イアラ 本文注釈 |
森鴎外の歴史小説論「歴史其侭と歴史離れ」
「かげろう」の曽良
[2019-03-05 (Tue)]どうぞ拙著『楳図かずお論』第十一章の『イアラ』論をお読み下さい。本サイトに書いた注釈を踏まえ、自分でこう申し上げるのも何ですが、ほぼ完璧な『イアラ』論を書きました。つまり、作者の楳図のマチガイ(?)も含めて注釈し、かつ史実と作品との齟齬の意味も含めて、『イアラ』世界の完全性(!)を論じきりました。恐ろしく自信満々な言い振りですけど、かなりのものになったと思っています。
「さなめ」
◆P5 なぜそのようなものが生れたかは知らない。 こんとんとしたうずの中にそれはいつのまにか形づくられていた。
それは、いつ生れたのか誰も知らない。
暗い音のない世界で、ひとつの細胞が分れて増えていき、3つの生き物が生れた。
彼らはもちろん人間ではない。また、動物でもない。
だが、その醜い身体の中には正義の血が隠されているのだ。
その生き物! それは人間になれなかった《妖怪人間》である!!
(用字は、DVD-BOX『妖怪人間』パイオニアLDC PIBA-9006
放映は、フジテレビ系毎週月曜日7:30〜8:00
1968年10月7日〜翌年3月31日
制作企画・第一動画
第2話「階段を這う手首」S43年10月31日 (1967年12月号)
◆11P 同じことをくり返しながらそれは少しづつ形を変えていった。 形を変えるために、くり返しはあったのかもしれぬ。 中には何ら形の変えることのないものもあった。 花は…… その姿を変えることによって自然界の条件に従うことができた。
くり返し(反復)とは。また、「何ら形を変えないもの」とは。
◆13P 土麻呂
◆14P 祖母
巫女
◆15P けげんに思い、わけを聞くと、祖母は表情をかえぬままで、 「お前も、いつまでもひとりでさみしい思いをするじゃろう……」といった。 そのことを…… なぜか土麻呂は忘れることができない。
◆16P
小菜女という奴婢
◆17P
ついに天平十六年十一月につくりはじめた。
しかし、甲賀での大仏建立はうまくいかず、中絶に終った。
やがて天平十七年、平城京で再開のはこびとなった。
元号 | 西暦 | 『扶桑略記』抜粋の記事 |
天平15年 | (743) | 10月15日、近江国紫香楽京(滋賀県甲賀市信楽町)に於いて、東大寺盧舎那仏金銅像を創り奉る。太政官知識文に、「大願を発挙して、盧舎那仏金銅像一体を造り奉る。国の銅を尽して、像を鋳る。大山を削りて以て堂を構ふ。(下略)」 |
天平16年 | (744) | 11月13日、甲賀寺、始めて盧舎那仏像の体骨柱を建つる。(聖武)天皇、親臨し、手ずから其の縄を引く。 |
天平17年 | (745) | 8月23日、大和国添上郡に於いて、更に東大寺大仏を創り奉る。天皇、専ら御袖を以て、土を容れ、持ち運ぶ。(下略) |
天平19年 | (747) | 9月29日、始めて東大寺大仏を鋳奉る。 |
天平勝宝1年 | (749) | 7月24日、東大寺大仏を鋳奉り、すでに畢りぬ。三ヶ年間、八ヶ度、大仏を鋳奉る。大仏師従四位下国大麿、大鋳師従五位下高市真国、従五位下高市六麿、従五位下柿本男玉、…… ……或説に云わく、……御体金銅盧舎那仏像一体を鋳奉るに、……熟銅七十三万九千五百六十斤、白銀一万二千六百十八斤、練金一万四百四十六両、水銀五万八千六百廿両、炭一万八千六百五十六石を用ゆ。 |
天平勝宝4年 | (752) | 3月14日、東大寺大仏、金を塗り奉る。 |
4月9日、東大寺金を未だ塗り畢らざる間、大会を設け、供養す。 |
『東大寺要略』より
◆18P 大和は くにのまほろば たたなづく 青がき こもれる 大和し うるわし
倭建命(日本武尊)の国思ひ歌、薨去の少し前。
其れより幸行(い)でまして、能煩野(のぼの)に到りましし時、國を思(しの)ひて歌曰(うた)ひたまひしく、
倭(やまと)は 國のまほろば たたなづく 青垣(あをかき) 山隱(やまごも)れる 倭しうるはし
とうたひたまひき。又歌曰ひたまひしく、(下略)
自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
又歌曰、(下略)
「マホロバ」←「マホロマ」。「ホ」は「秀でる」。マは接頭語、ロもマも接尾語で、ロマとあって確実性を示す。ロはラでも代用可能。ゆえに、初出の「まほらま」も、あながち間違いとは言えない。
大和(やまと)は國(くに)のま秀(ほ)らま
疊(たた)なづく青垣山(あをかきやま)
篭(こも)れる大和(やまと)しうるはし
夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多多儺豆久 阿烏伽枳夜摩 許莽例屡 夜摩苔之于漏破試
◆18P 大和の国、中村に住む国中公麻呂は、先祖を百済から帰化した鋳造技術者の子孫で優れた鋳匠であった。
◆30P 大仏は失敗に失敗をかさねながらも徐々にできていった。
◆35P 四年、五年と過ぎ、大仏はしだいに形をととのえはじめた。
◆36P 大仏は腰から胴にうつり やがて一番むずかしい顔にかかることになった。 木組み
◆34P 本を破った。
◆37P 大仏の顔の形がつくられあとは熱銅を流しこむはこびとなった日のこと。
この日は、開眼供養ではない。
大仏開眼供養
◆38P 「わたしが死ねば土麻呂さまは助かる……わたしが……」
◆41P こうして八度の鋳直しをし、十年の歳月をへて 天平勝宝元年に大仏は完成した。 そして建立にさいし熱銅七万三千九百五十斤 炭一万八千六百五十六石 及び水銀、錬金など 莫大な量にのぼる その他何千人という人員がたずさわった。
◇「熟銅」よく精練した上質な銅。
サナメは、この中に鋳込まれている。ある意味、「形を変えないもの」となった。ただし、大仏は数度の修復を経ている。
◆
「しるし」
◆44P 世の中にてをのの音するところは東大寺と此宮とこそはべるなれ(大鏡)
◆44P たえず修理が必要だった。それと同じく
◆45P 開眼まぢかの
◆46P 『日本雑記』
◆48P 文永十一年十月五日蒙古襲来。 /◆49P 総数四万三〇〇〇人戦艦九〇〇隻の蒙古軍が対馬の西方海上に出現。
日時は諸本・史実として一致するが、軍勢は不一致
『八幡愚童訓』
八幡神の霊験を記した書物で、蒙古襲来を同時期に記した、最も早い文献の一つ。
「同(文永)十一年九月(イ十)の頃(イ五日)、異賊四百五十艘大船ニ三万人乗テ寄セ来リ。対馬・壱岐二島打落シ。筑前国今津ニゾ着キケル。」
読売新聞社・日本の歴史
○造船を開始 一二七四年(文永十一)のはじめに、高麗は造船の命令をうけ、ただちにいまの全羅道の辺山と天冠山に造船所を設けた。木材の豊富な海辺の山である。工匠、役夫三万五百名が動員され、五月の末には大船(千石船)、抜都魯(ばーとる)軽疾舟(抜都魯はモンゴル語で勇猛の意)、汲水小舟、それぞれ三百、計九百隻、すべて高麗型の兵船が完成した。これに乗りこむ梢工(船頭)、引海水手(水先案内)は一万五千、そのうち六千七百人は高麗で負担することに決定した。出征軍は総計二万五千六百。モンゴル本国からは一万五千が到着し、従来の屯田軍が五千、高麗の助征軍が五千六百で、これを編成した。モンゴル・女真・漢(華北)・高麗などの諸民族混成軍であり、日本に屯田兵をおく準備をし、耕作の用具まで用意したという。(中略)
この年(文永十一年)の十月三日、船団は合浦(鎮海湾内の馬山市)を出航、五日には対馬(長崎県)の西海岸佐須浦を襲って、守護代宗資国を殺し、十四日には壱岐(長崎県)を侵して、守護代平景隆を殺した。つづいて肥前(佐賀県)の松浦郡を荒し、十九日にはすすんで博多湾にせまった。十月二十日の朝、博多湾に入ったモンゴル軍は、相前後して今津、麁原の百道原(もじばら)、博多の三地点から上陸を開始し、主力をなすモンゴル・女真・漢の諸族をふくむ一軍は、大宰府を攻撃目標として博多地方を襲い、高麗軍は、麁原から赤坂(福岡城南の高地)へ進撃してきた。
書名 | 対馬到着日時 | 員数 | 船舶 |
イアラ | 文永11年10月5日 | 総数43000人 | 戦艦900隻 |
八幡愚童訓 | 文永11年10月5日 | 30000人 | 450艘 |
日本の歴史 | |||
ぴったりの数字の文献、未調査。
◆50P 守護代の宗助国は……
◆51P 守護代の平影高は……
◆54P 高麗
◆56P 大和の大峰山を中心に山伏が……
◆56P わたしの父の土会から……その父の土良に
設定の問題。土麻呂の子孫なのか、本人なのか。
◆57P 大仏の開眼の日であった。
◆62P あのしるしに気がつくようなら
◆68P 日本側では使者を鎌倉で切り殺してしまった。
◆73P アラヒウンケンソワカ
阿毘羅吽欠娑婆呵。胎蔵界大日如来に祈る時の呪文。
◆74P たまゆらのならしかたを
あたかも楽器のようであるが、こんな楽器は無さそう。サナメひとりが独特の鳴らし方を会得していたのか。
モノとしては勾玉のようでもある。ただし、勾玉は宝玉であり、奴婢ごときが持てるとも思いにくい。
「たまゆら」
『日葡辞書』「Tamayura. タマユラ(玉ゆら)詩歌語。すなわち、Tssuyuno vouoqu aru tei.(露の多くある体) 露がたくさん集ってあるさま。||また、短時間の間。または、短い命。※玉ゆら:玉の声也。又露のおほくをきたる体を云ふ也(匠材集、二)」
『角川古語辞典』「たまゆら(名・副)ほんのしばらくの間。しばらく。しばし。『万葉・2391』の「玉響(たまかぎる)昨日の夕(ゆうべ)見しものを」を旧訓で「たまゆら」と訓み、「たまゆらとはしばしといふことなり(隆源口伝)」という意で歌語として用いられ、特に『新古今集』の前後の歌や連歌に好んで詠まれた。「たまゆらも恋ひしと思はん人もがなこはあじきなのわがひとりねや」(江帥集)、「しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」(方丈記)、「たまゆらの世にかかる春秋」(永正八年夢庵独吟何路百韻)」
『日本国語大辞典(第二版)』「たまゆら【玉響】(名)時間の経過のごくわずかなさまをいう。しばしの間。少しの間。暫時。副詞的にも用いる。人麻呂集「たまゆらに昨日のくれにみし物をけふのあしたにこふべき物か」。堀川百首「かき暮し玉ゆらはれず降る雪の幾重積りぬ越のしら山(源帥頼)」、方丈記「いずれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」、歌謡・松の葉「厭はじな、たまゆら宿る人の盛り」、北原白秋・邪宗門「瞬間(たまゆら)の叫喚(さけび)燬(や)き、ヴィオロンぞ盲(めし)ひたる。[語誌](1)万葉・2391(人麻呂歌集)の『玉響昨夕見物』の古訓『たまゆらにきのふのゆうべみしものを』から生じたと思われる。「ゆら」は、玉のふれあう音。その音をかすかなこととし、そこから短い時間の意に転じたものとする。なお、『玉響』には『たまかぎる』『まさやかに』等の別訓、別解が試みられている。(2)『匠材集』巻二には『玉ゆら 玉の声也。又露のおほくをきたる体を云ふ也。』とあり、『日葡辞書』でも『ツユノ ヲヲク アルテイ』としている。[語源説](1)物につけた玉のゆらぎ触れ合う音がかすかであるところからいうか(大言海)。タマユラ(玉動)の義(言元梯)。(2)チカマユクラヤ(近間行)の反(名語記)(3)タマはテマと同語で、間離(タマサカ)に対して間寄’タマヨリ)の義か(雅言考)」 」
◆79P 弘安四年(一二八一)
◆82P どの教文にも出ていない……イアラということばは
一來果道異不還向道異不還果道異阿羅漢向道異阿羅漢果道異獨覺道異如來道異(大般若経 三六九巻)
應得阿羅漢果者以阿羅漢果法而安立之(同)
「わび」
◆121P 利休鼠の雨
北原白秋「雨はふるふる、城ケ島の海に、利休鼠の雨はふる」(『白秋小唄集』1919。銀に緑・城ケ島の雨(中山晋平作曲)
◆125P 茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて飲むばかりなることと知るべし 利休百首(利休道歌とも)の一つ。
◆126P 時世の句
桑田忠親『千利休』
さて、利休が秀吉の命によつて切腹したのは、天承十九年二月二八日のことである。彼が堺に蟄居を命ぜられたのは二月十三日のことで、その日故郷の堺に歸り、それから十五日間を堺で過ごしたわけである。この間に木像の磔騒ぎがあつたりして、揚句の果てに切腹といふことになつた。そこで、秀吉の生母の大政所や正室の北政所などは、利休の爲に命乞ひをするから、何とかして關白樣に赦罪する樣にと、密使を遣はして勸めたが、利休は頑として聽き容れない。それがし天下に名ある者が婦女子の爲に死を免れたとあつては後世の聞えもいかゞと、固くこれを辭し、從容として死に就いたのであつた。まことに水の低きに就くが如き最期であつた。辭世の偈なども實に堂々たるものである。人生七十【ジンセイシチジフ】 力圍希咄【リキヰクトツ】
吾這寶劍【ワガコノハウケン】 祖佛共殺【ソブツグセツス】
提ぐる我具足の一太刀今此の時ぞ天に抛つ(161頁)
◆127P 大黒の長次郎
桑田忠親『千利休』225頁 茶碗は、支邦や朝鮮から渡つて來たものが主として用ゐられ、我が國で出來たものは、その頃の茶會には殆ど使はれてゐなかつたが、利休がその頃來てゐた朝鮮の燒物師に命じて、初めて茶湯に使ふ爲の茶碗を燒かせたのである。これが樂燒であつて、長次郎といふ者に好みの形を燒かせたのが利休形の茶碗である。緑色の茶の色によく映るやうに黒や赤の色の茶碗を造らせた。その中で有名なのは、木守・早船・臨濟・檢校の赤茶碗と、大黒・鉢開・東陽坊の三つの黒茶碗であつて、これが七種の名物として珍重されてゐる。その形は何れも變つてゐるが、利休好みの形であつて、樂燒茶碗の本となつたものである。(265頁)
◆133P 細井新助
『国史大系』『寛政重修諸家譜』にはいない。
桑田忠親『千利休』(青磁社・昭和十七年刊)62頁 .* 「越中陣」とは天正十三年(一五八五年)の佐々成政征伐のことで、「柴田勝家をうつための戦い」(139頁)賤が谷の合戦ではない。 ▼
それで愈々越中陣が始まると、利休は八月二十二日附けで今度は芝山源内宛に書状(文献十参照)を出してゐる。源内は監物と稱し、利休の高弟として知られてゐる。御陣の樣子を承りたいので、細井新助殿の所へ書状を以て申し入れた。いりかやの箱を一つ進上したので、其許より御披露に預りたい。先手の軍の樣子を確かに承りたい。御留守は無事で、當方も變りはない。追々飛脚を以て御意を得ることにして、これで筆を擱く、とある。これは、大坂に留守をしたゐた利休が、佐々征伐の先陣を承つて越中に在つた芝山源内に出したものであつて、細井新助といふのは秀吉の武将で、源内は恐らく新助の組に屬してゐたのであらう。(62頁)
資料十(富田文書)
御陳之樣子承度迄ニ、細新(細井新助)迄以書状申候。自然新公指合儀候は、いりかやの箱一ッ進上候。可預御披露候。并先手之樣子慥に可承候。御宿より御書状到來、御留守事無事、何も當方相替事無之候。御留守へも御用等可承由を懇ニ申入候。何も追々以飛脚可得御意候間、閣筆候。恐惶敬白。 抛全齋 宗易(花押)
八月廿二日(天正十三年)
芝(芝山)源内殿(320頁)
http://blogs.yahoo.co.jp/aun1949fuu/45104754.html
天正十二年も、幽斎は兼見との茶の湯である。同年1月8日、忠興、兼見宅から朝茶のため急いで帰京。2月4日幽斎、兼見と一会の茶、相伴は、月斎、千秋。2月13日牧庵。愛宕下坊で茶の湯、幽斎・兼見・康之・院主。
「同年10月4日晩山里丸於秀吉様 御茶湯次第・・・宗易御立候、御座敷四人、宗易、幽斎、宗二、又其次、安津、休夢三人ツツ被下候、右明日之御会・・・御人数三十三人。同15日朝、番衆ハ宗易・幽斎・安津・宗及、二番衆は宮内卿法印・宗玖・宗二・紹安・其外前如、以上。」(兼見卿記)
同年10月15日秀吉様御座敷、宮内卿法印(松井友閑)・長岡幽斎(細川)〔『天王寺屋会記』「宗及他会記」茶道古典全集〕・宗易・宗久・宗及・宗薫・紹安・宗二・宗安・休夢斎(小寺高友)・宇喜多忠家・宗無・宗春・宗甫・藤田平右衛門・佐久間忠兵衛・高山右近・芝山源内・隼人・道七・古田左介(織部正重然)・中川清兵衛(清秀)の子忠吉・松井新介(松井康之茶会記登場初見〔天王寺屋会記・宗及自会記〕茶道古典全集)・細井新介・観世宗拶・牧村長兵衛(政吉)・円乗坊・樋口石見(久左衛門)・徳雲軒。
このころ利休が秀吉の茶頭として、政治向きにも関与している様子が、松井康之宛書状から分かる。 秀吉はいよいよ茶の湯が盛んである。正月大阪城内山里丸の茶室開きである。
幽斎と松井康之が、宗及の茶会記に顔を出すが、利休とのかかわりは、幽斎と連歌・茶の湯と親交のある宗及と異なり、時代の流れの中での接触であるに過ぎないように見える。取り立てて近しいものともみえない。
松井康之や倅忠興らの利休との係わり方とは少し違うようである。
◆139P 柴田勝家を討つための戦い
賤ヶ谷の戦い。
◆146P 無作為の作為
◆150P 山里丸
◆155P 一本の朝顔
久須見疎安『茶話指月集』(茶道古典全集。東洋文庫)
藪内竹心『源流茶話』(茶道古典全集)
近松茂矩『茶窓間話』(英文の本のみ)
津田宗湛『宗湛日記』(単行本数種。本学ナシ)
桑田忠親『千利休』 秀吉が利休の家のあさがおの花を見たいといってやってくると、一つのこさず花をキリ落としてあり、たった一輪花いけにいれてあったということや、 野菊の茶会の席では、利休が、秀吉を前に茶をはじめようとした時に、天目の縁の中に、肩衝とともに、異様なことに野菊がひともと挿してあった。これは秀吉のしわざであったが、利休はこの不意うちにたじろぐさまはみじんもなく、床前ににじりよると異物など眼中にないかのように、さりげなくわきにおくと茶をすませ、拝見の終わった肩衝を床の間に飾ったついでに野菊はその勝手よりのすみによせかけて、常のごとく席をひいた。それはいかにもさりげない動作であったが、おそろしくはりつめた一瞬であったと、同席したものの話であった。
◆155P 一本の野菊
津田宗凡『茶湯日記』天正18年(一五九〇)九月二十三日。聚楽亭(聚楽第)において、野菊一本の事件の記事あり。
桑田忠親『千利休』一四九頁
同月(天正十八年九月)二三日、聚樂亭に於いて關白秀吉の朝會があつた。その委しい樣子は津田宗及の子宗凡の茶湯日記に見えてゐるが、手前は利休がやり、その有樣もよく分る。客は黒田孝高・針屋宗和・宗凡、床には歸帆の繪が掛けてある。この繪は小田原役の結果手に入れたもので、もと北條家にあつたものであるといふ。牧溪筆の八景の内の歸帆の大軸に相當するものかも知れないが、明かでない。さて下には、鴫肩衝を紹鴎の天目の内に入れ、肩衝と天目との間に野菊が一本挿んであつたが、これは恐らく秀吉の創意に出たものであろうと思われる。圍爐裏は四寸四方、五徳にせめ紐の釜がかけてあり、手水の間も略々同樣の飾付である。そこで、利休は面桶を持つて出てきて、洞庫より瀬戸水指と柄杓を取出して、床の前ににぢり寄り、まづ花を抜いて床の疊の上に横にして置き、肩衝はその儘天目に入れながら持つて本座に戻つた。御茶が過ぎて肩衝を拝見してゐる間に、利休は天目・水指何れも皆々洞庫に入れ、肩衝は床へ上げ、床疊の上で野菊の花を取り直し、床の勝手の方の隅に寄せかけて置いた。御茶がたつた時、秀吉は勝手より出て來たのである。さて、こゝに注意すべきは、野菊の花に對する利休の態度であつて、肩衝と天目との隔てに野菊一本を挿んだ秀吉の稚気漫々たる趣向に對して、彼は何と感じたのであらうか。恐らく不敵の冷笑を湛へたことでもあらう。が、捨てもやられず、之を床疊の上に直し置き、茶過ぎてまた之を床の勝手の方の隅に寄せかけたのは、眼中に關白秀吉の如きなく、洵に透徹せる一代の巨匠の見るも心にくき振舞であつた。
◆164P 和歌「見渡せば」「花をのみ」
桑田『千利休』209頁
『南方録』
紹鴎、「わび茶の湯の心は、『新古今集』の中の、定家朝臣の歌に、見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまや(苫屋)の秋の夕ぐれ
この哥の心にてこそあれ」と申されしと也。
「花紅葉は、則ち書院台子の結構にたとえたり。其の花もみじをつくづくとながめ来りて見れば、無一物の境界、浦のとまや也。花紅葉をしらぬ人の、初めよりとじま屋にはすまれぬぞ。ながめながめてこそ、とまやのさびすましたる所は見立てたれ。これ茶の本心也」といわれし也。 (中略)
又、宗易、今一首見出したりとて、常に二首を書き付け信ぜられし也。同集家隆の歌に、
花をのみ待つらん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや
これ又、相加えて得心すべし。(中略)
歌道の心は、子細もあるべけれど、この両首は、紹鴎・利休、茶の道にとり用いらるる心入れを聞き覚え候てしるしおく事也。(下略)
◆その他
秀吉の思惑と、わび助の思惑
秀吉によってこしらえられたゆきの人生とは言うが、ゆきの先祖までもが土麻呂を見たのは、秀吉の作為ではありえない。『イアラ』の世界は、もちろん土麻呂の世界だが、土麻呂はそれぞれの時代において制約を受けている(秀吉の時代においては秀吉によって)。そうした、世界の基礎付けにおけるねじれ現象がある。
▽また、初出では「さなめ」以降3月25日号までが第一部、6月10日号から第二部とされる。第一部の最後<は利休が自刃する観念的な話で>、<ラストの>わび助の後姿の最終コマに次の言葉が有る<(ただし、「状況編」「ロマン編」という語はここでしか使われていない)>。
▽ここにイアラ第一部『状況編』を終らせていただきます。物語の途中ではありますが、はじめ、六、七回でまとめるつもりでとりかかったものが芒洋としたものになり、はては主人公の内面的なものにもふれなければいけない必要が感じられ、利休をとりあげてみました。 利休の哲学は非常に難しく、とうてい七十年で到った利休の極みには及ばぬかもしれませんが、できる限りの挑戦をこころみたいと思います。 『わび』はへんてつのないくりかえしの話ではありますが、そのあとにどのような意味を持つものであったかは、第二部と共にあかしていきたいと思います。第一部の終りと共に、少し休みをいただき、やがて第二部『ロマン編』に全力投球するための準備にしたいと思います。(楳図かずお)
「かげろう」
「うつろい」
◆津椰姫
「姫」は高貴な婦人の称。
「望郷」
「終焉」
◆
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