半魚文庫--小国町・小国和紙

親孝行のコーナー
小国紙・小国町青年団・中越地震

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作成日:1998-3-16
更新日:2006-10-20

父の書いた文章などを、いくつか載せています。


  1. 大逆事件と内山愚童師 --- 時代の先駆者と小国との関わり (2017-09-21 公開)

  2. 地震で壊れた集会所の改修 --- ひとりよがりの総代記 (2006-10-20 公開)

  3. 青年団活動の転換期 (2001-04-13 公開)

  4. 峠の楮と紙漉き職人の死 (1998-03-16 公開)


大逆事件と内山愚童師 --- 時代の先駆者と小国との関わり

高橋 保

箱根大平台の曹洞宗林泉寺を訪ねて、内山愚童師のお墓をお参りしたいと前から思っていた。いつからだかはっきりしないが、五十才を過ぎた頃から暇を見て読書を始めた。いずれも暇つぶしの小説であるが、いつしか水上勉に熱中した。その中で内山愚童が書いた反戦、平和、自由、平等を呼びかける冊子を読んだ青年僧が、警察に追われる昭和初期の話があった。水上氏が直木賞を受賞した「雁の寺」の姉妹編として書かれた「帰山の雁」の暗い時代の物語である。そのとき以来、愚童という名前が頭に残った。

内山愚童は大逆事件の犯人の一人であって、「最悪の凶徒」の筈なのに小説の中では、英雄のごとく書かれている。こんな凄い人が小千谷から出ているのか、生家は今も在るだろうか、遺族は迫害に耐えることが出来ただろうかなど考えながら、小千谷の何人かに聞いてみたが、一人として内山愚童を知る人はなかった。小説家の作り話であったかと思っているとまた、水上氏の短い紀行文に出会った。少し長くなるが、氏は次のように書いている。

今の観光バスがせわしなく行きかうあの道路の途中に、ぽつんとある禅宗曹洞宗の小寺が内山愚童によって、日本仏教史というよりは、近代史に不滅の光芒を放っている。彼はその生活においても、思想においても、一介の仏教者として、もっとも正直に、率直に、人間平等の意見を吐いて、明治仏教界に矢を放ち、その意見を実践した。

日本の近代史に不滅の光芒を放っているとは、これ以上の賛辞はない。水上氏は箱根に来るたびに愚童師のお墓にお参りしてゆくと云う。

それから過ぎて、別の記事を見つけた。平凡社が発行している「別冊太陽」という雑誌の特集があった。日本の名僧百人を選んだ中に、内山愚童師が載っている。空海や親鸞と肩を並べ百人の中に選ばれている。してみると、水上氏の賛辞は的を射たもので納得することができた。(新潟県では他に名僧百人の中に三人がいる。恵信尼(異説有)、良寛、井上円了)箱根に行きたいという思いが募ったがその頃は、暮しに追われて思うに任せない。何回か箱根に行く機会はあっても個人行動をとることは出来なく、諦めてしまったのか、忘れてしまったのか、いつのまにか遠い話になっていた。

今年、雪が多く残る三月に、茂野伸一さんが愚童師をよく知る小千谷の人を紹介してくださった。市議を長く務めた佐藤勝太郎さんである。佐藤さんから「愚童藤」が咲く頃、小千谷を案内しましょうという快いお話を頂き、藤の花の咲く時期をたのしみに待つことにした。「愚童藤」とは、愚童師が小千谷を出て、仏門に入るまでの数年を、各地を放浪した時期があった。そのとき中国から持ち帰った藤の苗を弟の政治(せいじ)さんに贈ったものである。その後、政治さん一家が他に移転(柏崎、現長岡)した折に、魚沼病院近くの山岸邸の庭に移され、毎年きれいな花を咲かせていると云う。

五月二十四日、魚沼病院前で待つことにして、茂野さんと出掛けた。最初に「愚童藤」を案内してもらった。今年は、花数が少ないとのことだが立派な藤棚になっている。これは小千谷市にとって貴重な遺産であって、ますますの成長を願ってやまない。次に船岡山の中腹にある街、稲荷町に向かった。そこには、愚童師の下の弟政治さんが分家した屋敷跡であって、藤の苗は最初ここに植えられていた。いまではビジネスホテルが建っていた。

今日のメーンは愚童師の生家跡土川町である。その内山家も今は無い。跡地にはアパートが建っている。内山アパートと表札が出ていたので、血縁の人かと聞くと関係のない人とのことだった。今から五十年ほど前に小国から小千谷に行くには楢沢峠を越えた。上ノ山を過ぎると下り坂になり、左にカーブすると百メートル程で「平成」の丁字路に突き当たる。その三十メートル手前の左側が生家跡である。後ろは小千谷小学校、道路を越えて先には、戊辰戦争で河井継之介が、西軍岩村精一郎と会見した寺として知られる慈眼寺がある。この辺りは昔とあまり変わっていない。あとで思い出したことだが、「内山印房」という判子屋さんがあった。その頃小国には判子を商うお店が無かったので、小国の人達の多くはこのお店を利用したものと思われる。そこが愚童氏の生家だったのだ。内山家の菩提寺は市民会館の裏通りに、小さいながらも威厳に満ちた日蓮宗、松涼寺であり、ご両親はそこに眠っている。

最後に小千谷図書館に案内をしてもらった。小国の人達にも貸し出ししてもらえるのは嬉しい。次の三冊を借りた。「大逆事件と内山愚童」柏木隆法(一九七九年)、「内山愚童」森長英三郎(一九八四年)、「仏種を植ゆる人―内山愚童の生涯と思想」曹洞宗人権擁護推進本部編(二〇〇六年)。他に大逆事件を扱った者が数冊あったが、あとでお借りすることにして、その日の行程は終了した。大変意義のある一日だった。ご案内下さった佐藤さんには感謝をしている。

その後、佐藤さんから次々と資料を作っては届けてもらった。少し人数が増えて、五人して血縁者で長岡在住の内山政一さん宅を訪ねた。桐沢の桐盛院さまから「仏種を植ゆる人」六冊を曹洞宗宗務庁から取り寄せてもらった。稲荷町集会所に数人が集まって、今年内に「内山愚童師をしのぶ会」を立ち上げたい。さらに反戦、平和、自由、平等の国家建設をめざして、自ら捨石の道を選んだ愚童師の思想を学び、小千谷の誇りを示した等と話し合った。

六十年安保の騒動のあと、大逆事件の真実が明らかになるにつれ、関係する各地は、次々と顕彰事業が進められて行った。あれから五十年、小千谷の取組みは少し遅れてしまったが、焦らずぼちぼち勧めて行けたらと思っている。その活動に、私も仲間にしてもらえたら嬉しい限りである。


> 初出 : 小国文化フォーラム『小国文化』71号・2011年11月04日発行
(編集:高橋実)

2017年09月21日 HTMLによる公開


[不肖の息子による解題]



地震で壊れた集会所の改修 --- ひとりよがりの総代記

高橋 保

地震から二年が過ぎる。一時はどうなる事かと思ったが、復興の早さに正直のところ驚いている。地震の年とその翌年、村の総代として多くの支援をいただいた。そのことに対して決して忘れてはならない事なのだが、このところ、年のせいか物忘れがはげしく、記憶も薄れがちになっている。でも、その中から忘れられない話を一つひろってみたい。

以前、四回ほど村の総代職をやらせてもらい、「総代くらい良い仕事はない」が、私の口癖となっていた。そのためか、もうやることはないと思っていた総代が、平成十六年にまた、お鉢は回ってきた。もうたくさんだと思ったが、自分の都合ばかり言っていられない。推された時は受けないでは男がすたる。そんな気取った軽い気持ちでうけたのだったが、度重なる災害には参った。

最初は、夏の水害である。ちょうどそのとき、坐骨神経痛が発病し、歩くことも困難にもかかわらず、楢沢は、沢が深く、災害現場を数キロにも渡り、幾度となく歩かなければならなかった。

十月になって少し落ち着きを取り戻した頃、次年度の総代を決める時期になった。水害復興の立場と後任者が見つからないこともあって、留任が決まった。その数日後、大地震に見舞われた。負担の面から言えば、一年が数年にも該当する年であった。地域に奉仕することができれば、人間として最高の幸せであるはずなのに、愚痴ばかりこぼしていた。二年が過ぎて、今年の四月、総代職を次に渡すと、気が楽になったこととボケが重なって苦労した記憶はすっかり薄れて来ている。それなのに、自分の都合の良い話だけは、鮮明に記憶しているから不思議なものだ。

前置きが長くなったが、ひとりよがりの話に入りたい。

明日は、集落役員が研修旅行に行くという日である。旅行日が一日早かったらと考えるとぞっとする。私は柏崎まで車を借りにいった帰りに、安田駅あたりで地震に襲われた。必死の思いで帰ってくると、集落の集会所の前広場に数人の役員が私の来るのを待っていた。直ちに借りてきた車を対策本部として使い、集まった役員達が先頭になって集落内の安否の確認に回った。夜は屋外で過ごすように指示を出して、その対策を進めた。越後交通の大型バス二台が長岡の営業所に帰れず、これを急遽避難所として借り受け、朝まで利用できて大変助かった。大勢が寄って過ごせば気持ちも安らぐ、気がつけば、空腹と寒さが身に染みる。大半の人が夕食をとっていないのだ。腹が空いては不安が増す。そこで皆さんに食料の提供を呼びかけた。役員はおそるおそる食べ物を求めて、自分の家に入って行った。妻は少しのご飯と七、八つのカップラーメンを持ってきた。村の商店に「腹の足しになるものを全部持ってきてくれ」と要請したが、店が小さいので、たくさんはなかった。腹が膨れれば、元気が出てくる。皆の話し声も少しは大きくなってきた。しかし、まだ私の口には何もはいっていないし、全体を見ても不足気味である。次にガスをセットして炊き出しを行った。後で聞いた話だが、小国地域で夕食の対応までした話は聞いていない。その点は評価してよかったなと思われる。

長い夜が明けると、長期に備えてテントを張った。張り終えてふと集会所を見ると、建物が傾いている。内外を回ってきて被害の大きさに驚いたが、その時は住民の命と生活の問題が先であって、集会所のことなど構っていられなかった。

数日が過ぎて、町から建物の被害調査にやってきたが、集会所は、支援の対象にならないという。地盤が軟弱であったため、集会所の被害は相当ひどいものであった。敷地は二十五年ほど前まで、私が田として耕作していたところである。そこを土盛りして建てたので、液化現象の激しかったのも頷ける。

その年の春、集会所前をコンクリート舗装したが、その面と建物の布基礎との間に大きく亀裂が入っている。建物に向かって右端に五センチ、左端は十二センチ離れた。最初、舗装コンクリートが動いたものと思ったが、よく見ると、建物が基礎ごと動いたのだった。この事を数人の人に説明するのだが、誰一人として理解してくれる人はいなかった。建物が基礎ごと動くなんてありえない。それより軽い舗装路面が動いたのだという。太陽が動くのか、それとも地球が動くのかといった楢沢版といったところである。基礎の高さは、右端に対して左端は十二センチほど沈みこんでいる。建物が傾いて見えるのはこの為であって、部屋の中ほどが盛り上がり、部屋の中程と端との高低差は、二十センチを越えた。戸や壁の傷みは勿論である。

何としても一日も早く、村の集会所を改修しなければならない。しかし、どんな手順ですすめたらよいか解らない。総代にとって頭の痛い話である。

我が家は、私が生まれる四年ほど前の建物で、火打ちもなければ、筋交いもない。大きな地震が来れば、村一番に倒壊するのは、我が家であると思ってきた。それが倒れないでいた。家具も転倒防止の金具を付けておいた甲斐があって、他所の家よりは被害が少なかった。我が家のことも大変であるが、それ以上に頭を悩ましたのは、集会所の改修工事である。

しばらくは、建築関係の人の顔さえ見れば、改修方法を尋ねたが、私の気入ったような返事は返ってこなかった。今の基礎を補修・補強して使えるかどうかである。使えれば経費が安くて済むが、使えなければ何倍もの経費がかかる。我が集落は、他所に比して高齢者が多くて、重い負担には耐えられない。そこで、今の基礎を生かして補修できないか尋ねるに、出来るという人はいなかった。考えて見れば無理もない話である。誰もこの度のような経験がないのだから、新しく作りかえればといって話に乗ってこない。相談に乗ってきても、基礎を作り替えて家直しをしたらどうかという。その根拠は、基礎部分の補修は出来たとしても、地盤の傷みは直せないという。私は、そこで考える。液化現象が起きれば、地盤が前より弱くなって、建物を支える力がないのだろうか。川の流れで土砂が堆積した所は、最初はすべて軟弱の地盤であったはずだ。それが大きな地震をなんどか経て硬い地盤にかわっていったはずだ。この度は、村の平地はおしなべて四・五センチ沈下した。沈下した分だけ地盤が硬くなったのではないか。それなら、集会所の地盤は地震前と比較して数倍強固になっているはずだ。だから今の基礎を直せば十分使えるというのが、私の考えである。これもまたひとりよがりの考えで同調してくれる人は一人もいなかった。

思案にあまって知り合いの片桐工務店さんに相談をかけた。早速社長の片桐三郎さんは、武蔵野市から応援に駆けつけてくださった一級建築士を伴ってやってきた。その建築士にしどろもどろに地盤と基礎についての考えを述べて指導を求めると、建築士は笑いながら「この基礎は生かして使えるよ」と言われた。私の考えを認めてくれた最初の人である。「いやー武蔵野市の人ってすごいなあ」と感心したものだった。とにかく自分を認めてくれる人は立派に見えるのが人の世の常である。

武蔵野市の建築士とは、文化フォーラムが計画した「米山家のルーツを訪ねる旅」で猿ヶ京に行ったとき、ご一緒していただいた五十嵐純一さん(苔野島出身)である。五十嵐さんは、とても気さくな方で、そして丁寧に指導してくださった。その日から改修工事の方法について、私の考えは決まった。ひとりよがりの考えであるが、地震による液化現象で地盤は一層硬くなったのだから、今の基礎を補修して生かしてゆくことにしようと。

大小の違いはあっても、集会所の被害はよそにもある。ある集落では、専門家から改修計画書を作ってもらい、工事は業者に入札し、資金の借り入れをおこし、返済計画に従って集落民に賦課すると聞いた。この方法は簡単で解り易い。集落民の同意を得るのは容易であるが、工事経費が嵩むのが難点である。

その集落の集会所も見てきたが、うちの集会所に比較して損傷は桁違いに軽微であるのにもかかわらず、経費は何倍もするという。素人が考える修理は、完璧とはいかないが、私は貧乏人のせいか生かせるものは生かしていきたいと思っている。予算を惜しまない官庁方式は嫌いである。修理を終えた集会所が、あと二十五年使用に耐えれば工事は成功したといえよう。そして指導してくださった五十嵐さんは、環境にやさしく、私心のない建築士として評価されるだろう。

改修方法について自分の腹が決まったので、あとは、トントンと集落内の合意が出来た。早速工事にかかろうと思ったが、公共の支援を受ける住宅修理が忙しく、職人の確保が出来ない。ずるずると翌年の盆近くになったので、片桐工務店さんに無理をお願いして、盆が過ぎたら工事にかかってもらうことにした。そして九月の中ごろに完成し、思ったよりも少ない経費ですんでほっとした。

平成十六・十七年は、水害、地震、豪雪と未曾有の年であったにもかかわらず、私の前任者から始めた集落の経費削減が進んだこともあって、集落の人たちにあらたな賦課をお願いせずに済んだ。また、大きな水害があったにもかかわらず、賦役のお願いもなく、災害を乗り切ることが出来た。

集落の人たちにとっては、不満はいっぱいあるだろう。不満の声も耳に入ってこないではないが、今は気にならない。怠けたわけではない。自分に力がなかっただけなのだ。ひとりよがりだといわれようが構わない。総代として二年間、人が経験できない仕事をやらせてもらって幸せだったと思っている。いや、思わなければならないと思っている。

お世話になった上記の方たちに対し、また多くの方々に対して紙面をお借りして、心からお礼を申し上げる次第である。

たかはしたもつ/昭和10年、楢沢生まれ。
小国文化フォーラム役員。
平成十六・十七年度の楢沢総代(区長)


> 初出 : 小国文化フォーラム『小国文化』41号・2006年10月20日発行
(編集:高橋実)

2006年10月20日 HTMLによる公開


[不肖の息子による解題]

父の文章、今回は肩の力も抜けているというか、軽妙でなかなかな面白いのではないか、と思う。その一方で、「推された時は受けないでは男がすたる」や、「予算を惜しまない官庁方式は嫌いである」など、普段あまり聞かない父のセリフが、個人的には興味を引きます。父は、「男なら○○しなければ」みたいな言い方を私には一度もしたことがないのです。

2004年10月23日、私は研究仲間と松本市の慶林堂で談笑しながら古本をあさっていた。最初はめまいかなと思ったが、「ああ、地震か」と軽く思った。ところが、ラジオの速報で震源は新潟県中越地方だというので、研究仲間とともに驚いた。小千谷市にも継続的に調査にいっている研究仲間なのである。いつもお世話になっている横山さんは大丈夫か。そしてもちろん私の実家も中越である。何度も電話連絡を試みたが、結局通ぜず、その夜はテレビを付けたまま不安な一夜を過ごした次第。翌日も調査は手につかず、ネットで情報をあさる、などといったありさまだった。


青年団活動の転換期

高橋 保

―私の青年団活動―

楢沢の高橋保です。昭和28年に入団して、36年8月に退団するまでの8年間の青年団活動のなかで、31年から36年までの5年間、本団の活動になんらかの係わりをもってきました。本団との係わりの長いという点では、私もそのひとりに入るかと思います。

戦後の青年団活動は、昭和21年に始って昭和40年頃に終るまでの、約20年間、前半の10年は、先輩の皆様がさきほどお話した通り、戦後農村の復興に大きな役割を果してきたと思います。このころの農村は、都市に比べて恵まれた情況にあり、青年団活動のもっとも安定した時期だったのではないかでしょうか。

小国町の人口は、昭和22年に1万7千人を数えましたが、今では、その半分になってしまいました。とりわけ昭和30年頃から50年頃にかけて著しい減少が見られました。著しい減少の始まった30年頃が、都市勤労者の所得が農村の所得を上まわったといわれました。農業に見通しの立たない暗い時代が始まり、今まで農業にすべて依存していた団員達の苦悩が始まったのが、30年に入ってからだと思います。その後の10年は、青年団活動の新しいあり方を求め、やみくもに活動したにもかかわらず、新しい運動が確立せず、消滅に向かっていったというのが実感だと思います。

地域青年団は、崩れることのない強固な組織と思われてきましたが、目標を失った組織が、いかにもろいかを実証するかのように、劇的な幕切れとなってしまったわけです。その原因には、指導の誤りや、団員の努力不足などいろいろありましょうが、農村崩壊の前触れに求めるのが、正しいと思います。日本農業の衰退と、農村青年団の崩壊の関係は、別に置くとして、私の関わった団活動について話してみたいと思います。

―町青年団結成についての話し合い―

昭和31年10月小国町が誕生しました。その年には、私は、楢沢から選出され、上小国村の本団に委員長として籍を置きました。

当時上小国は、町村合併をめぐり、小国合併派と、小千谷合併派に分れて、激しく対立してきました。新しい町づくりのために、青年団は、早い時期に統合して町の融和に尽すべきだというのが、私達の意見でしたが、先輩諸兄の中には、上小国地区の青年団として存続させよという声もかなりの部分ありました。それを押さえて小国村青年団に対して統合の話し合いを提唱し、翌7月15日に実現したことは、私にとって大変意義のあることでした。

その年に、もう一つ思い出されることは、体育大会があります。体育活動は、青年団活動で欠かすことのできない大切な部門なのですが、当時の上小国村では、体育活動はきわめて貧弱なものでした。長く中断していた体育大会の復活を試み、大成功に終えることが出来ました。それが、小国町青年団のその後の活動に引き継がれていき、私にとって忘れることのできない一コマです。

翌32年には、小国町青年団が発足し、本団の活動はより活発になってきました。33・34年は、樋口(章一)さんが団長として、文化活動、体育活動、青年問題研究集会においても、めざましい活動を展開されてきました。小国町の本団活動が、もっとも花ひらいた時期だったと思います。活動内容が大きく変化したのもこの時期でした。

―青年団活動の転換点―

団活動がより活発になっても、団員の要求がそれで十分充たされたかというと、決してそうではなかったと思います。当時の団は、大多数の農業青年によって構成されており、農業の見通しの暗さは、団員の表情に直接現れました。農村の暗さ、貧しさを青年達がもっとも強く感じたのが、昭和30年代だったでしょう。この暗さから抜け出すための、団活動が叫ばれたのが、この時期でした。従来の官制青年団の概念では、この青年達の要求に応えることはできません。どんなに体育大会が盛んであっても、文化祭が盛んであっても、くらしの問題を正面に据えた団活動でなければ、団員の要求に応えられない。そんなことが強く叫ばれ、団活動転換の必要性が盛んに論議されました。

34年に新しい団活動のさぐる部門として教育宣伝局が作られました。そこでは、団員大会、青年問題研究集会、機関紙の発行を担当し、くらしを正面に据えた団活動をさぐることが目的でした。5人で受け持ち、私がその責任者になりました。手さぐりの活動です。

当時、国内は高度成長期に入る前で、三井三池の闘いに代表されるように、労働運動のもっとも盛り上がっている時期でした。小国町でも農民組合などが活発に動いていました。その年、原水爆禁止刈羽柏崎協議会小国支部が結成され、小国町から2名の代表を広島の世界大会に送ることがきまりました。青年団から私が参加し、日農青年部から元小国村青年団長で、青年団の統合について話し合った中村進さんが参加しました。その大会で、核兵器の脅威と、平和と民主主義がいかに大切であるかを聞かされました。また大会は、青年達のエネルギーによって引っぱられていました。大会に参加して感じたことは、青年運動とは、根底に反戦平和の思想がなければ成り立たないということでした。暑い広島の平和公園のうた声が、強烈に私の印象に残り、その後の小国町のうた声運動に大きな影響を与えました。

―安保問題―

またこの年の最大の問題は、60年安保といわれる日米安保条約改定の動きと、それに反対する空前絶後の国民の闘いでした。反安保の動きの中で、小国町でも平和と民主主義を守る共闘会議の結成があり、青年団にも参加よびかけがありました。青年団もよびかけに応じて、主要メンバーとして参加しました。

しかし、このことがその後の青年団活動の崩壊の時期を早めることになったと思います。

今、ここで安保条約の是非については、脇に置くとしまして、当時、日本政府が、米国軍事基地を強化するため、日本民族の生命を無担保で提供しようとする条約改定に、国民の反対の声は日ましに高まっていました。戦前の青年団が戦争に荷担した悲劇を再びくり返してはならない。戦争に連なる危険の大きい条約の改定に反対しようと、34年、第5回代議員会に教育宣伝局が中心になって、反対決議を提案しました。しかし、政治問題に深く立ち入ると、組織の分裂が心配されるとして、この提案は却下されました。

この辺にとどめておけば、組織に及ぼす影響はなかったと思いますが、すぐ後の機関紙で、「安保改定阻止は青年の努め」と題して「お祭り青年団に明け暮れるならば、組織の分裂は避けられないかもしれないが、その反面意識ある者達は団を遠ざかって行くであろう、そして団崩壊の日を早めよう、安保の問題をもう一回勇気を出して真正面から取り組むことを切望してやまない」とよびかけました。くらしを正面に据えた団活動を主張する指導部にとって、今この問題に取り組まないで団の前進はないし、取り組めば分裂しかねないという二者択一を迫られる苦しい状況にありました。

翌35年、安保の闘いは風雲急をつげ、まさに日本全土が革命前夜の様相を呈してきました。この年、私が団長の責にありました。その代議員会に再度反対決議が提案され、その時は、圧倒的な数で採択され、早速県連や日青協をつきあげました。その時の活動振りは、日青協の新聞に紹介されましたが、この決議を採択したのは、県下で小国だけだったようです。6月22日、岸内閣の命と引きかえに、安保は成立し、反安保の闘いに加わった当時の若者達に、強烈な挫折感を与えました。

―団崩壊への道―

新しい青年団を求めてときには手探りで、ときにはがむしゃらに進めてきましたが、安保問題で挫折し、青年団活動への意気込みもすっかりしぼんでしまいました。1960年6月22日、安保条約が成立したこの日が、小国町連合青年団が崩壊の方向に向かって歩み始めた日と私は見ております。その後の行事は、何事もなかったように滞りなく過ぎていきました。当時副団長の笠井荘二さんに、翌年バトンを渡しました。私達が一緒に活動した何人かが残りましたが、笠井さんは、私が作ったきしみの修復にかなり骨折ったようです。次の年は、私達が活動をともにした仲間は、ひとりとして執行部に残りませんでした。この年から青年団は、坂道をすべり落ちるように崩壊に向かって走りました。

私達が青年団でなにをなしたのか、結果的にみますと、官制体質をもつ青年団の変換のよびかけのみが残り、多くの団員が背を向けることになってしまいました。新しい青年団に変えようとした試みは失敗に終りました。

その後青年団崩壊のたよりは、耳をおおって、聞かないようにしてきました。私がたどった青年団は、暗い歴史であり、二度と振りかえりたくない思い出でした。

―おわりに―

今日この席で、はからずもとりとめのないお話をする結果になりましたが、これも忘れたはずの過去を忘れられずにいたものと思います。私の青年団活動は挫折で終りましたが、青年期にひとつのものに命を燃やすことがあったということは、人間形成に決して少なくないプラス面があったと思っています。自己の利害でなく、野心でもなく、人間を愛し、地域を愛し、社会の発展のために、一途に燃えた青年期があったという、このことは、自分の子供達に自信を持って語れる部分です。

(たかはしたもつ・町内楢沢在住・昭和10年生れ)


> 初出 : 小国芸術村友の会編『へんなか -- 雪国の文化を語る --』
特集 戦後の青年団活動(1991年 1月)

2001年4月13日 HTMLによる公開


[不肖の息子による解題]

1990年8月19日、小国町就業改善センターで、「村起こしの原点としての戦後の青年団活動」というシンポジウムが開かれた。主催は、小国芸術村友の会、雑誌『へんなか』の刊行母体である。パネラーと演題は次のとおり(敬称略)

  • 基調講演・終戦直後の青年団活動……長谷川武(大正4年生れ)
  • 七日町支部の活動……小林清(大正12年生れ)
  • 中里青年団の結成……山崎正治(大正14年生れ)
  • 女子青年団の活動……松木ウタ(旧姓・江村。昭和4年生れ)
  • 上小国青年団の文化活動……富沢敏一(昭和2年生れ)
  • 太郎丸支部の活動……保坂利雄(昭和4年生れ)
  • 小国町青年団の結成……樋口章一(昭和7年生れ)
  • 青年団活動の転換期……高橋保(昭和10年生れ)

これらの報告、および総合の質疑・討論の記録が『へんなか』第7号の特集記事としてまとめられたのである。

パネラーの多くは、古き良き時代のノンポリ的若衆組織の懐古談……、それにくらべて我が父のこの先鋭的な時代感覚を見よ……、などと言ってしまえば、あまりに子馬鹿の親自慢か贔屓の引き倒しであるが、父が団長をして、次の代で実質的に小国町の青年団活動は崩壊した。となりの西山町などは、こうした政治性を経験しないがゆえに、逆に近年まで青年団は延命したのである。

青年団をやめた後も、父はポリティカルな活動をしている。組織の名前に惑わされずにその活動の内実のみを見る時は、決して恥ずかしくないものだった。私は、父親の所属した政党に必ずしも理解を持つものではないが、この手の組織員にありがちな、中央の方針への盲信、革新系の逆差別的いばり具合い、などとは無縁なところに父は居たと言って良い。

また、父の世代ではそれほどでもなかろうが、その少し前の世代では、青年団指導部を形成していたのは、当時の「旦那サマ」系の子息らであった。うちのような分々家・水呑百姓のせがれが出る幕はなかったのである。父は、自己の才能と人柄だけで、指導的な立場にあった。家にもうちょっと金があったりすれば、町議くらいはやれる器ではあったと思うのだが、うちは祖父もわりあい早くに亡くなっていたのである。

本文内容については、たぶんかなりの注釈が必要だろうが、私にはその力はない。瑣末な注釈をすれば、父の前の団長であった樋口章一さんは、その後社会党の町議として活躍した。その息子の哲也くんは私の中学の同級生で、勉強もよく出来た。もちろん私のほうが出来たが。父の次の代の団長の笠井荘二さんは、落語家・林家こん平さんの兄である。今はあの辺は小国町大字千谷沢だが、小国町合併以前は千谷沢(ちやざわ)村と言った。本質に関係ない、あんまり注になってないか。

重要な事として、60年安保の運動とその挫折については、その後転向した者も含め多くの知識人によって語られ、懐古されているだろう。しかし、そうした活動は、国会議事堂前だけで起っていたのではなく、こうした農村においてもその一端を荷った若者たちが居たという事は、また知られていいのではないか。本エッセイには、そうした価値がある。

しかし、私にとって、そうした政治的歴史的興味は、実は関心の外である。私にとっては、末尾の「自分の子供達に自信をもって語れる部分です」という言葉を受け止めるだけで充分だろう。

本文中に「その後青年団崩壊のたよりは、耳をおおって、聞かないようにしてきました。」という部分が有る。10年前にこの文章を初めて読んだとき、ここがみょうにひっかかった。「耳をおおって、聞かない」とは、どのような心境なのか。10年前の私はまだ幼すぎて、それが分からなかった。父が携わった小国町青年団とはまったく違うが、私はとある研究会に属し、雑用係ながら中心的に活動し、その盛衰を見てきた。その研究会が機能しなくなってほぼ4年が経つが、この間、その研究会のことを思い出すたび、いつも父の「耳をおおって、聞かないようにしてきました」という言葉を思い起こし、その気分が分かるように思い始めていた。その研究会は、最近になって、ようやくきっちりとしたかたちで幕を閉じることになったのだが、父のこの文章の公開は、その幕引きの記念も兼ねている。

結論。いずれにしても、次の小国紙のエッセイもそうだが、うちのおやじさんの文章って、とにかく、暗いですよ〜(笑い)。しかし、それが文学的だと思ってる世代なんじゃないか、と思う。




[本文]

峠の楮(こうぞ)と紙漉き職人の死

高橋 保

  楢沢から小千谷に抜ける峠道が開通したのは大正の頃(1)である。それが国道に昇格し、道巾は広く改修が進められてるが、トンネルの近くは、いまだ細く曲りくねっている。そのトンネル近くの道端に、楮の茂みが三ヶ所程あるが、今では楮を知る人も少ないし、土地の所有者も桑の木ぐらいにしか思ってない。私が楮を知ったのは、我家の桑畑の畦畔に、異様に大きな株が有り、それが楮であったからだ。

  南向きの斜面を通る国道から、小道を下り、丸木橋を渡って、つづら折りの坂道を登って行くと、山肌に重なってへばりつく桑畑に着く。たしか私が十二、三の頃だったか、桑畑の手伝いをさせられたことがある。桑の葉が、霜でただれた午後である。畑に着いた時は、すでに陽は陰り、寒い日であった。桑からがきと言って藁で桑の木を束ね、雪折れを防ぐ作業である。
  大きな桑の木と思っていると、(2)がそれは楮と言って、生紙(きがみ)(3)の原料になるのだと教えてくれた。母の実家では、母が子供の頃まで漉いていたと言う。
  私が小学校に入るまでは、母が山仕事に出るとき実家が近かったことから、きまって実家に預けられた。母の実家は、古い茅葺の家で、紙漉き屋と呼ぶ三畳程の物置があった。
  実家の子供達とカクレンボをしたとき、紙漉き屋の物陰に隠れたら、いつまでも見つけてもらえず、暗く寒く泣きたいような思いをしたことが思い出される。紙漉き屋も物置に変り、無用の長物となった楮が、桑畑にのさばっているのが憎らしかった。
  中学二年の秋、私は結核になって家で寝ていた。小千谷病院に薬を取りに行った母が、帰りのバス代で肝油を買ったため、峠の道を歩いて帰って来た。病人によいとされた肝油も、当時は思う様に買えなかった。帰りの道筋、トンネル近くにある楮の木の元気がよいのを母は話したが、不要の楮が元気がよく、それに引き替え自分の姿を淋しく思ったものだった。
  和紙から受ける印象が、暗く、寒く、そして貧しかったことが、私が大人になってからも続いた。特に暗い出来事は、暗い納屋で楮の皮を一人で叩いていた太郎の死である。

  二男が生まれて間もなく(4)、私はリウマチを患い、一年程休んでから、機屋(はたや)の外廻り(5)を勤めることになった。お盆を過ぎた頃、上(かみ)の農協(6)の辺りで、山野田(7)で冬は紙を漉いていると言う、女の人に呼びとめられ、仲間が数人いるから機織りをさせて欲しいと申入れがあった。山野田は冬場が大変であり、会社に帰って検討した結果、稲刈が済んでから織機を入れることを約束した。自分の家で工賃を稼ぐ出機(でばた)(8)のことである。

  それから数日後、紙漉きを仕切って来た重五郎の爺さん(木我忠治氏)(9)にひどく呵られて困っているので来て欲しいとの電話である。仕方なく爺さんに掛け合ったが、爺さんは「小国和紙は近く無形文化財になる(10)と言うのに、それを捨てて機織りをするとは何事か」とえらい剣幕であった。了解してもらえないまま十人程が、機織りを始めることになり、私の山野田通いが始った。
  山野田には、青年の頃、私と妙に馬の合った太郎が紙を漉いていた。太郎も結核で中学を満足に行かなかったことは、私と共通している。勉強家で口の方も達者であった。暇なとき立ち寄ると、暗い納屋で楮の皮を叩いていた。手を休めて文化財の価値について、熱っぽく話を聞かされた。
  二年程過ぎて機織りも勢い付いてきていた。山も紅葉を始める頃、太郎が「俺も機織りをする」と言い出して驚かした。機織りは女の仕事だからと私は反対したが、太郎は聞かなかった。その年の暮れ、山野田の織子達総勢が、集落の公民館で忘年会を開いた。私も招かれて出席したが、その頃、仲間は十六、七人に増えていた。
  少々の酒で座はにぎやかになり、重五郎の爺さんに叱られて、おろおろしたときの話しになると、一段と盛り上がった。太郎が突然「じさを呼べ」と叫ぶと、誰かが連絡をしたのか爺さんがやって来た。その頃爺さんは、自分で紙を漉くのは止めていたようだ。機織りの女達との関係も修復していたのだろう。
  爺さんは、茶碗酒を飲みながら、皆が機織りでよく頑張って来たとしきりにほめ称えた。私にも大きなごわごわとした手を突き出して来た。その手を何度も力を入れて握り返しながら、自分の気持ちの高いぶるのを意識していた。
  外はすっかり暗くなり、雪はしきりに降っていた。借りた電灯を頼りに、よろけながらどたどたと足速に、除雪のしてある原の村まで下って行った(11)。翌朝、目が覚めると悪い方の足がすっかり腫れて、その日は仕事を休んで寝て通した。
  そんなことあってまた二年程が過ぎた。ある雪の朝である。織子の一人から、電話で太郎の死を知らされた。欲の皮の突張った女達に混じっての機織りは、男の太郎には、きつ過ぎたに違いない。そこで楽なあの世に行くことを、自ら択んだのだった。
  無形文化財の紙漉きを、辛抱して続けていれば、太郎は死なずに済んだものを。
  私は平和な紙漉きの里を、足で蹴散らして来たことも知らずに、いい気になって来たのではなかったか。雪雲が低くたれこめた小国の冬の空のように、私の心はなかなか晴れることがなかった。

  和紙につながる思い出は、暗く、冷たいものばかりであったが、越前の紙漉き女の生涯を、叙情豊かに描いた水上勉の小説を読んだ頃から、和紙に対する印象も少しは変って来ていた。
  今年の夏のことである。日頃お世話になっている細井さん(12)に用が有って法坂山の楮団地(13)に行ったときである。そこには身体に障害を持った人達が大勢作業をしていた。その中に私の知人も混じっていた。彼は半身が不自由になってからは、沈んだ顔をして、あまり口を利かなかったのに、その日は自分の方から話しかけて来た。その時の目の輝きに思わず息をのんだ。また世話をしている人の生き様には、改めて大きな感動を受けた。私は何の用があってそこに出かけたのか、今は思い出せないが、大変なものを見て帰った思いである。畑のあちこちに元気のない株もあった。ここの楮は、四国から導入した品種で、おそろしい紋葉病に冒されるのだそうだ。
  鈴虫の鳴く夜である。細井さんが私の家を訪ねて来て、楢沢の峠道に、古い楮が残っていると聞いたが、調べて欲しいということだった。病気に強い、在来の楮の生産を検討し、小国に伝わる生きた楮で、小国和紙を漉きたいと言う。
  私が長い間、憎んで来た峠の楮である。それを細井さんは、蘇らせようとしている。
  七十年も人々に見捨てられ、雑草や雑木の中でじっと堪え、僅かばかりの天の愛と、地の恵を享けて、今日まで生きて来た峠の強靭な命に畏怖を感じた。
峠の楮を漉きこめば、素朴であったかく、強靭な紙となり、無形文化財として、一層の輝きを増すだろう。
  峠の楮は倖せ者である。それを育てる手伝いが出来れば、私もまた倖せ者であると言えようか。

(たかはし たもつ/小国町楢沢在住   
 昭和一〇年生まれ 小国町森林組合長(14)


> 初出 : 小国芸術村友の会編『へんなか -- 雪国の文化を語る --』
特集 越後和紙の現在・未来(1998年 2月)

1998年3月29日 HTMLによる公開


[雑誌『へんなか』について]

  雑誌『へんなか』は、高橋実氏(小国町在住、小千谷高校教諭)が編纂する、小国芸術村友の会の雑誌です。年二回刊行。誌名は「火の中(いろりのこと)」の訛化方言。残念ながら、10年続いた本誌も1998年2月の21号で終刊号となりました。毎回特集を組み、地元郷土誌としても非常にユニークでレベルもかなり高いと思います。いわゆる、歴史の専門家がやっている郷土誌(地方文書中心)ではなく、文学、歴史、風俗、民俗、物産、社会等総合的視点があって素晴らしいです。

小国町公式ホームページにも、『へんなか』の簡単な紹介が有ります。20号までの特集のタイトルが分かります。

  高橋実氏は、言わば地元の名士で、国語科の高校教員(社会科でないところがみそ)。御歳50代半ばくらいかな。新潟大学在学中に小国近辺の昔話を採集し、教員になってからは小説を書き(芥川賞候補になったことがある)、鈴木牧之の研究では第一人者(『国語と国文学』にも論文あるもんな。おれまだ載せたことない。はは)。ここ10年間の仕事が、この『へんなか』を中心とする文化的町おこし。氏の文化事業は、かつて僕が小学2〜4年くらいだと思うから、1971〜4年ころ、御自宅に「やまぐり文庫」という絵本類中心の私設図書館を開き、毎週土日に本の貸出しをしてました。遠い親戚だし(同じ高橋のマキ)、いま国文学を仕事とする身になってみれば、かなりの恩恵を受けているのだと思います(家族も近所も文系の人間が多かった)。まあ、小国の人は「ふつーの高校のセンセー」くらいにしか思ってないフシがあるが(地元ってのはそういうものか)、新潟県下の文学者・郷土史家としては第一級。視点が広く、「いわゆる郷土史家」つまり郷土のほかはなんにも知らない、というタイプでは全然ありません。
  そうそう。近所に延命寺ケ原という場所が有り、縄文土器が出るのです。ミノル先生に、いろいろ教えてもらいました。やまぐり文庫にも毎週(雪の日も)行ってました。

[『へんなか』について、かつて書いた文章がありました。
PCVANで書いたものです。1号から6号(当時の最新号)までの簡単な紹介があります。1991年8月執筆。

[「やまぐり文庫」について、駄文を書きました。
現在、高橋実先生がやっておられる『友の会だより』に、なんか書け、と勧められ、やまぐり文庫の事を書きました。1999年1月執筆。2月発行、4月公開。


[転載註(半魚註)]


[解説]

○小国町略史
  私の故郷新潟県小国町(おぐにまち)は、その西を柏崎市に、東を小千谷市に挟まれた盆地である。柏崎の境には八石山系が、小千谷市の境には関田山系がそれぞれ走っている。中央には南から北へ(川西町から越路町・長岡市へ)渋海川(しぶみがわ。信濃川の支流)が流れる。典型的な稲作地帯であり、豪雪地帯である。
  鎌倉時代初期は小国保とされ、国衙領(○○保は国衙領、○○荘は荘園)。ここに入った多田源氏(仲政流)が小国氏を称し、越後有数の豪族に成長してゆく。南北朝時代には南朝に仕えるが、この頃か西蒲原郡に拠点を移したため、小国保は歴史の舞台からは消える。小国氏は戦国時代初期まで越後を東奔西走したようだが、その後衰え上杉の傘下で命脈を保つ(子孫は現存する)。江戸時代の小国保は天領。近代に至り上小国村、中里村、下小国村等となるが、昭和三一年に小国町として町制を敷き現在にいたる。集落数30くらいかな。人口は僕が小学校のころに10,000人を切り、今は8,000弱くらい。過疎地帯である。
 現在、小国というと山形県小国町か熊本県小国町が有名だが、歴史的には(大日本地名辞書などでは)うちの小国が一番有名なのですよ。

○小国紙
  小国には小国紙(おぐにがみ)と呼ばれる手漉き和紙が生産されて来た。 越後の紙漉きの歴史は古く奈良時代にまで遡るが、小国紙は、天和二年(一六八二)の記録が文書としては現在もっとも古いものである。始りはもうすこし遡ろうか、と言われている。
  小国紙は楮を原料とする楮紙(ちょし)である。強靭で白く、品質も優れたものが多かった。小国に残る地方文書(じかたもんじょ)類には、当然小国紙が使われているが、保存状態が良いと言われることが多いという。また、元治元年(一八六四)の『越後土産』という本には、越後の産物の番付表に小国紙が西前頭三枚目に置かれているそうである。

  紙漉き作業は雪深い地での冬場の内職(副業)であった。元禄五年『小国郷鏡帳』によれば、小国のほぼ全戸で漉かれていたという。農閑期の冬場のほぼ唯一の現金収入であった。明治二十年代に最盛期を迎えるが、その後は西洋紙や機械漉き紙に押され、特に戦後になると内職の座は養蚕・タバコ・酪農、あるいは内職でなく出稼ぎなどに取って代られてゆく。上のエッセイでも分かるように、機織り(小千谷紬、十日町紬)などの内職も、紙漉きを脅かした副業であった。うちの親父は、その尖兵だったわけで(笑い)。が、いずれにしても過酷な豪雪地帯での生きる模索の歴史であることよ。

  こうした時代の趨勢に対し、小国町のなかで唯一山野田(やまのた)という地区だけは、紙漉き一筋であった。冷たく辛い作業であるが、和紙2,000枚は米1俵に相当し、現金収入を保証して来た。天和期には三十戸あった家が、紙漉きによって幕末には八十余戸の集落に成長する。
  また、山野田は柏崎市境の八石山系の中腹に位置し、小国の中でもひときわ辺鄙な豪雪地帯なのだが、それが返って幸いし小国紙の伝統を保持して来た。豊富な雪もその品質を保証するものである。紙漉き作業は硬質な清流を必要とし、また漉いた和紙を雪中に晒すという独特な(古風な)製法を今日まで保って来たのである。道具も古い漉き具を用い、全国でも類のない技術製法が保持されて来た。そして、山野田では紙漉きを止めた近隣集落の漉き屋を順次買取り、楮畑も増やし、十一月ころから春まで村中で紙を漉いていたという。

  しかし、この営みも和紙の需要度の低下や大量の機械生産には勝てず、同時に僻地の過疎化のあおりも受け、昭和三十年前後をさかいに衰え、戸数も減ってゆく。
  この時期、文化庁を中心に全国の和紙の調査が始っているようである。当時の文化庁調査官で和紙研究の第一人者・柳橋眞先生(やぎはし・しん。じつは、いま金沢美大の日本美術史の教授なんだな、このかたが。紙と漆が特に御専門)も小国を訪れ、昭和四八年(一九七三)、国の無形文化財に選択指定される。上のエッセイの太郎氏の死は、その後くらいの頃か。

参考資料

  • 『へんなか』 1号(特集:小国和紙)1988-4
  • 『へんなか』15号(特集;峠の道)1998-5
  • 『へんなか』17号(特集;越後小国氏の系譜)1996-2
  • 『へんなか』21号(特集;越後和紙の現在・未来)1998-2
  • 新潟県教育委員会『新潟県文化財年報6 越後の和紙』1968-3

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