教材 造形表現工房VI 芸術と言語表現
言語表現演習
研究領域研究指導
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苦手意識は、自分を他人と較べるところから発生する。人よりも上手くなければいけないというプレッシャーが苦手意識の源泉である。しかし、人と較べて自分は惨めだと思っている人に幸福は訪れない。いかにしてこのプレッシャーから解放されるかが、生き方の極意といってもよい。
文章を書くのは楽しい。私が楽しいと思えればそれでよい、と考えてよい。
自由に書いて良い。絶対的に、これを肯定すること。これがすべての第一歩である。
……そんな「極意」でなくて、もっとちゃんと「文章の書き方」を教えてほしい、と思っている人もいるでしょう。
大学院生レベルであれば、「絵の描き方を教える」ということの空虚さが理解出来るでしょう。絵を描く、を以下それぞれに応じて彫刻を作る、工芸を作る、と読みかえてください。上手く見える絵が描けるようになることは、(少なくとも皆さんにとって)全く意味がないでしょう。
書きたいことが明確になってきたら、それに応じて、テクニックを教授いたします。
文章の書き方を学ぶ前に、書きたいこと(言いたいこと、主張したいこと)があるかないかを考えよう。あるいは、書きたいことを探してください。文章が上達する、近道あるいは王道です。そのことを「自由に書いて良い」。
感情を書く。主張を書く。作品にならない部分を書く。
そんな時も確かにあるが、そう言っててはいつまでたっても書けない。書くべきことを見付ける力が最も必要である。 しかし、それも出来ない時には、とにかくダラダラと書きだしてみる。適当に手を動かして。
そのような感じで始め、それでもそれなりの文章が書けるようになるのが、「上手い人」なのかもしれない。
しかし、とりあえず手を動かしていたら書けた絵、いちおう絵にはなっている……と同じであろう。しかし、そういう「上手さ」こそが堕落の始まりではないのか。
メモをとる習慣を付ける。道具(手帳やノート、筆記用具)も用意する。板書を写すのではなく、人の話(会話・講話)をメモする。のみならず、一人で時間のある時に、何か思ったことを書いてみる。(みなさんは普段、写生、デッサン、アイディア・スケッチなどを行っています。言葉でもスケッチすればよいのです)
日記も、身辺の雑記を付けるのみならず、感じたことや考えたことを書く。重要なのは言葉にするということである。書くことで、書きたいコトを見付けていくこと。好きなだけ、ダラダラ書いていってよい。
書くべき「書きたいこと」は、感じられ、考えられたことである。母国語で感じられ、母国語で考えられているのではないだろうか。ならば、母国語で書けば良い。日本語だけ上手くなる、などということはありえない。(留学生の場合)
最近はツイッターなどの影響で、短い文章もよく書かれているのかもしれないが、長く書くことよりも、短くびしっと決めることのほうが、数段難しい。まずは、長くなって良いから思ったことを自由にじっくり書く練習からはじめるのが良い。
(長く書くのは、根性と技術だが、短く書くのは芸術です。技術と芸術にどんな区別があるかは、さておき)
文章は(あるいは会話も)、書くべき順序というものがある。ダラダラ書いたものを、改めて構成し直してみることが不可欠である。次に、不要な部分を消していく。あるいは、足りない部分を補う。
読む人、聞く人が理解しやすい順番というものがある。一気に全部説明しようとしないこと。そんなの無理です。徐々に、順番に説明すること。
文章の形を整えるのが添削ではない。文章にへんなくせがあったとしても、必ずしも直す必要はない。くせは味でもあるし、無意味なくせであれば、いずれ必ず直ります。
書きたいことがあるにも関わらず、上手く書けないでいる。そういう意味不明な状態の文章を見て、何が言いたいか掴むこと。次に、それを書いた人も納得するような形で直してみせること。これが添削である。先生の基準で文章を直すだけでは、良い添削とはいえない。(難しいのですよ)
ただ書くだけでは文章は上手にならない。よく読むことが必要である。
読んで、良いと思った文章を保存しておき、それを目標に真似てみよう。
どんな文章を良いと思うか、人それぞれですし、初心者ほど、小難しい(空疎な)文章を良いと思ってしまう傾向があります。良い文章は、明晰で分りやすいものです。
書きたいことが無いと書けない。書きたいことは、感じ、考えないと生み出されない。感じ、考えるためには、物の見方や感じ方という練習が必要である。端的には、知識がないと考えることはもとより、感じることさえできない、ということがある。 例えば、美術史の知識がないと、絵は見えてこない(本当か?アカデミックで固定された美術史の知識とは限らないが、何かしらの前提知識=先入見は不可欠だろうと思います)。
勉強はしないが文章だけ上手くなる、などということはありえない。
書いてもなかなか上手くならないと感じたら、本を読んで勉強すること。
習字で大切なのは、一という字をすらりと書けること。歌唱で大切なのは、あーという声を真っ直ぐに出せること。 文章も、まっすぐに書くことが大切なのだが、それが結局は始まりであり、終わりでもある。実はかなり難しい。
文章を書いていて意味が分らなくなった場合、単文に直してみること。
文章(work)は、段落(paragraph)から成る。段落は文(sentence)から成る。文は句(phrase)から成る。句は文節から成る。文節は単語(word)から成る。
主語・述語の組み合わせが一つだけある。これを単文という。
主語・述語の組み合わせが二つ以上あり、それぞれが並列関係にあるものを、重文という。
入れ子関係になった二つ以上の主語・述語を持つ文を、複文という。
[単文]彼は馬に乗っていた。僕はそれを昨日見た。
[重文]彼は馬に乗っていて、僕はそれを昨日見た。
[複文]僕は昨日、彼が馬に乗っていたのを、見た。
次の文、文章に悪いところはあるか。また、あれば、それを直せ。
▸私の目標は、将来オリンピックに出て金メダルをとりたい。
▸戦国武将の中で私が一番好きな織田信長は明智光秀に殺されました。
▸制作期間は3月10日から、2週間にわたってボランティアを募り、完成した。
理解のための問い:☞「ねじれ」が、分かりますか。
▸ぼくは山田君と川田さんをいじめた。
▸遠藤は先場所のような元気の無い相撲をとっている。
▸川原の道を自転車で走る君を追いかけた。
☞意味が、一意に決定できないことが分かりますか。
▸フランソワ・マトゥロンによるフランス語訳は、オリジナルのイタリア語版の、ときとして簡潔にすぎ、ときとして一気に跳躍を見せる議論のはこびを逐一丁寧にパラフレーズしたもので、基本的にはイタリア語版からの直訳であり、議論が錯綜した個所では思いきった訳者の介入を見せるというスタンスを選んだマイケル・ハートの英語版とは好対照をなしている。
☞翻訳の話が書いてありますが、オリジナル版は何語で書かれていますか。翻訳には、何語版と何語版がありますか。これらの各国語版にはどんな特徴がありますか、特に「イタリア語からの直訳であり」は、フランス語版ですか、英語版ですか。わかりますか?(しかし、それが分かるのは結局、知っている、意味が分かっているからであって、文章の形式からは決定できないと思いませんか)。「それに対して」と一言入れれば、形式的に決定できるようになります。どこに入れれば良いでしょうか。そして、以上の質問にちゃんと答えられたとして、では自分が書く文章にこういう問題が起きていることに気づけますか。
▸日本の資本主義経済の完成を究極の理想としながら、無産階級に豊かな同情を注ぎ、労働者の生活向上と階級的自覚をよびおこすことに深い関心をもっていた蘇峰は、この点でも、どこまでも富豪の立場のみしか考えず、資本の蓄積のためには労働者階級の窮迫を招くのもまたやむなしとする福沢の、資本家的変更に強い反発を感ぜざるを得なかったのである。
☞同じパターンです。「どこまでの富豪の立場のみしか考え」なかったのは、徳富蘇峰でしょうか、福沢諭吉でしょうか。ただし今回は「この点でも」があるので、明白ですね。
▸サルにおける鬼退治参加の原因はキビだんごのにおいである。
☞この文、かっこいいですか?こういう文がかっこいいと思っているうちは、まだ素人です。文中に間違い(主述のねじれや未決定性)があるわけではないと思います。でも、もっと簡単に書きましょう。(むだに)複雑な構文がかっこいいと思った時は、「いやいや、キビだんごのにおいにすぎない」と振り返りましょう。
▸大学で学んだ勉強と学習は、実技、実験、理論、学問、研究を通して、私に多くの学びを与えてくれた。
☞もうめっちゃくちゃだって、わかりますよね。「学んだ勉強」は、頭痛が痛いみたいにへん。「勉強と学習」、「実技、実験、理論、学問、研究」などの語彙の列挙が、まったく構造化されていない。全体として、「勉強や学習が……多くの学びを与えて」って、あたりまえにすぎない。でも、最初はこんな文でも良いから、ガンガンかいてみよう。
▸歴史の構造ではなく〈状況の理論〉をこそ追求しつづけた曲折の全域を探索し、歴史の特異点に向けて、〈はじまり〉のために空虚をこじ開け、理論と実践、哲学と政治の連結と差異を消尽点にまで追いつめ、マルクス主義の境まで越えてなお、〈現時点〉に理論的に介入する、その思考の振舞いをこそ手に入れる。第一人者により待望のアルチュセール論!
☞\(^_^)/キビだんご。
▸長良坂の由来/旧長良町へ上がるのでこの名がついた。犀川のがけふちにあり、川風が吹き上げてくるので、吹上とも呼ばれていた。
☞こんどは逆に、すっきりした例です。完璧な文ですが、でもこれ、説明になっているのでしょうか。(金沢市に実在する坂の説明、石標に刻まれたこれで全文です、ほんとに)
▸夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か。山の畑の桑のみを小篭につんだはまぼろしか。十五でねえやはよめにゆきお里の便りもたえはてた。夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよさおの先。
☞芸術作品では、形式から内容を理解することはできないのです。つまり、知らないと理解できないわけです。でもそれいいのです。語彙とか(「負われて」であって、「追われて」ではない)、状況とか(ねえやってお姉さん?十五歳で結婚?)、感情とか(赤とんぼを見て、なぜそんなにおセンチに?)。そして、意味が分かって後に、形式が発見される(現在の知覚と過去の記憶との混淆、というきれいな対比形式がある!)。
▸しかし、形式で書くことが大切です!語彙レベル、連辞レベル(主述の関係)、文の関係、段落の関係。これらを構造化することが大切です。[次へ]。
ちなみに、L・アルチュセール(1918〜1990、フランスの哲学者、マルクス研究)によれば、因果には三通りある。因果=生成プロセス。(今村仁司『アルチュセール』現代思想の冒険者たち22・講談社、p.334)
推移的因果:原因が結果を直接に決定する。部分同士の関係。機械論的。cf. 火のないところに煙は立たない、風が吹けば桶屋が儲かる。塵も積もれば山となる。
表出的因果:部分と全体の関係。全体が原因で部分が結果。結果の中には、全体が埋め込まれている。ライプニッツ、ヘーゲル的。cf. カエルの子はカエル。身から出たサビ。三つ子の魂百まで。
構造的因果:部分と全体の関係。全体が原因で部分が結果だが、結果の中から全体を見出だすことができない。原因に還元できない結果。構造分析でしか原因(構造)は見いだせない。「構造の不在的現前」。スピノザ、マルクス的。cf. 一寸先は闇、犬も歩けば棒にあたる、覆水盆に帰らず。
形式で書かれた文・文章は、表出的因果で叙述がなされていますので、内容が自明です。芸術作品は、構造的因果で叙述されているので、構造分析(=読解)によってしか意味内容は把握されません。
▸”ともだち”っていうルールはとても難しいゲームね。
☞きわめて素敵なフレーズですが、ねじれています。A(ルール)はB(ゲーム)に含まれる要素、そしてABそれぞれに修飾語を与えれば、このねじれた素敵な表現が量産できる。
▸悲しい人はだれも、優しくなりたい天使である。
▸赤という色彩は、素敵な絵画である。
☞比喩もじつはねじれです。でも、おかしくはない。
▸地球が悲鳴を上げている。この桜吹雪が目に入らねえか。
▸漱石を読む。本を読む。人はパンのみにて生くるにあらず。手で考え心で作る。
文章とは意味を伝えるものである。意味とは、言葉の内容である。言葉の内容は、それを既に知っている場合にのみ、知ることができる。つまり、人は既知のものは理解でき、未知なるものは理解できない……。このトートロジー(同義反復)から、人はいかにして抜け出すことができるだろうか。人は、既知なる内容からではなく、形式によって内容を推察する。その時初めて、未知なるものに出会うことができるのである。また、形式を整えることで理解しやすくもなる。アルチュセールの因果論的に言えば、構造分析(解釈)によらず、おのずと構造を表出させること、つまり構造的因果でなく、表出的因果で書くこと。
次の文を比較して読み、内容と形式の関係を理解せよ。
☞曽ヶ端とか、もう引退したかなあ。なににせよ、知らないとさっぱり分かりませんよね。逆に言えば、「誰にでも分かる文章」なんてものは、下掲3から分かるように、ありませんから、安心してください。まずは、自分に向けて書けば良いのです。
(比較2)▸昨日のJリーグ鹿島対浦和のヒーローは、それぞれのGKであろう。FW陣の動きも悪くはなかったのだが、ゼロゼロのドローで終わった。両チームとも中盤の選手たちはよくゲームをコントロールしていた。ただし、ディフェンスについては課題も見えた。
(比較3)▸日本にはJリーグというサッカーのプロリーグがあり、定期的に試合を行い年間のチャンオピンを決めている。サッカーとは世界中で人気のある最もポピュラーな球技の一つで、手を使わず足でボールを蹴り、ボールを相手のゴールに入れた数で勝敗を決めるものだが、11人で1チームを組み、対戦する。昨日行われた鹿島対浦和の試合で、鹿島とは茨城県の、浦和とは埼玉県のそれぞれプロチームなのだが、そのサッカーの試合で最も活躍したのはGKというゴールを守るポジションの選手であり曽ヶ端準というのは……(中略)、双方とも得点を入れられず、試合は引き分けに……(後略)、
☞これは推移的因果の例と言ってもよいでしょう。部分同士の因果関係では、ゴール(結論)は必ずしも明確ではなく、ボールポゼッション(保持)はしているが、迷っているだけの状態に陥る危険性がある。
(比較4)▸
チーム | 得点 | GK | DF | MF | FW |
鹿島 | 0 | 曽端 6.5 | 植田 4 | 柴崎 6 | 金崎 5.5 |
浦和 | 0 | 西川 6.5 | 槙野 4 | 柏木 6 | 興梠 5.5 |
☞とは言え、これなら誰にでも分かるよね。
☞こんな発表してたら怒られますよね。でも、内容は充足しているんですよ。
(比較2)▸
井原西鶴 | 1642 | 1693 |
建部綾足 | 1719 | 1774 |
本居宣長 | 1730 | 1801 |
上田秋成 | 1734 | 1809 |
☞もう、読む前から分かるよね。
(比較2)▸ソクラテスは必ず死ぬ。猫は必ず死ぬ。ソクラテスは猫である。
☞「pはqである」という形式において、「p」は特殊・個別、「q」が普遍である時に、「判断」の形式になる。逆だと、「判断」ではない。トートロジー(同義反復)か、端的に「偽」である。「人間はソクラテスである」など。 段落の構成も、この「判断」の形式として積み上げていく必要がある。