漂流教室 本文注釈 |
あこがれるべき「明るい未来」の象徴。本作が展開する「未来」と好対照をなすオモチャ。
母はほかにも、「変なハリガネやらえたいの知れないブリキの切れはしやら、ヘビのぬけがらやら……」(1-21)も捨ててしまった。これらのモノは、高松翔が自身の少年性を保証するものであろう。
楳図かずお『ねがい』という作品が有る。 「そして、子どものころのこのすばらしいねがいは、もう二度と奇跡を呼び起こすことはないだろう」で終わる。所収はSSC『漂流教室』11巻やSVC『恐怖劇場』第1巻。初出は『少年サンデー』1975年16号。この初出誌の左欄外に作者の言葉が有る。
楳図先生より/大切だった、たくさんのオモチャや人形は、いったいどこへ行ったのでしょうか?足や手をもがれ、見知らぬ場所で持ち主をさがしているのでしょうか?私(わたくし)も幼き日の遊び道具を思い出しながら、この一編を描(えが)いてみました。みんなも、机の下や、本ダナの裏を見てごらんなさい。
翔ちゃんの通う小学校。普通の区立小学校だろう。後出の「リス」(4-18)から、杉並区の小学校と考えざるを得ない。
「大和」は(1)奈良県の旧国名。奈良は楳図の実家がある。奈良県や吉野山系を舞台にした作品は多い。『やまびこ姉妹』シリーズ、『ばけもの』など。(2)「日本」の異称。
『古事記』中巻に日本武尊(やまとたけるのみこと)が大和国を懐かしんで「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母礼流 夜麻登志宇流波斯」と詠んだ歌が有る。これは『イアラ』(さなめ)でも使われ、「大和は国のまほろば たたなづく青垣こもれる 大和しうるはし」とある。ただし引用は間違えており、初出『ビッグコミック』70年1月10日号では「まほらま」である。つまり作者は、よくワカッテナイ。が、いずれにしても、大和は日本が国家として初めて成立した場所、国造りの土地というわけである。
通常、電話先が火事などで燃えているとか、とにかく相手の電話器が故障などの場合でも、電話は掛かり呼び出し音は鳴るはずである。
関係ないが、1970年代当初、国内の電話普及の様相は、いまからは考えられないほど低かったと思う。『少年サンデー』1970年14号のはみだし記事は電話について((文・梶竜雄)。いくつか紹介すると、「公衆電話の長電話の最高記録は、女子学生の44分26秒。終わったあとでしゃがみこみ、ため息をついて、足をさすっていたとさ」(89頁)。「44分26秒は公衆電話の記録だから、これが家の電話だったら、もっと長くなるだろう。女流作家の瀬戸内晴美さんは、1時間半も話したという。」(90頁)。押しボタン式電話(いまはプッシュホンという)の紹介も有り、「……電子計算機にもなってくれること。簡易プリンターをつけると、15087×29385なんていう計算もスイスイ。」(153頁)だと。
角川文庫『漂流教室』第2巻の楳図かずお解説に次のようにある。「漂流教室のはじめのあたりで、ラジオが、光化学スモッグについて『光化学スモッグにより、生徒達が、目がチカチカすると言って訴えるのは、心理的なものによる……』というような場面が出てきますが、あれは実際に、ボクがラジオから利いた言葉を、そのまま書き移(ママ)したものです。」
ただし、実際には、ラジオが実際にそれを放送している場面は無く、ラジオを持っている浅井先生のその旨の発言があるだけ。
スモッグについて(石弘之『酸性雨』岩波新書 1992より)
大気汚染や酸性雨の歴史は古く、ソーダ工業(アルカリ工業。石鹸やガラスを製造)が勃興した18世紀後半にまずイギリスで社会問題となり、製造過程で排出される塩酸などが大気を汚染し酸性雨を降らせた。1862年英国議会は「アルカリ法」を制定、規制に乗り出す。「酸性雨」という言葉は1872年、英国アルカリ監視官ロバート・アンガス・スミスの著作に現れる。
その後、ロンドンは大気汚染の都として有名になり、スモッグ(smog)は、smoke(煙)とfog(霧)との合成語で、1905年に使われ始めた。特に1952年のロンドン・スモッグの大気汚染事件などがある。光化学スモッグは、大気中の窒素酸化物と炭化水素が太陽光線によって反応し、酸化力の強いオキシダントという物質になる、これである。カンカン照りになれば光化学スモッグ、雨が降れば酸性雨というふうになる。これらの汚染大気は、「越境スモッグ」として風に乗って広域に拡散する。
日本で光化学スモッグが最初に広域被害をもたらしたのは、1970年6月、千葉県木更津市を中心とした東京湾沿岸地帯。この時、約5000人が目・ノドの痛み、胸苦しさを訴えた。その直後7月には、東京都杉並区の東京立正高校で女子生徒がつぎつぎにけいれんを起して倒れる事件が発生し、一大社会問題になった。1977年以降は、人体への広域被害は報告されていないが、規制が進んだためか、どうか、謎な部分も多いという。
これは核戦争のことを予想しているのだろう。放射能の影響を考えて、外へは一歩も出られない、と教師たちは考える。しかし、核のことは『漂流教室』には出てこないと思われる。小説『漂流教室』では核戦争で解釈されているが、『漂流教室』全体を通しては、未来人間のフィルムも現れるごとく、いわゆる「環境問題(=砂漠化)」が主要因ではないか。
核戦争勃発を想起したのは、教師連中だけである。
これに関連して、敬意をこめて(後述)、長くなるが四方田犬彦『漫画原論』(1994)のちょっとした勘違いを引用する。
もっとも七〇年代に入ると、災禍を前にした、選ばれた者たちの偶然の救出、脱出という主題は後退し、かわりに荒涼たるその場に留まっていかに生存をつづけるか、という問題が新しく前面に抬頭してきます。そのもっとも典型的な例は、楳図かずおの『漂流教室』(一九七二−七四)にあらわれています。
パシャ。
(これは、スライドを送った音)図11は『漂流教室』の前半で、主人公の少年、翔がはじめて足を踏み入れた未来世界の廃墟で皆既日蝕を体験し、しだいに暗くなってゆく荒地で孤独に叫ぶところです。彼が立っているのははるか昔に両親の家のあった場所ですが、それがいったい何百年、何千年前のことかは定かではありません。というのも翔が通っていた小学校があるとき大音響とともに吹き飛ばされ、その衝撃があまりに強かったため、時間の流れに異常が生じ、八六二人の小学生たちは校舎ごと遠い未来へと拉致されてしまったからです。もっとも子供たちが事態を正確に把握するには短からぬ時間を要します。彼らは最初、校舎の外が一面の砂漠と化してしまったことに当惑するばかりです。そして教師たちは発狂してしまいます。一方、彼らが後にした過去の社会では、いきなり行方不明となった子供たちの安否を気遣って、親たちが懸命に捜索活動をつづけますが、すべてがいたずらに終わります。推測するに、この二つの時間のあいだに世界的な規模での終末戦争が生じ、地上が無人の荒地と化したわけですが、作品のなかではそれは具体的には語られていません。
子供たちは最初大人の力を借りて事態の解明を行なおうとします。しかし彼らが精神の均衡を失ったり、生命を絶ったりするさまを見て、もはや頻りになるのは自分たち自身しかいないと判断し、なんとか本来の社会へ回帰しようと努力します。仲間割れ。伝染病。飢餓。幻覚から生じる怪物……。ゴールディングの『蠅の王』に似てさまざまな困難が到来し、そのたびに翔とその一党は生命の危機に晒されます。一同のなかに超能力をもった少女がいて、彼女の犠牲的な努力によって彼らは元の世界とのたどたどしい交信に成功しますが、そこへ戻る方法は永遠に閉ざされてしまう。
パシャ。
(これは、スライドを送った音)図12は物語の終わり近く、すっかり絶望しきった少女とそれを追いかけてきた少年が、公園の跡地で先に死んだ子供たちの屍から草の芽が吹き出しているのを発見し、感激にむせぶ場面です。少年は少女に愛を告白します。二人はこれまでひとかけらの生命も存在していなかったこの荒涼たる廃墟に思いがけずも植物の萌芽を見出し、さらに水の噴出を眼のあたりにします。翔は校庭に生き残った子供たちを集めて宣言します。「みんな、聞いてくれっ。もうぼくたちは、元へもどることは無理だっ。(中略)ぼくたちは選ばれた人間なんだ。
世界では何かが起きた。そしてみんなめちゃくちゃになってしまった。そして生きているのは、ぼくたちだけだ。ぼくたちは何かの手により未来にまかれた種なのだ。ここがぼくたちの世界なのだ」『漂流教室』はこうして、これまでのカタストロフものにあった救済と脱出の主題が大きく急旋回し、生残者の共存という主題へと向かうところで大団円を迎えます。もはや廃墟をあとにし、よりよき世界への脱出を夢見る時代は終わった。生き延びた者にただひとつできることは、この受苦をみずから選んだものとして積極的に受け容れ、まさに「いま、ここに」おいて生を営んでいくことなのだ。手塚治虫がつねにノアの方舟に物語の祖型を求めていたとすれば、楳図かずおが援用するのは、十年前の石森の『赤いトナカイ』と同じように、アダムとイヴの楽園回復の物語です。けれども両者は同一ではありません。石森の少年少女は混迷した瓦轢の地上を捨て、未知の宇宙へとユートピア的な希望を託すのですが、『漂流教室』の主人公たちはまさにその瓦礫のただなかにおいて生を存続させようとするのです。SFという見方さえ脇に置くならば、この結末にもっとも近いのは白土三平の『忍者武芸帖』の結末かもしれません。そこでは、少年どうしの血腥い抗争を経て生き延びた二人の少年少女が、「ものを作りだすのは俺たちさ」といいながら、荒れた土を耕している姿が描かれていたはずでした。
七〇年代の『漂流教室』に見られるこうした発想の転換が、政治的次元でのユートピア主義的情熱の後退や共同体理念の変容とどうかかわっているかは興味深い問題ですが、ここで端的にまとめあげることはできません。だがこの長編が連合赤軍事件と同じ七二年に描きはじめられたことの偶然の一致は、何事かを示唆しているように思われます。八〇年題に入ると……
(後略。以下、『北斗の拳』『風の谷のナウシカ』『AKIRA』、そして『14歳』に言及する)
こまごました部分で、テキトーな推測と解釈があるのだが、逐一指摘したりはいたしません。『蠅の王』しか挙げられないあたり、困ったもんだと思う。しかし、僕は、四方田の揚げ足をとって悦に入ってるわけではないのですよ。四方田は良いな、と思っての引用です。何がか?
今年出た文庫版(ちくま文庫)のあとがきに、こんな一節が有る。自身が本書を、編年体式記述をとらなかった三つの理由として、ひとつに従来の漫画史が退屈かつ外在の学問(社会学や児童文学史)による蹂躙的年表化に過ぎないこと、ふたつに、四方田自身の学問的原点であり、認識の原理である記号学が九〇年代に至って不当に過少評価されていることへの不満と憤慨。そして三つ目です。
第三に、といっても、これはきわめて個人的なことに属しているが、わたしは幼いころから親しんできた漫画というものを、歴史などというものの対象にしたくなかったのである。なぜなら、ジョイスが『ユリシーズ』のなかである登場人物の口を借りていっているように、歴史とは悪夢の連続であり、不幸な大人たちによる不幸な物語に他ならないためだからだ。楳図かずおの『漂流教室』の読者であるなら、わたしのいいたいことをおそらくは理解してくれるだろう。わたしはあそこに登場する傲慢で粗野な教師のようにではなく、無時間状態のなかに取り残された子供たちのように、漫画に向かいあっていたかったのである。
そうだ、そうだ。歴史はみにくい。20世紀なんざ狂気と殺戮の歴史だ。そしてそれは、オトナの歴史だ。なんかまあ、急にここで『漂流教室』を持ってきてもらいたくないような気もしますが、まあ、言ってることは同感ですね。
加えて、反-歴史的(記号学的)マンガ論としての、まあ名著であるこの『漫画原論』は、まさに「呉智英につける薬」ですね。
ちなみに、ここでいう「記号」は、手塚の言う記号つまり代替物としての省略表現形式のことではなくて、一切の表現は記号であるというソシュール、バルト的な記号です。そうだ、そうだ。記号論よ、テクスト論よ、これこそ人類が最後に到達した認識の方法ですよ、バンザーイ。(かるい)
ちょっと読みにくいが。
初出『少年サンデー』1972年31号には、ラストに次のコマがある。位置は、見開きの「ギャ」の後。ただし、単行本化で削除された。
畑くんが、落ちていたピストルを拾う。畑くん本人がびっくりしているように、しかし、なぜ、事もあろうに学校にピストルが落ちているのか? 理由は最後になって分かるが、普通の読者は、本作の目まぐるしさに疲れ果てて、解決が用意されてた頃には、こんなピストル事件は忘れてしまうだろう。
このピストルの描写は、あんがい正確。
大友の最初のころのセリフ。しかし無責任だと思いませんか。
実際には、50年も経っていない。地球のサバク化により風化が進んだ、と解釈していいのだろう。
有名な実話だと思います。孫引きになりますが、『ムー』1982年1月号附録「世界のミステリー百科事典」の記事を引用します。
奇妙な接触 1960年1月25日、午後3時ごろ、ジョン・ウォールさんはセスナ機を操縦してアメリカ、オハイオ州上空を飛んでいたとき、前方に1930年代に使用されていた複葉機が接近してきた。双方はこのとき空中接触を起こし、ウォールさんのセスナ機は翼の一部を破損したのである。この時代に複葉機が飛んでいるなんて彼にはとても信じられなかった。その後3か月ほどした4月28日、偶然にもオハイオ州の旧家の倉庫に保存されていた複葉機がみつかった。調べてみると機体にウォールさんのセスナ機の破片がついていたのだった。びっくりすることが次に判明した。その複葉機の中にあった飛行日誌に「1932年、奇妙な形の飛行機と接触か……」と書かれてあったからである。しかもこの複葉機は30年近く倉庫に眠ったままだと持ち主は断言した。
どうせなら出典を銘記しろ!と言いたい。新聞記事がなんかになったのかしら。
この『ムー』附録の記事は、「奇現象」という章に収められている(全体で九章あって、UFO、超能力、心霊、超古代文明、未確認動物、超科学、神秘学、怪奇人間と妖怪・魔獣、奇現象と分れている)。1980年代初めに於けるムー的な分類意識が分る。
70年代だと、必ず「四次元」というのがあったのではないか。四次元は、イコール時空間の移動であり、タイムパラドックスもこれに含まれていたはずだ。四次元目は時間であり、タイムトラベルは四次元無しに語られることはなかった。それが70年代のお約束だった。僕などは学研ユアコースシリーズ『四次元への挑戦』(だったかな、ちょっとうろ覚え)に夢中でしたよ。キリストの復活も、ノストラダムスの大予言も、サン・ジェルマン伯爵も、UFOも、ネッシーも、聖痕現象も、すべて「四次元」で解釈してくれてて、実にしびれたなあ(笑)。
辻真先『SF漫画館』(徳間書店1978)という本が有ります。この部立ては、ロボット、サイボーグ、超能力、宇宙、時間、次元、侵略破壊、擬似イヴェント、スーパーヒーロー、ファンタジー、ハチャハチャ、以上11章。『漂流教室』は「時間」ではなくやっぱり「次元」の章で紹介されているのです。「時間」のほうに藤子・F・不二雄『ノスタル爺』があるのは分かるとして、『戦国自衛隊』(半村良・田辺節雄)も入っている。が、これと『漂流教室』は同じじゃないの?一方「次元」のほうでは、楳図の『きずな』(イアラ所収)も紹介されている。婚約した男女が事故に会い、植物人間になった女を看病をするが、それが植物人間の男の夢だった話。これのどこが「次元」なんだか?いわゆる「パラレル・ワールド」でも無いだろうよ。楳図の「SF」は、全般的に「心理的フィクション」だね。
最近のSF(というか「科学」)では、タイムマシンは必ずしも四次元(時間)という考え方を必要としていないのではないかしら(よく知らない)。
ニューギニア等、南太平洋の地図。(五味川純平『ガダルカナル』文藝春秋・1980)
こんなところまで行って、日本は戦争をしていたのである。
楳図作品において、『おろち』(「戦闘」1970年)ではガダルカナルでの日本陸軍敗残部隊の飢餓を描き、人肉食をメインテーマとする。『死者の行進』(1967年)は昭和18年6月のニューギニアの孤島が舞台で、こちらは人肉食がテーマではないが、軍隊の飢餓と狂気を描いている。『イアラ』第5話「うつろい」では、メインテーマではないが、天明の飢饉におりに「奥州ではさらにひどく……(中略)……それどころか人肉を喰う者さえあとをたたず、」とあるが、実話に基くもの。橘南渓『東遊記・補遺』にも天明の飢饉に人肉を食った話が載っている。
余談だが、ラバウル飛行場のあるニューブリテン島は、水木しげるが送られていた場所。『総員玉砕せよ!!』『コミック昭和史』『お父さんの戦記』などに描かれている。
作品における日蝕について、これから現実に起る日蝕を調べる事が、意味あるのか? 有る。
「いつ頃滅んだかというのは、『漂流教室』の中では日食が次に起きるあたりというので出しているのだけど、そんな遠い未来ではない。次に日食が起きるのはいつだったかというのは、事典を引いて調べてもらうと日にちが出てくるはずだよ。」(楳図かずお『恐怖への招待』文庫版 P89)。
『理科年表』(丸善)を岡野哲哉氏(紀伊国屋)がちょちょいと調べてメールで教えてくれました。メール本文をそのままテーブルに組ませて頂きました。
地球が滅んだのは、二〇世紀の終わりとされているので、二一世紀になってからの日蝕を調べたものです。『漂流教室』連載開始が1972年ですから、ちょうど40年後の未来です。
この樹木、左側が垂直に切れていて、奇妙である。単に、校舎の影か。
若原先生一人と、安堂くん(1組)、長田くん、翔など五人の生徒が居る。これは、六年が5組まであることを意味しているのだろう。後に、5組まであることは銘記される(3-61)。
荒川から、走って新宿(京王プラザのある)ところまで逃げたとすれば、かなりの距離である(僕は気付かなかった。学生の指摘による)。この場合の荒川は、北区や板橋区のあたりだろう。そうすれば、概算で10km(もっとかなあ)くらいか。走れない距離ではないが、かなりキツイ。
東京都新宿区にある京王プラザホテルがモデル。当時一番の高層ビル。ホームページもあります。
ルームナンバーや予約について、京王プラザホテルに電話して聞いてみました。お相手をしてくれたのは、交換台の田辺さん。さすが一流ホテルの受付けだけあって、人格をほどよく感じさせる対応(機械的でない)。一応、こちらも名乗り、読んでいる作品に「京王プラザホテルが出てくるので教えてほしい」と前置きしました。が、ちょっと胡散臭さがられたかな(笑)。美しい声でした。ありがとうございました。『漂流教室』の事は御存じなかった。
本館は10階〜41階、南館は11階〜34階が客室。各階で本館は01〜30番台、南館は5〜60番台の部屋がある。ルームナンバーは、この組合せによって作られている。その点、作品中の「4225」というルームナンバーは「本館42階の25番目の部屋」ということになるが、本館42階は宴会場で客室は存在しない(虚構化されたルームナンバー)。
部屋の高さや向きなど、チェックインの際に出来るだけお客様の御希望にそうようにしはしている。が、直接にルームナンバーを指定して宿泊するようなことは、やはり無いそうです。
送っていただいたパンフレットからスキャンしました。左手前が南館、向こう側が本館です。後ろ側からの俯瞰写真ですので分かりづらいかも知れませんが、本館は真上から見ると、こういう形をしています。また、壁面は縦に7分割(5 + 2)され、1分割づつ6つの窓がある点など、『漂流教室』で外観をそのまま写していることが分かります。
以下は、概要について。関東地質調査業協会の超高層ビルの地質と基礎形式というページが参考になりました。京王プラザホテルの正面の外観の写真もあります。
日本の超高層ビル建築は、霞ヶ関ビルに始まります。それらを列記してみます。
辰巳君がいけにえになる。生贄(いけにえ)とは、古来よりの宗教的儀式である。トーテミズム。
これらの生贄の儀式は、時に共同体の安定を保証する機構となる。こうした状況の説明モデルとして、一般に「スケープゴート理論」と言うものがある(a scapegoat=生贄の羊)。
「なんでも信じられる」(2-138)にも繋がる。
IQ(知能指数)の基本計算式。I.Q. = 知能年齢 ÷ 実年齢 × 100。例えば、年齢10歳の子供が20歳の知能を持っていれば、I.Q.は200である。100が平均で、普通、「I.Q. 140以上は100人に1人」などと言うらしいが、子供の時と青年に達した時とでは、同一人物でも変化するし、相対評価か絶対評価か、評価方法によっても変化する。
歴史上の人物のI.Q.を計算した心理学者がいる(C.M.COX, 1926)。宮城音弥『天才』(岩波文庫)から引用します。
また、アインシュタインはI.Q200 だとか、この前自殺した沖田浩之は165だとか、よく言われます。
日米安全保障条約の歴史。
「大臣は、国会じゃなくて、内閣だろ!」などと突っ込まないこと。それは、無知と言うものです。総理大臣は、国会が投票で指名する。任命は天皇だが、大和小学校国には天皇がいないんだから、他の閣僚も含め、総理指名(任命)だろう。
日本の行政に防衛大臣というのは居ない。現実の日本政府よりも防衛問題が深刻化している大和小学校国。怪虫をきっかけに戦闘状態にはいってゆく、戦闘集団としての大和小学校。
凄いシーンだが、池垣くんの握っていた斧は、いつ折れたのか?怪虫のハサミは池垣くんの右腕をはさんだが、斧はいつ折れたのか。「いちばんのりだーっ!!」から腕をはさまれ振り上げられるシーンは1頁だが、初出の『少年サンデー』1973年1号では2頁なのである。省略されたコマに、怪虫に当って折れた(ひびがはいる)斧のシーンがある。
意識の働きを一時的に止めることによって相手の認識外となる方法は、『おろち』の「ふるさと」に先例がある。『おろち』では、超能力少年・新次に操られた村人から逃れるために、おろちが意識を止める。翔たちと違って、おろちはこの程度、簡単に出来る。
最初順手で持っているナイフ(3-42)が、逆手に持ち替わっている(3-43)。この間の時間はわずかで、簡単には持ち替えられないと思う。また、種明かしの部分では(3-50)、ナイフは持ち替えていない。この部分は、「仲田を刺した真似」というストーリーの解釈が首尾一貫しなかった、と考えておく。
翔と大友の握手の場面、この後大友がクローズアップされてゆく。逆に言うと、ここまでの大友は、まだまだ影が薄い。また、この時、咲っぺと西あゆみも自己紹介をし、四者が出会う(?)、意味深長な場面である。
「ただいま」は、本作品の隠しテーマである。
そしてやっと題名を決めることになった。編集会議で「漂流教室」と決定した。けれど、ボクの心の中でもうひとつ、ひそかに決めている、裏タイトルがあったのだ。それは「漂流教室」のテーマ、"ただいま"だった。いつか、親のいる、わが家に帰った時の言葉、「ただいま」。この使い慣れた、ありふれた言葉が、どれだけ強い意味を持つことか。のっけから、ドーンと盛り上がるモノにしてほしい、と(編集者・白井勝也に)言われたせいではないか、"ドーン"という轟音とともに、こども達はよそへ旅に出てしまった。「ただいま」という言葉をつれて。こうして「漂流教室」というマンガが始まった。
ボクのLP、闇のアルバムから。
--- ただいま ---
家(うち)へ帰ろう。帰ろう、帰ろう。
家へ帰ろう。帰ろう、帰ろう。
LP『闇のアルバム』は1975年発売。僕は未聴。ともかく、彼らは結局現代に帰ってくることはないのである。
この「ただいま」という曲は、『闇のアルバム』の中で『漂流教室』のテーマソングとして位置付けられているのだという。この「ぼく」は、将来たぶん別のだれかと結婚している「きみ」に対して呼びかけている。円満に愛しあっている類の単純なラブソングではなく、なんか不思議な関係の歌である。
しかし、考えても見よ。咲子は翔を好きだが、たぶん未来においては二人は家族として結ばれることはないのだろう。苛酷な緊張感の中にも生きる希望を見出し始めた未来において、翔が平静さを取り戻すとき、あらためて咲子に対してどのような感情を持つのか。
合計すれば、慰霊碑に書かれた通り862人。ただしこれでは、慰霊碑の数に入ってないと明言する(4-16)ユウちゃんの数え方がおかしい。
ユウちゃんの数え方は、最初は数えていたのに、途中で「石碑にも入ってない」というストーリーが混在してしまった、と考えるべきだろう。初出『少年サンデー』のはみだしに付く「前号までのあらすじ」などでも「862人」と銘記されている。
なんだかこの部分の計算は、全然おかしい。
プールの水の量。プールについては、完全に全景が分る絵は無いが、2-13、3-306などで大体わかる。第七コースまであり(なら14mか)、長さは25mだろう。すると、水が満杯なら1m 以上の深さはあるはず。ならば、25 × 14 × 1 = 350立方メートルあるはず。100立方メートルなら、水深30センチ程度しかない、ということになる。
学生の話では、12.5mプールというのも、小学校には無くはないそうです。しかし、第7コースまであり、絵の雰囲気から見れば、縦横の比率的にも25mプールに見えるなあ。
「ぼくたちに必要な一日の水の量は、約1リットルだと理科で習ったから、水のほうは約100日間だ。」というのもかなりの概算ではあるが、まあ合っている。100立方メートル == 100,000リットル。100,000÷811=123.3日
橋本を助けるために使った翔の濡れたトレーナーはどうなったのか。その後乾かしたようで、またちゃんと着ています。
単なる間違いだろう。保谷は「ほや」とふりがながあるから、保谷(ほうや)市とは関係ないでしょう。ヤナセという名前については、「登場人物一覧」のほうも御参照を。楳図がまだ奈良県五条市にいた頃、不眠症でお世話になったお医者で、有吉佐和子『複合汚染』にも出てくる、五条市では有名人が、簗瀬(字は違う)医師なのです。
受精を媒介する昆虫が居ないと実がならないのは、常識とはいえ、有吉佐和子『複合汚染』なんかにも出てくる。
流行性伝染病。元来ネズミなどの囓歯目の流行病で、ノミ、シラミ、ナンキンムシなどの媒介によりヒトにも感染する。
「ペスト」とは元来「悪疫」を意味することばで、歴史上のペストの流行を同定するのは難しいが、例えば『聖書・サミュエル書』などの記録が最初のペスト流行であったと一般に認められている。
古代においては、エジプトや中近東の風土病的な性格があったが、その後何度かの流行を経て、14世紀に到ってヨーロッパから中央アジアに及ぶ広範囲で流行を見る。
症状により肺ペストと腺ペストとがあり、潜伏期間は肺ペストで2、3日、腺ペストで6〜10日。(以上『平凡社大百科事典』から抄出)。
角川『漂流教室』では、この肺ペストと腺ペストを区別して認識してある。
このマンガバッジにデザインされているキャラクターは何か?『マスクボーイ』(楳図唯一の超人ヒーローもの)ではないか(ちょっと違うが)。
先にも述べたが、リスの行動範囲は、そう広くはあるまい。その点、大和小学校が「杉並区の小学校ということになる」と述べたが、その他の要素を組み合わせてみると、あまり杉並区とも限定できないように思う。
むしろ、あまり具体的に場所を特定されないように作ってあるのかも知れない。
(4-45)(5-257)など、雨の風景が多い。楳図はもともと『底のない街』等、描くのは面倒だと思うが、雨の風景が多い。
GIANT(ジャイアンツか)の選手。ちょっと名前の似ている王選手あたりがモデルか。でも、かなり違う。
おみつは『おみっちゃんが今夜もやってくる』の主人公。「ホホホ」は、ほかにも『映像』だとか、ともかく楳図の好きな笑い声である。いずれにしても、この看護婦、こわい。
ほか、見ず知らずの高松恵美子に、自身の現役継続の辛さを語ったり、ストーリー的には多少不自然である。が、風間潤『漂流教室』(角川)はこのあたりを実に上手く処理し直している。
学生の指摘によるが、ポスターはつまり写真だから、バットを振っている動線が付くはずない。
しかし、これは恵美子を現実に引き戻そうとする配慮からの発言であって、恵美子を非難しているわけではない。「わたしは翔のことより、今はおまえのことが心配だ!」。いいセリフではないか。
人数が銘記された2度目。
この医務室は、どの部屋か。(4-353)にあるが、燃えたあとしかないよ。ここは橋本くんといっしょに全焼したかと思っていたが、内部が焼けただけのようである。
この像は、後に現れる未来人間の一つ目と同じ形をしている。同じ目を持つ未来人間を見て、読者は驚くだろう。だが、事前に同じ形象を描けたのは、好運な偶然か、ストーリー的御都合主義か? 違う。未来人類にとって、皮膚の襞と一つ目は憧れの対象であり(だから、美川さんは自分の襞の膚を見てうっとりしている)、未来キノコによってもたらされる感覚の異常(?)作用と言える。形象の一致は必然なのであろう。
かわゆくて、いいことばですね。
美川さんはおそらく、ミス大和小学校なのだろう(名前も)美しい子なのである。
『故郷』(ふるさと)は、高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌(六年)。
高野辰之は、明治9年(1876)、長野県生れ。国語・国文学者。文学博士。唱歌の代表作に「日の丸の旗」「春がきた」「紅葉」「春の小川」「故郷」「朧月夜」 など。浄瑠璃や近松門左衛門の研究もやっている。
その日は、ケンカはしてないでしょう?ちょっとした勘違い。
地下鉄サリン以前だと、風呂屋や交番の指名手配写真は、爆弾犯人と相場が決まっていた。本作連載時も(詳しく調べてないが)、東アジア半日武装宣戦など(検索にかゝらないように誤字にしました)の都市型ゲリラ過激派によって、爆弾がつくられ、また、その作成ノウハウが冊子になって出回ったりもしていたのです。
関谷の生年月日は特に銘記されてないが、1972年段階で38歳(これは作品中に銘記されている)とすれば、昭和9年(1934)生れ。終戦は10〜11歳くらい。この年は東北を中心に飢饉の年。
飯田橋、神楽坂、九段下は、営団地下鉄東西線の駅。神田川を目当てに井戸を掘っていて、地下鉄・飯田橋の駅に出る。
麹町は有楽町線の駅。
いずれにしても、杉並区からは結構遠い。高田馬場駅からでも8kmくらいある。ただし、神田川が外堀にぶつかるのがこの飯田橋。確かに掘るならこの辺でしょう。
下表は、東西線や有楽町線の計画と開業年月日。ごちゃごちゃしてますが、『漂流教室』連載時の1973年頃には、東西線はほぼ完備していて、有楽町線は計画段階であったことが分かれば良いでしょう。
因みに、第7号線が無いが、都市計画第7号というのは昭和60年(1985)7月に運輸政策審議会が運輸大臣に答申した、29路線531キロに及ぶ総合的な計画を言うようです。
(鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』No.525 1990年3月臨時増刊号より)
『笑い仮面』『マスクボーイ』や『半魚人』などに出る、新世界における楳図流メタモルフォーゼ(変貌)のヴァリエーション。
『笑い仮面』は、太陽の黒点異常により、地中に住むためアリ人間に変化する新人類(黒点異常というモチーフは、手塚治虫『メトロポリス』に先蹤が有りますね)。『半魚人』は、地球の水没により海中に住むために半魚人になる。どちらも、そして『漂流教室』も、新人類は醜く、現人類にとって恐怖の対象。因みに、「新世界に即応した新人類の誕生」というテーマは、P・K・ディックも好んだものだな(勿論こっちのほうが早い)。なお、『マスクボーイ』は、黒点異常下のヒーローというポジティブな新人類だが、ヒーロー的な企画モノだったためだろう。
翔ちゃんも咲子も「大月さん」と言っている。よつんばいのほうに大月くんがいる。しかし、そうすると、なぜ一つ目の新人類の一人が「テレパシーが使えないお前は……」とか言われて、仲間に喰殺されてしまうのか、ちょっとよく分からない。
風間潤の小説『漂流教室』も、この部分の解釈に疑問を持ったのだろうと思う。この喰い殺されたのを、一足先に新人類になった大月くんだと解釈している。
人間の想像力を超えられないのは駄作。しかし、あまりに超えすぎると、読者がついてゆけない。これは、SFがはらむジレンマ。例えば、「未来のコンピュータ」なんてものは、30年前だとものすごくでかいものだったが、現実に今日のものはかなり小さい。あるいは、「破滅した未来都市、その残害」なんかでも、今日のビル群が崩壊してたりするが、実際の未来の都市は、そういうものだという保証はない。
現代を生きた翔ちゃんたちが見て、身近なものばかりがあった未来像というのは、上述のジレンマをうまく回避している。つまり、70年代を生きた我々の想像の範囲内で崩壊した未来をえがきつつ、それが、近未来の滅亡を意味しているのである。
『風の谷のナウシカ』の未来植物は、汚染された地上の毒素を吸出し、土を清浄に返してゆく植物が描かれていました。エコロジカルなあれと較べると、かなり悪意の有る植物ではある。
さけんではいないが。
1973年、小笠原諸島西方の海底火山の噴火により西ノ島新島が誕生した。
地震国日本では、地震研究の積み重ねが有る。1891年(明治24)の濃尾地震をきっかけに、翌年から文部省下に震災予防調査会が設立される。関東大震災後に、東大地震研究所が設立される。近年では、予知連というのがありましたね。これらの研究機関においては、科学的な地震学の研究とともに、地震史の研究も行なわれた。
これらの研究は、允恭天皇(五世紀)から幕末までの地震の記録を古史料から拾い集めたもので、今日でも高い評価を得ている。この調査結果に対して科学的に震央・マグニチュードなどを推定していったのが、東大地震研究所所長・河角廣(かわずみ・ひろし)である。河角は明治以降の地震データも合せて増補し、これは「河角リスト」と呼ばれて、『理科年表』に載せられている。
これらの成果により、河角は地震の周期性を発見した。全国規模で見れば地震は頻繁におこっているが、地点に限定して見れば何年に一回の割合で大地震が起きるか、理論的に計算することが出来る。69年周期説は鎌倉を対象とした計算結果によるものである。(大崎順彦『地震と建築』岩波新書1983年刊)
因みに、『少年サンデー』にこんな記事が有る。
「昭和×年8月1日、関東地方に震度7の大地震発生!! 東京、横浜は全滅、生存者はわずかなみこみ!! こんなショッキングなニュースが全世界へおくられる日も、もうそんなに遠くはない。というのは、地震は69年毎に一回づつ起こるという法則があるからだ。この法則は、多くのが学者によって99パーセントまで確実であると言われている。(後略)」
河角廣については、同じく『少年サンデー』の「ダメおやじ」におもしろいエピソードが有る。「ダメおやじ」の担当記者が神田の古書会館で『風の又三郎』を見つけた。その本には、表紙裏に「昭和十一年一月/文子/道子/誠 へ/父」と墨筆で書かれ、また「河角」というハンコが押してあった。古谷三敏は1980年32号でその旨を「ダメおやじ」に描き、その人を探そうと呼びかけた。その後日譚が34号に載る。サンデー編集部に河角修子さんという方から電話があった。修子さんこそ、河角廣の未亡人であったのである。廣が昭和十一年正月に次女道子を連れて新宿の紀伊国屋書店へゆき、好きな本を買わせたという。子供たちも愛着を持っていた本であったが、常々古い日本家屋の危険性を訴えていた河角博士が引越した際、この『風の又三郎』も間違えて古本屋に売ってしまったらしい。こうして、50年を経て、もとの持ち主に戻ったのである。 河角廣の略歴も「ダメおやじ」34号に記されている。略して記す。
給食室で最初に関谷が撒いている。ただし、その後、ペストの消毒と称して新大臣らが、橋本君の寝ているままの保健室を「ガソリン」で焼いてしまう。
学校に残っていたものをすべての児童に平等に分配する。「ランドセルに入れた自分の持ち物は、自分で責任を持ってください」と言う高松。普段は、小学生の象徴でありながらも、普段は勉強道具を入れるだけのたんなるカバンに過ぎない。しかし、いまやまさにそれは彼らの命の象徴となっている。この後、彼らはランドセル姿で殺し合いをすることになるが、絵的にもかなりショッキングで、かつ効果的。
飢餓は理性を失わせる。
「おかあさん……」という語りで始まる『漂流教室』。その語りは、この時に翔が書き始めた手紙のものなのだろうか、それとももっと外側の「語り」なのだろうか。少なくとも、この箇所でのセリフ「おかあさん、ぼくはきょうからおかあさんにあてて、手紙をかくことにします。でも、これはけっして届くことのない手紙です。」以下のセリフは、手紙として書かれている文面そのものだろう。
給食室は新校舎にある
咲子が、大友らに向かって言う言葉。あちこちで川田咲子の見せ場は多いが、ここもその一つ。ただし、「あなたたちのような、心のつながりのないバラバラの集団とはちがうわ」とはいうが、この極限状態においていつでも気持ちがバラバラになる可能性が有るのは、高松側でも実は同じことのはず。咲子の中にあるのは、「翔ちゃん第一」の発想なのである。
たぶん、うれしそうに言ってたんだろうなあ。
初出『少年サンデー』1974年4・5合併号のはみだし記事の読者の意見。
わー、子どもたちだけで、翔を手術するなんて。麻酔もないのに、おなかを切るのは残酷だ。(秋田県 高木勝)
こんな非常時に、キミは何をいっているのですか!? 最善の手をつくすのが人間/今は、手術の時なのです。(白井記者)
白井記者、あまりに無謀な論理(笑い)。とは言え、どんなにダメだと思ったときにも最善をつくす、という思想は作者・担当者ともに共有されているのがわかる。そして読者も、それを理解していくのでしょう。
ここは、手術が無事成功したため、スズランがいらなくなったわけであるが、初出『少年サンデー』1994年4・5合併号では、この「スズランはもういらなくなったんだ」のコマの次に一頁あり(コミックスでは省略)、柳瀬と内藤が涙ぐんでいるコマと、スズランを持った咲子が「えっ!?」「そ、それじゃあ……!!」と驚愕するコマがあり、ハシラのアオリも「犠牲をはらって、やっと手にした命のスズラン!!それが、もういらないというのだ!!もしや翔が!!」とある。ここは次週へのひっぱりの箇所だったわけですね。
手術後、西さんを通じての、高松恵美子の翔への呼び掛けの言葉。「がんばり屋」という言葉は、たぶん本来は、子供に対する期待が交じった言葉、そして親への従順さをもとめる大人の発想から来る言葉である。どちらかと言えば、嫌な言葉である。しかも、この場面、多量に出血しつつ行なわれた麻酔無しでの手術の後である。「がんば」ればどうにかなるってもんではない。
しかし、僕は、こう思うのですよ。親の期待と言うのは、いかに子供にとって迷惑なものであろうとも、そして、ピントのずれたものであろうとも、親は自分の信じる価値観から発言するしかないのです。そしてその価値観とは、まさに「息子である翔の可能性を信じる」というその一点にあるのである。
ともかく、ここの一連のセリフ、泣くよ。
女番長の言ってたように、生態的にこの巨大生物をどう考えるか。地下の未来植物と言い、まるっきりのサバクではないのではないか。
コミックス3種には「ネズミの一種。集団で移動する奇習がある。」という注が附くが、初出『少年サンデー』(1974/11号)にも注が有る。「レミング→タビネズミともいう。北極地方に分布し、体長約12センチ。周期的に大増殖し、大群で移動する奇習がある。」
中生代の世界。別世界、ガモラ、原子怪獣、イアラ、まことちゃん、チラノザウルス号など、楳図は恐竜が案外好きなようです。
映画評論家・淀川長治の口癖。淀川さんは、『まことちゃん』8〜10巻にも出てくる。
人肉を食ってる予感があったから、二人だけで行ったのでしょう。
食欲から性欲へ(子孫繁栄欲)というべきか。いや、そういう風には描かれていない。そもそも、ふつーのおとなの感覚でいうと、最初にまずこういう性欲が発散させられてしまって、これが原因で争いが起りそうにも思うが、本作では必ずしもそうではない。理由は二つあろう。
いつも遠くへ行きたいと考えていた。
爆弾犯人であることを告白した、大友くんの言葉。
MyFirstBig版『恐怖劇場』(1999年・小学館)に、楳図のインタビューがある。世紀末・ハルマゲドンに関する、楳図の見解が面白く、必然的に、この大友くんの行動を示唆したような発言になっている。
でも、なにかが起きてほしくて、自分からなにかしでかしてしまう奴は出てくるでしょうけどね。やっぱり、同じ状態が続くのってイヤですから。で、人間って、小さいところと大きいところが逆転してしまうような面があって、たとえば学校行きたくないから、学校に放火したりするじゃないですか。自分が学校行かなきゃいいだけのことなのに。だから、ハルマゲドンに期待するような人っていうのも、「毎日、会社行くのイヤだなあ」って思ってて、「じゃあ地球を滅亡させちゃおう」っていう発想なんじゃないかな(笑)。そういう連中のうち誰かは、絶対になにかをやりますよ。
学校を爆破させてしまおうなどという大友くんの行動のとっぴな計画も、こういう楳図の人間観の裏付けを考えれば、あんがいリアリティがあるというものです。
しかし、楳図が「ハルマゲドンによる救済」なんてことを考えるような、根性の無いメサイア信者でなくて、よかったよかった。
さて、それはそれとして、大友くんは、職員室にダイナマイトを仕掛け、一度失敗したが、今度こそはと思って、もう一本ダイナマイトを持っている。これ、おかしいですよね。一度目の失敗で、もう漂流したっちゃんですから。その間、2本目を製造してたとは考えにくい。
しかし、後述するが、いずれにしても、漂流は「未来にまかれた種」として必然であり、ダイナマイトは契機ではあったとしても、大友くんがワルイわけではないのです。
初出『少年サンデー』は1974年23・24合併号(5月26日、6月2日)。フィンガー5がモデルであろう。フィンガー5は、沖縄出身の5人兄弟のバンド。1973年『個人授業』でデビュー。40万枚くらい売れ、『恋のダイアル6700』『学園天国』『恋のアメリカン・フットボール』など、1974年が人気の絶頂期。1975年まで続いたのでは、と記憶しているが、渡米し失敗(ピンクレディーと同じ)。嘘のように潮がひいたかんじになった。阿久悠/都倉俊一コンビのタレントだった。NTV系の『アイドル登場』で、僕もそれなりに楽しみに見てたりした。
小説では、かなり辻褄をあわせてある。
初出時の頃は、ユリ・ゲラーに代表される超能力ブームがあった。『サンデー』1974年23・24合併号のハシラ(サンデージョッキー)に、「ユリ・ゲラーを見て以来、喫茶店にはいると、先生はかならず、スプーンのくびをナデナデ。おかげで、仕事場近くの喫茶店を敬遠され、最近では、小学館の近くの喫茶店で、おもむろに「まがれ、まがれ…」。(白井記者)」とある。『少年サンデー』でも、ユリ・ゲラーの特集記事を組んだり、『レッツラゴン』『ダメおやじ』等の作品でも、超能力(念力)やユリ・ゲラーが取り上げられる。「ユリ・ゲラーのおやじ、由利徹」とか言って。
右手と右顔面を未来に残したまま、現在入院し逮捕された、給料泥棒の学生馬内守也(23歳)。しっかし、「かように異様な姿をテレビ放送するなんて、そんなバカな!」と思わないでください。が、いや、たしかに異常なテレビではある。
楳図作品において、テレビ放送により他の登場人物が、物語の事態を知る、というストーリーに『偶然を呼ぶ手紙』がある。たまたま欝憤晴らしに書いた悪意の手紙が、実在の人物に届いてしまう。受取人の山田すず子は、その手紙に悲観し自殺まで企てるが、最後にはふたたびの偶然によってその命と幸福を回復する。その回復を、手紙を書いた洋子は、テレビのニュース放送によって知るのである。
考えてみれば、これも「そんなバカな」風ではある。しかし、一応『偶然を呼ぶ手紙』では失踪した山田すず子はすでに時の人として、ニュースヴァリューを持っている、という状況設定は有る。この点、『漂流教室』でも、大和小学校の消失も既に大事件としてニュース化されている。つまり、ニュースになること自体は、それほど不自然ではない。問題は、テレビがどの程度のことまで放送するか、という事である。奇怪な馬内の姿まで放送するのか。あるいは、整形手術が成功して婚約者と対面できる山田すず子の、感動の対面場面にまでテレビカメラとレポーターは突撃するのか?
はい、するのです。楳図には、そういう、強烈に一方的に暴走するメディア観がある。(と断言しておく、とりあえず。ていうか、そうともで考えなきゃ、「なぜ、ここでテレビぃ?」という疑問は、楳図のテレビ好きとしか答えようが無いじゃないっすか)
最終的にここで思い当たるのは、『14歳』のマスメディアである。未来社会に於けるテレビは、現在進行する大災害から大衆の目を遠ざけるため、別の話題を提供する情報操作の機具にすぎない。地球の植物が絶滅するという事態をカモフラージュするために繰り広げられる擬似イベントのメディアなのである。
加えて、テレビ等の技術は、人間のコミュニケーションの形態を変化させ、制約付ける。『雨月物語』なんかを講義すると、「電話が有れば、連絡できたのに」なんてあほな感想を書く学生がいるが、まー、あながちアホでもないなーと思う。現在のテレビドラマなども、パーソナルでグローバルな通信手段である携帯電話の存在を無視して、すれ違いドラマなどは作り得なくなっている。ある種の制約となってくる。これを逆に拡大的に考えれば、「テレビによって知る」というコミュニケーションのあり方を、逸早く楳図は利用しているのである。
なお、このテレビの描写は、テレビ放映されているという視点から、その現場そのものの視点へと、自然に移ってゆく。そのため、どこまでが実際にテレビ放映されたのかは分からないような作りにはなっている。
これは初めてだと思う。
核戦争などとは書いてない。死んだ先生らが放射能汚染を予感していたように、先生らは核戦争を想像したようである。が、ストーリー的には反核的マンガにはなっていないと思う。小説では、核戦争の結果としている。
未来に漂流したのは、大友くんのダイナマイトのせいではなく、破滅した未来の生命を回復するために、必然的に大和小学校が選ばれたのである。つまり、「漂流」=「何かの手により未来にまかれた」、である。だから、爆弾犯人の大友くんまでもが、「そうだ!!ぼくもそう思う!!ぼくたちは、未来にまかれた種なんだっ!!」と絶叫して同意してるのも、許してあげるべき。
おまえらも子供だよ。
我猛くんによる、タイムパラドックスの説明部分。
タイムパラドックス自体、科学的に論証不可能なものだから、理論的には幾種類かあるはず。
それにしても、このコマの背景のウズマキは、何なんでしょう。
ユウちゃんがよいとこのおぼっちゃんであることを示している。
先述。裏テーマ。
本作にはアメリカが2度出てくる。一度は、関谷の「アメリカの兵隊」として。もう一度はこの部分。メタファーとしての「アメリカ」。アメリカ・ヤングと関係は……ない(とりあえず)。
冒頭で翔とケンカする恵美子、途中での狂気の恵美子、そしてこのラストでのほっとした顔の恵美子。この三様の母親・恵美子の顔・表情の違いを見るべきでしょう(ふけちゃったねえ)。西あゆみも超能力を使いきってしまう。すなわち、『漂流教室』は、母の子離れの物語でもある。
本作の最後のナレーションは、次のとおりである。
こうして、時はすぎてゆく。やがては現代と未来をつなぐ明るい笑いの聞こえる日がきっとくるだろう…
翔の母の上にも…… 他の大勢の子どもたちの母の上にも…… そして、あなたたちすべての上にも どうか、多くの喜びがめぐり来ますように!!
未来に生きている翔たちの上に…… ではないのである。「未来」は、安易に明るいものとして語られがちであり、逆にディストピアとして描くのもまた単純な手法であろう。『漂流教室』は興味本位なディストピア・ストーリーではない。もちろん、「ハルマゲドン物語」(「何かをいったんチャラにしないと明るい未来は来ない、ああ、チャラにしてくれないかな」式の)でもない。
「母の子離れのテーマ」とは、そうした安易な未来像の拒絶でもあると思う。未だ来たらぬ世界を、安易に決め付けないこと。それこそが「子離れのテーマ」だ。だから、作者が祈る多くの喜びは、「未来」に生きている翔たちへのものではなく、現代に取り残された母たちに対する希望なのだと思う。それは、与えられた現代という時を、ぎりぎりの現実として、しかも真摯に見つめようとする姿勢である。
その点で、先に掲げてある四方田の見方ともちょっと違う視点を指摘しておく。四方田、再掲。
★2002年6月11日 部分日食。全国で見られるが、南東日本ほど食分が深い。 ★2004年10月14日 全国で見られる部分日食。北の地方ほど食分が大きい。 ★2007年3月19日 北海道、山陰、九州北部などでのみ見られるごく軽い部分日食。 ★2009年1月26日 沖縄の宮古列島でのみ見られる部分日食で欠けたまま沈む。南大西洋〜インド洋〜ボルネオ島にかけて起こる金環日食にともなうもの。 ★2009年7月22日 トカラ列島皆既日食。 ★2010年1月15日 西日本で見られる部分日食で欠けたまま沈む日没帯食となる。 ★2012年5月21日 金環日食。この金環日食帯は九州南部から四国の大部分を含み、紀伊半島から関東全域に至る日本列島を縦断する。時間帯は朝の7時半くらい。 ★2030年6月1日 北海道中部を金環食帯が通る。中心線上での金環継続時間は約4分半。国内では1989年の沖縄金環日食以来の現象となる。 ★2035年9月2日 能登半島から千葉の銚子に日食帯が抜ける皆既日食が起こる。中心線上での皆既継続時間は約2分半。2035年の皆既日食の皆既帯は、東京をかすめるように通っていて、都心部では皆既日食とはならない。夕方5時前くらい。
名称 場所 竣工 階数 地上高さ 霞ヶ関ビル 千代田区霞ヶ関 昭和43年(1968) 地上36階地下3階 147m 世界貿易センタービル 港区浜松町 昭和45年(1970) 地上40階地下3階 152m 京王プラザホテル 新宿区西新宿 昭和46年(1971) 地上47階地下3階 169.7m 新宿三井ビル 新宿区西新宿 昭和49年(1974) 地上55階地下3階 210.2m サンシャイン60 豊島区池袋 昭和53年(1978) 地上60階地下3階 226.2m 東京都庁第一本庁舎 新宿区西新宿 平成2年(1990) 地上48階地下3階 243m ランドマークタワー 横浜市桜木町 平成5年(1993) 地上70階地下3階 296m
105
ラファエロ
125
ニュートン、ルソー、ロック
135
カーライル、大デュマ、ホッブス、ケプラー、シュトラウス、ルーベンス、カント、ワット
145
ベーコン、ガリレイ、ディケンズ、ミケランジェロ、ミルトン、フィヒテ、フンボルト、バークリー、バイロン、デカルト、ヘーゲル、モーツァルト、ロングフェロー、ワーズワース、ブンゼン、ユーゴー、シュライエルマッヒャー、スコット、シャトーブリアン、サンド、コント、ルナン、メンデルスゾーン
155
ヒューム、テニスン、キュヴィエ、スタール
165
ヴォルテール
175
パスカル、ベンサム、シェリング、コルリッジ、ハラー
185
J.S.ミル、ゲーテ、ライプニッツ
もうさんざん遊びすぎて、あんまり遠くへ来すぎたから、家へ帰ろう、家へ帰ろう。
いつか君がママになったら、僕はきっと君を訪ねるよ。そしたら君はごちそうをだしてくれるよ。そして君は「おいしい?」ってきく。僕の好みを知っているから。
傍(そば)で仔猫が気持ち良さそうに寝そべっているよ。
やがてにぎやかなパーティ終り、君は「又来てね」って言うだろう。
そして君と別れて僕は、僕の家へといそぐ。僕の家では誰が僕を待っているのだろう。
帰ろう。
楽しいことがありすぎて、日暮れたことに気付かなかったから。家へ帰ろう。家へ帰ろう。
いつか僕が旅に出たら、僕はきっと君に手紙を書くよ。そしてら君は洗濯物を投げ出し、声を出して読むだろう。僕にふだん話しかけるみたいに。
傍で坊やが何も知らずに笑っているよ。
やがて夜空に星が出て、君は「おやすみ」って見上げる。
そして旅が終って僕は、僕の家へといそぐ。僕の家では誰が僕を待っているのだろう。
帰ろう。
角川書店『漂流教室』(文庫版第二巻あとがき・楳図かずお)
mapion.co.jp の地図に手を加えました。
帝都高速度交通営団(いわゆる営団地下鉄)のホームページへとびます。
名称(都市計画号番)
最終的な区間
(平成2年まで)
初営業 〜 整備完了
都営浅草線(第1号線)
押上---西馬込
S35.12.04 〜 S43.11.15
営団日比谷線(第2号線)
北千住---中目黒
S36.03.28 〜 39.08.29
営団銀座線(第3号線)
浅草---渋谷
S02.12.20 〜 14.09.16
営団丸ノ内線(第4号線)
池袋---方南町
S29.01.20 〜 37.03.23
営団東西線(第5号線)
(部分区間)
高田馬場---九段下
中野---高田馬場
九段下---竹橋
竹橋---大手町
大手町---東陽町
東陽町---西舟橋
着工 / 営業開始
S37.10.19 / 39.12.23
S38.09.09 / 41.03.16
S38.07.10 / 41.03.16
S39.03.26 / 41.10.01
S38.06.27 / 42.09.14
S41.10.01 / 44.03.29
都営三田線(第6号線)
西高島平---三田
S43.12.27 〜 51.05.06
営団有楽町線(第8号線)
(部分区間)
池袋---銀座一丁目
銀座一丁目---新富町
営団成増---池袋
和光市---営団成増
新富町---新木場
着工 / 営業開始
S45.08.19 / 49.10.30
S51.03.01 / 55.03.27
S47.02.26 / 58.06.24
S53.09.01 / 62.08.25
S57.04.01 / 63.06.08
営団千代田線(第9号線)
北綾瀬---代々木上原
S44.12.20 〜 54.12.24
都営新宿線(第10号線)
本八幡---新宿
S53.12.21〜 H01.03.19
営団半蔵門線(第11号)
渋谷---三越前
S53.08.01 〜 H01.01.26
特集記事「恐怖の超神秘世界」『少年サンデー』1975年8月5日増刊号より。構成・文/副田護。イラスト/小松崎茂、田代泉。
明治37年7月12日 生れ 昭和3年 東京帝大理学部地震学科卒業 同年 地震研究所三鷹村支所に勤務 昭和4年 帝大理学部講師 昭和12年 理学博士学位授与 昭和16年 助教授昇進 昭和19年 教授昇進 昭和38年 地震研究所長 昭和40年 停年退官 昭和47年12月12日 没 正四位勲三等 昭和47年12月22日 正三位
そんでもって、ここの箇所で大切な部分は、数居る女子児童の中で大友が咲子を「よこせ!!」と言っている点である。後で分かるが、大友は咲子を好きなわけで、つまり単純な性欲やら、人格を無視した奪い合い(たとえば「女」が一人しか居ない)ではない。
唯一の直線上の空間を、時間旅行する。過去が変われば、未来も変化する。ウェルズ「時間旅行」、ハインライン「輪廻の蛇」、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」など。
過去の改変により変化する未来は、元来の未来に対して、パラレルワールドであるとするもの。ディック「」、藤子不二雄「パラレル同窓会」、鳥山明「ドラゴンボール」など。正確には、パラレルワールド論に時間旅行を加味したもの。タイムパラドックスを引起こさないための改良型だが、パラレルワールド自体が根拠薄弱で、理論的にはよりドツボにはまってる。
「これまでのカタストロフものにあった救済と脱出の主題が大きく急旋回し、生残者の共存という主題へと向かうところで大団円を迎えます。もはや廃墟をあとにし、よりよき世界への脱出を夢見る時代は終わった。生き延びた者にただひとつできることは、この受苦をみずから選んだものとして積極的に受け容れ、まさに「いま、ここに」おいて生を営んでいくことなのだ。」
『漂流教室』においては、その生を営む彼らそのものを締めくくりとしてではなく、(どうなるのかわからない)未来に対する、まさに「いま、ここの」現代その時点へと物語を回帰させて、現在に鋭く問いかけようという物語なのである。