく、安易な物語は、世界は救われる価値があるかどうかを問わず、その自明性の上で、世界を救ってしまう(その方法を、シミュレートしてしまう)。そんな世界(=作品)に救われる価値はないだろう。そして、世界は存在しないとか言っている愚かな哲学に対して、世界を作るのが文学(芸術)である。世界創造、神話、神話創造 mithociation。

    補足2:楳図作品は、救いの方法自体を、犠牲ではなく、偽計によって、成り立たせている。楳図作品は、いつも偽計に彩られている。そして、楳図の描く犠牲は、初期作品に限られている。と言いたいが、実は、『漂流教室』『14歳』は偽計よりも犠牲が強い。『わたしは真悟』のエルサレム以後は犠牲の話であり、松浦美紀(たんすの中の子)も、『14歳』の戸川洋子(ヨッコ)も、戸川きよらも、犠牲の存在である。ただし、『14歳』は最後の最後で、「犠牲ではなかった」と気付く。

    (終末)下手の長談義