尉翁 千歳 三番叟

〈初日〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。/\。 日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。 千歳「絶えずとうたり常にとうたり。千歳之舞。 千歳「処千代までおはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 千歳「鶴と亀との齢にて。 処は久しく栄え給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経る。

地「萬代こそ経れ。ありうとうとうとう。千歳之舞。 翁「総角やとんどや。 地「尋ばかりやとんどや。翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。翁「松やさき。 翁や先に生れけん。 いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。 万歳楽と諷ふたり。又万代の池の亀は。 甲に三極を備へたり。渚の砂。 索々として朝の日の色を朗じ。瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。 そやいづくの翁とうとう。翁「そよや。翁之舞。翁「千秋万歳の。 歓の舞なれば。一舞まはう万歳楽。 地「万歳楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。

。 〈二日目〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。 千歳「千歳ましませ千歳ましませ。松の梢に。地「鶴や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。 千歳「鶴や住むなり鶴や住むなり。 千歳「君が千歳を経ん事も。天つ乙女の羽衣よ。 千歳ましませ松の梢に。地「鶴や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。 翁「総角やとんどや。地「尋ばかりやとんどや。 翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。翁「松や先。翁や先に生れけん。

いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。 万歳楽と諷ふたり。又万代の池の亀は。 甲に三極を備へたり。渚の砂。さく/\として朝の日の色を朗じ。瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。 そや何くの翁とうとう。翁「そよや。翁之舞。 翁「千秋万歳の。歓の舞なれば。 一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈三日目〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。

地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「万歳ましませ。 万歳ましませ巌が上に。地「亀や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。 千歳「亀や住むなり亀や住むなり。千歳「君が万代経ん事も。

天つ乙女の羽衣よ。 万代ましませ巌が上に。地「亀や住むなり。 ありうとうとうとう。千歳之舞。翁「総角やとんどや。 地「尋ばかりやとんどや。 翁「座して居たれども。地「参らうれんげりやとんどや。

翁「松や先。翁や先に生れけん。 いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。万歳楽と諷ふたり。 又万代の池の亀は。甲に三極を備へたり。 渚の砂。索々として。朝の日の色を朗じ。 瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。 そやいづくの翁とうとう。翁「そよや。翁の舞。翁「千秋万歳の。 歓の舞なれば。一舞まはう万歳楽。 地「万歳楽。翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈四日目〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「所千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。

地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。 鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。 千歳「絶えずとうたり。常にとうたり。千歳之舞。 千歳「君の千歳。 を経ん事も天つ乙女の羽衣よ鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。千歳之舞。 翁「総角やとんどや。地「尋ばかりやとんどや。 翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。翁「千早振。神のひこさの昔より。 久しかれとぞ祝ひ。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。 万歳楽と歌うたり。又万代の池の亀は。 甲に三極を備へたり。渚の砂。 索々として朝の日の色を朗じ。瀧の水。 冷々として夜の月鮮かに浮んだり。天下泰平国土安穏。 今日の御祈祷なり。在原や。なぞの。翁ども。

地「あれはなぞの翁ども。そや何くの翁とうとう。 翁「そよや。翁之舞。翁「千秋万歳の。 歓の舞なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。 翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈法会舞〉翁「とう/\たらり/\ら。 たらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁「処千代までおはしませ。 地「我等も千秋さむらふ。翁「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。 鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりありうとうとうとう。千歳「絶えずとうたり。 常にとうたり。千歳之舞。 千歳「処千代までおはしませ。地「我等も千秋さむらふ。 千歳「鶴と亀との齢にて。

処は久しく栄え給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経る。 地「万代こそ経れ。 ありうとうとうとう。千歳之舞。翁「総角やとんどや。 地「尋ばかりやとんどや。翁「座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。 翁「松や先。翁や先に生れけん。 いざ姫小松年くらべせん。地「そよやりちや。 翁ワカ「凡そ千年の鶴は。万歳楽を歌ふたり。 又万代の池の亀は。甲に三極を備へたり。 渚の砂。索々として朝の日の色を朗じ。 瀧の水。冷々として夜の月鮮かに浮んだり。 天下泰平国土安穏。今日の御祈祷なり。 在原や。なぞの。翁ども。 地「あれはなぞの翁ども。そやいづくの翁とう/\。 翁「そよや。翁之舞。 翁「万歳の亀これにあり。千年の松庭にあり。 誠にめでたき例には。石をぞ引くべかりける。 地「君が代は。翁「千秋万歳の。歓の舞なれば。 一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。翁「万歳楽。

地「万歳楽。 。 〈十二月の往来〉。翁二人「とう/\たらり/\らたらりあがりらゝりとう。 地「ちりやたらりたらりら。たらりあがりらゝりとう。 翁左「所千代までおはしませ。 地「我等も千秋候はん。翁右「鶴と亀との齢にて。 地「幸ひ心に任せたり。翁二人「とう/\たらり/\ら。 地「ちりやたらりたらりら。 たらりあがりらゝりとう。千歳「鳴るは瀧の水。 鳴るは瀧の水日は照るとも。 地「絶えずとうたりやりうとうとうとう。 千歳「絶えずとうたり。常にとうたり。 千歳「所千代までおはしませ。地「我等も千秋候はん。 千歳「鶴と亀との齢にて。 処は久しく栄え給ふべしや。 鶴は千代経る君は如何経る。地「万代こそ経れ。ありうとうとう。 翁左「総角やとんどや。

地「尋ばかりやとんどや。翁右「やあ座して居たれども。 地「参らうれんげりやとんどや。 左詞「やゝ尉殿に申すべき事の候。 右詞「そもやそも何条事にて候ふぞ。 左「かゝるめでたきみぎんには十二月の往来こそめでたう候へ。 右「それこそ尤もめでたう候へ。 左「正月の松の風。右「八絃の琴を調べたり。 左「二月の霞は。右「天つ処女の羽衣よ。 左「三月の桃の花。右「三千年も猶さかふる。 左「四月の橘は。右「常世の国もかはらじ。 左「五月の菖蒲草。右「大御殿に葺きたり。 左「六月の氷は。右「僊のつたへなりける。 左「七月の梶の葉は。右「幸をもとむる種とかや。 左「八月の月はそも。 右「尽きせぬ秋と照すなり。左「九月の菊の花。 右「老いせぬ薬なるかも。左「十月の竜胆草は。 右「うち日さすなへゑまはし。左「十一月の梅の花。 右「新嘗まつる心葉。左「十二月のみ雪は。 右「豊年しらす祥瑞。左「やあ千歳々々。

右「ちとせの千歳。左「やあ万歳々々。 右「よろづよの万歳。地「御たゝはします。御貢の御宝。 かぞへてまゐらん。翁ども。 地「あれは何所の翁ども。そやいづくの翁とうとう。 翁二人「そよや。二人「千秋万歳の。 祝の舞なれば。一舞まはう万歳楽。地「万歳楽。 翁「万歳楽。地「万歳楽。 。 〈父尉延命冠者〉父尉「あれはなぞの小冠者ぞや。 地「釈迦牟尼仏の小冠者ぞや。生れし所は〓{新字源:2391 タウ}利天。 父尉「育つ所は鼻が。地「そのましまさば。 とくしてましませ。 父の尉親子と共につれて御祈祷申さん。 父尉「一天雲治まつて日月の影明し。 雨うるほし風穏かに吹いて。時に随つて旱魃。水損の恐更になし。 人は家々に楽の声絶ゆる事なく。 徳は四海にあまり。悦は日々に増し。 上は五徳の歌を諷ひ舞ひ遊ぶ。そよや悦に。

又悦を重ぬれば。ともに嬉しく。 地「物見ざりけりありうとう/\ 阿蘇宮神主友成 従者二人 住吉明神

ワキワキツレ二人、真ノ次第「今を始の旅衣。/\。 日もゆく末ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは九州肥後の国。 阿蘇の宮の神主友成とはわが事なり。われいまだ都を見ず候ふほどに。 此度思ひ立ち都に上り候。 又よき序なれば。 播州高砂の浦をも一見せばやと存じ候。道行三人「旅衣。末はる%\の都路を。 /\。けふ思ひ立つ浦の波。 舟路のどけき春風の。幾日来ぬらん跡末も。 いさ白雲のはる%\と。さしも思ひし播磨潟。 高砂の浦に着きにけり。/\。 シテツレ二人、真の一セイ「高砂の。松の春風吹き暮れて。 尾上の鐘も響くなり。

ツレ二ノ句「波は霞の磯がくれ。二人「音こそ潮の満干なれ。 シテサシ「誰。 をかも知る人にせん高砂の。 松も昔の友ならで。 。 過ぎ来し世世はしら雪の。 。積り/\て老の鶴の。 塒に残る有明の。 春の霜夜の起居にも。 。 松風をのみ聞き馴れて。 心を友と。菅筵の。

思を述ぶるばかりなり。 下歌「おとづれは松にこと問ふ浦風の。 おち葉衣の袖そへて木蔭の塵を掻かうよ。/\。 上歌「所は高砂の。/\。尾上の松も年ふりて。 老の波もよりくるや。 木の下蔭の落葉かくなるまで命ながらへて。 猶いつまでか生の松。それも久しき名所かな。/\。

ワキ詞「里人を相待つところに。 老人夫婦きたれり。 いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「高砂の松とは何れの木を申し候ふぞ。 シテ「唯今木蔭を清め候ふこそ高砂の松にて候へ。 ワキ「高砂住の江の松に相生の名あり。 当所と住吉とは国を隔てたるに。 何とて相生の松とは申し候ふぞ。シテ「仰の如く古今の序に。 高砂住の江の松も。 相生のやうに覚えとありさりながら。此尉は津の国住吉の者。 是なる姥こそ当所の人なれ。 知る事あらば申さ給へ。 ワキ「ふしぎや見れば老人の。夫婦一所にありながら。 遠き住の江高砂の。浦山国を隔てゝ住むと。 いふはいかなる事やらん。 ツレ「うたての仰候ふや。山川万里を隔つれども。 たがひに通ふ心づかひの。妹背の道は遠からず。 シテ「まづ案じても御覧ぜよ。

シテツレ「高砂住の江の。 松。 は非情のものだにも。 相生の名はあるぞかし。 。 ましてや生ある。 人として年久しくも住吉より。 。 通ひ馴れたる尉と姥は。 松もろともに。 此年まで。 相生の夫婦となるものを。 。 ワキ「いはれを聞。 けばおもしろや。さて/\さきに聞えつる。 。 相生の松の物語を。 所に言ひ置く謂はなきか。

シテ詞「昔の人の申しゝは。 これはめでたき世のためしなり。 ツレ「高砂といふは上代の。万葉集の古の義。 シテ「住吉と申すは。いま此御代に住み給ふ延喜の御事。 ツレ「松とは尽きぬ言の葉の。 シテ「栄は古今相同じと。シテツレ二人「御代を崇むる喩なり。 ワキ「よく/\聞けばありがたや。 今こそ不審はるの日の。シテ「光和らぐ西の海の。 ワキ「かしこは住の江。シテ「こゝは高砂。 ワキ「松も色そひ。シテ「春も。 ワキ「のどかに地上歌「四海波静かにて。 国も治まる時つ風。枝を鳴らさぬ御代なれや。 逢ひに相生の。松こそめでたかりけれ。 げにや仰ぎても。言も愚やかゝる世に。 住める民とて豊なる。君の恵ぞ有難き。/\。 。ワキ詞「なほ/\高砂の松のめでたきいはれ。委しく御物語り候へ。 地クリ「それ草木心なしとは申せども花実の時をたがへず。 陽春の徳を具へて。南枝花始めて開く。

シテサシ「然れども此松は。 そのけしき長へにして花葉時を分かず。 地「四つの時至りても。一千年の色雪のうちに深く。 または松花の色十廻とも云へり。 シテ「かゝるたよりを松が枝の。地「言の葉草の露の玉。 心を磨く種となりて。 シテ「生きとし生ける。もの毎に。地「敷島の陰に。 よるとかや。 クセ「然るに。長能が言葉にも。 有情非情のその声みな歌にもるゝ事なし。 草木土砂。風声水音まで万物のこもる心あり。 春の林の。東風に動き秋の虫の。 北露に鳴くもみな。和歌の姿ならずや。 中にも此松は。万木に勝れて。 十八公のよそほひ。千秋の緑を為して。古今の色を見ず。 始皇の御爵に。 あづかるほどの木なりとて異国にも。 本朝にも万民これを賞翫す。シテ「高砂の。尾上の鐘の音すなり。 地「暁かけて。霜はおけども松が枝の。

葉色は同じ深緑立ちよる蔭の朝夕に。 かけども落葉の尽きせぬは。 真なり松の葉。 の散り失せずして色はなほまさきのかづら長き世の。 たとへなりける常磐木の中にも名は高砂の。 末代のためしにも相生の松ぞめでたき。 ロンギ地「げに名を得たる松が枝の。/\。 老木の昔あらはして。 その名を名のり給へや。シテツレ二人「今は何をかつゝむべき。 これは高砂住の江の。相生の松の精。 夫婦と現じ来りたり。 地「ふしぎやさては名所の。松の奇特を現して。 シテツレ二人「草木心なけれども。地「かしこき代とて。 シテツレ二人「土も木も。地「わが大君の国なれば。 いつまでも君が代に。 住吉にまづ行きてあれにて。待ち申さんと。 ゆふ波の汀なる海人の。小舟に打ち乗りて。 追風にまかせつつ。 沖の方に出でにけりや沖の方にいでにけり。中入間「。

ワキ歌(三人)待謡「高砂や。此浦舟に帆をあげて。 /\。月もろともに出で汐の。 波の淡路の島影や。 遠く鳴尾の沖すぎてはや住の江に着きにけり。 はや住の江につきにけり。 後シテ出端「われ見ても久しくなりぬ住吉の。 岸の姫松幾世経ぬらん。 睦ましと君は知らずや瑞籬の。久しき世々の神かぐら。 夜の鼓の拍子を揃へて。すゞしめ給へ。 宮つこたち。地「西の海。 檍が原の波間より。シテ「あらはれ出でし。神松の。 春なれや。残の雪の浅香潟。 地「玉藻刈るなる岸陰の。シテ「松根によつて腰をすれば。 地「千年の翠。手に満てり。 シテ「梅花を折つて頭にさせば。 地「二月の雪衣に落つ。神舞「。 ロンギ地「ありがたやの影向や。/\。 月すみよしの神遊。御影を拝むあらたさよ。 シテ「げにさま%\の舞姫の。

声も澄むなり住の江の。松影も映るなる。 青海波とはこれやらん。地「神と君との道すぐに。 都の春に行くべくは。 シテ「それぞ還城楽の舞。地「さて万歳の。シテ「小忌衣。

地「さす腕には。悪魔を払ひ。をさむる手には。 寿福を抱き。千秋楽は民を撫で。 万歳楽には命を延ぶ。 相生の松風颯々の声ぞたのしむ。/\ 官人 従者 老人 高良明神 同従者

ワキ、ワキツレ二人次第「御代も栄ゆく男山。/\。 名高き神に参らん。 ワキ詞「抑是は後宇多の院に仕へ奉る臣下なり。 扨も頃は二月初卯八幡の御神事なり。郢曲のみぎんなれば。 陪従の参詣仕れとの宣旨を蒙り。 唯今八幡山に参詣仕り候。道行三人「四つの海。 波しづかなる時なれや。/\。 八洲の雲もをさまりて。げに九重の道すがら。 往来の旅もゆたかにて。廻る日影も南なる。 八幡山にも着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。八幡山に着きて候。

心静かに神拝を申さうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一セイ「神祭る。 日も如月の今日とてや。のどけき春の。景色かな。 ツレ二ノ句「花の都の空なれや。二人「雲もをさまり。 風もなし。 シテサシ「君が代は千代に八千代にさゞれ石の。いはほとなりて苔のむす。 二人「松の葉色も常磐山。緑の空ものどかにて。 。 君安全に民あつく関の戸ざしもさゝざりき。本よりも君を守りの神国に。 わきて誓も澄める夜の。月かげろふの石清水。 絶えぬ流の末までも。

生けるを放つ大悲の光。げにありがたき。時世かな。 下歌「神と君と道すぐに歩を。 はこぶこの山の。上歌「松高き。 枝もつらなる鳩の嶺。/\。曇らぬ御代は久方の。 月の桂の。男山げにもさやけき影に来て。 君万歳と祈るなる。神に歩を。 運ぶなり神に歩を運ぶなり。 ワキ詞「今日は当社の御神事とて。 参詣の人々多き中に。 これなる翁錦の袋に入れて持ちたるは弓と見えたり。 そも何くより参詣の人ぞ。 シテ「これは当社に年久しく仕へ申し。君安全と祈り申す者なり。 又これに持ちたるは桑の弓なり。 身の及びなければいまだ奏聞申さず。 唯今御参詣を待ち得申し。君へ捧物にて候。 ワキ「ありがたし/\。先々めでたき題目なり。 さて其弓を奏せよとは。 私に思ひよりけるか。もしまた当社の御託宣か。 分きていはれを申すべし。

シテ詞「これは御言葉ともおぼえぬものかな。 今日御参詣を待ち得申し。桑の弓をさゝげ申す事。 即ち是こそ神慮なれ。 ツレ「其上聞けば千早ぶるシテツレ二人「神の御代には桑の弓。 蓬の矢にて世を治めしも。 直なる御代のためしなれ。よく/\奏し給へとよ。 ワキ「げにげにこれは泰平の。 御代のしるしは顕れたり。詞「まづ其弓を取り出し。 神前にて拝み申さばや。シテ詞「いや/\弓を取り出しては。何の御用のあるべきぞ。 ツレ「昔唐周の代を。治めし国のためしには。 シテ「弓箭を包み干戈を納めし例を以て。 ツレ「弓を袋に入れ。 シテ「剣を箱に納むるこそ。ツレ「泰平の御代のしるしなれ。 ツレシテ二人「それは周の代これは本朝。 名にも扶桑の国を引けば。地歌「桑の弓。 取るや蓬の八幡山。/\。 誓の海もゆたかにて。君は船。 臣は瑞穂の国々も残りなく靡く草木の。

恵も色もあらたなる御神託ぞめでたき。神託ぞめでたかりける。 。 ワキ詞「桑の弓蓬の矢にて世を治めし謂なほ/\申し候へ。クリ地「そも/\弓箭を以て世を治めし始と謂つぱ。 人皇の御代始まりても。即ち当社の御神力なり。 シテサシ「然るに神功皇后。 三韓を鎮め給ひしより。地「同じく応神天皇の御聖運。 御在位も久し国富み民も。豊に治まる天が下。 今に絶えせぬ御調とかや。 クセ「上雲上の月卿より。下万民に至るまで。 楽の声尽きもせず。然りとは申せども。 君を守りの御めぐみなほも深き故により。 欽明天皇の御宇かとよ。豊前の国。宇佐の郡。 蓮台寺の麓に。八幡宮とあらはれ。 八重旗雲をしるべにて。洛陽の。南の山高み。 曇らぬ御代を守らんとて。 石清水いさぎよき。霊社と現じ給へり。 されば神功皇后も。異国退治の御為に。 九州四王寺の峯に於て七箇日の御神拝。

ためしも今は久方の。天の岩戸の神遊。 群れ居て歌ふや榊葉の。青和幣白和幣とり%\なりし神霊を。シテ「うつすや神代の跡すぐに。 地「今も道ある政事あまねしや神籬の。 をかたまの木の枝に。 金の鈴を結びつけて千早ぶる神遊。 七日七夜の御神拝誠に天も納受し。地神も感応の海山。 治まる御代に立ち帰り。国土を守り給ふなる。 八幡三所の神託ぞめでたかりける。 ロンギ地「げにや誓も影高き。/\。 このきさらぎの神祭。 かゝる神慮ぞありがたき。シテ「ありがたき。 千代の御声をまつ風の。更け行く月の夜神楽を。 奏して君を祈らん。地「祈る願も瑞籬の。 久しき代より仕へてき。 シテ「我は誠は代々を経て。地「今此年になるまでも。 シテ「生けるを放つ。地「高良の神とは我なるが。 此御代を守らんと。唯今こゝに来りたり。 八。

幡大菩薩の御神託ぞ疑ふなとてかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「都に帰り神勅を。/\。 悉く奏しあぐべしと。 いへばお山も音楽の聞えて異香薫ずなり。 げにあらたなる奇特かな/\。 後シテ出端「もとよりも人の国より我が国。 他の人よりも我が人と。誓の末も明らけき。 真如実相の槻弓の。八百万代に至るまで。 動かず絶えず君守る。 高良の神とは我が事なり。地「如月の。 初卯の神楽おもしろや。シテ「謡へや謡へ日影さすまで。 地「袖の白木綿返す%\も。千代の声々。

うたふとかや。神舞「。 ロンギ地「げにや末世といひながら。/\。 神の威光はいやまして。 かくあらたなる御影向。拝むぞ尊かりける。 シテ「君を守りの御恵。本より定ある上に。 殊に此君の神徳。天下一統と守るなり。 地「げにげに神代今の代の。 しるしの箱の明らかに。シテ「此山上に宮居せし。地「神の昔は。 シテ「久方の。地「月の桂の男山。 さやけき影は所から。 畜類鳥類鳩吹く松の風までも皆神体とあらはれ。 げに頼もしき神。 慮示現大菩薩八幡の神託ぞ豊なりける神託ぞ豊なりける 官人 従者 樵夫 樵夫 大伴黒主の神

ワキ、ワキツレ二人次第「道ある御代の花見月。/\。 都の山ぞ長閑けき。

ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても江州志賀の山桜。

今を盛なる由承り及び候ふ程に。唯今志賀の山路へと急ぎ候。 道行三人「春の色。たな引く雲の朝ぼらけ。 /\。 長閑けき風の音羽山今朝越え来ればこれぞこの。名におふ志賀の山越や。 湖遠き。眺かな/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。江州志賀の山に着きて候。 暫く此処に候ひて花を眺めうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一セイ「さゝ波や。 志賀の都の名を留めて。昔ながらの山桜。 ツレ二ノ句「春に馴れてや心なき。二人「身にも情の。 残るらん。シテサシ「山路に日暮れぬ樵歌牧笛の声。 二人「人間万事様々の。 世を渡り行く身の有様。物毎に遮る眼の前。 光の陰をや送るらん。 下歌「余りに山を遠く来て雲又跡を立ちへだて。上歌「入りつる方の白波の。 /\。谷の川音。 雨とのみ聞えて松の風もなし。実にや誤つて半日の客たりしも。 今身の上に。 知られたり今身の上に知られたり。

。 ワキ詞「不思議やなこれなる山賎を見れば。重かるべき薪に猶花の枝を折り添へ。 休む処の花の蔭なり。 これは心有りて休むか。唯薪の重さに休み候ふか。 シテ詞「仰畏つて承り候ひぬ。 先薪に花を折る事は。道のべの便の桜折り添へて。 薪や重き春の山人と。歌人も御不審有りし上。 今更何とか答へ申さん。 ツレ「又奥深き山路なれば。松も桧原も多けれども。 取り分き花の蔭に休むを。 シテ詞「唯薪の重さに休むかとの。仰は面目なきよなう。 。

シテツレ二人「さりながら彼の黒主が歌のごとく。其様賎しき山賎の。 薪を負ひて花の蔭に。休む姿は実にも又。 其身に応ぜぬ振舞なり。許し給へや上臈達。 ワキ「こは如何に優るをも羨まざれ。 劣るをも賎しむなとの。 古人の掟は誠なりけり優しくも。古歌の喩の心を以て。 今の返答申したり。シテ「いや/\古歌の喩とやらんも。さら/\知らぬ身なれども。 賎しき身にも思ひよりて。ワキ「彼大伴の黒主が。 心を寄する老の波。 シテ「和歌のうらわの藻塩草。ワキ「かく喩へ置く世語の。 シテ「それは黒主。ワキ「これは誠に。 シテ「さまも賎しき。ワキ「山賎の。 地「身にも応ぜぬ事なれど。許させ給へ都人。 とてもの思ひ出に花の蔭に休まん。 実にや今までも。筆を残して貫之が。 言葉の玉のおのづから。古今の道とかや。/\。 クリ地「夫れ賢かつし時代を尋ぬるに。 延喜の聖代の古。

国を恵み民を撫でて万機の政を。治め給ふ。 シテサシ「しかればその御時に至つて。和歌の道盛んにして。 古今の詠歌を選び。地「二聖六歌仙を始として。 其外の人々は。 野辺の葛のはひひろごり。林の茂き木の葉の露の。 色に染み行く歌人の心は花になるとかや。 シテ「実に埋木の人知れぬ。 地「ことわざまでの情とかや。クセ「そも/\。難波津浅香山の。 影見えし山の井の。浅くは誰か思草の。 露往き霜来る色なれや。浜の真砂より。 数多き言の葉の。心の花の色香までも。 妙なりや敷島の道ある御代の翫。 然れば三十一文字の。神も守護し給ひて。 無見頂相の如来も。感応垂れ給へば。 君も安全に。万民時を楽みて。 都鄙円満の雲の下四海八洲の外までも。 波の声万歳の響は。長閑けかりけり。 シテ「今天皇の御代久に。地「万の政の。道直ぐに渡る日の。 東南に雲をさまり。西北に風静かにて。

言葉の林栄ゆくや花も常磐の山松の。 巷。 にうたふ声までもこれ和歌の詠に漏るべしや。天地を動かし鬼神も。 感をなすとかや。 ロンギ地「実にや異なる山賎の。/\。 家路いづくの末ならん。 ゆかしき心なるべし。シテ「今は何をか包むべき。 その古は大伴の。黒主といはれしが。 時代とて此山の。神とも人や見るらん。 地「そも此山の神ぞとは。不思議やさては大伴の。 シテ「それは黒主の家の名の。地「大伴か。 シテ「我はたゞ。 地「薪負ふ友もなくて独り。 山路の花の蔭に長休みしつる恥ずかしやと。夕の雲に立ち隠れて志賀の。 宮路に帰りけり志賀の宮路に帰りけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「いざ今日は。 春の山辺にまじりなん。/\。暮れなばなげの花の蔭。 月に詠じて天の原。時の調子に移り来る。 舞歌の声こそ。

あらたなれ舞歌の声こそあらたなれ。 後シテ出端「雪ならば幾度袖を払はまし。 花の吹雪の志賀の山。越えても同じ花園の。 里も春めく近江の海の。 志賀辛崎の松風までも。千声の春の。長閑けさよ。 一セイ「海越に。見えてぞ向ふ鏡山。 地「年経ぬる身は老が身の。シテ「それは老が身。 これは志賀の。地「神の白木綿かけまくも。 忝しや神楽の舞。神舞「。 ロンギ地「不思議なりつる山人の。/\。 薪の斧の永き日も。 残る和光のあらたさよ。シテ「実に惜むべし君が代の。 長閑けき色や春の花の。塵に交はる雪ならば。 踏む跡までも心せよ。 地「実に心して春の風。声も添ふなり御神楽の。 シテ「小忌の衣の色はへて。地「花は梢の白和幣。 シテ「松は立枝の。地「青和幣。かくるやかへるや。 梓弓春の。 山辺を越え来れば道も去りあへず散る花の。

雲の羽袖を返しつゝ紅の御袴の。そばを取り。

拍子を揃へて神かぐら実に面白き。奏かなげに面白き奏かな 伊弉諾尊(前ハ老人) 臣下

ワキ(三人)次第「治まる国の始もや。/\淡路の神代なるらん。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 偖もわれ宿願の子細あるにより。 住吉玉津島に参詣仕りて候。又よきついでなれば。 これより淡路の国に渡り。 神代の古跡をも一見せばやと存じ候。道行三人「紀の海や。 波吹上の浦風に。/\。跡遠ざかる沖つ舟。 潮路程なく移り来て。よそに霞し島かげや。 淡路潟にも着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや淡路の国に着きて候。此処の人を待ち。 神代の古跡を尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「神の代の。 跡を残して海山ののどけき波の淡路潟。

ツレ二ノ句「種を収めし国なれば。二人「苗代水もゆたかなり。 シテサシ「それ陰陽の神代より。今人界に至るまで。 二人「山河草木国土は皆。 神の恵に作り田の。 雨つちくれを潤して千里万里の外までも。皆楽める時とかや。 歌「頃しも今は。 長閑なる心の池のいひがたき春のけしきも様々に。 春の田を人に任せてわれは唯。/\。花に心の憧るゝ。 盛りにひかれて苗代の水に心の種蒔きて。 散れば此処もや桜田の。 雪をもかへすけしきかな/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる翁に尋ぬべき事ああり。おことの風情を観るに。 小田をかへしながら水口に幣帛を立て。 誠に信心の気色なり。

いかさまこれは御神田にて候ふか。 シテ「さん候春の田を作らんとては、よろづ祝ぶ事の候ふ程に。 あの水口に斎串とて五十の幣帛を立て。 神を祭り候。然ればある歌に。 谷水をせく水口に斎串たて。苗代小田の種まきにけり。 詞「其上此御田は。 当社二の宮の御供田にて御座候程に。 殊には内外清浄にて御田を作り候ふよ。 ワキ「偖は当社二の宮にてましまさば。 国の一の宮はいづくにてましますぞや。 若し楪葉の権現にて御座候ふやらん。 シテ「畏れながら悪しく御心得候ふものかな。 当社は二の宮にてましませばとて。国中一二の次第にあらず。 ツレ「御覧候へ当社の神達。 二柱の社の御殿なれば。シテ詞「二つの宮居を其侭にて。 二の宮と崇め奉るなり。 シテツレ「これはすなわち伊弉諾伊弉冉の尊二柱の。 神代のまゝに宮居したまふ。淡路の国の。 神は一きう宮居は二つの。

二の宮と崇め申すなり。ワキ「よく/\聞けばありがたや。偖々かゝる国土の種を。 普く受くる御恩徳。唯此神の誓よなう。 シテ詞「事新しき御諚かな。国土世界や万物の。 出生あまねき御神徳。唯これ当社の誓なり。 ツレ「然れば開けし天地の。 伊弉諾と書いては。シテ詞「種蒔くと読み。 ツレ「伊弉冉と書いては。シテ詞「種を収む。 ツレ「これ目前の御誓なり。シテ「其上神代は遠からず。 ツレ「今目の前にも。シテ「御覧せよ。 地上歌「種を蒔き。種を収めて苗代の。/\。 水うらゝにて春雨の。 あめより降れる種蒔きて。 国土もゆたかに千里栄ふる富草の村早稲の秋になるならば。 種を収めん神徳。 あらありがたの誓やなありがたの神の誓やな。 。 ワキ詞「猶々当社の神秘ねんごろに御物がたり候へ。クリ地「それ天地開闢の昔より。 混沌未分やうやく分れて。

清く明らかなるは天となり。 おもく濁れるは地となれり。シテサシ「然れば天に五行の神まします。 木火土金水これなり。 地「既に陰陽相分かれて。木火土の精伊弉諾となり。 金水の精こりかたまつて伊弉冉と顕る。 シテ「然れども。 まだ世界ともならざりし先を伊弉諾といひ。 地「国土治まり万物出生する所を伊弉冉と申す。 すなはち此淡路の国を始とせり。 クセ「さればにや二柱の御神の・〓{オノ}馭盧島と申すも此一島の事かとよ。 凡そ此島始めて。大八島の国を作り。 紀の国伊勢志摩日向並に。 四つの海岸を作りいだし。日神月神蛭子盞烏と申すは。 地神五代の始にて。皆此島に御出現。 中にも皇孫は。日向の国に。天降り給ひて。 地神第四の火々出見の。 皇子を御誕生げにありがたき代々とかや。 シテ「天下をたもち給ふ事。地「すべて八十三万。 六千八百余歳なり。かゝるめでたき皇子達に。

御代をゆづりはの権現と。 現れおはします。 伊弉諾伊弉冉の神代も唯今の国土なるべし。 ロンギ上「げに神の代の道直に。/\。 今。 も妙なる秋津洲の君の御影ぞありがたき。シテ「御影ぞと。夕日隠の雲の端に。 たなびく天の浮橋の。古を現して。 御客人を慰めん。地「そも浮橋の古と。 聞くはいかなる言の葉の。 シテ「其神歌は烏羽玉の。我が黒髪も。地「乱れずに。 結び定めよ小夜の手枕の歌の種蒔きし。 神とも今は白波の。淡路山を浮橋にて天の。 戸を渡り失せにけり/\。中入。 ワキ上歌三人「げに今とても神の代の。/\。 御末はあらたなりけりと。 いへば虚空に夜神楽の。月に聞えて光さす。 気色ぞあらたなりけるや気色ぞあらたなりける。 。 後シテ出端「わたづみのかざしに挿せる白玉の。波もて結へる淡路島。

月春の夜も長閑なる。翠の空も澄み渡る。 天の浮橋の上にして。八島の国を求めえし。 伊弉諾の神とは我が事なり。 治まるや国常立の始より。地「七つ五つの神の代の。 シテ「御末は今に。君の代より。 地「和光守護神の扶桑の御国に。風は吹けども山は動ぜす。 神舞ロンギ上「げにありがたき御誓。/\。 そも/\天の浮橋の。 其御出所はさるにても。いかなる所なるらん。

シテ「ふりさげし。鉾の滴露こりて。 一島となりしを。 淡路よと見つけし此処ぞ浮橋の下ならん。 地「げに此島のありさま東西は海漫漫として。シテ「南北に雲峯を列ね。 地「宮殿にかゝる浮橋を。 シテ「立ち渡り舞ふ雲の袖。地「さすは御鉾の手風なり引くは。 潮の時つ風治まるは波の芦原の。 国富み民もゆたかに万歳をうたふ松の声。 千秋の秋津洲。をさまる国ぞ久しき/\ 雄略天皇の臣下 従者 老人 興玉の神

ワキ、ワキツレ二人次第「山も内外の神詣。/\。 二見の浦を尋ねむ。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 我此度伊勢大神宮に参り。 内外の宮めぐり殊には内外清浄の信心私なく候。 又これより二見の浦石の鏡をも一見せばやと存じ候。

道行三人「いすゞ川清き流の深緑。/\。 蔭も百枝の松風の。治まる木々の色までも。 神の恵み野御蔭かと。処からなる心地して。 眺たへなる景色かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 二見の浦に着きて候。 これなる小田を見れば。

みてぐらをたて剰さへ渇仰の気色見えて候。里人に尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一セイ「露ながら。 水かけ草の種取りて。手玉も揺ぐ。袂かな。 ツレ二ノ句「おりたつ田子の数そふや。二人「御裳濯川の。 水ならん。シテサシ「有難や神のよつぎは久方の。 天のむらわせ種とりて。 二人「今人の世に至るまで。四つの時日は曇なくて。 千代万世の末かけて。流す田面の早苗とる。 田子のもすその色はへて。袂ゆたかに。 楽むなり。下歌「種を蒔き種を収めし神代より。 上歌「草も木も我が大君の国なれば。/\。 いづくも同じ神と君。 隔なき世に住まふ身の誰か恵の外ならん。 実にや八島の外までも。波静かにて吹く風も。 枝を鳴らさぬ天地の。神の威徳はありがたや。/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「これなる小田を見れば。 田水豊なるになほ川水をまかせ入れ <19a>。 渇仰の気色見えたり。不審にこそ候へ。 シテ「さん候これは神の御田にて候。 またこの川は御裳濯川とて。 田水は豊なれ。 ども神水をまかせ入れ五十の水口にみてぐらを立て。 神徳長久の恵を仰ぐ祭事にて候。 ワキ「扨此御裳濯川はいつの代よりの名にて候ふぞ。 シテ「さん候人皇十一台垂仁天皇の皇女御名は倭姫の御子。 忝。 くも御神鏡をいたゞき国々を巡り給ひしに。当国にてはあの二見の浦より。 此川路について上り給ひしに。 御裳の裾よごれたりしを。 此川にてすゝぎ給ひしによつて。御裳濯川とは申すなり。 ツレ「其時田作の翁のありしが。 神の御鎮座になるべき所やあると御尋ありしに。 シテ詞「彼の翁申すやう。此川上に三十八万歳の間。 此山を守護し奉る者の候。 御道知べ申さん。 とてしだつ岩根をしきて参らすると云へり。其時の田作の翁は。

今の興玉の神是なり。ツレ「其時尋ね入り給ひしによつて。 山をば神路山といひ。 シテ詞「川をば神路川といひて。ツレ「流久しくすめる世の。 ツレシテ二人「天長地久嘉辰月令の。 御影濁らぬ御裳濯川の。神徳深き水田なれば。 神に任せて作るなり。 ワキ「謂を聞けばありがたや。さて/\今の名にしおふ。 其御裳裾を濯ぎ給ひし。 在所はとりわき何処の程ぞ。シテ詞「さればさきにも申しゝ如く。 御裳濯川と名づけし事。 とりわき此瀬の辺なれば。神が瀬とこゝを申すなり。 ワキ「あら面白や神が瀬とは。 神風とこそ聞き馴れしに。 シテ詞「されば常には神風や。伊勢と申すも神の誓。 ツレ「又此川には神が瀬とて。 神の渡瀬のある故に神路川とも申すなり。シテ「然れば歌人の。 シテツレ二人「言の葉にも。地「山の辺の。 三井を見がへり神が瀬の。/\。伊勢の乙女ら。 。

あひみつるかなと詠みしも此倭姫の古を詠み奉る心なり。千早振。 神路の山の村雨は種を蒔くなる神の代の。 久しきうるほひに天のをしねの天の下。 広き恵に逢ふことも。唯神徳にあらずや。 有難の神の誓やなあらありがたの誓や。 ワキ「なほなほ神慮のこさず御物語り候へ。 シテ「懇に申上げうずるにて候。 地クリ「かたじけなの御事や我等迷の凡夫として。 神徳王地の恵をうくる。仰ぎてもなほ余あり。 シテサシ「それ人は天下の神物なり。 かるが故に正直をもつて本とす。 地「日月は四州を照すとおへども。 分きては唯正直の頭に宿り給ふ。 シテ「然れば二所そうべうの御心を知らんとおもはゞ。 地「正直をもつて。本とすべし。クセ「然るにおほん神。 地神の為に皇孫を。あし原中つ国に。 下し奉らんとて。 三種の神宝をみづから授け給ひしに。其三種にも取り分きて。 八咫の鏡は殊になほ。

御影を写しつゝ御身を放ち給はず。其鏡の如くに。 万形をうつしながらしかも。一物を貯へず。 しんしやうを清めて正直を授け給へり。 さればいきとしいけるもの。日月の恩徳に。 あづからざるものなきものを。 これもつて当宮の御神徳にてあらざるや。 シテ「然れば神代の昔より。今人の世に至るまで。 sンと句はあきらかに。 垂仁天皇の御宇かとよ。 しだつ岩根に宮居して、皇大神となり給ふ。これまさに本覚の。 和光にまじる塵の世を。守らんための御誓。 仏も同じ御心の。 しじやう真如の月よみの神とも示現し給へり。 ロンギ地「実にありがたや神道の。/\。 曇らぬ末を受けて知る人の心ぞありがたき。 二人「一河の流汲みて知る。今日しもこゝに都人。 君と神とは隔なき御物語申すなり。 地「そも老人は誰なれば。分きて委しくしらゆふの。 二人「かゝる御代ぞと仰ぎみる。地「天津空ねの。

二人「郭公。 地「一声鳴くもをりからに神の。告ぞとゆふしでの。 田長と見えつるが我興玉の神よとて。 御裳濯川の渡瀬なる。神が瀬をうち渡りて。 跡も波に入りにけり/\。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「げに今とても神の代の。/\。 誓はつきぬしるしとて。神と君との御恵。 まことなりとはありがたや/\。 後シテ出端「君が代はつきじとぞ思ふ神風や。御裳濯川のすまん限は。 守るべし/\。百王守護の神明として。 和光普きすべらぎの数。 すべら世までも守の神。興玉の神とは我が事なり。 地「やたまがきの。内外の宮居。声みちて。 シテ「月よみの宮居。照りまさる。地「いさぎよき。

影や鏡の宮所。シテ「空すむ雲も。 あさぐまや。地「潮干の石と現れしも。 済度方便の。影なわすれそ。/\。 ちはやぶるなり。ゆ立の袖。神舞。シテワカ「神風や。 伊勢の浜荻をりしきて。 地「旅寝やすらんあらき浜辺に/\。シテ「清き渚の玉の数々。 地「光も天照す。 シテ「天の岩戸の昔をうつす。地「榊葉の神歌。 シテ「千早の袖や御裳濯川の。地「波のしらにぎて。 シテ「水の青にぎて。取々様々の神遊鏡の宮居。 あさづまの潮時に沖より見えて白浪の。 沖より見えて白浪の。 又立返り二見の浜松の。ちよの影ある。神と君こそ。 久しけれ 賀茂の神職 従者二人 事代主命

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「関の戸さゝで。秋津洲や。/\。

道ある御代ぞめでたき。

ワキ詞「そも/\こ。 れは都賀茂の明神に仕へ申す神職の者なり。又和州葛城の明神は。 当社御一体の御事なれども。 いまだ参詣申さず候ふ程に。唯今和州葛城の明神に参詣仕り候。 三人道行「四方の国。治まる雲の果までも。 /\。君の御影は明らけき。 天つ日影の山の端に。斯かる時世は曇なき。 峯もそなたか葛城の。 賀茂の宮居に着きにけり。/\。シテツレ二人真ノ一声「葛城の。 賀茂の神垣時を得て。咲く卯の花の白和幣。 ツレ二ノ句「鳴さぬ枝も夏木立。 二人「茂をさめて風もなし。シテサシ「これは当国葛城や。 賀茂の社中を清め申す者なり。 二人「有難や頃は卯月の始とて。賀茂の御生の時すでに。 夏も来にけり小忌衣の。 袖白妙の木綿畳幣とり%\の神祭。御代を護の道直に。 万歳の末を祈るなり。下歌「いざ/\庭を清めん。/\。上歌「固よりも。 塵に交はる神慮。/\。和光の影はいやましに。

栄え行くなり国々も。 豊に照らす日の本や。千里万里も治まれる。 誓の海はありがたや。/\。 ワキ詞「いかにこれなる老人。 これは当社はじめて参詣の者なり。 このあたりは皆故ある名所なるべし。 眺の名所を教へ候へ。シテ「さん候。此葛城の賀茂の宮居。 都の賀茂と御一体の御事なれば。 都の人こそ知し召さるべけれ。 その上龍田初瀬の紅葉をば。 見ねども歌人の知し召すなれば。われ等が申すに及ばず。 唯君万歳の御護と。当社に祈り申すならでは。 又他事も候はず。 あらめでたの御神拝やな。ワキ詞「げに/\翁の申す如く。 我等本社賀茂の社頭にありながら。 当社の事を尋ぬるは。今更なるべき事ならずや。 シテ「畏れながらこの御尋こそ。 少し不審に候へとよ。賀茂の本社と申さん事。 忝くも開闢この方の影向の始。

まづ葛城の賀茂なれば。 この宮居こそ取り分きて。賀茂の本社と申すべけれ。 ワキ「げにげにこれは理なり。まづ/\最初の影向は。この葛城の賀茂の神。 シテ「その後天下平安城に。現れ給ふ賀茂の神山。 ワキ「其神の名を糺すの竹の。 シテ「御代も治まり七つの道も。ワキ「なほ末すぐに。 シテ「曇なき。上歌「余所までも。 名は葛城の賀茂の神。/\。御代を守りの御威光。 普ねしや/\四海の波も治まりて。 国富み民も豊なる。御影ぞ貴かりける。/\。 クリ「それ君は舟臣は水。 水よく船を浮べつゝ。臣よく君を仰ぐとかや。 シテサシ「然れば王城の鎮守として。 誠に以て御名高き。地「その水上は山陰の。 賀茂の御手洗いさぎよき。流の末は久方の。 あめつちくれお動かさず。安く楽しむ時とかや。 シテ「有難しともなか/\に。 地「言葉をもつても述べがたし。クセ「然るに葛城や。

高間の山と申すは。金剛の峯として。 胎金両部のその一法を現し。 神も影向なるとかや。西天仏在世よりは。 東北の霊峯これ。大和の金剛山。 三国不二の峯として。御代の宝の。山とも是を名づけたり。 そも/\葛城の。 賀茂の神垣隔なく王城の鎮守と現れ。百王守護の神山や。 賀茂の祭とて。忝くも大君の。 清涼殿や長階の。出御も絶えぬ年々に。 卯月のその日のとり%\の御遊なるとかや。 シテ「千早振る。賀茂の御生や夏引の。 地「糸毛の花車廻る日の。 けふに葵の二葉より我が。 しめ結ひし姫小松の千代をかけて水鳥の。鴨の羽色やしもとゆふ。 葛城も同じ神山の。 一体分身の御代を譲り給ふなり。この御代を譲り給ふなり。 ロンギ「げに葛城の神の代の。/\。 その道すぐに夕霜の翁はさても誰やらん。 シテ「誰ともいはん翁さび。

人なとがめそ我こそは。 事代主の翁とて御代を護り申すなり。地「そもや事代主と聞く。 其名は如何に。シテ「音高し。 地「事代主と申すこそ。葛城の神の名なれいざや。 神体を現し。旅宿をあがめ申さんとて。 葛城や高。 間山の嶺の雲にかけりて天の戸に入らせ給ひけり。/\。中入間「。 ワキ三人待歌「心も共に澄む月の。/\。 光さやけき夜神楽の。御声も同じ松の風。 更け行く空ぞ静かなる/\。 後シテ出端「あら有難のをりからやな。 われ劫初よりこの山に住んで。 王城を護り御代を崇め。天下泰平の宝の山。 葛城の神と現れて。唯今こゝに来りけり。 あら面白の夜遊やな。地「標結ふ。 葛城山に降る雪は。シテ「間なく時なくおもほゆるかな。 地「それはみ冬の深雪の空。 シテ「これは卯月。卯の花の。地「雪を廻らす舞の袖。 古き大和舞。拍子を揃へて面白や。

神舞ロンギ「あら有難やありがたや。 天下泰平楽とは。いかなる舞の事やらん。 シテ「怨敵の難を遁れて。上下万民舞ひ遊ぶ。 地「さて万秋楽と申すは。 シテ「兜率天の楽にて見仏菩薩舞ひ給ふ。 地「春立つ空の舞には。シテ「春鴬囀を舞ふべし。 地「秋来る空の舞には。シテ「秋風楽を舞ふとかや。 地「舞に颯々といふ声は。 楽々と響くなり。いつもその声尽きせぬは。 このみぎんなるべしやな。万歳の四方の国。 道ある御代ぞめでたき。/\ 官人 従者 老人 松尾明神

ワキ、ワキツレ二人次第「四方の山風静かにて。/\。 梢の秋ぞ久しき。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても西山松の尾の明神は。霊神にて御座候へども。 朝に暇なき身なれば。 いまだ参詣申さず候ふ間。此度君の御暇を申し。 唯今松の尾の明神に参詣仕り候。 道行三人「嵯峨の山御幸絶えにし芹川の。/\。 千代の古道跡ふりて。 行方正しき天雲の大井の入江霧こめて。上は嵐の山風の。 声も通ひて松の尾の。神の宮居に着きにけり/\。 シテツレ一声「秋風の。声吹き添へて松の尾の。 神さび渡る。気色かな。 シテサシ「有難や和光同塵の斎垣の内には。 年を迎へて般若の真文を講じ。

二人「又利生方便の社の前にて。日を逐うて如在の霊殿を仰ぐ。 神明の納受疑なく。 摂取の願望各成就円満の霊地。今にはじめぬ神拝なれども。 まことに貴き。社内かな。 下歌「時しも今は長月の紅葉も四方の気色にて。 上歌「春見しは花の都の雲霞。/\。 立つや日数も移り来て。 今ぞ時なる秋の空曇らぬ月の都路に。ゆきゝも繁る諸人の。 秋ゆたかなる心かな/\。 。 ワキ詞「如何にこれなる老人に尋ぬべき事の候。シテ「老人とは此方の事にて候ふか。 まづ御姿を見奉れば。 此あたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 都より御参詣にて御座候ふか。 ワキ「実によく見てあるものかな。都より始めて当社参詣の者なり。

山の姿神館の面白さに眺め居て候。 当社の御謂委しく申し候へ。 シテ「さん候此山林は。皆神の御敷地なり。 誠に御代千秋の君が住む。都は間近き神前にて。 ツレ「むかふ梅津の秋の葉は。河水に浮ぶ綾錦。 シテ詞「織りかく雲も小倉山。 しぐるゝ頃の朝な/\。ワキ「昨日は薄きもみぢ葉の。 シテ「今日は濃染の色深き。 ワキ「西紅の峯つゞき。シテ「さながら四方の。 二人「錦なれども。 地「松の尾の山の梢の秋ならで。/\。唯時雨のみ年経るや。霜の後。 雪の冬木になるまでも。 時しらぬ常磐木の。いく久し神松の。 落葉ばかりは塵の世に。交はる誓頼もしや。/\。 地クリ「それ天は陽を以て徳とし。 地は陰を以て。用とす。 シテサシ「然れば神は人天百王の守護神として。 地「本地寂光の都を出で給ひ。此閻浮提に示現し。 五衰の睡を無上正覚の月に覚まし <24a>。 シテ「国土豊に民厚かれと。地「安全を守りおはします。 クセ「和光同塵は。結縁の御はじめ。 実に目前にあらたなり。仏は又常住。 不滅の相を現し有無中道を離れて。 人を済度の方便これ以て同じ悲願なり。 神といひ仏といひ唯これ。水波の隔にて。 本地垂迹と現れ三世了達の智恵を以て。 現当二世界までの道を照らし給へり。 さればにや此社。いづくともいひながら。 殊に所も九重の。雲井の西の山の端を。 照らすや光も夕月の。空さへて嵐山の。 峯には実相の声満ちて。聞法の便のみ。 大井の波の音までも。常楽我浄の結縁をなす心なり。 シテ「梅津桂の色々に。 地「日も茜さす紫野。北野平野や賀茂貴船。 祇園林の秋の風稲荷の山のもみぢ葉の。 青かりし恵も様々に。誓のイロハ変れども。 此神は分きて世の。

月常住の地をしめ王城を守る神徳の。久しき国に跡垂れて。 慈尊三会の暁を。松の尾の神垣変らぬ色ぞ久しき。 ロンギ地「実にた誓の秋久に。/\。 代々を守りの御神徳。なほ行く末ぞ頼もしき。 シテツレ二人「時しも今日の御神拝。 有難しとも木綿四手の。神の夜神楽めん/\に神をすゞしめ申さん。 地「さては時しも夜神楽の声も普き数々に。 シテツレ二人「すはや照り添ふ夕月の。地「庭燎の光。シテツレ二人「榊葉を。 地「うたふ乙女の袖はえて。 花の裳裾も色々に。 紅葉をかざし松の尾の神の告を都人夜神楽を拝み給へとよ。 夜神楽を拝み給へとよ。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「実に今とても神の代の。/\。 誓は尽きぬしるしとて。 神と君との御恵まことなりけり有難や/\。 後シテ出端「それ千秋の松が枝には。 万歳の緑常磐には。御代を守りの御影山。 君安全に民栄え。

五日の風も枝を鳴らさぬ松の尾の神とは我が事なり。地「八乙女の。 袖もかざしの玉かづら。 シテ「かけてぞ祈る玉松の。 地「光も塵や露も白縫の鈴も颯颯の。舞の袂は、おもしろや。神舞。 ロンギ地「秋の夜神楽声澄みて。/\。 神さびわたる深更の朱の光は有難や。 シテ「庭燎の影も明らけき。榊葉うたふ妙文の。 。 こや松の尾の神風ふけ行く秋ぞ惜しまるる。地「実に惜しむべし/\。 今宵の時も逢ひにあふ。 シテ「月の光も照り添ふや。地「朱の玉垣。シテ「玉の扉。 地「さし引く袖の露かけて。光も散るなり小忌衣。 立ち舞ふ花も白妙の。 雪をめぐらし千早ふる。神ぞ久しき松の尾の。 おのづから長き夜の神楽ぞめでたかりける/\ 藤原俊家 従者 里の女 従者 佐保山神

ワキ、ワキツレ三人、次第「立つ旅衣春とてや。/\。 心ものとげかるらん。 ワキ詞「抑これは藤原の俊家とは我が事なり。 さても和州春日の明神は。氏の神にて御座候ふ程に。 この春君に御暇を申し。 唯今春日の明神に参詣仕り候。 道行四人「天の戸の明け行く空の朝日影。/\。 霞を分けて白雲の衣雁こし方を。よそに南の都路や。 春日の里に着きにけり/\。 ワキ詞「さても我春日に参詣申し。四方の景色を眺むる所に。 あの佐保。 山の上に当つて見え候ふは雲にて候ふやらん。 ワキツレ「いやこれはたゞ衣を干したる様に見えて候。 ワキ「とにかくに不審に存じ候ふ程に。近く見ばやと思ひ候。 皆々佐保山に上り候ヘ。シテツレ真ノ一声「日にみがき。

風に晒せる玉衣の。春の日影も。 匂ふなり。ツレ二ノ句「佐保山姫の雲の袖。 ニ人「緑もなびく。景色かな。 ニ人サシ「おもしろや名所はさま%\多けれども。 分けて誓も影高き天の児屋根の神代より。 誓の末も明らけき。月に照りそふ春の日の。 御影を四方に春日山広き恵のありがたさよ。 殊更に時もあひあふ春の日の。 東を知るも鹿島野や緑も同じ若草の。 山は南の都の空。曇らぬ神の。時代かな。 下歌「こゝはとりわき佐保山の。其山姫の衣ほす。 袖白妙の露かけて。 上歌「玉葛来る年の緒の春毎に。/\。霞の衣緯薄き。 糸の乱も天つ日ののとけき色に染めなして。 猶白衣のうらゝなる。空や雲間に匂ふらん/\。

ワキ詞「我佐保山に登りて見れば。 女性数多来り給ひ。 これなる衣を晒せるけしき見えたり。そも御身は此佐保山に住む人か。 。 シテ「さん候これは此佐保山のあたりに住む女にて候。又これなる衣は処から。 よしありてさらせる衣なり。 立ちよりてよく/\御覧候へ。ワキ「実に/\これなる衣をよりて見れば。 銀色かゝやき異香薫じ。誠に妙なる白衣の。よく/\見れば縫目もなし。 さてこれは何と申す衣にて候ふぞ。シテ「げによく御覧じ咎めて候。 これは人間の織衣にあらずある歌に。 裁ち縫はぬ衣きし人もなきものを。 詞「何山姫の布さらすらんと。 かやうに詠みしも此衣なり。 ツレ「もとより山に住み人の。人間の交はりなき故に。 かゝる衣も世の常ならず。シテ「その上仙人の衣をば。 二人「裁つこともなく縫ふ事も。 なき世のためしは稀にだに。いさ白衣の羽袖の色。

妙なりと御覧候へとよ。 ワキ「実に裁ち縫はぬ衣の事。詞「仙人の衣と聞きしなり。 さては仙境にや入りぬらん。 然らば御身も仙女やらん。 シテ「いや仙境まではなけれども。処は佐保の山辺なれば。 もし佐保姫とや申すべき。 ワキ「不思議やさては佐保姫の。霞の衣とよみたれば。 此裁ち縫はぬ薄衣ももしは霞の衣やらん。 二人「いや裁ち縫はぬ衣ほせばとて。 ワキ「さては霞の衣かとは。 二人「あら謂なの御言葉や。 地「裁ち縫はぬ衣ほせばとて佐保姫の。/\。袖も緑の糸はえて。 縫ふ事はなくとも。霞の衣ならば。 裁つことはなどかなかるべき。 これは裁ちもせす縫ひもせず。まして糸もて織る事も。 嵐になびく羽衣の。 袖も褄もにほやかにうら。 らなる日に晒すなりうらゝなる日にや晒さん。 地クリ「夫れ天地開闢の昔より。

山海草木に至るまで。万物悉く成仏して。 皆霊験の神所たり。 シテサシ「とりわき四季を司どる事。地「まづ春を守る神といつぱ。 此山姫の神徳として。草木森羅万象まで。 御影の緑満ち満てり。 シテ「然れば処の名にしおふ。地「佐保の山河の恵深く。 千秋万徳の春を得て。佐保山姫と。現れ給ふ。 クセ「たが為の錦なればか秋霧の。 佐保。 の山辺を立ち隠すらんとながめけるも此山の。妙なる秋のけしきなり。 かやうに治まれる四つの時いく年々を送りけん。 花の春。紅葉の秋の夕時雨。 古きを守るためしまでも。 あふぐや青によし奈良の代々ぞ久しき。殊更此山は。 春の日影もよそならで。慈悲万行の神徳の。 弘き誓の海山も皆安全の国とかや。シテ「そも/\芦原の国つ神。地「代々に普き誓にも。 御名はことに久方の。天の児屋根の其かみ。 。

此秋津洲の主として皇孫をいつき給ひしより。八島に治まる時つ風。 四海に畳む波の声万歳を呼ばふ三笠山。 御影もさすや河竹の。 佐保の山辺の春の色万山ものどかなりけり。 ロンギ地「実にや誓ものどかなる。/\。 。 佐保の山姫あらたなる言葉をかけすうれしさよ。シテ「暫く待たせ給ふべし。 とても山路のおついでに。 佐保山の神祭月の夜遊をはじめん。 地「月の夜遊と聞くよりも。東の嶺に光さし。 シテ「南を見れば春日野の。地「三笠の森に花降りて。 シテ「ここにたなびく。地「山の名の。 さをなぐるまの夢の夜の。程を待たせ給へやと。 夕。 霞の衣手に立ち隠れつゝ失せにけり立ち隠れ失せにけるとかや。中入間「。 ワキ、ワキツレ三人歌待謡「佐保山の柞の緑かたしきて。 /\。こゝに仮寐の枕より。 音楽聞え花降りて。月春の夜ぞ有難き/\。 後シテ出端「春日野の飛火の野守出でて見よ。

影さす月の三笠山。うき雲かゝる藤山の。 若紫の名にしおふ。 木々の梢ものどかなる。春の日影ののどけさよ。地「二月の。 初申なれや。春日山。シテ「峯どよむまで。 。 いたゞきまつれや佐保姫の袖もかざしの玉かづら。地「かけてぞ祈る春日野の。 シテ「若草の山。水屋の御影。 地「みどりもめぐみもたちたつ雲の。羽袖をかへすや。 山かづら。真ノ序ノ舞「。 ロンギ地「神楽の鼓春を得て。/\。 月の夜声も澄み渡る心をのぶる有難や。

シテ「こや佐保姫の小夜神楽。時の鼓の数々に。 神歌の一節佐保の歌とや云ひてまし。 地「それは遊女のうたふなる。 声も妙なり天乙女。シテ「天の探女が古を。 地「思ひ出づるや。シテ「久方の。 地「月の御舟の水馴棹山姫の袖。 かへす霞の薄衣裁ち縫はねども白糸の。来る春なれや永き日に。 雨つちくれを動かさで。 世を守るさよ姫の。めでたき例なるべしや。 めでたき例なるべし 雄略天皇勅使 従者二人 老人(父) 養老山神 男(子)

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「風も静かに楢の葉の。/\。 鳴らさぬ枝ぞのどけき。 ワキ詞「抑これは雄略天皇に仕ヘ奉る臣下なり。 さても濃川本巣の郡に。

不思議なる泉出でくる由を奏聞す。急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。 唯今濃州本巣の郡へと急ぎ候。 道行三人「治まるや。国富み民も豊にて。/\。 四方に道ある関の戸の。秋津島根や天ざかる。

鄙の境に名を聞きし。 美濃の中道ほどな。 く養老の滝に着きにけり養老の滝に着きにけり。 シテ、ツレ二人真ノ一声「年を経し。 みのゝ御山の松蔭に。なほ澄む水の緑かな。 ツレ二ノ句「通ひなれたる老の坂。二人「行事安き心かな。 シテサシ「故人眠早く覚めて。 夢は六十の花に過ぎシテツレ二人「心は茅店の月にうそぶき。 身は板橋の霜に漂ひ。白頭の雪は積れども。 老を養ふ。滝川の。水や心を。清むらん。 下歌「奥山の。深谷の下のためしかや。 流を汲むと。よも絶えじ流を汲むと。 よも絶えじ。上歌「長生の家にこそ。/\。 老せぬ門はあるなるに。 これも年ふる山住の。千世のためしを。 松蔭の岩井の水は薬にて。老を延べたる心こそ。 なほ行く末も。久しけれなほ行く末も久しけれ。 。

ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ詞「おことは聞き及びたる親子の者か。 シテ詞「さん候これこそ親子の者にて候へ。 ワキ詞「これは帝よりの勅使にてあるぞとよ。 シテ「ありがたや雲井遥に見そなはす。我が大君の詔を。 賎しき身として今承る事のありがたさよ。 これこそ親子の民にて候へ。 ワキ詞「さてもこの本巣の郡に。 不思議なる泉出でくる由を奏聞す。急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。 これまで勅使を下さるゝなり。 先々養老と名づけ初めし。謂を委しく申すべし。 。 シテ詞「さん候これに候ふはこの尉が子にて候ふが。朝夕は山に入り薪を採り。 我らをはごくみ候ふ所に。 ある時山路の・労{つかれ}にや。この水を何となく掬びて飲めば。 。 世のつねならず心も涼しく労も助かり。ツレ「さながら仙家の薬の水も。 かくやと思ひ知られつゝ。

やがて家路に汲み運び。父母にこれをあたふれば。 シテ詞「飲。 心よりいつしかに、やがて老をも忘水の。ツレ「朝寐の床も起き憂からず。 シテツレ二人「夜の寐ざめもさびしからで。 勇む心は真清水の。絶えずも老を養ふ故に。 養老の滝とは申すなり。ワキ「げに/\聞けばありがたや。さて/\今の薬の水。 この滝川の内にても。 とりわき在所のあるやらん。シテ詞「御覧候へこの滝壺の。 少し此方の岩間より。出でくる水の泉なり。 ワキ「さてはこれかと立ちより見れば。 実に潔き山の井の。 シテ「底すみわたるさゞれ石の。巌となりて苔のむす。 ワキ「千代に八千代のためしまでも。 シテ「まのあたりなる薬の水。ワキ「誠に老を。 ワキ「養ふなり。地歌「老をだに養はゞ。 まして盛の人の身に。薬とならばいつまでも。 御寿命も尽きまじき。泉ぞめでたかりける。 実にや玉水の。

水上すめる御代ぞとて流の末の我らまで。豊にすめる。 嬉しさよ豊にすめる嬉しさよ。 地クリ「実にや尋ねても蓬が島の遠き世に。 今のためしも生薬。 水また水はよも尽きじ。シテサシ「夫れ行く川の流れは絶えずして。 しかも本の水にはあらず。 地「流に浮ぶうたかたは。かつ消えかつ結んで。 久しく澄める色とかや。 シテ「殊にげに是はためしも夏山の。地「下行く水の薬となる。 奇瑞を誰か。習ひ見し。 下歌「いざや水を結ばんいざ/\水を結ばん。上歌「甕の竹葉は。 /\。かげや緑を重ぬらん。 その外籬の荻花は林葉の秋を。汲むなりや。 晋の七賢が楽。劉伯倫が翫。只この水に残れり。 汲めや汲め御薬を。君の為に捧げん。 曲水に浮ぶ鸚鵡は石にさはりて遅くとも。 手にまづ取りて。夜もすがら馴れて月を。 汲まうよや馴れて月を汲まうよ。 。

ロンギ地「山路の奥の水にては何れの人か養ひし。シテ「彭祖が菊の水。 したゞる露の養に。仙徳を受けしより。 七百歳を経る事も薬の水と聞くものを。 地「げにや薬と菊の水。その養の露のまに。 シテ「千年を経るや天地の。 地「ひらけし種の草木まで。シテ「花咲き実なることはり。 地「その折々といひながら。 シテ「唯これ雨露のめぐみにて。地「養ひ得ては。 花の父母たる雨露の。翁も養はれて。此水に馴衣の。 袖ひぢて結ぶ手の。 影さへ見ゆる山の井の。実にも薬と思ふより。 老の姿も若水と見るこそ嬉しかりけれ。 ワキ詞「実にありがたき薬の水。 急ぎ帰りて我が君に。奏聞せんこそ嬉しけれ。 。 シテ詞「翁もかゝる御めぐみ広き御影を尊めば。ワキ「勅使も重ねて感涙して。 かゝる奇特に遇ふ事よと。 地歌「いひもあへねば不思議やな。/\。 天より光かゞやきて。滝の響も声すみて。

音楽聞え花降りぬ。これ唯事と。 思はれずこれ唯事と思はれず。来序中入間「。 後シテ出端「ありがたや治まる御代の習とて。 山河草木おだやかに。五日の風や十日の。 天が下照る日の光。曇はあらじ玉水の。 薬の泉はよも尽きじ。 あらありがたの奇瑞やな。地「これとても誓は同じ法の水。 尽せぬ御代を守るなる。 シテ「我はこの山山神の宮居。地「又は楊柳観音菩薩。 シテ「神といひ。地「仏といひ。 シテ「唯これ水波の隔にて。地「衆生済度の方便の声。 シテ「峯の嵐や。谷の水音滔々と。 地「拍子を揃へて音楽の響。滝つ心を澄ましつゝ。

諸天来去の。影向かな。神舞「。 シテワカ「松蔭に。千代をうつせる。 緑かな。地「さもいさぎよき山の井の水。 山の井の水山の井の。シテ「水滔々として。 波悠々たり。治まる御代の。君は船。 地「君は船。臣は水。水よく船を。浮べ/\て。 。 臣よく君をあふぐ御代とて幾久しさも尽せじや尽せじ。君に引かるゝ玉水の。 上澄む時は。下も濁らぬ滝津の水の。 浮き立つ波の。返す%\も。 よき御代なれや。よき御代なれや。 万歳の道に帰りなん。/\ 勅使 従者 天つ神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「四方の雲霧収まりて。 四方の雲霧収まりて。のどけき日影仰がん。

ワキ詞「これは当今に仕へ奉る臣下なり。 。

さても今度御即位の大典ましますにより。奉告の宣旨を蒙り。 唯今平安神宮へと参向仕り候。急ぎ候ふ程に。 これは早神宮に着きて候。 サシ「有難や宇内に国は多けれど。類まれなる神国の。 豊葦原の秋津洲。天人和合三才の。 徳具はりて天雲の。向伏す限り谷蟆の。 さわたる極大君の。御稜威の光普くて。 五日の風も十日の。雨も時節を違へず。 地「悠紀主基の。御田も穂に穂をさかせつゝ。/\。 天の漿に類ふべき。 黒酒白酒も数々の甕に溢るゝばかりなり。百官卿相雲客も。 千代に八千代と寿ぎて。 五節の舞や種々の。いとも妙なる音楽に。 感涙肝に銘じける。事の由をも神前に。聞え上げんと。 伏し拝む聞え上げんと伏し拝む。 ワキ詞「われこの宮居に詣でつゝ。 奉告の式こと終り。心を澄ます。折しもあれ。 地「不思議や社壇の方よりも。 不思議や社壇の方よりも。

異香薫じて瑞雲たなびき微妙の音楽聞え来て。天津少女の舞の袖。 返す返すも。おもしろや。天女舞「。 玉もゆらゝに少女子が。 玉もゆらゝに少女子が。羅綾の袂をひるがへし。 五節の舞の手。とり%\に。 天津風さへこゝしばし。雲の通路ふきとぢて。 少女の姿とゞむらん。神々もこれを愛でけるにや。 御殿俄に震動して。玉の階踏み轟かし。 神体出現。ましませり。 シテ「あら有難の神国やな。天地開けし初より。 八百万の神達守護し給へば。戎狄蛮夷の恐なく。 万民その堵に安んぜり。 ツレ「わきて明治聖帝の御代に至り。 開国進取の国是を定め。 治に居て乱を忘れ給はず。シテ「忠実勇武の民を養ひ。 知能徳器の成就をすゝめ。 ツレ「天壌無窮の皇運を。扶翼せよとの御志。 シテ「されば今上皇帝も。ツレ「父帝の遺詔を紹がせ給ひて。 シテ「允文允武八紘に。

ツレ「国威を発揚し給ふこと。シテ「鏡にかけて。見るごとし。 地「この聖徳を称へんと。 天が下なる蒼生も。思ひ/\に心をつくし。 君が千歳をことほげば。天の御神も万歳楽に。 雲の端袖をひるがへし。舞ひたまふ。神舞。 シテワカ「君が代は。千代に八千代に。 さざれいしの。地「巌となりて苔のむす。 巌となりて苔のむす。 幾久しとも尽せじな尽せじ。右近の橘左近の桜も。 いやましに栄え。恵の露に。霑ふ菊も。 今を盛と咲き匂ひ。 鳳凰も御園の梧竹に下り。丹頂の鶴は。汀に遊べば。 図負へる亀も。川を出でて。 庭上に参向申しつつ迦陵頻伽も御空に翔り。 霓裳羽衣の曲をなせば。山河草木。 国土豊に四海の波も。四方の国々も。靡く御代こそ。 めでたけれ 神霊の従属(男) 武内の神(前ハ老人) 鹿島神蔵

ワキ三人次第「御影を仰ぐこの君の。/\。 四方こそ静なりけれ。 ワキ詞「抑これは鹿島の神職筑波の何某とは我が事なり。 偖も此度都にのぼり。 洛陽の寺社残なく拝み廻りて候。 又今日は南祭の由承り候ふ間。八幡に参詣申さばやと存じ候。 道行三人「曇なき。都の山の朝ぼらけ。/\。 気色もさぞな木幡山。伏見の里も遠からぬ。 島羽の細道うち過ぎて。 淀の継橋かけまくも。忝しや神祭る。 八幡の里に着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや八幡の里に著きて候。 心静かに社参申さうずるにて候。 シテ、ツレ二人真ノ一声「うろくづの。 生けるを放つ川波に。月も動くや秋の水。 ツレ二ノ句「夕山松の風までも。二人「神のめぐみの。

声やらん。シテサシ「それ国を治め人を教へ。 善を賞し悪を去ること。 直なる御代のためしなり。二人「かるが故に知れるはいよ/\万徳を得。無知は又恵に適ひ。 おのづから積善の余慶殊に満ち。 善悪の影響のごとし。かゝる御影の道広き。 誓の海のうろくづの。生きとし生ける物として。 豊なる世に住まふ事。偏に当社の御利生なり。 。下歌「仕へて年も千早ぶる神のまに/\詣で来て。此御代に。照る槻弓の八幡山。 /\。宮路のあとは久方の。 雨つちくれを湿して枝を鳴さぬ松の風。 千代の声のみいや増しに。戴きまつる社かな/\。 ワキ詞「いかに是なる翁に尋ぬべき事の候。 。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「けふは八幡の御神事とて。

皆々清浄の儀式の姿なるに。 翁に限り生きたる魚を持ち。 真に殺生の業不審にこそ候へ。シテ「けに/\御不審は御理。 さてさて今日の御神事をば。 なにとか知し召されて候ふぞ。 ワキ「さん候これは遠国より始めて参詣申して候ふ程に。 委しき事をば知らず候。 いで此御神事をば放生会とかや申すよなう。 シテ「さればこそ放生会とは。生けるを放つ祭ぞかし。 御覧候へ此魚は。生きたる魚をそのまゝにて。 ツレ「放生川に放さん為なり。 知らぬ事をな宣ひそ。シテ「其上古人の文を聞くに。 シテツレ二人「方便の殺生だに。 菩薩の万行には超ゆると云ふ。 ましてやこれは生けるを放せば。魚は逃れわれは又。 かへつて誓の網に漏れぬ。神の恵を仰ぐなり。 ワキ「げにありがたき御事かな。さて/\生けるを放つなる。其御いはれは何事ぞ。 ツレ「異国退治の御時に。

多くの敵を亡ぼし給ひし。幾生の善根のその為に。 放生の御願をおこし給ふ。 ワキ「いはれを聞けばありがたや。さて/\生けるを放つなる。 川は何れの程やらん。 シテ詞「御覧候へこの小河の。水の濁も神徳の。 ワキ「誓は清き石清水の。シテ「末は一つぞ此川の。 ワキ「岸に臨みて。シテ「水桶に。地「取り入るゝ。 此うろくづを放さんと。/\。 裳裾も同じ袖ひぢて。掬ぶやみづから水桶を。 水底に沈むれば。 魚は悦び鰭ふるや水を穿ちて岸陰の。 潭荷葉動くこれ魚の遊ぶ有様の。 げにも生けるを放つなる御誓あらたなりけり。 。 ワキ詞「尚々当社の御事懇に御物語り候へ。地「そも/\当社と申すは欽明天皇の昔より。一百余歳の代々を経て。 此山に移りおはします。 シテサシ「然るに宗廟の神として。地「御代を守り国家を助け。 文武二つの道広く。九重続く八幡山。

神にも御名は八つの文字。 シテ「それ諸仏出世の本来空。地「真性不生の道を示し。 八正道を顕し人仏不二の。御心にて。 正直のかうべに宿り給ふ。クセ「人の国より我が国。 他の人よりも我が人と。誓はせ給ふ御恵。 。 げにありがたやわれら如きのあさましき。迷を照し給はんの。 其御誓願まのあたり。行教和尚の御法の袖に影うつる。 花の都を守らんと。南の山にすむ月の。 光も三つの衣手に映り給へり。 さればにや宗廟の。跡明かに君が代の。 すぐなる道を顕し。国富み民の竃まで。 にぎはふ鄙の貢舟四海の波も静なり。 シテ「利益諸衆生の御誓。地「二世安楽の。 神徳は猶栄ゆくや。男山にし松立てる。 梢も草も吹く風は。皆実相の響にて。峯の山神楽。 其外里神楽。懺悔の心夢覚め。 夜声もいとゞ神さびて。月かげろふの石清水の。 浅からぬ誓かな。げに浅からぬ誓かな。

ロンギ地「不思議なりとよ老人よ。/\。 かほど委しく木綿しでの。 神の告かやありがたや。シテ「代々につかへし古も。 二百余歳の春秋を。 地「送り迎へて神徳を受けし身の齢武内の神は我なりと。 名のりもあへず男山。 鳩の杖にすがりて山上さして上りけり/\。 ワキ、三人上歌待謡「猶照せ。代々に変らぬ男山。/\。 仰ぐ嶺より月影の。 さやかに出でて隈もなく。声澄み上る気色かな/\。 後シテ出端「ありがたや百王守護の日の光。 ゆたかに照らす天が下。幾万代の秋ならん。 和光の影も年を経て。神と君とに仕への臣。 武内と申す老人なり。 地「末社は各々出現して。けふ待ち得たる放生の。 神の御幸を早むれば。シテ「御前飛び去る鳩の嶺。 地「山下に連なる神拝の社人。 シテ「小忌の衣の袖を連ね。地「千早ふるなり。 あま乙女。シテ「久方の。月の桂の男山。

地「さやけき影は処から。 真ノ序ノ舞ロンギ地「さては神代も和歌を上げ。/\。 舞をまひけるめでたさよ。シテ「なか/\小忌の御衣をめし。おの/\舞をまひ給ふ。地「さらば四季の和歌を上げ。 其品かへて舞ひ給へ。 シテ「春は霞の和歌を上げて。喜春楽を舞はうよ。 地「さて又夏にかかりては。いかなる舞をまひ給ふ。 シテ「かたへ涼しき川水に。 浮みて見ゆる盃の。傾盃楽を舞はうよ。 地「始めて長き夜も更くる。風の音に驚くは。

誰が踏む舞の拍子ぞ。シテ「秋来ぬと。 目にはさやかに見えずとも秋風楽を舞はうよ。 地「日数も積る雪の夜は。 シテ「回雪の袖を翻し。地「さて百敷の舞には。 シテ「大宮人のかざすなる。地「桜。シテ「橘。 地「もろともに。 花の冠をかたぶけてやうこくよりも立ち廻り。北庭楽を舞ふとかや。 さのみは何と語るべき。詞の花も時を得て。 。 其風猶も盛にて鬼も神も納受する和歌の道こそめでたけれ/\ 梅津某 従者二人 老人 梅男 老松の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「げに治まれる四方の国。/\。 関の戸さゝで通はん。ワキ詞「そも/\是は都の西。梅津の何某とは我が事なり。 われ北野を信じ。常に歩を運び候ふ所に。 ある夜の霊夢に。

我を信ぜば筑紫安楽寺に参詣申せと。 あらたなる御霊夢を蒙りて候ふ間。たゞ今九州に下向仕り候。 道行三人「何事も。心にかなふ此時の。/\。 ためしもありや日の本の。 国豊なる秋津洲の。波も音なき四つの海。

高麗唐も残なき。御調の道の末こゝに。 安楽寺にも着きにけり/\。 シテ、ツレ真ノ一声「梅の花笠。春も来て。 縫ふてふ鳥の。梢かな。 ツレ二ノ句「松の葉色も時めきて。二人「十返ふかき。緑かな。 シテサシ「風を逐つてひそかに開く。年の葉守の松の戸に。 二人「春を迎へて忽ちに。 うるほふ四方の草木まで。神の恵に靡くかと。 春めきわたる盛かな。 下歌「歩を運ぶ宮寺の光のどけき春の日に。上歌「松が根の。 岩間をつたふ苔莚。/\。 敷島の道までもげに末ありや此山の。天ぎる雪の古枝をも。 惜まるゝ花盛。手折りやすると守る梅の。 花垣いざや囲はん梅の花垣をかこはん。 。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「聞き及びたる飛梅とは何れの木を申し候ふぞ。 ツレ「あら事も愚や我等はたゞ。

紅梅殿とこそあがめ申し候へ。ワキ「げに/\紅梅殿とも申すべきぞや。忝くも御詠歌により。 今神木となり給へば。 あがめても猶あきたらずこそ候へ。シテ詞「さて此方なる松をば。 何とか御覧じ分けられて候ふぞ。 ワキ「げにげにこれも垣結びまはし御注連を引き。 誠に妙なる神木と見えたり。 いかさまこれは老松の。シテ詞「遅くも心得給ふ物かな。 シテツレ「紅梅殿は御覧ずらん。 色も若木の花守までも。花やかなるに引きかへて。 地歌「守る我さへに老が身の。 影ふるびたる待つ人の。翁さびしき木のもとを。 老松と御覧ぜぬ神慮もいかゞ恐ろしや。 。 ワキ詞「猶々当社のいはれ委しく御物語り候へ。シテサシ「まづ社壇の体を拝み奉れば。 北に峨々たる青山あり。 地「朧月松閣の中に映じ。南に寂々たる瓊門あり。 斜日竹竿のもとに透けり。 シテ「左に火焔の輪塔あり。地「翠帳紅閨の粧昔を忘れず。

右に古寺の旧跡めり。 晨鐘夕梵の響絶ゆることなし。クセ「けにや心なき。 草木なりと申せども。かゝる浮世の理をば。 知るべし/\諸木の中に松梅は。 殊に天神の。 御自愛にて紅梅殿も老松も皆末社と現じ給へり。されば此二つの木は。 我が朝よりもなほ。漢家に徳を現し。 唐の帝の御時は。 国に文学盛んなれば花の色を増し。匂常より優りたり。 文学すたれば匂もなく。其色も深からず。 さてこそ文を好む木なりけりとて梅をば。 好文木とは附けられたれ。さて松を。 大夫といふ事は。秦の始皇の御狩の時。 天俄にかき曇り大雨頻りに降りしかば。帝雨を。 凌がんと小松の蔭に寄り給ふ。 此松俄に大木となり。枝を垂れ葉をならべ。 木の間透間を塞ぎて。 其雨を漏らさゞりしかば。 帝大夫といふ爵を贈り給ひしより松を大夫と申すなり。

シテ「かやうに名高き松梅の。地「花も千代までの。 行く末久に御垣守。守るべし/\や神はこゝも同じ名の。天満つ空も紅の。 花も松ももろともに。 (注)万代の春とかや千代万代の春とかや。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「嬉しきかなやいざさらば。 /\。此松蔭に旅居して。 風も嘯く寅の時。神の告をも待ちて見ん/\。 後シテ出端「如何に紅梅殿。今夜の客人をば。 何とか慰め給ふべき。 地「げにめづらかに春も立ち。シテ「梅も色そひ。 地「松とても。シテ「名こそ老木の若緑。 地「空すみ渡る神々楽。シテ「歌を歌ひ。舞をまひ。 地「舞楽を備ふる宮寺の。声も満ちたる。 有難や。真ノ序ノ舞「。 シテワカ「さす松の。地「さす枝の。 梢は若木の花の袖。シテ「これは老木の神松の。 地「是は老木の神松の千代に八千代に。 さゞれ石の。巌となりて。苔のむすまで。

シテ「苔のむすまで松竹。亀鶴の。 地「齢をさづくる此君の。 行く末護れと我が神託の。告を知らする。松風も梅も。 久しき春こそ。めでたけれ。

。 (注)原文は。 「神さびて失せにけりあと神さびて失せにけり。 」とありしを。 徳川氏の松平姓を憚りて諷ひかへたるものなり 白楽天 従者 漁翁 住吉明神

半開ロワキ「抑これは。唐の太子の賓客。 白楽天とは我が事なり。 詞「扨も是より東に当つて国あり。名を日本と名づく。 急ぎ彼の上に渡り。 日本の智恵を計れとの宣旨に任せ。唯今海路に赴き候。 ワキ、ワキツレ二人次第「舟漕ぎ出でて日の本の。/\。 其方の国を尋ねん。道行三人「東海の。波路遥に行く舟の。 /\。跡に入日の影残る。 雲の旗手の天つ空。月また出づる其方より。 山見えそめて程もなく。日本の地にも着きにけり。 /\。ワキ詞「海路を経て急ぎ候ふ程に。 是ははや日本の地に着きて候。

暫く此処に碇をおろし。 日本のやうを眺めばやと存じ候。 シテツレ真ノ一セイ「不知火の。筑紫の海の朝ばらけ。 月のみのこる。けしきかな。 シテ「巨水漫漫として碧浪天を浸し。 二人「越を辞せし范蠡が。扁舟に棹をうつすなる。 五湖の煙の波の上。かくやと思ひ知られたり。 あらおもしろの海上やな。下歌「松浦潟。 西に山なき有明の。上歌「月の入る。 雲も浮むや沖つ舟。/\。 互にかゝる朝まだき。海は其方か唐土の。 船路の旅も遠からで。一夜泊と聞くからに。月も程なき。

名残かな/\月も程なき名残かな。 ワキ詞「我万里の波涛を凌ぎ。 日本の地にも着きぬ。是に小船一艘浮めり。 見れば漁翁なり。如何にあれなるは日本の者か。 シテ「さん候是は日本の漁翁にて候。 御身は唐の白楽天にてましますな。 ワキ「不思議や。始めて此土に渡りたるを。 白楽天と見る事は。何の故にてあるやらん。 ツレ「其身は漢土の人なれども。 名は先立つて日本に聞ゆ。隠なければ申すなり。 ワキ「たとひ其名は聞ゆるとも。 それぞとやがて見知る事。 あるべき事とも思はれず。シテツレ二人「日本の智恵を計らんとて。 楽天来り給ふべきとの。 聞えは普き日の本に。西を眺めて沖の方より。 船だに見ゆれば人毎に。すはやそれぞと心づくしに。 地歌「今や/\と松浦舟。/\。沖より。 見えて隠なき。唐土舟の唐人を。 楽天と見ることは何か空目なるべき。

むつかしや言さやぐ。 唐人なれば御詞をもとても聞きも知らばこそ。 あらよしな釣竿の暇をしや。釣垂れん暇をしや釣たれん。 。ワキ詞「なほ/\尋ぬべき事あり舟を近づけ候へ。如何に漁翁。 さて此頃日本には何事を翫ぶぞ。シテ「さて唐土には何事を。 翫び給ひ候ふぞ。 ワキ「唐には詩を作つて遊ぶよ。 シテ詞「日本には歌をよみて人の心を慰め候。ワキ「そも歌とは如何に。 シテ「それ天竺の霊文を唐土の詩賦とし。 唐土の詩賦を以て我が朝の歌とす。 されば三国を和らげ来るを以て。 大きに和ぐと書いて大和歌と読めり。 しろし召されて候へども。 翁が心を御覧ぜんため候ふな。ワキ「いや其儀にてはなし。 いでさらば目前の景色を詩に作つて聞かせう。 青苔衣をおびて巌の肩にかゝり。 白雲帯に似て山の腰をめぐる。心得たるか漁翁。 シテ「青苔とは青き苔の。

巌の肩にかゝれるが衣に似たるとかや。 白雲帯に似て山の腰をめぐる。おもしろし/\。 日本の歌もたゞこれさふらふよ。 苔衣着たる巌はさもなくて。 衣着ぬ山の帯をするかな。 ワキ「不思議やなその身は賎しき漁翁なるが。かく心ある詠歌を連ぬる。 其身は如何なる人やらん。 シテ「人がましやな名もなき者なり。されども歌を詠む事は。 人間のみに限るべからす。 生きとし生ける物毎に。歌をよまぬは無きものを。 ワキ「そもや生きとし生ける物とは。 さては鳥類畜類までも。 シテ「和歌を詠ずるその例。ワキ「和国に於て。シテ「証歌多し。 地歌「花に鳴く鴬。水に住める蛙まで。 唐土は知らず日本には。 歌をよみ候ふぞ翁も。大和歌をばかたの如くよむなり。 クセ「そも/\鴬の。 歌をよみたる証歌には。孝謙天皇の御宇かとよ。大和の国。 高天の寺に住む人の。しきねんの春の頃。

軒端の梅に鴬の。来りて鳴く声を聞けば。 初陽毎朝来。不遭還本栖と鳴く。 文字に写してこれを見れば。三十一文字の。 詠歌の詞なりけり。シテ「初春の。 あした毎には来れども。地「あはでぞ帰る。 もとのすみかにと聞えつる鴬の声を初として。 その外鳥類畜類の。 人にたぐへて歌をよむ。例は多くめりそ海の。 浜の真砂の数数に。 生きとし生ける物何れも歌をよむなり。 ロンギ地「実にや和国の風俗の/\。 心有りける蜑人の。実にありがたき習かな。 シテ「とても和国の翫。 和歌を詠じて舞歌の曲。そのいろ/\を顕さん。 地「そもや舞楽の遊とは。 その役々は誰ならん。シテ「誰なくとても御覧ぜよ。 我だにあらば此舞楽の。 地「鼓は波の音笛は竜の吟ずる声。 舞人は此尉が老の波の上に立つて。青海に浮みつゝ。 海青楽を舞ふべしや。シテ「芦原の。

地「国も動かじ万代までに。来序中入間「。後シテ「山影の。 うつるか水の青き海の。地「波の鼓の。海青楽。 真ノ序ノ舞「。シテワカ「西の海。 檍が原の波間より。地「現れ出でし住吉の神。 住吉の神住吉の。シテ「現れ出でし住吉の。 地「住吉の神のカのあらん程は。よも日本をば。 従へさせ給はじ。速に浦の波。 立ち帰り給ヘ楽天。 地「住吉現じ給へば/\。 伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。 安芸の厳島の明神は。 娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。 八大竜王は。八りんの曲を奏し。 空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。 手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。 漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。 実に有難や。 神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき 鶴亀(謡ナシ) 皇帝 大臣

シテサシ真ノ来序「夫青陽の春になれば。 四季の節会の事始。地「不老門にて日月の。 光を天子の叡覧にて。 シテ「百官卿相に至るまで。袖を連ね踵を接いで。 地「其数一億百余人。シテ「拝をすゝむる万戸の声。 地「一同に拝する其音は。シテ「天に響きて。 地「夥し。上歌「庭の砂は金銀の。/\。 玉を連ねて敷妙の。五百重の錦や瑠璃の枢。 {石+車}{石+渠}の行桁瑠璃の橋。池の汀の鶴亀は。

蓬莱山もよそならず。君の恵ぞありがたき/\。 ワキ詞「いかに奏聞申すべき事の候。 毎年の嘉例のごとく。鶴亀を舞はせられ。 其。 後月宮殿にて舞楽を奏せられうずるにて候。シテ詞「ともかくも計らひ候へ。 地「亀は万年の齢を経。鶴も千代をや。 かさぬらん。子方二人中ノ舞「。上歌「千代のためしの数々に。 /\。何を引かまし姫小松の。緑の亀も。 舞ひ遊べば。丹頂の鶴も。一千年の。 齢を君に。授け奉り。 庭上に参向申しければ。君も御感の余りにや。 舞楽を奏して舞ひ給ふ。月宮殿の白衣の袂。 月宮殿の白衣の袂のいろ/\妙なる。花の袖。 秋は時雨の紅葉の羽袖。 冬は冴えゆく雪の袂を。翻へす衣も薄紫の。

雲の上人の舞楽の声々に霓裳羽衣の曲をなせば。 山河草木国土豊に。 千代万代と舞ひ給へば。官人駕輿丁御輿を早め。

君の齢も長生殿に。/\。還御なるこそ。 めでたけれ 西王母(前ハ男) 東方朔(前ハ老人) 帝王 侍臣

ワキサシ真ノ来序「面白や四時移り易くして。 春過ぎ夏暮れ今ははや。初秋の七日七夕の。 星の祭を急ぐなり。 ツレ「帝の御殿は承華殿。ワキ「さながら花の袖を連ぬ。 ワキツレ「七宝の台金銀の床に。君を始め奉り。 ワキ「官軍おの/\。ワキツレ「並み居つゝ。 上歌地「御遊をなして種々の。/\。 楽尽きぬその気色。音に聞く喜見城も。 これにはいかで勝るべき。唯これ君の御威光。 広き恵はありがたや/\。 シテ、ツレ二人真ノ一声「治まれる。 御代の光に数ならぬ。身までも安き。住まひかな。

ツレ二ノ句「恵も広き此君の。二人「御影を頼む。 ばかりなり。シテ「それ賢王の御代のしるし。 五日の風や十日の雨。 二人「湿ふ四方の草木まで。靡き随ふ。この時に。 生れあふ身は頼もしや。下歌「時しもけふは七夕の。 逢ふ瀬を急ぐ頃なれや。上歌「秋来ぬと。 目に見ぬ空はおのづから。/\。 音かへて吹く風の。袖も涼しきタまぐれ。 靡く稲葉の色までも。 千年の秋のはじめかな/\。 シテ詞「如何に奏聞申すべきことの候。 ワキツレ「奏聞申さんとはいかなるものぞ。 。 シテ「これは此国の傍に住むものにて候ふが。 申し上げたき子細の候ひて参内申して候。ワキツレ「さらば此方へ参り候ヘ。

。 シテ「これは此国の傍に住む者にて候ふが。 めでたき瑞相の御座候ひて参りて候。 此程三足の青鳥御殿の上を飛び廻り候。これ西王母が寵愛の鳥にて候。 即ち西王母此君へ参礼申すべし。 此事奏聞申さん為に参りて候。 ワキ「かゝるめでたき事こそ候はね。 尚々仙人の謂懇に物語り候へ。 クリ「それ仙郷といつぱ。 人間に交はらず。松の葉をすき苔を身に着て。 年は経れども楽尽きず。飛行自在の通を得る。 シテサシ「忝くも悉達太子は。 仙人に仕へおはしまし。地「採果汲水年を経て。 終に成道し給ひて。大聖世尊となり給ふ。 クセ「然るに仙人のその数。限も知らぬ中にも。 西王母と聞えしは。

西方極楽無量寿仏の化現なれば。 はかりなき命の仙人となるぞめでたき。されば園生に植うる桃の。 。 三千年に一度花咲き実なる此木の仙薬となるぞ不思議なる。 シテ「今は包まじわれこそは。 地「其名も世々に隠なき東方朔と聞えしは。此老翁が事なり。 君桃実をきこしめさば。御寿命長遠に。 御身も息災なるべし。 急ぎ王母を伴なひ重ねて参内申さんと庭上を立つて帰る波の。 声ばかり残りつゝ。 形は雲に入りにけり形は雲に入りにけり。来序中入。 後シテ出端「抑これは。 仙郷に入つて年久しき。東方朔とは我が事なり。 さてもれれ西王母が桃実を度々服せし其故に。 寿命既に九千歳におよべり。 彼の桃実を君にさゝげ申さんとの誓あり。 いかにやいかに西王母。とく/\参内申すべし。 地「不思議や西の。空よりも。/\。 白雲一村下ると見えしが。三足の青鳥。

翅をならべて。飛び廻り。姿も妙なる王母の出立。 光も輝く衣冠を着し。 斑竜に乗じで顕れ給ふ。まのあたりなる。奇特かな。 後ツレ「王母は庭上に歩み出て。 地「王母は庭上に歩み出でて。 かの桃実を捧げ持つて。上覧に備ヘ。奉れば。帝王御感の。 余にや。糸竹の調。数を尽し。皆一同に。 奏で給ふ。舞楽の秘曲は面白や。

上「舞楽も漸う時過ぎて。/\。 夕陽西に。傾きければ。おの/\君に。 御暇申し。帰らんとせしに。帝王名残を。 惜み給ひ。かさねて参内申すべしと。 宣旨を蒙り二人は伴出でけるが。 王母は斑竜。 にゆらりと打ち乗り遥の雲路に攀ぢ上り。遥の雲路に攀ぢ上つて。又天上にぞ。帰りける 勅使 従者 漁翁 漁夫 白髭明神 天女 竜神

ワキ、ワキツレニ人次第「君と神との道直に。/\。 治まる国ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 扨も江州白髭の明神は。霊神にて御座候。 君此程不思議の御霊夢の御告ましますにより。 急ぎ参詣申せとの宣旨を蒙り。唯今白髭の明神に。

勅使に参詣仕り候。 道行三人「九重の空も長閑けき春の色。/\。霞む行くへは。 花園の志賀の山越うち過ぎて。 真野の入江の道すがら。鳰の浦風さえかへり。 立ち寄る波も白髭の。 宮居にはやく着きにけり/\。

シテ、ツレ二人真ノ一声「釣のいとなみ。いつまでか。 隙も波間に。明け暮れん。 ツレ二ノ句「棹さしなるる海士小舟。 二人「渡り兼ねたる浮世かな。シテ「風帰帆を送る万里の程。 江天渺渺として水光平かなり。 二人「舟子は解くこれ明朝の雨。 おもしろや頃しも今は春の空。霞の衣ほころびて。 峯白妙に咲く花の。嵐も匂ふ。日影かな。 下歌「賎しき海士の心まで。 春こそ長閑けかりけれ。上歌「花誘ふ比良の山風吹きにけり。 /\。漕ぎ行く舟のあと見ゆる。 鳰の浦曲もはる%\と。かすみ渡りて天つ雁。 かへる越路の山までも。 眺に続く気色かな/\。 ワキ詞「いかにこれなる翁。 汝は此浦の者か。シテ詞「さん候此浦の漁夫にて候ふが。 朝な/\沖に出で釣を垂れ候。 まづ御姿を見奉れば。 このあたりには見馴れ申さね御事なり。

もし都よりの御参詣にて御座候ふか。 ワキ「実によく見てあるものかな。これは当今に仕へ奉る臣下なるが。 。 君此程不思議の御霊夢の御告ましますにより。勅使に参詣申して候。 シテ「有難や君としてだにかほどまで。 敬ひ給ふ御神の。御威光の程こそ有難けれ。 シテツレ二人「賎しき海人の此身までも。直なる御代に。 あふみの梅の。深き恵を頼むなり。 ワキ「実に誰とても君を仰ぎ。神を敬ふ心あらば。 などか恵に預からざらん。 シテ「殊更こゝは。ワキ「処から。地歌「瑞垣の。 年も経にけり白髭の。/\。神の誓は今とても。 変らざりけり。実に有難や頼もしや。 我は心もなみ小舟。釣の翁の身ながらも。 安く楽む此時に。生れあふ身は。 有難や生れあふ身は有難や。 地クリ「夫れこの国の起家々に伝る所。 おの/\別にして。其説よち/\なりといへども。暫く記する所の一義に依らば。

天地既に分つて後。 第九の減劫人寿二万歳の時。 シテサシ「迦葉世尊西天に出世し給ふ時。地「大聖釈奠其授記を得て。 都率天に住し給ひしが。シテ「我八相成道の後。 。 遺教流布の地いづれの所にか有るべきとて。 地「此南瞻部州を普く飛行して御覧じけるに。漫々とある大海の上に。 一切衆生悉有仏性如来。常住無有変易の波の声。 一葉の芦に凝り固まつて。 一つの島となる。今の大宮権現の。橋殿なり。 クセ「其後人寿。百歳の時。 悉達と生れ給ひて。八十年の春の頃。 頭北面西右脇臥抜提の波と消え給ふ。されども仏は。 常住不滅法界の。妙体なれば昔。 芦の葉の島となりし中つ国を御覧ずるに時は鵜草。 葺不合の。 尊の御代なれば仏法の妙事人知らず。こゝに比叡山の麓さゝ波や。 志賀の浦の辺に釣を垂るゝ老翁あり。 釈尊かれに向つて。翁もし。

此地の主たらば此山を我に与へよ。仏法結界の。 地となすべしと宣へば。翁答へて申すやう。 我人寿。六十歳の始より。 此山の主として。此湖の七度まで。 芦原になりしをも。正に見たりし翁なり。但この地。 結界となるならば。 釣する所失せぬべしと深く惜み申せば。釈尊力なく。 今は寂光土に。帰らんとし給へば。 シテ「時に東方より。地「浄瑠璃世界の主薬師。 忽然と出で給ひて。善きかなや。釈尊此地を弘め。 給はん事よ我人寿二万歳の昔より。 此処の主たれど。老翁いまだ我を知らず。 なんぞ此山を惜み申すべきはや。 開闢し給へ我も此山の主となつて。 共に後五百歳の。仏法を守るべしと。 堅く誓約し給ひて。二仏東西に去り給ふ。其時の翁も。 今の白髭の神とかや。 ワキ詞「不思議なりとよか程まで。 妙なる神秘を語る翁の。

其名は如何におぼつかな。シテ「今は何をか包むべき。 其古も釣を垂れし翁なるが。 勅使を慰め申さんとて。唯今こゝに来りたり。 殊更今宵は天灯竜灯。神前に来現の時節なれば。 暫く待たせ給ふべしと。 地歌「夕の雲も立ち騒ぎ。/\。 汀に落ちくる風の音老の波もよりくる。釣の翁と見えつるが。 我白髭の神ぞとて玉の。 扉を押し開き杜壇。 に入らせ給ひけり社壇に入らせ給ひけり。来序中入間「。 地出端「八乙女の。返す袂の色々に。 宜禰が鼓も声すみて。 神さび渡れるをりからかな。 後シテ「神は人の敬ふによつて威を増す。 ましてやこれは勅の使。 仰ぎてもなほ余あり。地歌「不思議や社壇の内よりも。 /\。誠に妙なる御声を出し。 扉もおのづから。朱の玉垣かゝやき渡る。 白髭の。神の御姿。現れたり。

ワキ「あら有難の御事や。 かゝる奇特に逢ふ事も。唯これ君の御蔭ぞと。 感涙袖を湿せり。シテ「いざ/\さらば夜もすがら。舞楽の曲を奏しつゝ。 勅使を慰め申さんと。地歌「神楽催馬楽とり%\に。/\。 糸竹の役々秘曲を尽し。 拍子を揃へて夜遊の舞楽は有難や。 シテ「面白や此舞楽。地「面白や此舞楽の。 鼓は自ら。磯打つ波の声。 松風は琴を調べ。心耳を澄ますをりからに。 天つ御空の雲井かゝやき渡り。 湖水の面鳴動するは天灯竜灯の来現かや。出端にて天女出でゝ早苗にて竜神出づ。 地歌「天地の両灯現れて。/\。 神前に供ふる御灯の光。 山河草木かゝやき渡り。日夜の勝劣見えざりけり。竜神舞働。 シテ「かくて夜もはや明方の。 地「かくて夜もはや明方になれば。 各神前に御暇申し。帰れば明神も御声をあげて。 善哉善哉と。

感じ給へば天女は天路に又立ち帰れば。竜神は湖水の。 上に翔つて波を返し。 雲を穿ちて大地に別れて飛び去り行けば。明け行く空も。白髭の。

明け行く空も白髭の神風。治まる御代とぞ。 なりにける 竜神 宮人 天女 杵築天神(前ハ宮老人) 臣下

ワキ三人次第「誓あまたの神祭。/\。 出雲の国を尋ねん。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても出雲の国に於て。今月は神有月とて諸神影向なり。 御神事様々のよし承り及び候ふ程に。 此度参詣仕り候。道行「朝立つや。 旅の衣の遥遥と。/\。ゆくへ時雨るゝ雲霧の。 山又山を越え過ぎて。 神有月を名にしおふ。出雲の国に着きにけり。/\。 シテツレ二人真ノ一声「八雲立つ。 出雲八重垣妻こめし。宮路にはこぶ歩かな。 ツレ二ノ句「尾上の松の梢まで。二人「神風さそふ声ならん。

シテ「実にや濁世の人間と。 生れ来ぬれど誓ある。二人「神に事ふる身にしあれば。 洩れぬ恵にかゝり来て。 心のまゝの春秋を。送り迎へて。 年月の尽きせぬ代々を頼むなり。下歌「いざや歩を運ばん。 /\。 上歌「いづくにか神の宿らぬ蔭ならん。/\。嶺もをの上も松杉も。 山河海村野田残る方なく神のます。 御影を受けて。隔なき。宮人多き往来かな/\。 ワキ詞「われ出雲の国大社に参り。 案内を窺ふ所に。宮人数多来れり。 いかに方々に申すべき事の侯。

シテ「これは此あたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 いづくよりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「さん候是は朝に隙なき身なれども。 当国に於て今月は神有月とて。 諸神残らず影向の地と承り及びて候へば。この度君に御暇を申し。 遥々参詣申したり。 ツレ「げにありがたや神と君との。 ワキ「隔なき世のしるしとて。シテ「歩を運ぶ此神の。ワキ「恵普き。 シテ「月影も。地「神の世を。 思ひ出雲の宮柱/\。太敷き立ちて敷島の。 大和島根まで。動かぬ国ぞ久しき。げにや。 紅も。深くなりゆく梢より。 時雨れて渡る深山辺の。里も冬立つ気色かな/\。 ワキ詞「不知案内の事にて候へば。 当社の神秘委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\出雲の国大社は。三十八社を。 勧請の地なり。 シテ「然るに五人の王子おはします。 地「第一は阿受岐の大明神と現れ給ふ。山王権現これなり。

シテ「第二にはみなとの大明神。 地「九州宗像の明神と現れ給ふ。第三は伊奈佐の。速玉の神。 常陸鹿島の。明神とかや。 クセ「第四には鳥屋の大明神。信濃の諏訪の明神と。 即ち現じおはします。 第五には出雲路の大明神。伊予の三島の明神と。現れ給ふ御誓。 げに曇なき長月や。 月の晦日にとりわきて。シテ「住吉一処は影向なる。 地「残の神々は。 十月一日の寅の時に悉く影向なり。様々いろ/\の神遊。 今も絶えせぬこの宮居。語るもなか/\愚なる誓なるべし。ロンギ「げにありがたき物語。/\。 末世ながらも隔なき。 神の威光ぞあらたなる。シテ「なか/\なれや年々に。 けふの今宵の神遊。地「その役々も。 シテ「数々に。地「あらぶる神たちの舞歌の袖。 引くや御注連の名はたれと。 白木綿かくる玉垣に。立ちよると見えつるが。 神の告ぞと言ひ捨てゝ。社壇に入りにけり。

社壇の内に入りにけり。来序中入。 天女出端上(謡掛)「時雨るゝ空も雲晴れて。 月も輝く玉の御殿に。光を添ふる気色かな。 後ツレ「われはこれ。 出雲の御崎に跡を垂れ。仏法王法を守の神。 本地十羅刹女の化現なり。地「容顔美麗の女体の神。/\。 光も輝く玉の笄。かざしも匂ふ。 袂を返す。夜遊の舞楽は。おもしろや。天女舞。 上「げに類なき舞の袖。/\。 靡くや雲の絶間より諸神は残らず現れ給ひ。 舞楽。 を奏し神前に飛行しはやとく姿を現し給へと。夕の月も。雲晴れて。尤も朱の。 玉垣輝き。神体現れ。おはします。 ロンギ「げにや尊き御相好。/\。 まのあたりなる神徳を。受くるも君の恵かな。 シテ「とても夜遊の神祭。 委しくいざや現し。かの客人を慰めん。 地「さて神楽の役々は。地「住吉鹿島。地「諏訪熱田。 其他三千世界の諸神はこゝに影向なり。

とりどりの小忌の袖。返す%\も面白や。 地「舞楽も今は時過ぎて。/\。 更け行く空も。時雨るゝ雲の。沖より颶風。 吹き立つ波は。海竜王の出現かや。 早笛竜神「抑これは。海竜王とは我がことなり。 詞さても毎年竜宮より。 黄金の箱に小竜を入れ。神前に捧げ申すなり。 地「竜神即ち現れて。/\。波を払ひ潮を退け。 汀に上り御箱をすゑおき。神前を拝し。 渇仰せり。その時竜神御箱の蓋を。忽ち開き。 小竜を取り出し。即ち神前に捧げ申し。 海陸共に。治まる御代の。 げにありがたき。めぐみかな。舞働。 シテ「四海安全に国治まり。 地「四海安全に国治まつて。五穀成就。 福寿円満にいよ/\君を守るべしと。 木綿四手の数々神々とり%\に御前を払ひ。 神あげのみ山に上らせ給へば。 竜神平地に波浪を起し。逆巻く潮に引かれゆけば。

諸神は虚空に遍満しつゝ。げにあらたなる。 神は社内。げにあらたなる神は社内。

竜神は海中に入りにけり 勅使 従者 老人 老女 源太夫の神 橘姫

ワキ、ワキツレ二人次第「曇なき名の日の本や。/\。 熱田の宮に参らん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕ヘ奉る臣下なり。 さても尾州熱田の明神は霊神にて御座候ふ間。 急ぎ参詣申せとの宣旨を蒙り。 唯今熱田の明神へ参詣仕り候。 道行三人「何事も道ある御代の旅とてや。/\。 関の戸さゝで逢坂の山を都の名残にて。末も東の道遠き。 行くへなれども程もなく。 国々過ぎてこれぞ此。熱田の宮に着きにけり/\。 シテツレ真ノ一声「朝清め。落葉を掃ふ程ならし。 風をも松の。木蔭かな。 ツレ二ノ句「神の御前の瑞籬の。二人「久しき代より仕ヘ来ぬ。

サシシテ「これは当社に年ひさしき。 夫婦の者にて候ふなり。 二人「それ千早振る神の職事。さま%\なりと申せども。 こゝは処も浦さびて。眺の末は海山の。 雲と波とに移り行く。気色ぞかはる明暮に。 馴。 れても通ふ心とて折々毎にめづらしさよ。もとよりも誓の海の底ひなく。 深き教の彼の国に。安く至らん法の御舟。 仏の道もよそならぬ。神の恵を頼むなり。 。 下歌「歩を運び年月を送り迎へて老が身の。上歌「夙に起き夜半に寐覚め仕へてぞ。 /\。ながらへ来ぬる春秋の。 月に馴れ花に添ふ心も老と身はなりて。

誠を致す志。実に神感も頼もしや/\。 ワキ詞「我暁天より星を戴き。 宮中を拝する所に。 これなる老人夫婦神前を清め御垣を囲ふ気色見えたり。 御身は宮づこにてましますか。 シテ「さん候これは当社の宮づこにて候。 分きては御垣守にて候ふ程に古りたる処をかこひ。 時々は庭を情め信心を致し候。 ワキ「実に/\有難う候。 大方神前に於て御垣を囲ひ申さるゝ事と云ひながら。 先は大内の御垣守とこそ申すべけれ。 分きて当社の御垣を囲ふ謂の候ふやらん。 シテ「御不審は御理にて候。 忝くも当社と申すは。 出雲の大社と御一体の御事ぞかし。ツレ「然るに往時素盞嗚の尊。 出雲の団に至り給ひ。御宮造ありし時。 シテツレ二人「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに。 八重垣作る其八重垣を。 こゝにも由緒はあるものを。不審な為させ給ひそとよ。

ワキ「謂を聞けばありがたや。 さては出雲と御一体。和光垂跡の御事なるか。 なほなほ謂を語り給へ。 シテ詞「景行第三の皇子日本武の尊と申しゝは。 東夷を平らげ国家を鎮め。終にはこゝに地を占め給ふ。 ツレ「これ素盞嗚の御再来。 衆生済度の方便にて。シテ「或は人の代。シテツレ二人「或は又。 地「神の代を思ひ出雲の宮柱。/\。 立ち添ふ雲も八重垣の。 こゝも隔は名も異に。誓は様々変れども。 一体分身の御神所。一心に仰ぎ給へや。 時は三伏の夏の日の熱田の宮路浦伝ひ。近く鳴海の磯の波。 松風の声寐覚の里。聞くにも心涼しく。 老の身も夏や忘るらん/\。 ワキ詞「猶々当社の謂委しく申し候へ。 シテ「懇に申し上げうずるにて候。 地クリ「それ和光同塵の御垂跡。何れ以て疎かならねど。 威光を四方に現し給ふは。これ八剱の神徳なり。 サシシテ「然れば景行第三の皇子。御名は日本武の尊。

地「地神五代には天照太神の兄。 素盞嗚の尊。出雲の国に跡を垂れ。 暫く宮居し給へり。 シテ「こゝに簸の川上に涕哭する声あり。地「尊至りて見給へば。 老人夫婦が中に。乙女を抱き泣き居たり。 これを如何にと尋ぬるに。 クセ「老人答へて申すやう。我は手摩乳脚摩乳。 娘を稲田姫といふ者にて候ふが。 大蛇の生贄を悲しむなりと申せば。 然らば其処を我に得させよその難を遁すべしと宣へば。 喜悦の心妙にして尊に姫を奉る。 シテ「やがて大蛇を従ヘ。 地「其尾にありし剱を村雲の剱と名づけしこそ八剱の宮の御事よ。 されば簸上の明神は其時の稲田姫なり。 父の老翁名をかへて源太夫の神と現れ。 東海道の旅人を守らんと誓ひ給へり。 ワキ詞「実にありがたき神秘の教。 唯人ならず覚えたり。御名を名乗り給ふべし。 シテ「今や何をか包むべき。

簸の川上に現れし。ツレ「我は手摩乳。シテ「脚摩乳。 ツレ「夫婦これまで。シテツレ二人「現れたり。 地「常ならじ御身は勅諚の使なる故に。 仰ぐべし神とても。人の敬深ければ。 守らん為に来りたり。こゝにては源太夫の。 神ぞと名乗り捨てゝ。 行く方見えずなりぬ行方知らずなりにけり。来序中入間「。 ツレ出端「我はこれ。 真如実相の無漏を出でて。有為の濁塵に光を交へ。 結縁の衆生擁護の神。橘姫とは我が事なり。 シテ「我はまた無縁の衆生を利益せんとて。 東海道を日夜に守る。 源太夫の神とは我が事なり。地「あら有難や。 ワキ「実に有難き御影向。 感涙肝に銘じつつ。心空なるばかりなり。 ツレ詞「とても姿を現さば。いざや舞楽の曲を尽し。 かの客人に見せ申さん。シテ「実に/\これもいはれたり。さて役々は。ツレ「糸竹の。 シテ「中に異なる太鼓の役。

ツレ「即ち御身。シテ「源太夫が。ツレ「嘉例もさぞな。 シテ「思ひ出づる。地「昔も打ちたる。 太鼓の御役。今も妙なる秘曲を添へて。 撥も数ある楽拍子。今打ち寄るも。 波の調面白やな有難や。 楽シテ「面白の遊楽や。地「面白の遊楽や。 時しもあれや月も照り添ひ。 松風も涼しくて神さび渡れる折柄に。 およそ人間の業なりとも感応などか無かるべき。

ましてや神仙の事業なれば。 実にも妙なる御代のしるし。治世の声は安楽にて。 琴瑟は玉殿に。 せうくわていしやう官商上り下る時に声。綾をなす舞歌の曲。 程時移るかと。早明方になりぬれば。 都に帰るは勅の使。 さてこそ名残の還城楽さてこそ名残の還城楽の鼓の声や二十五声の。 五。 更の一点より夜は白々とぞ明けにける夜は白々とぞ明けにける 勅使 従者 老人 天女(謡ナシ) 三返リ翁 龍神(謡ナシ)

ワキ、ワキツレ二人真ノ次第「賢き君の勅を受け。/\。 東の旅に急がん。ワキ詞「そも/\これは延喜の聖主に仕へ奉る臣下なり。 さても信濃の国木曽の郡に。 寝覚の床とて在所あり。かの所に三返の翁と申す者。

寿命め。 でたき薬を与ふる由君聞し召し及ばせ給ひ。急ぎ見て参れとの宣旨を蒙り。 唯今信濃の国寝覚の里へと急ぎ候。 道行三人「思ひ立つ。空に重なる雲の袖。/\。 靡きて帰る雁がねも。山又山を越え過ぎて。

行けば程なき旅衣。木曽の御坂も近づくや。 嵐に更くる夜半の空。寝覚の床は。 これかとよ/\。ワキ詞「急ぎ候ふ間。 これははや寝覚の床に着きて候。 この處にてかの翁を尋ぬうずるにて候。 シテツレ二人真ノ一声「信濃路や。 木曽の御坂の春風に。行方も知らぬ。花ぞ散る。 ツレ二ノ句「霞こめたる谷の戸に。 二人「世を鴬の声しげし。シテサシ「所から春立つ山路分け過ぎて。 二人「採るや薪の尾上の鐘。 朧々と聞き馴れて。たどるや老の坂ならん。 上歌「立ち上る。木曽の麻衣袖しをり。/\。 賎が家居の業なれば。 かけ路の橋も馴れ/\て。幾重かさなる白雪の。 解けて落ち来る谷川の。水も岩根や。 伝ふらん/\。 。 ワキ詞「如何にこれなる老翁に尋ぬべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。

見奉れば此あたりにては見馴れ申さぬ御姿なり。 もし都よりの御下向にて候ふか。 ワキ「実によく見てあるものかな。 これは延喜の聖主に仕へ奉る臣下なるが。この所に三返の翁と申す者。 寿命。 めでたき薬を与ふる由君聞し召し及ばせ給ひ。急ぎ見て参れとの宣旨なり。 かの老翁が私宅を教へ候へ。 シテ「さては勅使にて御座候ふぞや。あら有難や候。 総じてこの三返の翁と申すは。 生所もあらず出所もなく。 ツレ「唯おのづから其まゝにて。寝覚の枕松が根を。 シテ「宿とさだむる翁なれば。定めてこゝに来るべし。 ワキ「実に/\是はいはれたりと。 岩根の枕寝覚の床に。シテ「暫く御待ち候へとよ。 ワキ「暫し休らふ。シテ「其うちに。 地「日も夕暮に程もなく。/\。 なるや弥生の空なれば。月も朧に差し出でて。 山の端白き松の風。枝を鳴らさぬ木の下に。 暫し休らふ。旅居かな/\。

。なほ/\寝覚の床の謂委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\この寝覚の床と申すは。 役の行者暫く御座をなし給ひて。観念の。眠を覚まし給ふ。 シテサシ「然るに彼の三返の老翁は。 生所も知らず出所もなく。地「唯おのづから忽然と。 現れ出でて寝覚の床に。千年を送るそのうちに。 寿命めでたき薬を服し。 三度若やぐ故により。三返の翁と名づけたり。 クセ「ある時翁申すやう。〓{羽に廾}養射術を伝へて。 其名を雲の上にあげ。されば愛染明王は。 定の弓慧の矢にて。悪魔を従へ給ふなり。 我は又御薬の。威徳を以て大君の。 代を治めんと思ふぞと。 勅使に申し上げければ。 勅使喜悦の色をなし汝如何にと宣へば。シテ「今は何をか包むべき。 地「我この所に年経たる。 三返の翁なるが目前に来りたり。勅使暫く待ち給へ。 夕月の夜もすがら。舞楽を奏し見せ申し。

又御薬を与へんと。いふかと見れば老翁は。 岩陰。 に寄ると見えて行方知らずなりにけり行方も知らず失せにけり。来序中入間「。 ツレ天女出下リ羽地「天つ風。/\。 雲の通路吹きとぢよ。乙女の衣色々に。 糸竹も音を添へて。波の皷声澄むや。 海青楽を奏しけり。天女舞「。 後シテ「そも/\これは。医王仏の化現。 無病息災の方便のため。 三返の翁仮に現れ出でたるなり。地「その時老翁〓{新字源:2799。 かんぬき}を開き。/\。青天はるかに見渡しければ。 シテ「東南に雲晴れ。西北の風も。 吹き納まつて。地「花降り異香音楽の響。 舞楽の数々乙女の袂。返す%\も面白や。 楽地「夜遊の舞楽も時過ぎて。/\。 有明方の。月も落ちくる折からに。 不思議や川波はげしく荒れて。 二龍の姿は現れたり。龍神二人出早笛地「両龍王は川波に浮み。 /\。かの御薬を。奉ぐる気色。

汀に座してぞ見えたりける。 シテ「老翁悦の思をなして。老翁悦の思をなして。 かの客人の。御慰に。 神通自在の秘術をあらはして夜遊の戯。なし給ふ。 龍神働シテ「かくて時移り頃去れば。 地「かくて時移り頃去れば。かの御薬を。君に捧げ。

勅使に与へてこれまでなりと。 木曽の桟ゆらりと打ち渡り。帰り給へば。 龍神も東西に飛行の翔り。 波に戯むれ巌に上れば夜も白々と。明方の空に。夜も白々と。 明方の空に。夢の寝覚は。覚めにけり 勅使 従者 海女 海女 気多明神 八尋玉殿の神

ワキ、ワキツレ次第「御影曇らで君守る。/\。 神の宮居に参らん。ワキ詞「そも/\これは当今につかへ奉る臣下なり。 さても能州気多の明神は。霊験無双の神にて御座候。 御神事の数々多き中に。 霜月初午の御祭礼の儀式。君聞し召し及ばせ給ひ。 急ぎ見え参れとの宣旨を蒙り。 唯今能州に下向仕り候。

道行三人「思ひ立つ其方の空も北時雨。/\。 降り来る嶺やあらち山雪の木の芽の山越えて。越の長浜遥々と。 行方につゞく松原の。 影見えそめて程もなく一の宮にも着きにけり。 一の宮にも着きにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程にこれははや。 能州一の宮に着きて候。 あら笑止や俄に雪の降り来りて候。 これなる松原に立ち寄り雪を晴らさばやと存じ候。

シテツレ三人一声「降る雪の。簑代衣袖さえて。 春待ちわぶる。心かな。 シテ「冬立つ波の音までも。四人「浦さびまさる。夕かな。 シテサシ「それ国々所々に。 神所垂跡多けれども。殊更御影を仰ぐなる。 四人「此神垣の松の葉の。千代万代の末かけて。 運ぶ歩もつもる雪の。ふかき恵を。頼むなり。 。 下歌「我は賎しき海士の子のよその見る目も如何ならん。 上歌「誰とても隔はあらじ神慮。/\。 交はる塵の浮世にも安く楽む身の程を。 思ひかへせば勇ある此神祭急ぐなり此神祭急ぐなり。 。 ワキ詞「いかにこれなる人々に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「これ程深き雪の中に。 しかも女性の御身として。 かやうに歩を運び給ふ事不審にこそ候へ。 シテ「さん候これは此浦里に住む女にて候ふが。 霜月初午の御祭礼の儀式。殊更神秘多ければ。

取り分き歩を運び候。 これは此あたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 もし都よりの御参詣にて白ふやらん。 ワキ「実によく見てあるものかな。 是は当今に仕へ奉る臣下にて候ふが。 今月初午の御祭礼の儀式。君聞し召し及ばせ給ひ。 急ぎ見て参れとの宣旨を蒙り。勅使に下向申して候。 シテ「さては遥々の御志。返す%\も有難うこそ候へ。 ワキ「さらば御神事の謂委しく御物語り候へ。 シテ「これ猶秘する事なれば。 あからさまには申し難しさりながら。 当国ゆのがうと申す処より荒鵜を取りて贄に供ふ。 かの鵜みづから贄に備はり。放せばやがて飛び去る事。 これ第一の奇特なり。 ワキ「これは不思議の御事かな。さては鳥類畜類までも。 シテ「贄に備はる神の誓。 ワキ「雲井を翔る翅までも。心なしとはいひがたし。 シテ「ましてやいはん人として。ワキ「頼をかけよ。

シテ「かけまくも。 地「かたじけなしや神の代の。尽きぬ御恵。 ひとへの仰ぎ給へや。 地クリ「そも/\当社の地形を見るに。 西は蒼海漫々たり。北には青山あり。 亀鶴蓬莱山と名づく。一つの巌窟あり。 七星常住の仙境なり。シテサシ「然るに此神は。 垂跡年久しといへども。 利物の風あらたなり。地「日本第三の社壇。 正一位勲一等気多不思議智満大菩薩と号し。 無仏世界度衆生。今世後世能引導の。 誓を顕しおはします。クセ「然るに其昔。 神功皇后の勅を受け。干満。 両顆の名珠を海底に沈め忽ちに。新羅百済の凶族を。 皆悉く亡ぼして。 天下安全に国土も豊なりけり。そのかみ。垂仁天皇の御宇かとよ。 。 大入杵の神王を祭主と定め此神を勧請し奉りけり。 シテ「然れば代々の帝までも地「神徳を仰ぎ給ひ。社禄を贈り礼典。

隙なくあがめ給ふとか。 されば一度も神前に。歩を運ぶ輩は。 息災延命の徳を得二世の願も満つ月の。 影あきらかに曇なき。 当宮の御恵仰ぎても余りあるべし。 ワキ詞「不思議なりとよ方々は。 そも誰なればかほどまで。神秘を残さず語り給ふ。 其名は如何におぼつかな。 シテ「今は何をか包むべき。我此所に年を経て。 有縁の衆生を守るなる。 地「神とやいはん恥かしや。/\。御身は。勅の使なれば。 言葉をかはすぞと。 夕の月の光とともに朱の。 玉垣に隠れけり玉垣の内に隠れけり。中入間「。 ツレ一声出端「昔は大入杵の神王と号し。 今は此地に跡を垂れ。八尋玉殿の神とは。 我が事なり。地「則ち御影を現して。 即御影を現し給ひて勅使に参拝の膝を屈し。 其後御殿に上らせ給ひ。手づから扉を開き。

給へば。誠に妙なる相好荘厳赫奕として。 現れ給ふ。有難や。 シテ「如何に八尋玉殿の神。 いざもろともい舞楽を奏し。かの客人を慰めん。 ツレ「実に客人は勅の使。 さらば舞楽をなすべしと。弦管の役をすゝむれば。 シテ「誠に勅の使ぞと。聞くにつけても思ひ出づる。 地「其古の神祭。/\。 安倍の貞任勅使として。万歳楽を舞ひし事。 唯今の勅の使に。思ひ出づるも面白や。 楽シテ「更け過ぐる夜神楽の。 地「更け過ぐる夜神楽の。月も傾く空なれや。 丑三つも時至れば。神前に供ふる生贄の。 真鳥もこゝに。現れたり。

早笛「空飛ぶ鳥も地に落ちて。/\。 神慮に従ふその有様まのあたりなる奇特かな。 シテ「此鳥少しも驚かず。 地「此鳥少しも驚かず。諸人の中を静かに歩み出で。 階を上り。神前に羽を垂れ伏しけるが。 又立ち帰り庭上に下れば神体ともに。 立ち出給ひ。汝よく聞け此度贄に。 供はる結縁に鳥類の身を転じ。仏果に至れと。 宣命をふくめ給ひければ。 八尋立ち寄りかの鳥を抱き。 海上に向ひて放ち給へば此鳥悦び羽風を立てゝ。雲井に翔り。 飛び廻り/\。遥の沖に飛び去りぬ。 実に有難き和光の神徳。 実にありがたき神徳を見せて。神は上らせ給ひけり 太宰府の僧 従僧 海女老人 火天 傅大士

ワキ、ワキツレ、二人次第「東に残る法の道。/\。

迷はぬ教頼まん。

ワキ詞「これは筑前太宰府に居住の僧にて候。我若年の昔より。 仏法修行の志淺からず候へども。 いまだ都を見ず候ふ程に。洛陽の自社に参り。 殊には北野の天満天神は。 当社御一体の御事なれば。参詣申さんと唯今思ひ立ちて候。 道行三人「筑紫船。法のためにと思ひ立つ。 /\。雲路につゞく天の原。 出づる日影の程もなく。難波の浦に着きしかば。 こ。 れよりやがて旅衣/日も重なれば程もなく。都に早く。 着きにけり都に早く着きにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 都に着きて候。これより北野に参らばやと思ひ候。 サシ「ありがたや釈迦一代の蔵経を。 大唐よりも渡しつゝ。 末世の衆生済度のために。輪蔵に納め結縁の。 手に触れ縁を結ばせんとの。御神の誓ぞ有難き。 南無や傅大士普建普成。現受無比楽後生清浄土。 ツレ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 御身は筑前の宰府より来り給ひて候ふか。

ワキ「不思議やな都始めて一見の者を。 宰府の者とは何とて見知り給ふらん。 ツレ「あら愚の仰やな。 其方はしろしめされずとも我は朝夕白雲の。 迷はぬ法の友人なれば。などかは知らで候ふべき。 ワキ「これは不思議の御事かな。さて/\かやうに承る。御身は如何なる人やらん。 ツレ「今は何をか包むべき。 五千余巻の御経を。昼夜に守護し奉る。 十二天のその中に。火天これまで来りたり。 ワキ「そも火天とはまのあたり。 天部を拝み申す事よと。感涙肝に銘じつゝ。 現とも更に弁へず。ツレ「此方も御身の貴さに。 ワキ「随喜渇仰。ツレ「さま%\に。 地歌「説き置きし。御法の花の色々に。/\。 教は多き道ながら。悟は一つぞ胸の月。 曇らじや三界唯一心の外ならじ。処は北の宮居。 北辰は動かず。天満つ星の廻るなる。 輪蔵を開きて。静かに拝み給へや。

ワキ詞「あら有難の御事や。五千余巻の御経を。 一夜に拝ませおはしませ。 ツレ「五千余巻の御経を。一夜に御僧の拝まんとは。 おふけなき御事なれどもさりながら。 御身父母の胎内を出でしより此方。 五戒を乱さず慈愛を發し。仏道修行し給ふ事。 地「其功既に。年久し。 ツレサシ「然るに此御経に於て。大唐よりも渡されし。 地「傅大士普建普成とて。其身は俗体なりといへども。 此三人の如何なれば。 かの御経に値遇の縁。深き心の。隙もなく。昼夜に経を。 守護し給ふ。クセ「其後日本に。 渡りし法の舟の内。波路遥に漕がれ来し。 心筑紫の果よりも。仏法東漸の。 都の北の宮寺に。ツレ「納め給ひし昔より。 地「今末の世とはいひながら。 類稀なる上人の結縁の利益仰ぎつゝ。衆生を済度し給へ。 我も姿を改めて。 必ずこゝに来りつゝ行道の利益。

なさんといふかと見えて失せにけり。云ふかと見えて失せにけり。来序中入間「。 ワキ「月は隈なき後夜の鐘。 声澄み渡るをりふしに。地「不思議や異香薫じつゝ。 音楽聞え紫雲たなびく絶間より。 花降り下るぞあらたなる。 地「いひもあへねば妙経の。/\。 守護神の御厨子の扉は忽ち四方へひらけて。傅大士二童子現れたり。 シテ「釈迦一代の。御法の御箱。 地「釈迦一代の御法の御箱をかの上人に。 悉く与えんと。普健普成の。二童子に持たせ。 上人の御前にさし置き給へば。 シテ「傅大士座を立つて。地「傅大士座を立つて。 竹杖にすがり。膝をかゞめて。上人を礼し。 かの御経を。読誦し給へば善哉なれや。 善哉なれと。夜遊を奏して舞ひ給ふ。 楽地「いづれも妙なる舞の袖。/\。 月も照り添ふ雲間より。 天部の姿は隠れもなく。天降るこそ。有難けれ。 後ツレ早笛「そも/\これは。

釈迦一代の蔵経の守護神。十二天のその中に。 火天の姿を現すなり。地「火天忽ち天降り。/\。 程なく目前に現れ出でて。上人に向ひ。 即ち結縁の。行道の利益。 めぐらし給へと各立ち寄り。上人を誘なひ。 輪蔵に御手をかけまくも忝しと。 互に推し廻り。廻り廻るや日月の光。曇らぬ御法の。 あらたさよ。舞働「。 ツレ「これはこれ妙経の守護神なれば。

地「これはこれ妙経の守護神なれば。 夜の間に転経の儀式を顕し。 上人悉く披見の其後各御箱をとり%\に。 遥の神前に運び給ふ。傅大士伴なひ。 神前に積み置きいよ/\当社。当寺の仏法。 繁昌の霊地を崇め給へと上人に教へ。 天部。 は雲居に上らせ給へば、七宝荘厳の瑠璃の座の上に。 傅大士二人の童子を伴なひ/\。帰り給ふぞ。ありがたき 従僧 天女 白太夫

ワキ、ワキツレ、二人次第「善き光ぞと名を聞や。/\。 仏の御寺なるらん。 ワキ詞「かやうに候ふ者は。相模の国の田代と申す所に。 尊性と申す者にて候。 われ善光寺の如来に一七日参籠申して候へば。

あらたに御霊夢を蒙りて候ふ程に。 これより河内の国土師寺へ参らばやと思ひ候。道行「捨てゝはや。 久しかりつる世の中を。/\。 また思ひ立つ旅衣。 昨日の山を後に見てなほ行く方は白雲の。海も見えたる西の空。

夕日がくれの霧間より。流もこれや河内なる。 土師の里にも着きにけり。/\。 シテツレ二人真の一セイ「長月の。色も梢の秋を得て。 照るや紅葉の土師の里。 シテ二ノ句「なほ晴れ残る音とてや。 二人「松風ひとりしぐるらん。シテ「これに出でたる老人は。 此里の名も土師寺の。仏神に仕へ申す者なり。 二人「有難や利生は様々多けれども。 わきて誓もかげ高き。天満神の宮寺に。 歩を運ぶ御値遇。げに身を知れば心なき。 われらがためはたのもしや。 下歌「いざや歩を運ばん/\。上歌「神さぶる。 松は十かへり千代の秋。/\。 霜を重ねて下草の。 露の身ながらながらへて神に仕へ奉る。宮路久しき瑞籬の。ふかき誓は。 有難や/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる宮人に申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。

ワキ「これは善光寺の如来の御夢想により。遥々当寺に参りて候。 寺中の。 人に逢ひ孟子御夢想の様を語り申し度く候。 シテ「不思議なる事を承り候ふものかな。 まづ御夢想の様をこの老人に御物語り候へ。 某。 承つて寺中の。 人々へひろめ申し候ふべし。 。 ワキ「あら嬉しや候。 さらば委。 しく申し候ふべし。 寺中の人々。 に御ひろめ候へ。 シテ「心得申し候。 ワキ「これ。 は相模の国田代と申す所に尊性と申す聖にて候ふが。 われ念仏往生の志あるにより。 此度信濃の国善光寺へ参り。

一七日参籠申す所に。如来見ず子御厨子の御戸を開き。 香の衣に香の袈裟をかけ給ひたる老僧の。 あらたなる御声にて。 汝念仏往生の志誠に懇なり。然らば五幾内河内の国土師寺は。 天神の御在所なり。 かの所に神明を始め奉り。七社の神々を勧請申されたり。 又天神は一切衆生現当二世のため。

五部の大乗経を書き供養して埋まれたり。 その軸より木〓{木へんに患:ゲン}樹の木生ひ出でたり。 そ。 の木の実を取り珠数として念仏百万遍申さば。往生疑あるまじきと承つて。 夢覚めぬ。なんぼう有難き御夢想候ふぞ。 シテ「かゝる有難き御事こそ候はね。 やがて寺中の人々にふれ申し候ふべし。 まづ。 唯今仰せられ候ふ木〓{木へんに患}樹を見せ申し候ふべし。此方へ御出で候へ。 ワキ「さらばやがて御供申し候ふべし。 シテ「是に神明を初め奉り七社の神々を斎ひ申され候。 またこれなるは天神にて御座候。 あれに見えたるこそ唯今御物語り候。 木〓{木へんに患}にて候。よく/\御拝み候へ。 ワキ「有難や神も仏も同一体とは申せども。 天神同意の御結縁今始めて承り候。 ツレ「うたての聖の仰やな。今に始めぬ天神の。 弥陀一体の御値遇。 天神と申すにその御本地。救世観音にてましまさずや。

ワキ「げに/\これは理なり。昔在霊山名法華。 シテ「今在西方名阿弥陀。 ワキ「娑婆示現観世音。シテ「三世利益同一体。 ワキ「その外神や。シテ「仏とは。 地上歌「たゞこれ水波の隔にて。神仏一如なる寺の名の。 道あきらかに曇らぬ神の宮寺ぞ貴き。 有難し有難し。げに神力も仏説も。 同じ和光の影に来て拝むぞたつとかりける/\。 クリ「それ仏の昔神の今。 後五の時代に至るまで。 神も濁世に応じ給ひて暫く西都に移り給ふ。 シテサシ切迄囃子「如月下の五日にして。京を出でさせ給ひつゝ。 地「この土師の里に旅宿あつて。さま%\の御神物をとゞめ。 末代値遇の御結縁今に絶ゆることなし。 シテ「かくても留まらぬ道のべの。地「草葉の露もしをるゝばかり。 クセ「君が住む。宿の梢をゆく/\も。 隠るゝまでに。 かへりみぞするとの御詠さこそと知るぞ忝き。

さてもいつしかに。ならはせ給はぬ旅の空。 名におふ心筑紫として天ざかる鄙の国に。 住まはせ給ひしかば。あたりは都府楼の瓦。 観音寺の鐘の声朝暮に響く折々は。 都の春秋を思し召しいでぬ時はなし。 シテ「家を離れて三四月。地「落つる涙は百千行。 万事は皆夢の如し。より/\彼蒼を期すといふ。其御心の至にや。 昨日は北欠に悲びを被ぶる士たり。 けふは西都に恥じを清むる屍たりと。御神感あらたに。 生きての恨死しての悦。 あまねしや天満陽感ぞめでたかりける。 ロンギ「げに有難や草も木も。/\。 みな成仏の木の実まで。玉を連ぬる光かな。 シテ「枯れたる木だにも。 誓の花は咲くぞかし。ましてや面前木〓{木へんに患}樹。 花咲き実なるなる。梢の色もあらたにて。 シテ「法を称ふる理を。地「思の玉の。

シテ「おのづから。地「あの梢の木の実こそ。 この珠数の御法なれ。必ず授け申さんとて。 帰ると見れば立ち止りて。われは天神の御使。 名をば誰とか白太夫の神と申す翁草の。 。 霜曇りしてげりや霜曇りに失せにけり。中入来序間。 出端天女出「久方の。天の岩戸の神遊。 今思出もおもしろや。 地「舞楽の役々とりどりに。/\。琵琶琴和琴。笛竹の。 夜は更け行けども缶の役者。 などや遅きぞ白太夫。急いで出でよと待ちやまふ。 後シテ出端、イロエ吹「月もかゝやく宮寺の。 常の燈火明々たり。後ツレ天女「如何に白太夫の神。 七社の御前に韓神催馬楽。 うたふや缶笏拍子の。役とは知らずや白太夫。 シテ詞「仰は重く候へども。既に名にだに白太夫が。 星霜積る老いが身の。役をば許し給ふべし。 天女「いやとよその役定まりたり。 急いで役をなすべきなり。

シテ詞「さては辞すとも叶ふまじ。さてその役は。 天女「韓神催馬楽。シテ「庭火の影や。天女「朱の玉垣。 地「かゝやけるその中に。 白太夫が小忌の袖より。取るや笏拍子とう/\と。 打つも寄るも老の浪の。 雪の白太夫が缶の。笏拍子おもしろや。楽。 シテ「唯今かなづる舞歌の曲。 地「唯今かなづる舞歌の曲。七徳双調七拍子膝を。 屈して仏を敬ひさす腕には。魔縁を払ひ。

をさむる手には寿福を招き。 千秋楽には民を養ひ万歳楽には命を延ぶる。 法の筵を敷妙の。枕は袂。上は尊き。 木〓{木へんに患}樹の梢に翔りて降るや一味の雨風を。 そゝぎて枝々より。 木の実をふるひ落してかの尊性に与へつゝ。 これこそ念の玉をつらぬく。数は百八煩悩の。 数は百八煩悩をかたどる珠数の。 道明寺の鐘鼓に神楽の夢はさめにけり 大臣 従者二人 王仁 木花開耶姫

ワキ、ワキツレ二人、次第「山も霞みて浦の春。/\。 波風静かなりけり。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。われ三熊野を信じ。 毎年年ごもり仕り候。此度は所願成就し。 年帰る春にもなり候へば。 唯今都に下向仕り候。道行三人「春立つや。

実にも長閑けき風和の。/\。浜の真砂も吹上の。 浦伝ひして行く程に。早くも紀路の関越えて。 是も都か津の国の。 難波の里に着きにけり/\。 シテツレ二人真の一セイ「君が代の長柄の橋も造るなり。 難波の春も。幾久し。

ツレ二ノ句「雪にも梅の冬籠り。二人「今は春べの気色かな。 シテサシ「それ天長く地久しくして。 神代の風長閑に伝はり。二人「皇の畏き御代の道広く。 国を恵み民を撫でて。 四方に治まる八洲の波静かに照らす日の本の。 影ゆたかなる時とかや。下歌「春日野に若菜摘みつゝ。 万代を。上歌「祝ふなる。心ぞしるき曇なき。 /\。天つ日嗣の御調物。 運ぶ巷や都路の直なる御代を仰がんと。 関の戸さゝで千里まで。普く照らす。日影かな。 普く照らす日影かな。 。 ワキ詞「如何にこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「不思議やな諸木こそ多き中に。是なる梅の木蔭を立ち去らずして。 蔭を清め賞翫を給ふ事不審なり。 もし此梅は名木にて候ふか。 シテ「御姿を見奉れば。都の人にて御座候ふが。 此難波の浦に於て。色殊なる梅花を御覧じて。

名木かとのお尋は御心なきやうにこそ候へ。 ツレ「それ大方の春の花。 木々の盛は多けれども。花の中にも始なれば。 梅花を花の兄ともいへり。 シテ詞「その上梅の名所々々。 国々。 処は多けれども。 六義の始のそへ歌にも。 難。 波の梅こそ詠まれたれ。 ツレ「御。 代も開けし栄花といひ。 シテ「あ。 まねき花の佳例といひ。 二人「と。 にかくにも津の国の。 こや都路の難波津に。名を得て咲くやこの花を。 名木かとのお尋は。 ことあたらしき御諚かな。ワキ詞「実に/\難波の梅の事。

名木やらんと尋ねしは。 愚なりける問事かな。然れば歌にも難波津に。 咲くやこの花冬ごもり。今は春べと咲くやこの。 花の春冬かけてよめる。 歌の心は如何なるぞ。シテ「それこそ帝をそへ歌の。 心詞は顕れたれ。難波の御子は皇子ながら。 未だ位に即き給はねば。

冬咲く梅の花の如し。ワキ「御即位ありて難波の君の。 位に備はり給ひし時は。 シテ詞「今こそ時の花の如く。ワキ「天下の春をしろしめせば。 シテ「今は春べと咲くやこの。 ワキ「花の盛は大鷦鷯の。シテ「帝を花にそへ歌の。 ワキ「風もをさまり。シテ「立つ波も。 地歌「難波津に。咲くやこの花冬ごもり。 /\。今は春べに匂ひ来て。 吹けども梅の風。枝を鳴らさぬ御代とかや。 実にや津の国の。なにはの事に至るまで。 豊なる世の例こそ。実に道広き。 治なれげに道広き治なれ。 地クリ「抑難波津の歌は帝の御はじめ。 又安積山の詞は。采女の土器。とり%\なり。 シテサシ「昔唐国の尭舜の御代にも越えつべし。地「万機の政おだやかにして。 慈悲の波四海に普く。治めざるに平かなり。 シテ「君君たれば。臣もまた。 地「水よく船を。浮かむとかや。クセ「高き屋に。

登りて見れば煙立つ。民のかまどは。 賑ひにけりと。叡慮にかけまくも。 かたじけなくぞ聞えける。然れば此君の。 代々にためしを引く事も。実に有難き詔。 国々に普く。三年の御調ゆるされし。 其年月も極まれば。浜の真砂の数積りて。 雪は豊年の御調物。ゆるす故にはなか/\いやましに運ぶ御宝の。千秋万歳の。 千箱の玉を奉る。シテ「然れば普き御心の。 地「いつくしみ深うして。 八洲の外まで波もなく。広き御恵。筑波山の陰よりも。 茂き御影は大君の。国なれば土も木も。 栄えさかふる津の国の。 難波の梅の名にしおふ。 匂も四方に普く一花ひらくれば天下皆。春なれや万代の。 なほ安全ぞめでたき。 ロンギ地「実に万代の春の花。/\。 栄久しき難波津の昔語ぞおもしろき。 シテ「実に名にしおふ難波津に。 鳥の一声をりしもに。鳴く鴬の春の曲春鴬囀を奏せん。 地「不思議や御身誰なれば。 かく心ある花の曲。舞楽を奏し給ふべき。 ツレ「我は知らずや此梅の。春年々の花の精。 地「今一人の老人は。 シテ「今ぞ顕す難波津に。 地「咲くやこの花と詠じつゝ位をすゝめ申せし百済国の王仁なれや。 今も此花に戯れ。百囀の声立て春の鴬の舞の曲。 夜もすがら。慰め申すべしや。 下臥して待ち給へ花の下ぶしに待ち給へ。中入間「。 ワキ(三人)歌待謡「見て暮す。 花の下臥更くる夜の。/\。月影ともに静かなる。 けしきに染みて音楽の。 花に聞ゆる不思議さよ花に聞ゆる不思議さよ。 後シテ出端「誰かいひし春の色は。 東より来るといへども。南枝花始めて開く。 こゝは所も西の海に。向ふ難波の春の夜の。 月雪もすむ浦の波。夜の舞楽はおもしろや。 夢ばし覚まし。給ふなよ。

後ツレ「これは難波の浦に年を経て。 開くる代々の恵を受くる。木花咲耶姫の神霊なり。 シテ「我は又百済国より此国に渡り。 君を崇め国を守る。王仁と云つし。相人なり。 地「むかし。仁徳の御宇には。 御代の鏡の影をうつし。 シテ「治まる御代の栄花をなしゝも。地「この花の匂。 シテ「又は開くる言の葉の緑。地「難波の事か法ならぬ。 遊び戯れ。いろ/\の舞楽。おもしろや。 天女舞「。ツレワカ「梅が枝に。来居る鴬。 春かけて。シテ「鳴けども雪は。古き鼓の。 苔むして。打ち鳴らす。/\。 人もなければ。君が代に。地「懸けし鼓も。 シテ「時守の眠。地「覚むるは難波の。 シテ「鐘も響き。地「浦は潮の。シテ「波の声々。 地「入江の松風。シテ「むら芦の葉音。 地「いづれを聞くも悦の。諫鼓苔むし難波の鳥も。 驚かぬ御代なり。有難や。神舞「。 ロンギ地「あらおもしろの音楽や。

時の調子にかたどりて。春鴬囀の楽をば。 シテ「春風ともろともに。 花を散らしてどうど打つ。地「秋風楽は如何にや。 シテ「秋の風もろともに。波を響かしどうど打つ。 地「万歳楽は。シテ「よろづ打つ。 地「青海波とは青海の。シテ「波立て打つは。

採桑老。地「抜頭の曲は。シテ「かへり打つ。 地「入日を招き帰す手に。/\。 今の太鼓は波なれば。 よりては打ち返りては打ち。此音楽に引かれつゝ。 聖人御代にまた出で。 天下を守り治むる万歳楽ぞめでたき万歳楽ぞめでたき 昭明王の臣下 従者 海人の母 海人 富士の山神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「大和唐土吹く風の。/\。 音や雲路に通ふらん。 ワキ詞「是は唐土昭明王に仕へ奉るせうけいと申す士卒なり。 我日本に渡り。此土の有様を見るに。 山海草木土壌までも。 さながら仙境かと見えて誠に神国の姿を顕せり。 昔唐土の方士と云つし者。日本に渡り。 駿河国富士山に到り。不死の薬を求めし例あり。 我も其遺跡を尋ねん為。唯今駿河国富士山に赴き候。

道行三人「唐土の空は雲居に隔て来て。/\。 東の国に至りても。 なほ東路の末遠き海山かけてはる%\と。日数を重ねて行く程に。 名にのみ聞きし富士の根や。 裾野にはやく着きにけり。/\。 ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。これは早。 富士の裾野に着きて候。御覧候へ。 唐土にて聞き及びしよりも。 猶いやまさりて目を驚かしたる山の景色にて候ふものかな。

又あれを見れば海人とおぼしき女性の数多来り候。 か。 の者を相待ち事の子細をも尋ねばやと存じ候。シテツレ二人、次第「砂長ずる山川や。/\。 富士の鳴沢なるらん。 シテサシ「朝日さす高根のみ雪空晴れて。野は夕立の富士颪。 三人「雲もおり立つ田子の浦に。 舟さしとめて蜑少女の。 通ひ馴れたる磯の浪のよるべ何処に定むらん。実に心無き海士なれども。 処からとて面白さよ。 下歌「松風の音信のみに身を知るやすむ芦の屋の窓の雨。 上歌「うち寄する駿河の海は名のみにて。 /\。波静かなる朝和に。 雲はうき島が原なれど風は夏野の深緑。 湖水に映る雪までも。妙なる山の御影かな/\。 ワキ詞「い。 かにこれなる人々に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「昔の唐土の方士といつし者。 此富士山に登り。 不死の薬を求め得たる例あり。其遺跡をば知り給へりや。

シテ「実に/\さる事のありしなり。 昔鴬のかひご化して少女となりしを。 時の帝皇女に召されしに。 時至りけるか天に上り給ひし時。 形見の鏡に不死薬を添へて置き給ひしを。後日に富士の獄にして。 其薬を焼きしより。富士の烟は立ちしなり。 ツレ二人「然れば本号は不死山なりしを。 郡の名に寄せて。 三人「富士の山とは申すなり。是蓬莱の。仙境たり。 ワキ詞「扨は此山仙境なるべし。先目前の有様にも。 今は六月上旬なるに。雪まだ見えて白妙なり。 これはいかなる事やらん。 シテ詞「さればこそ我が朝にても。不審多し。 然れば日本の歌仙の歌に。 時しらぬ山はふじのねいつとてか。かのこ斑に雪の降るらん。 是三伏の夏の歌なり。ワキ「実に/\見聞くに謂あり。時にあたりてみな月なるに。 さながら富士は雪山なれば。 時知らぬとは理かな。シテ詞「殊更今の眺の景色。

浪も揺がぬ四つの時。 ワキ「暑き空にも雪見えて。シテ「さながら一季に。ワキ「夏。 シテ「冬を。地「三保の松原田子の浦。/\。 何れもあをみな月なるに。 高嶺は白き富士の雪を。実にも時知らぬ。 山と詠みしも理や。げにや天地の。 開けし時代神さびて。高く貴き駿河の富士。 実に妙なる山とかや/\。 地クリ「抑この富士山と申すは。月氏七道の大山。 天竺より飛来る故に。則ち新山となづけたり。 シテサシ「頂上は八葉にして。内に満池をたゝへたり。 地「神仙人化の境界として。 四季折々を一時に顕し。天地陰陽の通道として。 希代の瑞験。他に異なり。 クセ「凡そ富士の嶺は。年に高さやまさるらん。 消えぬが上に。つもる雪の。見ればこと山の。 高嶺たかねを伝ひ来て。 富士の裾野にかゝる雲の上は晴れて青山たり。 いづくより降るやらん雲より上の白雪は。

然れば此山は仙境かくれ里の。 人間に異なる其瑞験も目のあたり。竹林の王妃として。 皇女に備はりて。鏡に経し薬をそへつゝ。 別るゝ天の羽衣の。雲路に立帰つて。 神となり給へり。シテ「帝其後かくや姫の。 教に従ひて。富士の高嶺の上にして。 不死の薬を焼き給へば。 煙は万天に立ちのぼつて雲霞。逆風に薫じつゝ。 日月星宿もさながら。あらぬ光をなすとかや。 さてこそ唐土の方士も。 此山に上り不死薬を。求め得て帰るなり。 これわが朝の名のみかは。 西天唐土扶桑にも双ぶ山なしと名を得たる。富士山の粧。 誠に上なかりけり。 ワキ詞「富士山の謂は承り候ひぬ。さて/\あれに見えたる山はいかなる山と申すやらん。 シテ「あれは愛鷹山とて富士に並べる高山にて。 金胎両部を顕せり。これ愛鷹の神前なり。 ワキ「さてさて浅間大菩薩とは。

取り分き何れの神やらん。シテ詞「あう?浅間大菩薩とは。 さのみは何といふ女の姿。 地「恥かしやいつかさて。/\。其神体を顕して。 誰にか見えけん神の名を。さのみに現さば浅間の。 あさまにやなりけん。 ふしの薬は与ふべし。暫くこゝに待てしばし。 芝山の雪となつて。 立ち上る富士の根行方しらずなりにけり行方しらずなりにけり。来序中入間「。 地「かゝりければ富士の御嶽の雲晴れて。 金色の光天地にみちて。明方の空は。 明々たり。後シテ出端「抑これは。 富士山に住んで悪魔を払い国土を守る。 日の御子とは我が事なり。詞「こゝに漢朝の勅使此処に来り。 不死の薬を求む。其志深き故。 不老不死の仙薬を。則ち彼に。与ふべしと。 地「神詫新たに聞えしかば。/\。 虚空に音楽聞えつゝ。姿も妙なるかくや姫の。 薬を勅使に与え給ふ。ありがたや。天女舞「。 地「簫笛琴箜篌孤雲の御声。/\。

誠なるかな富士浅間の唯今の影向。 実にも妙なる有様かな。 楽「それ我が朝は粟散遍里の小国なれども。/\。 霊神威光を顕し給ひ。悪魔を退け衆生を守る。 中に異なる富士の御嶽は。金胎両部の形を顕し。 まのあたりなる。仙境なれば。 不老不死の薬を求め。勅使は二神に御暇申し。 漢朝さして帰りければ。かくや姫は。 紫雲に乗じて富士の高嶺に上らせ給ひ。 内院に入らせおはしませば。なほ照りそふや。 日の御子の。姿は雲居によぢ上り。 姿は雲居によぢのぼつて。 虚空にあがらせ給ひけり 勅使 従者 男漁夫 漁翁 弁財天女 童子(諷ナシ) 五頭龍王

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「治まるをりを江の島や。/\。 動かぬ国ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは欽明天皇に仕へ奉る臣下なり。 扨も相模の国江野といふ浦に。 去んぬる卯月十日あまりに。不思議の奇瑞様々あつて。 海上に一つの島湧出す。 則ち江野に名ぞらへて是を江の島と号す。 島の雲上に天女顕れ給ふ。これ弁財天影向の地にて。 福寿円満の霊地なれば。 急ぎ見て参れとの勅に任せ。唯今東海道の下向仕り候。 道行三人「東路も。そなたの空に行く雲の。 /\。影も涼しき鳰の海。 遥けき旅を駿河なる。富士の高嶺の月影も。 幾山々のうつりこし。相模の国に着きにけり。

/\。ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。 これははや相模の国江の島に着きて候。 こ。 の浦の者を相待ち事の由をも窺はゞやと存じ候。 シテツレ二人、真ノ一声「島つ鳥。浮海松涼し波の上。 有明残るあさぼらけ。 ツレ二ノ句「波もて立つや夏衣。二人「うらぶれ渡る沖つ風。 シテ「それ江の島は崑崙の奇を移し。 五丈の垣重なほとけれども。二人「蓬莱海の勢を伝へたる。 三壺の形あらたなり。秦皇徐市を疑はゞ。 驪山塚の春の風。 なほさりがてらに渡らめや。漢帝斉少を用ひずは。 覇陵原の秋の月。心凄くは澄まざらまし。 誠に人間の妙奇仙境の秘跡なり。歌「一度も。

歩を運ぶともがらは。三千界の内にまづ。 無量福の宝を得。一期生の後に早く。 不退転の位に至る。かゝる誓の海山も。 なほ万代の末かけて。靡き従ふ此国の。 尽きせぬ御代は有難や尽きせぬ御代は有難や。 ワキ詞「我江の島にあがり。 山海の致景を眺め。事の由を窺ふ所に。 海人あまた来れり。いかに翁。おことはこの浦の者か。 シテ「さん候この浦の者にて候ふが。 毎日この島にあがり。 山上山下岩窟社々を清め申す者にて候。 さて御身はいづくよりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「これは欽明天皇に仕へ奉る臣下なるが。 この島湧出の由聞し召され。 事の子細を悉く尋ね見て参れとの宣旨にまかせ。 是まで勅使を下さるゝなり。委しく子細を申し候へ。 。 シテ「さてはかたじけなくも帝よりの勅使にてましますぞや。そも/\この島は欽明天皇十三年。

卯月十二日戌の刻より同じく二十三日辰の刻に至るまで。 江野南海湖水港の口に雲霞暗く蔽ひて。 天水氛〓{気の中に温のつくり:ふんうん}たり。 大地震動する事十日にあまれり。とばかりありて天女雲上に現れ。 童子左右に侍り。諸々の天衆龍神水火雷電。 山神鬼魅夜叉羅刹雲上より盤石を下し。 海底より塊砂を噴き出す。 ツレ「〓{かい}々たる雷の光。せいくを万天の間に飛ばし。 シテ詞「霹靂帛を裂くが如し。 波浪金を涌かすに似たり。ツレ「宕巌多く浮べ出し。 夜叉鬼神島を作る。 シテ詞「或は銅杵を持つて打ち砕き。 ツレ「或は鉄杖を持つて裂き破る。 シテ詞「又は二つの岩を押し合はせ。ツレ「又は一つの石を峙てたり。 シテ詞「とり%\に島を造り給へば。 梵天帝釈四大天王。上界の天人下界の龍神。 ツレ「残らずこゝに現れ給ひ。 二人「おのおのこれを衛護し給ふ。其後靄雲収まりて。 海上に一つの島を成せり。

すなはち江野になどらへて。江野原島とこれを申すなり。 ワキ「謂を聞けばありがたや。 則ちこれは明君の。 すぐなる御代のしるしをみせて。かゝる奇特を拝む事よと。いよ/\御影を仰ぐなり。 詞「さてこの島は天部の影向又は如何なる御神の。 鎮守と現れ給ふらん。シテ詞「中々の事この島に。 おのおの諸神まします中にも。 龍の口の明神は。天部と夫婦の御神にて。 衆生済度の御方便。あがめてもなほ余りあり。 ワキ「げに有難やかくばかり。深き恵の海山も。 なほ万歳を呼ばふなる。 シテ「声か松吹く風の音の。ワキ「涼しき巌い寄る波も。 シテ「治まる国のしるしを見せて。 ワキ「豊に住める。シテ「この時を。地上歌「万代の。 始と今日を祈りおき。 始と今日を祈りおきて。今行く末も此島の。 誓は尽きぬ無量億の。楽の数々を。 受けつぐ国ぞ久しき。善神は一切の福を授け。

悪神は万里の禍を払ふ浦風も。 天部の誓なるとかや。頼めなほ隔なき。 真如の玉も雲らじ。 ワキ詞「猶々江の島に於てめでたき子細様々あるべし。残さず申し候へ。 地クリ「そも/\江の島と云つぱ。 そのめぐれる事三十余町。 その高き事数十余丈なり。シテサシ「水は山の影をふくみ。 山は水の心に任せたり。地「〓{せん}中の砂清浅たり。 白雲の破るゝ所に。 洞門開けて翆屏あらはれたり。 岩窓の奥遥かに入つて峨々たる巌の間より。落ちくる水は西天の。 無熱池の池水なるとかや。 シテ「禅定無漏の仙人は。地「この地を占めて栖とし。 弥陀有縁の教主は。この島に来つて生を導く。 シテ「二世安楽のこの島に。 地「誰か頼をかけざるべき。クセ「こゝに又古。 武蔵相模の境に。 鎌倉海月の間に深沢といふ湖あり。かの湖に大蛇住めり。 其身一つにして。その頭五つあり。

隆準の鼻胡髯の腮。眼に。 白日をつなぬき身に黒雲をまつへり。然れば神武天皇より。 垂仁天皇の御宇までは。十一代の帝祚を経。 七百余歳の年祀を経て国中に満ちて人を取る。 シテ「景行天皇の御宇に至り。 地「龍悪いよいよ盛んなれば。 人皆石窟に隠れ住み涕哭の声限なし。時に天部は龍に向ひ。 汝。 が悪心を翻し殺生をとゞめこの国の守護神とならば夫婦の語をわれなすべしと。 。 堅く誓約し給へば龍王もこれに応じつつ。 今より殺害をとゞめて善心を思ひ龍の口の明神となり給ひ。 国土を守護し給ふなり。 ロンギ「はや時移る夕雲の。/\。 かゝる神秘も大方の。浦人いかで木綿四手の。 神の告かや有難や。シテ「なか/\なれや大君の。みことかしこみ勅に今ぞ。 応ずるしるしを現さん。 夜すがらこゝに待ち給へ。地「勅に応ぜんしるしとは。

そも老人は誰やらん。 シテ「誰とはさても愚なり。我は五頭龍。地「今は又。 天部の夫婦。 の神となりし龍の口の明神とは老人を見るべし。 今宵の月に天部の御姿我が姿をも。現すべしと夕波に。 立ちまぎれつゝ失せ給ふこそあらたなれ。来序中入間「。 ワキ「岐伯が絶技をさきに揚げ。 張儀が英声を後に馳す。これ聡明勇進弁財天の。 地「無量無辺不可思議の功徳を。 様々現しおはします。 ツレ天女、出端「月も照り添ふ如意の宝珠の。光を誰か仰がざる。 地「仰げなほ。/\。意の如しと聞く時は。 天女「今この君のそれと御影にあひにあふ。 地「卞和が玉もなにならず。 かの如意宝珠を君に捧げんと光も輝く御殿の扉。 左右に開けて十五童子。天部の御姿現れたり。 地「衆生済度のその御方便。 衆生済度のその御方便も。まづ福寿円満の願をかなへ。 。

現寿無比楽後生清浄土曇らぬ宝珠を君に捧げんと勅使にこれを授け給ひ。 舞楽を奏し。拍子を揃へ。 羽袖をかへして舞ひ給ふ。天女楽、地「天人聖衆菩薩の舞も。/\。 かくやと思ひ白波の。 立ち来る沖に雲くらがつて。疾風吹きたて逆巻く潮は。 五頭龍王の。出現かや。 後シテ早笛「われ昔は深沢の池に住んで。 五頭龍王と現れ。今は国土の守護神となる。 龍の口の明神なり。 地「聞きしに変らぬ因位の形。/\。シテ「頭は五頭龍。 地「胡髯の腮。眼に白日をつなぬき。 その身に黒雲をまつへり。 苔むす松も野べ伏す巌の。 峨々たる上にぞあらはれたる。シテ働「。 シテ「神仏水波の隔てなり。 地「神仏水波の隔なれば。同一体の。利益もさま%\の弁財天部は威光を現し。 明神諸共に百千劫の。齢を守らんと約諾堅き。 岩間を伝ひ。涼とるてふ緑の海に。

飛行し給へば磯うつ波も龍の口の。 明神忽ち威を。 振ひ雲を吹き嵐にかゞやく眼の光は天地。 に満ち満てりその時天部は童子を伴ひ紫雲の上に。

現れ給へば明神立ち来る黒雲に乗じ。光を放つて島根を廻り。 めぐりめぐるや暫しが程は。とり%\姿を雲中に。現しとり%\姿を雲中に現すも実に有り難き影向かな 室の明神の神職 里の女 別雷の神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「清き水上尋ねてや。/\。 賀茂の宮居に参らん。 ワキ詞「抑これは播州室の明神に仕へ申す神職の者なり。 さても都。 の賀茂と当社室の明神とは御一体にて御座候へども。 いまだ参詣申さず候ふ程に。此度思ひ立ち都の賀茂へと急ぎ候。 道行三人「播州潟。室のとぼその曙に。/\。 立つ旅衣色染むる飾磨の徒路行く舟も。 上る雲居や久方の。月の都の山陰の。 賀茂の宮居に着きにけり/\。 シテツレ二人、真ノ一声「御手洗や。清き心に澄む水の。

賀茂の河原に出づるなり。 ツレ二ノ句「直にたのまば人の世も。二人「神ぞ糺の道ならん。 シテサシ「半ゆく空水無月の影更けて。 秋程もなみ御秡川。二人「風も涼しき夕波に。 心も澄める水桶の。 もちがほならぬ身にしあれど。命の程は千早振る。神に歩を。 運ぶ身の。宮居曇らぬ。心かな。 下歌「頼む誓は此神によるべの。水を汲まうよ。 上歌「御手洗の。声も涼しき夏陰や。/\。 糺の森の梢より。 初音ふり行く時鳥なほ過ぎがてに行きやらで。

今一通り村雨の。雲もかげろふ夕づく日。 夏なき水の川隈汲まずとも影は。 疎からじ汲まずとも影はうとからじ。 。 ワキ詞「いかにこれなる水汲む女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「これはこのあたりにては見馴れ申さぬ御事なり。 何処よりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「実によく御覧じ候ふものかな。 これは播州室の明神の神職の者にて候ふが。 始めて当社に参りて候。先々これなる川辺を見れば。 新しく壇を築き。白木綿に白羽の矢を立て。 剰へ渇仰の気色見えたり。 こはそも何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さては室の明神よりの御参詣にて候ふぞや。 またこれなる御矢は。 当社の御神体とも御神物とも。唯此御矢の御事なり。 あからさまなる御事なりとも。渇仰申させ給ひ候へ。 ワキ「実に有難き御事かな。さて/\当社の神秘に於て。さま%\あるべき其内に。

詞「分きてこの矢の御謂。 委しく語り給ふべし。シテ詞「総じて神の御事を。あざ/\しく申さねども。あら/\一義を顕すべし。むかし此賀茂の里に。 秦の氏女と云ひし人。 朝な夕な此川辺に出でて水を汲み神に手向けけるに。 ある時川上より白羽の矢ひとつ流れ来り。 此水桶にとまりしを。取りて帰り庵の軒に挿す。 主思はず懐胎し男子を生めり。 此子三歳と申しゝ時。人々円居して父はと問へば。 此矢をさして向ひしに。 此矢すなはち鳴雷となり。天に上り神となる。 別雷の神これなり。ツレ「其母御子も神となりて。 賀茂三所の神所とかや。 シテ「さやうに申せば憚りの。 誠の神秘は愚なる。シテツレ二人「身に弁は如何にとも。 いさしら真弓。やたけの人の。 治めん御代を告げしら羽の。八百万代の。 末までも。弓筆に残す。心なり。

ワキ「よく/\聞けば有難や。さて/\其矢は上る代の。 今末の代にあたらぬ矢までも。 御神体なる謂は如何に。 シテ「実によく不審し給へども。隔はあらじ何事も。 ワキ「心からにて澄むも濁るも。 シテ「同じ流れのさまざまに。ワキ「賀茂の川瀬も変る名の。 シテ「下は白川。ワキ「上は賀茂河。 シテ「又其うちにも。ワキ「変る名の。地歌「石川や。 瀬見の小河の清ければ。/\。 月も流を尋ねてぞ。澄むも濁るも同じ江の。 浅からぬ心もて。何疑のあるべき。年の矢の。 早くも過ぐる光陰惜みても帰らぬはもとの水。 流はよも尽きじ絶えせぬぞ手向なりける。 下歌「いざ/\水を汲まうよ/\。 ロンギ地「汲むや心もいさぎよき。 賀茂の川瀬の水上は。如何なる所なるらん。 シテ「何処とか。岩根松が根凌ぎ来る。 瀧つ流は白玉の。音ある水や貴船川。 地「水も無く見えし大井河。

それは紅葉の雨と降る。シテ「嵐の底の。 戸無瀬なる波も名にや流るらん。地「清瀧川の水汲まば。 高嶺の深雪解けぬべき。 シテ「朝日待ち居て汲まうよ。地「汲まぬ音羽の瀧波は。 シテ「受けて頭の雪とのみ。 地「戴く桶もシテ「身の上と。地「誰も知れ老いらくの。 。 暮るゝも同じ程なさ今日の日も夢の現ぞと。うつろふ影は有りながら。 濁なくぞ水むすぶの神の・慮{こゝろ}。 汲まうよ神の御慮汲まうよ。 ワキ詞「実に有難き御事かな。 かやうに委しく語り給ふ。 御身は如何なる人やらん。シテ詞「誰とは今は愚なり。 汝知らずや神慮の趣き。迎へ給はゞ君を守りの。 此神徳を告げ知らしめんと。現れ出でて。 地「恥かしや我が姿。恥かしや我が姿の。 。 真をあらはさばあさましやなあさまにやなりなん。よし名ばかりはしら真弓の。 やごとなき神ぞかしと。

木綿四手に立ち紛れて神がくれになりにけりや。 神がくれになりにけり。来序中入間「。 後ツレ出端「あら有難のをりからやな。 我此宮居に地をしめて。法界無縁の衆生をだに。 一子とおぼし見そなはす。 御祖の神徳仰ぐべしやな。曇らぬ御代を。守るなり。 地「守るべし守るべしやな。 君の恵も今此時。ツレ「時至るなり時至る。 地「感応あらば影向微妙の。 相好荘厳まのあたりに。有難や。天女舞「。 地歌「加茂の山並御手洗の影。/\。 映り映ろふ緑の袖を。水に浸して。涼とる。 涼とる。裳裾をうるほすをりからに。 山河草木動揺して。 まのあたりなる別雷の。神体来現し給へり。 後シテ早笛「我はこれ。王城を守る君臣の道。 別雷の神なり。 地「或は諸天善神となつて。虚空に飛行し。 シテ「又は国土を垂跡の方便。地「和光同塵結縁の姿。

あら有難の。御事やな。舞働「。 シテ「風雨随時の御空の雲居。地「風雨随時の御空の雲居。 シテ「別雷の雲霧を穿ち。 地「光稲妻の稲葉の露にも。シテ「宿る程だに鳴雷の。 地「雨を起して降りくる足音は。シテ「ほろ/\。 。地「ほろ/\とゞろ/\と踏みとゞろかす。鳴神の鼓の。

時も至れば五穀成就も国土を守護し。治まる時には此神徳と。 威光を顕しおはしまして。御祖の神は。 糺の森に。飛び去り/\入らせ給へばなほ立ち添ふや雲霧を。別雷の。 神も天路に攀ぢ上り。神も天路に攀ぢ上つて。 虚空に上らせ給ひけり 延喜の帝の臣下 従者 漁翁 龍神 弁財天

ワキ、ワキツレ二人、次第「竹に生るゝ鴬の。/\竹生島詣いそがん。ワキ詞「そも/\これは延喜の聖代に仕へ奉る臣下なり。 さても江州竹生島の明神は。霊神にて御座候ふ間。 この度君に御暇を申し。 唯今竹生島に参詣仕り候。道行三人「四の宮や。 河原の宮居末はやき。/\。名も走井の水の月。 曇らぬ御代に。逢坂の関の宮居を伏し拝み。

山越ちかき志賀の里。 鳰の浦にも着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふほどに。 鳰の浦に着きて候。あれを見れば釣舟の来り候。 暫く相待ち便船を乞はゞやと存じ候。 。 シテサシ一声「おもしろや頃は弥生のなかばなれば。波もうらゝに海のおも。 ツレ「霞みわたれる朝ぼらけ。 シテ「のどかに通ふ舟の道。ツレシテ二人「憂きわざとなき。心かな。

シテサシ「これはこの浦里に住みなれて。 あけ暮運ぶ・鱗{うろくづ}の。数をつくして身ひとつを。 助けやせんとわび人の。隙も波間に。 明けくれて。世を渡るこそ。ものうけれ。 下歌「よし/\同じ業ながら。 世にこえたりなこの海の。名所多き数々に。/\。 浦山かけて眺むれば。志賀の都。 花園昔ながらの山桜。真野の入江の船よばひ。 いざさしよせて言問はん/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる船に便船申さうなう。シテ詞「これは渡船にてもなし。 御覧候へ釣船にて候ふよ。 ワキ「こなたも釣船と見て候へばこそ便船とは申せ。 これは竹生島にはじめて参詣の者なり。 誓の船に乗るべきなり。 シテ詞「げにこの処は霊地にて。歩を運び給ふ人を。 とかく申さば御心にも違ひ。又は神慮もはかりがたし。 ツレ「さらばお船を参らせん。 ワキ「うれしやさては迎の舟。法の力とおぼえたり。

シテ詞「けふは殊更のどかにて。 心にかゝる風もなし。地下歌「名こそさゝ波や。 志賀の浦にお立あるは都人かいたはしや。 お舟にめされて浦々を眺め給へや。 上歌「処は海の上。/\。国は近江の江に近き。 山々の春なれや花はさながら白雪の。 降るか残るか時しらぬ。 山は都の富士なれや。なほさえかへる春の日に。 比良の嶺おろし吹くとても。 沖こぐ船はよも尽きじ。旅のならひの思はずも。 雲井のよそにに見し人も。 同じ船に馴衣浦を隔てゝ行くほどに。竹生島も見えたりや。 シテ「緑樹かげ沈んで。 地「魚樹にのぼるけしきあり。月海上に浮んでは兎も波を走るか。 おもしろの島の景色や。 シテ詞「舟が着いて候ふ御上り候へ。 。 ワキ詞「あらうれしや軅て神前へ参り候ふべし。 シテ「この尉が御道しるべ申さうずるにて候。これこそ弁財天にて候へ。

よくよく御祈念候へ。 ワキ「承り及びたるよりもいやまさりて有りがたう候。 不思議やな此島は。女人禁制とこそ承りて候ふに。 あれなる女人は何とて参られて候ふぞ。 シテ「それは知らぬ人の申しごとにて候。 忝くも此島は。・久成{きうしやう}如来の御再誕なれば。 殊に女人こそ参るべけれ。 ツレ「なうそれまでもなきものを。 地「弁財天は女体にて。/\。その神徳もあらたなる。 天女と現じおはしませば。 女人とは隔なしただ知らぬ人の言葉なり。 クセ「かゝる悲願を起して。 正覚年久しの古より。利生更に怠らず。シテ「げに%\かほど疑も。地「荒磯じまの松蔭を。 たよりによするあま小舟。 われは人間にあらずとて。社壇の。扉をおし開き。 御殿に入らせ給ひければ。翁も水中に。 入るかと見しが白波の立ち返りわれは此海の。 あるじぞと言ひすてゝまた。

波に入らせ給ひけり。来序中入間「。 地出端「御殿しきりに鳴動して。 日月光り輝きて。山の端出づるごとくにて。 現れ給ふぞかたじけなき。後ヅレ「そも/\これは。 此島に住んで神を敬ひ国を守る。 弁財天とは。わが事なり。 地「その時虚空に音楽聞え。/\。花ふりくだる。春の夜の。 月にかゝやく乙女の袂。かへす%\も。 おもしろや。天女舞「。 地「夜遊の舞楽も時すぎて。/\。 月すみわたる。湖づらに。 波風しきりに鳴動して。下界の龍神。現れたり。

早笛「龍神湖上に出現して。/\。 光も輝く金銀珠玉をかのまれ人に。捧ぐるけしき。 ありがたかりける。奇特かな。 シテ「もとより衆生済度の誓。地「もとより衆生済度の誓。 様様なれば。あるひは天女の形を現じ。 有縁の衆生の諸願をかなへ。 または下界の龍神となつて。国土を鎮め。誓を現し。 天女は宮中に入らせ給へば。 龍神はすなはち湖水に飛行して。波を蹴立て。 水を返して天地に群がる大蛇のかたち。 天地に群がる大蛇のかたちは。 龍宮に飛んでぞ。入りにける 官人 従者 老人 氷室の神 天女

ワキ、ワキツレ二人、次第「八洲も同じ大君の。/\。 御影の春ぞ長閑けき。ワキ詞「そも/\これは亀山の院に仕へ奉る臣下なり。

我此度丹後の久世の戸に参り。既に下向道なれば。 これより若狭路にかゝり。 津田の入江青葉後瀬の山をも一見し。

それより都に帰らばやと存じ候。道行三人「花の名の。 白玉椿八千代経て。/\。緑にかへる空なれや。 春の後瀬の山続く。 青葉の木蔭分け過ぎて。雲路の末の程もなく。 都に近き丹波路や。氷室山にも着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 丹波の国氷室山に着きて候。此処の人を待ち。 氷室の謂をも委しく尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人、真ノ一声「氷室守。春も末なる山陰や。 花の雪をも。集むらん。 ツレ二ノ句「深山に立てる松蔭や。冬の気色を残すらん。 シテサシ「夫れ一花開けぬれば天下は皆春なれども。 松は常磐の色添へて。緑に続く氷室山の。 谷風はまだ音さへて。 氷に残る水音の雨も静かに雪落ちて。 実に豊年を見する御代の。御調の道も直なるべし。 下歌「国土豊に栄ゆくや千年の山も近かりき。 上歌「変わぬや。氷室の山の深緑。/\。 春の気色は有りながら。此谷陰は。

去年のまゝ深冬の雪を集め置き。霜の翁の年々に。 氷室の御調まもるなり/\。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべきことの候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「おことはこの氷室守にて有るか。 シテ「さん候氷室守にて候。 ワキ「さても年々に捧ぐる氷の物の供御。 拝みは奉れども在所を見る事は今始めなり。 さてさて如何なる構により。 春夏まで氷の消えざる謂委しく申し候へ。 シテ「昔御狩の荒野に。一村の森の下庵ありしに。 頃は水無月半なるに。寒風御衣の袂に移りて。 さながら冬野の御幸の如し。 怪み給ひ御覧すれば。 一人の老翁雪氷を屋の内にたたへたり。かの翁申すやう。 夫れ仙家には紫雪紅雪とて薬の雪あり。 翁もかくのごとしとて。氷を供御に備へしより。 氷の物の供御始りて候。 ワキ「謂を聞けば面白や。さて/\氷室の在所々々。

上代よりも国々に。 あまた替はりて有りしよなう。シテ詞「先は仁徳天皇の御宇に。 大和の国闘鶏の氷室より。 供へ初めにし氷の物なり。ツレ「又其後は山陰の。 雪も霰もさえ続く。便の風をまつが崎。 シテ詞「北山陰も氷室なりしを。 ツレ「又此国に所を移して。深谷にさえけく谷風寒気も。 シテ「便ありとて今までも。 末代長久の氷の供御のため。丹波の国桑田の郡に。 氷室を定め申すなり。ワキ「実に/\翁の申す如く。 山も処も木深き蔭の。 日影もさゝぬ深谷なれば。春夏までも雪氷の。 消えぬも又は理なり。 シテ詞「いや処によりて氷の消えぬと承るは。君の威光も無きに似たり。 ワキ「唯よの常の雪氷は。 シテ詞「一夜の間にも年越ゆれば。 ワキ「春立つ風には消ゆるものを。シテ「されば歌にも。 ワキ「貫之が。地「袖ひぢて。掬びし水の氷れるを。 /\。春立つ今日の。

風や解くらんとよみたれば。夜の間に来る。 春にだに氷は消ゆる習なり。ましてや。 春過ぎ夏たけて。早水無月になるまでも。 消えぬ雪の薄氷。供御の力にあらでは。 如何でか残る。雪ならんいかでか残る雪ならん。 地クリ「夫れ天地人の三才にも。 君を以て主とし。山海万物の出生。 即ち王地の恩徳なり。シテサシ「皇図長く固く。 帝道遥に盛んなり。地「仏日光ます/\にして。 法輪常に転ぜり。シテ「陽徳をりを。違へずして。 地「雨露霜雪の。時を得たり。 クセ「夏の日に。なるまで消えぬ冬氷。春立つ風や。 よぎて吹くらん。実に妙なれや。 万物時に有りながら。君の恵の色添へて。 都の外の北山に。つぐや葉山の枝茂み。 此面彼面の下水に。集むる雪の氷室山。 土も木も大君の。御影にいかで洩るべき。 実に我ながら身の業の。 浮世の数に有りながら。御調にも取り別きて。

なほ天照らす氷の物や。他にも異なる捧物。 叡感以て甚だしき。玉体を拝するも。 深雪を運ぶ故とかや。シテ「然れば年立つ初春の。 地「初子の今日の玉箒。 手に取るからにゆらぐ玉の。翁さびたる山陰の。 去年のまゝにて降り続く。雪のしづくをかき集めて。 木の下水にかき入れて。 氷を重ね雪を積みて。 待ち居れば春過ぎてはや夏山になりぬれば。いとゞ氷室の構へして。 立ち去る事も夏陰の。水にも住める氷室守。 夏衣なれども袖さゆる。気色なりけり。 ロンギ地「実に妙なりや氷の物の。/\。 御調の道もすぐにある都にいざや帰らん。 シテ「暫く待たせ給ふべし。 とても山路の御序に。今宵の氷の御調。 供ふる祭御覧ぜよ。地「そもや氷調の祭とは。 如何なる事にあるやらん。 シテ「人こそ知らね此山の。山神木神の。氷室を守護し奉り。 毎夜に神事有るなりと。

地「言ひもあへねば山くれて。 寒風松声に声立て時ならぬ雪は降り落ち。 山河草木おしなべて氷を敷きて瑠璃壇に。なると思へば氷室守の。 。 薄氷を踏むと見えて室の内に入りにけり氷室の。内に入りにけり。来序中入間「。 地、出端「楽に引かれて古鳥蘇の。舞の袖こそ。 ゆるぐなれ。天女舞、後ツレ「変らぬや。 氷室の山の。深緑。地「雪を廻らす舞の袖かな。 後シテ「曇なき。御代の光も天照らす。 氷室の御調。供ふなり。地「供へよや。 /\。さも潔き。水底の砂。 シテ「長じては又。巌の陰より。 地「山河も震動し天地も動きて。寒風しきりに。肝をつゞめて。 紅蓮大紅蓮の。 氷を戴く氷室の神体さえ燿きてぞ顕れたる。 シテ「谷風水辺冴え凍りて。 地「谷風水辺冴え凍りて。シテ「月も燿く氷の面。 地「万境をうつす。鏡の如く。 シテ「晴嵐梢を吹き払つて。地「蔭も木深き谷の戸に。

シテ「雪はしぶき。地「霰は横ぎりて。 岩もる水もさゞれ石の。 深井の氷に閉ぢ付けらるゝを。引き放し/\。 浮び出でたる氷室の神風。あら寒や。冷やかや。舞働「。 シテ「賢き君の。御調なれや。 地「賢き君の。御調なれや。波を治むるも氷。 水を鎮むるも氷の日に添へ月に行き。 年を待ちたる氷の物の供。供へ給へや。 供へ給へと采女の舞の。雪を廻らす小忌衣の。 袂に添へて。薄氷を。碎くな/\。 解かすな解かすなと氷室の神は。氷を守護し。 日影を隔て。寒水をそゝぎ。 清風を吹かして。花の都へ雪を分け。 雲を凌ぎて北山の。すはや都も見えたり/\急げや急げ。氷の物を。供ふる所も愛宕の郡。 捧ぐる供御も。日の本の君に。御調物こそ。 めでたけれ 天女(前ハ海女) 龍神 隼友神職

ワキ三人次第「隼友の神祭。/\つきせぬ御代ぞめでたき。 ワキ詞「抑これは長門の国隼友の明神に仕へ申す神職の者なり。 さても。当社に於て御祭さま%\御座候ふ中にも。十二月晦日の御神事をば。 和布刈の御神事と申し候。今夜寅の時に至つて。 龍神潮を守護し。 波四方に退いて平々たり。其時神主海中に入つて。 水底の和布を刈り神前に供へ申し候。 殊に当年は不思議の奇瑞御座候ふ間。いよ/\信心を致し。御神事を執り行はゞやと存じ候。 有難や今日隼友の神の祭。 年の極の御祭と言つぱ。又新たまの年の始を。 祝ふ心は君が為。上歌三人「春の野に出でて摘む若菜。/\。 生ひゆく末のほどもなく。 年は暮るれど緑なる和布刈のけふの神祭。

心をいたしさまざまに。君の恵を祈るなり/\。 シテツレ二人真ノ一声「天地の。開けし御代に久方の。 神と君との。御影かな。 ツレ二ノ句「けふに廻るも隼友の。二人「共に暮れ行く。年なれや。 。 シテサシ「ありがたやそれ秋津洲のうちに於て。神所の御祭さまざまなれども。 二人「此隼友の神祭。 世界わたづみ隔なくて。蘊藻の礼奠感応の。 海松藻浮藻の花も咲く波をかざしの手向草。 塵に交はる神慮。誓に漏るゝ方もなし。 下歌「歩を運ふ此神に。いざ結縁をなさうよ。 上歌「処は速鞆の。/\。ゆきゝの舟も楫を絶え。 数々の捧げ物海士のしわざに至るまで。 かひあるべしや志。 それこそ花の手向なれ/\。 ワキ「不思議やな夕影過ぐる神の御前に。

手向を捧ぐる人影は。 そもやいかなる人やらん。ツレ「これは賎しきあま少女の。 数にはあらぬうき身なるが。 手向を捧ぐるばかりなり。 シテ詞「われは又年経て住める此浦の。漁翁の罪を恐るゝ故。 賎しき者はき身を。浮べんために候ふなり。 ワキ「なか/\なれや魚類までも。 誓に漏れぬ此浦の。シテ「海士の漁火焦るとも。 シテツレ二人「和光の影は曇なく。地「明かなれや天地の。 開けし神代の如くにて。 すなほなるべき人心。 いやましの瑞験現れにけるぞありがたき。上歌「海原や。博多の海も程近く。 /\。汐引島も見渡る。速鞆の友千鳥。 沖の鴎の群れ立つや。春秋の。 雲居の雁も留め得ぬ。誰が玉章の。 門司の関守と詠みし心もことわりや/\。 クリ「それ地神第四の御代火々出見の尊。 豊玉姫と契をなし。 海陸の隔なかりしに。シテサシ「その御産の時豊玉姫。

尊に向ひ宣はく。地「産期に於て我が姿を。 敢へて見給ふ事なかれと。御約諾の。詔。 互に堅く誓ひ給ふ。クセ「然れども時至り。 さ。 すがに御気色いぶかしく思しけるかとよ。かいまみさせ給ひしを。 いとあさましと恨みかこち。 長く海路の通をたち隠す波の玉の御子を。捨てつゝ豊玉姫は。 龍宮に入り給ふ。其後潮さしひきの。 朝暮の時はありながら。 人畜類の生を背き。境をさかりにき。 シテ「然れば神代の昔より。地「此隼友の神祭。 神慮普き誓なれや。上は非想の雲の上。 下は下界の龍神まで。渇仰の心中。真に深き蒼海を。 陸地になして此国の。長門の通隔もなき。 海蔵の御宝も。心の如くなるべし。 ロンギ「げにや心の如くにて。/\。 此結縁もさま%\の。人の願のなかるべき。 ツレ「今は何をか包むべき。 我が住む方は久方の。地「天つ少女の雲の袖。

シテ「かざしの花の手向草。地「色こそ変れ。 シテ「わたづみの。 地「花は波路の底よりも。龍宮の捧げ物。天地ともに渇仰の。 天つ少女は雲にのれば。 翁は老の波に。 隠れ入り給ひけりや隠れ入らせ給ひけり。来序中入。 天女出端、地「汀に神幸なり給へば。/\。 虚空に音楽。松風に和して。皎月照らし。 異香薫ずる龍女は波もかざしの袖を。 かへすも立ち舞ふ。袖かな。天女舞。 後ツレ「さる程に/\。 地「和布刈の時到り。虎嘯くや風速鞆の。 龍吟ずれば雲起り雨となり。潮も光り。鳴動して。 沖より龍神現れたり。早笛、上「龍神即ち現れて。

/\。シテ「和布刈の処の水底を穿ち。 地「払ふや潮背に。こゆるぎの磯菜摘む。 シテ「めざし濡すな。沖に居れ波。 地「沖に居れ波と夕汐を退け。 屏風を立てたる如くに分れて。海底の砂は平々たり。舞働。 ワキ「神主松明。振り立てゝ。 地「神主松明振り立てゝ。御鎌を持つて岩間を伝ひ。 。 伝ひ下つて半町ばかりの海底の和布を刈り。帰り給へば程なく跡に。 潮さし満ちてもとの如く。荒海となつて波白妙の。 わたづみ和田の原。天を浸し。 雲の浪煙の波風海上に収まれば。波風海上に。 収まれば蛇体は。龍宮に飛んでぞ。入りにける 大臣 従者 天女 瀧祭の神

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「大和にも織る唐錦。/\。

龍田の神に参らん。

ワキ詞「そも/\是は当今に仕へ奉る臣下なり。 さても和州龍田の明神は。霊神にて御座候ふ程に。 この度君に御暇を申し。唯今龍田に参詣仕り候。 道行三人「国々の。末は七つの都路を。/\。 夜深く出でて淀舟や立つ旅衣遥々と。 なほ雲遠き山城の。井手の下紐末かけし。 跡も昔に奈良坂や。 龍田の山に着きにけり。/\。 シテツレ二人、真ノ一声「龍田川。錦織り掛く神無月。 色づく秋の梢かな。 ツレ二ノ句「紅葉の色も時めきて。二人「錦を張れる気色かな。 シテ「これは当社龍田の里に。 住みて久しき者なるが。二人「農職ながら昔より。 神前に仕へ奉り。名におふ龍田の神垣や。 宮路を通ひいつとなく。頼む願も浅からず。 恵を千代と祈るなり。 下歌「頃は長月廿日あまり。紅葉も徒らに。唯闇の夜の錦なり。 上歌「神南備の。御室の岸や崩るらん。 /\。龍田の川の水の色は。

濁るとも隔てじな塵に交はる神慮。 直に御影ももみぢ葉の。こゝは常磐の色はへて。 誓も絶えぬ瀧祭。戴く神の手向かな。/\。 。 ワキ詞「如何にこれなる火の光について尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「是は此処始めて一見の者なり。 宝山への道しるべして給はり候へ。シテ「易き間の御事。 これこそ夜祭に参る者にて候へ。 御道しるべ申し候ふべし。此方へ御出で候へ。 ワキ「あら嬉しややがて参らうずるにて候。 シテ「なう/\これこそ宝山にて候へ。 。 ワキ「承り及びたるより神さび殊勝にこそ候へ。 又日本第一の宝の御矛を納めしは。この御山の事にて候ふか。 シテ「中々の事この処の御事にて候。 ワキ「さらばこの山の謂を御物語り候へ。 シテ「委しく語つて聞かせ申し候ふべし。 。

地クリ「そも/\瀧祭の御神とは即ち当社の御事なり。昔天祖の詔。 末明らかなるみ国とかや。 シテサシ「こゝに第七代に当つて現れ給ふを。伊弉諾伊弉冊と号す。 地「時に国常立伊弉諾に託して宣はく。 豊芦原千百五種の国あり。汝よく知るべしとて。 則ち天の御矛を授け給ふ。 クセ「伊弉諾伊弉冊は。天祖の御教。 すぐなる道をあらためんと。天の浮橋に。 二神たゝずみ給ひて。この御矛を海中に。 さしおろし給ひしより。御矛を改めて。 天の逆矛と名づけそめ。国富み民を治め得て。 二神の始より。今の代までの宝なり。 その後国土治まりて。御世平かになりしかば。 瀧祭の明神。この御矛を預かりて。 所もあまねしや。この御山に納めて。 宝の山と号すなり。シテ「そも/\御矛の主たりし。 地「名もいさぎよき瀧祭の。 神の社はいづくぞと。問へば名を得し龍田山。 紅葉の八葉も。則ち矛の刄先より。

照らす日影や紅の光さしおろす矛の露。 天地すなほなる事も。こここそ宝身は知らず。 国の宝の山高み。よく/\礼し給へや。 ロンギ「げにや龍田の神の名の。/\。 宝の御矛同じくは。所を分きて見せ給へ。 シテ「むつかしの旅人や。 影恥かしき龍田山の。 もみぢ衣の千早ぶる神の祭早めんと。地「颯々の鈴の声。 ていとうと打つ波の。鼓も同じ瀧祭の。神は我なりと。 木綿四手を靡かし。榊葉をうたひ夜に入りて。 月の夜声も速に入ると見えて。 失せにけり分け入ると見えて失せにけり。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「御山の。柞の紅葉かたしきて。 /\。こゝに仮寝の枕より。 音楽聞え花降りて。異香薫ずる。不思議さよ。/\。 出端、天女出、地「楽にひかれて古鳥蘇の。 舞の袖こそゆるぐなれ。天女ノ舞「。 後シテ「そも/\是は。 天の御矛を守護し奉る。瀧祭の神。和光に出でて龍田の神。

地「或は天つ御空の御矛。 シテ「又は宝山倶利伽羅御嶽。地「戴きまつれや。 シテ「驚かし奉れや瀧祭。地「拍手響く山の雲霧。 晴行く日の。 光の如くに天の御矛は現れたり。 。シテ祝詞「そも/\大日本国といつぱ神国たり。神は本覚真如の都を出でて。 和光同塵の御形。尤も仏法流布の国たるべしやな。 有難や。地「南無や帰命頂礼。 大日覚王如来、シテ「昔伊弉諾伊弉冊の尊。 此矛を携へて。天の浮橋を踏み渡り給ひ。 地「則ち御矛をさしおろし給ひ。青海原を。 かき分け/\探り給へば。 矛のしたゞり凝り固まつて国となれり。 シテ「まづ淡路島。地「紀の国伊勢島筑紫四国。

総じて八つの国となつて。大八洲の国と名付け。 天地人の三才となる事も。 此矛の徳なりあら有難や。働「。シテ「さて国々は荒島なれば。 地「さて国々は荒島なれば。 さながら嶮しき芦原なりしを。矛の手風。 疾風となつて。芦原を薙ぎ払ひ。引き捨て置けば。 山となりぬ。足引の山といひ。 土はさながら岩が根なりしを。 矛の刄先にあたり砕ば。平かなるをあらがねの土といひ。 そのほか東西南北十方を治め。 悪魔を退け豊芦原の。国治まりて。 御矛を守の倶利伽羅明王。この宝山に納め奉り。 毎日めぐるや日の本の。宝の山に龍田の神は。 /\。御矛を守りの神体なり 大臣 従者二人 男(漁夫) 漁翁 天女 龍神

ワキ、ワキツレ二人、真ノ次第「風も涼しき旅衣。/\。 朝立つ。道ぞ遥けき。ワキ詞「ども/\是は当今。 に仕へ奉る臣下なり、偖も丹後の久世の戸は神代の古跡にて。 かたじけなくも天竺五台山の文珠を勧請の地なり。 殊に林鐘なかば彼の会式にて御座候ふ程に。 唯今参詣仕り候。道行三人「丹波路の。 末遥々と思ひ立つ。/\。 旅の衣の日も幾日生野の道も程遠き。まだ踏みも見ぬ橋立や。 早久世の戸に着きにけり。/\。 ワキ詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。 是ははや九世の戸に着きて候。 都にて承り及びて候ふよりも。天の橋立遥々と。 真に妙なる眺にて候。尚々心静かに眺めばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「浦風も涼しさ添へて追風とや。 波路遥に出づるない。 ツレ二ノ句「蜑の海松藻もいさみある。二人「眺妙なる気色かな。 シテサシ「所から曇らぬ空も与謝の海の。 天の橋立遥々と。

二人「影踏む道に行きかふ人も。今日の祭の時をへて。 夏水無月のなかば行く。舟の渡りの。ひまもなき。 貴賎群集ぞ有難き。 下歌「世渡る業はをしめどもいざや歩を運ばん。 上歌「神の代の。昔語を思出の。/\。 月日曇らぬ天つ神。地神二代を数へ来て。 こゝ九世の戸の名も高き。大聖文珠を勧請の。 御影あらたに捧ぐなる。 法の灯曇なく、照す誓は頼もしや/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「これは都より始めて参詣の者なり。 まづこの所を久世の戸と名づけ初めにしその謂を。 委しく語り給ふべし。シテ「われらは賎しき漁人なれば。 いかでか語り申すべきさりながら。 まづ久世の戸と名づけし事。 忝くも天神七代地神二代の御神。この国に天降り。 こゝにて天竺五台山の。文珠を勧進し給へば。

天の七代地の二代を。 これ九世の戸と名づけしなり。ツレ「されば菩薩の像体も。 これ帝釈の御作とかや。 シテ詞「其後龍宮に入り給ひ。法を弘めて程もなく。 又この島に上り給ふ。 ツレ「すなはち獅子の渡とて。今に絶えせぬ跡とめて。 シテ詞「龍神御灯を捧ぐれば。 ツレ「天より天人あまくだり。シテツレ二人「天の灯龍神の御灯。 此松が枝に光をまらべ。渇仰の時節今宵なり。 有難かりける時節なり。 ワキ「さては神代の昔より。 今に絶えせぬこの松に捧ぐる御灯をまのあたり。拝まん事ぞ有難き。 シテ「なか/\の事御覧ぜよ。 出でくる月も曇なき。地「天の橋立光添ふ。/\。 都の人も浦人も。語れば思ふ事なくて。 四方の眺も面白や。松風も音しげく。 立ちくる波も白妙の。 月澄み昇る気色かな。/\。 クリ「それ地神二代の御神。

始めてこゝに天降り。末世の衆生済度のために。 霊像を勧請し給へり。 シテサシ「されば此地開闢の昔。地「はや神国とあらかねの。 きゝうの祭しな%\の。 衆生済度の方便生死の相をたすけんとて。 シテ「三世覚母大聖文珠を。地「この島に安置し給ひけり。 クセ「この橋立を造らんと。 約諾ありしその頃は。神の代いまだ遠からず。 雲霧虚空に充ち/\て。常闇の如くなりしかば。 おの/\神火をともして。 日夜に土を運びて同じく松を植ゑ給ふ。 其灯のあまりを彼処に置かせ給ひしより。 日置の島とて。これも故ある神所なり。 シテ「かくて神々集まりて。 地「天竺五台屋mあの文珠を勧請し給へば。上は有頂の雲を分け。 下は下界の龍神。音楽種々の花降り。 御灯を捧げ奉る。 その影向のありさま語るも愚なりけり。 ロンギ「げに有難き神の代の。/\。

昔語も今の世に。残る灯曇なき。 御影を松の木陰かな。シテ「短夜の。 空も更けゆく浦風の。音を静めて待ち給へ。 必ず御灯現れん。地「不思議やさてもかくばかり。 委しく語る浦人の。その名をなのり給へや。 シテ「今は何をかつゝむべき。 われは知らずや此寺の。地「大聖文珠の御前なる。 さいしやう老人はわれなり。 御身信心清浄の。心を感じ来りたりと。 いひ捨てゝ其姿。松の木陰に失せにけり。来序中入間「。 ツレ天女出端「久方の。雲井に渡る橋立は。 天つ御空の御橋かな。 地「月も更けゆく天の原。/\。紫雲〓{たなび}き異香薫じ。 天の少女の雲の羽袖。光も妙なる御灯を捧げ。 松の梢に天降り。天降る。 かゝりければ龍宮より捧ぐる御灯の光。 海上に浮かんで見えたる粧。あらたなりける出現かな。 後シテ早笛「本光あまねき灯の。 龍宮の内裏を照らすなり。地「空には実月灯明仏。

/\。シテ「又下界には龍神の灯火。 地「潮に揺られ浮き沈めども。 光はいとゞかゞやきあがりて。 天地の両灯一つになり合ひ。久世の戸の明け方明々たり。働「。 シテ「固より龍神は飛行自在に。 地「固より龍神は飛行自在に。 通力遍満の奇特を見せんと。平地に波瀾を起しつゝ。 海山虚空に飛びかけつて。 嵐を蹴立て雨を起。して吹き曇り/\震動すれども御灯の光は。明かに。なほ澄み昇るや。 天つ少女。 の姿も雲井に入らせ給へば又龍神は波を蹴立て。逆巻く潮の廻ると共に。/\。 引かれて波にぞ入りにける 建御雷神 神霊 天女 奉幣使 従者。

ワキ、ワキツレ二人、次第「動かぬ御代の例とて。/\。 鹿島の宮に参らん。 ワキ詞「抑是は当今の詔によりて。鹿島の宮に詣づる奉幣使なり。 さるによりて旅の衣手取粧ひ。 唯今常陸の国へと急ぎ候。 道行三人「行末も踏みなたがへそあきつしま。/\。 日本の国をかなめにて。正しき道を行く程に。 高天の原に着きにけり。高天の原につきにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや高天の原に着きて候。暫し此処に休らひて。 四方の景色を眺めうずるにて候。 ワキツレ「然るべう候。シテツレ真ノ一声「霰ふり。 鹿島の宮居神さびて。尊かりけることゝかや。 ツレ二ノ句「天の浮橋かけまくも。 二人「かしこき御代は此神の。功とこそ人も知れ。

上歌「沼の尾の池の玉水神代より。/\。 絶えぬは深き誓にて。 それのみならず年経ても濁らぬ御代を仰ぎつゝ。今を昔といふ世までも。 この御神の尊め。 治まるや豊あし原の中津国。つのぐむ芦の末葉まで。 恵の露は押しなべて。かゝる大御代ぞ類なき。 かゝる大御代ぞ類なき。 ワキ詞「いかにこれなる人々に申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか。何事にて候ふぞ。 ワキ「人々は此辺の者にてわたり候ふか。 シテ「さん。 候この辺に住居する夫婦の海人にて候ふが。日毎に此御神に詣で候へば。 また今日も参らばやと存じ。 この処に来りて候。まづ御姿を見奉れば。 このあたりにては見なれ申さぬ御事なり。

そもいづくよりの御参詣にて候ふぞ。 ワキ「これは当今より奉幣使を命ぜられ。 初めて此地に下り候ふが。余りに眺よきまゝに。 暫し此処に休ひ申し候。 偖この浦は何と申し候ふぞ。シテ「これこそ高天の浦と申し候へ。 。 ワキ「さては余所に見て袖や濡れなんと詠みしもこの処なり。音に聞えし高天の浦。 なみならぬ浜の眺かな。 又あなたに見ゆる山は何と申し候ふぞ。 シテ「あれこそ三笠山と申し候へ。ワキ「三笠山。 さしてゆくべき霰ふり。鹿島の宮も程近う候な。 シテ「さん候程近うこそ候へ。 ワキ「程近ければ急ぐべきにもあらず。 まづ鹿島とは何故に申し候ふ名やらん。 シテ「さん候鹿島とは鹿の棲む故の名とも申し。 ツレ「又は神の鎮まる島ゆゑに。 神島といふを省きし事とかや。 ワキ「謂をきけば面白や。 扨天にては鹿島の宮といひ。

シテ「地にては豊鹿島の宮と名づくるは。ワキ「鹿の群れ居る。 シテツレ二人「島なればなり。 地「夏野ゆく牡鹿の角の束の間も。/\。恵はもれぬ秋津洲は。 皆この神の。いさをしにあるなれば。 昔よりかく宮柱。ふとしく立てゝ万代も。 仰ぐかしまの神ぞかし/\。 ワキ詞「猶々此辺に。 於て神の功の伝はりたるを委しく承り度く候。 シテ「承り及びたる所を申し上げうずるにて候。 語「抑皇孫日子穂の邇々杵の尊天降り給へる時。 豊芦原の水穂の国は。五月蠅なる荒振国津神おほければ。 平定給はんとて。高皇産霊の尊。 天照大御神の勅もて。 思兼の神八百万の神等議り択みて。天の穂日の神を遣はされしに。 大国主の神に媚び給ひて。 三年が間復命申さず。ツレ「又天若彦を降しつるが。 是も心の悪しければ。 シテ「下照姫を娶りつつ。此国を得んと思ひはかりて。 八年が間かへりごと申さず。

さるによりて天照大御神。 いづれの神をつかはさば速に言迎せんと宣へば。 八百万の神等神議り給ひて。建御雷の男の神ぞと申すにより。 天の島ぶねの神を副へて下し給ふに。 御稜威を振ひ悉く。荒振る夷を・帰服{まつろは}しめ。 皇孫の尊を安らかに天降し給へるは。 皆この神の功なり。ワキ「よく/\聞けばありがたや。恵は海のそこひなく。 シテ「深きは神の処にて。ワキ「国も豊に。シテワキ二人「民栄え。 地「安国と治まる御代は久方の。 天も静かにあらかねの地も動かず鹿島野や。 桧原杉原常磐なる。君の栄を仰ぐなり/\。 地クリ「抑日本の国の道といつぱ。 君と臣との礼を尽し。父母を敬ひ子を愛でて。 天地初めて開くるより。八百万世の末迄も。 君を尊み民を撫でて。 天に二の日なきが如く。四方の海の外にては。 かゝる国こそなかりけれ。シテサシ「故に日本の国は。 文武二道を盛んにして。正道を守り異端をさけ。

地「乱るゝ世にも治を思ひ。 治まる世にも乱を忘れず。此大国に生れくる人は。 上下男女の差別なく。 恩を報じて夷を防ぐを予めすといへり。 シテ「唯神徳を仰ぐとて。地「わがなす業を怠りて。 弘安四年の神風をたのみとせず。 クセ「然れば大国は。 扶桑の御名を負ひぬれば。弓箭の道をはげむべく。 治まりて世は安国となりぬるも。 鹿島の神の恵とかや。梓弓春の海辺はのどかにて。 名さへ高天の浦波の音も静かに打向ふ。 夏見の山の松も桧も。緑の色に茂り合ひて。 枝も鳴さず秋来れば。千種の花の色々に。 眺も尽きずあられ降り鹿島の景色面白や。 シテ「世の中に。何はあれども春の海。 地「秋の山辺にますものぞ。 渚の千鳥打群れて。通ふが如く大神に。 歩みを運ぶ人々の。目にも定かに恵ある。 世の風の色は民草の。靡けるのみか大日本。

たけひの国は久方の。月さへもまたすみよからんと。 見ゆるばかりの御国かな。ほの%\と日もはや登るいざさらば。/\。 長物語よしなや。まづ神に詣で給へ我も。 導き申さんと。立つかとすれば潮霧に。 行方見えずなりにけり/\。中入間「。 ワキ「これははや社壇にて候ふ程に。 神拝申さうずるにて候。かけまくもかしこき神の広前に。 詔を述ぶるとて。青和幣白和幣。 種々の物を奉り。 おろがみて?申さく君安らかに国栄え。夷等を平和し。取伝へたる梓弓。 八百万代の春秋津島。治め給ひて此原の。 緑色添ふ若松の。 常磐に堅磐に茂し御代を。守り給へと畏み/\も申す。 神拝もすみて候ふ間。急ぎ都へ上らばやと存じ候。 不思議や夫婦の老人の。 言葉を聞けば神の功昔を今に。見んよしもがな。 後ツレ、出羽「あらありがたや妾は是。 神宮の沢の亀卜をもて。ものいみと定まりければ。

心も身をも清くして。此御神に仕ふるなり。 今日は正月七日の夜にて。御戸開の神事なれば。 去歳の幣を取下して新に納め奉らん。 地「をさむべし/\。 神御慮に叶ひたれば。いかでか受納なかるべき。 ツレ「受納あれ。地「受納あるらん心も潔く。 身も清々に五百千の人に勝れければ。 いかでか入納なかるべき。天女舞「。 地「あらたなりける幣帛を持ちて。/\。 神の御前に参らすれば。神も物忌の清き心を感じ給ひて。 昔の功を見せ給へと。 御戸をひらくに頻に宮殿鳴動するは。此御神のいでますかや。 早笛「。シテ「抑これは。天照太神の詔を以て。 〓{ふつ}の御霊を賜り天降り来る。

建御雷の神なり。地「神の御稜威は四方国に広く。 剣の光は天地に輝き。 シテ「利を名づけてふつといふ。地「利は常磐に異る事なく。 〓は夷の胆をひやして。鹿島の宮に。 おはします。舞働「。 シテ「布都の霊の剣を持つて。地「布都の御霊の剱を持つて。 秋津洲の中。国々のあらぶる夷を追儺ひ/\石根木根立青水沫。草の片葉も言止めて。 八島の国を悉く平らげ。 皇孫の尊を天降し敬ひ。青人くさを恵み給ひて。 ゆく末までもやす国と。 納め給へるしるしをたてゝ。堅くぞ契る要石の。 堅くぞ契る要石の。動かぬ御代こそ。目出度けれ 勅使 臣下 花守の姥 花守の尉 子守の明神 勝手の明神 蔵王権現

ワキ、ワキツレ二人 次第「吉野の花の種とりし。/\。 嵐の山に急がん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても和州吉野の千本の桜は。 聞しめし及ばれたる名花なれども。遠満十里の外なれば。 花見の御幸かなひ給はず。 さるにより千本の桜を嵐山にうつしおかれて候ふ間。 此春の花を見て参れとの宣旨を蒙り。 唯今嵐山へと急ぎ候。道行三人「都には。げにも嵐の山桜。 /\。千本の種はこれぞとて。 尋ねて今ぞ三吉野の。花は雲かと眺めける。 その歌人の名残ぞと。 よそ目になれば猶しもの。眺妙なるけしきかな。/\。 詞急ぎ候ふ程に。これははや嵐山に着きて候。 心静かに花を眺めうずるにて候。 シテツレ二人真の一声「花守の。住むや嵐の山桜。 雲も上なき梢かな。 ツレ二ノ句「千本に咲ける種なれや。二人「春も久しきけしきかな。 シテ「これはこの嵐山の花を守る。

夫婦の者にて候ふなり。二人「それ遠満の外なれば。 花見の御幸なきまゝに。 名におふ吉野の山桜。千本の花の種とりて。 この嵐山に植ゑおかれ。後の世までの例とかや。 これとても君の恵かな。 下歌「げに頼もしや御影山治まる御代の春の空。 上歌「さも妙なれや九重の。/\。内外に通ふ花車。 轅も西にめぐる日の影ゆく雲の嵐山。 戸無瀬に落つる白波も。 散るかと見ゆる花の瀧。盛久しき気色かな/\。 ワキ詞「不思議やなこれなる老人を見れば。 花に向ひ渇仰の気色見えたり。 おことはいかなり人やらん。 シテ「さん候これは嵐山の花守にて候。又嵐山の千本の桜は。 皆神木にて候ふ程に。 花に向ひ渇仰申し候。ワキ「そも嵐山の千本の桜の。 神木たるべき謂はいかに。 シテ「げに御不審は御理。名におふ吉野の千本の桜を。 移しおかれしその故に。人こそ知らね折々は。

木守勝手の神ともに。 この花に影向なるものを。 ワキ「げにやさしもこそ厭ふ憂き名の嵐山。詞とりわき花の名所とは。 何とて定め置きけるぞ。 シテ「それこそなほも神慮なれ。名におふ花の奇特をも。 顕さんとの御恵。 シテツレ二人「げに頼もしや御影山。靡き治まる三吉野の。 神風あらばおのづから。名こそ嵐の山なりとも。 地下歌「花はよも散らじ。 風にも勝手木守とて。夫婦の神はわれぞかし。 音たかや嵐山。人にな知らせ給ひそ。 地上歌「笙の岩屋の松風は。/\。 実相の花盛。開くる法の声立てゝ今は嵐の山桜。 菜摘の川の水清く。 真如の月の澄める世に。五濁の濁ありとても。 ながれは大堰川その水上はよも尽きじ。いざ/\花を守らうよ/\。春の風は空に満ちて。 /\。庭前の木を切るとも。 神風にて吹きかへさば妄想の雲も晴れぬべし。

千本の山桜のどけき嵐の山風は。 吹くとも枝は鳴らさじ。この日もすでに呉竹の。 夜の間を待たせ給ふべし。 明日も三吉野の山桜。立ちくる雲にうち乗りて。 夕陽残る西山や。南の方に行きにけり/\。 中入来序間。 下り羽ツレ出「三吉野の。/\。 千本の花の種植ゑて。 嵐山あらたなる神あそびぞめでたき此神あそびぞめでたき。後ツレ二人「いろ/\の。地「いろ/\の。花こそまじれ白雪の。 子守勝手の。恵なれや松の色。 ツレ二人「青根が峯こゝに。地「青根が峯こゝに。 小倉山も見えたり。向は嵯峨の原。 下は大堰川の。岩根に波かゝる亀山も見えたり。 万代と。/\。囃せ/\神あそび。 千早ぶる。天女舞。 地「神楽の鼓声澄みて。/\。 羅綾の袂を。 ひるがへし飄す舞楽の秘曲も度重なりて。感応肝に銘ずるをりから。

不思議や南の方より吹きくる風の。 異香薫じて瑞雲たなびき。金色の光輝きわたるは。 蔵王権現の来現かや。 後シテ早笛「和光利物の御姿。/\。 シテ「我本覚の都を出でて。分段同居の塵に交はり。 地「金胎両部の一足をひつさげ。 シテ「悪業の衆生の苦患を助け。 地「さて又虚空に御手を上げては。

シテ「忽ち苦海の煩悩を払ひ。 地「悪魔降伏の青蓮のまなじりに。光明を放つて国土を照らし。 衆生を守る誓を顕し。子守勝手蔵王権現。 同体異名の姿を見せて。おの/\嵐の山に攀ぢのぼり。花に戯れ梢にかけつて。 さながらこゝも金の峰の。光も輝く千本の桜。 光も輝く千本の桜の。 栄ゆく春こそ久しけれ 勅使 従者 老人 天太玉命。

ワキ、ワキツレ二人、次第「風も静かに楢の葉の。/\。 鳴さぬ枝ぞ長閑けき。 地「抑これは桓武天皇に仕へ奉る臣下なり。 さても山城の国愛宕郡に。平の都を立て置き給ひ。 国土安全の砌なり。同じく当国伏見の里に。 大宮造あるべきとの勅諚を蒙り。 唯今伏見に下向の仕り候。

ワキサシ「それ久方の神代より。天地ひらけし国の起。 天の瓊矛の直なるや。名も二柱の神こゝに。 八洲の国を作り置き。皇代なれや大君の。 御影のどけき。時とかや。 上歌「青丹よし楢の葉守の神慮。/\。末暗からぬ都路の。 直なるべきか菅原や伏見の里の宮造。 大内山の陰高き。雲の上なる玉殿の。

月も光や磨くらん/\。 シテサシ「あら貴の御造や。 聞くも名高き雲の垣。霞の軒も玉簾。 かゝる時代に逢ふ事よと。命うれしき長生の。 あつぱれ老の思出や。 ワキ詞「不思議やな参詣の人々多き中に。 けしたる宜禰御幸の先に進むぞや。 そも御身はいづくより参詣の人ぞ。 シテ「これは伊勢の国あこぎが浦に住む者なるが。 当社伏見の大宮造。 天も納受し地もうるほふ。王法を尊み来りたり。 ワキ「そも王法を尊むとは。いかなる望のあるやらん。 シテ詞「そもかゝる身の望とは。 そら恐しや此年まで。命すなほに愁もなく。 上直なれば下までも。豊に治まるこの国の。 。 地下歌「千代をこめたる竹の杖伏見はこれか宮所。参りて拝むこそ。 朝恩を知れる心なれ。上歌「春は花山の木を伐れば。 /\。袂にかゝる白雪。

深き井桁を切るなるは。欄井の釣瓶縄。 又泰山の山下水その巌石を切石。 ロンギ地「車を作る椎の木。/\。 シテ「船を作する揚柳。地「木の間になさん槻の木。 シテ「それは秋立つ桐の木。 地「君に齢をゆづり葉や。シテ「千年の松は伐るまじ。 地「名は春の木の枝ながら。 花はなど榊葉。これは神の宿木。恐あり伐るまじ。 シテ詞「あら不思議や。 天より金札の降り下りて候。 すなはち金色の文字すわれり読み上げ給へ。ワキ「げに/\天より金札の降り下りて候ふぞや。 取りあげ読みて見れば何々。そも/\我が国は。 真如法身の玉垣の。内に住めるや御裳濯川の。 流絶えせず守らんために。 伏見に住まんと誓をなす。シテ詞「さてこの伏見とは。 何とか知し召されて候ふぞ。 ワキ「事も愚や伏見の宮居。この御社の事なるべし。 シテ詞「あら愚や伏見とは。総じて日本の名なり。

伊奘諾伊奘册の尊。天の磐座の苔筵に。 臥して見出したりし国なれば。 伏見とはこの秋津洲の名なるべし。 地「人知らぬ事なりこの国も伏見里の名も。 伏し見る夢とも現とも。分かぬ光の中よりも。 金の札をおつ取つて。かき消すやうに失せけるが。 しばし虚空に声ありて。 シテ「これは伊勢大神宮の御つかはしめ。天津太玉の神なり。 詞「なほしも我を拝まんと思はゞ。 重ねて宮居を作り崇むべしと。 地「迦陵頻伽の声ばかり。虚空に残り。 雲となり雨となるや雷の。光の中に入りにけり/\。中入間「。 地「楽に引かれて古鳥蘇の。 舞の袖こそゆるくなれ。 後シテ「守るべし。我が国なれば皇の。 万代いつと。限らまし。 地「限らじな限らじな。栄ゆく御代を守りのしるし。 シテ「ただ重くせよ。神と君。 地「重くすべしや。

重くすべしや扉も金の御札の神体光もあらたに見え給ふ。 地「四海を治めし御姿。/\。 シテ「あらたに見よや君守る。 地「八百万代のしるしなれや。シテ「悪魔降伏の真如のつき弓。 さて又次にはさばへなす。 荒ふる神も祓のひもろぎその神託は数々に。 左も右も神力の。悪魔を射払ひ清をなすも。 金胎両部の。形なり。

働シテ「とても治まる国なれば。 地「とても治まる国なれば。 中々なれや君は船、臣。 は瑞穂の国も豊に治まる代なれば東夷西戎。南蛮北狄の恐なければ。 弓をはづし。剣を収め。 君もすなほに民を守りの御札は宮に。 納まり給へば影さしおろす玉簾。影さしおろす玉簾の。 ゆるがぬ御代とぞなりにける 勅使 従者 童子(天の探女) 龍神。

ワキ、ワキツレ二人次第「げに治まれる四方の国。/\。 関の戸さゝで通はん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 さても我が君賢王にましますにより。 吹く風枝を鳴らさず民戸ざしをさゝず。 誠にめでたき御代にて候。さる間摂州住吉の浦に。 始めて浜の市を立て。

高麗唐土の宝を買ひとるべしとの宣旨に任せ。 唯今津の国住吉の浦に下向仕り候。道行三人「何事も。 心に叶ふ此時の。/\。 ためしもありや日の本の。 国豊なる秋津洲の波も音なき四つの海。高麗唐土も残なき。 御調の道の末ここに。津守の浦に着きにけり/\。 シテ真ノ一琴「松風も。のどかに立つや住吉の。

市の巷港出づるなり。 シテサシ「それ遠満十里の外なれども。こゝは処も住吉の。 神と君とは隔なき。誓ぞ深き瑞籬の。 久しき世々の例とて。こゝに御幸を深緑。 松にたぐへて千代までも正しき君の御旅居。 いづくも同じ日の本の。 もれぬ恵ぞ有難き。下歌「いざ/\市に出汐の月面白き松の風。 上歌「伊勢島や汐干に拾ふたま/\も。/\。待ちえにけりな此御代に。 鸚鵡の玉鬘かゝる時しも生れ来て。 民豊なる楽を何に譬へん秋津洲や。 高麗唐土も隔なき。宝の市に出でうよ/\。 ワキ詞「不思議やなこれなる市人を見れば。 姿は唐人なるが。声は大和詞なり。 又銀盤に玉をすゑて持ちたり。 そも御身はいかなる人ぞ。 シテ「さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。 又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。余りにめでたき御代なれば。 龍女が宝珠とも思し召され候へ。

詞「これは君に捧物にて候。ワキ「ありがたし/\。 それ治まれる御代の験には。 賢人も山より出で。聖人も君に仕ふと云へり。 然れば御身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。 委しく奏聞申すべし。 シテ「あらむつかしと問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。 宝珠の外に其名は無し。 これも津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。 ワキ「心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意宝珠を。 我が君にさゝげ奉るか。 シテ「運ぶ宝や高麗百済。ワキ「唐船も西の海。 シテ「檍が原の波間より。ワキ「現れ出でし住吉の。 シテ「神も守りの。ワキ「道すぐに。 地「こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。 目のあたりあらたなる。君の光ぞめでたき。 ロンギ地「千代までと菊売る市の数々に。 /\。四方の門辺に人さわぐ。 住吉の浜の市宝の数を買ふとかや。 シテ「春の夜の一時の。千金をなすとても。

喩はあらじ住吉の。松風値なき金銀珠玉いかばかり。 地「千顆万顆の玉衣の。浦ぞ津守の宮柱。 シテ「立つ市館かず/\に。 地「籬もつゞく片そぎの。シテ「みとしろ錦綾衣。 地「頃も秋たつ夕月の。影に向ふや淡路潟。 シテ「絵島が磯は斜にて。 地「松の隙行く捨小舟。シテ「寄るか。地「出づるか。 シテ「住吉の。 地「岸うつ浪は茫々たり松吹く風は切々として。蜜語かくやらん。 その四つの緒の音を留めし潯陽の江と申すとも。 これにはよもまさじ面白の浦の景色や。 シテ詞「又岩船のより来り候。 ワキ「そも岩船のより来るとは。 御身は如何なる人やらん。シテ「げに旅人はよも知らじ。 天も納受喜見城の。宝を君に捧げ申さんと。 天の岩船雲の波に。高麗唐土の宝の御船を。 唯今こゝに寄すべきなり。 地「今は何をか包むべき。其岩舟を漕ぎよせし。 天の探女は我ぞかし。

飛びかける天の岩船尋ねてぞ。秋津島根は宮柱住吉の松の緑の空の。 嵐とともに失せにけり/\。来序中入間「。 地「久方の。天の探女が岩船を。 とめし神代の。幾久し。 後シテ早笛「我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。 龍神なり。地「或は神代の嘉例をうつし。 シテ「又は治まる御代に出でて。 地「宝の御。 船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。働「。地「宝をよする波の鼓。 拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。 シテ「引けや岩船。地「天の探女か。 シテ「波の腰鼓。 地「ていたうの拍子を打つなり。 やさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。 おすや唐艪の/\潮の満ちくる浪に乗つて。 八。 大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。 長居もめでたき住吉の岸に。 宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。

運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。 山の如くに津守の浦に。

君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける 彦火々出見尊 豊玉姫 玉依姫 海神 天女

半開ロワキサシ「それ天地ひらけ始まりしより。 天神七代地神四代に至り。 火々出見尊とは我が事なり。詞「さても兄火闌降命の。 釣針を。 かりそめながら海辺に釣を垂れしに。かの釣針を魚に取られぬ。 此由を兄尊に申せども。 唯もとの針を返せと宣ふ間。 剣をくづし針に作りて返すといへども。なほもとの鈎を責る。 さらば海中に入り。かの釣針を尋ねんと思ひ立ちて候。 わたつみのそことも知らぬ塩土男の。 翁の教に従ひて。無目籠の猛き心。 歌「直なる道を行く如く。/\。 波路遥に隔て来てこゝぞ名におふわたつみの。

都と知れば水もなく。 広き真砂に着きにけり/\。 詞「さても我塩土男の翁が教に従ひ。わたつみの都に入りぬ。 これに瑠璃の瓦を敷ける衡門あり。 門前に玉の井あり。 この井の有様銀色かゝやき世の常ならず。又ゆつの桂の木あり。 木の下に立ち寄り。 暫く事のよしをも窺はゞやと思ひ候。 シテツレ二人真ノ一声「はかりなき。齢を延ぶる明暮の。 長き月日の。光かな。 ツレ二ノ句「いとなむ業も手ずさみに。二人「掬ぶも清き。水ならん。 シテサシ「濁なき心の水の泉まで。 老いせぬ齢を汲みて知る。二人「薬の水の故なれや。

老いせぬ門に出で入るや。 月日曇らぬ久方の天にもますや此国の。行末遠き。 住居かな。下歌「くり返す玉の釣瓶の掛縄の。 上歌「ながき命を汲みて知る。/\。 心の底も曇なき。月の桂の。 光添ふ枝を連ねてもろともに。朝夕なるゝ玉の井の。 深き契は。頼もしや深き契は頼もしや。 ワキ詞「我玉の井の辺にたゝずむ所に。 その様けだかき女性二人来り。 玉の釣瓶を持ち水を汲む気色見えたり。 言葉をかけんも如何なれば。 これなる桂の木陰に立ちより。身を隠しつゝ佇みたり。 シテ「人ありとだにしら露の。玉の釣瓶を沈めんと。 玉の井に立ち寄り底を見れば。 桂の木蔭に人見えたり。 これは如何なる人やらん。ワキ「忍ぶ姿も現れて。 あさまになりぬさりながら。なべてならざる御姿。 いかなる人にてましますぞ。 シテ「あら恥かしや我が姿の。見えける事も我ながら。

忘るゝ程の御気色。 形も殊にみやびやかなり。唯人ならず見奉る。 御名を名乗りおはしませ。ワキ詞「今は何をか包むべき。 我は天孫地神四代。 火々出見尊とは我が事なり。ツレ「あら有難や天の御神の。 御孫の尊を目のあたり。 見奉るぞ不思議なる。シテ詞「いやさればこそ始より。 天孫の光隠れなし。さてこれまでの臨幸は。 そも何事の故やらん。 ワキ「実に御不審は御理。我釣針を魚に取られ。 遥々これまで尋ね来る。こゝをば何処と申すやらん。 委しく語り給ふべし。 シテ詞「知しめさねば御理。これは龍宮わたつみの宮。 ワキ「かく言の葉をかはし給ふ。二人の御名は。 シテ「豊玉姫。ツレ「我は妹の玉依姫。 地「互に連枝の名乗して。 つゝましながら御神の。みやびやかなるに。 早打ち解けて木綿四手の。 神にぞ靡く大幣の引く手あまたの。心かな引く手あまたの心かな。

シテ詞「いかに申し上げ候。 うちつけなる御事なれども。やがて父母に逢はせ奉り。 かの釣針をも尋ぬべし。 御心安く思し召され候へ。ワキ「さらばやがて伴ひ申し。 宮中へ参り給ふべし。 地クリ「忝くも天の御神の御孫。 わたつみの都にいたり給ふ事。有難かりける。 御影かな。シテサシ「然れば高垣姫垣調ほり。 地「高殿屋照りかゝやき。 雲の八重畳を敷き。尊を請じ入れ奉り。シテ「父母の神。 いつきかしづき。 地「臨幸の意趣を語り給ふ。クセ「我兄の釣針を。 かりそめながら波間行く。魚に取られて無き由を。 歎き給へどその針に。 あらずは取らじととにかくに。せうとを痛めさま%\に。 猛き心の如何ならんと。 語り給へば父の神御心安く思し召せ。 まづ釣針を尋ねつゝ御国に帰し申すべし。シテ「なほ兄の怒あらば。 地「潮満潮干の。

二つの玉を尊に奉りなば御心に。任せて国も久方の。 天より降る御神の。 外祖となりて豊姫もたゞならぬ姿有明の。月日程なく三年を送り給へり。 ワキ詞「かくて三年になりぬれば。 我が国に帰り上るべし。海路の案内いかならん。 シテ「御心安く思し召せ。 綿津見の宮主伴ひて。海中の乗物様々あり。 地「大鰐に乗じはやてを吹かせ。 陸地に送りつけ申さん。其程は待たせおはしませ。来序中入間「。 後ツレ二人出端「光散る。潮満玉のおのづから。 くもらぬ御影。仰ぐなり。地「各玉を。 捧げつゝ。各玉を捧げつゝ。 豊姫玉依二人の姫宮。金銀碗裏に玉を供へ。尊に捧げ。 奉り。かの釣針を。待ち給ふ。 綿津見の宮主。持参せよ。大〓{大漢和:22529。 べし}後シテ「まうとの君の命に随ひ。綿津見の宮主釣針を尋ねて。 天孫の御前に。奉る。 地「潮満潮干二つの玉を。/\。 釣針に取り添へ捧げ申し。舞楽を奏し。豊姫玉依。

袖をかへして。舞ひ給ふ。天女舞「。 地「いつれも妙なる舞の袖。/\。 玉のかんざし桂の黛。月も照り添ふ花の姿。 雪を廻らす。袂かな。 シテ「わたづみの宮主。舞働。 地「姿は老龍の。雲に蟠り。かせ杖にすがり。 左右に返す。袂も花やかに。足踏はとう/\と。

拍子をそろへて時移れば。尊は御座を。 立ち給ひ。帰り給へば袂にすがり。 わたづみの乗物を奉らんと五丈の鰐に。 乗せ奉り。二人の姫に。玉を持たせ。 龍王立ち来る。波を払ひ。潮を蹴立て。 遥に送りつけ奉り。遥に送りつけ奉りて。 又龍宮にぞ帰りける 周穆王 臣下 女(ナシニモ) 西王母 侍女(謡ナシ)

ワキサシ真ノ来序「有難や三皇五帝の昔より。 今この御代にいたるまで。 かゝる聖主のためしはなし。地「その御威光は日のごとく。 ワキツレ「その御心は海のごとくに。 地「豊に広き御恵。ワキ「天に輝き地に満ちて。 上歌「北辰の共ずる数々の。/\。 満天に廻る星の如く。百官卿相雲客や。 千戸万戸の旗を靡かし。鉾を横たへ。

四方の門べにむらがりて。市をなし。金銀珠玉。 光を交へ。 光明赫奕として日夜の勝劣見えざりけり。かゝるためしは喜見城。 その楽も如何ならん。/\。 シテツレ二人一セイ「桃李ものいはず。 下おのづから市をなし。貴賎交はり。隙もなし。 シテ「面白や四季折々の時をえて。 草木国土おのづから。二人「皆これ真如の花の色香。

妙なる法の三つの心。 うるほふ時や至りけん。三千年に咲く。花心の。 をり知る春の。かざしとかや。 下歌「いざや君に捧げん。いざ/\君にさゝげん。 上歌「すめらぎの。その御心は普くて。/\。 隙行く駒の法の道。 千里の外までうへもなき道に至りて明らけき。霊山会場の法の場。 広き教の実ある。君々たれば誰とても。 勇ある世の。心かな/\。 シテ詞「いかに奏聞申すべき事の候。 ワキ「奏聞とはいかなる者ぞ。 シテ「これは三千年に花咲き実なる桃花なるが。 今此御代にいたり花咲く事。 たゞこの君の御威徳なれば。仰ぎて捧げ参らせ候。 ワキ「そも三。 千年に花咲くとはいかさま是は聞き及びし。その西王母が園の桃か。 シテ「なかなかにそれとも今はものいはじ。 ワキ「さればこそそれぞことさら名におふ花の。 シテ「桃李ものいはず。

ワキ「春いくばくの年月を。シテ「送り迎へて。 ワキ「この春は。上歌「三千年に。 なるてふ桃の今年より。/\。花咲く春にあふ事も。 たゞこれ君の四方の恵。 あつき国土の千々の種桃花の色ぞ妙なる。 ロンギ「さては不思議や久方の。 天つ少女のまのあたり。姿を見るぞ不思議なる。 シテ「疑の。心なおきそ露の間に。 やどるか袖の月の影。雲の上までその恵。 あまねき色にうつりきぬ。 地「移ろふものは世の中の。人の心の花ならぬ。 シテ「身は天上の。地「楽に。 明けぬ暮れぬと送り迎ふ年は経れど限もなき。 身の程も隔なく。真はわれこそ西王母の。 分身よまづ帰りて花の身をもあらはさんと。 天にぞ上りける天にぞ上り給ひける。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「糸竹呂律の声々に。/\。 しらべをなして音楽の。声すみわたる天つ風。 雲の通路。心せよ。/\。下リ羽後シテ出地「面白や。

かゝる天仙理王の。来臨なれば。数々の。 孔雀鳳凰迦陵頻伽。飛び廻り声々に。 立ち。 舞ふや袖の羽風天つ空の衣ならん天の衣なるらん。後シテ「いろ/\の捧げもの。 。地「いろ/\の捧げものの中に妙に見えたるは西王母のその姿。 光庭宇をかゞやかし。黄錦の御衣を着し。 シテ「剣を腰にさげ。地「剣を腰にさげ。真〓{糸+嬰}の冠を着。 。

玉觴に盛れる桃を侍女が手より取りかはし。シテ「君に捧ぐる桃実の。 地「花の盃取りあへず。中ノ舞「。 地「花も酔へるや盃の。/\。 手まづさへぎる曲水の宴かや御溝の水に。 戯れ戯るゝ。たをやめの。 袖も裳裾もたなびきたなびく。雲の花鳥。 春風に和しつゝ雲路にうつれば王母も伴ひ攀じのぼる。 王母も伴ひ上るや天路の。 行方も知らずぞ。なりにける 官人 従者二人 里の女 里の女 呉織の霊 漢織の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「道の道たる時とてや。/\。 国国豊なるらん。ワキ詞「そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。 我此間は摂州住吉に参詣申して候。又これより浦づたひし。 西の宮にまゐらばやと存じ候。 道行三人「住の江や。のどけき浪の浅香潟。/\。

玉藻。 刈るなる海士人の道もすぐなる難波がた。ゆくへの浦も名を得たる。 呉服の里に着きにけり/\。 シテツレ二人真ノ一声「くれはとり。綾の衣の浦里に。 年経て住むや。あま乙女。 ツレ二ノ句「立ちよる浪もしら糸の。二人「機織り添ふる。

音しげし。シテサシ「これは津の国呉服の里に。 住みて久しき二人の者。 二人「我この国にありながら。身は唐土の名にしおふ。 女工の昔を思ひ出づる。月の入るさや西の海。 。 波路はるかに来し方の身は唐土の年を経て。こゝに呉服の。里までも。 身に知られたる。名所かな。 下歌「これもかしこき御代のため送り迎へし機物の。 上歌「大和にも。織る唐衣のいとなみを。/\。 今しきしまの道かけて。 言の葉草の花までもあらはしぎぬの色そへて。 心をくだく紫の。 袖も妙なるかざしかな袖も妙なるかざしかな。 ワキ詞「さても我此松原に来て見れば。 やごとなき女性二人あり。一人は機を織り。 今一人は糸を取り引き。 互に常の里人とは見え給はず。 そも方々はいかなる人ぞ。二人「はづかしや里ばなれなる松蔭の。 うしほも曇る夕月の。

影にまぎれて浦波の声にたぐへて機物の。 音きこえじと思ひしに。知られけるかや恥かしや。 ワキ「何をか包み給ふらん。 其身は常の里人ならで。詞「此松蔭に隠れ居て。 機織り給ふは不審なり。いかさま名のり給ふべし。 シテ詞「これは応神天皇の御宇に。 めでたき御衣を織りそめし。 呉織漢織と申しゝ二人の者。今又めでたき御代なれば。 現に現れ来りたり。 ワキ「不思議の事を聞くものかな。それは昔の君が代に。 唐国よりも渡されし。 詞「綾織二人の人なるが。今現在に現れ給ふは。 何といひたる事やらん。 シテ詞「はやくも心得給ふものかな。まづ此里を呉服の里と。 名づけそめしも何故ぞ。我此処にありし故なり。 ツレ「又あやはとりとは機物の。 糸を取り引く工ゆゑ。綾の紋をなす故に。 あやはとりとは申すなり。 シテ詞「くれはとりとは機物の。糸引く木をばくれはと云へば。

呉服取る手によそへつゝ。 くれはとりとは申すなり。 ツレ「されば二人の名によせて。シテ「くれはとり。 ツレ「あやとは申し伝へたり。 二人「然ればわれらは唐人なれば。やまと詞は知らねども。 シテ「くれはとりあやに。恋しくありしかば。 二村山とよみし歌も。二人を思ふ心なり。 地歌「くれはとり。怪しめ給ふ旅人の。/\。 御目の程はさすがげに。名にしおふ都人の。 所から唐人とわれらを御覧ぜらるゝは。 実にかしこしや善き君に。仕ふる人か。 ありがたや仕ふる人かありがたや。 地クリ「それ綾と云つぱ。 もろこし呉郡の地より織りそめて。女工の長き営なり。 。 シテサシ「然るに神功皇后の三韓を従へ給ひしより。地「和国異朝の道広く。 人の国まで靡く世の。我が日の本はのどかなる。 御。 代の光はあまねくて国富み民ゆたかなり。シテ「東南雲。収まりて。

地「西北に風静かなり。クセ「応神天皇の御宇かとよ。 呉国の勅使此国に。始めて来り給ひしに。 綾女糸女の女婦を添へ。万里の。 滄波を凌ぎ来て西日影のこりなく。 呉服の里に休らひ連日に立つる機物の。 錦を折々の綾の御衣を奉る。勅使奏覧ありしかば。 叡感殊に甚だし。それより名づけつゝ。 袞龍の御衣の紋。 いとなみも名たかき山鳩色を移しつゝ。気色だつなり雲鳥の。 羽。 ぶさをたゝむ綾となすいともかしこかりけり。 シテ「然れば万代に絶えせぬ御調なるべしと。 地「御定ありしより呉服の文字をやはらげて。 呉織漢織と名づけさせ給へば年を迎へて色をなす。 綾の錦の唐衣。かへす%\も君が袖。 古きためしを引く糸のかゝる御代ぞめでたき。 ロンギ地「これにつけても此君の。/\。 めでたきためし有明の。 夜すがら機を織り給へ。シテツレ二人「いざ/\さらば機物の。

錦を織りて我が君の。御調に備へ申さん。 地「げにや御調の数々に。錦の色は。 シテツレ二人「小車の。 地「丑三つの時過ぎ暁の空を待ち給へ。姿をかへて来らん。 さらばといひて呉織。漢織は帰れども。 鶏はまた鳴かずや夜長なりと待ち給へ。 夜ながくとても待ち給へ。中入間「。 ワキ歌「うれしきかなやいささらば。/\。 此松蔭に旅居して。風も嘯く寅の時。 神の告をも待ちて見ん/\。 後シテ出端「君が代は天の羽衣まれにきて。 撫づとも盡きぬ巌ならなん。 千代に八千代を松の葉の。散り失せずして色はなほ。 正木のかづら長き代の。 ためしに引くや綾の紋雲らざりける。時とかや。地「此君の。 かしこき世ぞと夕浪に。声立て添ふる。 機の音。シテ「錦を織る機物の内に。 相思の字をあらはし。衣うつ砧の上に。怨別の声。 松の風。又は磯うつ浪の音。

地「しきりにひまなき機物の。 シテ「取るや呉服の手繰の糸。地「我が取るはあやは。 シテ「踏木の足音。地「きりはたりちやう。 シテ「きりはたり。ちやう/\と。 地「悪魔も恐るる。声なれや。げに織姫の。 かざしの袖。中ノ舞「。 地「思ひ出でたり七夕の。/\。たま/\逢へる旅人の。夢の精霊妙幢菩薩も。 影向なりたる夜もすがら夜もすがら。 宝の綾を織り立て織り立て。我が君に捧物。 御代のためしの二人の織姫。 呉服あやはのとり%\に。くれはあやはのとり%\の御調物そなふる御代こそ。めでたけれ 鹿島明神の神主 従者二人 女二人又は四人 桜葉の神

ワキ、ワキツレ二人次第「四方の山風のどかなる。/\雲井の春ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは鹿島の神職何某とは我が事なり。 われ此度都に上り。 洛陽の名花残なく一見仕りて候。また北野右近の馬場の花。 今をさかりなるよし承り候ふ間。 今日は右近の馬場の花を眺めばやと存じ候。 道行三人「雲の行く。そなたやしるべ桜狩。/\。 雨は降りきぬ同じくは。 ぬるとも花の蔭ならばいざや宿らん松かげの。 ゆくへも見ゆる梢より。北野の森もちかづくや。 右近の馬場に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早右近の馬場に着きて候。 あれを見れば花見の人々と見えて。 車をならべ輿を続け。まことおもしろう候。

暫く休らひ花を眺めばやと存じ候。 シテサシ一声「春風桃李花の開くる時。 人の心も花やかに。あくがれ出づる都の空。 げにのどかなる時とかや。シテツレ「見渡せば。 柳桜をこきまぜて。錦をかざる。花車。 シテ「くる春ごとにさそはるゝ。 シテツレ「心もながき。気色かな。 地下歌「花見車の八重一重。見えて桜の色々に。 上歌「ひをりせし。右近の馬場の木のまより。/\。 影も匂ふや朝日寺の。 春の光も天満てる神の御幸のあとふりて。 松も木高き梅がえの。立枝も見えて紅の。 初花車めぐる日の。轅や北につゞくらん。/\。 ワキ「のどかなる頃は弥生の花見とて。 右近の馬場の並木の桜の。

かげふむ道に休らへば。シテ「げにや遥に人家を見て。 花あれば則ち入るなれば。 木蔭に車を立てよせけり。ワキ詞「向を見れば女車の。 処からなる昔語。思ひぞいつる右近の馬場の。 ひをりの日にはあらねども。 見ずもあらず。見もせぬ人の恋しくは。 詞「あやなく今日や眺めくらさん。 これ業平の此処にて。女車をよみし歌。 今更思ひ出でられたり。シテ「あらおもしろの口ずさみや。 右近の馬場のひとりの日。 詞「向に立てる女車の。処からなる昔語。 恥かしながら今はまた我が身の上に業平の。 何かあやなく分きていはん。 思のみこそしるべなりしを。 ワキ「左様にながめし言の葉の。其旧跡もこゝなれば。 今またかやうに言問ふ人も。 いつ馴れもせぬ人なれども。シテ「たゞ花故に北野の森にて。 ワキ「言葉をかはせば。シテ「見ずもあらず。 地「見もせぬ人や花の友。/\。

知るも知らぬも花の蔭に。相宿して諸人の。 いつしか馴れて花車の。榻立てゝ木のもとに。 下り居ていざや眺めん。 げにや花の下に帰らん事を忘るゝは。 美景によりて花心。馴れ/\そめて眺めんいざ/\馴れて眺めん。百千鳥。花になれゆくあだし身は。 。 はかなき程に羨まれて上の空の心なれや上の空の心なれ。 ロンギ地「げに名にしおふ神垣や。 北野の春も時めける。神の名所のかず/\に。 シテ「眺むれば。都の空のはる%\と。 霞み渡るや北の宮居。御覧ぜよ時をえて。 花桜葉の宮所。地「花の濃染の色分けて。 紅梅殿や老松の。 シテ「緑より明けそめて。一夜松も見えたり。 地「日影の空も茜さす。シテ「紫野行。しめ野ゆき。 地「野守は。見ずや君が袖。 古き御幸の見物とて。 車も立つや御輿岡これぞ此神の御旅居の。

右近の馬場わたり神幸ぞ尊かりける。 ワキ詞「あらありがたの御事や。 かくしも委しく語り給ふ。社々の御本地を。なほ/\教へおはしませ。 シテ詞「まことは我は此神の。末社とあらはれ君が代を。 守の神と思ふべし。ワキ「よく/\聞けば有難や。 。守の神とはさて/\いづれの霊神にて。かやうにあらはれ給ふらん。 シテ詞「あら恥かしや神ぞとは。 あさまには何と岩代の。地「待つこと有りや有明の。/\。 月も曇らぬ久方の。天照神にては。 桜の宮と現れ。こゝに北野の桜葉の。 神とゆ。 ふべの空晴れて月の夜神楽を待ち給へと花に隠れ。 失せにけりや花に隠れ失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「げに今とても神の代の。/\。 誓は尽きぬしるしとて。 神と君との御恵誠なりけり有難や/\。 後シテ出端「天皇の賢き御代を守るなる。

右近の馬場の春を得て。花上苑に明かにして。 軽軒九陌の塵に交はる神慮。 和光の影も曇なき。君の威光も影高く。 花もゆるがず治まる風も。のどかなる代の。めでたさよ。 地「曇なき。天照神の恵を受けては。 桜の宮居とあらはれ給ひ。 シテ「こゝに北野の。神の宮居に。 地「花桜葉の神とあらはれ。曇らぬ威光を顕衣の。 袖もかざしの。花盛。中ノ舞「。 地「月も照りそふ花の袖。/\。 雪をめぐ。 らす神かぐらの手の舞足ぶみ拍子をそろへ。声すみわたる。雲の棧。花に戯れ。 枝にむすぼほれかざしも花の。糸桜。 シテ「治まる都の花盛。 地「治まる都の花盛。東南西北も音せぬ浪の。 花も色添ふ北野の春の。御池の水に。御影をうつし。 うつしうつろふ。 桜衣の裏吹きかへす梢にあがり。枝に木伝ふ花鳥の。 とぶさにかけり。雲に伝ひ。遥に上るや雲の羽風。

遥に上るや雲の羽風に神は上らせ給ひけり 天細女命(謡ナシ) 手力雄命(謡ナシ) 天照大神(前ハ老翁) 勅使

ワキ三人次第「治めしまゝに世を守る。/\。 伊勢の宮居にまゐらん。 ワキ詞「抑これは大炊の帝に仕へ奉る臣下なり。 偖も我が君伊勢大神宮を信じ給ひ。 数の御宝を捧げ給ふ。其勅を蒙り。唯今伊勢参宮仕り候。 道行三人「風は上なる松本や。/\。 雲雀落ち来る粟津野の。草の茂みを分け越えて。 瀬田の長橋打ち渡り野路篠原の草枕。 夢も一夜の旅寝かな/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これははや勢州斎宮に着きて候。 今夜は節分にて。 此処に絵馬を掛くると申し候ふ間。今夜は此処に逗留し。 絵馬を掛くる者を見ばやと存じ候。 シテツレ二人真ノ一声「あらたまの。春に心を若草の。

神も久しき恵かな。 ツレ二ノ句「霞も雲も立つ春を。二人「去年とやいはん年のくれ。 シテサシ「それ馬を華山の野に放ち。 牛を桃林に繋ぐこと。二人「皆聖人の諺かな。 それは賢き世の習。時に引かれて四方の海の。 浜の真砂を数へても君が千年のある数を。 たとへても猶ありがたや。 下歌「千早ぶる神代を聞けば久方の。 上歌「天つ日嗣の代々古りて。/\。 人皇末代の子孫までありし恵を受け継ぎて。 治まる御代のわれらまで。 及ばぬ君を仰ぎつゝ夜昼つかへ奉る。/\。 。 ワキ詞「いかに是なる人々に尋ぬべき事の候。

シテ「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「今夜は此処に絵馬を掛くると申し候ふは真にて候ふか。 シテ「さん候即ちわれらが絵馬を掛け候ふよ。 ワキ「それは何の謂に依つて掛けられ候ふぞ。 。 シテ「是は唯一切衆生の愚痴無智なるを象り。馬の毛により明年の日を相し。 又雨滋き年をも心得べき為にて候。 ワキ「偖々今夜はいかなる絵馬を掛け。 明年の日を相し給ふ。ツレ「誓は何れも等しけれども。 詞「先雨露の恵を受け。 民の心も勇みあるよみぢの黒の絵馬を掛け。 国土豊になすべきなり。シテ詞「暫く候。 耕作の道の直なるをこそ。神慮も悦び給ふべけれ。 まづ此尉が絵馬を掛け。 民を悦ばせばやと思ひ候。ツレ「さやうに謂を宣はゞ。 こなたも更に劣るまじ。 詞「力をも入れずして。天地を動かし目に見ぬ鬼神の。 猛き心を和ぐる。歌は八雲をさきとして。 天ぎる雪のなべてふる。

これらはいかで嫌ふべき。シテ詞「かくしも互に争はゞ。 隙行く駒の道行かじ。 いざや二つの絵馬を掛けて万民楽しむ世とならん。 ツレ「げにいはれたり此程は。 一つ掛けたる絵馬なれども。シテ「今年始めて二つ掛けて。 雨をも降らし。ツレ「日をも待ちて。 シテ「人民快楽の。ツレ「御めぐみを。 地「かけまくも忝なや。これをぞ頼む神垣に。 絵馬は掛けたりや。国土豊になさうよ。 上歌「賀茂の御あれのひをりの日。/\。 是を物見に御随身。色めく紙の四手つけて。 駆けならべたる駒くらべ。 掛けてやさしく聞えしは。松風の上の藤波。 尾上の花に吹き添へて。たなびく白雲。 又掛けて色をますな。 クセ「僧正遍昭は。 歌のさまは得たれども。まこと少し喩へば。 絵にかける遊女の姿にめでて徒らに。 心を動かす。

は浅緑糸よりかけて繋ぐ駒は二道掛けてなか/\恨みしは。恋路のそら情。 逢ふさへ夢の手枕。 シテ「忍ぶ今宵のあらはれて。地「詞をかはす此上は。 何をか包むべきわれらは伊勢の二柱。 夫婦と現じ立ち出づる。 信ずべし信ぜば疑波の川竹の。夜も明けゆかば内外にて。 待ち得て。 まみえ申さんと夜半にまぎれて失せにけり/\。来序中入。 出端地(謡掛)「雲は万里に収まりて。 月読の明神の。御影の尊容を照らし。出で給ふ。 後シテ「われは日本秋津島の大頭領。 地神五代の祖。天照大神。 地「和光利物の御裳濯川の。水を蹴立つる波の如し。 されども誓は虚空に満ち来る五色の雲も。 輝き出づる。日神の御姿。ありがたや。 シテ「処は斎宮の名に古りし。 地「処は斎宮の名に古りし神墻しどろに木綿四手の。 あらはに神体現れ給ふ。ありがたや。神舞。 シテ「昔。天の岩戸に閉ぢ籠りて。

地「天の岩戸に閉ぢ籠りて。 悪神を懲らしめ奉らんとて日月二つの御影を隠し。 常闇の世のさていつまでか。 荒ぶる神々これを歎きていかにも御心取るや榊葉の。青和幣。 。白和幣色々さま%\に歌ふ神楽の韓神催馬楽。千早ぶる。天女神楽力神急舞。 シテ「面白や。 地「おもて白やと覚えず岩戸を少し開いて。感じ給へば。 いつまで。 岩戸を手力雄の尊は引き開け御衣の袂にすがれり。引き連れ現れ出で給ふ有様。 又珍しき神遊の。面白かりしを。 思しめし忘れず。高天の原に神とゞまつて。 天地二度開け治まり国土も豊に月日の光。 長閑けき春こそ久しけれ 北条時政 従者 女人 弁財天

ワキ、ワキツレ次第「八百万代を治むなる。/\。 弓矢の家ぞ久しき。ワキ詞「そも/\これは北条の四郎時政にて候。 我弓矢の家に生るゝといへども。 いまだ旗の紋定まらず候ふ程に。 江の島の弁財天に此事を祈り申さん為。唯今参詣仕り候。 サシ「それ弓矢は天地陰陽をかたどり。七徳五行の姿なり。 ワキツレ「されば神農の作りし桑の弓。 怨敵破戒を滅ぼして。 ワキ「国家の為となすとかや。ワキワキツレ「又は仏法王法の。/\静か。 なる国となる事も一張の弓の勢月心にあり。これぞ真如のつき弓の。 悪魔もいかで恐れざる/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早江の島に着きて候。まづ/\社壇に参らばやと存し?候。

シテ詞呼掛「なう/\時政に申すべき事の候。 ワキ「不思議やな人家も見えぬ方よりも。 女性一人現れて。我が名をさして宣ふは。 何といひたる事やらん。 シテ「愚の仰せ候ふや。年月歩を運びつゝ。 信心深き其故に。望をかなへ申さんため。 これまで現れ来りたり。 ワキ「そもや望を叶へんとは。如何なる人にてましますぞ。 シテ詞「い。 や我が名をば名乗らずとも御身信の志深く。ワキ「神を敬ふ恵にて。 シテ「国も豊に。シテワキ二人「民栄え。 地「治まれる御代のしるしも今更に。/\。 見えて栄ふる芦原の。 国なれや降る雨も時をたがへぬ此君の。千年をかけて御注連縄。 永くも代代を守るなり/\。

ロンギ地「実にや誓の数々に。 御代を守りの御告とは如何なる人におはします。 シテ「今は何をか包むべき。 我此島に跡を垂れ。地「潮の落つる暁は。 沖の鴎に心そへ。汀の千鳥鳴く田鶴も。 和光の影のかず/\に。 かき集めたる藻塩草夜の汀を待ち給へ。のぞみを叶へ申さんと。 いふかと見えて其まゝ。 社壇に入らせ給ひけり/\。来序中入間「。 地出端「御殿しきりに鳴動して。 日月光り雲晴れて。山の端出づる如くにて。 現れ給ふ有難さよ。 後シテ「我はこれ。 此島を守護し衆生を助くる。胎蔵界の弁財天とは我が事なり。 地「晴れたる空に旗さしの。 名も久方の月の桂も手に取るばかり。 弓矢の家を守りの証ぞと。時政に旗をたび給ひ。 数々の童子。神楽の役々月も照り添ふ花の姿。 雲を廻らす。袂かな。シテ「謹上。

地「再拝。神楽「。 地「かくて夜遊も時過ぎて。/\。 我世の中にあらん程。 たとひ四敵の寄せ来るとも。 此旗をさし上げば我神通の身と現じて。六通三明の剣を引つ提げ。

無明懺悔の敵を払はゞ。 其身も息災安穏なるべし唯信心を致すべしと。 あらたに神託なし給ひ。天女は御殿の扉を開きて。 御帳の内にぞ。入り給ふ 勅使 従者

ワキ、ワキツレ二人次第「光のどけの日の本や。/\。 内外の宮に参らん。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。 扨も我が君伊勢大神を信じ給ひ。急ぎ参詣仕れとの宣旨を蒙り。 唯今勢州の旅に赴き候。 道行三人「春立つや矢走の浦の朝霞。/\。たな引く末を水海や。 。 影もときはにみえわたる鏡の峯をよそに見て。松の嵐も鈴鹿川。 関の戸さゝでこれぞこの。伊勢の宮居に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。

伊勢の宮居に着きて候。心静かに神拝申さうずるにて候。 シテツレ二人一セイ「治まれる。神代の恵も神風や。 伊勢の宮居に出づるなり。 ツレ二ノ句「曇らぬ夜半の星までも。シテツレ二人「和光に余る。 影ならん。シテサシ「有難や五十鈴の清き宮柱。 太しく立ちて秋津洲の。 シテツレ二人「神の御稜威は異国に。仰ぎてもなほ余りあり。 卑しき賎の身にしありとも心を磨くに。隔はなし。 下歌「神さぶる伊勢の内外の宮柱。 上歌「たてし誓にふた心。/\。

あらずは末は栄えなん。 皇太神の御慮に叶はんとしも思ひなば。唯正直を本として。 仰ぎて仕へ申せとよ/\。 ワキ詞「いかに是なる宮人に申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「是は当今に仕へ奉る臣下なるが。勅使に参詣仕りあるぞとよ。 シテ「何と勅使にて御座候ふとや。 ワキ「なか/\の事。シテ「唯今の御参宮返す%\も御めでたうこそ候へ。 ワキ「急ぎ祝詞を参らせ候へ。シテ「畏つて候。謹上再拝。 高天の原に神集りまして。 天の岩戸をおし開き。 天の八重雲をいづの千分にちわきて聞しめせ。 抑天長地久上直なれば下までも。安く楽しむ御恵。 仰ぎ願はくば秡殿?の神。八百万の神等聞し召し給へと。 恐みこと申し候。地「実に有難や此神の。/\。 深き恵の道広く。 万物も出生し四海の浪も静かにて。実に君は船臣は水。 水よく船を浮ぶなる。此日の本は有難き/\。

地クリ「それ神の御孫の末長く。 君臣親子夫婦兄弟。ともに礼儀をなすとかや。 シテサシ「中にも人は天地の恵を受け。 地「父母の身を分け生れ来て。 赤子の身より哀憐の情によるとて人となる。 シテ「されども君の恵ずば。一時の命も保ちえじ。 地「これぞ神君父母の重恩。詞に尽し。 がたかるなり。 クセ「日月は六合を照らせども真は正真の。頭を照らす印を。水晶の玉の中に。 御影をうつし給へり。其如く人の身も。 。 清浄心の頭を深く天照らす皇太神の御神事はありがたや。君に仕へて義を守り。 己を尽し身を研き忠臣に仕へ申すべし。 孝行の其道。多き中にも父母の。 我が子は心に。信の深きものなれば。 いかなる遠国にひとりありとても行末の。 心にかゝる事なしと楽をなさせ申すを先とする。 シテ「友と交はり信ありて。 地「私の意趣を以て。身を捨つる事なかれ。

たとひ我とは不和なりとも。君の為によき人をば。 徳を挙げて褒むべし。此理を弁へば。 夫婦兄弟朋友。子孫家人に至るまで。 五常の道に叶ひなん。 これ本立ちて道成る印とこそは見えにけれ。 ワキ詞「実にありがたき物語。心に染みて覚えたり。 また時刻も来りてある間。 急ぎ神楽を参らせ候へ。シテ「畏つて候。いかに申し候。 急ぎ神楽を参らせ候へ。ツレ「心得申して候。物着。 「さる程に時移り。

地「さる程に時移り宜禰が鼓も数到りて月も雲も白妙の。 袖を返して神かぐら。ツレ「千早振る。 神楽、ツレ「五日の風や十日の。地「雨も潤ふ。 獅子の舞地獅子「かくて明行く山風に。 物着「かくて明け行く山風に。波の鼓も声うち添へて。 幾万代の舞ひおさむれば。 星月神灯白み。 渡るや東の空に五色の雲も輝き出づる。 日神の御姿照らし給へば夜も明け行くや内外の宮居。/\の。 栄行く春こそ久しけれ 旅僧 従僧二人 花守の童子 坂上田村麿

ワキ、ワキツレ二人次第「鄙の都路隔て来て。/\。 九重の春に急がん。 ワキ詞「これは東国方より出でたる僧侶にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。此春思ひ立ちて候。道行三人「頃もはや。 弥生なかばの春の空。/\。 影ものかど?に廻る日の。霞むそなたや音羽山。 瀧の響も静かなる。清水寺に着きにけり。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 是は都清水寺とかや申すげに候。是なる桜の盛とみえて候。 人を待ちて委しく尋ねばやと思ひ候。 シテ一セイ「おのづから。 春の手向となりにけり。地主権現の。花ざかり。 サシ「それ花の名所多しといへども。 大悲の光色添ふ故か。この寺の地主の桜にしくはなし。

さればにや大慈大悲の春の花。 十悪の里に芳しく。三十三身の秋の月。五濁の水に。 影清し。下歌「千早振。 神の御庭の雪なれや。上歌「白妙に雲も霞も埋れて。/\。 いづれ。桜の梢ぞと。 見渡せば八重一重げに九重の春の空。四方の山なみ自ら。 時ぞとみゆる気色かな。/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「見申せばうつくしき玉箒を持ち。木蔭を清め候ふは。 若し花守にて御入り候ふか。 シテ「さん候これはこの地主権現に仕へ申す者なり。 いつも花の頃は木蔭を清め候ふほどに。

花守とや申さん又宮つことや申すべき。 いづれによしある者と御覧候へ。ワキ「げに/\よしありげに見えて候。まづ/\当寺の御来歴。委しく語り給ふべし。 シテ詞「そも/\当寺清水寺と申すは。 大同二年の御草創。坂上の田村丸の御願なり。 昔大和の国子島寺といふ所に。 賢心といへる沙門。 正身の観世音を拝まんと誓ひしに。 ある時木津川の川上より金色の光さしゝを。 尋ね上つて見れば一人の老翁あり。かの翁語つていはく。 我はこれ行叡居士といへり。汝一人の檀那を待ち。 大伽藍を建立すべしとて。 東をさして飛び去りぬ。されば行叡居士といつぱ。 これ観音薩〓{た}の御再誕。又檀那を待てとありしは。 これ坂の上の田村丸。地上歌「今もその。 名に流れたる清水の。/\。 深き誓も数々に。千手の。御手のとり%\様々の誓普くて国土万民を漏らさじの。

大悲の影ぞありがたき。げにや安楽世界より。 今この娑婆に示現して。我らが為の観世音。 仰ぐも愚かなるべしや。/\。 ワキ詞「近頃おもしろき人に参り逢ひて候ふものかな。 又見え渡りたるは皆名所にてぞ候ふらん。 御教へ候へ。シテ詞「さん候皆名所にて候。 御尋ね候へ教へ申し疏lふべし。 ワキ「まづ南に当つて塔婆の見えて候ふは。 いかなる所にて候ふぞ。 シテ「あれこそ歌の中山清閑寺。今熊野まで見えて候へ。 ワキ「ま。 た北に当つて入相の聞え候ふはいかなる御寺にて候ふぞ。 シテ「あれは上見ぬ鷲の尾の寺。や。 御覧候へ音羽の山の嶺よりも出でたる月の輝きて。 この地主の桜に映る景色。まづ/\これこそ御覧い事なれ。 ワキ「げに/\これこそ暇惜しけれ。 こと心なき春の一時。シテ「げに惜むべし。 ワキ「惜むべしや。シテワキ二人「春宵一刻価千金。 花に清香。月に影。シテ「げに千金にも。

かへしとは。今此時かや。地「あら/\面白の地主の花の景色やな。 桜の木の間に漏る月の。雪もふる夜嵐の。 誘ふ花とつれて散るや心なるらん。 クセ「さぞな名にしおふ。花の都の春の空。 げに時めける。 粧青楊?の影緑にて。風邪のどかなる。 。 音羽の瀧の白糸の。 くり返しかへ。 しても面白やありがたやな。 地主権現の。 花の色も異なり。 シテ「たゞ頼め。 標茅が原のさしも草。 地「我世の中に。あらんかぎりはの御誓願。 濁らじものを清水の。緑もさすや青柳の。 げにも枯れたる木なりとも。 花桜木の粧いづくの春もおしなめて。

のどけき影は有明の。天も花に酔へりや。面白の春べや。 あら面白の春べや。 ロンギ地「げにやけしきを見るからに。 たゞ人ならぬ粧のその名いかなる人やらん。 シテ「いかにとも。いさやその名も白雪の。 跡を惜まば此寺に帰る方を御覧ぜよ。 地「帰るやいづくあしがきの。 ま近きほどか遠近の。シテ「たづきも知らぬ山中に。 地「おぼつかなくも。

思ひ給はゞわが行く方を見よやとて。地主権現の御前より。 下るかと見えしが。 くだりはせで坂の上の田村堂の軒もるや。 月のむら戸を押しあけて。 内に入らせ給ひけり内陣に入らせ給ひけり。中入間「。 ワキ三人歌待謡「夜もすがら。 ちるや桜の蔭に居て。/\。花も妙なる法の場。 迷はぬ月の夜と共に。此御経を。 読誦するこの御経を読誦する。 後シテ一声「あら有難の御経や?な。 清水寺の瀧つ波。真]一河の流を汲んで。 他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。 是ぞ則ち大慈大悲の、観音擁護の結縁たり。 ワキ「ふしぎやな花の光にかゝやきて。 男体の人の見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。シテ「今は何をかつゝむべき。 人皇五十一代。平城天皇の御宇に有りし。 坂上の田村丸。 地「東夷を平げ悪魔を鎮め。天下泰平の忠勤たりしも。

即ち当時の仏力なり。サシ「燃るに君の宣旨には。 勢州鈴鹿の悪魔を鎮め。 都鄙安全になすべしとの。仰によつて軍兵を調へ。 既に赴く時節に至りて。此観音の仏前に参り。 祈念を致し立願せしに。 シテ「不思議の瑞験あらたなれば。 地「歓喜微笑の頼を含んで。急ぎ凶徒に。打つ立ちけり。 クセ「普天の下。 卒?土の内いづく王地にあらざるや。やがて名にしおふ。 関の戸さゝで逢坂の。山を越ゆれば浦波の。 粟津の森やかげろふの。 石山寺を伏し拝み是も清水の一仏と。頼はあひに近江路や。 勢田の長橋ふみならし駒も足なみ勇むらん。 シテ「すでに伊勢路の山近く。 地「弓馬の道もさきかけんと。勝つ色みせたる梅が枝の。 花も紅葉も色めきて。 猛き心はあらがねの。土も木もわが大君の神国に。 もとより観音の御誓仏力といひ神力も。 なほ数数にますらをが。

待つとは知らでさを鹿の。鈴鹿の禊せし世々までも。 思へば嘉例なるべし。 さるほどに山河を動かす鬼神の声。天に響き地に満ちて。 万木青山動揺せり。カケリ「。 シテ詞「いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。 千方といひし逆臣に仕へし鬼も。 王位を背く天罰にて。 千方を捨つれば忽ち亡び失せしぞかし。ましてやま近き鈴鹿耶麻。 地「ふりさけ見れば伊勢の海。/\。 阿濃の松原むらだち来つて。鬼神は。 黒雲鉄火をふらしつゝ。数千騎に身を変じて山の。 如くに見えたる所に。 シテ「あれを見よ不思議やな。地「あれを見よ不思議やな。 味方の軍兵の旗の上に。千手観音の。 光をはなつて虚空に飛行し。千の御手ごとに。 大悲の弓には。知恵の矢をはめて。 一度放せば千の矢先。雨霰とふりかゝつて。 鬼神の上に乱れ落つれば。こと%\く矢。

先にかゝつて鬼神は残らず討たれにけり。ありがたし/\や。誠に呪詛。 諸毒薬念彼。

観音の力をあはせてすなはち還着於本人すなはち還着於本人の。 敵は亡びにけりこれ。観音の仏力なり。 旅僧 従者 梶原景季

ワキ、ワキツレ二人次第「春を心のしるべにて。/\。 憂からぬ旅に出でうよ。 ワキ詞「これは西国方より出でたる僧にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。 此度都に上り洛陽一見と志し候。道行三人「旅心。筑紫の海の船出して。/\。 。 八重の潮路を遥々と分けこし方の雲の波。煙も見えし松原の。 里の名問へば須磨の浦。生田の川に着きにけり/\。 シテ次第「来る年の矢の生田川。 流れて早き月日かな。サシ「飛花落葉の無常は又。 常住不滅の栄をなし。一色一香の縁生は。 無非中道の眼に応ず。

人間個々円成の観念。なほ以て至り難し。 あら定めなの身命やな。下歌「人間有為?の転変は。 眼子の中に現れて。上歌「閻浮に帰る妄執の。 /\。その生死の海なれや。 生田の川の幾世まで夜の巷に迷ふらん。 よしとても。 身の行方定ありとても終には夢の直路に帰らん夢の直路に帰らん。 ワキ詞「いかに申すべき事の候。 これなる梅は名木にて候ふか。 シテ「さん候これは箙の梅と申し候。 ワキ「あらおもしろや箙の梅とは。いつの世よりの名木にて候ふぞ。 シテ「いや名木ほどの事は候はねども。

た。 だわたくしに申しならはしたる異名にて候。ワキ「よし/\わたくしに名づけたる異名なりとも。委しく御物語り候へ。 シテ詞「そも/\この生田の森は。 平家十万余騎の大手なりしに。 源氏の方に梶原平三景時。同じき源太景季。 色殊なる梅花の有りしを。一枝折つて箙にさす。 此花則ち笠印となりて。景色あらはに著く。 功名人に勝れしかば。 景季かへつて此花を礼し。 則ち八幡の神木と敬せしよりこのかた。名将の古跡の花なればとて。 箙の梅とは申すなり。 ワキ「実にや名将の古跡と云ひ名木と云ひ。名残つきせぬ年々に。 シテ詞「ふるはほどなき春雨の。 ふるきに帰る名を聞けば。 ワキ「その景季の盛なりし。シテ「若木の花のしらま弓。 ワキ「箙の梅の。シテ「今までも。地上歌「名をとめし。 主は花の景季の。/\。 末の世かけて生田川の。身を捨てゝこそ。

名は久しけれものゝふの。 やたけ心の花にひく弓筆の名こそ妙なれや弓筆の名こそ妙なれ。 クリ「さるほどに平家は去年播磨の室山。 備中の水島二箇度の合戦に打ち勝つて。 山陽道南海道。 合。 はせて十四箇国のつはもの。 都合十万余騎。 津の国一。 の谷にぞ籠りける。 シテサシ「東は生田の森。 西は一の谷をかぎつて。 その。 あひ三里が程は充ち満ちたり。 地「浦。 浦には数千艘の船をうかべ。 陸には赤旗いくらも立てならべ。春風になびき天に翻るありさま。 猛火雲を焼くかと見えたり。 シテ「総じてこの城の。前は海後は山。

地「左は須磨右は明石の。とよりかくより。行きかふ舟の。 ともねの千鳥の声々なり。 クセ「時しもきさらぎ上旬の空のことなれば。 須磨の若。 木の桜もまだ咲きかぬる薄雪のさえかへる浪こゝもとに。 生田のおのづからさかりを得て。 かつ色見する梅が枝一花開けては天下の春よと。 軍の門出を祝ふ心の花もさきかけぬ。さるほどに味方の勢。

六万余騎を二手に分けて。 範頼義経の大手からめての。海山かけて須磨の浦。 四方をかこみて押し寄する。 シテ「魚鱗鶴翼もかくばかり。 地「後の山松に群れゐるは。残りの雪の白妙に。 ねぐらをたゝぬまなづるの。 ちばさをつらぬるそのけしき。雲にたぐへておびたゞし。 浦には海人さま%\の。 漁父の船かげかず見えて。いさりたく火もかげろふや。 あらし。 も波も須磨のうら野にも山にも漕ぎ寄する。兵船はさながら。 天の鳥船もかくやらん。 ロンギ「はや夕ばえの梅の花。 月になりゆくかり枕。一夜の宿をかし給へ。 シテ「われはやどりも白雪の。 花の主と思し召さばしたぶしに待ち給へ。 地「花の主と思へとは。御身いかなる人やらん。 シテ「今は何をか包むべき。 われはこの世になき景の。地「跡訪はれんといふ草の。

シテ「その景季が幽霊なり。 地「御身他生の縁ありて。一樹の蔭の花の緑に。 鴬宿梅の木のもとに。 宿らせ給へわれはまた世を鴬の。 塒はこの花よとて失せにけりこの花よとてぞ失せにける。中入間「。 ワキ上歌三人待謡切迄囃子「うば玉の。夜の衣を返しつゝ。 /\。 更け行くまゝに生田川水音も澄む夜もすがら。花の木蔭に臥しにけり/\。 後シテ一声「魂は陽に帰り。魄は陰に残る。 執心却来の修羅の妄執。 去つて生田の名にしおへり。地「地は〓鹿{たくろく}の河となり。 シテ「紅波楯を流しつゝ。地「白刄骨を砕く苦。 月をも日をも。手に取る影かや。 長夜のやみ/\と眼もくらみ。心も乱るゝ。 修羅道の苦御覧ぜよ。 。 ワキ「不思議やなそのさまいまだ若武者の。胡〓{やなぐひ:竹冠に録}に梅花の枝をさし。 さも華やかに見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。シテ「今は何をか包むべき。

これは源太景季。他生の縁の一樹の蔭に。 夢中の対面向顔をなす。御身貴き人なれば。 法味を得んと魄霊の。魂にうつりて来りたり。 跡とひ給へといはんとすれば。 カケリ「又嗔恚の敵の責。あれ御覧ぜよ御聖。 ワキ「げにげに見れば恐ろしや。 剣は雨と降りかゝつて。シテ「天地をかへす如くにて。 ワキ「山も震動。シテ「海も鳴り。ワキ「雷火も乱れ。 シテ「悪風の。 地「紅焔の旗を靡かし紅焔の旗を靡かして。閻浮に帰る生田河の。 浪をたて水をかへし。山里海川も。 皆修羅道の巷となりぬ。是はいかにあさましや。 シテ「暫く心を静めて見れば。 地「心を静めて見れば。所は生田なりけり。 時も昔の春の。梅の花さかりなり。 一枝手折りて箙にさせば。もとより窈窕たる若武者に。 相逢ふ若木の花かづら。 かくれば箙の花も源太も我さきかけんさきかけんとの。 心の花も梅も。散りかゝつて面白や。

敵のつはものこれを見て。 あつぱれ敵よ遁がすなとて。 八騎が中にとりこめらるれば。シテ「兜も打ち落されて。 地「大童の姿となつて。シテ「郎等三騎に後をあはせ。 地「向ふ者をば。シテ「拝みち。 地「又めふり合へば。シテ「車斬。

地「蜘蛛手かく縄十文字。 鶴翼飛行の秘術を尽すと見えつるうちに。夢覚めて。しら/\と夜も明くれば。是までなりや旅人よ。 いとま申して花は根に。 鳥は古巣に帰る夢の鳥は古巣に帰るなり。よく/\弔ひて給び給へ 旅僧 従僧 老樵夫 薩摩守平忠度の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「花をも憂しと捨つる身の。 /\。月にも雲は厭はじ。 ワキ詞「これは・俊成{しゆんぜい}の・御内{みうち}に在りし者にて候。 扨も・俊成{としなり}なくなり給ひて後。かやうの姿となりて候。 又西国を見ずに候ふ程に。 此度思ひ立ち西国行脚と志し候。 ・城南{せいなん}の離宮に赴き都をへだつる山崎や。 関戸の宿は名のみして。泊りも果てぬ旅の習。 憂き身はいつも交の。塵の浮世の芥川。

猪名の小篠を分け過ぎて。 下歌三人「月も宿かる・昆陽{こや}の池水底清く澄みなして。 上歌「芦の葉分の風の音。/\。聞かじとするに憂き事の。 捨つる身までも。 有馬山隠れかねたる世の中の。憂きに心はあだ夢の。 覚むる枕に鐘ほとき。難波は跡に鳴尾潟沖浪遠き。 小舟かな沖浪遠き小舟かな。 シテサシ一声「実に世を渡る習とて。 かく憂き業にもこりずまの。

汲まぬ時だに塩木を運べば。乾せども隙は馴衣の。 浦山かけて須磨の海。一セイ「海人の呼声ひまなきに。 しばなく千鳥音ぞ遠き。 サシ「抑この須磨の浦と申すは。淋しき故に其名を得る。 わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に。 もしほたれつゝわぶと答へよ。 実にや漁の海人小舟。藻塩の煙松の風。 いづれか淋しからずと云ふ事なき。 詞「又此須磨の山陰に一木の桜の候。 これはある人の亡き跡のしるしの木なり。殊更時しも春の花。 手向の為に逆縁ながら。 足引の山より帰る折ごとに。薪に花を折りそへて。 手向をなして帰らん手向けをなして帰らん。 ワキ詞「いかにこれなる老人。 おことは此山賎にてましますか。 シテ詞「さん候此浦の海人にて候。 ワキ「海人ならば浦にこそ住むべきに。山ある方に通はんをば。 山人とこそいふべけれ。 シテ詞「そも蜑人の汲む汐をば。焼かで其まゝ置き候ふべきか。

ワキ「実に/\これは理なり。 藻塩たくなる夕煙。シテ「絶間を遅しと塩木とる。 ワキ「道こそかはれ里ばなれの。 シテ「人音稀に須磨の浦。ワキ「近き・後{うしろ}の山里に。 シテ「柴といふ物の候へば。 地「柴といふ物の候へば。塩木の為に通ひ来る。 シテ「余りに愚{おろか}なる。・御僧{おそう}御諚かなやな。 地「実にや須磨の浦・余{よ}の所にやかはるらん。 それ花につらきは嶺の嵐や山おろしの。 音をこそ厭ひしに。 須磨の若木の桜は海少しだにも隔てねば。 通ふ浦風に山の桜も散る物を。ワキ詞「如何に尉殿。 ・早{はや}日の暮れて候へば一夜の宿を御かし候へ。 シテ詞「う。 たてなや此花の蔭ほどの御宿の候ふべきか。ワキ「実に/\これは花の宿なれどもさりながら。誰を・主{あるじ}と定むべき。 シテ「行き暮れて木の下蔭を宿とせば。 花や今宵の主ならましと。詠めし人は此苔の下。 痛はしや我等が様なる海人だにも。

常は立ち寄り弔ひ申すに。 御僧達はなど逆縁ながら。弔ひ給はぬ。 愚にまします人々かな。 ワキ詞「行き暮れて木の下蔭を宿とせば。花や今宵の主ならましと。 詠めし人は薩摩の守。シテ詞「忠度と申しゝ人は。 此一の谷の合戦に討たれぬ。 ゆかりの人の植ゑ置きたる。しるしの木にて候ふなり。 ワキ「こはそも不思議の・値遇{ちぐ}の縁。 さしもさばかり俊成の。 シテ「和歌の友とて浅からぬ。ワキ「宿は今宵の。シテ「主は人。 地「名も忠度の声聞きて。花の台に座し給へ。 シテ「有難や今よりは。 かく弔の声聞きて仏果を得んぞ嬉しき。 地「不思議や今の老人の。手向の声を身に受けて。 喜ぶ気色見えたるは何の故にてあるやらん。 シテ「御僧に・弔{と}はれ申さんとて。 これまで来れりと。地「夕の花の蔭に寐て。 夢の告をも待ち給へ。 都へ言づて申さんとて花。

の蔭に宿木の行くかた知らずなりにけり行く方知らずなりにけり。中入間「。 ワキ詞「先々都に帰りつゝ。 ・定家{ていか}に此事申さんと。三人待謠「夕月早くかげろふの。/\。 おのが友よぶ村千鳥の。 跡見えぬ磯山の夜の花に旅寝して。浦風までも心して。 春に聞けばや音すごき。須磨の関屋の。 旅寐かな須磨の関屋の旅寐かな。 後シテ一声「恥かしや亡き跡に。 姿を帰す夢のうち。覚むる心は・古{いにしへ}に。迷ふ・雨夜{あまや}の物語。 。 申すさんために魂魄にうつりかわりて来りたり。さなぎだに妄執多き娑婆なるに。 何中々の千載集の。 歌の品には入りたれども。勅勘の身の悲しさは。 よみ人知らずと書かれし事。妄執の中の第一なり。 されども。それを撰じ給ひし。 俊成さへ空しくなり給へば。 御身は御内にありし人なれば。今の定家・君{きみ}に申し。 然るべくは作者をつけてたび給へと。 夢物語申すに。須磨の浦風も心せよ。

地クリ「実にや和歌の家に生れ。 その道を嗜み。 敷島のかげに依つし事・人倫{じんりん}に於て専らなり。ワキサシ「中にも此忠度は。 文武二道を受け給いて世上に・眼{まなこ}高し。地「そも/\後白河の院の御宇に。千載集を撰はる。 五条の三位俊成の卿。承つてこれを撰ず。 下歌「年は寿永の秋の頃。 都を出でし時なれば。上歌「さも忙しかりし身の。/\。 心の花か蘭菊の。狐川より引き返し。 俊成の家に行き歌の望を嘆きしに。 望足りぬれば。又・弓箭{きゆうせん}にたづさはりて。 西海の波の上。暫しと頼む須磨の浦。 源氏の住み所。 平家の為はよしなしと知らざりけるぞはかなき。 地「さる程に一の谷の合戦。 今はかうよと見えし程に。 皆々舟に取り乗って海上に浮ぶ。シテ詞「我も船に乗らんとて。 汀の方に打ち出でしに。後を見れば。 武蔵の国の住人に。岡部の六弥太忠澄と名のって。

六七騎にて追つかけたり。 これこそ望む所よと思ひ。駒の手綱を引つかへせば。 六弥太やがてむづと組み。 両馬が・間{あひ}にどうど落ち。彼の六弥太を取つておさへ。 既に刀に手をかけしに。 地「六弥太が郎等御後より立ちまはり。上にまします忠度の。 右の腕を打ち落せば。 左の御手にて六弥太。 を取つて投げのけ今は叶はじと思し召して。そこのき給へ人々よ。 西拝まんと宣ひて。 光明偏照十方世界念仏衆生摂取不捨と宣ひし。御声の下よりも。 痛はしやあへなくも。六弥太太刀を抜き持ち。 つひに御首を打ち落す。 シテ「六弥太。心に思ふやう。 地「痛はしや彼の人の。御死骸を見奉れば。

其年もまだしき。長月頃の薄曇。 降りみ降らずみ定なき。時雨ぞ通ふ村紅葉の。 錦の直垂はたゞ世の常によもあらじ。 いかさまこれは公逹の。御中にこそあるらめと。 御名ゆかしき所に。箙を見れば不思議やな。 短冊を附けられたり。 見れば旅宿の題をすゑ。行き暮れて。木の下蔭を宿とせば。 カケリ「。シテ「花や今宵の。主ならまし。 忠度と書かれたり。 地「さては疑あらしの音に聞えし薩摩の守にてますぞ痛はしき。 キリ地「御身此花の。 蔭に立ち寄り給ひしを。 かく物語り申さんとて日を暮らしとどめしなり。今は疑よもあらじ。 花は根に帰るなり。我が跡とひてたび給へ。 木陰を旅の宿とせば。花こそ主なりけれ 藤原俊成 平忠度 岡部六弥太 俊成従者

ワキ詞「かように候ふ者は。 武蔵の国の住人。岡部の六弥太忠澄にて候。 さても今度西海の合戦に。薩摩の守忠度をば。 某が手にかけ失ひ申して候。 御最期の後・尻籠{しこ}を見奉れば。短冊の御座候。又承り候へば。 五条の三品俊成卿と。 和歌の御知遇の由申し候ふ間。此短冊を持ちて参り。 俊成卿の御目に書けばやと存じ候。 いかに案内申し候。トモ「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「岡部の六弥太忠澄が参りたる由御申し候へ。 トモ「心得申し候。いかに申し上げ候。 ツレ「何事にてあるぞ。 トモ「岡部の六弥太忠澄の伺候申されて候。 ツレ「こなたへと申し候へ。トモ「畏つて候。 こなたへ御参り候へ。ワキ「心得申し候。ツレ「いかに忠澄。 扨唯今何の為に来り給ひて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。 西海の合戦に薩摩の守忠度をば。 某が手にかけ失ひ申して候。

御最期の後・尻籠{しこ}を見候へば。短冊の御座候。承り候へば。 忠度とは浅からぬ和歌の御値遇の由承り候ふ間。 御目にかけばやと存じ。 唯今持ちて参りて候。ツレ「こなたへ賜り候へ。 げにや弓馬の道ならねど。 いつしか世に名を残し置き給ふ事の哀さよ。詞「なに/\旅宿の花と云ふ題にて。 行き暮れて木の下蔭を宿とせば。花や今宵の主ならまし。 地上歌「いたはしや忠度{たゞのり}は。/\。 破戒無慙の罪を恐れ。仁儀礼智信。 五つの道も正しくて。歌道に達者たり弓矢に。 名を揚げ給へば。文武二道の忠度の。 船をえて彼の岸の。台にいたり給へや/\。 シテサシ「前途程遠し。 思を雁山の夕の雲に馳す。八重の潮路に沈みし身なれども。 猶九重の春にひかれ。 共にながめし花の色。我が面影や見えつらん。 命たゞ心にかなふものならば。何か別の。 物憂かるべき。詞「いかに俊成卿。

忠度こそこれまで参りて候へ。 ツレ「不思議や・夢現{ゆめうつゝ}とも分かざるに。薩摩の守の御姿。 現れ給ふ不思議さよ。シテ詞「さても千載集に。 一首の歌を入れさせ給ふ。御志は嬉しけれども。 読人知らずと書かれしこと。 心にかゝり候。ツレ「尤もそれはさることなれども。 。 詞「朝敵の御名を現さんは世のはゞかりなり。よしや此歌あるならば。 ・御名{おんな}は隠れもあらじ。・御心安{おんこゝろやす}く思しめせ。 シテ「われもさこそとしら雪の。 古き世までも歌あらば。ツレ「其名もさすが武蔵鐙。 隠はあらじわれ人の。シテ「情の末も深見草。 ツレ「引くや詠歌も心ある。 シテ「故郷の花といふ題にて。地「さゝ波や。 志賀の都は荒れにしを。志賀の都は荒れにしを。 昔ながらの。山桜かなと。 詠みしも永き世の。ほまれをのこす詠歌かな。 げにや憂世は電光。胡蝶の夢の・戯{たはぶれ}に。 謡へや舞へや津の国の。なにはの事も忠度なり。

疑はせ給ふなわれ疑はせ給ふな。 ツレサシ「凡そ歌には六義あり。 これ六道の巷に詠じ。地「千早振神代の歌は。 文字の数も定なし。シテ「其後・天照大神{あまてるおほんがみ}の・御兄{おんこのかみ}。 地「・素盞鳴尊{そさのをのみこと}より。 三十一字に定め置きて。末世末代の。ためしとかや。 クセ「其ゆゑ。素盞鳴尊の。 女と住み給はんとて。出雲の国に居まして。 大宮作せし所に。八色雲の立つをご覧じて尊の。 一首の御詠かくばかり。 八雲立つ出雲八重垣妻ごめに。八重垣つくる。その八重垣をと。 。 神詠もかたじけなや今の世のためしなるべし。さてもわれ須磨の浦に。 旅寝して眺めやる。明石の浦の朝霧と。 詠みしも思ひ知られたり。 シテ「・人丸{ひとまる}世に亡くなりて。地「歌の事とゞまりぬと。 紀の貫之も躬恒もかくこそ。書き置きしかども。 松の葉の散り失せず。・真折{まさき}のかづら。 永く伝はり鳥の跡あらん其ほどは。

よも尽せじな敷島の。歌には神も納受の。男女。 夫婦の媒とも此歌の情なるべし。 あら名残惜しの。夜すがらやな。カケリ「。 ツレ「不思議や見れば忠度の。 けしき変りて・気疎{けうと}き有様。 こはそもいかなる事やらん。シテ詞「あれ御覧ぜよ修羅王の。 梵天に攻め上るを。帝釈出で逢ひ修羅王を。 もとの下界に追つ下す。 地「すは敵陣は乱れ合ひ。/\。・喚{をめ}叫べば忠度も。 嗔恚の焔は荒磯の。波の打物抜いて。 切つてかゝれば・敵人{てきじん}は。 矛を揃へてかゝり給へば。 忠度相向つて打ち払へば其まゝ見えず。敵を失ひあきれて立てば。天よりは。

火車降りかゝり。 地より鉄刀足を貫き立つも立たれず居るも居られぬ。 修羅王の責。こはいかにあさましや。 シテ「やゝあつてさゝ波や。地「やゝあつてさゝ波や。 志賀の都はあれにしを。昔ながらの。 山桜かなと。梵天感じ給ひしより。 剣の責を免れて。暗やみとなりしかば。 灯火を背けては。共に憐む深夜の月。 花を踏んでは同じく惜しむ。少年の春の夜も。 はや白々と明けわたれば。 ありつる姿は消え/\と。ありつる姿は・鶏籠{けいろう}の山。 。 ・木隠{こがく}れて失せにけりあと木隠れて失せにけり 仁和寺僧僧都行慶 平経政

ワキ僧詞「是は仁和寺御室に仕へ申す。 僧都行慶にて候。

さても平家の一門但馬の守経政は。いまだ童形の時より。 ・君{きみ}御寵愛なのめならず候。

然るに・今度{こんど}西海の合戦に討たれ給ひて候。 又・青山{せいざん}と申す御琵琶は。経政存生の時より預け下されて候。 彼の御琵琶を仏前に据ゑ置き。 ・管絃講{くわんげんかう}にて弔ひ申せとの御事にて候ふ程に。 役者を集め候。げにや一樹の蔭に宿り。 一河の流を汲む事も。皆是他生の縁ぞかし。 ましてや多年の御値遇。 ・恵{めぐみ}を深くかけまくも。忝くも宮中にて。 法事をなして夜もすがら。平の経政・成等正覚{じやうとうしやうがく}と。 弔ひ給ふ有難さよ。地上歌「ことに又。 彼の青山と云ふ琵琶を。 /\。・亡者{まうじや}の為に手向けつゝ。 同じく・糸竹{いとたけ}の。声も仏事をなしそへて。 。・日々夜々{にち/\やゝ}の法の門貴賎の道もあまねしや/\。シテサシ「・風{かぜ}・枯木{こぼく}を吹けば・晴天{はれてん}の雨。 月・平沙{へいさ}を照らせば夏の夜の。 霜の・起居{おきゐ}も安からで。仮に見えつる草の蔭。 露の身ながら消え残る。妄執の縁こそつたなけれ。 ワキ「不思議やなはや深更になるまゝに。 夜の灯火・幽{かすか}なる。光の内に人影の。

あるかなきかに見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「われ経政が幽霊なるが。御弔の有難さに。 是まで現れ参りたり。ワキ「そも経政の幽霊と。 答ふる方を見んとすれば。 。又消え%\と形もなくて。 シテ「声は・幽{かすか}に絶え残つて。 。 ワキ「まさしく見えつる人影の。 シテ「あるかと見れば。 ワキ「又見えもせで。 シテ「あるか。 ワキ「なきかに。 シテ「かげろふの。 上歌地「幻の。常なき身とて経政の。/\。 もとの浮世に帰り来て。 それとは名のれどもその主の。形は見えぬ妄執の。 ・生{しやう}をこそ隔つれどもわれは人を見る物を。

げにや呉竹の。筧の水はかはるとも。 すみあかざりし宮のうち。まぼろしに参りたり。 ・夢幻{ゆめまぼろし}に参りたり。 。 ワキ詞「不思議やな経政の幽霊かたちは消え声は残つて。 なほも詞をかはしけるぞや。よし夢なりとも現なりとも。 法事の功力成就して。亡者に詞を交す事よ。 あら不思議の事やな。

シテ詞「われ若年の昔より宮の内に参り。世上に面をさらす事も。 偏に君の御恩徳なり。 中にも手向け下さるる。青山の御琵琶。 娑婆にての御許されを蒙り。常に手馴れし四つの緒に。 地下歌「今もひかるゝ心故。聞きしに似たる撥音の。 これぞまさしく妙音の。誓なるべし。 地上歌「さればかの経政は。/\。 未だ若年の昔より。外には仁義礼智信の。 五常を守りつゝ。内には又花鳥風月。 詩歌管絃を専らとし。 春秋を松蔭の草の露水のあはれ世の心にもるゝ。花もなし/\。 ワキ詞「亡者のためには何よりも。 娑婆にて手馴れし青山の琵琶。おの/\楽器を調へて。糸竹の手向を進むれば。 シテ詞「亡者も立ち寄り灯火の影に。 人には見えぬものながら。手向の琵琶を調ぶれば。 ワキ「時しも頃は夜半楽。 ・眠{ぬぶり}を覚ますをりふしに。シテ詞「不思議や晴れたる空かき曇り。 俄に降りくる雨の音。

ワキ「頻に草木を払ひつゝ。時の調子もいかならん。 シテ「いや雨にてはなかりけり。 あれ御覧ぜよ雲の端の。地「月に・双{ならび}の岡の松の。 ・葉風{はかぜ}は吹き落ちて。村雨の如く音づれたり。 面白やをりからなりけり。大絃は〓{口へんに曹}々として。 村雨の如しさて。小絃は・切々{せつ/\}として。 ・私語{さゝめごと}に異ならず。クセ「第一第二の絃は。 索索として秋の風。松を払つて・疎韻{そゐん}落つ。 第三第四の絃は。冷々として夜の鶴の。 子を思つて・籠{こ}の内になく。鶏も心して。 夜遊の・別{わかれ}とゞめよ。 シテ「一声の鳳管は。地「秋・秦嶺{しんれい}の雲を動かせば。 ・鳳凰{ほうわう}もこれにめでて。・梧竹{きりたけ}に飛び下りて。 ・翅{つばさ}を連ねて舞ひ遊べば。律呂の声々に。・心{こゝろ}・声{こゑ}に発す。 声・文{あや}をなす事も。昔を返す・舞{まひ}の袖。 衣笠山も近かりき。 おもしろの夜遊やあらおもしろの夜遊やな。 あらなごり惜しの夜遊やな。カケリ「。 。

シテ詞「あら恨めしやたま/\閻浮の夜遊に帰り。心をのぶる折節に。 また嗔恚の・発{おこ}る恨めしや。 ワキ「さきに見えつる人影の。なほあらはるゝは経政か。 シテ「あら恥かしや我が姿。 はや人々に見えけるぞや。あの灯火を消し給へとよ。 地「灯火を背けては。/\。 ともにあはれむ深夜の月をも。手に取るや帝釈修羅の。 ・戦{たゝかひ}は火を散して。嗔恚の・猛火{みやうくわ}は雨となつて。 身にかゝれば。払ふ剣は他を悩し。 我と身を切る。 紅波はかへつて猛火となれば。身を焼く苦患。恥かしや。 人には見えじものを。あの灯火を消さんとて。 その身は・愚人{ぐにん}夏の虫の。 火を消さんと飛び入りて。嵐とともに灯火を吹き消して。 くらまぎれより。・魄霊{はくれい}は。 失せにけり魄霊の影は失せにけり 従僧 漁翁 若女 平通盛 小宰相局

。 ワキ詞「是は阿波の鳴門に・一夏{いちげ}を送る僧にて候。扨も此浦は。 平家の一門はて給ひたる処なれば痛はしく存じ。 毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。 唯今も出でて弔ひ申さばやと思ひ候。歌「磯山に。 暫し岩根のまつ程に。/\。 誰が夜舟とは白波に。楫音ばかり鳴門の。浦静かなる。 今宵かな。ワキワキツレ「浦静かなる今宵かな。 ツレ一声サシ「すは・遠山寺{とほやまでら}の鐘の声。 この磯辺近く聞え候。シテ「入相ごさめれ急が給へ。 ツレ「程なく暮るゝ日の数かな。 シテ「昨日過ぎ。ツレ「今日と暮れ。 シテ「明日またかくこそ有るべけれ。 ツレ「されども老に頼まぬは。シテ「身のゆくすゑの日数なり。 シテツレ二人「いつまで世をばわたづみの。

あまりに隙も波小舟。 ツレ「何を頼に老の身の。シテ「命のために。二人「使ふべき。 地歌「憂きながら。心のすこし慰むは。 /\。月の出汐の海士小舟。 さも面白き浦の秋の景色かな。処は夕浪の。 鳴門の沖に雲つゞく。 淡路の島や離れ得ぬ浮世の業ぞ悲しき浮世の業ぞ悲しき。 シテサシ「暗濤月を埋んで清光なし。 ツレ「舟に焚く海士の篝火更け過ぎて。 二人「苫よりくゞる夜の雨の。 芦間に通ふ風ならでは。音する物も波枕に。 夢か現か御経の声の。嵐につれて聞ゆるぞや。 ・楫音{かぢおと}を静め唐櫓を抑へて。聴聞せばやと思ひ候。 ワキ「誰そや此鳴門の沖に音するは。 シテ「泊定めぬ海士の釣舟候ふよ。

ワキ「さもあらば思ふ子細あり。この磯近く寄せ給へ。 シテ「仰に随ひさし寄せ見れば。 ワキ「二人の僧は巖の上。シテ「漁の舟は岸の陰。 ワキ「芦火の影を仮初に。 御経を開き読誦する。シテ「有難や漁する。 業は芦火と思ひしに。ワキ「善き燈火に。シテ「鳴門の海の。 。 シテワキ二人「弘誓深如海歴劫不思議の機縁によりて。五十展転の随喜功徳品。 地下歌「実にありがたやこの経の。 面ぞくらき浦風も。芦火の影を吹き立てゝ。 聴聞するぞありがたき。上歌「竜女変成と聞く時は。 /\。姥も頼もしや祖父はいふに及ばす。 。 願も三つの車の芦火は清く明かすべしなほ/\お経。遊ばせなほ/\お経あそばせ。ワキ詞「あら嬉しや候。 火の光にて心静に御経を読み奉りて候。 先々此浦は。平家の一門果て給ひたる処なれば。 毎夜此磯辺に出でて御経を読み奉り候。 。

取り分き如何なる人此浦にて果て給ひて候ふぞ委しく御物語り候へ。 シテ詞「仰の如く或は討たれ。 又は海にも沈み給ひて候。中にも小宰相の局こそ。や。 もろともに御物語り候へ。 ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。 海士の小船に乗りうつり。 月に棹さす時もあり。 シテサシ「こゝだにも都の遠き須磨の浦。二人「思はぬ敵に落されて。 実に名を惜む武士の。おのころ島や淡路潟。 阿波の鳴門に着きにけり。 ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。 二人「いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。 通盛は討たれぬ。 誰を頼みてながらふべき。此海に沈まんとて。主従泣く/\手を取り組み舟端に臨み。 ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ。 地下歌「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮ぶらん。 上歌「西はと問へば月の入る。/\。 其方も見えず大方の。

春の夜や霞むらん涙もともに曇るらん。乳母泣く/\取り付きて。此時の物思君一人に限らず。 思し召し止り給へと・御衣{おんきぬ}の袖に取り付くを。 。 振り切り海に入ると見て老人も同じ満汐の。底の水屑となりにけり/\。 ワキワキツレ歌「此八軸の誓にて。/\。 一人も洩らさじの。方便品を読誦する。 ワキ「如我昔所願。 後シテ出端「今者已満足。ワキ「化一切衆生。 シテ「皆令入仏道の。地「通盛夫婦。 御経に引かれて。立ち帰る波の。 シテ「あら有難の。御法やな。 ワキ「不思議やなさも艶めける御姿の。 波に浮びて見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 ツレ「名ばかりはまだ消え果てぬあだ波の。阿波の鳴門に沈み果てし。 小宰相の局の幽霊なり。 ワキ「今一人は甲胃を帯し。兵具いみじく見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。

シテ「これは生田の森の合戦に於て。名を天下に掲げ。 武将たつし誉を。越前の三位通盛。 昔を語らん其為に。 これまで現れ出でたるなり。地サシ「そも/\此一の谷と申すに。 前は海。上は険しき鵯越。 まことに鳥ならでは翔り難く獣も。 足を立つべき地にあらず。 シテ「唯幾度も追手の陣を心もとなきぞとて。地「・宗徒{むねと}の一門さし遣はさる。 通盛も其随一たりしが。 忍んで我が陣に帰り。小宰相の局に向ひ。クセ「既に軍。 明日にきはまりぬ。 痛はしや御身は通盛ならで此うちに頼むべき人なし。 我ともかくもなるならば。都に帰り忘れずは。 亡き跡弔ひてたび給へ。 名残をしみの御盃。通盛酌を取り。指す盃の宵の間も。 転寝なりし睦言は。たとえば唐土の。 項羽高祖の攻を受け。数行虞氏が。 涙も是にはいかで増るべき。燈火暗うして。 月の光にさし向ひ。語り慰む所に。

シテ「舎弟の能登の守。地「早甲胃をよろひつゝ。 通盛は何くにぞ。など遅なはり給ふぞと。 呼ばはりし其声の。 あら恥かしや能登の守。我が弟といひながら。 他人より猶恥かしや。暇申してさらばとて。 行くも行かれぬ一の谷の。所から須磨の山の。 後髪ぞ引かるゝ。カケリ「。 。 シテ詞「さる程に合戦も半なりしかば。 但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ。 ワキ「さて薩摩の守忠度の果はいかに。シテ「岡部の六弥太。 詞「忠澄と組んで討たれしかば。

あつぱれ通盛も名ある侍もがな。討死せんと待つ所に。 すはあれを見よ好き敵に。 地「近江の国の住人に。/\。 木村の源吾重章が鞭を上げて駈け来る。通盛少しも騒がず。 抜き設けたる太刀なれば。兜の。 真向ちやうと打ち返す。 太刀にてさし違へ共に修羅道の苦を受くる。憐を垂れ給ひ。よく弔ひてたび給へ。 キリ地「読誦の声を聞く時は。/\。 悪鬼心を和らげ。忍辱慈悲の姿にて。 菩薩もこゝに来迎す。成仏得脱の。 身となり行くぞ有難き/\ 旅僧 舟人 今井四郎兼平の霊

ワキ次第「始めて旅を信濃路や。/\。 木曽の行方を尋ねん。 詞「これは木曽の山家より出でたる僧にて候。さても木曽殿は。 江。

州粟津が原にて果て給ひたる由承り及びび候ふ程に。 かの御跡を弔ひ申さばやと思ひ。唯今粟津が原へと急ぎ候。 道行「信濃路や。木曽の梯名にしおふ。/\。 其跡とふや道のべの草の蔭野の仮枕。

夜を重ねつゝ日を添へて。 行けばほどなく近江路や。矢橋の浦に着きにけり/\。 シテ一セイ「世のわざの。 憂きを身に積む柴舟や。焚かぬ先より。漕がるらん。 ワキ詞「なう/\其船に便船申さうなう。 シテ詞「是は山田矢橋の渡舟にてもなし。 御覧候へ柴積みたる船にて候ふ程に。 便船は叶ひ候ふまじ。 ワキ「此方も柴舟と見申して候へども。折節渡に舟もなし。 出家の事にて候へば別の御利益に。 舟を渡してたび給へ。シテ「実にも/\出家の御身なれば。 詞「余の人にはかはり給ふべし。 実に御経にも如渡得船。 ワキ「船待ち得たる旅行の暮。シテ「かゝるをりにも近江の海の。 二人「矢橋をわたる船ならば。 それは旅人の渡舟なり。地歌「是は又。 浮世を渡る柴舟の。/\。干されぬ袖も水馴棹の。 見馴れぬ人なれど。法の人にてましませば。 。

船をばいかで惜むべきとく/\召され候へとく/\召され候へ。 ワキ詞「如何に船頭殿に申すべき事の候。 見え渡りたる浦山は皆名所にてぞ候ふらん。御教へ候へ。 シテ詞「さん候皆名所にて候。 御尋ね候へ教へ申し候ふべし。 ワキ「まづ向ひに当つて大山の見えて候ふは比叡山候ふか。 シテ「さん候あれこそ比叡山にて候へ。 麓に山王二十一社。茂りたる峯は八王子。 戸津坂本の人家まで残なく見えて候。 ワキ「さてあの比叡山は。 王城より艮に当つて候ふよなう。シテ「なか/\の事それ我が山は。王城の鬼門を守り。 悪魔を払ふのみならず。一仏乗の嶺と申すは。 伝へ聞く鷲の御山を象れり。 又天台山と号するは。震旦の四明の洞をうつせり。 。 詞「伝教大師桓武天皇と御心を一つにして。延暦年中の御草創。 我が立つ杣と詠じ給ひし。 根本中堂の山上まで残なく見えて候。

ワキ「さて/\大宮の御在所橋殿とやらんも。 あの坂本のうちにて候ふか。シテ「さん候麓に当つて。 少し木深き影の見えて候ふこそ。 大宮の御在所橋殿にて御入り候へ。 ワキ「有難や一切衆生悉有仏性如来と聞く時は。 我等が身までも頼もしうこそ候へ。 シテ「仰の如く仏衆生通ずる身なれば。 御僧も我も隔はあらじ。一仏乗の。 ワキ「峰には遮那の梢をならべ。シテ「麓に止観の海をたゝへ。 ワキ「又戒定恵の三学を見せ。 シテ「三塔と名づけ。ワキ「人は又。地「一念三千の。 機を顕して。 三千人の衆徒を置き円融の法も曇なき。月の横川も見えたりや。 さて又麓はさゝ波や。志賀辛崎の一つ松。 七社の神輿の御幸の梢なるべし。 さゝ波の水馴棹こがれ行く程に。遠かりし。 向の浦波の。 粟津の森は近くなりてあとは遠き細波の。昔ながらの山桜は青葉にて。 面影も夏山の移り行くや青海の。

柴舟のしばしばも。 暇ぞ惜しき細波の寄せよ寄せよ磯ぎはの。粟津に早く着きにけり/\。 ワキ歌待謡「露を片敷く草筵。/\。 日も暮れ夜にもなりしかば。 粟津の原のあはれ世の。亡きかげいざや。 弔はんなきかげいざや弔はん。 後シテ一声「白刃骨を砕く苦。眼晴を破り。 紅波楯を流す粧。簗杭に残花を乱す。 一セイ「雲水の。粟津の原の朝風に。 地「鬨つくり添ふ。声々に。シテ「修羅の巷は騒がしや。 ワキ「不思議やな粟津の原の草枕に。 甲冑を帯し見え給ふは。 如何なる人にてましますぞ。シテ「愚と尋ね給ふものかな。 御身是まで来り給ふも。 我なき跡をとはん為の。御志にてましまさずや。 兼平これまで参りたり。 ワキ「今井の四郎兼平は。今は此世に亡き人なり。 さては夢にて有るやらん。 シテ詞「いや今見る夢のみか。現にもはや水馴棹の。

舟にて見みえし物語。早くも忘れ給へりや。 ワキ「そもや舟にて見みえしとは。 矢橋の浦の渡守の。シテ詞「其舟人こそ兼平が。 現に見みえし姿なれ。ワキ「さればこそ始より。 様ある人と見えつるが。扨は昨日の舟人は。 シテ「舟人にも非ず。ワキ「漁夫にも。 シテ「あらぬ。地歌「武士の。矢橋の浦の渡守。 矢橋の浦の渡守と。見えしは我ぞかし。 同じくは此舟を。御法の舟に引きかへて。 我を又かの岸に。渡してたばせ給へや。 地クリ「実にや有為生死の巷。 来つて去る事早し。老少もつて前後不同。夢幻泡影。 いづれならん。 シテサシ「唯これ槿花一日の栄。地「弓馬の家にすむ月の。 わづかに残る兵の。七騎となりて木曽殿は。 此近江路に下り給ふ。 シテ「兼平瀬田より参りあひて。地「又三百余騎になりぬ。 シテ「其後合戦度々にて。又主従二騎に討ちなさる。 地「今は力なし。あの松原に落ち行きて。

御腹召され候へと。兼平すゝめ申せば。 心細くも主従二騎。 粟津の松原さして落ち給ふ。クセ「兼平申すやう。後より御敵。 大勢にて追つかけたり。防矢仕らんとて。 駒の手綱を返せば。 木曽殿御諚ありけるは。多くの。敵を遁れしも。 汝一所にならばやの。 所存ありつる故ぞとて同じくかへし給へば。兼平又申すやう。 こは口惜しき御諚かな。さすがに木曽殿の。 人手にかゝり給はん事。末代の御恥辱。 唯御自害あるべし。 今井もやがて参らんとの。兼平に諫められ。 又引つ返し落ち給ふ。さて其後に木曽殿は。 心細くも唯一騎。粟津の原のあなたなる。 松原さして落ち給ふ。シテ「頃は正月の末つ方。 地「春めきながら冴えかへり。比叡の山風の。 雲行く空もくれはとり。あやしや通路の。 すゑ白雪の薄氷。深田に馬をかけ落し。 引けども上らず打てども行かぬ望月の。

。 駒の頭も見えばこそこは何とならん身の果。せん方もなくあきれはて。 此まゝ自害せばやとて。刀に。手を掛け給ひしが。 さるにても兼平が。 行方如何にと遠方の跡を見返り給へば。シテ「何処より来りけん。 地「今ぞ命は槻弓の。 矢一つ来つて内兜にからりといる。痛手にてましませば。 たまりもあへず馬上より。 をちこちの土となる。所はこゝぞ我よりも。 主君の御跡を。先弔ひてたび給へ。 ロンギ地「実に痛はしき物語。兼平の御最期は。 何とかならせ給ひける。シテ「兼平はかくぞとも。 知らで戦ふ其隙にも。御最期の御供を。 心にかくるばかりなり。 地「扨其後に思はずも。敵の方に声立てゝ。 シテ「木曽殿討たれ給ひぬと。 地「呼ばはる声を聞きしより。シテ「今は何をか期すべきと。 地「思ひ定めて兼平は。シテ「是を最期の広言と。 地「鐙ふんばり。シテ「大音上げ木曽殿の。

御内に今井の四郎。地「兼平と。 名乗りかけて。大勢に。割つて入れば。 もとより。一騎当千の。秘術を顕し大勢を。 粟津の汀に追つつめて磯打つ波の。 まくり切り。蜘蛛手十文字に。打ち破り。

かけ通つて。其後。自害の手本よとて。 太刀をくはへつゝ逆さまに落ちて。 貫かれ失せにけり。 兼平が最期の仕儀目を驚かす有様なり目を驚かす有様 平知章(前ハ里男)

ワキ次第「春を心のしるべにて。/\。 ・憂{う}からぬ旅に・出{い}でうよ。 詞「これは・西国方{さいこくがた}より出でたる僧にて候。 われいまだ都を見ず候ふ程に。唯今思ひたち・都{みやこ}・一見{いっけん}と志し候。 道行「旅衣。八重の潮路をはる%\と。 /\。猶末ありと行く波の。 雲をも分くる沖つ船。われも浮世の道出でて。 いづくともなき・海際{うみぎわ}や。 浦なる関に着きにけり。/\。 詞「さてもわれ鄙の国よりはるばると。これなる磯辺に来て見れば。

新しき卒都婆を立ておきたり。 亡き人の追善と思しくて。・要文{えうもん}さま%\書記し。 ・物故{もっこ}平知章と書かれたり。 ・知章{ともあきら}とは平家の御一門の・御中{おんなか}にては。 誰にてかましますらん。あら痛はしや候。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ぞ。 。 ワキ「是は遠国より上りたる僧にて候ふが。これなる卒都婆を見れば。 物故平知章と書かれて候。 御一門の御中にて候ふやらんと痛はしく存じ。

一遍の念仏を廻向申して候。シテ「げに/\遠国の人にてましませば。知ろしめさぬは・御理{おんことわり}。 知章とは相国の三男新中納言知盛の・御子{おんこ}にて候。 二月七日の・合戦{かせん}に。 此一の谷にて討たれさせ給ひて候。 されば其日も今日にあたりたれば。 ・縁{ゆかり}の人の立てたる卒都婆にて候。時もこそあれ御僧の。 今日しもこゝに来り給ひ。廻向し給ふありがたさよ。 一樹の蔭一河の流。これ又他生の縁なるべし。 よく/\弔ひ給ひ候へ。ワキ「げに/\仰のごとく。他生の縁のあればこそ。 かりそめながらこゝに来て。 シテ「無縁の利益をなす事よと。 ワキ「思の玉の数繰りて。シテ「弔ふ事よさなきだに。 シテワキ二人「一見卒都婆・永離三悪道{やうりさんあくだう}。・何凉造立者{がきやうざうりふしや}。 必生安楽国。物故平知章・成等正覚{じやうとうしやうがく}。 地下歌「昨日は人の上。けふはわれをも知らぬ身の。 しかも弓馬の・家人{かじん}ならば。 ・法{のり}にひかれつつ。仏果に至り給へや。

上歌「唯一念の功力だに。/\三悪の罪は消えぬべし。 まして・妙{たえ}にも説く法の。 道のほとりの亡き跡を逆縁もなどかなかるべき/\。 。 ワキ詞「さて知盛の御最期は何とかならせ給ひて候ふぞ。シテ詞「さん候知盛は。 あれに見えたる釣舟のほどなりし。 遥の沖の御座船に。 追ひつき助かり給ひて候。 ワキ「さてあれまでは小船に召されて候ふか。シテ「いや・馬上{ばしやう}にて候ひし。 其頃・井上黒{いのうへぐろ}とて屈竟の名馬たりしが。 二十余町の海の面を。やす/\と泳ぎ渡り。 ・主{ぬし}を助けし馬なり。 されども船中に処なかりし間。乗する人もなくして。 又・本{もと}の汀に泳ぎ上り。 此馬主の・別{わかれ}を慕ふかと思しくて。沖の方に向ひ・高嘶{たかいなゝき}し。 ・足掻{あしがき}してぞ立つたりける。 畜類も心ありけるよと。見る人哀を催しけり。 地「・越鳥南枝{ゑつてうなんし}に。 巣をかけ・胡馬北風{こばほくふう}にいばえしも・旧郷{きゅうごう}を忍ぶ故なりとか。胡馬は北風を慕ひ <120 b>。 此馬は西に行く船の。・纜{ともづな}に繋がれても。 行かばやと思ふ心なり。 ロンギ上「さる程に。 日もはや暮れて須磨の浦。海人の磯屋に・宿{やどり}して。 逆縁ながら弔はん。シテ「げにありがたやわれとても。 よそ人ならず一門の。 ・内外{うちと}にかよふ夕月の後の世の闇をとひ給へ。 地「そも一門の内ぞとは。御身いかなる人やらん。 シテ「今は何をかつゝみ・井{い}の。 ・水隠{みがく}れて住むあはれ世に。地「亡き跡の名は。シテ「白真弓の。 地「帰る方を見れば。須磨の里にも野山にも。 行かで汀のかたをなみ。 芦辺をさしてゆく・田鶴{たづ}の。浮きぬ沈むと見えしまゝに。 ・後影{うしろかげ}も失せにけりや後影も失せにけり。中入。 ワキ上歌待謡「夕波千鳥友寐して。/\。 処も須磨の浦づたひ。野山の風もさえかへり。 心も墨の衣手に。此御経を読誦する/\。 後シテ一声「あらありがたの御弔やな。 われ修羅道の苦の。隙なき中にかくばかり。

・魄霊{はくれい}にひかれて来りたり。浮むべき。 波こゝもとや須磨の浦。 地「海少しある通路の。シテ「・後{うしろ}の山風上野のあらし。 地「草木国土有情非情も。悉皆成仏の。 かの岸の海際に。浮み出でたるありがたさよ。 。 ワキ「不思議やなさもなまめきたる若武者の。波に浮みて見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「誰とはなどや愚なり。御弔のありがたさに。 知章これまで参りたり。ワキ「さては平家の公達を。 まのあたりに見奉る事よと。昔にかへる浦波の。 シテ「・浮織物{うきおりもの}の直垂に。つま・匂{にほひ}の鎧着て。 ワキ「さも・華{はな}かなる・御{おん}姿。シテ「処もさぞな。 ワキ「須磨の浦に。 地上歌「朧なる雁の姿や月の影。/\。うつす絵島の島隠れ。 行く船を。惜しとぞ思ふ我が父に。 別れし船影の跡白波も懐しや。よしとても・終{つい}に我が。 。 憂き身を捨てゝ西海の藻屑となりし浦の浪。重ねて・弔{と}ひてたび給へ。/\。

。 ワキ詞「さらば其時の有様委しく御物語り候へ。 地クリ「さても其時のありさま語るにつけて憂き名のみ。竜田の山の紅葉葉の。 くれなゐ靡く旗のあし。散り%\になる気色かな。シテサシ「主上二位殿をはじめ奉り。 その外大臣殿父子。 地「一門皆々船に取り乗り。海上に浮むよそほひ。 唯・滄波{さうは}のうねに浮き沈む水鳥の如し。 シテ「其中にも親にて候ふ新中納言。われ知章監物太郎。 主従三騎に討ちなされ。 地「御座船をうかがひ此汀にうち出でたりしに。 ・敵手{かたきて}しげくかゝりし間。 又ひつかへし打ちあふ程に。知章監物太郎。 主従こゝにて討死する。シテ「その隙に知盛は。 地「二十余町の沖に見えたる。大臣殿の御船まで。 馬を泳がせ追ひついて。御船に乗りうつり。 かひなき御命助かり給ふ。 クセ「知盛其時に。おほいどのゝ御前にて。 涙を流し宣はく。

武蔵の守も討たれぬ監物太郎頼賢も。あの汀にて討たるゝを。 見すてゝこれまでまゐる事。面目もなき次第なり。 いかなれば。子は親のため。 命を惜まぬ心ぞや。いかなる親なれば。 子の討たるゝを。見捨てけん。命は惜しきものなりとて。 。さめ%\と泣き給へばよその袖も濡れにけり。おほいどのも宣はく。 武蔵の守はもとよりも。 心も剛にしてよき大将と見しぞとて。御子清宗の方を。 見やりて御涙を。流し給へば船の・中{うち}に。 連れる人々も。鎧の袖をぬらしけり。 シテ「武蔵の守知章は。地「生年二八の春なれば。 清宗も同年にて。 ともに若葉の・磯馴松{そなれまつ}千代を重ねて栄ゆくや。累葉枝を連ねつゝ。 一門かどをならべしも。 今年のけふはいかなれば。処も須磨の山桜。 若木は散りぬ埋木の。 浮きてたゞよふ船人となりゆく果ぞかなしき。ロンギ上「げに痛はしき物語。 同じくは御最期を。懺悔に語り給へや。

。 シテ「げにや最期{さいご}の有様を慙愧懺悔にあらはし修羅道の苦患免れん。 地「げに修羅道の苦の。その一念も最期より。 シテ「聞きつるまゝの敵にて。 地「すはや寄せくる。シテ「浦の波。地「団扇の旗児玉党か。 物々しと云ふまゝに。 監物太郎が放つ矢に。敵の旗さしの。 首の骨のぶかに射させて真逆さまにどうと落つれば。 シテ「主人とおぼしき武者。 地「主人とおぼしき武者の新中納言を目にかけて。 駈けよせて討つ所を。親を討たせじと。 知章かけ塞がつて。むずと組んで。 どうと落ち。取つて押さへて首かき切つて。 起きあがる処を又。敵の郎等落ち合ひて。 知章が首をとれば。 終にこゝにて討たれつつ。其まゝ修羅の。業に沈むを。 思はざるに御僧の。とぶらひはありがたや。 是ぞ真の法の友よ。これぞまことの知章が。 跡とひてたび給へ。亡き跡を弔ひてたび給へ 旅僧 老人 源三位頼政

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此程は都に候ひて。洛陽の寺社残なく拝み。 廻りて候。 又これより南都に参らばやと思ひ候。道行「天雲の。稲荷の社伏し拝み。 /\。なほ行くすゑは深草や。 木幡の関を今越えて。伏見の沢田見え渡る。 水の水上たづねきて。宇治の里にも。 着きにけり宇治の里にも着きにけり。狂言シカ%\「。 。 ワキ詞「げにや遠国にて聞き及びにし宇治の里。詞「山の姿川のながれ。 遠の里橋の景色。見所おほき名所かな。 詞「あはれ里人来り候へかし。 シテ詞呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ詞「是は此所はじめて一見の者にて候。 この宇治の里に於て。

名所旧跡残なく御教へ候へ。シテ「所には住み候へども。 いやしき宇治の里人なれば。 名所とも旧跡とも。いさ白波の宇治の川に。 舟と橋とは有りながら。渡りかねたる世の中に。 住むばかりなる名所旧跡。 何とか答へ申すべき。 ワキ詞「いや左様には承り候へども。勧学院の雀は蒙求を囀るといへり。 。 処の人にてましませば御心にくうこそ候へ。先喜撰法師が住みける庵は。 いづくの程にて候ふぞ。 シテ「さればこそ大事の事を御尋ねあれ。喜撰法師が庵は。 我が庵は都の巽しかぞ住む。 詞「世を宇治山と人はいふなり。人はいふなりとこそ。 主だにも申し候へ。尉は知らず候。 。

ワキ詞「又あれに一村の里の見えて候ふは槙の島候ふか。 シテ「さん候槙の島とも申し。又宇治の河島とも申すなり。 ワキ「是に見えたる小島が崎は。 シテ「名に橘の小島が崎。ワキ「向に見えたる寺は。 いかさま恵心の僧都の。 御法を説きし寺候ふな。シテ「なう/\旅人。あれ御覧ぜよ。 歌「名にも似ず。月こそ出づれ朝日山。 地「月こそ出づれ朝日山。 山吹の瀬に影見えて。雪さし下す島小舟。山も川も。 お。 ぼろおぼろとして是非をわかぬ景色かな。げにや名にしおふ。 都に近き宇治の里聞きしにまさる名所かな/\。 シテ詞「いかに申し候。 此所に平等院と申す御寺の候ふを御覧ぜられて候ふか。 ワキ詞「不知案内の事にて候ふ程に。 いまだ見ず候御をしへ候へ。 シテ「此方へ御出で候へ。これこそ平等院にて候へ。 また是なるは釣殿と申して。 おもしろき所にて候よく/\御覧候へ。

ワキ「げに/\おもしろき所にて候。 またこれなる芝を見れば。扇の如く取り残されて候ふは。 何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さん候此芝について物語の候。 語つて聞かせ申し候べし。昔この処に宮軍ありしに。 源三位頼政合戦に打ち負け給ひ。 この処に扇を敷き自害し果て給ひぬ。 されば名将の古跡なればとて。 扇のなりに取り残して。今に扇の芝と申し候。 ワキ「痛はしやさしも文武に名を得し人なれども。 跡は草露の道の辺となつて。 行人征馬の行くへの如し。あら痛はしや候。 シテ詞「げによく御弔ひ候ふものかな。 しかも其宮軍の月も日も今日に当りて候ふは如何に。 。 ワキ「何と其宮軍の月も日も今日当りたると候ふや。 シテ「かやうに申せば我ながら。よそにはあらず旅人の。 草の枕の露の世に。姿見えんと来りたり。 現とな思ひ給ひそとよ。地歌「夢の浮世の中宿の。

/\。宇治の橋守年を経て。 老の波も打ち渡す遠方人に。 物申す我頼政が幽霊と名のりもあへず。 失せにけり名のりもあへず失せにけり。 。 ワキ詞「さては頼政の幽霊かりに現れ。 。 我に言葉をかはしけるぞや。 いざや御跡弔はんと。 。 歌「思ひよるべの浪枕。/\。 汀も近。 し此庭の扇の芝を片敷きて。 夢の契を。 待たうよ夢の契を待たうよ。 後シテ一声「血は琢鹿の河となつて。 紅波楯を流し。白刃骨を砕く。 世を宇治川の網代の波。あら閻浮恋しや。伊勢武者は。 皆緋縅の鎧着て。宇治の網代に。

かゝりけるかな。うたかたの。 あはれはかなき世の中に。地「蝸牛の角の。争も。 シテ「はかなかりける。心かな。詞「あら尊の御事や。 なほ/\御経読み給へ。  ワキ「不思議やな法体の身にて甲胃を帯し。 御経読めと承るは。いかさま聞きつる源三位の。 その幽霊にてましますか。

シテ詞「げにや紅は園生に植ゑても隠なし。 名のらぬさきに。詞「頼政と御覧ずるこそ恥かしけれ。 たゞ/\御経読み給へ。 ワキ「御心やすく思し召せ。五十展転の功力だに。 成仏まさに疑なし。ましてやこれは直道に。 シテ「弔ひなせる法の力。 ワキ「あひにあひたり所の名も。シテ「平等院の庭の面。 ワキ「思ひ出でたり。シテ「仏在世に。 地歌「仏の説きし法の場。/\。 こゝぞ平等大慧の。功力に頼政が。 仏果を得んぞありがたき。 シテ「今はなにをかつゝむべき。 これは源三位頼政。執心の波に浮き沈む。 因果の有様あらはすなり。地「抑治承の夏の頃。 よしなき御謀叛を勧め申し。 名も高倉の宮の内。 雲居のよそに有明の月の都を忍び出でて。シテ「憂き時しもに。近江路や。 地「三井寺さして落ち給ふ。 クセ「さるほどに。平家は時をめぐらさず。

数万騎の兵を。関の東に遣はすと。 聞くや音羽の山つゞく。山科の里近き。木幡の関を。 よそに見て。 こゝぞ憂き世の旅心宇治の河橋打ち渡り。大和路さして急ぎしに。 シテ「寺と宇治との間にて。 地「関路の駒の隙もなく。 宮は六度まで御落馬にて煩はせ給ひけり。 これは先の夜御寝ならざる故なりとて。平等院にして。 暫く御座を構へつゝ宇治橋の中の間。引きはなし。 下は河波。上に立つも。 共に白旗を靡かしてよする敵を待ち居たり。 シテ詞語「さる程に源平の兵。 宇治川の南北の岸に打ちのぞみ。閧の声矢叫の音。 波に。 たぐへておびたゝし橋の行桁をへだてて戦ふ。味方には筒井の浄妙。 詞「一来法師。敵味方の目を驚かす。 かくて平家の大勢。橋は引いたり水は高し。 さすが難所の大河なれば。 詞「左右なう渡すべきやうも無かつし処に。

田原の又太郎忠綱と名のつて。詞「宇治川の先陣我なりと。 名のりもあへず三百余騎。 地「くつばみを揃へ河水に。少しもためらはず。 群れゐる群鳥の翅を並ぶる羽音もかくやと。 白波に。ざつ/\と。打ち入れて。 浮きぬ沈みぬ渡しけり。シテ「忠綱。兵を。 下知していはく。地「水の逆巻く所をば。 岩ありと知るべし。弱き馬をば下手に立てゝ。 強きに水を。防がせよ。 流れん武者には弓弭を取らせ。互に力を合はすべしと。 唯一人の。下知に依つて。 さばかりの大河なれども一騎も流れず此方の岸に。 をめいてあがれば味方の勢は。 我ながら踏みもためず。半町ばかり。 覚えずしさつて。切先を揃へて。 こゝを最期と戦うたり。さる程に入り乱れ。我も/\と戦へば。シテ「頼政が頼みつる。 地「兄弟の者も討たれけば。 シテ「今は何をか期すべきと。地「唯一筋に老武者の。

シテ「是までと思ひて。地「是までと思ひて。 平等院の庭の面。是なる芝の上に。扇を打ち敷き。 鎧ぬぎ捨て座を組みて。刀を抜きながら。 さすが名を得し其身とて。シテ「埋木の。 花さく事もなかりしに。

身のなるはてはあはれなりけり。地「跡弔ひ給へ御僧よ。 かりそめながらこれとても。 他生の種の縁にいま。扇の芝の草の蔭に。 帰るとて失せにけり立ち帰るとて失せにけり 従僧二人 老人 斉藤別当実盛

狂言口開ワキ「それ西方は十万億土。 遠く生るゝ道ながら。こゝも・己心{こしん}の弥陀の国。 貴賎群集の称名の声。 ツレ「・日々{にちにち}・夜々{やゝ}の・法{のり}の・場{にわ}。ワキ「げにも誠に摂取不捨の。 ツレ「ちかひに誰か。ワキ「残るべき。 三人「独なほ。仏の・御名{みな}を尋ね見ん。/\。 おのおの帰る法の場。 知るも知らぬも心ひく誓の網に漏るべきや。知る人も。 知らぬ人。 をも渡さばやかの国へ行く法の船浮むも安き。道とかや浮むも安き道とかや。

シテサシ「・笙歌{せいか}・遥{はるか}に聞ゆ孤雲の上。 ・聖衆{しやうじゆ}来迎す落日の前。 あら・尊{たつと}や今日も又紫雲の立つて候ふぞや。詞「鐘の・音{おと}・念仏{ねぶつ}の声の聞え候。 さては聴聞も今なるべし。 さなきだに立居くるしき老の波の。 よりもつかずは法の場に。よそながらもや聴聞せん。 一念称名の声の内には。摂取の光明曇らねども。 老眼の通路なほ以て明かならず。 よしよし少しは遅くとも。 こゝを去る事遠かるまじや。・南無阿弥陀仏{なみあむだぶ}。

ワキ詞「いかに・翁{おきな}。 さても毎日の称名に怠る事なし。されば志の者と見る所に。 おことの・姿{すがた}・余人{よじん}の見る事なし。 ・誰{たれ}に向つて・何事{なにごと}を申すぞと皆人不審しあへり。 ・今日{けふ}はおことの名をなのり候へ。 シテ詞「これは思ひもよらぬ・仰{おほせ}かな。 もとより所は天ざかる。 鄙人なれば人がましやな名もあらばこそ・名告{なのり}もせめ。只上人の・御下向{おんげかう}。 ひとへに弥陀の来迎なれば。 かしこうぞ・長生{ながいき}して。此称名の時節にあふ事。 ・盲亀{まうき}の・浮木{ふぼく}・優曇華{うどんげ}の花侍ち得たる心地して。 老いの・幸{さいわひ}・身{み}に越え。悦の涙・袂{たもと}に余る。 されば此身ながら。安楽国に生るゝかと。 無比の歓喜をなす所に。 ・輪廻妄執{りんゑまうしふ}の・閻浮{えんぶ}の名を。又あらためて名のらん事。 口惜しうこそ候へとよ。ワキ「げに/\翁の申す所ことわり至極せりさりながら。 ひとつは懺悔の・廻心{ゑしん}ともなるべし。 たゞおことが名を名のり候へ。

シテ「さては名のらでは叶ひ候ふまじか。 ワキ「中々のこと急いで名のり候へ。 シテ「さらば・御前{おんまへ}なる人をのけられ候へ。 近う参りて名のり候ふべし。 ワキ「もとより翁の姿余人の見る事はなけれども。 所望ならば人をばのくべし。近うよりて名のり候へ。 シテ「昔長井の斎藤別当実盛は。 この篠原の・合戦{かせん}に討たれぬ。 聞しめし及ばれてこそ候ふらめ。 ワキ「それは平家の・侍{さむらひ}弓取つての名将。その・軍{いくさ}物語は・無益{むやく}。 唯おことの名を名のり候へ。 シテ「いやさればこそその実盛は。 此御前なる池水にて・鬢髭{びんひげ}をも洗はれしとなり。 さればその執心残りけるか。 今も此あたりの人には幻の如く見ゆると申し候。 ワキ「さて今も人に見え候ふか。 シテ「深山木のその梢とは見えざりし。桜は花に顕れたる。 ・老木{おいき}をそれと御覧ぜよ。ワキ「不思議やさては実盛の。 昔を聞きつる物語。

人の上ぞと思ひしに。身の上なりける不思議さよ。 詞「扨はおことは実盛の。その幽霊にてましますか。 シテ「われ実盛が幽霊なるが。 ・魂{こん}は冥途にありながら。・魄{はく}は此の世にとゞまりて。 ワキ「なほ執心の閻浮の世に。 シテ詞「二百余歳の程は経れども。 ワキ「浮みもやらで篠原の。シテ「池のあだ波夜となく。 ワキ「昼とも分かで心の闇の。シテ「夢ともなく。 ワキ「現ともなき。シテ「思をのみ。 歌「篠原の。・草葉{くさば}の霜の翁さび。 地「草葉の霜の翁さび。人な咎めそ仮初に。 あらはれ出たる実盛が。名を洩し給ふなよ。 亡き・世語{よがたり}も恥かしとて。・御前{おんまへ}を立ち去りて。 。 行くかと見れば篠原の池の・辺{ほとり}にて姿は幻となりて。失せにけり幻となりて失せにけり。中入間「。 ワキ「いざや・別時{べちじ}の称名にて。 かの幽霊を弔はんと。ワキワキツレ二人待謡「篠原の。 池のほとりの法の水。/\。深くぞ頼む称名の。

声すみわたる弔の。 初夜より後夜に至るまで。心も西へ行く月の光と共に曇なき。 鐘を鳴らして夜もすがら。 ワキ「南無阿弥陀仏なむあみだぶ。 後シテ出端「極楽世界に行きぬれば。 長く・苦界{くかい}を越え過ぎて。輪廻の・故郷{ふるさと}隔たりぬ。 ・歓喜{くわんぎ}の心いくばくぞや。処は・不退{ふたい}の所。 命は無量寿仏となう。頼もしや。 念々相続する人は。地「念々ごとに。往生す。 シテ「南無と言つぱ。地「即ち是帰命。 シテ「阿弥陀と言つぱ。地「その行この義を以ての故に。 シテ「必ず。往生を得べしとなり。 地「ありがたや。 ワキ「不思議やな・白{しら}みあひたる池の・面{おも}に。 ・幽{かすか}に浮み寄る者を。 見ればありつる翁なるが。・甲冑{かつちう}を帯する不思議さよ。 シテ「・埋木{うもれぎ)の人知れぬ身と沈めども。 心の池の言ひがたき。修羅の苦患の数々を。 浮めてたばせ給へとよ。

ワキ「これほどに・目{ま}のあたりなる姿言葉を。 余人は更に見も聞きもせで。シテ詞「唯上人のみ明らかに。 ワキ「見るや姿も残の雪の。 シテ「鬢髭白き老武者なれども。ワキ「その・出立{いでたち}は花やかなる。 シテ「・粧{よそほひ}殊に曇なき。ワキ「月の光。 シテ「ともし火の影。地「・闇{くら}からぬ。夜の錦の直垂に。 /\。・萌黄匂{もえぎにほひ}の鎧着て。・黄金作{こがねづくり}の・太刀{たち}刀。 今の身にては。それとても。何か宝の。 池の・蓮{はちす}の・台{うてな}こそ宝なるべけれ。 げにや疑はぬ。法の・教{をしへ}は朽ちもせぬ。 ・黄金{こがね}の言葉多くせば。などかは至らざるべき/\。 シテクリ「それ・一念弥陀仏即滅無量罪{いちねんみだぶつそくめつむりやうざい}。 地「すなはち・廻向発願心{ゑかうほつぐわんしん}。心を残す。事なかれ。 。 シテ「時いたつて今宵逢ひ難き御法を受け。地「・慚愧懺悔{ざんぎさんげ}の物語。 なほも昔を忘れかねて。忍ぶに似たる篠原の。 草の陰野の露と消えし有様語り申すべし。 シテ詞語「さても。篠原の・合戦{かせん}破れしかば。 源氏の方に・手塚{てづか}の太郎・光盛{みつもり}。

木曽殿の・御前{おんまへ}に参りて申すやう。 光盛こそ奇異の・曲者{くせもの}と組んで首取つて候へ。 大将かと見ればつゞく・勢{せい}もなし。 又侍かと思へ錦の直垂を着たり。名のれ/\と責むれども・終{つひ}に名のらず。声は・坂東声{はんどうごゑ}にて候ふと申す。 木曽殿天晴。 長井の斎藤別当実盛にてやあるらん。然らば鬢髭の・白髪{はくはつ}たるべきが。 黒きこそ不審なれ。 樋口の次郎は見知りたるらんとて召されしかば。 樋口参り唯一目見て。涙をはら/\と・流{なが}いて。 あな無残やな。斎藤別当にて候ひけるぞや。 実盛常に申しゝは。六十に余つて・軍{いくさ}をせば。 若殿原と争ひて。 先をかけんも大人気なし。 又老武者とて人々にあなづられんも口惜しかるべし。鬢髭を墨に染め。 若やぎ討死すべきよし。常々申し候ひしが。 誠に染めて候。洗はせて御覧候へと。 申しもあへず首を待ち。 地「・御前{おんまへ}を立つてあたりなる。この池波の岸に臨みて。

水の緑も影うつる。柳の糸の枝たれて。 歌「気晴れては。風・新柳{しんりう}の髪を・梳{けづ}り。 氷消えては。波・旧苔{きうたい}の。髭を洗ひて見れば。 墨は流れ落ちてもとの。・白髪{はくはつ}となりにけり。 げに名を惜む・弓取{ゆみとり}は。 誰もかくこそあるべけれや。あらやさしやとて。 皆感涙をぞ流しける。 クセ「又実盛が。錦の直垂を着る事。 ・私{わたくし}ならぬ望なり。実盛。都を出でし時。 ・宗盛公{むねもりこう}に申すやう。故郷へは錦を着て。 帰るといへる・本文{ほんもん}あり。実盛・生国{しやうごく}は。 越前の者にて候ひしが。近年。 ・御領{ごりやう}に附けられて。武蔵の長井に・居住{きよぢう}・仕{つかまつ}り候ひき。 此度・北国{ほくこく}に。罷り下だりて候はゞ。定めて。 討死仕るべし。 老後の思出これに過ぎじ御免あれと望みしかば。 ・赤地{あかぢ}の錦の直垂を下し賜はりぬ。 シテ「然れば古歌にももみぢ葉を。地「分けつゝ行けば錦着て。 家に帰ると。

人や見るらんと詠みしもこの本文の心なり。されば古の。・朱買臣{しゆばいしん}は。 錦の袂を会稽山に翻へし。 今の実盛は名を北国の巷に揚げ。 かくれなかりし弓取の。名は末代に有明の。 月の夜すがら懺悔物語申さん。 ロンギ地「げにや懺悔の物語。 心の水の底清く。・濁{にごり}を残し給ふなよ。 シテ「その執心の修羅の道。・廻{めぐ}り/\てまたこゝに。 木曽と組まんとたくみしを。 手塚めに隔てられし。無念は今にあり。 地「つゞく・兵{つはもの}誰誰と。名のる・中{なか}にも・先{まづ}すゝむ。 シテ「手塚の太郎光盛。地「・郎等{らうどう}は・主{しう}を討たせじと。 シテ「かけ隔たりて実盛と。 地「押し並べて組む所を。シテ「あつぱれ。 おのれは・日本一{につぽんいち}の。・剛{がう}の者と。くんでうずよとて。 鞍の。・前輪{まへわ}に押しつけて。首かき切つて。 捨てゝけり。地「其後手塚の太郎。 実盛が弓手にまはりて。草摺を畳みあげて。 ・二刀{ふたかたな}さす所をむずと組んで二疋が間に。

どうと落ちけるが。 シテ「老武者の悲しさは。地「・軍{いくさ}には・為疲{しつか}れたり。風にちゞめる。 ・枯木{こぼく}の力も折れて。手塚が下に。 なる所を。・郎等{らうどう}は落ちあひて。

・終{つひ}に首をば掻き落とされて。篠原の。土となつて。 影も形もなき跡の影も形も・南無阿弥陀仏{なむあみだぶ}。 弔ひてたび給へ跡弔ひてたび給へ 淡津三郎 清経の妻 左中将平清経の霊

ワキ次第「八重の汐路の浦の浪。 八重の汐路の浦波九重にいざや帰らん。 詞「是は左中将清経の御内に仕へ申す。 淡津の三郎と申す者にて候。さても頼み奉り候ふ清経は。 過ぎにし筑紫の軍に打ち負け給ひ。 都へはとても帰らぬ道芝の。 雑兵の手にかゝらんよりはと思し召しけるか。 豊前の国柳が浦の沖にして。 更け行く月の夜船より身を投げ空しく為り給ひて候。 又船中を見奉れば。 御形見に鬢の髪を残し置かれて候ふ間。かひなき命助かり。

御形見を持ち唯今都へ上り候。道行「此程は。 鄙の住居に馴れ/\て。/\。たま/\帰る故郷の。昔の春に引きかへて。 今は物うき秋暮れてはや時雨ふる旅衣。 しをるる袖の身のはてを忍び/\に。 上りけり忍び忍び/\に上りけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 是は早都に着きて候。如何に案内申し候。 筑紫より淡津の三郎がまゐりて候それ/\御申し候へ。 ツレ「何淡津の三郎と申すか。 人までもなし此方へ来り候へ。

さて只今は何の為の御使にてあるぞ。 ワキ「さん候面目もなき御使に参りて候。 ツレ「面目もなき御使とは。若し御遁世にてあるか。 ワキ「いや御遁世にても御座なく候。 ツレ「過ぎにし筑紫の軍にも。 御つゝがなきとこそ聞きつるに。 ワキ「さん候過ぎにし筑紫の軍にも御つゝが御座なく候ひしが。 清経心に思し召すやうは。 都へはとても帰らぬ道芝の。 雑兵のてにかゝらんよりはと思し召されけるか。豊前の国柳が浦の沖にして。 更け行く月の夜船より。 身を投げ空しくなり給ひて候。 ツレ「なに身を投げ空しくなり給ひたるとや。 恨めしやせめて討たれもしは又。病の床の露とも消えなば。 力なしとも思ふべきに。 我と身を投げ給ふ事。偽なりつるかねことかな。 実に恨みてもそのかひの。 なき世となるこそ悲しけれ。 地歌「何事もはかなかりける世の中の。上歌「此程は。人目をつゝむ我宿の。

/\。垣ほの薄吹く風の。 声をも立てず忍音に泣くのみなりし身なれども。 今は誰をか憚の。有明月の夜たゞとも。 何か忍ばん時鳥名をも隠さで。 鳴く音かな名をもかくさで鳴く音かな。 ワキ詞「又船中を見奉れば。 御形見に鬢の髪を残し置かれて候。 是を御覧じて御心を慰められ候へ。 ツレ「是は中将殿の黒髪かや。見れば目もくれ心消え。 猶も思のまさるぞや。見る度に心尽しの髪なれば。 うさにぞかへす本の社にと。 地歌「手向けかへして夜もすがら。涙と共に思寝の。 夢になりとも見え給へと。 寝られぬにかたぶくる。枕や恋を。 知らすらん枕や恋を知らすらん。 シテサシ「聖人に夢なし。誰あつて現と見る。 眼裏に塵あつて三界すぼく。 心頭無事にして一生(一床)ひろし。実にや憂しと見し世も夢。 つらしと思ふも幻の。

いづれ跡ある雲水の。行くも。帰るも閻浮の故郷に。 たどる心の。はかなさよ。 転寝に恋しき人を見てしより。夢てふものは。 頼み初めてき。如何にいにしへ人。 清経こそ参りて候へ。 ツレ「不思議やなまどろむ枕に見え給ふは。実に清経にてましませども。 正しく身を投げ給へるが。 夢ならで如何で見ゆべきぞ。よし夢なりとも御姿を。 見みえ給ふぞ有難き。 さりながら命を待たで我と身を。捨てさせ給ふ御事は。 偽なりけるかねことなれば。唯恨めしう候。 シテ「さやうに人をも恨み給はゞ。 我も恨は有明の。 詞「見よとて贈りし形見をば。何しに返させ給ふらん。 ツレ「いやとよ形見を返すとは。思ひあまりし言の葉の。 見る度に心づくしの髪なれば。 シテ詞「うさにぞかへすもとの社にと。 さしも贈りし黒髪を。あかずは留むべき形見ぞかし。 ツレ「愚と心得給へるや。

慰とての形見なれども。見れば思の乱髪。 シテ「わきて贈りしかひもなく。 形見をかへすはこなたの恨。ツレ「われは捨てにし命の恨。 シテ「互にかこち。ツレ「かこたるゝ。 シテ「形見ぞつらき。ツレ「黒髪の。 地歌「恨をさへに言ひそへて。/\。 くねる涙の手枕を。 ならべて二人が逢ふ夜なれど恨むれば独寝の。ふし%\なるぞ悲しき。 実にや形見こそ。中々憂けれこれなくは。 忘るゝ事もありなんと思ふもぬらす。 袂かな思ふもぬらす袂かな。 。 シテ詞「古の事ども語つて聞かせ申し候ふべし。今は恨を御晴れ候へ。 シテ「さても九州山鹿の城へも。 敵よせ来ると聞きし程に。取る物も取りあへず夜もすがら。 高瀬舟に取り乗つて。 豊前の国柳といふ所に着く。地「実にや所も名を得たる。 浦は並木の柳蔭。いと仮初の皇居を定む。 。

シテ「それより宇佐八幡に御参詣あるべしとて。地「神馬七疋。其外金銀種々の捧物。 即ち奉幣のためなるべし。 ツレ「かやうに申せば猶も身の。 恨に似たる事なれども。さすがに未だ君まします。 御代のさかひや一門の。 果をも見ずして徒らに。御身一人を捨てし事。 誠によしなき事ならずや。シテ「実に/\是は御理さりながら。頼みなき世のしるしの告。 語り申さん聞き給へ。地「そも/\宇佐八幡に参籠し。さま%\祈誓怠らず。 数の頼みをかけまくも。 忝くも御戸帳の錦の内よりあらたなる。 御声を出してかくばかり。シテ「世の中の。宇佐には神も。 なきものを。何祈るらん。心づくしに。 地「さりともと。思ふ心も。虫の音も。 弱りはてぬる。秋の暮かな。シテ「さては。 仏神三宝も。地「捨てはて給ふと心細くて。 一門は。 気を失ひ力を落して足弱車のすご/\と。

還幸なし奉るあはれなりし有様。クセ「かゝりける所に。 長門の国へも敵むかふと聞きしかば。 また船に取り乗りていづくともなくおし出す。 心の内ぞあはれなる。実にや世の中の。 うつる夢こそ誠なれ。 保元の春の花寿永の英気の紅葉とて。散々になり浮ぶ(む)。 一葉の船なれや。柳が浦の秋風の。 追手がほなる跡の波白鷺の群れ居る松見れば。 源氏の旗をなびかす多勢かと肝を消す。 こゝに清経は。心にこめて思ふやう。 さるにても八幡の。 御託宣あらたに心魂に残ることわり。誠正直の。頭にやどり給ふかと。 唯一筋に思ひ取り。シテ「あぢきなや。 とても消ゆべき露の身を。 地「なほ置き顔に浮草の。 波に誘はれ船に漂ひていつまでか。憂き目を水鳥の。 沈みはてんと思ひ切り。 人には言はで岩代の待つ事ありや暁の。 月に嘯く気色にて船の舳板に立ち上り。腰よりやうでう抜き出し。

音も速(澄)に吹き鳴らし今様を歌ひ朗詠し。 来し。 方行く末をかゞみて終にはいつかあだ波の。帰らぬは古止らぬは心づくしよ。 此世とても旅ぞかし。 あら思ひ残さずやと。 よそ眼にはひたふる狂人と人や見るらん。 よし人は何とも見る眼を仮の夜の空。 西に傾ぶく月を見ればいざや我もつれんと。南無阿弥陀仏弥陀如来。 迎へさせ給へと。唯一声を最期にて。 舟よりかつぱと落汐の。 底の水屑と沈みゆくうき身の果てぞ悲しき。 ツレ「聞くに心もくれはとり、憂き音に沈む涙の雨の。 恨めしかりける契かな。 シテ「いふならく。奈落も同じ。 うたかたの。あはれは誰も。かはらざりけり。 キリ「さて修羅道に。をちこちの。 地「さて修羅道にをちこちの。たづきは敵。 雨は矢先。土(月)は清剣(精剣)山は鉄城。 雲の旗手をついて。驕慢の。剣をそろへ。

邪見の眼の光。愛欲貪一通玄道場。無明も法性も。 乱るゝ敵。打つは波。引くは潮。 西海四海の因果を見せて。是までなりや。

誠は最期の十念乱れぬ御法の船に。 頼みしままに。 疑もなく実にも心は清経がげにも心は。清経が仏果を得しこそ有難けれ 清凉寺の僧 従僧 青墓長者の女 侍女 従者 大夫進源朝長

。 ワキ詞「これは嵯峨清凉寺より出でたる僧にて候。さても此度平治の乱に。 義朝都を御ひらき候。中にも大夫進朝長は。 美。 濃の国青墓の宿にて自害し果て給ひたる由承り候。 我等も朝長の御ゆかりの者にて候ふほどに。急ぎ彼の所に下り。 御跡をも弔ひ申さんと思ひ立ちて候。 道行三人「近江路や。瀬田の長橋うちわたり。/\。 なほ行くすゑは鏡山。 老曽の森を打ち過ぎて。末に伊吹の山風の。 不破の関路を過ぎ行き青墓の宿に。 着きにけり青墓の宿に着きにけり。

シテツレ二人次第「花の跡訪ふ松風や。/\。 雪にも恨みなるらん。 シテサシ「これは青墓の長者にて候。三人「それ草の露水の泡。 はかなき心のたぐひにも。哀をしるは習なるに。 これは殊更思はずも。 人の嘆を身のうへに。かゝる涙の雨とのみ。 しをるゝ袖の花薄。穂に出すべき言の葉も。 なくばかりなる。ありさまかな。 下歌「光の陰を惜めども。月日の数は程ふりて。 上歌「雪の中。春は来にけりうぐひすの。/\。 氷れる涙今は早。 解けても寝ざれば夢にだに御面影の見えもせで。

痛はしかりし有様を思ひ出づるも。 あさましや思ひ出づるもあさましや。 。 シテ詞「ふしぎやなこの御墓所へ我ならでは。七日々々に参り。 御跡弔ふ者もなきに。旅人と見えさせ給ふ御僧の。 涙を流し懇に弔ひ給ふは。 如何なる人にてましますぞ。 ワキ詞「さん候これは朝長の御ゆかりの者にて候ふが。 御跡弔ひ申さんためこれまで参りて候。 シテ「御ゆかりとはなつかしや。 さて朝長の御ため如何なる人にてましますぞ。 ワキ「これは朝長の御めのと。何某と申す者にて候ひしが。 さる事有りて御暇たまはり。 はや十箇年に余り。かやうの姿となりて候。 とくにも罷り下り。 御跡弔ひ申したくは候ひつれども。怨敵のゆかりをば。 出家の身をも許さねば。抖〓{ソウ:大漢和12912}行脚に身をやつし。 忍びて下向仕りて候。 シテ「さては取り分きたる御なじみ。さこそは思し召すらめ。

わらはも一夜の御宿に。 あへなく自害し果て給へば。 たゞ身のなげきの如くにて。かやうに弔ひ参らせ候。 ワキ「実に痛はしや我とても。もと主従の御契。 是も三世の御値遇。 シテ「わらはも一樹の蔭の宿。他生の縁と聞く時は。 実にこれとても二世の契の。 ワキ「今日しも互にこゝにきて。シテ「弔ふ我も。ワキ「朝長も。 地歌「死の縁の。処も逢ひに青墓の。/\。 跡のしるしか草の蔭の。 青野が原は名のみして古葉のみの春草は。 さながら秋の浅茅原。荻の焼原の跡までも。

げに北〓{ホウ:大漢和39282}の夕煙一片の。雲となり消えし空は色も。 形も。 なき跡ぞあはれなりけるなき跡ぞあはれなりける。 ワキ詞「いかに申し候。 朝長の御最期の有様委しく語つて御聞かせ候へ。 シテ語「申すにつけて痛はしや。 暮れし年の八日の夜に入りて。門を荒けなく敲く音す。 誰なるらんと尋ねしに。 鎌田殿と仰せられしほどに門を開かすれば。 武具したる人四五人内に入り給ふ。義朝御親子。 鎌田金王丸とやらん。わらはを頼みおぼしめす。 明けなば川船にめされ。 野間の内海へ御落あるべきとなり。又朝長は。 都大崩にて膝の口を射させ。 とかく煩ひ給ひしが。夜更け人静まつて後。 朝長の御声にて。 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声のたまふ。鎌田殿まゐり。 こはいかに朝長の御自害候ふと申させ候へば。 義朝驚き御覧ずれば。はや御肌衣も紅に染みて。

目もあてられぬ有様なり。其時義朝。 何とて自害しけるぞと仰せられしかば。 朝長息の下より。 さん候都大崩にて膝の口を射させ。既に難儀に候ひしを。 馬にかゝりこれまでは参り候へども。 今は一足も引かれ候はず。 路次にて捨てられ申すならば。犬死すべく候。唯返す%\御先途をも見届け申さで。 かやうになりゆき候ふ事。さこそいひかひなき者と。 おぼしめされ候はんずれども。 道にて敵に逢ふならば。雑兵の手にかゝらん事。 あまりに口惜しう候へば。 是にてお暇たまはらんと。地「これを最期のお言葉にて。 こときれさせ給へば。 義朝正清とりつきて。嘆かせ給ふ御有様は。 よその見る目も哀れさをいつか忘れん。 歌「悲しきかなや。形をもとむれば。 苔底が朽骨見ゆるもの今は更になし。さてその声を尋ぬれば。 。

草径が亡骨となつて答ふるものも更になし。三世十方の。 仏陀の聖衆もあはれむ心あるならば。 亡魂幽霊もさこそうれしと思ふべき。 地下歌「かくて夕陽影うつる。/\。 雲たえだえに行く空の。青野が原の露分けて。 かの旅人を伴ひ青墓の宿に。 帰りけり青墓の宿に帰りけり。 シテ詞「御僧に申し候。 見ぐるしく候へども。暫くこれに御逗留候ひて。 朝長の御跡を御心しづかに弔ひ参らせられ候へ。 ワキ詞「誠に御志有難う候。 暫くこれに候ふべし。シテ「誰かある罷り出でて。 御僧に宮仕へ申し候へ。中入間「。 ワキ「さても幽霊朝長の。仏事はさま%\おほけれども。 ワキツレ「とりわき亡者の尊み給ひし。ワキ「観音懺法読みたてまつり。 三人待謡「声満つや。法の山風月ふけて。/\。 光やはらぐ春の夜の。眠を覚ます〓{ハツ:大漢和40271}鼓。 時も移るや後夜の鐘。

音澄みわたるをりからの。御法の夜声感涙も。 浮ぶばかりの。気色かな浮ぶばかりの気色かな。 後シテ出端「あらありがたの懺法やな。 昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。 娑婆示現観世音。三世利益同一体。まことなるかな。 誠なるかな。頼もしや。 きけば妙なる法の御声。地「吾今三点。 シテ「楊枝浄水唯願薩〓{タ:大漢和05190}と。地「心耳を澄ませる。 玉文の瑞諷。感応肝に銘ずるをりから。 シテ「あら尊の弔やな。 ワキ「ふしぎやな観音懺法声すみて。 灯の影幽なるに。まさしく見れば朝長の。 影の如くに見え給ふは。若し/\夢か幻か。 シテ「もとより夢幻の仮の世なり。 その疑を止め給ひて。なほ/\御法を講じ給へ。ワキ「げに/\かやうにま見え給ふも。偏に法の力ぞと。念の珠の数くりて。 シテ「声を力にたよりくるは。 ワキ「まことの姿か。シテ「幻かと。ワキ「見えつ。

シテ「かくれつ。ワキ「面影の。地歌「あはれとも。 いはゞ形や消えなまし。/\。 消えずはいかで灯を。 背くなよ朝長を共にあはれみて。深夜の。 月も影そひて光陰を惜み給へや。げにや時人を。 待たぬ浮世のならひなり。唯何事もうち捨てゝ。 御法を説かせ給へや。/\。 シテクリ「それ朝に紅顔あつて。 世路にほこるといへども。 地「夕には白骨となつて郊原に。朽ちぬ。シテサシ「昔は源平左右にして。 朝家を守護し奉り。 地「御代を治め国家を鎮めて。万機の政すなほなりしに。 保元平治の世の乱。いかなる時か来りけん。 シテ「思はざりにし。弓馬の騒。 地「ひとへに時節到来なり。 クセ「さる程に嫡子悪源太義平は。石山寺に籠りしを。 多勢に無勢かなはねば。 力なく生捕られて終に誅せられにけり。三男。 兵衛の佐をば弥平兵。

衛が手にわたりこれも都へぞ捕られける。父義朝はこれよりも。 野間の内海に落ちゆき長田を頼み給へども。頼む。 木。のもとに雨もりてやみ/\と討たれ給ひぬ。 いかなれば長田は云ひかひなくて主君をば。討ち奉るぞや。 如何なれば此宿の。あるじはしかも女人のかひ%\しくも。頼まれて一夜の情のみか。 かやうに跡までも。御弔になる事は。 シテ「そも/\いつの世の契ぞや。 地「一切の男子をば。生々の父と頼み。 万の女人を生々の母と思へとは今身の上に知られたり。 さながら親子の如くに。 御嘆あれば弔も。誠に深き志。請け。 よろこび申すなり。 朝長の後生をも御心やすくおぼしめせ。 ロンギ地「げに頼むべき一乗の。 功力ながらになどされば。いまだ瞋恚の甲冑の。 御有様ぞいたはしき。シテ「梓弓。 もとの身ながら玉きはる。

魂は善所におもむけども。魄は。 修羅道に残つてしばし苦を受くるなり。地「そも/\修羅の苦患とは。いかなる敵に合竹の。 シテ「此世にて見しありさまの。地「源平両家。 シテ「入り乱るゝ。地「旗は白雲紅葉の。 散りまじり戦ふに。運の。極の悲しさは。 大崩にて朝長が。膝の口を。 のぶかに射させて馬の。太腹に。射つけらるれば。 馬は頻に跳ねあがれば。鐙をこして。 下り立たんと。すれども難儀の手なれば。 一足も。ひかれざりしを。乗替に。 かきのせられて。憂き近江路を。 しのぎ来て此の青墓に下りしが。 雑兵の手にかゝらんよりはと思ひさだめて。腹一文字に。 かき切つて。其まゝに。修羅道にをちこちの。 土となりぬる青野が原の。亡き跡とひて。 たびたまへ亡き跡を。弔ひてたび給へ 里女

ワキ次第「行けば深山も・麻裳{あさも}よい。/\。 木曽路の旅に出でうよ。 ワキ詞「これは木曽の山家より出でたる僧にて候。 われ未だ都を見ず候ふ程に。此度思ひ立ち都に上り候。 道行「旅衣。木曽の・御坂{みさか}を遥々と。/\。 思ひ立つ日も美濃尾張。 定めぬ宿の暮ごとに。夜を重ねつゝ日を添へて。 行けば程なく近江路や・鳰{にほ}の海とは。これかとよ。 /\。詞「急ぎ候ふ程に。 江州粟津の原とやらんに着きて候。 此所に暫く休らはばやと思ひ候。 シテサシ会釈「面白や鳰の浦波静かなる。粟津の原の松蔭に。 神を・斎{いは}ふやまつりごと。げに神感も頼もしや。 ワキ詞「不思議やなこれなる・女性{によしやう}の神に参り。 涙を流し給ふ事。返す/\も不審にこそ候へ。

シテ「御僧はみづからが事を仰せ候ふか。 。 ワキ「さん候神に参り涙を流し給ふ事を不審申して候。 シテ「おろかと不審し給ふや。伝へ聞く行教和尚は。 宇佐八幡に詣で給ひ一首の歌に曰く。 何事のおはしますとは知らねども。 詞「忝さに涙こぼるゝと。かやうに詠じ給ひしかば。 神も哀とや思し召されけん。 ・御衣{おんころも}の袂に・御影{みかげ}をうつし。 それより都男山に誓を示し給ひ。国土安全を守り給ふ。 ワキ「やさしやな女性なれどもこの里の。都に近き住居とて。 名にしおひたるやさしさよ。シテ詞「さて/\御僧の住み給ふ。在所はいづくの国やらん。 。

ワキ「これは信濃の国木曽の山家の者にて候。シテ「木曽の山家の人ならば。 粟津が原の神の御名を。 問はずは如何で知り給ふべき。これこそ御身の住み給ふ。 木曽義仲の御在所。同じく神と斎はれ給ふ。 拝み給へや旅人よ。 ワキ「不思議やさては義仲の。神とあらはれこの処に。 ゐまし給ふは有難さよと。 神前に向ひ手を合はせ。地上歌「古の。これこそ君よ名は今も。 /\。有明月の義仲の。 仏と現じ神となり。世を守り給へる誓ぞ。 有難かりける。旅人も一樹の蔭。 他生の縁とおぼしめし。 この松が根に旅居し夜もすがら経を読誦して。・五衰{ごすゐ}を。慰め給ふべし。 有難き・値遇{ちぐう}かなげに有難き値遇かな。 さるほどに暮れて行く日も山の端に。 入相の鐘の音の。・浦回{うらわ}の波に響きつゝ。 いづれも物凄き折節に。われも亡者も来りたり。 その名をいづれとも。 知らずはこの里人に。

問はせ給へと夕暮の草のはつかに入りにけり/\。中入間「。 ワキ上歌待謡「露をかたしく草枕。/\。 日も暮れ夜にもなりしかば。 粟津が原のあはれ世の。・亡影{なきかげ}いざや。弔はん/\。 後シテ一声「落花空しきを知る。 流水心無うしておのづから。すめる心はたらちねの。 地「罪も報も因果の・苦{くるしみ}。 今は浮まん御法の功力に草木国土も成仏なれば。 況や生ある・直道{ぢきだう}の弔。かれこれ何れも頼もしや。 頼もしやあら有難や。 ワキ「不思議やな粟津が原の草枕を。 見れば有りつる女性なるが。 甲胄を帯する不思議さよ。シテ詞「なか/\に巴といひし女武者。女とて御最後に。 召し具せざりしそのうらみ。ワキ「執心残つて今までも。 シテ「・君辺{くんべん}に仕へ申せども。 ワキ「怨みは猶も。シテ「荒磯海の。地「粟津の汀にて。 波の討死・末{すゑ}までも。御供申すべかりしを。 女とて御最後に。

捨てられ参らせし恨めしや。身は恩のため。・命{めい}は義による理。 誰か・白真弓取{しらまゆみとり}の身の。 最後に臨んで功名を。惜まぬ者やある。 。 クセ「さても義仲の。 信濃を出でさせ給ひしは。 。 五万余騎の御勢・轡{くつばみ}をならべ攻め上る。 礪波山。 や倶利伽羅志保。 の合戦に於ても。 分捕功名のその数。 誰に面。 を越され誰に劣る振舞の。 なき・世語{よがたり}に。 名ををし思ふ心かな。 シテ「されども時刻の到来。 地「・運{うん}・槻弓{つきゆみ}の引く方も。渚に寄する粟津野の。

草の露霜と消え給ふ。所はこゝぞお僧達。 同所の人なれば順縁に・弔{と}はせ給へや。 ロンギ「さて此原の合戦にて。討たれ給ひし義仲の。 最後を語りおはしませ。 シテ「頃は睦月の空なれば。

地「雪はむら消に残るをたゞかよひぢと汀をさして。 駒をしるべに落ち給ふが。薄氷の深田に駆けこみ。 弓手。 も馬手も鐙は沈んでおりたゝん便もなくて。手綱にすがつて鞭を打てども。 引。 く方もなぎさの浜なり前後を・忘{ほう}じて控へ給へり。こは如何に浅ましや。 かゝりし所にみづから駆けよせて見奉れば。 重手はおひ給ひぬ乗替に召させ参らせ。 この松原に御供し。はや御自害候へ。 巴も供と申せば。その時義仲の仰には。 汝は女なり。しのぶ便もあるべし。 これなる・守小袖{まもりこそで}を。木曽に届けよこの旨を。 背かば主従三世の契絶えはて。 ながく不興とのたまへば。巴はともかくも。 涙にむせぶばかりなり。 かくて御前を立ち上り。 見れば・敵{かたき}の大勢あれは巴か女武者。 余すな漏らすなと。・敵手{かたきて}繁くかゝれば。 今は引くとも遁るまじ。いで・一軍{ひといくさ}嬉しやと。

巴少しも騒がすわざと敵を近くなさんと。 薙刀引きそばめ。 少し怒るゝ気色なれば、敵は得たりと。切つてかゝれば。 薙刀・柄{え}長くおつ取りのべて。・四方{しほう}を払ふ・八方払{はつぱうばらひ}。 一所に当る木の葉返し。 嵐も落つるや花の・瀧波{たきなみ}枕をたゝんで戦ひければ。皆一方に。 切り立てられて跡も遥に見えざりけり。/\。 シテ「今はこれまでなりと。 地「立ち帰り我が君を。見たてまつればいたはしや。 はや御自害候ひて。 この松が根に伏し給ひ御枕のほどに御小袖。

肌の守を置き給ふを。巴泣く/\賜はりて。 死骸に御暇申しつゝ。行けども悲しや行きやらぬ。 君の名残を如何にせん。 とは思へどもくれぐれの。御遺言の悲しさに。 粟津の汀に立ちより。上帯切り。 物の具心静かに脱ぎ置き。梨打烏帽子同じく。 かしこに脱ぎ捨て。御小袖を引きかづき。 その際までの・佩添{はきそ}への。小太刀を・衣{きぬ}に引き隠し。 処はこゝぞ近江なる。 ・信楽笠{しがらきがさ}を木曽の里に。 涙と巴はたゞひとり落ち行きしうしろめたさの執心を・弔{と}ひてたび給へ/\ 蓮生上人 草刈男 同上 平敦盛の霊

ワキ次第「夢の世なれば驚きて。/\。 捨つるや現なるらん。 詞「これは武蔵の国の住人。熊谷の次郎直実出家し。

・蓮生{れんせい}と申す法師にて候。 さても敦盛を手に懸け申しし事。余りに御痛はしく候ふ程に。 かやうの姿となりて候。

又これより一の谷に下り。 敦盛の御菩提を弔ひ申さばやと思ひ候。道行「九重の。 雲井を出でて行く月の。/\。 南に廻る小車の淀山崎を打ち過ぎて。 昆陽{こや}の池水生田川波こゝもと。 や須磨の浦一の谷にも着きにけり一の谷にも着きにけり。詞「急ぎ候ふ程に。 津の国一の谷にも着きて候。 誠に昔の有様今のやうに思ひ出でられて候。 又あの上野に当つて笛の音の聞え候。此人を相待ち。 。 此あたりの事ども委しく尋ねばやと思ひ候。 シテツレ次第「草刈笛の声添へて。/\吹くこそ野風なりけれ。 シテサシ「かの岡に草刈る男野を分けて。帰るさになる夕まぐれ。 二人「家路もさぞな須磨の海。 すこしが程の通路に。山に入り浦に出づる。 憂き身の業こそ物うけれ。 下歌「問はゞこそひとりわぶとも答へまし。上歌「須磨の浦。 もしほ誰とも知られなば。/\。

我にも友のあるべきに。 余りになればわび人の親しきだにも疎くして。 住めばとばかり思ふにぞ憂き。 にまかせて過すなり憂きにまかせて過すなり。 。 ワキ詞「如何に是なる草刈達に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「唯今の笛はかた%\の中に吹き給ひて候ふか。 シテ「さん候我等が中に吹きて候。 ワキ「あらやさしや其身にも応ぜぬわざ。返す%\もやさしうこそ候へ。 シテ「其身にも応ぜぬ業と承れども。夫れ優るをも羨まざれ。 劣るをも賎しむなとこそ見えて候へ。 其上樵歌牧笛とて。シテツレ「草刈の笛樵の歌は。 歌人の詠にも作りおかれて。 世に聞えたる笛竹の。不審を為させ給ひそとよ。 ワキ「実に実にこれは理なり。さて/\樵歌牧笛とは。シテ「草刈の笛。ワキ「樵の歌の。 シテ「憂き世を渡る一節を。ワキ「歌ふも。

シテ「舞ふも。ワキ「吹くも。シテ「遊ぶも。 地歌「身の業の。好ける心に寄竹の。/\。 小枝蝉折さま%\に。笛の名は多けれども。 草刈の 吹く笛ならばこれも名は。 青葉の笛と思し召せ。 住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき。 これは須磨の塩木の海人の。 焼きさしと思しめせ海人焼きさしと思しめせ。 ワキ詞「ふしぎやな。 余の草刈達は皆々帰り給ふに。御身一人とゞまり給ふ事。 何の故にて有るやらん。 シテ「何の故とか夕波の。声を力に来りたり。 十念授けおはしませ。 ワキ「やすき事十念をば授け申すべし。それにつけてもおことは誰そ。 シテ「誠は我は敦盛の。ゆかりの者にて候ふなり。 ワキ「ゆかりと聞けばなつかしやと。 掌を合はせて南無阿弥陀仏。 シテワキ二人「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。 地「捨てさせ給ふなよ。

一声だにも足りぬべきに毎日毎夜の御弔。あら有難や我が名をば。 申さずとても明暮に。 向ひて回向し給へる。其名は我と言ひ捨てゝ姿も見えず。 失せにけり姿も見えず失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「これに付けても弔の。/\。 法事をなして夜もすがら。念仏申し敦盛の。 菩提をなほも弔はん/\。 後シテ一声「淡路潟かよふ千鳥の声きけば。 寝覚も須磨の。関守は誰そ。如何に蓮生。 敦盛こそ参りて候へ。 ワキ「不思議やな・鳧鐘{ふしよう}を鳴らし法事をなして。 まどろむ隙もなき所に。敦盛の来り給ふぞや。 さては夢にて有るやらん。 シテ詞「何しに夢にて有るべきぞ。現の因果を晴らさん為に。 これまであらはれ来りたり。 ワキ「うたてやな一念弥陀仏即滅無量の。 罪障を晴らさん称名の。法事を絶えせず弔ふ功力に。 何の因果は荒磯海の。 シテ「深き罪をも訪ひ浮べ。ワキ「身は成仏の得脱の縁。

シテ「これ又他生の功力なれば。ワキ「日頃は敵。 シテ「今は又。ワキ「誠に法の。 シテ「友なりけり。 地「これかや悪人の友を振り捨てて。善人の敵を招げ?とは。 御身の事か有難や。有難し/\。 とても懺悔の物語夜すがらいざや。 申さん夜すがらいざや申さん。 地クリ「夫れ春の花の樹頭に上るは。 上求菩提の機をすゝめ。秋の月の水底に沈むは。 下化衆生の。形を見す。 シテサシ「然るに一門門を並べ。累葉枝を連ねし粧。 地「誠に槿花一日の栄に同じ。善を勧むる教には。 逢ふ事かたき石の火の。 光の間ぞと思はざりし身の習はしこそはかなけれ。 シテ「上に在つては。下を悩まし。 地「富んでは驕を。知らざるなり。クセ「然るに平家。 世を取つて二十余年。誠に一昔の。 過ぐるは夢の中なれや。寿永の秋の葉の。 四方の嵐に誘はれ散々になる一葉の。 舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らず。 籠鳥の雲を恋ひ。帰雁列を乱るなる。 空定なき旅衣。日も重なりて年月の。 立ち帰る春。 の頃此一の谷に籠りてしばしはこゝに須磨の浦。シテ「うしろの山風吹き落ちて。 地「野もさえかへる海ぎはに。 舟のよるとなく昼となき。千鳥の声も我が袖も。 波にしをるゝ磯枕。 海人の苫屋に共寝して須磨人にのみ磯馴松の。 立つるや夕煙柴と云ふもの折り敷きて。 思を須磨の山里の。かゝる処に住居して。 須磨人になりはつる一門の果ぞかなしき。 。 シテ詞「さても二月六日の夜にもなりしかば。親にて候ふ経盛我等を集め。 今様をうたひ舞ひ遊びしに。 ワキ「さては其夜の御遊なりけり。 城の内にさもおもしろき笛の音の。寄手の陣まで聞えしは。 シテ「それこそさしも敦盛が。 最期まで持ちし笛竹の。ワキ「音も一節をうたひ遊ぶ。

シテ「今様朗詠。ワキ「声々に。 地「拍子を揃へ声をあげ。中ノ舞「。 シテ「さる程に。御舟をはじめて。 地「一門皆々船に浮めば。乗りおくれじと。 汀にうちよれば。 御座舟も兵船も遥にのび給ふ。シテ「せんかた波に駒をひかへ。 あきれはてたる有様なり。かゝりける所に。 地「うしろより。熊谷の次郎直実。 のがさじと。追つ懸けたり敦盛も。馬引き返し。

波の打物ぬいて。 二打三打は打つとぞ見えしが馬の上にて引つ組んで。波打際に。 落ち重なつて。終に。 討たれて失せし身の。 因果は廻りあひたり敵はこれぞと討たんとするに。仇をば恩にて。 法師の念仏して弔はるれば。終には共に。 生るべき同じ蓮の蓮生法師。 敵にては無かりけり跡弔ひてたび給へ跡弔ひてたびたへ 敦盛遺子 平敦盛 法然上人の従者

。 ワキ詞「これは黒谷法然上人に仕へ申す者にて候。又これにわたり候ふ人は。 或る時上人賀茂へ御参詣御下向の時。 さがり松の下に二歳ばかりなる男子の美しきを。 。 手箱の蓋に入れ尋常に拵へ捨ておきて候ふを。

上人不便に思しめされ抱かせ御帰候ひて。色々育て給ひ候ふ程に。 はや十歳に御余り候。 父母のなき事を嘆き給ひ候ふ程に。 説法の後此事を御物語り候へば。聴衆の内より若き女性の走り出で。 我が子にて候ふ由仰せ候ふを。 密に御尋ね候へば。

一年一の谷にて討たれ給ひし敦盛の御子にておはしまし候。 此事を聞き給ひて。 夢になりとも父の姿を見せて賜はり候へと。 賀茂の明神へ祈誓有るべき由仰せられ候ひて。一七日詣で給ひ。 今日は早満参にて候ふ程に。 同道申し賀茂の明神へ。参詣申し候。 これは早賀茂の明神にて御座候。よく/\御祈誓候らへ。 子方サシ「ありがたや処からなる御社の。 あけの玉垣神さびて。心も澄める御手洗の。 ふかき恵を頼むなり。 下歌「夢になりともたらちねの其面影を見せ給へ。かくばかり。 祈る心の末遂げば。/\。 恵になどか洩るべきと。誓糺の神ともに。 願ひ適へおはしませ/\。 子方詞「あら不思議や。少し・睡眠{すゐめん}のうちに。 あらたに御霊夢を蒙りて候。 ワキ「あらめでたやな御霊夢のやうを御物語り候へ。 子方「あの御宝殿のうちよりも。 あらたなる御声にて。

汝夢になりとも父を見んと思はゞ。 これより津の国生田の森へ下れと。あらたに霊夢を蒙りて候。 ワキ「是は不思議なる事にて候ふものかな。 黒谷へ御帰あるまでもなく候。 これより生田の森へ御供申し候ふべし。 軈て思しめし立ち候へ。道行「山陰の。 賀茂の宮居を立ちいでて。/\。急ぐ行方は山崎や。 霧立ち渡る水無瀬川。風も身にしむ旅衣。 秋は来にけりきのふだに。 訪はんと思ひし津の国の。生田の森に着きにけり/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 これは早津の国生田の森にて候。森の気色川の流。 都にて。 承り及びたるにもいや勝りて面白き名所にて候。 あれに見えたる野辺は生田の小野にてもや候ふらん。 立ち寄り眺めばやと思ひ候。こゝかしこを眺め候ふ程に。 はや日の暮れて候ふはいかに。 あれに灯。 火の影の見えて候ふは人家にてありげに候。立ち寄り宿を借らばやと思ひ候。

シテサシ「五薀もとよりこれ皆空。 何によつて平生此身を愛せん。 躯を守る幽魂は夜月に飛び。屍を失ふぐ魄は秋風に嘯く。 あら心すごのをりからやな。 。 ワキ「不思議やなこ。 れなる草の庵の内に。 さも花やかなる若武者の。 甲冑。 を帯し見え給ふぞや。 これはいかなる事やらん。 。 シテ「愚の人の心やな。 詞「面々これまで来り給ふも。 わ。 れに対面のためならずや。恥かしながら古の。 敦盛が幽霊来りたり。 子方「なう敦盛とは我が父かと。身にも覚えず走りより。 地「袂にすがりたえこがれ。/\。

なく音に立つる鴬の。逢ふ事の嬉しさも。 憂き身にあまるばかりなり。かくは思へど頼まれぬ。 夢の契を。現に返すよしもがな。 シテサシ「無慙やな忘れ形見の撫子の。 花やかなるべき身なれども。衰へはつる墨染の。 袂を見るこそ哀なれ。 さても御身孝行の心深き故。賀茂の明神に歩を運び。 夢になりとも我が父の。

姿を見せてたび給へと祈誓申す。明神憐みおはしまし。 閻王に仰せつかはさる。閻王仰を承り。 暫の暇を賜はるなり。 親子の契も今を限なるべし。 地「更け行く月の夜もすがら昔をいざや語らん。クセ「然るに平家の。 栄花を極めしその始。 花鳥風月の戯詩歌管絃の様々に。春秋を送り迎へしに。 いかなるをりか来りけん。 木曽のかけはし懸けてだに。思はぬ。敵に落されて。 主上を始め奉り一門の人も悉く。 花の都を立ち出で西海の空に赴きぬ。 習はぬ旅の道すがら。山を越え海を渡り。暫は天ざかる。 鄙の住まひの身なりしに。 又立ち帰る浦波の。須磨の山路や一の谷。 生田の森に着きしかば。こゝは都も程近しと。 一門の人々も喜をなしゝをりふしに。 シテ「範頼義経のその勢。地「雲や霞の如くにて。 。 しばらく戦ふといへども平家は運も槻弓の。弥猛心も弱々と。

皆散々になりはてて。哀も深き生田川の。 身を捨てし物語。語るぞよしなかりける。 シテ「嬉しやな夢の契の仮初ながら。 親子鸚鵡の袖ふれて。 地「名残つきせぬ心かな。中ノ舞「。 シテ詞「あれに見えたるはいかなる者ぞ。 なに閻王よりの御使とや。 片時の暇とありつるに。今までの遅参心得ずと。 閻王怒らせ給ふぞと。 地「言ふかと見れば不思議やな。/\。黒雲俄に立ち来り。 ・猛火{みやうか}を放ち。剣を降して。 其数知らざる修羅の敵。天地を響かし満ち/\たり。 シテ「物物しあけくれに。地「馴れつる修羅の。 敵ぞかしと。太刀真向に。さしかざし。 ここやかしこに走り廻り。 火花を散して戦ひしが。暫くありて黒雲も。 次第に立ち去り修羅の敵も忽ち消え失せて。 月。 澄み渡りて明々たる暁の空とぞなりたりける。シテ「恥かしや子ながらも。

地「かく苦をみる事よ。 急ぎ帰りてなき跡をねんごろに弔ひてたび給へと。泣く/\袂を引き別れ。立ち去る姿はかげろふの。 。 小野の浅茅の露霜と形は消えて失せにけり/\ 旅僧 里の女 六条御息所の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此ほどは都に候ひて。 洛陽の名所旧跡残なく一見仕りて候。 また秋も末になり候へば。嵯峨野の・方{かた}ゆかしく候ふ間。 立ちこえ一見せばやと思ひ候。 これなる森を人に尋ねて候へば。 野の宮の旧跡とかや申し候ふほどに。 逆縁ながら一見せばやと思ひ候。われ此森に来て見れば。 ・黒木{くろぎ}の鳥居小柴垣。昔にかはらぬ有様なり。 こはそも何といひたる事やらん。よし/\かゝる時節に参りあひて。 拝み申すぞありがたき。下歌「伊勢の神垣隔なく。 ・法{のり}の教の道すぐに。 こゝに尋ねて宮所心も澄める。夕かな心も澄める夕かな。

シテ次第「花に馴れ来し野の宮の。/\。 秋。 より後は如何ならん。 サシ「をりしも。 あれ物のさみしき秋暮れて。 なほしをりゆく袖の露。 。 身を砕くなる夕まぐれ。 心の色はおのづから。 ・千草{ちぐさ}の花にうつろひて。 。 衰ふる身のならひかな。 下歌「人こそ知らね今日ごとに昔の跡に立ち帰り。 上歌「野の宮の。森の・木枯{こがらし}秋ふけて。/\。

身にしむ色の消えかへり。 思へば・古{いにしえ}を何と忍ぶの草衣。 来てしもあらぬ仮の世に。行き帰るこそ。 恨なれゆきかへるこそ恨なれ。 ワキ詞「われ此森の陰に居て古を思ひ。 心を澄ますをりふし。 いとなまめける・女性{によしやう}一人忽然と来り給ふは。 いかなる人にてましますぞ。

シテ詞「いかなる者ぞと問はせ給ふ。そなたをこそ問ひ参らすべけれ。 是は古・斎宮{さいぐう}に立たせ給ひし人の。 仮に移ります野の宮なり。 然れども其後は此事絶えぬれども。長月七日の今日は又。 昔を思ふ年々に。人こそ知らね宮所を清め。 御神事をなす所に。 行方も知らぬ御事なるが。来り給ふははゞかりあり。とく/\帰り給へとよ。ワキ詞「いや/\これは苦しからぬ。身の行末も定なき。 世を捨人の数なるべし。さて/\こゝは・旧{ふ}りにし跡を今日毎に。昔を思ひ給ふ。 いはれはいかなる事やらん。 シテ詞「光源氏この処に詣で給ひしは。 長月七日の日けふに当れり。其時いさゝか持ち給ひし榊の枝を。 ・忌垣{いがき}の内にさし置き給へば。 ・御息所{みやすどころ}とりあへず。 神垣はしるしの杉もなきものを。詞「いかにまがへて折れる榊ぞと。 よみ給ひしも今日ぞかし。 ワキ「げに面白き言の葉の。今持ち給ふ榊の枝も。

昔にかはらぬ色よなう。 シテ詞「昔にかはらぬ色ぞとは。榊のみこそ常磐の陰の。 ワキ「森の・下道{したみち}秋暮れて。シテ「・紅葉{もみぢ}かつ散り。 ワキ「・浅茅{あさぢ}が原も。歌地「うらがれの。 草葉に荒るる野の宮の/\。 跡なつかしきこゝにしも。其長月の・七日{なぬか}の日も。 今日にめぐり来にけり。 ものはかなしや小柴垣いとか。 りそめの・御住居{おんすまい}今も・火焼{ひたき}屋のかすかなる。 光は我が・思{おもい}内にある色や外に見えつらん。あらさ・び{ミ}し宮所あらさびし此宮所。 。ワキ「なほ/\御息所のいはれ懇に御物語り候へ。クリ地「そも/\此御息所と申すは。桐壺の帝の・御弟{おんおとゝ}。 ・前坊{ぜんぼう}と申し奉りしが。 時めく花の色香まで妹背の心浅からざりしに。 シテサシ「・会者定離{えしやぢやうり}のならひもとよりも。地「驚くべしや夢の世と。 程なくおくれ給ひけり。 シテ「さてしもあらぬ身の露の。地「光源氏のわりなくも忍び/\に行き通ふ。シテ「心の末の。などやらん。

地「また絶々の中なりしに。 クセ「つらきものには。さすがに思ひ果て給はず。 遥けき野の宮に。分け入り給ふ御心。 いと物あはれなりけりや。 秋の花みな衰へて。虫の声もかれ%\に松吹く風の響までも。 さびしき道すがら秋の哀しみも果なし。かくて君こゝに。詣でさせ給ひつゝ。 情をかけて様々の。言葉の露も。 色々の御心の内ぞあはれなる。 シテ「其後桂の御祓。地「・白木綿{しらゆふ}かけて川波の。 身は浮草のよるべなき心の水に誘はれて。 ゆくへも鈴鹿川・八十瀬{やそせ}の波にぬれ/\ず。 伊勢まで誰か思はんの。 言の葉は添ひゆく事もためしなきものを。親と子の。 多気の都路に赴きし心こそ。恨なりけれ。 ロンギ地「げにやいはれを聞くからに。 唯人ならぬ御気色。其名を名のり給へや。 シテ「名のりても。 かひなき身とてはづかしの。もりてやよそに知られまし。

よ。 しさらば其名もなき身とぞ問はせ給へや。地「なき身と聞けば不思議やな。 さては此世をはかなくも。 シテ「去りて久しき跡の名の。地「御息所は。シテ「我なりと。 地「夕暮の秋の風。森の・木{こ}の間の・夕月夜{ゆうづくよ}。 影かすかなる木の下の。黒木の。 鳥居の。 ・二柱{ふたばしら}に立ちかくれて失せにけり跡たちかくれ失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「かたしくや。森の木蔭の苔衣。 /\。同じ色なる草むしろ。 思を述べて夜もすがら。かの御跡を。 弔ふとかやかの御跡を弔ふとかや。 後シテ一声「野の宮の。秋の千草の。花車。 われも昔に。めぐり来にけり。 ワキ「ふしぎやな月の光も幽かなる。 車の音の近づく方を。見れば・網代{あじろ}の・下{した}すだれ。 思ひかけざる有様なり。いかさま疑ふ所もなく。 御息所にてましますか。 さもあれ如何なる車やらん。

シテ詞「いかなる車と問はせ給へば。思ひ出でたりその昔。 シテカカル「加茂の祭の車・争主{あらそひぬし}は誰とも・白露{しらつゆ}の。 ワキ「所せきまで立てならぶる。シテ「物見車のさま%/\に殊に時めく葵の上の。 ワキ「・御車{おんぐるま}とて人を払ひ。立ちさわぎたる其中に。 シテ「身は。 ・小車{おぐるま}の遣る方もなしと答へて立て置きたる。ワキ「車の前後に。 シテ「ばつと寄りて。 地歌「人々・轅{ながえ}に取り付きつゝ人だまひの奥に。 押しやられて物見車の力もなき身の程ぞ思ひ知られたる。 よしや思へば何事も・報{むくい}の罪によも洩れじ。 身はなほ牛の。小車のめぐり/\来ていつまでぞ妄執を晴し給へや妄執を晴し給へや。 シテ「昔を思ふ。花の袖。地「月にと返す。

気色かな。序ノ舞「。シテ「野の宮の。月も昔や。 思ふらん。 地「影さびしくも森の下露森の下露。シテ「身の置き処も。あはれ昔の。 地「庭のたゝずまひ。 シテ「よそにぞかはる。地「気色も仮なる。シテ「小柴垣。 地「露うちはらひ。訪はれし我も其人も。 唯夢の世とふりゆく跡なるに・誰{たれ}松虫の・音{ね}は。 りん/\として風茫々たる。 野の宮の夜すがら。なつかしや。破ノ舞「。 地「こゝはもとより忝くも。神風や。 伊勢の・内外{うちと}の鳥居に出で入る姿は・生死{しやうぢ}の道を。神は受けずや。 思ふらんと。 また車にうち乗りて火宅の・門{かど}をや。出でぬらん火宅の門 旅僧 里の女 紀有常の女井筒姫

ワキ詞「是は・諸国一見{しょこくいっけん}の僧にて候。 我この程は・南都七堂{なんとしちだう}に参りて候。

又これより初瀬に参らばやと思ひ候。 これなる寺を人に尋ねて候へば。

・在原寺{ありはらでら}とかや申し候ふ程に。立ちより・一見{いっけん}せばやと思ひ候。 さては此・在原寺{ありはらでら}は。 いにしへ・業平{なりひら}・紀{き}の・有常{ありつね}の・息女{そくじょ}。・夫婦{ふうふ}住み給ひし・石上{いそのかみ}なるべし。 。 風ふけば・沖{おき}つ・白浪{しらなみ}たつ・田山{たやま}と・詠{えい}じけんも。・此処{このところ}にての事なるべし。 下歌「昔・語{がたり}の跡とへば。その・業平{なりひら}の友とせし。 ・紀{き}の・有常{ありつね}の常なき世。 ・妹背{いもせ}をかけて・弔{とむ}らはん/\。 シテ次第「・暁{あかつき}ごとの・閼伽{あか}の水。 月もこころ澄ますらん。 サシ「さなきだに物の・淋{さみ}しき秋の夜の。・人目{ひとめ}まる・古寺{ふるてら}の。 ・庭{には}の松風更け過ぎて。 月も・傾{かたむ}く・軒端{のきば}の草。・忘{わす}れて過ぎし・古{いにしへ}を。 忍ぶ・顔{がほ}にていつまでか待つ事なくてながらへん。 げに・何事{なにごと}も。思ひ出の。 人には残る世の中かな。 下歌「唯いつとなく・一筋{ひとすぢ}に頼む・仏{ほとけ}の・御手{みて}の・糸{いと}・導{みちび}きたまへ・法{のり}の声。上歌「・迷{まよひ}をも。 照らさせ給ふ・御誓{おんちかひ}。/\。 げにもと見えて有明の。ゆくへは西の山なれど。

ながめは・四方{よも}の秋の空。 松の声のみ聞ゆれども。・嵐{あらし}はいづくとも。・定{さだめ}なき世の・夢心{ゆめごころ}。 何の音にか・覚{さ}めてまし。/\。 ワキ詞「我この寺に・休{やす}らひ。 心を澄ますをりふし。 いとなまめける・女性{によしやう}。 ・庭{には}の。 ・板井{いたい}をむすび上げ・花水{はなみづ}とし。 これな。 る・塚{つか}に・回向{えかう}の・気色{けしき}見え給ふは。 いか。 なる人にてましますぞ。 シテ詞「是は此。 あたりのに住む者なり。 この寺の・本願{ほんぐわん}・在原{ありはら}の・業平{なりひら}は。 世に名を・留{と}めし人なり。 されば其跡しるしもこれなる・塚{つか}の・陰{かけ}やらん。 ・妾{わらは}も・委{くは}しくは知らず候へども。 ・花水{はなみづ}を・手向{たむ}け・御跡{おんあと}を・弔{とぶら}ひ参らせ候。

ワキ「げに/\・業平{なりひら}の・御事{おんこと}は。世に名を・留{と}めし人なりさりながら。 今は・遥{はるか}に遠き世の。・昔語{むかしがたり}の跡なるを。 しかも・女性{によしやう}の・御身{おんみ}として。 かやうに・弔{とぶら}ひ給ふ事。その・在原{ありはら}の・業平{なりひら}に。 いかさま故ある・御身{おんみ}やらん。 シテ「故ある身かと問はせ給ふ。その・業平{なりひら}はその時だにも。 ・昔男{むかしをとこ}といはれし身の。ましてや今は遠き世に。 故もゆかりもあるべからず。

ワキ「もつとも・仰{おほせ}はさる事なれども。 こゝは昔の・旧跡{きょうせき}にて。シテ「・主{ぬし}こそ遠く・業平{なりひら}の。 ワキ「あとは残りてさすがにいまだ。 シテ「聞えは・朽{く}ちぬ・世語{よがたり}を。ワキ「語れば今も。 シテ「・昔男{むかしをとこ}の。地歌「名ばかりは。・在原寺{ありはらでら}の・跡旧{あとふ}りて。/\。 松も・老{お}いたる・塚{つか}の草。 これこそそれよ・亡{な}き跡の。 ・一村{ひとむら}ずすきの・穂{ほ}に出づるはいつの・名残{なごり}なるらん。・草{くさ}・茫々{ばう/\}として・露{つゆ}・深々{しん/\}と・古塚{ふるつか}の。・真{まこと}なるかな・古{いにしへ}の。 跡なつかしき・景色{けしき}かな/\。ワキ詞「なほ/\・業平{なりひら}の・御事{おんこと}・委{くは}しく・御物語{おんものがた}り候へ。 地クリ「昔・在原{ありはら}の・中将{ちうじやう}。・年経{としへ}てこゝにいその・上{かみ}。 ふりにし・里{さと}も花の春。月の秋とて。住み給ひしに。 シテサシ「其頃は・紀{き}の・有常{ありつね}が・娘{むすめ}と・契{ちぎ}り。 ・妹背{いもせ}の心・浅{あさ}からざりしに。 地「又・河内{かはち}の国・高安{たかやす}の・里{さと}に。知る人ありて・二道{ふたみち}に。 忍びて通ひ給ひしに。シテ「風ふけば・沖{おき}つ・白波{しらなみ}・立田山{たつたやま}。 。 地「・夜半{よは}には君がひとり行くらんとおぼつか波の・夜{よる}の道。

ゆくへを思ふ・心{こころ}・遂{と}げてよその・契り{ちぎり}はかれ%\なり。 シテ「げに・情{なさけ}・知{し}る。うたかたの。 地「あはれを述べしも・理{ことわり}なり。クセ「昔この国に。 住む人の有りけるが。・宿{やど}をならべて・門{かど}の・前{まへ}。 ・井筒{ゐづつ}によりてうなゐ子の。・友達{ともだち}かたらひて。 ・互{たがひ}に・影{かげ}を・水鏡{みずかゞみ}。・面{おもて}ならべ袖を懸け。 心の水も・底{そこ}ひなく。うつる・月日{つきひ}も・重{かさ}なりて。 おとなしく・恥{は}ぢがはしく。 たがひに今はなりにけり。・其後{そののち}かのまめ男。 言葉の露の・玉章{たまづさ}の。心の花も色そひて。シテ「・筒井筒{つゝゐづつ}。 ・井筒{ゐづつ}に・懸{か}けしまろが・丈{たけ}。 地「・生{お}ひしにけらしな。 ・妹{いも}・見{み}ざる間にと・詠{よ}みて・贈{おく}りける程に。 その時・女{をんな}もくらべこし・振分髪{ふりわけがみ}も・肩{かた}・過{す}ぎぬ。君ならずして。 ・誰{たれ}かあぐべきと・互{たがひ}に・詠{よ}みし故なれや。・筒井筒{つゝゐづつ}の女とも。 聞えしは・有常{ありつね}が。娘の・旧{ふる}き名なるべし。 ロンギ地「げにや・旧{ふ}りにし・物語{ものがたり}。 聞けば・妙{たへ}なる有様の。あやしや名のりおはしませ。 シテ「・誠{まこと}は我は・恋衣{こひごろも}。

・紀{き}の・有常{ありつね}が娘とも。 いさ・白波{しらなみ}の・立田山{たつたやま}・夜半{よは}にまぎれて来りたり。地「ふしぎやさては・立田山{たつたやま}。 色にぞ出づるもみぢ・葉{は}の。 シテ「・紀{き}の・有常{ありつね}が娘とも。地「又は・井筒{ゐづつ}の・女{をんな}とも。 シテ「恥かしながら我なりと。 地「いふや・注連縄{しめなは}の・長{なが}き・夜{よ}を。 ・契{ちぎ}りし年は・筒井筒{つゝゐづつ}・井筒{いづつ}の陰に隠れけり・井筒{ゐづつ}の陰にかくれけり。中入間「。 ワキ歌待謡「更けゆくや。・在原寺{ありはらでら}の・夜{よる}の・月{つき}。 /\。昔を返す・衣手{ころもで}に。・夢{ゆめ}待ちそへて・仮枕{かりまくら}。 ・苔{こけ}の・莚{むしろ}に。 ・臥{ふ}しにけり・苔{こけ}のむしろに・臥{ふ}しにけり。 後シテ一声「あだなりと名にこそ立てれ・桜花{さくらばな}。 ・年{とし}に・稀{まれ}なる人も待ちけり。 かやうに・詠{よ}みしも我なれば。 ・人待{ひとま}つ・女{をんな}ともいはれしなり。・我{われ}・筒井筒{つゝゐづつ}の昔より。 ・真弓槻弓{まゆみつきゆみ}・年{とし}を経て。今は亡き世に・業平{なりひら}の。・形見{かたみ}の・直衣{なほし}。 身に・触{ふ}れて。恥かしや。・昔男{むかしをとこ}に・移舞{うつりまひ}。 地「雪をめぐらす。・花{はな}の・袖{そで}。序ノ舞「。 シテワカ[こゝに来て。昔ぞかへす。・在原{ありはら}の。地「・寺井{てらゐ}に・澄{す}める。

月ぞさやけき。月ぞさやけき。 シテ「月やあらぬ。春や昔と・詠{なが}めしも。 いつの頃ぞや。・筒井筒{つゝゐづつ}。地「つゝゐづつ。 ・井筒{ゐづつ}にかけし。シテ「まろがたけ。 地「・生{お}ひしにけらしな。シテ「・老{お}いにけるぞや。 地「さながら・見{み}みえし・昔男{むかしをとこ}の。・冠直衣{かぶりなほし}は。

女とも見えず。男なりけり。・業平{なりひら}の・面影{おもかげ}。 シテ「見ればなつかしや。地「我ながらなつかしや。 ・亡婦魄霊{ばうふはくれい}に・姿{すがた}はしぼめる花の。 色なうて・匂{にほひ}。残りて・在原{ありはら}の寺の鐘もほの%\と。 明くれば・古寺{ふるてら}の松風や・芭蕉葉{ばせうは}の夢も。 破れて覚めにけり夢は破れ・明{あ}けにけり 旅僧 従者 梅の精

ワキ、ワキツレ二人次第「年立ちかへる春なれや。/\花の都に急がん。 ワキ詞「これは東国方より出でたる僧にて候。 我いまだ都を見ず候ふほどに。この春思ひ立ち都に上り候。 道行三人「春立や。霞の関を今朝越えて。/\。 。 果はありけり武蔵野を分け暮らしつゝ跡遠き。山また山の雲を経て。 都の空も近づくや。旅までのどけかるらん/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。

これははや都に着きて候。又これなる梅を見候へば。 今を盛と見えて候。 いかさま名のなき事は候ふまじ。此辺の人に尋ねばやと思ひ候。 狂言シカ%\「。 ワキ詞「扨は此梅は和泉式部と申し候ふぞや。暫く眺めばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 其梅を人に御尋ね候へば。 何と教へ参らせて候ふぞ。ワキ詞「さん候人に尋ねて候へば。 和泉式部とこそ教へ候ひつれ。

シテ「いやさやうには云ふべからず。梅の名は好文木。 又は鶯宿梅などとこそ申すべけれ。 知らぬ人の申せばとて用ひ給ふべからず。 此寺いまだ上東門院の御時。 和泉式部此梅を植ゑおき。軒端の梅と名づけつゝ。 目がれせず眺め給ひしとなり。 かほどに妙なる花の縁に。御経をも読誦し給はゞ。 逆縁の御利益ともなるべきなり。 詞「これ。 こそ和泉式部の植ゑ給ひし軒端の梅にて候へ。 ワキ「さては和泉式部の植ゑ給ひし軒端の梅にて候ひけるぞや。 又あの方丈は。和泉式部の御休所にて候ふか。 シテ「なか/\の事和泉式部の臥処なりしを。 造も替へずそのまゝにて。 今に絶えせぬ眺ぞかし。ワキ「ふしぎやさても古の。 名を残しおく形見とて。 シテ「花も主を慕ふかと。年々色香もいやましに。 ワキ「さもみやびたる御気色。シテ「なほもむかしを。 ワキ「思ふかと。

地歌「年月をふるき軒端の梅の花。古き軒端の梅の花。 主を知れば久方の。天ぎる雪のなべて世に。 聞えたる名残かや。和泉式部の花心。 ロンギ地「げにや古を。 聞くにつけても思出の。 春や昔の春ならぬ我が身ひとりぞ心なき。シテ「ひとりとも。 いさしら雪の古事を。誰に問はまし道芝の。 露の世になけれども。此花に住むものを。 地「そも此花に住むぞとは。とぶさに散るか花鳥の。 シテ「同じ道にと帰るさの。 地「先だつあとか。シテ「花の蔭に。 地「やすらふと見えしまゝに。 我こそ花の主よとゆふぐれなゐの花の蔭に。 木がくれて見えざりき木がくれて見えずなりにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「終夜。軒端の梅の蔭に居て。 /\。花も妙なる法の道。 迷はぬ月の夜と共に。此御経を読誦する/\。 後シテ一声「あらありがたの御経やな。 あらありがたの御経やな。

たゞいま読誦し給ふは譬喩品よなう。 詞「思ひ出でたり閻浮のありさま。此寺いまだ上東門院の御時。 御堂の関白この門前を通り給ひしが。 御車の。 内にて法華経の譬喩品を高らかに読み給ひしを。 式部この門の内にて聞き。 門の外法の車の音きけば。我も火宅を。 出でにけるかなと。 かやうによみし事。 今のをり。 から思ひ出でられて候ふぞや。ワキ詞「げに/\此歌は。和泉式部の詠歌ぞと。 田舎まで聞き及びしなり。 詞「さては詠歌の心の如く。 。 火宅をばはや出で給へりや。シテ詞「なか/\の事火宅は出でぬさりながら。詠みおく歌舞の菩薩と成りて。 ワキ「なほこの寺に澄む月の。 シテ「出づるは火宅。ワキ「今ぞ。シテ「すでに。

地歌「三界無安の内を去りて三つの。 車にのりの道。すはや火宅の門を今ぞ。 和泉式部は成等正覚を得るぞ有難き。 地クリ「それ和歌といつぱ。 法身説法の妙文たり。たま/\後世に知らるゝ者はただ。和歌の友なりと。 貫之もこれを書きたるなり。 シテサシ「かるが故に天地を動かし鬼神を感ぜしむる事業。

地「神明仏陀の冥感に至る。殊に時ある花の都。 雲居の春の空までものどけき心を種として。 天道にかなふ。詠吟たり。クセ「所は九重の。 東北の霊地にて。王城の鬼門を守りつゝ。 悪魔を払ふ雲水の。 水上は山陰の賀茂川やすゑしら河の波風も。 いさぎよき響は常楽の縁をなすとかや。庭には。 池水をたゝへつゝ。 鳥は宿す池中の樹僧は敲く月下の門。出で入る人跡かず/\の。 袖をつらね裳裾を染めて。 色めく有様はげに/\花の都なり。 シテ「見仏聞法のかず/\。地「順逆の縁はいやましに。 日夜。 朝暮に怠らず九夏三伏の夏たけて秋来にけりと驚かす。 澗底の松の風一声の秋を催して。 上求菩提の機を見せ池水に映る月影は。下化衆生の相を得たり。 東北陰陽の時節もげにと知られたり。春の夜の。 序ノ舞「。シテワカ「春の夜の。 闇はあやなし梅の花。地「色こそ見えね。

香やは隠るゝ香やは隠るゝ。/\。シテ「げにや色に染み。 香にめでし昔を。地「よしなや今更に。 思ひ出づれば我ながらなつかしく。 恋しき涙を遠近人に。洩らさんも恥かし。 いとま申さん。シテ「これまでぞ花は根に。 地「今はこれまでぞ花は根に。

鳥は旧巣に帰るぞとて。方丈のともし火を。 火宅とや。なほ人は見ん。 こゝこそ花の台に和泉式部が臥所よとて。 方丈の室に入る。 と見えし夢はさめにけり見し夢はさめて失せにけり 藤原某 従者 梅の精

。 ワキ詞「これは五条わたりに住居する藤原の何某にて候。 さてもわれ未だ難波津を見ず候ふ程に。此度一見せばやと思ひ候。 サシ「津の国の難波の春のゆかしさに。 けふ思ひ立つ旅衣。 三人「日影長閑けき都の空。霞隔たる山崎や。 関戸の宿も名のみにて。戸さゝぬ御代は行きかふ人の。 姿さへげにゆたけしや。 下歌「こゝは何処ぞ旧年の。 木の葉も積る芥川しばしながらの旅心。上歌「芦の若葉のなごはしみ。

芦の若葉のなごはしみ。 風も音せでよる波の。響はさすが聞きて恋ふ。 難波の浦のうららなる。 春の景色を今ぞ見ん春の景色を今ぞ見ん。 ワキ詞「面白や難波の浦の春の景色。里は花咲き匂満ち。 遠の山々うち霞み。青海原は白波の。 八重折る上に蜑小船。行きかふさまは古の。 家持の卿の詠まで思ひ出でられて候。 桜花今盛なり難波の海。 おしてる宮にきこし召すなへ。

詞「今は花いまだ含みて梅の盛にて候。 シテ呼掛「なう/\今の歌をば。 など誠のままに吟じさせ給ひ候はぬぞ。 ワキ「不思議やなかの歌は。万葉集にありつるを。 ただそのまゝに口ずさみしに。 誤ありや覚束な。 シテ「尤も今の草子にはさなんめれど。 この歌は家持の卿いまだ兵部の輔なりし時。公事にてこの国にませし程。 二月の十まり三日詠み給へり。 さて三月の三日に。 ふゝめりし花の始に来しわれや。詞「散りなん後に都へ行かんと。 春の始都を出でて。 今暫しますべきにかくよみ給ひしかば。かの二月の中の三日は。 梅の花こそ盛ならめ。 その上おしてる宮にきこし召すなへとは。 大鷦鷯の天皇の御位に即かせ給ひし事なれば。かた%\いかで桜の歌なるべき。 ワキ「げに理なり古き書には。文字の違のやゝあれば。 よくわきまへて見るべかりけり。

詞「さてさてかくまで分き給ふ。 御身はいかなる人やらん。シテ「いや誰とても理の。 まにまに聞し召さんには。 その人の名は不用ならん。まづ/\さきの御言葉の末に。 花いまだ含みて梅の盛と宣ひき。 梅の盛は花ならずや。 ワキ「まことにこれも誤なり。何の花をもそれのみにては。 花とのみよめど異花と。 ならべていふに桜をのみ。花といふなる古言は。 いかでその跡荒磯海。 シテ「浜の真砂はよみぬとも。歌の言葉の数々は。 ワキ「人の心を種として。詠み出づるなるものからに。 シテ「よも尽きせじなさりながら。 地歌「うらやすの。安き神代の伝とて。 安き神代の伝とて。まうけでよみ出づる歌の道。 直なればこそ鬼神をも。 和しむくなれいかでさる。浮める古歌のあるべき。 ロンギ地「聞けばいよ/\著き。歌の理木綿四手の。 神の示かありがたや。シテ「神かとは。

うたてはかなき天少女。 たゞ夕風に難波江の。あしやよしやもわきまへで。 そよと聞えし恥かしや。 地「今はさのみな包み井の。深き心の底ひなく。 聞かまくほしや。シテ「さもあらば。 地「この木の本に下臥して。 待たせ給はゞ夜もすがら月の影もさし出でて。 朧ながらも慰めんと梅の。 蔭に入ると見えて跡も見えずなりにけり。跡をも見せずなりにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「春の夜の。 月待ちがての枕さへ。月待ちがての枕さへ。 取りあへずまく衣手に。移るその香は隠なき。 闇にもしるき。木蔭かな闇にも。梅の木蔭かな。 後シテ一声「月うつる難波の海の。夜の波。 心もゆたに面白や。 いかに客人この夜らは。空もいとよう晴れわたり。 月の光も昼なして。花の姿もあらはならん。 人にな洩らし給ひそとよ。 ワキ「こはいかにありし女の顔ばせながら。錦の衣玉鬘(縵)。

かかる姿は木の花の。 精とも今はおもほえず。シテ詞「しろし召さねば御理。 固より梅の精なれば。たゞその折に従ひて。 定まる姿もあらぬ上。 舞をかなでて慰めんと。かくは顕れ来りたり。 ワキ「まづまつかしこしさりながら。 かたへに人の影もなし。琴笛鼓は誰やせん。 シテ詞「天にます神のおきての風のまに。 松の小枝は琴を調め。ワキ「汀の芦は。シテ「笛を吹き。 ワキ「岸打つ波は。シテ「覆槽の音。 地「おのづからなるものゝ音は。 神さぶるこの浦の。昔を返す袖ならめ。地クリ「そも/\神代のならはし。草を賎み木を貴む。 その木の中にかばかりの。 形色香の花なければ。梅花をよみして。木の花といへり。 シテサシ「さて梅の名はさる花の。 咲き出るのみかうるはしき。 地「薬の実さへ結びつつ。木の肌妙に木立まで。 異木に勝れくはしければ。シテ「うまてふ言を。

通はせて。地「梅のその名をゆりたるなり。 クセ「その上神事の。 御先に立たす宮人に。とらするも本はこの。 ずはえに限る事なりき。又御仏の御教にも。 行にはかならず梅のずはえをとれよとぞ。天皇の。 大儀の御場にも。主殿の舎人等が。 梅のずはえを捧げつゝ。紫の蓋の。 頭に仕ん奉れるは。御先を払ふよしにして。 やがて神代のつたへなり。シテ「初春の。 七日の豊の明には。地「舞の台の飾らひに。 梅と柳を立てらるゝ。 さて木綿花は古にもてはやせしもこの花を。 とこしへに見まほしく。思ひて作りそめにけん。 又毎年の大嘗に。したがふ小忌の人達も。 昔の髻華の心ばせ。木の花の木を冠の。 巾子に添へ立て久方の。天の日陰のかづら垂。 黒酒白酒の神酒たうべ。 千代万代も限らじと。謡ひ舞ふその袖を。 うつしていざや奏でん。月もおしてる。難波の浦。序ノ舞「。 シテワカ「鴬の。声ものどけき。春かぜに。 地「梅の匂や。 天に満つらん天に満つらん。天に満つらん。シテ「ゆたけしや。 難波のことか大君の。 地「恵に洩れねば草木まで。時をり/\を。違へずして。 花咲き実を結び。シテ「人民もたゞ安らかに。 地「人民もたゞ安らかに。 明くれば暮るゝくるれば明け方の東の山の端。 匂ひそめて。霞ながらに明け行くまにまに。 緑の空に。たなびく白雲は。 天つ少女の天つ猪領巾。撫づとも/\尽きせぬ巌も。 わが君が代のたとしへに足らじな。 たゞ幾久に天地の。たゞ幾久に。 天地の共に栄えまさなん。めでたさよ 旅僧 従僧 里の女 仏御前の霊

ワキワキツレ二人次第「よそは梢の秋深き。/\雪の・白山{しらやま}尋ねん。 ワキ詞「これは・都方{みやこがた}より出でたる僧にて候。 ・我{われ}未だ・白山禅定{しらやまぜんぢやう}せず候ふ程に。此秋思ひ立ち・白山禅定{しらやまぜんぢやう}と志して候。 道行三人「・遥々{はる/\}と。・越{こし}の・白山{しらやま}知らざりし。/\。 ・其方{そなた}の雲も・天照{あまて}らす。 神の・柞{はゝそ}の紅葉ばの。・誓{ちかひ}の色もいや高き・峯々{みね/\}早く・廻{めぐ}り来て。 参詣するぞ有難き参詣するぞありがたき。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早・加賀{かゞ}の・国{くに}の仏の原とやらん申し候。 日の暮れて候ふ程に。これなる・草堂{さうだう}に立ち寄り。 ・一夜{いちや}を明かさばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる・御僧{おんそう}。 何とて其・草堂{さうだう}には・御{おん}泊り候ふぞ。 ワキ「不思議やな道もなく里もなき方より。 ・女性{によしやう}・一人{いちにん}来りつゝ。我に言葉をかけ給ふは。

如何なる人にてましますぞ。 シテ「これは此仏の原に住む女にて候。時もこそあれ今宵しも。 この・草堂{さうだう}に御・泊{とまり}こそ。 有難き機縁にてましませ。今日は思ふ日に当れり。 ・御経{おんきやう}を読み仏事をなしてたび給へ。 さなきだに・五障三従{ごしやうさんじう}の此身なれば。 ・迷{まよひ}の雲も晴れ難き。心の水の。・濁{にごり}を澄まして。 涼しき道に・引導{いんだう}し給へ。 ワキ詞「・御経{おんきやう}を読み仏事をなせと承る。これこそ出家の・望{のぞみ}なれ。 さて/\・弔{とぶら}ひ申すべき。 ・亡者{まうじや}は誰にてましますぞ。 シテ「さらば其名を・顕{あらは}すべし。いにしへ・仏御前{ほとけごぜん}と申しゝ・白拍子{しらびやうし}は。 此国より出でし人なり。 都に上り・舞女{ぶぢよ}のほまれ世に勝れたまひしが。 ・後{のち}には・故郷{こきやう}なればとて此国に帰り。 終りにこゝにて空しくなる。跡のしるしも此・草堂{さうだう}の。

露と消えにし其跡なり。 ワキ「不思議やさては・古{いにしへ}の。其名に聞えし・仏{ほとけ}御前の。 亡き跡までも名を・留{と}めて。 シテ詞「仏の原といふ・名所{などころ}も。昔をとゞむる名残なれば。 ワキ「今・弔{とぶら}ふも・疑{うたがひ}なき。・成仏{じやぶつ}の縁ある其人の。 シテ「名も頼もしや・一仏成道{いちぶつじやうだう}。ワキ「・観見法界{くわんけんほふかい}。 シテ「・草木国土{さうもくこくど}。 。 二人「・悉皆成仏{しつかいじやうぶつ}と聞く時は。地歌「仏の原の・草木{くさき}まで。/\。 皆成仏は疑はず。有難やをりからの。 野もせにすだく。 虫の音までも・声仏事{こゑぶつじ}をやなしぬらん。・山風{やまかぜ}も・夜嵐{よあらし}も。 声澄み渡る此原の草木も心。 あるやらん草木も心あるやらん。 。ワキ詞「なほ/\・仏{ほとけ}御前の・御事{おんこと}・委{くは}しく・御物{おんもの}語り候へ。 クリ地「昔・平相国{へいしやうこく}の御時。 ・妓王妓女{ぎわうぎぢよほ}・仏刀自{とけとじ}とて。 ・温顔{おんがん}・舞曲{ぶきよく}花めきて世上に名を得し・遊女{いうぢよ}有りしに。 シテサシ「はじめは妓王を召し置かれて。 ・遊舞{いうぶ}の寵愛甚しくて。地「・色香{いろか}を飾る・玉衣{たまぎぬ}の。

袖の白露おきふしの。・御簾{ぎよれん}の・中{うち}を立ち去らで。 さながら・宮女{きうぢよ}の如くなりしに。 シテ「思はざるにをりを得て。地「・仏{ほとけ}御前を召されしより。 。 ・御心{おんこゝろ}うつりていつしかに妓王は・出{いだ}され参らせて。シテ「世を秋風の。音・更{ふ}けて。 地「涙の雨も。をやみもせず。 クセ「・実{げ}にや思ふ事。叶わねばこそ浮世なれ。 我は本より・優色{いうしよく}の。花・一時{いつとき}の・盛{さかり}なれば。 散るを・何{なに}と恨みんや。 嵐は吹けども松はもとより常盤なり。いつ歎き。 いつ驚かん浮世ぞと。思へばかゝるをりふしの。 来るこそ・教{をしへ}なれ。しかも・迷{まよひ}を照らすなる。 シテ「・弥陀{みだ}の・御国{みくに}も・其方{そなた}ぞと。 地「・頼{たのみ}をかけて・西山{にしやま}や。 浮世の嵯峨の奥深き草の・庵{いほり}の・隠家{かくれが}の隠れて住むと思ひしに。 ・思{おもひ}の外なる仏御前の。様を変へ来りたり。 。 こはそもさるにてもかく捨つる身となりぬれど。猶も御身の恨めしさの。 ・執心{しふしん}は残るにそもかゝる心持つ人かや。

今こそ誠の。仏にてましませとて。 ・妓王{ぎわう}は・手{て}を合はせ感涙を流すばかりなり。 ロンギ地「・昔語{むかしがたり}はさて置きぬ。 さて今跡を・弔{と}ひ給ふ。御身如何なる人やらん。 シテ「・我{われ}は誰とか・岩代{いはしろ}の。 松の葉結ぶ露の身の。・行方{ゆくへ}を何と問ひ給ふ。 地「行方いづくとしら雪の。跡を見よとは此原の。 シテ「草の庵はこゝなれや。 地「露の身を置く。シテ「・草堂{さうだう}の。 地「・主{あるじ}は・仏{ほとけ}よといひ捨てゝ。立ち去る影は・草衣{くさごろも}。 尾花が袖の露。 分け・草堂{さうだう}の・内{うち}に入りにけり草堂の内に入りにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「松風寒き此原の。/\。 草の。 仮寐のとことはに・御法{みのり}をなして夜もすがら。・彼{か}の・跡{あと}・弔{と}ふぞ有難き/\。 後シテ一声「あら有難の・御経{おんきやう}やな。 ・早{はや}・明方{あけがた}にもなるやらん。遠寺の鐘も・幽{かすか}に響き。 月落ちかゝる山かづらの。 嵐烈しき仮寐の床に。夢ばし覚まし給ふなよ。

ワキ「不思議やな仏の原の草枕に。 遊女の影の見え給ふは。いかさま聞きつる・仏{ほとけ}御前の。 幽霊にぞましますらん。 シテ詞「恥かしながら・古{いにしへ}の。仏といはれし名を・便{たより}にて。 ・輪廻{りんゑ}の姿も歌舞をなす。 ワキ「極楽世界の・御法{みのり}の声。シテ「仏事をなすや。ワキ「此原の。 シテ「仏の舞の。・妙{たへ}なる袖。 地「草木も・靡{なび}く。気色かな。序ノ舞「。 シテワカ「ひとりなほ。仏の・御名{みな}を。 尋ね見ん。地「おの/\帰る。・法{のり}の・場人{にはびと}。 ・法{のり}の・場人{にはびと}の。シテ「・法{のり}の教も。幾程の世ぞや。 地「・前仏{ぜんぶつ}は過ぎぬ。 シテ「・後仏{ごぶつ}はいまだなり。地「夢の・中間{ちうげん}は。シテ「此世の内ぞや。 地「鐘も響き。シテ「鳥も・音{ね}を鳴く。 地「・夜半{よは}の内なる・夢幻{ゆめまぼろし}の。・一睡{いつすゐ}の・内{うち}ぞ。 仏も有るまじ。まして人間も。 シテ「嵐吹く・雲水{くもみづ}の。シテ「嵐吹く・雲水{くもみづ}の。 ・天{てん}に浮べる波の。一滴の露の・始{はじめ}をば。 何とかかへす舞の袖・一歩{いつぽ}。挙げざる先をこそ。

仏の舞と。

はいふべけれとうたひ捨てゝ失せにけりやうたひ捨てゝ失せにけり 旅僧 従僧 里の女 采女の霊

ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。 我此程は都に候ひて。 洛陽の寺社残りなく拝み廻りて候。 又これより南都に参らばやと思ひ候。サシ「頃は弥生の十日余り。 花の都を旅立ちて。まだ夜をこめて東雲の。 道行三人「影ともに。我も都を下り月。/\。 残る朝の朝霞。深草山の末つゞく。 木幡の関を今朝越えて。宇治の中宿井出の里。 過ぐれば。これぞ奈良坂や。 春日の里に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 春日の里に着きて候。心静かに社参申さばやと思ひ候。 。シテ次第「宮路正しき春日の/\寺にもいざや参らん。 サシ「更闌け夜静かにして。四所明神の宝前に。耿々たる灯も。

世を背けたる影かとて。 共に憐む深夜の月。朧々と杉の木の間を洩りくれば。 神の御心にも。如く物なくや思すらん。 下歌「月に散る花の陰行く宮めぐり。 上歌「運ぶ歩の数よりも。/\。 積もる桜の雪の庭。又色添へて紫の。 花を垂れたる藤の門。明くるを春の。 景色かな明くるを春の景色かな。

。 ワキ詞「如何に是なる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「見申せばこれ程茂りたる森林に。 重ねて木を植え給ふ事不審にこそ候へ。 シテさては当社始めてご参詣の人にて御入り候ふか。 ワキ「さん候始めてこの処に参りて候。 当社の謂詳しく御物語り候へ。シテ詞「そも/\当社と申すは。神護景雲二年に。河内の国平岡より。 この春日山本宮の峰に影向ならせ給ふ。 さればこの山。もとは端山の陰浅く。 木陰一つもなかりしを。陰頼まんと藤原や。 氏人よりて植えし木の。もとより恵深き故。 程なくかやうに太山となる。 然れば当社の御誓にも。人の参詣はうれしけれども。 。 木葉の一葉も裳裾に着きてや去りぬべきと。惜しみ給ふも何故ぞ。 人の煩茂き木の。陰深けれと今も皆。 諸願成就を植え置くなり。

されば慈悲万行の日の影は。三笠の山に長閑にて。 五重唯識の月の光は。春日の里に隈もなし。 地歌「陰頼みおはしませ。 唯かりそめに植うるとも。草木国土成仏の。 神木と思し召しあだなにな思ひたまひそ。 上歌「あらかねのその始め。/\。治まる国は久方の。 あめはゝこぎの緑より。花開け香残りて。 仏法流布の種久し。昔は霊鷲山にして。 妙法華経を説き給ふ。 今は衆生を度せんとて大明神と現れこの山に住み給へば。 鷲の高嶺とも。三笠の山を御覧ぜよ。 さて菩提樹の木陰とも。 盛りなる藤咲きて松にも花を春日山。 長閑けき陰は霊山の浄土の春に。劣らめや浄土の春に劣らめや。 シテ詞「如何に申し候。 猿沢の池とて隠れなき名地の候ふを御覧ぜられて候ふか。 。 ワキ詞「承り及びたる名地にて候御教へ候へ。シテ「此方へ御出で候へ。 これこそ猿沢の池にて候へ。又思ふ子細の候へば。

。 この池の辺にて御経を読み仏事をなして賜り候へ。 ワキ「やすき間の事仏事をばなしと申すべし。 さて誰と志して廻向申し候ふべき。 シテ「これは昔采女と申しゝ人。 この池に身を投げ空しくなりしなり。されば天の帝の御歌に。 吾妹子が寝ぐたれ髪の猿沢の。 詞「池の玉藻と見るぞ悲しきと。よめる歌の心をば。 知ろし召され候はずや。ワキ「実に/\此歌は承り及びたるやうに候。委しく御物語り候へ。 シテ語「昔天の帝の御時に。 一人の采女有りしが。采女とは君に仕へし上童なり。 始めは叡慮浅からざりしが。 程なく御心変りしを。及ばず乍ら君を恨み参らせて。 此池に身を投げ空しくなりしなり。 ワキ「実に実に我も聞き及びしは。 帝あはれと思し召し。この猿沢に御幸なつて。 シテ詞「采女が死骸を叡覧あれば。 ワキ「さしもさばかり美しかりし。

シテ「翡翠のかんざし嬋娟の鬢。ワキ「桂の黛。シテ「丹花の唇。 ワキ「柔和の姿引きかへて。 シテワキ二人「池の藻屑に乱れ浮くを。君もあはれと思い召して。 地歌「わぎもこが。 寝ぐたれ髪を猿沢の/\。池の玉藻と。見るぞ悲しきと。 叡慮に懸けし御情。 かたじけなやな下として。君を恨みしはかなさは。 たとへば及びなき水の月取る猿沢の。 生ける身と思すかや我は采女の幽霊とて。 池水に入りにけり池水の。底に入りにけり。中入間「。 ワキ三人歌待謡「池の波。夜の汀に座をなして。 /\。仮に見えつる幻の。 采女の衣の色色に。弔ふ法ぞまことなる/\。 後シテ一声「有難や妙なる法を得るなるも。 心の水と聞くものを。 さわがしくとも教へあらば。浮かぶ心の猿沢の。 池の蓮の台に坐せん。よく/\弔ひ給へとよ。 ワキ「不思議やな池の汀に現れ給ふは。 采女と聞きつる人やらん。

シテ詞「恥かしながら古の。采女が姿を現すなり。 仏果を得しめおはしませ。 ワキ「もとよりも人々同じ仏性なり。なに疑も波の上。 シテ「水の底なる鱗や。ワキ「及至草木国土まで。 シテ「悉皆成仏。ワキ「疑なし。 地「ましてや。人間に於てをや。 竜女が如く我もはや。 変成男子なり采女とな思ひ給ひそ。しかも所は補陀洛の。 南の岸にいたりたり。 これぞ南方無垢世界生れん事も。頼もしや生まれけん事も頼もしや。 。 地クリ「実にや古に奈良の都の代々を経て。 神と君との道すぐに国家を守る誓とかや。シテサシ「しかれば君に仕人。 その品品の多き中に。地「わきて采女の花衣の。 裏紫の心を砕き。君辺に仕へ奉る。 シテ「されば世上にその名を広め。 地「情内にこもり言葉外に顕るゝためし。 世以て類多かりけり。クセ「葛城の王。 勅に従ひ陸奥の。忍ぶもぢずり誰も皆。

こ。 ともおろそかなりとて設けなどしたりけれど。 なほしもなどやらん王の心解けざりしに。 采女なりける女の土器取りし言の葉の露の情に心解け叡感以て甚し。 さらば浅香山。影さへ見ゆる山の井の。 浅くは人を思ふかの。心の花開け。 風もをさまり雲静かに。安全をなすとかや。 シテ「然れば采女の戯の。 地「色音に移る花鳥の。とぶさに及ぶ雲の袖。 影も廻るや杯の。御遊の御酒の折々も。 采女の衣の色添へて。大宮人の小忌衣。 桜をかざす朝より。 今日も呉織声の綾をなす舞歌の曲。拍子を揃へ。袂を翻へして。 遊楽快然たる采女の衣ぞ妙なる。 取り分き忘れめや曲水の宴の有りし時。 御土器度々廻り。有明の月更けて。山時鳥。

誘ひ顔なるに叡慮を受けて遊楽の。 月に鳴け。序の舞「。 シテワカ「月に鳴け。同じ雲井の時鳥。 地「天つ空音の。万代までに。シテ「万代と。 限らじものを。天衣。無づとも尽きぬ。 巌ならなん。松の葉の。地「松の葉の。 散り失せずして。正木のかづら長く伝はり。 鳥の跡絶えず。天地おだやかに。 国土安穏に。四海波。静かなり。 ジテ「猿沢の池の面。地「猿沢の池の面に。 水滔々として波又。悠々たりとかや。 石根に雲起つて雨はそうようを打つなり。 遊楽の夜すがらこれ。采女の、戯と思すなよ。 讃仏乗の。因縁なる物を。 よく弔はせ給へやとて又波に。 入りにけり又波の底に入りにけり 里の女 芭蕉の精

ワキ詞「これは唐土楚国の傍。 小水と申す所に山居する僧にて候。 さても我法華持経の身なれば。 日夜朝暮彼の御経を読み奉り候。殊更今は秋の半。 月の夕すがら怠る事なし。こゝに不思議なる事の候。 この山中に我ならで。 又住む人もなく候に。夜な/\読経の折節。 庵室のあたりに人の音なひ聞え候。 今夜も来りて候はゞ。 如何なる者ぞと名を尋ねばやとおもひ候。サシ「既に夕陽西にうつり。 山峡の陰冷ましくして。鳥の声幽に物凄き。 歌「夕の空もほの%\と。/\。 月になり行く山陰の。寂莫とある柴の戸に。 此御経を。読誦する此御経を読誦する。 シテ次第「芭蕉に落ちて松の声。/\。 あだにや風の破るらん。 サシ「風破窓を射て灯きえ易く。 月疎屋を穿ちて夢なり難き。秋の夜すがら所から。 物すさましき山陰に。住むとも誰か白露の。

ふり行く末ぞ哀なる。 下歌「あはれ馴るゝも山賊の友こそ。岩木なりけれ。上歌「見ぬ色の。 深きや法の花心。/\。 染めずはいかゞ徒に。 其唐衣の。 錦にも衣の珠はよも掛けじ。 草の袂。 も露涙移るも過ぐる年月は。 廻り廻。 れどうたかたの哀。 れ昔の秋もなしあはれ昔の秋もなし。 。 ワキ詞「さても我読誦の声怠らず。 夢。 現とも分からざるに。 女人の月に見え給ふは。 如何なる人にてましますぞ。 シテ「これは此あたりに住む者なるが。 さも逢ひ難き御法を得。花を捧げ礼をなし。

結縁をなすばかりなり。とても姿を見え参らすれば。 何をか今は憚の。言の葉草の庵の内を。 露の間なりと法の為は。 結縁に貸させ給へよと。ワキ詞「実に/\法の結縁は。 誠に妙なる御事なれどもさりながら。 なべてならざる女人の御身に。

いかで御宿を参らすべき。 シテ詞「其御心得はさる事なれども。よそ人ならず我もまた。 住家はこゝぞ小水の。ワキ「同じ流を汲むとだに。 知らぬ他生の縁による。シテ「一樹の陰の。 ワキ「庵の内は。地歌「惜まじな。 月も仮寝の宿。/\。軒も垣ほも古寺の。愁は。 崖寺のふるに破れ。魂は山行の。 深きに痛ましむ月の影も凄ましや。誰かいひし。 蘭省の花の時。錦帳の下とは。 廬山の雨の夜草庵の中ぞ思はるゝ。 ワキ詞「余りに御志深ければ。 御経読誦の程内へ御入り候へ。 シテ「さらば内へ参り候ふべし。 あら有難や此御経を聴聞申せば。我等如きの女人。 非情草木の類までも頼もしうこそ候へ。 ワキ「実によく御聴聞候ふものかな。 たゞ一念随喜の信心なれば。一切の非情草木の類までも。 何の疑の候ふべき。 シテ「さては殊更有難や。さて/\草木成仏の。

謂晴をなほも示し給へ。ワキ「薬草喩品現れて。 草木国土有情非情も。皆これ諸法実相の。 シテ「峰の嵐や。ワキ「谷の水音。 二人「仏事をなすや寺井の底の。心も澄めるをりからに。 地歌「灯を背けて向ふ月の下。/\。 共に憐む深き夜の。心を知るも法の人の。 教のまゝなる心こそ。思の家ながら。 火宅を出づる道なれや。されば柳は緑。 花は紅と知る事も。 唯其まゝの色香の草木も。成仏の国土ぞ成仏の国土なるべし。 ロンギ地「不思議やさても愚なる。 女人と見るにかくばかり。 法の理白糸の解くばかりなる心かな。シテ「なか/\に。 何疑か有明の。末に闇路をはるけずは。 。 今逢ひ難き法を得る身とはいかゞ思はん。地「実に逢ひ難き法に逢ひ。 受け難き身の人界を。 シテ「受くる身ぞとやおほすらん。地「恥かしや帰るさの。 道さやかにも照る月の。

影はさながら庭の面の雪の中の芭蕉の。 いつはれる姿の真を見えば如何ならんと。思へば鐘の声。 諸行無常となりにけり/\。中入間「。 ワキ詞「さては雪の中の芭蕉の。 偽れる姿と聞こえしは。疑もなき芭蕉の女と。 現れけるこそ不思議なれ。 歌待謡「たゞこれ法の奇特ぞと。/\。 思へばいとゞ夜もすがら。月も妙なる法の場。風の芭蕉や。 つたふらん風の芭蕉や伝ふらん。 後シテ一声「あら物すごの庭の面やな。/\。 有難や妙なる法の教には。 逢ふ事まれなる優曇華の。花待ち得たる芭蕉葉の。 御法の雨も豊かなる。露の恵を受くる身の。 人衣の姿。御覧ぜよ。かばかりは。 うつり来ぬれど花もなき。地「芭蕉の露の。 旧りまさる。シテ「庭のもせ山陰のみぞ。 ワキ「寝られねば枕ともなき松が根の。 現れ出づる姿を見れば。 ありつる女人の顔ばせなり。

さもあれ御身はいかなる人ぞ。シテ詞「いや人とは恥かしや。 誠は我は非情の精。芭蕉の女と現れたり。 ワキ「そもや芭蕉の女ぞとは。 何の縁にかかかる女体の。身をば受けさせ給ふらん。 シテ詞「その御不審は御あやまり。 何か定は荒金の。ワキ「土も草木も天より下る。 シテ「雨露の恵を受けながら。 ワキ「我とは知らぬ有情非情も。 シテ「おのづからなる姿となりて。ワキ「さも愚かなる。 シテ「女とて。地歌「さなきだに。 あだなるに芭蕉の。女の衣は薄色の。花染ならぬに袖の。 ほころびも恥かしや。 。 地クリ「それ非情草木といつぱ誠は無相真如の体。一塵法界の心地の上に。 雨露霜雪の形を見ず。 サシシテ「然るに一枝の花を捧げ。地「御法の色をあらはすや。 一花開けて四万の春。 長閑けき空の日影を得て揚梅桃李数々の。シテ「色香に染める。 心まで。地「諸法実相。隔もなし。

クセ「水に近き楼台は。 まづ月を得るなり陽に向へる花木は又。春に逢ふ事易きなる。 其理も様々の。実に目の前に面白やな。 春過ぎ夏たけ秋来る風の音信は。 庭の荻原先そよぎそよかゝる秋と知らすなり。 身は古寺の軒の草。忍とすれど古も。 花は嵐の音にのみ。芭蕉葉の。 もろくも落つる露の身は。置き所なき虫の音の。 蓬がもとの心の。秋とてもなどか変らん。 シテ「よしや思へば定なき。 地「世は芭蕉葉の夢の中に。 牡鹿の鳴く音は聞きながら。驚きあへぬ人心。 思ひいるさの山はあれど。

唯月ひとり伴なひ馴ぬる秋の風の音。起き臥し茂き小笹原。 しのに物思ひ立ち舞ふ袖。暫しいざやかへさん。 シテ「今宵は月も。白妙の。地「氷の衣。 霜の袴。序ノ舞「。シテワカ「霜の経。露の緯こそ。 弱からし。地「草の。袂も。シテ「久方の。 地「久方の。天つ少女の羽衣なれや。 シテ「これも芭蕉の羽袖をかへし。 地「かへす袂も芭蕉の扇の。風茫々と物すごき古寺の。 庭の浅茅生。女郎花刈萓。 面影うつろふ露の間に。山おろし松の風。吹き払ひ/\。 花も千草もちり%\。に。 花も千草もちり%\になれば。 芭蕉は破れて残りけり 峯雄 里の男 花の精

ワキ次第「色香もさぞな深草の/\。 野辺の桜を尋ねん。 ワキ詞「これは旧院に仕へ申しゝ。峯雄がなれる果にて候。

誠や良峯も御別を悲しみ。比叡山に頓世と聞き。 。 一人に限らぬ思の色深草山に分け入りて。古院の常に叡覧ありし <161a>。 花をもせめて眺めばやと思ひ候。 下歌「都出づれば日も既に。竹田の里はこれやらん。 上歌「一夜伏見の夢にだに/\。 思ひ絶えにし別路。 の末こそ知らね深草の花は昔や慕ふらん/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。深草に着きて候。 我この陵に来て見れば。 人跡絶えたる木の下は。なほ深草の花の色。 誰と咎むる気色もなし。詞「何となく思ひ連ねて候。 深草の野辺の桜し心あらば。 この春ばかり墨染に咲け。詞「この歌を短冊に写し。 枝につけて帰らばやと思ひ候。 。シテ詞「なう/\あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。シテ「今の詠歌の有難さに。 これまで現れ参りたり。 ワキ「不思議やな花を眺むる友かと見ればさはなくて。 今の詠歌の有難きとは。 いかなる人にてましますぞ。シテ詞「この花なくはいかにして。

かゝる詠歌のましますべき。 唯今手向の言の葉にも。 深草の野辺の桜し心あらば。此春ばかり墨染に。 地「咲けとは今は恨めしや。/\。浮世の春のあだ桜。 風吹かぬ間もあるべきか。 あぢきなの習やな。我も浮世を捨衣。 君がためなる薫物の。沈香ながら切髪の。 ながらへはてぬ世の中に。 様かへてたび給へ我が様かへてたび給へ。 ワキ詞「さて何故の御発心にて候ふぞ。シテ「これは御詠歌故候ふよ。 ワキ「そも詠歌故とは候。 シテ「唯今の御詠歌に。此春ばかりと遊ばしたる。 此春ばかりを引きのけて。 此春よりはと詠じ給はゞ。なほ行末も久方の。 尽きぬ逢瀬の言葉を添へて。 地「花はこれまで青柳の。暇申してさらばとて。 立つかと見れば薄霞。 木の間の月の影暗く花曇して失せにけり花曇して失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては此花の精現れて。

我に詞をかはしけるぞや。 いざや成道なすべしと。説くや御法の言の葉は。/\。 深草野辺の草衣。 かたしく袖もうば玉の墨の衣の旅寝かな墨の衣の旅寝かな。 後シテ一声「あら有難の御経やな。/\。 クリ「草木国土悉皆成仏。 地「実に頼もしやこの文は。中陰経の妙文。 シテ「尊や我こそ草木国土に色香を見せて花の名の。 地「深草野辺の墨染桜。これ見給へや。御僧よ。 シテサシ「それ桜は諸木にすぐれ。 水を生ずる徳あり。 地「これに依つて火難の恐をなす事なし。されば帝都を花洛と号し。 陽花殿月花門。 左近の桜に至るまで禁中に移し置かれたり。 シテ「主上此木に向はせ給ふ。地「これに依つて玉簾に。 木向といふ紋を。現すなり。 クセ「かほどめでたき花の徳。誰かは仰がざるべき。 中にもこの桜は。旧院の御愛木。 花の新に開けし日は。

初陽潤ふ御顔も歓ばせおはしまし鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる御気色。 無常の嵐吹き来り。花より先に散り給ふ。 心なき草木も。歎の色に出でざらん。 此春ばかり墨染に咲けとの詠は恥かしや。 シテ「皆人は。花の衣になりぬなり。 地「苔の袂やせめてなど。 かわかざらめや雨と降り。 嵐にだにも誘はれて日数をめぐるあだ桜。うき世の春の隠家と。 墨染衣衣更着の。仏の縁を受けつぎて。

草木も成仏の。御法ぞ嬉しかりける。深草の。 舞シテ「深草の野辺の桜し。心あらば。 地「此春より墨染に咲け。/\/\。 シテ「花の袂も風吹かぬほどぞ。地「雨にも誘はれ。 シテ「露にもしをれ。地「契少なき花衣。 墨染桜こずゑに残る霞も雲も明けゆく空に。 。 霞も雲も明けゆく空に松風ばかりや音すらん 女の亡霊 日蓮上人

ワキサシ「凡そ方便現涅槃。 星霜二千二百余廻。後五百歳中いま少し。 広宣流布の時を待ちて。妙法しゆとう繁昌の日。 めでたかるべき。時節かな。 地下歌「寂寞無人声読誦この経典の窓の内。 上歌「一念三千の花薫じ。/\。我爾時為現清浄。 光明身の床の上に。一心三観の月満てり。

衆生の遊楽も今こゝに。身延山の風水も。 読誦の声添へて自然の露地なりけり。 シテ次第「松吹く風も法の声。/\。 聞くやいかにと音すらん。 サシ「面白や四方の梢も秋ふけて。野辺の千草もさま%\に。 錦を彩る白露の。おのが姿をそのまゝに。 もみぢに置けばくれなゐなり。

下歌「われ。 もこの身をこのまゝに成仏の法ぞ頼もしき。上歌「いとけなき身の母にあひ。 母に逢ひ。飢ゑたる者の食を求め。 はだかなる者の衣を得たるごとくなり。 如渡得船の海の面。さゝでそのまゝ至るべき。 さを投ぐる間も急げ人。 御法に後るなよ御法に後れ給ふな。 ワキ詞「われ心観の窓に向ひ。 御経読誦のをりごとに。御身一時も怠る事なし。 実に心ざしの人と見えたり。 そもいづくより来れる人ぞ。 シテ「これはこの山の遥の麓に。草結びする女なるが。 かく上人のこの処に。いたり給ふは上行菩薩の。 御再誕ぞと忝くて。かゝる妙なる御法には。 値ふことかたき女人の身の。 今待ち得たる法の場に。いかでか怠り候ふべき。 ワキ詞「げに/\これは理なり。 されども遥の麓より。時を違へぬ御参詣。 猶しも思へば不審なり。御身はこの世になき人な。

委しく語り給ふべし。 シテ詞「早くも心得給ひたり。これはこの世に亡き者なるが。 さもありがたき上人の。御法に知遇の度。 重なりて。苦患を免かれ今は早。 妙覚無為に至るべき。妙法蓮華経の功徳。 不可思議なるかな妙なるかな。いよ/\仏果を。授け給へ。 地「妙なる御法の花の縁。深きまよひも忽ちに。 変成男子われなりと。正覚の跡を追ひ。 竜女にいかで劣らん。上歌「か程妙なる御事を。 知らで過ぎにしいにしへの。 身を知れば先だたぬ。悔の八千たび悲しきは。 流るゝ喜の汗涙。身の毛もよだちてさてもわれ。 かかる御法に逢ふ事よと。 上人の御前に涕泣するぞ哀なる。 クリ「げにや恩愛愛執の涙は四大海より深し。 聞法随喜の其為には。一滴もおとすことなし。 シテサシ「ありがたや衆罪如霜露恵日の光に。 消えて即身成仏たり。地「かの調達が五逆の因に。

沈みはてにし阿鼻の苦。 終に法義の台に変ず。シテ「況や受持し読誦せんをや。 地「たゞ一時も結縁せば。それこそ即ち。 仏心なれ。クセ「帰命妙法蓮華経。 一部八巻四七品。文々こと%\く神力を示しのべ給ふ。濁乱の衆生なれば。 此経はたもちがたし。暫くもたもつ者は。 我則歓喜して。諸仏もしかなりと一乗の。 妙文なるものを。深着虚妄法。 堅受不可捨ぞ悲しき。シテ「始め華厳の御法より。 地「般若に及ぶ四十余年。 未顕真実の方便成仏のまことあらはれて妙法蓮華経ぞかし。 正直捨方便無上の道にいたるべし。 げにありがたや此経に。値ふ事難き優曇華の。 花待ちえたり嬉しの今の機縁や。 シテ「おもしろや。妙なる法の華の袖。 地「夕日や連れて。めぐるらん。序ノ舞「。 シテ「報謝の舞の袖の上に。 地「紫雲たなびき光さし。千草にすだく虫の音までも。

妙法蓮華の。となへかな。 地上歌「げにありがたき法の道。末暗からぬ燈の。 永き闇路を照らしつゝ。三つの絆もこと%\く。 得脱成仏の御法なり。 げにありがたや頼もしや。シテ「御法の御声も時過ぎて。

地「御法の御声も時過ぎて。すでに此日も入相の。 鐘響き月出でて。げにも妙なる法の場。 身延の山の風の音。 水の御声もおのづから諸法実相と響きつゝ。 草木国土皆成仏の霊地なりけり成仏の霊地なりけり 女(夕顔の精)

。 ワキ詞「これは都紫野雲林院に住居する僧にて候。 さてもわれ一夏の間花を立て候。はや安居も過方になり候へば。 色よき花を集め。 花の供養を執り行はばやと存じ候。敬つて白す立花供養の事。 右非情草木たりといへども。 此花広林に開けたり。豈心なしといはんや。 なかんづく泥を出でし蓮。一乗妙典の題目たり。 この結縁に引かれ。草木国土悉皆成仏道。 シテ「手に取ればたぶさに穢る立てながら。 三世の仏に花奉る。

ワキ詞「不思議やな今までは。草花りよようとして見えつる中に。 。 白き花のおのれ独り笑の眉を開けたるは。いかなる花を立てけるぞ。 シテ「愚の御僧の仰やな。たそがれ時のをりなるに。 などかはそれと御覧ぜざる。 さりながら。 名は人めきて賎しき垣ほにかゝりたれば。知しめさぬば理なり。 これは夕顔の花にて候。ワキ「げに/\さぞと夕顔の。花の主はいかなる人ぞ。 シテ「名のらずと終には知しめさるべし。 われはこの花の蔭より参りたり。

ワキ「さては此世に亡き人の。花の供養に逢はんためか。 それにつけても名のり給へ。 シテ「名はありながら亡き跡に。なりし昔の物語。 ワキ「何某の院にも。シテ「常はさむらふ真には。 地「五条あたりと夕顔の。/\。 空目せしまに夢となり。 面影ばかり亡き跡の立花の蔭に隠れけり/\。中入。 ワキ「ありし教に従つて。 五条あたりに来て見れば。げにも昔の座所。 さながらやどりも夕顔の。瓢箪しば/\空し。 草顔淵が巷に滋し。後シテ一声「藜〓深く鎖せり。 夕陽のざんせい新に窓を穿つて去る。 地「しうたんの泉の声。 シテ「雨原憲が樞を湿す。下歌地「さらでも袖を湿すは。 廬山の雪の曙。窓東に向ふ朗月は。/\。 琴榻にあたり。しう上の秋の山。 物凄の気色や。 ロンギ「げに物凄き風の音。 簀戸の竹垣ありし世の。夢の姿を見せ給へ。

菩提をふかくとむらはん。シテ「山の端の。 心も知らで行く月は。上の空にて絶えし跡の。 又いつか逢ふべき。地「山賎の。 垣は荒るときをり/\は。シテ「哀をかけよ撫子の。 地「花の姿をまみえなば。 シテ「跡訪ふべきか。地「なか/\に。 シテ「さらばと思ひ夕顔の。地「草の半蔀おし上げて。 立ち出づる御姿見るに涙の留まらず。 クセ「其頃源氏の中将と聞えしは。 此夕顔の草枕。たゞ仮臥の夜もすがら。 隣を聞けば三吉野や。御嶽精進の御声にて。 南無当来導師。弥勒仏とぞ称へける。 今。 も尊き御供養に其時の思ひ出でられてそぞろに濡るゝ袂かな。 猶それよりも忘れぬは。源氏この宿を。 見初め給ひし夕つ方。惟光を招きよせ。 あの花折れと宣へば。 白き扇のつまいたうこがしたりしに。此花を折りて参らする。 シテ「源氏つく%\と御覧じて。

地「うち渡す遠方人に問ふとても。それ某花と答へずば。 終に知らでもあるべきに。 逢ひに扇を手に触るゝ。契の程の嬉しさ。 折々尋ねよるならば。定めぬ海士の此宿の。 主を誰と白浪の。よるべの末を頼まんと。 一首を詠じおはします。折りてこそ。 序ノ舞シテワキ二人「折りてこそそれかとも見め。 地「たそがれに。地「ほの%\見えし。

花の夕顔。/\。/\。 シテ「終の宿は知らせ申しつ。地「常にはとむらひ。 シテ「おはしませと。地「木綿付の鳥の音。 シテ「鐘も頻に。地「告げ渡る東雲。 あさまにもなりぬべし。 明けぬ先にと夕顔の宿明けぬ先にと夕顔のやどりの。 また半蔀の内に入りて其まゝ夢とぞ。なりにける 旅僧 従僧 里の女 夕顔の上

。 ワキ次第「これは豊後の国より出でたる僧にて候。 さても松浦箱崎の誓も勝れたるとは申せども。 なほも名高き男山に参らんと思ひ。此程都に上りて候。 今日もまた立ち出で仏閣に参らばやとおもひ候。 サシ「たづね見る都に近き名所は。 まづ名も高く聞えける。雲の林の夕日影。 うつろふ方は秋草の。花紫の野を分けて。

三人歌「賀茂の御社伏し拝み。/\。 糾の森も打ち過ぎて帰る宿は。在原の。 月やあらぬとかこちける。 五条あたりのあばら屋の。主も知らぬ処まで。 尋ね訪ひてぞ暮しける/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早五条あたりにてありげに候。不思議やなあの屋づまより。 女の歌を吟ずる声の聞え候。

暫く相待ち尋ねばやと思ひ候。 シテ、アシラヒ出「山の端の。心も知らで。 行く月は。うはの空にて。影や絶えなん。 巫山の空は忽ちに。陽台のもとに消えやすく。 湘江の雨はしば/\も。 楚畔の竹を染むるとかや。 サシ「こゝは又もとより所も名も得たる古き軒端の忍草。 しのぶかたがた多き宿を。紫式部が筆の跡に。 たゞ何某の院とばかり。 書き置きし世は隔たれど。見しも聞きしも執心の。 色をも香をも捨てざりし。下歌「涙の雨は後の世の。 さはりとなれば今もなほ。 上歌「つれなくも。通ふ心の浮雲を。/\。 払ふ嵐の。 風の間に真如の月も晴れよとぞ空しき空に。仰ぐなる空しき空に仰ぐなる。 。 ワキ詞「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「さてこゝをば何くと申し候ふぞ。

シテ「これこそ何某の院にて候へ。ワキ「不思議やな何某の山何某の寺は。 名の上の唯かりそめの言の葉やらん。 又。 それを其名に定めしやらん承りたくこそ候へ。シテ「さればこそ始より。 むつかしげなる旅人と見えたれ。 紫式部が筆の跡に。唯何某の院とかきて。 其名をさだかにあらはさず。 然れどもこゝは旧りにし融の大臣。住み給ひし所なるを。 其世をへだてゝ光君。また夕顔の露の世に。 上なき思を見給ひし。名も恐ろしき鬼の形。 それもさながら苔むせる。 河原の院と御覧ぜよ。ワキ「うれしやさては昔より。 名におふ処を見る事よ。 詞「我等も豊後の国の者。その玉葛のゆかりとも。 なして今又夕顔の。露きえ給ひし世語を。 かたり給へや御跡を。及びなき身も弔はん。 シテクリ「そも/\ひかる源氏の物語。 言葉幽艶をもとゝして。 理浅きに似たりといへども。

地「心菩提心をすゝめて義殊に深し。誰かは仮にも語りつたへん。 シテサシ「中にも此夕顔の巻は。 殊にすぐれてあはれなる。地「情の道も浅からず。 契り給ひて六条の。御息所に通ひ給ふ。 よすがによりし中宿に。シテ「唯休らひの玉鉾の。 地「便に。立てし御車なり。 クセ「ものゝあやめも見ぬあたりの。 小家がちなる軒のつまに。咲きかゝりたる花の名も。 えならず見えし夕顔の。をり過さじとあだ人の。 心の色は白露の。情おきける言の葉の。 末をあはれと尋ね見し。 閨の扇の色ことにたがひに秋の契とは。なさゞりし東雲の。 道の迷の言の葉も。此世はかくばかり。 はかなかりける・蜉蝣{ひをむし}の。 命懸けたる程もなく。秋の日やすく暮れはてゝ。 宵の間過ぐる故郷の松のひゞきも恐ろしく。 シテ「風にまたゝく灯の。 地「消ゆると思ふ心地して。あたりを見ればうば玉の。 闇の現の人もなく如何にせんとか思川。

うたかた人は息消えて。帰らぬ。 水の泡とのみ。散りはてし夕顔の。 花は再び咲かめやと。夢に来りて申すとて。 有りつる女も掻消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「いざさらば夜もすがら。/\。 月見がてらに明かしつゝ。法華読誦の声たえず。 弔ふ法ぞ誠なる/\。 。 後シテサシ一声「さなきだに女は五障の罪ふかきに。聞くも気疎きものゝけの。 人うしなひし有様を。あらはす今の夢人の。 跡よく弔ひ給へとよ。 ワキ「不思議やさては宵の間の。山の端出でし月影の。 ほの見えそめし夕顔の。末葉の露の消えやすき。 本の雫の世語を。かけて顕し給へるか。 シテ「見たまへこゝもおのづから。 気疎き秋の野らとなりて。 ワキ「池は水草に埋もれて。古りたる松の陰暗く。 シテ「又鳴き。

騒ぐ鳥の枯声身にしみわたるをりからを。ワキ「さも物すごく思ひ給ひし。 シテ「心の水は濁江に。 ひかれてかゝる身となれども。優婆塞が。行ふ道をしるべにて。 地「来ん世も深き。 契絶えすな契絶えすな。序の舞「。 シテ「御僧の今の。弔を受けて。 地「御僧の今の。弔を受けて。かず/\うれしやと。シテ「夕顔のゑみの眉。

地「開くる法華の。シテ「花房も。 地「変成男子の願のままに。解脱の衣の。袖ながら今宵は。 何を包まんと言ふかと思へば。音羽山。 嶺の松風かよひ来て。明けわたる横雲の。 迷もなしや。東雲の道より。 法の出づるぞと。明けぐれ?の空かけて。 雲のまぎれに。失せにけり 旅僧 雪の精。

ワキ次第「末の松山はる%\と。/\。 行方やいづくなるらん。 詞「これは諸国一見の僧にて候。我此ほどは奥州に候ひしが。 。 又思い立ち津の国天王寺へ参らばやと思ひ候。 道行「墨染の衣ほすてふ日も出でて。/\。そなたの雲も天ざかる。 鄙に馴れゆく旅の空。 野に伏し山を分け過ぎて。

これぞ名におふ津の国や野田の渡に着きにけり野田の渡に着きにけり。 地「急ぎ候ふほどに。 これは早野田の里とかや申し候。あら笑止や。 晴れたる空俄に曇り雪ふり。東西を弁へず候。 暫く此処にて雪を晴らさばやと思ひ候。 シテ「あら面白の雪の中やな。/\。 暁梁王の園に入れば。雪群山に満てり。 夜〓公が樓に上れば。月千里に明らかなり。

我も真如の月出でて。 妄執の雪消えなん法の。恵日の光を頼むなり。 ワキ「不思議やなこれなる雪の中よりも。 女性一人現れ給ふは。いかなる人にてましますぞ。 シテ「誰とはいかで白雪の。 唯おのづから現れたり。 ワキ「我とは知らぬ白雪とは。さてはおとこは雪の精か。 シテ詞「いやさればこそ我が姿。 知らぬ迷を晴らし給へ。ワキ「さては不思議や雪の女に。 言葉をかはすも唯これ法の。 功力を疑ひ給はずして。とく/\成道なり給へ。 シテ「あらありがたの御事や。妙なる一乗妙典を。 うたがふ心は荒金の。 地「地に落ち身は消えて。 古事のみを思草仏の縁を結べかし。クセ「我とはいさや白雪の。 積る思はいやましに。有明さむみ夜半の月。 シテ「峯の雪。汀の氷ふみ分けて。地「君にぞ迷ふ。 道は迷はじな津の国の。 野田の川波高瀬漕ぐ袖の柵ひぢまさり。

岩にせかるゝ沖つ船。やる方もなき我が心。 浮べ給へや御僧と。 月にひるがへす花衣実に廻雪の袖ならん。 シテ「朝ほらけ。野田の川霧。 あさぼらけ。序の舞「絶え%\に。

地「あらはれわたる。シテ「姿もさすが白雪の。 地「姿のさすが白雪の。峯の横雲。 シテ「立ちのぼる東雲も。 地「明けなば恥かし暇申して帰る山路の梢にかゝるや雪の花。/\。 又消え。きえとぞなりにける 方士 楊貴妃

ワキ次第「我がまだ知らぬ東雲の。/\。 道を何処と尋ねん。 詞「是は唐土玄宗皇帝に仕へ申す方士にて候。 扨も我が君政正しくまします中に。 色を重んじ艶を専とし給ふにより。 容色無双の美人を得給ふ。 楊家の娘たるに因つて其名を楊貴妃と号す。然れどもさる子細あつて。 馬嵬が原にて失ひ申して候。 余りに帝歎かせ給ひ。 急ぎ魂魄の在所を尋ねて参れとの宣旨に任せ。 上碧落下黄泉まで尋ね申せども。更に魂魄の在所を知らず候。

茲に未だ蓬莱宮に至らず候ふ程に。 此度蓬莱宮にと急ぎ候。道行「尋ね行く。 幻もがなつてにても。/\。魂の在所は其処としも。 波路を分けて行く船の仄に見えし島山の。 草の仮寐の枕ゆふ。 常世の国に着きにけり。/\。詞「急ぎ候ふ程に。  蓬莱宮に着きて候。 この処にて委しく尋ねばやと存じ候。狂言シカ/\「。 ワキ「有りし教に随つて蓬莱宮に来て見れば。 空殿盤々として更に辺際もなく。 荘厳巍々としてさながら七宝をちりばめたり。漢宮万里の粧。

長生驪山のありさまも。 これにはさらになぞらふべからず。あら美しの所やな。 詞「又教の如く宮中を見れば。 太真殿と額の打たれたる宮あり。まづこの所に徘徊し。 事の由をもうかゞはゞやと存じ候。 シテ「昔は驪山の春の園に。 共に眺めし花の色。移れば変る習とて。 今は蓬莱の秋の洞に。独り眺むる月影も。 濡るゝ顔なる袂かな。あら恋しの古やな。 ワキ「唐の天子の勅の使。 方士これまで参りたり。玉妃は内にましますか。 シテ「なに唐帝の使とは。 何しにこゝに来れるぞと。九華の帳を押しのけて。 玉の簾をかかげつゝ。ワキ「立ち出で給ふ御姿。 シテ「雲の鬢づら。ワキ「花の顔ばせ。 寂寞たる御眼のうちに。涙を浮べさせたまへば。 地「梨花一枝。雨を帯びたる粧の。/\。 太液の芙蓉の紅。未央の柳の緑も。 これにはいかで優るべき。

実にや六宮の粉黛の顔色の無きも。 理や顔色のなきも理や。 ワキ詞「如何に申し上げ候。 さても后宮世にまし/\し時だにも。 朝政は怠り給ひぬ。 況んやかくならせ給ひて後。 。 唯ひたすらの御歎に。 今は御命も危。 く見えさせ給ひて候。 然れば宣旨に。 任せ是まで尋ね参り。 御姿を見奉る事。 唯これ君の御。 志浅からざりし故と思へば。 いよいよ御痛はしうこそ候へ。シテ詞「実に/\汝が申す如く。今はかひなき身の露の。 有るにもあらぬ魂のありかを。 これまで尋ね給ふ事。御情には似たれども。

訪ふにつらさのまさり草。 枯々ならば中々の。便の風は恨めしや。 又今更の恋慕の涙。旧里を思ふ魂を消す。 ワキ「さてしも有るべき事ならねば。 急ぎ帰りて奏聞せん。 詞「さりながら御形見の物をたび給へ。 シテ「これこそありし形見よとて。玉の釵とり出でて。 方士に与へ給びければ。

ワキ詞「いやとよこれは世の中に。たぐひ有るべき物なれば。 いかでか信じ給ふべき。御身と君と人知れず。 契り給ひし言の葉あらば。 それをしるしに申すべし。シテ詞「実に/\これも理なり。思ひぞ出づる我も又。 その初秋の七日の夜。二星に誓ひし事の葉にも。 地「天に在らば願はくば。比翼の鳥とならん。 地に在らば願はくは。 連理の枝とならんと誓ひし言を。密に伝へよや。 私語なれども今洩れ初むる涙かな。 地歌「されども世の中の。/\。 流転生死のならひとて。その身は馬嵬に留まり魂は。 仙宮に至りつゝ。 比翼も友を恋ひ独り翅をかたしき。連理の枝朽ちて。 忽ち色を変ずとも。同じ心の行くへならば。 終の逢ふ瀬を頼むぞと語り給へや。 ワキロンギ「さらばといひて出舟の。 伴ひ申し帰るさと。 思はゞ嬉しさのなほ如何ならんその心。シテ「我は又。

なになか/\に三重の帯。廻り逢はんも知らぬ身に。 よしさらば暫し待て。有りし夜遊をなすべし。 地「実にや驪山の宮の内。 月の夜遊の羽衣の曲。 シテ「そのかざしにて舞ひしとて。地「又取りかざし。シテ「さす袖の。 地次第「そよや霓裳羽衣の曲。 そよや霓裳羽衣の曲そゞろに。濡るゝ袂かな。物着「。 シテ「何事も夢幻のたはぶれや。 地「あはれ胡蝶の舞ならん。イロヱ「。 シテクリ「それ過去遠々の昔を思へば。 いつを衆生の始と知らず。地「未来永々の流転。 更に生死の終もなし。 シテサシ「然るに二十五有の内。何れか生者必滅の理に洩れん。 地「先天上の五衰より。 須弥の四州のさま%\に。北州の千年つひに朽ちぬ。 シテ「いはんや老少。不定の境。 地「歎の中の歎とかや。シテ「我もそのかみは。 上界の諸仙たるが。往昔のちなみありて。 仮に人界に生れ来て。楊家の。

深窓に養はれ。いまた知る人なかりしに。 君聞し召されつゝ。急ぎ召しいだし。 后宮に定め置き給ひ。 偕老同穴のかたらひも縁尽きぬれば徒らに。又この島にたゞ一人。 帰り来りて澄む水の。 あはれはかなき身の露の。たまさかに逢ひ見たり。 静かに語れ憂き昔。シテ「さるにても。 思ひ出づれば恨ある。地「その文月の七日の夜。 君とか。 はせし睦言の比翼連理の言の葉も枯々になる私語の。笹の一夜の契だに。 名残は思ふ習なるに。 ましてや年月馴れて程経る世の中に。さらぬ別のなかりせば。 千。 代も人には添ひてましよしそれとても遁れ得ぬ。会者定離ぞと聞く時は。 逢ふこそ別なりけれ。地「羽衣の曲。序ノ舞「。 シテ「羽衣の曲。稀にぞ返す。乙女子が。 地「袖打ち振れる。心しるしや。/\。 シテ「恋しき昔の物語。 地「恋しき昔の物語。尽くさば月日も移り舞の。

しるしの釵又賜はりて。暇申してさらばとて。 勅使は都に帰りければ。シテ「さるにても/\。 。

地「君にはこの世逢ひ見ん事も蓬が島つ鳥。 浮世なれども恋しや昔はかなや別の。常世の台に。 伏し沈みてぞ留まりける 旅僧 従僧 里の女 江口の君 遊女

ワキワキツレ二人次第「月は昔の友ならば。/\。 世の外いづくならまし。 ワキ詞「是は諸国一見の僧にて候。 我いまだ津の国天王寺に参らず候ふ程に。 此度思ひ立ち天王寺に参らばやと思ひ候。道行三人「都をば。 まだ夕深きに旅立ちて。/\。淀の川舟行末は。 鵜殿の芦のほの見えし。松の煙の浪よする。 江口の里に着きにけり/\。狂言シカ%\「。 ワキサシ「さ。 てはこれなるは江口の君の旧跡かや。 痛はしや其身は土中に埋むといへども。名はとゞまりて今までも。 昔語りの旧跡を。今見る事のあはれさよ。 詞「実にや西行法師此処にて。

一夜の宿を借りけるに。主の心なかりしかば。 世の中を厭ふまでこそ難からめ。 詞「仮の宿を惜む君かなと詠じけんも。 此処にての事なるべし。あら痛はしや候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 今の歌をば何と思ひよりて口ずさみ給ひ候ふぞ。 。 ワキ詞「不思議やな人家も見えぬ方よりも。女性一人来たりつゝ。 今の詠歌の口ずさみを。如何にと問はせ給ふ事。 そも何故に尋ね給ふぞ。 シテ「忘れて年を経し物を。又思ひ染む言の葉の。 草の蔭野の露の世を。厭ふまでこそ難からめ。 仮の宿を惜むとの。

其言の葉も恥かしければ。さのみは惜み参らせざりし。 其理をも申さん為に。 これまで現れ出でたるなり。 ワキ詞「心得ず仮の宿を惜む君かなと。西行法師が詠ぜし跡を。 唯何となく弔ふ所に。 さのみは惜まざりにしと。ことわり給ふ御身はさて。 如何なる人にてましますぞ。 シテ詞「いやさればこそ惜まぬよしの御返事を。 申しゝ歌をば何とてか。詠じもせさせ給はざるらん。 ワキ「実に其返歌の言の葉は世を厭ふ。 シテ「人とし聞けば仮の宿に。 詞「心とむなと思ふばかりぞ。心とむなと捨人を。 諌め申せば女の宿に。 とめ参らせぬも理ならずや。 ワキ「実に理なり西行も仮の宿を捨人といひ。 シテ詞「此方も名におふ色好の。家にはさしも埋木の。 人知れぬ事のみ多き宿に。 ワキ「心とむなと詠じ給ふは。シテ「捨人を思ふ心なるを。 ワキ「唯惜むとの。シテ「言の葉は。地上歌「惜むこそ。

惜しまぬ仮の宿なるを。/\。 などや惜むと夕波の。返らぬ古は今とても。 捨人の世語に。心な留め給ひそ。 ロンギ地「実にやうき世の物がたり。 聞けば姿もたそがれに。 かげろふ人は如何ならん。シテ「黄昏に。たゝずむ影はほの%\と。見え隠れなる川隈に。 江口の流の君とや見えんはづかしや。 地「さては疑あら磯の。波と消えにし跡なれや。 シテ「仮に住み来し我が宿の。 地「梅の立枝や見えつらん。ワキ「思の外に。 地「君が来ませるや。一樹の蔭にや宿りけん。 または一河の流の水。汲みても知し召されよや。 江口の君の幽霊ぞと声ばかりして。 失せにけり。声ばかりして失せにけり。中入間「。 。 ワキ詞「さては江口の君の幽霊仮に現れ。我に言葉をかはしけるぞや。 いざ弔ひて浮めんと。 歌三人待謡「言ひもあへねば不思議やな。/\。月澄み渡る河水に。

遊女のうたふ舟遊。 月に見えたる不思議さよ月に見えたる不思議さよ。 地歌一声「川舟を。とめて逢瀬の波枕。/\。 浮世の夢を見習はしの。 驚かぬ身のはかなさよ。 佐用姫が松浦潟。 かたしく。 袖の涙の唐土船の名残なり。 また宇治の橋姫も。 訪は。 んともせぬ人を待つも。 身の上とあはれなり。 よしや吉野の。 よしや吉。 野の花も雪も雲も。 波もあはれ世にあはゞや。 ワキ「ふしぎやな月澄み渡る水の面に。 遊女のあまたうたふ謡。 色めきあへる人影は。そも誰人の舟やらん。

後シテ「何此舟を誰が舟とは。恥かしながら古の。 江口の君の川逍遥の月の夜舟を御覧ぜよ。 ワキ「そもや江口の遊女とは。 それは去りにし古の。シテ詞「いや古とは。 御覧ぜよ月は昔にかはらめや。 ツレ女二人「我等もかやうに見え来るを。いにしへ人とは現なや。 シテ詞「よし/\何とか宣ふとも。 ツレ二人「いはじや聞かじ。シテ「むつかしや。

シテツレ三人「秋の水。みなぎり落ちて。去る舟の。 シテ「月もかげさす。棹の歌。 地「うたへや歌へうたかたの。あはれ昔の恋しさを今も。 遊女の舟遊。世を渡る一節を歌ひて。 いざや遊ばん。 クリ地「夫れ十二因縁の流転は車の場に廻るが如し。 シテ「鳥の林に遊ぶに似たり。地「前生又前生。 シテ「曽て生々の前を知らず。地「来世なほ来世。 更に世々の終をわきまふる事なし。 シテサシ「或は人中天上の善果を受くといへども。 地「顛倒迷妄して未だ解脱の種を植ゑず。 シテ「或は三途八難の悪趣に堕して。 地「患にさへられて既に発心のなかだちを失ふ。 シテ「然。るに我等たま/\受けがたき人身を受けたりといへども。地「罪業深き身と生れ。 殊にためし少なき河竹の流の女となる。 前の世の報まで。 思ひやるこそ悲しけれ。 クセ「紅花の春の朝。

紅錦繍の山粧なすと見えしも。 夕の風に誘はれ紅葉の秋の夕。黄纐纈の林。 色を含むといへども朝の霜にうつろふ。 松風羅月に言葉をかはす賓客も。去つて来る事なし。 翠帳紅閨に。 枕をならべし妹背もいつのまにかは隔つらん。凡そ心なき草木。 情ある人倫いづれ哀を遁るべき。 かくは思ひ知りながら。 シテ「ある時は色に染み貪着の思浅からず。地「又ある時は。 声を聞き愛執の。 心いと深き心に思ひ口に言ふ妄舌の縁となるものを。 実にや皆人は六塵の境に迷ひ六根の罪を作る事も。見る事聞く事に。 迷ふ心なるべし。地「おもしろや。序ノ舞「。 シテワカ「実相無漏の大海に。

五塵六欲の風は。吹かねども。地「随縁真如の波の。 立たぬ日もなし/\。 シテ「波の立居も何故ぞ。仮なる宿に。心とむる故。 地「心とめずはうき世もあらじ。シテ「人をも慕はじ。 地「待つ暮もなく。シテ「別路も嵐吹く。 地「花よ紅葉よ。月雪のふることも。 あらよしなや。シテ「思へば仮の宿。 地「思へば仮の宿に。心とむなと人をだに。 諌めし我なり。これまでなりや帰るとて。 。 すなはち普賢菩薩と現はれ舟は白象となりつゝ。 光とともに白妙の白雲に打ち乗りて西の空に。 行き給ふ有難くぞ覚ゆる有難くこそは覚ゆれ 旅僧 従僧 里の女 式子内親王の霊

。ワキ、ワキツレ二人次第「山より出づる北時雨/\行方や定なかるらん。

ワキ詞「これは北国方より出でたる僧にて候。 我いまだ都を見ず候ふ程に。この度思ひ立ち都に上り候。

道行三人「冬立つや。旅の衣の朝まだき。/\。 雲も行きかふ・遠近{をちこち}の。 山又山を越え過ぎて。・紅葉{もみぢ}に残るながめまで。 花の都に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早都千本のあたりにて有りげに候。 暫く此あたりに休らはゞやと思ひ候。 面白や頃は神無月十日余。木々の梢も冬枯れて。 枝に残の紅葉の色。所々の有様までも。 都の景色は一しほの。眺ことなる夕かな。 あら笑止や。俄に時雨が降り来りて候。 これに由有りげなる・宿{やどり}の候。 立寄り時雨を晴らさばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\御僧。 何しに其宿へは立ち寄らせ給ひ候ふぞ。 。 ワキ詞「唯今の時雨を晴らさんために立ち寄りてこそ候へ。 シテ「それは時雨の・亭{ちん}とてよしある所なり。 其心をも知し召して立ち寄らせ給ふかと。

思へばかやうに申すなり。ワキ「・実{げ}に/\これなる額を見れば。時雨の亭と書かれたり。 折柄面白うこそ候へ。 これは如何なる人の建て置かれたる所にて候ふぞ。 シテ「これは藤原の・定家{さだいへ}の卿の建て置き給へる所なり。 都の内とは申しながら。 心すごく時雨ものあはれなればとて此亭を建て置き。 時雨の頃の年々は。 こゝにて歌をも詠じ給ひしとなり。古跡といひ折柄といひ。 其心をも知し召して。 逆縁の・法{のり}をも説き給ひて。彼御菩堤を御弔ひあれと。 勧め参らせん其ために。これまで現れ来りたり。 。 ワキ詞「さては藤原の定家の卿の建て置き給へる所かや。さて/\時雨をとゞむる宿の。歌はいづれの言の葉やらん。 シテ「いやいづれとも・定{さだめ}なき。 時雨の頃の年々なれば。 分きてそれとは申し難しさりながら。 時雨時を知るといふ心を。・偽{いつわり}のなき世なりけり神無月。

詞「・誰{た}が誠よりしぐれそめけん。 此言がきに私の家にてと書かれたれば。 もし此歌をや申すべき。 ワキ「実にあはれなる言の葉かな。さしも時雨はいつはりの。 なき世に残る跡ながら。 シテ「人はあだなる・古事{ふるごと}を。語れば今も仮の世に。 ワキ「他生の縁は朽ちもせぬ。これぞ一樹の蔭の宿。 シテ「一河の流を汲みてだに。 ワキ「心を知れと。シテ「折りからに。地歌「今降るも。 宿は昔の時雨にて。/\。 心澄みにし其人の。あはれを知るも夢の世の。 実に定なや定家の。軒端の夕時雨。 古きに帰る涙かな。庭も・籬{まがき}もそれとなく。 ・荒{あれ}のみ増さる・叢{くさむら}の。 露の宿も枯々に物すごき夕なりけりもの凄き夕なりけり。 シテ詞「今日は志す日にて候ふ程に。 ・墓所{むしよ}へ参り候ふ御参り候へかし。 ワキ詞「それこそ出家の望にて候へ。 やがて参らうずるにて候。

シテ「なう/\是なる石塔御覧候へ。 ワキ「不思議やなこれなる石塔を見れば。 。 星霜ふりたるに蔦葛はひまとひ形も見えず候。 是は如何なる人のしるしにて候ふぞ。シテ「これは式子内親王の御墓にて候。 又此かづらをば・定家{ていか}葛と申し候。 ワキ「あら面白や定家葛とは。 如何やうなる謂にて候ふぞ御物語り候へ。 シテ「式子内親王始めは賀茂の・斎の院{いつきのみや}に備はり給ひしが。 程なく下り居させ給ひしを。 定家の卿忍び忍びの御契浅らず。 その・後{のち}式子内親王程なく空しくなり給ひしに。 定家の執心葛となつて御墓にはひ纏ひ。 互の苦み離れやらず。共に邪淫の妄執を。 御経を読み弔ひ給はゞ。なほ/\語り参らせ候はん。 地クリ「忘れぬものを古の。 心の奥の・信夫{しのぶ}山。忍びて通ふ道芝の露の。 ・世語{よがたり}よしぞなき。

シテサシ「今は玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば。 地「忍ぶる事の弱るなる。心の秋の・花薄{はなずすき}。 穂に出でそめし契とて又枯々の中となりて。シテ「昔は物を。 思はざりし。地「後の心ぞ。はてしもなき。 クセ「あはれ知れ。 霜より霜に朽ち果てて。世々に奮りにし山藍の。 袖の涙の身の昔。憂き恋せじと御祓せし。 賀茂の斎の院にしも。備はり給ふ身なれども。 神や受けずもなりにけん。 人の契の色に出でけるぞ悲しき。 包むとすれどあだし世の。あだなる中の名は洩れて。 よその聞えは大方の。空恐ろしき日の光。 雲の・通路{かよひぢ}絶え果てゝ。乙女の姿とゞめ得ぬ。 心ぞつらきもろともに。 シテ「実にや嘆くとも。恋ふとも逢はん道やなき。 地「君かづらきの嶺の雲と。詠じけん心まで。 思へばかゝる執心の。定家葛と身はなりて。 此御跡にいつとなく。 離れもやらで蔦紅葉の。色こがれまとはり。

・荊{おどろ}の髪もむすぼほれ。 露霜に消えかへる妄執を助け給へや。 ロンギ地「古りにし事を聞くからに。 今日も程なくくれはとり。 怪しや御身誰やらん。シテ「誰とても。 亡き身の果は・浅茅生{あさぢふ}の。霜に朽ちにし名ばかりは。 残りても猶よしぞなき。地「よしや草葉の忍ぶとも。 色には出でよ其名をも。シテ「今は包まじ。 地「此上は。我こそ式子内親王。 これまで見え来れども。 誠の姿はかげろふの石に残す形だに。 それとも見えず蔦葛苦。 みを助け給へといふかとみ見えて失せにけり。いふかと見えて失せにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「夕も過ぐる月影に。/\。 松風吹きてもの凄き草の蔭なる露の身を。 思ひの玉の数々に。弔ふ縁は有り難や/\。 後シテ「夢かとよ闇の。現の。宇津の山。 月にもたどる。蔦の細道。 昔は・松風蘿月{しようふうらげつ}に詞をかはし。翠帳紅閨に枕をならべ。

地「さま%\なりし情の末。 シテ「花も紅葉もちり%\に。地「・朝{あした}の雲。 シテ「夕の雨と。地「古事も今の身も。夢も現も。幻も。 共に無常の世となりて跡も残らず。 何なか/\の草の蔭。さらば・葎{むぐら}の・宿{やど}ならで。 外はつれなき定家かづら。 これ見給へや御僧。 ワキ「あら痛はしの御有様やなあら痛はしや。仏平等説如一味雨。 随衆生性所受不同。 シテ「御覧ぜよ身は仇波の・起居{たちゐ}だに。 亡き跡までも・苦{くるしみ}の。 定家葛に身を閉ぢられて。かゝる苦隙なき所に。有難や。 唯今読誦し給ふは薬草喩品よなう。 ワキ「中々なれや此妙典に。 洩るゝ草木のあらざれば。執心のかづらをかけ離れて。 仏道ならせ給ふべし。シテ「あら有難や。 シテ詞「実にも/\。これぞ妙なる法の教。 ワキ「・普{あまね}き露の恵を受けて。シテ「二つもなく。 ワキ「三つもなき。

地「一味の御法の雨のしたゞり皆湿ひて。草木国土。 悉皆成仏の機を得ぬれば。定家葛もかゝる涙も。 ほろ/\と解けひろごれば。よろ/\と足弱車の火宅を。出でたる有難さよ。 此報恩にいざさらば。有りし雲居の花の袖。 昔を今に返すなる。其舞姫の・小忌衣{をみごろも}。 シテ「おもなの舞の。地「有様やな。序ノ舞「。 シテワカ「おもなの舞の。有様やな。 地「おもなや面はゆの。有様やな。

シテ「・本{もと}より此身は。地「月の顔ばせも。シテ「曇りがちに。 地「桂の黛も。シテ「落ちぶるゝ涙の。 地「露と消えてもつたなや蔦の葉の。 ・葛城{かづらき}の神姿。恥しやよしなや。夜の契の。 。 夢の・中{うち}にと有りつる所に帰るは葛の葉の。元の如く。はひ・纏{まと}はるゝや定家葛。 はひ纏はるゝや定家葛の。 儚なくも形は・埋{うづも}れて。失せにけり 狩野介宗茂 千手 平重衡

ワキ詞「これは鎌倉どのゝ・御内{みうち}に。 ・狩野介{かのゝすけ}・宗茂{むねもち}にて候。 さても相国の御子・重衡{しげひら}の卿は。 此たび一の谷の・合戦{かせん}に生捕られ給ひ候ふを。・某{それがし}預り申して候。 朝敵の御事とは申しながら。 頼朝いたはしく思し召され。よく痛はり申せとの御事にて。 昨日も・千手{せんじゆ}の前を遣はされて候。

かの千手の前と申すは。・手越{てごし}の・長{ちやう}が娘にて候ふが。 ・優{いう}にやさしく候ふとて。 おん身近く召し使はれ候ふを遣はされ候ふ事。 まことに有難き御志にて御座候。 今日はまた雨中御つれ%\。 酒を勧め申さばやと存じ候。 。

シテ次第「琴の・音{ね}添へて訪るゝ/\これや東屋なるらん。 サシ「それ春の花の樹頭に栄え。秋の月の水底に沈むも。 世のはかなさの有様を。見てもあはれや重衡の。 その古は雲の上。 かけても知らぬ身のゆくへ波に漂ひ舟に浮き。さらばよるべの。 よそならで。有りしにかへる。有様かな。 下歌「都にだにも。 留めぬ御涙なるを痛はしや。上歌「・陸奥{みちのく}の。 しのぶに堪へぬ雨の音。/\。降りすさみたるをりしもは。 。思の露もちり%\に心の花もしを/\と。しをるゝ袖の色までも。 今日のゆふべの。 たぐひかな今日のゆふべのたぐひかな。 シテ詞「いかに案内申し候はん。 ワキ詞「誰にてわたり候ふぞ。 シテ「千手の前が参りたるよし。それ/\御申し候へ。 ワキ「暫く御待ち候へ。 御機嫌を以て申さうずるにて候。 ツレサシ「身はこれ・槿花{きんくわ}一日の栄。

命は・蜉蝣{ふいう}の定なきに似たり。 心は蘇武が胡国に捕はれ。岩窟の内に籠められて。 ・君辺{くんべん}を忘れぬ志。それは・やうり{衛律/揚李}が・謀{はかりこと}にて。 敵を亡ぼし旧里に帰る。 我はいつとなく敵陣に籠められて。・縲絏{るゐせつ}の責を受くる。 知らず今日もや限ならん。 あら定なや・候{ざふろふ}。 ワキ詞「いかに申し上げ候。 千手の御参にて候。 ツレ詞「唯今は何のためにて候ふぞ。よし/\何事にてもあれ。 今日の対面は叶ふまじきと申し候へ。 ワキ詞「畏つて候。いかに申し候。 御参の由申して候へば。何と思し召し候ふやらん。 今日の。 御対面は叶ふまじきよし仰せ出されて候。シテ詞「これも私にあらず。 頼朝よりの御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。 此由かさねて御申し候へ。 ワキ詞「御諚の趣申して候へば。これも私にあらず。 頼朝よりの御諚にて。琵琶琴持たせて参りたり。

よし/\御憚はさる事なれども。 ワキ「たゞこなたへと請ずれば。 シテ「その時千手立ちよりて。 地歌「妻戸をきりゝと押し開く。御簾の追風にほひ来る。花の都人に。 恥かしながら見みえん。 げにや・東{あづま}のはてしまで。人の心の奥深き。 その情こそ都なれ。花の春紅葉の秋。 誰が思出となりぬらん。 ツレ詞「いかに千手の前。 昨日あからさまに申しつる。 出家の御暇の事聞かまほしうこそ候へ。 シテ詞「さん候其由申して候へば。朝敵の御事なるを私として。 出家を許し申さん事。 思ひも寄らずとこそ候ひつれ。わらはも御心のうち。 おしはかり参らせて。いかほど・細々{こま%\}と申して候へども。かひなき出家の・御望{おんのぞみ}。 痛はしうこそ候へ。 ツレ「口惜しや・我{われ}一谷にて如何にもなるべき身の生捕られ。 今は東のはてまでも。かやうに・面{おもて}をさらす事。

・前世{ぜんぜ}の報といひながら。又思はずも父命により。 仏像を亡ぼし人寿を断ちし。 現当の罪の果すこと。 前業よりなほ恥かしうこそ候へ。シテ「げに/\是は・御理{おんことわり}さりながら。かゝる・例{ためし}は・古今{いにしへいま}に。 多き習と聞くものを。独とな嘆き給ひそとよ。 ツレ「げによく慰め給へども。 たぐひはあらじ憂き身の果。シテ「昨日は都の花と栄え。 ツレ「今日は東の春に来て。 ツテ「移り変れる。ツレ「身の程を。地歌「思へたゞ。 世は空蝉の唐衣。/\。 着つゝ馴れにし妻しある。都の雲居を立ち離れ。はる%\来ぬる。旅をしぞ思ふ・衰{おとろへ}の。 憂き身のはてぞ悲しき。水ゆく川の八橋や。 蜘蛛手に物を思へとは。 かけぬ情の中々に馴。 るゝや恨なるらん馴るゝや恨なるならん。 ワキ「今日の雨中の夕の空。御つれ%\を慰めんと。

・樽{そん}を抱きて参りつゝ既に酒宴を始めんとす。 シテ「千手も此よし見るよりも。御酌に立ちて重衡の。 御前にこそ参りけれ。ツレ「今はいつしか憚の。 心ならずに思はずも。手まづ遮る盃の。 心一つに思ふ・思{おもひ}。ワキ「それ/\いかに何にても。御肴にと勧むれば。 シテ「その時千手とりあへず。羅綺の・重衣{ちようい}たる。 情なき事を機婦に妬む。 シテ、ワキ、ツレ三人「只今詠じたまふ朗詠は。忝くも北野の・御作{ごさく}。 此詩を詠ぜば聞く人までも。 守るべしとの御誓なり。 ツレ「さりながら重衡は今生の望なし。 三人「たゞ来世の便こそ聞かまほしけれと宣へば。シテ「わらは仰を承り。 十悪といふとも・引摂{いんぜふ}すと。 地「朗詠してぞ。奏でける。イロヱ「。 シテクリ「さてもかの重衡は。 相国の末の御子とは申せども。 地「・兄弟{けいてい}にも勝れ一門にも越えて。・父母{ぶも}の寵愛。かぎりなし。 シテサシ「されども時うつり。平家の運命こと%\く。

地「月の夜すがら声たてゝ。 鳴くや牡鹿の津の国の。 生田の河に身を捨てゝ防ぎ戦ふと申せども。 シテ「森の下風木の葉の露。地「落されけるこそあはれなれ。 クセ「いまは梓弓。よし力なし重衡も。 引かんとするにいづかたも。 網を置きたる如くにて。遁れかねたる淀鯉の。 生捕られつゝ有りて憂き。 身をうろくづの其ままに。沈みは果てずして。 名をこそ流せ川越の。重房が手に渡り心の・外{ほか}の都入。 シテ「げにや世の中は。 地「定めなきかな神無月。時雨降りおく奈良坂や。 衆徒の手に渡りなば。 とにもかくにも果てはせで。また鎌倉に渡さるゝ。 こゝは何処ぞ八橋の。雲居の都。いつか又。 三河の国や遠江。足柄箱根うち過ぎて。 明けもやすらん星月夜。鎌倉山に入りしかば。 憂き限ぞと思ひしに。 馴るればこゝも・忍音{しのびね}にあはれ昔を・思妻{おもひづま}の。

灯暗うしては・数行{すかう}虞氏が涙の。雨さへしきる夜の空。 シテ「四面に楚歌の声の内。 地「何とか返す舞の袖。 思の色にや出でぬらん涙を添へて廻らすも。雪の・古枝{ふるえ}の枯れてだに花咲く。 千手の袖ならば。重ねていざや返さん。 地「忘れめや。序ノ舞「。 シテワカ「一樹の蔭や。一河の水。地「皆これ他生の縁といふ。 白拍子をぞ謡ひける。 ツレ「その時重衡興に乗じ。地「その時重衡興に乗じ。 琵琶を引きよせ弾じ給へばまた玉琴の。・緒合{をあはせ}に。 シテ「合はせて聞けば。 地「峰の松風通ひ来にけり。琴を枕の短夜のうたゝ寝。 夢も程なく。東雲もほの%\と。 明けわたる空の。シテ「あさまにやなりぬべき。 地「あさまにやなりなんと。 酒宴を止め給ふ御心のうちぞいたはしき。 地「かくて重衡勅により。/\。 また都にとありしかば。 ・武士{ものゝふ}守護し出で給へば。シテ「千手も泣く/\立ち出で。

地「なに中々の憂き契。はやきぬ%\に。 引き離るゝ袖と袖とのつゆ涙。

げに重衡の有様目もあてられぬ。 気色かな目もあてられぬ気色かな 勝手明神の神職 菜摘の女 静か御前の霊

。 ワキ詞「これは三吉野・勝手{かつて}の御前に仕へ申す者にて候。 扨も当社におき・御神事{ごじんじ}さま%\御座候ふ中にも。 正月七日は菜。 摘川より若菜を摘ませ神前に供へ申し候。・今日{こんにち}に相当りて候ふ程に。 女どもに申し付け。菜摘川へ遣はさばやと存じ候。 。とう/\女どもに菜摘川へ出でよしと申し候へ。 ツレ一セイ「見渡せば。松の葉白き吉野山。 幾世つもりし。雪ならん。 サシ「深山には松の雪だに消えなくに。 都は野辺の若菜摘む。頃にも今や。なりぬらん。 思ひやるこそゆかしけれ。

上歌「・木{こ}の芽はる・雨{さめ}降るとても。/\。なほ消え難きこの野辺の。 。 雪の下なる若葉をば今・幾日{いくか}有りて摘まゝし。春立つと。 云ふばかりにや三吉野の山の霞みて・白雪{しらゆき}の消えし跡こそ。 道となれ消えし跡こそ道となれ。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる人に申すべき事の候。ツレ詞「如何なる人にて候ふぞ。 。 シテ「三吉野へ御帰り候はゞ・言伝{ことづて}申し候はん。ツレ「何事にて候ふぞ。 シテ「三吉野にては社家の人。 其外の人々にも言伝申し候。 あまりに・妾{わらは}が罪業の程悲しく候へば。 一日・経{きゃう}かいて我が跡・弔{と}ひてたび給へと。よく/\仰せ候へ。

ツレ「あら恐ろしの事を仰せ候ふや。事伝をば申すべし。 さりながら御名をば誰と申すべきぞ。 シテ「まづ/\此由仰せ候ひて。 もしも疑ふ人あらば。其時妾おことにつきて。 委しく名をば名乗るべし。 かまへてよくよく届け給へと。 地下歌「ゆふ風迷ふあだ雲の。 憂き水茎の跡かき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ツレ詞「かゝる恐ろしき事こそ候はね。 急ぎ帰り此由を申さばやと思い候。 いかに申し候。唯今帰りて候。 ワキ詞「何とて遅く帰りたるぞ。 ツレ「不思議なる事の候ひて遅く帰りて候。 ワキ「さていかやうなる事ぞ。ツレ「菜摘川の・辺{ほとり}にて。 ・何処{いづく}ともなく女の来り候ひて。 あまりに罪業の程悲しく候へば。 一日経書いて跡・弔{とぶら}ひて賜はれと。三吉野の人。 取り分け社家の人々に申せとは候ひつれども。

誠しからず候ふ程に。申さじとは思へども。 なに誠しからずとや。 うたてやなさしも頼みしかひもなく誠しからずとや。 唯よそにてこそ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。 近。 く来ぬれば雲と見し。 桜は花に現はるゝものを。 あ。 ら恨めしの疑やな。 ワキ「言語道断。 。 不思議なる事の候ふものかな。 狂気。 して候ふは如何に。 さて如何やう。 なる人の・憑{つ}き添ひたるぞ名を名乗り給へ。 跡をば懇に弔ひて参らせ候ふべし。 ツレ「何をか包み参らせ候ふべき。 ・判官殿{ほうぐわんどの}に仕え申せし者なり。ワキ「判官殿の・御内{みうち}の人は多き中にも。

。 殊に衣川の・御{お}最期まで・御{おん}供申したりし十郎権頭。ツレ「兼房は判官殿の御死骸。 心静かに取りをさめ。 腹切り焔に飛んで入り。殊にあはれなりし忠の者。 されどもそれには。なきものを。 誠は我は女なりしが。此山までは御供申し。 こゝにて捨てられ参らせて。絶えぬ思の涙の袖。 地「つゝましながら我名をば。

しづかに申さん恥かしや。 ワキ詞「さては静御前にてましますかや。 静にて渡り候はゞ。 かくれなき舞の上手にて有りしかば。舞をまうて御見せ候へ。 跡をば懇に弔ひ申し候ふべし。 ツレ「我が着し舞の装束をば。 勝手の御前に納めしなり。ワキ「さて舞の衣裳は何色ぞ。 ツレ「袴は・精好{せいがう}。ワキ「水干は。 ツレ「世を秋の野の花づくし。 ワキ詞「これは不思議の事なりとて。宝蔵を開き見れば。実に/\疑ふ所もなく舞の衣装の候。 これを召されてとく/\御舞ひ候へ。 物着「静御前の舞を御舞ひ有るぞ。皆々寄りて御覧候へ。 ツレ「実に恥かしや我ながら。 昔忘れぬ心とて。ワキ「さもなつかしく思出の。 ツレ「時も来にけり。ワキ「静の舞。 ツレ「今三吉野の川の名の。後シテ「菜摘の女と。思ふなよ。 地「川淀近き山陰の。香もなつかしき。 袂かな。

シテツレ二人「さても義経兇徒に準ぜられ。既に討手向ふと聞えしかば。 小船に取り乗り。 渡辺神崎より押し渡らんとせしに。海路心に任せず難風吹いて。 もとの地に着きし事。天命かと思えば。 科なかりしも。 地「科有りけるかと身を恨むるばかりなり。 クセ「さる程に。次第々々に道せばき。 御身となりて此山に。分け入り給ふ頃は春。 所は三吉野の。花に宿かる・下臥{したぶし}も。 長閑ならざる夜嵐に。寝もせぬ夢と花も散り。 。 まことに一栄一落まのあたりなる浮世とて又此山を落ちて行く。 シテツレ二人「昔清見原の天皇。地「大友の皇子に襲はれて。 彼の山に踏み迷い。雪の木陰を。 頼み給ひける桜木の宮。神の宮滝。・西河{にしかう}の滝。 我こそ落ち行け落ちても波はかえるなり。 さるにても三吉野の。頼む木陰の花の雪。 雨もたまらぬ奥山の音さわがしき春の夜の。 月は朧にて。なほ足引の。

山深み分け迷ひ行く有様は。 シテツレ二人「唐土の・祚国{さこく}は花に身を捨てゝ。 地「・遊子残月{いうしざんげつ}に行きしも今身の上にしら雲の。 花を摘んでは同じく惜む少年の。春も夜も。静かならで。 さわがしき三吉野の。山風に散る花までも。 追手の声やらんと。 跡をのみよし野の奥深く。急ぐ山路かな。 地「それのみならず憂かりしは。 頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。 とくとくと有りしかば。心も解けぬ舞の袖。 返す%\も恨めしく。昔恋しき時の和歌。 シテツレ二人「賎やしづ。序ノ舞「賎やしづ。 賎の苧環。繰り返し。地「昔を今に。 なすよしもがな。シテツレ二人「思いかへせば古も。 地「思いかえせば古も。 恋しくもなし憂き事の。今も恨の衣川。身こそは沈め。 名をばしづめぬ。シテツレ二人「武士の。 地「物毎。 に浮世のならひなればと思ふばかりぞ山桜。雪に吹きなす。花の松風静が跡を。

弔ひ給へ静が跡を・弔{と}ひ給へ 風の精(前ハ里女) 旅僧

ワキ三人次第「思ひやるさへ遥かなる。/\。 東の旅に出でうよ。 ワキ詞「これは洛陽の辺より出でたる僧にて候。 われいまだ東国を見ず候ふ程に。 此秋思ひ立ち陸奥の果までも修行せばやと思ひ候。道行三人「逢坂の。 関の杉むら過ぎがてに。/\。 行くへも遠き湖の。舟路を渡り山を越え。 幾夜な幾夜なの草枕。 明け行く空も星月夜鎌倉山を越え過ぎて。 六浦の里に着きにけり/\。 ワキ詞「千里の行も一歩より起るとかや。 遥々と思ひ候へども。 日を重ねて急ぎ候ふ程に。 これははや相模の国六浦の里に着きて候。

此渡をして安房の清澄へ参らうずるにて候。 又あれによしありげなる寺の候ふを人に問へば。 六浦の称名寺とかや申し候ふ程に。 立ちより一見せばやと思ひ候。なう/\御覧候へ。 山々の紅葉今を盛と見えて。 さながら錦を晒せる如くにて候。 都にも斯様の紅葉の候ふべきか。 又これなる本堂の庭に楓の候ふが。木立余の木に勝れ。 唯夏木立の如くにて一葉も紅葉せず候。 いかさまいはれのなき事は候ふまじ。 人来りて候はゞ尋ねばやと思ひ候。 シテ呼掛「なう/\御僧は何事を仰せ候ふぞ。 。 ワキ「さん候これは都より始めて此処一見の者にて候ふが。

山々の紅葉今を盛と見えて候ふに。 これなる楓の一葉も紅葉せず候ふ程に。不審をなし候。 シテ「げによく御覧じとがめて候。 いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申しゝ人。 紅葉を見んとて此処に来り給ひし時。 山々の紅葉いまだなりしに。 この木一本に限り紅葉色深くたぐひなかりしかば。 為相の卿とりあへず。いかにして此一本にしぐれけん。 。 詞「山にさきたつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉を停めて候。 ワキ「面白の御詠歌やな。 われ数ならぬ身なれども。手向のためにかくばかり。 古りはつる此一本の跡を見て。 袖の時雨ぞ山にさきだつ。 シテ詞「あらありがたの御手向やな。 いよいよ此木の面目にてこそ候へ。 ワキ「さてさてさきに為相の卿の御詠歌より。 今に紅葉を停めたる。 いはれはいかなる事やらん。シテ「げに御不審は御理。

さきの詠歌に預かりし時。此木心に思ふやう。 かゝる東の山里の。 人も通はぬ古寺の庭に。われ先だちて紅葉せずは。 いかで妙なる御詠歌にも預かるべき。 功成り名遂げて身退くは。 詞「これ天の道なりといふ古き言葉を深く信じ。 今に紅葉を停めつつ。唯常磐木の如くなり。 ワキ「これは不思議の御事かな。此木の心をかほどまで。 しろしめしたる御身はさて。 いかなる人にてましますぞ。 シテ「今は何をか包むべき。われは此木の精なるが。 御僧たつとくまします故に。唯今現れ来りたり。 今宵はこゝに旅居して。 夜もすがら御法を説き給はゞ。重ねて姿を見え申さんと。 地「夕の空も冷ましく。この古寺の庭の面。 霧の籬の露深き。千ぐさの花をかき分けて。 行くへも知らずなりにけり/\。 ワキ三人上歌待謡「処から心に適ふ称名の。/\。 。

御法の声も松風もはや更け過ぐる秋の夜の。 月澄み渡る庭のおも寝られんものか面白や。/\。 後シテサシ一声「あらありがたの御弔やな。 妙なる値遇の縁に引かれて。 二度こゝに来りたり。夢ばしさまし給ふなよ。 ワキ「不思議やな月澄み渡る庭の面に。 ありつる女人とおぼしくて。 影の如くに見え給ふぞや。草木国土悉皆成仏の。 この妙文を疑ひ給はで。猶々昔を語り給へ。 シテクリ「それ四季をり/\の草木。 己々の時を得て。地「花葉さま%\のその姿を。 心なしとは誰かいふ。 シテ「それ青陽の春の初。地「色香妙なる梅が枝の。 かつ咲きそめて諸人の心や春になりぬらん。 シテ「又は桜の花盛。 地「唯雲とのみ三吉野の。千本の花に如くはなし。 クセ「月日経て。移ればかはる眺かな。 桜は散りし庭の面に。咲きつゞく卯の花の。 垣根や雪にまがふらん。

時移り夏暮れ秋も半になりぬれば。空定なきむら時雨。 昨日は薄きもみぢ葉も。露時雨もる山は。 下葉残らぬ色とかや。シテ「さるにても。 東の奥の山里に。 地「あからさまなる都人の。 哀も深き言の葉の露の情に引かれつつ。姿をまみえ数々に。 言葉をかはす値遇の縁。深き御法を授けつゝ。 仏果を得しめ給へや。 シテ「更け行く月の、夜遊をなし。 地「色なき袖をや。返さまし。序ノ舞「。シテワカ「秋の夜の。 千夜を一夜に。重ねても。地「詞残りて。 鳥や鳴かまし。 シテ「八声の鳥も。かず/\に。 地「八声の鳥も。かず/\に。鐘も聞ゆる。 シテ「明方の空の。地「処は六浦の浦風山風。 吹きしをり吹きしをり散るもみぢ葉の。 月に照り添ひてからくれなゐの庭の面。 明けなば恥かし。暇申して。 帰る山路に行くかと思へば木の間の月の。/\。

かげろふ姿と。なりにけり 里の女 藤の精 旅僧

ワキ次第「山又山を遥々と。/\。 越路の旅に出でうよ。 詞「これは都方より出でたる僧にて候。われ此程は加賀の国に候ひて。 こゝかしこの名所を一見仕りて候。 又これより善光寺へ参らばやと思ひ候。 道行「雪消ゆる。白山風も長閑にて。/\。 日影長江の里も過ぎ。 さゝぬ刀奈美の関越えて。青葉に見ゆる紅葉川。 そなたとばかり白雲の。 氷見の江行けば名に聞きし。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦にも着きにけり。 。 ワキ詞「これははや越中の国多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦とかやに着きて候。 此所は藤の名所と承り及びたるに。 真にあれなる藤の今を盛と見えて候。立寄り見候ふべし。

げに面白く咲きて候。 おのが波に同じ末葉のしをれけり。藤咲く多〓{ゴ 大漢和 24671}のうらめしの身ぞ。 詞「古事の思ひ出でられて候。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる旅人に申すべき事の候。 ワキ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「これは多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦とて藤の名所なり古き歌に。 たごの浦や汀の藤の咲きしより。波の花さへ色に出でつゝ。 詞「かやうの歌をも詠じ給はで。 おのが。 浪に同じ末葉のしをれけりなど口ずさび給ふは。あら心なの旅人やな。 ワキ「思ひよらずや人ありとも。 知らで吟ぜし古歌ながら。シテ「花のためにはいかならん。 ワキ「同じ末葉のしをれぬる。

シテ「怨みならずや怨めしや。かの縄麻呂の歌に。 地上歌「多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦。底さへ匂ふ藤波を。 藤波を。かざして行かん。 見ぬ人のためと詠みたりし。此花を心なく。 詠じ給ふはうらめしや。げにや思へば咲く花の。 色。 をも香をも知る人ぞ知ると詠みしもことわりや知ると詠みしもことわりや。 ロンギ地「不思議やさてもかくばかり。 其白露のふる事を語り給ふは誰やらん。 シテ「われを誰とか夕日影。紫匂ふ花鬘。 心にかけてたび給へ。 地「心に懸けて思へとは。梢にかゝる藤波の。 シテ「多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回に。地「名にしおふ花の精なりと。 夕雲の足早み。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦風うち靡き。 花の波。 立つもとに寄るかと見せて失せにけり寄るかと見えて失せにけり。中入「。 ワキ上歌待謡「霞む夜の。 月は出でてもうば玉の。/\。よるべ定めぬ浮れ鳥。 鳴く音も法の声添へて。花の跡訪ふ春の風。

声物凄き波枕。仮寝の夢や覚すらん/\。 後シテ一声「いかなれば虚しき。空に。 散る花の。あだなる色に。迷ひそめけん。 ワキ「不思議やな夜も更け過ぐる月影に。 あらはれ出づる姿を見れば。 ありつる女人の顔ばせなり。いかさま疑ふ所もなく。 花の精にてましますか。 シテ「恥かしながら花の精。妙なる御法の一味の雨に。 開くる花の笑みの眉。 これまで現れ出でたるなり。ワキ「あらありがたやさりながら。 かくしも詞をかはす事。 何の故にてあるやらん。シテ「意性化身自在不滅の。 縁に引かれて夜もすがら。 歌舞をなさんと参りたり。ワキ「げにやもとより狂言綺語も。 シテ「讃仏乗の因縁。わき「隔はあらじ。 シテ「紫も。地「ゆかりの色も縁ならめ。 ゆかりの色も縁ならめと。 教の外なる法までも。今こそ悟の開くる。 心の花なれや。されば非情の草も木も。

成仏こゝに荒礒海深きは法の道ぞかし/\。 クリ「げにや春を送るに。 舟車を動かす事を用ひず。たゞ残鴬と落花とに。別る。 シテサシ「紫藤の露のもとに残る花の色。 。 地「げに面白や水の面に。 月の霞める春もはや。 紫。 匂ふ花葛かゝる致景は又世にも。 。 シテ「奈〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回も。程近く。 地「眺につゞく。 景色かな。 クセ「なつかしき。 色のゆかりと思ふにも。 心にかゝる藤波の。夜昼わかで徒らに。 送り迎ふる年月の。春の花散りて青葉に。 夏たちばなの匂ふにぞ。 見ぬ世の人もしのばるれ。桐の葉落ちて秋来ぬと。

しるくも月の影澄むや。浦吹く風に小夜更けて。 暁と白浪。立ち騒ぐ群千鳥。 友よぶ声や霜雪に。冬の気色の知らるらん。 シテ「かやうに移ろふ四つの時。 ことわりなれや夏かけて。盛久しき藤波の。 花に立ち添ふ朝霞。 暮れゆく春のかたみぞと。惜む心も紫の。深く頼を松が枝に。 かゝる契りぞたのもしき。

シテ「面白や。序ノ舞「。ワキ「面白や。 ゆたに吹くなる。春かぜに。 地「誘はれつゝも。千代を唱ふる千代を唱ふる。/\。 シテ「松に懸りて咲く藤の。 地「薄紫の雲の羽袖を返す舞姫。 シテ「歌へや歌へ折る柳落つる梅。地「あるひは花の。

シテ「藤生野も。 地「隔てぬ色も匂も深海松の。英遠の浜風。多〓{ゴ 大漢和 24671}の浦回に吹き。 寄すも音さゆる。波も文どる舞の袂。 月に翻す。影も映るや紫の。/\。 曙に薫りて。たなびく霞に。入りにけり 旅僧 杜若の精

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此間は都に候ひて。 洛陽の名所旧跡のこりなく一見仕りて候。 又これより東国行脚と心ざし候。道行「夕々の仮枕。/\。 宿はあまたにかはれども。 同じ憂き寝の美濃尾張。三河の国に着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ間。 程なう三河の国に着きて候。 又これなる沢辺に杜若の今を盛と見えて候。立ちより眺めばやと思ひ候。

げにや光陰とゞまらず春過ぎ夏も来て。 草木心なしとは申せども。 時を忘れぬ花の色。かほよ花とも申すやらん。 あら美しの杜若やな。 シテ詞呼掛「なう/\御僧。 何しにその沢には休らひ給ひ候ふぞ。 ワキ詞「これは諸国一見の者にて候ふが。 杜若のおもしろさに眺め居て候。 さてこゝをばいづくと申し候ふぞ。シテ「これこそ三河の国八橋とて。

杜若の名所にて候へ。 さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。 色も一しほ濃紫のなべての花のゆかりとも。 思ひなぞらへ給はずして。 取りわき眺め給へかし。あら心なの旅人やな。 ワキ詞「げにげに三河の国八橋の杜若は。 古歌にもよまれけるとなり。 いづれの歌人の言の葉やらん承りたくこそ候へ。 シテ「伊勢物語にいはく。こゝを八橋といひけるは。 水行く川の蜘蛛手なれば。 橋を八つ渡せるなり。 其沢に杜若のいと面白く咲き乱れたるを。 ある人かきつばたといふ五文字を句の上に置きて。 旅の心をよめと言ひければ。唐衣着つゝなれにし妻しあれば。 はる%\来ぬる旅をしぞ思ふ。 これ在原の業平の。此杜若をよみし歌なり。 ワキ「あら面白やさてはこの。 東のはての国々までも。業平は下り給ひけるか。 シテ詞「こと新しき問事かな。此八橋のこゝのみか。

猶しも。心の奥ふかき名所々々の道すがら。 ワキ「国々ところは多けれども。 とりわき心の末かけて。シテ「思ひわたりし八橋の。 ワキ「三河の沢の杜若。シテ「はる%\きぬる旅をしぞ。 ワキ「思の色を世に残して。シテ「主は昔になり平なれども。 ワキ「かたみの花は。シテ「今こゝに。 地歌「在原の。跡な隔てそ杜若。/\。 沢辺の水の浅からず。 契りし人も八橋の蜘蛛手に物ぞ思はるゝ。今とても旅人に。 昔を語る今日の暮やがて馴れぬる。 心かなやがて馴れぬる心かな。 シテ詞「いかに申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。シテ「見ぐるしく候へども。 わらはが庵にて一夜を御明し候へ。 ワキ「あらうれしややがて参り候ふべし。物着「。 シテ「なう/\此冠唐衣御覧候へ。 ワキ「不思議やな賎しき賎の臥処より。 色もかゝやく衣を着。透額の冠を着し。

これ見よと承る。こはそも如何なる事にて候ふぞ。 シテ「これこそ此歌によまれたる唐衣。 高子の后の御衣にて候へ。又此冠は業平の。 豊の明の五節の舞の冠なれば。 かたみの冠唐衣。身に添へ持ちて候ふなり。 ワキ「冠唐衣は先々置きぬ。さて/\御身は如何なる人ぞ。 シテ「誠は我は杜若の精なり。植ゑおきし昔の宿の杜若と。 よみしも女の杜若に。なりし謂の言葉なり。 又業平は極楽の。 歌舞の菩薩の化現なれば。詠みおく和歌の言の葉までも。 皆法身説法の妙文なれば。 草木までも露の恵の。仏果の縁を弔ふなり。 ワキ「これは末世の奇特かな。正しき非情の草木に。 言葉をかはす法の声。 シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。 ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。シテ「仮の衆生となり平の。 ワキ「本地寂光の都を出でて。 シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。

地次第「はるばる来ぬる唐ころも。/\。 着つゝや舞を奏づらん。シテ「別れこし。 跡の恨の唐衣。地「袖を都に。返さばや。イロエ「。 。シテクリ「そも/\この物語はいかなる人の何事によつて。地「思の露の信夫山。 忍びて通ふ道芝の。始もなく終もなし。 シテサシ「昔男初冠して奈良の京。 春日の里に知るよしして狩にいにけり。 地「仁明天皇の御宇かとよ。いともかしこき勅をうけて。 大内山の春がすみ。 立つや弥生の初めつかた。 春日の祭の勅使として透額の冠を許さる。シテ「君の恵の深き故。 地「殿上にての元服の事。当時その例稀なる故に。 初冠とは申すとかや。 クセ「然れども世の中の。一度は栄え。 一度は。 衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住所求むとて。東の方に行く雲の。 伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。 いとどしく過ぎにし方の恋しきに。

羨ましくも。 かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃なる。浅間の嶽なれや。 くゆる煙の夕気色。シテ「さてこそ信濃なる。 浅間の嶽に立つ煙。地「遠近人の。 見やはとがめぬと。口ずさみ猶はる%\の旅衣三河の国に着きしかば。こゝぞ名にある八橋の。 沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。 妻しあるやと思ひぞ出づる都人。 然るに此物語。その品おほき事ながら。 とりわき此八橋や。三河の水の底ひなく。 契りし人人のかず/\に。名をかへ品をかへて。 人待つ女物病み玉すだれの。光も。 乱れて飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。 秋風吹くと。 仮にあらはれ衆生済度の我ぞとは知るや否や世の人の。 シテ「暗きに行かぬ有明の。地「光普き月やあらぬ。 春や昔の春ならぬ我が身ひとつは。 もとの身にして。 本覚真如の身を分け陰陽の神といはれしも。唯業平の事ぞかし。

斯様に。 申す物がたり疑はせ給ふな旅人遥々来ぬる唐衣。着つゝや舞をかなづらん。 シテ「花前に蝶まふ。紛々なる雪。 地「柳上に鶯飛ぶ片々たる金。序ノ舞「。 シテ「植ゑ置きし。昔の宿の。かきつばた。 地「色ばかりこそ昔なりけれ。/\色ばかりこそ。 シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。 匂うつる。菖蒲の鬘の。地「色はいづれ。 似たりや似たり。杜若花菖蒲。梢に鳴くは。 シテ「蝉の唐衣の。 地「袖白妙の卯の花の雪の。夜も白々と。 明くる東雲の浅紫の。杜若の。花も悟の。心開けて。 すはや今こそ草木国土。すはや今こそ。 草木国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。 失せにけれ 従者 老人 在原業平の霊

。ワキワキツレ二人次第「花にうつろふ嶺の雲/\かゝるや。心なるらん。 ワキ詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居する者にて候。 さても大原野の花。 今を盛なる由承り及び候ふ間。若き人々を伴ひ申し。 唯今大原山へと急ぎ候。 サシ「おもしろやいづくはあれど処から。花も都の名にし負へる。 大原山の花桜。 三人歌「今を盛とゆふ花の。/\。手向の袖もひとしほに。 色そふ春の時を得て。 神もまじはる塵の世の。花や心に。 まかすらん花や心にまかすらん。 シテ一セイ「しをりして。 花をかざしの袖ながら。老木の柴と。人や見ん。 年ふれば齢は老いぬしかはあれど。

花をし見れば物思ひも。なしとよみしも身の上に。 今白雪を戴くまで。 光にあたる春の日の。長閑けき御代の時なれや。 歌「散りもせず。咲きも残らぬ花ざかり。/\。 四方の景色も一しほに。 にほひ満ち色にそふ。情の道にさそはるゝ。老な厭ひそ。 花心。老な厭ひそ花心。 ワキ詞「ふしぎやな貴賎群衆の其中に。 ことに年たけたる老人花の枝をかざし。 さも花やかに見え給ふは。 そも何くより来り給ふぞ。シテ「思ひよらずや貴賎の中に。 わきて言葉をかけ給ふは。 さも心なき山賎の。身にも応ぜぬ花ずきぞと。 お笑ひあるか人々よ。 姿こそ山のかせきに似たりとも。心は花にならばこそ。

なさばならめや心からに。 地「をかしとこそは御覧ずらめ。よしやこの身は埋木の。朽ちは。 果てし無や心の。 色も香も知る人ぞ知らずな問はせ給ひそ。 ワキ詞「あら面白のたはぶれやな。 よも誠には腹立て給はじ。 いかさま故ある心言葉の。奥床しきを語り給へ。 シテ詞「何と語らん花盛。いふに及ばぬけしきをば。 いかゞは思ひ給ふらん。 ワキ「げに/\妙なる梢の色。 うつろふかげも大原や。 シテ詞「小塩の山の小松が原より。煙る霞の遠山桜。 ワキ「里は軒端の家ざくら。シテ「匂ふや窓の梅も咲き。 ワキ「あかねさす日も紅の。シテ「霞か。 ワキ「雲か。シテ「八重。ワキ「九重の。地歌「都辺は。 なべて錦となりにけり。/\。 桜を織らぬ人し無き。花衣着にけりな。 時も日も月もやよひ。あひにあう眺かな。 げにや大原や。小塩の山も今日こそは神代も思ひ。

知られけれ。神代も思ひ知られけれ。 。 ワキ詞「かゝる面白き人に参りあひて候ふものかな。 此まゝ御供申し花をも眺めうずるにて候。又唯今の言葉のすゑに。 大原や小塩の山も今日こそは。 詞「神代の事も思ひ出づらめ。今処から面白う候。 これはいかなる人の御詠歌にて候ふぞ。 シテ詞「事あたらしき問事かな。 この大原野の行幸に。在原の業平供奉し給ひし時。 忝くも后の御事を思ひいでて。 神代の事とはよみしとなり。 申すにつけて我ながら。空恐ろしや天地の。 神の御代より人の身の。妹背の道は浅からぬ。 地歌「名残をしほの山深み。/\。 のぼりての世の物語。かたるも昔男。 あはれ旧りぬる身の程歎きても。 かひなかりけり歎きてもかひぞなかりける。 ロンギ地「げに山賎のさもしげに。 しばふるひとと見ゆるにも。心ありける姿かな。

シテ「心知らればとても身の。 姿に恥ぢぬ花の友に馴れてさらばまじらん。 地「まじれやまじれ老人の。心若木の花の枝。 シテ「老隠るやとかざさん。 地「かざしの袖を引き引かれ。 このもかのもの蔭ごとに。シテ「貴賎の花見。地「輿車の。 花の轅をかざしつれて。 よろぼひさぞらひとりどりにめぐる盃の。 天も花にや酔へるらん紅うづむ夕霞。 かげろふ人の面影ありと見えつゝ。 失せにけりありと見えつゝ失せにけり。中入間「。 ワキ詞「ふしぎや今の老人の。

唯人ならず見えつるが。さては小塩の神代の古跡。 和光の影に業平の。 花に映じて衆生済度の。姿現はし給ふぞと。 三人歌待謡「思の露もたまさかの。/\。光を見るも花心。 妙なる法の道のべに。 なほも奇特を待ち居たり/\。 後シテ一セイ「月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 我が身ぞ本の。身も知らじ。 ワキ「ふしぎやな今までは。立つとも知らぬ花見車の。 やごとなき人の御有様。 これは如何なる事やらん。シテ「げにや及ばぬ雲の上。 花の姿はよも知らじ。 詞「ありし神代の物語。姿現すばかりなり。 ワキ「あら有難の御事や。他生の縁は朽ちもせで。 シテ「契りし人も様々に。ワキ「思ひぞいづる。 シテ「花も今。地歌「今日来ずは。 あすは雪とぞ降りなまし。/\。消えずはありと。 花と見ましやと詠ぜしに。 今はさながら花も雪も。

皆白雲の上人の桜かざしの袖ふれて花見車。 くるゝより月の花よ待たうよ。 地クリ「それ春宵一刻値千金。 花に清香月に影。惜まるべきは唯此時なり。 シテサシ「思ふ事いはで唯にや止みぬべき。 地「我にひとしき人しなければ。 とは思へども人しれぬ。 心の色はおのづから思内より言の葉の。露しな%\に洩れけるぞや。 クセ「春日野の。若紫のすり衣。 しのぶの乱。限知らずとも詠ぜしに。 陸奥のしのぶもぢずり誰故乱れんと思ふ。 我ならなくにと。 よみしも紫の色に染み香にめでしなり。または唐衣。 着つゝ馴れにしつましあれば。はる%\きぬる。 旅をしぞ思ふ心の奥までは。 いさ白雲のくだり月の都なれや東山。 これもまたあづまの。はてしなの人の心や。 シテ「むさし野は。今日はな焼きそ。若草の。 地「妻もこもれり我もまたこもる心は大原や。

小塩につゞく通路の。ゆくへはおなじ恋草の。 忘れめや今も名は昔男ぞと人もいふ。 シテ「昔かな。序ノ舞「。ワカ「昔かな。 花も処も。月も春。地「ありし御幸を。 シテ「花も忘れじ。地「花も忘れぬ。

シテ「心やをしほの。地「山風ふき乱れ。散らせや散らせ。 散りまよふ木のもとながら。まどろめば。 。 桜に結べる夢かうつゝか世人定めよ夢か現か世人定めよ。寝てか覚めてか。 春の夜の月。曙の花にや。残るらん 芦屋公光 従者 老人 在原業平の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「藤咲く松も紫の。/\。 雲の林を尋ねん。 ワキ詞「これは津の国芦屋の里に。公光と申す者にて候。 我幼かりし頃よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ所に。 。 ある夜不思議なる霊夢を蒙りて候ふ程に。唯今都に上らばやと存じ候。 サシ「花の新に開くる日初陽潤へり。 鳥の老いて帰る時。薄暮くもれる春の夜の。 月の都にいそぐなり。 下歌「芦屋の里を立ち出でて。我は東に赴けば。名残の月の西の海。

汐のひる子の浦とほし/\。 上歌「松蔭に。煙をかづく尼が崎。/\。 暮れて見えたる漁火のあたりを問へば難波津に。 咲くや木の花冬ごもり。今は現に都路の。 遠かりし。 ほどは桜にまぎれある雲の林に着きにけり雲の林につきにけり。 。 ワキ「遥に人家を見て花あれば則ち入るなればと。木蔭に立ち寄り花を折れば。 シテ詞「誰そやう花折るは。 今日は朝の霞消えしまゝに。夕の空は春の夜の。

殊に長閑に眺めやる。嵐の山は名にこそ聞け。 真の風は吹かぬに。 詞「花を散らすは鶯の。羽風に落つるか松の響か人か。 それかあらぬか木の下風か。 あら心もとなと散らしつる花や。詞「や。 さればこそ人の候。落花狼藉の人そこのき給へ。 ワキ「それ花は乞ふも盗むも心有り。 とても散るべき花な惜み給ひそ。 シテ「とても散るべき花なれども。花に憂きは嵐。 それも花ばかりをこそ散らせ。 おことは枝ながら手折れば。風よりもなほ憂き人よ。 ワキ「何とて素性法師は。 見てのみや人に語らん桜花。 手毎に折りて家土産にせんとは詠みけるぞ。シテ「さやうによむも有り。 又ある歌に。 春風は花のあたりをよぎて吹け。心づからやうつろふと見ん。 実にや春の夜の一時を千金に替へじとは。 花に清香月に影。千顆万顆の玉よりも。 宝と思ふ此花を。折らせ申す事は候ふまじ。

ワキ「実に/\これは御理。 花物いはぬ色なれば。人にて花を恋衣。 シテ詞「軽漾激して影唇を動かせば。我は申さずとも。 ワキ「花も惜しきと。シテ「いひつべし。 。 地歌「実に枝を惜むため又は春の手折るは。見ぬ人の為。 惜むも乞ふも情あり。二つの色の争ひ柳桜をこきまぜて。 都ぞ春の。錦なる都ぞ春の錦なる。 シテ詞「いかに旅人。 御身は何方より来り給ふぞ。ワキ詞「これは津の国芦屋の里に。 公光と申す者にて候ふが。 我幼かりし頃よりも。伊勢物語を手馴れ候ふ所に。 ある夜の夢に。とある花の蔭よりも。 紅の袴召されたる女性。束帯給へる男。 伊勢物語の草紙を持ちたゝずみ給ふを。 あたりにありつる翁に問へば。 あれこそ伊勢物語の根本。在中将業平。 女性は二条の后。処は都北山陰。 紫の雲の林と語ると見て夢覚めぬ。

余りにあらたなる事にて候ふ程に。これまで参りて候。 シテ「さては御身の心を感じつゝ。 伊勢物語を授けんとなり。今宵はこゝに臥し給ひ。 別れし夢を待ち給へ。 ワキ「嬉しやさらば木の本に。袖を片敷き臥して見ん。 シテ詞「其花衣を重ねつゝ。又寝の夢を待ち給はゞ。 などか験のなかるべき。 ワキ「かやうに委しく教へ給ふ。 御身は如何なる人やらん。シテ詞「其様年の古びやう。 昔男となど知らぬ。 ワキ「さては業平にてましますか。シテ「いや。 地歌「我が名を何とゆふばえの。/\。 花をし思ふ心故木隠れの月に現はれぬ。 誠に昔を恋衣一枝の花の蔭に寝て。我が有様を見給はゞ。 其時不審を晴らさんと。 ゆふべの空の一霞思ほえずこそなりにけれおもほえずこそなりにけれ。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「いざさらば。 木蔭の月に臥して見ん。/\。暮れなばなげの花衣。 袖をかたしき臥しにけり/\。

後シテ一声「月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 我が身ひとつは。もとの身にして。 ワキ「不思議やな雲の上人にほやかに。 花にうつろひ現れ給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「今は何をか包むべき。昔男の古を。 語らん為に来りたり。 ワキ「さらば夢中に伊勢物語の其品々を語り給へ。シテ詞「いで/\さらば語らんと。花の嵐も声添へて。ワキ「其品々を。 シテ「語りけり。 クリ「抑この物語は。 いかなる人の何事によつて。地「思の露を染めけるぞと。 言ひけん事も。理なり。 シテサシ「まづは弘徽殿の細殿に。人目を深く忍び。 地「心の下簾の徒然と人はたゝずめば。 我も花に心を染みて。共にあくがれ立ち出づる。 クセ「二月や。まだ宵なれど月は入り。 我等は出づる恋路かな。抑日の本の。 中に名所と云ふ事は。

我が大内にあり彼の遍昭が連ねし。 花の散り積る芥川を打ち渡り。思ひ知らずも迷ひ行く。 かづける衣は紅葉襲。緋の袴踏みしだき。 誘ひ出づるやまめ男。紫の。一本ゆひの藤袴。 しをるゝ裾をかい取つて。シテ「信濃路や。 地「園原しげる木賊色の。 狩衣の袂を冠の巾子にうちかづき。 忍び出づるや二月の。黄昏月も早入りて。いとゞ朧夜に。 降るは春雨か。落つるは涙かと。 袖打ち払ひ裾を取り。しを/\すご/\と。 たどり/\も迷ひ行く。

シテ「思ひ出でたり夜遊の曲。 地「返す真袖を。月や知る。序ノ舞「。 キリ「夜遊の舞楽も時移れば。/\。名残の月も。山藍の羽袖。 かへすや夢の黄楊の枕。此物語。 語るとも尽きじ。シテ「松の葉の散り失せず。 地「松の葉散り失せず。末の世までも。 情知る。言の葉草のかりそめに。 かく現はせる古の。伊勢物語。 かたる夜もす。 がら覚むる夢となりにけりや覚むる夢となりにけり 一遍上人 従僧 里の女 和泉式部の霊。

ワキ、ワキツレ二人、次第「教の道も一声の。/\。 御法を四方に弘めん。 ワキ詞「これは念仏の行者一遍と申す聖にて候。 我此度三熊野に参り。一七日参籠申し。

  証誠殿に通夜申して候へば。あらたに霊夢を蒙りて候。 六十万人決定往生の御札を。 普く国土に弘めよとの霊夢にまかせ。 まづ都へと志して候。道行三人「弥陀頼む。

願も三つの御山を。/\。 今日立ち出づる旅衣紀の関守が手束弓。出で入る日数重なりて。 時もこそあれ春の頃。 花の都に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早都誓願寺に着きて候。 告にまかせて札を弘めばやと思ひ候。有難や実に仏法の力とて。 貴賎群集の色々に。袖を連ね踵をついで。 知るも知らぬもおしなべて。 念仏三昧の道場に。出で入る人の有難さよ。 シテサシ「処は名におふ洛陽の。 花の衣の今更に。心は空にすみぞめの。 ワキ「夕の鐘の声々に。称名の御法。シテ「鳧鐘の響。 ワキ「聴衆の人音。シテ「軒の松風。 ワキ「おのれ/\と。シテ「かはれども。 地歌「弥陀頼む。心は誰も一声の。/\。 うちに生るゝ蓮葉の。 濁にしまぬ心もて何疑の有るべき。 有難や此教洩らさぬ誓目のあたり。   受け悦ぶや上人の御札をいざや保たん御札をいざやたもたん。 シテ詞「如何に上人に申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。 シテ「この御札を見奉れば。六十万人決定往生とあり。 。 扨々六十万人より外は往生に漏れ候ふべきやらん。返す%\も不審にこそ候へ。 ワキ「実によく御不審候ふものかな。 これは三熊野の御夢想に四句の文有り。 其四句の文の上の字を取りて。 証文のために書きつけたり。 たゞ決定往生南無阿弥陀仏と。此文ばかり御頼み候へ。 シテ「さて/\四句の文とやらんは。 如何なる事にて有るやらん。愚痴の我等に示し給へ。 ワキ詞「いで/\語つて聞かせ申さん。 六字名号一遍法。十界依正一遍体。 万行離念一遍証。人中上々妙好華。 此四句の文の上の字なれば。 六十万人とは書きたるなり。シテ詞「今こそ不審春の夜の。 闇をも照らす弥陀の教。

ワキ「光明遍照十方世界に。漏るゝ方なき御法なるを。 僅かに六十万人と。人数をいかで定むべき。 シテ「さてはうれしや心得たり。 此御札の六十万人。その人数をばうち捨てゝ。 ワキ「決定往生南無阿弥陀仏と。 シテ「唯一筋に念ずならば。 ワキ「それこそ即ち決定する。シテワキ二人「往生なれや何事も。 皆うち捨てゝ南無阿弥陀仏と。地歌「称ふれば。 仏も我もなかりけり。/\。 南無阿弥陀仏の声ばかり。至誠心深心廻向。 発願の鉦の声耳に染みて有難や。 誠に妙なる此教。十声一声数分かで。 悟をも迷をも迎へ給ふぞ有難き。さる程に。 夕陽雲にうつろひて。 西にかげろふ夕月の寄るの念仏を急がん夜念仏をいざや急がん。 口ンギ地「早更け行くや夜念仏の。 聴衆の眠覚まさんと。鉦うち鳴らし念仏す。 シテ「有難や五障の雲のかゝる身を。 助け給はゞ此世より。 二世安楽の国に早生れ行かんぞ嬉しき。 地「実に安楽の国なれや。安く生るゝ蓮葉の台の縁ぞ誠なる。 シテ「有難や。/\。 さぞな始めて弥陀の国。涼しき道ぞ頼もしき。 地「頼ぞまこと此教。或は利益無量罪。 シテ「又は余経の後の世も。地「弥陀一教と。 シテ「聞くものを。地「有難や/\。八万緒聖教。 皆是阿弥陀仏なるべし。 この御本尊も上人も唯同じ御誓願寺ぞと。 仏と上人を一体に拝み申すなり。 シテ詞「いかに申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「誓願寺と打ちたる額を除け。上人の御手跡にて。 六字の名号になして賜はり候へ。 ワキ「これは不思議なる事を承り候ふものかな。 昔より誓願寺と打ちたる額をのけ。 六字の名号になすべき事。思ひもよらぬ事にて候。 シテ「いやこれも御本尊の御告と思し召せ。 ワキ「そも御本尊の御告とは。 御身はいづくに住む人ぞ。 シテ「わらはが住家はあの石塔にて候。ワキ「不思議やなあの石塔は。 和泉式部の御墓とこそ聞きつるに。 御住家とは不審なり。 シテ詞「さのみな不審し給ひそよ。我も昔は此寺に。 値遇の有れば澄む水の。春にも秋や通ふらし。 地「結ぶ泉の自が。名を流さんも恥かしや。 よしそれとても上人よ。我が偽は亡き跡に。 和泉式部は我ぞとて。石塔の石の火の。 光と共に失せにけり/\。中入間「。 。 ワキ詞「仏説に任せ誓願寺と打ちたる額を除け。六字の名号を書きつけて。 仏前に移し奉れば。 三人待謡「不思議や異香薫じつつ。/\。 花降り下り音楽の声する事のあらたさよ。これにつけても称名の。 心一つを頼みつゝ。鉦打ち鳴らし同音に。 ワキ「南無阿弥陀仏弥陀如来。 後シテサシ、出端「あら有難の額の名号やな。 末世の衆生済度のため。仏の御名を顕して。

仏前に移す有難さよ。 我も仮なる夢の世に。和泉式部といはれし身の。 仏果を得るや極楽の歌舞の菩薩となりたるなり。 二十五の。地「菩薩聖衆の御法には。 紫雲たなびく夕日影。シテ「常の灯。影清く。 地「さながらこゝぞ極楽世界に。 生れけるかと有難さよ。 。地クリ「そも/\当寺誓願寺と申し奉るは。天智天皇の御願。 御本尊は慈悲万行の大菩薩。春日の明神の御作とかや。 シテサシ「神と云ひ仏と云ひ。 唯これ水波の隔なり。地「然るに和光の影広く。 一体分身現れて衆生済度の御本尊たり。 シテ「されば毎日一度は。 地「西方浄土に通ひ給ひて。来迎引摂の。誓を現しおはします。 クセ「笙歌。遥に聞ゆ。 孤雲の上なれや。聖衆来迎す。落日の前とかや。 昔在霊山の御名は法華一仏。 今西方の弥陀如来。慈眼視衆生現れて。

娑婆示現観世音。 三世利益同一体有難や我等がための悲願なり。シテ「若我成仏の。 光を受くる世の人の。地「我が力には行き難き。 御法の御舟の水馴棹さゝでも渡る彼の岸に。 至り至りて楽を極むる国の道なれや。 十悪八邪の迷の雲も空晴れ。 真如の月の西方も。こゝを去ること遠からず。 唯心の浄土とは此誓願寺を拝むなり。 シテ「歌舞の菩薩も。さま%\の。地「仏事をなせる。 心かな。序ノ舞「。シテ「ひとりなほ。 仏の御名を。尋ね見ん。地「各帰る法の場人。 法の場人法の場人の。 シテ「実にも妙なる称名の数々。地「虚空に響くは。 シテ「音楽の声。地「異香薫じて。シテ「花降る雪の。 地「袖をかへすや返す%\も。 貴き上人の。利益かなと。菩薩聖衆は。面々に。 御堂に打てる。六字の額を。皆一同に。 礼し給ふは。あらたなりける。奇瑞かな 漁夫白竜 漁夫 天女

ワキ、ワキツレ二人一セイ「風早の。 三穂の浦回をこぐ舟の。浦人さわぐ。浪路かな。 ワキサシ「これは三保の松原に。白竜と申す漁夫にて候。 三人「万里の好山に雲忽ちにおこり。 一楼の明月に雨はじめて晴れり。 げにのどかなる時しもや。春のけしき松原の。 浪立ちつゞく朝霞。月ものこりの天の原。 及なき身のながめにも。 心そらなるけしきかな。 下歌「わすれめや山路をわけて清見がた。はるかに三保の松原に。 たちつれいざや。通はんたちつれいざや通はん。 上歌「風向ふ。雲の浮浪たつと見て。/\。 釣せで人やかへるらん。 待てしばし春ならば吹くものどけき朝風の。 松は常磐の声ぞかし。浪は音なき朝なぎに。

釣人おほき。小舟かな釣人多き小舟かな。 ワキ詞「われ三保の松原にあがり。 浦の景色を眺むる所に。 虚空に花降り音楽聞え。霊香四方に薫ず。 これ唯事と思はぬ所に。これなる松に美しき衣かゝれり。 。 寄りて見れば色香妙にして常の衣にあらず。 いかさま取りて帰り古き人にも見せ。家の宝となさばやと存じ候。 シテ詞呼掛「なうその衣はこなたのにて候。 何しにめされ候ふぞ。 ワキ「これは拾ひたる衣にて候ふ程に取りて帰り候ふよ。 シテ「それは天人の羽衣とて。 たやすく人間にあたふべき物にあらず。 本のごとくに置き給へ。 ワキ「そも此衣の御ぬしとは。さては天人にてましますかや。

さもあらば末世の奇特にとゞめおき。 国の宝となすべきなり。 衣をかへす事あるまじ。 シテ「かなしやな羽衣なくては飛行の道も絶え。 天上にかへらんことも叶ふまじ。さりとては返したび給へ。 ワキ「此御詞を聞くよりも。いよ/\白竜力を得。 詞「本より此身は心なき。 天の羽衣とりかくし。かなふまじとて立ちのけば。 シテ「今はさながら天人も。 羽根なき鳥の如くにて。あがらんとすれば衣なし。 ワキ「地にまた住めば下界なり。 シテ「とやあらんかくやあらんと悲しめど。 ワキ「白竜衣をかへさねば。シテ「力及ばず。 ワキ「せんかたも。地「涙の露の玉鬘。 かざしの花もしを/\と。 天人の五衰も目のまへに見えてあさましや。 シテ「天の原。ふりさけみれば。霞たつ。 雲路まどひて。ゆくへ知らずも。 地下歌「住。

み馴れし空にいつしかゆく雲のうらやましきけしきかな。 上歌「迦陵頻迦のなれなれし。/\。声今さらにわづかなる。 。 ・雁{かりがね}のかへりゆく天路を聞けばなつかしや。千鳥鴎の沖つ浪。 ゆくか帰るか春。 風の空に吹くま。 でなつかしや空。 に吹くまでなつかしや。 。 ワキ詞「いかに申し候。 御姿を見たてまつれば。 あ。 まりに御痛はしく候ふ程に。 衣。 をかへし申さうずるにて候。 シテ。 「あらうれしやこなたへ給はり候へ。ワキ「しばらく。 承り及びたる天人の舞楽。 たゞ今こゝにて奏し給はゞ。ころもをかへし申すべし。

。 シテ「嬉しやさては天上にかへらん事をえたり。此悦にとてもさらば。 人間の御遊のかたみの舞。月宮をめぐらす舞曲あり。 たゞ今こゝにて奏しつゝ。 世のうき人に伝ふべしさりながら。 衣なくては叶ふまじ。さりとては先かへし給へ。 ワキ「いや此衣をかへしなば。

舞曲をなさで其ままに。天にやあがり給ふべき。 シテ「いや疑は人間にあり。天に偽なきものを。 ワキ「あら恥かしやさらばとて。 羽衣を返しあたふれば。シテ「少女は衣を着しつゝ。 霓裳羽衣の曲をなし。 ワキ「天の羽衣風に和し。シテ「雨に湿ふ花の袖。 ワキ「一曲をかなで。シテ「舞ふとかや。 地次第「東遊の駿河舞。/\此時や始めなるらん。 地クリ「それ久堅の天といつぱ。 二神出世の古。十万世界を定めしに。 空は限もなければとて。久方の空とは。 名づけたり。シテサシ「しかるに月宮殿のありさま。 玉斧の修理とこしなへにして。 地「白衣黒衣の天人の。数を三五にわかつて。 一月夜々の天乙女。奉仕を定め役をなす。 シテ「我もかずある天乙女。 地「月の桂の身を分けて仮に東の。駿河舞。 世に伝へたる。曲とかや。クセ「春霞。 たなびきにけり久かたの。月の桂も花やさく。

げに花かづら色めくは春のしるしかや。 おもしろや天ならで。こゝも妙なり天津風。 雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿。 しばし留りて。此松原の。春の色を三保が崎。 月清見潟富士の雪いづれや春のあけぼの。 。 たぐひ浪も松風ものどかなる浦のありさま。そのうへ天地は。何を隔てん玉垣の。 内外の神の御末にて。 月も曇らぬ日の本や。シテ「君が代は。天の羽衣まれに来て。 地「撫づとも尽きぬ巌ぞと。 聞くも妙なり東歌。声そへてかず/\の。 笙笛琴箜篌孤雲の外に満ち/\て。 落日の紅は蘇命路の山をうつして。緑は浪に浮島が。 払ふ嵐に花ふりて。 げに雪をめぐらす白雲の袖ぞ妙なる。

シテ「南無帰命月天子本地大勢至。地「東遊の舞の曲。序ノ舞「。 シテワカ「あるひは。天つ御空の緑の衣。 地「又は春立つ霞の衣。 シテ「色香も妙なり乙女の裳。地「左右左。左右颯々の。 花をかざしの天の羽袖。 なびくもかへすも舞の袖。 破ノ舞キリ地「東遊のかず/\に。/\。 その名も月の色人は。三五夜中の空に又。 満月真如の影となり。御願円満国土成就。 七宝充満の宝を降らし。国土にこれを。 ほどこし給ふさるほどに。時移つて。 天の羽衣。浦風にたなびきたなびく。 三保の松原浮島が雲の。愛鷹山や富士の高嶺。 かすかになりて。天つ御空の。 霞にまぎれて。失せにけり 旅僧 従僧 里の女 落葉宮の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「月を都のしるべにて。/\。 越路の秋に出でうよ。 ワキ詞「これは北国方より出でたる僧にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち都に上り候。 サシ「万里にして人南に去り。三春の雁北に飛ぶ。 三人歌「花は唯越路の春やまさるらん。 /\。 都の空を別れ来し名残を今も音にたてゝ。月にも急ぐかり衣。 はるけき旅の行方かな/\。ワキ詞「急ぎ候ふ間。 。 これは早都のほとりにて小野とかや申すげに候。あら笑止と立ち重りたる霧や候。 。 唯今の景色にて古き事の思ひ出でたるぞや。荻原や軒端の露にそぼちつゝ。 八重立つ露をわけぞ行くべき。シテ詞呼掛「なう/\。 御僧今の歌をば何と思ひよりて詠じさせ給ふぞ。 ワキ「これは始めて都に上る者にて候ふが。まだふみ馴れぬ道のべに。 いとゞ八重立つ夕霧を。 分けん方なき哀さに。

古事の思ひ出でられて何となく口ずさみ候ふよ。シテ「是は古。 夕霧の大臣と聞えし人の。此処にて詠ぜし歌なり。 其心を。 も知し召して口ずさみ給ふかと思へば尋ね申すなり。 ワキ「いやそれ迄は知らねども。唯秋霧のわけま憂きに。 よそへて思ひ出でたるなり。 シテ「扨は心をば知らせ給はざるか。 いたはしやゆかん都の伝とても。まだ程遠き夕霧に。 いかでかまがはせ給ふべき。詞「草の扉はいぶせくとも。 一夜を明させ給ふべし。 ワキ「実にありがたき御事かな。さらば御共申さんと。 シテ「そことも知らぬ小野の細道。 ワキ「末もつゞかぬ。シテ「かたへの野べを。 地「入方に成り行く秋の夕日影。/\。 空の気色も冷じく。 日ぐらしの声さへしきる山のべは。 をぐらき心地のみ心ぼそき夕かな。我が住む方の庵とて。 帰り馴れずば旅人の。いかでか分けん道ならん/\。 ワキ詞「今夜の御宿ありがたう候。

さて/\。 先の詠歌につき夕霧とやらんの此処へ御出有りたる由聞え候。 扨この小野にはいか様なる人の住み給ひし処にて候ふぞ。 。 シテ「此処には一条の御息所の御物の気にて暫く住ませ給ひしに。 同じく御息女落葉の宮も。 母御にうちそひ住ませ給ひて候。ワキ「あら面白や落葉の宮とは。 いかやうなる御名にて候ぞ御物語り候へ。 シテ「さなきだに女の身は。 五障三従の罪深きに。世を背かんの心の本意も。 叶はぬ其身の昔語。 語りて聞かせ申すべし。跡よく弔ひ給ひ給へ。 地クリ「抑此落葉の宮と申すは。光源氏の御兄。 朱雀院女二の宮。一条の御息所の。御息女なり。 シテサシ「其頃柏木の右衛門の督と申しゝ人。 地「をりしも春の暮つかた。 風吹かずかしこき日影を興じつゝ。 故ある木立の花盛。わづかなる四本の蔭に乱れつゝ。 いどみ争ふ鞠の数。

暮れ行く庭を思はずも手飼の猫のまとはりし。 シテ「こすの外もれし面影の。 地「身にそふきづなとなりたるなり。 クセ「恋の奴となりはつる思やのべんとばかりに。ゆかりの露を結びしに。 契の中は身に染まで。 もとより染みにし方こそなほ茂り行く草の名の。 慰めがたきをばすてにて。 もろかづら落葉を何に拾ひけん。 名はむつましくかざしなれども。 かくいひし言の葉の我が名にあふぞ悲しき。 其後をりを得て思の末はなよ竹の。一夜結びし手枕を。 かはすほどなききぬ%\の。袖にあまれる白露の。 おきて行く空も知られぬ明暮に。 いづくの露のかゝる袖の。思の色をさすがとや。 人のあはれの露かけて。 シテ「明暮の空に浮身は消えなゝん。 地「夢なりけりと見てもせめて。 慰むべくといふ声を聞き捨て出でし魂は我を離れてさながらに。 人にとまれるこゝちして。

うつし心も涙のみ。其身をせめて絶えし人に。 我が身はかなき契こそ消えしにまさるつらさなれ。 ロンギ地「昔語の言の葉の。 おくゆかしきを同じくは心に残し給ふなよ。 シテ「世語を語ればいとゞ古に。 又立ち帰る袖の浪の。 あはれはかなき身の果能々弔ひてたび給へ。地「思ひよらずや其跡を。 弔ふべき御身誰ならん。 シテ「恥かしながらこの上は。地「わが名をいはん。 シテ「夕霧の。地「迷を晴らしおはしませ。 我も音をなく雲居の雁寒み吹く風の。 誘ふとばかり失せにけり/\。中入間「。 ワキ詞「唯今見えし夢人は。たゞ人ならず思ひしに。 扨は古の夕霧に迷の心を残し。 我に言葉をかはしけるか。いざや御跡弔はんと。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「とくや御法の花のひも。/\。 ながき闇路も終に今は。 若生人天中受勝妙楽。若在仏前蓮花化生。 シテ一声「あら有難の。御経やな。/\。

ありし世を思ひも出でじ今は早。妙なる御法の値遇の縁に。 玉磬の声は管絃を奏する事を思ひ。 衲衣の僧は綺羅の人にかはりたり。いよ/\仏果を授け給へ。 ワキ「ふしぎやな千種の露の色々に。錦を連ぬる花の袖。 そこはかとなき面影は。ありし一夜の主やらん。 シテ「御弔のありがたさに。 恥かしながら古の。草の蔭なる魄霊の。 これまで現れ参りたり。詞「思ひ出でたり此処にて。 なにがしの律師貴き御声をあげて。 陀羅尼読みたりし事。 唯今のやうに思はるゝぞや。阿檀陀意。檀陀婆帝。地「檀陀婆帝。 序ノ舞「。シテ「得聞是陀羅尼者。当智普賢。 神通之力。地「若但書写。是人命終。 当生〓{新字源:2391。たう}利天。是時八万四千の天女。 伎楽の声声。有難や。破ノ舞「。 シテ「嵐に従ふ木々の落葉。/\は。簫瑟を含み。 シテ「石にそゝぐ。地「飛泉の声は。 シテ「雅琴の翫ぶ。伎楽の遊。

地「御法の御声あひにあひたり。虫の音鹿の音。 滝つ響も一つに乱るる。小野の千草の。

露に立ちそふ野分の風に。錦をかざりし梢の紅葉。/\は。 木蔭の落葉と。朽ちにけり 遊行上人 従僧 老人 柳の精

ワキ、ワキツレ二人次第「帰るさ知らぬ旅衣。/\。 法に心や急ぐらん。 ワキ詞「これは諸国遊行の聖にて候。我一遍上人の教を受け。 遊行の利益を六十余州に弘め。 六十万人決定往生の御札を。普く衆生にあたへ候。 此程は上総の国に候ひしが。 これより奥へと志し候。道行三人「秋津州の。 国々めぐる法の道。/\。まよはぬ月も光添ふ。 心の奥を白河の。関路と聞けば秋風も。 立つ夕霧の何くにか今宵は宿をかり衣。 日も夕暮に。 なりにけり日も夕暮になりにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 音にきゝし白河の関をも過ぎぬ。

又これに数多の道の見えて候。広き方へゆかばやと思ひ候。 。シテ詞呼掛「なう/\遊行上人の御供の人に申すべき事の候。 ワキ詞「遊行の聖とは札の御所望にて候ふか。 老足なりともいま少し急ぎたまへ。 シテ「有難や御札をも賜はり候ふべし。まづ先年遊行の御下向の時も。 古道とて昔の街道を御通り候ひしなり。 されば昔の道を教へ申さんとて。 はるばるこれまで参りたり。 ワキ「不思議やさては先の遊行も。此道ならぬ古道を。 通りし事の有りしよなう。 シテ「昔は此道なくして。あれに見えたる一村の。 森のこなたの川岸を。御通りありし街道なり。

其上朽木の柳とて名木あり。 かゝる尊き上人の。御法の声は草木までも。 成仏の縁ある結縁たり。 地「こなたへいらせたまへとて。老いたる馬にはあらねども。 道しるべ申すなり。いそがせたまへ旅人。 上歌「げにさぞな処から。/\。 人跡たえて荒れはつる。葎蓬生刈萱も。 乱れあひたる浅茅生や袖に朽ちにし秋の霜。 露分衣来て見れば。昔を残す古塚に。 朽木の柳枝さびて。 影踏む道は末もなく風のみ渡る。けしきかな風のみ渡るけしきかな。 シテ詞「これこそ昔の街道にて候へ。 又こ。 れなる古塚の上なるこそ朽木の柳にて候よく/\御覧候へ。 ワキ詞「さては此塚の上なるが名木の柳にて候ひけるぞや。 げに川岸も水絶えて。川そひ柳朽ち残る。 老木はそれとも見えわかず。 蔦葛のみ這ひかゝり。青苔梢を埋む有様。 誠に星霜年旧りたり。

詞「さていつの世よりの名木やらん。くはしく語り給ふべし。 シテ「昔の人の申しおきしは。 鳥羽の院の北面。佐藤兵衛憲清出家し。 西行と聞えし歌人。此国に下り給ひしが。 頃は水無月半なるに。此川岸の木のもとに。 暫し立ちより給ひつゝ。 一首を詠じ給ひしなり。ワキ「謂を聞けば面白や。さて/\西行上人の。 詠歌はいづれの言の葉やらん。シテ詞「六時不断の御勤の。 隙なき内にも此集をば。御覧じけるか新古今に。 地歌「道のべに。清水流るゝ柳蔭。/\。 しばしとてこそ立ちどまり。 涼みとる言の葉の。末の世々までも。 残る老木はなつかしや。かくて老人上人の。 御十念を賜はり御前を立つと見えつるが。 朽木の柳の古塚に寄るかと見えて失せにけり。 寄るかと見えて失せにけり。中入間「。 シテ詞「不思議やさては朽木の柳の。 われに詞をかはしけるよと。

三人待謡「念の珠の数数に。/\。 御法をなして称名の声打ち添ふる初夜の鐘。 月も曇らぬ夜もすがら。露をかたしく。 袂かな露をかたしく袂かな。 シテサシ出端「〓{ゲン 17186}水羅紋海燕かえる。 柳条恨をひいて荊台にいたる。徒らに。 朽木の柳時を得て。地「今ぞ御法に合竹の。 シテ「直にみちびく。弥陀の教。 地「衆生称念必得往生の。功力にひかれて草木までも。 仏果に至る。老木の柳の。 髪も乱るゝ白髪の老人。忽然と現れ出でたる烏帽子も。 柳さびたる有様なり。 ワキ「不思議やなさも古塚の草深き。 朽木の柳の木の本より。 其様怪したる老人の。烏帽子狩衣を着しつゝ。 現れ給ふは不審なり。シテ詞「何をか不審し給ふらん。 はや我が姿は現し衣の。 日も夕暮の道しるべせし。其老人にて候ふなり。 ワキ「さては昔の道しるべせし。

人は朽木の柳の精。シテ「御法の教なかりせば。 非情無心の草木の。台に到る事あらじ。 ワキ「中々なりや一念十念。 シテ「唯一声のうちに生るゝ。ワキ「弥陀の教を。 シテ「身に受けて。地「此界一人念仏名。西方便有一蓮生。 但使一生常不退。此花。 帰つてこゝにむかひ。上品上生に。到らん事ぞ嬉しき。 シテ「釈迦すでに滅し。 弥勒いまだ生ぜず。弥陀の悲願を頼まずは。 いかで仏果にいたるべき。 地クリ「南無や灑濁帰命頂礼本願偽ましまさず。 超世の悲願に身を任せて。他力の舟にのりの道。 シテサシ「すなわち彼岸に到らん事。 一葉の舟の力ならずや。地「彼の黄帝の貨狄が心。 聞くや秋吹く風の音に。散りくる柳の一葉の上に。 蜘蛛の乗りてさゝがにの。 糸引き渡る姿より。 巧み出せる舟の道これも柳の徳ならずや。シテ「其外玄宗華清宮にも。 地「宮前の楊柳寺前の花とて。

眺絶えせぬ名木たり。クセ「そのかみ洛陽や。 清水寺の古。五色に見えし滝浪を。 尋ねのぼりし水上に。金色の光さす。 朽木の柳忽ちに。楊柳観音とあらわれ。 今に絶えせぬあと留めて。利生あらたなる。 歩をはこぶ霊地なり。されば都の花盛。 大宮人の御遊にも。蹴鞠の庭の面。 四本の木蔭枝たれて。暮に数ある沓の音。 シテ「柳桜をこきまぜて。地「錦をかざる諸人の。 。 花やかなるや小簾の隙洩りくる風の匂より。手飼の虎の引綱も。 ながき思にならの葉の。其柏木の及びなき。 恋路もよしなしや。これは老いたる柳色の。 狩衣も風折も。風にたゞよふ足もとの。 弱きもよしや老木の柳気力なうして弱々と。 立ち舞ふも夢人を。現と見るぞはかなき。 シテ「教嬉しき法の道。地「迷はぬ月に。 つれてゆかん。序ノ舞「。 シテ「青柳に。鴬伝ふ。羽風の舞。

地「柳花苑とぞ。思ほえにける。 シテ「柳の曲も歌舞の菩薩の。舞の袂をかへす%\も。 上人の御法を受け。よろこぶ報謝の舞も。 これまでなりと。名残の涙の。 地「玉にも貫ける。春の柳の。シテ「暇申さんと。 木綿附の鳥も鳴き。地「別の曲には。 シテ「柳条を綰ぬ。地「手折るは青柳の。 シテ「姿もたをやかに。地「結ぶは老木の。

シテ「枝もすくなく。地「今年ばかりの。 風や厭はんと。たゞよふ足もとも。よろ/\よわ/\と。倒れ臥柳仮寝の床の。 草の枕の一夜の契も他生の縁ある上人の御法。 西吹く秋の風打ち払ひ。露も木の葉も。散り%\に。露も木の葉も。散り%\になり果てて。残る朽木と。なりにけり 西行上人 花見の人々 寺男 桜の精

。ワキツレ三人次第「頃待ち得たる桜狩/\山路の春に急がん。ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。 下京辺に住居仕る者にて候。 さても我春になり候へば。こゝかしこの花をながめ。 さながら山野に日を送り候。 昨日は東山地主の桜を一見仕りて候。 今日はまた西山西行の庵室の花。

盛なるよし承り及び候ふ程に。花見の人々を伴ひ。 唯今西山西行の庵室へと急ぎ候。道行三人「百千鳥。 囀る春は物毎に。/\。 あらたまりゆく日数経て。頃も弥生の。空なれや。 やよ止まりて花の友。知るも知らぬも諸共に。 誰も花なる。心かな誰も花なる心かな。 ワキツレ詞「急ぎ候ふ程に。

これははや西行の庵室に着きて候。暫く皆々御待ち候へ。 某案内を申さうずるにて候。 いかに案内申し候。狂言「誰にて渡り候ふぞ。 。 ワキツレ「さん候これは都方の者にて候ふが。此御庵室の花。盛なる由承り及び。 遥々これまで参りて候。そと御見せ候へ。 狂言「易き間の御事にて候へども。 禁制にて候さりながら。 御機嫌を見てそと申して見うずるにて候。暫く御待ち候へ。 男「心得申し候。 。 ワキサシ「夫れ春の花は上求本来の梢にあらはれ。秋の月下化冥暗の水に宿る。 誰か知る行く水に。三伏の夏もなく。 澗底の松の風。一声の秋を催す事。草木国土。 おのづから。見仏聞法の。結縁たり。 。 詞「さりながら四つの時にも勝れたるは花実の折なるべし。あら面白や候。 。 狂言「日本一の御機嫌にて候やがて申さう。如何に申し候。

都より此御庭の花を見たき由申して。これ迄みな/\御いでにて候。ワキ詞「何と都よりと申して。 此庵室の花をながめん為に。 これまで皆々来り給ふと申すか。狂言「さん候。 ワキ「およそ洛陽の花盛。何処もと云ひながら。 西行が庵室の花。 花も一木我も独と見るものを。 花ゆゑありかを知られん事いかゞなれども。これまで遥々来れる志を。 見せではいかで帰すべき。 あの柴垣の戸を開き内へ入れ候へ。狂言「畏つて候。 いかに方々へ申し候。 よき御機嫌に申して候へば。見せ申せとの御事にて候ふほどに。 いそいで此方へ御出で候へ。 ワキツレ「心得申し候。 ワキツレ三人「桜花咲きにけらしな足びきの。 山のかひより見えしまゝ。 此木の本に立ち寄れば。 ワキ「我は又心ことなる花の本に。 飛花落葉を観じつゝ独り心を澄ますところに。ワキツレ「貴賎群集の色々に。

心の花も盛にて。 ワキ「昔の春にかへる有様。ワキツレ「かくれ所の山といへども。 ワキ「さながら花の。ワキツレ「都なれば。 地歌「捨人も。花には何と隠家の。/\。 処は嵯峨の奥なれども。 春には訪はれて山までも浮世の嵯峨になるものを。 実にや捨てゝだに。 此世の外はなきものを何くか終の。住家なる何くか終の住家なる。 ワキ詞「いかに面々。 是まで遥々来り給ふ志。返す%\も優しうこそ候へさりながら。捨てゝ住む世の友とては。 花独なる木の本に。身には待たれぬ花の友。 少し心の外なれば。 花見んと群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜の。とがには有りける。 地「あたら桜の蔭暮れて。 月になる夜の木の本に。家路忘れて諸共に。 今宵は花の下臥して。夜と共にながめ明かさん。 シテ「埋木の人知れぬ身と沈めども。 心の花は残りけるぞや。

花見んと群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜の。 とがには有りける。 ワキ「不思議や朽ちたる花の空木より。白髪の老人現れて。 詞「西行が歌を詠ずる有様。さも不思議なる仁体なり。 シテ「これは夢中の翁なるが。 いまの詠歌の心をなほも。たづねん為に来りたり。 ワキ「そもや夢中の翁とは。 夢に来れる人なるべし。詞「それにつきても唯今の。 詠歌の心を尋ねんとは。 歌に不審の有るやらん。シテ「いや上人の御歌に。 何か不審の有るべきなれども。 群れつゝ人の来るのみぞ。あたら桜のとがにはありける。 詞「さて桜のとがは何やらん。 ワキ「いやこれは唯浮世を厭ふ山住なるに。 貴賎群集の厭はしき。心を少し詠ずるなり。 シテ「おそれながら此御意こそ。 少し不審に候へとよ。浮世と見るも山と見るも。 唯其人の心にあり。 非情無心の草木の。 花に浮世のとがはあらじ。

ワキ「実に/\これは理なり。さて/\かやうに理をなす。おん身は如何さま花木の精か。 シテ「誠は花の精なるが。 此身もともに老木の桜の。ワキ「花物いはぬ草木なれども。 シテ「とがなき謂を木綿花の。 ワキ「影唇を。シテ「動かすなり。 地「恥かしや老木の。花も少なく枝朽ちてあたら桜の。 とがのなき由を申し開く花の。 精にて候ふなり。およそ心なき草木も。 花実の折は忘れめや。 草木国土皆成仏の御法なるべし。 シテ詞「有雑や上人の御値遇に引かれて。恵の露普く。 花檻前に笑んで声いまだ聞かず。鳥林下に鳴いて涙尽き難し。 地クリ「夫れ朝に落花を踏んで相。 伴なつて出づ。 夕には飛鳥に随つて一時にかへる。シテサシ「九重に咲けども花の八重桜。 地「幾代の春を重ぬらん。 シテ「然るに花の名高きは。地「まづ初花を急ぐなる。 近衛殿の糸桜。クセ「見渡せば。

柳桜をこき交ぜて。都は春の錦。燦爛たり。 千本の桜を植ゑ置き其色を。所の名に見する。 千本の花盛。雲路や雪に残るらん。 毘沙門堂の花盛。 四王天の栄花もこれにはいかで勝るべき。上なる黒谷。下河原。 むかし遍昭僧正の。シテ「浮世を厭ひし花頂山。 地「鷲の御山の花の色。枯れにし。 鶴の林まで思ひ知られてあはれなり。 清水寺の地主の花松吹く風の音羽山。 こゝはまた嵐山。戸無瀬に落つる。 滝つ波までも。花は大井河。ゐせきに。 雪やかゝるらん。 シテ「すはや数添ふ時の鼓。 地「後夜の鐘の音。響きぞ添ふ。 シテ詞「あら名残惜の夜遊やな。をしむべし/\。得難きは時。 逢ひ難きは友なるべし。 春宵一刻価千金。花に清香月に影。春の夜の。序ノ舞「。 ワカ「花の影より。明け初めて。 地「鐘をも待たぬ別こそあれ。別こそあれ/\。

。 シテ「待てしばし待てしばし夜はまだ深きぞ。地「白むは花の影なりけり。 よそはまだ小倉の山陰にのこる夜桜の。花の枕の。 シテ「夢は覚めにけり。

地「夢は覚めにけり嵐も雪も散り敷くや。 花を踏んでは同。 じく惜む少年の春の夜は明けにけりや翁さびて跡もなし翁さびて跡もなし。 羽黒山の山伏 同行の山伏 賎の女 葛城の神。

{注

「澗」は、本来は{さんずい+門+月}}ワキ、ワキツレ二人、次第「神の昔の跡とめて。/\。 かづらき山に参らん。 ワキ詞「これは出羽の羽黒山より出でたる山伏にて候。 我此度大峯葛城に参らばやと存じ候。道行三人「篠懸の。 袖の朝霜おきふしの。/\。 岩根の枕松が根の。やどりもしげき嶺つゞき。 山又山を分けこえて。ゆけば程なく大和路や。 葛城山につきにけり/\。 ワキ詞「いそぎ候ふ間。 ほどなく葛城山に着きて候。あら笑止や。 また雪のふり来りて候。

これなる木蔭に立ちよらばやと思ひ候。 。シテ詞、呼掛「なう/\あれなる山伏は何方へ御通り候ふぞ。ワキ詞「此方の事にて候ふか。 御身はいかなる人やらん。 シテ「これは此葛城山に住む女にて候。 柴採る道のかへるさに。踏み馴れたる通路をさへ。 雪のふゞきにかきくれて。 家路もさだかにわきまへぬに。ましてや知らぬ旅人の。 末いづくにか雪の山路に。 迷ひ給ふはいたはしや。詞「見苦しく候へども。 わらはが庵にて一夜を御あかし候へ。

ワキ「うれしくも仰せ候ふものかな。 今にはじめぬ此山の度々峯入して。 通ひなれたる山路なれども。 今の吹雪に前後を忘じて候ふに。御志ありがたうこそ候へ。 さて御宿はいづくぞや。 シテ「この岨づたひのあなたなる。谷の下庵見苦しくとも。 程ふる雪の晴間まで。御身を休め給ふべし。 ワキ「さらば御供申さんと。 夕の山の常陰より。シテ「さらでも険しき岨づたひを。 ワキ「道しるべする山人の。 シテワキ二人「笠はおもし呉山の雪。靴は香ばし楚地の花。 地歌「肩上の笠には。/\。 無影の月をかたぶけ。 擔頭の柴には不香の花を手折りつゝ。帰る姿や山人の。 笠も薪も埋もれて。雪こそくだれ谷の道をたどり/\帰。 りきて柴の庵に着きにけり柴の庵につきにけり。 ワキ詞「あらうれしや候。 今の雪に前後を忘じて候ふ所に。

こよひの御宿かへすがへすも有難うこそ候へ。 シテ詞「あまりに夜寒に候ふほどに。 これなる標を解きみだし。火に焼きてあて参らせ候ふべし。 ワキ「あらおもしろや標とは。 此木の名にて候ふか。 シテ「うたてやな此葛城山の雪の内に。結ひあつめたる木々の梢を。 標。 と知し召されぬは御心なきやうにこそ候へ。ワキ「あらおもしろやさてはこの。 標といふ木は葛城山に。 由緒ある木にて候ふよなう。 シテ「申すにや及ぶ古き歌の言葉ぞかし。標を結ひたる葛なるを。 この葛城山の名に寄せたり。 これ大和舞の歌といへり。ワキ「げに/\古き大和舞の歌の昔を思ひでの。シテ「をりから雪も。 ワキ「降るものを。 地歌「標結ふ葛城山に降る雪は。/\。間なく時なく。 おもほゆるかなとよむ歌の。 言の葉そへて大和舞の袖の雪も古き世の。よそにのみ。 見し白雲。

や高間山の峯の柴屋の夕煙松が枝そへて。焼かうよ松が枝そへてたかうよ。 クセ「葛城や。木の間に光る稲妻は。 山伏の打つ。火かとこそ見れ。 実にや世の中は。電光朝露石の火の。 光の間ぞと思へただ。 わが身のなげ。 きをも取り添へて。 思ひ真柴を焼かうよ。シテ「捨人の。 。 苔の衣の色ふかく。 地「法に心は墨染の。 袖もさながら白妙の。 雪にや。 色をそみかくたの。 篠懸もさえまさる。 標をあつめ柴をたき寒風をふせぐ葛城の。 山伏の名にし負ふ。 かたしく袖の枕して身を休め給へや御身を休め給へや。 。

ワキ詞「あらうれしや篠懸を乾して候ふぞや。いそぎ後夜の勤を始めばやと思ひ候。 シテ「御勤とは有難や。 我に悩める心あり。 御勤のついでに祈り加持して賜はり候へ。ワキ「そも御身に悩む事ありとは。 何といひたる事やらん。 シテ「さなきだに女は五障の罪ふかきに。 法の咎の咒詛を負ひ。この山の名にしおふ。 葛かずらにて身を縛めて。なほ三熱の苦あり。

此身を助けてたび給へ。 ワキ「そも神ならで三熱の。苦といふ事あるべきか。 シテ「はづかしながら古の。 法の岩橋かけざりし。其とがめとて明王の。 策にて身をいましめて。今に苦絶えぬ身なり。 ワキ「これはふしぎの御事かな。 さては昔の葛城の。神の苦尽きがたき。 シテ「石は一つの神体として。 ワキ「蔦かずらのみかかる巌の。 シテ「撫づとも尽きじ葛の葉。ワキ「はひ広ごりて。シテ「露に置かれ。 霜に責められ起きふしの。 立居もおもき岩戸のうち。地歌「明くるわびしき葛城の。 。 神に五衰の苦あり祈り加持してたび給へと。岩橋のすゑ絶えて。 神がくれにぞなりにける。/\。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「岩橋の。苔の衣の袖そへて。 /\。法の筵のとことはに。 法味をなして夜もすがら。かの葛城の神慮。 夜の行声すみて。一心敬礼。

後シテ、出端「われ葛城の夜もすがら。 和光の影にあらはれて。 五衰の眠を無上正覚の月にさまし。法性真如の宝の山に。 法味に引かれて来りたり。よく/\勤めおはしませ。 ワキ「ふしぎやな峨々たる山の常陰より。 女体の神とおぼしくて。 玉のかんざし玉かづらの。なほ懸けそへて蔦かずらの。 はひまとはるゝ小忌衣。 シテ「これ見たまへや明王の。 策はかかる身をいましめて。ワキ「なほ三熱の神慮。 シテ「年経る雪や。ワキ「標ゆふ。地「葛城山の岩橋の。 夜なれど月雪の。さもいちじるき神体の。

みぐるしき顔ばせの神姿ははづかしや。 よしや吉野の山かずら。 かけて通へや岩橋の。高天の原はこれなれや。 神楽歌はじめて大和舞いざや奏でん。 シテ「ふる雪の。標木綿花の。白和幣。 序ノ舞地「高天の原の岩戸の舞。/\。 天のかぐ山も向に見えたり。月白く雪白く。 いづれも白妙の。けしきなれども。 名に負ふかづらきの。神の顔がたち。 面なやおもはゆや。恥かしやあさましや。 あさまにもなりぬべし。あけぬ先にと葛城の。 /\夜の。岩戸にぞ入り給ふ。 岩戸のうちに入りたまふ 旅僧 従僧 巫女 <後シテ>龍田姫。

ワキ、ワキツレ二人、次第「教の道も秋津国。/\。 数ある法を納めん。

ワキ詞「これは六十余州に御経を納むる聖にて候。 我此程は南都に候ひて。霊仏霊社残なく拝み廻りて候。

又これより龍田越にかゝり。 河内の国へと急ぎ候。道行三人「ふるき名の。 奈良の都を立ち出でて。/\。 有明残る雲間の西の大寺をよそに見て。早暮れ過ぎし秋篠や。 外山の紅葉名に残る。龍田の川に。 着きにけり龍田の川に着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早龍田川に着きて候。 此川を渡り明神に参らばやと思ひ候。 。 シテ詞呼掛「なうその川な渡り給ひそ申すべき事の候。ワキ詞「不思議やな。此川を渡り。 龍田の明神に参り候ふ所に。 何とて其川な渡りそとは承り候ふぞ。 シテ「さればこそ神に参り給ふも。 神慮に合はんためならずや。心もなくて渡り給はゞ。 神と人との中や絶えなん。よく/\案じて渡り給へ。ワキ詞「実に今思ひ出したり。 龍田川もみぢ乱れて流るめり。 渡らば錦なかや絶えなんとの。古歌の心をおもへとや。 シテ「なか/\の事この歌は。

紅葉の水に散り浮きて。錦を張れる如くなれば。 渡らば錦中や絶えなんとなり。 それにつきなほ/\深き心もあり。 紅葉と申すは当社の神体。神の畏もあるべければと。 いましめ給ふ心もあり。ワキ「実に/\それはさる事なれども。紅葉の頃も時過ぎて。 川の面も薄氷にて。 立つ波までも見えぬなり。許させ給へ渡りて行かん。 シテ詞「いや/\なほも御科あり。 氷にもまた中絶えんとの。その戒もあるものを。 ワキ「不思議や紅葉の錦ならで。 氷にもまた中絶えんとの。いはれは如何なる事やらん。 シテ「紅葉の歌は帝の御製。 又その後家隆の歌に。龍田川紅葉を閉づる薄氷。 詞「わたらばそれも中や絶えなんと。 重ねてかやうに詠みたれば。 必ず紅葉に限るべからず。地歌「氷にも。中絶ゆる名の龍田川。 /\。錦織りかく神無月の。 冬川になるまでも。紅葉をとづる薄氷を。

情なや中絶えて。渡らん人は心なや。 さなきだに危きは薄氷をふむ理のたとへも今に。 知られたりたとへも今に知られたり。 。 ワキ詞「御身はいかなる人にて渡り候ふぞ。シテ詞「これは巫にて候。 明神へ御参り候はゞ御道しるべ申し候ふべし。 ワキ「あら嬉しや御共申し。 宮めぐり申さうずるにて候。 。 シテ「これこそ龍田の明神にて御入り候へ。よく/\御拝み候へ。 ワキ「不思議やな頃は霜降月なれば。 木々の梢も冬枯れて。景色淋しき社頭の御垣に。 盛なる紅葉一本見えたり。 これは御神木にて候ふか。 シテ「さん候当国三輪の明神の神木は杉なり。当社は紅色を愛で給ふにより。 紅葉を神木と崇め参らせ候。 ワキ「ありがたや我国々を廻り。 今日は又この御神に参る事の有難さよ。和光同塵は結縁の始。 八相成道は利物の終。地下歌「下紅葉。

塵に交はる神慮。和光の影の色添えて。 我等を守りたまへや。地上歌「殊更に此度は。 /\。幣取りあへぬをりなるに。 心して吹け嵐。紅葉を幣の神慮。 神さび心も澄み渡る。龍田の嶺はほのかにて。 川音もなほ冴え増さる夕暮。 いざ宮めぐり始めんとて。名におふ龍田山。 同じかざしの榊葉を。とり%\に乙女子が。 裳裾をはへて袖をかざし。運ぶ歩の数々に。 度重なると見る程に。 不思議やな今まではたゞ巫と見えつるが。 我はまことはこの神の。龍田姫は我なりと。 名乗りもあへず御身より。 光を放ちて紅の袖を打ちかづき。社壇の。 扉を押し開き御殿に入らせ給ひけり御殿に入らせ給ひけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人、歌待謡「神の御前に通夜をして。/\。 ありつる告を待たんとて。 袖をかたしき臥しにけり。/\。 後シテ、出端「神は非礼を受け給はず。

水上清しや龍田の川。地「御殿しきりに鳴動して。 宜禰が鼓も声々に。シテ「有明の月。 燈の光。地「和光同塵おのづから。光も朱の。 玉垣かゝやきて。 あらたに御神体あらはれたり。 シテ「我劫初よりこのかた。 この秋津州に地をしめて。御代を守りの御鉾を守護し。 紅葉の色も八葉の葉。 即ち鉾の刃先なるべし。剣の験僧の法味引かれて。 夜半に神燈。明かなり。 地クリ「そも/\瀧祭の御神とは。 即ち当社の御事なり。シテ「昔天祖の詔。 地「末明かなる御国とかや。 シテサシ「然れば当国宝山に至り。地「天地治まる御代のためし。 民安全に豊なるも。偏に当社の御故なり。 シテ「梢の秋の。四方の色。 地「千秋の御影。目前たり。クセ「年毎に。 もみぢ葉流る龍田川。港や秋の泊なる。山も動せず。 海辺も波静かにて。

たのしみのみの秋の色。名こそ龍田の山風も静かなりけり。 然れば世々の歌人も。 心を染めてもみぢ葉の。龍田の山の麻霞。 春は紅葉にあらねども。たゞ好色にめで給へば。 今朝よりは。龍田の桜色ぞ濃き。夕日や花の。 時雨なるらんと。よみしも紅に心を。 染めし栄歌なり。 シテ「神なびの御室の岸やくづるらん。地「龍田の川の。 水は濁るとも和光の影は明けき。 真如の月はなほ照るや。龍田川紅葉乱れし跡なれや。 古は錦のみ。今は氷の下紅葉。 あら美しや色々の。紅葉重ねの薄氷。渡らば。 紅葉も氷も。 重ねてなか絶ゆべしやいかで今は渡らん。 シテ「さる程に夜神楽の。 地「さる程に夜神楽の。時移り事去りて。 宜禰が鼓も数至りて月も霜も白和幣。 振り上げて声澄むや。シテ「謹上。地「再拝。神楽「。 シテ「久堅の。月も落ち来る。瀧祭。

地「波の。龍田の。シテ「神の御前に。 地「神の御前に。散るはもみじ葉。シテ「即ち神の幣。 地「龍田の山風の。時雨降る音は。 シテ「颯颯の鈴の声。地「立つや川波は。 シテ「それぞ白木綿。地「神風松風。

吹き乱れ吹き乱れ。もみぢ葉散り飛ぶ木綿附鳥の。 御祓も幣も。翻へる小忌衣。 謹上再拝再拝再拝と。山河草木。国土治まりて。 神は上らせ。給ひけり 玄賓僧都 里の女 三輪明神

ワキ詞「これは。 和州三輪の山陰に住居する玄賓と申す沙門にて候。 さても此程い。 づくともなく女性一人毎日樒閼伽の水を汲みて来り候。今日も来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ次第「三輪の山本道もなし。/\。 檜原の奥をたづねん。 サシ「実にや老少不定とて。世の中々に身は残り。 幾春秋をか送りけん。あさましや成す事なくて徒らに。 憂き年月を三輪の里に。 住居する女にて。

 候。詞「又此北山陰に玄賓僧都とて。 貴き人の御入り候ふ程に。 いつも樒閼伽の水を汲みて参らせ候。 今日もまた参らばやと思ひ候。 ワキ「山頭には夜孤輪の月を戴き。 洞口には朝一片の雲を吐く。 山田もるそほづの身こそ悲しけれ。秋はてぬれば。 訪ふ人もなし。 シテ詞「いかに此庵室のうちへ案内申し候はん。 ワキ「案内申さんとはいつも来れる人か。

シテ「山影門に入つて推せども出でず。 ワキ「月光地に敷いて掃へども又生ず。二人「鳥声とこしなへにして。 老生と静かなる山居。 地下歌「柴の編戸を押し開き。かくしも尋ね切樒。 罪を助けてたび給へ。上歌「秋寒き窓の内。/\。 軒の松風うちしぐれ。木の葉かきしく庭の面。 門は葎や閉ぢつらん。下樋の水音も苔に。 聞えて静かなる此山住ぞ淋しき。 シテ詞「いかに上人に申すべき事の候。 秋も夜寒になり候へば。御衣を一重たまはり候へ。 。 ワキ詞「易き間の事この衣を参らせ候ふべし。シテ「あらありがたや候。 さらば御暇申し候はん。ワキ「暫く。さて/\御身は何くに住む人ぞ。シテ「妾が住家は三輪の里。 山本近き処なり。その上我が庵は。 三輪の山本恋しくはとは詠みたれども。 何しに我をば訪ひ給ふべき。 なほも不審に思し召さば。訪ひ来ませ。 地「杉立てる門をしるしにて。尋ね給へと言ひ捨てゝ。

かき消すごとくに失せにけり。中入間「。 ワキ詞「この草庵を立ち出でて。/\。 行けば程なく三輪の里。 近きあたりが山陰の。松はしるしもなかりけり。 杉村ばから。 り立つなる神垣はいづくなるらん神垣はいづくなるらん。 。 ワキ「不思議やなこれなる杉の二本を見れば。 ありつる女人に与へつる衣の懸かりたるぞや。 詞「寄りて見れば衣の褄に金色の文字すわれり。読みて見れば歌なり。 三つの輪は清く浄きぞ唐衣。 くると思ふな。取ると思はじ。 後シテ「千早振る。神も願のあるゆゑに。 人の値遇に。逢ふぞうれしき。 ワキ「不思議やなこれなる杉の木蔭より。 妙なる御声の聞えさせ給ふぞや。 願はくは末世の衆生の願をかなへ。 御姿をまみえおはしませと。念願深き感涙に。 墨の衣を濡らすぞや。シテ「恥かしながら我が姿。

上人にまみえ申すべし。罪を助けてたび給へ。 ワキ「いや罪科は人間にあり。 これは妙なる神道の。シテ「衆生済度の方便なるを。 ワキ「暫し迷の。シテ「人心や。 地歌「女姿と三輪の神。/\。〓{チハヤ}掛帯引きかへて。 唯祝子が着すなる。烏帽子狩衣。 もすその上に掛け。 御影あらたに見え給ふかたいけなの御事や。 。 地クリ「それ神代の昔物語は末代の衆生のため。済度方便の事業。 品々もつて世の為なり。シテサシ「中にもこの敷島は。 人敬つて神力増す。地「五濁の塵に交はり。 しばし。 心は足引の大和の国に年久しき夫婦の者あり。八千代をこめし玉椿。 変らぬ色を頼みけるに。クセ「されどもこの人。 夜は来れども昼見えず。ある夜の睦言に。 御身いかなる故により。 かく年月を送る身の。 昼をば何と烏羽玉の夜ならで通ひ給はぬはいと不審多き事なり。

唯同じくはとこしなへに。 契をこむべしとありしかば。彼の人答へいふやう。 実にも姿は羽束師の。漏りてよそにや知られなん。 今より後は通ふまじ。 契も今宵ばかりなりと。懇に語れば。さすが別の悲しさに。 帰る処を知らんとて。苧環に針をつけ。 裳裾にこれを閉ぢつけて。 跡をひかへて慕ひ行く。シテ「まだ青柳の糸長く。 地「結ぶや早玉の。おのが力にさゝがにの。 糸くり返し行く程に。この山本の神垣や。 杉の下枝に留りたり。 こはそもあさましや契りし人の姿か其糸の三わけ残りしより。 。 三輪のしるしの過ぎし世を語るにつけて恥かしや。 ロンギ地「実に有難き御相好。 聞くにつけても法の道なほしも頼む心かな。 シテ「とても神代の物語。 くはしくいざや現し彼の上人を慰めん。地「先は岩戸のさおの初。 隠れし神を出さんとて。八百万の神遊。

是ぞ神楽の始なる。シテ「千早振る。神楽「。 ワカ「天の岩戸を。引き立てゝ。 地「神は跡なく入り給へば。常闇の世と。早なりぬ。 シテ「八百万の神たち。 岩戸の前にてこれを歎き。神楽を奏して舞ひ給へば。 地「天照大神其時に岩戸を少し開き給へば。 又常闇の雲晴れて。日月光り輝けば。

人の面白々と見ゆる。シテ「面白やと神の御声の。 地「妙なる始の。物語。 キリ地「思へば伊勢と三輪の神。/\。 一体分身の御事今更何と岩倉や。その関の戸の夜も明け。 かく有難き夢の告。 覚むるや名残なるらん/\ 大臣 神子。

。 ワキ詞「抑も是は当今に仕へ奉る臣下なり。 さても我が君あらたなる霊夢を蒙り給ひ。 千疋の巻絹を三熊野に納め申せとの宣旨に任せ。国々より巻絹を集め候。 さる間都より参るべき巻絹遅なはり候。 参りて候はゞ神前に納めばやと存じ候。 ツレ次第「今を始の旅ごろも。/\。 紀の路にいざや急がん。

サシ「都の手ぶりなりとても。旅は心の安かるべきか。 殊更これは王土の命。重荷をかくる南の国。 聞くだに遠き千里の浜辺。 山は苔路のさかしきを。いつかは越えん。旅の道。 休らふ間も無き心かな。下歌「これとても。 君の恵によも洩れじ。上歌「麻裳よい。 紀の関越えて遥々と。/\。 山また山をそことしも。分けつゝ行けばこれぞこの。

今ぞ始めて三熊野の。 御山に早く着きにけり。/\。詞「急ぎ候ふ程に。 三熊野に着きて候。 先々音無の天神へ参らばやと思ひ候。や。冬梅のにほひの聞え候。 いづくにか候ふらん。げにこれなる梅にて候。 この梅を見て何となく思ひ連ねて候。 南無天満天神。 心中の願を叶へて給はり候へと。地「神に祈の言の葉を。 心の内に手向けつゝ。急ぎ参りて。 先づ君に仕へ申さん。 ツレ詞「いかに案内申し候。 都より巻絹を持ちて参りて候。 ワキ「何とて遅なはりたるぞ。その為に日数を定め参るなかに。 汝一人おろかなる。 地上歌「その身の科はのがれじと。/\。やがて縛めあらけなき。 苦を見せて目のあたり。 罪の報を知らせけり/\。 。シテ詞「なう/\ その下人をば何とて縛め給ふぞ。その者はきのふ音無の天神にて。

。 一首の歌をよみわれに手向けし者なれば。納受あれば神慮。少し涼しき三熱の。 苦を免るそれのみか。人倫心なし。 詞「その縄解けとこそ。 解けや手櫛のみだれ髪。地「解けや手櫛の乱れ髪の。 神は受けずや御注連の縄の。 引き立て解かんとこの手を見れば。心強くも岩代の松の。 何とか結びし。なさけなや。 ワキ詞「これはさて何と申したる御事にて候ふぞ。 シテ詞「この者は音無の天神にて。 一首の歌を詠みわれに手向けし者なれば。とく/\縄を解き給へ。 ワキ「これは不思議なる事を承り候ふ物かな。 かほど賎しき者の歌など詠むべき事思もよらず。 いかさまにも疑はしき神慮かと存じ候ふよ。 シテ「なほも神慮を偽とや。 さあらば彼の者きのふ我に手向けし言の葉の。 上の句をかれに問ひ給へ。我また下の句をばつゞくべし。 ワキ「この上はとかく申すに及ばず。

いかに汝真に歌を詠みたらば。 その上の句を申すべし。男「今は憚り申すに及ばず。 かの音無の山陰に。さも美しき冬梅の。 色殊なりしを何となく。 心も染みてかくばかり。音無にかつ咲きそむる梅の花。 。 シテ「匂はざりせば誰か知るべきと。 。 詠みしは疑なきものを。 地「もとより正直捨方便の誓。 曇らぬ神慮。 すぐ。 なる故にかくばかり。 納受あれば今ははや。疑はせ給はで歌人を。 宥させ給ふべし。または心中に隠し歌も。 神の通力と知るなれば。げに疑のあだ心。 打ち解けこの縄を。とく/\許し給へや。 。

クリ「それ神は人の敬ふによつて威を増し。人は神の加護によれり。 シテサシ「されば楽む世に逢ふ事。 これ又総持の義によれり。地「言葉少うして理を含み。 三難耳絶えて寂念閑静の床の上には。 眠はるかに眼を去る。クセ「これによつて。 本有の霊光忽ちに照らし自性の月。 漸く雲をさまれり。一首を詠ずれば。 よろづの悪念を遠ざかり。 天を得れば清く地を得れば安しあらかじめ。

唯有一実相唯一金剛とは説かずや。シテ「されば天竺の。 シテ「婆羅門僧正は。行基菩薩の御手を取り。 霊山の。 釈迦の御もとに契りて真如朽ちせず逢ひ見つと詠歌あれば御返歌に。 伽毘羅衛に契りし事のかひありて。 文殊の御顔を。拝むなりと互に。 仏々を現すも和歌の徳にあらずや。 又神は出雲八重垣片そぎ。 の寒き世のためしいはずとも伝へ聞きつべし。 神のしめゆふ糸桜の風の解けとぞ思はるゝ。 。 ワキ詞「さあらば祝詞を参らせられ候ひて。神を上げ申され候へ。シテ「謹上再拝。 そも/\当山は。法性国の巽。 金剛山の霊光。この地に飛んで霊地となり。 今の大峰これなり。 地「されば御嶽は金剛界の曼荼羅。シテ「華蔵世界。熊野は胎蔵界。 地「密厳浄土有難や。神舞「。 地「不思議や祝詞の神子物狂。 不思議や祝詞の神子物狂のさもあらたなる。

飛行をいだして。神がたりするこそ。 恐ろしけれ。シテ「証誠殿は。阿弥陀如来。 地「十悪を導き。シテ「五逆をあはれむ。 地「中の御前は。シテ「薬師如来。地「薬となって。 シテ「二世を助く。地「一万文殊。 シテ「三世の覚母たり。地「十万普賢。シテ「満山護法。

地「数数の神々。かの覡につくも髪の。 御幣も乱れて。空に飛ぶ鳥の。翔り/\て地に又踊り。数珠を揉み袖を振り。 高足下足の。舞の手をつくし。これまでなりや。 神はあがらせ給ふと云ひ捨つる。 声の内より狂覚めて又本性にぞ。なりにける 静御前 佐藤忠信 衆徒

ワキ詞「これは都道者にて候。 衆会の御座敷とも存ぜず候御免あらうずるにて候。 狂言「さては都人にて候ふか。 判官殿の御行くへをば何と申し候ふぞ。 ワキ「上は御一体なれば。 終には御中直らせ給ふべきよし申し候。 狂言「さていかやうにて御落ありたると申し候。 ワキ「十二騎とこそ承つて候へ。 狂言「十二騎ならば追つかけ討ちとめ申さう。ワキ「暫く。

十二騎と申すとも。余の勢百騎二百騎にも向ふべし。 かやうに申すは都の者。 当山を信じ参る上は。いかにも御寺も宿坊も。 難なくおはしませかしと。 思へばかやうに申すなり。此上はともかくも。 地上歌「御はからひぞ吉野山。/\。よしなき申しごと。 洩れ聞えなば判官の。 後のとがめも恐ろしや御暇申し候はん/\。 シテ、アシラヒ出「さても静は忠信が。

その契約を違へじと。舞の装束ひきつくろひ。 忠信遅しと待ち居たり。 ワキ詞「これは都道者にて候ふが。法楽の舞の由承り。 下向道を忘れて候。はや/\舞を始め給ふべし。 シテ「都の人と聞けばなつかしや。 判官御道せばきこと。世上の聞いかなるぞ。 都人こそ知るべけれ。 ワキ詞「終には御中直らせ給ふべしと。 聞くより人々先非を悔いて。皆々恐れ申すなり。 シテ「偖は嬉しや委しくも。知らせ給ふか都人。 ワキ詞「あまりに事延び時移りぬ。心得給へ舞の袖。 シテ「げになう語多き者は品すくなし。 かやうにわれら言の葉過ぎば。なか/\人も怪みて。もしもそれとか三吉野の。 かつて知らすな。 一セイ静かに囃せや静が舞に。地「衆徒も時刻や移すらん。 シテ「神こそ納受ましますらめ。 地「げにこの御代も静がまひ。 シテサシ「しかるにかの判官は。

神道を重んじ朝家を敬ひ。 地「ひとへに忠勤を抽んでて。 私の心さらになし。 シテ「人は讒し申すとも。 地「神は正直の頭に宿り給ふなれば。静が舞の袖に。 暫くうつりおはしまし。我が君を守り給へと。 祈るぞあはれなりける。クセ「そも/\景時が。 その讒言の水上を。思へば渡辺や。 流るゝ水に満潮の。逆櫓立てんと浮舟の。 梶原が申しごと。よも順義には候はじ。 されば義経はすぐに修めし三吉野の。 神の誓の真あらば。頼朝も聞しめし。直され・義経{ぎけい}。 ふせつの勅を受け。洛陽の西南は。 これ分国となるべし。さあらば当山の。 衆徒悉く参洛し。帰依渇仰の御袖に。 恵をいだ。 き給ふべしあなかしこ不忠なし給ふな御科は候はじ。シテ「たゞし衆徒中に。 ひとり憤深うして。 地「進みて追つかけ給ふとも。その名きこゆる人々を。 討ちとどめ申さんは。片岡増尾鷲の尾さて。

忠信はならびなき。精兵ぞよ人々に。 防矢射られ給ふなと。語ればげには衆徒中に。 進む人こそなかりけれ。 シテ「賎や賎。序ノ舞(又ハ中ノ舞)「。 ワキ「賎やしづ賎の苧環繰り返し。地「むかしを今に。 なすよしもがな。あまりに舞の。面白さに。 時刻を移して。進まぬもありけり。 又は判官の武勇に恐れてよし義経をば。 おとし申せと詮議を加ふる。衆徒もありけり。 さるほどに時移つて。主君も今は忠信が。 はかりごとにて難なくはるかに。 落し申しつ。 心しづかに願成就して都へとてこそ。帰りけれ 随身(能ニテハ二人) 惟光 源氏の君 侍女(能ニテハ三人) 明石の上 住吉神主

ワキ詞「これは摂州住吉の神主。 菊園の何某にて候。 さても此頃都において誉ならび無き光源氏。さる宿願の子細あつて。 当社御参詣と仰せ出され候ふ程に。 社人どもを召し出し社内をも清め。 其心得をなすべき由申しつけばやと存じ候。 惟光立衆一声「小車の。轅も続く都路の。 直に治まる時世かな。 惟光サシ「抑これは誉世に超え威光曇らぬ。光源氏にておはします。 さても此君頼をかけし。 住吉の神に所願を満てんと。惟光立衆「けふ思ひ立つ旅衣。 薄き日影も白鳥の。鳥羽の恋塚秋の山。 過ぐればいとゞ都の月の。 面影隔つる山崎や。関戸の宿も移り来ぬ。

下歌「払はぬ塵の芥川。猪名の笹原分け過ぎて。 上歌「見渡せば。薄霧まがふそなたより。/\。 ほの見えそむる村紅葉。 これや交野に狩り暮れて春見し花のそれならん。 猶行先は渡辺や。大江の岸による波も。 音立ち変へて住吉の。 浦曲になるも程ぞなき。/\。 。源氏サシ「聞きしに超えていよ/\ありがたき。神の誓も潔き。浦曲の浪の瑞籬の。 久しき御代を守り給へ。地上歌「日の本の。 神の誓はおしなべて。/\。和光同塵は。 結縁の御始。 八相成道は利物のはてしなきまで国富み。 民を憐む御心を誰かは仰がざるべき/\。

ワキ詞「唯今の御参詣めでたう候。 惟光「さあらば祝詞を参らせられ候へ。 ワキ「いでいで祝詞を申さんと。 神主御幣を捧げつつ。すでに祝詞を申しけり。謹上再拝。 敬つて白す神慮をすゞしめの神楽。 八人の八乙女。五人の神楽をのこ。 颯々の鈴の音。丁々の鼓の声々に。 諷ふ榊葉の神歌。幾久方の天地開闢。泰平諸人快楽。 福寿円満に守らしめ給へや。 抑立つる所の。諸願成就皆令満足。有難や。 地上歌「来し方の。御願に猶もうち添へて。/\。 さもありがたき神慮の。 納受もかくやと感涙肝に銘じけり。いよ/\悦の御盃。 神主に賜びければ。 をりふし御供に河原の。大臣の御例とて。内より賜はれる。 童随身其時に。お酌に立ちて慰の。 今様朗詠す。 随身「一樹の蔭や一河の水。 地「皆これ他生の縁といふ。白拍子をぞ奏でける。掛リ、中ノ舞「。

随身「われ見ても。久しくなりぬ。 すみよしの。地「岸の姫松幾代経ぬらん。 地上歌「千代万代の舞の袂。/\。いよ/\廻る盃の。有明になる沖つ舟の。ほの%\明くる住吉の。浦より遠の淡路島。 あはれはてなきながめかな/\。 シテ、ツレ三人一声「明石潟。月待つ方に行く舟の。 波しづかなる浦伝ひ。上歌「舟出せし。 後の山の山颪。/\。関吹き越えて行く程に。 。 須磨の浦わもいつしかに跡の名残もおしてるや。 難波入江に寄するなる。波はさながら白雪の。 津守の浦に着きにけり/\。 。 ツレ女「松原の深緑なる木蔭より。 花紅葉を散らせる如くなる。色の衣々数々に。 のゝしりて詣づる人影は。 いかなる人にてあるやらん。 惟光「これは都に光君。

過ぎにし須磨の御願はたしに。詣で給ふといさ知らぬ。 人もありける不思議さよ。 シテ「あら恥かしや光君と。聞くより胸うち騒ぎつゝ。 いとゞ心も上の空の。 惟光「月日こそあれけふこの頃。詣で来んとは。シテ「白露の。 地上歌「玉襷。かけも離れぬ宿世とは。 /\。思ひながらもなか/\に。 此ありさまをよその見る目も恥かしや。 さりとては浦浪の。帰らば中空に。 ならんも憂しやよしさらば。難波の潟に舟とめて。

祓だに白波の。入江に舟をさし寄する。 ロンギ「不思議やな。ありし明石の浦浪の。 立ちも帰らぬ面影の。 それかあらぬか舟かげの。信夫もじずり誰やらん。 シテ「誰ぞとは。よそに調の中の緒の。 其音違はず逢ひ見んの。頼めを早く住吉の。 岸に生ふてふ草ならん。源氏「忘草。々々。 生ふとだに聞く物ならば。 其かね言もあらじかし。地「実になほざりに頼めおく。 その一言も今ははや。 源氏「ありし契の縁あらば。地「やがての逢瀬も程あらじの。 心は互に。変らぬ影も盃の。 度重なれば惟光も。惟光「傅御酌をとり%\の。 地「酔に引かるゝ戯の舞。 面はゆながらもうつりまひ。中ノ舞(序ノ舞ニモ)「。 シテ「身をづくし。 恋ふるしるしにこゝまでも。地「めぐり逢ひける。縁は深しな。 シテ「数ならで。難波の事もかひなきに。 何みをづくし思ひ初めけん。

互の心を夕汐満ちきて。 地「入江の田鶴も声をしまぬほど。 哀なるをりから。 人目もつゝまず逢ひ見まほしくは。思へども。 はや漕ぎ離れて。 行く袖の露けさも。昔に似たる旅衣。 田蓑の島も。遠ざかるまゝに。 名残もうしの車にめされて。 のぼれば下るや稲舟の。 舟影もほの%\と明石の浦曲の舟をし思ひの。

別かな 旅僧 松風 村雨

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我いまだ西国を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち西国行脚と志して候。 あら嬉しや急ぎ候ふ程に。 これははや津の国須磨の浦とかや申し候。又これなる磯辺を見れば。

様ありげなる松の候。 いかさま謂のなき事は候ふまじ。 このあたりの人に尋ねばやと思ひ候。 ワキ「さては此松は。 いにしへ松風村雨とて。二人の海人の旧跡かや。

痛はしや其身は土中に埋もれぬれども。 名は残る世のしるしとて。変らぬ色の松一木。 緑の秋を残す事のあはれさよ。 詞「かやうに経念仏してとぶらひ候へば。 実に秋の日のならひとてほどなう暮れて候。 あの山本の里まで程遠く候ふほどに。 これなる海人の塩屋に立ち寄り。 一夜を明かさばやと思ひ候。 シテツレ二人真ノ一声「汐汲車。わづかなる。 うき世にめぐる。はかなさよ。 ツレ二ノ句「波こゝもとや須磨のうら。二人「月さへぬらす。袂かな。 シテサシ「心づくしの秋風に。 海はすこし遠けれども。かの行平の中納言。 二人「関吹き越ゆるとながめたまふ。 浦曲の波の夜々は。実に音近き海人の家。 里離れなる通路の月より外は友もなし。 シテ「実にや浮世の業ながら。 殊につたなき海人小舟の。二人「わたりかねたる夢の世に。 住むとや云はんうたかたの。

汐汲車よるべなき。身は蜑人の。袖ともに。思を乾さぬ。 心かな。 地下歌「かくばかり経がたく見ゆる世の中に。うらやましくも。 澄む月の出汐をいざや。 汲まうよ出汐をいざや汲まうよ。上歌「かげはづかしき我が姿。/\。 忍車を引く汐の跡に残れる。 溜水いつまで澄みは果つべき。 野中の草の露ならば。 日影に消えも失すべきにこれは磯辺に寄藻かく。 海人の捨草いたづらに朽ち増りゆく。袂かな朽ちまさりゆく袂かな。 。 シテサシ「おもしろや馴れても須磨のゆふま暮。海人の呼声幽にて。 二人「沖にちひさきいさり舟の。影幽なる月の顔。 雁の姿や友千鳥。野分汐風いづれも実に。 かゝる所の秋なりけり。 あら心すごの夜すがらやな。 シテ「いざ/\汐を汲まんとて。 汀に満干の汐衣の。ツレ「袖を結んで肩に掛け。 シテ「汐汲むためとは思へども。

ツレ「よしそれとても。シテ「女車。 地「寄せては帰るかたをなみ。/\。芦辺の。 田鶴こそは立ちさわげ四方の嵐も。 音添へて夜寒なにと過さん。更け行く月こそさやかなれ。 汲むは影なれや。 焼く塩煙心せよ。 。 さのみなど海士人。 の憂き秋のみを過さん。 松島や小島。 の海人の月にだに。 影を汲むこそ心あ。 れ影を汲むこそ心あれ。 。 ロンギ地「運ぶは遠き。 陸奥のその名や千賀の塩竈。 シテ「賎が塩木を運びしは阿漕が浦に引く汐。地「その伊勢の。 海の二見の浦二度世にも出でばや。 シテ「松の村立かすむ日に汐路や。遠く鳴海潟。

地「それは鳴海潟こゝは鳴尾の松蔭に。 月こそさはれ芦の屋。 シテ「灘の汐汲む憂き身ぞと人にや。誰も黄楊の櫛。 地「さしくる汐を汲み分けて。見れば月こそ桶にあれ。 シテ「これにも月の入りたるや。 地「うれしやこれも月あり。シテ「月は一つ。 地「影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて。 憂しともおもはぬ汐路かなや。

ワキ詞「塩屋の主の帰りて候。 宿を借らばやと思ひ候。 いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。 ツレ詞「誰にて渡り候ふぞワキ「これは諸国一見の僧にて候。 一夜の宿を御貸し候へ。ツレ「暫く御待ち候へ。 主にその由申し候ふべし。いかに申し候。 旅人の御入り候ふが。 一夜の御宿と仰せ候。 シテ詞「余りに見苦しき塩屋にて候ふ程に。御宿は叶ふまじきと申し候へ。 ツレ「主に其由申して候へば。 塩屋の内見苦しく候ふ程に。御宿は叶ふまじき由仰せ候。 ワキ「いや/\見苦しきは苦しからず候。 出家の事にて候へば。 平に一夜を明かさせて賜はり候へと重ねて御申し候へ。 ツレ「いや叶ひ候ふまじ。シテ「暫く。 月の夜影に見奉れば世を捨人。よし/\かゝる海人の家。松の木柱に竹の垣。 夜寒さこそと思へども。 芦火にあたりて御泊りあれと申し候へ。

ツレ詞「此方へ御入り候へ。 ワキ「あらうれしやさらばかう参らうずるにて候。 。 シテ詞「始より御宿参らせたく候ひつれども。余りに見苦しく候ふ程に。 さて否と申して候。ワキ「御志有難う候。 出家と申し旅といひ。 泊りはつべき身ならねば。何くを宿と定むべき。 其上此須磨の浦に心あらん人は。 わざともわびてこそ住むべけれ。 わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に。 詞「藻塩たれつゝわぶと答へよと。行平も詠じ給ひしとなり。 又あの磯辺に一木の松の候ふを。 人に尋ねて候へば。 松風村雨二人の海士の旧跡とかや申し候ふ程に。 逆縁ながら弔ひてこそ通り候ひつれ。あら不思議や。 松風村雨の事を申して候へば。二人ともに御愁傷候。 これは何と申したる事にて候ふぞ。 シテツレ二人「実にや思内にあれば。 色外にあらはれさぶらふぞや。

わくらはに問ふ人あらばの御物語。 余りになつかしう候ひて。なほ執心の閻浮の涙。 ふたゝび袖をぬらしさぶらふ。 ワキ詞「なほ執心の閻浮の涙とは。今は此世に亡き人の詞なり。 又。 わくらはの歌もなつかしいなどと承り候。かた%\不審に候へば。 二人ともに名を御名告り候へ。 二人「恥かしや申さんとすればわくらはに。 言問ふ人もなき跡の。世にしほじみてこりずまの。 恨めしかりける心かな。 クドキ「此上は何をかさのみつゝむべき。これは過ぎつる夕暮に。 あの松蔭の苔の下。亡き跡とはれ参らせつる。 。 松風村雨二人の女の幽霊これまで来りたり。さても行平三年が程。御つれ%\の御船あそび。 月に心は須磨の浦夜汐を運ぶ海人乙女に。おとゞひ選ばれ参らせつゝ。 をりにふれたる名なれやとて。 松風村雨召されしより。 月にも馴るゝ須磨の海人の。シテ「塩焼衣。色替へて。

二人「〓{カトリ:大漢和27750}の衣の。空焼なり。 シテ「かくて三年も過ぎ行けば。行平都にのぼりたまひ。 ツレ「幾程なくて世を早う。 去り給ひぬと聞きしより。シテ「あら恋しやさるにても。 又いつの世の音信を。地「松風も村雨も。 袖のみぬれてよしなやな。 身にも及ばぬ恋をさへ。須磨の余りに。 罪深し跡弔ひてたび給へ。 地歌「恋草の露も思も乱れつゝ。/\。 心狂気に馴衣の。巳の日の。 祓や木綿四手の。神の助も波の上。あはれに消えし。 憂き身なり。クセ「あはれ古を。 思ひ出づればなつかしや。 行平の中納言三年はこゝに須磨の浦。都へ上り給ひしが。 此程の形見とて。御立烏帽子狩衣を。 残し置き給へども。これを見る度に。 弥益の思草葉末に結ぶ露の間も。 忘らればこそあぢきなや。 形見こそ今はあだなれこれなくは。忘るゝ隙もありなんと。

よみしも理やなほ思こそ深けれ。シテ「宵々に。 脱ぎて我が寝る狩衣。 地「かけてぞ頼む同じ世に。 住むかひあらばこそ忘形見もよしなしと。 捨てゝも置かれず取れば面影に立ち増り。起臥わかで枕より。 後より恋の責め来れば。 せんかた涙に伏し沈む事ぞ悲しき。 シテ「三瀬河絶えぬ。涙の憂き瀬にも。 乱るゝ恋の。淵はありけり。 あらうれしやあれに行平の御立ちあるが。 松風と召されさむらふぞやいで参らう。 ツレ「あさましやその御心故にこそ。 執心の罪にも沈み給へ。娑婆にての妄執をなほ。 忘れ給はぬぞや。あれは松にてこそ候へ。 行平は御入りもさむらはぬものを。 シテ「うたての人の言事や。あの松こそは行平よ。 たとひ暫しは別るゝとも。 まつとし聞かば帰りこんと。連ね給ひし言の葉はいかに。 ツレ「実になう忘れてさむらふぞや。

たとひ暫しは別るゝとも。 待たば来んとの言の葉を。 シテ「こなたは忘れず松風の立ち帰りこん御音信。 ツレ「終にも聞かば村雨の。袖しばしこそぬるゝとも。 シテ「まつに変らで帰りこば。ツレ「あら頼もしの。 シテ「御歌や。地「立ち別れ。中ノ舞「。 シテワカ「いなばの山の峰に生ふる。松とし聞かば。 今帰り来ん。それはいなばの遠山松。 地「これはなつかし君こゝに。 須磨の浦曲の松の行平。立ち帰りこば我も木蔭に。 いざ立ち寄りて。磯馴松の。なつかしや。破ノ舞「。 キリ地「松に吹き来る風も狂じて。 須磨の高波はげしき夜すがら。 妄執の夢に見ゆるなり。我が跡弔ひてたび給へ。 暇申して。帰る波の音の。 須磨の浦かけて吹くや後の山おろし。 関路の鳥も声々に夢も。 跡なく夜も明けて村雨と聞きしも今朝見。 れば松風ばかりや残るらん松風ばかりや残るらん 平宗盛 従者 朝顔 熊野

ワキ詞「これは平の宗盛なり。 さても遠江の国池田の宿の長をば熊野と申し候。 久しく都にとゞめおきて候ふが。 老母のいたはりとて度々暇を乞ひ候へども。 この。 春ばかりの花見の友とおもひ留めおきて候。いかに誰かある。ワキツレ詞「御前に候。 。 ワキ「熊野きたりてあらば此方へ申し候へ。ワキツレ「畏つて候。 ツレ次第「夢の間惜しき春なれや。/\。咲く頃花を尋ねん。 サシ「これは遠江の国池田の宿。 長者の御内につかへ申す。朝顔と申す女にて候。 。 詞「さても熊野久しく都に御入り候ふが。此程老母の御いたはりとて。 度々人を御のぼせ候へども。 更に御くだりもなく候ふ程に。

此度は朝顔が御むかへにのぼり候。 道行「此程の旅の衣の日もそひて。/\。幾夕暮の宿ならん。 夢も数そふ仮枕。明かし暮らして程もなく。 都に早く着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。 これは早都に着きて候。 これなる御内が熊野の御入り候ふ所にてありげに候。まづ/\案内を申さばやと思ひ候。いかに案内申し候。 池田の宿より朝顔が参りて候。それ/\おん申し候へ。シテサシアシラヒ出「草木は雨露のめぐみ。 養ひ得ては花の父母たり。 況んや人間に於てをや。 あら御心もとなや何とか御入り候ふらん。 ツレ詞「池田の宿より朝顔がまゐりて候。シテ詞「なに朝顔と申すか。 あらめづらしや。

さて御いたはりは何と御入りあるぞ。ツレ「以ての外に御入り候。 これに御文の候御覧候へ。 シテ「あらうれしや先々御文を見うずるにて候。 あら笑止や。 此御文のやうも頼みずくなう見えて候。ツレ「左様に御入り候。 シテ「此上は朝顔をも連れて参り。 又此文をも御目にか。 けて御暇を申さうずるにてあるぞこなたへ来り候へ。誰か渡り候。 ワキツレ「誰にて渡り候ふぞ。や。熊野の御まゐりにて候。 シテ「わらはが参りたる由御申し候へ。 ワキツレ「心得申し候。いかに申し上げ候。 熊野の御まゐりにて候。 ワキ「こなたへ来れと申し候へ。ワキツレ「畏つて候。 こなたへ御参り候へ。 シテ「いかに申し上げ候。 老母のいたはり以ての外に候ふとて。此度は朝顔に文をのぼせて候。 便なう候へどもそと見参に入れ候ふべし。 ワキ「なにと故郷よりの文と候ふや。 見るまでもなしそれにて高らかに読み候へ。

シテ文ノ段「甘泉殿の春の夜の夢。 心を砕く端となり。 驪山宮の秋の夜の月終なきにしもあらず。末世一代教主の如来も。 生死の掟をば遁れ給はず。 過ぎにし二月の頃申しゝ如く。何とやらん此春は。 年ふりまさる朽木桜。今年ばかりの花をだに。 待ちもやせじと心弱き。老の鴬逢ふ事も。 涙に咽ぶばかりなり。 たゞ然るべくはよきやうに申し。 しばしの御暇を賜はりて。今一度まみえおはしませ。 さなきだに親子は一世のなかなるに。 同じ世にだに添ひ給はずは。 孝行にもはづれ給ふべし。唯かへす%\も命の内に今一度。 見まゐらせたくこそ候へとよ。 老いぬればさらぬ。別のありといへば。いよ/\見まくほしき君かなと。 古事までも思出の涙ながら書きとゞむ。 地歌「そも此歌と申すは。/\。在原の業平の。 其身は朝に隙なきを。

長岡に住み給ふ老母の詠める歌なり。さてこそ業平も。 さらぬ別のなくもがな。 千代もと祈る子の為とよみし事こそ。 あはれなれ詠みし事こそあはれなれ。 シテ「今はかやうに候へば。 御暇を賜はり。東に下り候ふべし。 ワキ詞「老母の痛はりはさる事なれどもさりながら。 この春ばかりの花見の友。 いかで見すて給ふべき。 シテ「御ことばをかへせば恐なれども。花は春あらば今に限るべからず。 これはあだなる玉の緒の。 永き別となりやせん。たゞ御暇を賜はり候へ。 ワキ「いやいや左様に心よわき。 身に任せてはかなふまじ。いかにも心を慰めの。 花見の車同車にて。ともに心を慰まんと。 地歌「牛飼車寄せよとて。/\。 これも思の家の内。はや御出と勧むれど。 心は先に行きかぬる。足弱車の力なき花見なりけり。 シテ「名も清き。

水のまに/\とめくれば。地「河は音羽の。山桜。 シテ「東路とても東山せめて。其方のなつかしや。

。 サシ地「春前に雨あつて花の開くる事早し。秋後に霜なうして落葉遅し。 山外に山有つて山尽きず。 路中に路多うして道きはまりなし。 シテ「山青く山白くして雲来去す。地「人楽み人愁ふ。 これみな世上の有様なり。下歌「誰か言ひし春の色。 げに長閑なる東山。上歌「四条五条の橋の上。 /\。老若男女貴賎都鄙。 色めく花衣袖を連ねて行末の。雲かと見えて八重一重。 さく九重の花ざかり。名に負ふ春の。 けしきかな名におふ春のけしきかな。 ロンギ地「河原おもてを過ぎゆけば。 急ぐ心の程もなく。車大路や六波羅の。 地蔵堂よと伏し拝む。シテ「観音も同座あり。 闡提救世の。 方便あらたにたらちねを守り給へや。地「げにや守の末すぐに。 たのむ命は白玉の。愛宕の寺も打ち過ぎぬ。 六道の辻とかや。 シテ「実に恐ろしや此道は。冥途に通ふなるものを。心細鳥辺山。

地「煙の末も薄霞む。 声も旅雁のよこたはる。シテ「北斗の星の曇なき。 地「御法の花も開くなる。シテ「経書堂はこれかとよ。 地「其たらちねを尋ぬなる。 子安の塔を過ぎ行けば。シテ「春の隙行く駒の道。 地「はや程もなくこれぞこの。シテ「車宿。 地「馬留。こゝより花車。 おりゐの衣播磨潟飾磨の徒歩路清水の。仏の御前に。 念誦して母の祈誓を申さん。 ワキ詞「いかに誰かある。ワキツレ「御前に候。 ワキ「熊野はいづくにあるぞ。 トモ「いまだ御堂に御座候。 ワキ「何とて遅なはりたるぞ急いでこなたへと申し候へ。 ワキツレ「畏つて候。いかに朝顔に申し候。 はや花の本の御酒宴の始まりて候。 急いで御まゐりあれとの御事にて候。 其由仰せられ候へ。ワキツレ「心得申し候。いかに申し候。 はや花の本の御酒宴の始まりて候。 急いで御まゐりあれとの御事にて候 < P 225c>。 シテ「何と早御酒宴の始まりたると申すか。 ワキツレ「さん候。シテ「さらば参らうずるにて候。 シテ「なう/\皆々近う御参り候へ。 あら面白の花や候。今を盛と見えて候ふに。 。 何とて御当座などをもあそばされ候はぬぞ。クリ「実に思ひ内にあれば。 色外に現る。地「よしやよしなき世のならひ。 歎きてもまた余あり。 シテサシ「花前に蝶舞ふ紛々たる雪。 地「柳上に鴬飛ぶ片々たる金。花は流水に随つて香の来る事疾し。 鐘は寒雲を隔てゝ声の至る事遅し。 クセ「清水寺の鐘の声。祇園精舎をあらはし。 諸行無常の声やらん。地主権現の花の色。 娑羅双樹のことわりなり。 生者必滅の世のならひ。実にためしある粧。 仏ももとは捨てし世の。半は雲に上見えぬ。 鷲の御山の名を残す。寺は桂の橋柱。 立ち出でて峯の雲。 花やあらぬ初桜の祇園林下河原。シテ「南を遥に眺むれば。

地「大悲擁護の薄霞。 熊野権現の移ります御名も同じ今熊野。稲荷の山の薄紅葉の。 青かりし葉の秋また花の春は清水の。 唯たのめ頼もしき春も千々の花盛。シテ「山の名の。 音羽嵐の花の雪。地「深き情を。人や知る。 シテ詞「妾御酌にまゐり候ふべし。 ワキ詞「いかに熊野。一さし舞ひ候へ。地「深き情を。 人や知る。中ノ舞。 。シテ詞「なう/\俄に村雨のして花の散り候ふは如何に。ワキ詞「げに/\村雨の降り来つて花を散らし候ふよ。 シテ「あら心なの村雨やな春雨の。地「降るは涙か。 降るは涙か桜花。散るを惜まぬ。人やある。 イロエ「。 ワキ詞「由ありげなる言葉の種取上げ見れば。いかにせん。都の春も惜しけれど。 シテ「なれし東の花や散るらん。 ワキ詞「げに道理なりあはれなり。 早々暇とらするぞ東に下り候へ。シテ「何御いとまと候ふや。 ワキ詞「中々の事とく/\下り候ふべし。

シテ「あら嬉しや尊やな。 これ観音の御利生なり。これまでなりや嬉しやな。 地「是までなりや嬉しやな。 かくて都に御供せば。またもや御意のかはるべき。 たゞ此まゝに御いとまと。

木綿附の鳥が鳴く東路さして行く道の。やがて休らふ逢坂の。 関の戸ざしも心して。 明け行く跡の山見えて。 花を見すつる雁のそれは越路我はまた。東に帰る名残かな/\ 帝王 紀貫之 小野小町 大伴黒主 凡河内躬恒 壬生忠岑 官女二人 同従者

ワキ詞「これは大伴の黒主にて候。 さても明日内裏にて御歌合あるべしとて。 黒主があひてには小野の小町を御定め候。 小町と申すは歌の上手にて。 更にあひてにはかなひがたく候ふ程に。 あすの歌を定めて吟ぜぬ事は候ふまじ。 かの私宅へ忍び入り。歌を聞かばやと存じ候。 シテサシアシラヒ出「それ歌の源を尋ぬるに。 聖徳太子は救世の大仙。 片岡山の製をろせいに弘め給ふ。

詞「さても明日内裏にて御歌合あるべきとて。 小町があひてに黒主を御定め候ひて。 水辺の草といふ題を賜はりたり。 面白や水辺の草といふ題に浮みて候ふはいかに。 蒔かなくに何を種とて浮草の。波のうね/\生ひ茂るらん。 此歌をやがて短冊にうつし候はん。シテ中入「。 ワキ「いかにたゞ今の歌を聞いてあるか。 狂言「さん候承つて候。 ワキ「何と聞いてあるぞ。狂言「蒔かなくに何を種とて瓜蔓の。 畠のうねをまろびあるくらん。

ワキ「いやさやうにてはなきぞ。 道の道たるは常の道にはあらず。知れるを以て道とす。 不得心なることにて候へども。 唯今の歌を万葉の草子にうつし。帝へ古歌と訴へ申し。 明日の御歌合に勝たばやと存じ候。 貫之、黒主、立衆、次第「めでたき御代の歌合。/\。 詠じて君を仰がん。サシ「時しも頃は卯月半。 清涼殿の御会なれば。 花やかにこそ見えたりけれ。 貫之「かくて人丸赤人の御詠を懸け。貫之、黒主、立衆「各々よみたる短冊を。 われもわれもと取り出し。 御詠の前にぞ置きたりける。貫之「さて御前の人々には。 貫之、黒主、立衆「小町を始め河内の躬恒紀の貫之。 貫之「右衛門の府生壬生の忠岑。 一同「ひだりみぎりに着座して。 貫之「既に詠をぞ始めける。ほの%\と明石の浦の朝霧に。 島隠れ行く舟をしぞ思ふ。 地「げに島隠れ入る月の。/\。淡路の絵島国なれや。 はじめて歌の遊こそ。心和ぐ道となれ。

その歌人の名所も。皆庭上に並み居つゝ。 君の宣旨を待ち居たり。/\。 王詞「いかに貫之。貫之「御前に候。 王「始より小町が相手には黒主を定めたり。 まづまづ小町が歌を読み上げ候へ。 貫之「畏つて候。水辺の草。 蒔かなくに何を種とて浮草の。波のうね/\生ひ茂るらん。 王「面白とよみたる歌や。 此歌に優るはよもあらじ。皆々詠じ候へ。貫之「畏つて候。 ワキ「暫く候。これは古歌にて候。 王「何と古歌と申すか。ワキ「さん候。 王「いかに小町。何とて古歌をば申すぞ。 シテ「恥かしの勅諚やな。先代の昔はそも知らず。 既に衣通姫此道のすたらん事を歎き。 和歌の浦曲に跡を垂れ給ひ。 玉津島の明神より此方。皆此道をたしなむなり。 それに今の歌を古歌と仰せ候ふは。 古今万葉の勅撰にて候ふか。 又は家の集にてあるやらん。作者は誰にてましますぞ。

委しく仰せ候へ。 ワキ詞「仰の如く其証歌分明ならではいかでか奏し申すべき。 草子は万葉題は夏。水辺の草とは見えたれども。 読人しらずとかきたれば。 作者は誰とも存ぜぬなり。シテ「それ万葉は奈良の御宇。 撰者は橘の諸兄。歌の数は七千首に及んで。 皆わらはが知らぬ歌はさむらはず。 万葉。 といふ草子に数多の本の候ふかおぼつかなうこそ候へ。ワキ「げに/\それはさる事なれどもさりながら。 御身は衣通姫の流なれば。憐む歌にて強からねば。 古歌を盗むは道理なり。 シテ「さては御事は古の猿丸太夫のながれ。 それは猿猴の名をもつて。我が名をよそに立てんとや。 正しくそれは古歌ならず。 ワキ「花の蔭行く山賎の。シテ「その様賎しき身ならねば。 何とて古歌とは見るべきぞ。 ワキ「さて詞をたゞさで誤りしは。 富士のなるさの大将や。四病八病三代八部同じ文字。

シテ「もじもかほどの誤は。ワキ「昔も今も。 シテ「ありぬべし。地「不思議や上古も末代も。 三十一字のそのうちに。 一字もかはらで詠みたる歌。これ万葉の歌ならば。 和歌の不思議と思ふべし。 さらば証歌をいだせとの。宣旨度々下りしかば。 初は立春の題なれば。花も尽きぬと引き開く。 夏は涼しき浮草の。これこそ今の歌なりとて。 既に読まんとさし上ぐれば。 我が身に当らぬ歌人さへ。胸に苦しき手を置けり。 。 ましてや小町が心のうち、唯轟きの橋うち渡りて。危き心は隙もなし。 シテ「恨めしや此道の。 大祖柿の本のまうちぎみも。 小町をば捨てはて給ふか恨めしやな。クドキ「此歌古歌なりとて。 左右の大臣其外の。局々の女房たちも。 小町ひとりを見給へば。夢に夢見る心地して。 さだかならざる心かな。 此草子を取り上げ見れば。行の次第もしどろにて。

文字の墨つき違ひたり。 いかさま小町ひとり詠ぜしを黒主立ち聞きし。 帝へ古歌と訴へ申さんために。 此万葉に入筆したるとおぼえたり。余りに恥かしうさむらへば。 清き流を掬び上げ。 此草子を洗はゞやと思ひ候。貫之詞「小町はさやうに申せども。 もし又さなき物ならば。 青丹衣の風情たるべし。シテ「とに角に思ひ廻せども。 やるかたもなき悲しさに。地「泣く/\立つてすご/\と。帰る道すがら。 人目さがなや恥かしや。 貫之詞「小町暫く御待ち候へ。其由奏聞申さうずるにて候。 如何に奏聞申し候。小町申し候ふは。 唯今の万葉の草子をよく/\見候へば。 行の次第もしどろにて。文字の墨付も違ひて候ふ程に。 草子を洗ひて見たき由申し候。 王「げにげに小町が申す如く。 さらば洗ひて見よと申し候へ。貫之「畏つて候。 如何に小町勅諚にてあるぞ。急いで草子を洗ひ候へ。

シテ「綸言なればうれしくて。 落つる涙の玉だすき。結んで肩にうちかけて。 既に草子を洗はんと。 地次第「和歌の浦曲の藻汐草。/\。波寄せかけて洗はん。 シテ「天の川瀬に洗ひしは。 地「秋の七日の衣なり。シテ「花色衣の袂には。 地「梅のにほひや。まじるらん。ロンギ地「かりがねの。 翅は文字の数なれど。 跡さだめねばあらはれず。頴川に耳を洗ひしは。 シテ「濁れる世をすましけり。 地「旧台の鬚を洗ひしは。シテ「川原に解くる薄氷。 地「春の歌を洗ひては。霞の袖を解かうよ。 シテ「冬の歌を洗へば/\。地「袂も寒き水鳥の。 上毛の霜に洗はん/\。 恋の歌の文字なれば。忍ぐさの墨消え。 シテ「涙は袖に降りくれて。忍草も乱るゝ。忘れ草も乱るゝ。 地「釈教の歌の数々は。 シテ「蓮の糸ぞ乱るる。地「神祇の歌は榊葉の。 シテ「庭火に袖ぞ乾ける。地「時雨にぬれて洗ひしは。

シテ「紅葉の錦なりけり。地「住吉の。/\。 久し。 き松を洗ひては岸に寄する白波をさつとかけて洗はん。洗ひ/\て取り上げて見れば不思議やこはいかに。数々の其歌の。 作者も題も文字の形も。 少しも乱るゝ事もなく。入筆なれば浮草の。 文字は一字も。残らで消えにけり。ありがたや/\。 出雲住吉玉津島。 人丸赤人の御恵かと伏し拝み。喜びて龍顔に差上げたりや。 ワキ詞「よく/\物を案ずるに。 かほどの恥辱よもあらじ。自害をせんとまかり立つ。 シテ地「なう/\暫く。此身皆以て。 其名ひとりに残るならば。 何かは和歌の友ならん。道を嗜む志。 誰もかうこそあるべけれ。王詞「いかに黒主。ワキ「御前に候。 。 王「道を嗜む者は誰もかうこそあるべけれ。苦しからぬ事座敷へ直り候へ。 ワキ「これ又時の面目なれば。 宣旨をいかで背くべき。黒主御前に畏る。

サシ「げに有難きみぎんかな。 小町黒主遺恨なく。小町に舞を奏させよ。おの/\立ちより花の打衣。 風折烏帽子をきせ申し。笏拍子をうち座敷を静め。 シテ「春来つては。遍くこれ桃花の水。 地「石に障りて遅く来れり。 シテ「手まづさへぎる花の一枝。地「もゝ色の絹や。重ぬらん。 シテ「霞たつ。中ノ舞「。ワカ「霞たてば。

遠山になる。朝ぼらけ。地「日影に見ゆる。 松は千代まで松は千代まで四海の波も。 四方の国々も。民の戸ざしも。 さゝぬ御代こそ。尭舜の嘉例なれ。大和歌の起は。 あらがねの土にして。素盞鳴尊の。 守り給へる神国なれば。花の都の春も長閑に。 /\。和歌の道こそ。めでたけれ 山姫 里人

ワキ次第「ながめもつきぬ四つの時。/\。 山又山を尋ねん。 詞「これは此あたりに住居する者にて候。 さても四季折々の眺にも。とりわき春の花盛。 言葉も尽きぬ景色にて候ふ程に。 山めぐりせばやと存じ候。道行「四方の山霞は春のしるしとて。 /\。

のどかに通うふ風までもよぎて吹くらん桜咲く。梢はそれとしら雲の。 花にめがれぬ心かな/\。急ぎ候ふ程に。 春の山辺に着きて候。 暫く此花の蔭に休まばやと存じ候。 シテ、アシラヒ出「あかで見る心を花の心とや。したへばなれも。 したひ顔なる。 ワキ「不思議やなこれなる山の木蔭より。女性の声のきこゆるは。

いかなる人にてましますぞ。 シテ詞「今は何をか包むべき。此山姫の現れて。 春夏かけて一年の。梢の色に我も亦。 暫し心を慰むなり。さて旅人は何を御眺め候ぞ。 ワキ「さん候四季折々の眺といへども。 取りわき春の花盛。言葉も尽きぬ頃なれば。 しばし木蔭に休らひて。 咲き添ふ花を眺むるなり。シテ「実に心ある旅人の。 四季の眺の其中にも。春は霞に馴れきつゝ。 声ものどかに聞ゆなり。 地「黄鳥の声なかりせばゆききえぬ/\。山里いかに。 春を知るらんと詠みしも。 のどけき春の心なり。花に馴れぬる人心。 神も納受の道なれや。しばし休みて此花を眺め給へや。 。 ワキ詞「とてものことに四季の眺の有様委しく御物語り候へ。 シテクリ「夫れ四季折々の眺といつぱ。 地「其歌人の言の葉に。泄るゝ事なき例とかや。 シテサシ「然れば四季のをり/\にも。

眺ことなる例あり。地「春は霞のひまよりも。 遊ぶいとゆふ青柳の。 いとうちはえて緑添ふ。野辺の景色はのどかなる。 シテ「秋は草葉の虫の音も。 地「聞けば心の。友なりけり。 クセ「春たつや谷の戸出づる黄鳥の。 声長閑なる山風も。吹くか軒端の梅が香も。 いつしか霞む里までも。 匂ふやにほやかに咲ける沢辺の杜若。 水の流を隔てゝも色むつましやゆかりある。藤の浪よる池水の。 岸に馴れぬる蛙の鳴き交ふ声も心あれ。 シテ「卯の花の垣根にしのぶ時鳥。 地「なく音そらなる五月山の。

暗き夜半にも蛍飛ぶ影も星とや見えぬらん。 神山の岩根に生ふる葵ぐさ。取る手を結ぶ泉川の。 夏くれて秋風の。身にしむ頃になりぬらん。 秋風の。中ノ舞「。シテ「秋風の。 吹くや千草に乱れてぞ。地「野辺の虫の音こゝに聞くらん。 こゝにきくらん/\。 シテ「露の情ぞ牡鹿鳴くなる。地「露の情ぞ牡鹿鳴くなる。 常磐の山の秋の夕暮。 シテ「月もすめるや霜夜の池に。地「浮寝しつらん鴛鴦の。 上毛の雪をうち払ふ。白波の。 よるかと思へば東雲の空の。 よるかと思へばしのゝめの空の。明け行く春こそ久しけれ 瀬尾太郎 仏御前 祇王

ワキ詞「これは入道大相国に仕へ申す。 瀬尾の太郎何某にて候。

さても浄海掌に天下を治め給ひ。栄花の・央{なかば}にて御座候。 こゝに祇王御前と申す遊女。

唯かりそめに浄海の御目に懸かり給ひしが。 御寵愛ならびなし。 日夜朝暮の御酒宴申しはかりなく候。又加賀の国より仏御前と申して。 これも白拍子にて候ふが。 浄海の御目に。 懸かりたき由を申し出仕申され候へども。浄海の御諚には。 いかなる神なりとも仏なりとも。 祇王があらん程は御対面叶ふまじき由仰せ候ふ所に。 祇王の御申には。 いづれも流を立つるは同じ事にて候へば。 御対面なくては叶ふまじき由たつて御申し候ひて。 此四五日は出仕をとどめ給ひて候。 さる間今日御対面あるべき由仰せ出され候ふ間。 この由祇王御前に申さばやと存じ候。いかに案内申し候。 浄海の御諚にて。 祇王御前も仏御前も御まゐりあれとの御事にて。 瀬尾の太郎が参りて候。いかに祇王御前。 何とて此間は御出仕もなく候ふぞ。 ツレ詞「唯今参り候ふ事も。仏御前の訴訟故候ふよ。

ワキ「あら今めかしの御事や候。既に御申により。 仏御前の御参の上は候。いかに仏御前。 唯今の御出仕めでたう候。 シテ「申すにつけて憚おほく。 御心の中も恥かしやさりながら。 申さで過ぎばいとどしく。願の糸の色見えぬ。 闇の錦のたとへても。身のはて如何になりぬらん。 同じかざしの花鬘。かゝる恨は。 身ひとりかや。 下歌「さしも名高き御事の人をえらばせ給ふかや。 上歌「我が方の越の山風吹くたびに。/\。高嶺に残る天雲の。 隠るゝ空も憂き旅の何に心の急がれん。 都人。いかにと問はゞ山高み。 晴れぬ思にかきくれて。唯言の葉も泣く露の。 それならで故郷の人目にかゝる事あらじ。 ワキ詞「いかに仏御前。 あらおもしろの御述懐や候。又御諚には。 御前にてそと御舞あれとの御事にて候。 シテ「仰に随ひ立ち上り。まづ悦の和歌の声。

いで祇王御前同じくは。相曲舞に立ち給へ。 ツレ「妾はいつもの舞の袖。事ふりぬれば人々も。 目がれて興やなからまし。シテ「実に/\さぞと夕顔の。花の狩衣烏帽子を着。 袖めづらかに出で立たん。 ワキ「実におもしろや舞人の。衣裳を飾らば今ひとしほ。 地「有明月の影ともに。/\。 面つれなき心とは我だに知れば恥かしや。 思は朝まだき。花の衣裳を飾らんと。 二人伴ひ立ち出づる/\。 ツレ「うれしやな今ぞ願は陸奥の。 今日を待ち得て舞人の。なまめき立てる女郎花。 後シテ「女姿に立烏帽子。 ツレ「折から花の狩衣に。シテ「袖を連ねて。ツレ「立ち出づる。 二人一セイ「よろづ代を。治めし君が例には。 地「巷にうたふ。和歌の声。中ノ舞「。 二人クリ「それ金谷の春の花は。一衰の色を見せ。 地「姑蘇台の秋の月は涅槃の雲に隠れぬ。 二人サシ「一去不来の名残送離累別の袂。

地「いづれの日を経てか・乾{ほ}す事を得ん。 誰あつて終日をかたらはんや。 あはれなりける。クセ「世の中の夢現。 昨日にかはり今日にさめ幻の夢も幾度ぞ。 我等賎しくも。遊女の道を踏みそめし。 心はかなき色好みの。家桜花しぼみ。 たゞ埋木の人知れぬ。世の交や芦垣の。まめなる所とて。 初花薄露重み。 穂に出でがたき身なるべし。こゝに平相国。清盛の朝臣とて。 今の世の武将たり。誰かは恐れざるべき。 金玉玉殿に。美女の数を集めては。 漢宮四台もこれにはいかで勝るべき。 中に祇王は好色の。その名にめでて参殿の。 始よりも色深く比翼連理の其契。 天長く地久し漆膠の約と聞えしに。 二人「時に仏と号しては。地「一人の遊女あり。 名にしおふ。仏神の御感応か人心うつれば。 変る習故か彼に心掛帯の。引きかへて舞の袖。 実におもしろく花やかに。

見るこそやがて思草。言の葉もなか/\。 恥かしき余なりけり。 ワキ詞「いかに申し候。 いづれも御舞面白く思し召され候。 然れども祇王御前は御休み候ひて。 仏御前一人舞はせ申され候へとの御事に候。 ツレ「妾はこれにありてもよしなし。まづ/\家路に帰り候はん。ワキ「いや/\さやうに仰せられ候ひては。御機嫌もいかゞにて候。 暫くこれに御座候へいかに仏御前。 浄海の御諚には。 仏御前一人御まひあれとの御事にて候。シテ「いや祇王御前の御舞なくは。 妾ひとりは舞ひ候ふまじ。

ワキ「御意にて候ふ程に。 急いで御まひあらうずるにて候。 シテ「羅綺の重衣たる情なき事を機婦に妬む。いつしか人の心も煩はし。 さりとては。 地「さりとては心に任せぬ此身の習。仏はもとより舞の上手。 和歌をあげては袂を返し。返してはうたふ。 声もかすむや春風の。 花を散らすや舞の袖返す%\も。おもしろや。破ノ舞「。 シテ「人は何とも花田の帯の。地「人は何とも花田の帯の。 引きかへ心は変るとも。 祇王御前心にかけ給ふな。わが名は仏神かけて。 深き。 契の中ぞとはよしなや聞かじともろともに空言なくこそ。契りけれ 天女 都人。

ワキ三人次第「花の雲路をしるべにて。/\。 吉野の奥を尋ねん <232c>。 ワキ「これは都方に住居する者にて候。偖もわれ春になり候へば。 こゝ彼処の花を一見仕り候。

中にも千本の桜を年々に眺め候。此千本の桜は。 三吉野の種取りし花と承り及び候ふ間。 若き人々をも伴ひ。此度は和州に下向仕り候。 道行三人「この春は。殊に桜の花心/\。 色香に染むや深緑。 糸捻かけて青柳の露も乱るゝ春雨の。夜ふりけるか花色の。 朝じめりして気色立つ。 吉野の山に着きにけり/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 是は早吉野の山に着きて候。 御覧候へ嶺も尾上も花にて候。尚々奥深く分入らばやと思ひ候。 。シテ呼掛「なう/\ あれなる人々は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ「さん候これは都の者にて候ふが。此三吉野の花を承り及び。 始めて此山にわけ入りて候。 又見申せばやごとなき御姿なるが。この山中に入らせ給ふは。 いかなる人にてわたり候ふぞ。 シテ「これは此あたりに住む者なるが。 春立つ山に日を送り。さながら花を友として。 山野に暮らすばかりなり。

ワキ「げに/\花の友人は。他生の縁といひながら。 われらも同じ其心。シテ「処も山路の。ワキ「友なれや。 地上歌「見もせぬ人や花の友。/\。 知るも知らぬも花の蔭に。合やどりして諸人の。 いつしか馴れて花衣の。 袖ふれて木の下に立ちよりいざや眺めん。 げにや花のもとに。帰らん事を忘るゝは。 美景によりて花心。馴れ/\初めて眺めんいざ/\馴れて眺めん。 ワキ詞「いかに申すべき事の候。 かやうに家路を忘れ花を眺め給ふ事いよ/\不審にこそ候へ。 シテ「げに御不審は御理。今は何をか包むべき。 真はわれは天人なるが。花に引かれて来りたり。 今宵はこゝに旅居して。 信心を致し給ふならば。その古の五節の舞。 小忌の衣の羽袖を返し。月の夜遊を見せ申さん。 暫くこゝに待ち給へと。 地上歌「夕ばえ匂ふ花の蔭。/\。月の夜遊を待ち給へ。 少女の姿現して。必ずこゝに来らんと。

迦陵。 頻伽の声ばかり雲に残りて失せにけり/\。来序中入「。 ワキ「不思議や虚空に音楽聞え。 異香薫じて花降れり。 地「これ治まれる御代とかや。上歌「云ひもあへねば雲の上。/\。 琵琶琴和琴笙篳篥。鉦鼓羯鼓や糸竹の。 声澄み渡る春風の。 天つ少女の羽袖を返し。花に戯れ舞ふとかや。中ノ舞「。 地「少女は幾度君が代を。/\。 撫でし巌もつきせぬや。春の花の。梢に舞ひ遊び。 飛び上り飛び下る。げにも上なき君の恵。 治まる国の天つ風。 雲の通ひ路吹き閉づるや。少女の姿。留まる春の。 霞もたなびく三吉野の。山桜うつろふと見えしが。 又咲く花の。雲に乗り。/\て行くへも知らずぞ。なりにける 胡蝶の精(前ハ里女) 旅僧

ワキ次第「春たつ空の旅衣。/\日も長閑なる山路かな。 ワキ詞「これは和州三吉野の奥に山居の僧にて候。 われ名所には住み候へども。未だ花の都を見ず候ふ程に。 此春思ひ立ち都に上り。 洛陽の名所旧跡をも一見せばやと思ひ候。 道行三人「三吉野の高嶺のみ雪まだ冴えて。/\。 花遅げなる春風の吹きくる象の山越えて。 霞むそなたや三笠山茂き梢も楢の葉の。 広き御影の通すぐに花の都に着きにけり。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ間。程なう都に着きて候。 此処を人に尋ねて候へば。 一条大宮とやらん申し候。 心静かに一見せばやと思ひ候。又これなる処を見れば。 由ありげなる古宮の。軒の檜皮も苔むして。

昔しのぶの忘草。誠に由ある処なり。 詞「又車寄の辺なる。柴垣の隙より見れば。 御階のもとに色殊なる梅花の今を盛と見えて候。 立ち寄り眺めばやと思ひ候。 。シテ呼掛「なう/\御僧はいづくと思し召して。この梅を眺め候ふぞ。 ワキ「不思議やな人ありとも見えぬ屋づまより。 女性一人来り給ひ。我に詞をかけ給ふぞや。 偖ここをばいづくと申候ふぞ。 シテ「さては始めたる御事にてましますかや。まづ/\御身はいづくより来り給へる人なるぞ。 。 ワキ「これは和州三吉野の奥に山居の者にて候ふが。始めて都に上りて候。 シテ「さればこそ見慣れ申さぬ御事なり。 こゝは又昔より故ある古宮にて。

大内も程近く処からなる此梅を。雲の上人春ごとに。 詩歌管弦の御遊を催し。 眺たえせぬ花の色。心とゞめて御覧ぜよ。 ワキ「あら面白や処から。由ある花の名所を。 今見る事の嬉しさよ。詞「さて/\御身はいかなる人ぞ。御名をなのり給ふべし。 シテ「名所の人にてましませば。 そなたの名こそ聞かまほしけれ。 ワキ「名所には住めども心なき。身は山賎の年を経て。 シテ「住む家桜いろ変へて。これは都の花盛。 ワキ「心をとめて。シテ「色深き。上歌地「梅が香に。 昔を問へば春の月。/\。 答へぬ影も我が袖に。 移る匂も年を経る古宮の軒端苔むして。昔恋しき我が名をば。 何と明石の浦に住む。 海士の子なれば宿をだに定なき身や恥ずかしや/\。 ワキ詞「猶々この宮のいはれ。 又御身の名をも委しく御物語り候へ。 シテ「さのみつつむもなか/\に。

人がましくや思し召されんさりながら。 真はわれは人間にあらず。われ草木の花に心を染め。 梢に遊ぶ身にしあれども。深き望のある身なり。 などやらん昔より。 梅花に縁なき事を歎き来る春ごとに悲の。涙の色も。紅の。 梅花に縁なき此身なり。 地クリ「げにや色に染み。 花に馴れ行くあだし身は。はかなきものを花に飛ぶ。 胡蝶の夢の。戯なり。 シテサシ「されば春夏秋を経て。地「草木の花に戯るゝ。 胡蝶と生れて花にのみ。契を結ぶ身にしあれども。 梅花に縁なき身を歎き。 姿を変へて御僧に詞を交し奉り。シテ「妙なる法の。蓮葉の。 地「花の台を。頼むなり。 クセ「伝へ聞く唐土の。荘子があだに見し夢の。 胡蝶の姿現なき浮世の中ぞあはれなる。 定なき世と言ひながら。官位も影高き。 光源氏の古も。胡蝶の舞人いろ/\の。 御舟に飾る金銀の。瓶にさす山吹の。

襲の衣を懸け給ふ。シテ「花園の。 胡蝶をさへや下草に。地「秋まつ虫は。 疎く見るらんと詠めこし。昔語を夕暮の。 月もさし入る宮のうち。人目稀なる木の下に。 宿らせ給へ我が姿。夢に必ず見ゆべしと。 夕。 の空に消えて夢のごとくなりにけり夢の如くになりにけり。中入「。 ワキ三人上歌待謡「あだし世の。 夢待つ春のうたゝ寝に。/\。頼むかひなき契ぞと。 思ひながらも法の声。立つるや花の下臥に。 衣かたしく木蔭かな/\。 。 後シテサシ一声「ありがたやこの妙典の功力に引かれ。有情非情も隔なく。 仏果に至る花の色。深き恨を晴しつゝ。 梅花に戯れ匂に交はる。胡蝶の精魂あらはれたり。 ワキ「有明の月も照り添ふ花の上に。 さも美しき胡蝶の姿の。 あらはれ給ふはありつる人か。シテ詞「人とはいかで夕暮に。 かはす詞の花の色。隔てぬ梅に飛び翔りて。

胡蝶にも。誘はれなまし。心ありて。 地「八重山吹も隔てぬ梅の。 花に飛びかふ胡蝶の舞の。袂も匂ふ。気色かな。中ノ舞「。 上「四季をり/\の花盛。/\。 梢のこゝろをかけまくも。かしこき宮の所から。 しめの内野の程近く。 野花黄鳥春風を領じ。花前に蝶舞ふ紛々たる。 雪をめぐらす舞の袖。返す%\も。おもしろや。 シテ「春夏秋の花も尽きて。 打「春夏秋の花も尽きて。霜を帯びたる白菊の。 花折り残す。枝をめぐり。廻り廻るや小車の。 法に引かれて仏果に至る。 胡蝶も歌舞も菩薩の舞の。姿を残すや春の夜の。 明け行く雲に。羽根うちかはし。 明け行く雲に。羽根うちかはして。 霞に紛れて失せにけり 帝王 蔵人 大臣

ワキ、ワキツレ一セイ「久方の。月の郡の明らけき。 光も君の。恵かな。 ワキ、ツレ、サシ「それ明君の御代のしるし。万機の政すなほにして。 四季をり/\の御遊までも。 捨て給はざる叡慮とかや。ツレ「まづ青陽の春にならば。 ワキツレ「処々の花のみゆき。 ツレ「秋に時雨の紅葉狩。 ワキツレ「日数も積る雪見の行幸ツレ「寒暑時を違へされば。 ワキツレ「御遊のをりも。ツレ「時を得て。 ワキワキツレ上歌「今は夏ぞと夕涼。/\。松の此方の道芝を。 誰踏。 みならし通ふらんこれは妙なるみゆきとて。小車の。 直なる道を廻らすも同じ雲居や大内や。神泉苑に着きにけり/\。 。 ツレサシ「面白や孤島峙つて波悠々たるよそほひ。誠に湖水の浪の上。

三千世界は眼の前に盡きぬ。 。 十二因縁は心の裏に空し。 げに面白き景色がな。 地「鷺の居る。 池の汀は松ふりて。/\。 都にも似ぬ。 住居。 はおのづからげに。 めづらかに面白や。 或は詩歌の舟を浮め。 又は糸竹の。声あやをなす曲水の。 手まづ遮る盃も浮むなり。 あら面白の池水やなあら面白の池水やな。 ツレ「いかに誰かある。ワキツレ「御前に候。

ツレ「あの洲崎の鷺をりから面白う候。 誰にても取りて参れと申し候へ。 ワキツレ「畏つて候。いかに蔵人。 あの洲崎の鷺をりから面白うおぼしめされ候ふ間。 取りて参らせよとの宣旨にて候。 ワキ「宣旨畏つて承り候さりながら。かれは鳥類飛行の翅。 いかゞはせんと休らへば。 ワキツレ「よしやいづくも普天の下。

卒土のうちは王地ぞと。ワキ「思ふ心を便にて。 ワキツレ「次第々々に。ワキ「芦間の蔭に。 地「狙ひより狙ひよりて。岩間のかげより取らんとすれば。 この鷺驚き羽風を立てゝ。 ぱつとあがれば力なく。手を空しうして。 仰ぎつゝ走り行きて。汝よ聞け勅諚ぞや。勅諚ぞと。 呼ばはりかくれば。此鷺立ち帰つて。 本の方に飛び下り。羽を垂れ地に伏せば。 抱きとり叡覧に入れ。げに忝き王威の恵。 ありがたや頼もしやとて。皆人感じけり。 げにや仏法王法の。かしこき時の例とて。 飛ぶ鳥までも地に落ちて。 叡慮に適ふありがたや。/\。猶々君の御恵。 仰ぐ心もいやましに。御酒を勧めて諸人の。 舞楽を奏し面々に。きぎの蔵人。 召し出され様々の。御感のあまり爵を賜び。 ともになさるゝ五位の鷺。 さも嬉しげに立ち舞ふや。シテ「洲崎の鷺の。羽を垂れて。 地「松も磯馴るゝけしきかな。

舞シテ「畏き恵は君朝の。 地「畏き恵は君朝の。四海に翔る翅まで。靡かぬ方も。 なかりければ。まして鳥類畜類も。 王威の恩徳逃れぬ身ぞとて。勅に従ふ此鷺は。 。

神妙々々放せや放せと重ねて宣旨を下されければ。げにかたじけなき宣命を。 ふくめて。放せばこの鷺。 心嬉しく飛びあがり。心嬉しく飛びあがりて。 行くへも知らずぞなりにける 安居院の法印 従僧 里の女 紫式部の霊。

ワキ、ワキツレ二人、次第「衣も同じ苔の道。/\。 石山寺に参らん。 ワキ詞「これは安居院の法印にて候。我石山の観世音を信じ。 常に歩を運び候。今日もまた参らばやと思ひ候。 道行三人「時も名も。花の都を立ち出でて。 /\。嵐につるゝ夕波の。 白河表過ぎ行けば。音羽の瀧をよそに見て。 関の此方の朝霞。されども残る有明の。 影も。 あなたに鳰の海実に面白き景色かなげに面白き景色かな。

下歌「さゝ波や志賀唐崎の一つ松。 塩焼かねども浦の波立つこそ水の。煙なれ立つこそ水の煙なれ。 。シテ詞呼掛「なう/\安居院の法印に申すべき事の候。 ワキ詞「法印とは此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。シテ「我石山に籠り。 源氏六十帖を書き記し。 亡き跡までの筆のすさび。 詞「名の形見とはなりたれども。 かの源氏に終に供養をせざりし科により。浮ぶ事なく候へば。 然るべくは石山にて。源氏の供養をのべ。

我が跡弔ひてたび給へと。此事申さんとて。 これまで参りて候。 ワキ詞「これは思もよらぬ事を承り候ふものかな。 さりながら易き間の事供養をばのべ候ふべし。 さて誰と志して廻向申し候べき。 シテ「まづ石山に参りつゝ。源氏の供養をのべ給はゞ。 其時我も現れて。共に源氏を弔ふべし。 ワキ「嬉しやそれこそ奇特なれ。 いで源氏を書きしは。 シテ「恥かしや此身は浮世の土となれども。ワキ「名をば埋まぬ苔の下。 シテ「石山寺に立つ雲の。 ワキ「紫式部にてましますな。シテ「恥かしや。色に出づるか紫の。 地「色に出づるか紫の。 雲も其方か夕日影。 さしてそれとも名のり得ずかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ「さて石山に参りつゝ。 念願の勤事終り。 夜も更方の金の声心も澄めるをりふしに。ワキツレ「ありつる源氏の物語。

誠しからぬ事なれども。 ワキ「供養をのべて紫式部の。ワキツレ「菩提を深く。 ワキ「弔ふべきなり。 ワキ、ツレ二人 歌待謡「とは思へどもあだし世の。/\。夢にうつろふ紫の。 色ある花も一時の。あだにも消えし古の。 光源氏の物語。 聞くにつけてもそのまこと頼少なき。心かな頼少なき心かな。 後シテ一声「松風も。散れば形見となるものを。 思ひし山の下紅葉。 地「名も紫の色に出でて。シテ「見えん姿は。恥かしや。 ワキ「かくて夜も深更になり。鳥の声をさまり。 心すごきをりふし。詞「灯の影を見れば。 さも美しき女性。紫の薄衣のそばを取り。 影の如くに見え給ふは。夢か現か覚束な。 シテ「うつろひやすき花色の。 襲の衣の下こがれ。紫の色こそ見えね枯野の萩。 もとのあらまし末通らば。 名乗らずとしろし召されずや。 ワキ「紫の色には出でずとあらましの。言葉の末とは心得ぬ。

紫式部にてましますか。 シテ「恥かしながらわが姿。ワキ「その面影は昨日見し。 シテ「姿に今もかはらねば。ワキ「互に心を。 シテ「おきもせず。地「寝もせで明かす此夜半の。 月も心せよ。石山寺の鐘の声。 夢をも誘ふ風の前。消えしはそれか灯の光源氏の。 跡とはん光源氏の跡とはん。 シテ「あら有難の御事や。 何をか布施に参らせ候ふべき。 ワキ詞「いや布施などとは思もよらず候。とてもこの世は夢の中。 昔に返す舞の袖。唯今舞うて見せ給へ。 シテ詞「恥かしながらさりとては。 仰をばいかで背くべき。いで/\さらば舞はんとて。ワキ「もとより其名も紫の。 シテ「色珍らしき薄衣の。 ワキ「日もくれなゐの扇を持ち。シテ「恥かしながら弱々と。 ワキ「あはれ胡蝶の。シテ「一遊び。 地次第「夢の中なる舞の袖。/\。現に返す由もがな。 シテ「花染衣の色襲。地「紫匂ふ。袂かな。イロエ「。

シテクリ「それ無常といつぱ。 目の前なれども形もなし。地「一生夢の如し。 誰あつて百年を送る。槿花一日唯おなじ。 シテサシ「こゝに数ならぬ紫式部。頼をかけて石山寺。 悲願を頼み籠り居て。此物語を筆に任す。 。 地「されども終に供養をせざりし科により。妄執の雲も晴れ難し。 シテ「今逢ひ難き縁に向つて。地「心中の所願を発し。 一つの巻物に写し。無明の眠を覚ます。 南無や光源氏の幽霊成等正覚。 クセ「抑桐壷の。 夕の煙すみやかに法性の空に至り。 箒木の夜の言の葉は終に覚樹の花散りぬ。空蝉の。空しき此世を厭ひては。 夕顔の。露の命を観じ。 若紫の雲のむかへ末摘花の台に座せば。紅葉の賀の秋の。 落葉もよしや唯。たま/\。 仏意に逢ひながら。榊葉のさして往生を願ふべし。 シテ「花散る里に住むとても。 地「愛別離苦の理まぬかれ難き道とかや。

唯すべからくは。生死流浪の須磨の浦を出でて。 四智円明の。明石の浦に澪標。 いつまでもありなん。唯蓬生の宿ながら。 菩提の道を願ふべし。松風の吹くとても。 業障の薄雲は。晴るゝ事更になし。 秋の風消えずして。紫磨忍辱の藤袴。上品蓮台に。 心を懸けて誠ある。七宝荘厳の。 真木柱の本に行かん。梅が枝の。匂に移る我が心。 藤の裏葉におく霜の。 其玉鬘かけしばし朝顔の光頼まれず。シテ「朝には栴檀の。 蔭に宿木名も高き。地「官位を。 東屋の内に籠めて。 楽栄を浮舟に喩ふべしとかやこれも蜻蛉の身なるべし。 夢の浮橋を打ち渡り。身の来迎を願ふべし。 南無や西方弥陀如来。

狂言綺語を振り捨てゝ紫式部が後の世を。助け給へともろともに。 鐘打ち鳴らして廻向も既に終りぬ。 ロンギ地「実に面白や舞人の。 名残今はと鳴く鳥の。夢をも返す袂かな。 シテ「光源氏の御跡を。弔ふ法の力にて。我も生れん。 蓮の花の宴は頼もしや。 地「実にや朝は秋の光。シテ「夕には影もなし。 地「朝顔の露稲妻の影。何れかあだならぬ。 定なの浮世や。 キリ「よく/\物を案ずるに。/\。 紫式部と申すはかの石山の観世音。 仮にこの世に現れて。かゝる源氏の物語。 これも思へば夢の世と。 人に知らせん御方便げに有難き誓ひかな。思へば夢の浮橋も。 夢の間の言葉なり/\ 万里小路中納言 官人 供奉 建礼門院 阿波内侍 大納言局 後白河法皇

。 官人詞「これは後白河院に仕へ奉る臣下なり。扨も此度先帝二位殿を始め奉り。 平家の一門長門の国早鞆の沖にして。 ことごとく果て給ひて候。 女院も御身を投げさせ給ひ候ふを取り上げ奉り。 かひなき御命たすかりおはしまし候。 三河の守範頼九郎太夫の判官義経兄弟供奉し申し。 三種の神宝事故なく都に納まり給ひ候。 。 さるほどに女院は都にうつらせ給ふべかりしを。先帝安徳天皇の御菩提。 ならびに二位殿の御跡御弔のため。 大原の寂光院に浮世をいとひ御座候ふを。 法皇御幸をなされ。 御訪あるべきとの勅諚にて候ふ間。 御幸の山路をも申しつけばやと存じ候。いかに誰かある。 大原へ御幸あるべきなれば。 行幸の道をもつくりその清を仕り候へ。 。 シテサシ「山里はもののさびしき事こそあれ。世の憂きよりは中々に。

シテ、内侍、局三人「住みよかりける柴の枢。都の方の音信は。 間遠に結へる笆垣や憂き節繁き竹柱。 立居につけて物思へど。 人目なきこそ安かりけれ。 下歌「折々に心なけれど訪ふものは。上歌「賎が妻木の斧の音。/\。 梢の嵐猿の声。 これらの音ならでは。 正木の。 かづら青つゞら来る人稀になりはてゝ。 草顔淵が巷に。 繁き思の行方とて。 雨原。 憲が枢とも湿ふ袖の。 涙かなうるほふ袖の涙かな。 。 シテ詞「いかに大納言の局。後の山に上り樒を摘み候ふべし。 局詞「わらはも御供申し。 妻木蕨を折り供御にそなへ申し候ふべし。 シテ「譬へは便なきことなれども。

悉達太子は浄飯王の都を出で。檀特山の嶮しき道を凌ぎ。 菜摘み水汲み薪。地「とり%\様々に難行し仙人に仕へさせ給ひて。 終に成道なるとかや。我も仏の為なれば。御花筐取り%\。 なほ山深く入り給ふなほ山深く入り給ふ。中入間「。 ワキ、ワキツレ一セイ「九重の花の名残を尋ねてや。 青葉を慕ふ。山路かな。 次第「分けゆく露もふかみ草。/\。大原の御幸急がん。

ワキ詞「行幸をはやめ申し候ふ間。 大原に入御候。かくて大原に行幸なつて。 寂光院の有様を見わたせば。 露むすぶ庭の夏草しげりあひて。青柳糸を乱しつゝ。 池の浮草波にゆられて。 錦を曝すかと疑はる。岸の山吹咲き乱れ。 八重立つ雲の絶間より。山時鳥の一声も。君の御幸を。 待ち顔なり。 法皇「法皇池の汀を叡覧あつて。池水に。汀の桜ちりしきて。 波の花こそ。盛なりけり。地歌「旧りにける。 岩のひまより落ちくる。/\。 水の音さへよしありて。緑蘿の垣翠黛の山。 絵にかくとも。筆にも及びがたし。 一宇の御堂あり。甍破れては霧不断の香を焼き。 〓{新字源2799:とぼそ}落ちては月もまた。 常住の灯をかゝぐ。 とはかゝる所かものすごやかゝる所かものすごや。 。 ワキ詞「これなるこそ女院の御庵室にてありげに候。軒には蔦朝顔はひかゝり。

藜〓{大漢和32248:でう}深く鎖せり。あら物すごの気色やな。 詞「いかにこの庵室の内へ案内申し候。 内侍詞「誰にてわたり候ふぞ。 ワキ「これは万里の小路の中納言にて候。 内侍「それはさて人目まれなる山中へは。 何とて御わたり候ふぞ。 ワキ「さん候女院の御住居御訪のために。法皇これまで御幸にて候。 。 内侍「女院は上の山へ花つみに御いでにて。今は御留守にて候。 ワキ「御幸のよし申して候へば。 女院は上の山へ花つみに御いでにて。今は御留守のよし候。 暫くこの処に御座をなされ。 御かへりを御待あらうずるにて候。 法皇「やあいかにあの尼前。 汝はいかなる者ぞ。内侍「げに/\御見忘は御ことわり。これは信西が娘。 阿波の内侍がなれる果にてさぶらふ。 かくあさましき姿ながら。明日をも知らぬこの身なれば。 恨とは更に思はずさぶらふ。

法皇詞「女院はいづくに御渡り候ふぞ。 阿波内侍「上の山へ花つみに御いでにて候。法皇「さて御供には。 内侍「大納言の局。 今少し待たせおはしまし候へ。やがて御帰にて候ふべし。 。 サシシテ「昨日もすぎ今日もむなしく暮れなんとす。明日をも知らぬ此身ながら。 唯先帝の御面影。 忘るゝ隙はよもあらじ。極重悪人無他方便。 唯称弥陀得生極楽。主上を始め奉り。 二位殿一門の人々成等正覚。南無阿弥陀仏。詞「や。 庵室のあたりに人音の聞え候。 大納言局「暫くこれに御休み候へ。 。 内侍「唯今こそあの岨づたひを女院の御帰にて候。法皇「さていづれが女院。 大納言の局はいづれぞ。 内侍「花筐臂に懸けさせ給ふは。女院にてわたらせ給ふ。 妻木に蕨折りそへたるは。大納言の局なり。 詞「いかに法皇の御幸にて候。 シテ「なかなかになほ妄執の閻浮の身を。

忘れもやらでうき名をまた漏せば漏るゝ涙の色。 袖の気色もつゝましや。 地下歌「とは思へども法の人同じ道にと頼むなり。 上歌「一念の窓の前。一念の窓の前に。 摂取の光明を期しつゝ十念の柴の枢には。 聖衆の来迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。 古に帰るかとなほ思出の涙かな。 げにや君こゝに叡慮のめぐみ末かけて。 あはれもさぞな大原や。 芹生の里の細道朧の清水月ならで。御影や今に残るらん。 ロンギ地「さてや御幸のをりしもは。 いかなる時節なるらん。シテ「春過ぎ夏もはや。 北祭のをりなれば。 青葉にまじる夏木立春の名残ぞをしまるゝ。 地「遠山にかゝる白雲は。シテ「散りにし花のかたみかや。 地「夏草のしげみが原のそことなく。 分け入り給ふ道の末。シテ「こゝとてや。/\。 げに寂光の静かなる。 光の陰を惜めただ。地「光の影も明らけき。

玉松が枝に咲き添ふや。シテ「池の藤波夏かけて。 地「これも御幸を。シテ「待ちがほに。 地「青葉がくれの遅桜初花よりもめづらかに。 なかなか様かはる有様をあはれと。 叡慮にかけまくも。 かたじけなしやこの御幸柴の。 枢のしばしがほどもあるべき住居なるべしや。あるべき住居なるべし。 シテ「思はずも。深山の奥の。住まひして。 雲居の月をよそに見んとは。 かやうに思ひ出でしに。此山里までの御幸。 かへすがへすも有難うこそ候へ。 法皇詞「さいつ頃ある人の申せしは。 女院は六道の有様まさに御覧じけるとかや。 仏。 菩薩の位ならでは見給ふ事なきに不審にこそ候へ。 シテ「勅諚はさる御事なれども。つら/\我が身を案じ見るに。 クリ「それ身を観ずれば岸の額に根を。 離れたる草。 地「命を論ずれば、江のほとりに繋がざる舟。シテサシ「されば天上の楽も。

身に白露の玉かづら。 地「ながらへ果てぬ年月も。つひに五衰のおとろへの。 シテ「消えもやられぬ。命のうちに。 地「六道のちまたに。迷ひしなり。クセ「まづ一門。 西海の波に浮き沈み。 よるべも知られぬ船の中。海に臨めども。潮なれば飲水せず。 餓鬼道の如くなり。又ある時は。 汀の波の荒磯に。 打ちかへすかの心地して船こぞりつゝ泣き叫ぶ。 声は叫喚の罪人もかくやあさましや。シテ「陸の争ある時は。 地「これぞ誠に目の前の。 修羅道の戦あら恐ろしや数々の。駒の蹄の音聞けば。 畜生道の有様を。見聞くも同じ人道の。 苦となりはつる憂き身の果てぞ悲しき。 法皇詞「げに有難き事どもかな。 先帝の御最期の有様。 何とか渡り候ひつる御物語り候へ。 シテ語「恥かしながら語つて聞かせ申し候ふべし。 其時の有様申すにつけて恨めしや。長門の国早鞆とやらんにて。

筑。 紫へ一先落ちゆくべきと一門申し合ひしに。緒方の三郎が心がはりせしほどに。 薩摩潟へや落さんと申しゝをりふし。 上り汐にさへられ。今はかうよと見えしに。 能登の守教経は。 安芸の太郎兄弟を左右の脇に挟み。 最期の供せよとて海中に飛んで入る。新中納言知盛は。 詞「沖なる船の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。 乳母子の家長が弓と弓とを取りかはし。 其まゝ海に入りにけり。 其時二位殿鈍色の二つ衣に。練袴のそば高く挟んで。 我が身は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。 主上の御供申さんと。 安徳天皇の御手を取り舷に臨む。 いづくへ行くぞと勅諚ありしに。此国と申すに逆臣多く。 かくあさましき処なり。極楽世界と申して。 。 めでたき所の此波の下にさむらふなれば。御幸なし奉らんと。泣く/\奏し給へば。さては心得たりとて。

東に向はせ給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて。 地「又。 十念の御為に西に向はせおはしまし。シテ「今ぞ知る。地「御裳濯川の流には。 波の底にも都ありとはと。 これを最期の御製にて。千尋の底に入り給ふ自も。 つづいて沈みしを。 源氏の武士とりあげてかひなき命ながらへ。二度。

龍顔に逢ひ奉り。不覚の涙に袖をしほるぞ恥かしき。 。 地「いつまでも御名残はいかで尽きぬべき。はや還幸とすゝむれば。/\。 御輿を早め遥々と。寂光院を出で給へば。 シテ「女院は柴の戸に。 地「暫しが程は見送。 らせ給ひて御庵室に入り給ふ御庵室に入り給ふ 関寺の住僧 従僧 老後の小野小町 稚児

ワキ、ワキツレ二人次第「待ち得て今ぞ秋に逢ふ。/\星の祭を急がん。 ワキ詞「これは江州関寺の住僧にて候。今日は七月七日にて候ふ程に。 七夕の祭を取り行ひ候。 又この山陰に老女の庵を結びて候ふが。 歌道を極めたる由申し候ふ程に。幼き人を伴ひ申し。 かの老女の物語をも承らばやと存じ候。 ワキ、ツレサシ「颯々たる涼風と衰鬢と。

一時にきたる初秋の。七日の夕に早なりぬ。 ワキ「今日七夕の手向とて。 糸竹呂律の色々に。ツレ「ことを尽して。ワキ「敷島の。 ワキ、ワキツレ二人歌「道を願の糸はへて。/\。 織るや錦のはた薄。 花をも添へて秋草の露の玉琴かき鳴らす。松風までも折からの。 手向に叶ふ。夕かな手向に叶ふ夕かな。 。

シテサシ「朝に一鉢を得ざれども求むるに能はず。草衣夕の肌を隠さゞれども。 おぎぬふに便あり。 花は雨の過ぐるによつて紅まさにおびたり。 柳は風に欺かれて緑漸く垂れり。人更に若き事なし。 終には老の鶯の。百囀の春は来れども。 昔に帰る秋はなし。あら来し方恋しや/\。 ワキ詞「いかに老女に申すべき事の候。 これは関寺に住む者にて候。 此寺の児達歌を御稽古にて候ふが。 老女の御事を聞き給ひ。歌をよむべき様をも問ひ申し。 又御物語をも承らん為に。 児達もこれまで御いでにて候。 シテ「これは思も寄らぬ事を承り候ふものかな。 埋木の人知れぬ事となり。花薄穂に出すべきにしもあらず。 心を種として言葉の花色香に染まば。 などか其風を得ざらん。 優しくも幼き人の御心に好き給ふものかな。 ワキ「先々普く人の翫び候ふは。難波津の歌を以て。 。

手習ふ人の始にもすべきよし聞え候ふよなう。シテ「それ歌は神代より。 始まれども。文字の数定まらずして。 事の心分き難かりけらし。今人の代となりて。 めで。 たかりし世継をよみ治めし詠歌なればとて。難波津の歌を翫び候。 ワキ「又浅香山の歌は。王の御心を和らげし故に。 これまためでたき詠歌よなう。 シテ「実によく心得給ひたり。此二歌を父母として。 ワキ「手習ふ人の始となりて。 シテ詞「高き賎しき人をも分かず。 ワキ「都鄙遠国の鄙人や。シテ「我等如きの庶人までも。 ワキ「好ける心に。シテ「近江の海の。地「さゝ波や。 浜の真砂は尽くるとも。/\。 よむ言の葉はよも尽きじ。青柳の糸絶えず。 松の葉の散失せぬ。種は心と思召せ。 仮令時移り事去るとも。此歌の文字あらば。 鳥の跡も尽きせじや鳥の跡も尽きせじ。 ワキ詞「有難う候。 古き歌人の言葉多しといへども。女の歌は稀なるに。

老女の御事例少なうこそ候へ。 我が背子が来べき宵なりさゝがにの。 蜘蛛の振舞かねてしるしも。これも女の歌候ふか。 シテ「これは古衣通姫の御歌なり。 衣通姫とは允恭天皇の后にてまします。 形の如く我等もその流をこそ学び候へ。 ワキ「さては衣通姫の流を学び給ふかや。 近年聞えたる小野の小町こそ。衣通姫の流とは承れ。 わびぬれば身を浮草の根を絶えて。 誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ。 シテ「これは小町の歌候ふな。 シテ「これは大江の惟章が心がはりせし程に。世の中物うかりしに。 。 詞「文屋の康秀が三河の守になりて下りし時。田舎にて心をも慰めよかしと。 我を誘ひし程によみし歌なり。 忘れて年を経しものを。 聞けば涙のふる事の又思はるゝ悲しさよ。 ワキ「不思議やなわびぬればの歌は。我よみたりしと承る。 又衣通姫の流と聞えつるも小町なり。

実に年月を考ふるに。老女は百に及ぶといへば。 たとひ小町の存ふるとも。 いまだこの世に在るべきなれば。今は疑ふ所もなく。 御身は小町の果ぞとよ。 さのみな包み給ひそとよ。シテ「いや小町とは恥かしや。 色見えでとこそよみしものを。 地歌「移ろふものは世の中の。人の心の花や見ゆる。 恥かしやわびぬれば。 身を浮草の根を絶えて。誘ふ水あらば今も。 いなんとぞ思ふ恥かしや。 地クリ「実にや包めども。 袖に溜らぬ白玉は。人を見ぬ目の涙の雨。 古事のみを思草の。花しをれたる身の果まで。 なに白露の名残ならん。 シテサシ「思ひつゝ寐ればや人の見えつらん。 地「よみしも今は身の上に。存へ来ぬる年月を。 送り迎へて春秋の。 露行き霜来つて草葉変じ虫の音も枯れたり。シテ「生命既に限となつて。地「唯。 槿花一日の。栄に同じ。クセ「あるは無く。

無きは数添ふ世の中に。あはれいづれの。 日まで歎かんと。詠ぜし事も我ながら。 いつまで草の花散じ。 葉落ちても残りけるは露の命なりけるぞ。恋しの昔や。 忍ばしの古の身やと。思ひし時だにも。 また古事になり行く身の。せめて今は又。 初の老ぞ恋しき。あはれ実に古は。 一夜泊りし宿までも。玳瑁を飾り。 垣に金花を懸け。戸には水精を連ねつゝ。 鸞輿属車の玉衣の色を飾りて敷妙の。枕づく。 妻屋の内にしては。 花の錦の褥の起き臥しなりし身なれども。 今は埴生のこや玉を敷きし床ならん。シテ「関寺の鐘の声。 地「諸。 行無常と聞くなれども老耳には益もなし。逢坂の山風の。 是生滅法の理をも得ばこそ。飛花落葉のをり/\は。 好ける道とて草の戸に。 硯を馴らしつゝ筆を染めて藻塩草。 書くや言の葉の枯々に哀なる様にて強からず。

強からぬは女の歌なれば。いとゞしく老の身の。 弱り行く果ぞ悲しき。子方詞「いかに申し候。 七夕の祭遅なはり候。老女をもともなひ御申し候へ。 ワキ「いかに老女。 七夕の祭を御いであつて御覧候へ。シテ「いや/\老女の事は憚にて候ふほどに。思も寄らず候。 ワキ「何の苦しう候ふべき。 唯々御出で候へとよ。地歌「七夕の。織る糸竹の手向草。 幾年経てかかげろふの。小野の小町の。 百年に及ぶや天つ星合の。 雲の上人に馴れ馴れし。袖も今は麻衣の。 浅ましや痛はしや目もあてられぬ有様。 とても今宵は七夕の。/\。手向の数も色々の。 或は糸竹に懸けて廻す盃の。雪を受けたる。 童舞の袖ぞ面白き。星祭るなり呉竹の。 シテ「代々を経て住む。行末の。 地「幾久しさぞ。万歳楽。子方舞「。 シテ詞「あら面白の唯今の舞の袖やな。 むかし豊の明の五節の舞姫の袖をこそ五度返しゝが。

これは又七夕の手向の袖ならば。 七返にてやあるべき。 詞「狂人走れば不狂人も走るとかや。今の童舞の袖に引かれて。 狂人こそ走り候へ。百年は。序ノ舞「。 シテワカ「百年は。花に宿りし。胡蝶の舞。 地「哀なり/\。老木の花の枝。 シテ「さす袖も手忘れ。地「裳も足弱く。 シテ「たゞよふ波の。地「立舞ふ袂は翻せども。 昔に返す袖はあらばこそ。

シテ「あら恋しの古やな。地「さる程に初秋の短夜。 はや明方の関寺の鐘。シテ「鳥もしきりに。 地「告げ渡る東雲の。あさまにもならば。 シテ「羽束師の森の。 地「はづかしの森の木がくれもよもあらじ。 暇申して帰るとて杖にすがりてよろ/\と。本の藁屋に帰りけり。 。 百年の姥と聞えしは小町が果の名なりけり小町が果の名なりけり 大納言行家 小野小町

。 ワキ詞「これは陽成院に仕へ奉る新大納言行家にて候。 扨も我が君敷島の道に御心を懸けられ。 普く歌を撰ぜられ候へども。叡慮に叶ふ歌なし。 こゝに出羽の国小野の良実が娘に小野の小町。 彼はならびなき歌の上手にて候ふが。

今は百年の姥となつて。 関寺辺に在る由聞し召し及ばれ。帝より御憐の御歌を下され候。 その返歌により。 重ねて題を下すべきとの宣旨に任せ。 唯今関寺辺小野の小町が方へと急ぎ候。 シテ一セイ「身は一人。我は誰をか松坂や。

四の宮河原四つの辻。いつ又六つの。 巷ならん。 サシ「むかしは芙蓉の花たりし身なれども。今は藜〓{大漢和32248:でう}の草となる。 顔ばせは憔悴と衰へ。膚は凍梨の梨の如し。 杖つくならでは力もなし。 人を恨み身をかこち。泣いつ笑うつやすからねば。 物狂と人は言ふ。歌「さりとては。 捨てぬ命の身に添ひて。/\。面影につくも髪。 かゝらざりせばかゝらじと。 昔を恋ふる忍寐の。夢は寐覚の長き夜を。 飽きてはてたりな我が心/\。 ワキ詞「いかにこれなるは小町にてあるか。 シテ「見奉れば雲の上人にてましますか。 小町と承り候ふかや何事にて候ふぞ。 。 ワキ「され此程はいづくを住家と定めけるぞ。シテ「誰留むるとはなけれども。 唯関寺辺に日数を送り候。ワキ「実に/\関寺は。さすがに都遠からで。 閑居には面白き処なり。シテ「前には牛馬の通路あつて。

貴きも行き賎しきも過ぐ。 ワキ「後には霊験の山高うして。シテ「しかも道もなく。 ワキ「春は。シテ「春霞。 地歌「立出で見れば深山辺の。/\。梢にかゝる白雲は。 花かと見えて面白や。松風も匂ひ。 枕に花散りて。 それとばかりに白雲の色香おもしろきけしきかな。 北に出づれば湖の志賀辛崎の一つ松は。身の類なるものを。 東に向へばありがたや。 石山の観世音瀬田の長橋は狂人の。 つれなき命のかゝるためしなるべし。 シテ詞「かくて都の恋しき時は。 柴の庵に暫し留むべき友もなければ。 便梨の杖にすがり。都路に出でてものを乞ふ。 詞「乞ひ得ぬ時は涙の関寺に帰り候。 ワキ「いかに小町。さても今も歌をよみ給ふべきか。 。 シテ「我いにしへ百家仙洞の交たりし時こそ。事によそへて歌をもよみしが。 今は花薄穂に出で初めて。

霜のかゝれる有様にて。浮世にながらふるばかりにて候。 ワキ「実に尤も道理なり。 帝より御憐の御歌を下されて候。これ/\見候へ。 シテ「何。 と帝より御憐の御歌を下されたると候ふや。あらありがたや候。 老眼と申し文字もさだかに見え分かず候。 それにて遊ばされ候へ。ワキ「さらば聞き候へ。 シテ「いかにも高らかに遊ばされ候へ。 ワキ「雲の上は。シテ「雲の上は。ワキ「雲の上は。 ありし昔にかはらねど。見し玉だれの。 内やゆかしき。シテ詞「あら面白の御歌や候。 悲しやな古き流を汲んで。 水上を正すとすれど歌よむべしとも思はれず。 詞「又申さぬ時は恐なり。 所詮この返歌を唯一字にて申さう。 ワキ詞「不思議の事を申す者かな。それ歌は三十一字を連ねてだに。 心の足らぬ歌もあるに。 一字の返歌と申す事。これも狂気の故やらん。 シテ詞「いやぞといふ文字こそ返歌なれ。

ワキ「ぞといふ文字とはさていかに。 シテ「さらば帝の御歌を。詠吟せさせ給ふべし。 ワキ「不審ながらも指し上げて。 雲の上はありし昔にかはらねど。見し玉だれの。 内やゆかしき。 シテ詞「さればこそ内やゆかしきを引きのけて。内ぞゆかしきとよむ時は。 小町がよみたる返歌なり。 ワキ「さて古もかゝるためしのあるやらん。 シテ「なう鸚鵡返といふことは。地歌「この歌の様を申すなり。 帝の御歌を。 ばひ参らせてよむ時は天の恐もいかならん。 和歌の道ならば神もゆるしおはしませ。貴からずして。 高位に交はるといふこと。 たゞ和歌の徳とかや/\。 地クリ「それ歌の様をたづぬるに。 長歌短歌旋頭歌。折句誹諧混本歌鸚鵡返。 廻文歌なり。 シテサシ「なかんづく鸚鵡返といふこと。唐土に一つの鳥あり。 地「その名を鸚鵡といへり。人のいふ言葉を受けて。

即ちおのが囀とす。 何ぞといへば何ぞと答ふ。鸚鵡の鳥の如くに。歌の返歌も。 かくの如くなれば。 鸚鵡がへしとは申すなり。クセ「実にや歌の様。 語るにつけ古のなほ思はるゝはかなさよ。 されば来し方の。代々の集の歌人の。 その多くある中に。今の小町は妙なる花の色好み。 歌の様さへ。 女にて唯弱々とよむとこそ家々の。書伝にも記し置き給へり。 シテ「和歌の六義を尋ねしにも。 地「小町が歌をこそ唯事歌のためしに。引くのみか我ながら。 美人の形も世に勝れ。余情の花と作られ。 桃花雨を帯び。柳髪風にたをやかなり。 。 紫笋はなほ動きほこり梨花は名のみなりしかど。今憔悴と落ちぶれて。 身体疲瘁する小町ぞ。あはれなりける。 ワキ詞「いかに小町。 業平玉津島にての法楽の舞をまなび候へ。 シテ詞「さても業平玉津島に参り給ふと聞えしかば。

我も同じく参らんと。 都をばまだ夜をこめて稲荷山。葛葉の里も浦近く。 和歌吹上にさしかかり。地「玉津島に参りつゝ。/\。 業平の舞の袖。 思ひ廻らす信夫摺木賊色の狩衣に。大紋の袴の稜を取り。 風折烏帽子召されつゝ。シテ「和光の光玉津島。 地「廻らす袖や。波がへり。序ノ舞「。 シテ「和歌の浦に。汐満ち来れば。かたを浪の。 地「芦辺をさして。田鶴鳴き渡る鳴き渡る。 シテ「立つ名もよしなや忍音の。

地「立つ名もよしなや忍音の。月には愛でじ。 シテ「これぞこの。地「積れば人の。 シテ「老となるものを。地「かほどに早き光の陰の。 時人を待たぬ。習とは白波の。 シテ「あら恋しの昔やな。 地「かくてこの日も暮れて行くまゝに。さらばと云ひて。 行家都に帰りければ。シテ「小町も今は。これまでなりと。 地「杖にすがりてよろ/\と。 立ち別れ行く袖の涙。立ち別れ行く袖の涙も関寺の。 柴の菴に。帰りけり 岩戸山の僧 老女 桧垣嫗の霊

。 ワキ詞「これは肥後の国岩戸と申す山に居住の僧にて候。さても此岩戸の観世音は。 霊験殊勝の御事なれば。 暫く参籠し処の致景を見るに。 南西は海雲漫々として万古心の内なり。人稀にして慰多く。

致景あつて郷里を去る。 誠に住むべき霊地とと思ひて。三年が間は居住仕つて候。 詞「ここに又百にも及ぶらんとおぼしき老女。 毎日閼伽の水を汲みて来り候。 今日も来りて候はゞ。

いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ次第「影白河の水汲めば。/\。 月も袂や濡らすらん。 サシ「それ籠鳥は雲を恋ひ。帰雁は友をしのぶ。 人間もまたこれ同じ。貧家には親知少なく。 賎しきには故人疎し。老悴衰へ形もなく。 露命きはまつて霜葉に似たり。 下歌「流るゝ水のあはれ世のその理を汲みて知る。 上歌「こゝは処も白河の。/\。水さへ深き其罪を。 浮びやすると捨人に。値遇を運ぶ足引の。 山下庵に着きにけり。 山下庵に着きにけり。 詞「いつもの如く今日もまた御水あげて参りて候。ワキ「毎日老女の歩返す%\も痛はしうこそ候へ。 シテ「せめてはかやうの事にてこそ。 少しの罪をも遁るべけれ。亡からん跡を。弔ひ給ひ候へ。 。 詞「明けなば又参り候ふべし御暇申し候はん。ワキ「暫く。 御身の名を名乗り給へ。シテ「何と名を名乗れと候ふや。

ワキ「なか/\の事。 シテ「これは思もよらぬ仰かな。かの後撰集の歌に。 年ふれば我が黒髪も白河の。 詞「みつはぐむまで老いにけるかなと。詠みしもわらはが歌なり。 昔筑前の太宰府に。 庵に桧垣しつらひて住みし白拍子。 後には衰へて此白河の辺に住みしなり。ワキ「実にさる事を聞きしなり。 その白河の庵のあたりを。 藤原の興範通りし時。 シテ「水やあると乞はせ給ひし程に。その水汲みて参らするとて。 ワキ「みづはくむとは。シテ「よみしなり。 地「そもみづはくむと申すは。/\。 唯白河の水にはなし。 老いて屈める姿をばみつはぐむと申すなり。そのしるしをも見給はゞ。 かの白河の辺にて。 我が跡弔ひてたび給へと夕まぐれして。 失せにけり夕まぐれして失せにけり。中入間「。 ワキ詞「さては古の桧垣の女仮に現れ。 我に言葉をかはしけるぞや。

一つは末世の奇特ぞと。思ひながらも尋ね行けば。 歌「不思議や早く日も暮れて。/\。 河霧深く立ちこもる。陰に庵の燈の。 ほのかに見ゆる。 不思議さよほのかに見ゆる不思議さよ。 後シテ「あら有難の弔やな。/\。 風緑野に収つて煙条直し。 雲岸頭に定まつて月桂円なり。朝に紅顔あつて。 世路に楽むといへども。 地「夕には白骨となつて郊原に朽ちぬ。シテ「有為の有様。 地「無常のまこと。シテ「誰か生死の理を論ぜざる。 地「いつを限る習ぞや。 老少といつぱ分別なし。変るを以て期とせり誰か必滅を。 期せざらん誰かはこれを期せざらん。 。 ワキ「不思議やな声を聞けばありつる人なり。同じくは姿を現し給ふべし。 御跡とひて参らせん。 シテ「さらば姿を現して。御僧の御法を受くべきなり。 人にな現し給ひそとよ。

ワキ「なか/\に人に現す事あるまじ。早々姿を見え給へ。 シテ「涙曇りの顔ばせは。 それとも見えぬ衰を。誰白河のみつはぐむ。 老の姿ぞ恥かしき。ワキ「あら痛はしの御有様やな。 今も執心の水を汲み。 輪廻の姿見え給ふぞや。早々浮び給へ。 シテ詞「我古は舞女の誉世に勝れ。その罪深き故により。 今も苦をみつ瀬河に。熱鉄の桶を荷ひ。 猛火の釣瓶を提げて此水を汲む。 其水湯となつて我が身を焼く事隙もなけれども。 詞「此程は御僧の値遇に引かれて。 釣瓶はあれども猛火はなし。 ワキ「さらば因果の水を汲み。其執心を振り捨てゝ。とく/\浮び給ふべし。シテ詞「いで/\さらば御僧のため。このかけ水を汲み乾さば。 罪もや浅くなるべきと。 ワキ「思も深き小夜衣の。袂の露の玉だすき。 シテ「影白河の月の夜に。ワキ「底澄む水を。 シテ「いざ汲まん。地次第「釣瓶の水に影落ちて。

袂を月や上るらん。 地クリ「それ残星の鼎には北渓の水を汲み。 後夜の炉には南嶺の。柴を焚く。 シテサシ「それ氷は水より出でて水よりも寒く。 地「青き事藍より出でて藍より深し。 もとの憂き身の報ならば。今の苦去りもせで。 シテ「いや増さりぬる思の色。 地「紅の涙に身を焦がす。 クセ「釣瓶の懸縄繰り返し憂き古も。紅花の春のあした黄葉の秋の。 夕暮も一日の夢と早なりぬ。 紅顔の粧舞女のほまれもいとせめて。 さも美しき紅顔の。翡翠のかづら花しをれ。 桂の眉も霜降りて。水にうつる面影老衰。 影沈んで。緑に見えし黒髪は土水の藻屑塵芥。 変りける。身の有様ぞ悲しき。 実にやありし世を。思ひ出づればなつかしや。 其白河の波かけし。シテ「藤原の興範の。 。 地「そのいにしへの白拍子いま一節とありしかば。昔の花の袖今更色も麻衣。

短き袖を返し得ぬ心ぞつらき陸奥の。 けふの細布胸合はず。 何とか白拍子その面影のあるべき。よし/\それとても。 昔手馴れし舞なれば。舞はでも今は叶ふまじと。 シテ「興範しきりに宣へば。 地「浅ましながら麻の袖。露うち払ひ舞ひ出す。 シテ「桧垣の女の。地「身の果を。 序ノ舞「。 シテ「水掬ぶ。釣瓶の縄の釣瓶の縄の。 繰り返し。地「昔に帰れ白河の波。 白河の波白河の。シテ「水のあはれを知る故に。 これまで現れ出でたるなり。 地「運ぶ芦田鶴の。ねをこそ絶ゆれ浮草の。 水は運びて。 参らする罪を浮べてたび給へ罪を浮べてたび給へ 旅僧(又ハ男) 里の女 老女の霊

ワキ次第「月の名近き秋なれや。/\姨捨山を尋ねん。詞「かやうに候ふ者は。 都方に住居仕る者にて候。 我未だ更科の月を見ず候ふほどに。 此秋思ひ立ち姨捨山へと急ぎ候。道行「此程の。しばし旅居の仮枕。 /\。また立ちいづる中宿の。 明かし暮らして行く程に。こゝぞ名におふ更科や。 姨捨山に着きにけり/\。 詞「さても我姨捨山に来て見れば。 嶺平らかにして万里の空も隔なく。千里に隈なく月の夜。 さこそと思ひやられて候。 いかさま此処に休らひ。今宵の月を眺めばやと思ひ候。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる旅人は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ詞「さん候これは都の者にて候ふが。はじめてこの処に来りて候。

さて/\御身はいづくに住む人ぞ。 シテ「これはこの更科の里に住む者にて候。 今日は名におふ秋の半。 暮るゝを急ぐ月の名の。殊に照り添ふ天の原。 くまなき四方の景色かな。 いかに今宵の月の面白からんずらん。 ワキ「さては更科の人にてましますかや。さて/\古姨捨の。 在所はいづくの程にて候ふぞ。 シテ「姨捨山のなき跡と。問はせ給ふは心得ぬ。 我が心慰めかねつ更科や。 詞「姨捨山に照る月を見てと。詠ぜし人の跡ならば。 これに木高き桂の木の。蔭こそ昔の姨捨の。 其なき跡にて候へとよ。 ワキ「さては此木の蔭にして。捨て置かれにし人の跡の。 シテ詞「其まま土中に埋草。かりなる世とて今は早。

ワキ「昔語になりし人の。 なほ執心や残りけん。シテ「なき跡までも何とやらん。 ワキ「もの凄じき此原の。 シテ「風も身にしむ。ワキ「秋の心。地歌「今とても。 慰めかねつ更科や。/\。姨捨山の夕暮に。 松も桂もまじる木の。 緑も残りて秋の葉のはや色づくか一重山。薄霧も立ちわたり。 風冷まじく雲尽きてさびしき山の。 けしきかな。さびしき山のけしきかな。 シテ詞「旅人はいづくより来り給ふぞ。 ワキ「されば以前も申すごとく。 都の者にて候ふが。更科の月を承り及び。 始めてこの処に来りて候ふよ。 シテ「さては都の人にてましますかや。 さあらば妾も月と共に。現れ出でて旅人の。 夜遊を慰め申すべし。ワキ「そもや夜遊を慰めんとは。 御身はいかなる人やらん。 シテ「誠は我は更科の者。ワキ「さていまは又いづ方に。 シテ「住家といはんは此山の。

ワキ「名にしおひたる。シテ「姨捨の。 地歌「それといはんも恥かしや。/\。 その古も捨てられて。只一人此山に。 澄む月の名の秋毎に執心の闇を晴らさんと。 今宵現れ出でたりと。 夕陰の木の本にかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ待謡「夕陰過ぐる月影の。/\。 はや出で初めて面白や万里の空も隈なくて。 いづくの秋も隔なき。 心もすみて夜もすがら。三五夜中の新月の色。 二千里の外の古人の心。 後シテ一声「あら面白のをりからやな。 あら面白のをりからや。 明けば又秋の半も過ぎぬべし。今宵の月の惜しきのみかは。 さなきだに秋待ちかねてたぐひなき。 名を望月の見しだにも。 おぼえぬ程に隈もなき姨捨山の秋の月。余りに堪へぬ心とや。 昔とだにも思はぬぞや。

ワキ「不思議やなはや更けすぐる月の夜に。 白衣の女人現れ給ふは。夢か現か覚束な。 シテ詞「夢とはなどや夕暮に。 現れ出でし老の姿。恥しながら来りたり。 ワキ「何をか包み給ふらん。もとより処も姨捨の。 シテ「山は老女が住処の。 ワキ「昔に帰る秋の夜の。シテ「月の友人円居して。 ワキ「草を敷き。シテ「花に起き臥す袖の露の。 二人「さも色々の夜遊の人に。 いつ馴れそめてうつゝなや。 地歌「盛ふけたる女郎花の。/\。草衣しをたれて。 昔だに捨てられしほどの身を知らで。 又姨捨の山に出でて。面を更科の。 月に見ゆるも恥かしや。よしや何事も夢の世の。なか/\いはじ思はじや。 思草花にめで月に染みて遊ばん。 地クリ「実にや興にひかれて来り。 興尽きて帰りしも。今のをりかと知られたる。 今宵の空の気色かな。

シテサシ「然るに月の名所。いづくはあれど更科や。 地「姨捨山の曇なき。一輪満てる清光の影。 団々として海〓{新字源2030:けう}を離る。シテ「しかれば諸仏の御誓。 。 地「いづれ勝劣なけれども超世の悲願あまねき影。弥陀光明に。如くはなし。 クセ「さるほどに。三光西に行くことは。 衆生をして西方に。 すゝめ入れんが為とかや。月はかの如来の右の脇士として。 有縁を殊に導き。 重き罪を軽んずる天上の力を得る故に。大勢至とは号すとか。 天冠の間に。花の光かゝやき。 玉の台の数数に。他方の浄土をあらはす。 玉珠楼の風の音糸竹の調とり%\に。 心ひかるゝ方もあり。蓮色々に咲きまじる。 宝の池の辺に。立つや並木の花散りて。 芬芳しきりに乱れたり。 シテ「迦陵頻伽のたぐひなき。地「声をたぐへてもろともに。 孔雀鸚鵡の。同じく囀る鳥のおのづから。 光も影もおしなべて。

至らぬ隈もなければ無辺光とは名づけたり。然れども雲月の。 ある時は影満ち。又ある時は影闕くる。 有為転変の。世の中の定のなきを示すなり。 シテ「昔恋しき夜遊の袖。序ノ舞「。 シテワカ「我が心なぐさめかねつ。更科や。 地「姨捨山に照る月を見て照る月を見て。シテ「月に馴れ。 花に戯るゝ秋草の。露の間に。 地「露の間に。なか/\何しにあらはれて。 胡蝶の遊。シテ「戯るゝ舞の袖。地「返せや返せ。

シテ「昔の秋を。 地「思ひ出でたる妄執の心。やる方もなき。今宵の秋風。 身にしみじみと。恋しきは昔。 しのばしきは閻浮の。秋よ友よと。思ひ居れば。 夜も既にしら/\とはやあさまにもなりぬれば。 我も見えず旅人も帰るあとに。 シテ「ひとり捨てられて老女が。 地「昔こそあらめ今も又姨捨山とぞなりにける。 姨捨山とぞなりにける 千満の母 稚児千満 三井寺住僧 従僧 狂女(千満の母)

シテサシ「南無や大慈大悲の観世音さしも草。 さしもかしこき誓の末。 一称一念なほ頼あり。ましてやこの程日を送り。 夜を重ねたる頼の末。 などかそのかひなからんと。思ふ心ぞあはれなる。 下歌「憐れみ給へ思ひ子の。行末なにとなりぬらん/\。 上歌「枯れたる木にだにも。/\。 花咲くべくはおのづから。 いまだ若木のみどり子に。再びなどか。 逢はざらん再びなどか逢はざらん。詞「あら有難や候。 少し・睡眠{すいめん}の内に。 あらたなる霊夢を蒙りて候ふは如何に。妾を何時も訪ひ慰むる人の候。 あはれ来り候へかし語らばやと思い候。 狂言シカ%\「。シテ詞「唯今少し睡眠の内に。

新たなる御霊夢を蒙りて候。 我が子に逢はんと思はゞ。 三井寺へ参れと新たに御霊夢を蒙りて候。狂言シカ%\「。 シテ詞「あら嬉しと御合はせ候ふものかな。 告に任せて三井寺とやらんへ参り候ふべし。中入「。 ワキ、ワキツレ三人次第「秋も半の暮待ちて。/\。 月に心や急ぐらん。 ワキ詞「これは江州園城寺の住僧にて候。又是に渡り候ふ幼き人は。 愚僧を頼む由仰せ候ふ間。 力なく師弟の契約をなし申して候。 又今夜は八月十五夜名月にて候ふ程に。幼き人を伴い申し。 。 皆々講堂の庭に出でて月を眺めばやと存じ候。四人上歌「類なき。名を望月の今宵とて。 /\。夕を急ぐ人心。

知るも知らぬも諸共に。雲を厭ふやかねてより。 月の名頼む。日影かな月の名頼む日影かな。 後シテ一声「雪ならば幾度袖を払はまし。 花の吹雪と詠じけん志賀の山越うち過ぎて。 眺の末は湖の。鳰照る比叡の山高み。 上見ぬ鷲の御山とやらんを。 今目の前に拝む事よ。あら有難の御事や。 詞「かやうに心あり顔なれども。我は物に狂ふよなう。 いや我ながら理なり。 あの鳥類や畜類だにも。親子の哀は知るぞかし。 ましてや人の親として。 いとほし悲しと育てつる。一セイ「子の行方をも白糸の。 地「乱心や狂ふらん。 カケリシテ「都の秋を捨てゝ行かば。地「月見ぬ里に。 住みや習へるとさこそ人の笑はめ。よし花も紅葉も。 月も雪も故郷に。我が子のあるならば。 田舎も。 住みよかるべしいざ故郷に帰らんいざ故郷に帰らん。 帰ればさゝ波や志賀辛崎の一つ松。緑子の類ならば。

松風に言問はん。松風も。今は厭はじ桜咲く。 春ならば花園の。里をも早く杉間吹く。 風冷ましき秋の水の。 三井寺に着きにけり三井寺に早く着きにけり。 ワキ「桂は実る三五の暮。名高き月にあこがれて。 庭の木陰に休らへば。シテ「実に/\今宵は三五夜中の新月の色。二千里の外の故人の心。 水の面に照る月なみを数ふれば。 秋も最中夜も半。所からさへ面白や。 地歌「月は山。風ぞ時雨に鳰の海。/\。 波も粟津の森見えて。 海越しの幽に向ふ影なれど月はますみの鏡山。 山田矢走の渡舟の夜は通ふ人なくとも。 月の誘はゞおのづから。 船もこがれて出づらん舟人もこがれ出づらん。狂言シカ%\。 シテ詞「面白の鐘の音やな。 我が故郷にては清見寺の鐘の音こそ常に聞き馴れしに。 是は又さゝ波や。三井の古寺鐘はあれど。 詞「昔に帰る声は聞えず。

誠や此鐘は秀郷とやらんの龍宮より。 取りて帰りし鐘なれば。龍女が成仏の縁に任せて。 妾も鐘を撞くべきなり。 地次第「影はさながら霜夜にて。/\。月にや鐘はさえぬらん。 ワキ詞「やあ/\暫く。 狂人の身にて何とて鐘をば撞くぞ急いで退き候へ。 シテ詞「夜〓{新字源:2196ユ}公が楼に登りしも。 月に詠ぜし鐘の音なり許さしめ。 ワキ「それは心有る古人の言葉。狂人の身として鐘撞くべきこと。 思も寄らぬ事にてあるぞとよ。 シテ「今宵の月に鐘撞くこと。 狂人とてな厭ひ給ひそ或る詩に曰く。団々として海〓{新字源:2030 キョウ}を離れ。 冉々として雲衢を出づ。 此後句なかりしかば。明月に向かって心を澄まいて。 今宵一輪満てり。 清光何れのところにか無からんと。 詞「此句を設けて余りの嬉しさに心乱れ。高楼に登って鐘を撞く。 人々如何にと咎めしに。これは詩狂と答ふ。 かほどの聖人なりしだに。月には乱るゝ心有り。

鏡ノ段「ましてや拙なき狂女なれば。 地「許し給へや人々よ。煩悩の。 夢を覚ますや。 法の声も静かに先初夜の鐘を撞く時は。シテ「諸行無常と響くなり。 地「後夜の鐘を撞く時は。 シテ「是生滅法と響くなり。地「晨朝の響は。シテ「生滅滅已。 地「入相は。シテ「寂滅。 地「為楽と響きて菩提の道の鐘の声。月も数添ひて。 百八煩悩の眠りの。驚く夢の夜の迷も。 はや盡きたりや後夜の鐘に。我も五障の雲晴れて。 真如の月の影を眺め居りて明かさん。 地クリ「夫れ長楽の鐘の声は。 色の外に盡きぬ。シテ「また龍池の柳の色は。 地「雨の内に深し。シテサシ「其外こゝにも世々の人。 言葉の林の兼ねて聞く。 地「名も高砂の尾上の鐘。暁かけて秋の霜。 曇るか月もこもりくの初瀬も遠し難波寺。 シテ「名所多き。鐘の音。地「盡きぬや法の声ならん。 クセ「山寺の。

春の夕暮来てみれば入相の鐘に。花ぞ散りける。 実に惜めどもなど夢の春と暮れぬらん。そのほか暁の。 妹背を惜むきぬ%\の。 恨を添ふる行方にも枕の鐘や響くらん。また待つ宵に。 更け行く鐘の声聞けば。 明かぬ別の鳥は。物かはと詠ぜしも。 恋路の便の音信の声と聞くものを。又は老いらくの。 寝覚程ふる古を。今思ひ寝の夢だにも。 涙心のさびしさに。此鐘のつく%\と。 思ひを盡す暁をいつの時にかくらべまし。シテ「月落ち鳥鳴いて。 地「霜天に満ち。 て冷ましく江村の漁火もほのかに半夜の鐘の響は。客の船にや。 通ふらん蓬窓雨したゞりて馴れし汐路の楫枕。 浮寝ぞ変るこの海は。波風も静かにて。 秋の夜すがら。月すむ三井寺の。鐘ぞさやけき。 子詞「如何に申すべき事の候。 ワキ詞「何事にて候ふぞ。 子「これなる物狂の国里を問うて賜はり候へ。

ワキ「これは思もよらぬことを承り候ふものかな。 さりながら易き間の事尋ねて参らせうずるにて候。 如何にこれなる狂女。 おことの国里は何くの者にてあるぞ。 シテ「これは駿河の国清見が関の者にて候。 子「何なう清見が関の者と申し候ふか。シテ詞「あら不思議や。 今の物仰せられつるは。 正しく我が子の千満殿ごさめれあら珍しや候。ワキ「暫く。 是なる狂女は粗忽なる事を申すものかな。 さればこそ物狂にて候。 シテ「なうこれは物には狂はぬものを。物に狂ふも別故。 逢ふ時は何しに狂ひ候ふべき。 是は正しき我が子にて候。 ツレ「さればこそ我が子と申すが筋なき事と申し候。 急いで退き給へ。 子「あら悲しやさのみな御打ち候ひそ。ワキ「言語道断。 早色に出で給ひて候。此上はまっすぐに御名乗り候へ。 子「今は何をか包むべき。我は駿河の国。 清見が関の者なりしが。

人商人の手に渡り。今此寺に在りながら。 母上我を尋ね給ひて。かやうに狂ひ出で給ふとは。 夢にも我は知らぬなり。 シテ「又妾も物に狂ふ事。あの兒に別れし故なれば。 たまたま逢ひ見る嬉しさのまゝ。 やがて母よと名のる事。我が子の面伏なれど。 子故に迷ふ親の身は。恥も人目も思はれず。 ロンギ地「あら痛はしの御事や。 よそ目も時によるものを逢ふを喜び給ふべし。 シテ「嬉しながらも衰ふる。 姿はさすがはづかしの。漏りて余れる涙かな。

地「実に逢ひ難き親と子の。縁は盡きせぬ契とて。 シテ「日こそ多きに今宵しも。 地「此三井寺に廻り来て。シテ「親子に逢ふは。 地「何故ぞ。 此鐘の声立てゝ物狂のあるぞとて御咎ありしゆゑなれば。常の契には。 別の鐘と厭ひしに。親子のための契には。 鐘故に逢ふ夜なり嬉しき。鐘の声かな。 キリ地「かくて伴ひ立ち帰り。/\。 親子の契盡きせずも。 富貴の家となりにけり。実に有難き孝行の。 威徳ぞめでたかりける威徳ぞ。めでたかりける 人商人 磯部寺の住僧 従僧 里人 桜子の母 桜子

男詞「かやうに候ものは。 東国方の人商。 人にて候。我久しく京に候ひしが。此度。 は筑紫日向に罷り下りて候。又昨日の暮。

程に幼き人を買ひ取りて候。彼の人申さ。 れ候ふは。此文と身の代とを。桜の馬場の。 西にて桜子の母と尋ねて。確に届けよと。 仰せ候程に。唯今桜子の母の方へと急。

ぎ候。此あたりにてにてありけに候。先々案。 内を申さばやと存じ候。いかに案内申し。 候。桜子の母の渡り候ふか。シテ詞「誰にて。 渡り候ふぞ。男「さん候桜子の御方より。 御文の候。又此代物をたしかに届け申せ。 と仰せ候ふ程に。是まで持ちて参りて候。。 かまひてたしかに届け申すにて候。。 シテ「あら思ひよらずや。先々文を見うずるに。て候。文「さても/\この年月の御有様。。 見るも余りの悲しさに。詞「人商人に身を。 売りて東の方へ下り候。なう其子は売る。 まじき子にて候ふものを。や。あら悲し。 や。早今の人も行方知らずなりて候ふは。 いかに。これを出離の縁として。御様を。も変へ給ふべし。唯返す/\も御名残こ。 そ惜しう候へ。地下歌「名残をしくは何しに。 か添はで母には別るらん。上歌「独り伏屋。の草の戸の。/\。明かし暮らして。憂。 き時も子を見ればこそ慰むに。さりとて。

は我が頼む。神も木花咲耶姫の。御氏子なるものを桜子留めてたび給へ。 さなぎだに住みうかれたる故郷の。 今は何にか明暮を。堪へて住むべき身ならねば。 我が子の行くへ尋ねんと。泣く/\迷ひ出でて行く/\。 。ワキワキツレ二人次第「頃待ち得たる桜狩/\山路の春に急がん。 ワキ詞「これは常陸の国磯部寺の住僧にて候。 又これに渡り候ふ幼き人は。 何くとも知らず愚僧を頼む由仰せ候ふ程に。師弟の契約をなし申して候ふ。 又此辺に桜川とて花の名所の候。 今を盛のよし申し候ふ程に。幼き人を伴ひ。 たゞ今桜川へと急ぎ候ふ。歌三人「筑波山。 此面彼面の花盛。/\。雲の林の影茂き。 緑の空もうつろうふや松の葉色も春めきて。 嵐も浮ぶ花の波。桜川にも着きにけり/\。 ワキツレ詞「いかに申し候ふ。 何とて遅く御出で候ふぞ待ち申して候。 ワキ詞「さん候皆々御伴申し候ふ程に。さて遅なはりて候。

あら見事や候。花は今を盛と見えて候。 。ワキツレ「なか/\のこと花は今が盛にて候。又こゝに面白き事の候。 女物狂の候ふが。美しきすくひ網を持ちて。 桜川に流るゝ花をすくひ候ふが。 けしからず面白う狂ひ候。これに暫く御座候ひて。 此物狂を幼き人にも見せ参らせられ候へ。 ワキ「さらば其物狂を此方へ召され候へ。 ワキツレ「心得申し候。やあ/\かの物狂に。いつもの如くすくひ網を持ちて。 此方へ来れと申し候へ。 後シテ一声「いかにあれなる道行人。 桜川には花の散り候ふか。 詞「何散方になりたるとや。悲しやなさなきだに。 行く事やすき春の水の。流るゝ花をや誘ふらん。 花散れる水のまに/\とめくれば。 山にも春はなくなりにけりと聞く時は。 少しなりとも休らはゞ。花にや疎く雪の色。桜花。 桜花。カケリ「散りにし風の名残には。

地「水なき空に。波ぞ立つ。 シテ「おもひも深き花の雪。地「散るは涙の。川やらん。 シテサシ「これに出でたる物狂の。 故郷は筑紫日向の者。さも思子を失ひて。 思ひ乱るゝ心筑紫の。海山越えて箱崎の。 波立ち出でて須磨の浦。 又は駿河の海過ぎて常陸とかやまで下り来ぬ。 実にや親子の道ならずは。はるけき旅を。如何にせん。 詞「こゝに又名に流れたる桜川とて。 さも面白き名所あり。別れし子の名も桜子なれば。 形見といひ折柄といひ。 名もなつかしき桜川に。地下歌「散り浮く花の雪を汲みて。自ら。 花衣の春の。形見残さん。上歌「花鳥の。 立ちわかれつゝ親と子の。/\。 行くへも知らで天ざかる。鄙の長路に衰へば。 。 たとひ逢ふとも親と子の面忘れせば如何ならん。うたてや暫しこそ。 冬ごもりして見えずとも。 今は春べなるものを我が。

子の花はなど咲かぬ我が子の花など咲かぬ。 ワキ詞「此物狂の事にて有りげに候。 立ち寄りて尋ねばやと思ひ候。 いかにこれなる狂女。おことの国里は何くの人ぞ。 シテ詞「これは遥の筑紫の者にて候。 。 ワキ「それは何とてかやうに狂乱とはなりたるぞ。 シテ「さん候唯一人ある忘形見の緑子に生きて離れて候ふ程に。 思が乱れて候。ワキ「あら痛はしや候。 又見申せば美しきすくひ網を持ち。 流るゝ花をすくひ。 あまつさへ渇仰の気色見え給ひて候ふは。何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「さん候我が故郷の御神をば。 木花咲耶姫と申して。御神体は桜木にて御入り候。 されば別れし我が子も其御氏子なれば。 桜子と名づけ育てしかば。 神の御名も咲耶姫。尋ぬる子の名も桜子にて。 又此川も桜川の。名も懐しき。花の塵を。 あだにもせじと思ふなり。

ワキ「謂を聞けば面白や。実に何事も縁は有りけり。 さばかり遠き筑紫より。此東路の桜川まで。 下り給ふも縁よなう。 シテ詞「先此川の名におふ事。遠きにつきての名誉あり。 彼の貫之が歌はいかに。ワキ「実に/\昔の貫之も。 遥けき花の都より。 シテ「いまだ見もせぬ常陸の国に。ワキ「名も桜川。 シテ「有りと聞きて。地歌「常よりも。 春べになれば桜川。/\。波の花こそ。 間もなく寄すらめ。 とよみたれば花の雪も貫之もふるき名のみ残る世の。桜川。 瀬々の白波しけければ。霞うながす信太の浮島の浮かべ/\水の花げにおもしろき。 河瀬かなげに面白き河瀬かな。 ワキ詞「いかに申し候。 此物狂は面白う狂ふと仰せ候ふが。 今日は何とて狂い候はぬぞ。男「さん候狂はする様が候。 桜。 川に花の散ると申し候へば狂い候ふ程に。狂はせて御目にかけうするにて候。

ワキ「急いで。御狂はせ候へ。 ワキツレ「心得申し候。あら笑止や。 俄かに山颪のして桜川に花の散り候ふよ。 シテ「よしなき事を夕山風の。奥なる花を誘ふごさめれ。 流れぬさきに花すくはん。ワキ「実に/\見れば山おろしの。木々の梢に吹き落ちて。 シテ「花のみかさは白妙の。 ワキ「波かと見れば上より散る。シテ「桜か。ワキ「雪か。 シテ「波か。ワキ「花かと。シテ「浮き立つ雲の。 ワキ「河風に。地次第「散ればぞ波も桜川。 /\。流るゝ花をすくはん。 シテ「花の下に。帰らんことを忘れ水の。 地「雪を受けたる。花の袖。イロエ「。 シテクリ「それ水流花落ちて春。 とこしなへにあり。 地「月すさましく風高うして鶴かへらず。シテサシ「岸花紅に水を照らし。 洞樹緑に風を含む。 地「山花開けて錦に似たり。澗水たゝへて藍の如し。 シテ「面白や思はずこゝに浮れ来て。

地「名もなつかしみ桜川の。一樹の陰一河の流。 汲みて知る名も所から。合ひにあひなば桜子の。 これ又他生の縁なるべし。 クセ「実にや年を経て。花の鏡となる水は。 散りかゝるをや。曇るといふらん。 まこと散りぬれば。後は芥になる花と。 思ひ知る身もさていかに。 われも夢なるを花のみと見るぞはかなき。されば梢より。 あだに散りぬる花なれば。 落ちても水のあはれとはいさ白波の花にのみ。 馴れしも今は先だたぬ悔の八千度百千鳥。 花に馴れ行くあだし身は。はかなき程に羨まれて。 霞を憐れみ露を悲しめる心なり。 シテ「さるにても。名にのみ聞きて遥々と。 地「思ひ渡りし桜川の。波かけて常陸帯の。 かごとばかりに散る花を。 あだになさじと水をせき雪をたゝへて浮波の。 花の柵かけまくも。かたじけなしやこれとでも。 木花耶姫の御神木の花なれば。

風もよぎて吹き水も影を濁すなと。 袂を浸し裳裾をしをらかして。花によるべの。 水せきとめて。桜川になさうよ。シテ「あたら桜の。 地「あたら桜の。とがは散るぞ恨みなる。 花も憂し風もつらし。散れば誘ふ。 シテ「誘へば散る花かづら。 地「かけてのみ眺めしは。シテ「なほ青柳の糸桜。 地「霞の間には。シテ「樺桜。地「雲と見しは。 シテ「みよし野の。地「みよし野の。/\。 川淀滝つ波の。花をすくはゞ若し。 国栖魚やかからまし。又は桜魚と。 聞くもなつかしや。いづれも白妙の。花も桜も。 雪も波もみながらに。すくひ集め持ちたれども。 これは木々の花誠は我が尋ぬる。 桜子ぞ恋しき我が桜子ぞこひしき。 ロンギ地「いかにやいかに狂人の。

言の葉聞けば不思議やな。 若しも筑紫の人やらん。シテ「今までは。 誰ともいさや知らぬ火の。 筑紫人かと宣ふは何の御為に問ひ給ふ。地「何をか今は包むべき。 親子の契朽ちもせぬ。花桜子ぞ御覧ぜよ。 シテ「桜子と。/\。聞けば夢かと見もわかず。 いづれ我が子なるらん。 地「三年の日数程ふりて。別も遠き親と子の。 シテ「もとの姿はかはれども。 地「さすが見馴れし面だてを。シテ「よく/\見れば地「桜子の。 花の顔ばせの。子は子なりけり鶯の。 逢ふ時も泣く音こそうれしき涙なりにけれ。 キリ地「かくて伴ひ立ちかへり。/\。 母をも助け様変へて。 仏果の縁となりにけり。二世安楽の縁深き。 親子の道ぞありがたき/\ 小太郎 善光寺の住僧 花若 母(後ハ狂女)。

ワキ次第「夢路も添ひて故郷に。/\。 帰るや現なるらん。 詞「これは越後の国柏崎殿の御内に。小太郎と申す者にて候。 さても頼み奉りし人は。訴訟の事候ひて。 在鎌倉にて御座候ひしが。 唯かりそめに風の心地と仰せ候ひて。 程なく空しくなり給ひて候。又御子息花若殿も。 同じく在鎌倉にて御座候ひしが。 父御の御別を歎き給ひ。何処ともなく御遁世にて候。 さる間花若殿の御文に。 御形見の品々を取りそへ。たゞ今故郷柏崎へと急ぎ候。 道行「乾しぬべき。 日影も袖やぬらすらん。/\今行く道は雪の下。 一通り降る村時雨。山の内をも過ぎ行けば。 袖さえまさる旅衣。碓氷の峠うち過ぎて。 越後に早く。 着きにけり越後に早く着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。 故郷柏崎に着きて候。

まづ/\案内を申さうするにて候。いかに申し候。 鎌倉より小太郎がまゐりて候それ/\御申し候へ。 シテ詞「なに小太郎とは。もし殿の御帰ありたるか。 あらめづらしや何とて物をば申さぬぞ。 ワキ「さん候これまでは参りて候へども。 何と申し上ぐべきやらん。 更に思ひも弁へず候。シテ「あら心もとなや。 物をば申さでさめ%\と泣くは。 さて花若が方に何事かある。 ワキ「さん候花若殿は御遁世にて御座候。 シテ「何と花若殿が遁世したるとは。さては父の叱りけるは。 など追手をばかけざりしぞ。 ワキ「いやさやうにも御座なく候。 様々の御形見の物を持ちて参り候。シテ「何さま%\の形見とは。 さては花若が父の空しくなりたるな。 此程はそなたの風もなつかしく。 便もうれしかりつるに。形見を届くる音信は。 中中聞きても恨めしきぞや。 たゞ仮初に立ち出でて。やがてと言ひし其主は。

地「昔語に早なりて形見を見るぞ涙なる。 シテロンギ「さてや最期の折節は。 いかなる事か宣ひし。委しく語り。 おはしませせめては聞いて慰まん。 ワキ「唯故郷の御事を。おぼつかなく思し召し。 御最期までも人知れずひそかに御諚ありしなり。 シテ「実にやさこそはおはすらめ。 三年離れて其後は。 我も御名残いつの世にかは忘るべき。ワキ「御ことわりと思へども。 。 歎をとゞめおはしまし形見を御覧候へ。シテ「実にや歎きても。 かひなき世ぞと思へば。 地「形見を見るからにすゝむ涙はせきあへず。 ワキ詞「花若殿の御文の候。 これを御覧候へ。シテ文「さても/\父御前。 痛はりつかせ給ひ。程なく空しくなり給へば。 心の中の悲しさは。唯おぼしめしやらせ給へ。 我も帰りて御ありさま。 見参らせたくは候へども。思い立ちぬる修行の道。

もしや止められ申さんと。思う心を便にて。 心づよくも出づるなり。 命つれなく候はば。三年が内には参るべし。 様々の形見を御覧じて。御心を慰みおはしませと。 書いたる文の恨めしや。 地下歌「なからん父が名残には。子ほどの形見あるべきか。 上歌「父が別は如何なれば。/\。 悲しみ修行に出づる身の。などや生きてある。 母に姿を見みえんと。 思う心のなかるらん。恨めしの我が子や。うき時は。 恨みながらもさりとては。我が子の行方安穏に。 守らせ給へ神仏と。祈る心ぞ。 なはれなる祈る心ぞあはれなる。 僧詞「かように候ふ者は。 信濃の国善光寺の住僧にて候。又こに渡候ふ人は。 。 いづくとも知らず愚僧を頼むよし仰せ候ふ程に。 師弟の契約をなし此ほど出家させ申して候。 さる間毎日如来堂へ従ひ申し候。今日も又参らばやと思ひ候。

後シテ詞一声「これなる童どもは何を笑うぞ。 何者に狂ふがをかしいとや。 うたてやな心あらん人は。訪ひてこそたぶべけれ。 それをいかにといふに。 夫には死して別れ。唯ひとり忘れ形見とも思ふべき。 子の行方をも白糸の。 地「乱れ心や狂ふらん。カケリ「。 シテサシ「実にや人の身のあだなりけりと。 誰かいひけん空言や。 又思には死なれざりけりと。詠みしもことわりや。 今身の上に知られたり。 これもひとへに夫や子の。故と思へば恨めしや。 地下歌「うき身は何と楢の葉の柏崎をば狂ひ出で。 上歌「越後の国府に着きしかば。/\。 人目も分かぬ我が姿。いつまで草のいつまでと。 知らぬ心は麻衣。うらはる%\と行くほどに。松風遠くさびしきは。 常磐の里の夕かや。我にたぐへてあはれなるは此里。 。

子故に身をこがしゝは野辺の木島の里とかや。降れどもつもらぬ淡雪の。 浅野といふはこれかとよ。桐の花咲く井の上の。 山を東に見なして。西に向へば善光寺。 生身の弥陀如来。わが狂乱はさておきぬ。 死して別れし妻を導きおはしませ。 ワキツ詞「いかに狂女。 御堂の内陣へは叶ふまじきぞ急いで出で候へ。 シテ詞「極重悪人無他方便。 唯称弥陀得生極楽とこそ見えたれ。 ワキツレ「これは不思議の物狂かな。そもさやうの事をば誰が教へけるぞ。 シテ「教へはもとより弥陀如来の。 御誓にてはましまさずや。唯心の浄土と聞く時は。 此善光寺の如来堂の。内陣こそは極楽の。 九品上生の台なるに。 女人の参るまじきとの御制戒とはそもされば。 如来の仰せありけるか。よし人々は何ともいへ。 声こそしるべ南無阿弥陀仏。地「頼もしや。 頼もしや。シテ「釈迦は遣り。 地「弥陀は導く一筋に。こゝを去ること遠からず。

是ぞ。 西方極楽の上品上正の内陣にいざや参らん。光明遍照十方の。 誓ぞしるきこの寺の。常の灯影頼む。 夜念仏申せ人々よ。夜念仏いざや申さん。 シテ詞「いかに申し候。 如来へ参らせ物の候。此烏帽子直垂は。 別れし夫の形見なれども。 形見こそ今はあだなれこれなくは。忘るゝひまもあらましものをと。 詠みしも思ひ知られたり。 これを如来に参らせて。夫の後生善所をも。 祈らばやと思ひ候。 物着あらいとほしやこの烏帽子直垂の主は。 よろづ何事につきても闇からず。弓は三物とやらんを射そろへ。 歌連歌の道も達者なりし上。 又酒盛などのをりふしは。 いで人々に乱舞まうて見せんとて。鎧直垂とりいだし。 衣紋うつくしく着ないて。へりぬり取つて打ちかづき。 手拍子人に囃させて。扇おつ取り。 鳴るは滝の水。

クリ地「それ一念称名の声の内には。 摂取の光明を待ち。 聖衆来迎の雲の上には。シテ「九品蓮台の。花散りて。 地「異香満ち/\て人に薫じ白虹地に満ちて。 列なれり。シテサシ「つら/\世間の幻相を観ずるに飛花落葉の風の前には。 有為の転変をさとり。 地「電光石火の影の中には生死の去来を見ること。 始めて驚くべきにはあらねども。幾夜の夢とまとはりし。 仮の親子の今をだに。 添ひ果てもせぬ道芝の露の憂き身の置き所。 シテ「誰に問はまし。旅の道。 地「これも憂き世のならひかや。クセ「悲の涙。 眼にさへぎり思の煙胸に満つ。つら/\これを案ずるに。 三界に流転してなほ人間の妄執の。 晴れがたき雲の端の月の御影や明らけき。 真如平等の台に至らんとだにも歎かずして。 煩悩の絆に。結ぼほれぬるぞ悲しき。 罪障の山高く。生死の海深し。

如何にとしてか此生に。此身を浮べんと。 実に歎けども人間の。身三口四意三の。 十の道多かりき。シテ「されば始の御法にも。 地「三界一心なり。 心外無別法心仏及衆生と聞く時は。是三無差別なに疑のあるべきや。 己身の弥陀如来唯心の浄土なるべくは。 尋ぬべからず此寺の。 御池の蓮の得ん事をなどか知らざらん。 唯願はくは影たのむ。聳を力の助船。黄金の岸に至るべし。 そも/\楽を極むなる。 教あまたにうまれ行く。道さま%\の品なれや。 宝の池の水。功徳池の。浜の真砂。かず/\の玉の床。 台も品々の楽をきはめ量なき命の仏なるべしや。若我成仏十方の。 世界なるべし。シテ「本願あやまり給はずは。 地「今の我等が願はしき。 夫の行方をしら雲のたなびく山や西の空の。 かの国に迎へつゝ。 一つ浄土の縁となし望を叶へ給ふべしと。称名も鉦の音も。

暁かけて灯の。善き光ぞと仰ぐなりや。 南無帰命弥陀尊願をかなへ給へや。 ロンギ地「今は何をつゝむべき。 これこそ御子花若と。いふにもすゝむ涙かな。 シテ「我が子ぞと。聞けば余りに堪へかぬる。 。 夢かとばかり思ひ子のいづれぞさても不思議やな。地「ともにそれとは思へども。 かはる姿は墨染の。 シテ「見しにもあらぬ面忘れ。 地「母の姿もうつゝなきシテ「狂人といひ。地「衰といひ。 互いにあきれてありながら。よく/\見れば。 園原の伏屋に生ふる箒木の。 ありとは見えて逢はぬとこそ。聞きし物を今ははや。疑もなき。 。 その母や子に逢ふこそ嬉しかりけれ逢ふこそ嬉しかりけれ 男(又ハ僧ニモ) 百万の子 百万

ワキ次第「竹馬にいざやのりの道/\。 誠の友を尋ねん。 詞「これは和州三芳野の者にて候。又これに渡り候ふ幼き人は。 南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。 此頃は嵯峨の大念仏にて候ふ程に。 此幼き人をつれ申し。 念仏に参らばやと存じ候。狂言シカ%\「。 シテ詞「あら悪の念仏の拍子や候。わらは音頭を取り候ふべし。

南無阿弥陀仏。地「南無阿弥陀仏。 シテ「南無阿弥陀仏。地「南無阿弥陀仏。シテ「弥陀頼む。 地「人は雨夜の月なれや。 雲晴れねども西へゆく。シテ「阿弥陀仏やなまうだと。 地「誰かは頼まざる誰か頼まざるべき。 シテ「これかや春の物狂。地「乱心か恋草の。 シテ「力車に七くるま。 地「積むとも尽きじ。シテ「重くとも。

ひけやえいさらえいさと。地「一度に頼む弥陀の力。 頼めやたのめ。南無阿弥陀仏。 地歌「げにや世々ごとの。 親子の道にまとはりて。/\。 なほ子の闇を晴れやらぬ。シテ「朧月の薄曇。 地「わづかに住める世になほ三界の首枷かや。 牛の車のとこ。 とはに何くをさして引かるらんえいさらえいさ。シテ「輓けや/\此車。 地「物見なり/\。シテ「げに百万が姿は。 地「本よりながき黒髪を。シテ「荊棘のごとく乱して。 地「旧りたる烏帽子引きかづき。 シテ「又眉根黒き乱墨。地「うつし心か村烏。 シテ「憂かれと人は。添ひもせで。 地「思はぬ人を尋ぬれば。シテ「親子のちぎり麻衣。 地「肩を結んで裾にさげ。 シテ「すそを結びて肩にかけ。地「筵片。シテ「菅薦の。 地「みだれ心ながら南無阿弥陀仏と。 信心をいたすも我が子に逢はんためなり。 シテ「南無や大聖釈迦如来。

我が子に逢はせ狂気をとゞめ。安穏に守らせ給ひ候へ。 子詞「いかに申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。子「これなる物狂いをよく/\見候へば。故郷の母にて御入り候。 恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。 。 ワキ「これは思いひもよらぬ事を承り候ふものかな。 やがて問うて参らせうずるにて候。いかにこれなる狂女。 おことの国里はいづくの者ぞ。 シテ「これは奈良の都に百万と申す者にて候。 ワキ「それは何故かやうに狂人とはなりたるぞ。 シテ「夫には死して別れ。 只一人ある忘形見のみどり子に生きて離れて候ふ程に。思が乱れて候。 。 ワキ「さて今も子といふ者のあらば嬉しかるべきか。 シテ「仰までもなしそれ故にこそ乱髪の。遠近人に面をさらすも。 もしも我が子に廻りや逢ふと。 車に法の声立てゝ。念仏申し身を砕き。 我が子に逢はんと祈るなり。

ワキ「げに痛はしき御事かな。誠信心私なくは。 かほど群衆の其中に。などかは廻り逢はざらん。 シテ詞「うれしき人の言葉かな。 それにつきても身を砕き。法楽の舞を舞ふべきなり。 囃し。 てたべや人々よ。 忝なくもこの御仏も。 。 羅〓{ゴ:文字鏡067442}為長子と説き給へば。 。 地次第「我が子。 に鸚鵡の袖なれや。 親子鸚。 鵡の袖なれや。 百万が舞を見給へ。 シテ「百や万の舞の袖。我が子の行方。 祈るなり。イロエ「。 シテクリ「げにやおもんみれば。 何くとても住めば都。地「住まぬ時には故郷もなし。

此世はそも何くの程ぞや。 シテサシ「牛羊径街にかへり。鳥雀枝の深きに集まる。 地「げに世の中はあだ浪の。 よるべは何く雲水の。 身の果いかに楢の葉の梢の露の故郷に。シテ「憂き年月を送りしに。 地「さしも二世とかけし中の。契の末は花かづら。 。 結びもとめぬあだ夢の永き別れとなり果てて。シテ「比目の枕。敷波の。

地「あはれはかなき。契かな。 クセ「奈良坂の。児の手柏の二面。 兎にも角にも侫人の。なき跡の涙越す。 袖の柵隙なきに。思重なる年波の。 流るゝ月の影惜しき。 西の大寺の柳蔭みどり子のゆくへ白露の。 起き別れていづちとも知らず失せにけり。一方ならぬ思草。 葉末の露も青によし。 奈良の都を立ち出でて。かへり三笠山。 佐保の川をうち渡りて。山城に井出の里玉水は名のみして。 影うつす面影浅ましき姿なりけり。 かくて月日を送る身の。羊の歩隙の駒。 足にまかせて行く程に。都の西と聞えつる。 嵯峨野の寺に参りつゝ。 四方の景色を眺むれば。シテ「花の浮木の亀山や。 地「雲に流るゝ大井河。誠に浮世の嵯峨なれや。 盛過ぎ行く山桜嵐の風。 松の尾小倉の里の夕霞。立ちこそ続け小忌の袖。 かざしぞ多き花衣。

貴賎群衆する此寺の法ぞ尊き。かれよりもこれよりも。 唯此寺ぞ有難き。忝なくもかゝる身に。 申すは恐なれども。二仏の中間我等ごときの迷ある。 道明らめんあるじとて。 毘首羯磨が作りし赤栴檀の。尊容やがて神力を現じて。 天竺震旦我が朝三国に渡り。 有難くも此寺に現じ給へり。 シテ「安居の御法と申すも。地「御母摩耶夫人の。 孝養の御為なれば。仏も御母を。かなしび給ふ道ぞかし。 。 況んや人間の身としてなどかは母を悲しまぬと。子を恨み身をかこち。 感歎し。 てぞ祈りける親子鸚鵡の袖なれや百万が舞を見給へ。地「あら我が子。恋しや。立廻「。 シテ「これほど多き人の中に。 などや我が子の無きやらん。あら。我が子恋しや。 我が子給べなう南無釈迦牟尼仏と。

地「狂人ながらも子にもや逢ふと信心はなきを。 南無阿弥陀仏。 南無釈迦牟尼仏南無阿弥陀仏と。心ならずも逆縁ながら。 誓に逢はせて。たび給へ。 ワキ「余りに見るもいたはしや。 これこそおことの尋ぬる子よ。よく/\寄りて見給へとよ。シテ「心強や。 とくにも名乗り給ふならば。 かやうに恥をばさらさじものを。あら恨めし。とは思へども。 地「たま/\逢ふは優曇華の。 花待ち得たり夢か現か幻か。 キリ地「よく/\物を案ずるに。/\。 かの御本尊はもとよりも。 衆生のための父なれば。母もろともに廻り逢ふ。 法の力ぞ有難き。願も三つの車路を。 都に帰る嬉しさよ/\ 旅僧 従僧 里の女 玉葛内侍

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此程は南都に候ひて。 霊仏霊社残なく拝みめぐりて候。 またこれより初瀬詣と志して候。道行三人「楢の葉の。 名におふ宮の古事を。/\。思ひつゞけて行末は。 石上寺ふしをがみ。法のしるしや三輪の杉。 山本ゆけば程もなく。初瀬河にも。 着きにけり初瀬川にも着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。初瀬川に着きて候。 心静かに参詣申さうずるにて候。 シテ一セイ「程もなき。舟の泊りや初瀬川。 のぼりかねたる。けしきかな。 舟人も誰を恋うとか大島の。 うらかなしげに声たてて。こがれ来にける古の。 果しもいさや白浪の。よるべいづくぞ心の月の。 御舟はそこと。果しもなし。 歌「唯われひとり水馴棹。雫も袖の色にのみ。 上歌「暮れてゆく。秋の涙か村時雨。/\。 ふる川野辺のさびしくも。

人や見るらん身の程もなほ浮舟の楫を絶え。綱手かなしき。 類かな。綱手かなしき類かな。 ワキ詞「ふしぎやなこの川は山川の。 さも浅くしてしかも漲る岩間つたひを。 ちひ。 さき舟に棹をさ。 す人を見れば女なり。 そも。 御身はいかな。 る人にてましますぞ。 シテ詞「これは此初。 瀬寺に詣でくる者なり。 又。 この川は所から。 名に流れたる海士小舟。初瀬の川とよみおける。 その河の辺の江にしあるに。 不審ななさせ給ひそとよ。 ワキ詞「あらおもしろの言葉やな。げに蜑小舟初瀬とは。

古きながめの言葉なるべしさりながら。 又その類も浪小舟。さして謂れのあるやらん。 シテ「いや何事のそれよりも。 先御らんぜよ折柄に。地歌「ほの見えて。 色づく木々の初瀬山。/\。風もうつろふ薄雲に。 日影も匂ふ一しほの。さぞな景色もかく川の。 浦わの眺までげに。たぐひなや面白や。 川音きこえて里つゞき。

奥もの深き谷の戸に。つらなる軒を絶々の霧間に残す。 夕かな霧間に残す夕かな。 かくて御堂に参りつゝ。/\。補陀落山も目のあたり。 四方の眺も妙なるや。 紅葉の色に常磐木。 の二本杉に着きにけり二本杉に着きにけり。 。 シテ詞「これこそ二本の杉にて候へよくよく御覧候へ。 ワキ詞「さては二本の杉にて候ひけるぞや。二本の杉の立所を尋ねずは。 詞古川の辺に君を見ましやとは。 何とよまれたる古歌にて候ふぞ。 シテ「是は光る源氏のいにしへ。 玉葛の内侍この初瀬に詣で給ひしを。 右近とかや見奉りてよみし歌なり。 共にあはれと思しめして御あとをよく弔ひ給ひ候へ。 。 地クリ「げにや有りし世をなほ夕顔の露の身の。消えにしあとはなか/\に何なでしこの形見も憂し。 シテサシ「あはれ思ひの玉葛。かけてもいさや知らざりし。

地「心尽し木の間の月。 雲井のよそにいつしかと。鄙の住居の憂きのみか。 さてしもたえてあるべき身を。 シテ「猶しをりつる人心の。地「あらき浪風立ち隔て。 クセ「た。 よりとなれば早舟に乗りおくれじと松浦がた。唐土船を慕ひしに。 心ぞかはる我はたゞ。浮島を。 漕ぎ離れても行く方や何く泊りと白波に。響の灘も過ぎ。 思ひに障る方もなし。かくて都の内とても。 われは浮きたる舟のうち。 なほや憂き目を水鳥の陸にまどへる。 心地してたづきも知らぬ身の程を。思ひ歎きて行き悩む。 足曳の大和路や。唐土までも聞ゆなる。 初瀬の寺に詣でつゝ。シテ「年も経ぬ。 祈る契は初瀬山。 地「尾上の鐘のよそにのみ。思ひ絶えにし古の。 人に二度ふた本の。杉の立所を尋ねずは。 古川のべと眺めける。今日の逢ふせも。 同じ身を思へば法の衣の。玉ならば玉葛。

迷を照らし給へや。 ロンギ地「げに古き世の物語。 聞けば涙もこもり江に。こもれる水のあはれかな。 シテ「あはれとも思は初めよ初瀬川。 早くも知るや浅からぬ。 地「縁にひかるゝシテ「心とて。地「たゞ頼むぞよ法の人。 弔ひ給へ我こそは。 涙の露の玉の名と名の。 りもやらずなりにけり名のりもやらずなりにけり。中入間「。 。 ワキ詞「さては玉葛の内侍かりに現れ給ひけるぞや。たとひ業因おもくとも。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「照らさざらめや日の光。/\。 大慈大悲の誓ひある。法の灯明かに。 亡き影いざや。 とぶらはん亡き影いざや弔はん。 後シテ一声「恋ひわたる身はそれならで。玉葛。 いかなる筋を。尋ねきぬらん。尋ねても。 法の教に逢はんとの。心ひかるゝ一筋に。 其まゝならで玉葛の。

乱るゝ色は恥ずかしや。つくも髪。カケリ「。地「つくも髪。 我や恋ふらし面影に。 地「立つやあだなる塵の身は。シテ「はらへど/\執心の。 地「ながき闇路や。シテ「黒髪の。 地「飽かぬやいつの寝乱髪。シテ「むすぼほれゆく思かな。 地「げに妄執の雲霧の。/\。 迷もよしや憂かりける。人を初背の山颪。 はげしく落ちて。露も涙もちり%\に秋の葉の身も。朽ち果てね恨めしや。

シテ「うらみは人をも世をも。 地「うらみは人をも世をも。思ひ思はじ唯身ひとつの。 報の罪。やかず/\の憂き名に立ちしも懺悔の有様。あるひは湧きかへり。 岩もる水の思にむせび。あるひは焦るゝや。 身よりいづる。玉とみるまで包めども。 蛍に乱れつる。影もよしなやはづかしやと。 此妄執をひるがへす。心は真如の玉かづら。 /\。長き夢路はさめにけり 旅僧 里の女 浮舟の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我此程は初瀬に候ひしが。 これより都に上らばやと思ひ候。道行「初瀬山。 夕越え暮れし宿もはや/\。檜原の外に三輪の山。 しるしの杉も。 立ち別れ嵐とともにならの葉の。暫し休らふ程もなく。 狛の渡や足早み。宇治の里にも着きにけり/\。

詞「急ぎ候ふ程に。 これは早宇治の里に着きて候。 暫く休らひ名所をも眺めばやと思ひ候。 シテサシ一セイ「柴積船の寄る波も。 なほたづきなき。憂き身かな。 二ノ句「憂きは心の科ぞとて。たが世をかこつ。方もなし。 住みはてぬ住家は宇治の橋ばしら。

起居苦しき思ひ草。葉末の露を憂き身にて。 老い行く末も白真弓。もとの心を歎くなり。 下歌「とにかくに定なき世の影たのむ。 上歌「月日も受けよ行末の。/\。 ~に祈のかなひなば。頼をかけて御注連縄。 長くや世をも。祈らまし長くや世をも祈らまし。 。 ワキ詞「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「此宇治の里に於て。 古。 いかなる人の住み給ひて候ふぞ委しく御物語り候へ。シテ「処には住み候へども。 賎しき身にて候へば。 委しき事をも知らず候さりながら。古この処には。 浮舟とやらんの住み給ひしとなり。 同じ女の身なれども。 数にもあらぬ憂き身なれば。いかでかさまでは知り候ふべき。 ワキ詞「実に光源氏の物語。 なほ世に絶えぬ言の葉の。 それさへ添へて聞かまほしきに。心に残し給ふなよ。

シテ詞「むつかしの事を問ひ給ふや。 里の名を聞かじといひし人もこそあれ。 さのみは何を問ひ給ふぞ。地歌「さなきだに古の。 /\。恋しかるべき橘の。 小島が崎を。 見渡せば河より遠の夕煙立つ河風に行く雲の。あとより雪の色添へて。 山は鏡をかけまくも。 賢き世々にありながらなほ身を宇治と。 思はめやなほ身を宇治と思はめや。 。ワキ詞「なほ/\浮舟の御事委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\この物語と申すに。其品々も妙にして。事の心広ければ。 拾ひて云はん。言の葉の。 シテサシ「玉の数にもあらぬ身の。 そむきし世をやあらはすべき。地「まづ此里に古は。 人々あまた住み給ひける類ながら。 取り分き此浮舟は薫中将のかりそめに。 すゑ給ひし名なり。クセ「人がらもなつかしく。 心ざまよし有りておほとかに過し給ひしを。

物いひ。さがなき世の人の。 ほのめかし聞えしを。色深き心にて。 兵部卿の宮なん忍びて尋ねおはせしに。 織り縫ふ業のいとまなき。宵の人目も悲しくて。 垣間見しつゝ。 おはせしもいと不便なりし業なれや。其夜にさても山住の。 めづらかなりし有様の。心にしみて有明の。 月澄み昇る程なるに。シテ「水の面もくもりなく。 地「船さしとめし行方とて。 汀の氷踏み分けて。 道は迷はずとありしも浅からぬ御契なり。 一方は長閑にて訪はぬ程経る思さへ。晴れぬながめとありしにも。 涙の雨や揩ウりけん。とにかくに思ひわび。 此世になくもならばやと。 歎きし末はは。 かなくて終に跡無くなりにけり終に跡なくなりにけり。 ワキ詞「浮舟の御事は委しく承りぬ。 さてさて御身は何処に住む人ぞ。 シテ「これは此処にかりに通ひものするなり。

妾が住家は小野の者。都のつてに訪ひ給へ。 ワキ「あら不思議や。 何とやらん事たがひたるやうに候。 さて小野にては誰とか尋ね申すべき。シテ「隠はあらじ大比叡の。 杉のしるしはなけれども。 横川の水の住む方を。比叡坂と尋ね給ふべし。 地歌「なほ物の気の身に添ひて。 悩む事なんある身なり法力を頼み給ひつゝ。 あれにて待ち申さんと。 浮き立つ雲の跡もな。 く行く方知らずなりにけり行く方知らずなりにけり。中入間「。 ワキ詞「かくて小野には来れども。 いづくを宿と定むべき。 歌「処の名さへ小野なれば。/\。草の枕は理や。 今宵はこゝに経を読み。かの御跡を。 弔ふとかやかの御跡を弔ふとかや。 後シテ一声「亡き影の絶えぬも同じ。涙川。 よるべ定めぬ浮舟の。法の力を頼むなり。 あさましきや本より我は浮舟の。

よる方わかでたゞよふ世に。 憂き名洩れんと思ひわび。此世になくもならばやと。 明暮思ひ煩ひて。人皆寝たりしに。 妻戸を放ち出でたれば。風烈しう河波荒う聞こえしに。 知らぬ男の寄り来つゝ。 誘ひ行くと思ひしより。心も空になりはてゝ。 カケリ「あふさきるさの事もなく。 地「我かの気色もあさましや。 シテ「あさましやあさましやな橘の。地「小島の色は変らじを。 シテ「此浮舟ぞ。よるべ知られぬ。 地「大慈大悲の理は。/\ 。 世に広けれど殊に我が。心一つに怠らず。 明けては出づる日の影を。絶えぬ光と仰ぎつゝ。

暮れては闇に。 迷ふべき後の世かけてョみしに。シテ「ョみし。まゝの観音の慈悲。 地「ョみしまゝの。観音の慈悲。 初瀬の便に横川の僧都に。見付けられつゝ。 小野に伴ひ。祈り加持して物の気のけしも。 夢の世になほ。苦は大比叡や。 横川の杉の。古き事ども。夢に現れ。 見え給ひ。今此聖も。同じ便に弔ひ受けんと。 思ひしに。思のまゝに。執心晴れて。 都卒に生まるゝ。 うれしきといふかと思へば明け立つ横川。 いふかと思へば明け立つ横川の。 杉の嵐や残るらん杉の嵐もや残るらん 良忍上人 里の女 桂子 桜子

ワキ次第「法の心も三つの名の。/\。 大和路いざや尋ねん。 詞「これは大原の良忍聖にて候。我融通念仏を国土に弘め候。

此度は大和路にかゝり。 念仏をも弘めばとや思ひ候。 道行「住みなれし大原の里を立ち出でて。/\。

なほ行末は深草山木幡の闇をうち過ぎて。 宇治の中宿井出の里。すぐればこれぞ足引や。 大和の国に着きにけり/\。詞「急ぎ候ふ間。 ほどなう大和の国に着きて候。 此処に三山と申して名所のある由承り及びて候。 此あたりの人に尋ねばやと思ひ候。 シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧。 なにと御尋ね候ふとも。 これを知りたる人は少なかるべし。総じてこの山は。 万葉第一に出されたる三山の一つなり。 耳無山ともみなし山とも。語るによりて妄執の。 よしある昔の物語。閻浮にかへる里人の。 耳無山の池水に。沈みし人の昔がたり。 よくよく問はせ給へとよ。ワキ詞「げに/\万葉集に曰く。大和の国に三山あり。 香山は夫畝傍耳無山は女なり。 これに依つて三つにあらそふと書けり。 此謂を委しく御物語り候へ。 シテ「まづ南に見えたるは香山。西に見えたるは畝傍山。

此耳無までは三つの山。一男二女の山ともいへり。 ワキ詞「さてかく山を夫とは。 何しに定め置きけるぞ。 シテ「それはあの香久山に住みける人。畝傍耳無二つの里に。 二人の女に契をこめて。 二道かけて通ひしなり。ワキ「さてうねみ山の女の名をば。 シテ詞「桜子ときこえし色このみ。 ワキ「耳無山の女の名をば。 シテ詞「桂子といはれし遊女なり。ワキ「さて争は。 シテ「花や緑。ワキ詞「契の色は。シテ「隔もなく。 地「一つの世に二道かけて三山の。 名を聞くだにも久方の。天の香久山いつしかに。 語るもよそならず。わが耳無やうねみ山。 争ひかねて池水に。 捨てし桂の身の果を弔ひ給へ上人よ弔ひ給へ上人よ。 。ワキ詞「なほ/\三山の謂委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\大和の国三山の物語。世も古にならの葉や。 かしはでの公成といふ人あり。

シテサシ「又其頃桂子桜子とて。二人の遊女ありしに。 地「彼のかしはでの公成に。 。 契をこめて玉手箱。 二道かくるさゝがにの。 い。 と浅からぬ思夫の。 月の夜まぜ。 に行き通ふ住家。 はうねみ耳無山。 シテ「里も二つの采女のきぬ。 地「花よ月よと。 争ひしに。 シテ「男うつろふ花心。 。 かの桜子に靡き移りて。 耳無の。 里へは来ざりけり。 地「其時桂子恨みわび。 さては我には変る世の夢も暫しの桜子に心を染めて此方をば。 シテ「忘れ忍ぶの軒の草。

地「はや枯れ%\になりぬるぞや。クセ「桂子思ふやう。 もとよりも頼まれぬ。 二道なればそのまゝに有り果つべしと思ひきや。其うへ何事も。 時に随ふ世の習。 ことさら春の頃なれば。 盛なる桜子にうつる人をば恨むまじ我は花なき桂子の。身を知れば春ながら。 秋にならんも理や。 さるほどに起きもせず。寝もせで夜半を明かしては。 春のものとて長雨降る。夕暮に立ちいでて。 入相もつく%\と。南は香久山や。 西はうねみの山に咲く。さくら子の里見れば。 よそめも花やかに。羨ましくぞ覚ゆる。 。 シテ「生きてよも明日まで人のつらからじ。地「この夕暮を限ぞと。 思ひ定めて耳無山の池水の。 淵にのぞみて影うつる名も月の桂の緑の髪もさながらに。 池の玉藻のぬれ衣。身を投げ空しくなり果てゝ。 此世には早みなし山。 其名をあはれみて。

跡弔はせ給へやシテ詞「いかに申すべき事の候。 妾をも名帳に入れて賜はり候へ。 ワキ詞「やすき間の事。さて御名を承り候ふべし。 シテ「名をば桂子と遊ばし候へ。 ワキなに桂子と申し候ふや。シテ「よし/\名をば申すま唯十念授け給へ。ワキ「げに/\さのみは問ひがたしと。 掌を合はせて南無阿弥陀仏。シテ詞「南無阿弥陀仏。 二人「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨。 地「これまでなりや名帳の。 名は桂子と書き給へそれより外に我が名をば。 いくたび問はせ給ふとも。 言はじや聞かじ耳無の。 生けるものにはあらずとて池水。 の底に入りにけり池水の底に入りにけり。中入間「。 ワキ歌、待謡「耳無の池の玉藻のぬれ衣。/\。 恨もこゝに有明のその名も月の桂子の。 なき跡いざや弔はん/\ <ツレ「なう上人。此みゝなしの山嵐に。吹。

きさそはれて来りたり。これ/\助けたび給へ。詞我はあのうねみ山に住む。 桜子といはれし女なるが。 風の狂ずる心乱に。かやうに狂ひさぶらふなり。 さりとては上人よ。因果の花につき祟る。 嵐をのけてたび給へ。 後シテ「あら羨ましの桜子や。又花の春になるよなう。 詞忘れて年を経しものを。見よかし顔に桜子の。 花のよそ目も妬ましや。一声「光散る。 月の桂も花ぞかし。地「たれ桜子に。移るらん。 カケリ「。ツレ「盛とて。光を埋む花心。 地争ひかねて桂子が。シテ「恨ぞまさる。 桜子の。地「花も散りなば青葉ぞかし。 シテ「などや桂をへだつらん。 ツレ「恥かしやなほ妄執は有明の。侭きぬ恨を御前にて。 懺悔の姿を現すなり。 シテ詞「あれ御らんぜよ桜子の。よそめにあまる花心。 ことわり過ぐる景色かな。 ツレ「もとより時ある春の花。咲くは僻事なきものを。

シテ詞「花ものいはずと聞きつるに。 など言の葉を聞かすらん。 ツレ「春いくばくの身にしあれば。影唇を動かすなり。 シテ「さて花は散りても。ツレ「又も咲かん。 シテ「春は年々。ツレ「頃は。シテ「弥生に。 地「又花の咲くぞや。/\。 見ればよそめも妬ましき。花のうはなり打たんとて。 桂の立枝を折り持ちて。みゝなしの山風。 さて懲りやさて懲りや。 あらよそめを松風春風も。吹き寄せて/\。 雪と散れ桜子。雲となれ桜子。花は根に帰れ。

われも人知れず妬さも妬し後妻を。 打ち散らし打ち散らす。 中に打てども去らぬは家の。 犬ざくら花に伏して吠え叫び悩み乱るゝ花心。そねみの病となりし。 因果の焔の緋ざくら子。 さて懲りやさて懲りやあらよそめをかしや。 因果の報はこれまでなり。花の春一時の。 恨を晴れて速に。有明桜光そふ。 月の桂子もろともに。西に生るゝ一声の。 御法を受くるなりあと弔いてたび給へ 関清次の妻 松浦某 従者

ワキ詞「これは九州松浦の何某にて候。 偖も某召使ひ候ふ関の清次と申す者。 他郷の者と口論し。念なう敵をば討つて候。 さりながら科人の事にて候ふ間。 牢者させて候。彼の者大剛のものにて候ふ間。 番の事かたく申しつけばやと存じ候。

いかに誰かある。狂言シカ%\「。 ワキ「彼の者大剛の者にてある間。 番の事かたく仕り候へ。狂言シカ%\「。 。 ワキ「何と清次が牢より抜けたると申すか。言語道断の事。 さてこそ以前よりかたく申しつけてあるに。

さやうに油断仕りてあるぞ。さて彼の者の子はなきか。 狂言シカ%\「。ワキ「妻はなきか。狂言シカ%\「。 。 ワキ「さあらば急いでその女を連れて来り候へ。狂言シカ%\「。 シテ「科人を召し篭められ候ふ上は。 女までの御罪科は余りに御情なうこそ候へ。 ワキ「いかに女。さても汝が夫の清次。 今夜牢を破り失せぬ。 夫婦の事なれば知らぬ事はあるまじ。まつすぐに申し候へ。 シテ「もとより賎しき者なれば。 我が身の助かり候ふをこそ喜び候ふべけれ。 妾にはかくとも申さず候ふほどに。 夢にも知らず候。ワキ「いや/\何と申すとも知らぬ事はあるまじ。まず/\落居のあらんほど。夫の代に牢者させ。 其在処をたゞさんと。上歌地「今の女を引き立てゝ。/\。 いそぎ牢者になすべしと。 さもあらげなき人心。情けなしとは思へども。 殺害の科を逃れ得ぬ。報のほどぞ無残なる/\。

狂言シカ%\「。 ワキ詞「やあいかに汝は女に向ひ何事を致すぞ。 その野者げなるに由つて清次をも牢より逃がいてあるぞ。 所詮いまよりは鼓をかけて。 一時づつ時を打つて番を仕り候へ。狂言シカ%\「。 シテサシ「げにや思うちにあれば。 色はほかにぞ見えつらん。つゝめども。 袖にたまらぬ白玉は。人を見ぬ目の涙かな。 狂言シカジカ「。ワキ「これは誠にてあるか。狂言シカ%\「。 。 ワキ「あら不便や立ち越え見うずるにて候。やあいかに女。 何ゆゑ狂気するぞとうけたまはる。人の心の花ならば。 風の狂ずるゆゑもあるべし。 いはんや偕老同穴と。契りし夫も行くへ知らで。 のこる身までも道せばき。なほ安らかぬ牢の。 おもひの闇のせんかたなさに。 物に狂ふは僻事か。ワキ詞「げに/\夫のわかれ牢者のおもひ。一方ならぬ身のなげきに。

。 物に狂ふは理なりさりながらいづくに夫の在処を。知らせばやがて呼びつとて。 汝は牢より出すべしまつすぐに申し候へ。 。 シテ「これは。 仰ともおぼ。 えぬものかな。 たとひ。 夫の在処を。 知りたればとて。 あら。 はし夫を失ふべきか。 。 其上夫の在処を。 夢う。 つゝにも知らぬものを。 ワキ「優しき女の言事やと。 詞「手づから牢の戸を開き。はやこれまでぞとく出でよ。 シテ「御心ざしはありがたけれども。

夫に代れる此身なれば。 此牢の内をば出づまじや。これこそ形見よなつかしや。 地「無慙や我が夫の。身に代りたる牢のうち。 出。 つまじや雨の夜の尽きぬ名残ぞ悲しき西楼に月落ちて。 花のあひだも添い果てぬ。契ぞ薄き灯の。残りてころがるゝ。

影はづかしき我が身かな。 。 ワキ詞「言語道断。かゝる優しき事こそ候。 はね。此上は夫婦ともに助くるぞとく出。 て候へ。シテ「かほどに情けましまさば。始。 よりかく憂き目を見せ給ふべきか。さる。 にても我が夫はいづくにあるらん。なう。 心が乱れさむらふぞや。一セイ乱るゝは。柳。 の髪か春雨の。地「涙にむせぶ心かな。イロエ「。シテ詞「なう/\これなる鼓は何のた。 めに懸けられて候ふぞ。。 ワキ「あれこそ時守の時を知る相図の鼓。よ。シテ「面白し/\。異国ぬもさるため。 しあり。かやうに鼓を懸けて時を守りし。 こともあり。其心を得て古き歌に。時守。 の打ちます鼓声きけば。時にはなりぬ。。 君は遅くて。地「遅くも君が来んまでぞ。カケリ「。 シテ詞「なう此鼓を打つて心が慰みた。 う候。ワキ「易き間の事いかようにも打つ。

て慰め候へ。。 シテ「鼓の声も音にたてゝ。地「なく鷲の青。 葉の竹。シテ「湘浦の浦や娥皇女英。地「諌。 鼓苔むす此鼓。シテ「うつゝもなやなつ。かしや。地上歌「鼓の声も時ふりて/\。。 日も西山に傾けば。夜の空も近づく六つ。 の鼓打たうよ。五つの鼓は偽の。契あだ。 なる妻琴の。ひき離れいづくにか。我がご。とく忍びねのやはら/\打たうよや。や。はら/\打たうよ。四つの鼓は世の中に。/\。恋といふ事も。 恨といふ事もなきならひならば。ひとり物は思はじ。 シテ「九つの。地「こゝのつの。 夜半にもなりたるや。あら恋し我が夫の。 面影に立ちたり。嬉しやせめてげに。 身がはりに立ちてこそは。二世のかひもあるべけれ。 此牢出づる事あらじ。なつかしの此牢や。 あらなつかしの此牢。 ワキ詞「此上は諏訪八幡も御知見あれ。 夫婦ともに助くるぞはやとく出で候へ。

ワキ「げに此うへははさればとて。 御偽はよもあらじ。真は夫の在処。 筑前の宰府に知る人あれば。 そなたへ行きてや候ふらん。ワキ「いしくも隠さず申したり。 詞しかも今年は我が親の。十三に当りたれば。 科ありとても助舟の。 シテ「松浦の川や西の海。ワキ「彼の国近き。シテ「極楽の。 地「弥陀誓願の誓かや。科を助くる憐の。 あらありがたやの御慈悲や。 やがて時日を移さず/\。かくれし夫を尋ねつゝ。 もとの如くに帰りゐて。結ぶ契の末久に。 松浦の川や二世の縁。 げにありがたき心かな/\ 粉河の某 祇王 祇王の父 従者

ワキ詞「是は紀州粉河の。何某にて候。 扨も某隣郷の何某と口論し。 生捕分捕数を知らず候。 其中に未だ若き者を一人篭舎させ。処の者に預け番を守らせ候ふ所に。 過ぎし夜囚人を逃して候ふ間。 彼の番の者を又篭舎させて候。 弥番の事固く申し付けばやと存じ候。いかに確かある。 狂言シカ%\「。篭の番を固く仕かり候へ。 又囚人の所縁などとて。尋ね来り候ふとも。 対面は固く禁制にてあるぞその由。心得候へ。 シテトモ次第「旅立つ雲の朝もよひ。 旅立つ雲の朝もよひ。糸巳の路にいざや急がん。 。 シテサシ「これは此程都に住む祇王と申す女にて候。我遊女の道を嗜み。 色香に移る花鳥の。声の綾織る機薄の。 糸珍らかに初月の雲井にも名を残す身の。

花の都の住居かな。 詞「また鄙の住居に年寄りたる父を持ちて候ふが。 篭舎とやらん聞こえ候ふほどに。老いの親とてさなぎだに。 別の近き世の中に。いかなる罪にてか沈み給はん。 急ぎ下りて今一目。 見参らせばやと思ひつつ。 シテトモ二人下歌「春の霞と立出でて都の月の夜深きに淀の渡りに立出づる。 上歌「散りにし花の山風の。/\。うどのゝ芦の露分けて。 。 旅衣禁野の雪をたどり行く交野の御野の桜狩。雨はふり来ぬ同じくは。 濡るとも陰に宿らん濡るとも陰に宿らん。 月住みよしや西の海。/\。 遥に見えて沖津波互にかゝる夕雲の。和泉の国に着きしかば。 信太の森の葛の葉も。まだき下萌は春草の。 野山を分けて紀の国や。 粉河の里に着きにけり/\。

シテ詞「やう/\急ぎ候ふ程に。これははや粉河の里に着きて候。 こ。 の処にて父御の御行方を尋ね候へトモ「畏まつて候。いかにこの内へ案内申し候。 狂言シカ%\「。是に渡り候ふ人は。 都にかくれなき祇王と申す白拍子にてわたり候ふが。 父御に対面のため御下にて候。 よきやう。 に御申あつて引合はされてたまはり候へ。狂言シカ%\心得申して候。狂言シカ%\「。 その由申して候へば。かう/\御通あれとの御事にて候。 ワキ「某に対面と仰せ候ふ人は何所に渡り候ふぞ。 シテ「恥かしながら妾にて候。ワキ「最前も申す如く。 総。 じて囚人の所縁に対面は固く禁制にて候へども。祇王御前の御事は。 天下に隠れもなき舞の上手にて候ふほどに。 舞を舞うて御見せ候はゞ。 大法を破つて父御に引合はせ申さうずるにて候。 シテ「何と妾に舞をまへと候ふや。ワキ「なか/\の事。 シテ「悲しやな親子の中の対面なるに。

まはじといはゞ逢ふ事叶はじ。 父に逢はせて給はらば。其後舞を舞ひ候はん。 ワキ「仰尤にて候。 さあらば先々引合はせ申さうずるにて候。 その後舞をまうて御見せ候へ。いかに誰かある。 この人を篭舎の者に。引き合はせ候へ。狂言シカ%\「。 ツレ「篭鳥雲を乞ひ帰雁は友を失ふ心。 それは鳥類にこそ聞け。 人間に於てかくばかり。故郷を去り友を忍びて。 唯前生の因果を思ふのみなり。 南無や大慈大悲の観世音。 福寿海無量の誓のまゝに、善所に迎へとりたまへ。 シテ詞「いかに父御前。祇王こそこれまで参りて候へ。 かゝる御有様を見参らすれば。 目もくれ心乱れ侍ふ。ツレ「あらふしぎや。 御身は何とてこれまで来りたるぞ。 シテ「さん候父御の御祈の為。 このほど清水に篭りて候へば。何事やらん父御前は科を蒙り。 篭舎とやらん聞え候ふ程に。

かちはだしにて是まで参りて候。 扨御科は何事にて候ふぞ。ツレ「実に/\不審尤なり。 委しく語つて聞せ候ふべし聞き候へ。 シテ「さらば御物語り候へ。 ツレ「扨も当国に合戦あつて。 敵味方打ちうたるゝ事数を知らず。其中に生捕の者を此篭に入れ置かれ。 処の者に預け番を守らせられ候ふ所に。 某番に当り候ふ時。 囚人を見れば未だ若き人なり。然も此度の本人にてもあらず。 痛はしや人の上だに悲しきに。 さこそは親の歎き給ふらんと。思へば人を助くるは。 側ち菩薩の行なれば。 たとひ我等は罪にあふとも。助けばやと思ふ一念に。 篭を開き夜にまぎれ落す。 されば囚人を失ひたる科のがれ難く。 かく浅ましき有様なり。殊更けふの夕べとやらん。 命の限と聞えし所に。嬉しくも来り給ふものかな。 無き跡と云ひ最期と云ひ。 余り便もなかりつるに。御身の来り給を見て。

二世安楽の思なりさりながら。 不覚の涙こぼれ候。 シテ詞「扨は人を助け給ふ御科ならば。却つて御悦にやなり候ふべき。 慈眼視衆生の力を頼み。 観世音を念じ給ふべし。ツレ「実に/\それはさる事なれども。今は命も惜しからず。 唯願はしきは後生菩提。シテ「実に/\これも御身の為には。御理とは思へども。 我ばかりなる親子の中。 ツレ「此一世こそ限なるを。 シテ「此世をだにもそひ果てもせで。ツレ詞「せめては生老病死の中。 シテ「病苦をも受けず。 ツレ詞「死をもまたで。シテツレ二人「剣の下に死なん事。 いかなる前世の報ぞや。 地「逃れ得ぬ報を我に老の身の。/\。又この後は何の世の。 親子となりて生るべき。これにつけても。 唯今の親と子の。一世の縁ぞ限なる。 さりとては我が頼む。大慈大悲の観世音。 後の世助けおはしませ/\。

ワキ詞「いかに祇王御前。をりふしこれに烏帽子の候。 これを着てとう/\舞を御舞ひ候へ。 シテ「さん候父の有様を見るにつけて。 涙にかきくれ更に舞ふべき便なし。 然るべくは御免し候へ。 ワキ「不思議の事を仰せ候ふものかな。扨は我等を御たばかり候ふな。 ツレ「いかに祇王何事を申すぞ。 ワキ「いや最前これなる女性。 おことに対面ありたき由仰せられし程に。 承り及びたる一曲をも見申さん為に。 大法を破り囚人に対面させて候ふ所に。 対面あつて後舞を舞はうずる由仰せられ候ひて。 今は舞ふまじき由仰せ候おことは何と思ひ候ふぞ。 ツレ「尤もの御理にて候。いかに祇王。 何とて辞し申すぞ。元来この一曲は。 父が教へし事なれば。けふのいまはの光陰にも。 歌舞の菩薩の妙文たるべし。 早々諷ひ給ふべし。 シテ「此上はとかく申すによしぞなき。舞はずは我が身の科と云ひ。

又は父御の仰なれば。 涙をおさへ心をしづめ。ツレ詞「父も昔を思ひ出の。 涙ながらに拍子をすゝめ。 シテ「曲を出して呂律の一つの。 ツレ「悲の声もろともに。シテ「これぞ限の親子の中。 ツレ「名残を見せて。シテ「花の袖。 地次第「雪を廻らす袂より。 雪をめぐらす袂より涙の雨や増さるらん。物着シテ「何事も。 世の有様の夢なれや。地「現なき今の。 気色かな。 イロエクリ「実にや終に行く道とは予て知りながら。昨日今日とは白雲の。 朝にたち。夕に消ゆる。 シテサシ「電光朝露石の火の。地「光の内外に遊ぶなる。 胡蝶の舞の花の袖。散り方になる親と子の。 何か諷ひて。奏づらん。 クセ「実にや世の中に。独とゞまる者あらば。若し我かはと。 身をや頼まんと詠ぜしも。 実に理や我ながら。唯今別るべき。父男の無き跡に。 残らん事も幾程の。世は空蝉の唐衣。

うすき契は親と子の。 一世に限る夢の中を。思へたゞ朝顔の日影待つ間の花盛。 シテ「いつまでか長柄の橋のながらへて。 地「かゝる憂世を渡らんと。 思ふにつけても。恨めしきは命なり。 実にや世に住めば。憂きこそ増されみよし野の。 岩のかげ道。踏みならし行く水の。あはれ/\なる父の事ぞ悲しき。つら/\。 無常を観ずるに。飛花落葉の風の前。 風月延年の遊楽も。狂言綺語の一てん。 讃沸乗の因縁迄。 津の国の難波の事か法ならぬ遊び戯れ数々の。シテ「声沸事をなしてこそ。 地「親の行くべき終の道。 暗き闇をも灯。 の光の影も明らけき真如安楽の彼の国に。迎へ給へとさながらに。 歌舞の菩薩の光陰と。懇に念願し。 これまでなりやいまは早。烏帽子直垂脱ぎ捨てゝ。 。さめ%\と泣き居たり又さめ%\と泣き居たり。

シテ詞「あら悲しや妾を失ひ父を助けて給はり候へ。 ワキ「筋なき事を申すものかな。たとひ男子の身なりとも。 人の命に代るべからず。 然しも女性の御身として。思もよらぬことにて候。 ツレ「いかに祇王何事を歎くぞ。 父が最期を進むべきに。徒に歎くことあるべからず。 これなる珠数は黒谷の。 法然上人より給はりたる御珠数。これをおことに与ふるなり。 父が跡をも弔の。念仏申し給ふべし。 シテ「又これなる御経は。此程父の御為に。 身を離さず読みたる御経なり。 種々諸悪趣の誓のまゝに。必ず成仏なり給はゞ。 同じ蓮に参り逢ふべしと。 地「珠数とお経を取りかはし。南無や大悲の観世音。 慈悲の眼の光にて臨終を守り給へや。 ワキ「余りに時刻も移り行けば。 彼の老人の首討たんと。 太刀振り上ぐればこはいかに。御経の光眼にふさがり。 取り落としたる太刀を見れば。

二つに折れて段々となる。シテツレ二人「父も祇王もこれを見て。 命終らん事をも分かず。 唯茫然と呆れ居たり。ワキ「いや/\何をか疑ふべき。 唯今読みつる御経の文。 取り上げて見れば疑なく。シテツレ二人「或遭王難苦。 ワキ「臨刑欲寿終。シテツレ二人「念彼観音力。ワキ「刀寿。 三人「段段壌。地「実にありがたや此文は。

王難に遭ふとても剣段々に折れなんの。 経文は疑はず。あらありがたの御経や。 此上は老人よ。/\。早助くるぞ帰れとの。 御免されに興かれば。 祇王は父を引き立てゝ悦の道に帰りけり。 実に頼みても頼むべきは。 これ観音の誓なりこれ観音の誓なり 渡守 旅人 梅若丸の母 梅若丸の幽霊。

。 ワキ詞「これは武蔵の国隅田川の渡守にて候。 今日は舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候。又此在所にさる子細有って。 大念仏を申す事の候ふ間。 僧俗を嫌はず人数を集め候。其由皆々心得候へ。 ワキツレ「末も東の旅衣。/\。日も遥々の心かな。 かやうに侯ふ者は。都の者にて候。 我東に知る人の候ふ程に。

彼の者を尋ねて唯今まかり下り候。道行「雲霞。 あと遠山に越えなして。/\。 いく関々の道すがら。国々過ぎて行く程に。 こゝぞ名におふ隅田川。渡に早く着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。 これは早隅田川の渡にて候。又あれを見れば舟が出で候。 急ぎ乗らばやと存じ候。 如何に船頭殿舟に乗らうずるにて候。

ワキ詞「なか/\の事めされ候へ。先々御出候後の。 けしからず物騒に候ふは何事にて侯ふぞ。 男「さん候。都より女物狂の下り候ふが。 是非もなく面白う狂ひ候ふを見候ふよ。 ワキ「さやうに候はゞ。暫く舟を留めて。 彼の物狂を待たうずるにて候。 。 シテサシ一声「実にや人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。 今こそ思ひしら雪の。道行人に言づてゝ。 行方を何と尋ぬらん。聞くや如何に。 上の空なる風だにも。地「松に音する。習あり。カケリ「。 シテ「真葛が原の露の世に。 地「身を恨みてや。明け暮れん。 シテサシ「これは都北白河に。年経て住める女なるが。 思はざる外に独子を。人商人に誘はれて。 行方を聞けば逢坂の。関の東の国遠き。 東とかやに下りぬと聞くより心乱れつゝ。 そなたとばかり。思子の。跡を尋ねて。 迷ふなり。

地下歌「千里を行くも親心子を忘れぬと聞くものを。 上歌「もとより契仮なる一つ世の。/\。其中をだに添ひもせで。 こゝやかしこに親と子の。 四鳥の別これなれや。尋ぬる心の果やらん。 武蔵の国と下総の中にある隅田川にも。 着きにけり隅田川にも着きにけり。 。シテ詞「なう/\我をも舟に乗せて賜はり候へ。 ワキ詞「お事は何くよりも何方へ下る人ぞ。 シテ「これは都より人を尋ねて下る者にて候。ワキ「都の人といひ狂人といひ。 面白う狂うて見せ候へ。 狂はずは此舟には乗せまじいぞとよ。 シテ「うたてやな隅田川の渡守ならば。 日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。かたの如くも都の者を。 舟に乗るなと承るは。隅田川の渡守とも。 覚えぬ事な宣ひそよ。ワキ詞「実に/\都の人とて。名にし負ひたる優しさよ。 シテ「なう其詞はこなたも耳に留るものを。 彼の業平も此渡にて。名にしおはゞ。

いざ言問はん都鳥。 我が思ふ人は有りやなしやと。詞 なう舟人。 あれに白き鳥の見えたるは。都にては見馴れぬ鳥なり。 あれをば何と申し候ふぞ。 ワキ「あれこそ沖の鴎候ふよ。 シテ「うたてやな浦にては千鳥とも云へ鴎とも云へ。 など此隅田川にて白き鳥をば。都鳥とは答へ給はぬ。 ワキ「実に/\誤り申したり。 名所には住めども心なくて。都鳥とは答へ申さで。 シテ「沖の鴎とゆふ波の。 ワキ「昔にかへる業平も。 シテ「有りや無しやと言問ひしも。ワキ「都の人を思妻。 シテ「わらはも東に思子の。ゆくへを問ふは同じ心の。 ワキ「妻をしのび。シテ「子を尋ぬるも。 ワキ「思は同じ。シテ「恋路なれば。 地歌「我もまた。いざ言問はん都鳥。/\。 我が思子は東路に。有りやなしやと。 問へども/\答へぬはうたて都鳥。 鄙の鳥とやいひてまし。実にや舟ぎほふ。

堀江の川のみなぎはに。来居つゝ鳴くは都鳥。 それは難波江これは又隅田川の東まで。 思へば限なく。遠くも来ぬるものかな。 さりとては渡守。舟こぞりて狭くとも。 乗。 せさせ給へ渡守さりとては乗せてたび給へ。 ワキ「かゝるやさしき狂女こそ候はね。急いで舟に乗り候へ。 この渡は大事の渡にて候。 かまひて静かに召され候へ。 男詞「なうあの向の柳の本に。 人のおほく集まりで候ふは何事にて候ふぞ。 ワキ詞「さん候あれは大念仏にて候。 それにつきてあはれなる物語の候。 この舟の向へ着。 き候はん程に語つて聞かせ申さうずるにて候。語 さても去年三月十五目。 しかも今日に相当て候。人商人の都より。 年。 の程十二三ばかりなる幼き者を買ひとりて奥へ下り候ふが。此幼き者。 いまだ習はぬ旅の疲にや。以ての外に遺例し。

今は一足も引かれずとて。 此川岸にひれふし候ふを。 なんぼう世には情なき者の候ふぞ。此幼き者をば其まゝ路次に捨てゝ。 商人は奥へ下つて候。さる間此辺の人々。 此幼き者の姿を見候ふに。 よし有りげに見え候ふ程に。さま%\に痛はりて候へども。前世の事にてもや候ひけん。 たんだ弱りに弱り。既に末期と見えし時。 おことはいづく如何なる人ぞと。 父の名字をも国をも尋ねて候へば。我は都北白河に。 。 吉田の何某と申しゝ人の唯ひとり子にて候ふが。 父には後れ母ばかりに添ひ参らせ候ひしを。人商人にかどはされて。 かやうになり行き候。 郡の人の足手影もなつかしう候へば。此道の辺に築き籠めて。 。 しるしに柳を植ゑて賜はれとおとなしやかに申し。 念仏四五返称へつひに事終つて候。 なんぼうあはれなる物語にて候ふぞ。

見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候。 逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ。 よしなき長物語に舟が着いて候。とう/\御上り候へ。 ワキツレ「いかさま今日は此所に逗留仕り候ひて。 逆縁ながら念仏を申さうずるにて候。 ワキ「いかにこれなる狂女。 何とて船よりは下りぬぞ急いで上り候へ。 あらやさしや。 今の物語を聞き候ひて落涙し候ふよ。なう急いで舟より上り候へ。 シテ「なう舟人。今の物語はいつの事にて候ふぞ。 ワキ「去年三月今日の事にて候。 シテ「さて其児の年は。ワキ「十二歳。 シテ「主の名はワキ「梅若丸。シテ「父の名字は。 ワキ「吉田の何某。 シテ「さて其後は親とても尋ねず。ワキ「親類とても尋ねこず。 シテ「まして母とても尋ねぬよなう。 ワキ「思もよらぬこと。シテ「なう親類とても親とても。 尋ねぬこそ理なれ。其幼き者こそ。 此物狂が尋ぬる子にては候へとよ。

なうこれは夢かやあらあさましや候。 ワキ詞「言語道断の事にて候ふものかな。 今まではよその事とこそ存じて候へ。 さては御身の子にて候ひけるぞやあら痛はしや候。 かの人の墓所を見せ申し候ふベし。 こなたへ御出で候へ。 。 シテ「今まではさりとも逢はんを頼みにこそ。知らぬ東に下りたるに。 今は此世になき跡の。しるしばかりを見る事よ。 さても無慙や死の縁とて。 生所を去って東のはての。道の辺の土となりて。 春の草のみ生ひ茂りたる。 此下にこそ有るらめや。地「さりとては人々此土を。 かへして今一度。 此世の姿を母に見せさせ給へや。歌「残りても。 かひ有るべきは空しくて。/\。有るはかひなき帚木の。 見えつ隠れつ面影の。定めなき世の習。 人間憂の花盛。無常の嵐音添ひ。 生死長夜の月の影不定の。雲おほへり実に目の前の。 憂き世かなげに目の前の憂き世かな。 。 ワキ詞「今は何と御歎き候ひてもかひなき事。たゞ念仏を御申し候ひて。 後世を御弔ひ候へ。既に月出で河風も。 はや更け過ぐる夜念仏の。時節なればと面々に。 鉦鼓を鳴らし勧むれば。 シテ「母は余りの悲しさに。念仏をさへ申さすして。 唯ひれふして泣き居たり。 ワキ詞「うたてやな余の人多くましますとも。 母の弔ひ給はんをこそ。亡者も喜び給ふべけれと。 鉦鼓を母に参らすれば。 シテ「我が子の為と聞けばげに。此身も鳧鐘を取り上げて。 ワキ歎をとゞめ声澄むや。 シテ「月の夜念仏もろともに。ワキ「心は西へと一すぢに。 シテワキ二人「南無や西方極楽世界。 三十六万億。同号同名阿弥陀仏。 地「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。 南無阿弥陀仏シテ「隅田河原の。波風も。 声立て添へて。

地「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。シテ「名にしおはゞ都鳥も音を添へて。 。 地、子方「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。 。シテ「なう/\今の念仏の中に、正しくわが子の声の聞え侯。 此塚の内にてありげに候ふよ。 ワキ「我等もさやうに聞きて候。所詮此方の念仏をば止め候ふべし。 母御一人御申し候へ。 シテ「今一声こそ聞かまほしけれ。南無阿弥陀仏。 子方「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と。 地「声の内より。幻に見えければ。 シテ「あれは我が子か。子方「母にてましますかと。 地「互に手に。手を取りかはせば又消え/\となり行けば。いよ/\思はます鏡。面影も幻も。 見えつ隠れつする程に東雲の空も。 ほのぼのと明け行けば跡絶えて。 我が子と見えしは塚の上の。草茫々として唯。 しるし。 ばかりの浅茅が原と、なるこそあはれなりけれなるこそあはれなりけれ 延喜帝の臣下 従者 蝉丸 逆髪

ワキ、ワキツレ二人、次第「定めなき世のなか/\に。/\憂きことや頼なるらん。 ワキ「これは延喜第四の御子。蝉丸の宮にておはします。 三人「実にや何事も報有りける浮世かな。 前世の戒行いみじくて。 今皇子とはなり給へども。襁褓のうちよりなどやらん。 両眼盲ひまし/\て。 蒼天に月日の光なく。暗夜に灯。暗うして。五更の雨も。 止む事なし。 ワキ「明かし暮らさせ給ふ所に。帝如何なる叡慮やらん。 三人「密かに具足し奉り。逢坂山に捨て置き申し。 御髪をおろし奉れとの。 綸言出でてかへらねば。御痛はしさは限なけれども。 勅諚なれば力なく。

下歌「足弱車忍路を雲井のよそに廻らして。上歌「しのゝめの。 空も名残の都路を。/\。 今日出で初めて又いつか。帰らん事も片糸の。 よるべなき身の行方。さなきだに世の中は。 浮木の亀の年を経て。盲亀の闇路たどり行く。 迷の雲も立ちのぼる逢坂山に。 着きにけり逢坂山に着きにけり。 ツレ詞「いかに清貫。ワキ詞「御前に候。 ツレ「さて我をば此山に捨て置くべきか。 ワキ「さん候宣旨にて候程に。 これまでは御供申して候へども。 何くに捨て置き申すべきやらん。さるにても我が君は。 堯舜より此方。 国を治め民を憐れむ御事なるに。

かやうの叡慮は何と申したる御事やらん。 かゝる思もよらぬことは候はじ。ツレ詞「あら愚の清貫が言ひ事やな。 本より盲目の身と生るゝ事。 前世の戒行拙き故なり。されば父帝も。 山野に捨てさせ給ふ事。御情なきには似たれども。 此世にて過去の業障を果し。 後の世を助けんとの御謀。これこそ誠の親の慈悲よ。 あら歎くまじの勅諚やな。 ワキ詞「宣旨にて候ふ程に。御髪をおろし奉り候。 ツレ詞「これは何と云ひたる事ぞ。 ワキ「是は御出家とてめでたき御事にて渡らせ給ひ候。物着「。 ツレ「実にやかうくわんもとひを切り。 半だんに枕すと。唐土の西施が申しけるも。 かやうの姿にてありけるぞや。 ワキ「此御有様にては。 中々盗人の恐も有るべければ。 御衣を賜はつて簑と云ふ物を参らせ上げ候。 ツレ「これは雨による田簑の島とよみ置きつる。簑と云ふ物か。 ワキ詞「又雨露の御為なれば。同じく笠を参らする <285a>。 。 ツレ「これは御侍御笠と申せとよみ置きつる。笠と云ふ物よなう。 ワキ詞「又此杖は御道しるべ。御手に持たせ給ふべし。 ツレ「実に/\是も突くからに。 千年の坂をも越えなんと。彼の遍照がよみし杖か。 ワキ「それは千年の坂行く杖。 ツレ「こゝは所も逢坂山の。 ワキ「関の戸ざしの藁屋の竹の。ツレ「杖柱とも頼みつる。 ワキ「父帝には。ツレ「捨てられて。 地「かゝる憂き世に逢坂の。知るも知らぬもこれ見よや。 延喜の皇子の成り行く果ぞ悲しき。 行人征馬の数々。上り下りの旅衣。 袖をしをりて村雨の振り捨て難き。 名残かな振り捨てがたき名残かな。 さりとてはいつを限に有明の。尽きぬ涙を押さへつゝ。 早帰るさになりぬれば。皇子は跡に唯独。 御身に添ふ物とては。 琵琶を抱きて杖を。 持ち臥し転びてぞ泣き給ふ臥しまろびてぞ泣きたまふ <285b>。 シテ、サシ一声「これは延喜第三の御子。 逆髪とは我が事なり。我皇子とは生るれども。 いつの因果の故やらん。詞「心より/\狂乱して。 辺土遠郷の狂人となって。 。 翠の髪は空さま。 に生い上つて撫。 づれども下らず。 詞「いかにあ。 れなる童どもは何を笑ふぞ。 何。 我が髪の逆さま。 なるがをかしいとや。実に/\。 逆さまなる事はをかしいよな。 さては我が髪よりも。 汝等が身にて我を笑ふこそ逆さまなれ。詞「面白し/\。 是等は皆人間目前の境界なり <285c>。 夫れ花の種は地に埋もつて千林の梢に上り。 月の影は天にかゝつて万水の底に沈む。 是等をば皆何れが順と見逆なりと言はん。 我は皇子なれども。庶民に下り。 髪は身上より生ひ上つて星霜を戴く。 これ皆順逆の二つなり。面白や <286a>。 カケリ「柳の髪をも風は梳るに。地「風にも解かれず。 シテ「手にも分けられず。 地「かなぐり捨つるみての袂。シテ「抜頭の舞かやあさましや。 地歌「花の都を立出でて。/\。 憂き音に鳴くか鴨河や。末しら河を打ち渡り。 粟田口にも着きしかば今は誰をか松坂や。 関の此方と思ひしに。 跡になるや音羽山の名残惜しの都や。松虫鈴虫きり%\すの。 鳴くや夕陰の山科の里人も咎むなよ。狂女なれど心は清滝川と知るべし。 シテ「逢坂の。関の清水に影見えて。 地「今や引くらん望月の。駒の歩も近づくか。 水も走井の影見れば。我ながら浅ましや。 髪は蓬を戴き黛も乱れ黒みて。 実に逆髪の影映る。 水を鏡とゆふ波の現なの我が姿や。 ツレ、サシ「第一第二の絃は索々として秋の風。松を払つて疎韻落つ。 第三第四の宮は。我蝉丸が調べも四つの。 をりからなりける村雨かな <286b>。 あら心凄の夜すがらやな。世の中は。 とにもかくにも有りぬべし。宮も藁屋も果てしなければ。 。 シテ「不思議やなこれなる藁屋の内よりも。撥音けだかき琵琶の音聞ゆ。 そもこれ程の賎が家にも。 かゝる調べのありけるよと。思ふにつけてなどやらん。 世になつかしき心地して。 藁屋の雨の足音もせで。ひそかに立ちより聞き居たり。 ツレ「誰そや此藁屋の外面に音するは。 此程をり/\訪はれつる。 博雅の三位にてましますか。シテ詞「近づき声をよく/\聞けば。弟の宮の声なりけり。 なう逆髪こそ参りたれ。蝉丸は内にましますか。 ツレ「何逆髪とは姉宮かと。 驚き藁屋の戸を明くれば。シテ「さも浅ましき御有様。 ツレ「互に手に手を取りかはし。 シテ「弟の宮か。ツレ「姉宮かと。 地「共に御名をゆふ付の。鳥も音を鳴く逢坂の。 せきあへぬ御涙。互に袖やしをるらん <286c>。 。 地クリ「夫れ栴檀は二葉より香ばしといへり。ましてや一樹の宿として。 風橘の香を留めて。花も連なる。枝とかや。 シテ、サシ「遠くは浄蔵浄眼早離速離。 近くは又応神天皇の御子。 地「難波の皇子菟道の御子と。互に即位謙譲の御志。 皆これ連理の情とかや。 シテ「さりながらこゝは兄弟の宿とも。 地「思はざりしに藁屋の内の。 一曲なくはかくぞともいかで調の四つの緒に。シテ「引かれてこゝに。 よるべの水の。地「浅からざりし契かな。 クセ「世は末世に及ぶとても。 日月は地に落ちぬ。習とこそ思ひしに。 我等如何なれば。わうじを出でてかくばかり。 人臣にだに交はらで。 雲居の空をも迷ひ来て都鄙遠境の狂人路頭山林の賎となつて。 辺土旅人の憐をたのむばかりなり。 さるにても昨日までは。玉楼金殿の。 床を磨きて玉衣の <287a>。 袖引きかへて今日は又かゝる所の臥所とて。竹の柱に竹の垣軒も〓{$11728 トボソ。 扉・枢のこと}もまばらなる。藁屋の床に藁の窓。 敷く物とても藁莚。 これぞ古の錦の褥なるべし。ツレ「たま/\こと訪ふものとては。 地「峯に木伝ふ猿の声。 袖を湿ほす村雨の。音にたぐへて琵琶の音を。 弾き鳴らし弾き鳴らし。我が音をも泣く涙の。 雨だにも音せぬ藁屋の軒のひま%\に。 時時月は漏りながら。 目に見る事の叶はねば。月にも疎く雨をだに。 聞かぬ藁屋の起臥を。思ひやられて痛はしや。 ロンギ、シテ「これまでなりやいつまでも。 名残は更に尽きすまじ。暇申して蝉丸。 ツレ「一樹の蔭の宿とて。 それだに有るにまして実に。兄弟の宮の御わかれ。 とまるを思ひやり給へ。シテ「実に痛はしや我ながら。 行くは慰む方もあり。 留まるをさこそとゆふ雲の。立ちやすらひて泣き居たり。 ツレ「鳴くや関路の夕烏 <287b>。 浮かれ心は烏羽玉の。シテ「我が黒髪の飽かで行く。 ツレ「別路とめよ逢坂の。 シテ「関の杉村過ぎ行けば。ツレ「人声遠くなるまゝに。 シテ「藁屋の軒に。ツレ「たゝずみて <287c>。 地「互にさらばよ常には訪はせ給へと。 幽かに声。 のする程聞き送りかへり見おきて泣く泣く別れ。おはします泣く/\別れおはします 供奉の官人 従者 御使 照日前 侍女 継体天皇

。 前ワキツレ詞「是は越前の国味真野と申す所に御座候ふ。 大跡部の皇子に仕へ申す者にて候。さても都より御使あつて。 武烈天皇の御代を。 あぢまのゝ皇子に御ゆづりあり。御迎の人々まかり下り御供申し。 今朝とく御上洛にて候。 さる間此程御寵愛あつて召しつかはれて候ふ。 照日の前と申す御方。此程御暇にて御里に御座候ふが。 かの御方へ俄の御上洛につき。 御玉章と。

朝毎に御手に馴れし御花筐を参らせられ候ふを。 某に持ちて参れとの御事にて候ふ程に。只今照日の御里へと急ぎ候。 あらうれしやこれへ御出で候ふよ。 これにて申し候ふべし。いかに申し候。 シテ「何事にて候ふぞ。 前ワキツレ「我が君は都より御迎下れり。御位に即かせ給ひ。 今朝とく御上にて候。又これなる御文と御花筐とを。 たしかに参らせよとの御事にて候。 これこれ御覧候へ。 シテ「さては我が君御位に即かせ給ひ。

都への御上返す%\も御めでたうこそ候へととよさりながら。 この年月の御名残。いつの世にかは忘るべき。 あら御名残をしや。 詞「されども思召し忘れずして。 御玉章を残し置かせ給ふ事の有難さよ。急ぎ見まゐらせ候はん。 シテ(交)「我応神天皇の孫苗を継ぎながら。 帝位を履む身にあらざれども。 天照大神の神孫なれば。毎日に伊勢を拝し奉りし。 その神感の至にや。 群臣の選にいだされて。いざはなれゆく雲の上。 めぐりあふべき月影を。秋の頼みに残すなり。 頼めたゞ袖ふれ。馴れし月影の。 しばし雲居に隔ありとも。と。 地下歌「書き置きたまふ水茎の跡にのこるぞ悲しき。 上歌「君と住む。程だにありし山里に。/\。 ひとり残りて有明の。つれなき春もすぎま吹く。 松の嵐もいつしかに。 花の跡とてなつかしき御花筐玉章をいだきて里に。 帰りけり抱きて里に帰りけり。

ワキワキツレ二人次第「君の恵も高照す。/\。 紅葉の行幸はやめん。ワキサシ「忝くも此君は。 応神天皇五代の御末。 大跡辺の皇子と申ししが。当年御即位をさまりて。 継体天皇と申すなり。 ワキツレ「されば治まる御代の御影。 日の本の名もあひにあふ。 ワキ「大和の国や玉穂の都に。ワキツレ「今宮造り。ワキ「あらたなり。 ワキワキツレ二人歌「萬代の。恵も久し富草の。/\。 種も栄ゆく秋の空。 露も時雨も時めきて。四方に色添ふ初紅葉。 松も千歳緑にて。常磐の秋に廻りあふ。 行幸の車早めん/\。 後シテ一声「いかにあれなる旅人。 都への道教へて給べ。詞「何物狂とや。 物狂も思ふ心のあればこそ問へ。 など情けなく教へ給はぬぞや。ツレ「よしなう人は教へずとも。 都への道しるべこそ候へ。 あれ御覧候へ雁の渡り候。シテ詞「何雁の渡るとや。

げに今思ひだしたり。秋にはいつも雁の。 南へ渡る天つ空。 ツレ「空言あらじ君が住む。都とやらんも其方なれば。 シテ詞「声をしるべの便の友と。 ツレ「我も田面の雁こそ。つれて越路のしるべなれ。 シテ「其上名におふ蘇武が旅雁シテ、ツレニ人 一セイ「玉章を。 つけし南の都路に。地「我をも共に。 連れて行け。カケリ シテ「宿かりがねの旅衣。 地「飛びたつばかりの。心かな。 シテサシ「君が住む越の白山知らねども。 行きてや見まし足引の。 二人「大和は何方かしら雲の。高間の山のよそにのみ。 見てや止みなん及びなき。雲居はいづく御影山。 日の本なれや大和なる。 玉穂の都に急ぐなり。地下歌「こゝは近江の海なれや。 みづからよしなくも。およばぬ恋に浮舟の。 上歌「こがれゆく。旅をしのぶの摺衣。 /\。涙も色か黒髪の。 あかざりし別路の跡に心は浮れ来て。

鹿の起臥堪へかねて。なほ通ひゆく秋草の。 野暮れ山暮れ露分けて。玉穂の宮に着きにけり。/\。 ワキ「時しも頃は長月や。 まだき時雨の色うすき。紅葉の御幸の道の辺に。 非形をいましめ面々に。行幸の御先を清めけり。 シテ「さなぎだに都に慣れぬ鄙人の。 女と云ひ狂人と云ひ。 シテツレ二人「さこそ心は楢の葉の。風も乱るゝ露霜の。 行幸の先に進みけり。 ワキ「不思議やな其さま人にかはりたる。狂女と見えて見苦しやとて。 官人立ちより払ひけり。 詞「そこのき候へ。 ツレ「あら悲しや君の御花筐を打ち落されて候ふは如何に。 シテ「何と君の御花筺を打ち落とされたるとや。 あら忌はしの事や候。ワキ「いかに狂女。 持ちたる花籠を君の御花筺とて渇仰するは。 そも君とは誰が事を申すぞ。 シテ「事新しき問事かな。此君ならで日の本に。 又異君のましますべきか。

ツレ「我らは女の狂人なれば。白地と思し召さるゝか。 忝なくもこの君は。応神天皇五代の御孫。 過ぎし頃まで北国の。あぢまのと申す山里に。 シテ詞「大跡辺の皇子と申しゝが。 ツレ「今は此国玉穂の都に。 シテ「継体の君と申すとかや。 ツレ「さればかほどにめでたき君の。シテ「御花筺な恐れもなさで。 ツレ「打ち落し給ふ人々こそ。 シテ「我よりもなほ物狂よ。地「恐しや。/\。 世は末世に及ぶといへど。日月は地に落ちず。 まだ散りもせぬ花筺を。 荒けなや荒金の土に落し給はゞ。天の咎も忽ちに。 罰あたり給ひて。わが如くなる狂気して。 ともの物狂と。 言はれさせ給ふな人に言はれさせ給ふな。シテ「かやうに申せば。 地「かやうに申せばたゞ現なき花筺の。 か言とやおぼすらん。この君いまだ其頃は。 皇子の御身なれど。 朝ごとの御勤に花を手向け礼拝し。南無や天照皇太神宮天長地久と。

称へさせ給ひつゝ。 御手を合させ給ひし御面影は身に添ひて。 忘形見までもおなつかしや恋しや。シテ「陸奥の。 安積の沼の花がつみ。地「かつ見し人を恋草の。 忍ぶもぢずり誰故ぞ乱心は君のため。 ここに来てだに隔ある月の都は名のみして。 袖にも移されず。又手にも取られず。 唯徒に水の月を望む猿の如くにて。 叫び伏して泣き居たり/\。 ワキ詩「いかに狂女。 宣旨にてあるぞ御車近う参りて。 いかにも面白う狂うて舞ひ遊び候へ。 叡覧あるべきとの御事にてあるぞ。急いで狂ひ候へ。 シテ「うれしやさては及びなき。御影を拝みや申すべき。 いざや狂はんもろともに。 シテツレ二人一セイ「御幸に狂ふ囃子こそ。地「御先を払ふ。 袂なれ。イロエ「。 シテサシ「かたじけなき御たとへなれども。 いかなれば漢王は。

地「李夫人御別を歎き給ひ。朝政神さびて。 夜のおとゞも徒に。唯思の涙御衣の。袂をぬらす。 シテ「また李夫人は紅色の。 地「花のよそほひ衰へて。しをるゝ露の床の上。 塵の鏡の影を恥ぢて。 終に帝に見え給はずして去り給ふ。クセ「帝深く。歎かせ給ひつゝ。 。 其御かたちを甘泉殿の壁にうつし我も畫図に立ち添ひて。明暮歎き給ひけり。 されどもなか/\。御思は増されども。 物いひかはす事なきを。深く歎き給へば。 李少と申す太子の。幼なくましますが。 父帝に奏し給ふやう。 シテ「李夫人は本はこれ。地「上界の嬖妾。 くわすゐこくの仙女なり。一旦人間に。 生まるゝとは申せども終に本の仙宮に帰りぬ。 泰山府君に申さく。李夫人の面影を。 しばらくこゝに招くべしとて。九華帳の中にして。 反魂香を焚き給ふ。夜ふけ人しづまり。 風すさましく。

月秋なるにそれかと思ふ面影の。有るか無きかにかげろへば。 なほいやましの思草。葉末に結ぶ白露の。 手にも溜らでほどもなく唯徒に消えぬれば。 漂渺悠揚としては又。尋ぬべき方なし。 シテ「悲しさのあまりに。 地「李夫人の住みなれし。甘泉殿を立ち去らず。 空しき床を打ち払ひ。古き衾。古き枕。 ひとり袂をかたくし。 ワキ詞「宣旨にてあるぞ。 その花筐を参らせあげ候へ。 シテ「余りのことに胸ふさがり。心空なる花筐を。 恥ずかしながら参らする。ワキ「帝はこれを叡覧あつて。 疑もなき田舎にて。御手に馴れし御花筐。 詞「同じく留め置き給ひし。 御玉章の恨を忘れ。狂気を止めよ本の如く。 召し使はんとの宣旨なり。 シテ「けにありがたや御めぐみ。直なる御代に帰るしるしも。 思へば保ちし筐の徳。 ワキ「かれこれともに時に逢ふ。シテ「花の筐の名を留めて。

ワキ「恋しき人の手馴れし物を。 シテ「かたみと名づけそめし事。ワキ「此時よりぞ。 して「はじまりける。 他「有難やかくばかり。情の末をしら露の。 惠に洩れぬ花筐の。 御かごとましまさぬ君の御心ぞありがたき。 キリ地「御遊も既に時過ぎて。/\。 今は還幸なし奉らんと。供奉の人々。 御車やりつゞけ。もみぢ葉散り飛ぶ御先を払ひ。 払ふや袂も山風に。 さそはれゆくや玉穂の都。さそはれゆくや玉穂の都に。 盡きせぬ契ぞ有難き 中将姫 中将姫従者 乳母侍従 横佩豊成 従者三四人 乳母侍従

ワキツレ「かやうに候ふ者は。 奈良の都横佩の右大臣豊成公に仕へ申す者にて候。 扨も姫君を一人御持ち候ふを。 さる人の讒奏により。大和紀の国の境なる。 雲雀山にて失ひ申せとの仰にて候ふ程に。 これまで御供申して候へども。 いかにして失ひ申すべきと存じ。 柴の庵を結びとかくいたはり申し候。さる程に侍従と申す乳母。 春は木々の花を手折り。 秋は草花を取りて里に出で。往来の人にこれを代なし。 かの姫君を過し申し候。 今日も侍従を呼び出し。里へ下さばやと存じ候。 いかに申すべき事の候。シテ「何事にて候ふぞ。 ワキツレ「けふも又里へ御出で候へ。 シテ「さらば姫君に御暇を申し候ふべし。

ワキツレ「やがて御暇を申し里へ御出で候へ。 シテ「いかに申すべき事の候。 今日も里へ出でてやがて帰り候ふべし。 子方サシ「げにや寒竃に煙絶えて。春の日いとゞ暮し難う。 シテ「弊室に灯消えて。秋の夜なほ長し。 家貧にしては親知少く。賎しき身には故人疎し。 親しきだにも疎くなれば。 下歌詞「よそ人はいかで訪ふべき。 上歌「さなきだにせばき世に。/\。 陰れ住む身の山深みさらば心のありもせで。 たゞ道せばき埋草露いつまでの身ならまし/\。 かくて煙も絶え%\の。/\。光の陰も惜しき間に。 よその情を頼まんと。 草の枢を引きたてて。又里へこそ出でにけれ/\。 ワキ次第立衆「傾く峰の雲雀山。/\。

上るや雲路なるらん。 ワキ詞「これは横佩の右大臣豊成とは我が事なり。 ワキ立衆「それ狩場は四季の遊にて。時をりふしの興を増す。 上歌「梓の真弓春くれば。/\。 霞む外山の桜狩。雨は降り来ぬ同じくは。 濡るとも花の。木蔭に宿らん。 さて又月は夜を残す。 雪にはあくる交野の御野禁野につゞく天の川。空にぞ雁の。声は居る/\。 シテサシ一声「さつき待つ花橘の香をかげば。 昔の人の袖の香ぞする。 詞「げにや昔も君のため。故ある果を集めつゝ。 常世の国まで行きしぞかし。われも主君の御為に。 色ある花を手折りつゝ。 葉末に結ぶ露の御身を。残しやすると思草。いろ/\の。 上翔「頃をえて。咲く卯の花の杜若。 地「紫染むる山ぐさの。 シテ「色香にめでて花召され候へ。地「月は見ん。 月には見えじながらへて。/\。 憂き世を廻る影もはづか。

しの森の下草咲きにけり花ながら刈りて売らうよ。日頃へて。 待つ日はきかず時鳥。匂求めて尋ねくる。 花橘や召さるる/\。 トモ詞「いかに尋ね申すべき事の候。 其花をば何の為に持ち給ひて候ふぞ。 シテ詞「さ。 ん候これは故ある人に参らせん為に持ちて候。 何れにても候へ色香にめでて召され候へ。 花檻前に笑んで声いまだ聞かず。鳥林下に鳴いて涙つきがたし。 げにも尽きぬは花の種。いろ/\なれや紅は。いづれ深百合深見草。 御心よせに召され候へとよ。 トモ「げに面白き売物かな。さてその花を売る事は。 分きて謂のあるやらん。 シテ「あらむつかしとお尋あるや。召されまじくはお心ぞとよ。 同「いろ/\の。/\。人の心は白露の。 枝に霜は置くともなほ常磐なれや橘の。 目ざましぐさの戯。 そなたの身には何事も包む事はなくとも。

こし方なれや古。 をも忍ぶ草を召されよや忍ぶ草を召されよ。シテ「麻裳よい。同「麻裳よい。 紀の関守が手束弓。 いるさか帰るさかいづれにてもましませ。 などや花は召されぬあ。 ら花すかずの人々や花すかぬひとぞをかしき。 。 トモ詞「さらばこの花を買ひ取り候ふべし。 又御身のこし方を懇に御物語り候へ。シテ「春霞。立つを見捨てゝ行く雁は。 地「花なき里に住みや習へると。 心そらなる疑かな。 シテサシ「款冬あやまつて暮春の風に綻び。 同「又躑躅は夜遊の人の折をえて。驚く春の夢のうち。 胡蝶の遊び色香にめでしも皆これ心の花ならずや。 シテ「実に面白き遊花の友。 同「春の心や惜しむらん。 クセ「思へ桜色に。 染めし袂の惜しければ。衣更へ憂き。けふにぞありける。 それのみかいつしかに。春を隔つる杜若。

いつから衣はる%\の。 面影残るかほよ鳥の。 鳴きうつる声まで身の上に聞く哀さよ。かくてぞ花にめで。鳥を羨む人心。 思ひの露も深見草の。しげみの花衣。 野を分け山に出で入れども。 さらに人は白玉の。 思はうちにあれど色になどやあらはれぬ。シテ「さるにても。 馴れしまゝにていつしかに。同「今は昔に奈良坂や。 児の手柏の二面。とにもかくにも故郷の。 よそめになりて葛城や。 高間の山の嶺続き。 こゝに紀の路の境なる雲雀山に隠れ居て。霞の網にかゝり。 目路もなき谷かげの。鵙の草ぐきならぬ身の。 露に置かれ雨にうたれ。 かくても消えやらぬ御身の果ぞ痛はしき。遠近の。シテ「遠近の。 同「たづきも知らぬ。山中に。 おぼつかなくも。呼子鳥の。雲雀山にや。 待ち給ふらん。いざや帰らん。/\。中ノ舞「。 。

ワキ詞「やあ如何に御事はめのとの侍従にてはなきか。豊成をば見忘れてあるか。 。 さても我が姫よしなき者の讒奏により失ひしかども。 科なき由を聞き後悔すれども適はず。まことや御事が計として。 この雲雀山の谷陰に。 柴の庵を結び隠し。 置きたるとは聞きしかども真しからぬ所に。今おことを見てこそさてはと思へ。 姫はいづくにあるぞ包まず申し候へ。 シテ「これは仰とも覚えぬものかな。 人のかごとをお用ひありて。 失ひ給ひし中将姫の。何しにこの世にましますべき。 いかに御尋ありとても。 詞「今は御身も夏草の。茂に交る姫百合の。 知られぬ御身なり。何をか尋ね給ふらん。 ワキ詞「げに/\それはさる事なれども。 先非を悔ゆる父が心。 涙の色にも見ゆらんものを。はやあり所を申すべし。 シテ「まことさやうに思しめすか。ワキ「なか/\諸天氏の神も。正に照覧あるべきなり。

シテ「さらばこなたへ御いであれと。 そことも知らぬ雲雀山の。 草木をわけて谷陰の。栞を道に足引の。 地「山ふところの空木に。草をむすび草を敷きて。 四鳥の塒に親と子の。思はず帰り逢ひながら。 互に見忘れて。たゞ泣くのみの心。

げにや世の中は。定なきこそ定なれ。 夢ならば覚めぬまに。はやとく/\とありしかば。 乳母御手を引き立てゝ。 お輿に乗せ参らせて。御悦の帰るさに。 奈良の都の八重桜咲きかへる道ぞめでたき/\ 上京の男

。ワキ次第「昨日入りにし三吉野の/\北の山路に帰らん。 詞「これは上京邊に住居する者にて候。これに渡り候ふ幼き人は。 母御を行方なく失ひ給ひ御歎き候ふほどに。 我等御供申し御祈の為。 昨日三吉野に参詣申し。只今都へ上り候。 道行「一夜寝てまた立ち帰る旅衣。/\。 昨日過ぎにし道芝の露も草葉も五月雨の。 山水そへて行く末の。岸田の早苗みどりにて。

波も淵瀬の名にしおふ。 飛鳥川にも着きにけり/\。詞「急ぎ候ふ程に。 これは早飛鳥川に着きて候。 向を見れば笛鼓を鳴らし田歌を謡ひ候。暫く御眺め候へ。 シテツレ二人一声「飛鳥川。岸田の早苗とり%\の。袖も緑の。 景色かな。ツレ二人「山郭公声添へて。 三人「謡ふ田歌も。なほ繁し。 シテサシ「種蒔きし其神の代ぞ久方の。天のむら早稲種継ぎて。 三人「今人の代の末までも。

恵の国は治りて。我等ごときの民までも。 地儀のかまへは豊なり。然れば神と君が代の。 廣き御影の。有難さよ。 下歌「天の川苗代水にせき下せ。上歌「天くだります事ならば。 /\。神ぞ知るらん世の例。 雨も豊に木の音も。長閑き空の飛鳥風。 都もこゝに遠けれどあまさがる鄙の国までも。 もれぬ誓は有難や/\。 シテ詞「暫く休らひて田を植ゑうずるにて候。 ワキ「面白や頃は五月の初つかた。四方の梢も深みどり。 景色をそへて小田の早苗。 取り持つ人の裳を浸し。袖をぬらせる有様は。 げにをりをりの目前なり。 詞「又これなる河の水出でて。もとの渡瀬も定かならねど。 昨日渡りしそのまゝに。川瀬を尋ね渡り行けば。 シテ「なう旅人こゝは渡瀬に候はず。 今少し上を渡り給へ。 ワキ「何上を渡れと候ふや。シテ「なか/\の事幾程もなし。 あれに見えたるみをじるしを。

しるべに渡り給ふべし。ワキ「ふしぎや昨日三吉野へ。 参りし時は此渡瀬。扨は渡瀬のけふ變り。 上をば渡り候ふやらん。 シテ「此川のPの昨日けふ。變りたるとの御不番は。 名をば何とかしろしめすらん。 ワキ「いやこの川は飛鳥川にては候はぬか。 ツレ「飛鳥川ぞしろしめして。 きのふの淵は今日のPに。變ると豫て知し召さぬは。 御心なき仰かな。 シテ「夜の間の雨に水まさり。殊更けふは流洲の。 渡瀬は定めなきものを。ワキ「實に隠なき此川の。 分きて淵瀬の定まらぬ。謂は如何なる事やらん。 シテ詞「いやそれは唯山川の。 末の流の石多く。淵瀬の常に変る事を。 言ひ習はせる心なり。ツレ「されば歌にも。 シテ「世の中は。地「何か常なる飛鳥川。/\。 昨日の淵は今日の瀬に。 なるや夜の間の五月雨に。みかさまさりて濁りたる。 水の心も知らずして。

左右なう渡り給ふなよ/\。地クリ「それ春過ぎ夏たけて。 秋も又暮れぬべし。冬にならんも。幾程ぞ。 シテサシ「五月雨に物思ひをれば郭公。 地「夜深く鳴きていづち行くらんと。 詠みし心も今更に。身に白糸のよるとなく。 昼ともわかで仇し世のいつまでとてか存へん。 シテ「思へばあはれ胡蝶の夢に。 地「遊ぶぞけふの。現なる。 クセ「御田やもり今日は五月になりにけり。急げや早苗。 老いもこそすれ。實にや五月雨の。 晴れぬ日数もふり行くに。あすとないひそ飛鳥川の。 水田のあさみどり立ち連れいざや植ゑうよ。 抑幾何の田を作ればか郭公。 四手の田長を。朝な/\よぶと。詠ぜしも誠なり。 四手の山田の時過ぎて。 此土に来り声立てゝ。程時過ぐる世の中の。 数をしる故に時の鳥とは申すなり。 シテ「五月山梢を高み時鳥。鳴く音空なる恋やする。 我も。

恋しきみどり子の行方も知らで足引の山路に迷ひ里に出でて。 国々浦々めぐる日の。つもる三年の春過ぎて。 夏もはや五月雨の。ふり分髪の玉葛。 かゝる業はいつか身に。馴衣袖ひちていざ/\早苗とらうよ。面白や。中ノ舞「。シテ「面白や。 雁寒み。くれし田を。地「又時鳥早苗とる。 /\。五月の玉の波を散らすは。 シテ「手玉もゆらの湊田の早苗。 地「さすや潮をもまじる早苗は。シテ「住吉の岸田。 地「入江に任せしは。シテ「難波田のふし水。 地「都邊に植ゑしは。シテ「伏見田鳥羽田の。 地「こ。 れは都に近きたをやめの袖吹き返す飛鳥風。心も乱るゝ青柳のみどり子恋しや。 なつかしや。 今迄は行方も知らぬ賎の女の。/\。 不思議や見れば母上か友若ここに夾りたり。 シテ「我が子ぞと聞けば夢かと夕暮の。 それかあらぬか夢ならばさめての後はいかならん。地「よく/\見ればみづからが。尋ぬる母や。シテ「友若に。

地「あふの松原の。/\。 尽きぬあふ瀬や飛鳥川。深き契の親と子に。

二度逢ふぞ嬉しき/\ 野上宿の長 花子 花子 吉田少将 従者

狂言「かやうに候ふ者は。 美農の国野上の宿の長にて候。 さても我花子と申す上揩持ち参らせて候ふが。 過ぎにし春の頃都より。吉田の少将殿とやらん申す人の。 東へ御下り候ふが。此宿に御泊り候ひて。 かの花子と深き御契の候ひけるが。 扇をとりかへて御下り候ひしより。 花子扇に。 眺め入り閨より外に出づる事なく候ふほどに。 かの人を呼びいだし追ひいださばやと思ひ候。いかに花子。 今日よりしてこれには叶ひ候ふまじ。とく/\何方へも御いで候へ。 シテ「げにやもとよりも定なき世といひながら。

うきふししげき河竹の。流の身こそ悲しけれ。 地下歌「わけ迷ふ。行方も知らでぬれ衣。 上歌「野上の里を立ちいでて。/\。 近江路なれど憂き人に。 別れしよりの袖の露そのまゝ。 消えぬ身ぞつらきそのまゝ消えぬ身ぞつらき。/\。 ワキワキツレ二人次第「帰るぞ名残富士の嶺の。/\。 ゆきて都にかたらん。 ワキ詞「是は吉田の将とはわが事なり。 さてもわれ過ぎにし春の頃東に下り。はや秋にもなり候へば。 只今都に上り候。道行三人「都をば。 霞と共に立ちいでて。/\。しばし程ふる秋風の。 音白河の関路より。また立ち帰る旅衣。

浦山過ぎて美濃の国。 野上の里に着きにけり/\。 ワキ詞「いかに誰かある。 急ぐ間これははや美濃の国野上の宿にて候。 此処に花子といひし女に契りし事あり。 いまだ此処にあるか尋ねて来り候へ。 ワキツレ詞「畏つて候。花子の事を尋ね申して候へば。 長と不和なる事の候ひて。 今は此処には御入りなき由申し候。 ワキ「さては定なき事ながら。もし其花子帰りきたる事あらば。 。 都へついでの時は申し上せ候へとかたく申しつけ候へ。 急ぐ間ほどなく都に着きて候。われ宿願の子細あれば。 是より直に糺へ参らうずるにて候。 皆々参り候へ。 。 後シテ一声「春日野の雪間を分けて生ひ出でくる。草のはつかに見えし君かも。 詞「よしなき人に馴衣の。日は重ね月はゆけども。 世を秋風の便ならでは。

ゆかりを知らする人もなし。 詞「夕暮の雲の旗手に物を思ひ。うはの空にあくがれ出でて。 詞「身を徒になすことを。神や仏も憐みて。 思ふことをかなへ給へ。それ足柄箱根玉津島。 。 貴船や三輪の明神は。 夫婦男女のかたひらを。 。 守らんと誓ひおはします。 此神神に祈誓せば。 。 などか験のなかるべき。謹上。 再拝。恋すてふ。 。 我が名はまだき立ちにけり。 地「人知れずこそ。思ひそめしか。カケリ「。 シテ「あら恨めしの人心や。 サシ「げにや祈りつゝ。御手洗川に恋せじと。 誰かいひけん空言や。されば人心。

誠すくなき濁江の。 澄まで頼まば神とても受け給はぬは理や。とにもかくにも人知れぬ。 思の露の。 地下歌「置き所いづくならまし身の行方。上歌「心だに。誠の道にかなひなば。 /\。祈らずとても。 神や守らんわれらまで。真如の月は曇らじを。 知らで程へし人心。衣の玉はありながら。 恨ありやともすれば猶同じ世と。

祈るなりなほ同じ世と祈るなり。 ワキツレ詞「いかに狂女。 なにとて今日は狂はぬぞ面白う狂ひ候へ。 シテ「うたてやなあれ御覧ぜよ今までは。 ゆるがぬ梢と見えつれども。風の誘へば一葉も散るなり。 たま/\心すぐなるを。 狂へと仰ある人々こそ。風狂じたる秋の葉の。 心もともに乱れ恋の。 あら悲しや狂へとな仰ありさむらひそよ。 ワキツレ詞「さて例の班女の扇は候。 シテ「うつゝなや我が名を班女と呼び給ふぞや。よし/\それも憂き人の。 かたみの扇手にふれて。 うちおき難き袖の露。ふる事までも思ひぞ出づる。 班女が閨のうちには秋の扇の色。 楚王の台の上には夜の琴の声。地「夢はつる。 扇と秋の白露と。いづれか先に起臥の床。 冷じや独寝の。 さみしき枕して閨の月をながめん。 クリ「月重山に隠れぬれば。

扇を挙げてこれを喩へ。シテ「花琴上に散りぬれば。 地「雪をあつめて。春を惜しむ。 シテサシ「夕の嵐朝の雲。いづれか思の妻ならぬ。 地「さびしき夜半の鐘の音。 鶏籠の山に響きつつ。明けなんとして別を催し。 シテ「せめて閨もる月だにも。 地「しばし枕に残らずして。又独寝になりぬるぞや。 翠帳紅閨に。枕ならぶる床の上。 なれし衾の夜すがらも同穴の跡夢もなし。 よしそれも同じ世の。命のみをさりともと。 いつまで草の露の間も。 比翼連理のかたらひ其驪山宮の私語も。 誰か聞き伝へて今の世まで漏らすらん。さるにても我が夫の。 秋より前に必ずと。夕の数は重なれど。 あだし言葉の人心。頼めて来ぬ夜は積もれども。 欄干に立ちつくして。 そなたの空よとながむれば。 夕暮の秋風嵐山颪野分もあの松をこそは音づるれ。 我待つ人よりの音づれをいつ聞かまし。

シテ「せめてもの。形見の扇手にふれて。 地「風の便と思へども。夏もはや杉の窓の。 秋風冷かに吹き落ちて団雪の。扇も雪なれば。 名を聞くもすさましくて。秋風怨あり。 よしや思へば是もげに逢ふは別れなるべし。 其報なれば今さら。 世をも人をも恨むまじ唯思はれぬ身の程を。 思ひつゞけて独居の。班女が閨ぞさみしき。 地「絵にかける。中ノ舞「。 シテワカ「月をかくして懐に。持ちたる扇。 地「とる袖も三重がさね。シテ「其色衣の。 地「夫のかねこと。 シテ「かならずと夕暮の。月日もかさなり。 地「秋風は吹けども。荻の葉の。 シテ「そよとの便も聞かで。地「鹿の音虫の音も。かれ%\の契。 あらよしなや。シテ「かたみの扇より。 地「かたみの扇より。 猶裏表あるものは人心なりけるぞや。 扇とはそらごとや逢はで。

ぞ恋は添ふものを逢はでぞ恋はそふものを。 ワキ詞「いかに誰かある。 あの狂女が持ちたる扇見たきよし申し候へ。 ワキツレ「いかに狂女。あの御輿の内より。 狂女の持ちた。 る扇御覧じたきとの御事にて候まゐらせられ候へ。シテ「是は人のかたみなれば。 身を離さでもちたる扇なれども。 かたみこそ今はあだなれ是なくは。 忘るゝ隙もあらましものをと。思へどもさすがまた。 そふ心地するをり/\は。 扇とる間も惜しきものを。人に見する事あらじ。 ロンギ地「こなたにも。 忘れがたみの言の葉を。磐手の森の下躑躅。 色に出でずはそれぞとも。見てこそ知らめこの扇。 シテ「見てはさて。何の為ぞと夕暮の。 月を出せる扇の絵の。 かくばかり問ひ給ふは。何のお為なるらん。 地「何ともよしや白露の。 草の野上の旅寝せし契の秋は如何ならん。シテ「野上とは。

野上とは東路の。末の松山。波こえて。 帰らざりし人やらん。地「末の松山たつ波の。 何か恨みん契りおく。 シテ「かたみの扇そなたにも。地「身に添へ持ちしこの扇。 シテ「輿のうちより。地「取り出せば。

をりふし黄暮に。ほの%\見れば夕顔の。 花を書きたる扇なり。此上は惟光に。紙燭めして。 ありつる扇。御覧ぜよ互に。 それぞと知られ白雪の。 扇の妻のかたみこそ妹背の中の。情なれ。妹背の中の情なれ 狂女(男の妻)

ワキ次第「帰るうれしき都路に。/\。 雲居ぞのどけかりける。 詞「これは都方の者にて候。我東国一見のため罷り下り。 こゝかしこに月日を送り。早三年になりて候。 又都の事もゆかしく候ふ程に。 此度都へ上らばやと存じ候。 道行「雁の花を見捨つる名残まで。/\。故郷思ふ旅心。 憂きだに急ぐ我が方は。さすがに花の都にて。 海山かはる隔にも。思ふ心の道の辺の。 便の桜夏かけて。

ながめ短きあたら夜の。 花の都に着きにけり花の都に着きにけり。 シテサシ「面白や今日は卯月のとり%\に。 千早振るその神山の葵草。 かけて頼むや其恵。色めきつゞく人並に。 あらぬ身までも急ぎ来て。一セイ「今日かざす。 葵や露の玉葛。地「かづらも同じ。かざしかな。 カケリ「。シテ「かざす袂の色までも。 地「思ある身と人や見ん。 シテサシ「面白や花の都の春過ぎて。又其時のをりからも。

地「類はあらじ此神の。誓糺の道すがら。 人やりならぬ心々の。 様々見えて袖をつらね裳裾を染めて行きかふ人の。 道去りあへぬ物思ふ。 地下歌「我のみぞなほ忘られぬその恨。上歌「人の心は花染の。/\。 うつろひ易き頃も過ぎ。山陰の。 賀茂の川波糺の森の緑も夏木立。涼しき色は花なれや。 忘れめや葵を草に引き結び。 仮寝の野辺の。露の曙。面影匂ふ涙の。 ためしなれ。 や恋路の身はかはるまじなあぢきなや身はかはるまじあぢきなや。 ワキ詞「いかにこれなる狂女。 今日は当社の御神事なり。 心を静めて結縁をなし候へ。シテ「これは仰せとも覚えぬものかな。 これも狂もよく思へば聖と言えり。 其上神は知し召すらん。 正直捨方便の御恵。塵に交はる和光の影は。 狂言綺語も隔あらじ。あらおろかの仰や候。 ワキ「実に此言葉は恥かしや。

讃仏乗の心ならば。なにはの事も愚ならじ。 しかもこれなる御社は。 当社に取りても異なる垂跡。舞歌を手向けて乱れ心の。 望を祈り給ふべし。 シテ詞「そも此社は取り分きて。舞歌を納受ある事の。 其御謂は何事ぞ。ワキ「これこそさしも実方の。 宮居給ひし粧の。臨時の舞を妙なる姿を。 水にうつし御手洗の。其縁ある世を渡る。 橋本の宮居と申すとかや。 シテ「あら有難やと夕波に。ワキ「今立ち寄りて。 シテ「影を見れば。 地「現なや見しにもあらぬ面影の。/\。衰へ果つる粧は。 及ばぬ昔のそれのみか。身にも顔ばせの名残さへ。 涙のおちぶるゝこそ悲しき。 今は逢ふともなか/\に。それともいさや白露の。 命ぞ恨めしき命ぞ恨みなりける。 。 ワキ詞「これなる者を如何なる者ぞと存じて候へば。某が語らひたる女にて候。 今は人目もさすがに候ふ間。

さあらぬ体にもてなし。 人間を待ちて名乗らばやと存じ候。いかに狂女。此社にて舞をまひ。 思ふ事を祈るならば。 神もや納受あるべきぞと。 シテ「風折烏帽子かりに着て。ワキ「手向の舞を。シテ「まふとかや。 地次第「またぬぎかへて夏衣。/\。 花の袖をやかへすらん。シテ「山藍に。 摺れる衣の色添へて。地「神も御影や。 移り舞。イロエ「。 シテサシ「実にや往昔に祈りし事は忘れじを。 地「あはれはかけよ賀茂の川波。 立ち帰り来て年月の誓を頼む逢瀬の末。 シテ「憐垂れて玉簾。地「かゝる気色を。守り給へ。 クセ「我も其。しでに涙ぞかゝりにき。 又いつかもと。想ひ出でしまゝ。 涙ながらに立ち別れて。都にも心とめじ。 東路の末遠く。 聞けば其名もなつかしみ思ひ乱れし信夫摺。 誰ゆゑぞ如何にとかこたんとする人もなし。鄙の長路におちぶれて。

尋ぬるかひも泣く/\。 其面影の見えざれば。猶行く方の覚束なく。 三河に渡す。 八橋の蜘蛛手に物を思ふ身は何処をそこと知らねども。岸辺に波を掛川。 小夜の中山なか/\に。 命の内は白雲の又越ゆべしと思ひきや。シテ「花紫の藤枝の。 。 地「幾春かけて匂ふらん馴れにし旅の友だにも。心岡部の宿とかや。 蔦の細道分け過ぎて。 着馴衣を宇津の山現や夢になりぬらん。見聞くにつけて憂き思。 なほこりずまの心とて。 又帰りくる都路の思の色や春の日の。光の影も一しほの。 シテ「柳桜をこきまぜて。 地「錦をさらす縦緯の。 霞の衣の匂やかに立ち舞ふ袖も梅が香の。花やかなりし春過ぎて。 夏もはや北祭。今日また花の都人。 行きかふ袖の色々に。 貴賎群集の粧もひるがへす袂なりけり。地「月にめで。中ノ舞「。 シテ「月にめで。花を詠めし。古の。

地「跡はこゝにぞ在原なる。シテ「其業平の。 結縁の衆生に。地「契り結ぶの。 シテ「神とや岩本の。 地「もとの身なれど仮の世に出でて。月やあらぬ。春や昔の春ならぬ。 春ならぬ思へば我も。シテ「唯いつとなく。 地「唯いつとなく。そことも涙のみ。 思ひ居りて。 我が身一つの憂き世の中ぞ悲しき。 ロンギ地「初より見れば正しくそれぞとは思へど人目つゝましや。 シテ「人目をも我は思はぬ身の行方。心迷の怪しくも。

さすがにそれぞと知るけしき。 恥かしければ言ひあへず。地「よしや互に白真弓。 帰る家路は住み馴れし。 シテ「五条あたりの夕顔の。地「露の宿は。 シテ「心あてに。地「それかあらぬかの。 空目もあらじあらたなる。神の誓を仰ぎつゝ。 さらぬやうにて引き別れて。 この河島の行末は。 逢ふ瀬の道になりにけり逢ふ瀬の道になりにけり 契りし女(狂女) 契りし男

。 ワキ詞「これは下京辺に住まひするものにて候。 われさる子細あつて播磨の国に下り。久しく室の津に逗留の間。 相馴れし女の候ふに都に上りなば。 必ず迎へ妻となすべき由堅く契約申して候。

されば此程室の津へ迎へを遣わし候所に。 かの女居候はぬ由申し候ふ間。 今は尋ぬべき様もなく候。 又今日は夏越の祓にて候ふ程に。賀茂の明神に参詣申し。 かの逢瀬をも願はゞやと存じ候。

。 狂言「これは此あたりに住居仕る者にて候。今日は水無月祓にて候程に。 糺へ参らばやと存じ候。 ワキ「なう是なる人は糺へ御参り候ふか。某も御供申し候ふべし。 。 狂言「見申せば都の人にてありげに候ふが。不知案内なるやうに仰せ候ふよ。 ワキ「仰の如く都の者にて候へども。 久し。 く田舎に候ひて罷り上り候ふ故斯様に申し候。狂言「げに/\左様の事も候ふべし。 さらば御供申し候はん。 ワキ「此頃都にはいかやうなる珍しき事か候。 狂言「御存の如く都は広き事にて候ふ程に。 種々珍しき事も多く候。 先此御手洗に参りて面白き事の候。ワキ「いかやうなる事の候ふぞ。 狂言「若き女物狂の候ふが。 巫のやうなる有様にて。水無月祓の輪を持ち。 人々に茅の輪の謂を申してくゞらせ候ふが。 是非もなく面白う舞ひ遊び候。 これを見せ申し候ふべし。

ワキ「さらば其物狂を見うずるにて候。 狂言「何かと物語申して参り候ふ程に。はや糺へ参りて候。 御覧候へ殊の外群集にて候。 かの物狂を待ちて見せ申し候ふべし。 シテサシ一声「行く水に数かくよりも儚きは。 思はぬ人を思妻の。跡を慕ひて上り瀬の。 清き流や中賀茂の。御手洗川に集うふ君。 今日の夏越の祓して。 此輪越えさせ給へとよ。恥ずかしや人は何とも白波の。 地「木綿しで掛くる。御祓川。 シテ「恋路をただす神ならば。 地「などか逢瀬のなかるべき。 シテサシ「げにや数ならぬ。 身にもたとへ在原の。跡は昔に業平の。此川波に恋せじと。 かけし御祓も大幣の。 ひくて数多の人心頼むかひなきかねことかな。 とは思へども我は又。うきねに明かす水鳥の。 。 地下歌「賀茂の河原に御祓して逢瀬をいざや祈らん。夏と秋。行きかふ空の通路は。/\。

かたへ涼しき風ぞ吹く。 御手洗川は濁るとも。すみてます賀茂の宮。 誓糺の神ならば。頼をかけて憂き人に。 廻り逢ふべ。 き小車の賀茂の河原に着きにけり賀茂の河原に着きにけり。 狂言「唯今申す女物狂はこれにて候。 詞。 をかけ輪のいはれを申しさせて聞しめされ候へ。ワキ「承り候。 さらば詞をかけて謂を聞かばやと思い候。 いかにこれなる狂女。見れば茅にて作りたる輪を持ちて。 人々に越えよと承り候。 夏越の祓のいはれこそ聞きたう候へ。 シテ「わらはは狂人なれども。 祓の謂を申して聞かせまゐらせ候ふべし。 ワキ「さらばねんごろに語られ候へ。 シテ「忝くも天照太神皇孫を。 芦原の中つ国の御主と定め給はんとありしに。 荒ぶる神は飛び満ちて。 蛍火の如くなりしを。事代主の神なごめ払ひ給ひしこそ。

今日の夏越の始なれ。さらば古き歌に。 さばへなす荒ぶる神もおしなめて。 今日はなごしの祓なるなん。 詞「さてさばへなすとは夏の蝿の飛び騒ぐが如くに。 障をなす神をいへり。かゝる畏き祓へとも。 思ひ給はで世の人の。 ワキ「祓をもせず輪をも越えず。 シテ「越ゆればやがて輪廻を免る。ワキ「すはや五障の雲霧も。 シテ「今みなつきぬ。ワキ「時を得て。 地「水無月の。/\。夏越の祓する人は。 千年の命。延ぶとこそ聞け。 輪は越えたり御祓の。この輪をば越えたり。 真如の月の輪のいはれを知らで人を笑ひそよ。 もし悪し。 き友あらば祓い除けて交へじ身に祓ひのけて交へじ。 輪越えさせ給へやこの輪越えさせ給へや。名をえてこゝぞ賀茂の宮。 名をえてこゝぞ賀茂の宮に。 参らせ給はば御祓川の浪よりも。 この輪をまづ越えて。身を清めおはしませ。千早振る。

神のいがきも越えつべし。もと来し方の。 道を尋ねて。 迷ふ事はなくとも異方な通ひ給ひそ。 今日は夏越の輪をこえてまゐり給へや。シテ「神山の。二葉の葵年ふりて。 地「雲こそかゝれ木綿鬘の。 神代今の代おしなめて。 けふはなごしの祓ひなごめ静めて。心ぞ清き御祓川の。浪の白和幣。 麻の葉の青和幣。いづれも流し捨て衣の。 身を清め心すぐに。 本性になりすまして。 いざや神にまゐらんこの賀茂の神にまゐらん。 ワキ詞「いかに申し候。 この烏帽子を召されて。 面白う舞うて御見せあれと人々の御所望にて候。物着「。 シテ「げにや臨時の祭には。かざしの花を賜はるとかや。 妾も烏帽子を打ち着つゝ。神の御前に狂はまし。 賀茂川の。後瀬静かに後も逢はん。 詞「妹にはわれよ今ならずともと聞く時は。 祈る願も頼もしや。

ワキ「げに濁なきこの神の。御心なれや賀茂の川。 シテ「今この水に影をうつす。舞の袖こそ種々の。 ワキ「心を種の手向草。シテ「さるにても。 よそには何と。御祓川。中ノ舞「。ワカ「御祓川。 水も緑の。山かけの。地「賀茂の宮居の。 御手洗川に。映る面影/\。 シテ「あさましや。本より狂気の我が身なれば。 地「見しにもあらず。おのづから。 映る姿は恥かしや。歯根も眉も。乱髪の。 賀茂の社へすご/\と。歩みよるべの水のあや。 くれはとりくれ%\と。 倒れ伏してぞ泣き居たる。 ロンギ地「不思議やさては別れにし。 その妻琴のひきかへて。衰ふる身ぞ痛はしき。 シテ「声はその。人と思へどわれながら。 現なき身の心ゆゑ。 たゞ夢としも思ひかね。胸うち騒ぐばかりなり。 地「げにや思へば影頼む。恵普き室の戸に。 シテ「立つ神垣も隔なき。地「御名もかはらぬ。

シテ「賀茂の宮居。 地「実にまことありがたや。誓ひは同じ名にしおふ。 室君の操を知るもたゞこれ。

糺の御神の御恵なりと同じく。 二たび伏し拝みて妹背うち連れ帰りけり妹背うち連れ帰りけり 室君 室明神(謡ナシ) 神職 下人

。 ワキ詞「これは播州室の明神に仕へ申す神職の者にて候。 さても天下泰平のをりふしなれば。室君たちを船に載せ。 囃し物をして神前にまゐる御神事の候。 今此時もめでたき御代なれば。 急ぎ御神事を執りおこなはゞやと存じ候。 いかに誰かある。狂言シカ%\「急ぎ室君たちに神前へ御参りあれと申し候へ。狂言シカ%\「。 ツレ「室の海。地「室の海。 波ものどけき春の夜の。 月のみふねに棹さして霞む空はおもしろやな霞む空はおもしろや。 ツレ「梅が香の。

地「梅が香の磯山遠く匂ふ夜は。 出船も心ひく花ぞ綱手なりける此花ぞ綱手なりける。狂言シカ%\「。 ワキ詞「近頃めでたき御事にて候。 又悉く棹を御さし候ふ程に。棹の歌を御謡ひ候へ。 ツレ(三人)「棹の歌。うたふ浮世の一節を。 地「謡ふ浮世の一節を。 夕波千鳥声そへて。友呼びかはすあま乙女。 恨ぞまさる室君の。行く船や慕ふらん。 朝妻船とやらんはそれは近江のうみなれや。 われも尋ね/\て。恋しき人に近江の。 うみ山も隔たるや。 あぢきなき浮舟の棹の歌を謡はん水馴棹の歌うたはん。

クセ「裁ち縫はぬ。衣きし人もなきものを。何山姫の。 布晒すらん佐保の山風のどかにて。 日影も匂ふ天地の。開けしもさしおろす。 棹のしたゞりなるとかや。 ツレ「然れば春過ぎ夏たけて。地「秋すでに暮れゆくや。 時雨の雲の重なりて。嶺白妙に降り積る。 越路の雪の深さをも。 知るやしるしの棹立てゝ。豊年月の行く末を。 はかるも棹の歌うたひていざや遊ばん。 ワキ詞「いかに申し候。 かゝるめでたきをりふしに。そと御神楽を参らせられ候へ。 。 ツレ「さらば御神楽をまゐらせうずるにて候。こゝとても。室山陰の神垣の。 地「加茂の宮居は。有難や。神楽「。ツレ「月影の。 地「月影の。 更け行くまゝに風をさまれば。不思議や異香薫じつゝ。 和光の垂迹韋提希夫人の。姿を現しおはします。中ノ舞「。 地「玉のかんざし羅綾の袂。/\。 風にたなびく瑞雲に乗じ。

処は室の海なれや。山は上りて上求菩提の機をすゝめ。 海は下りて下化衆生の。 相を現し五濁の水は。実相無漏の大海となつて。 花ふり異香薫じつゝ。相好真に。肝に銘じ。

感涙袖を霑せば。はや明け行くや春の夜の。 はや明方の雲に乗りて。 虚空にあがらせ給ひけり 姫君 鳥の霊 内の女夕霧

。 狂言「これは住吉の神主殿の姫君の御めのとにて候。 養君の御寵愛の鶏の御座候ふが。 余りに美しう雪の様に白う候ふとて。初雪と名づけられ。 自ら預り飼ひ育て申し候ふが。 以前より隙入り申し候ふまゝ。餌をかひ申さず候。 餌をかひ申さうずると思ひ候。とゝ/\あら不思議や。 。 いづかたへ行きて候ふやらん見え申さず候。とゝ/\/\。 シテ「何と初雪が空しくなりたると申すか。 こはいかにさしも手なれし初雪の。

跡をも見せでそのまゝに。消えぬる事の悲しさよ。 さればこそ過ぎにし夜半に見し夢の。 心にかゝる事のありしも。 扨は此鳥の上にてありけるぞや。あら無慙の事やな。 地下歌「現とも夢とも更におもほえず。 上歌「かくばかり驚くべきにあらねども。/\。 思ひかけざる歎故。胸の火は焦れて袂の乾く隙もなし。 今はかたみもあらばこそ。 書き置く文字の。 姿まで鳥の跡とてなつかしや鳥の跡とてなつかしや。クセ「むざんやな此鳥の。 かひごを出でて程ふれば。

其かたち妙にして。 色はさながら雪なればやがて初雪と名づけつゝ。影身の如くなれ/\しに。 恋路にはあらねども別の鳥となりにけり。 シテ「今は思ふにかひぞなき。 地「歎をとゞめてひとへに。心をひるがへし。 弥陀の誓を頼みつゝ。とぶらふならば此鳥も。 などかは極楽の台の縁とならざらん。 シテ「いかに夕霧のあるか。 扨も初雪が不便さはいかに。 今は歎くとも此鳥の帰る事はあるまじ。 此あたりの上臈たちを集め。一七日とぢ籠り。 この鳥の跡を弔はばやと思ふはいかに。狂言シカ%\「。 ツレ「実にありがたき弔の。/\。 心もすめるをりからに。鳬鐘をならし声々に。 南無阿弥陀仏弥陀如来。地「あれ/\見よや不思議やな。/\。半天の雲かと見えつるが。 雲にはあらで。さも白妙の初雪の。 翅をたれて。飛び来り。姫君に向ひ。 さもなつかしげに立ち舞ふ姿実にあはれなる。

気色かな。中ノ舞「。 シテ「この念仏の功力にひかれて。忽ち極楽の台にいたり。 八功徳池の汀に遊び。鳬雁鴛鴦に翅をならべ。 七重宝樹の梢にかけり。楽更に。

尽きせぬ身なりとゆふつけ鳥の。 羽風をたてて。しばしが程は飛びめぐり。/\て。 行方もしらずなりにける 同伴者 女郎花の精 白菊の精 牡丹の精 菊の精

ワキ、ワキツレ二人次第「野沢いく重の山かけて。/\。 千草の花を尋ねん。 ワキ詞「これは都方に住居する者にて候。扨も洛陽に於て。 遊楽のけいえんつきせぬ中に。 殊に此頃弄び候ふは花の会にて候。 今日は伏見の深草にわけ入り。草花を尋ねばやと思ひ候。 サシ「面白やげに一年の詠にも。 皆草木の花に知る。三人「名残を思ふ心の末。 山路いく野に行きかふ空の。こや九重の情なる。 。 下歌「立入る空も遠近のはや秋深き夕しぐれ。上歌「濡れつゝも鶉なくなる深草や。

/\。 誰を忍ぶの浅茅原実に住み捨てし故郷の。野となりてしも露繁き。 草のはつかに暮れ残る。 伏見の沢田水白く薄霧迷ふ夕かな。薄霧迷ふ夕かな。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に伏見の里に着きて候。 やがて草花を尋ねばやと存じ候。ワキツレ「尤もにて候。 シテ呼掛「なう/\あれなる人々。 見奉れば都の人と見えさせ給ふが。 草花を召され候ふは。いかさまこのほど弄び給ふ。 花の下草を尋ね給ふやらん。 ワキ「げによく御覧ぜられて候。さやうの為に人を誘ひ。

唯今こゝに来りたり。処の人にてましまさば。 。 花のあるべき処をも委しく教へてたび給へ。シテ「先此伏見の菊の花は。 翁草とて名草なり。その外多き草花なれば。 此方へいらせ給へとて。 ワキ「人の心も花染の。ワキ「移ろふ姿も色深き。 シテ「日も紅の。ワキ「山陰に。 地「それぞとばかり心あて。/\。 折らばや折らん初霜のおきまどはせる白菊の。 花も色そふ夕暮になほ露しげき野分かな。 なほ露しげき野分かな。シテ詞「いかに申し候。 此花どもを召され候はゞ。先女郎花を手折り給へ。 ワキ「これは不思議の仰かな。 処の名草白菊をこそ。先々折るべき理なり。 女郎花を手折らんとは。思もよらぬ御事なり。 シテ「よし/\承引し給はずば。 女郎花にちぐの花を語らひ。夢中にま見え花軍を。 始めて白菊打ち散し。 恨の程をはらさんと。地「くねる姿は女郎花。/\。

かりに現れ来りたり。 今宵の月に待ち給へと夕暮の花の蔭に。 立寄りて失せにけり立寄ると見えて失せにけり。中入間「。 シテ牡丹シロアカ菊一セイ「思出づる。 身は深草の秋の露散るともよしや。吉野山。カケリ「。牡丹「扨も草花の大将に。 牡丹は情も深み草。 浅からざりし花の名の。真先かけて咲き乱れ。 地「扨其外の草花の精。/\。四季折々の時を得て。 数。 をつくせる花のかほ乱れあひたる花軍風に漂ふ有様かな。其時ませの中よりも。 /\。姿もかゝやく天つ星。 照り輝ける光のうちに白髪の老人現れたり。 シテ「抑これは。伏見の翁草とて。 幾年経たる白菊なり。地「げにも心は若草の。/\。 位を争ふ花軍。理なれども翁に許し。 互の軍止めつべしと。 夕日もかゝやく久方の。雲間の星の光を添へて菊の盃。 とりどりなり。中ノ舞「花の和睦をなし給ひ。 /\。

勇み喜ぶ草花の心千代の例は山人の。折る袖にほふ菊の露。 花鳥の戯翁はよわ/\と立ち上り。 伏見の竹の直なる御代に。千種の花をおし分けて。

千種の花をおし分けて朝の。 露より此夜はあけにけり 官人 従者 富士の妻 富士の女

。 ワキ詞「これは萩原の院に仕へ奉る臣下なり。 さても内裏に七日の管絃の御座候ふにより。天王寺より浅間と申す楽人。 こ。 れはならびなき太鼓の上手にて候ふを召し上せられ。太鼓の役を仕り候ふ所に。 又住吉より富士と申す楽人。 これも劣らぬ太鼓の上手にて候ふが。 管絃の役を望み罷り上りて候。此由きこしめされ。 富士浅間いづれも面白き名なり。 さりながら古き歌に。 信濃なる浅間の嶽も燃ゆるといへば。 詞「富士の煙のかひや無からんと聞く時は。名こそ上なき富士なりとも。

。 あつぱれ浅間は増さうずるものをと勅諚ありしにより。 重ねて富士と申す者もなく候。さる程に浅間此由を聞き。 にくき富士が振舞かなとて。 かの宿所に押しよせ。あへなく富士を討つて候。 まことに不便の次第にて候。 定めて富士が縁の無きことは候ふまじ。もし尋ね来りて候はゞ。 形見を遣はさばやと存じ候。 シテ子方二人次第「雲の上なほ遥なる。/\富士の行方をたづねん。 シテ「これは津の国住吉の楽人。富士と申す人の妻や子にて候。 。

さても内裏に七日の管絃のましますにより。天王寺より楽人めされ参る由を聞き。 妾が夫も太鼓の役。 二人「世に隠無ければ。望み申さん其ために。 都へのぼりし夜の間の夢。心にかゝる月の雨。 下歌「身を知る袖の涙かと。 明かしかねたる夜もすがら。上歌「寝られぬまゝに思ひ立つ。 /\。雲井やそなた故郷は。 跡なれや住吉の松の隙より眺むれば。 月落ちかゝる山城もはや近づけば笠をぬぎ。 八幡に祈りかけ帯の。むすぶ契の夢ならで。 うつつに逢ふや男山。 都にはやく着きにけり都にはやく着きにけり。 シテ詞「急ぎ候ふ程に。都に着きて候。 。 此処にて富士の御行方を尋ねばやと存じ候。いかに案内申し候。狂言シカ%\「。 シテ「これは富士がゆかりの者にて候。 富士に引き合はせられて賜はり候へ。狂言シカ%\「。 。 ワキ詞「富士がゆかりと申すはいづくにあるぞ。シテ「これに候。

ワキ「さてこれは富士がため何にてあるぞ。 女「恥かしながら妻や子にて候。 ワキ「なう富士は討たれて候ふよ。 シテ「何と富士は討たれたると候ふや。ワキ「なか/\の事富士は浅間に討たれて候。 シテ「さればこそ思ひ合せし夢の占。重ねて問はゞなか/\に。 浅間に討たれ情なく。 地「さしも名高き富士はなど。煙とはなりぬらん。 今は歎くに其かひもなき跡に残る思子を。 見るからにいとゞ猶すゝむ涙はせきあへず。 。 ワキ詞「今は歎きてもかひなき事にてあるぞ。是こそ富士が舞の装束候ふよ。 それ人の歎には。形見に過ぎたる事あらじ。 これを見て心を慰め候へ。 シテ「今までは行方も知らぬ都人の。 妾を田舎の者と思し召して。偽り給ふと思ひしに。 誠にしるき鳥甲。月日もかはらぬ狩衣の。 疑ふ所もあらばこそ。 痛はしやかの人出で給ひし時。みづから申すやう。

天王寺の楽人は召にて上りたり。 御身は勅諚なきに。押して参れば下として。 上を計るに似たるべし。 其うへ御身は当社地給の楽人にて。明神に仕へ申す上は。 何の望のあるべきぞと申しゝを。 知らぬ顔にて出で給ひし。 地下歌「その面影は身に添へど。 まことの主は亡きあとの忘形見ぞよしなき。上歌「かねてより。 かくあるべきと思ひなば。/\。秋猴が手を出し。 斑狼が涙にても留むべきものを今更に。 神ならぬ身を恨みかこち。 歎くぞあはれなる歎くぞあはれなりける。物着「。 シテ詞「あら恨めしやいかに姫。 あれに夫の敵の候ふぞやいざ討たう。 子方「あれは太鼓にてこそ候へ。 思のあまりに御心乱れ。筋なき事を仰せ候ふぞや。 あら浅ましや候。シテ詞「うたての人のいひ言や。 あかで別れし我が夫の。 失せにし事も太鼓故。たゞ恨めしきは太鼓なり。

夫の敵よいざ打たう。子方「げに理なり父御前に。 別れし事も太鼓故。 さあらば親の敵ぞかし。打ちて恨を晴らすべし。 シテ「妾がためには夫の敵。 いざやねらはんもろともに。子方「男の姿狩衣に。 物の具なれや鳥甲。シテ「恨の敵討ちをさめ。 子方「鼓を苔に。シテ「埋まんとて。 地「寄するや鬨の声立てゝ。秋の風より。すさまじや。 シテ「打てや/\と攻鼓。 地「あらさてこりの。泣く音やな。 地歌「なほも思へば腹たちや。/\。 怪したる姿に引きかへて。心言葉も及ばれぬ。 富士が幽霊来ると見えて。 よしなの恨や。もどかしと太鼓討ちたるや。楽「。 シテ「持ちたる撥をば剣と定め。 地「持ちたる撥をば剣と定め。瞋恚の焔は太鼓の烽火の。 天にあがれば雲の上人。 誠の富士颪に絶えず揉まれて裾野の桜。 四方へばつと散るかと見えて。花衣さす手も引く手も。

伶人の舞なれば。太鼓の役は。 本より聞ゆる。名の下空しからず。 たぐひなやなつかしや。 ロンギ地「げにや女人の悪心は。 煩悩の雲晴れて五常楽を打ち給へ。 シテ「修羅の太鼓は打ちやみぬ。此君の御命。 千秋楽と打たうよ。地「さてまた千代や万代と。 民も栄えて安穏に。シテ「太平楽を打たうよ。 地「日も既に傾きぬ。/\。 山の端をながめやりて招きかへす舞の手の。

うれしや今こそは。思ふ敵は打ちたれ。 打たれて音をや出すらん。我には晴るゝ胸の煙。 。 富士が恨を晴らせば涙こそ上なかりけれ。 キリ「これまでなりや人々よ。/\。 暇申してさらばと。伶人の姿鳥甲。 皆ぬぎすてゝ我が心。乱笠乱髪。 かゝる思は忘れじと。 また立ちかへり太鼓こそ憂き人の形見なりけれと。 見置きてぞ帰りける後見置きてぞ帰りける 身延山の沙門 従僧 富士の妻の霊

ワキ、ワキツレ次第「捨てゝも廻る世の中は。/\。 心の隔なりけり。 ワキ詞「是は甲斐の国身延山より出でたる沙門にて候。 我縁の衆生を済度せんと。多年の望にて候ふ程に。 此度思ひ立ち廻国に赴き候。

ワキ、ワキツレ道行「何処にも住みは果つべき雲水の。/\。 身は果知らぬ旅の空。月日程なく移り来て。 処を問へば世を厭ふ。 我が衣手や住の江の里。 にも早く着きにけり里にも早く着きにけり。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。

これは早津の国住吉に着きて候。あら笑止や。 俄に村雨の降り候。 これなる庵に宿を借らばやと思ひ候。いかに此屋の内へ案内申し候。 。 シテサシ「実にや松風草壁の宿に通ふといへども。正木の葛来る人もなく。 心も澄めるをりふしに。こととふ人は誰やらん。 ワキ詞「これは無縁の沙門にて候。 一夜の宿を御借し候へ。シテ詞「実に/\出家の御事。一宿は利益なるべけれども。 さながら傾く軒の草。埴生の小家のいぶせくて。 何と御身を置かるべき。ワキ「よし/\内はいぶせくとも。 降りくる雨に立ち寄る方なし。唯さりとては借し給へ。 シテ「実にや雨降り日もくれ竹の。 一夜を明かさせ給へとて。地下歌「はや此方へと夕露の。 葎の宿はうれたくとも。 袖をかたしきて御泊あれや旅人。 上歌「西北に雲起りて。/\。東南に来る雨の脚。 早くも吹き晴れて月にならん嬉しや。

処は住吉の松吹く風も心して旅人の夢を。 覚ますなよ旅人の夢を覚ますなよ。 ワキ詞「いかに主に申すべき事の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 ワキ「これに飾りたる太鼓。 同じく舞の衣裳の候ふ不審にこそ候へ。 シテ「実によく御不審候ふものかな。これは人の形見にて候。 これにつきあはれなる物語の候。 語つて聞かせ申し候ふべし。ワキ「さらば御物語候へ。 シテ語「昔当国天王寺に。 浅間といひし伶人あり。 同じく此住吉にも富士と申す伶人ありしが。其頃内裏に管絃の役を争ひ。 互に都に上りしに。 富士此役を賜はるによつて。浅間安からずに思ひ。 富士をあやまつて討たせぬ。 その後富士が妻夫の別を悲み。 常は太鼓を打つて慰み候ひしが。それも終に空しくなりて候。 逆縁ながら弔ひて給はり候へ。 ワキ「かやうに委しく承り候ふは。その古の富士が妻の。

ゆかりの人にてましますか。 シテ「いやとよそれは遥かの古。思ふも遠き世語の。 ゆかりといふ事あるべからず。 ワキ「さらば何とて此物語。深き思の色に出でて。 涙を流し給ふぞや。 シテ詞「なういづれも女は思深し。殊に恋慕の涙に沈むを。 などかあはれと御覧ぜざらん。 ワキ「なほも不審は残るなり。形見の太鼓形見の衣。 こゝには残し給ふらん。 シテ「主は昔になり行けども。太鼓は朽ちず苔むして。 ワキ「鳥驚かぬ。シテ「此御代に。 地歌「住むもかひなき池水の。/\。 忘れて年を経しものを。又立帰る執心を。 助け給へといひ捨てて。かき消す如くに失せにけり。中入間「。 ワキサシ「それ仏法はさま%\なりと申せども。 法華はこれ最第一。 ワキツレ「三世の諸仏の出世の本懐。衆生成仏の直道なり。 ワキ「中んづく女人成仏疑あるべからず。 ワキ、ワキツレ二人「一者不得作梵天王。

二者帝釈三者魔王。四者転輪聖王。 五者仏身云何女身。地「即得成仏何疑かありそ海の。 深き執心を。晴らして浮び給へや。 或は若有聞法者。/\。無一不成仏と説き。 一度。 此経を聞く人成仏せずといふ事なし。唯頼め頼もしや。 弔ふ燈の影よりも。化したる人の来りたり。 夢か現か見たりともなき姿かな。 ワキ「不思議やな見れば女性の姿なるが。 舞の衣裳を着し。さながら夫の姿なり。 詞「さてはありつる富士が妻の。 其幽霊にてましますか。 シテ「実にや碧玉の寒き芦。錐嚢に脱すとは。 今身の上に知られさぶらふぞや。 クドキ「さりながら妙なる法の受持に逢はゞ。変成男子の姿とは。 などや御覧じ給はぬぞ。 然らば御弔の力にて。 地「憂かりし身の昔を懺悔に語り申さん。さるにても我ながら。よしなき。 恋路に侵されて。長く悪趣に堕しけるよ。

さればにや。女心の乱髪。 ゆひかひなくも恋衣の。夫の。 形見を戴き此狩衣を着しつゝ。常には打ちし此太鼓の。 寐もせず。起きもせず涙。しきたへの枕上に。 残る執心を晴らしつゝ。仏所に至るべし。 うれしの今の教や。 シテ「思ひ出でたる一念の。地「起るは。 病となりつゝ継がざるはこれ薬なりと。古人の教なれば。 思はじ/\恋忘草も住吉の。 岸に生ふてふ花なれば。手折りやせまし我心。 契麻衣の片思執心を助け給へや。 ロンギ地「実に面白や同じくは。 懺悔の舞をかなでて愛着の心を捨て給へ。 シテ「いざ/\さらば妄執の。雲霧を払ふ夜の。 月も半なり夜半楽をかなでん。 地「心も共に住吉の。松の隙よりながむれば。 シテ「波もて結へる淡路潟。地「沖も静に青海の。 シテ「青海波の波返し。 地「かへすや袖の折を得て。軒端の梅に鴬の。

シテ「来鳴くや花の越天楽。地「うたへやうたへ。 シテ「梅が枝。地「梅が枝にこそ。 鴬は巣をくへ。風吹かば如何にせん花に宿る鴬。 楽「。シテ「面白や鴬の。地「面白や鴬の。 声に誘引せられて花の蔭に来りたり。 我も御法に引き誘はれて。/\。今目前に。 。 立ち舞ふ舞の袖これこそ女の夫を恋ふる。想夫恋の。楽の鼓。うつゝなの我が。 有様やな。シテ「思へば古を。 地「思へば古を。語るはなほも執心ぞと。 申せば月も入り音楽の音は。松風にたぐへて。 あ。 りし姿は明けぐれに面影ばかりや残るらん面影ばかりや残るらん 花若 日暮殿の妻 日暮殿 佐近尉 日暮従者

ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。 九州薩摩の国日暮殿の御内に。左近尉と申す者にて候。 偖も此日暮の里と申すは。 前には大河流れ。末は湖水につゞけり。 この湖より群鳥上つて。浦向の田を食み候ふ間。 毎年鳥追舟をかざり。田づらの鳥を追はせ候。 又頼み奉る日暮殿は。 御訴訟の事あるにより御在京にて候ふが。 其御留守に北の御方と。花若殿と申す幼き人の御座候。 あまりに鳥追はせうずる者もなく候ふ間。 花若殿を雇ひ申し。 田づらの鳥を追はせ申さばやと存じ候。いかに案内申し候。 左近の尉が参りて候。 シテ「左近の尉とは何のために唯今来り給ふぞ。 ワキツレ「さん候殿はこの秋の頃御下向あるべき由申し候。

シテ「いかに花若が嬉しう候ふらん。 ワキツレ「又唯今参る事余の儀にあらず。 当年某がふねに。更に鳥追はせうずる者なく候へば。 。 花若殿御出あつて鳥を追うて御遊び候へかし。左様の事申さんために参りて候。 。 シテ「何と花若に田づらの鳥を追へと申すか。花若は稚けれども。 左近の尉がためには主にてはなきか。 主に鳥追へなどと申すは。 かゝる左近の尉ほど情なき者こそなけれ。 ワキツレ「何と左近の尉は情なき者と仰せ候ふか。 まづ御心を静めて聞しめされ候へ。人の御留守などと申すは。 五十日百日。 乃至一年半年をこそ御留守とは申せ。既に十箇年の余。 扶持し申したる左近の尉が情なき者にて候ふか。

所詮ことば多き者は品少なしにて候ふ程に。 花若殿御出あつて鳥追ひなくば。 この家をあけて何方へも御出で候へ。 シテ「げにげに申す処理にて候。 花若が事は稚く候へば。 みづから出でて鳥を追ひ候ふべし。 ワキツレ「それこそ思ひもよらぬ事にて候へ。 花若殿の御事は稚き御事にて御座候へば。苦しからざる御事にて候。 上臈の。 御身にて御出あるべきなどと仰せ候ふは。 某が名を御立て候はんずるために仰せ候ふか。 シテ「さらば花若一人は心許なく候へば。 二人ともに立ち出で鳥を追ひ候ふべし。 ワキツレ「それはともかくも御計にて候ふべし。 さらば明日舟を浮めて待ち申さうずるにて候。 。 シテ「げにや花若ほど果報なき者よもあらじ。さしも祝ひて月の春の。 花若と傅くかひもなく。落ちぶれ果ててあさましや。 。

下歌地「賎が鳴子田引きつれて鳥追舟に乗らんとて。上歌「共に涙の露しげき。/\。 稲葉の鳥を立てんとて。 人も訪はざる柴の戸を。親子伴ひ立ち出づる。/\。中入「。 ワキ次第「秋も憂からぬ古里に。/\。 帰る心ぞ嬉しき。 詞「これは九州日暮の何某にて候。偖も某自訴の事あるにより。 十箇年に余り在京仕り候ふ所に。 自訴悉く安堵し喜悦の眉を開き。 唯今本国に罷り下り候。いかに誰かある。狂言シカ%\「。 あなたに当つて笛鼓の音の聞え候ふは。 何事にてあるぞ尋ねて来り候へ。狂言シカ%\「。 げにげにさる事あり。 九州にては此鳥追舟こそ一つの見事にて候へ。 此舟を待ちて見ばやと存じ候。 ワキツレサシ一声「面白や昨日の早苗いつのまに。 稲葉もそよぐ秋風に。 田面の鳥を追ふとかや。後シテ子方二人「我等は心うき鳥の。 下安からぬ思の数。 ワキツレ「群れゐる鳥を立てんとて。身を捨舟に羯鼓を打ち。

シテ子方二人「或は水田に庵を作り。 シテ「又は小舟に鳴子をかけ。シテ、子方、ワキツレ、三人一セイ「ひきつるゝ。 湊の舟の落汐に。地「浮き立つ鳥や。騒ぐらん。 シテ「鳥も驚く夢の世に。 地「われらが業こそ。うつゝなき。上歌「げにや夢の世の。 何か喩にならざらん。/\。 身はうたかたの水鳥の。浮寝定めぬ波枕。 うち靡く秋の田の。 穂波につれて浮き沈み面白の鳥の風情や。此頃は。猶秋雨の晴間なき。 水陰草に舟よせて。われらも年に一夜妻。 逢ひもやすると天の川。 上の空なる頼かな/\。 シテサシ「さるにても殿は此秋の頃。 下り給ふべきなどと申しつれども。 それもはや詞のみにて打ち過ぎぬれば。 後々とてもたのみなし。 たゞ花若が果報のなきこそうたてしう候へ。 子方「げにや落花心あり人心なし。たとひ父こそ訴訟のならひ。 此方のこと思ひながら。

永々在京し給ふとも。左近の尉情ある者ならば。 みづからが名をも朽たし。 母御に思をかけ申す事よもあらじ。あはれ父御に此恨を。 語り申し候はゞや。 シテ「たとひ訴訟はかなはずとも。父もろともに添ふならば。 かくあさましき事よもあらじ。 地「いつまでか。かゝるうきめを水鳥の。 はかなく袖を濡すべき。 ワキツレ詞「これはさて何事を御歎き候ふぞ。 歎くことあらば我が家に帰りて御歎き候へ。 御覧候へ余の田の鳥は皆立ちて候ふが。 左近の尉が田の鳥は未だ立たず候。 何の為雇ひ申して候ふぞ。 子方「悲しやな家人にだにも恐るれば。身の果さらに白露の。 シテ「晩稲の小田も刈りしほに。 色づく秋の群鳥を。子方「をふの浦舟漕ぎつれて。 シテ「思ひ/\の囃子物。子方「あれ/\見よや。シテ「よその舟にも。地「打つ鼓。 /\。空に鳴子の群雀。

追ふ声を立て添へさて。 いつも太鼓は鼕々と風の打つや夕波の。花若よ悲しくとも。追へや/\水鳥。いとせめて。恋しき時は烏羽玉の。 よるの衣をうちかへし。 夢にも見るやとて。 まどろめばよしなや夜寒の砧打つとかや。シテ「恨は日々に増れども。 地「恨は日々に増れども。哀とだにもいふ人の。 涙の数そへて。思ひ乱れて我が心。 しどろもどろになる鼓の。 篠なき拍子とも人や聞くらん恥かしや。 シテ「家を離れて三五の月の。地「隈なき影とても。 待ち恨みとことはに。心の闇はまだ晴れず。 シテ「すは/\群鳥の。地「すは/\群鳥の。稲葉の雲に立ち去りぬ。 又いつかあふ坂の。木綿附鳥か別の声。 鼓太鼓打ち連れて猶もいざや追はうよ。 ワキツレ「あら嬉しや今こそ某が田の鳥は皆立つて候へ。 まづ/\御休み候へ。 ワキ「鳥追舟に眺め入りて。

故郷に帰るべき事を忘れて候。舟ども多き中に。 羯鼓鳴子を飾りたる舟面白う候。 此舟を近づけ見ばやと存じ候。 いかにあれに羯鼓鳴子飾りたる舟を近う寄せよ。 ワキツレ「あら不思議や。此あたりにおいて。 左近の尉が舟。 あれ寄せよなどと云はうずる者こそ思ひもよらね。これは旅人にてありげに候。 あつぱれ存外なる者かな。 ワキ「あの舟よせよとこそ。ワキツレ「これはなか/\不審なりとて。漕ぎ浮べたる鳥追舟。 さし近づけてよく/\見れば。 これは日暮殿にて御座候ふか。ワキ「あら珍らしや左近の尉。 あれなるは汝が子にてあるか。 子方「いやこれは日暮殿の子にて候。 ワキ「さてあれなるは汝が母か。 子「さん候母御にて御入り候。 ワキ「それは何とて賎しき業をば致すぞ。子「父は在京とて。 また音信も候はず。頼みたる左近の尉。 此秋の田の群鳥を追へ。さなくば親子もろともに。

我が家の住まひかなふまじと。 いふ言の葉の恐ろしさに。身をすて舟に羯鼓を打ち。 ならはぬ業を汐干の浪。 あさましき身となりて候。ワキ詞「言語道断の事。 それ弓取の子は胎内にてねぎことを聞き。 七歳にて親の敵を討つとこそ見えたれ。 況んや汝十歳に余り。 さこそ無念にありつらんな。 唯これと申すも某が永々在京の故なれば。一しほ面目なうこそ候へ。 唯今。 左近の尉を討つて捨てうずるにてあるぞ。此方へ来り候へ。いかに左近の尉。 おのれは不得心なる者かな。 汝をめのとに附け置く上は。さこそ煩もありつらん。 いかさま国に下るならば。 如何やうなる恩賞をもなどと。 都にてあらましのかひもなく。結句主を追つ下げて。 下人に使ふべき謂ばしあるか。 何とて物をば云はぬぞ。シテ「めのとの科もさむらはず。 唯久々に捨ておきたる。

花若が父の科ぞとよ。あやまつて仙家に入りて。 半日の客たりといへども。故郷に帰つて纔に。 七世の孫にあへるとこそ。承りて候へとよ。 況んや十箇年の月日あり/\て。 けふしもかゝる憂き業を。 みゝえ申すは不祥なり。地「唯願はくは此程の。 恨をわれら申すまじ。左近の尉が身の科を。

親子に免しおはしませ。ワキ「此上は。 いなとはいかゞ稲莚の。 地「小田守も秋過ぎぬはやはやゆるす左近の尉。 キリ「さて其後にかの人は。/\。家を花若つぎ桜。 若木の里にかくれなき。 五常正しき弓取の末こそ久しかりけれ。末こそ久しかりけれ 直井の左衛門 直井の後妻 直井の子月若 直井の従者 直井の前妻 月若の姉

ワキ詞「これは越後の国の住人。 直井の左衛門何某にて候。 さても某妻を持ちて候ふを。かりそめながら離別して。 あたり近き長松と申す所に置きて候。 かの者二人の子を持つ。 姉をば長松の母に添へ置き。弟月若をば某一跡相続のために。 此屋の内に置きて候。かやうに候ふ所に。 又新しき妻をかたらひて候。

某此間宿願の事候ひて。 あたり近き所に参籠仕り候ふ間。 月若が事を委しく申し置かばやと存じ候。如何に渡り候ふか。 狂言女「何事にて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今呼び出し申すこと余の儀にあらず。 某はさる宿願の子細候ひて。 二三日の間物詣仕り候。其留守の内月若をよく/\いたはりて賜はり候へ。

又此国は雪深き所にて候。降り積り候へば四壁の竹の損じ候。 。 殊に此程は何とやらん雪気になりて候ふ間。自然雪降り候はば。 召し使ひ候ふ者どもに仰せ付けられ候ひて。 あたりの竹の雪を払はせられ候へ。 狂言「何と御物詣と候ふや。めでたうやがて御下向候へ。 又竹の雪の事は心得申し候。 又月若殿の事よく/\労はれ仰せられ候。 あら今めかしや候。 何方への御留守にてもよく労はらぬ事の候ふか。 ワキ「いや幼き者の事にて候ふ程にかやうに申し候。 さらばやがて下向申さうずるにて候。 狂言女「如何に月若。 父御は物詣とて御出で候。御留守の間に月若をよく/\労はれと仰せ置かれて候。 是は今めかしき事を仰せ候。 いかさまおことは殿へ妾が悪くあたるなどと告口をしてあるな。 あらにくや/\腹立や。 子方「実に世の中に月若程。

果報なき者よもあらじ。 あけくれ思を信濃なる秩父の山。秋はてぬれば柞の森の。 頼む方なくなり果てぬ。たゞ長松におはします。 母と姉御に暇を乞ひ。 何方へも行かばやと思ひ候。 シテサシ「此程は松吹く風も淋しくて。 伴なふ物は月の影。人も訪ひこぬ隠れがの。 柴の〓{新字源2799:とぼそ}の明暮は。いつまで誰を長松の。 緑子故の住居かな。 子方詞「如何に申し候。月若が参りて候。 シテ「何月若と申すか。 あらうれしと来りたるや。人数多連れて来りたるか。 子「いやひとり参りて候。 シテ「あら心もとなや。早日の暮れてあるに。 何とてひとりは来りたるぞ。 子方「さん候唯今参る事は継母御の。シテ詞「あゝ暫く。 名のらずはいかゞそれとも夕暮の。面影変る。 月若かな。あはれや実に我が添ひたりし時は。 さこそもてなしかしづきしに梓弓。

やがていつしか引きかへて。 身に着る衣は唯鶉の。所々もつゞかねば。 何とも更にゆふしでの肩にもかゝるべくもなし。 花こそ綻びたるをば愛すれ。 芭蕉葉こそ破れたるは風情なれ。 地下歌「いづくに風のたまりつゝ。寒さを防ぎけるらん。 上歌「短夜の夢かや見れば驚くは。/\。 山田の鹿の如くなる臥所荒れ立つ草むらに。 尋ねて来る志。親子ならでは。 かくあらじ親子ならではかくあらじ。 狂言女「あら不思議や。 月若が見え候はぬぞや。如何に誰かある。狂言男「御前に候。 狂言女「月若は何処へ行きてあるぞ。 狂言男「更に存ぜず候。狂言女「いや/\推量して候。 先にちと言ひごとをしてあれば心にかけて。 例の長松の母の方へ告口しに行きてあるな。あら憎や。 只今父御の。 御帰あつて召すと申して連れて来り候へ。男「畏つて候。如何に申し候。

殿の御帰あつて月若殿を召され候。 急いで御帰り候へ。 シテ詞「何父御の召され候ふとや。あら悲しやたま/\来りたるものを。 さりながら召にて候はばとく参りて。 又此程に来りて母を慰め候へ。 男「如何に申し候。 月若殿を御供申して参りて候。狂言女「如何に月若。 さればこそ又長松に行きて告口してあるな。 父の仰せ置かれて候。 雪降らば四壁の竹の雪を払はせよと仰せ候ふが。 事の外雪降りて候ふ程に。急いで竹の雪を払ひ候へ。 物を脱ぎ小袖一つにて払ひ候へ。 子方「さりとては払はでかくてあるならば。 地「払はでかくてあるならば。我のみならず。 母上も姉御前も思は。長松の風。 身にしむばかり更くる夜の。雪寒うして払ひかね。 帰らんとすれば門をさす。 明けよとたゝけど音もせず。あら寒や堪へがたや。 月若たすけよ。実にや無常のあらき風。

憂き身ばかりつらきかなと。 思ふかひなき。 月若は終に空しくなりにけり終にむなしくなりにけり。 狂言男「何と申すぞ。 月若殿雪に埋もれて空しくなり給ひたると申すか。 あら痛はしの御事や候。 さこそ長松に御座候ふ母御の御歎き候はんずらん。 やがて此由を長松に申し候ふべし。いかに申し候。 月若殿竹の雪に埋もれて空しく御なり候。 シテヒメ二人「実に/\生を受くる類。 誰か別を悲まざる。されば大聖釈尊も。羅〓{大漢和:23523。 ご}為長子と説き。 また西方極楽の教主法蔵比丘は。御子の太子を悲み。 鹿野苑に迷はせ給ふとこそ承りて候へとよ。 況んや人間に於てをや。誰かは子を思はざる。 。シテ、ヒメ二人次第「ふるに思の積る雪/\消えし我が子を尋ねん。シテ一声「子を思ふ。 身を白雪の振舞は。地「ふるにかへらぬ。心かな。 シテ「花は根に。鳥は古巣にかへれども。

ヒメ「我は再び此道に。 シテヒメ二人「帰らん事も片糸の。一筋にたゞ思ひきり。 忘れて年を降る雪の。積の恨深ければ。 行く水に数ならぬ。身は有明の月若が。 たゞかきくれて五障の雲の隙よりも。 あくがれ出づるはかなさよ。 シテ「上なき思は富士の嶺の。 シテヒメ二人「かくれぬ雪ともあらはれなば。 地「恥かしや何処へやり身は小車の我が姿。地「習はぬ業を菅蓑は。/\。 寒風もたまらず。いつを呉山にあらねども。 。 笠の雪の重さよ老の白髪となりやせん戴く雪を払はん先づ笠の雪を払はん。 シテサシ「暁梁王の園に入らざれども。 雪群山に満ち。ヒメ「夜〓{大漢和:9398。 いう}公が樓に登らねども。月千里に明らかなり。 シテヒメ二人「悲しや見渡せば。こゝは湘浦の浦かとよ。 斑に見ゆる雪の竹。涙や色に染むべき。 ヒメ「彼の唐土の孟宗は。 親のため雪中に入り笋を設く。シテ「今我は引きかへて。

地「子の別路を悲みて。竹の雪をかきのくる。 我が子の死骸あらば孟宗にはかはりたり。 うれしからずの雪の中や。 思の多き年月も。はや呉竹の窓の雪夜学の人の燈も。 はらはゞやがて消えやせん。 谷を隔つる山鳥の。 尾を履む峯の竹には虎や住むらん恐ろしや。 世を鴬の声立て煙は竹を白雪のあかしといへば須磨の浦の。 海士の焼くなる塩やらん。 ロンギ地「空に知られて木の下に。 吹きたてて降る雪は狼藉か。落花か。 シテ「花は泣く/\雪をかけば。 ヒメ「姉は父御を恨みて人しれぬ涙せきあへず。 地「すはや死骸の見えたるは。シテ「如何に月若母上よ。 ヒメ「姉こそ我と。地「呼べども叫べども。 答ふる声のなどなきぞ。消えよと思ふ。 。 雪は積りて月若が別を何にたとへなん別を何にたとへなん。 ワキ詞「此間諸願成就して。

唯今下向仕り候。あら不思議や。某が四壁の内に。 人の泣声の聞え候ふはいかに。 あら心もとなや候。や。さればこそいかに姫。 これは何と申したる事ぞ。 ヒメ「さん候月若長松へ来り給ひしを。 父御の召とて帰りて候へば。もとより衣は一重なり。 寒風に責められて空しくなりて候ふを。 。 情ある人の長松へ此由かくと申し候ふ程に。母上これまで御出でにて候。 いづれも親にてましませども。 母御はこれほど悲み給ふに。 父御前は子をば思ひ給はぬぞや。継母御をば恨むまじ。 唯父御こそ恨めしう候へ。 。 ワキ詞「いや某は月若に竹の雪を払へと。申したる事はゆめ/\なき事にて候ふぞとよ。定めて人の教戒にてぞ候ふらん。 これと申すもとにかくに。 唯某が科にてこそ候へ。あら面目なや候。

シテ「身を梁の燕のならひ。 すみねたき事を聞きながら。さまをも今までかへざるは。 彼を思ふ故なるに。そも継母はいかなれば。 此月若をば殺しけん。 よその歎は一旦の思。唯憂き身ひとりの歎ぞかし。 命惜しとも思はれず。 ワキ「身は白雪と消えばやなん。 地「理や面目なや思はぬ外の歎かな。地「二人の親の悲の。/\。 不思議なるあはれみにや。虚空に声ありて。 竹林の七賢竹ゆゑ消ゆるみどり子を。 又二度かへすなりと。告げ給ふ御声より。 月若いきかへり喜は日々に添ふ。 キリ地「かくて親子にあひ竹の。/\。 世を故郷をあらためて。 仏法流布の寺となし。仏種の縁となりにけり。 二世安楽の縁深き。親子の道ぞ有難き/\ 梅千世 女(梅千世の母) 左近尉 宰府の神主 従者二人 天満天神

シテ子方二人次第「忘れは草の名にあれど。/\。 忍ぶは人の面影。 シテサシ「これは一条今出川に住む女にて候。げにや徒なる契とて。 心をさへに筑紫人の。 袖触れそめし憂き中の。 疎くなりぬる身の果はとにもかくにもあらばあれ。 この子が為に父を尋ねて。 下歌「馴れも馴れぬに遠旅の心は子にや迷ふらん。筑紫とは。 西ぞとばかり聞きしより。/\。 月の入るさをしるべにて。 行方も知らぬ旅衣野山幾重か重ぬらん。かゝる思を菅の根の。 長門の関路ほどもなく。香椎博多を打ち過ぎて。 宰府に早く着きにけり。/\。 シテ詞「あら嬉しや急ぎ候ふ程に。 宰府とやらんに着きて候。

まづこの所にて宿を借らうずるにて候。此方へ来り候へ。 如何にこの屋の内へ案内申し候。 ワキツレ左近尉「誰にて渡り候ふぞ。 シテ「これは都方の者にて候。一夜の宿を御貸し候へ。 ワキツレ「心得申し候。これは女性旅人にて候ふ程に。 奥の間に置き申さうずるにて候。 此方へ御入り候へ。シテ「いかに申し候。 この所に宰府の神主殿と申す人の渡り候ふか。 ワキツレ「なか/\の事この在所の主にて御座候。 われらもその御内の者にて候。 シテ「都より文をことづかりて候。 神主殿へ参らせられてたまはり候へかし。 ワキツレ「易き御事にて候。やがて届けて参らせうずるにて候。 シテ「あら嬉しや候。 さらば此文を参らせ候。御返事を取りてたまはり候へ。

ワキツレ「心得申し候。誰か渡り候。狂言シカ%\「さん候。 神主殿へ申し上ぐべき子細あつて参りて候。狂言シカ%\「それは恐れがましく候。 。狂言シカ%\「都より女性旅人の我等が宿に御泊り候ふが。 この文を神主殿へ参らせよと申され候。狂言シカ%\「畏つて候。狂言シカ%\「言語道断。 さやうの御事をば存ぜず候ふほどに止め置きて候。 さらばやがて追ひ出し申さうずるにて候。狂言シカ%\「いかに旅人へ申し候。 唯今の文を神主殿へ御目にかけて候へば。 やがて御返事を賜はりて候。急いで御覧候へ。 シテ「あら嬉しと早く御届け候ふ物かな。 さらばやがて御返事を見うずるにて候。 文「御下りめづらしく候へども。男の身なりとも。 遥々の遠国にひとりは下りがたし。 いかさま。

珍しき人にさそはれて御下かと思ひ候へば。対面申す事はあるまじく候。 これは梅千世が方へ申し候。 本よりこの身は不肖なれば。親ありとも思ふべからず。 はや/\都に帰り給へ。 あらつれなやつれなと書かれたり。 これは夢かやあらあさましや候。 子方詞「いかに母上。 いたくな御嘆き候ひそ。梅千代かくて候へば。 御心安く思し召せ。シテ「げに子ながらも恥かしや。 父が心の変ることを。 身の上になげくと思ふかや。御身を父に見せ。 一跡をも継がせばやと思ひてこそ。 遥々伴なひ下りたるに。孤となすべき事の悲しさよ。 子「よしなうそれも力なし。 今さら何と歎くべき。上歌詞「筑紫人。空言すると聞きつるに。 /\。頼みけるこそなか/\に。 はかなかりける心かな。かきくらす。 心の闇のひたすらに。夢現なき道のべの。 便と頼む木蔭さへ。今は亡き身となるべしと。

思ふに付きて独子を。 残し置くべき悲しさよ。/\。 ワキツレ詞「いかに申し候。 御痛はしう候へども。 神主殿よりこの所には置き申すなとの御事にて候ふ間。 急いでこの屋を出でていづ方へも御出あらうずるにて候。 シテ「いかに梅千代。 子方「何事にて候ふぞ。 シテ「このまゝ都に上らん事も人目さすがに候へば。あれなる庵室に立ち越え。 様変へばやと思ふなり。 おことは是に待ち給へ。子方「いや/\母の御けしき心もとなく候ふ程に。離れ申す事は候ふまじ。 シテ「うたてやな父こそかはり給ふとも。 母が心のかはるべきか。たゞ/\御事はこの所にて。母が帰さを待ち給へ。 子方「母の仰を真と思ひ。 さらばとくとく帰り給へ。 シテ「母は今こそかぎりなれと。下やすからぬ思の色。 ゆきもやられぬ袖の別。子方「引き止められて。

シテ「親心の。地「思ひわづらふ母が身の。/\。 亡き跡いかゞと。 別れえぬ今の憂き身かな。とにかくに。 帰らんまでは待ち給へと。 夕顔の空目して藍染川に身を投ぐる藍染川に身を投ぐる。中入「。 ワキツレ詞「何と申すぞ。 藍染川に人の身を投げたると申すか。 いかやうなる者ぞ立ち越え見ばやと存じ候。や。言語道断。 いかなる者ぞと存じて候へば。 某が所に泊りたる女性にて候ふはいかに。 なう梅千世殿母御の身を投げ給ひて候ふぞ。 急いで御覧候へ。子方「なう母上。 恨めしの御有様やな。母御のかくてましませばこそ。 頼もしく思ひ候ひつるに。 これは夢かやあさましや。 悲しやな知らぬ筑紫の果に来て。父母さへに捨子となる。 みづからは誰を頼むべき。 下歌地「末の露本の雫もよしやよし。われとても。 ながらへ果てじ身をすてゝ。母に追ひつき申さんと。

藍染川に歩み行く/\。 ワキツレ詞「暫く。 これは勿体なき御はたらきにて候。おこと身を投げ給ひては。 さて母御の御跡を誰か弔ひ申すべき。 たゞ思し召し止まり給ひ候へ。 これは母御の遊ばされたる文にて候。 御形見によく御持ち候へ。かゝる痛はしき事こそ候はね。 ワキ「これは宰府の神主にて候。 われこの間は他所に候ひて。唯今罷り帰り候。 あら不思議や。 あの藍染川に人の多く集まりて候ふは何事にて候ふらん。や。 推量申して候。 某他所に候ふ間に網を引かすると存じ候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。 ワキ「あの藍染川に人の多く集まりてあるは。網をばし引くか。 殺生禁断の所にてあるに。 急いで皆々あがれと申し付け候へ。トモ「畏つて候。やあ/\神主殿の御出にてあるぞ。網をばし引くか。 殺生禁断の所にてあるぞ。

いそいで皆々あがり候へ。 何と人の身を投げたると申すか。や。左近の尉にて渡り候ふか。 是へ神主殿の御出にて候。 急ぎ御まゐりあつて。この謂を御申し候へ。 ワキツレ「心得申し候。トモ「いかに申し上げ候。 網にてはなく候。人の身を投げたる由申し候。 あれに左近の尉が候ひて。 謂を申し上げうずるとてこれへ参りて候。 ワキ「いかに左近の尉。 身を投げたると申すはいかやうなる者ぞ。 左近「さん候都より女性の人を尋ねて下り候ふが。 逢はぬを恨みて身を投げたる由申し候。ワキ「言語道断。 都よりはる%\下りたるに。 逢はぬは不得心なる者にてあるよな。 あれなる幼き者はいかやうなる者にてあるぞ。 左近「あれは彼の者の子にて候。 ワキ「手に持ちたるは文にてあるか。左近「さん候文にて候。 。 ワキ「そと見たきよし申して取りて来り候へ。ワキツレ「畏つて候。

なうその文をそと人の御覧ぜられたき由仰せ候。賜はり候へ。 子方「いや是は母御の御形見にて候ふ程に。 参らせ候ふまじ。 ワキツレ「そと御覧じてやがて返し申されうずるにて候。 こなたへ賜はり候へ。文を取りて参りて候。 ワキ文「これは梅千世が方へ書き置き候。 憂き身はもとより捨妻の。きぬ%\なれば恨もなし。いかに情知らずとも。 子にしれぬ親の候ふべきか。 いひがひなくは出家になし。扶持したまはゞ草の蔭にて。 守の神となるべきなり。 大内にありし時は梅壷の侍従。一条今出川の御留主。 当所の御名は知らねども。御在京の御時は。 中務頼澄宰府の神主。や。 言語道断の次第にて候ふものかな。 今まではよその事とこそ存じて候ふに。 かゝる不思議なる事こそ候はね。 あの幼き者をこなたへ連れて来り候へ。ワキツレ「畏つて候。いかに申し候。 神主殿のもの仰せられうずると仰せ候。

此方へ御出で候へ。 ワキ「あら不便の者や。さて真の父にあひたくはなきか。 子方「かほどに情ましまさば。 父に逢はせてたび給へ。ワキ「げに/\これは理なりと。名告らんとすれば涙にむせび。 子方「目もくれ心。ワキ「月影に。 地「それと見えねど梅千世が。顔も姿も馴れし母に。 たがはぬ面影の。 これこそ父よむざんやな。さこそ便も歎の。 力を添へてゆふつけの。 取りつき髪かき撫でよそめ思はぬ気色かな。 ワキ詞「いかに左近の尉。 余りに彼の者不便に候ふ程に。 そと見うずると思ふはいかに。ワキツレ「御意尤もにて候さりながら。 御姿にては如何にて御座候。ワキ「げに/\汝が申す如く。 総じて死人を見る事はなけれども。 彼の者の心中余りに不便にある間。 苦しからぬ事そと一目見うずるにてあるぞ。

死骸のあたりなる人をのけ候へ。ワキツレ「畏つて候。やあ/\神主殿御出あるぞ。皆々のき候へ。 ワキ「いかに申し候。 さても御下夢にも知らず候。 梅千世が事は某一跡を譲り世にたてうずるにて候。 又御跡をも懇に弔うて参らせ候ふべし。 かまへてわれを恨み給ふなと。いへどもいへども。 クセ地「いへども平生の顔色は。 草葉の色にことならず。芳態あらたに眠りて。 眼蓋を開く事なし。嬋娟の黒髪は。 乱れて草根にまとはり。婉転たる黛は。 消え失せて面影の亡き身の果ぞ悲しき。 ワキ「紅顔空に消えて。地「華麗を失へり。 飛揚の。 魂いづくにかひとり赴く有様あはれむべし累々たる古墳のほとり。 顔色終に消え失せて。郊原に朽ち果てゝ。 思や跡に残るらん。ワキ詞「いかに左近の尉。 かの者の心中あまりに不便にある間。 臨時の。

幣帛を捧げ肝胆を砕きかの者の命を二度蘇生させばやと思ふはいかに。 ワキツレ「げにげにこれは尤もにて候。 ワキ「さらば祝詞を参らせうずるにて候。ワキツレ「然るべう候。 ワキ「神主御幣をおつ取つて。 神前に参り跪き。既に祝詞を申しけり。謹上再拝。 我此道場如帝珠。十方三宝影現中。 我身敬礼三宝前。頭面接足帰命礼。 南無天満天神。広く旧里を去つて。 遍ねく幕下を兼ねたり。明才衆に超え。明智世に勝れ。 西海の西都に安楽寺の地を点じて。 春秋をまねく。地「や本地覚王如来。 寂光の都を出でて。この太宰府に住み給ふ。 後シテ出端「たゞ頼め標茅が原のさしも草。 われ世のなかにあらん限は。 地「御殿しきりに鳴動して。 あらはれ給ふぞかたじけなき。地上歌「昨日は北闕に。/\悲を蒙る身なれども。 けふは西都によみがへさんと。生きて恨み死して悦ぶ。有難の誓や。 シテ「そも/\当社と申すは。

地「そも/\当社と申すは。法性の都を出でて。 分段同居の境に入つしよりこのかた。 冥々とある苦海に沈み。菩提涅槃に至らず。 こゝに宿因内に通じて。

受けがたき人身を受け。智識。外に助け逢ひ難き。 誓の春に。また逢ふ事も。 たゞこれ当社の神恩。 ぞとよろこびの祝詞を奉り悦の祝詞を奉れば。神は上らせ給ひけり 高野の僧(為世) 為世の子姉弟 子方の母

。 ワキ詞「これは高野山より出でたる僧にて候。我古は津の国水無瀬の里に。 為世といはれし者にて候ふが。 さる子細候ひて元結切り。かやうの姿と罷りなりて候。 次第に故郷もなつかしう候ふ程に。 唯今思ひ立ち水無瀬の里へと急ぎ候。 これははや故郷水無瀬の里に着きて候。 此処に暫く休まばやと思ひ候。 姉弟二人一声「花散りし。嵐も寒き秋風に。 もろき柞の森の露。消えても残る。命かな。 姉「これは津の国水無瀬の里に。

為世の卿といはれし人の。二人の子にて候ふなり。 二人「さても我が父後の世の。 為世は遁世し給ひて。母も我等も捨小舟の。 水無瀬の川の小夜千鳥。 共音に鳴きて過ごせしに。母さへ空しくなり給ひて。 我等おととひ花水を手向のために立ち出づる。 かほどまで便なき身を我が父の。/\。 捨。 て置き給ふ思ひ子の恋ひ悲しめるあはれさよ。人は帰らで見る夢の。 別れ留まる物ならば。現に逢はん由もがな/\。 。

ワキ詞「不思議やなこれなる幼き者を見れば。古の某が子にて候。 さらぬ様にて過ぎ行かばやと思ひ候。 弟「いかに姉上。聖の御通り候御留め候へ。 姉「実によく仰せ候御とゞめ候へ。 二人「いかに御聖聞し召せ。往来の利益の御為ならば。 我等が母の空しき跡。 弔ひてたばせ給へなう。 ワキ詞「無慙やな父とも知らでおとゝひは。利益をなさんと往来の。 僧を供養し給ふぞや。さらば留まり申すべし。 二人「嬉しや今日は母上の。 空しき跡の其日なり。御経読みてたび給へ。 ワキ詞「それこそ易き御事なれと。 落つる涙を押さへつゝ。御経を読まんと志せば。 二人「我等が母の亡き跡を。弔ひ給ふ御聖を。 ワキ「父とも知らで。二人「今は又。 地「よそのあはれに言ひなして。/\。 さらば留まりて。跡を弔ひ申さん。 二人「嬉しの今の仰やと。 おとゝひ共に喜べば。地「見れば昔にかはりたる。

庭の桂木窓の梅。主忘れぬしるしぞと。 匂を留めて吹く風の。洩る月影も冷まじや。 見苦しけれど此方へと。 御僧を請じ入れければ。ワキ「千度百度親子ぞと。 地「名乗らばやとは思へども。輪廻の業の目を塞ぎ。 念仏申し撫子の。弔ふ法の結縁に。 正覚ならせ給へや/\。 ワキ「南無幽霊成等正覚。 シテ一声「念仏衆生無量寿如来。ワキ「一代教主釈迦牟尼法号。 シテ「来迎引摂。地「あら有難や。 ワキ「更闌け夜静かに帳門開かざるに。 影の如くに見え給ふは。 此世には亡き古人の。姿現し給へるか。 シテ「恥かしやなほも輪廻に帰り来て。 見え参らするは憚なれども。親と名乗らで情なく。 よそがましげにおはします。 恨み申しに参りたり。ワキ「尤もそれはさる事なれども。 捨つる浮世の身を恥ぢて。 親と名乗らぬばかりなり。

シテ詞「なう包むも事によるものをと。亡者は子供の手を取りて。 ワキ「草の枕の夜の宿。 シテ「夢に相逢ふ親と子の。姉弟「袂にすがれば。 ワキ「ともかくも。地「争ひかねて捨人は。 いとゞ心の迷ひ子に。親と名乗らんは。 よその人目もいかならん。シテ「羨ましや父も子も。 地「同じ浮世の身にあれば。 逢瀬の便もあるぞかし。 我は冥途に帰りなばいつ又夢にも逢ふべき。 地「緑子は三界の。/\。 首かせに繋がれて。娑婆にも行かれず冥途にも。 帰りかねて悲しやな。苦は受くれども。

忘るゝ隙なきは。娑婆に残る妄執愛着。 恋慕の妨ぐる。心の鬼の身を責めて。 烏羽玉の黒髪を。 手に繰りからまき提げ引きすゑ。 左右に引き分つて立つも立たれず居るも居られぬ因果の車の廻り来て。 問へども何かは答ふべき。叫べとも叶はず。 シテ「されどもかやうの弔に。 地「されどもかやうの弔に。 今こそ親子に鸚鵡の袖を振り切りがたき糸竹の。 紫雲たなびき音楽聞え。 紫雲たなびき音楽聞えて成。 仏するこそありがたけれ成仏するぞ有難き 侍女夕霧 芦屋某の妻(後ハ其幽霊) 芦屋某

ワキ詞「これは九州芦屋の何某にて候。 われ自訴の事あるにより在京仕りて候。 かりそめの在京と存じ候へども。

当年三とせになりて候。 余りに故郷の事心もとなく候ふ程に。 召使ひ候ふ夕霧と申す女を下さばやと思ひ候。いかに夕霧。

余りに古里心もとなく候ふ程に。 おことを下し候ふべし。 此年の暮には必ず下るべき由心得て申し候へ。 ツレ「さらばやがて下り候ふべし。 必ず此年の暮には御下りあらうずるにて候。道行「此程の。 旅の衣の日も添ひて。/\。幾夕暮の宿ならん。 夢も数そふ仮枕。明し暮して程もなく。 芦屋の里に着きにけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。芦屋の里に着きて候。 やがて案内を申さうずるにて候。いかに誰か御入り候。 都より夕霧が参りたるよし御申し候へ。 シテサシ、アシラヒ出「それ鴛鴦の衾の下には。 立ち去る思を悲しみ。比目の枕の上には。 波を隔つる愁あり。ましてや深き妹背の中。 同じ世をだに忍草。 われは忘れぬ音を泣きて。袖に余れる涙の雨の。 晴間稀なる心かな。 。ツレ詞「夕霧が参りたる由それ/\御申し候へ。シテ「何夕霧と申すか。

人までもあるまじ此方へ来り候へ。 いかに夕霧珍しながら怨めしや。 人こそ変り果て給ふとも。風の行方の便にも。 などや音信なかりけるぞ。 ツレ「さん候とくにも参りたくは候ひつれども。 御宮づかひの隙もなくて。心より外に三年まで。 都にこそは候ひしか。 シテ「何都住まひを心の外とや。思ひやれげには都の花盛。 慰多きをり/\にだに。憂きは心の習ぞかし。 下歌「鄙の住まひに秋の暮。 人目も草も枯れ%\の。 契も絶えはてぬ何を頼まん身のゆくへ。上歌「三年の秋の夢ならば。 /\。憂きはそのまゝ覚めもせで。 おもひでは身に残り昔は変り跡もなし。 げにや偽の。なき世なりせばいかばかり。 人の言の葉嬉しからん。愚の心やな。 愚なりけるたのみかな。 シテ詞「あら不思議や。 何やらんあなたに当つて物音の聞え候。

あれは何にて候ふぞ。ツレ詞「あれは里人の砧打つ音にて候。 シテ「げにや我が身の憂きまゝに。 古事の思ひ出でられ候ふぞや。 唐土に蘇武といひし人。胡国とやらんに捨て置かれしに。 古里に留め置きし妻や子。 夜寒の寝覚を思ひけり。高楼に登つて砧をうつ。 志の末通りけるか。 万里の外なる蘇武が旅寝に。古里の砧聞えしとなり。 わらはも思や慰むと。とても寂しき呉服。 あやの衣を砧にうちて。心を慰まばやと思ひ候。 。 ツレ詞「いや砧などは賎しき者の業にてこそ候へ。 さりながら御心慰めんためにて候はゞ。砧をこしらへて参らせ候ふべし。 シテ「いざ/\砧うたんとて。 馴れて臥ゐの床の上。ツレ「涙かたしく小莚に。 シテ「思をのぶる便ぞと。 ツレ「夕霧立ちより諸共に。シテ「怨の砧。ツレ「うつとかや。 地次第「衣に落つる松の声。 衣に落ちて松の声夜寒を風や知らすらん。

シテ「音信の。稀なる中の秋風に。 地「憂きを知らする。夕かな。シテ「遠里人も眺むらん。 地「誰が世と月は。よも問はじ。 シテ「面白のをりからや。頃しも秋の夕つ方。 地「牡鹿の声も心凄く。見ぬ山里を送り来て。 梢はいづれ一葉散る。 空冷まじき月影の軒の忍にうつろひて。シテ「露の玉簾。 かゝる身の。地「思をのぶる。 夜すがらかな。宮漏高く立ちて。風北にめぐり。 シテ「隣砧緩く急にして月西に流る。 地「蘇武が旅寝は北の国。これは東の空なれば。 西より来る秋の風の。 吹き送れと間遠の衣擣たうよ。上「古里の。 軒端の松も心せよ。おのが枝々に。嵐の音を残すなよ。 今の砧の声添へて。 君がそなたに吹けや風。余りに吹きて松風よ。我が心。 通ひて人に見ゆならば。 その夢を破るな破れ。 て後は此衣たれか来ても訪ふべき来て訪ふならばいつまでも。

衣は裁ちもかへなん。夏衣薄き契はいまはしや。 君が命は長き夜の。 月にはとても寝られぬにいざいざ衣うたうよ。かの七夕の契には。 一夜ばかりの狩衣。天の河波立ち隔て。 逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露涙。 二つの袖やしをるらん。水蔭草ならば。 波うち寄せようたかた。 シテ「文月七日の暁や。地「八月九月。げに正に長き夜。 千声万声の憂きを人に知らせばや。 月の色風の気色。影に置く霜までも。 心凄きをりふしに。砧の音夜嵐悲の声虫の音。 交りて落つる露涙。ほろ/\はら/\はらと。いづれ砧の音やらん。 ツレ詞「いかに申し候。 都より人の参りて候ふが。 此年の暮にも御下あるまじきにて候。 クドキシテ「怨めしやせめては年の暮をこそ。偽ながらも待ちつるに。 さては早真に変り果て給ふぞや。 地「思はじと思ふ心も弱るかな。声も枯野の虫の音の。

乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。 病の床に伏し沈み。 遂に空しくなりにけり/\。中入「。 。 ワキ詞「無慙やな三とせ過ぎぬる事を怨み。引きわかれにし妻琴の。 つひの別となりけるぞや。上歌待謡「さきだたぬ。 悔の八千度百夜草。悔の八千度百夜草の。 蔭よりも二度。帰りくる道と聞くからに。 梓の弓の末弭に。 詞をかはすあはれさよ/\。 後シテ出端「三瀬川沈み。果てにし。 うたかたの。哀はかなき身の行くへかな。 標梅花の光を並べては。娑婆の春をあらはし。 地「跡のしるべの燈火は。 シテ「真如の秋の。月を見する。 さりながらわれは邪婬の業深き。思の煙の立居だに。 やすからざりし報の罪の。乱るゝ心のいとせめて。 獄卒阿防羅刹の。笞の数の隙もなく。 うてや/\と。報の砧。怨めしかりける。

因果の妄執。地「因果の妄執の思の涙。 砧にかゝれば。涙はかへつて。 火焔となつて。胸の煙の焔にむせべば。 叫べど声が出でばこそ。砧も音なく。 松風も聞えず。呵責の声のみ。恐ろしや。 上歌「羊のあゆみ隙の駒。/\。 うつりゆくなる六つの道。 因果の小車の火宅の門を出でざれば。廻り廻れども。 生死の海は離るまじやあぢきなの憂世や。 シテ「怨は葛の葉の。地「怨は葛の葉の。 かへりかねて執心の面影の。 はづかしや思ひ夫の。二世と契りてもなほ。 末の松山千代までと。かけし頼はあだ波の。 あらよしなや空言や。そもかゝる人の心か。

シテ「烏てふ。おほをそ鳥も心して。 地「うつし人とは誰かいふ。草木も時を知り。 鳥獣も心あるや。 げにまことたとへつる。蘇武は旅雁に文をつけ。 万里の南国に至りしも。契の深き志。 浅からざりしゆゑぞかし。 君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも。 夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや。 キリ「法華読誦の力にて。/\。 幽霊まさに成仏の。道明かになりにけり。 これも思へばかりそめに。うちし砧の声のうち。 開くる法の華心。 菩提の種となりにけり/\ 旅僧 従僧 里の女 うなゐ乙女の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「ひなの長路の旅衣。

/\都にいざや急がん。

ワキ詞「これは西国方より出でたる僧にて候。 我いまだ都を見ず候ふ程に。唯今都に上り候。 道行三人「旅衣八重の塩路の浦伝ひ。/\。 舟にても行く旅の道海山かけてはる%\と。 明し暮して行く程に。名にのみ聞きし津の国の。 生田の里に着きにけり/\。シテツレ一セイ「若菜摘む。 生田の小野の朝風に。なほ冴え返る袂かな。 ツレ二ノ句「木の芽も春も淡雪に。 シテツレ「杜の下草。なほ寒し。 シテサシ「深山には松の雪だに消えなくに。ツレ「都は野辺の若菜摘む。 頃にも今やなりぬらん。 思ひやるこそ床しけれ。 シテ「こゝはまたもとより所もあまざかる。ツレ「ひな人なれば自ら。 うきも命のいく田の海の。 身の限にてうきわざの。春としもなき小野に出でて。 下歌「若菜摘む。 いく里人の跡ならん雪間あまたに野は成りぬ。 上歌「道なしとてもふみ分けて。/\。野沢の若菜けふつまん。 。

雪間を待つならば若菜も若しや老いもせん。 嵐吹く森の木蔭小野の雪もなほ冴えて。 春としも七草の生田の若菜摘まうよ生田の若菜摘まうよ。 ワキ詞「いかにこれなる人に尋ね申すべき事の候。 生田とは此あたりを申し候ふか。 ツレ「生田と知し召したる上は。御尋までも候ふまじ。 シテ「処処の有様にも。 などかは御覧じ知らざらん。詞「先は生田の名にしおふ。 これに故有る林をば。生田の森と知し召さずや。 ツレ「また今渡り給へるは。 名に流れたる生田川。シテ「水の緑も春浅き。 雪間の若菜摘む野べに。 ツレ「すくなき草の原ならば。小野とはなどやしろしめされぬぞ。 シテツレ「三吉野志賀の山桜。 立田初瀬の紅葉をば。歌人の家に知るなれば。 処に住める者なればとて。生田の森とも林とも。 知らぬ事をな宣ひそよ。 ワキ「実に目前の処々。森を始めて海川の。 霞み渡れる小野の景色。詞「実にも生田の名にしおへる。

さて求塚とは何処ぞや。 シテ「求塚とは名には聞けども。真はいづくの程やらん。 わらはも更に知らぬなり。ツレ「なう/\旅人よしなき事をな宣ひそ。 わらはも若菜を摘む暇。 シテ「御。 身もいそぎの旅なるに。 何し。 に休らひ給ふらん。 ツレ「されば古き歌にも。 。 地下歌「旅人の道。 さまたげに摘む物は。 生田の小。 野の若菜なりよ。 しなや何を問ひ給ふ。上歌「春日野の。 飛火の野守出でてみよ。/\。若菜つまんも程あらじ。 其如く旅人も。 急がせ給ふ都を今幾日ありて御覧ぜん。

君が為春の野に出でて若菜つむ。衣手寒し消え残る。 雪ながら摘まうよ淡雪ながら摘まうよ。 沢辺なるひこりは薄く残れども。 水の深芹かき分けて青緑色ながらいさや摘まうよ。 色ながらいさや摘まうよ。 ロンギ地「まだ初春の若菜にはさのみに種はいかならん。 シテ「春立ちて朝の原の雪見れば。まだ古年の心地して。 。

ことし生は少なしふるはの若菜つまうよ。地「古葉なれどもさすがまた。 年若草の種なれや。心せよ春の野辺。 シテ「春の野に/\。菫つみにと来し人の。 若菜の名や摘みし。 地「げにやゆかりの名をとめて。妹背の橋も中絶えし。 シテ「佐野の茎立わか立ちて。地「緑の色も名にぞそむ。 シテ「長安の薺。地「からなづな。 白み草も有明の。 雪に紛れて摘みかぬるまで春寒き。小野の朝風また森の下枝松たれて。 何れを春とは白波の。河風邪までも冴返り。 吹かるゝ袂もなほ寒し。 摘み残して帰らんわかな摘みのこし帰らん。 ワキ詞「不思議やな若菜つむ女性は。皆々帰り給ふに。 何とて御身一人残り給ふぞ。 シテ詞「さきに御尋ね候求塚を教へ申し候はん。 ワキ「それこそ望にて候御教へ候へ。 シテ「こなたへ御入り候へ。これこそ求塚にて候へ。 ワキ「さて求塚とは。 何と申したる謂にて候ふぞ。委しく御物語り候へ。

シテ「さらば語つて聞せ申し候ふべし。 昔此処にうなゐ乙女のありしに。 又その頃さゝだ男ちぬのますらをと申しゝ者。 かのうなゐに心をかけ。同じ日の同じ時に。 わりなき思の玉章を贈る。彼の女思ふやう。 一人になびかば一人の恨深かるべしと。 左右なうなび?く事もなかりしが。 あの生田川の水鳥をさへ。二人の矢さきもろともに。 一つの翅に中りしかば。 其時わらは思ふやう。無慙やなさしも契は深緑。 水鳥までも我ゆゑに。さこそ命はをし鳥の。 つがひ去りにしあはれさよ。 住みわびつ我が身捨てゝん津の国の。 生田の川は名のみなりけりと。地「これを最期の詞にて。/\。 此河波に沈みしを。 取り上げて此塚の土中に籠め納めしに。 二人の男は此塚に求め来りつゝ。 いつまで生田川流るゝ水に夕汐の。さし違へて空しくなれば。 それさへ我が科に。

なる身を助け給へとて塚。 の中に入りにけり塚の中にぞ入りにける。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人待謡「一夜臥す牡鹿の角の塚の草。/\蔭より見えし亡魂を。 弔ふ法の声たてゝ。南無幽霊成等正覚。 出離生死頓証菩提。 後シテ「あう〓{口へんに廣}野人稀なり野人稀なり。わが古墳ならで又何者ぞ。 骸を争ふ猛獣は。去つて又残る。 塚を守る飛魄は松風に飛び。 電光朝露なほ以て眼にあり。古墳多くは少年の人。 生田の名にも似ぬ命。 地「去つて久しき故郷の人の。シテ「御法の声は有難や。 地「あら閻浮恋しや。 地「されば人一日一夜をふるにだに。/\。八億四千の思あり。況んや。 我等は。去りにし跡も久方の。 天の御門の御代より。 今は後の堀川の御宇にあはゞ我も二たび世にも帰れかし。 いつまで草の蔭。 苔の下には埋れんさらば埋れも果てずして。 苦は身をやく火宅の住家御覧ぜよ火宅の住家御覧ぜよ。

ワキ「わら痛はしの御有様やな。一念ひるがへせば。 無量の罪をも遁るべし。 種々諸悪地獄鬼畜生。生老病苦以漸悉令滅。 はやはや浮び給へ。シテ「ありがたや。 この苦の隙なきに。御法の声の耳にふれて。 大焦熱の煙の中に。晴間の少し見ゆるぞや。 ありがたや。詞「恐ろしやお事は誰そ。 何さゝだ男の亡心とや。 偖此方なるはちぬのますらを。左右の手を取つて。来れ/\と責むれども。三界火宅の住家をば。 何と力に出づべきぞ。 又恐ろしや飛魄飛び去る目の前に。来るを見れば鴛鴦の。 鉄鳥となつて黒鉄の。嘴足剣の如くなるが。 首をつゝき髄を喰ふ。 こはそも妾がなせる科かや。恨めしや。 詞「なう御僧此苦をば。何とか助け給ふべき。 ワキ「実に苦の時来ると。云ひもあへねば塚の上に。 火焔一群飛び覆ひて。 シテ「光は飛魄の鬼と成つて。

ワキ「笞をふり上げ追立つれば。シテ「行かんとすれば前は海。 ワキ「後は火焔。シテ「左も。ワキ「右も。 シテ「水火の責に詰められて。ワキ「せん方なくて。 シテ「火宅の柱に。 地「すがりつき取りつけば。柱は則ち火焔と成つて。 火の柱を抱くぞとよあらあつや。 堪へがたや五体はおき火の。黒煙と成りたるぞや。 シテ「而して起上れば。地「而して起上れば。 獄卒は笞を当てゝ。追立つればたゞよひ出でて。 八大地獄の数々苦を尽し御前にて。 懺悔の有様見せ申さん先等活黒縄衆合。

叫喚大叫喚。炎熱極熱無間の底に。 足上頭下と落つる間は。三年三月の苦果てゝ。 少し苦患の隙かと思へば。鬼も去り。 火焔も消えて。くら闇となりぬれば。 今は火宅に帰らんと。 ありつる住家はいづくぞと。闇さは闇しあなたを尋ね。 こなたを求塚。いづくやらんと求め/\辿り行けば。求め得たりや求塚の。 草の蔭野の露消えて草のかげ野の露きえ/\と。 亡者のかたちは失せにけり/\ 小野小町 高野山僧 従僧

ワキ、ワキツレ次第「山は浅きに隠家の。/\深きや心なるらん。 詞「これは高野山より出でたる僧にて候。 我このたび都に上らばやと思ひ候。サシ「それ前仏は既に去り。

後仏はいまだ世に出でず。 ワキ、ワキツレ「夢の中間に生れ来て。何を現と思ふべき。たま/\受け難き人身を受け。 逢ひ難き如来の仏教に逢ひ奉る事。これぞ悟の種なると。

。 思ふ心もひとへなる墨の衣に身をなして。上歌「生れぬさきの身を知れば。/\。 憐むべき親もなし。 親のなければ我が為に。心に留むる子もなし。 千里を行くも遠からず。 野に臥し山に泊る身のこれぞ誠の。栖なるこれぞ誠の栖なる。 。シテ次第「身は浮草をさそふ水/\なきこそ悲しかりけれ。 サシ「あはれやげにいにしへは。驕慢もつとも甚だしう。 翡翠の釵は婀娜とたをやかにして。 楊柳の春の風に靡くが如し。また鴬舌の囀は。 露を含める糸萩の。 かごとばかりに散りそむる花よりもなほ珍しや。 今は民間賎の目にさへ穢なまれ。諸人に恥をさらし。 嬉しからぬ月日身に積つて。 百年の姥となりて候。 下歌「都は人目つゝましやもしもそれかと夕まぐれ。 上歌「月もろともに出でて行く。/\。雲居百敷や。 大内山の山守も。

かゝる憂き身はよも咎めじ木隠れてよしなや。鳥羽の恋塚秋の山。 月の桂の川瀬舟。漕ぎゆく人は誰やらん/\。 シテ詞「あまりに苦しう候ふほどに。 これ。 なる朽木に腰を懸けて休まばやと思ひ候。 ワキ詞「なうはや日の暮れて候道を急がうずるにて候。や。 これなる乞食の腰かけたるは。正しく卒都婆にて候。 教化してのけうずるにて候。 いかにこれなる乞丐人。おことの腰かけたるは。 かたじ。 けなくも仏体色相の卒都婆にては無きか。そこ立ちのきて余の所に休み候へ。 。 シテ「仏体色相のかたじけなきとは宣へども。是ほどに文字も見えず。 刻める像もなしたゞ朽木とこそ見えたれ。 ワキ「たとひ深山の朽木なりとも。 花咲きし木はかくれもなし。 詞「いはんや仏体に刻める木。などかしるしのなかるべき。 シテ「我も賎しき埋木なれども。 心の花のまだ有れば。手向になどかならざらん。

詞「さて仏体たるべき謂は如何に。 ワキツレ「それ卒都婆は金剛薩〓{た:土へんに垂}。 かりに出化して三摩耶形を行ひ給ふ。 シテ詞「行ひなせる形は如何に。ワキ「地水火風空。 シテ「五大五輪は人の体。何しに隔あるべきぞ。 ワキツレ「形はそれに違はずとも。心功徳はかはるべし。 シテ詞「さて卒都婆の功徳は如何に。 ワキ「一見卒都婆永離三悪道。 シテ「一念発起菩提心。それも如何でか劣るべき。 ワキツレ「菩提心あらばなど浮世をば厭はぬぞ。 シテ「姿が世をも厭はゞこそ心こそ厭へ。 ワキ「心なき身なればこそ。 仏体をば知らざるらめ。 シテ詞「仏体と知ればこそ卒都婆には近づきたれ。 ツレ「さらばなど礼をばなさで敷きたるぞ。 シテ「とても臥したる此卒都婆。我も休むは苦しいか。 ワキ「それは順縁にはづれたり。 シテ詞「逆縁なりと浮むべし。ツレ「提婆が悪も。シテ詞「観音の慈悲。 ワキ「槃特が愚痴も。シテ詞「文殊の智恵。

ツレ「悪と云ふも。シテ「善なり。 ワキ「煩悩といふも。ツレ「菩提なり。ツレ「菩提もと。 シテ「植木にあらず。ワキ「明鏡また。 シテ「台に無し。地「げに。 本来一物なき時は仏も衆生も隔なし。 もとより愚痴の凡夫を。救はん為の方便の。 深き誓の願なれば。逆縁なりと浮むべしと。 ねんごろに申せば。誠に悟れる。非人なりとて。 僧は頭を地につけて。三度礼し給へば。 シテ「我は此時力を得。 なほ戯の歌をよむ。極楽の内ならばこそ悪しからめ。 そとは何かは苦しかるべき。 地「むつかしの僧の。教化や/\。 。 ワキ詞「さておことは如何なる人ぞ名を御名のり候へ。 シテ詞「恥かしながら名を名のり候ふべし。これは出羽の郡司。 小野の良実が娘。 小野の小町がなれる果にてさむらふなり。 ワキワキツレ二人「いたはしやな小町は。さもいにしへは優女にて。

花のかたち輝き。桂の黛青うして。 白粉を絶えさず。 羅綾の衣多うして桂殿の間に余りしぞかし。シテ「歌をよみ詩を作り。 地「酔をすゝむる盃は。漢月袖に静かなり。 ま。 こと優なる有様のいつ其ほどに引きかへて。地歌「頭には。霜蓬を戴き。 嬋妍たりし両鬢も。 膚にかしげて墨乱れ宛転たりし双峨も遠山の色を失ふ。百年に。 一年足らぬつくも髪。 かゝる思は有明の影恥かしき我が身かな。 。 ロンギ地「首に懸けたる袋には如何なる物を入れたるぞ。 シテ「今日も命は知らねども。明日の飢を助けんと。 粟豆の餉を袋に入れて持ちたるよ。 地「うしろに負へる袋には。シテ「垢膩の垢づける衣あり。 地「臂にかけたるあじかには。 白黒の慈姑あり。地「破れ蓑。シテ「破れ笠。 地「面ばかりは隠さねば。シテ「まして霜雪雨露。 。

地「涙をだにも抑ふべき袂も袖もあらばこそ。今は路頭にさそらひ。 往来の人に物を乞ふ。乞ひ得ぬ時は悪心。 また狂乱の心つきて。声かはりけしからず。 シテ「なう物給べなう御僧なう。 ワキ詞「何事ぞ。シテ詞「小町がもとへ通はうよなう。 ワキ「おことこそ小町よ。 何とて現なき事をば申すぞ。シテ「いや小町といふ人は。 あまりに色が深うて。 あなたの玉章こなたの文。かきくれて降る五月雨の。 空言なりとも。一度の返事もなうて。 いま百年になるが報うて。 あら人恋しやあら人恋しや。ワキ「人恋しいとは。 さてお。 ことには如何なる者のつきそひてあるぞ。 シテ「小町に心を懸けし人は多き中にも。殊に思深草の四位の少将の。 地「恨の数のめぐり来て車の榻に通はん。 日は何時ぞ夕暮。月こそ友よ通路の。 関守はありとも留まるまじや出で立たん。 シテ「浄衣の袴かいとつて。

地「浄衣の袴かいとつて。 立烏帽子を風折り狩衣の袖をうちかづいて。人目忍ぶの通路の。 月にも行く暗にも行く。雨の夜も風の夜も。 木の葉の時雨雪深し。シテ「軒の玉水。 とく/\と。地「行きては帰り。 かへりては行き一夜二夜三夜四夜。七夜八夜九夜。 豊の明の節会にも。逢はでぞ通ふ鶏の。 時をもかへず暁の。 榻のはしがき百夜までと通ひいて。九十九夜になりたり。

シテ「あら苦し目まひや。 地「胸苦しやと悲しみて。一夜を待たで死したりし。 深草の少将の。その怨念がつき添ひて。 かやうに物には狂はするぞや。 キリ「これにつけても後の世を。 願ふぞ誠なりける。砂を塔と重ねて。 黄金の膚こまやかに。花を仏に手向けつゝ。 悟の道に入らうよ。/\ 旅僧 老人 小野頼風の霊 頼風の妻の霊

。 ワキ詞「これは九州松浦潟より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。 此秋思ひ立ち都に上り候。道行「住み馴れし。 松浦の里を立ち出でて。/\。 末不知火の筑紫潟いつしか後に遠ざかる。 旅の道こそ。遥なれ旅の道こそ遥なれ。

詞「急ぎ候ふ程に。 是ははや津の国山崎とかや申し候。向ひに拝まれさせ給ふは。 石清水八幡宮にて御座候。 我が国の宇佐の宮と御一体なれば。参らばやと思ひ候。 又こ。 れなる野辺に女郎花の今を盛と咲き乱れて候。立ち寄り眺めばやと存じ候。

ワキ「さても男山麓の野辺に来て見れば。 千草の花盛にして。 色を飾り露を含みて。虫の音までも心有り顔なり。 野草花を帯びて蜀錦を連ね。 桂林雨を払つて松風を調ぶ。詞「此男山の女郎花は。 古歌にもよまれたる名草なり。 これも一つは家土産なれば。花一本を手折らんと。 此女郎花の辺に立ち寄れば。 シテ詞呼掛「なう其花な折り給ひそ。花の色は蒸せる粟の如し。 俗呼ばつて女郎とす。 戯に名を聞いてだに偕老を契るといへり。 ましてやこれは男山の。名を得て咲ける女郎花の。 多かる花に取り分きて。 など情なく手折り給ふ。あら心なの旅人やな。 ワキ詞「さて御身は如何なる人にてましませば。 これほど咲き乱れたる女郎花をば惜み給ふぞ。 シテ「惜み申すこそ理なれ。 此野辺の花守にて候。 ワキ「たとひ花守にてもましませ。御覧候へ出家の身なれば。

仏に手向と思し召し。一本御ゆるし候へかし。 シテ「実に/\出家の御身なれば。 仏に手向と思ふべけれど。 彼の菅原の神木にも折らで手向けよと。其外古き歌にも。 折り取らば手ぶさに穢る立てながら。 詞「三世の仏に花奉るなどと候へば。 ことさら出家の御身にこそ。 なほしも惜み給ふべけれ。ワキ「さやうに古き歌を引かば。 何とて僧正遍昭は。 名にめでて折れるばかりぞ女郎花とはよみ給ひけるぞ。 シテ「い。 やさればこそ我落ちにきと人に語るなと。深く忍ぶの摺衣の。 女郎と契る草の枕を。並べしまでは疑なければ。 其御喩を引き給はゞ。出家の身にては御誤。 ワキ「かやうに聞けば戯ながら。 色香にめづる花心。詞「兎角申すによしぞなき。 暇申して帰るとて。 もと来し道に行き過ぐる。 シテ「あうやさしくも所の古歌をば知し召したり。

女郎花憂しと見つゝぞ行き過ぐる。男山にし立てりと思へば。 地下歌「優しの旅人や。花は主ある女郎花。 よし知る人の名にめでて。 免し申すなり一本折らせたまへや。 上歌「なまめき立てる女郎花。/\。 うしろめたくや思ふらん。 女郎と書ける花の名に誰偕老を契りけん。彼の邯鄲の仮枕。 夢は五十のあはれ世のためしもまこと。 なるべしやためしもまことなるべしや。 ワキ詞「此野辺の女郎花に眺め入りて。 未だ八幡宮に参らず候。 シテ「この尉こそ山上する者にて候へ。 八幡への御道しるべ申し候ふべし此方へ御入り候へ。 ワキ「聞。 きしに越えて尊く有難かりける霊地かな。シテ「山下の人家軒をならべ。 二人「和光の塵もにごり江の。 河水にうかぶ鱗は。 実にも生けるを放つかと深き誓もあらたにて。恵ぞ繁き男山。 栄行く道の有難さよ。地下歌「頃は八月半の日。

神の御幸なる御旅所を伏し拝み。上歌「久方の。 月の桂の男山。/\。さやけき影は処から。 。 紅葉も照り添ひて日もかげろふの石清水。苔の衣も妙なりや。 三つの袂に影うつる。しるしの箱を納むなる。 法の神宮寺有難かりし霊地かな。巌松聳つて。 山聳え谷廻りて諸木枝を連ねたり。 鳩の嶺越し来て見れば。 三千世界もよそならず千里も同じ月の夜の。 朱の玉垣みとしろの。錦かけまくも。 かたじけなしと伏し拝む。 。 シテ詞「これこそ石清水八幡宮にて御座候へよく/\御拝み候へ。 はや日の暮れて候へば御暇申し候ふべし。ワキ「なう/\女郎花と申す事は。 此男山につきたる謂にて候ふか。シテ「あら何ともなや。 さきに女郎花の古歌を引いて。 戯を申し候ふも徒事にて候。女郎花と申すこそ。 男山につきたる謂にて候へ。

又此山の麓。 に男塚女塚とて候ふを見せ申し候ふべし。此方へ御入り候へ。これなるは男塚。 又此方なるは女塚。 此男塚女塚について女郎花の謂も候。 是は夫婦の人の土中にて候。 ワキ「さて其夫婦の人の国は何処。苗字は如何なる人やらん。 シテ「女は都の人。男は此八幡山に。 小野の頼風と申しゝ人。地歌「恥かしや古を。 語るもさすがなり。申さねば又亡き跡を。 誰が稀にも弔の。便を思ひ頼風の。 更け行く月に木隠れて夢の如くに。 失せにけり夢の如くに失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「一夜臥す。男鹿の角の塚の草。 /\蔭より見えし亡魂を。 弔ふ法の声立てゝ。南無幽霊出離生死頓生菩提。 後シテ出端「おう曠{新字源3398くわう}野人稀なり。 我が古墳ならで又何者ぞ。ツレ「骸を争ふ猛獣は。 禁ずるに能はず。シテ「なつかしや。 聞けば昔の秋の風。ツレ「うら紫が葛の葉の。

シテ「かへらば連れよ。妹背の波。 地「消えにし魂の。女郎花。花の夫婦は現れたり。 あら有難の。御法やな。 ワキ「影の如くに亡魂の。 現れ給ふ不思議さよ。ツレ「妾は都に住みし者。 彼の頼風に契をこめしに。 シテ詞「少し契のさはりある。人まを誠と思ひけるか。 ツレ「女心のはかなさは。都を独りあくがれ出でて。 猶も恨の思深き。放生川に身を投ぐる。 シテ詞「頼風これを聞きつけて。 驚きさわぎ行き見れば。あへなき死骸ばかりなり。 ツレ「泣く/\死骸を取り上げて。 此山本の土中にこめしに。 シテ詞「其塚より女郎花一本生ひ出でたり。頼風心に思ふやう。 さては我が妻の。女郎花になりけるよと。 なほ花色もなつかしく。 草の袂も我が袖も。露触れそめて立ち寄れば。 此花恨みたる気色にて。夫の寄れば靡き退き又。 立ち退けばもとの如し。

地「こゝによつて貫之も。 男山の昔を思つて女郎花の一時を。 くねると書きし水茎の跡の世までもなつかしや。 クセ「頼風其時に。 彼のあはれさを思ひ取り。無慙やな我故に。 よしなき水の泡と消えて徒らなる身となるも。 ひとへに我が科ぞかし。 如かじうき世に住まぬまでと同じ道にならんとて。 シテ「つゞいて此川に身を投げて。 地「ともに土中に籠めしより女塚に対して。 又男山と申すなり其塚はこれ。主は我幻ながら来りたり。 跡弔ひてたび給へ/\。 地「あら閻浮。恋しや。カケリ「。 キリ地「邪淫の悪鬼は身を責めて。/\。其念力の。 道も嶮しき剣の山の。上に恋しき。 人は見えたり嬉しやとて。行き上れば。 剣は身を通し磐石は骨を砕く。 こはそも如何に恐ろしや。剣の枝の。撓むまで。 いかなる罪の。なれる果ぞや。

よしなかりける花の一時を。くねるも夢ぞ女郎花。 露の台や花の縁に。

浮めてたび給へ罪を浮めてたび給へ 小野小町 深草四位少将

。 ワキ詞「これは・八瀬{やせ}の・山里{やまざと}に・一夏{いちげ}を送る僧にて候。こゝに・何処{いづく}とも知らず・女性{によしやう}・一人{いちにん}。 ・毎日{まいにち}・木{こ}の・実{み}・妻木{つまぎ}を持ちて来り候。 ・今日{けふ}も来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 ツレ次第「拾ふ・妻木{つまぎ}も・焚物{たきもの}の。/\匂はぬ。 袖ぞかなしき。 ツレ「これは・市原野{いちはらの}のあたりに住む女にて候。 詞「さても・八瀬{やせ}の・山里{やまざと}に。・貴{たつと}き人の・御入{おんい}り候ふ程に。 いつも・木{こ}の・実{み}・妻木{つまぎ}を持ちて参り候。 ・今日{けふ}もまた参らばやと思ひ候。如何に申し候。 又こそ参りて候へ。 ワキ詞「いつも来れる人か。

今日{けふ}は・木{こ}の・実{み}の・数々{かず/\}・御物語{おんものがた}り候へ。 ツレ「拾ふ・木{こ}の・実{み}は何々ぞ。 地「拾ふ・木{こ}の・実{み}は何々ぞ。ツレ「・古{いにしへ}見馴れし。 車に似たるは嵐にもろき・落椎{おちじひ}。 地「・歌人{かじん}の家の・木{こ}の・実{み}には。ツレ「・人丸{ひとまる}の・垣穂{かきほ}の・柿{かき}。山の・辺{べ}の・笹栗{さゝぐり}。 地「窓の梅。ツレ「・園{その}の桃。 地「花の名にある桜・麻{あさ}の。 ・苧生{をふ}のうら・梨{なし}なほもあり・擽{いちひ}かしひまてばしひ。・大小{だいせう}・柑子{かんじ}・金柑{きんかん}。 あはれ昔の恋しきは・花橘{はなたちばな}の。・一枝{ひとえだ}花橘の一枝。 ワキ詞「・木{こ}の・実{み}の数々は承りぬ。さて/\・御身{おんみ}は如何なる人ぞ名を・御名{おんな}のり候へ。 ツレ「恥かしや・己{おの}が名を。 地「をのとはいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひたる・市原野辺{いちはらのべ}に住む・姥{うば}ぞ。

跡とひ給へ・御僧{おんそう}とてかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。 ワキ詞「かゝる不思議なる事こそ候はね。 唯今の女の名を委しく尋ねて候へば。 をのとはいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひたる。 ・市原野{いちはらの}に住む姥と申しかき消すやうに失せて候。 こゝに思ひ合はする事の候。 或る人・市原野{いちはらの}を通りしに。・薄一村{すゝきひとむら}・生{お}ひたる蔭よりも。 ・秋風{あきかぜ}の吹くにつけてもあなめあなめ。 ・小野{をの}とはいはじ・薄{すゝき}・生{お}ひけりとあり。 これ・小野{をの}の・小町{こまち}の歌なり。 さては疑ふ所もなく唯今の・女性{によしやう}は。 小野の小町の・幽霊{いうれい}と思ひ候ふ程に。かの・市原野{いちはらの}に行き。 小町の跡を・弔{とぶら}はゞやと思ひ候。 歌待謡「この・草庵{さうあん}を立ち出でて。/\。 なほ草深く露しげき・市原野辺{いちはらのべ}に尋ね行き。・座具{ざぐ}を・展{の}べ・香{かう}を・焼{た}き。 ・南無幽霊成等正覚{なむいうれいじやうとうしやうがく}。・出離生死頓生菩提{しゆつりしやうじとんしやうぼだい}。 ツレ一声「うれしの・御僧{おそう}の・弔{とぶらひ}やな。 同じくは・戒{かい}授け給へ・御僧{おそう}。

シテ「いや叶ふまじ・戒{かい}授け給はゞ。恨み申すべし。 ・早{はや}帰り給へ・御僧{おんそう}。ツレ「こは如何にたま/\かゝる・法{のり}に逢へば。なほその・苦患{くげん}を見せんとや。 シテ「・二人{ふたり}見るだに悲しきに。 ・御身{おんみ}・一人{いちにん}・仏道{ぶつだう}ならば・我{わ}が思。重きが上{うへ}の・小夜衣{さよごろも}。 重ねて憂き目を・三瀬川{みつせがは}に。 沈みはてなば・御僧{おそう}の。授け給へるかひも有るまじ。 早帰り給へや。・御僧達{おそうたち}。 地歌「なほもその身は迷ふとも。/\。 ・戒力{かいりき}に引かれば。などか・仏道{ぶつだう}ならざらん・唯{たゞ}。 共に・戒{かい}を受け給へ。 ツレ「人の心は・白雲{しらくも}の。・我{われ}は曇らじ心の月。 出でて・御僧{おそう}に・弔{と}はれんと・薄{すゝき}おし分け出でければ。 シテ「包めど我も穂に出でて。/\。・尾花{おばな}。 招かば・留{と}まれかし。 ツレ「思は山のかせきにて。招くと更に・留{と}まるまじ。 シテ「さらば・煩悩{ぼんのう}の。犬となつて。打たるゝと。 離れじ。ツレ「恐ろしの姿や。シテ「袂を取つて。 引きとむる。ツレ「引かるゝ袖も。

シテ「ひかふる。地「我が袂も。共に涙の露。 ・深草{ふかくさ}の・少将{せうしやう}。 。 ワキ詞「さては・小野{をの}の・小町{こまち}・四位{しゐ}の少将にてましますかや。とてもの事に車の・榻{しぢ}に。 ・百夜{もゝよ}通ひし所をまなうで・御見{おんみ}せ候へ。 ツレ「もとより我は・白雲{しらくも}の。 かゝる・迷{まよひ}の有りけるとは。 シテ詞「思ひもよらぬ車の・榻{しぢ}に。・百夜{もゝよ}通へと・偽{いつは}りしを。まことと思ひ。 詞「・暁毎{あかつきごと}に忍び車の榻に行けば。 ツレ「車の物見もつゝましや。 姿を変へよといひしかば。シテ詞「・輿車{こしぐるま}はいふに及ばず。 ツレ「いつか・思{おもひ}は。 地「・山城{やましろ}の・木幡{こはた}の・里{さと}に馬は有れども。シテ「君をおもへば・徒歩跣足{かちはだし}。 ツレ「さてその姿は。シテ「・笠{かさ}に・蓑{みの}。 ツレ「身の・浮世{うきよ}とや竹の・杖{つゑ}。 シテ詞「月には行くも暗からず。ツレ「さて雪には。 シテ「袖を打ち払ひ。ツレ「さて雨の・夜{よ}は。 シテ「目に見えぬ。・鬼一口{おにひとくち}も恐ろしや。ツレ「たま/\曇らぬ時だにも。シテ「身・一人{ひとり}に・降{ふ}る。

涙の雨か。イロエ「。シテ「あら・暗{くら}の・夜{よ}や。 ツレ「・夕暮{ゆふぐれ}は。・一方{ひとかた}ならぬ。・思{おもひ}かな。シテ「夕暮は何と。 地「・一方{ひとかた}ならぬ・思{おもひ}かな。 シテ「月は待つらん。月をば待つらん。我をば待たじ。 ・空言{そらごと}や。地「・暁{あかつき}は。/\。数々多き。思かな。 シテ「我が為ならば。地「鳥もよし鳴け。 ・鐘{かね}も・唯{ただ}・鳴{な}れ。 ・夜{よ}も明けよ唯・一人寝{ひとりね}ならば。 ・辛{つら}からじ。シテ「かやうに心を。尽{つく}し尽して。 地「かやうに心を尽し尽して。・榻{しぢ}の数々。 よみて見たれば。・九十九夜{くじふくよ}なり。 今は・一夜{ひとよ}ようれしやとて。待つ日になりぬ。 急ぎて行かん。姿は如何に。 シテ「笠も・見苦{みぐる}し。地「・風折烏帽子{かざをりゑぼし}。 シテ「・蓑{みの}をも・脱{ぬ}ぎ捨て。地「・花摺衣{はなすりごろも}の。シテ「・色重{いろがさね}。地「・裏紫{うらむらさき}の。 シテ「・藤袴{ふぢばかま}。地「待つらんものを。 シテ「あら急がしや。すは・早{はや}・今日{けふ}も。地「・紅{くれなゐ}の・狩衣{かりぎぬ}の。 ・衣紋{えもん}けたかく引きつくろひ。 ・飲酒{おんじゆ}は如何に。月の・盃{さかづき}なりとても。 ・戒{いましめ}ならば・保{たも}たんと。唯一念の・悟{さとり}にて。

多くの罪を・滅{めつ}して小野の小町も少将も。

共に・仏道{ぶつだう}成りにけり/\ 旅僧 女の霊 男の霊

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 此間は北国に候ひて。 霊仏霊社残りなく拝み廻りて候。 余りに雪深くなり行き候ふ程に。是より若狭路にかゝり。 都へ上らばやと存じ候。道行「冬枯の。梢淋しき越の山。 /\。分け行く末は白雲の。 八重の塩路もほの%\と木の間に見ゆる若狭路の。 煙るそなたやうらみ坂。松風寒き磯山に。 里とひかぬる夕かな。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。 これは早若狭の国気山とかやに着て候。あら笑止や。俄に雪の降り来りて候。 あの松原の人宿に。 立寄り雪を晴さばやと思ひ候。ツレ詞呼掛「なう/\御僧。 何とて其宿には立寄り給ひ候ふぞ。

ワキ「不思議や降る雪に行きかふ里人も見えず。 木深き松原の蔭よりも。女性一人来り給ひ。 我に言葉をかけ給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 ツレ「これは此あたりに住む者にて候。 そなたをこそ誰とは問ひ申すべけれ。これは恋の松原とて由ある処なり。 。 たゞかりそめの一樹の蔭とおぼしめさば。御こゝろなきやうにこそ候へ。 ワキ「偖は故ある処にて候ひけるぞや。 又何ゆゑ恋の松原とは申し候ふぞ。 ツレ「むかし此処に住みし人忍妻に契り。 此松原に待てといひしかば。其言葉を違へじと。 夜更くるまで帰らざりしに。 浦風烈しくふゞきて。俄に積もる白雪の。

跡ふみ分くべき道もなく。松もをれふす木がくれに。 埋れ果てゝ空しくなる。 さも浅ましき邪淫の妄執。ともにあはれと思し召して。 跡よく弔ひ給へとよ。 地「夕の空もすさまじき。恋の松原の。験の石も苔むして。 あれのみまさる草の蔭。 隠はあらじ今ははや。名のらずとても白雲の。 跡とはせ給へとて。 夢の如くになりにけり/\。中入間「。 ワキ待謡「沖つ波。声うちそふる松原の。/\。 蔭にかたしく草衣かりに見えつる幻の。 。 妹背をかけて夜と共に彼の亡き跡を弔ふとかや彼の亡き跡を弔ふとかや。 ツレ一セイ「嬉しの今の御弔やな。 五障の雲の空晴れて。恵日の光くもりなき。 天上に到らんありがたさよ。 シテ「我はなほ浮みもやらぬ苦海の底に。 沈まば人をもともに沈めて。重き苦患を見せ申さん。 御経をも読誦し給ふべからず。

ツレ「浅ましやたまたまのがるゝ牛頭馬頭の。 責をばいかでなほも身の。妄執多き言の葉を。 我は聞かじと立ちのけば。 シテ「あら情なや御覧ぜよ。今降る雪も古の空。 おもひ掛けたる唐土の。ツレ「山陰の雪にあくがれしは。 シテ「子猷が興に乗ぜし舟。ツレ「〓橋{ハキョウ。 新字源:4544}の雪に駒とめしは。 シテ詞「・こけう{鄭綮:ていけい}といへる詩人とかや。ツレ「それは心ある古人ぞかし。 シテ「我はそれには引きかへて。胸をやく。 カケリ「。胸をやく。煙は空に富士の根の。 地「雪も思も積る根の。何なか/\に。 つれなき色を松ばの雪の。 消えなばきえなん惜しからぬ此身の。命や。 なほ執心はつきぬ世の。/\。因果の程もしら雪の。 。 つもると見えしは罪障の山と現れごく縄しゆがうや。べうどうの衆生となつて。 紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢつけられて。 苦を三瀬河の。波風もあら寒や。 シテ「古の妄執も。地「古の妄執も。

思ひ出でたりあの松原の。寒風は頻に吹き落ち。 シテ「笠もたまらぬ身の代衣。地「かきくれふるや。 シテ「白雪の袖をはらひ。地「行くも。 行かれず。シテ「帰るさも。地「涙にくれ果てゝ。 中有にさまよふ身なるとも。 妙なる仏果の縁にひかれて。〓{新字源:2391。

たう}利都卒の天上に生れ生るゝ妹背の中の。罪業は雪と消え。 胸の蓮も開くる花の。 台に到るありがたさよと。いふかときけば明方の。 磯うつ浪や松風の。 磯うつ波や松風の声にまぎれて失せにけり 旅僧 猟師の霊 猟師の妻 猟師の千代童

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我いまだ陸奥外の浜を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち外の浜一見と志して候。 またよきついでにて候ふ程に。 立山禅定申さばやと存じ候。急ぎ候ふ程に。 これは息山に着きて候。心静かに一見せばやと思ひ候。 さても我此立山に来て見れば。 まのあたりなる地獄の有様。 見ても恐れぬ人の心は。鬼神よりなほ恐ろしや。

山路に分つちまたの数。多くは悪趣の険路ぞと。 涙もさらにとゞめ得ぬ。 慙愧の心時過ぎて山下にこそは下りけれ/\。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧に申すべき事の候。ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「陸奥へ御下り候はゞ言伝申し候ふべし。 外の浜にては猟師にて候ふ者の。 去年の秋身まかりて候。 其妻や子の宿を御尋ね候ひて。

それに候ふ簑笠手向けてくれよと仰せ候へ。 ワキ「これは思もよらぬ事を承り候ふものかな。 届け申すべき事はやすきほどの御事にて候さりながら。 上の空に申してはやはか御承引候ふべき。 。 シテ「実に確かなるしるしなくてはかひああるまじ。や。思ひ出でたり有りし世の。 今はの時まで此尉が。 木曽の麻衣の袖を解きて。地「これをしるしにと。 涙を添へて旅衣。/\。立ち別れ行く其跡は。 雲や煙の立山の。 木の芽も萌ゆる遥々と客僧は奥へ下れば。亡者は泣く/\見送り。 て行く方知らずなりにけり行く方知らずなりにけり。中入間「。 。 ツレ「実にやもとよりも定なき世の習ぞと。思ひながらも夢の世の。 あだに契りし恩愛の。別の後の忘れ形見。 それさへ深き悲しびの。母が思を如何にせん。 ワキ詞「いかに此屋の内へ案内申し候はん。 ツレ「誰にて渡り候ふぞ。

ワキ「これは諸国一見の僧にて候ふが。 立山禅定申し候ふ所に。其様すさまじき老人の有りしが。 陸奥へ下らば言伝すべし。 外の浜にては猟師にて候ふ者の。去年の秋身罷りて候。 其妻子の宿を尋ねて。 それに候ふ簑笠手けてくれよと仰せ候ふ程に。 上の空に。 申してはやはか御承引候ふべきと申して候へば。 其解き召されたる麻衣の袖を解きて賜はりて候ふ程に。 これまで持ちて参りて候。 若し思し召し合はする事の候ふか。ツレ「これは夢かやあさましや。 四手の田長のなき人の。上聞きあへぬ涙かな。 。 詞「さりながら余りに心もとなき御事なれば。いざや形見を簑代衣。 まどほに織れる藤袴。ワキ「頃も久しき形見ながら。 ツレ「今取りいだし。ワキ「よく見れば。 地歌「疑も。夏立つ今日の薄衣。/\。 一重なれども合はすれば。 袖ありけるぞあらなつかしの形見や。

やがて其まゝ弔の。御法を重ね数々の。 中に亡者の望むなる。簑笠をこそ手向けけれ/\。 ワキ「南無幽霊出離生死頓証菩提。 後シテ一声「陸奥の。外の浜なる。呼子鳥。 鳴くなる声は。うとふやすかた。 一見卒塔婆永離三悪道。此文の如くば。 たとひ拝し申したりとも。永く三悪道をば遁るべし。 如何にいはんや此身の為。 造立供養に預からんをや。たとひ紅蓮大紅蓮なりとも。 名号智火には消えぬべし。 焦熱大焦熱なりとも。法水には勝たじ。 さりながら此身は重き罪科の。心はいつかやすかたの。 鳥獣を殺しゝ。 地下歌「衆罪如霜露恵日の日に照らし給へ御僧侶。 地上歌「所は陸奥の。/\。 奥に海ある松原の下枝に交じる汐芦の。 末引きしをる浦里の籬が島の苫屋形。 囲ふとすれどまばらにて。 月のためには外の浜心ありける。住居かなこゝろありける住居かな。

ツレ「あれはとも言はゞ形や消えなんと。 親子手に手を取り組みて。 泣くばかりなる有様かな。 シテ「あはれや実にいにしへは。さしも契りし妻や子も。 今はうとふの音に泣きて。 やすかたの鳥の安からずや。何しに殺しけん。 我が子のいとほしき如くにこそ。鳥獣も思ふらめと。 千代童が髪をかき撫でて。 あらなつかしやと言はんとすれば。地歌「横障の。 雲の隔か悲しやな。/\。今まで見えし姫小松の。 はかなや何処に。木隠笠ぞ津の国の。 和田の笠松や箕面の瀧津波も我が袖に。 立。 つや卒塔婆のそとは誰簑笠ぞ隔なりけるや。松島や。 小島の苫屋内ゆかし我は外の浜千鳥。 音に立てゝ泣くより外の事ぞなき。 地クリ「往時渺茫としてすべて夢に似たり。 旧遊零落して半。泉に帰す。 シテサシ「とても渡世をいとなまば。

士農工商の家にも生れず。 地「又は琴碁書画をたしなむ身ともならず。 シテ「たゞ明けても暮れても殺生をいとなみ。 地「遅々たる春の日も所作足らねば時を失ひ。 秋の夜長し夜長けれども。漁火白うして眠る事なし。 シテ「九夏の天も。暑を忘れ。 地「玄冬の朝も寒からず。 クセ「鹿を逐ふ猟師は。 山を見ずといふ事あり。身の苦しさも悲しさも。 忘れ草の追鳥高縄をさし引く汐の。 末の松山風荒れて。袖に波こす沖の石。 または干潟とて。海ごしなりし里までも。 千賀の塩竃身を焦がす。 報をも忘れける事業をなしゝ悔しさを。そも/\善知鳥。 やすかたのとり%\に。品かはりたる殺生の。 シテ「中に無慙やな此鳥の。 地「愚かなるかな筑波嶺の。 木々の梢にも羽を敷き波の浮巣をもかけよかし。平砂に子を生みて落雁の。 はかなや親は隠すと。

すれどうとふと呼ばれて。 子はやすかたと答へけりさてぞ取られやすかた。シテ「うとふ。カケリ「。 地「親は空にて血の涙を。/\。 降らせば濡れじと菅簑や。笠を傾けこゝかしこの。 便を求めて隠笠。隠簑にもあらざれば。 なほ降りかゝる。血の涙に。 目も紅に染み渡るは。紅葉の橋の。鵲か。 地「娑婆にては。 善知鳥やすかたと見えしも。/\。冥途にしては。 怪鳥となり罪人を追つ立て鉄の。嘴を鳴らし。 羽をたゝき銅の爪を。磨ぎ立てゝは。 眼を。 つかんで肉を叫ばんとすれども猛火の煙にむせんで声を。 あげ得ぬは鴛鴦を殺しし科やらん。遁げんとすれば。 立ち得ぬは。羽抜鳥の報か。 シテ「うとふは却つて鷹となり。地「我は雉とぞなりたりける。 遁れがた野の狩場の吹雪に。空も恐ろし。 地を走る。犬鷹に責められて。 あら心うとふやすかた。やすき隙なき身の苦を。

助けてたべや。御僧助けてたべや。

御僧といふかと思へば失せにけり 旅僧(又男ニテモ) 漁翁 阿漕の霊

ワキ次第「心尽の秋風に。/\。木の間の。 月ぞ少なき。 詞「是は九州日向の国の者にて候。 我いまだ伊勢太神宮に参らず候ふ程に。唯今思ひ立ちて候。 道行「日に向ふ。国の浦舟漕ぎ出でて。/\。 八重の汐路をはる%\と。分けこし波の淡路潟。 通ふ千鳥の声聞きて。 旅の寝覚を須磨の浦。関の戸ともに明け暮れて。 阿漕が浦に着きにけり。/\。詞「急ぎ候ふ程に。 。 これははや伊勢の国安濃の郡とやらん申し候。暫く人を相待ち。 処の名所をも尋ねばやと思ひ候。 シテ一セイ「波ならで。乾す隙もなき海士衣。 身の秋いつと。限らまし。

サシ「夫れ世をわたる習。我一人に限らなねども。 せめては職を営む田夫ともならず。 かくあさましき殺生の家に生れ。 明暮物の命を殺す事の悲しさよ。 詞「つたなかりける殺生かなとは思へども。浮世の業にて候ふ程に。 今日も又釣に出でて候。 ワキ詞「いかにこれなる尉殿に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「伊勢の国にとりても。 此浦をば如何なる所と申し候ふぞ。 シテ「さん候此処をば阿漕が浦と申し候。 ワキ「さては承り及びたる阿漕が浦にて候ひけるぞや。 古き歌に。伊勢の海阿漕が浦に引く網も。 詞「度重なれば現れにけり。

かやうによまれし浦なるぞや。あら面白や候。 シテ詞「あらやさしの旅人や。 処の和歌なればなどかは知らで候ふべき。 かの六帖の歌に。逢ふことも阿漕が浦に引く網も。 詞「度重なれば現れやせん。 かやうによまれし蜑人なれば。 さも心なき伊勢をの海士の。見る目も軽き身なればとて。 賎しみ給ひ候ふなよ。 ワキ「実にや名所旧跡に。馴れて年経ば心なき。 シテ「海士の焼く藻の夕煙。 ワキ「身を焼くべきにはあらねども。シテ「住めば処による波の。 ワキ「音もかはるか。シテ「聞き給へ。 地歌「物の名も。処によりてかはりけり。/\。 難波の芦の浦風も。 こゝには伊勢の浜荻の音をかへて聞き給へ。藻塩焼く。 煙も今は絶えにけり。月見んとての。 海士のしわざにと。ゆるされ申す海士衣。 敷島により来く人並に如何で漏るべき。 。

ワキ詞「此浦を阿漕が浦と申す謂御物語り候へ。 シテ詞「総じて此浦を阿漕が浦と申すは。伊勢太神宮御降臨より以来。 御膳調進の網を引く処なり。 されば神の御誓によるにや。 海辺のうろくづこの処に多く集まるによつて。浮世を渡るあたりの蜑人。 此処にすなどりを望むといへども。 神前の恐あるにより。 堅くいましめてこれを許さぬ処に。阿漕といふ蜑人。 業に望む心の悲しさは。夜々忍びて網を引く。 しばしは人も知らざりしに。 度重なれば現れて。阿漕を縛め処をもかへず。 此浦の沖に沈めけり。 さなきだに伊勢をの海士の罪ふかき。身を苦の海の面。 重ねておもき罪科を。受くるや冥土の道までも。 地「娑婆にての名にしおふ。 今も阿漕が恨めしや。呵責の責も隙なくて。 苦も度かさなる罪弔はせ給へや。 クセ「恥かしや古を。語るお余り実に。 阿漕が浮名もらす身の。なき世がたりのいろ/\に。

錦木の数積り。千束の契忍ぶ身の。 阿漕がたとへ浮名立つ。憲清と聞えし其歌人の。 忍妻阿漕々々といひけんも。責一人に。 度重なるぞ恋しき。 ロンギ地「不思議やさては幽霊の。 幻ながら現れて。執心の浦波の。 あはれなりける値遇かな。シテ「一樹の宿をも。 他生の縁と聞くものを。御身も前の世の。 値遇をすこし松蔭に。うらぶれ給へ墨衣。 地「日も夕暮の塩煙。 立ち添ふ方や漁火の。シテ「影もほのかに見え初めて。 地「海辺も晴るゝ村霧に。シテ「すはや手繰の。 地「網の綱。繰り返し/\浮きぬ沈むと見しよりも。俄にはやて吹き。 海面暗くかき暮れて。 敷波も立ち添ひ漁の燈消え失せて。 こはそも如何にと叫ぶ声の波に聞えしばかりにて跡はかもなく。 失せにけりあとはかもなく失せにけり。中入間「。 ワキ歌待謡「いざ弔はん数々の。/\。

法の中にも一乗の。妙なる花のひもときて。 苔の衣の玉ならば。終に光は。 暗からじ終に光は暗からじ。 後シテ出端「海士刈る。 藻に住む虫のわれからと。音をこそ泣かめ。世をば恨みじ。 今宵は少し波あれて。 御膳の贄の網はまだ引かれぬよなう。 詞「よき隙なりと夕月なれば。宵よりやがて入汐の。 道をかへ人目を。忍び/\に引く網の。沖にも。 磯にも船は見えず。唯我のみぞあごの海。 阿漕が塩木こりもせで。 地「なほ執心の網置かん。イロエ「。シテ「伊勢の海。 清き渚のたまたまも。地「弔ふこそたより法の声。 シテ「耳には聞けども。なほ心には。 地「唯罪をのみ持網の。波ははへつて。 猛火となるぞや。あら熱や。堪へがたや。 丑三つ過ぐる夜の夢。/\。 見よや因果のめぐり来る。火車に業つむ数苦しめて。目の前の。 地獄も誠なり実に。恐ろしのけしきや。

地「思ふも恨めし古の。 地「思ふも恨めし古の。娑婆の名を得し。阿漕が此浦に。 なほ執心の。 心引く網の手馴れしうろくづ今はかへつて。悪魚毒蛇となつて。 紅蓮大紅蓮の氷に身をいため。骨を砕けば。

叫ぶ息は。焦熱大焦熱。焔けぶり。 雲霧。立居に隙もなき。冥土の責も。 度かさなる阿漕が浦の。罪科を。 助け給へや旅人よ。助け給へや旅人とて。 また波に入りにけりまた波の底へ入りにけり 佐々木三郎盛綱 従者 漁夫の母 漁夫の霊。

ワキ、ワキツレ二人、次第「春の湊の行末や/\藤戸の。 渡なるらん。 ワキ詞「是は佐々木の三郎盛綱にて候。 さても今度藤戸の先陣を仕りし御恩賞に。児島を賜はつて候。 今日は日もよく候ふほどに。唯今入部仕り候。 道行三人「秋津洲の。波静かなる島廻/\。 。 松吹く風も長閑にて、実に春めける朝ぼらけ。船も道ある浦づたひ。 藤戸に早く着きにけり/\。ワキ詞「如何に誰かある。 ワキツレ「御前に候。

ワキ「皆々訴訟あらんずる者は罷り出でよと申し候へ。 ワキツレ「畏つて候。如何に皆々たしかに聞き候へ。 この浦の御主佐々木殿の御入部にてあるぞ。 。 何事も訴訟あらん者は罷り出でて申し候へ。 シテ一セイ「老の波。越えて藤戸の明暮に。 昔の春の。帰れかし。 ワキ「不思議やなこれなる女の。 訴訟ありげに某を見てさめざめと泣くは何事にてあるぞ。 シテ「海士の刈る藻に住む虫の我からと。

音をこそ泣かめ世をば実に。何か恨みんもとよりも。 因果の廻る小車の。やたけの人の罪科は。 皆報ぞといひながら。 我が子ながらも余り実に。科も例も波の底に。 沈め給ひし御情なさ。申すにつけて便なけれども。 御前に参りて候ふなり。 ワキ詞「何と我子波に沈めし恨とは更に心得ず。 シテ「さてなう我が子を波に沈め給ひしことは候。 ワキ「あゝ音高し何と/\。 シテ「なう猶も人は知らじとなう。 中々にその有様を現して。跡をも弔ひ又は世に。 生き残りたる母が身をも。訪ひ慰めてたび給はゞ。 少しは恨も晴るべきに。 地下歌「いつまでとてかしのぶ山。忍ぶかひなき世の人の。 。 あつかひ草も茂きものを何と隠し給ふらん。上歌「住み果てぬ。 此世は仮の宿なるを。/\。親子とて何やらん。 幻に生れ来て。別るれば悲の。 思は世々を引く。絆となつて苦の。

海に沈め給ひ。 しをせめては弔はせ給へや跡弔はせ給へや。 ワキ詞「言語道断。 かゝる不便なる事こそ候はね。今は何をか包むべき。 其時の有様語つて聞かせ候ふべし。 近う寄つて聞き候へ。 語 さても去年三月二十五日の夜に入りて。浦の男を一人近づけ。 此海を馬にて渡すべき処やあると尋ねしに。 彼の者申すやう。さん候河瀬の様なる所の候。 月頭には東にあり。 月の末には西にあると申す。即ち八幡大菩薩の御告と思ひ。 家の子若党にも深く隠し。 彼の者と唯二人夜に紛れ忍び出で。 此海の浅みを見置きて帰りしが。盛綱心に思ふやう。 いやいや下郎は筋なき者にて。 又もや人に語らんと思ひ。不便には存じしかども。 取つて引き寄せ二刀さし。 其まゝ海に沈めて帰りしが。 さては汝が子にてありけるよな。よし/\何事も前世の事と思ひ。

今は恨を晴れ候ヘ。 シテ「さてなう我が子を沈め給ひし。 在所は取り分き何処の程にて候ふぞ。 ワキ「あれに見えたる浮洲の岩の。少し此方の水の深みに。 死骸を深く隠しゝなり。シテ「さては人の申しゝも。 少しも違はざりけり。 あの辺ぞとゆふ波の。ワキ「夜の事にて有りし程に。 人は知らじと思ひしに。 シテ「やがて隠はなき跡を。ワキ「深く隠すと思へども。 シテ「好事門を出でず。地「悪事千里を行けども。 子をば忘れぬ親なるに。失はれ参らせし。 子はそも何の報ぞ。 クセ「実にや人の親の。 心は闇にあらねど。 も子を思ふ道に迷ふとは今こそ思ひ知られたれ。もとよりも定なき。 世の理はまのあたり。老少。不定の境なれば。 若きを先立てゝ。つれなく残る老鶴の。 眠の中なれや。夢とぞ思ふ親と子の。 二十余の年並かりそめに立ち離れしをも。

待ち遠に思ひしに。 又いつの世に逢ふべき。シテ「世に住めば。 憂き節繁き河竹の地「杖柱とも頼みつる。 海士の此世を去りぬれば。 今は何にか命の露を懸けてまし。 ありがひも有らばこそとてもの憂き身なるものを。 亡き子と同じ道になして給ばせ給へと。人目も知らず臥し転び。 我が子返させ給へやと。 現なき有様を見るこそあはれなりけれ。 ワキ詞「あら不便や候。 今は恨みてもかひなき事にてあるぞ。彼の者の跡をも弔ひ。 又妻子をも世に立てうずるにてあるぞ。 まづ我が屋に帰り候へ。いかに誰かある。 余りに彼の者不便に候ふ程に。さま%\の弔をなし。 また今の母をも世に立てうずるにてあるぞ。 そのよし申し付け候ヘ。中入狂言シカ%\ワキ、ワキツレ二人、歌「さま%\に。 弔ふ法の声立てて。/\。波に浮寝のよるとなく。

昼とも分かぬ弔の。般若の船の。おのづから。 其纜をとく法の。心を静め声を上げ。 ワキ「一切有情。殺害三界不堕悪趣。 後シテ、サシ一声「憂しや思ひ出でじ。 忘れんと思ふ心こそ。忘れぬよりは思なれ。 さるにても身はあだ波の定なくとも。 科によるべの水にこそ。濁る心の罪あらば。 重き罪科も有るべきに。よしなかりける。 海路のしるべ。思へば三途の。瀬踏なり。 ワキ「不思議やな早明方の水上より。 怪したる人の見えたるは。 彼の亡者もや見ゆらんと。奇異の思をなしければ。 シテ詞「御弔は有難けれども。恨は尽きぬ妄執を。 申さん為に来りたり。 ワキ「何と恨をゆふ月の。その夜に帰る浦波の。 シテ詞「藤戸の渡教へよとの。仰もおもき岩波の。 河瀬のやうなる浅みの通を。 ワキ「教へしまゝに渡りしかば。 シテ「弓矢の御名を揚ぐるのみか。ワキ「昔より今に至るまで。

馬に海を渡す事。シテ「稀代の例なればとて。 ワキ「此島を御恩に賜はる程の。 シテ「御よろこびも我故なれば。 ワキ「いかなる恩をも。シテ「給ぶべきに。地「思の外に一命を。 召されし事は馬にて。海を渡すよりも。 これぞ稀代の例なる。 さるにても忘れがたや。あれなる。 浮洲の岩の上に我を連れて行く水の。氷の如くなる刃を抜いて。 胸のあたりを刺し通し。 刺し通さるれば肝魂も、消え/\と。なる所を。 其まま海に押し入れられて。

千尋の底に沈みしに。シテ「をりふし引く汐に。 地「をりふし引く汐に。 引かれて行く波の浮きぬ沈みぬ埋木の岩の。はざまに。 流れかゝつて。藤戸の水底の。悪竜の。 水神となつて恨を為さんと思ひしに。思はざるに。 御弔の。御法の御船に法を得て。 即ち弘誓の。船に浮べば。水馴棹。 さし引きて行く程に。 生死の海を渡りて願のまゝに。やす/\と。彼の岸に。いたり/\て。 彼の岸にいたり/\て。 成仏得脱の身となりぬ成仏の。身とぞなりにける 亡者(前〓里人) 酒売

。 ワキ詞「これは津の国阿部野のあたりに住居する者にて候。 われ此阿部野の市に出でて酒を売り候ふ所に。 いづくとも知らず若き男の数多来り酒を飲み。

帰るさには酒宴をなして帰り候。 何とやらん不審に候ふ間。今日も来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと存じ候。 シテ(四人)次第「もとの秋をも松虫の。/\。

音にもや友をしのぶらん。 シテサシ「秋の風更けゆくまゝに長月の。有明寒き朝風に。 四人「袖ふれつゞく市人の。 伴なひ出づる道のべの。草葉の露も深緑。 立ちつれ行くやいろ/\の。簔代衣日も出て。 阿部の市路に出づるなり。 下歌「遠里ながら程近きこや住の江の裏伝。上歌「汐風も。 吹くや岸野の秋の草。/\。 松も響きて沖つ浪。聞えて声々友さそふ。 此市人の数々に。我も行き人も行く。 阿部野の原は面白や。/\。 。 ワキ「伝へ聞く白楽天が酒功賛を作りし琴詩酒の友。今も知られて市館に。 樽をすゑ盃を並べて。 寄り来る人を待ち居たり。詞「いかに人々酒めされ候へ。 シテ「我が宿は菊売る市にあらねども。 詞「四方の門べに人さわぐと。 よみしも古人の心なるべし。いかに人々面々に。 〓酒を酌みてもてなし給へ。

ワキ「又彼の人の来れるぞや。詞「けふはいつより酒を湛へ。 遊楽遊舞の和歌を詠じ。人の心を慰め給へ。 早くな帰り給ひそとよ。 シテ「何我を早くな帰りそよと。ワキ「なか/\の事暮過ぐるとも。月をも見捨て給ふなよ。 シテ「仰までもなし何とてか。 この酒友をば見捨つべき。古き詠にも花のもとに。 ワキ「帰らん事を忘るゝは。 シテ「美景に因ると作りたり。シテワキ二人「樽の前に醉を勧めては。 これ春の風とも云へり。地「今は秋の風。 暖め酒の身を知れば。 薬と菊の花のもとに。帰らん事を忘れいざや御酒を愛せん。 たとひ暮るゝとも。/\。 夜遊の友に馴衣の。袂に受けたる月影の。 移ろふ花の顔ばせの。 盃に向へば色も猶まさりぐさ。千年の秋をも限らじや。 松虫の音も盡きじ。いつまで草のいつまでも。 変らぬ友こそは買ひ得たる市の宝なれ/\。 ワキ詞「いかに申し候。唯今の詞の末に。

松虫の音に友を偲ぶと承り候ふは。 いかなる謂れにて候ふぞ。 シテ「さん候それに付いて物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。 ワキ「さらば御物語り候へ。 シテ語「昔此阿部野の松原を。 ある人二人連れて通りしに。 をりふし松虫の声おもしろく聞えしかば。一人の友人。 彼の虫の音を慕へ行きしに。今一人の友人。 やゝ久しく待てども帰らざりし程に。 心もとなく思ひ尋ね行き見れば。 かのもの草露に臥して空しくなる。死なば一所とこそ思ひしに。 。 こはそも何といひたる事ぞとて、泣き悲めどかひぞなき。地「其まゝ。 土中に埋木の人知れぬとこそ思ひしに。 朽ちもせで松虫の。 音に友をしのぶ名の世にもれけるぞ悲しき。上歌「今も其。 友をしのびて松虫の。/\。音に誘はれて市人の。 身を変へてなき跡の。亡霊こゝに来りたり。 恥かしやこれまでなり。

立ちすがりたる市人の。 人影に隠れて阿部野のかたに帰りけり/\。 ロンギ地「不思議やさては此世にも。 亡き影すこし残しつゝ。此ほどの友人の。 名残を暫しとめ給へ。シテ「をりふし秋の暮。 松虫も鳴くものを。我をや待つ声ならん。 地「そも心なき虫の音の。 われを待つ声ぞとは。真しかならぬ詞かな。シテ「虫の音も。 /\。 しのぶ友をば待てばこそ言の葉にもかゝらるめ。地「われかと行きて。 いざ弔は。 んと思しめすか人々ありがたや是ぞ真の友を。しのぶぞよ松虫の音に。 伴ひて帰りけり虫の音につれて帰りける。 中入ワキ上歌待謡「松風寒き此原の。/\。 草の仮寝のとことはに御法をなして夜もすがら。 彼の跡とふぞありがたき/\。 後シテサシ一声「あらありがたの御弔やな。

秋霜にかるゝ虫の音聞けば。 閻浮の秋に帰る心。猶郊原に朽ち残る。 魂霊これまで来りたり。嬉しく弔ひ給ふものかな。 ワキ「はや夕陰も深緑。草の花色露深き。 其方を見れば人影の。 幽に見ゆるはありつる人か。シテ詞「なか/\なれやもとよりの。昔の友を猶しのぶ。 虫の音ともに現れて。手向を受くる草衣の。 ワキ「浦は難波の里も近き。シテ「阿部の市人馴れ/\て。ワキ「とぶらふ人も。 シテ「訪はるゝわれも。ワキ「いにしへ今こそ。 シテ「変れども。上歌地「古里に。住みしは同じ難波人。 住みしは同じ難波人。 芦火焼く屋も市屋形も。 変わらぬ契をしのぶぐさの忘れえぬ友ぞかしあら。なつかしの心や。 クリ「忘れて年を経しものを。 また古に帰るなみの。 難波のことのよしあしもけに隔なき友とかや。 シテ「あしたに落花を踏んで相伴うつて出づ。地「夕べには。

飛鳥に従つて一時に帰る。 シテ「然らば花鳥遊楽の瓊莚。地「風月の友に誘はれて。 春の山べや秋の野の草葉にすだく虫までも。 聞けば心の。友ならずや。 クセ「一樹の蔭の宿も他生の緑を聞くものを。 一河の流汲みて知るその心浅からめや。 奥山の深谷のしたの菊の水。汲めども。 汲めどもよも盡きじ。 流水の盃は手先づ遮れる心なり。 されば廬山の古虎渓を去らぬ室の戸の。その戒をやぶりしも。 志を浅からぬ。 思の露の玉水のけいせきを出でし道とかや。シテ「それは賢きいにしへの。 地「世もたけ心さえて。 道ある友人のかずかず。 積善の余慶家々に普く広き道とかや。 今は濁世の人間ことに拙なきわれらにて。心もうつろふや菊をたゝへ竹葉の。 。 世は皆醉へりさらばわれひとり醒めもせで。萬木みな紅葉せり。唯松虫の独音に。 友を待ち詠をなして。

舞ひかなで遊ばん。シテ「盃の。雪を廻らす花のそで。 〓鐘早舞ワキ「おもしろや。千草にすだく。 虫の音の。地「機織るおとの。 シテ「きりはたりちやう。地「きりはたりちやう。 つゞり刺せてふ蛬蜩。いろ/\の色音のなかに。わきて我がしのぶ松虫の声。

りんりん/\/\として。夜の声冥々たり。 すはや難波の鐘の明方の。 あさまにもなりぬべしさらばよ友人なごりの袖を。 招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。 草茫茫たるあしたの原に。/\。 虫の音ばかりや。残るらん虫の音ばかりや残るらん 旅僧 従僧 男の霊 女の霊

ワキ、ワキツレ二人次第「実にや聞きても忍山。/\。 其通路を尋ねん。 ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我いまだ東国を見ず候ふ程に。 。 此度思ひ立ち陸奥の果までも修行せばやと思ひ候。道行三人「何処にも。 こゝろとめじと行く雲の/\。 旗手も見えて夕暮の空もかさなる旅衣。おくはそなたか陸奥の。 けふの里にも着きにけり/\。 シテツレ二人次第「けふの細布をり/\の。

けふの細布をり/\の錦木や。名立なるらん。 シテサシ「陸奥のしのぶもじずり誰ゆゑに。 みだれそめにし我からと。 シテツレ二人「藻に住む虫の音に泣きて。壁生草のいつかさて。 思を乾さん衣手の。森の下露起きもせず。 寐。 もせで夜半を明かしては春のながめも如何ならん。あさましや。 そも幾程の身にしあれば。なほ待つ事の有り顔にて。 思。

はぬ人を思ひ寐の夢か現か寐てか覚めてか。是や恋慕のならひなる。下歌「徒らに。 過ぐる心は多けれど。身になす事は涙川。 流れて早き。 月日かな流れて早き月日かな。上歌「実にや流れては。 妹背の中の川と聞く。/\。吉野の山は何処ぞや。 ここは又。 心の奥か陸奥のけふの都の名にしおふ。細布の色こそ変れ錦木の。 千度百夜いたづらに。悔しき頼なりけるぞ。 悔しき頼なりけり。 ワキ詞「不思議やなこれなる市人と見れば。 夫婦と思しくて。女性の持ち給ひたるは。 鳥の羽にて織りたる布と見えたり。 又男。 の持ちたるは美しく色どり飾りたる木なり。何れも/\不思議なる売物かな。 これは何と申したる物にて候ふぞ。 ツレ「これは細布とて機ばり狭き布なり。 シテ「これは錦木とて色どり飾れる木なり。 いづれも当所の名物なり。これ/\召され候へ。

ワキ「実に/\錦木細布の事は承り及びたる名物なり。 さて何故の名物にて候ふやらん。ツレ「うたての仰候ふや。 名におふ錦木細布の。 其かひもなくよそまでは。聞きも及ばせ給はぬよなう。 シテ詞「いや/\それも御理。 其道々に縁なき事をば。何とてしろしめさるべき。 シテツレ二人「見奉れば世を捨人の。恋慕の道に染む。 この錦木の細布の。 しろしめさぬは理なり。ワキ「あら面白の返答やな。さて/\錦木細布とは。 恋路によりたる謂よなう。シテ詞「なか/\の事三年まで。 立て置く数の錦木を。 日毎に立てゝ千束ともよみ。ツレ「又細布は機ばりせばくて。 さながら身をも隠さねば。 胸合ひがたき恋ともよみて。シテ「恨にも寄せ。 ツレ「名をも立てゝ。シテ「逢はぬを種と。 ツレ「よむ歌の。地歌「錦木は。 立てながらこそ朽ちにけり。/\。けふの細布。 胸合はじとやとさしもよみし細布の。

機ばりもなき身にして。歌物語恥かしや。 実にや名のみは岩代の。 松の言の葉取り置き夕日の影も錦木の。宿にいざや帰らん/\。 ワキ詞「猶々錦木細布の謂御物語候へ。 シテ「昔より此処の習にて。 男女の媒には此錦木を作り。 女の家の門に立つるしるしの木なれば。 美しく色どり飾りて之を錦木と云ふ。 さる程に逢ふべき男の錦木をば取り入れ。 逢ふまじきをば取り入れねば。 或は百夜三年までも立てしによつて千束ともよめり。 又此山陰に錦塚とて候。 これこそ三年まで錦木立てたりし人の古墳なれば。 取り置く錦木の数ともに塚に築きこめて。是を錦塚と申し候。 ワキ「さらば其錦塚を見て。 故郷の物語にし候ふべし。教へて賜はり候へ。 シテ「あういで/\さらば教へ申さん。 ツレ「此方へ入らせ給へとて。 二人「夫婦の者は先に立ち。彼の旅人を伴ひつゝ。

地「けふの細道分け暮らして錦塚は何処ぞ。彼の岡に。 草刈る男心して。人の通路明らかに。 教へよや道芝の。 露をば誰に問はまし真如の玉は何処ぞや。求めたくぞ覚ゆる。 シテ「秋寒げなる夕まぐれ。 地「嵐木枯村時雨。露分けかねて足引の。 山の常陰も物さび松桂に鳴く梟蘭菊の花に隠るなる。 狐住むなる塚の草。 もみぢ葉染めて錦塚は。是ぞと言ひ捨てゝ。 塚の内にぞ入りにける。夫婦は塚に入りにけり。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「男鹿の角の束の間も。/\。 寝られんものか秋風の。 松の下臥夜もすがら。声仏事をやなしぬらん/\。 ツレ出端「いかに御僧。一樹一河の流を汲むも。 他生の縁ぞと聞くものを。 ましてや値遇のあればこそ。かく宿する草の枕の。 夢ばし覚まし給ふなよ。 あら貴の御法やな。後シテ「あら有難の御弔やな。 二世とかねたる契だにも。

さしも三年の日数つもる。此錦木の逢ひ難き。 法の値遇の有難さよ。いで/\姿を見え申さん。 今こそは。色に出でなん錦木の。 地「三年は過ぎぬいにしへの。シテ「夢又夢に。 今宵三年の値遇に。今ぞ帰るなれと。 地「尾花が本の思草の。蔭より見えたる塚の幻に。 現れ出づるを御覧ぜよ。 シテ「いふならく。奈落の底に。入りぬれば。 刹利も首陀も。変らざりけりかはらざりけり。 あら恥かしや。 ワキ「不思議やなさも古塚と見えつるが。 内はかゞやく燈の。 影明らかなる人家の内に。機物を立て錦木を積みて。 昔をあらはす粧なり。これは夢かや現かや。 ツレ「かきくらす心の闇にまどひにき。 夢現とは世人定めよ。 シテ詞「実にや昔に業平も。世人定めよといひしものを。 夢現とは旅人こそ。よく/\知し召さるべけれ。 ワキ「よし夢なりとも現なりとも。

はやはや昔を現して。夜すがら我に見せ給へ。 シテ「いで/\。詞「昔を現さんと。 夕影草の月の夜に。ツレ「女は塚のうちに入りて。 秋の心も細布の。 機物を立てゝ機を織れば。シテ詞「夫は錦木を取り持ちて。 さしたる門をたゝけども。 ツレ「内より答ふる事もなく。ひそかに音する物とては。 シテ「機物の音。ツレ「秋の虫の音。 シテ「聞けば夜声も。ツレ「きり。シテ「はたり。 ツレ「ちやう。シテ「ちやう。 地歌「きりはたりちやう/\。きりはたりちやう/\。 機織松虫きり%\す。つゞりさせよと鳴く虫の。 衣の為かなわびそおのが住む野の。 千種の糸の。細布織りて取らせん。 地クリ「実にや陸奥のけふの郡の習とて。 処からなる事業の。世に類なき有様かな。 シテサシ「申しつるだにはゞかりなるに。 なほも昔を顕せとの。 地「御僧の仰に従ひて。織る細布や錦木の。

千度百夜を経るとても此執心はよも尽きじ。 シテ「然れども今逢ひ難き縁によりて。 地「妙なる一乗妙典の。功力を得んと懺悔の姿。 夢中になほも。現すなり。 クセ「夫は錦木を運べば女は内に細布の。 。 機織る虫の音に立てゝ問ふまでこそなけれども。互に内外のあるぞとは。 知られ知らるゝ中垣の。草の戸ざしは其まゝにて。 。夜はすでに明けければすご/\と立ち帰りぬ。さる程に。思の数も積り来て。 錦木は色朽ちてさながら苔に埋木の。 人知れぬ身ならばかくて思もとまるべきに。 錦木は朽つれども。 名は立ち添ひて逢ふ事は。涙も色に出でけるや。 恋の染木とも。此錦木をよみしなり。シテ「思ひきや。 榻のはしがきかきつめて。 地「百夜も同じ丸寐せんと。よみしだにあるものを。 せめては一年待つのみか。 二年あまり有り/\て早陸奥の今日までも。

年紅の錦木は。千度になれば徒らに。 我も門辺に立ち居り錦木と共に朽ちぬべき。 袖の涙のたまさかにも。などや見みえ給はぬぞ。 さていつか三年は満ちぬ。 あらつれなつれなや。 地「錦木は。シテ「千束になりぬ。 今こそは。地「人に知られぬ。閨の内見め。 シテ「うれしやな。今宵鸚鵡の盃の。 地「雪を廻らす。舞の袖かな/\。男舞「。シテ「舞をまひ。

地「舞をまひ。歌をうたふも妹背の媒。 立つるは錦木。シテ「織るは細布の。 地「とり。どりさま%\の夜遊の盃にうつりて有明の。影恥かしや/\。 あさまにやなりなん。覚めぬさきこそ夢人なるもの。 覚めなば錦木も細布も。夢も破れて。 松風颯々たる。 朝の原の野中の塚とぞなりにける 山伏 同行山伏 男の霊 女の霊

。ワキ次第「山又山の行く末や/\雲路のしるべなるならん。 ワキ詞「これは三熊野より出でたる客僧にて候。 我未だ松島平泉を見ず候ふ程に。 此春思ひ立ち松島平泉へと急ぎ候。道行三人「幾瀬渡りの野洲の川。/\。 かの七夕の契待つ。年に一夜はあだ夢の。

。 醒が井の宿を過ぎ、膽吹おろしの音にのみ。月の霞むや美濃尾張。老を知れとの。 心かな老を知れとの心かな。 ワキ詞「急ぎ候ふ間。 これは早上野の国佐野と申す所に着きて候。 此處にて宿を借らばやと存じ候。

シテ二人ツレ一声「法に依る。道ぞと作る船橋は。 後の世かくる。たのみかな。 シテサシ「往事渺茫として何事も。身残す夢の浮橋に。 。 二人「なほ数添へて船ぎほふ堀江の川の水際に。寄るべ定めぬあだ波の。 浮世に帰る六つの道。遁れかねたる。心かな。 。下歌「恋しきものを古の跡はる%\と思ひやる。上歌「前の世の。 報のまゝに生れ来て。/\。心にかけばとても身の。 生死の海を渡るべき。船橋を作らばや。 二河。 の流はありながら科は十の道多し誠の橋を渡さばや誠の橋を渡さばや。 シテ詞「いかに客僧。 橋の勧に入りて御とほり候へ。 ワキ詞「見申せば俗体の身として。橋興立の志。返す%\もやさしうこそ候へ。 シテ「これは仰とも覚えぬものかな。かならず出家にあらねばとて。 志のあるまじきにても候はず。 まづ勧に入りて御通り候へ。

ワキ「勧には参り候ふべし。 さて此橋はいつの御字より渡されたる橋にて候ふぞ。シテ「萬葉集の歌に。 東路の佐野の船橋取りはなしと。 よめる歌の心をば知し召し候はずや。 ツレ「いやさように申せば恥かしや。身の古も浅間山。 シテ詞「漕がれ沈みし此河の。 二人「さのみは申さじさなきだに。苦おほき三瀬川に。 浮ぶ便の船橋を。渡してたばせ給へとよ。 ワキ詞「げに/\親しさくればの物語。 さては〓りにし船橋の。主を助けん其ためか。 シテ詞「殊更これは山伏の。 橋をば渡し給ふべし。ワキ「そも山伏の身なればとて。 取り分け橋を渡すべきか。 シテ詞「さのみな争ひ給ひそよと。役の優婆塞葛城や。 祈りし久米路の橋は如何に。 ツレ「たとふべき身にあらねども。我も女の葛城の神。 。 シテ詞「一言葉にて止むまじや、唯幾度も岩橋の。ツレ「など御心にかけ給はぬ。 二人「さりながらよそにて聞くも葛城や。

夜造るなる岩橋ならば。 渡らん事もかたかるべし。地下歌「これは長き春の日の。 長閑けき船橋に。さして柱も入るまじや。 徒らに朽ち果てんを造りたまへ山伏。 上歌「處はおなじ名の。/\。佐野の渡の夕暮に。 袖打ち拂ひて御通あるかの篠懸の。 頃も春なり河風の。花吹き渡せ船橋の。 法に往来の道作り給へ山伏。 峯々廻り給ふとも。渡を通らでは。 いづくへ行かせ給ふべき。 ワキ詞「さて/\萬葉集の歌に。 東路の佐野の船橋取り放し。 又鳥は無しと二流によまれたるは。何と申したる謂にて候ふぞ。 シテ詞「さん候それについて物語の候。 語つて聞かせ申し候ふべし。 語「昔此所に住みける者。忍妻にあこがれ。 處は川を隔てたれば。 此船橋を道として夜な夜な通ひけるに。二親此事を深厭ひ。 橋の板を取り放す。

それをば夢にも知らずして。かけて頼みし橋の上より。 かつぱと落ちて空しくなる。 妄執と云ひ因果と云ひ其まゝ三途に沈みはてゝ。 紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢられて。 地「浮ぶ世もなき苦の。 海こそ有らめ川橋や磐石に押され苦を受くる。 クセ「さらば沈みも果てずして。 魂は身を責むる。心の鬼となりかはり。 なほ恋草の言茂く。 邪婬の思に焦がれ行く船橋も古き物語。 誠は身の上なり我が跡弔ひてたび給へ。シテ「夕日漸く傾きて。 地「霞の空もかきくらし。雲となり雨となる。 中有の道も近づくか。 橋と見えしも中絶えぬ。こゝは正しく東路の。 佐野の船橋とりはなし。鐘こそ響け夕暮の空も別に。 なりにけり空も別になりにけり。 中入間ワキ二人、ワキツレ歌待謡「ふりにし跡を改めて。/\。 三寶加持の行に五道の罪も消えぬべき。 法の力ぞ。有難き法の力ぞありがたき。

ツレ出端「いかに行者有難や。 徒らに三途に沈みし身なれども。法の力か船橋の。 浮ぶ身となる有難さよ。 後シテ「如何に行者我はなほし。此妄執の故により。 浮びかねたる橋柱の。重き苦患者を見せ申さん。 泣く涙。雨と降らなん渡り川。 水〓りなば帰り来るかに。 地「かへれやかれれあだ波の。シテ「柱を戴く磐石の苦患。 地「これこれ見給へ浅ましや。 シテ「見我身者発菩提の。功力を受けて謂ふならく。 奈落の底の。水屑となりしを。知我心者。 即身成仏。有難や。 ワキ「痛はしやいまだ邪婬の業深き。 其執心を振り捨てゝ。なほ/\音を懺悔し給へ。ツレ「何事も懺悔に罪の雲消えて。 真如の月も出でつべし。 シテ「五障の霞の晴れがたき。春の夜の一時。 胡蝶の夢の戯に。いで/\姿を見え申さん。 ツレ「よしや吉野の山ならねど。

これも妹背の中川の。シテ詞「橋のとだえの有りけるとは。 いさ白波の夜ごとに。 ツレ「通ひ馴れたる浮船の。シテ「共にこがるゝ思妻。 立廻「宵々に。通ひ馴れたる。船橋の。 さえ渡る夜の。月も半ばに更け静まりて。 地「人も子に臥し丑三つ寒き。 川風も厭はじ逢瀬の向の。岸に見えたる。人影はそれか。 心うれしや。頼もしや。 上歌「互にそれぞと見みえし中の。/\。 橋を隔てゝ立ち来る波の。より羽の橋か。鵲の。 行き合ひの間近くなり行くまゝに。放せる板間を。

踏みはづし。かつぱと落ちて沈みけり。 シテ「東路の。佐野の船橋。とりはなし。 親し。さくれば。妹に逢はぬかも。 キリシテ「執心の鬼となつて。地「執心の鬼となつて。 共に三途の川橋の。橋柱に立てられて。 悪龍の、気色に変り。 程なく生死娑婆の妄執。邪婬の悪鬼となつて。 我と身を責め苦患に沈むを行者の法味。 功力により真如法身の。 玉橋の真如法身の玉橋の浮。 める身とぞなりにける浮める身とぞなりにける 臣下 庭掃老人 女御 老人の幽霊

。 ワキ詞「これは筑前の国木の丸の皇居に仕へ奉る臣下にて候。 偖も此處に桂の池とて名池の候ふに。常は御遊の御座候。 〓に御庭掃の老人の候ふが。

女御の御姿を見参らせ。静心なき恋となりて候。 此事を聞し召しおよばれ。 恋には上下をわかぬ習なれば。不便に思し召さるゝ間。 かの池の邊の桂木の枝に鼓を掛け。

老人に撃たせられ。彼の鼓の声皇居に聞えば。 。 其時女御の御姿まみえ給はんとの御事にて候程に。 かの老人を召して申し聞かせばやと存じ候。いかに誰かある。狂言シカ%\「。 ワキ「いつもの御庭掃の老人に。 急いで参れと申し候へ。狂言シカ%\「。ワキ「いかに老人。 汝が恋のことを忝くも聞し召し及ばれ。 不便に思し召さるゝ間。 桂の池の桂木の枝にかけ置かれたる鼓を。 老人参りてうち候へ。彼の鼓こ声皇居に聞えば。 今一度。 女御の御姿をまみえさせ給はんとの御事なり。急ぎ参りて鼓を仕り候へ。 シテ「仰畏つて承り候。 さらば参りて鼓を仕り候ふべし。ワキ「こなたへ来り候へ。 此鼓の事にてあるぞ急いで仕り候へ。 シテ「実。 にや承り及びたる月宮の月の桂こそ、名にたてる桂木なれ。 これは正しき地辺の枝に。かゝる鼓の声いでば。 それこそ恋のつかねなれと。夕の鐘の声そへて。

又うち添ふる日並の数。 地次第「後の暮ぞとたのめおく。/\。時の鼓をうたうよ。 シテ一セイ「さなきだに。闇の夜鶴の老の身に。 地「思をそふる。はかなさよ。 シテ「時の移るもしら波の。地「鼓はなにとて。 ならざらん。 シテサシ「後の世の近くなるをばおどろかで。老にそへたる恋慕の秋。 地「露も涙もそほちつゝ。心からなる花の雫の。 草の袂に色そへて何をしのぶのみだれ恋。 シテ「忘れんと思ふ心こそ。 地「忘れぬよりは。思なれ。曲「然るに世の中は。 人間萬事塞翁が馬なれや。 ひまゆく日かずうつるなる。年去り時は来れども。 終にゆくべき道芝の。露の命の限をば。 誰に問はましあぢきなや。などさればこれ程に。 知らばさのみに迷ふらん。 シテ「驚けとてや東雲の。眠をさます時守の。 うつや鼓の数しげく。音にたゝば待つ人の。 面影もしやみけしの。綾の鼓とはしらずして。

老の衣手力添へて。うてども聞えぬは。 もしも老耳の故やらんと。きけども/\。 池の波窓の雨。 いづれもうつ音はすれども。音せぬ物は此鼓の。 怪しの太鼓や何とて。音は出でぬぞ。 ロンギ地「思やうちも忘るゝと。 綾の鼓の音も我も出でぬを人や待つらん。 シテ「出でもせぬ雨夜の月を待ちかぬる。 心の闇を晴すべき時の鼓もならばこそ。地「時の鼓のうつる日の。 昨日今日とは思へども。 シテ「頼めし人は夢にだに。地「見えぬ思に明暮の。 シテ「鼓もならず。地「人も見えず。こは何となる神も。 。 思ふ中をばさけぬとこそ聞きし物をなどされば。か程の縁なかるらんと。 身を恨み人を喞ち。かくては何のため。 いけらんものを池水に。 身を投げてうせにけりうき身を投げて失せにけり。 中入間ワキ詞「いかに申し上げ候。 かの老人鼓のならぬ事を恨み。

桂の池に身を投げ空しくなりて候。 かやうの者の執心も余りに恐ろしう候へば。そと御出あつて御覧ぜられ候へ。 ツレ「いかに人々聞くかさて。 あの波のうつ音か。鼓の声に似たるはいかに。 あらおもしろの鼓の声や。あらおもしろや。 ワキ「不思議やな女御の御姿。 さもうつゝなく見え給ふは。 いかなる事にてあるやらん。ツレ「現なきこそことわりなれ。 綾の鼓は鳴るものか。 鳴らぬをうてと云ひし事は。我がうつゝなき始なれと。 ワキ「夕波騒ぐ池の面。 ツレ「なほうちそふる。ワキ「声ありて。後シテ「池水の。 藻屑となりし老の波。 地「又立帰る執心の恨。シテ「恨とも嘆とも。いへばなか/\おろかなる。地「一念嗔恚邪婬の恨。 晴れまじや/\心の雲水の。 魔境の鬼と今ぞなる。 シテ「小山田の苗代水は絶えずとも。 心の池のいひははなさじとこそ思ひしに。などしもされば情なく。

ならぬ鼓の声たてよとは。心を盡し果てよとや。 心づくしの木の間の月の。 地「桂にかけたる綾の鼓。シテ「なるものか/\うちて見給へ。地「うてや打てやと責鼓。 よせ拍子とう/\うち給へ/\とて。 しもとをふり上げ責め奉れば。 鼓はならでかなしや悲しやと。叫びまします女御の御声。 あらさてこりやさてこりや。 地「冥途の刹鬼あおう羅刹。/\の。 呵責もかくやらんと。 身を責め骨を砕く呵責の責といふとも。 これにはまさらじ恐ろしやさてなにと。なるべき因果ぞや。 シテ「因果歴然はまのあたり。地「歴然は目のあたり。 知らたり白波の池の。 ほとりの桂木にかけし鼓の時もわかず。うち弱り心つきて。 池水に身を投げて。 波の藻屑と沈みし身の。程もなく死霊となつて。 女御に憑き祟つて。しもとも波も。 打ちたゝく池の氷のとう/\は。風わたり雨落ちて。

紅蓮大紅蓮となつて。 身の毛もよだつ波の上に。鯉魚が踊る悪蛇となつて。 まことに。

冥途の鬼といふともかくやと思ひしら浪の。あら恨めしや恨めしや。 あら恨めしや。恨めしの女御やとて。恋の淵にぞ。 入りにける 女御 山科荘司(後ニハ其幽霊) 官人 下人

。 ワキ詞「抑もこれは白河の院に仕へ奉る臣下なり。さても我が君菊を御寵愛あつて。 毎年数多の菊を植ゑ育てられ候。 又こゝに山科の荘司とて賎しき者の候。 いつも菊の下葉を取らせられ候ふ間。 申附けばやと存じ候。又承り候へば。 彼の者いかなるをりにか。 忝くも女御の御姿を拝み申し。 勿体なくも恋となりたる由承り候ふ間。彼の者を召出し尋ねばやと存じ候。 いかに誰かある。狂言「御前に候。 ワキ「山科の荘司に此方へ来れと申し候へ。 狂言「畏つて候。いかに山科の荘司の渡り候ふか。

シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。 狂言「急ぎ御参りあれとの御事にて候。シテ「畏つて候。 ワキ「いかに荘司。 何とて此間は御庭をば清めぬぞ。 シテ「さん候この程所労仕り候ひて。さて怠り申して候。 ワキ「尤もにて候。さて汝は恋をするといふは真か。 。 シテ「さやうの事をば何とて知し召されて候ふぞ。ワキ「いや/\はや色に出でてあるぞとよ。 さる間此事を忝くも女御聞し召し及ばれ。 急ぎ此荷を持ちて御庭を百度千度まはるならば。 其間に御姿を拝ませ給ふべきとの御事なり。

なんぼうありがたき御〓{新字源:7684。ジョウ}にてはなきか。 シテ「何と此事を聞し召し及ばれ。 其荷を持ちて御庭を百度千度まはれとかや。百度千度とは。 百度も千度も持ちて廻らば。 其間に御姿を拝まれさせ給ふべきと候ふや。 ワキ「げによく心得てあるぞ。 なんぼうあり難き御事にてはなきか。 シテ「さらば其荷を御見せ候へ。ワキ「此方へ来り候へ。 これこそ恋の重荷よ。 なんぼう美しき荷にてはなきか。シテ「げに/\美しき荷にて候。 たとひ適はぬ業なりとも。 仰ならばさこそあるべけれ。ましてやこれは賎しき業。 さのみは隔てじ名を聞くも。 地次第「重荷なりともあふまでの。/\。 恋の持夫にならうよ。 シテ「誰踏み初めて恋の路、地「巷に人の迷ふらん。 シテ「名も理や恋の重荷。地「げに持ちかぬるこの身かな。 シテサシ「それ及び難きは高き山。 思の深きはわたつ海の如し。

地「何れ以てたやすからんや。げに心さへかろき身の。 塵の浮世にながらへて。よしなく物を思ふかな。 ロンギ上「思やすこし慰むと。 露のかごとを夕顔の。黄昏時もはや過ぎぬ。 恋の重荷を持つやらん。シテ「おもくとも。 思は捨てじ唐国の。虎と思へば石にだに。 立つ矢の有るぞかし。いかにも軽く持たうよ。 地「持つや荷前の運ぶなる。 心ぞ君がためを知る。重くとも心添へてもてや/\下人。シテ「よしとても。/\。 此身は軽し徒らに。恋のやつこに成り果てゝ。 亡き世なりと憂からじ。 地「なき世になすもよしなやな。げには命ぞ唯頼め。 シテ「しめぢが腹立ちや。地「よしなき恋を菅筵。 伏して見れども。寝らればこそ。 苦しや独寝の、我が手枕の肩かへて。持てども。 持たれぬそも恋はなにの重荷ぞ。 シテ「哀てふ。言だになくは何をさて。恋の乱の。 束緒も絶え果てぬ。地「よしや恋ひ死なん。

報はゞそれぞ人心。 乱恋になして思ひ知らせ申さん。中入。 。 ワキ詞「何と荘司が空しくなりたると申すか。 言語道断近頃不便なる事にて候ふぞや。総じて恋と申す事は。 高き賎しき隔てぬ事にて候へどもさりながら。 彼の者の恋の心を止むとの御方便にて。 重荷を作つて上を綾羅錦繍を以て美しく包みて。 いかにも軽げに見せて持たせなば。 彼の者思はんには。 かほど軽げなる荷なれども。 恋のかなふまじき故に持たれぬぞと心得。 恋の心や止まるべきとの御事にて候ふ所に。賎しき者の悲しさは。 是を持ち御庭を廻らば。 御姿をまみえさせ給はん事を悦び。精力を盡し候へども。 本より重荷なれば持たれぬ事を怨み。 嘆きてかやうに身を失ひ候ふ事。返す%\も不便にこそ候へ。 此由を申し上げうずるにて候。いかに申し上げ候。

山科の荘司重荷を持ちかねて。御庭にて空しくなりて候。 かやうの賎しき者の一念は恐しく候。 何か苦しう候ふべき。そと御出あつて。 彼の者の姿を一目御覧ぜられ候へ。 ツレ「恋よ恋。我が中空になすな恋。 恋には人の。死なぬものかは。 無慙の者の心やな。ワキ詞「これは余りに忝なき御〓{新字源:7684。 ジョウ}にて候。はや/\立たせおはしませ。 ツレ「いや立たんとすれば磐石におされて。 更に立つべきやうもなし。 地「報は常の世のならひ。 後シテ出端「吉野川岩きり通し行く水の。 音には立てじ恋死し。 一念無量の鬼となるも。唯よしなやな誠なき。 言よせ妻の空だのめ。地「げにもよしなき。心かな。 シテ「浮寝のみ。三世の契の満ちてこそ。 石の上にも坐すといふに。 われはよしなや逢ひ難き。厳の重荷持たるゝものか。 あら。怨めしや。葛の葉の。立廻 玉襷。

畝傍の山の山守も。地「さのみ重荷は。 持たればこそ。シテ「重荷といふも。思なり。 地「浅間の煙。あさましの身や。 衆合地獄の。おもき苦。 さて懲りたまへや懲りたまへ。地「思の煙立ち別れ。/\。

稲葉の山風吹き乱れ。恋路の闇に迷ふとも。 跡弔はゞその怨は。霜か雪か霰か。 終には跡も消えぬべしや。これまでぞ姫小松の。 葉守の神となりて。 千代の影を守らんや千代の影を守らん 阿部晴明 女の生霊

狂言「かやうに候ふ者。 貴船の宮に仕へ申す者にて候。 さても今夜不思議なる霊夢を蒙りて候その謂は。 都より女の丑の。 時詣をせられ候ふに申せと仰せらるゝ子細。あらたに御霊夢を蒙りて候ふ程に。 今夜参られ候はゞ。 御夢想の様を申さばやと存じ候。 シテ次第「日も数そひて恋衣。/\。 貴船の宮に参らん。 サシ「げにや蜘蛛のいへに荒れたる駒は繋ぐとも。二道かくるあだ人を。

頼まじとこそ。おもひしに。 人の偽末知らで。契りそめにし悔しさも。 たゞわれからの心なり。余り思ふも苦しさに。 貴船の宮に詣でつゝ。住むかひもなき同じ。 世の。うちに報を見せ給へと。 下歌「たのみを懸けて貴船川。早く歩をはこばん。 上歌「通ひなれたる道の末。/\。 夜も糺のかはらぬは。 思に沈む御泥池生けるかひなき憂き身の。 消えんほどとや草深き市原野辺の露分けて。月遅き夜の鞍馬川。

橋を過ぐれば程もなく。 貴船の宮に着きにけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。貴船の宮に着きて候。 心静かに参詣申さうずるにて候。 狂言「いかに申すべき事の候。 御身は都より丑の刻詣めさるゝ御方にて候ふか。 今夜御身の上を御夢想に蒙りて候。 御申しある事は早叶ひて候。 鬼になりたきとの御願にて候ふ程に。我が屋へ御帰あつて。 身には赤き衣を着。顔には丹をぬり。 頭には鉄輪を戴き。三つの足に火をともし。 怒る心を持つならば。 忽ち鬼神と御なりあらうずるとの御告にて候。 急ぎ御帰あつて告の如く召され候へ。 なんぼう奇特なる御告にて御座候ふぞ。 シテ詞「是は思ひもよらぬ仰にて候。 わらはが事にはあるまじく候。さだめて人違にて候ふべし。 。狂言「いや/\しかとあらたなる御夢想にて候ふ程に。御身の上にて候ふぞ。

か様。 に申す内に何とやらん恐ろしく見え給ひて候。急ぎ御帰り候へ。 シテ「これは不思議の御告かな。まづ/\我が屋に帰りつつ。夢想の如くなるべしと。 地「云ふより早く色かはり。/\。 気色変じて今までは。美女の形と見えつる。 緑の髪は空ざまに。立つや黒雲の。 雨降り風と鳴る神も。思ふ中をば避けられし。 恨の鬼となつて。人に思ひ知らせん。 憂き人に思ひ知らせん。中入。 ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。 下京辺に住居するものにて候。 われこの間うち続き夢見悪しく候ふ程に。 晴明のもとへ立ち越え。夢の様をも占はせ申さばやと存じ候。 いかに案内申し候。 ワキ「誰にて渡り候ふぞ。ワキツレ「さん候下京辺の者にて候ふが。 此程うち続き夢見悪しく候ふ程に。 尋ね申さん為に参りて候。ワキ「あら不思議や。 勘へ申すにおよばず。

これは女の恨を深くかうむりたる人にて候。殊に今夜の内に。 御命も危く見え給ひて候。 もし左様の事にて候ふか。 ワキツレ「さん候何をか隠し申すべき。われ本妻を離別し。 新しき妻をかたらひて候ふが。 。 もし左様の事にてもや候ふらん。 。 ワキ「げにさやうに見えて候。 彼。 の者仏神に祈る数積つて。 御命。 も今夜に極つて候ふ程に。 某が。 調法には叶ひ難く候。 ワキツレ「これ。 まで参り御目に懸り候ふ事こそ幸にて候へ。 平に然るべきやうに御祈念あつてたまはり候へ。 ワキ「この上は何ともして御命を転じかへて参らせうずるにて候。

急いで供物を御調へ候へ。ワキツレ「畏つて候。 ワキ「いで/\転じかへんとて。 茅の人形を人尺に作り。 夫婦の名字をうちに籠め。三重の高棚五色の幣。おの/\供物を調へて。肝胆を砕き祈りけり。 謹上再拝。夫れ天開け地固つしよりこのかた。 伊弉諾伊弉冊尊。天の磐座にして。 みとのまくばひありしより。

男女夫婦のかたらひをなし。陰陽の道。永く伝はる。 それになんぞ魍魎鬼神妨をなし。 非業の命を取らんとや。地「大小の神祇。 諸仏菩薩。明王部天童部。 九曜七星二十八宿。 を驚かし奉り祈れば不思議や雨降り風落。ち神鳴り稲妻頻にみち/\御幣もざゝめき鳴動して。 身の毛よだちておそろしや。 後シテ出端「夫れ花は斜脚の暖風に開けて。 同じく暮春の風に散り。 月は東山より出でて早く西嶺に隠れぬ。 世情の無常かくの如し。因果は車輪の廻るが如く。 われに憂かりし人々に。忽ち報を見すべきなり。 恋の身の浮ぶ事なき加茂川に。 地「沈みしは水の。青き鬼。 シテ「我は貴船の川瀬の蛍火。地「頭に戴く鉄輪の足の。 シテ「炎の赤き。鬼となつて。 地「臥したる男の枕に寄り添ひ。如何に殿御よ。めづらしや。 シテ「恨めしや御身と契りしその時は。

玉椿の八千代。二葉の松の末かけて。 かはらじとこそ思ひしに。 などしも捨ては果て給ふらん。あら恨めしや。捨てられて。 地「捨てられて。おもふ思の涙に沈み。 人を恨み。シテ「夫をかこち。 地「ある時は恋しく。シテ「又は恨めしく。 地「起きても寐ても忘れぬ思の。因果は今ぞと白雪の。 消えなん命は今宵ぞ。痛はしや。 地「悪しかれと。思はぬ山の峰にだに。 /\。人のなげきはおふなるに。 いはんや年月。思にしづむ恨の数。 積つて執心の鬼となるも理や。シテ「いで/\命を取らん。地「いで/\命を取らんと。 しもとを振り上げうはなりの。 髪を手にからまいて。打つやうつの山の。夢現とも。

分かざるうき世に。因果はめぐりあひたり。 今さらさこそくやしかるらめ。 さて懲りや思ひ知れ。シテ「ことさら恨めしき。 地「ことさら恨めしき。 あだし男を取つて行かんと。臥したる枕に立ち寄り見れば。 恐ろしや御幣に。三十番神まし/\て。 魍魎鬼神は穢らはしや。出でよ/\と責め給ふぞや。腹立や思ふ夫をば。 取らであまさへ神々の。 責を蒙る悪鬼の神通通力自在の勢絶えて。力もたよ/\と。 。 足弱車の廻り逢ふべき時節を待つべしや。まづこの度は帰るべしと。 いふ声ば。 かりはさだかに聞えていふ声ばかり聞え。 て姿は目に見えぬ鬼とぞなりにける目に見えぬ鬼となりにけり 照日の神子 六条御息所の生霊(前ハ上臈後ハ鬼女) 横川の小聖 大臣

ワキツレ詞「是は・朱雀院{しゆじやくゐん}につかへ奉る臣下なり。 さても左大臣の・御{おん}息女。 ・葵上{あふひのうへ}の・御物{おんもの}の・気{け}。以ての外に御座候ふ程に。 貴僧高僧を・請{しやう}じ申され。・大法秘法{たいほふひほふ}・医療{いれう}さま%\の・御{おん}事にて候へども。更にその・験{しるし}なし。 こ。 こに・照日{てるひ}の・神子{みこ}とて・隠{かくれ}なき・梓{あづさ}の・上手{じやうず}の候ふを召して。・生霊死霊{いきりやうしりやう}の・間{あひだ}を。 ・梓{あづさ}に掛けさせ申せとの・御{おん}事にて候ふ程に。 此由申し付けばやと存じ候。 やがて・梓{あづさ}に御かけ候へ。 ツレアヅサ「・天清浄{てんしやう%\}地清浄。・内外{ないげ}清浄・六根{ろつこん}清浄。 より・人{びと}は。今ぞ寄りくる・長浜{ながはま}の。 ・芦毛{あしげ}の駒に・手綱{たづな}ゆりかけ。 シテ一セイ「・三{み}つの車にのりの道。・火宅{くわたく}の・門{かど}をや。出でぬらん。 。 二ノ句「・夕顔{ゆふがほ}の・宿{やど}の・破車{やれぐるま}。やる・方{かた}なきこそ悲しけれ。 次第「・浮世{うきよ}は・牛{うし}の・小車{こぐるま}の。/\・廻{めぐ}るや報なるらん。 サシ「・凡{およ}そ・輪廻{りんゑ}は車の輪の如く。 六・趣{しゆ}四・生{しやう}を出でやらず。 人間の・不定{ふぢやう}・芭蕉{ばせを}・泡沫{はうまつ}の世の習。・昨日{きのふ}の花は・今日{けふ}の夢と。

驚かぬこそ愚なれ。 身の憂きに人の恨のなほ添ひて。忘れもやらぬ我が・思{おもひ}。 せめてや・暫{しば}し慰むと。・梓{あづさ}の弓に・怨霊{をんりやう}の。 これまで現れ出でたるなり。 下歌「あら恥かしや。 今とても・忍車{しのびぐるま}の・我{わ}が姿。 上歌「月。 をば眺め明かすとも。/\。 月。 には見えじかげろふの。 梓の弓。 のうら・弭{はず}に立ち。 寄り憂きを語ら。 ん立ち寄り憂きを語らん。 。 シテ「梓の弓の・音{おと}は・何{いづ}くぞ。/\。 ツレ「・東屋{あづまや}の・母屋{もや}の・妻戸{つまど}に居たれども。 シテ「姿なければ・訪{と}ふ人もなし。 シテ「不思議やな誰とも見えぬ・上臈{じやうらふ}の。・破車{やぶれぐるま}に召されたるに。

・青{あを}女房と・思{おぼ}しき人の。牛もなき車の・轅{ながえ}に取りつき。 さめ%\と泣き給ふ痛はしさよ。 詞「若しかやうの人にてもや候ふらん。 ワキツレ「・大方{おほかた}は・推量{すゐりやう}申して候。 唯つゝまず名を・御{おん}名乗り候へ。 シテ「それ・娑婆電光{しやばでんくわう}の・境{さかひ}には。 恨むべき人もなく。 悲しむべき身もあらざるにいつさて浮かれ・初{そ}めつらん。

唯今・梓{あづさ}の弓の・音{おと}に。引かれて現れ出でたるをば。 如何なる者とか・思{おぼ}し召す。 是は六・条{でう}の・御息所{みやすどころ}の・怨霊{をんりやう}なり。われ世に在りしいにしへは。 ・雲上{うんしやう}の花の・宴{えん}。春の・朝{あした}の・御遊{ぎよいう}に馴れ。 ・仙洞{せんとう}の・紅葉{もみぢ}の秋の夜は。 月に・戯{たはぶ}れ色香に染みはなやかなりし身なれども。 衰へぬれば。・朝顔{あさがほ}の。日影待つ・間{ま}の有様なり。 唯いつとなき我が心。 もの憂き・野辺{のべ}の・早蕨{さわらび}の。・萌{も}え出でそめし思の露。 斯かる・恨{うらみ}を晴らさんとて。 これまで現れ出でたるなり。 地下歌「思ひ知らずや世の中の情は人のためならず。 上歌「・我{われ}人のためつられ?ければ。/\必ず身にも報ふなり。 何を歎。 くぞ・葛{くず}の・葉{は}の・恨{うらみ}はさらに尽きすまじ・恨{うらみ}はさらに尽きすまじ。 シテ「あら・恨{うら}めしや。 詞「今は打たでは叶ひ候ふまじ。ツレ「あら浅ましや六条の。 御息所程の御身にて。 うはなり打ちの・御{おん}振舞。いかでさる事の候ふべき。

・唯{たゞ}・思{おぼ}し召し・止{とま}り給へ。シテ詞「いや如何に云ふとも。 今は打たでは叶ふまじと。 枕に立ち寄りちやうと打てば。 ツレ「この・上{うへ}はとて立ち寄りて。・妾{わらは}は・跡{あと}にて・苦{く}を見する。 シテ「今の恨は有りし・報{むくい}。ツレ「・嗔恚{しんい}のほむらは。 シテ「身を焦がす。神子「おもひ知らずや。 シテ「思ひ知れ。地「恨めしの心や。 あら恨めしの心や。人の・恨{うらみ}の深くして。 憂き・音{ね}に泣かせ給ふとも。 生きて此世にましまさば。・水闇{みずくら}き。・沢辺{さはべ}の蛍の影よりも。 光る君とぞ・契{ちぎ}らん。シテ「・妾{わらは}は・蓬生{よもぎふ}の。 地「・本{もと}あらざりし身となりて。・葉末{はずゑ}の露と消えもせば。 それさへ殊に恨めしや。 夢にだにかへらぬものを・我{わ}が・契{ちぎり}。・昔語{むかしがたり}になりぬれば。 なほも・思{おもひ}は・増鏡{ますかゞみ}。その・面影{おもかげ}も恥かしや。 。 枕に立てる・破車{やれぐるま}うち乗せ隠れ行かうようち乗せ隠れ行かうよ。 ワキツレ詞「いかに誰かある。葵上の・御{おん}物の気。いよ/\以ての外に御座候ふ程に。

・横川{よかわ}の・小聖{こひじり}を・請{しやう}じて来り候へ。狂言シカ%\、ワキ「九・識{しき}の窓の前。 ・十乗{じふじよう}の・床{ゆか}のほとりに。・瑜伽{ゆが}の・法水{ほつすゐ}をたゝへ。 詞「・三密{さんみつ}の月を澄ます所に。 案内申さんとは如何なる者ぞ。狂言シカ%\、ワキ「・此間{このあひだ}は・別行{べつぎやう}の子細あつて。 ・何方{いづかた}へも罷り出でず候へども。・大臣{おとゞ}よりの・御使{おんつかひ}と・候{さふら}ふ程に。 やがて参らうずるにて候。 ワキツレ「唯今の・御出{おんいで}・御大儀{ごたいぎ}にて候。 ワキ「承り候。扨病人は・何{いづ}くに御座候ふぞ。 ワキツレ「あれなる・大床{おほゆか}に御座候。 ワキ「さらば・頓{やが}て・加持{かぢ}し申さうずるにて候。ワキツレ「尤もにて候。 ワキ「・行者{ぎやうじや}は加持に参らんと。 ・役{えん}の行者の跡を継ぎ。・胎金両部{たいこんりやうぶ}の峯を分け。 ・七宝{しつぱう}の露を払ひし・篠懸{すゞかけ}に。 詞「・不浄{ふじやう}を隔つる・忍辱{にんにく}の・袈裟{けさ}。・赤木{あかぎ}の・珠数{じゆず}のいらたかを。 さらり/\と押しもんで。 ・一祈{ひといのり}こそ祈つたれ。・曩謨三曼荼〓{口へんに縛}曰羅赦{なまくさまんだばさらだ}。 イノリ、シテ「如何に行者。・早{はや}帰り給へ。 帰らで不覚し給ふなよ。

ワキ「たとひ如何なる・悪霊{あくりやう}なりとも。行者の・法力{ほふりき}尽くべきかと。 ・重{かさ}ねて珠数を押しもんで。地「・東方{とうばう}に・降三世明王{がうざんぜみやうわう}。 シテ「・南方軍荼利夜叉{なんばうぐんだりやしや}。 地「・西方大威徳{さいはうだいゐとく}明王。シテ「・北方{ほつぱう}金剛。地「夜叉明王。シテ「・中央大聖{ちうあうだいしやう}。 地「不動明王。・曩謨三曼荼〓{口へんに縛}曰羅赦{なまくさまんだばさらだ}。 ・旋陀摩訶〓遮那{せんだまかろしやな}。 ・娑婆多耶吽多羅〓{咤のウかんむりの無い字}干〓{そはたやうんたらたかんまん}。・聴我説者{ちやうがせつしや}。・得大智慧{とくだいちゑ}。・知我身者{ちがしんじや}。

・即身成仏{そくしんじやうぶつ}。シテ「あら/\恐ろしの・般若声{はんにやごゑ}や。これまでぞ・怨霊{をんりやう}。この・後{のち}又も来るまじ。 キリ地「・読誦{どくじゆ}の声を聞く時は。/\。 ・悪鬼{あくき}心を和らげ。・忍辱{にんにく}慈悲の姿にて。 ・菩薩{ぼさつ}もここに・来迎{らいがう}す。成仏・得脱{とくだつ}の。 身となり行くぞ有難き/\ 道成寺の住僧 従僧 能力 白拍子 蛇体

ワキ詞「これは紀州道成寺の住僧にて候。 さても当寺に於てさる子細有つて。 久しく撞鐘退転仕りて候ふを。 この程再興し鐘を鋳させて候。今日吉日にて候ふ程に。 鐘の供養をいたさばやと存じ候。 いかに能力。はや鐘をば鐘楼へ上げてあるか。 。 狂言「さん候はや鐘楼へ上げて候ふ御覧候へ。

ワキ「今日鐘の供養を致さうずるにて有るぞ。又さる子細ある間。 女人禁制にて有るぞ。かまへて一人も入れ候ふな。 其分心得候へ。狂言「畏つて候。 シテ次第「作りし積みも消えぬべし。/\。 鐘の供養に参らん。 サシ「これは此国のかたはらに住む白拍子にて候。 詞「さても道成寺と申す御寺に。 鐘の供養の御入り候ふ由申し候ふ程に。唯今参らばやと思ひ候。

道行「月は程なく入りしほの。/\。 煙みちくる小松原。急ぐ心かまだ暮れぬ。 日高の寺に着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。日高の寺に着きて候。 やがて供養を拝まうずるにて候。 いかに申し候。狂言「誰にて渡り候ふぞ。 シテ「これは此国の辺に住む女にて候ふが。 鐘の供養の由承り候ふ程にこれ迄参りて候。 そと拝ませて給はり候へ。狂言「シカ%\。 シテ「い。 やこれは此国の傍に住む白拍子にて候。鐘の容疑にそと舞をまひ候ふべし。 供養を拝ませて給はり候へ。狂言「シカ%\。 シテ「あら嬉しや涯分舞をまひ候ふべし。 物着「嬉しやさらば舞はんとて。 あれにまします宮人の。烏帽子を暫し仮に着て。 既に拍子を進めけり。 次第「花の外には松ばかり。/\暮れそめて鐘や響くらん。乱拍子「。ワカ「道成の卿。 承り。始めて伽藍。橘の。

道成興行の寺なればとて。道成寺とは。名づけたりや。 地「山寺のや。急ノ舞「。シテ「春の夕ぐれ。 来てみれば。地「入相の鐘に花ぞ散りける。 花ぞちりける花ぞ散りける。シテ「さるほどに/\。寺々の鐘。 地「月落ち鳥鳴いて霜雪天に。 満汐ほどなく日高の寺の。江村の漁火。 愁に対して人人眠ればよき隙ぞと。 立舞ふ様に狙ひよりて。撞かんとせしが。 思へば此鐘恨めしやとて。龍頭に手をかけ飛ぶとぞみえし。 ひきかづきてぞ失せにける。狂言「シカ%\。 ワキ詞「言語道断。か様の儀を存じてこそ。 固く女人禁制の由申して候ふに。 曲事にてあるぞ。なう/\皆々かう渡り候へ。 此。 鐘に付いて女人禁制と申しつる謂の候ふを御存じ候ふか。 ワキツレ「いや何とも存ぜず候。 ワキ「さらば其謂を語つて聞かせ申し候ふべし。ワキツレ「懇に御物語り候へ。 ワキ語「むかし此処に。 まなごの庄司と云ふ者あり。彼の者一人の息女を持つ。

又。 其頃奥より熊野へ年詣する山伏のありしが。庄司が許を宿坊と定め。 いつも彼の処に来りぬ。庄司娘を寵愛の余りに。 あ。 の客僧こそ汝がつまよ夫よなんどと戯れしを。 をさな心。 に誠と思ひ年月を送る。 又ある。 時かの客僧庄司。 がもとに来りしに。 彼の女夜更け人静まつて後。 客僧の閨に行き。 。 いつまでわらは。 おばかくて置き給ふぞ。 急ぎむかへ給へと申しゝかば。 客僧大きにさわぎ。さあらぬ由にもてなし。 夜にまぎれ忍び出で此寺に来り。 ひらに頼むよし申しゝかば。隠すべき所なければ。

撞鐘をおろし其内に此客僧を隠しおく。 さて彼の女は山伏を。遁すまじとて追つかくる。 。 をりふし日高川の水以ての外に増りしかば。 川の上しもをかなたこなたへ走りまはりしが。一念の毒蛇となつて。 川を易易と泳ぎ越し此寺に来り。 こゝかしこを尋ねしが。鐘のおりたるを怪しめ。 龍頭をくはへ七まとひ纏ひ。

焔をいだし尾を以て叩けば。 鐘はすなはち湯となつて終に山伏を取りをはんぬ。 なんぼう恐ろしき物語にて候ふぞ。ワキツレ「言語道断。 かゝる恐ろしき御物語こそ候はね。 ワキ「その時の女の執心残つて。 また此鐘に障碍をなすと存じ候。我人の行功も。 かやうのためにてこそ候へ。 涯分祈つて此鐘を二度鐘楼へ上げうずるにて候。 ワキツレ「尤もしかるべう候。 ワキノツト「水かへつて日高川原の。 真砂の数は尽くるとも。行者の法力尽くべきかと。 ワキツレ「みな一同に声をあげ。 ワキ「東方に降三世明王。ワキツレ「南方に軍荼利夜叉明王。 ワキ「西方に大威徳明王。 ワキツレ「北方に金剛夜叉明王。ワキ「中央に大日大聖不動。 ワキ、ワキツレ二人「動くか動かぬか索の。 曩謨三曼陀〓曰羅赦。旋多摩訶〓遮那。 娑婆多耶吽多羅〓干〓。聴我説者得大智慧。 知我身者即身成仏と。今の蛇身を祈るうへは。

ワキ「何の恨か有明の。撞鐘こそ。 地「すはすは動くぞ祈れたゞ。/\。 引けや手ん手に千手の陀羅尼。不動の慈救の偈。 明王の火焔の。黒烟を立てゝぞ祈りける。 祈り祈られつかねど此鐘ひゞきいで。 引かねど此鐘躍るとぞ見えし。 程なく鐘楼に引きあげたり。あれ見よ蛇体は。 現れたり。イノリ「。キリ地「謹請東方青龍清浄。 謹請。

西方白体白龍謹請中央黄体黄龍一大三千大千世界の恒沙の龍王哀愍納受。 哀愍。 じきんのみぎんなればいづくに大蛇のあるべきぞと。祈り祈られかつぱと転ぶが。 又起き上つて忽ちに。 鐘に向つてつく息は。猛火となつてその身をやく。 日高の川浪深淵に飛んでぞ入りにける。 望足り。 ぬと験者達はわが本坊にぞ帰りける我が本坊にぞ帰りける 宮人(前ハ翁) 西行法師

ワキ次第「心を誘ふ雲水の。/\。 ゆくへやいづくなるらん。 詞「これは嵯峨の奥に住まひする西行法師にて侯。 われ宿願の子細あるにより。 唯今住吉の明紳に参詣仕り候。道行「住み馴れし。 嵯峨野の奥を立出でて。/\。西より西の秋の空。

月をゆくへのしるべにて。 難波の・御津{みつ}の浦伝ひ。入りぬる磯を過ぎゆけば。 はや住の江に着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。 これははや住吉に着きて候。 われ此処に来りこゝかしこをさすらひありき候ふ程に。早日の暮れて侯。

又あれを見れば・釣殿{つりどの}の・辺{ほとり}と思しくて。 火の光の見えて候ふ程に。 立ちより宿を借らばやと思ひ侯。 シテ「・風{かぜ}・枯木{こぼく}を吹けば晴天の雨。 月・平沙{へいさ}を照らせば夏の夜の霜。 それさへあるに秋の空。余りに堪へぬ半の月。 あら面白のをりからやな。 ワキ詞「いかにこの家の内へ案内申し候。 シテ詞「誰にて渡り侯ふぞ。 ワキ「行き暮れたる修行者にて候。一夜の宿を御貸し候へ。 。 シテ「余りに見苦しき柴の庵にて候ふ程に。御宿は適ひ候ふまじ。 今少しさきへ御通り侯へ。ツレ「なう/\これは世を・捨人{すてびと}。 痛はしければ入らせ給へ。 シテツレ二人「さりながら秋にもなれば夫婦のもの。 月をも思ひ雨をも待つ。心々に・葺{ふ}き葺かで。 住める軒端の草の庵。 いづくによりて留まり給ふベき。 ワキ詞「偖は・雨月{うげつ}の二つを争ふ心なるべし。月はいづれぞ雨はいかに。

ツレ「姥はもとより月に愛でて。 板間も惜しと軒を葺かず。 シテ「おほぢは秋の村時雨。木の葉を誘ふ嵐までも。 音づれよとて軒端葺く。ツレ「かしこは月影。 シテ「ここは村雨。 ツレ「定なき身の住居までも。シテ「賎が軒端を葺きぞわづらふ。 /\。 詞「面白やすなはち歌の下の句なり。此上の句をつがせ給はゞ。 お宿は惜み申すまじ。 ワキ「もとよりわれも和歌の心。其・理{ことはり}を思ひ出づる。 月は洩れ雨は・溜{たま}れととにかくに。 シテ「賎が軒端を葺きぞわづらふ。 シテワキ二人「月は漏れ雨は溜れととにかくに。賎が軒端を葺きぞわづらふ。 シテ「面白の・言{こと}の葉や。 地「げに理も深き夜の。月をも思ひ雨をさへ。 厭はぬ人ならば。こなたへ入らせ給へや。 上歌「をりしも秋なかば。/\。三五夜中の新月の。 二千里の外までも。心知らるゝ秋の空。 雨は又・瀟灑{せうしやう}の。夜の哀ぞ思はるゝ。

ツレ「なう村雨の聞え候。 シテ詞「げに村雨の聞ゆるぞや。・遠里{とをざと}小野の嵐やらん。 ツレ「よく/\聞けば時雨ならで。 更け行くまゝに秋風の。シテ「軒端の松に。 ツレ「吹き来るぞや。 地「雨にてはなかりけり。小夜の嵐の吹き落ちて。 中々空は住吉の。処からなる月をも見。 雨をも聞けと吹く。・閨{ねや}の軒端の松の風。 こゝは住吉の。岸打つ浪も程近し。 仮寝の夢もいかならん。 よしとても・旅枕{たびまくら}さらでも夢はよもあらじ。いざ/\・砧{きぬた}・擣{う}たうよ。 浮世の業を賎の女は。風寒しとて衣打つ。 身の為はさもあらで秋の恨の小夜衣。 月見がてらに擣たうよ。 シテ「時雨せぬ夜も時雨する。地「木の葉の雨の・音信{おとづれ}に。 老の涙もいと深き心を染めて色々の。 木の葉衣の袖の上。露をも宿す月影に。 重ねて落つるもみぢ葉の。 色にも交じるちりひぢの。

積る木の葉をかき集め雨の名残と思はん。 。 シテ詞「はや夜も更けたり旅人も御休み候へ。こゝはもとより処から。 ・年{とし}も・津守{つもり}の・小尉{こじよう}なればわれも。 地「老衰の眠深き夢に帰るいにしへを。 松が根枕して共にいざやまどろまん。来序中入「。 後シテ出端「あら面白の詠吟やな。 陰陽二つの道を守る。其句を分つて五体とす。 木火土金水なり。 上下は則ち天地人の三才はこれ詠吟なるべし。われをば誰とか思ふ。 忝くも西の海。・檍{あをき}が原の波間より。 地「現れ出でし。住吉の。シテ「神託まさに。 疑はざれ。祝詞「抑この神の。 因位を尋ね奉るに。昔は兜率の内院にして。 高貴徳王菩薩と号し。今は又玉垣の。 うちの国に跡を垂れ。和歌を守りて住の江や。 ・松林{しようりん}の下に住んで。久しく風霜を送る。 ここに和歌の人稀なる所に。 西行法師歩を運び給ひ。心を述ぶる和歌の友とて。

神明納受垂れ給ふ。これによつて。 神慮の程を知らしめんと。 きねが・頭{かうべ}に乗りうつる。・謹上{きんじやう}。地「再拝。真ノ序ノ舞「。 ありがたの影向や。/\。返す心も住吉の。 岸うつ波も松風も。颯々の鈴の声。 丁々の鼓の音。

和歌の詠吟舞の袂も同じく心詞にあらはるゝ。其風等しかりけり。 これまでなりや今ははや。疑はで神託を。 仰ぐべしと・木綿{ゆふ}しでの神は。・上{あが}らせ拾ひければ。 もとの・宮人{みやびと}となりて。 本宅に帰りけりやもとの方に帰りけり 旅僧 従僧 老人 里人 松若 名著。

ワキ、ワキツレ二人次第「信濃路遠き旅衣。/\日も遥遥の心かな。ワキ詞「これは都の者にて候。 又これに渡り候ふ御方は。 本国は信濃の国の人にて御座候。 いまだ父を御持ち候ふが。 今一度御対面ありたきよし仰せられ候ふ間。我等御供申し。 信濃の国へと急ぎ候。道行三人「道あるや。 旅の関の戸明け暮れて。/\。宿はいづくと定なく。 行方も知らぬ身ながらも。

伴なふ人は有明の。 月日ほどなく木曽路へて園原山に着きにけり園原山に着きにけり。 シテ、ツレ三人一セイ「木賊刈る。 山の名までも園原や。伏見の里も。秋ぞ来る。 ツレ三人二ノ句「梢はいづれ一葉ちる。シテツレ四人「嵐や音を。 残すらん。シテサシ「面白や処は鄙の住居なれども。 実に名所の故やらん。 山野の眺も気色だつ。シテツレ四人「木曽の御坂の梢より。 浮ぶ雲間の朝づく日園原山にうつろひて。

木賊 かる野の。青緑。草の袂もなほ深し。 。 下歌「男鹿鳴く野のゆくへまで妻や篭りしそのはらの。上歌「処は信濃路や。/\。 木曽の梯かゝる身の。 うき世を渡るならはしに。さも馴衣しほたれて。 袖の露もいとなし。草筵露を片敷く有明の。 朝な/\出づるや牧笛の野人ならまし。 下歌「いざ/\木賊刈らうよ/\。 。 ロンギ地「刈るや木賊の言の葉はいづれの詠なるらん。シテ「木賊かる。 園原山の木の間より。 磨かれ出づる秋の夜の月影をもいざ刈らうよ。地「影も仮なる草の原。 露分衣しほたれて刈れや/\花草。 シテ「木賊かる。/\。木曽の麻衣袖ぬれて。 磨かぬ露の玉ぞ散る。地「散るや霰のたま/\も。心の乱知るならば。 シテ「胸なる月は曇らじ。 地「実に誠何よりも研くべきは。真如の玉ぞかし。思へば木賊のみか。 われもまた木賊の。身をたゞ思へ我が心。

みがけやみがけ身の為にも木賊刈りて。 取らうよや木賊刈りて取らうよ。 。 ワキ詞「いかにこれなる尉殿に尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「見申せば年たけ給ひたるが。手づから木賊を刈り持ち給ふ事。 。 其身にも応ぜぬ業と見えて不審にこそ候へ。シテ「其身にも応ぜぬ業と承れば。 人がましうこそ候へ。 去りながら園原山の木賊は。名所といひ名草といひ。 歌人の御賞翫なれば。 手づから刈りもち家づとゝ志し候。

ワキ「実に/\尤もにて候。 さて此処に伏屋の森と申す森の候ふか。 シテ「さん候あれに見えたるこそ伏屋の森にて候へ。ワキ「あの伏屋の森に。 箒木と申す木の候ふか。 シテ「御覧候へ梢。に一木うす/\と見えたるこそ箒木にて候へ。箒草に似たる木にて候ふにより。 箒木と申しならはして候。 これは寄生木にて候。ワキ「古事の思ひ出でられて候。 園原や伏原に生ふる箒木の。 詞「ありとは見えて逢はぬ君かなと詠めり。 何とてあ。 りとは見えて逢はぬ君かなと詠まれて候ふぞ。シテ「賎しき身にて候へば。 其心を何とて知り候ふべきなれども。 処に申し習はしたる義を以て。 歌の心を推量申し候ふに。 あの箒木を此辺より見れば見え候ふが。 木蔭によりては見え候はぬぞとよ。其心を歌人知りて。 有りとは見えて。 逢はぬ君かなと詠まれたる歌にて候ふやらん。

ワキ「さて今もよりては見え候はぬか。シテ「なか/\の事唯今その証拠を見せ申さんと。ワキ「互に近づき立ちよりて。 シテ「見ればありつる箒木の。 ワキ「蔭にて見ればかきたえて。シテ「何れかそれぞ。 ワキ「不思議やな。地歌「よそにては。 正しく見えし箒木の。/\。 蔭に来て見ればなかりけり。 実にも正しくありとは見えて。 逢はぬ君かなと詠みおく言のはゝき木は面白や。げにや道ある心とて。 誠なりける歌人の。言葉の林しげるもや。 其箒木の。種ならんその箒木の種ならん。 シテ詞「いかに御僧たちに申し候。 我らが私宅は旦過にて候。 一夜を明して御通り候へ。 ワキ「あら嬉しやさらば参らうずるにて候。 ツレ「如何に御僧達御心安く御座候へ。 今の尉殿は少し身に思の候ひて時々は現なき風情の候。 其時は心得有つて御あひしらひ候へ。ワキ「心得申して候。 シテ「いかに御僧たち。

今夜は心静かに尉が身の上を語つて聞かせ申し候ふべし。 此尉は子を一人持ちて候ふを。 行方も知らぬ人に誘はれ。暮に失ひて候。 若しも行方や聞くと思ひ。此路次に居処を立て。 行来の人を留め申し候。 我が子の常は小歌曲舞に好きて。 友を集め舞ひ謡ひ候ひし程に。此尉も時々は舞ひうたひ候。 誰かある御盃を参らせ候へ。物着。 子「いかに申し候。 唯今の尉殿は我らが親にて候。ワキ「何唯今の尉殿は。 御親父にて御座候ふとや。 さらばやがて御名のりあらうずるにて候。子「いや暫く。 思ふ子細の候へば。先知らぬよしにて御入り候へ。 ワキ「心得申し候。 シテ「いかに御僧たちに申し候。 余りに夜長に候ふ程に。酒を持ちて参りて候。 ワキ「御志はありがたけれども。 飲酒は仏の戒にて候。 シテ「飲酒は仏の御戒はさる事なれども。かの廬山の恵遠禅師。

虎渓を去らぬ禁足にだに。 陶淵明が志にて飲酒を破りしぞかし。 ましてや我が子の翫びし。舞曲の酒宴の戯にて。 老生を慰む志をば。 などかあはれみ給はざらん。地「廬山の古を思し召さば。 心の底までも汲みて知る法の。 真水と思しめして。 飲酒の心とけて一つきこしめされよ。 地クリ「夫れ誤つて仙家に入つて。 半日の客たりといへども。 旧里にかへつて七世の孫に逢ふ事をともいへり。 シテサシ「いはんや一世の親子として。 など其情なからざらん。地「ていたいは薪を採り。 老いたる母をはごくみ。 虞舜は頑なる父をうやまふとも言へり。 シテ「たとひ老後の愚なりとも。地「孝恩の心なからんやと。恨の涙。 連々たり。クセ「然るに。教主釈尊も。 羅〓為長子と説き給へり。いはんや二仏の。 中間の衆生として。恩愛の。

あはれを知らざらんは。木石に異ならず。 石の火の光の間をだにもなどや添ひもせぬ。 親は千里を行けども子を忘れぬぞ誠なる。 子はあつて。 千年を経れども親を思はぬ習とは今身の上に知られたり。 シテ「げにや人の親の。 地「心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ふとは。 誠なりや我ながらその面影の忘れらぬ。昔に返す舞の袖。 我が子はかうこそ舞ひしものを。此手をば。 かうこそさしゝぞとて。 左右に颯々の袖を垂れ。一つは又酔狂も。 まじると人や御覧ずらん。 酔泣きも子を思ふ涙とや人の見るべき。子を思ふ。序ノ舞「。 シテワカ「子を思ふ。身は老鶴の。鳴くものを。 地「げにや子を思ふ闇の夜鶴の。 声は盃中。シテ「回るも盃。地「五老の月の。 影に酔ひふす枕の上に。シテ「来らば我が子よ。 地「親物に狂はゞ。子は囃すべきものを。 シテ「あら恨めしや唯。

地「うらめしやたゞ。 舞も歌も現なさも子故なれば老の波のあはれ立ち帰り今一目。父に見えよかし。 ロンギ地「この上は。 何かつゝまん我こそは。別れし御子松若と。 言ふにもすゝむ涙かな。シテ「誰そや我が子と夕月夜。 おぼつかなしや何れさて。 別れし我が子なるらん。地「かはる姿の衰へは。 げにそれならぬ有様を。

シテ「よく/\見ればさすがげに。地「親なりけり。シテ「子なりけるぞや。 地「恨めしやなどされば。 とくにも名のり給はぬぞと。逢ふ時だにも恨ある。 こは夢か夢にても逢ふこそうれしかりけれ。 キリ地「かくて親子にあひ竹の。/\。 世を故郷をあらためて。仏法流布の寺と為し。 仏種の縁となりにけり。 あとに伏屋の物語。うき世語になりにけり/\ 俊徳丸 高安通俊

ワキ詞「かやうに候ふ者は。 河内の国高安の里に。左衛門の尉通俊と申す者にて候。 さても某子を一人持ちて候ふを。 さる人の讒言により暮に追ひ失ひて候。 余りに不便に候ふ程に。 二世安楽のため天王寺にて。一七日施行を引き候。 今日も施行を引かばやと存じ候。狂言シカ%\。

シテ一セイ「出入の。月を見ざれば明暮の。 夜の境をえぞ知らぬ。難波の海の底ひなく。 深きおもひを。人や知る。 サシ一セイ「それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思を悲み。 比目の枕の上には波を隔つる愁あり。 いは。 んや心あり顔なる人間有為の身となりて。憂き年月の流れては。

妹背の山の中に落つる。 吉野の川のよしや世と思ひもはてぬ心かな。 あさましや前世に誰をか厭ひけん。今又人の讒言により。 不孝の罪に沈む故。思の涙かき曇り。 盲目とさへなり果てゝ。生をもかへぬ此世より。 中有の道に迷ふなり。 下歌「本よりも心の闇は有りぬべし。上歌「伝へ聞く。 彼一行の果羅の旅。/\。闇穴道の巷にも。 九曜の曼陀羅の光明。 赫奕として行末を照らし給ひけるとかや。 今も末世と言ひながら。さすが名に負ふ此寺の。 仏法最初の天王寺の石の鳥居こゝなれや。 立ち寄りて拝まんいざ立ち寄りて拝まん。 ワキカヽル「頃はきさらぎ時正の日。 誠に時も長閑なる。日を得てあまねき貴賎の場に。 施行をなして勧めけり。 シテ詞「げにありがたき御利益。法界無辺の御慈悲ぞと。 踵をついで群集する。ワキ「や。 これに出でたる乞丐人は。いかさま例の弱法師よな。

シテ「又われらに名を付けて。 皆弱法師と仰あるぞや。げにも此身は盲目の。 足弱車の片輪ながら。 よろめきありけば弱法師と。名づけ給ふはことわりなり。 ワキ詞「げに言ひ捨つる言の葉までも。 心ありげに聞ゆるぞや。まづ/\施行を受け給へ。シテ「あらありがたや候。や。 花の香の聞え候。 いかさま木の花散り方になり候ふな。 ワキ「おうこれなる籬の梅の花が。弱法師が袖に散りかゝるぞとよ。 シテ「憂たてやな難波津の春ならば。 唯木の花とこそ仰あるべきに。 今は春辺もなかばぞかし。 梅花を折つて頭に挿しはさまざれども。二月の雪は衣に落つ。 あら面白の花の匂やな。 ワキ「げにこの花を袖に受くれば。 花もさながら施行ぞとよ。シテ詞「なか/\の言。草木国土。 悉皆御法も施行なれば。 ワキ「皆成仏の大慈悲に。シテ「漏れじと施行に連なりて。

ワキ「手を合せて。シテ「袖を広げて。 上歌地「花をさへ。受くる施行のいろ/\に。/\。 匂ひ来にけり梅衣の。春なれや。 何はの事か法ならぬ。遊び戯れ舞ひ謡ふ。 誓ひの網には漏るまじき。難波の海ぞ頼もしき。 げにや盲亀のわれらまで。 見る心地する梅が枝の。花の春の長閑けさは。 難波の法によも漏れじ/\。 クリ「それ仏日西天の雲に隠れ。 慈尊の出世遥に。三会の暁未だなり。 シテ「然るに此中間に於て。 なにと心を延ばへまし。地「こゝによつて上宮太子。 国家を改め万民を教へ。仏法流布の世となして。 普く恵を弘め給ふ。 シテ「然れば当寺を御建立あつて。地「始めて僧尼の姿を顕し。 四天王寺と名づけ給ふ。 クセ「金堂の御本尊は。如意輪の仏像。 救世観音とも申すとか。太子の御前生。 震旦国の思禅師にて。渡らせ給ふゆゑなり。

出離の仏像に応じつゝ。いま日域に至るまで。 仏法最初の御本尊と。あらはれ給ふ御威光の。 真なるかなや。末世相応の御誓。 然るに当寺の仏閣の。御作の品々も。 赤栴檀の霊木にて。塔婆の金宝にいたるまで。 閻浮檀金なるとかや。シテ「万代に。 澄める亀井の水までも。地「水上清き西天の。 無熱池の。池水を受けつぎて。 流久しき世世までも五濁の人間を導きて。 済度の舟をも寄するなる。難波の寺の鐘の声。 異浦々に響き来て。普き誓満潮の。 おし照る海山も。皆成仏の姿なり。 ワキ詞「あら不思議や。 これなる者をよくよく見候へば。 某が追ひ失ひし子にて候ふはいかに。 思のあまりに盲目となりて候。あら不便と衰へて候ふものかな。 人目もさすがに候へば。 夜に入りて某と名のり。高安へ連れて帰らばやと存じ候。 やあ如何に日想観を拝み候へ。

シテ詞「げにげに日想観の時節なるべし。 盲目なればそなたとばかり。心あてなる日に向ひて。 東門を拝み南無阿弥陀仏。 ワキ詞「何東門とはいはれなや。こゝは西門石の鳥居よ。 シテ「あら愚や天王寺の。 西門を出でて極楽の。東門に向ふは僻事か。 ワキ「げにげにさぞと難波の寺の。 西門を出づる石の鳥居。シテ「阿字門に入つて。 ワキ「阿字門を出づる。シテ「弥陀の御国も。 ワキ「極楽の。シテ「東門に。向ふ難波の西の海。 地「入日の影も舞ふとかや。 。 シテ詞「あら面白やわれ盲目とならざりし前は。弱法師が常に見馴れし境界なれば。 何疑も難波江に。江月照らし松風吹き。 永夜の清宵なんのなすところぞや。 ワカ「住吉の。松の隙よりながむれば。 地「月落ちかゝる淡路島山と。シテ「眺めしは月影の。 地「詠めしは月影の。 今は入日や落ちかゝるらん。日想観なれば曇も波の。

淡路絵島。須磨明石。紀の海までも。 見えたり見えたり。満目青山は。心にあり。 シテ「あう。見るぞとよ/\。 地「さて難波の浦の致景の数々。 シテ「南はさこそと夕波の。住吉の松影。 地「東の方は時を得て。シテ「春の緑の草香山。 地「北は何処。シテ「難波なる。 地「長柄の橋の徒らにかなた。こなたとありく程に。 盲目の悲しさは。貴賎の人に行き合ひの。 転び漂よひ難波江の。足もとはよろ/\と。実にも真の弱法師とて。 人は笑ひ給ふぞや。 思へば恥かしやな今は狂ひ候はじ今よりは更に狂はじ。 ロンギ上「今ははや。夜も更け人も静まりぬ。 いかなる人の果やらん。 その名を名のり給へや。シテ「思ひよらずや誰なれば。 我がいにしへを問ひ給ふ。高安の里なりし。 俊徳丸が果なり。 地「さては嬉しやわれこそは。父高安の通俊よ。

シテ「そも通俊は我が父の。その御声と聞くよりも。 地「胸うち騒ぎあきれつゝ。シテ「こは夢かとて。 地「俊徳は。 親ながら恥かしとてあらぬ方へ逃げ行けば。父は追ひ付き手を取りて。

。 何をかつゝむ難波寺の鐘の声も夜まぎれに。 明けぬ先にと誘ひて高安の里に帰りけり/\ 従者 人丸 悪七兵衛景清 里人

トモツレ次第「消えぬ便も風なれば。/\。 露の身いかになりぬらん。 ツレ「これは鎌倉亀が江が谷に。人丸と申す女にて候。 さても我父悪七兵衛景清は。 平家の味方たるにより。源氏に憎まれ。 日向の国宮崎とかやに流されて。年月を送り給ふなる。 いまだ習はぬ道すがら。 物うき事も旅のならひ。また父ゆゑと心づよく。 二人下歌「思寝の涙かたしく。 草の枕露をそへていと繁き袂かな。 上歌「相模の国を立ちいでて。/\。

誰にゆくへを遠江げに遠き江に旅舟の。三河にわたす八橋の。 雲居の。 都いつかさて仮寝の夢に馴れて見ん仮寝の夢に馴れて見ん。 トモ詞「やう/\御急ぎ候ほどに。 これは早日向の国宮崎とかやに御着にて候。 こ。 こにて父御の御行方を御尋あらうずるにて候。 シテ「松門独閉ぢて。年月を送り。 みづから。清光を見ざれば。時の移るをも。 弁へず。暗々たる庵室に徒らに眠り。 衣寒暖に与へざれば。膚は〓骨{大漢和45276:げう}と衰へたり。

地歌「とても世を。背くとならば墨にこそ。 /\。染むべき袖の。 あさましや窶れはてたる有様を。我だに憂しと思ふ身を。 誰こそありて憐の憂きをと・ぶ{ム}らふ。 よしもなし憂きをと・ぶ{ム}らふよしもなし。 ツレ「ふしぎやなこれなる草の庵古りて。 誰住むべくも見えざるに。 声珍らかに聞ゆるは。もし乞食のありかかと。 軒端も遠くみえたるぞや。 シテ詞「秋きぬと目にはさやかに見えねども。 風の音信いづちとも。ツレ「知らぬ迷のはかなさを。 しばし休らふ宿もなし。 シテ詞「げに三界は所なしたゞ一空のみ。誰とかさして言問はん。 又いづちとか答ふべき。 トモ詞「いかに此藁屋の内へ物問はう。 シテ「そも如何なるものぞ。 トモ「流され人の行方や知りてある。シテ詞「流され人にとりても。 苗字をば何と申し候ふぞ。 トモ「平家の侍悪七兵衛景清と申し候。

シテ「げにさやうの人をば承り及びては候へども。 本より盲目なれば見る事なし。 さもあさましき御有様。承りそゞろにあはれを催すなり。 くはしき事をばよそにて御尋ね候へ。 。 トモ「さては此あたりにては御座なげに候。 これより奥へ御出あつて尋ね申され候へ。 。 シテ詞「ふしぎやな唯今の者をいかなる者ぞと存じて候へば。 この盲目なるものゝ子にて候ふはいかに。 我一年尾張の国熱田にて遊女と相馴れ一人の子をまうく。 女子なれば何の用に立つべきぞと思ひ。 鎌倉亀が江の谷の長に預けおきしが。 馴れぬ親子を悲しみ。 父に向つて言葉をかはす。 地歌「声をば聞けど面影を見ぬ盲目ぞ悲しき。 名のらで過ぎし心こそなかなか親の。絆なれなか/\親の絆なれ。 。 トモ詞「いかに此あたりに里人のわたり候ふか。

ワキ詞「里人とは何の御用にて候ふぞ。トモ「流され人の行方や御存じ候。 トモ「流され人にとりても。 いかやうなる人を御尋ね候ぞ。 トモ「平家の侍悪七。 兵衛景清を尋ね申し候。 ワキ「唯。 今こなたへ御出で候ふ山陰に。 。 藁屋の候ふに人。 は候はざりけるか。 トモ「其藁屋。 には盲目なる乞食こそ候ひつれ。 。 ワキ「なうその盲目なる乞食こそ。 。 御尋ね候ふ景清候ふよ。 あらふしぎや。景清のことを申して候へば。 あれにまします御ことの。 御愁傷のけしき見え給ひて候ふは。

何と申したる御事にて候ぞ。トモ「御不審尤もにて候。 何をか包み申し候ふべき。 これは景清の息女にてわたり候ふが。 今一度父御に御対面ありたきよし仰せられ候ひて。 これまではる%\御下向にて候。 とてもの事に然るべきやうに仰せられ候ひて。

景清に引き合はせ申されて賜はり候へ。 ワキ「言語道断。さては景清の御息女にて御座候ふか。 まづ御心を静めて聞しめされ候へ。 景清は両眼しひまし/\て。 せん方なさに髪をおろし。日向の勾当と名を附き給ひ。 命をば旅人をたのみ。 我ら如き者の憐をもつて身命を御つぎ候ふが。 昔に引きかへたる御有様を恥ぢ申されて。 御名のりなきと推量申して候。 某たゞ今御供申し。景清と呼び申すべし。 我が名ならば答ふべし。其時御対面あつて。 昔今の御物語候へこなたへわたり候へ。 ワキ詞「なう/\景清の渡り候ふか。 悪七兵衛景清のわたり候ふか。 シテ詞「かしまし/\さなきだに。故郷の者とて尋ねしを。 此仕儀なれば身を恥ぢて。 名のらで帰す悲しさ。千行の悲涙袂を・朽{く}たし。 詞「万事。 は皆夢の中のあだし身なりと打ち覚めて。今は此世になきものと。

思ひ切つたる乞食を。悪七兵衛景清なんどと。 呼ばゝ此方が答ふべきか。其上我が名は此国の。 地歌「日向とは日に向ふ。/\向ひたる名をば呼び給はで。力なく捨てし梓弓。 昔に帰るおのが名の。悪心は起さじと。 思へども又。腹立ちや。 シテ「処に住みながら。地「処に住みながら。 御扶持ある方々に。憎まれ申す者ならば。 たとへに盲の杖を失ふに似たるべし。 片輪なる身の癖として。 腹あしくよしなき言事唯許しおはしませ。シテ「目こそ闇けれど。 地「目こそ闇けれども。 人の思はく一言の内に知る者を。山は松風。 すは雪よ見ぬ花のさむる夢の惜しさよ。 さて又浦は荒磯によする波も。聞ゆるは。夕汐もさすやらん。 さすがに我も平家なり。 物語はじめて御慰みを申さん。 シテ詞「いかに申し候。 唯今はちと心にかゝる事の候ひて。

短慮を申して候ふ御免あらうずるにて候。ワキ詞「いや/\いつもの事にて候ふほどに苦しからず候。 又我等より以前に。 景清を尋ね申したる人はなく候ふか。シテ「いや/\御尋より外に尋ねたる人はなく候。 ワキ「あら偽を仰せ候ふや。 まさしう景清の御息女と仰せられ候ひて御尋ね候ひしものを。 何とて御つゝみ候ふぞ。 あまりに御痛はしさにこれまで御供申して候。 急いで父御に御対面候へ。 ツレ「なう自こそ是まで参りて候へ。恨めしやはる%\の道すがら。 雨風露霜を凌ぎて参りたる志も。 徒らになる恨めしや。さては親の御慈悲も。 子によりけるかや情なや。 シテ「今までは包みかくすと思ひしに。 あらはれけるか露の身の。置きどころなや恥かしや。 御身は花の姿にて。親子と名のり給ふならば。 殊に我が名もあらはるべしと。 思ひ切りつゝ過すなり。我を怨と思ふなよ。

地歌「あはれげに古は。 疎き人をも訪へかしとて恨み譏るその報に。 正しき子にだにも訪はれじと思ふ悲しさよ。 上歌「一門の船の内。 一門の船の内に肩をならべ膝を組みて。処せく澄む月の。 景清は誰よりも御座船になくてかなふまじ。 一類その以下武略さま%\に多けれど。 名を取楫の船に乗せ。主従隔なかりしは。 さも羨まれたりし身の。 麒麟も老いぬれば駑馬に劣るが如くなり。 ワキ詞「あら痛はしや先かう渡り候へ。 いかに景清に申し候。御娘御の御所望の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 ワキ「八島にて景清。 の御高名の様が聞しめされたきよし仰せられ候。 そと御物語あつて聞かせ申され候へ。 シテ「これは何とやらん似合はぬ所望にて候へども。 これまで遥々来りたる志あまりに不便に候ふほどに。 語つて聞せ候ふべし。此物語過ぎ候はゞ。

かの者をやがて故郷へ帰して賜はり候へ。 ワキ「心得申し候。御物語すぎ候はゞ。 やがて帰し申さうずるにて候。 。 シテ語「いで其頃は寿永三年三月下旬の事なりしに。平家は船源氏は陸。 両陣を海岸に張つて。 たがひに勝負を決せんと欲す。能登守教経宣ふやう。 去年播磨の室山。備中の水島鵯越に至るまで。 一度も味方の利なかつし事。 ひとへに義経が謀いみじきに依つてなり。 いかにも。 して九郎を討たん謀こそ有らまほしけれと宣へば。詞「景清心に思ふやう。 判官なればとて鬼神にてもあらばこそ。 命を捨てば安かりなんと思ひ。 教経に最期の暇乞ひ。陸にあがれば源氏の兵。 余すまじとて駈け向ふ。地歌「景清これを見て。 /\。物々しやと。夕日影に。 打物ひらめかいて。切つてかゝればこらへずして。 。

刃向いたる兵は四方へばつとぞ逃げにける遁さじと。シテ「さもうしや方々よ。 地「さもうしや方々よ。 源平たがひに見る目も恥かし。一人を。 留めん事は案の打物。小脇にかいこんで。 なにがしは平家の侍悪七兵衛。景清と。名のりかけ/\手取にせんとて追うて行く。 三保谷が着たりける。冑の錣を。 取りはづし取りはづし。二三度。逃げのびたれども。 思ふ敵なれば遁さじと。 飛びかゝり冑をおつとり。えいやと引くほどに錣は切れて。 此方に留れば。主は先へ逃げのびぬ。 遥に隔てゝ立ち帰りさるにても汝。 おそろしや腕の強きと言ひければ。 景清は三保の谷が。頸の骨こそ。強けれと笑ひて。 左右へのきにける。 昔忘れぬ物語。衰へはてゝ心さへ。 乱れけるぞや恥かしや。 此世はとても幾ほどの。命のつらさ末近し。 はや立ち帰り亡き跡を。弔ひ給へ盲目の。

くらき所の燈あしき道橋と頼むべし。 さらばよ留る行くぞとの。

只一声を聞き残すこれぞ親子の。形見なるこれぞ親子の形見なる 赦免の使 僧都俊寛 丹波少将成経 平判官康頼

ワキ詞「これは相国に仕ヘ申す者にて候。 さても此度中宮御産の御所の為に。 非常の大赦行はるゝにより。 国々の流人赦免ある。中にも鬼界が島の流人の内。 丹波少将成経。 平判官康頼二人赦免の御使をば。某承つて候ふ間。 唯今鬼界が島へと急ぎ候。 成経、康頼、次第「神を硫黄が島なれば。/\。 願も三つの山ならん。 サシ「これは九州薩摩潟。鬼界が島の流人の内。 成経「丹波の少将成経。康頼「平判官入道康頼。 二人「二人が果にて候ふなり。われら都にありし時。 熊野参詣三十三度の。

歩をなさんと立願せしに。其半にも数足らで。 かゝる遠流の身となれば所願も空しく早なりぬ。 せめての事の余りにや。 此島に三熊野を勧請申し。都よりの道中の。 九十九所の王子まで。下歌「こと%\く順礼の。 神路に幣をさゝげつゝ。上歌「こゝとても。 同じ宮居と三熊野の。/\。 浦の浜木綿ひとへなる。 麻衣のしをるゝを唯其まゝの白衣にて。真砂を取りて散米に。 白木綿花の御祓して神に歩を。 運ぶなり神に歩を運ぶなり。 シテ一セイ「後の世を。待たで鬼界が島守と。 地「なる身の果の。闇きより。シテ「闇き。

道にぞ。入りにける。 サシ「玉兎昼眠る雲母の地。金鶏夜宿す不萌の枝。 寒蝉枯木を抱きて。鳴き尽して頭をめぐらさず。 俊寛が身の上に知られて候。 康頼詞「あれなるは俊寛にてわたり候ふか。 これまでは何の為の御出にて候ふぞ。 シテ詞「早くも御覧じとがめたり。 道迎の其為に酒を持ちて参りて候。 康頼「そも一酒とは竹葉の。此島にあるべきかと。 立ち寄り見れば。や。これは水なり。 シテ「これは仰にて候へども。それ酒と申す事は。 もとこれ薬の水なれば。 〓{レイ:酉へんに霊}酒にてなど無かるべき。康頼成経「げに/\これは理なり。 頃は長月。シテ「時は重陽。康頼成経「所は山路。 シテ「谷水の。 三人「彭祖が七百歳を経しも。心を汲み得し深谷の水。 地歌「飲むからに。げにも薬と菊水の。/\。 心の底も白衣の。ぬれてほす。 山路の菊の露のまに。我も千年を。経る心地する。

配所はさてもいつまでぞ。春すぎ夏たけて又。 秋暮れ冬の来るをも。 草木の色ぞ知らするや。あら恋しの昔や。 思ひでは何につけても。あはれ都にありし時は。 法勝寺法成寺たゞ喜見城の春の花。 今はいつしか引きかへて。五衰滅色の秋なれや。 落つる木の葉の盃。のむ酒は谷水の。 流るるも又涙川水上は。我なるものを。 物思ふ時しもは。今こそ限なりけれ。 ワキ「早船の。心にかなふ追風にて。 舟子やいとゞ。勇むらん。 詞「いかにこの島に流され人の御座候ふか。 都より赦免状を持ちて参りて候。急いで御拝見候へ。 シテ詞「あら有難や。候。 やがて康頼御覧候ヘ。康頼「何々中宮御産の御祈の為に。 非常の大赦行はるゝにより。 国々の流人赦免ある。中にも鬼界が島の流人の中。 丹波の少将成経。 平判官入道康頼二人赦免ある所なり。

シテ「何とて俊寛をば読み落し給ふぞ。康頼「御名はあらばこそ。 赦免状の面を御覧候へ。 シテ「さては筆者のあやまりか。ワキ「いや某都にて。 承り候ふも。康頼成経二人は御供申せ。 俊寛一。 人をば此島に残。 し申せとの御事にて候。 。 シテ「こはいかに罪も同じ罪。 配所も同じ配所。 。 非常も同じ大赦。 なるに、一人誓の網に漏れて。 。 沈み果てなん事は如何に。 。 クドキ「此ほどは三人一処に有りつるだに。さも恐ろしく凄ましき。 あら磯島にたゞ一人。離れて海士の捨草の。 波の藻。

屑のよるべもなくてあられんものか浅ましや。歎くにかひも渚の千鳥。 泣くばかりなる有様かな。 地クセ「時を感じては。花も涙をそゝぎ。 別を恨みては。鳥も心を動かせり。 もとよりも此島は。鬼界が島と聞くなれば。 鬼ある処にて今生よりの冥途なり。 たとひ。 如何なる鬼なりと此あはれなどか知らざらん。

天地を動かし鬼神も感をなすなるも人のあはれなるものを。 此島の鳥獣も鳴くは我をとふやらん。 シテ「せめて思の余りにや。 地「さきに読みたる巻物を。又引き開き同じあとを。 繰り返し/\。見れども/\たゞ。成経康頼と。 書きたる其名ばかりなり。 もしも〓{ライ:田の三重ね}紙にやあるらんと巻きかへして見れども。 僧。 都とも俊寛とも書ける文字は更になしこは夢かさても夢ならば。さめよ/\と現無き。 俊寛が有様を見るこそあはれなりけれ。 ワキ「時刻うつりて叶ふまし。 成経康頼二人ははや。御船に召され候へとよ。 康頼成経「かくてあるべき事ならねば。 よその歎きをふりすてゝ。 二人は船に乗らんとす。シテ詞「僧都も船に乗らんとて。 康頼の袂にとりつけば。 ワキ「僧都は船に叶ふまじと。さも荒けなく言ひければ。 シテ詞「うたてやな公の私といふ事のあれば。

せめては向の地までなりとも。 情に乗せて給び給へ。ワキ「情も知らぬ舟子ども。 櫨櫂をふりあげ打たんとすれば。 シテ「さすが命の悲しさに。又立ち帰り出船の。 詞「纜に取りつき引きとむる。 ワキ「舟人ともづな押し切つて。 船を深みに押し出す。シテ「せん方波にゆられながら。 たゞ手を合はせて船よなう。 ワキ「船よといへど乗せざれば。シテ「力及ばず俊寛は。 地「もとの渚にひれふして。 松浦佐用姫も。我が身にはよも増さじと。 声も惜まず泣き居たり。 ツレワキ三人ロンギ「痛はしの御事や。

我等都に上りなばよき様に申し直しつゝ。 やがて帰洛はあるべし御心づよく待ち給へ。 シテ「帰洛を待てよとの。 呼ばはる声も幽なる。頼を松蔭に。 音を泣きさして聞きゐたり。三人「聞くやいかにとゆふ波の。 みな声々に俊寛を。 シテ「申し直さば程もなく。三人「必ず帰洛あるべしや。 シテ「これは誠か。三人「なか/\に。 シテ「頼むぞよたのもしくて。地「待てよ/\といふ声も。姿も。次第に遠ざかる沖つ波の。 幽。 なる声絶えて船影も人影も消えて見え。 ずなりにけりあと消えて見えずなりにけり 継信の子鶴若 増尾兼房 源義経 佐藤継信母 弁慶 従者 鷲尾十郎 外同行山伏。

弁慶次第山伏一同「旅の衣は篠懸の。/\露けき袖やしをるらん。 上歌「子に臥し寅に起き馴れて。/\。雲居の月を峯の雪。 その松島に参らんと。東路さして急ぎけり/\。 ワキ詞「如何に申し候。 まづ此処に御休あらうずるにて候。兼房「承り候。や。 これに高札の立ちて候御覧候へ。 ワキ「なになに佐藤の館に於て。山伏摂待と候。 やがて御着き候へ。兼房「佐藤の館に於て。 山伏摂待の事は。われらが望む所なれども。 佐藤の館が憚にて候ふ程に。 御通あれかしと存じ候。 ワキ「これは仰にて候へども。 唯知らぬやうにて御着あらうずるにて候。 子方「いかに誰かある。狂言「御前に候。 子方「山伏たちはいくたり御着あるぞ。 トモ「十二人御着にて候。子方「まづ/\出でて対面申し候ふべし。 。

ワキ「これなる幼き人は誰が御子息にて渡り候ふぞ。 子方「これは佐藤継信が子にて候。ワキ「さて継信殿は御内に御座候ふか。 子方「判官殿の御供申し。 屋島の合戦に討たれて候。 ワキ「偖此摂待はいかなる人の御企にて候ふぞ。 子方「判官殿十二人の山伏となり。奥へ御下の由承り候ふ程に。 祖母にて候ふ者この摂待を初めて候。 見申せば方々こそ十二人御入り候へ。 もし判官殿にては御座なく候ふか。 ワキ「暫く候。 かゝる粗忽なることを承り候ふものかな。先々御内へ御入り候へ。 さればこそ御大事にて候。 恐ながら御座を替へられ。 皆々の中にうちまじり御座候へかしと存じ候。判官「げに是は尤もにて候。 シテ、アシラヒ出「いかに鶴若。 子方「何事にて候ふぞ。シテ詞「山伏達はいくたり御着あるぞ。 子方「十二人御着き候。シテ「かしまし/\。 一セイ「旧里を出でし鶴の子の。松に帰らぬ。 寂しさよ。サシ「げにや憚ある身として。

御前に参りてさむらへば。 且は亡き人の名をも朽たし。 又は子どもの古の恥をも。顕はすにてはさむらへども。 余りに御懐しき心ばかりにて。 御前に参りて候ふなり。これは故佐藤庄司が後家。 継信忠信が母にて候。 げにや親子恩愛の別の余りには。包むべき人目をも知らず。 又は憂き身の恥をも。 顕すにては候へども去りながら。此摂待と申すに。 現世の祈の為にも非ず。後生善所とも思はず。 嫡子継信は屋島にて討たれ。 弟忠信は都にて失せけるとばかりにて。 委しき事をも知らずして。ひとり悲しむ身を知る雨の。 晴れぬ心や慰むと。此摂待を始めて候。 札を立てゝよりこの方。 一日に五人三人乃至一人二人。 絶ゆる事はましまさねども。十二人はこれが初にて候。 いづれか我が君ぞ。何れかそにてましますぞ。 夜も更けたり。

人の知るべき事にもあらず。この姥が耳にそと御教へ候はゞ。 この摂待の利生にて。 下歌地「空しくなりし兄弟を再び見ると思ふべし。 親子よりも主従は。/\。深き契の中なれば。 さこそ我が君も。哀と思し召すらめ。 ことさら御為に。命を捨てし。郎党の。 一人は母一人は子なり。などや弔の。 御詞をも出されぬ。かほど数ならぬ。 身には思のなかれかし。 あら恨めしの憂き世や/\。 。 ワキ詞「これは思ひもよらぬ事を承り候ふものかな。われらごときの山伏の。 五人三人行き連れ/\通り候ふが。 今夜この摂待に十二人着きたればとて。 判官殿とは。 かゝる粗忽なる事を承り候ふものかなさりながら。継信忠信の母にてましまさば。 。 判官殿の御内の人の名字をば御存じ候ふべし。そなたより名を指して承り候ふべし。 。

シテ「仰の如く我が子は御内にありし者なれば。大方は推量申すとも。 さのみはよも違ひ候はじ。 兼房「かやうに物申す山伏をば。どこ山伏と御覧じて候ふぞ。 シテ「まづ唯今物仰せられつる客僧は。 此御供の内にては一の老体にて御入り候ふな。 いで此御供の内の年寄りたる人はたぞ。や。 今思ひ出したり。判官殿の御傅。 増尾の十郎権の頭。兼房山伏にてましますな。 又。 あれなる山伏はどこ山伏にて御渡り候ふぞ。 鷲尾「これは出羽の羽黒山より出でたる客僧にて候。 シテ「いやこれは播磨の人の声にて候。それをいかにと申すに。 此姥はもと播磨の者。 十三の年継母を怨み都に上り。故庄司殿と契り。 継信忠信をまうけ。今かく憂き目を見候へば。 唯怨めしうこそ候へ。 されば我が国の人の声なれば。などかは知らで候ふべき。 いで此御供の内に播磨の人はたそ。 これも思ひ出して候。

判官殿鵯越とやらんを通り給ひし時。狩人の姿にて参りあひ。 其まま名字賜はし。今までも御供と聞えし。 鷲尾の十郎山伏にて御渡り候ふな。 ワキ「さてかう申す山伏をば。 どこ山伏と知しめされて候ふぞ。 シテ「此御声大事にて候へ。都の人の声かと思へば。 又近江の人の声にも似たり。 物仰せられ候ふも何とやらん物々しく見え給ひて候。 あつぱれこれは西搭山伏ごさめれ。 それならば本は近江の人。三搭一の遊僧。 今は又我が君の。一人当千の武士よなう。地「武士も。 物の哀は知るものを。などされば余りに。 御心強くましますぞ。 あかさせ給へ人々と。他所目も知らず。 泣き居たり人目も知らず泣き居たり。 子方詞「かく心もなき人々に。 さのみ詞を尽し給はんより。 いまははや御内へ御入り候へ。判官詞「暫く候。 まこと継信の御子ならば。判官殿とおぼしきをさし給ひ候へ。

子方「承りて候ふとて。十二人の山伏の。 皆御顔を見渡して。 これこそ其にておはしませ。 判官「偖其にてあるべきとは何故に仰せ候ふぞ。 子方「いやいかに包ませ給ふとも。人にかはれる御粧。 疑もなき我が君よ。地「父給べなうとて走り寄れば。 。岩木を結ばぬ義経なれば泣く/\膝に懐き取る。げにや栴檀は。 二葉よりこそ匂ふなれ。真に継信が子なりけりと。 余所の見る目まで皆涙をぞ流しける。 ワキ詞「今は何をか隠し申すべき。 我が君にて御座候。此上は御座を直され候へ。 老。 尼も近う御参あつて御目に懸り申され候へ。シテ詞「あらありがたや候。 我が君を拝み参らするにつけて。 子供の事こそ思ひ出でられて候へ。ワキ「げに/\尤もにて候。シテ「いかに申し上げ候。 継信が屋島にての最期の有様剛なりとも申し。 又不覚なりとも申す。

何れか真にて候ふやらん承りたく候。判官詞「いかに弁慶。 ワキ「御前に候。 判官「継信が屋島にての最期の様を。 委しく語つて老尼に聞かせ候へ。ワキ「畏つて候。 御諚と申し所望といひ。懇に語つて聞かせ申し候ふべし。 御前近う御参り候へ。 語「偖も屋島の合戦。 今はかうよと見えしに。門脇殿の二男能登の守教経に。 矢一条参らせん受けて見給へとのゝしる。 かう申す各を初として。 皆御矢面に立たんとせしが。何とやらん心遅れたりし所に。 継信は心増りし剛の人にて。 御馬の前にかけ塞がつて。 義経これに在りやとてにつこと笑つて控へたり。 さて其時に教経は。引き設けたる弓なれば。 矢坪を指してひようと放つ。 過たず継信が着たりける。鎧の胸板押しつけ上巻。

かけずたまらずつゝと射通し。 後にひかへ給ふ我が君の。 御着背長の草摺にはつたと射留む。さて其時に継信は。 馬の上にて乗り直らん乗り直らんとせしかども。 大事の。 手なれば堪へずして馬より下にどうと落つ。やがて我が君御馬を寄せ。 継信を陣の後に舁かせ。いかに継信。いかに/\と宣へども。 たんだ弱りに弱つて終に空しくなる。 なんぼう面目もなき物語にて候。 シテ「さて其時に弟の忠信は候はざりけるか。ワキ「あら愚や忠信は。 日の下に於て隠れましまさず。 能登殿の童菊王丸。 継信が首を目懸け渚の方に走り渡るを。忠信彎いて放つ矢に。 菊王が真中射。 通されかつぱと転べば教経舟より飛んでおり。菊王がわだがみ掴んで。 遥の船に投げ入れ給へば。 程なく舟にて空しくなる。眼前兄の敵をば。 弟の忠信こそ取つて候へ。シテ「偖は敵も大将に。

仕へ申しし御童。ワキ詞「継信は又我が君の。 秘蔵に思せし御内の人。 シテ「かれは平家の舟の内。ワキ「此方は源氏の陸の陣。 シテ「かれも主従。ワキ「これも主従。 シテ「思は同じ思なれば。 ワキ「余所の嘆を思ひ合はせて。御慰みも候へとよ。 シテ「それは仰までもさむらはず。 御身がはりに立ち参らする上は。今後後世の面目なり。 さりながら一人なりとも御供申し。 御笈をも肩に懸け。この御座敷にあるならば。 地「十二人の山伏の。十三人も連なりて。 唯今見ると思はゞいかゞは嬉しかるべき。 クセ「其時義経。老尼に語り給ふやう。 屋島にて継信。今はかうやと見えし時。 思ふ事あらば。委しく言ひ置けと。 くれぐれ尋ね問ひしに。継信其時に。 息の下より申すやう。弓矢取る身の。 御身がはりに立つ事。 二世の願や三世の御恩を少し報謝する。命の軽き身は。

露塵何か惜しからん。さりながら古里に。 八旬に及ぶ母と十に余るわらんべ。 これらが事の不便さぞ。少し心にかゝる雲の。 月に覆ひて。光も闇くなる如く。そのまゝくれ/\と。遂に空しくなりにけり。 判官「かやうに郎党を討たせつゝ。地「自ら手を砕き。 忠勤まこと曇らずは。 終に治まる世に出でゝ。継信忠信が。子孫を尋ね出して。 命の恩を報ぜんと。思ひし事も空しく。 われさへかゝる姿にて。 其名をだにも名のり得ぬ。憂き身の果ぞ悲しき。 シテ「母は思に堪へかねて。 更くるも知らず有明の。 月の盃取りいだし御酌にこそ参りけれ。 判官「げにや心を汲みて知る。人の情の盃を。涙と共に受けて待つ。 子方「鶴若酌に立ち代り。 別れし父の御前にて。給仕すると思ひなして。 地「十二人の山伏の。終夜の酌を取り廻り。 座敷にも直らで進み勇める有様を。

父に見せばやとぞ思ふ。 地「さる程に。夜もほの%\と明け行けば。/\。 暇申してさらばとてはや此宿を立ち出づる。 子方「いかに誰かある馬に鞍おき。弓靭参らせよ。 君の御供申さうずるに。シテ詞「そも御供とは何事ぞ。 子方「君の御供申してこそ。 親の敵にもあふべけれ。シテ「それは弓矢の御供なり。 これは修行の山伏道に。 何の敵のあるべきぞ。子方「さあらば思ひ出したり。 小さき兜巾篠懸を。とく拵へて給び給へ。 山伏道の御供せん。 ワキ詞「弁慶涙を押へつつ。いかに申さん鶴若殿。 まこと御供ありたくば。今日は道具を拵へ給へ。 明日は迎に参るべし。子方「真さうか。 ワキ「中中に。ツレ「我も迎に参るべし。 ワキ「われも迎に参らんと。 地「面々声々にすかされて。いとけなき身の悲しさは。 真ぞと心得て。少し詞の弱りたる。

をりを得て客僧は。泣く/\宿を出でければ。 シテ「老尼は鶴若を抱きいれ。

地「行くは慰む方もあり。とまるや涙なるらん/\ 旅僧 佐野源左衛門尉常 常世の妻 道明寺時頼 近侍 従僧。

ワキ次第「行方さだめぬ道なれば。/\。 来し方も何くならまし。 詞「是は一処不住の沙門にて候。我此ほど信濃の国に候ひしが。 余りに雪深くなり候ふほどに。 まづ此度は鎌倉に上り。 春になり修行に出でばやと思ひ候。道行「信濃なる。 浅間の嶽に立つ煙。/\遠近人の袖寒く。 吹くや嵐の大井山捨つる身になき友の里。 今ぞ浮世を離坂。墨の衣の碓氷川。 下す筏の板鼻や。佐野の渡に。 着きにけり佐野の渡につきにけり。 詞「急ぎ候ふほどに。

上野の国佐野の渡に着きて候。 あら笑止や又雪の降り来りて候。此処に宿を借らばやと思ひ候。 いかに此屋の内へ案内申し候。 ツレ「誰にてわたり候ふぞ。ワキ「これは修行者にて候。 一夜の宿を御かし候へ。 ツレ「安き御事にて候へども。主の御留守にて候ふほどに。 御宿は叶ひ候ふまじ。 ワキ「さらば御帰までこれにこれに待ち申さうずるにて候。 ツレ「それはともかくもにて候。 わらはは外面へ出で迎ひ。此由を申さばやと思ひ候。 シテ「あゝ降つたる雪かな。 如何に世にある人の面白う候ふらん。

それ雪は鵞毛に似て飛んで散乱し。 人は鶴〓{しやう}を着て立つて徘徊すと言へり。されば今ふる雪も。 もと見し雪にかはらねども。 我は鶴〓を着て立つて徘徊すべき。 袂も朽ちて袖せばき。細布衣陸奥の。 けふの寒さを如何にせん。あら面白からずの雪の日やな。 詞「あら思ひよらずや。 此大雪に何とてこれに佇みて御入り候ふぞ。 ツレ「さん候修行者の御入り候ふぞ。 一夜の御宿と仰せ候ふほどに。御留守の由申して候へば。 。 御帰まで御待あらうずるよし仰せ候ふほどに。これまで参りて候。 シテ「さてその修行者はいづくに渡り候ふぞ。 ツレ「あれに御入り候。 ワキ「我らが事にて候。いまだ日は高く候へども。 余りの大雪にて前後を忘じて候ふほどに。 一夜の宿を御かし候へ。 シテ「やすき程の御事にて候へども。余りに見苦しく候ふほどに。 御宿は叶ひ候ふまじ。

ワキ「いや/\見苦しきは苦しからぬ事にて候。 ひらに一夜を御かし候へ。 シテ「留め申したくは候へども。 我等夫婦さへ住みかねたる体にて候ふほどに。なか/\御宿は思ひもよらぬ事にて候。これより十八町あなたに。 山本の里とてよき泊の候。 日の暮れぬさきに一足もはやく御出で候へ。 ワキ「さてはしかと御借あるまじいにて候ふか。 シテ「御痛はしくは存じ候へども。 御宿は参らせがたう候。ワキ「あら曲もなや。 よしなき人を待ち申して候ふものかな。 ツレ「あさましや我等かように衰ふるも。 前世の戒行つたなき故なり。 せめてはかやうの人に値遇申してこそ。 後の世の便ともなるべけれ。 然るべくは御宿を参らさせ給ひ候へ。 シテ詞「さやうに思し召し候はゞ。何とて以前には承り候はぬぞ。 いやいや此大雪に遠くは御出で候ふまじ。 某追附き留め申し候ふべし。

なう/\旅人御宿参らせうなう。 余りの大雪に申す事も聞えぬげに候。痛はしの御有様やな。 もと降る雪に道を忘れ。 今ふる雪に行方を失ひ。一処に佇みて。 袖なる雪を打ち。 払ひ打ち払ひし給ふ気色。 古歌。 の心に似たるぞや。 駒とめて袖。 うちはらふ陰もなし。 詞「佐野の渡の雪の夕暮れ。 。 かやうによみしは大和路や。 三。 輪が崎なる佐野のわたり。 地下歌「これは東路の。 佐野の渡の雪の暮に迷ひつかれ給はんより。 見ぐるしく候へど一夜は泊り給へや。 上歌「げにこれも旅の宿。/\。仮初ながら値遇の縁。

一樹の蔭のやどりも此世ならぬ契なり。 それは雨の木蔭これは雪の軒ふりて。 憂き寝ながらの草枕。夢より霜や結ぶらん。 夢より霜やむすぶらん。 シテ「いかに申し候。 お宿は申して候へども。 何にても候へ参らせうずる物もなく候ふはいかに。 ツレ「をりふしこれに粟の飯の候ふほどに。

苦しからずはまいらせられ候へ。シテ「さらば其由申し候ふべし。 いかに申し候。 御宿をば参らせて候へども。何にても参らせうずる物もなく候。 。 をりふしこれに粟の飯のあるよし申し候。苦しからずは聞し召され候へ。 ワキ「それこそ日本一の事にて候賜はり候へ。 シテ「なうきこし召されうずると仰せ候。 急いで参らせられ候へ。ツレ「心得申し候。 シテ「総じて此粟と申す物は。 古世にありし時は。 歌に詠み詩に作りたるをこそ承りて候ふに。 今は此粟をもつて身命を継ぎ候。 げにや盧生が見し栄花の夢は五十年。その邯鄲の仮枕。 一炊の夢のさめしも。粟飯かしく程ぞかし。 あはれやげに我もうちも寝て。 夢にも昔を見るならば。慰む事もあるべきに。 なう御覧ぜよかほどまで。 地「住みうかれたる故郷の。松風寒き夜もすがら。 寝られねば夢も見ず。何思出のあるべき。

。 シテ詞「夜の更くるについて次第に寒くなり候。 何をがな火に焚いてあて参らせ候ふべき。や。思ひ出したる事の候。 鉢の木を持ちて候。 これを切り火に焚いてあて申し候ふべし。ワキ「げに/\鉢の木の候ふよ。 シテ「さん候某世にありし時は。 鉢の木に好き数多木を集め持ちて候ひしを。かやうの体に罷りなり。 いやいや木ずきも無用と存じ。 皆人に参らせて候さりながら。 今も梅桜松を持ちて候。あの雪もちたる木にて候。 某が秘蔵にて候へども。今夜のおもてなしに。 これを火に焚きあて申さうずるにて候。 。ワキ「いや/\これは思ひもよらぬ事にて候。御志はありがたう候へども。 自然。 又おこと世に出で給はん時に御慰にて候ふ間。なか/\思ひもよらず候。 シテ「いやとても此身は埋木の。 花咲く世に逢はん事。今此身にてあひ難し。

ツレ「唯いたづらなる鉢の木を。 御身の為に焚くならば。シテ「これぞ誠に難行の。 法の薪と思し召せ。ツレ「しかも此程雪ふりて。 シテ「仙人に仕へし雪山の薪。 ツレ「かくこそあらめ。シテ「我も身を。 地「捨人の為の鉢の木切るとてもよしや惜からじと。 雪打ち払ひて見れば面白やいかにせん。 先冬木より咲きそむる。窓の梅の北面は。 雪封じて寒きにも。 異木よりまづ先だてば梅を切りや初むべき。見じといふ。 人こそうけれ山里の。折りかけ垣の梅をだに。 情なしとをしみしに。 今更薪になすべしとかねて思ひきや。クセ「桜を見れば春ごとに。 花すこし遅ければ。 此木やわぶると心をつくし育てしに。今は我のみわびて住む。 家桜きりくべて緋桜になすぞ悲しき。 シテ「さて松はさしもげに。 地「枝をため葉をすかして。かゝりあれと植ゑ置きし。 そのかひ今は嵐吹く。

松はもとより常磐にて。薪となるは梅桜。 切りくべて今ぞ御垣守。 衛士の焚く火はお為なりよくよりてあたり給へや。 。 ワキ詞「近頃よき火にあたり寒さを忘れて候。 シテ「御出により我等も火にあたりて候。ワキ「いかに申し候。 主の御苗字をば何と申し候ふぞ承りたく候。 シテ「いや某は苗字もなき者にて候。 ワキ「何と仰せ候ふとも。唯人とは見え給はず候。 自然の時の為にて候。 なにの苦しう候ふべき御苗字を承り候ふべし。 シテ「此上は何をか包み候ふべき。 これこそ佐野の源左衛門の尉常世がなれの果にて候。 。ワキ「それは何とてかやうのさん%\の体には御なりさふらふぞ。シテ「其事にて候。 一族どもに押領せられて。 かやうの身となりて候。 ワキ「なうそれは何とて鎌倉へ御上り候ひて。其御沙汰は候はぬぞ。 シテ「運の尽くる所か。

最明寺殿さへ修行に御出で候ふ上は候。 かやうにおちぶれては候へども。 御覧候へこれに物の具一領長刀一えだ。 又あれに馬をも一匹つないで持ちて候。 これは只今にてもあれ鎌倉に御大事あらば。 ちぎれたりとも此具足取つて投げかけ。 錆びたりとも長刀を持ち。痩せたりともあの馬に乗り。 一番に馳せ参じ着到に附き。 さて合戦始まらば。地「敵大勢ありとても。/\。 一番に。 割つて入り思ふ敵と寄合ひ打合ひて死なん此身の。此侭ならば徒らに。 飢に疲れて死なん命。何ぼう無念の事さうぞ。 ロンギワキ「よしや身の。 かくては果てじ唯頼め。我世の中にあらんほど。 又こそ参り候はめ暇申して出づるなり。 シテツレ二人「名残をしの御事や。始めはつゝむ我が宿の。 さ。 も見苦しく候へどしばしは留まり給へや。ワキ「留まるは名残のまゝならば。 さて幾たびか雪の日の。

シテツレ二人「空さへ寒き此暮に。ワキ「いづくに宿を狩衣。 シテツレ二人「今日ばかり留まり給へや。 ワキ「名残は宿にとまれども。いとま申して。 シテツレ二人「御出でか。ワキ「さらばよ常世。 シテツレ二人「また御入。 地「自然鎌倉に御上あらば御尋あれ。けうがる法師なりかひ%\しくはなけれども。披露の縁になり申さん。 御。 沙汰捨てさせ給ふなといひすてゝ出船のともに名残や。 をしむらんともに名残や惜むらん。中入早鼓間「。 後シテ詞一声早笛「いかにあれなる旅人。 鎌倉へ勢の上るといふは誠か。何おびたゝしく上る。 さぞあるらん。東八個国の大名小名。 思ひ/\の鎌倉入。 さぞ見事にて候ふらん。白金物打つたる糸毛の具足に。 金銀をのべたる太刀刀。 飼ひに飼うたる馬に乗り。乗替中間きらびやかに。 うちつれ/\上る中に。 常世が常にかはりたる馬物具や打物の。

物其ものにあらざる気色に。さぞ笑ふらんさりながら。 所存は誰にも劣るまじと。心ばかりは勇めども。 勇みかねたる痩馬のあら道おそや。 地「急げども。/\。弱気に弱気。 柳の糸の。シテ「よれによれたる痩馬なれば。 地「打てどもあふれども。 先へは進まぬ足弱車の乗り力なければ負ひかけたり。 後ワキ詞「いかに誰かある。ワキツレ「御前に候。 。 ワキ「国々の軍勢どもは皆々来りてあるか。ワキツレ「さん候悉く参りて候。 ワキ「其諸軍勢の中に。 いかにもちぎれたる具足を着。さびたる長刀を持ち。 痩せたる馬を自身ひかへたる武者一騎あるべし。 急いで此方へ来れと申し候へ。 ワキツレ「畏つて候。いかに誰かある。狂言「御前に候。 ワキツレ「君よりの御諚には。 諸軍勢の中にちぎれたる具足を着。錆たる長刀を持ち。 痩たる馬を自身控へたる武者有るべし。 。

急いで尋ねて御前へ参れとの御事にて候。狂言「畏つて候。いかに申し候。 シテ「何事にて候ふぞ。 狂言「急いで御前へ御参り候へ。 シテ「何と某に御前へ参れと候ふや。狂言「なか/\の事。 シテ「あら思ひよらずや。定めて人違にて候ふべし。 狂言「いや/\其方の事にて候。 其子細は諸軍勢の中に。 いかにも見苦しき武者をつれて参れとの御事にて候ふが。 見申せば其方ほど見苦しき武者も候はぬ程に。 さて申し候。急いで御参り候へ。 シテ「何とたとへば諸軍勢の中に。 いかにも見苦しき武者に参れと候ふや。狂言「なか/\の事。 シテ「さては某が事にて候ふべし。 畏つたると御申し候へ。狂言「心得申し候。 シテ「げに/\これも心得たり。 某が敵人謀叛人と申し上げ。 御前に召し出され頭を刎ねられん為な。よし/\それも力なし。いで/\御前に参らんと。 大床さして見渡せば。地「今度の早打に。/\。

。 上りあつまる兵きら星の如く並み居たり。さて御前には諸侍。 其外数人並み居つゝ。 目を引き指をさし笑ひあへる其中に。シテ「横縫のちぎれたる。 地「古腹巻に錆長刀。やう/\に横たへ。 わるびれたる気色もなく。 参りて御前にかしこまる。 。 ワキ詞「やあ如何にあれなるは佐野の源左衛門の尉常世か。 これこそいつぞやの大雪に宿かりし修行者よ。見忘れてあるか。 いで汝佐野にて申せしよな。 今にてもあれ鎌倉に御大事あるならば。 ちぎれたりとも其具足取つて投げ懸け。 錆びたりとも其長刀を持ち。 痩せたりともあの馬に乗り。一番に馳せ参るべきよし申しつる。 言葉の末を違へずして。 参りたるこそ神妙なれ。先々今度の勢づかひ。 全く余の義にあらず。常世が言葉の末。 真か偽か知らんためなり。又当参の人々も。

訴訟あらば申すべし。 理非によつて其沙汰いたすべき所なり。先々沙汰の始めには。 常世が本領佐野の庄。 三十余郷かへし与ふる所なり。又何よりも切なりしは。 大雪ふつて寒かりしに。 秘蔵せし鉢の木を切り。火に焚きあてし志をば。 いつの世にかは忘るべき。いで其時の鉢の木は。 梅桜松にてありしよな。其返報に。 加賀に梅田。越中に桜井上野に松枝。 合はせて三箇の庄。子々孫々に至るまで。 相違あらざる自筆の状。

安堵に取り添へ給びければ。シテ「常世は之を賜はりて。 地「常世は之を賜はりて。三度頂戴仕り。 これ見給へや人々よ。 始め笑ひしともがらも。これほどの御気色。 さぞ羨ましかるらん。さて国々の諸軍勢。 皆御いとま賜はり故郷へとてぞ帰りける。 シテ「其中に常世は。 地「其中に常世はよろこびの眉を開きつゝ。今こそ勇め此馬に。 うちのりて上野や。佐野の舟橋とりはなれし。 本領に安堵して。 帰るぞうれしかりける/\ 深草少将の子 小次郎 深草少将 里人

ワキ次第「夢の世なれば驚きて。/\。 捨つるや現なるらん。詞「かやうに候ふ者は。 深草の少将がなれの果にて候。われ妻に後れ。 憂世あぢきなくなりゆき候ふ程に。

一子を捨てかやうの姿となりて候。 われ世に在りし時より。善光寺への望にて。 此程は信濃の国に候ふが。 今日も又御堂へ参らばやと思ひ候。

シテ一声「いかにあれなる道行き人。 善光寺への道教へてたべ。詞「何物狂とや。 よしさ思し召さんにつきては。猶御情は有明の。 つれなくもお通り候ふものかな。 詞「これに御入り候ふは主君にて御座候ふが。 父を失ひかなたこなたを御尋ね候。 これを憐みてたび給へ。 あら笑止や又むつかり候ふよ。いや/\さやうに心弱くむつかり候はゞ。けふよりして。 御供申すまじく候。子方「如何にめのと。 けふよりして泣くまじいぞとよ。シテ「あらいとほしや。 さあらば何処までも御供申し。 父御に逢はせ参らせ候ふべし。痛はしや古は。 鸞輿属車に召されし御身の。 名も高かりし日月も。地に遠近の土の車。 引きかくしたる有様かな。諸仏念衆生。衆生不念仏。 シテ子方二人次第「住まで世に経る土車。/\めぐるや雨の浮雲。地「住まで世に経る土車。 /\。めぐるや雨の浮雲。

子方サシ「これは都のほとり深草の者にて候ふが。 思の外に父を失ひ。諸国を廻り候ふなり。 シテ「悲しきかなや生死無常の世の習。 一人に限りたる事はなけれども。 シテ子方二人「悲の母は空しくなり。残る父さへ幾程なく。 思の家を出で給へば。其行方をも。白雪の。 あとを尋ねて。迷ふなり。 シテ「あはれやげに古は。花鳥酒宴に纏はされ。 春秋を送り迎へし御身の。 かくあさましくなりぬれば僅なる露の命を残さんと。 下歌「念仏申し鼓を打ち。 地「袖をひろげ物を乞ふ。上歌「心を人の憐まば。/\。 尋ぬる父の行方を。教へてたばせ給へと。 問へばはかなき憂き身ぞと。 思ひながらも憂き旅を。信濃の国に聞えたる。 善光寺にも着きにけり/\。 狂言「いかにこれなる狂人。 面白う狂ひ候へ。シテ「いや今は狂ひたうなく候。 狂言「御身はすねたる事を申す物かな。

物狂なれば狂へと申す。唯狂うて見せ候へ。 シテ「いや/\狂ひ候ふまじ。 狂言「さては狂ふまじきか。近頃憎き事を申すものかな。 狂。 ふまじきならば此如来堂には適ふまじきぞ。急いで出で候へ。いや/\御堂ばかりは曲もなく候。此国には適ふまじ。 此国ばかりは猶も狭く候。 総じて天下に適ふまじきとよ。 シテ「何と天が下に適ふまじきと候ふや。 恐れながらおことの身として。 天が下に適ふまじと思もよらぬ仰かな。 そのかみ天智天皇の御宇かとよ。 千方と云ひし逆臣ありしが其身も勢ありし上。四つの鬼を使ひしかば。 攻むべき様もなかりしに。 藤原の朝臣一首の歌を書き。鬼の城に遣す其歌に。 土も木も。我が大君の国なれば。 いづくか鬼の。宿と定めん。地「此歌のことわりに。 /\。鬼も愛でて去りぬれば。 千方も亡び候ひて。一天四海波を。

打ち治め給へば国も動かぬあらがねの。 土の車のわれらまで。道狭からぬ大君の。 御影の国なるをば独せかせ給ふか。 シテ「殊更当国信濃路や。地「木曽の桟橋かけてげに。 たのみも危からぬ法の声立てゝ猶。 諸人の憐他のちから洩らさじ物を弥陀仏の。 御影もあまねく憐ませ給へ人々。 憐の中にも此御仏ぞ上なき。 仏は衆生を一子と思しめさるれば。 殊更われらが影頼み頼む中にも弥陀は母にてましませば。 父にも逢はせて。たばせ給へなまみだ。 シテ「阿弥陀仏。詞「阿弥陀仏。歌舞の菩薩声々に。 花のふり鼓。篳篥笙の笛和琴。 声を上げて叫べども。 父とも答へず哀とだにも知らざれば。よしそれまでぞ。 さゝらも八撥をも。 うち捨てゝ狂はじ皆うち捨てゝ狂はじ。 ワキ詞「不思議の事の候。 これなる物狂をいかなる者ぞと思ひて候へば。

古里に留め置きたる一子にて候。 又こなたなるは傅の小次郎にて候。 あら不便と衰へて候ふや。頓て名乗つて悦ばせばやと思ひ候。 や。あら何ともなや。 一度思ひ切りたる道に。 又輪廻の心に出で来て候ふはいかに。今逢ひ見ずは終の別。 今逢ひ見ずは終の悦。真に三界の絆を。 地「こゝにて切ると思ひなし。 南無阿弥陀仏と称へてさらぬやうにて行き過ぐる/\。 シテ詞「いかに申し候。 これまで父御をば尋ね参らせて候へども。 父御に似たる人さへ御座なく候。さて何と仕り候ふべき。 子詞「今は命も惜からず。 前なる川に身を投げ空しくならばやと思ひ候。 シテ「げにげにけなげにも仰せ候ふものかな。 さらば御供申し身を投げ候ふべし。 さりとも。 善光寺にては尋ね逢ひ参らせうずると存じ候へども。 今ははや某も退屈仕りて候。今宵は如来の御前にて。

御心静かに念仏を御申し候へ。 明けなば川へ御供申し候ふべし。 地クリ「それ生死輪廻の根元を尋ぬるに。 有相執着の妄念より起れり。 シテ「おのれと心に迷うて流転無窮にして。 地「車の庭に廻るが如し。 昇沈不定にしては鳥の林に遊ぶに異ならず。 シテ「悲しきかなやわれら今。人界に生を受くとは云ひながら。 地「見仏聞法の結縁をもなさゞれば。 未来の楽も。いかゞと思ひ。知られたり。 クセ「凡弥陀の悲願には。 破戒闡提をも洩さず。 一念十念の間にかの国に迎へ取るべしと五劫思惟の本願なり。 シテ「さればにや其心。地「極重悪人無他方便。 唯称弥陀得生極楽と説かせ給へる。 此理に任せつゝわれらを助けおはしませ/\。 シテ詞「思ひ切りたる事なれば。 二人は手に手を取りかはし。 川のほとりに立ち出づる。ワキ「思ひ切りたる事なれども。

又引きかへす心地して。 門前さして追うて行く。シテ「すははや川に近づきぬと。 二人は西にうち向ひ。 既に憂き身を投げんとす。ワキ「あゝ暫しとて引き留むる。 。 シテ「ありて憂ければ捨つる身を留め給ふはなか/\に。 われらが為には憂き人なり。ワキ「今は何をか包むべき。 これこそ父の少将よ。シテ「更に真と白雪の。 古里の名は。ワキ「深草の。 地「葉末の露の消えもせで。 命のあれば復父に逢ふこそ嬉しかりけれ。逢ふ事の。 もし夢ならばいかにせん。 現になり行かばまたもや父に別れなん。 地「ともに。命のながらへて。 復廻り逢ふ小車の。別の時の憂き思。 今あふ事の嬉しさを。何にたとへん。 方も渚の波夜。 昼恋ひし我が父にあふこそ嬉しかりけれ。/\ 高師四郎 高野山の僧 従僧 平松春満 春満の使者

。 シテ詞「これは常陸の国の住人平松殿に仕へ申す。高師の四郎と申す者にて候。 さても頼み奉る平松殿は。 去年の秋空しくならせ給ひて候。 又春満殿と申して御子息の御座候ふが。 未だ幼くましまするより。 某にもりたて申せとの御遺言にて候ふ程に。 片時も離れ申さず春満殿をもりたて申し候。 又今日は平松殿の御忌日にて候ふ間。御寺に参らばやと存じ候。 サシ「昔在霊山名法華。 今在西方名阿弥陀。娑婆示現観世音。三世利益同一体。 げに有難き。悲願かな。 地「慈眼視衆生悉く。/\。誓普き日の影の。 曇りなき世の御恵。後の世かけて。 頼むなり後の世かけて頼むなり。

狂言「春満殿の御文にて候御覧候へ。 シテ「あら思ひ寄らずや。まづ/\御文を見うずるにて候。 文「夫れ受けがたき人身を受け。逢ひがたき如来の教法に逢ふ事。 闇夜の燈。渡に船待ち得たる心地して。 我と覚めん夢の世に。 今を捨てずは徒らに。又三途にも帰らん事。 歎きてもなほ余りあり。此生に此身を浮かずは。 いつの時をか。頼むべき。 然るに一子出家すれば。七世の父母成仏すといへり。 此身を捨てゝ無為に入らば。 別れし父母の御事のみか。生々の親を助けん事。 これに如かじと。思ひ切りつゝ家を出で。 修行の道に赴くなり。父母に別れし其後は。 唯お事をこそひたすらに。

父とも母とも頼みつれ。かくとも申さで別るゝ事。 乳房の恩の父母に。二度別るゝ心地して。 おん名残こそ惜しう候へ。 かまひて尋ね給ふなよ。三年が内には必ず/\。 身の行方をも知らせ申さん。 唯名残こそ惜しう候へ。墨衣思ひ立てどもさすが世を。 出づる名残の袖はぬれけり。 地下歌「書き残されし言の葉の。 若木の花を先立てゝ身の為る果は如何ならん。 上歌「恨めしの御事や。/\。たとひ世を捨て給ふとも。 三世の契なるものを。 いづくまでも御供に。などや伴ひ給はぬぞ。 今は散りゆく花守の。頼む木蔭も嵐吹く。 行方やいづく雲水の。 跡を慕ひて何ことも知らぬ道。 にぞ出でにける知らぬ道にぞ出でにける。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人次第「うき世の夢も覚めぬべし/\。 深き御法を頼むなり。 ワキ詞「これは高野山の住僧にて候。

又これに御座候ふ幼き人は。いづくとも知らず来り給ひ。 出家の御望の由にて愚僧を御頼み候へども。 尋ぬる人もや候らんと。様々に労はり。 日を送り候。又今日は三鈷の松に伴ひて。 慰め申さばやと存じ候。 後シテ一声「薄墨に書く玉章と見ゆるかな。 霞める空に。詞「帰る雁の。 翅に附けしは蘇武が文。それは故郷の旅衣。 君を忘れぬ心ぞかし。我も主君の御行方。 うはの空なる御跡を。尋ねや逢ふと遥々の。 陸奥紙に書き遺す。文こそ君の形見なれ。 あら覚束なの御身の行方やな。呼子鳥。カケリ「。誘はれし。 花の行方を尋ねつゝ。地「風狂じたる。 心かな。シテ「肌身に添ふる此文を。 地「懐紙と。人や見ん。地「朝もよし。 紀の関越えて名に聞きし。/\。 これや高野の山深み。茂みの木蔭分け行けば。 こゝも筑波の山やらんと我が方を思ひ出の。 昔ゆかしき心にも。なほわが主君恋しやと。

夕。 山松の根はふ道をいざや狂ひ上らんいざいざ狂ひ上らん。立ちのぼる雲路の。 /\。こゝはいづく高野山に。 来て見れば尊やな。 或は念仏称名の声々或は鳧鐘鈴の声。耳に染み心すみて。 物狂の狂ひさむる心や。シテ「いつかさて。 地「いつかさて。 尋ぬる人を道の辺の便の桜をりあらば。などか主君に逢はざらんと。 懇に祈念して。三鈷の松の下に。 立ち寄りて休まん。いざ立ち寄りて休まん。 子方「これなる物狂をよく/\見候へば。 。 故郷にて召し使ひし高師の四郎と申す者にて候ふが。 某を尋ねてかやうに物狂となりたると思ひ候。 ワキ「言語道断されば御名のり候へ。子方「いや暫く。 思ふ子細の候へば。 まづ知らぬ由にて言葉をかけて御覧候へ。ワキ「心得申し候。 不思議やな姿を見れば異形なる有様なり。 此高野の内へは叶ひ候ふまじ。

人に咎められぬ先にとう/\出で候へ。 シテ「これは御利益ともなき仰かな。 人を尋ねて此山に来るを。たゞ帰れとは御情なや。 かゝる結界清浄の地に。入り定まれる高野の山を。 帰り出でよの御説教。 心得ずこそ候へとよ。ワキ「入り定まれる高野の山とは。 耳に留まる言葉なり。シテ「げにも/\入定と申す事は。 憚多き詞やらん去りながら。かく世を遁れ身を捨てゝ。 山に入るは順義ならずや。 ワキ「さてはお事は人をば尋ねず。我と其身を捨人か。 シテ「いや尋ぬる主君も捨人なれば。 出家の御供申さんため。我も憂身を捨人なり。 ワキ「さやうの出家の望ならば。 何とて様をば変へざるぞ。 シテ詞「いや姿を改めぬこそ発心初縁の形なれ。 ワキ「まこと発心初縁ならば。人仏不二の道は知れりや。 シテ「事新しき仰かな。忝くも大師の御身は。 内心三昧目前なり。これぞ正しく人仏不二。

ワキ「あう殊勝なりげにも大師は。 生有りながら生死涅槃に。 シテ「入り定まれる高野の奥。ワキ「今此山にまのあたり。 シテワキ二人「昔薩〓{新字源:1415。た}の印明を授かり。 慈氏の下生を待ち給ふ事。人仏不二の妙体なり。 地「大師の待ち給ふは。慈尊三会の暁。 。 我は三世の主君を尋ねて此高野山に参りたり。 地クリ「抑此高野山と申すは。 帝都を去つて二百里。人家を離れて。無人声。 シテサシ「然れば末世の隠処として。 結界清浄の道場たり。地「中にも此三鈷の松は。 大同二年の御帰朝以前に。我が法成就円満の地の。 印に残り留まれとて。 三鈷を投げさせ給ひしに。光とともに飛び来り。 此松の梢に留まれる。シテ「そも/\諸木の中に分きて。地「松に留まる其ためし。 千代万代の末かけて。久かれとの御誓願。 委しく旧記に。のせられたり。

クセ「さればにや。真如平等の松風は八葉の峰を。 静かに吹き渡り。法性。 随縁の月の影は八つの谷に曇らずして。 誠に三会の暁を待つ如くなり。 さてこそ即身成仏の相をあらはし入定の地を示しつゝ。 深々たる奥の院。深山烏の声澄みて。 飛花落葉の嵐まで。 無常観念を勧むるこれとても又常住の。 皆令仏道円覚の由をあかすなり。シテ「然れば時うつり事去りて。 地「四季をり/\のおのづから。光陰惜むべし。 時人を待たざるに。貴賎群集の雲霞。 かゝる高野の山深み。 谷嶺の風常楽の夢さめ。法の称名妙音の。 心耳に残り満ち/\て。唱へ行ふ聞法の。 声は高野にて静かなる霊地なりけり。 地「尋ね来し。中ノ舞「。 シテ「霞の奥の。高野山。地「時しも春の。 シテ「花壇上。地「花壇上月伝法院。 紅葉三宝院よりもなほ深く。雪は奥の院。

かれよりもこれよりも。 いつも常磐の三鈷の松蔭に立ち寄る春の。風狂じたる。 物狂ひ/\。あら恐や。 シテ「高野の内にては。地「高野の内にては。 謡ひ狂はぬ御制戒を。忘れて狂ひたり。 ゆるさせ給へ御聖。/\。 子方詞「やあいかにあれなるは高師の四郎にてはなきか。 何とてこれまで来りたるぞ。 シテ「や。 あれにましますは春満殿にて御座候ふか。何とてこれまで来れるとは。 あら情なの御言葉や。 たとひ御身を捨て給ふとも。いかでか捨てさせ申すべき。 御心を静めて聞し召せ。 平松の御苗字を誰かつがせ給ふらん。 まづ此度は御帰あつて。さて其後はともかくも。 御意をばなどか背かんと。 地「御袖にとりつきて。三世の契朽ちせねば。 これまで尋ね紀の国や。 高野の山の陰頼む主君に逢ふぞ嬉しき。かくあるべきにあらざれば。

高野の山を立ち出でて。語り慰め故郷に。 御供申し帰りつゝ。

ともに行末栄えけり。これも御法を弘めにし。 大師の恵なりけりや。大師の恵なりけり 日下左衛門の妻 従者 里人 日下左衛門

ワキ次第(三人)「古き都の道なれや。/\。 難波の浦を尋ねん。ワキ詞「かやうに候ふ者は。 都さる御方へ仕へ申す者にて候。 又これに御座候ふ御事は。 頼み奉り候ふ人の若子の御乳の人にて御座候。 御里は津の国日下の里にて候ふが。 今一度御下ありたる由仰せ候ふ程に。此度我等御供申し。 淀より舟にのせ申し。 唯今難波の浦へと急ぎ候。道行三人「淀舟や。水野の原の曙に。 /\。影も残りて有明の。山本かすむ。 水無瀬川渚の森をよそに見て。 なほ行末は渡辺や。大江の岸もうつり行く。 浪も入江の里つゞく。

難波の浦に着きにけり/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 これははや津の国日下の里に御着にて候。 これに暫く御待ち候へ。 日下の左衛門殿を尋ね申さうずるにて候。此あたりの人の渡り候ふか。 狂言「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「此あたりに日下の左衛門殿と申す人の渡り候ふか。 狂言「もとは此処に御座候ひしが。 散々御無力にて今は此処には御座なく候。 ワキ「あら何ともなや候。 此由をやがて申さうずるにて候。いかに申し候。 左衛門殿を尋ね申して候へば。 今は此処には御座なき由申し候。

ツレサシ「げにや家貧にしては親知すくなく。 賎しき身には故人疎しとか申すなれば。 身には限らぬ習なれども。余りにあさましき有様かな。 詞「さりながら様々契り置きし事有り。 此処に暫く逗留し。 かの人の行方を尋ねばやと思ひ候。ワキ「げに/\仰せ尤にて候。 此処に暫く御逗留候へ。 猶々御行方を委しく尋ね申さうずるにて候。 いかに以前の人の渡り候ふか。 此浦に如何なる面白き事は候はぬか。 都の人に見せ申したく候ふよ。狂言「さん候この浦に浜市の候。 色色の物を売り買ひ候ふ中に。 若き男の此難波の芦を刈りて売り候ふが。 色々に戯れごとを申して面白き者にて候ふ間。 名草の事にて候ふ程に皆々買ひ取り候。 暫く御待ち候ひてかの者を御覧候へ。 ワキ「あらうれしや候。 さらばかの者を待つて見うずるにて候。 シテ、サシ一声「足引の山こそ霞め難波江に。

向ふは波の淡路潟。 げにや所から異浦々の気色までも。眺につゞく難波舟の。 出で浮びたる朝ぼらけ。心も澄める面白さよ。 一セイ「難波なる。 見つとはいはじかゝる身に。地「我だに知らぬ面わすれ。カケリ「。 シテ「立ち舞ふ市の中々に。 地「隠れ処はあるものを。 シテサシ「げに受けがたき人界を。たま/\受くる身なりせば。 栄花の家には住みもせで。かゝる貧家にお生るゝ事。 前の世の戒行こそ拙けれ。 今とても為す業もなき身の行方。昨日と過ぎ今日と暮れ。 明日又かくこそ荒磯海の。浜の真砂の数ならぬ。 此身命をつがんとて。 あだなる露の草の葉に。芦刈人となりたるなり。 地下歌「何とかならん難波江の。 浦に出で里に雪のさむき日をもいとはず。 上歌「潮垂るゝ我が身の方はつれなくて。/\。 異浦見れば夕煙。うらめしや終に身を。

立てかねてこそ賎しけれ。芦田鶴の。 雲井のよそに眺めこし。月の下芦刈り持ちて。 露をも運。 ぶ袖の上なほありがほの心かななほありがほの心かな。 。 ワキ詞「いかにこれなる人に申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「見申せば色々の物を売り候ふ中に。 難波の芦の御売り候ふ事やさしうこそ候へ。 シテ「さん候此あたりにては売る者も買ふ人も。 唯何となくあつかふ所に。 都の人とて難波の芦を御賞翫こそ。返す%\もやさしけれ。 我も昔は難波津の。名におふ古き都人の。 縁の露のおちぶれたる。身は枯芦の。色なくとも。 よしとて召され候へ。 ワキ「あら面白や候。 さてよしと芦とは同じ草にて候ふか。シテ「さん候譬へば薄ともいひ。 穂に出でぬれば尾花ともいへるが如し。 。

ワキ「さては物の名も所によりて変るよなう。シテ詞「なか/\の事この芦を。 伊勢人は浜荻といひ。ワキ「難波人は。 シテ「芦と云ふ。地「むつかしや。 難波の浦のよしあしも。/\。賎しき海士はえぞ知らぬ。 唯世を渡る為なれば仮の命つがんとて。 芦を取り運びて此市にいづる芦数に。 お。 あし添へと召されよやおあし添へて召されよ。露ながら難波の芦を刈り持ちて。 夜は月をも運ぶなりや。暇をし。 夕汐の昼の中に召されよや昼の中に召されよ。 ワキ詞「如何に申し候。 さて御津の浜とは何くにて候ふぞ。 シテ「忝くも御津の浜の御在所はあれにて候。 ワキ「不思議やな何とて忝きなどとは仰せ候ふぞ。 シテ「あら何ともなや。 さらば何とて御津の浜とは御尋ね候ふぞ。忝くも仁徳天皇。 此難波の浦に大宮造し給ふ。 御津と書いて御津の浜とは申すなり。 ワキ「げに面白き謂かな。皇居なりつる浦なれば。

御津の浜とは理なり。 シテ詞「波涛海辺の大宮なれば漁村に灯す篝火までも。 禁裏雲居の御火かと見えて。上雲上の月卿より。 下万民の民間までも。有難かりし恵ぞかし。や。 笠ノ段「あれ御覧ぜよ御津の浜に。 網子調ふる網船の。えいや/\と寄せ来るぞや。 地「名にし負ふ難波津の。/\。 歌にも大宮の。内まで聞ゆ網引すと網子調ふる。 海士の呼声とよみおける。 古歌をも引く網の。目の前に。 見えたる有様あれ御覧ぜよや人々。シテ「面白や心あらん。 地「面白や心あらん。人に見せばや津の国の。 難波わたりの春の景色。 おぼろ舟こがれ来る沖の鴎磯千鳥。 つれだちて友よぶや海士の小舟なるらん。シテ「雨に着る。 地「雨に着る。田簑の島もあるなれば。 露も真菅の笠はなどか無からん。 ロンギ「難波津の春なれや。シテ「名におふ梅の花笠。 地「縫ふてふ鳥の翼には。

シテ「鵲も有明の。地「月の笠に袖さすは。 シテ「天つ乙女の衣笠。地「それは乙女。 シテ「これはまた。地「難波女の。/\。 かづく袖笠ひぢ笠の。雨の芦辺も。 乱るゝかたを波あなたへざらりこなたへざらり。ざらり/\ざら/\ざつと。風のあげたる。古簾。 つれ%\もなき心おもしろや。 ツレ詞「いかに誰かある。ワキ詞「御前に候。 ツレ「あの芦売る人に。 其芦一本持ちて来れと申し候へ。ワキ「畏つて候。いかに申し候。 あのお輿の内へ。 其芦一本持ちて御まゐりあれと仰せ候。シテ「畏つて候。 さらば此芦を参らせられ候へ。 ワキ「いや唯直に参らせ候へ。あら不思議や。今の芦売る男の。 御姿を見参らせ。 これなる所へ隠れて候ふは。何と申したる御事にて候ふぞ。 ツレ「今は何をか包み参らせ候ふべき。 唯今の芦売る人は。わらはが古人にて候。 これは夢かやあらあさましや候。

ワキ「言語道断の御事。 さらに苦しからぬ事にて候。某やがて参り御供申し候ふべし。 御心安く思し召され候へ。 ツレ「いや暫く。皆々御いであらば。 定めて恥ぢ参らせられ候ふべし。わらはひそかに行き。 かくと申さばやと思ひ候。 ワキ「げにこれは尤にて候。 さらば御出あらうずるにて候。 ツレ「如何に古人。 わらはこそこれまで参りて候へ。行末かけし玉の緒の。 結ぶ契のかひありて。今は世にある様なれば。 はる%\尋ね参りたるに。 何くへ忍ばせ給ふらん。とく/\出でさせ給ひ候へ。 シテ「これは唯夢にぞあるらん現ならば。 よその人目も如何ならんと。 思ひ沈めるばかりなり。ツレ「かくは思へど若しは又。 人の心は白露の。起き別れにしきぬ%\の。妻や重ねし難波人。 シテ詞「芦火たく屋は煤垂れて。おのが妻衣それならで。

又は誰にか馴衣。 君なくて悪しかりけりと思ふにぞ。いとゞ難波の浦は住みうき。 ツレ「あしからじ。 よからんとてぞ別れにし。何か難波の。浦は住みうき。 シテ「げにや難波津浅香山の。 道は夫婦の媒なれば。 地「さのみは何をか包井の隠れて住める小屋の戸を。押しあけて出でながら。 面なのわが姿や。 三年の過ぎしは夢なれや。現にあふの松原かや。 木蔭に円居して難波の昔かたらん。 ワキ詞「かゝるめでたき御事こそ候はね。 やがて都へ御供あらうずるにて候。 先々鳥帽子直垂をめされ候へ。 物着地クリ「それたかき山ふかき海。妹背恋路の跡ながら。 ことに難波の海山の。 処からなる情とかや。 シテサシ「あるは男山の昔を思ひ出でて。 地「女郎花の一時をくねると云へども。いひ慰むる言の葉の。 露もたわゝに秋萩の。本の契の消えかへり。

つれなかりける命かな。 シテ「さればかほどに衰へて。地「身を羽束師の森なれども。 言葉の花こそ便なれ。クセ「難波津に。 さくやこの花冬ごもり。今は春べと咲くや。 この花と栄え給ひける。仁徳天皇と。 聞えさせ給ひしは難波の御子の御事。 又浅香山の言の葉は。采女の。盃とりあへぬ。 恨をのべし故とかや。此二歌は今までの。 歌の父母なる故に。 代々にあまねき花色の。言の葉草の種とりて。 我等如きの手習ふ初なるべし。 然れば目に見えぬ鬼神をもやはらげ。武士の心なぐさむる。 夫婦の情知る事も今身の上に知られたり。 シテ「津の国の。難波の春は夢なれや。 地「芦の枯葉に風渡る。 波の立居のひまとても浅かるべしやわたづみの。 浜の真砂は。よみ尽し尽すとも。 此道は尽きせめや。唯玩べ名にしおふ。 なにはの恨うち忘れて。

ありし契に帰りあふ縁こそ嬉しかりけれ。ワキ詞「いかに申し候。 めでたう一さし御舞ひ候へ。 シテ「さらばそと舞はうずるにて候。今は恨も波の上。 地「立ちまふ袖の。かざしかな。男舞「。 キリ「浮寐忘るゝ難波江の。/\。芦の若葉を越ゆる白浪。 月も残り。花も盛に津の国の。 こやの住居の冬ごもり。今は春べと都の空に。 伴ひ行くや。大伴の。 御津の浦わの見つゝを契に。帰る事こそ。嬉しけれ 主馬判官盛久 土屋三郎 太刀取

シテ詞「如何に土屋殿に申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「唯今関東に下りなば。これが限りなるべし。 清水の方へ輿を立てゝ賜はり候へ。 ワキ「それこそ易き御事。如何に面々。 東山の方へ輿を立てられ候へ。 シテサシ「南無や大慈大悲の観世音さしも草。 さしも畏き誓の末。 一称一念なほ頼あり。 ましてや多年知遇の御結縁空しからんや。あら御名残惜しや。一セイ「いつか又。 清水寺の花盛。地「帰る春なき。名残かな。 シテ「音に立てぬも音羽山。地「瀧つ心を。 人知らじ。 シテサシ「見渡せば柳桜をこき交ぜて。 錦と見ゆる故郷の空。

地「又いつかはと思出の。限なるべき東路に。 思ひ立つこそ名残なれ。 シテ「我なまじひに弓馬の家に生れ。世上にかくれなき身とて。 地「思はざる外の旅行の道。関の東に赴けば。 跡白河を。行く波の。いつ帰るべき。旅ならん。 。 下歌「こゝは誰をか松坂や四の宮河原四の辻。上歌「これやこの。 行くも帰るも別れては。/\。知るも知らぬも。 逢坂の関守も今の我をばよも留めじ。 勢田の長橋うち渡り。立ち寄る影は鏡山。 さのみ年経ぬ身なれども。 衰は老曽の森を過ぐるや美濃尾張。 熱田の浦の夕汐の道をば波に隠されて。 廻れば野辺に鳴海潟又八橋や高師山また八橋や高師山。 ロンギ地「汐見坂橋本の。

浜名の橋をうち渡り。シテ「旅衣。かく来て見んと思ひきや。 命なりけり小夜の中山はこれかとよ。 地「変る淵瀬の大井川。 過ぎ行く浪もうつの山。シテ「越えても関にきよ見潟。 。 地「三保の入海田子の浦うち出でて見れば真白なる。雪の富士の嶺箱根山。 猶明。 け行くや星月夜早鎌倉に着きにけりはや鎌倉に着きにけり。 シテサシ「夢中に道あつて塵埃を隔つ。 実にやそことも知らざりし。 山を越え水を渡つて。此関東に着きぬ。 百年の栄花は塵中の夢。一寸の光陰は沙裏の金。 実にや故郷は雲居のよそ。千代もと契りし友人も。 変る世なれや我一人。鎌倉山の雲霞。 実にかゝる身の習かや。 詞「かくてながらへ諸人に面をさらさんより。 天晴疾う斬らればやと思ひ候。 ワキ詞「あら痛はしや盛久の独言を仰せ候。 如何に申し候。土屋が参りて候。

シテ詞「土屋殿と候ふや此方へ御入り候へ。 ワキ詞「御下向の由を披露申して候へば。 急ぎ誅し申せとの御事にて候。 シテ「唯今も独言に申しゝ如く。 かくてながらへ諸人に面を曝さんよりも。 天晴疾う斬らればやとの念願。さては早叶ひて候ふよ。 さて最期は唯今にて候ふか。 ワキ「いや御最期は此暁か。 然らずは明夜かと仰せいだされて候。 シテ「さては暫くの時刻にて候ふよ。さても此程土屋殿の御芳志。 申すも中々愚なり。 又無からん跡一辺の念仏をも御回向に預らば。 二世までの御芳志たるべし。 詞「我此年月清水の観世音を信じ。毎日彼の御経を怠る事なし。 さりながら今日はいまだ読誦申さず候ふ程に。 御暇を賜はり候へ。 彼の御経を読誦申したく候。ワキ「それこそ有難う候へ。 土屋もこれにて聴聞申さうずるにて候。 シテ「有難や大慈大悲は薩〓{土へんに垂}の悲願。

定業亦能転は菩薩の直道とかや。 願はくは無縁の慈悲を垂れ。我を引導し給へ。 今生の利益もし欠けば。 後生善所をも誰か頼まん。二世の願望もし空しくは。 大聖の誓約豈虚妄にあらずや。 或遭王様難苦臨刑欲寿終。念彼観音力刀尋段々壌。 ワキ詞「有難や此御経を聴聞申せば。 御命も頼もしうこそ候へ。 シテ「実によく御聴聞候ふものかな。此文と謂つぱ。 たとひ人王難の災に逢ふといふとも。 その剣段々に折れ。ワキ「亦衆怨悉退散といふ文は。 射る矢も其身に立つまじければ。 シテ「実に頼もしやさりながら。 全く命のために此文を誦するにあらず。 二人「種々諸悪趣地獄鬼畜生。生老病死苦以漸悉令滅。 地下歌「此文の如くは。 諸の悪趣をも三悪道は遁るべしや有難しとゆふ露の。 命は惜まず唯後生こそは悲しけれ。 上歌「昔在霊山の。御名は法華一仏。

今西方の主又。 娑婆示現し給ひて我等が為の観世音。三世の利益同じくは。 かく刑戮に近き身の。誓にいかで洩るべきや。 盛久が終の道よも闇からじ頼もしや。 シテ詞「あら不思議や。少し睡眠の内に。 新なる霊夢を蒙りて候ふは如何に。 あら有難や候。 ワキ「既に八声の鶏鳴いて。 御最期の時節唯今なり。早々御出で候へとよ。 シテ詞「待ち設けたる事なれば。左には金泥の御経。 右には念の珠の緒の。 命も今を限なれば。これぞ此世を門出の場に。 足よわよわと立ち出づる。 ワキ「武士前後を囲みつゝ。これぞ別の鶏の声。 シテ「鐘も聞うる東雲に。ワキ「牢より籠の輿に乗せ。 シテ「由比の汀に。ワキ「急ぎけり。 地次第「夢路を出づる曙や。/\後の世の門出なるらん。 ワキ「さて由比の汀に着きしかば。

座敷を定め敷皮しかせ。早々直らせ給ふべし。 シテ詞「盛久やがて座に直り。 清水の方は其方ぞと。西に向ひて観音の。 御名を称へて待ちければ。 ワキツレ「太刀取後にまはりつつ。称念の声の下よりも。 太刀振り上ぐればこは如何に。御経の光眼に塞がり。 取り落したる太刀を見れば。 二つに折れて段々となる。 こはそも如何なる事やらん。シテ「盛久も思の外なれば。 唯茫然とあきれ居たり。ワキ「いや/\何をか疑ふべき。此程読誦の御経の文。 シテ「臨刑欲寿終。ワキ「念彼観音力。シテ「刀尋。 ワキ「段段壌の。 地「経文新たにくもりなき剣段々に折れにけり。末世にては無かりけり。 あら有難の御経や。やがて此由聞し召し。 。 急ぎ御前に参れとの御使度々に重なれば。召に随ひ盛久は。 鎌倉殿に参りけり/\。 物着ワキ詞「如何に盛久御前にて候。

君此暁不思議なる御霊夢の御告あり。 盛久も若し夢や見けるとの御事にて候。 シテ詞「何をか隠し申すべき。 今夜不思議の御霊夢を蒙りて候。 ワキ「さらば其霊夢の様を御前にて真直に申し上げられ候へ。 シテ「畏つて候。 シテクリ「それ不取正覚の御誓。 今もつて始ならず。 地「過去久遠の大悲の光いづく不到の所ならん。 シテサシ「然るに我此光陰を頼み。地「日夜朝暮に怠らず。 彼の御経を修読せしに。 取り分き此時節刑戮に近き身を思つて。片時怠る事もなく。 クセ「初夜より後夜の。一点まで。 地「蕭然として座したりしに。クセ「六窓いまだ明けざるに。 耿然たる一天虚明なる内に思はずも。 八旬にたけ給ひぬと見えさせ給ふ老僧の。 香染の袈裟を懸け水晶の珠数を爪ぐり。 鳩の杖にすがりつゝ。 妙聞たゞしき御声にて。我は洛陽東山の。

清水あたりより汝が為に来りたり。本より大慈大悲の。 誓願などか空しからん。唯。 一音なりとても。 我を念ずる時節の王難の災は遁るべし。シテ「況んや汝年月。 地「多年の誠を抽んでて。発心人に超えたり。 心安く思ふべし我汝が。 命に代るべしと宣ひて夢は即ち覚めにけり。盛久貴く。思ひて。 歓喜の心限なし。 ロンギ地「頼朝これを聞し召し。 此暁の御夢想も。同じ告ぞとあらたなる。 御信感は限なし。シテ「其時盛久は。 夢の覚めたる心地して。 感涙をとめかね御前を罷り立ちければ。地「如何に盛久暫しとて。 御簾を上げて召さるれば。 シテ「せんかくたもなき盛久が。 地「命は千秋万歳の春を祝ふぞと。御盃を下さるれば。 シテ「種は千代ぞと菊の酒。地「花を受けたる袂かな。 ワキ詞「如何に盛久。 盛久は平家譜代の侍武略の達者。

殊には乱舞堪能の由聞し召し及ばれたり。一年小松殿。 北山にて茸狩の遊路の御酒宴に於て。 主馬の盛久一曲一奏の事。関東までもかくれなし。 殊更これは悦のをりなれば。 たゞ一指との御所望なり急いで仕り候へ。 シテ詞「有難し/\。得がたきは時。 去りがたきは貴命なり。盛久かゝる時節に逢ふ事。 世以てためし有るべからず。

治まり靡く時なれや。一天四海の内のみか。 人の国まで日の本の。唐土が原も此所。 男舞地キリ「酒宴半の春の興。/\。 曇らぬ日影のどかにて。君を祝ふ千秋の鶴あ岡の。 松の葉の散り。失せずして正木のかづら。 シテ「長居は恐あり。 地「長居は恐ありと。罷り申し仕り。退出しける盛久が。 心の内ぞゆゝしき。/\ 勅使 源仲国 小督局 侍女 源仲国

。 ワキ詞「これは高倉の院に仕へ奉る臣下なり。さても小督の局と申して。 君の御寵愛の御座候。 中宮は又正しき相国の御息女なれば。世の憚を思し召しけるか。 小督の局暮に失せ給ひて候。 君の御歎限なし。昼は夜の大殿に入り給ひ。 夜は又南殿の床に明かさせ給ひ候ふ所に。

小督の局の御行方。 嵯峨野の方に御座候ふ由聞し召し及ばれ。 急ぎ弾正の大弼仲国を召して。小督の局の御行方を。 尋ねて参れとの宣旨に任せ。 唯今仲国が私宅へと急ぎ候。いかに仲国のわたり候ふか。 シテ「誰にてわたり候ふぞ。 ワキ「これは宣旨にて候。さても小督の局の御行方。

嵯峨野の方に御座候ふ由聞し召し及ばせ給ひ。 急。 ぎ尋ね出で此御書を与へよとの宣旨にて候。シテ「宣旨畏つて承り候。 さて嵯峨にてはいかやうなる所とか申し候。 。 ワキ「嵯峨にてはたゞ片折戸したる所とこそ聞し召されて候へ。 シテ「左様の賎が屋には片折戸と申す物の候。 今夜は八月十五夜にて候ふ間。琴彈き給はぬ事あらじ。 小督の局の御調をば。 よく聞き知りて候ふ間。御心やすく思しめせと。 委しく申し上げければ。 ワキ「この由奏聞申しければ。御感の余り忝くも。 寮のお馬を給はるなり。シテ「時の面目畏つて。 地「やがて出づるや秋の夜の。/\。 月毛の駒よ心して。雲居に翔れ時の間も。 急ぐ心の行方かな。/\。中入。 ツレ「げにや一樹の蔭に宿り。 一河の流を汲む事も。皆これ他生の縁ぞかし。 ツレトモ二人「あからさまなる事ながら。

馴れて程経る軒の草。忍ぶたよりに賎の女の。 目に触れなるゝ世のならひ。 あかぬは人の心かな。地下歌「いざ/\さらば琴の音に立てゝも忍ぶこの思。 地上歌「せめてや暫しし慰むと。/\。 かきなす琴のおのづから。秋風にたぐへば啼く虫の声も。悲の。 秋や恨むる恋や憂き。 何をかくねる女郎花。我も浮世の嵯峨の身ぞ。 人に語るなこの有様も恥かしや。 後シテ一声「あら面白の折からやな。 三五夜中の新月の色。二千里の外も遠からぬ。 叡慮畏き勅を受けて。心もいさむ駒の足並。 夜のあゆみぞ心せよ。牡鹿なく。 この山里と詠めける。地「嵯峨野の方の秋の空。 さこそ心も澄み渡る片折戸を知るべにて。 名月に鞭をあげて。駒を早め急がん。 シテ「賎が家居の仮なれど。 地「若しやと思ひこゝ彼処に。 駒を駈寄せ駈寄せて控へ/\聞けども琴彈く人はなかりけり。

月にやあくがれ出で給ふと。 法輪に参れば琴こそ聞え来にけれ。 峯の嵐か松風かそれかあらぬか。尋ぬる人の琴の音か楽は。 何ぞと聞きたれば。 夫を想ひて恋ふる名の想夫恋なるぞ嬉しき。 シテ詞「疑もなき小督の局の御調にて候。 やがて案内を申さうずるにて候。 いかにこの戸あけさせ給へ。ツレ「たそや門に人音のするは。 心得て聞き給へ。 トモ「中々にとかく忍ばゝあしかりなんと。まづこの樞を押しひらく。 シテ「門さゝれては適ふまじと樞を押へ。 これは宣旨の御使。 仲国これまで参りたり。その由申し給ふべし。 ツレ「現なやかゝるいやしき賎が家に。 何の宣旨の候ふべき。門違にてましますか。 シテ「いやいかに包ませ給ふとも。 人目づつみも洩れ出づる。袖の涙の玉琴の。 調は隠れなきものを。ツレ「げに恥かしや仲国は。 殿上の御遊のをり/\は。

シテ「笛仕れと召し出されて。 ツレ「馴れし雲居の月も変らず。人を訪ひ来てあひにあふ。 その糸竹の夜の声。地「ひそかに伝へ申せとの。 勅諚をは{ば?}何とさは。隔て給ふや中垣の。 葎が下によしさらば。 今宵は片敷の袖ふれて月に明かさん。 地上歌「所を知るも嵯峨の山。/\。御幸絶えにし跡ながら。 千代の古道たどり来し行方も君の恵ぞと。 深き情の色香をも。知る人のみそ花鳥の。 音にだに立てよあづま屋の。 主はいさ知らず。調はかくれよもあらじ。 。 トモ詞「仲国御目にかゝらざらん程は帰るまじきとて。 あの柴垣のもとに露にしをれて御入り候。 勅諚と申し痛はしさといひ。何とか忍ばせ給ふべき。 こなたへや入れ参らせ候はん。ツレ「げに/\われもさやうには思へども。 余りの事の心乱れに。身の置き所も知らねども。 さらば此方へと申し候へ。

トモ詞「さらば比方へ御入り候へ。シテ「畏つて候。 勅諚に任せこれまで参りて候。 さてもかやうにならせ給ひて後は。 玉体衰へ叡慮なやましく見えさせ給ひて候。 せめての御事に御行方を尋ねて参れとの宣旨を蒙り。 辱くも御書を賜はつてこれまで持ちて参りて候。 恐ながら直の御返事を賜はりて。 奏し申し候はん。ツレ「もとよりも辱かりし御恵。 及びなき身の行方までも。 頼む心の水茎の。跡さへ深き御情。 地「変らぬ影は雲居より。なほ残る身の露の世を。 憚りの心にも。訪ふこそ。涙なりけれ。 クリ「げにや訪はれてぞ。身に白玉のおのづから。 ながらへて憂き年月も。嬉しかりける住居かな。 ツレサシ「たとへを知るも数ならぬ。 身には及ばぬ事なれども。 地「妹背の道は隔なき。かの漢王のその昔。 甘泉殿の夜の思。たえぬ心や胸の火の。 煙に残る面影も。ツレ「見しは程なきあはれの色。

地「なか/\なりし契かな。 クセ「唐帝のいにしへも。驪山宮の私語。 洩れし始を尋ぬるに。 あだなる露の浅茅生や。 袖に朽ちにし秋の霜。忘れぬ夢を訪ふ嵐の。 風の伝まで身にしめる。心なりけり。 ツレ「人の国まで訪ひの。 地「哀を知れば常ならで。なき世を思ひの数々に。 余りわりなき恋心。身を砕きてもいやましの。 恋慕の乱なるとかや。 これはさすがに同じ世の。頼も有明の。 月の都の外までも。叡慮にかゝる御恵。 いとも畏き勅なれば。 宿はと問はれてなしとはいかゞ答へん。 シテロンギ「これまでなりやさらばとて。 ぢきの御返事賜はり御暇申し立ち出づる。 ツレ「月に問ふ。宿は仮の露の世に。 これや限の御使。思出の名残ぞと。 慕ひて落つる涙かな。 地「涙もよしや星あひの。今は稀なる中なりと。

ツレ「終に逢ふ瀬は。地「程あらじ迎の舟車の。 頓てこそ参らめと。いへど名残の心とて。 シテ「酒宴をなして糸竹の。 地「声澄みわたる月夜かな。シテ「月夜よし。男舞。 ワカ「木枯に。吹き合すめる笛の音を。 地「ひき留むべき言の葉もなし。/\。 シテ「言の葉もなき君の御心。 地「我等が身までも物おもひに。 立ち舞ふべくもあらぬ心。年は帰りて嬉しさを。 何に包まん唐衣ゆたかに袖打ち合せ御暇申し。 急ぐ心も勇める駒に。ゆらりとうち乗り。 帰る姿のあと遥々と。小督は見送り仲国は。 都へとこそ。帰りけれ 増尾春栄丸 従者小太郎 増尾種直 高橋権頭 早打 従者

ワキ詞「これは高橋権の頭にて候。 さても此度宇治橋の合戦に味方うち勝ち。 分捕功名数を尽す。 某が手にも囚人数多候ふ中にも。 春栄殿と申す幼き人を生け捕り申して候。此由を申し上げて候へば。 近き程に誅し申せとの御事にて候ふ間。 春栄殿へ此よしを申さばやと存じ候。 シテトモ二人次第「散らぬさきにと尋ね行く。/\。 花をや風の誘ふらん。 シテ詞「これは武蔵の国の住人。増尾の太郎種直にて候。 さても宇治橋の合戦に弓手の肩を射させ。 其矢を抜かんと少し傍に引き退き候ふ間に。 弟にて候ふ春栄深入し。やみ/\と生捕られて候。承り候へば。 生捕何れも近き程に誅せらるゝ由申し候ふ間。

某も囚人の数に入らばやと存じ。 只今春栄がありかへと急ぎ候。シテトモ二人道行「住み馴れし。 都の空は雲居にて。/\。 朝立ち添ふる旅衣。日も重なりて行く程に。 名にのみ聞きし伊豆の国府。 三島の里に着きにけり。/\。 シテ詞「急ぎ候ふほどに。 伊豆の三島に着きて候。此処にて囚人の奉行をば。 高橋とやらん申し候。 尋ねて対面申したき由申し候へ。トモ「畏つて候。いかに案内申し候。 。 囚人奉行高橋殿と申すは何処に御座候ふぞ。狂言「何の御用にて候ふぞ。 頼みたる人の事にて候。 トモ「いや苦しからぬ者にて候。これは春栄殿のゆかりの者にて候。 高。

橋殿へそと御目に懸りたき事の候ひてこれまで参りて候。其由をよく/\御心得あつて御申し候へ。狂言「心得申し候。 囚人の縁の人は堅く禁制にて候へども。 春栄。 殿の御事は頼み候ふ人別して痛はり申され候ふ間。其由を申して見候ふべし。 暫く御待ち候へ。トモ「心得申し候。 狂言「いかに申し候。 春栄殿のゆかりと申して若き男の来り候ひて。 御目に懸りたき由申し候ふ間。かたく御禁制にて候へども。 春栄殿。 の御事にて候ふ間申し入れて見うずる由申して候。 ワキ「何と春栄殿の縁の人と申して。某に対面ありたき由申すか。 汝も知る如く。 囚人のゆかりに対面は禁制にて候へども。 春栄殿の御事は別して痛はり候ふ間。そと対面申さうずるにて候。 さりながら大法の事にて候ふ間。 太刀刀を預り候へ。狂言「畏つて候。いかに申し候。 只今の通を申して候へば。 かたく禁制にて候へども。

春栄殿の縁の御事にて候ふ程に。そと御目に懸らうずると申され候。 さらば太刀刀を賜はり候へ。 トモ「心得申し候。尋ね申して候へば。 春栄殿の縁ならば。高橋別して痛はり申し候ふ間。 対面申さうずる由申され候。 さりながら大法にて候ふ程に。太刀刀禁制の由申し候ふ。 シテ「さらば太刀刀を参らせ候ふべし。 。 ワキ「春栄殿の縁と仰せ候ふはいづくに渡り候ふぞ。シテ「さん候これに候。 ワキ「これは春栄殿の為には何にて渡り候ふぞ。 シテ「是は春栄が兄に。 増尾の太郎種直と申す者にて候ふが。 今度宇治橋の合戦に弓手の肩を射させ。 其矢を抜かんと少し傍に引退き候ふ間に。 弟にて候ふ春栄深入し生捕られて候ふ間。 余りに見捨て難く候へば。 某も一所に誅せられん為に遥遥これまで参りて候。 春栄に引き合はせられて給はり候へ。ワキ「委細承り候。 これまでの御いで真にゆゝしく候。

やがて其由を春栄殿へ申し候ふべし。 暫く御待ち候へ。シテ「心得申し候。 ワキ「いかに春栄殿へ申し候。 御身の御舎兄に。増尾の太郎種直と御名のりあつて。 これまで御出にて候。急いで御対面候へ。 子方「是は真しからず候。兄にて候ふ者は。 宇治橋の合戦にて重手負ひ。 存命不定とこそ承り候ひつれ。ワキ「あら不思議や。 正しく御舎兄と仰せ候ふ物を。 さりながら物の隙よりそと御覧候へ。 子方「不思議なる事にて候。 譜代召し使ひ候ふ家人にて候ふ間。急ぎ追つ帰して給はり候へ。 ワキ「さては真に家人にて候ふか。 さあらばやがて追つ帰し候ふべし。 いかに以前の人の渡り候ふか。シテ「是に候。 ワキ「仰の通を申して候へば。 物の隙より御覧候ひて。兄にてはなし。 譜代召しつかはるゝ家人なれば。 急ぎ追つ帰し申せとの御事にて候。

何とて聊爾なる事をば承り候ふぞ。シテ「暫く。 まづ御心を静めて聞し召され候へ。家人の身として兄と名のり。 一所に誅せらるゝ事の候ふべきか。 いか様にも御沙汰候ひて。 引き合はせられて給はり候へ。某対面して。 家人か兄かの勝劣を見せ申し候ふべし。ワキ「げに/\これは尤にて候。 さらば某たばかつて呼びいだし候ふべし。 其時御袖にすがられて委しく仰せ候へ。シテ「心得申し候。 さらばこれに待ち申し候ふべし。 ワキ「いかに春栄殿に申し候。 只今かの者。をばあら/\と申し追つ帰して候さりながら。かの者の心中余りに不便に候ふ間。 後姿をそと御覧候へ。此方へ渡り候へ。 シテ「いかに春栄。 何とて某をば家人とは申すぞ。 さても今宇治橋の合戦に弓手の肩を射させ。 其矢を抜かんと少し傍に引き退き候ふ隙に。 御身は深入し生捕られたり。其際の先途をも見届けざれば。

家。 人といふ事弟ながらも恥かしうこそ候へさりながら。一所に誅せられん為に。 これまで遥々来りたるに。 何とてさやうには申すぞ。 子方「いかに汝は三世のよしみを思ひ。これまで遥々来りたる志。 返す%\もやさしけれさりながら。 汝は古里に帰り。母御に申すべきやうは。 春栄こそ誅せられ候へ。 逆さまなる御弔に。こそ預かり候ふべけれとよく/\申し候へ。シテ「猶も家人と申すか。 深山木の其梢とは見えざりし。 桜は花に現れにけり。何と家人と下すとも。 終にはかくれよもあらじ。 子方「時を得て早く育つ夏木立。其木をそれと見るべきか。 はやとく帰れと叱りけり。 シテ詞「山皆染むる梢にも。松は変らぬ習ぞかし。 子方「一千年の色とても。雪には暫し隠るゝなり。 シテ「これを物にたとふれば。 殷のやうかは父を討ち。

子方「秦のかくいは師匠をうつ。シテ詞「今の増尾の春栄は。 子方「現在の兄を家人といふ。 シテ詞「是は逆罪たるべきに。子方「真は深き孝行なり。 シテ詞「いやとにかくに命を捨つるまで。 種直これにて腹切らん。や。刀は参らせつ。 御芳志に刀をたまはり候へ。子方「なう/\暫くこはいかに。 地「命を助け申さんとてこそ。家人とは申しつれ。 忠が不忠になりけるか。赦させ給へ兄御前。/\。 上歌「種直も春栄も。/\。囚人守護の兵も。 互の心を思ひやり。 実に持つべきは兄弟なりとて。共に袂を濡しけり/\。 ワキ詞「言語道断。 御兄弟の御心中を感じ申し。われらも落涙仕りて候。 如何に種直に申し候。 某春栄殿を痛はり申す事余の儀にあらず。某子を一人持ちて候ふを。 宇治橋の合戦に討せて候ふが。 此春栄殿の面ざし少しも違はず候ふ間。 天晴御命も助かり給ひ候へかし。

某申し受け遺跡をも継がせ申したきとの念願にて候。や。 何と申すぞ。これは真にてあるか。 あら何ともなや。只今申しつる事も徒事にて候。 又鎌倉より早打立つて。 箱根を越さぬ先に。囚人を皆誅し申せと仰せ出されて候。 御痛はしながら力なき事。 春栄殿も御最期の御用意をさせ申され候へ。 また種直は急いで故郷へかへり候へ。 シテ「暫く候。 春栄が事は幼き者の事にて候ふ間。春栄を助け。某を誅して賜はり候へ。 ワキ「仰はさる事にて候へども。 はや目録にて御目に懸けて候ふ間。なか/\適ひ申すまじく候。 シテ「仰はさる事にて候へども。ひらに私を以て春栄を助け。 某を誅して給はり候へ。 ワキ「これは尤にて候へども。なか/\さやうにはなるまじく候。シテ「さては力なき事。 これまで遥遥来り候ひて。 春栄が最期を見捨て帰る事はあるまじく候ふ間。

某をも一所に誅して賜はり候へ。 ワキ「それはともかくもにて候。 シテ「いかに春栄古里へ形見を贈り候へ。 いかに小太郎。 おことは国に帰り母御に申すべきやうは。 春栄が最期の有様余りに見捨て難く候ふ程に。 諸共に誅せられ候。 逆さまなる御弔にこそ預かり候ふべけれとよく/\申し候へ。 クドキ「これなる守は種直が。母御の方より賜はりたる。 守仏の観世音。種直が形見に御覧候へと。 よく/\申し候へ。子方「是なる文は春栄が。 最期の文にて候ふなり。 又形見には烏羽玉の。我が黒髪の裾を切り。 さばかり明暮一条を。千条と撫でさせ給ひし髪を。 春栄が形見にまゐらする。 シテ「あら定なやさるにても。われこそ残りて御跡を。 弔ふべきにさはなくて。 成人の子をばさきだてゝ。 地「歎き給はん母上の御心のうち思ひやられて痛はしや。

。 クリ「げにや生きとし生けるものいづれか父母を悲しまざる。 必ず一世に限るべからず。代々もつて父母のかず/\なり。 シテ「それ十二因縁より。二十五有の沈淪。 生じては死し死しては生じ。 地「流転に廻。 ること生々の親子皆もつて誰か又自他ならん。シテ「然れば羊鹿牛車にのり。 地「火宅の界を出でずして。 煩悩業苦の三つの綱に。繋がれ来ぬるはかなさよ。 クセ「それ。生死に流転して。人間界に生るれば。 。 八つの苦み離れず過去因果経をおもんみよ。殺の報殺の縁。たとへば車輪の如く。 われ人を失へば。かれまたわれを害す。 世々生涯。苦の海に浮きしづみて。 御法の舟橋を。渡りもせぬぞ悲しき。 殊更此国は。神国といひながら。 又は仏法流布の時。教の法も隆なり。 ことに処はあづまがた。仏法東漸にあり。有明の月の。 。

わづかなる人界急いで来迎の夜念仏声清光に弥陀の国の。 清しき道ならば唯心の浄土なるべし。 シテ「処を思ふも頼もしや。地「こゝは東路の。 故郷を去つて伊豆の国府。南無や三島の明神。 本地大通智勝仏。過去塵点の如くにて。 黄泉中有の旅の空。長闇冥の巷までも。 われらを照し給へと。 深くぞ祈誓申しける雪の古枝の枯れてだに二度色や咲きぬらん。 早打詞「いかに高橋殿。 鎌倉よりの早打なり。暫く御待ち候へとよ。 ワキ「すはまた早打来れるは。遅し斬れとの御使か。 早打「いや若宮別当の申により。 囚人七人の免状なり。ワキ「さて春栄殿は。 早打「七人のうち。ワキ「あゝ嬉しゝ/\まづ読まん。何々若宮別当の申により。 囚人七人免状の事。 第一番には別当の御弟豊前の前司。第二番には豊後の次郎。 第三番には増尾の春栄丸。 残は先々読みても無益。はや助くるぞ春栄と。

地「太刀の下より引き立てゝ。命助かる兄弟は。 嬉しさもなか/\に。思はぬほどの心かな。 今の心は獣の。雲に吠えけん心地して。 千千の情ありがたき。 兄弟の好こそ真に哀なりけれ。 ワキ詞「いかに種直に申し候。 以前も申す如く。 春栄殿の御事天晴御命も助かり給ひ候へかし。 申し請け某が一跡を継がせ申したきとの念願かなひて候。 此上は賜はり候へ。 シテ詞「実に此上は参らせ給ふべし。ワキ「けふは殊更最上吉日なれば。 家に伝わる重代の太刀。春栄殿に奉り。 重ねて千秋万歳の。地「猶悦びの盃の。 影も廻るや朝日影。伊豆の三島の神風も。 吹き治むべき代の初。 幾久しさとも限らじや。 嘉辰令月とは此時を云ふぞめでたき。猶々廻る盃の。度重なれば春栄も。 お酌に立ちて親と子の。 さだめをいはふ祝言の。千秋万歳の舞の袖。

翻し舞ふとかや。シテ「千代に八千代にさゞれ石の。 地「祝ふ心は万歳楽。ワキ詞「いかに種直。 かかるめでたき折なれば一指御舞ひ候へ。 シテ「さらばそと舞はうずるにて候。 地「祝ふ心は万歳楽。男舞「。シテワカ「東路の。 秩父の山の松の葉の。地「千代の影そふ若緑かな。 シテ「老木も若緑。地「立つや若竹の。

シテ「親子の睦。地「または兄弟。 かれといひこれといひ。いづれも/\睦しく。 親子兄弟と栄ふる事も。これ孝行を。 守り給ふ。三島の宮の。御利生と伏拝み。 親子兄弟さも睦しくうちつれて。 鎌倉へこそ参りけれ 藤原仲光 多田満仲 美女丸 幸寿 恵心僧都。

シテ「これは多田の満仲に仕へ申す。 藤原の仲光と申す者にて候。 さても御子美女御前は。 あたり近き中山寺に上せおかれ候ふ所に。学問をば御心に入れ給はず。 明暮武勇を御嗜み候ふ由聞しめされ。 以ての外の御憤にて。 某に罷りのぼり御供申せとの御事にて候程に。 今日中山寺へ参り。美女御前を御供申し。

只今御所へ参り候。いかに申し上げ候。 美女御前を御供申して候。ツレ「いかに美女。 久しく寺より呼び下さゞるは。 学問能くせよとなり。まづ%\御経聴聞せんと。 紫檀の机に金泥の御経。それ/\読誦し給へと。美女が前にぞさし置きたる。 美女「美女は父御の仰につきても。 住むかひもなき浅香山。

手習ふ事もなかりしかば。ましてや御経の一字をだに。 読まざりければ今更に。涙に咽ぶばかりなり。 ツレ「実に/\満仲が子なれば。 一寺の賞翫隙を得ず。御経よまぬは理なれ。 さて歌は。美女「よみ得ず候。ツレ「管絃は。 問へども言はぬ口なしの。 地「こは誰が為なれば。 父がさしもに言ひし事に跡をつけぬ庭の雪。人に見せんもなにがしが。 子といふかひもなかるべしとて。 御佩刀を取り給へば。走りいづるや仲光が。 中にてとかく御袖に。 取りつきすがり申しつゝ。危き美女御前の。 御身の程ぞいたはしき。 ツレ「いかに仲光。 心をしづめて聞き候へ。子供を寺へ登せおくは。 学問の為にてこそ候へ。明暮武勇を嗜まんには。 寺に置きてのかひは何事ぞ。 シテ「御諚尤にて候さりながら。をり/\の御折檻にてこそ候へ。先々御佩刀を賜はり候へ。

ツレ「所詮美女を討つて参り候へ。 さなきものならば。明神氏の神も御知見あれ。 仲光ともにそのまゝには置くまじきぞ。 シテ「何事も御諚をば背き申すまじく候。 まづ/\御内へ御入り候へ。言語道断。 以ての外の御怒にて候。 御叱あるべきとは存じ候へども。 科ほどまでとは存ぜず候。いや/\何と仰せ候ふとも。 一まづ落し申さばやと存じ候。 いかに申し上げ候。唯今は余りの御怒にて。 某も迷惑仕りて候。美女「いかに仲光。 唯今自を逃しつるは。仲光が制するによれり。 美女を討つて参らせよと怒り給ふを。 我物ごしに聞きしなり。 はや自が首を取り。父御の御目にかけ候へ。シテ「げに/\健気なる事を仰せ候ふものかな。 所詮何と仰せ候ふとも。 一まづ落し申さうずるにて候。や。何と申すぞ。 又御使の立ちたると申すか。あら笑止や。

さて何と仕り候ふべき。 げにや何事も報ありける憂き世かな。 詞「伝へきく阿闍世太子は頻婆娑羅を害せずや。 これ皆宿縁かくの如し。美女「過去にてなせば。 シテ「現世にやがて。地「報は人の咎ならじ。 唯自が為す所を。おろかにや恨ある。 憂き世の中と思ふらん。互に憂き事を。 語り語れば時移る。はや首とれや仲光と。 言の葉も涙もすゝむこそ。悲しかりけれ。 シテ詞「あはれ某御年の程にて候はゞ。 御命に代り候はんずるものを。 惜しからぬ命も事によりて。心に任せぬ口をしさは候。 幸寿詞「いかに父上。唯今の御言葉こそ。 幸寿が耳に留まりて候へ。 早自が首を取り。美女御前と仰せ候ひて。 主君の御目にかけられ候へ。シテ「何と申すぞ。 美女御前の御命に代らうずると申すか。 さすが仲光が子にて候。げに/\汝が首を取り薄衣に包み。

夜まぎれに遠々と御目にかくるならば。さすが親子の御事なれば。 よもさだかには御覧じ候ふまじ。 さらば御命に代り候へ。時刻移りて叶ふまじと。 太刀おつ取つて仲光は。 我が子の後に立ちよれば。美女「美女は余りの悲しさに。 仲光が袂にすがりつゝ。 たとひ幸寿を失ふとも。ともに自害に及ぶべしと。 泣き悲みて制すれば。 シテ詞「なうお主の命に代る事。弓矢取る身の習なり。 美女「悲しやな互に争ふ命の際。幸寿「幸寿もすゝみ。 美女「美女も立ちよる。幸寿「かなたは主君。 シテ「此方は思子。美女「中にてなか/\。 シテ「仲光が。 地「身はこれ程に惜しからじ。何とかせましとやあらんと。 猛き心にも。弱り果てたる気色かな。 美女「親にだに。惜まれぬ身を何とたゞ。 かく思ふらんなか/\に。 情のつらさ如何ならん。幸寿「情は人の為ならじ。 今此際の御命に。代り申さずは。

弓矢の家の名ぞ惜しき。地「かなたこなたも幼き。 御身にだにも理の。 或は御主子は惜しし主君をばいかで手にかけんと。 心よわしや白真弓。左手にあるは我が子ぞと。 思ひ切りつゝ親心の。 闇討に現なき我が子を夢と。 なしにけり我が子を夢となしにけり。狂言シカ%\「。 シテ「げに/\汝が申す如く。 某が心中察し候へ。又美女御前を御供申し。 何方へも立ち退き候へ。狂言シカ%\「いかに申し上げ候。美女御前を討ち奉りて候。 ツレ「いしくも仕りたるものかな。 さこそ最期の未練にありつらんな。 シテ「いやさは御座なく候。某太刀抜き持つて。 少しためらひ候ふ所に。 やあいかに仲光おくれたるかと。これを最期の御言葉にて候。 ツレ「いかに仲光。おこと存のごとく。 総じて美女ならで子と云ふ者なし。 今日よりしては汝が子の幸寿を一子と定むべし。

急いで呼びいだし候へ。シテ「其御事にて候。 美女御前の御別を悲しみ。 元結切り暮に失せて候。 同じくは仲光にも御暇賜はり候へ。様変へばやと思ひ候。 ツレ「心強くは言ひつれども。 さぞ思ふらん美女丸をも。我が子のごとく手馴れしに。 二人の者に別るゝ思。 下歌地「よしや王土に住む習。貴命は誰も遁れぬぞと。 仲光をとにかくにすかし給ふぞよしなき。 上歌「げにや親子の道なれば。/\。 あはれとや又思子の。跡弔ふ法の事業を営み給ふ。 あはれさよ営み給ふあはれさよ。 ワキ詞「これは比叡山恵心の僧都にて候。 さても去る子細候ひて。 唯今多田の満仲の御所へと急ぎ候。先々此方へ渡り候へ。 いかに案内申し候。 シテ「誰にて渡り候ふぞ。や。 恵心の僧都の御下向にて御座候ふよ。ワキ「いかに仲光。 さても幸寿が事は候。まづ某が参りたる由申し候へ。

シテ「心得申し候。いかに申し上げ候。 恵心の僧都の御いでにて候。 ツレ「あら思ひよらずや。先々此方へと申し候へ。 シテ「畏つて候。此方へ御入り候へ。 ワキ「心得申し候。 ツレ「さて唯今は何の為の御いでにて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。 美女御前の御事を申さん為に参りて候。ツレ「その事にて候。 余りに不思議の者にて候ふ程に。 仲光に申しつけ失ひて候。ワキ「其事にて候。 まづ御心を静めて聞し召され候へ。 美女御前を失ひ申せとの御使しきりなりしに。 仲光心に思うやう。 いかで三世の主君を手に懸け申すべきと思ひ。 我が子の幸寿が首を切り。 美女と申して御目にかけて候。されば我が子に代へて思ふ程の。 美女御前の御不審免しおはしませと。 美女を引き具し満仲の。御前にこそ参りけれ。 。

ツレ詞「さればこそなほ未練なる美女なりけり。幸寿を殺さばもろともに。 などや自害に及ばざる。ワキ「いや/\諸事をさし置きて。幸寿が仏事と思し召し。 美女を助けてたび給へと。 涙を流し申しければ。地「猛き心もよわ/\とはや領掌を申しけり。仲光余りの嬉しさに。 御盃や菊の酒。仙家に入りし身の。 七世の孫に逢ふ事も。たとへならずや親と子の。 一世の契の二度逢ふぞ嬉しき。 シテ「親子鸚鵡の盃の。地「幾久しさの。酒宴かな。 ワキ詞「いかに仲光。 目出度き折なれば一さし御舞ひ候へ。地「幾久しさの。 酒宴かな。 シテワカ「鴛鴦の。友なき水に。浮き沈み。 地「下安からぬ思こそあれ。

シテ「あはれやげに我が子の幸寿があるならば。 美女御前と相舞せさせ。仲光手拍子囃し。 唯今の涙を感涙と思はゞ。 いかゞは嬉しかるべき。地「思は涙。よそ目は舞の手。 交るは袖の。上露も下露も。 おくれ先だつ憂き世の習。昨日は歎き。 今日は喜の都に帰る。これまでなりと。 恵心の僧都は美女を伴ひ帰りければ。 仲光も遥に脇輿に参り。此度の御不審人為にあらず。 。 かまひて手習学問ねんごろにおはしませと。御暇申して帰りけるが。 無慙や幸寿。 が御供ならばと暫しは御輿を見送り申し。暫しは御輿を見送り申して。 うちしをれてぞ。留まりける 平清盛 平重盛 主馬判官盛国 平宗盛 難波経遠 平貞能

。 経遠詞「これは平家の・士{さぶらひ}難波治郎経遠にて候。偖も此度新大納言成親卿。 多田行綱俊寛西光等と鹿が谷に会合し。 平家を亡ぼさんとの企ありしが。 行綱の・反忠{かへりちう}により其事露顕す。 さるに依つて我が君清盛公の御怒甚だしく。 某妹尾太郎兼康とともに仰を蒙り。 頻りに成親卿を責問ふといへども。 人の讒言なりと陳じて其実を告げ給はず。 なほ厳しく問はばやと思へども。 小松殿の心に背かん事を恐る。此上は我が君の御出座を待ち。 重ねての仰に随ひ。 ともかくも計らはゞやと存じ候。 ワキ、立衆一声「雲の峯。昇る旭影を遮りて。 嶮しく見ゆる東山。今をさかりの。暑さかな。 ワキ「そも/\我今治承の・朝{てう}に立ち。 世を平けく治めんとするに。 立衆「讒者のために妨げられ。ワキ「百年の・功{いさを}も一朝に。 立衆「水の泡とぞ。ワキ「消えなまし。

地「元より世の中は。/\。月にむら雲花に風。 妨多き習なるも。いま此時に昇る旭の。 光遮る雲あるは。 実に忌まはしき・朝{あした}かな/\。経遠詞「いかに申上げ候。 兼康とともに成親を責め問ふといへども。 人の讒言なりと陳じて其実を申さず候。 此上は重ねての仰に随ひ。 如何やうとも取計ふべく{し?}と存じ候。 ワキ「何と成親を責め問ふといへども其実を告げずとな。 憎き彼が心根なれども。 思ふ子細あれば暫く打ち捨て置くべし。経遠「畏つて候。 ワキ「いかに貞能。貞能「何事にて候。 ワキ「我思ふに此度の隠謀は。成親等のみの企にあらず。 果して其源ありと思ふ。 抑保元の変には我が一門身を抛つて大乱を鎮め。 又信。 頼等の・叛逆{ほんぎやく}に当つても死戦して社稷を安んじたり。其外忠勤一方ならざるに。 今法皇成親等の讒言を信じ。 我が一門を亡ぼさんとし給ふは。・憾{うらめ}しき事ならずや。

されば法皇を鳥羽殿に遷しまゐらせ。 世の動静を窺はんとす。我が心既に決せり。 明日自ら法住寺へ推参すべければ。 急ぎ其用意あるべしと。 心いらだち下知なせば。地「貞能初め其席に。 座を列ねたる人人は。何れも驚きたりしかど。 君の怒に是非なくも。俄に檄を構へつゝ。 皆物の具を身に着けて。 明くる日を待つばかりなり/\。 盛国「浅ましの・形勢{ありさま}や。例令勘気を蒙るも。 君に仕ふる身にしあれば。 其罪なきをいひ開き。・御慮{みごころ}解くべき道なるに。 ・憤{いか}り迫りて法皇の。 御座をば余所に遷さんとは物にや狂ひ給ふらん。 無益の諫をなさんより。小松殿に注進し。 地「早く大事を治めんと。平の家をもり国が。 ・私{ひそ}かに席を立ちいでて小松の・第{だい}に赴きぬ。 盛国詞「いかに・御内{みうち}へ案内申し候。 主馬判官盛国が。

一大事を申し上げん為急ぎまかり越して候。シテ「いかに盛国。 一大事とは何事なるぞ。 盛国「さん候我が君清盛公。 此度の成親等の隠謀は其源ある事と疑はれ。 ・明日{みやうにち}・親{みづか}ら法住寺へ推参し。 法皇を鳥羽に遷し奉らんと御怒強く。 俄に用意仰せ出されて候。余りに浅ましき御振舞と存じ。 諫め申さんとは思へども。 所詮我等如き者の言葉を用ゐらるべき気色なし。 お家の一大事と存じ候ふ程に。急ぎ御注進仕り候。 。 シテ「何と怒に堪へ兼ねて・上{かみ}を犯さんとし給ふとな。由々しき大事なり。 某・直{たゞち}に馳せ参じ御諫め申さうずるにて候。 実にや人心。怒を含む其時は。そが真心を。 奪はるとかや。 我が父も寄る年波の悲しさは。怒の風に動かされ。心の楫を失うて。 舟傾かん有様は運も傾く時なるか。 地「平家を守る神あらば。父の心を飜し。 家門を全うし給へよ。

実にあぢきなき浮世かな。シテ詞「いかに誰かある。貞能「御前に候。 シテ「貞能にてあるか。 重盛が参りたる由を申し上げ候へ。貞能「畏つて候。 いかに申し上げ候。小松殿・御出{おんいで}にて候。 宗盛「いかに小松殿。明日は御出馬あらんとて。 君をはじめ皆物の具を着け。 大事を議する場所なるに。お装束にて。 御対面は如何あるべきぞ。シテ「大事とは何事ぞ。 某いまだ朝廷に・御{おん}大事あるを承らず。 定めて・私事{わたくしごと}なるべし。 もし・逆臣{げきしん}ありて朝廷に手向はゞ。某大将の任なれば。 。 其敵の誰かれを問はず役目の為に戦ふべし。然るにいま世は静かにして。 逆臣あるにあらず。私の事を大事なりとし。 大臣。 の御身を以て事々しく物の具をつけ給ふは。以ての外の事ならずや。 然るを御身等・一言{いちごん}の諫はせずして。 反つて某の装束を咎むるは。緩怠至極の事どもなり。 よしなき指図は片腹痛しと。

地「責むる言葉は宗盛が。胸に応へて赤面す。 清盛これをもれ聞きて。恥かしとや思ひけん。 衣をとりて身に覆ひ。物の具をこそ隠しけれ。 重盛悠々と進み出で清盛の前に平伏す。 ワキ「いかに重盛。 我行綱の・告{つげ}西光が申し状に因つて。此度の隠謀を察するに。 成親如きは枝流にして。 実は其源ありと思ふによリ。世の動静を窺はん為。 法皇を鳥羽に移し参らせんとす。 今其用意申し附けたれば。其旨を心得候ふべし。 シテ「恐ある事にて候へども。 先づ御心を鎮めて重盛が申す事を聞し召し下さるべし。 重盛・倩{つら/\}今の・形勢{ありさま}を見るに。 家運の将に衰へんとするを知る。 抑世に四恩ある中に。皇恩を以て第一とす。 我が家はもと葛原親王の末流なれども。 ・一度{ひとたび}降つて人臣に列なり。 平将軍貞盛公の・功{いさを}ありしだも受領に過ぎず。 刑部卿忠盛公の昇殿を聴されし時は。

・万人{まんじん}唇を飜して驚きたりとこそ承れ。 然るに父君はわが家ためしなき人臣の位を極め。 不肖の重盛すら蓮府槐門の位に昇り。 ・宗族{そうぞく}悉く公卿に列し。田園天下に半す。 一門かゝる栄花に浮むも。これ皆皇恩ならずや。 これを以て彼を思ふに。 他人の羨み・疾{にく}むは・謂{いはれ}なきにあらず。 然るも朝威の光に奸人捕へられたれば。・頓{やが}て罪科も定まるべきに。 恩を忘れ上に迫らんとし給ふは。 平の家の礎も。・動{ゆる}ぐ時節の到りしか。 嗚呼天なるかな・命{めい}なるかな。 もし今にして御心を飜し給ふ事の成り難くは。 重盛の刃は誰にか向くべき。 しかず速に死を賜はらんには。父の姿を拝するも。 これ限かと泣き伏せば。 地「一座に在りし人々は。 冑の袖を濡しつゝ其真心に感動す。 地クリ「それ日の本の教には。忠孝の道を本とす。 譬ひ・千筋{ちすぢ}の・岐{ちまた}ありとも。などか其道に。迷ふべき。

シテサシ「然れども其・二道{ふたみち}を。 二つながらに履まん事。地「今此時を何とかせん。 かの源の義朝が。 大義の為に其父の為義を討ちし時は。シテ「情を知らぬ・武士{ものゝふ}と。 地「思。 ひし事も今更に身につまされてあはれなり。クセ「其時重盛。 一門将士に申すやう。我が身苟も。左大将に昇りしは。 皇恩厚き故なれど父の恵のなかりせば。 いかでかかゝる世に遇はん。 然れば今の時にして恩義の高きすべらぎに。 忠を尽せば孝ならず。 慈愛の深きかぞいろに。孝を致せば忠ならす。 さて何とせん。 重盛が・目前{まのあたり}なる二道に進まんとして進み得ず。 又退かん・方{かた}もなく心乱るゝばかりなり。 シテ「さるにても今此まゝになりゆかば。地「先に情をしら旗の。 義朝となりやせん。所詮此世は仮の宿。我は平の。 旗じるし。赤き心を顕さん。 御身等父に随ひて。院に赴く心ならば。

わが首の落つるを見。其後に行くべしと。 ・慨{なげ}きに時も夕暮の。雨にうたれし羽抜鳥。 ・塒{むぐら}に戻る風情にて帰るぞあはれなりける。 ワキ「やあいかに重盛。我あやまてり/\暫く・駐{とゞま}り候へ。 シテ「何と御悔悟ありしとなあら有難や候。 ワキ「先此方へ来り候へ。我今汝が切なりし諫を聞くに。 忠孝厚きその・赤心{まごころ}。 清盛が胸に応へ慙愧に堪へず。我奸人を悪むの余り。 仮にも上を疑ひしは。思へば罪の深かりし。 今は迷の夢覚めぬ。 院の御詫よしなに執りなし呉れよ。実にや麒麟も老いぬれば。 終には駑馬に劣るとかや。此身も既に老の坂。 今は重盛に世を譲り。 涼しき風やふく原の。清き・海辺{うみべ}に遊ぶべし。 シテ「重盛が愚なる言葉を捨て給はず。 ・御心{みごころ}を改められ候ふは。 何と申し上ぐべき言葉もなく唯感涙に咽ぶばかりに候。 院のお詫は重盛身に替へて引受け候はん。

御心易く思し召され候へさりながら。 重盛に世を譲らんとの。俄の御沙汰は迷惑仕り候。 この儀は御とまりあれかしと存じ候。 ワキ「・辞{いや}俄に思ひたちし事にもあらず。 予ての望・偶{たま/\}時の到りしなり。 心を置かず・代{よ}を継ぎて。我に安堵を与ふべしと。 地「やがて席をも改めて。解きくつろぎし鎧蝶。 酒宴を開き・諸人{もろびと}を。慰めつ・労{ねぎら}ひつ。 小松の・枝葉{えだは}しげもりや。大夫の松と祝ひけり。 親子の情深みどり。 盛国「いかに小松殿に申し上げ候。

かゝる折なれば一さし御舞ひ候へ。シテ「父の情や。ふかみどり。 男舞、地「かくて集ひし人々は。/\。 思の外の首尾を見て。喜の眉を開きつゝ。 皆・万歳{ばんぜい}とぞ唱へける。 シテ「さて御暇給はりければ。地「重盛人々に申すやう。 召に随ひて速に。集ひし事ぞ喜ばしき。 今は事無くをさまりぬ。・弓箭{ゆみや}を袋に息ふべし。 後又ことなきに馴るゝなと。 智仁備はる言の葉に。喜び合うて人々は。 喜び合うて人々は。各家路に帰りけり 恩地満一 楠正成 正成太刀持 楠正行。

ツレ詞「これは楠正成なり。 さても朝敵尊氏大挙して上洛すべき由聞し召され。 急ぎ正成に馳せ向ひ。 義貞に力を合せよとの宣旨に任せ。

唯今兵庫の津へ罷り下り候。又存ずる子細の候ふ間。 正行を故郷へ帰さばやと思ひ候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。 ツレ「満一に正行をつれて此方へ来れと申し候へ。トモ「畏つて候。

いかに恩地殿に申し候。若君の御共申し。 。 急ぎ御本陣へ御参あれとの御事にて候。シテ「畏つて候。いかに申し上げ候。 若君の御供申して候。ツレ「いかに正行。 唯今申す事をよく/\聞き候へ。 さてもこの度の出陣。 正成討死すべき時こそ到りたれ。それに就きて正行は満一を伴ひ。 千早に帰り命のあらん程は忠勤し。 上を敬ひ下を憐み。某が志をつぎ候へ。 又満一には正行の成長の程を頼むなり。 これをこの世の別と思ひて。 急ぎ故郷へ帰り候へ。 子方「仰謹んで承り候さりながら。弓箭の家に生れ。 父の最期をよそに見て。誰に面を向け候ふべき。たゞ/\召し具してたまはり候へ。 ツレ「こざかしき事を申す者かな。 これ皆朝廷の御為なれば。とく/\千早に帰り候へ。 子方「いかに君の御為なりとも。 罷り帰る事はなりがたう候。

ツレ「やあか程まで父が申す事に随はざるやと。 恩愛の子を叱りければ。地「正行も満一も。/\。 何といふべき言の葉も。泣く/\袖をしをりつゝ。 かしこまつたる。 けしきかな畏つたるけしきかな。 ツレ詞「この上は語つて聞かせ候ふべし。語「さても逆徒尊氏兄弟。 西海より大軍を率ゐ。上洛すべき由叡聞に達し。 急ぎ正成に馳せ向ひ。 義貞もろとも追伐すべきとの勅諚なり。 正成謹んで申し上ぐる様は。この度逆徒罷り上る事。 あら手といひ大軍と云ひ。 労れたる官軍を以て喰ひ留め候はん事。なか/\存じもよらず。義貞を召し帰され。 今一度叡山へ行幸なし奉りなば。 必定逆徒上洛仕り候ふべし。其時正成は糧道をたち。 義貞と内外より攻め候はんにおいては。 恐れながら御勝利疑あるべからずと。 必勝の計議を申し上ぐるといへども。 坊門殿のさゝへにて。既に防戦に定まる事。

偏に天運の極りなり。 地クリ「それ日月上に明かなれども。雲霧光を覆ふならひ。 今にはじめぬ事なれども。 嘆きてもまたあまりあり。ツレサシ「良薬口に苦く。 忠言耳に逆ふといふ。地「その故事を悟り給ひ。 藤房の卿は世を遁れ。 今正成が首途も引きは返さじ武士の。 ツレ「やたけの心ふし清く。地「世をいさめんと。思ふなり。 クセ「獅子の子を生みて。 三日を経る時は数千丈の巌より。これを投げて試る。 その子獅子の気力あれば。 教へざるに宙より。はね返りて死せずといへり。 況んや正行。十歳に余りぬ。 一言耳に留めつつ。この教誡に違はざれ。 われ討死と聞くとても。嘆を留めいづくまでも。 朝敵を平げて。 聖運の開けん事を思ふべし。ツレ「たとひ逆賊日の本に。 地「羽をのしはしをならすとも。 命のあらんその程は帝位を守護しわたくしの。

心聊なき跡に。汚名を残す事なかれ。 老先思ふ撫子に。かゝる涙や楠の露。 シテロンギ「時しも頃は五月雨の。 古枝も茂る下草の雫にしをる袂かな。ツレ「花散りて。 春は暮れにし桜井の。 名にだにありて朽ちせざる。シテ「石になるてふ楠の葉の。 恨も何かあまざかる。 シテ「鄙人までも哀知る。シテ「恩愛。子方「親子。 シテ、ツレ、子方、三人「主従の。地「別も今更に。涙を袖に満一が。 御酌に立ちて取りあへず。シテ「清き名を。 千代に伝へて菊水の。地「流久しき。 湊川。男舞「。 シテワカ「衆人の鏡となりて。ますらをの。 地「花橘の。匂ひぬるかな/\。 ツレ「かくて時刻も移るなる。地「とく/\帰れといさぎよき。仰にしたがふ主従は。 尽きぬ涙をひるがへし。 その名も清き河内の国へ。帰るは孝行留るは忠義の。 かしこきためしぞ。ありがたき 楠正成 恩地左近満一 楠正行 正成従者

シテ詞「これは河内の判官正成なり。 偖も此度尊氏兄弟陸海二手に別れ。 筑紫より攻上る由其聞え候ふ間。 某朝敵追討の宣旨お蒙り。 此桜井の宿までうつ立ちて候ふ所。さる子細の候ふにより。 正行に対面せばやと存じ。 恩地左近満一をして金剛山へさし遣はして候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。 シテ「正行が来りてあらば此方へ申し候へ。トモ「畏つて候。 ワキ子方次第「流も清く行水の/\。河内の国を出でうよ。 ワキ詞「これは楠殿の御内に。 恩地左近満一にて候。扨も頼み奉り候楠殿には。 朝敵追討の宣旨を蒙り給ひ。 津の国兵庫の湊川へ御下向にて候。又御こ多門丸殿に。 。

桜井の宿にて御対面あらうずるとの御事にて。唯今御供申し桜井の宿へと急ぎ候。 道行「武士の取伝へたる梓弓。/\。 矢たけ心一すぢに。 思ひ入るさの月影も行末照らし給へとて。 名をば牡鹿の津の国や。浪花の春にあらねども。 世に芳ばしき桜井の。 宿にもはやく着きにけり/\。詞「急ぎ候ふ程に。 桜井の宿に御着きにて候。 先々此由を申し上げうずるにて候。いかに誰か御入り候。 トモ「誰にて渡り候ふぞ。ワキ「多門丸殿の御供申し。 唯今満一が着きたる由御披露候へ。 トモ「其由申し上げうずるにて候ふ間。 暫く御待ち候へ。 シテ「北風塵埃を巻いて南枝花開くに堪へず。 詞「讒者朝に蔓りて賢良野に潜む。実にや有為転変の習とて。

昨日にかはる世の中の。人の心も秋津洲の。 雲居の空の定なき。涙の雨のふる郷に。 残し置きたる幼子に。我が真心を伝へ置き。 身は十善の君恩に。 答へまつらんさりながら。一世とかねたる親子の中。 後の世かけて思ひやる。心の中ぞ悲しき。 トモ詞「いかに申し上げ候。 多門丸殿の御供申し満一が着きて候。 シテ「何多門丸が着きたると申すか。急ぎ此方へと申し候へ。 トモ「畏つて候。其由申し上げて候へば。 急ぎ御通りあれとの御事にて候。シテ「いかに正行。 汝いまだ幼き身ながらも。 父の命を背かずして。これまではる%\参りたるこそ神妙なれ。先づ近う参り候へ。 子方「畏つて候。 シテ「偖も久しく対面申さぬうち健気に生立ちぬるものかな。 人目づつみももれいづる我が子の髪をかきなでて。 地「親子恩愛の中なれば。/\。 深き契も有明の。

月の都を後に見て又帰らじと思ふ身を。夢にもそれとしら露の。 おき残すべき撫子の。莟める花のいつか世に。 開け行くべき生先を。思へば流石武士の。 猛き心も弱々とつゝむに余る思かな。 シテ詞「いかに正行。 おことを此処に呼びよすること余の儀にあらず。我つら/\世の有様を観ずるに。 公家一統の世となりてより。 詞「佞人朝にはびこり政正しからざるを恨み。 諸国の武士皆尊氏が逆意に与し。官軍日増に無勢となり。 頼に思ふ北畠殿は奥へ下り。 忠義無二の新田殿は。纔の勢にて兵庫に向はる。 所詮此度の合戦味方の勝利覚束なし。 正成苟も弓箭の家に生れ来て。君に捧げし一命を。 いつまでながらへ候ふべき。 誠や獅子の子は生れて三日を経ぬれば。

数千丈の石壁継ぎ候へ。 子方「仰はさる御事にて候へども。今此際の御大事。 幼き身とておめ/\と。何面目に存ふべき。 同じ巷にともかくも。なるこそ孝といふべけれ。 シテ「さては悪くも心得ぬるものかな。 父もろともに討死せば。 我がなきあとに誰あつて。君をば守護し申すべき。 子方「辞いかに仰ありとても。 弓箭取る身の子と生れ。父の最期をよそに見て。 何と古郷に帰るべき。唯御供こそ願はしう候へ。 シテ「か程の道を弁へず。 父が言葉を背くこそ。返す%\も安からね。 はや対面もこれまでぞ。疾々河内へ帰り候へ。 子方「なう暫く御待ち候へ。 ワキ「げに其御叱はさる御事なれども。弓箭とる身の習にて。 実に健気なる御有様。

さりながら唯武士忠孝の。道にも叶ひ申すべし。 地「流石道理に責められて。忠と孝との二道に。 ゆきつまりては答さへ。 涙ながらに是非なくも父の言葉に随ひぬ。 地クリ「偈にや栴檀はふた葉より芳ばしとこそ菊水の。 流は父に劣らじと。皆感涙に。咽びけり。 シテサシ「伝へ聞く唐土の。五丈が原に身は秋の。 地「露と消えにし孔明の。蜀を忘れぬ志。 今まのあたり湊川。 シテ「身を沈むとも名は後の。地「世に残しおく幼子の。 行末頼む心かな。クセ「其時正成。 肌の守を取出し。これは一年。都攻のありし時。 下し給へる綸旨なり。 世はこれまでと思ふにぞ汝にこれを譲るなり。 我ともかくとなるならば。尊氏が代となりて。 芳野の山の奥深く。叡慮悩まし給はんは。 鏡にかけて見る如し。さはさりながら正行よ。 しばしの難を遁れんと。 弓張月の影暗く家名をけがすことなかれ。

シテ「父が子なれば流石にも。地「忠義の道は兼て知れ。 。 討ちもらされし郎等を憐み扶持しかくれ家のよし野の川の水清き。 流絶えせぬ菊水の。旗をふた度靡かせて。 敵を千里に。退けて叡慮を安め奉れ。 実に弓取の家の名を。 惜むばかりかながらへて同じ此世にあるならば。 シテ「君の御運も高御座。天津日嗣の動きなく。 めでたき御代に逢ふべきを今のうき身ぞ悲しき。 地「弱気を見せぬ親心。気ははり弓に。 シテ「箭たばねの。地「乱心を取直し。 とる盃にわが心。汲みてや人も。知りぬらん。 ワキ「いかに申し上げ候。

かゝるをりなれば一指御舞ひ候へ。シテ「君は船。男舞。 君は船。臣は水。水よく船を浮む。 地「うかむ涙をおしつゝみ。 はやこれまでと正成の。言葉に尽きぬ名残とて。 思に沈みたちかぬる。心を察し満一は。 いざ御立とすゝむれば。未だ若木の児桜。 花さく頃を待ちもせで。これや限の別かと。 シテ「父は暫く見送りて。 地「互にさらばといふ空に。帰れとさけぶ郭公。 雲居に名をば揚げなんと。思ひきる身は後の世に。 げに橘の芳ばしき。弓矢の家ぞ類なき。 弓矢の家ぞ類なき 楠正行 正行の臣 吉野の僧兵 正行の従者

シテ詞「これは楠正行にて候。 さても此度後醍醐天皇崩御ならせ給ふにより。

啓相ちり%\になり給はん志見えて候。 前帝の御遺詔に。

第七の宮を御位につけ給ひ。 朝敵征伐の御本意を遂げさせらるべしとの叡慮にて。 程なく崩御ならせ給ひ候。 さる間七の宮御位に即かせ給ふべき隙を窺ひ。 逆臣寄せきたる事もあるべきかと存じ候ふ程に。 此三芳野に城を構へ皇居を守護し申さばやと存じ候。 いかに誰かある。狂言シカ%\。 急ぎ此処に櫓をあげ候へ。狂言シカ%\。 何と当山よりの文と申すか。やがて披いて見ようずるにて候。 それ当山は昔より。王法を仰ぎ仏神を崇め。 天下第一の御祈祷所なる。 然るに此山に於て。猥りに城郭をかまへ。 落花狼藉心得ず候。此事止り給はずは。 当山の面々押し寄せ申すべきものなり。 言語道断これは一大事にて候よ。狂言シカ%\「。実に/\汝が申す如く。 さらば歌にて返事申さうずるにてあるぞ。急ぎ此文を渡し候へ。 狂言シカ%\。心得てある。 たとひ大勢寄せ来るとも。何程のことのあるべきぞと。

地「太刀おつ取つて立ち上り。/\。 時しも春の花盛。散さんことは惜けれど。 手な。 みの程を見せんとて、木陰に立つて密に寄する敵を待ち居たり/\。 ワキワキツレ一セイ「よし野川。花の白波声立てゝ。 閧をつくつて。騒ぎけり地「正行これをみよしのゝ。 /\。山べに咲ける桜花。 雪か雲かと見誤ち。色香をあだにし給ふなと。 刄の匂を振り乱し。火花を散らして戦ひければ。 さ。 しもの兵切立てられて大勢ばつとぞひいたりける。ワキ詞「なう/\正行。 以前の詠歌の心を感じ。 御味方をなさんと思ひしかども。正行の武勇の程をみん為に。 か。 くは推し寄せ来れるなり当山の神も照覧あれ。面々いよ/\和睦ぞと。 地「太刀長刀を投げ捨てゝ。/\。衣紋繕ひ各。 座敷にうちとけ並居たり。 ワキ「いかに申し候。 正行笠置へ参られし謂を委しく御物語り候へ。

シテ詞「さあらば語つて聞せ候ふべし。クリ「抑北条時政九代に至り。 高時といへる逆臣あり。 地「其身上下の礼義を乱し。万民さらに。安からず。 シテサシ「然れば後醍醐の天皇。凶徒を鎮めん其為に。 都をしのび御であり。 地「笠置の山に入り給ひ。行宮に御座をかまへしに。 或夜ふしぎの御霊夢あり。 クセ「鬢づら結へる天童の。二人来りて申す様。 この常磐木の雨に。指せる木の枝のその下に。 暫く御座をなし給ひ。敵を滅ぼしおはしませと。 いひ捨てゝ雲居にあがれば夢も覚め給ふ。 シテ「帝夢中の有様を。 地「文字にうつさせおはしまし。当寺の衆徒を召し出し。 楠といへる武士。もしもありやと宣へば。 金剛山の麓にそ?。さる弓取の候ふと。 奏し申せば勅使たつ。やがて正成参内し。 治めし国のためしをば。ひくや親子の我もまた。 適を滅ぼし君が世を。 いく千代までと仰がん。ワキ「委しく御物語り候ふものかな。

これと申すも我が君の。 御代万歳と菊水の。地「旗をふたゝび。飄さん。 ワキ詞「いかに正行一さし御舞ひ候へ。シテ「飄す。 袂に余る祝の。地「心嬉しき。酒宴かな。男舞「。 シテ「桜井の筺散りし。みよし野の。 地「花の雲居は。我ぞ守らん。 シテ「かくて酒宴も時過ぎて。地「かくて酒宴も時過ぎて。 夕陽西にかたむきければ。 各用意をなさんとて。座敷をたてば。 正行も悦び実にこの君の御盛徳。 久しき春に逢ふことも。文武と忠孝二つの道を。 兼ね備へたる正行が。心の中こそゆかしけれ 覚明 木曽義仲 義仲の臣下 池田次郎

シテ、ツレ立衆一セイ「八百万。 神も引きますかごの名の。弓矢の道こそ久しけれ。 ツレ「そもそもこれは。木曽義仲とは我が事なり。 。 シテ立衆「さても平家は越前の燧が城を攻め落し。都合その勢十万余騎。 この砺波山まで押し寄する。 木曽「味方は僅五万余騎。計略をもつて防がんとて。 シテ立衆「白旗数多とゝのへつゝ。 黒坂の上におし立てて。敵の心を疑はしめ。 山中にたむろさせ。夜に入り追手搦手より。 一度にかかり倶梨伽羅が。谷へ敵をおとさんと。 シテ立衆上歌「用意をなして義仲は。 用意をなして義仲は。勢を七手に分ちつゝ。 その身は事に精兵。一万余騎を引き率へ。 埴生に陣をぞ。

取りにける埴生に陣をぞ取りにける。池田詞「いかに申上げ候。 御諚の如く黒坂の上に。 多くの白旗を立てゝ候へば。平家の勢これを見て。 あはや源氏大勢向うたるは。 取りこめられてはかなふまじ。こゝは便宜の処なりと。 砺波山の山中。猿が馬場と申す処に陣を取つて候。 木曽「それこそ義仲が願ふ所なれ。 さあらば矢合は明日たるべし。 かまへて味方をいましめ戦はずして。 夜に入つて押し寄せうるずにて候。面々にその由申し候へ。 池田「畏つて候。木曽「いかに池田の次郎。 池田「御前に候。 木曽「これより北にあたつて夏山の繁のうちに。 朱の玉垣ほの見えて片削造の社あり。 あれをばいづくと申すぞ。いかなる神をあがめ奉りたるぞ。

。 池田「さん候あれこそ埴生の八幡宮にてわたらせ給ひ候。 この所もその御領の地にて候。 木曽「義仲なにとなう陣取りしに。八幡の御地なるこそ吉兆なれ。 いかに覚明。シテ「御前に候。 木曽「且は後代のため。一つは当時の祈祷のため。 願書を参らせうと思ふはいかに。 シテ「御諚の如く。御願書を御奉納あつて然るべう候。 木曽「さあらば願書を聞き候へ。 シテ「かしこまつて候。 覚明おほせをうけたまはり。地「箙のうちよりも。/\。 小硯料紙取りいだし。墨すり筆を和しけるが。 思ひあんずる気色もなく。 古書をうつすが如くにてやがて願書を書きをはる。 シテ中「何何帰命頂礼八幡大菩薩は。 日域朝廷の本主。累世明君の曩祖たり。 宝祚を守らんがため。蒼生を。利せんがために。 三身の。金容を現して。三所の権扉を。 押し開きたまへり。

こゝにしきりのとしよりこの方。平相国と。いふ者あつて。 四海を掌にし。万民を。悩乱せしむこれ。 仏法のあた。王法の敵なりそも/\。 曽祖父前の陸奥の守。名を宗廟の。 氏族に帰附す。義仲いやしくも。 その後胤としてこの大功を起すこと。 たとへば嬰児の〓{レイ}を以て。巨海をはかり。 蟷螂が斧を取つて。龍車に向ふ如くなり。 然れども君のため国のためにこれを起すのみなり。 伏して願はくは。神明納受垂れ給ひ。 勝つ事を究めつゝ。 仇を四方に退け給へ寿永二年五月日と。高らかに読み上げたり。 地「木曽殿を初として。 その座にありし兵ども。真に文武の達者かなと。 みな覚明をほめにけり。 木曽「義仲表指抜きいだし。地「これを願書に取りそへて。 内陣に納めよと。覚明に賜はれば。 覚明これを捧げ持ち御前を立ちてゆゝしくも。 八幡の宮に参りけり八幡の宮に参りけり。

シテ詞「いかに申し上げ候。 御願書並に御表指の鏑。八幡の宮に奉納仕りて候。 又この庄の土民。軍の御門出を祝し。 酒さかなを奉りて候。 木曽「かゝるめでたき事こそなけれ。 この度の軍に勝たんずる事必定なり。さらば軍の門出を祝ふべし。 覚明酌に立ち候へ。シテ「畏つて候。 八幡の宮の神風に。地「敵は木の葉と。 散りぬべし。木曽詞「いかに覚明一さし舞ひ候へ。 シテ「畏つて候。地「敵は木の葉と。

散りぬべし。男舞。 地「酒宴もすでになかばなりしに。/\不思議や八幡の方よりも。 山鳩翅をならべつゝ。味方の旗手に飛びかけり。 納受のしるしをあらはしければ。 木曽殿を始め。軍兵ども。皆一同に伏し拝み。 いよ/\加護をぞ願ひける。 さてこそ平家の大勢を。 倶梨伽羅が谷に追ひ落し。たゞ一戦に。勝利を得しも。 まことに八幡の神力なり 土肥遠平 岡崎義実 源頼朝外四人 土肥次郎実平 和田義盛 舟子。

シテツレ次第「身は捨小舟恨みても。/\。 かひなきや憂き世なるらん。 頼朝詞「これは兵衛佐頼朝とは我が事なり。 扨も昨日石橋山の合戦に味方うち負け。 余りに無勢に候ふ程に。

一先安房上総の方へ開かばやと存じ候。如何に土肥の次郎。 シテ「御前に候。頼朝「余りに味方無勢にある間。 一。 先安房上総の方へ開かうずるにてあるぞ。急いで舟の事を申しつけ候へ。 シテ「畏つて候。

とくより御船の事を申しつけて候。急いで召されうずるにて候。 頼朝「いかに実平。シテ「御前に候。 頼朝「唯今船中に供したる人敷はいか程あるぞ。 シテ「さん候唯七騎御座候。 頼朝「さては頼朝までは八騎よな。 きつと思ひいだしたる事あり。 祖父為義鎮西へ開きし時も主従八騎。父義朝江州へ落ち給ひしも主従八騎。 思へば不吉の例なり。 実平計らひて舟より一人おろし候へ。シテ「畏つて候。 実平仰承り。船のせがひに立ち上り。 御供の人数を見渡せば。まづ一番には田代殿。 地「さて二番には新開の次郎。 シテ「また三番は土屋の三郎。 地「四番は土佐坊五番には。シテ「実平候六番には。 遠平「同じき遠平。シテ「艫板には。義実「義実あり。 地「此人々は君のため。/\。 龍門原上の土に屍をば晒すとも。惜しかるまじき命かな。 いづれを選び出さんと。 さしもの実平思ひかね。赤面したるばかりなり/\。

頼朝詞「いかに実平。 何とて遅きぞ急いでおろし候へ。シテ詞「畏つて候。 いかに岡崎殿に申し候。急いで御船より御下り候へ。 義実「何と某に御船より下りよと候ふや。 シテ「なか/\の事。義実「暫く。 此御供のうちに。某一の老体にて候ふ程に。 かひ。 がひしく御用にも立つまじき者と御覧じ限られて。斯様に承り候ふな。 其儀においては御船よりは下り候ふまじ。 シテ「いや/\さやうの儀にては無く候。 艫板に召されて候ふ程に。陸の近さに申し候ふ。 義実「いや所詮此船中に。 命二つ持ちたらんずる者を御船より下され候へ。 シテ「これは不思議なる事を承り候ふ物かな。 それ人は生ずるより死するまで。 命をば一つこそ持ちて候へ。 二つ持ちたる謂の候ふか。 義実「さん候某もきのふまでは命を二つ持ちて候ふを。 はや一つの命をば我が君に参らせ上げて候。

シテ「さて其いはれは候。義実「その事にて候。 きのふ石橋山の合戦に。 子にして候ふ真田の余一義忠は。副将軍を賜はり。 俣野と組んで討たれぬ。 されば親子は一体二つの命ならずや。見申せば土肥殿こそ。 此御船に親子一処に渡られ候へ。 御分残つて遠平をおろすか。遠平を残して御分おるゝか。 親子の内一人おりられ候へ。シテ「尤もにて候。 余りの道理に物なのたまひそ。 いかに遠平。君よりの御諚にてあるぞ。 急いで御舟より下り候へ。 子方「何と御船より下りよと仰せ候ふか。シテ「なか/\の事急いで下り候へ。子方「遠平幼く候へども。 君の御大事に立たん事。 誰にか劣り候ふべき。御船よりは下りまじく候。 シテ「こざかしき事を申す者かな。 君の御為父が命にては無きか。急いで御船より下り候へ。 。子方「いや/\君の御為父の命をば背くとも。御船よりは下りまじく候。

シテ「言語道断の事を申すものかな。 君の御為父が命をば背くとも下りまじきと申すか。 其儀ならば人手には掛けまじいぞ。 義実「暫く。これは君のおん門出なるに。 誤りたるか実平。 シテ「いづくまでも某が誤りて候。 所詮おりまじきと申す者をおろさんより。某御船より下りようずるにて候。 子方「いかに申し候。 さらば某御船より下り候ふべし。 シテ「何と下りようずると申すか。げに/\今こそ某が子にて候へ。 あれを見よ敵大勢うち出でたり。 かまへて某が子と名のつて。尋常に討死せよ。 名残こそ惜しけれ。 かくて我が子を下し置き。実平御船に参りけり。 地「ゆゝしく見ゆる実平かなと。互の心を思ひやり。 親子の別いたはしや。 子方「父の別れは申すにおよばず。 君を始め参らせて。 皆人々に御名残こそ惜う候へ。地「かの松浦佐代姫が。

唐船を慕ひ佗びて。渚にひれ伏しゝありさまも。 今遠平が親と子の。別にかはらじと。 みな涙をぞ流しける。 子方ロンギ「契ほどなき早船を。 暫しとだにも云ひあへず。跡を見おくりたゝずめば。 地「はや遠ざかる浦の波。 立ち別れゆく有様を。子方「代の人々は心して。 地「あはれみあへる。子方「船の内に。 地「実平はひたすらに。弱気を見えじとて。なか/\かへりみおきもせで。心強くも行く跡に。 。 敵大勢見えたりすはや遠平は討たるゝとて。 頼朝もあはれみ陸を見給へばさすがげに恩愛の。 契も唯今を限ぞと思ひ実平は。磯辺にむかひ人知れず。 こゝろのままならばあはれ遠平と一処に。 討死せばやとあこがれて。 飛び立つばかりに思子に別ぞあはれなりける/\。 ワキ一セイ「弓張月の西の空。行くへ定めぬ。 船路かな。狂言「沖なる波の音までも。

閧の声かと。恐ろしや。 ワキ詞「あれに見えたるが御座船にてありげに候。 いそいで舟を漕ぎ候へ。狂言「畏つて候。 シテ「いかに申し候。あれに兵船一艘見えて候。 まづこなたより詞をかけうずるにて候。 義実「然るべう候。 シテ「いかにあれなる舟は誰が召されたる御船にて候ふぞ。 ワキ「われもそなたの舟影を。 怪しく重ひ休らふなり。そも誰人の舟やらん。 シテ「これは土肥の次郎実平が乗りたる舟候ふよ。 ワキ「何と土肥殿の御船と候ふや。 シテ「中中の事。 さて其御船は誰が召されたる御船にて候ふぞ。 ワキ「是こそ和田の小太郎義盛が乗りたる船候ふよ。 シテ「扨は和田殿の御船にて候ふか。ワキ「なか/\の事。 内々申し通ぜし如く。 御身方に参らんために。是まで参りて候。 さて君は其御船に御座候ふか。 シテ「和田は内々申し合はせたる事の候ふ間。

唯今参りて候さりながら。 まずたばかつて心を見うずるにて候。いかに和田殿へ申し候。 是までの御参めでたう候さりながら。 面目もなき事の候。 きのふの暮ほどより我が君を見失ひ申し。 斯様にうかれ船となつて尋ね申し候ふよ。 ワキ「何と君は其御船に御座なきと候ふや。シテ「さん候。 ワキ「言語道断の事にて候ふ物かな。 われ味方をば忍びいで。 月日とも頼み奉る頼朝には離れ申し。此上は命ありてもなにかせん。 いでいで自害に及ばんと。 腰の刀に手をかくる。シテ「あゝ暫く。君は此船に御座候。 ワキ「何と君はその御船に御座候ふとや。 シテ「なか/\の事。 ワキ「さて何とてかやうには承り候ふぞ。 シテ「是は戯言にて候。幸に陸近う候ふ程に。 其船を寄せられ候へ。御船をも寄せ候ひて。 陸にて御対面あらうずるにて候。ワキ「心得申し候。 さらばやがて陸へ参らうずるにて候。

シテ「いかに申し候。御前にて候。 ワキ「我が君を見奉りて。いまは安堵仕りて候。 シテ「げに/\尤もにて候。 ワキ「いかに土肥殿に申し候。シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「此御供の中に。 何とて御子息遠平は御入り候はぬぞ。シテ「その事にて候。 さる謂あつて陸に残し置きて候。 ワキ「とくよりかくと申したくは候ひつれども。 以前某に心を尽させられ候ふ其返報に。 今迄はかくとも申さぬなり。 いで土肥殿に引出物申さんと。隠し置きたる船底より。 遠平を引立て見せければ。 シテ「其時実平あきれつゝ。地「夢か現かこはいかにとて。 覚えず抱き付き泣き居たり。 たとへば仙家に入りし身の。半日の程に立ちかへり。 。 七世の孫に逢ふことの譬も今に知られたり/\。 シテ詞「いかに義盛に申し候。 さて此者をば何として召し連れられて候ふぞ。

ワキ詞「さん候。これまで伴ひ申したるいはれを。 御前にて申し上げうずるにて候。 シテ「いそいで御物語り候へ。 ワキ「さても昨日石橋山の合戦に破れしかば。 大庭が手勢君を討ち奉らんと。 大勢渚にうち出でたりしに。某も一処に討つて出でしが。 汀を見れば。引きかねたる若者一騎ひかへたり。 某駒かけよせて見れば御子息遠平なり。 急ぎ馬より飛んで下り。 生捕る体にもてなし船底に乗せ申し。 これまで伴ひ参りたり。 なんぼう土肥殿に義盛は忠の者にて候ふぞ。 シテ「かゝるありがたき事こそ候はね。 唯今の御物語を聞き候ひて落涙仕りて候ふを。 さて人々の不覚の涙とや思し召すらん。さりながら。 地「嬉し泣の涙は。/\。何か包まん唐衣。 日も夕暮になりぬれば。月の盃とり%\に。 シテ「主従ともに悦の。地「心うれしき酒宴かな。 ワキ詞「いかに実平。

余りにめでたきをりなれば一さし御舞ひ候へ。 シテ「さらばそと舞はうずるにて候。 地「心うれしき酒宴かな。男舞「。 キリ「かくて時日を廻らさず。/\。 国々の兵馳せ参ずれば。

ほどなく御勢二十万騎になり給ひつゝたなごころに。 納め給へる此君の御代の。めでたきはじめも。 実平正しき忠勤の道に入ル/\。 弓矢の家こそ久しけれ 富樫某 従者 武蔵坊弁慶 同行山伏 源義経 強力

ワキ詞「かやうに候ふ者は。 加賀の国富樫の・何某{なにがし}にて候。 扨も朝頼{本ママ}義経御中不和にならせ給ふにより。 判官殿十二人の作り山伏となつて。 奥へ御下向の由頼朝きこしめし及ばれ。国々に・新関{しんせき}を立てゝ。 山伏をかたく・簡び{えらミ}申せとの御事にて候。 さる間・此処{このところ}をば某承つて山伏を・留{とゞ}め申し候。 今日も固く申しつけばやと存じ候。 いかに誰かある。狂言「御前に候。 ワキ「今日も山伏の・御通{おんとほり}あらばこなたへ申し候へ。

狂言「畏つて候。 シテツレ次第「旅の衣は・篠懸{すゞかけ}の。旅の衣は。 篠懸の露けき袖やしをるらん。 サシ「・鴻門{こうもん}楯破れ都の・外{ほか}の旅衣。日も遥々の越路の末。 おもひやるこそ遥なれ。 シテ「さて御供の人々には。ツレ地「伊勢の三郎駿河の次郎。 片岡増尾常陸坊。 シテ「弁慶は・先達{せんだつ}の姿となりて。ツレ地「・主従{しう%\}以上十二人。 いまだ習はぬ旅姿。袖の篠懸露霜を。 今日分けそめていつまでの。限もいさや白雪の。

越路の春にいそぐなり。 歌「時しも頃は・二月{きさらぎ}の。/\十日の・夜{よ}月の都を立ち出でて。 これやこの。行くも帰るも別れては。 /\。知るも知らぬも。逢坂の山隠す。 霞ぞ春は。恨めしき霞ぞ春はうらめしき。 下歌「波路遥に行く舟の。/\。 海津の浦に着きにけり。 ・東雲{しのゝめ}はやく明け行けば浅茅色づく・有乳山{あらちやま}。上歌「気比の海。 宮居久しき神垣や。松の・木芽山{きのめやま}。 なほ行くさきに見えたるは。・杣山人{そまやまびと}の板取。河瀬の水の。 ・麻生津{あさうづ}や。末は三国の湊なる。 芦の篠原波よせて。靡く嵐の烈しきは。 花の安宅に着きにけり/\。 シテ詞「御急ぎ候ふほどに。 これははや安宅の湊に御着にて候。 しばらく此処に御休あらうずるにて候。子方「如何に弁慶。 シテ「御前に候。 子方「唯今・旅人{たびゝと}の申して通りつる事を聞いてあるか。 シテ「いや何とも承らず候。

判官「安宅の湊に新関を立てて。山伏を固く・簡ぶ{えらム}とこそ申しつれ。 シテ「言語道断の御事にて候ふものかな。 。 さては御下向を存じて立てたる関と存じ候。これはゆゝしき御大事にて候。 まづ此傍にて暫く御談合あらうずるにて候。 是は一大事の御事にて候ふ間。 皆々心中の通を御意見御申しあらうずるにて候。 。 ツレ「我等が・心中{しんぢう}には何程のことの候ふべき。 たゞ打ち破つて御通あれかしと存じ候。シテ「暫く。 仰の如くこの関一所打ち破。 つて御通あらうずるは易き事にて候へども。 御出で候はんずる行末が御大事にて候。 唯何ともして・無異{ぶい}の義が然るべからうずると存じ候。 子方「ともかくも弁慶はからひ候へ。シテ「畏つて候。 某・急度{きつと}案じいだしたる事の候。 我等を始めて皆々につくい山伏にて候ふが。 何と申しても御姿隠れ御座なく候ふ間。 此まゝにては如何と存じ候。恐れ多き申事にて候へども。

御篠懸をのけられ。 あの・強力{がうりき}が負ひたる笈をそと御肩に置かれ。 御笠を深々と召され。如何にもくたびれたる・御体{おんてい}にて。 。 我等より後に引きさがつて御通り候はば。なか/\人は思もより申すまじきと存じ候。子方「・実{げ}にこれは尤もにて候。 さらば篠懸を取り候へ。シテ「畏つて候。 いかに強力。狂言「畏つて候。 シテ「笈を持ちて来り候へ。狂言「畏つて候。 シテ「汝が笈を御肩に置かるゝ事は。 なんぼう冥加もなき事にてはなきか。 先汝は先へ行き関の・様体{やうだい}を見て。まことに山伏を・簡ぶ{えらム}か。 又さやうにもなきか懇に見て来り候へ。 狂言「畏つて候。 シテ「さらば御立あらうずるにて候。 実にや紅は園生に植ゑても隠なし。 ツレ地「強力にはよも目を懸けじと。 御篠懸を脱ぎ替へて。麻の衣を御方にまとひ。 シテ「あの強力が負ひたる笈を。

子方「義経取つて肩に懸け。 ツレ地「笈の上には・雨皮{あまがは}・肩箱{かたばこ}取りつけて。子方「・綾菅笠{あやすげがさ}にて顔をかくし。 ツレ地「・金剛杖{こんがうづゑ}にすがり。

子方「足痛げなる強力にて。地「よろ/\として歩み給ふ御ありさまぞ痛はしき。 シテ詞「我等より後に引き下つて御出あらうずるにて候。 さらば皆々御通り候へ。ツレ「承り候。 狂言(従者)「如何に申し候。 山伏達の大勢御通り候。ワキ詞「何と山伏の御通あると申すか。 心得てある。なう/\客僧達これは関にて候。シテ「承り候。 これは南都東大寺建立の為に。国々へ客僧をつかはされ候。 ・北陸道{ほくろくだう}をば此客僧承つて罷り通り候。 ・先{まづ}・勧{すゝめ}に御入り候へ。ワキ「近頃殊勝に候。 勧には参らうずるにて候去りながら。 これは山伏達に限つて留め申す関にて候。 シテ「さて其謂は・候{ざふらふ}。 ワキ「さん・候{ざふらふ}頼朝義経御中不和にならせ給ふにより。 判官殿は奥秀衡を頼み給ひ。 十二人の作山伏となつて。御下向の由其聞え候ふ間。 国々に新関を立てゝ。 山伏を固く・簡ぴ{えらミ}申せとの御事にて候。

さる間・此処{このところ}をば某承つて山伏を留め申し候。 殊にこれは大勢御座候ふ間。・一人{いちにん}も通し申すまじく候。 シテ「委細承り候。 それは作山伏をこそ留めよと仰せいだされ候ひつらめ。 よも・真{まこと}の山伏を留めよとは仰せられ候ふまじ。 。 狂言(従者)「いや昨日も山伏を三人迄切つたる上は。 シテ「さて其切つたる山伏は判官殿か。ワキ「あらむつかしや問答は・無益{むやく}。 一人も通し申すまじい上は・候{ざふらふ}。 シテ「さては。 我等をもこれにて誅せられ候はんずるな。ワキ「なか/\の事。 シテ「言語道断か。 かる不祥なる所へ来かゝて候ふものかな。此上は力及ばぬ事。 さらば最期の勤を始めて。尋常に誅せられうずるにて候。 皆々近う渡り候へ。ツレ地「承り候。 シテノツト「いで/\最後の勤を始めん。 夫れ山伏といつぱ。 役の優婆塞の行義を受け。 ツレ「其身は不動明王の尊容をかたどり。シテ「・兜巾{ときん}といつぱ五智の宝冠なり。

十二因縁ののひだをすゑて戴き。 シテ「・九会{くゑ}曼荼羅の柿の篠懸。 ツレ地「胎蔵・黒色{こくしき}のはゞきをはき。 シテ「さて又・八目{やつめ}の・草鞋{わらんづ}は。ツレ地「八葉の蓮華を踏まへたり。 シテ「出で入る息に・阿吽{あうん}の二字をとなへ。 ツレ地「即心即仏の山伏を。 シテ「こゝにて討ちとめ給はん事。 ツレ地「明王の照覧はかりがたう。シテ「・熊野{ゆや}権現の・御罰{ごばつ}を当らん事。 ツレ地「立ちどころにおいて。 シテ「疑あるべからず。地「・〓{大漢和3770}阿毘羅吽欠{おんあびらうんけつ}と数珠さら/\と押しもめば。 ワキ詞「近頃殊勝に候。 先に承り候ひつるは。南都東大寺の勧進と仰せ候ふ間。 定めて勧進帳の御座なき事は候ふまじ。 勧進帳を遊ばされ候へ。 これにて聴聞申さうずるにて候。 シテ「何と勧進帳を読めと・候{ざふら}ふや。ワキ「なか/\の事。 シテ「心得申して候。もとより勧進帳はあらばこそ。 笈の中より往来の巻物一巻取りいだし。

勧進帳と名づけつゝ。 高らかにこそ読み上げけれ。夫れつら/\。 シテツレ地「・惟{おも}ん見れば大恩教主の秋の月は。 涅槃の雲に隠れ・生死{しやうじ}長夜の長き夢。驚かすべき人もなし。 こゝに中頃・帝{みかど}おはします。御名をば。 聖武皇帝と。名づけ奉り最愛のの。 夫人に別れ。恋慕やみがたく。涕泣・眼{まなこ}に荒く。 ・涙{なんだ}玉を貫く思ひを。 善途に翻して廬遮那仏を建立す。かほどの霊場の。 絶えなん事を悲しみて。俊乗房重源。 諸国を勧進す。一紙半銭の。・奉財{ほうさい}の輩は。 この世にては無比の・楽{らく}に誇り当来にては。 数千蓮華の上に坐せん帰命・稽首{けつしゆ}。 敬つて白すと天も。響けと読み上げたり。 ワキ「関の人々肝を消し。地「恐をなして通しけり/\。 ワキ詞「急いで御通り候へ。シテ詞「承り候。 狂言「如何に申し上げ候。 判官殿の御通り候。ワキ「いかに是なる強力とまれとこそ。 ツレ地「すは我が君をあやしむるは。

一期の浮沈極りぬと。詞「みな一同に立ち帰る。 シテ詞「あゝ暫く。あわてゝ事を仕損ずな。 やあ何とてあの強力は通らぬぞ。 ワキ「あれは・此方{こなた}より留めて候。 シテ「それは何とて御とめ候ふぞ。 ワキ「あの強力がちと人に似たると申す者の候ふ程に。 さて留めて候ふよ。 シテ「何と人が人に似たるとは。珍しからぬ仰にて候。 さて誰に似て候ふぞ。 ワキ「判官殿に似たると申す者の候ふ程に。・落居{らくきよ}の間留めて候。シテ「や。 言語道断。 判官殿に似申したる強力めは一期の思出な。腹立や日高くは。 能登の国まで指さうずると思ひつるに。 わづか。 の笈負うて後に下ればこそ人も怪しむれ。総じて此程。 につくしにくしと思ひつるに。いで物見せてくれんとて。 金剛。 杖をおつ取つて散々に・打擲{ちやうちやく}す通れとこそ。や。笈に目を懸け給ふは。 ・盗人{たうじん}ざうな。

ツレ地「かた%\は何故に。/\。 かほど賎しき強力に。 太刀刀ぬき給ふはめだれ顔の振舞は。臆病の至りかと。 十一人の山伏は。打刀ぬきかけて。 勇みかゝれる有様は。如何なる天魔鬼神も。 恐れつべうぞ見えたる。ワキ「近頃誤りて候。 はやはや通り給へ。 。 シテ詞「先の関をば早・抜群{ばつくん}に程隔たりて候ふ間。 ・此{この}処に暫く御休みあらうずるにて候。皆々近う御参り候へ。 いかに申し上げ候。 さても唯今は余りに難義に候ひし程に。不思議の働きを仕り候ふ事。 これと申すに君の・御運{ごうん}尽きさせ給ふにより。 今弁慶が杖にも当らせ給ふと思へば。 いよいよあさましうこそ候へ。 子方詞「さては悪しくも心得ぬと存ず。いかに弁慶。 さて。 も唯今の機転更に凡慮より為すわざにあらず。唯天の御加護とこそ思へ。 関の者ども我を怪しめ。生涯限ありつる所に。

とかくの是非をばもんだはずして。 唯真の下人の如く。散々に打つて我を助くる。 これ弁慶が謀にあらず八幡の。 地「御託宣かと思へば忝くぞおぼゆる。 地クリ「夫れ世は末世に及ぶといへども。 ・日月{にちぐわつ}はいまだ地に落ち給はで。 たとひ如何なる方便なりとも。正しき主君を打つ杖の天罰に。 当らぬことやあるべき。 子方サシ「実にや視在の果を見て過去未来を知ると云ふこと。 地「今に知られて身の上に。 憂き・年月{としつき}の二月や。 下の十日の今日の難を遁れつるこそ不思議なれ。 子方「唯さながらに十余人。地「夢の覚めたる心地して。 互に面を合はせつゝ。泣くばかりなる。有様かな。 クセ「然るに義経。弓馬の家に生れ来て。 ・命{めい}を頼朝に奉り。・屍{かばね}を西海の波に沈め。 山野海岸に起き臥し明かす・武士{ものゝふ}の。 鎧の袖枕。かたしく・隙{ひま}も波の上。 ある時は舟に・浮び{うかミ}。風波に身を任せ。

ある時は・山脊{さんせき}の。馬蹄も見えぬ雪の中に。 海少しある夕波の立ちくる音や須磨明石の。 とかく三年の程もなく。敵を亡ぼし靡く世の。 其忠勤も徒らに。なりはつる此身の。 そも何といへる因果ぞや。 判官「実にや思ふ事。叶はねばこそ憂き世なれと。 地「知れどもさすがなほ。思ひ返せば梓弓の。 すぐなる。人は苦しみて。讒臣は。 ・弥増{いやまし}に世に在りて。遼遠東南の雲を起し。 ・西北{せいぼく}の雪霜に。責められ埋る憂き身を。 ことわり給ふべきなるに唯世には。神も。 仏もましまさぬかや。 恨めしの憂き世やあら恨めしの憂き世や。 ワキ詞「如何に誰かある。 狂言(従者)「御前に候ワキ「さても山伏達に・聊爾{れうじ}を申して。 余りに面目もなく候ふ程に。 追つ付き申し酒を一つ参らせうずるにてあるぞ。 汝は先へ行きて留め申し候へ。狂言「畏つて候。 いかに申し候。

先には聊爾を申して余りに面目もなく候ふとて。 関守のこれまで酒を持たせて参られて候。 シテ詞「言語道断の事。やがて御目に懸らうずるにて候。 狂言シカ%\、シテ詞「・実{げ}に/\是も心得たり。 人の情の盃に。うけて心を取らんとや。 これにつきてもなほ/\人に。 心なくれそ・呉織{くれはとり}。地「怪しめらるな面々と。 弁慶に諌められて。此山陰の・一宿{ひとやどり}に。 さらりと・円居{まどゐ}して。処も山路の菊の酒を飲まうよ。 シテ「おもしろや・山水{やまみづ}に。 地「おもしろや山水に。盃を浮べては。 ・流{りう}に引かゝる・曲水{きよくすゐ}の。 手まづさへぎる袖ふれていざや舞を舞はうよ。本より弁慶は。三塔の・遊僧{いうそう}。 舞延年の時のわか。これなる山水の。 落ちて巌に響くこそ。地「鳴るは瀧の水。 シテ詞「たべ酔ひて候ふ程に。 先達御酌に参らうずるにて候。 ワキ詞「さらばたべ候ふべし。とてもの事に先達一さし御舞ひ候へ。 地「鳴るは瀧の水。男舞シテワカ「鳴るは瀧の水。

地「日は照るとも。絶えずとうたり。 絶えずとうたりとく/\立てや。・手束弓{たつかゆみ}の。 心ゆるすな。関守の人々。

暇申してさらばよとて。笈をおつ取り。肩に打ち懸け。 虎の尾を履み毒蛇の口を。 遁れたる心地して。陸奧の国へぞ。下りける 梶原源太景季 景季の従者 曽我太郎祐信 祐信の従者 曽我兄弟の母 源頼朝 畠山重忠 一万 箱王

ワキ詞「是は鎌倉殿に仕へ申す。 梶原源太景季にて候。扨も曽我の太郎祐信は。 我が君御心安き者に思し召し候ふ所に。 伊東入道祐近が孫。 一万箱王を養ひ置きたる由聞し召され。 成人の後は頼朝が敵ともなるべき者をと。奇代の事に思し召し。 某に召連れて参れとの御諚を蒙り。 唯今曽我へと急ぎ候。いかに誰かある。 ワキツレ「御前に候。ワキ「急ぎ案内を請ひ候へ。 ワキツレ「畏つて候。いかに此内へ案内申し候。

トモ「誰にて渡り候ふぞ。 ワキツレ「梶原源太景季の参られて候。此由御申しあつて給はり候へ。 トモ「心得申して候。いかに申し上げ候。 梶原源太景季殿の御出にて候。 シテ「此方へと申し候へ。トモ「畏つて候。 其由申して候へば。此方へ御出あれとの御事にて候。 ワキ「心得てある。 シテ「思ひよらざる御出珍しうこそ存じ候へ。先づかう/\御通り候へ。扨唯今は何の為の御出にて候ふぞ。 ワキ「何と申すべきやらん。

御為ゆゝしからぬ御使に参りて候。其故は。 故伊東殿の孫養育の由聞し召され。末の敵なれば。 急。 ぎ供して参るべしとの御使を蒙り参りて候。シテ「仰畏つて承り候さりながら。 妻子に縁なきもの。 祐信に過ぎたるはよもあらじ。玉くしげ蘭かれ。 衰朽の夢を見しよりも。 せめては憂きをも慰む便ぞと思ひ。兄弟を五つや三つの時よりも。 母諸共に迎へ取り実子の如く育てつゝ。 事仮初とはいひながら。早十一と九つ。 年頃よりもけなげにも見え候へば。 折を得て君へも申し上げ。 御家人の数にも交へ。父の名跡をも継がせばやとこそ。 兼ねては存じ候ひし。 此頃斯る仰を蒙るべしとは。思ひもよらず候ふと。 地「涙をおさへ悲しめば。 母は余りの心にや唯茫然と呆れけり。 クセ「実にや生きとし生けるもの。 子を悲しまぬものや有る梁の燕野の雉子。子故に身を忘れ。

哀猿腸をたつ悲今目の前にあはれなり。 シテ「よしや思へば何事も。地「報の罪のいまさらに。 誰をかさして恨むべき親子の契麻衣。 袖に余れる涙の。身も絶えなんと父母は。 歎に沈むばかりなり/\。 ロンギ地「実に理と思へども。 今は時刻も移るなり早々出し給へかし。ツレ「母は余りの悲しさに。 日頃頼みし観世音。誓の舟の梶原よ。 君に宜しく申し上げ兄弟を助けたび給へ。 ワキ「流石に我も親心。 想ひやらるゝ袖の露押へ兼ねたるばかりなり。 シテ「祖父伊東が悪逆を。思し召し給ふとも。 未だ幼き者なればなど御赦なかるべき。 ワキ「げに道理なり梶原が。何とぞ申し兄弟の。 地「命ばかりは助けんと。 さも頼もしき言の葉の。露の情を便にて。 泣きてとゞまる哀れさよ/\。 シテ子方立衆一声「若草の。上もたはゝに置く露の。 きえを争ふ気色かな。

地「道芝の露も涙もわけかぬる。/\。羊の歩隙の駒。 芦辺の田鶴も音を添へて。哀催す波の音。 由井の汀に着きにけり/\。 ワキ詞「いかに祐信に申し候。某身に代へてもと存じ。 色々詞を尽し候へ共。君御憤深く。 殊に工藤祐経の申し条あるにより。 誅し申せとの御諚にて候。今は思し召しきられ候へ。 。 シテ「曽我を出でしより斯あるべきとは存じ候へども。 余りに母にて候ふものゝ歎き候ふ程に。 梶原殿を頼み申してこそ候へ。此上は是非なき事。 某も思ひ定めて候。ワキ「いかに兄弟。 急ぎ敷皮に直り候へ。シテ「いかに申し候。 迚もの御芳志に某が手にかけて。 せめての孝養に仕り度く候。ワキ「いか様とも御心に任せ候へ。 いかに太刀取。祐信へ太刀を参らせ候へ。 太刀取「畏つて候。シテ「いかに兄弟。 迚も遁れぬ道芝の露の命を惜まずして。 最期を清くたしなみ候へ。

一万「愚の父の仰やな。 死せん命は露塵程も何かは惜み申すべきさりながら。年頃の御恩をも。 聊報ずる事もなく。 空しく三途に帰らん事。誠に無念に候。箱王「なう兄上。 我等兄弟が最期の体を見物とて。 さしもの由井の浜までも。所せきまで見えて候。 潔く父の御手に懸り。 黄泉とやらんにとく参らうずるにて候。 シテ詞「あう申したり/\。夫れ栴檀は二葉より芳しとは。 御事等の事にて候。 成人の後さこそと思へば。目もくれ心乱れつゝ。 地「何処をそこと弁へず。唯くれ/\と呆れしが。 時刻移してかなはじと。 太刀取り直し立ちけれど。足弱車よわ/\と。 力もつきて叶はねば。 太刀投げ捨てゝ伏しまろび。害してたべと叫べども。 太刀取も斬り兼ねて唯さめ%\と泣き居たり。 ワキツレ詞「なう/\暫く御しづまり候へ。 御赦の状を賜はり。畠山殿の御使に参りて候。

これ/\御読み候へ。 ワキ「あら目出度の御事や。急ぎ拝見申さうずるにて候。 何何一万箱王が事。諸国の大名小名。 殊に畠山重忠さへぎり申さるゝに依つて。 二人の命を助け。重忠に預け置く所なり。 かかる目出度き事こそ候はね。 シテ「真に御厚恩いつ忘るべきとも存ぜず候。 畠山「いかに梶原殿。又祐信へ申し候。 扨も諸国の大名小名。我が君の御前にて。 色々詞を尽し申されしかども。 中々御赦なかりけるに。此畠山。物その数にはあらねども。

御前を立去らず首を打たせおはしませ。 ワキ「実に尤も道理なり。 さらば目出度きをりからに。和歌を詠じて酒宴をなし。 急いで舞を舞ひ候へ。シテ「万代の。 松にぞ君を祝ひつる。地「千歳の影そふ若緑。 愁の眉も忽ちに。/\。 開くる花の盃とりどりに慶賀の礼儀互に述べて。 これまでなりと暇申し。 兄弟引き連れ父もろともに帰る心を何にたとへん唐衣。 きつゝなれにし故郷に帰ることこそ嬉しけれ 曽我十郎祐成 団三郎 箱根の別当 箱王丸 能力。

シテ団三郎次第「打つを限の秋衣。/\。 うらみをいつか晴らさん。 シテ詞「これは曽我の十郎祐成にて候。さても某が親の敵の事。 世に隠なく候へども。

敵は猛勢我等は一人のことにて候ふ程に。 思ふにかひなく罷り過ぎ候。又弟にて候ふ箱王は。 幼少より箱根の御寺に上せ置きて候。 余りに便なく候ふ程に。彼の者を男にし。

もろともに本望を達せばやと思ひ。 唯今箱根の御寺へと急ぎ候。 サシ「一樹の蔭に宿る事も。これ生々の契なり。 シテ団三郎二人「同井の流を汲むもみな。 前世の語らひの宿縁なり。深きちぶさの海山の。 たとへは積る恩徳の。 情を思ふ涙の袖乾す便をと待つまでの命を頼むばかりなり。 身は露霜の果までも。兄弟ならでは又もなし。 急ぎ箱根の寺へ上り。箱王殿をよび下し。 。 下歌「父の恨の涙の袖をもともに乾すやとて曽我の里を立ち出づる。 上歌「月影は雪にて明くる箱根山。/\。 嶺も二つの影添ひて。ほの%\と。 うつろふ富士の湖の波の雪も時知らで。 春夏秋をば送れども。いつか思の末通る。 心ばかりの頼にや。つれなき命惜むらん。/\。 シテ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早箱根の御寺に着きて候。いそぎ別当に参り。 某登山仕りたる由申し候へ。団三郎「畏つて候。

いかに此内へ案内申し候。 狂言「誰にて渡り候ぞ。団三郎「祐成の御登山にて候。 狂言「心得申し候。暫く御待ち候へ。 やがて申し入れずるにて候。 いかに申し上げ候。ワキ詞「何事ぞ。 狂言「唯今祐成の御登山にて御座候。 ワキ「何と祐成の御登山と申すか。狂言「さん候。ワキ「此方へと申せ。 狂言「畏まつて候。如何に申し候。 こなたへ御出あれと申され候。団三郎「心得申し候。 かう/\御通あれとの御事にて候。 ワキ「いかに祐成こなたへ御入り候へ。 さてたゞ今は何の為の御登山にて候ふぞ。 シテ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。 弟にて候ふ箱王を申し請け。 元服せさせばやと存じ。其ため登山仕りて候。 ワキ「何箱王殿を元服させん為に御出と候ふや。 シテ「さん候。 ワキ「これは思ひもよらぬことを承り候ふものかな。箱王殿の御事は。 。

大方殿より出家になし申せとこそ承り候ふに。 何と思し召して斯様には承り候ふぞ。シテ「仰尤もにて候へども。 それは母にて候ふものゝ女計らひにて申され候。 唯ひらに祐成にたまはり候へ。 ワキ「いや大方殿の御意ばかりにても候はず。 故河津殿より仰せらるゝ子細の候ふ間。 総じて祐成は御いろひあるまじく候。 シテ「仰少しも違はず候。 親にて候ふ者の申す事はさる事にて候へどもさりながら。 御心を静めて聞し召され候へ。 我等が親の敵の事。あはれ討たばやとは存じ候へども。 敵は猛勢力なし。唯別当の御慈悲にて。 箱王殿を男になし。父の恨の敵をも。 ともに討たせて給はらば。 出家の功徳に劣るまじと。 地下歌「かき口説きつゝ申せば是非の言葉もあらばこそ。理なれや痛はしやと。 別当も列座の人も殊に袖をしほりけり。 上歌「夢の世にながらへて。/\。 あるもかひなき身の行方。

命ぞ恨なる惜しまずながら存へて。思はいつかは末遂げて。 。 胸の煙も其名をも富士の嶺に上げて兄弟が。其亡き跡と弔はれん/\。 ワキ詞「言語道断。 祐成にくどき立てられ申してそゞろに落涙仕りて候。 此上は力及ばぬ事。 別当は体掌申して候ふさりながら。 箱王殿の御心中を存ぜず候ふほどに。呼び出し尋ね申さうずるにて候。 シテ「かゝる祝着なる事こそ候はね。 さらば箱王を此方へ召され候へ。 ワキ「如何に能力。祐成の御登山にてあるぞ。 箱王殿にこなたへと申し候へ。狂言「畏つて候。 。 ワキ「御覧候へ殊の外なる御成人にて候ふぞ。 シテ「仰の如く久しく見候はねば抜群成人仕りて候。 ワキ「いかに箱王殿。 唯今祐成の御登山余の儀にあらず。 御身を元服せさせ申し候はんとの御事にて候。 但し箱王殿は何と思し召され候ふぞ。

子方「とも角も師匠の御計らひにてこそ候らへさりながら。 我等が親の敵の事。 世にかくれなき事ぞかし。同じ兄弟にて候へば。 十郎殿の御身の上。ひとりに限らぬ敵ぞかし。 たとひ寺にありとても。忘るゝ隙はよもあらじ。 とも%\はからひ給ひ候へ。 ワキ詞「さては。 箱王殿の御心中も元服の御望と聞え申して候。 いかに祐成心をしづめて聞し召され候へ。箱王殿生れさせ給ひし時。 故河津殿別当を召され。 この子よくは弟子ともなし。 悪しくはともかくも別当が計らひたるべしと仰せられし程に。 権現の社官別当なれば。 箱根をかたどり御名をも箱王殿と附け申す。今元服の折までも。 師弟の契約浅からず。 同じくは出家をも遂げさせ申し。 一寺をも継がせ申したくは候へども。御身の心もさすがなり。 祐成の御事も痛はしゝ。 よし俗体になり給ふとも。内には慈悲の心中をなし。

外には仁義を旨として。 祐成の影身になり給へと。別当自ら酌を取り。 地「行く末を祈る師弟や兄弟の。/\。 情はともに浅からぬ。 深き箱根の海山のたとへは同じ心にて。年々月日を迎へても。 なほ成人を急ぎつる。其かひありて今は早。 ともに影高き花の若枝ぞめでたき。 かくて此の日も暮方の月の盃いそぎつゝ。 シテ子方ロンギ「時刻も今はうつるなり暇申して帰らん。 ワキ「花を吹く嵐につるゝ梅が香を。 留めてもいかゞ有明の尽きぬぞ名残なりける。 シテ子方「名残はさぞなあらましの。 末頼ある中なれば。ワキ「また登山もあるべしや。 シテ子方「さらばといひて兄弟は。 ワキ「早門前を。シテ子方「出て行けば。地「さすがに別当も。 年月馴れしなじみをば。 いつか忘れんその跡を。見やれば伴ひ兄弟は。 曽我の里にぞ帰りける/\。シテ詞「いかに団三郎。 団三郎「御前に候。

シテ「別当の色々仰せられしを。 涯分申して箱王を伴ひ帰ることの嬉しさは候。 団三郎「御諚の如く近頃目出度き御事にて候。 子方「いかに申すべき事の候。 シテ「何事にて候ふぞ。 子方「此まゝ故郷へ帰り母御に対面申すならば。 定めて元服は叶ふまじきと仰せ候ふべし。 唯この路次にて髪をはやして賜はり候へ。シテ「実に/\これは尤もにて候さりながら。 元服などゝ申す事は聊爾にはなき事にて候。 但しいかに団三郎。団三郎「実に/\箱王殿の御諚の如く。此まゝ御帰り候はゞ。 定めて大方殿とかく仰せられ候ふべし。 こざかしき申事にて候へども。何か苦しう候ふべき。 。 唯この人宿にてそと御ぐしをはやし申され候へかしと存じ候。 シテ「さては汝もさやうに存ずるよな。 さらばこれなる人宿にてそと髪をはやさうずるにて候。 。

サシ「実にや我等程果報つたなき者はよもあらじ。幼くして父を討たせ。 其本望をば遂げずして。 なほ有りがひなき身となりぬ。よし/\それも命を限り。 終には恨を晴るべきなれば。 たゞ元服こそ嬉しけれと。兄弟主従すご/\と。 地「髪をはやして千代までと。 言葉ばかりは祝へども。 そゞろにせきあへぬ涙や袖をしほるらん。 。地クリ「それ生死の道さま%\にして輪廻の迷多し。因果を離れぬ絆みな。 親子兄弟の。宿縁なり。 シテサシ「実にや人の親の迷ふ事。まことの闇にはあらねども。 地「子を思ふ道には辿ると云ふ。 雲居の鶴は月影の。さやけき空と思へども。 それも子をのみ思ひの闇に。 声をかはして鳴くとかや。シテ「我等は又親の跡に。 地「残りて物を思ひの露の。雨とも降り涙とも過ぎ。 いつかは晴れん心の闇の。 シテ「名をやうづまん苔の下。地「朽つるは憂き世の。

習かな。クセ「龍門原上の。 土に身はなるとも。屍の跡を思へたゞ。 惜みても惜むべきは後名の嘲。 されば大国に千里を駆ける虎は。 一毛を惜みて吹き来る風を含みて其身をかへて死すとかや。 日本の弓取は。其名を末代の家に惜み。 一命を軽んずるも。 これ皆明経に本文を思ふ心なり。身は一代名は末代。 理や世の。 中は電光朝露石の火のあるにもあらぬ草の露。消ゆる境は夢なれや。 シテ「今の我等が有様を。地「思ふも憂き命の。 惜からぬ身なれども。本望を遂ぐるまでと。 頼む便や兄弟。主従ともにすご/\と。 髪をはやして祝言の。言の葉添ふる初元結。 行方はめでたかるべしや。 親孝行もかくばかり。 さこそは草の蔭に我等を守り給ふらん。 ワキ詞「如何に能力。狂言「御前に候。 ワキ詞「祐。

成に申すべき事のあるをはつたと失念してあるぞ。追付いて申さうずる間。 汝は先へ行きて候ひ。 いづくまで御出ありたるぞ見て来り候へ。狂言「畏つて候。 狂言「いかに申し候。 団三郎「誰にて渡り候ふぞ。狂言「別当のこれまで御出にて候。 団三郎「さらば其由申し上げうずるにて候。 いかに申し候。 別当のこれまで御出にて候。 シテ「何別当のこれまで御出と申すか。此方へ御出あれと申し候へ。 団三郎「畏つて候。 こなたへ御出あれとの御事にて候。 シテ「さてこれまでの御出は何事にて候ふぞ。 ワキ「さん候これまで参る事余の儀にあらず。箱王殿の御髪を。 愚僧はやし申さんために参りて候。 シテ「其事にて候。箱王申し候ふは。 此まゝ故郷へ帰り候はゞ。 母にて候ふ者定めて元服は叶ふまじき由申し候はんずる間。 此路次にて髪をはやせと申し候ふほどに。 たゞ今これにて某がはやし申して候。

御覧候へなんぼう見事の男になりて候。 ワキ「それこそ目出度き御事にて候へ。いで/\元服を祝はんと。別当に伝はる重代の太刀。 伊豆権現の力を添へ。 思ふ本望遂げ給へと。箱王殿に奉る。 地「やがて祝の御酒一つ。/\。 すゝめ申せや人々と同じくともに円居して酒宴をこそは始めけれ。 シテ「咲く頃の。梢時めく折にてき。 地「烏帽子桜の。花を見ん。 ワキ詞「いかに祐成。 これはめでたき折なればひとさし御舞ひ候へ。地「烏帽子桜の。

花を見ん。男舞シテワカ「菊の名の。曽我の昔を。 思ひ出でて。地「万代祝ふ心こそあれ。 心こそあれ/\。シテ「こゝろ言葉は人の情。 地「心言葉は人の情。徒らに朽ちぬ。 身は。 惜むべし名は残り有る代の跡の世語夢ならば覚めなん現とも白真弓。 引きは。返さじ/\富士の高嶺に必ず名を上げて。今の世語と思し召さるべし。 これこそ名残の酒宴の戯/\。師弟の情ぞ。 有難き 曽我十郎祐成 五郎時到 家人団三郎 同鬼三

シテ、ツレ三人次第「命をしかの隠里。/\富士の裾野を狩らうよ。 シテ詞「これは曽我の十郎祐成にて候。 さても頼朝富士の御狩に御出で候ふ間。我等も罷り出で候。

またこれなる時致は。 母にて候ふ者の勘当にて候ふ程に。 申し直し連れて御狩に罷り出でばやと存じ候。 四人サシ「時しもころは建久四年。五月半の富士の雪。

五月雨雲に降り交ぜて。鹿の子まだらや村山の。 裾野の鹿の星月夜。鎌倉殿の御狩の御遊。 げにたぐひなき御事かな。 シテ「東八箇国の兵ども。皆御供に参るなれば。 四人「定めて敵の祐経も。御供申さぬ事あらじ。 たとひ討つまでの。事は夏野の鹿なりとも。 ねらひて見ばやと大丈夫の。 狩人にまぎれ打ち出づる。 下歌「人知れぬ大内山の山もりも。上歌「木がくれて。 それとは見えじ梓弓。/\。矢頃にならば鹿よりも。 祐経を射とゞめて。 名を富士の嶺に揚げばやと。思ひ立ちぬる狩衣。 たとへば君の御咎。よしそれとても数ならぬ。 身にはなか/\。恐なし身にはなか/\おそれなし。 シテ詞「これに暫く御待ち候へ。 某まゐりて案内を申さうずるにて候。 如何に案内申し候。狂言「誰にて御座候ふぞ。や。 祐成の御参にて候。

シテ「さん候某が参りたるよし申し候へ。狂言「畏つて候。 大方殿よりの御諚には。 祐成の御参ならば申せ。 時致の御参ならばな申しそと仰せいだされて候。 シテ「たゞ某がまゐりたると申し候へ。 狂言「いかに申し上げ候。 祐成の御参にて候。母詞「こなたへと申し候へ。 あら珍しや十郎殿。いづくへの序ぞや。 母がために態とはよも。 シテ「さん候久しく参らず候程に向顔のため。 又は富士の御狩と申し候ふほどに。 母「さればこそ思ひしことよ君がため。御狩に出づる序ぞや。 シテ「いつしか親子の御戯。 珍し顔に羨ましやと。時致「思ひながらも時致は。 不孝の身なれば物の隙より。 地「高間の山の峯の雲よそにのみ見てや止みなん。 同じ子に。同じはゝそのもり乳母。/\。 隔なくこそ育てしに。 さも引きかへて祐成には。

いろ/\の御もてなし御祝ごとの御盃。たとへば時致は。 後に生れしばかりなり。正しく同じ子の身にて。 御おぼえあし垣の隔あるこそ悲しけれ。 シテ詞「日本一の御機嫌にて候。 あれへ御参あつて。春日の局をもつて申され候へ。 。 時致詞「某が事は御機嫌いかゞはかりがたく候ふ間。先々参り候ふまじ。 シテ「唯某に御まかせあつて。急いで御参り候へ。 時致「如何に春日の局。 時致が参りたる由それ/\申し候へ。いつしか守乳母まで。 心変りし春日野の。飛火の野守。 出でてだに見候はぬぞや。 詞「時致が参りたる由それ/\申し候へ。 母詞「あら不思議や。祐成は唯今来りぬ。 九上の禅寺は寺にあり。 それならで子はなきに。時致といふは誰そ。や。 今思ひいだしたり。 箱根の寺にありし箱王と云ひしえせ者か。 それならば母が出家にな。

れと申しゝを聞かざりしほどに勘当せしに。押してこれまで来れるは。 なほかさねての勘当とや。 伊豆箱根富士権現も御覧ぜよ。なほこの後も勘当と。 時致「御誓言に蔀遣戸を。 地「立て添へられて茫然と。やるかたもなきこの身かな。 うたてやせめて今一目。 御簾几帳も下りたりあら。情なの御事や。 シテ「祐成は。かくとも知らで時致が。 時移りたり事よきかと。 中門を見やりつゝ早こなたへと招けば。 時致「招かれて山のかせき。地「泣く/\来りたり。 打たれても親の杖。 なつかしければ去りやらず/\。 シテ詞「さて御機嫌は何と御座候ふぞ。 時致詞「以ての外の御機嫌にて。 猶かさねての御勘当と仰せ出されて候。 母詞「如何に誰かある。狂言詞「御前に候。 。 母「時致が事を申さば祐成ともに勘当と申し候へ。狂言「畏つて候。いかにも申し候。

時致の御事を御申しあらば。 祐成ともに御勘当と仰せいだされて候。 シテ詞「まづ畏つたると申し候へ。 某存ずる子細の候ふ間。時致詞「いや/\某はまゐり候ふまじ。 シテ「唯御参り候へ。いかに申し候。 我等が親の敵の事。世に隠なく候ふ所に。 余りに便なく候ふ間。時致が事を申し直し。 連れて御狩に出づべき所に。 時致が事を申さば。祐成共に御勘当と候ふや。 よくよくこれを案じ見るに。 クリ「総じて祐成をも真は思ひ給はぬぞや。 地「たとひ時致出家の暇を申すとも。 兄祐成に郎等もなし。しかも身に思あり。 おのれらさへに見捨つるかと。却つて御叱り候ひてこそ。 慈悲の母とも申すべけれ。 シテサシ「それに時致を法師にならぬとの御勘当。 たとひ仰に従ひ。出家仕り候とも。 地「我等がことは世に隠なし。

あれ見よ河津が子供こそ。敵を逃れんとの出家。 正しく求法のためならずと。同宿も思ひ賎しまば。 心も染まぬ墨衣の浦島が子の。箱根寺にて。 明暮くやしと思ふならば。 中々俗には劣るべし。 クセ「時致は。箱根にありししるしに。 法華経一部読み覚え。常に読誦し母上の。 現世安穏後生善所と祈念する。 又は毎日に。六万遍の念仏父河津殿に廻向する。 かほどに他念なき身を。此三年不孝蒙る。 恩顔を拝せねば御恋しさも一つ又は。 狩場への門出。 御暇ごひしさ一方ならぬ望なり。大かた。をさまる御代なれども。 狩場や漁に。不慮のあらそひ有るものを。 シテ「その上我等は。 狩場において例悪しし。地「昔を思ひ伊豆の奥の。 赤沢山のかりくらにて。 父も失せさせ給はずや今とても。狩場とあらばなどしも。 御心にも懸けざると。恨顔にも兄弟は。

泣く泣く立つて出でければ。母「母は声をあげ。 あれ留め給へ人々よ。 地「不孝をも勘当を。もゆるすぞ/\時致とて泣く/\出でさせ給へば。 シテ二人時致「兄弟は嬉泣に伏しまろべばや。 地「見る人も思ひやりて泣き居たりや。 母詞「祐成申すによつて。 時致が勘当ゆるすにてあるぞ。 近うきたりて狩場への門出祝ひて御入り候へ。 シテ詞「如何に時致近う参りて。 この年月の御物語申し候へさるにても。 地「このほど時致が尽くす心に引き替へて。 いまはいつしか思子の母の情有難や。 あまりの嬉しさに祐成御酌に立ちてとり%\時致と共に祝言の。 地「歌ふ声。シテ二人時致「高き名を。 雲居にあげて富士の根の。地「雪をめぐらす。舞のかざし。 男舞シテ時致二人合舞「。地「舞のかざしのその隙に。 /\。兄弟目をひき。 これやかぎりの親子の契と思へば涙も尽きせぬ名残。

牡鹿の狩場に遅参やあらんと。暇申して。 帰る山の。富士野の御狩の。折をえて。 年来の敵。本望を遂げんと。 互に思ふ瞋恚の焔。胸の煙を富士おろしに。

晴らして月を清見が関に。 終にはその名を留めなば兄弟親孝行の。例にならん。 嬉しさよ 最明寺時頼 月若の家臣 鳴尾某 藤栄の従者 鳴尾の下人

ワキ次第「行方定めぬ道なれば。/\こし方も何処ならまし。 詞「これは諸国一見の僧にて候。我いまだ西国を見ず候ふほどに。 この度思ひたち西国行脚と志して候。 。 サシ「城南の離宮に赴き都をへだつる山崎や。関戸の宿は名のみして。 泊りもはてぬ旅のならひ。うき身はいつも交りの。 塵のうき世の芥川。 猪名の小笹を分け過ぎて。 下歌「月も宿借る昆陽の池水底清くすみなして。上歌「芦の葉分の風の音。 /\。 聞かじとするに憂きことの。

捨つる身までも有馬山隠れかねたる世の中の。 うきに心はあだ夢の。さむる枕に鐘遠き。 灘。 波は後になる尾潟芦屋の里に着きにけり芦屋の里に着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 芦屋の里に着きて候。日の暮れて候ふほどに。 宿を借らばやと思ひ候。 いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。男「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「諸国一見の僧にて候。 一夜の宿を御貸し候へ。 男「安きほどの御事にて候へども。余りに見苦るしく候ふ程に。

御宿は叶ひ候ふまじ。 ワキ「我等如きの世を捨て人に。何を御恥ぢ候ふべき。 唯御貸し候へ。男「さらば御宿を参らせんと。 いぶせき床の塵はらひ。地「十符の菅薦。 しきりに松風やうき世の夢を覚ますらん。 さていつの世の情ぞや。雨は降らねど此宿は。 。一樹の蔭とおぼえたり/\ワキ詞「いかに申し候。これなる幼き人は。 此屋の内には似合はぬ人にて渡り候。 誰が御子息にて候ふぞ。 男「いや名も無き人にて候。 ワキ「何と仰せ候ふとも唯人とは見え給はず候。 何の苦しう候ふべきまつすぐに御名のり候へ。 男「何をか包み申すべき。 これは芦屋の先地頭藤左衛門殿の御子息にて渡り候。 ワキ「なうそれは何とて此屋の内には御入り候ふぞ。 男「叔父御の藤栄殿に跡を押領せられ。 かゝる姿と御成り候。 ワキ「さて重書をば御持ち候はぬか。男「重書は是に候。

ワキ「そと御見せ候へ。男「いや/\大事のものにて候ふ程に如何にて候。 ワキ「そと見申してやがて返し申さうずるにて候。 男「さらば御意にて候ふ程に御目にかけ候ふべし。 ワキ「何何芦屋の庄八七百余町の処。 一男月若に譲りおく所なり。 芦屋の藤左衛門尉家俊。や。 何とてかやうの証跡正しきものを御持ち候ひて。御訴訟は候はぬぞ。 男「其事にて候。運の尽くる所は。 最明。 寺殿さへ修行に御出で候ふよし承り候ふ間。何とも了簡なく候。 ワキ「あら痛はしや候。今夜の御宿の御恩に。 この幼き人。 を三日が間に世に立てゝ参らせうずるにて候。 男「これは何とやらん真しからず候。 ワキ「御不審もつともにて候さりながら。世には奇特なる事もあるものにて候。 たゞ某に御任せ候へ。 男「さらば頼み申さうずるにて候。 ワキ「さて藤栄殿の在所はいづくにて候ふぞ。

男「あれに見えたるが藤栄殿の御館にて候。 今日は浦遊に御出で候ふ由申し候。ワキ「さらば浦に出でて。 かの人に逢ひ申し候ふべし。 又この重書をば某に御あづけ候へ。 月若殿をば御同道候ひて。後より御出あらうずるにて候。 男「心得申し候。 シテ詞「これは芦屋の藤栄なり。 今日は日もうらゝに候ふほどに。 浦遊に出でばやと存じ候。いかに誰かある。狂言シカ%\。 シテ「今日は日もうらゝに候ふ間。 浦遊に出でうずるにてあるぞ。供仕り候へ。 狂言シカ%\。シテ「又あの灘に当つて。 笛太鼓の音の聞え候ふは。 いかなる事ぞきいて来り候へ。狂言シカ%\。シテ「いや/\松風波の音にてはなし。笛太鼓の音にてある間。 慥に聞いて来り候へ。狂言シカ%\。 シテ「何と某が浦遊につき。 鳴尾殿の御酒迎と申すか。狂言シカ%\。 シテ「さあらばこれにて待たうずるにて候。

鳴尾下リ羽「川岸の。地「川岸の。根白の柳。 あらはれにけりやそよの。シテ「あらはれて。 地「あらはれて。いつかは君と。シテ「君と。 地「我と。シテ「我と。地「君と。 枕さだめぬやよがりもそよの。 シテ詞「これまでの御出祝着申して候。 鳴尾「御酒迎のために酒を持ちて参りて候。 一つきこしめされ候へ。いかに能力。狂言シカ%\。 鳴尾「何にても一曲かなで候へ。狂言シカ%\。 シテ「さあらば一さし舞うずるにて候。 吉野龍田の花もみぢ。地「更科越路の。月雪。舞。 シテサシ「こゝにまた蚩尤といへる逆臣あり。 地「かれを滅ぼさんとし給ふに。 烏江といふ海を隔てゝ。 攻むべきやうもなかりしに。クセ「黄帝の臣下に。 貨狄といへる士卒あり。ある時貨狄庭上の。 池の面を見わたせばをりふし秋の末なるに。 寒き嵐に散る柳の一葉水にうかみしに。 又蜘蛛といふ虫。

これも虚空に落ちけるが其一葉の上に乗りつゝ。 次第々々にさゝがにのいとはかなくも柳の葉を。 吹きくる風に誘はれ。汀によりし秋霧の。 立ちくる。 蜘蛛のふるまひげにもと思ひそめしよりたくみて船をつくれり。 黄帝これに召されて。 烏江を漕ぎ渡りて蚩尤をやすく滅ぼし。御代を治め給ふ事。 一万八千歳とかや。シテ「然れば船のせんの字を。 君にすゝむと書きたり。 さて又天子の御顔竜顔と名づけ奉り。 船を一葉と言ふ事この御宇より始まれり。また君の御座舟を。 竜頭鷁首と申すも。 この御代よりおこれり。ワキ狂言セリフアリ。 シテ詞「あゝ暫く。最前は舞をまひ候ふ間。 今度は八撥を打つて聞かせうと云へ。 狂言シカ%\。シテ詞「行方も知らぬ修行者に。 舞一さし乞はれたるは。 あつぱれ藤栄がためには面目なり。 総じて藤栄八撥を打つたる事はなけれども。

あまりに彼奴が憎さに。 わざと羯鼓の撥を大きにあつらへ。小笠の内へ見参申さでは叶ふまじ。 地「本より鼓は波の音。 羯鼓、地「もとより鼓は波の音。寄せては岸をどうどは打ち。 天雲まよふ鳴神の。とゞろ/\と鳴る時は。 降りくる雨ははら/\はらと。 小篠の竹の。音も八撥もいざ打たういざ打たう。 シテ詞「この上はさし扇を除けられ候へ。 。 ワキ「やあこれこそ鎌倉の最明寺実信よ見忘れたるか藤栄。 何とて八撥をば打たぬぞ打てとこそ。汝は過分の振舞かな。 何とて総領月若をば追ひいだし。 賎しき海士の奴となす事。前代未聞の僻事なり。 。 われ諸国を修行する事全く余の儀にあらず。 かやうの在々所々の政道を致さんがためなり。いかに月若。 さぞ此間は無念にありつらんな。けふは最上吉日なれば。 芦屋の庄七百余町の処。 月若に与ふる所なり。まつた藤栄が事は。

重科人の事なれば。 いかなる流罪死罪にも行ふべけれども。よし/\慈悲は上より下り。 仇をば恩にて報ずるなれば。 汝が知行それは相違あるべからず。 今日よりしては総領を総領とし。一家繁昌たるべしと。 かさねて下知を下しけり。 地「げにありがたき御政道。直なる時の世に出づる。 月若が心の中。天にもあがるばかりなり。 地キリ「やがて本宅に立ちかへり/\。 知行の道もたゞしく。 総領庶子繁昌し一族の栄花きはもなし。百姓も万民も。 みな朝恩にほこりて。 栄ふる御代とぞなりにける 自然居士 人商人

狂言「かやうに候ふ者は。 ・東山{ひがしやま}・雲居寺{うんごじ}のあたりに・住居{すまひ}仕る者にて候。 こゝに・自然居士{じねんこじ}と申す・喝食{かつしき}の御座候ふが。 ・一七日{いちしちにち}・説法{せつほふ}を・御述{おんの}べ候。・今日{こんにち}・結願{けちぐわん}にて御座候。 皆々参りて聴聞申し候へ。 シテ詞「雲居寺・造営{ざうえい}の・札{ふだ}召され候へ。 ・夕{ゆふべ}の空の・雲居寺{くもゐでら}。月待つほどの・慰{なぐさめ}に。 ・説法一座{せつほふいちざ}述べんとて。導師高座にあがり。 ・発願{ほつぐわん}の・鉦{かね}打ち鳴らし。謹み敬つて・白{まう}す。 一代教主釈迦牟尼宝号。 ・三世{さんぜ}の諸仏十方の薩〓{タ:大漢和05190}に申して・白{まう}さく。・総神分{そうじんぶん}に般若心経。詞「や。 これは・諷誦{ふじゆ}を・御上{おんあ}げ候ふか。 狂言「実にこれは美しき小袖にて候。 急いで此・諷誦文{ふじゆもん}を御覧候へ。 シテ「敬つて申し受くる諷誦のこと。三宝衆僧の・御布施{おんふせ}・一裹{いつくわ}。

右志す所は。・二親{にしん}・精霊頓証{しやうりやうとんしやう}仏果の為。 ・身{み}の・代{しろ}・衣{ごろも}・一襲{ひとかさね}。三宝に供養し奉る。 かの・西天{さいてん}・貧女{ひんぢよ}が。・一衣{いちえ}を僧に・供{くう}ぜしは。 身の後の世の逆縁。今の貧女は親の為。 地歌「身の代衣恨めしき。/\。 浮世の中をとく出でて。・先考{せんかう}・先妣{せんぴ}諸共に。 同じ・台{うてな}に生れ。 んと読み上げ給ふ・自然居士{じねんこじ}墨染の袖を濡らせば。数の・聴衆{ちやうじゆ}も色々の袖を濡らさぬ。 人はなし袖を濡らさぬ人はなし。 ワキ詞「かやうに候ふ者は。 東国方の・人商人{ひとあきびと}にて候。我此度都に上り。 数多人を買ひ取りて候。 又・十四五{じふしご}ばかりなる女を買ひ取りて候ふが。 昨日少しの・間{あいだ}・暇{いとま}を乞ひて候ふ程に・遣{や}りて候ふが。未だ帰らず候。 なう渡り候ふか。昨日の幼き者は。

親の追善とやらん申して候ひつる程に。 説法の座敷にあらうずると存じ候。 自然居士の雲居寺に御座候ふ程に。 立ち越え見うずるにて候。ワキツレ「然るべう候。ワキ「や。 さればこそこれに候へ。 なう急いで連れて・御入{おんい}り候へ。狂言「やるまいぞ。 ワキ「用がある。狂言「用が有らば連れて行け。 いかに居士へ申して候。 シテ「何事にて候ふぞ。狂言「唯今諷誦を上げて候ふ女を。 ・荒{あら}。 けなき男の来り候ひて追つ立てゝ行き候ふ程に。遣るまじきと申し候へば。 用があると申し候ふ程に遣りて候。 シテ「あら・曲{きよく}もなや・候{ざふらふ}。 始より彼の女は・様{やう}有りげに見えて候。其上諷誦を上げ候ふにも。 唯・小袖{こそで}とも書かず。 身の代衣と書いて候ふよりちと不審に候ひしが。 居士が推量申すは。彼の者の親の追善の為に。 我が身。 を此小袖に替へて諷誦を上げたると思ひ候。

さあらば唯今の者は人商人にて候ふべし。彼は道理・此方{こなた}は・僻事{ひがこと}にて候ふ程に。 御身の留めたる・分{ぶん}にてはなり候ふまじ。 。 狂言「人商人ならば東国方へ下り候ふべし。 大津松本へ某はしり行き留めうずるにて候。シテ「暫く。 ・御出{おんい}で候ふ分にてはなり候ふまじ。居士此小袖を持ちて行き。 。 彼の女に代へて連れて帰らうずるにて候。 狂言「いやそれは・今日{けふ}までの・御{ご}説法が無になり候ふべし。シテ「いや/\説法は・百日{ひやくにち}・千日{せんにち}・聞{きこ}し召されても。 善悪の二つを弁へん為ぞかし。今の女は善人。 ・商人{あきびと}は悪人。 善悪の二道こゝに極つて候ふは如何に。・今日{けふ}の説法はこれまでなり。 ・願以{ぐわんい}・此功徳{しくどく}・普及於一切{ふきふをいつさい}。・我等与衆生皆共成{がとうよしゆじやうかいぐじやう}。 仏道修行の為なれば。 地「身を捨て人を助くべし。ワキワキツレ「今出でて。 ・其処{そこ}ともいさや白波の。此・舟路{ふなぢ}をや。急ぐらん。 シテ「舟無くとても説く・法{のり}の。地「道に心を。 留めよかし。シテ詞「なう/\其・御舟{おんふね}へ物申さう。

。 ワキ「これは・山田矢橋{やまだやばせ}の・渡舟{わたしぶね}にてもなきものを。・何{なに}しに招かせ給ふらん。 シテ「我も・旅人{りよじん}にあらざれば。 ・渡{わたり}の舟とも申さばこそ。その御舟へ物申さう。 ワキ「さて此舟をば・何舟{なにぶね}と御覧じて候ふぞ。 シテ「其・人買舟{ひとかひぶね}の事ざうよ。ワキ「あゝ・音{おと}高し何と/\。 シテ「道理々々。よそにも人や白波の。 音高しとは道理なり。人買と申しつるは。 其舟漕ぐ櫂の事ざうよ。 ツレ「艪には・唐艪{からろ}といふ物あり。人買と云ふ・櫂{かい}はなきに。 シテ「水の・煙{けぶり}の霞をば。・一霞{ひとかすみ}・二霞{ふたかすみ}。 ・一汐{ひとしほ}・二汐{ふたしほ}なんどといへば。 今漕ぎ初むる舟なれば。・一櫂舟{ひとかいぶね}とは僻事か。 ワキ詞「実に面白くも述べられたり。さて/\何の用やらん。 シテ「これは自然居士と申す・説経者{せつきやうじや}にて候ふが。説法の・場{には}をさまされ申す。 恨申しに来たりたり。 ワキ「説法には道理を述べ給ふ。詞「我等に僻事なきものを。 シテ「・御{おん}僻事とも申さばこそとにかくに。

・本{もと}の小袖は参らする。 舟に離れて叶はじと。裳裾を波に浸しつゝ。 舟ばたに取りつき引きとゞむ。 ワキ「あら・腹立{はらたち}やさりながら。・衣{ころも}に恐れて得は打たず。 これも汝が・科{とが}ぞとて。・艪櫂{ろかい}を持つて・散々{さん%/\}に打つ。 シテ「打たれて声の出でざるは。 若し空しくやなりつらん。 ワキ「何しに空しくなるべきと。シテ「引き立て見れば。 ワキ「身には縄。地「口には・綿{わた}の・轡{くつわ}をはめ。 泣けども声が。出でばこそ。 シテ詞「あら不便の者や。 やがて連れて帰らうずるぞ心安く思ひ候へ。 ワキ「なう自然居士舟より・御{おん}・下{お}り候へ。 シテ「此者を賜はり候へ。 小袖を召され候ふ上は・御損{ごそん}も候ふまじ。 ワキ「参らせたくは候へどもここに・笑止{せうし}が候。シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「さん候我等が中に・大法{たいほふ}の候。 それを如何にと申すに。 人を買ひ取つて再び返さぬ法にて候ふ程に。

え参らせ候ふまじ。シテ「委細承り候。 又我等が中にも 堅き大法の候。 かやうに身を徒らになす者に行き逢ひ。若し助け得ねば。 再び・庵室{あんじつ}へ帰らぬ法にて候ふ程に。 ・其方{そなた}の法をも破るまじ。 又・此方{こなた}の法をも破られ候ふまじ。 所詮此者と連れて・奥陸奥{おくむつ}の国へ・下{くだ}るとも。舟よりはおりまじく候。 ワキ「舟より・御{おん}おりなくは・拷訴{がうそ}をいたさう。 シテ「拷訴といつぱ・捨身{しやしん}の・行{ぎやう}。ワキ「命を取らう。 シテ「命を取るともふつつと・下{お}りまじい。 。 ワキ「・何{なに}と命を取るともふつつと下りまじいと・候{ざふら}ふや。シテ「なか/\の事。 ワキ「いや此自然居士に持て扱うて候ふよ。 なう渡り・候{ざふら}ふか。ワキツレ「何事にて候ふぞ。 ワキ「さてこれは何と仕り候ふべき。 ワキツレ「これは・御{おん}帰しなうては叶ひ候ふまじ。よく/\物を案じ候ふに。奥より人商人の都に上り。 人に買ひかねて。 自然居士と申す説経者。

を買ひ取り・下{くだ}りたるなんどと申し候はば。一大事にて候ふ程に。 ・御{お}帰しなうては叶ひ候ふまじ。 ワキ「我等も左様に存じ候さりながら。・唯{たゞ}帰せば無念に候ふ程に。 色色に・嬲{なぶ}つて帰さうずるにて候。 ワキツレ「尤も然るべう候。ワキ「なう/\自然居士急いで舟より・御{おん}上り候へ。シテ「いや/\・聊爾{れうじ}には下りまじく候。 ワキ「何の聊爾の候ふべき唯・御{おん}上り候へ。 シテ「あゝ・船頭殿{せんどうどの}の・御{お}顔の色こそ直つて候へ。 ワキ「いやちつとも直り候ふまじ。又これなる人の申され候ふは。今度始めて都へ上りて候ふが。 自然居士の・舞{まひ}の事を承り及びて候。 ・一{ひと}さし舞うて・御{おん}見せあれと申され候。 シテ「総じて居士は舞まうたる事はなく候。 ワキ「それは・御{おん}偽にて候。 ・一年{ひととせ}今のごとく説法御述べ候ひし時。 いで聴衆の・眠{ねぶり}覚さんと。 高座の上にて一さし・御{おん}舞有りしこと。奥までも其聞え候ふ程に。 一さし御舞ひ候へ。

シテ「おうそれは狂言綺語にて候ふ程に。さやうの事も候ふべし。 。 舞を舞ひ候はゞ此者をたまはり候ふべきか。ワキ「・先{まづ}御舞を見て。 其時の・仕儀{しぎ}によつて参らせ候ふべし。これに烏帽子の候。 これを召して御舞ひ候へ。物着「。 シテ「よくよく物を案ずるに。 ・終{つひ}には此者を賜はらんずれども。たゞ帰せば損なり。 居士を色々になぶつて恥を与へうと・候{ざふら}ふな。 余りにそれはつれなう候。 ワキ「いや何のつれなう候ふべき。シテ「志賀辛崎の一つ松。 地「つれなき人の。心かな。中之舞「。 シテ「抑舟の起を尋ぬるに。 みなかみ黄帝の御宇より事起つて。 地「・流{ながれ}・貨狄{くわてき}が・謀{はかりごと}より出でたり。 シテ「こゝに又・蚩尤{しいう}といへる・逆臣{げきしん}あり。 地「彼を亡ぼさんとし給ふに。・烏江{をうがう}といふ海を隔てゝ。 攻むべき様もなかりしに。クセ「黄帝の臣下に。 貨狄と云へる士卒あり。ある時貨狄・庭上{ていしやう}の。 池の・面{おもて}を見渡せば。折節秋の末なるに。

寒き嵐に散る柳の・一葉{ひとは}水に浮・び{ミ}しに。 又蜘蛛といふ虫。 これも虚空に落ちけるが其一葉の上に乗りつゝ。 次第々々に・笹蟹{さゝがに}のいとはかなくも柳の葉を。 吹きくる風に誘はれ。・汀{みぎは}に寄りし・秋霧{あきぎり}の。 立ちくる蜘蛛の振舞実にもと思ひそめしより。 ・工{たく}みて舟を造れり。 黄帝これに召されて烏江を漕ぎ渡りて蚩尤を安く亡ぼし。 ・御代{おんよ}を治め給ふ事。・一万八千歳{いちまんはつせんざい}とかや。 シテ「然れば・舟{せん}のせんの字を。 地「・公{きみ}に・前{すゝ}むと書きたり。 さて又天子の・御舸{おんか}を・龍舸{りようか}と名づけ奉り。舟を・一葉{いちえふ}と。 云ふ事此御宇より始まれり。又君の御座舟を。 ・龍頭鷁首{りようどうげきしゆ}と申すも此・御代{みよ}より起れり。 ワキ「如何に申し候。 我等が舟を龍頭鷁首と・御{おん}祝ひ候ふこと過分に存じ候。 とてものことにさゝらを摺つて・御{おん}見せ候へ。 シテ詞「さらば竹を賜はり候へ。 ワキ「折ふし・船中{せんちう}に竹が候はぬよ。シテ「苦しからず候。

かの仏の難行苦行し給ひしも。 一切の衆生をたすけんためぞかし。 居士もまたその如く。身を・谷下{こくか}に砕きても。 彼の者をたすけんためなり。 夫れさゝらの起を尋ぬるに。東山に在る・御僧{おんそう}の。 扇の上に・木{こ}の葉のかゝりしを。持ちたる数珠にて。 さらり/\と払ひしより。 さゝらといふ事始まりたり。居士もまたその如く。 ささらのこには百八の数珠。 さゝらの竹には扇の骨。おつ取り合はせこれを摺る。 処は志賀の浦なれば。地「さゝ波や/\。 志賀辛崎の。松の・上葉{うはば}をさらり/\とささらのまねを。数珠にてすれば。

さゝらよりなほ手をも摺るもの。 今は助けてたび給へ。 。 ワキ詞「手を摺るなどと承り候ふ程に参らせ候ふべし。 とてもの事に・鞨鼓{かつこ}を打つて・御{おん}見せ候へ。物着「。地「・本来{もとより}・鼓{つゞみ}は波の・音{おと}。鞨鼓「。 地「もとより鼓は波の音。寄せては岸を。 どうとは打ち。・雨雲{あまぐも}迷ふ・鳴神{なるかみ}の。 とゞろとどろと鳴る時は。降り来る雨ははら/\はらと。・小笹{をざさ}の竹の。簓をすり。 池の氷のとう/\と。鼓を又打ち。簓をなほ摺り。 狂言ながらも・法{のり}の道。今は菩提の。 岸に寄せくる。船の内より。 ていとうと打連れて。共に都に上りけり/\ 旅人 東岸居士

ワキ詞「是は遠国方の者にて候。 我此程は都に上り。彼方此方を一見仕りて候。

又今日は清水寺へ参らばやと存じ候。 シテ一セイ「松をさへ。皆桜木に散りなして。

花に声ある嵐かな。 ワキ詞「これは承り及びたる東岸居士にて渡り候ふか。 さて今日は如何様なる聴聞の御座候ふぞ。 シテ詞「事あたらしき問事かな。聴問といつぱ。 万事は皆目前の境界なれば。 柳は緑花は紅。あら面白の春の景色やな。 ワキ詞「あら面白の答や候。 さてこの橋は如何なる人の懸け給ひし橋にて候ふぞ。 シテ「これは先師自然居士の。 法界無縁の功力を以て。渡し給ひし橋なれば。 今又かやうに勧むるなり。ワキ「さて/\東岸西岸居士の。詞「郷里は何処如何なる人の。 父母をはなれし御出家ぞや。 シテ詞「むつかしの事を問ひ給ふや。本来来る所もなければ。 出家といふべき謂もなし。 出家にあらねば髪をも剃らず。衣を墨に染めもせで。 唯おのづから道に入つて。 ワキ「善を見ても。シテ「進まず。ワキ「智を捨てゝも。 シテ「愚ならず。ワキ「をりに触れ。

シテ「事に渡りて白川に。ワキ「かゝれる橋は。 シテ「西。ワキ「東の。地「東岸西岸の柳の。 髪は長く乱るゝとも。南枝北枝の梅の花。 開くる法の一筋に。 渡らんための橋なれば。勧に入りつゝ。彼の岸に至り給へや。 。 ワキ地?「又いつもの如く歌うて御聞かせ候へ。シテ詞「実に/\これも狂言綺語を以て。讃仏転法輪の真の道にも入るなれば。 人の心の花の曲。 いざや歌はんこれとても。地次第「御法の舟の水馴棹。/\。 皆彼の岸に至らん。シテ「おもしろや。 これも胡蝶の夢の中。地「遊びたはふれ。 舞ふとかや。中ノ舞「。 シテクリ「鈔に又申さく。 あらゆる所の仏法の趣。 地「箇々円成の道すぐに今に絶えせぬ跡とかや。シテサシ「但し正像すでに暮れて。 末法に生を受けたり。 地「かるが故に春過ぎ秋来れども。進み難きは出離の道。 シテ「花を惜み月を見ても。

起り易きは妄念なり。地「罪障の山にはいつとなく。 煩悩の雲あつうして仏日の光晴れがたく。 シテ「生死の海にはとこしなへに。 地「無明の波荒くして。真如の月宿らず。 クセ「生を受くるに任せて。 苦にくるしみを受け重ね。死に帰るに随つて。 闇より闇におもむく。六道の街には。 迷はぬ所もなく。生死の枢には。宿らぬ住家もなし。 生死の転変をば。夢とやいはん。 又現とやせんこれら有りといはんとすれば。 雲。 と上り煙と消えて後其跡を留むべくもなし。無しといはんとすれば又恩愛の中。 心とゞまつて腸を断ち。 魂を動かさずといふ事なし彼の芝蘭の契の袂には。 骸をば愁嘆の焔に焦がせども。紅蓮大。 紅蓮の氷をば終に解かす事なし。鴛鴦の。 衾の下に眼をば。慈悲の涙に湿せども。 焦熱大焦熱の焔をば。終にしめす事なし。 かゝる拙き身を持ちて。

シテ「殺生偸盗邪婬は。地「身に於て作る罪なり。妄語綺語。 悪口両舌は口にて作る罪なり。 貪欲嗔恚愚痴は又。 心に於て絶えせず御法の船の水馴棹。皆彼の岸に至らん。 。 ワキ詞「とてものことに羯鼓を打つて御見せ候へ。物着「。 シテ詞「面白や松吹く風颯々として。波の声茫々たり。 ワキ「処は名におふ洛陽の。眺もちかき白河の。 シテ「波の鼓や風のさゝら。 ワキ「うち連れ行くや橋の上。シテ「男女の往来。シテ「貴賎上下の。 シテ「袖を連ねて玉衣の。さい/\沈み浮波の。さゝら八撥打ち連れて。 百千鳥。羯鼓「。

シテ「百千鳥。囀る春は物ごとに。 地「改まれども我ぞふり行く。シテ「行くは白河。 地「行くは白河の。橋を隔てゝむかひは。 シテ「東岸。地「此方は。シテ「西岸。 地「さゞ波は。シテ「さゝら。地「うつ波は。シテ「鼓。 地「いづれも/\極楽の。 歌舞の菩薩の御法とは。聞きは知らずや。旅人よ/\。 あら面白や。 シテ「あう南無三宝。 地「実に太鼓も羯鼓も笛篳篥。絃管ともに極楽の。 御菩薩の遊と聞くものを。シテ「何と唯。 地「何と唯雪や氷と隔つらん。 万法皆一如なる実相の門に入らうよ。実相の門に入らうよ 花月 男。

ワキ次第「風に任する浮雲の。/\。 とまりはいづくなるらん。

ワキ詞「是は筑紫彦山の麓に住居する僧にて候。 われ俗にて候ひし時。子を一人持ちて候ふを。

七歳と申しし春の頃。何処ともなく失ひて候ふ程に。 これを出離の縁と思ひ。 かやうの姿となりて諸国を修行仕り候。 道行「生れぬ先の身を知れば。/\。憐れむべき親もなし。 親のなければ我が為に。 心を留むる子もなし。千里を行くも遠からず。 野に臥し山にとまる身のこれぞ真の住家なる/\。 詞「急ぎ候ふ程に。 是ははや花の都に着きて候。まづ承り及びたる清水に参り。 花をも眺めばやと思ひ候。 。 狂言「定めて今日は清水へ御参なきことはあるまじく候。 御供申し彼の人に見せ申し候。 シテ「そも/\これは花月と申す者なり。 或人我が名を尋ねしに答へて曰く。 月は常住にしていふに及ばず。 さてくわの字はと問へば。春は花夏は瓜。 秋は菓冬は火。因果の果をば末後まで。 一句のために残すといへば。人これを聞いて。

地「さては末世の香象なりとて。 天下に隠もなき。花月とわれを申すなり。 狂言「なにとて今までは遅く御出で候ふぞ。 シテ「さん候今まで雲居寺に候ひしが。 花に心を引く弓の。春の遊の友達と。 中たがはじとて参りたり。 狂言「さらばいつもの如くに歌を謡ひて御遊び候へ。 シテ小謡「こしかたより。地「今の世までも絶えせぬものは。 恋といへるくせもの。げに恋はくせもの。 くせものかな。身はさら/\/\。 さらさら/\に。恋こそ寝られね。 狂言「あれ御覧候へ鴬が花を散らし候ふよ。 シテ詞「げに/\鴬が花を散らし候ふよ。 某射ておとし候はん。 狂言「急いで遊ばし候へ。シテ「鴬の花踏み散らす細脛を。 大薙刀もあらばこそ。 花月が身に敵のなければ。太刀刀は持たず。 花は的射んがため。又かゝる落花狼藉の小鳥をも。 射て落さんがためぞかし。異国の養由は。

百歩に柳の葉をたれ。 百に百矢を射るに外さず。われまたは花の梢の鴬を。 射て落さんと思ふ心は。その養由にも劣るまじ。 あらおもしろや。地「それは柳これは桜。 それは雁がねこれは鴬。 それは養由これは花月。名こそはるとも。 弓に隔はよもあらじいでもの見せん鴬。 いでもの見せん鴬とて。 履いたる足駄を踏んぬいで。 大口のそばを高く取り狩衣の袖をうつ肩ぬいで。花の木蔭に狙ひ寄って。 よつぴきひやうと。 射ばやと思へども仏の戒め給ふ殺生戒をば破るまじ。 狂言「言語道断面白き事を仰せられ候。 また人の御所望にて候。 当寺のいはれを曲。 舞につくりて御謡ひ候ふ由を聞しめして候。一節御謡ひ候へとの御所望にて候。 。 シテ詞「易きこと謡うて聞かせ申さうずるにて候。 サシ「さればにや大慈大悲の春の花。地「十悪の里に香しく。

三十三身の秋の月。五濁の水に影清し。クセ「そも/\この寺は。坂の上の田村丸。 大同二年の春の頃。草創ありしこの方。今も音羽山。 嶺の下枝の滴に。濁るともなき清水の。 流を誰か汲まざらん。或時この瀧の水。 五色に見えて落ちければ。 それを怪しめ山に入り。その水上を尋ねるに。 こんじゆせんの岩の洞の。 水の流に埋もれて名は青柳の朽木あり。その木より光さし。 異香四方に薫ずれば。 シテ「さては疑ふ所なく。地「楊柳観音の。 御所変にてましますかと。皆人手を合はせ。 猶もその奇特を知らせて給べと申せば。 朽ち木の柳は緑をなし。桜にあらぬ老木まで。 皆白妙に花咲きけり。さてこそ千手の誓には。 枯れたる木にも。 花咲くと今の世までも申すなり。 ワキ詞「あら不思議や。 これなる花月をよくよく見候へば。

某が俗にて失ひし子にて候ふはいかに。 名のつて逢はゞやと思ひ候。いかに花月に申すべきことの候。 シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「御身はいづくの人にてわたり候ふぞ。 シテ「これは筑紫の者にて候。 ワキ「さて何故かやうに諸国を御廻り候ふぞ。 シテ「われ七つの年彦山に登り候ひしが。 天狗に捕られてかやうに諸国を廻り候。 ワキ「さては疑ふ所もなし。 これこそ父の左衛門よ見忘れてあるか。狂言「なう/\御僧は何事を仰せられ候ふぞ。 ワキ「さん候この花月は某が俗にて失ひし子にて候ふ程に。 さてかやうに申し候。狂言「げにと御申し候へば。 瓜を二つに割つたるやうにて候。 この上はいつものやうに八撥を御打ち候ひて。 うちつれだつて故郷へ御帰り候へ。 物着シテ「扨もわれ筑紫彦山に登り。 七つの年天狗に。地「とられて行きし山々を。 思ひやるこそ悲しけれ。

羯鼓「とられて行。 きし山々を思ひやるこそ悲しけれまづ筑柴には彦の山。深き思を四王寺。 讃岐には松山降り積む雪の白峯。 さて伯耆には大山/\。丹後丹波の境なる鬼が城と。 聞きしは天狗よりもおそろしや。 さて京近き山々/\。愛宕の山の太郎坊。 比良野の峰の次郎坊。名高き比叡の大獄に。 少しこゝろのすみしこそ。 月の横川の流なれ。日頃はよそにのみ。 見てや止みなんと眺めしに。葛城や。高間の山。

山上大峰釈迦の嶽。 富士の高嶺にあがりつつ。雲に起き臥す時もあり。 かやうに狂ひめぐり心乱るゝこのさゝら。さら/\さら/\とすつては謡ひ舞うては数へ。 山々嶺々里々をめぐり/\てあの僧に。 逢ひ奉る嬉しさよ。今よりこのさゝら。 さつと捨てゝさ候はゞ。あれなる御僧に。 連れまゐらせて仏道の。 つれ参らせて仏。 道の修行に出づるぞ嬉しかりける修行に出づるぞ嬉しかりける 牧野小次郎 牧野兄禅僧 利根信俊 従者。

ツレ詞「斯様に候ふ者は。下野の国の住人。 牧野の左衛門何某が子に。 小次郎と申す者にて候。扨も親にて候ふ者は。 相模の国の住人。利根の信俊と申す者と口論し。 念なう討たれて候。親の敵にて候ふ程に。

討たばやとは存じ候へども。 敵は猛勢我等は唯一人にて候ふ間。 思ふにかひなく月日を送り候。又兄にて候ふ者は。 幼少より出家仕り。あたり近き会下に候。 余りに便もなく候ふ間。

立ち越え此事を談合せばやと存じ候。いかに案内申し候。 シテ「誰にて渡り候ふぞ。ツレ「某が参りて候。 シテ「や。此方へ渡り候へ。 さて唯今は何の為に来り給ひて候ふぞ。 シテ「さん候唯今参ること余の儀にあらず。 われらが親の敵のこと。討たばやとは存じ候へども。 敵は猛勢我等は唯一人にて候ふ程に。 思ふにかひなく月日を送り候。 あはれ諸共に思し召し御立ち候へかし。 シテ「仰は尤もにて候へども。 われらが事は幼少より出家の事にて候ふ程に。今更いかゞにて候。 ツレ「御意はさる事にて候へども。 親の敵を討たぬ者は不孝の由を申し候。 シテ「扨。 親の敵を討つて孝に備はりたる事の候ふか。ツレ「なか/\の事。 語「唐土の事にやありけん。母を悪虎にとられ。 其敵をとらんとて。 百日虎伏す野辺に出でてねらふ。ある夕暮に。尾上の松の木かげに。 虎に似たる大石のありしを敵虎と思ひ。

番へる矢なればよつぴいて放つ。 此矢すなはち巌に立ち。忽ち血流れけるとなり。 これも孝の心深きにより。 堅き石にも矢の立つと申し候へば。 唯思し召し御立ち候へ。 シテ「これは面白き事を引いて承り候ふ物かな。 此上は諸共に思ひ立たうずるにて候。ツレ「然るべう候。 シテ「扨かの者には何として近づき候ふべき。 ツレ「某がきつと案じ出したる事の候。 この頃人の玩び候ふは放下にて候ふ程に。 某は放下になり候ふべし。 御身は放下僧に御なり候へ。 彼の者禅法に好きたる由申し候ふ程に。禅法を仰せられうずるにて候。 シテ「げに是は面白き了簡にて候。 さらば頓て思ひ立うずるにて候。 ツレ「左にて候。シテ「いざ/\さらばと思ひつゝ。 行脚の姿に身を窶せば。 ツレ「われも嬉しく思ひつゝ。放下の姿に出で立ちて。 シテ「さもすご/\と。ツレ「立ち出づる。

地上歌「古里の。名残もさぞな有明の。/\。 つれなきながら存ふる。 命ぞ限兄弟は我が心をや頼むらん我が心をや頼むらん。 中入ワキ次第「歩を運ぶ神垣や。/\。 隔てぬ誓頼まん。詞「これは相模の国の住人。 利根の信俊と申す者にて候。 われ此間うち続き夢見あしく候ふ程に。 瀬戸の三島へ参らばやと存じ候。 後シテサシ一声「面白の我等が有様やな。 僧俗二つの道を離れ。姿詞も人に似ぬ。 後ツレ「そのふるまひを隠れがと。 思ひ捨つれば安き身を。シテ「知らでなどかは迷ふらん。 シテツレ一声「落花一陽の春を知らず。 白雲青山に蔽ふとか。ツレ「流水山上の秋にして。 二人「紅葉を争ふいはれあり。 地上歌「朝の嵐夕の雨。/\。けふまた明日の昔ぞと。 。 夕の露の村時雨さだめなき世にふる川の。水の泡沫我いかに。 人をあだにや思ふらん/\。狂言シカ%\「。

シテ詞「浮雲流水と申し候。狂言シカ%\シテ「いや某は浮雲。 あれなる者は流水にて候。狂言シカ%\「又あれなる御方の御名字をば何と申し候ぞ。 狂言シカ%\「いや苦しからず候。 唯放下がまゐると御申し候。狂言シカ%\ワキ「いかに面々に御不審申したきことの候。 シテ「うけたまはり候。 ワキ「およそ沙門の形と云つぱ。十力の数珠を手に纏ひ。 忍辱二諦の衣を着。 罪障懺悔の袈裟を掛けてこそ僧とは申すべけれ。 異形のいでたち心得ず候。 又見申せば〓{てへんに主しゅ}杖に団扇を添へて持たれたり。団扇の一句承りたく候。 シテ「それ団扇と申すは。動く時には清風をなし。 静かなる時は明月を見す。 詞「明月清風唯動静の中にあれば。 諸法を心が所作として。真実修行の便にて。 われらが持つは道理なり。とがめ給ふぞ愚なる。 ワキ詞「団扇の一句面白う候。 今一人は弓矢を帯し給ふ。弓も御僧の道具ざふか。

ツレ「それ弓と申すは本末に。烏兎の姿を象り。 詞「日月をこゝに表し。 浄穢不二の秘法を表す。されば愛染明王も。 神通の弓を張り。方便の矢をつまよつて。 四魔の軍を破り給ふ。 地「さればわれらもこれを持ち。さればわれらもこれを持ちて。 引かぬ弓。はなさぬ矢にて射る時は。当らず。 しかも外さゞりけりと。 かようによむ歌もあり知らずな物な宣ひそ/\。 ワキ詞「さ。 て放下僧は何れの祖師禅法を御伝え候ふぞ。面々の宗体が承りたく候。 シテ「われらが宗体と申すは。教外別伝にして。 いふもいはれず説くもとかれず。 言句に出せば教に落ち。 文字を立つれば宗体に背く。たゞ一葉の翻る。風の行方を。 御覧ぜよ。ワキ「げに/\面白う候。 扨座禅の公案何と心得候ふべき。 ツレ「入つては幽玄の底に動じ。出でては三昧の門に遊ぶ。 ワキ詞「自心自仏はさていかに。

シテ「白雲深き処金龍躍る。ワキ「生死に住せば。 シテ「輪廻の苦。ワキ「生死を離れば。 シテ「断見の科。ワキ「さて向上の一路はいかに。 ツレ「切つて三断と為す。シテ「暫く。 切つて三断となすとは。禅法の詞なるを。 お騒あるこそ愚なれ。地「何と唯なか/\に。いはでの山の岩躑躅。 色には出でじ。南無三宝。をかしの人の心や。 狂言シカ%\物着「。 シテ「されば大小の根機を嫌はず。 持戒破戒を撰ばず。 地「有無の二偏に落つる事なく。皆成仏するためしあり。 シテ「かるが故に草木も法身の姿を現し。 地「柳は緑花は紅なる。其色々を現せり。 クセ「青陽の春の朝には。谷の戸出づる鴬の。 凍れる涙とけそめて。雪消の水の泡沫に。 相宿する蛙の声。聞けば心のある物を。 。 目に見ぬ秋を風に聞き荻の葉そよぐ古里の。田面に落つる雁鳴きて。

稲葉の雲の夕時雨。妻恋ひかぬる小牡鹿の。 たゝずむ月を山に見て。指を忘るゝおもひあり。 シテ「うらの湊の釣舟は。 地「魚を得て筌を捨つ。これを見れかれを聞く時は。 嶺の嵐や谷の声。夕の煙朝がすみ。 皆三界唯心の。ことわりなりと思しめし。 心を悟り給へや。シテ「月のためには浮雲の。 地「種と心やなりぬらん。 羯鼓シテ小唄「面白の花の都や。地「筆に書くとも及ばじ。 東には祇園清水落ちくる瀧の。音羽の嵐に。 地主の桜は散り%\。西は法輪。 嵯峨の御寺廻らば廻れ。水車の輪の。 臨川堰の川波。川柳は。水に揉まるゝ。

しだり柳は。風に揉まるゝふくら雀は。 竹に揉まるゝ。都の牛は。 車に揉まるゝ茶臼は挽木に揉まるゝ。げにまこと。 忘れたりとよ。こきりこは放下に揉まるゝ。 こきりこの二つの竹の。代々を重ねて。 打ち治まりたる浮世かな。 シテツレ二人「さのみは何と包むべきと。 兄弟ともに抜きつれて。思ふ敵にはしり寄り。 地「此年月の怨の末。今こそ通れ。 願のまゝに。 敵をぞ討つたりけるかくて兄弟念力の。/\。其期のありて忽ちに。 親の敵を討つ事も。孝行深き故により。 名を末代に留めけり/\ 幸菊丸 度会某 里人

ツレ次第「雪三越路の白山は。/\。 夏かげいづくなるらん。詞「斯様に候ふ者は。

加賀の国白山の麓に住まひする者にて候。 さ。

ても此程いづくの者とも知らぬ男神子の来り候ふが。 小弓に短冊を付け歌占を引き候ふが。 けしからず正しき由を申し候ふ程に。 今日罷り出で占をひかばやと存じ候。いかに渡り候ふか。 歌占の御所望にて候はゞ御供申さうずるにて候。 シテ一セイ「神心。種とこそなれ歌占の。 ひくも白木の。手束弓。 サシ「それ歌は天地開けし始より。 陰陽の二神天の街?にゆきあひの。さよの手枕結びさだめし。 世をまなび国を治めて。今も道ある妙文たり。 下歌「占とはせ給へや歌占とはせ給へや。 上歌「神風や。伊勢の浜荻名をかへて。 /\。よしといふもあしといふも。 同じ草なりと聞く物を。 処は伊勢の神子なりと。難波の事もとひ給へ。人ごころ。 ひけば引かるゝ梓弓。 伊勢や日向の事もとひ給へ日向の事も問ひ給へ。 ツレ詞「いかに申すべき事の候。 シテ「何事にて候ぞ。

ツレ「扨御身は何処の人にて渡り候ふぞ。見申せば若き人にて候ふが。 何とて白髪とはなり給ひて候ふぞ。 シテ「げに/\普く人の御不審にて候。 これは伊勢の国二見の浦の神職なるが。 われ一見の為に国々を廻る。ある時俄に頓死す。 又三日と申すによみがへる。 それより斯様に白髪となりて候。 是も神の御咎と存じ候ふ程に。 当年中に帰国すべきとおこたりを申して候。 ツレ「扨は其謂にて候ふな。さらば歌占を引き申し候ふべし。 シテ「易き間の事。 一番に手に当たりたる短冊の歌を遊ばされ候へ。 考えて参らせ候ふべし。ツレ「承り候。 教にまかせ短冊を取り上げ見れば。何々北は黄に。 南は青く東白。西くれなゐのそめいろの山。 斯様に見えて候。 シテ「須弥山を詠みたる歌にて候。是は父の事を御尋ね候ふな。 ツレ「さん候親にて候ふ者此程所労仕り候ふ間。 生死の境を尋ね申し候。シテ「心得申し候。

委しう判じて聞かせ申さう。 それ今度の所労を尋ぬるに。 辺涯一片の風より起つて。水金二輪の重結に現る。 それ須弥は金輪より長じて。其丈十六万由旬の勢。 四州常楽の波に浮み。 金銀碧瑠璃玻球迦宝の影。 五重色空の雲に映る。 。 されば須弥の影映るによつて。 。 南瞻部州の草木緑なりといへり。 。 さてこそ南は青しとはよみたれ。 。 こゝに父の恩の高き事。高山千丈の雲も及び難し。 されば父は山。そめいろとは風病の身色。 しかも生老病死の次第を取れば。 西くれなゐと見えたるは。 命期六爻の滅色なれば。

あうこれは既に難儀の所労なれども。こゝに又染色とは。 声を借りたる色どりにて。文字には蘇命路なり。 よみがへる命の路と書きたれば。 まことに命期の路なれども。又蘇命路に却来して。 ふたゝびこゝに蘇生の寿命の。 種となるべき歌占の詞。たのもしく思しめされ候へ。 ツレ詞「あら嬉しや。 扨は苦しかるまじく候ふか。シテ「なか/\の事御心安く思しめされ候へ。ツレ「近頃祝着申して候。 又これなる幼き人も占の所望にて候。

シテ「扨はお事も占の所望にて候ふか。 以前の如。 く一番に手に当りたる短冊の歌を御読み候へ。子方「鴬のかひこの中の子規。 しが父に似てしが父に似ず。 シテ「これも父の事を御尋ね候ふな。 子「さん候父を失ひて尋ね申し候。 シテ「是ははや逢ひたる占にて候ふ物を。 子「いや逢はねばこそ尋ね申し候へ。 シテ「さりとては占に偽よもあらじ。鴬にあふ言葉の縁あり。 又卵の中の子規とも云へり。 時も卯月程時も合ひに合ひたり。や。今啼くは子規にて候ふか。 子方「さん候子規にて候。 シテ「おもしろし/\。当面黄舌の囀。 鴬のこは子なりけり子なりけり。 不思議や御身はいづくの人ぞ。子方「伊勢の国の者。シテ「在所は。 子方「二見の浦。シテ「父の名字は。 子方「二見の太夫度会の何某。シテ「さて其父は。 子方「わかれて今年八箇年。 シテ「さておことの幼名は。子方「幸菊丸と申すなり。

シテ「こはそも神の引合か。 これこそ父のなにがしよ。 子方「不思議や父にてましますかと。云はんとすれば白髪の。 シテ「身は白雪の面忘れ。 子方「されども見れば我が父の。シテ「子は子なりけり。 子方「子規の。地「程へて今ぞ廻り逢ふ。 占も合ひたり親と子の。二見のうらかたの。 正しき親子なりけるぞ。げにや君が住む。 越の白山知らねども。 古りにし人の行くへとて。四鳥の別親と子に。 二たび逢ふぞ不思議なる/\。 ツレ詞「かゝる不思議なる事こそ候はね。 さては御子息にて候ふか。 シテ詞「さん候疑もなき我が子にて候。 これも神の御引合と存じ候ふ程に。 やがて伴ひ帰国せうずるにて候。 ツレ「近頃めでたき御事にて候ふものかな。又人の申され候ふは。 地獄の。 有様を曲舞に作りて御謡ひある由承り及びて候。

とてもの事に謡うて御聞かせ候へ。シテ「易き御事にて候へども。 此一曲を狂言すれば。 神気が添うて現なくなり候へども。よし/\帰国の事なれば。 面面名残の一曲に。現なき有様見せ申さん。 地次第「月の夕の浮雲は。/\後の世の迷なるべし。シテ「昨日もいたづらに過ぎ。 今日も空しく暮れなんとす。 地「無常の虎の声肝に銘じ。雪山の鳥啼いて。 思を傷ましむ。シテサシ「一生は唯夢の如し。 誰か百年の齢を期せん。地「万事は皆空し。 何れか常住の思をなさん。 シテ「命は水上の泡。地「風にしたがつてへめぐるが如し。 シテ「魂は籠中の鳥の。 地「開くを待ちて去るに同じ。消ゆるものは二たび見えず。 去るものは。重ねて来らず。 クセ「須臾に生滅し。刹那に離散す恨めしきかなや。 釈迦大士の慇懃の教を忘れ。 悲しきかなや。閻魔法王の。呵責の詞を聞く。 名利身を扶くれども。未だ。

北〓{新字源:8409、亡におおざと}の煙を免れず。恩愛心を悩ませども。 誰か黄泉の責に随はざる。これがために馳走す。 所得いくばくの利ぞやこれに依つて追求す。 所作多罪なり。暫く目を塞いで。 往事を思へば。旧遊皆亡ず。指を折つて。 故人を数ふれば。親疎多くかくれぬ。 時移り事去つて。今なんぞ。 渺茫たらんや人留まりわれ往く。誰か又常ならん。 シテ「三界無安猶如火宅。 地「天仙尚し死苦の身なり。況んや下劣。貧賎の報においてをや。 。 などか其罪かろからん死に苦を受け重ね業に悲しみ猶添ふる。斬鎚地獄の苦は。 舂中にて身を斬る事截断して。 血狼藉たり。一日の其うちに。万死万生たり。 剣樹地獄の苦は。手に剣の樹をよどれば。 百節零落す。足に刀山踏むときは。 けんじゅ共に解すとかや。石割地獄の苦は。 両崖の大石もろ/\の。 罪人を砕く次の火盆地獄は。かうべに火焔を戴けば。

百節の骨頭より。焔々たる火を出す。 ある時は。焦熱大焦熱の。 焔に咽びある時は紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢられ。 鉄杖頭を砕き。火燥足裏を焼く。シテ「飢ゑては。 鉄丸を呑み。地「渇しては。 銅汁を飲むとかや。地獄の苦は無量なり餓鬼の。 苦も無辺なり。畜生修羅の悲も。 われらにいかで優るべき。身より出せる科なれば。 心の鬼の身を責めて。 かように苦をば受くるなり。月の夕の浮雲は。 後の世の迷なるべし。 シテ「後の世の。闇をば何と。照すらん。 地「胸の鏡よ心濁すな。 シテ詞「あら悲しや唯今参りて候ふに。 これ程はなどやお責あるぞ。あら悲しや/\。 ツレ「不思議やな又彼の人の神気とて。 面色変りさも現なきその有様。 シテ「五体さながら苦しめて。ツレ「白髪は乱れ逆髪の。 シテ「雪を散らせる如くにて。ツレ「天に叫び。

シテ「地に倒れて。地「神風の一もみ揉んで。/\。 。 時しも卯の花朽だしの五月雨も降るやとばかり。面には。白汗を流して袂には。 露の繁玉。時ならぬ霰玉散る。 足踏はとう/\と。手の舞笏拍子。 打つ音は窓の雨の。 震ひ戦き立ちつ居つ肝胆を砕き神の怠申し上ぐると見えつるが。 神は上らせ給ひぬとて。茫々と。狂ひさめて。 いざや我が子ようち連れて。 思ふ伊勢路の古里に又も帰りなば二見の浦。 又も帰らば二見の。 浦千鳥友よびて伊勢の国へぞ帰りける伊勢の国へぞ帰りける 紀貫之 従者 蟻通明神

ワキ、ワキツレ二人次第「和歌の心を道として。/\。 玉津島に参らん。 ワキ詞「これは紀の貫之にて候。我和歌の道に交はるといへども。 いまだ住吉玉津島に参らず候ふ程に。 唯今思ひ立ち紀の路の旅にと志し候。 道行三人「夢に寝て。現に出づる旅枕。/\。 夜の関戸の明暮に都の空の月影を。 さこそと思。 ひやる方も雲井は跡に隔たり暮れ渡る空。 に聞ゆるは里近げなる鐘の声里近げなる鐘の声。 ワキ詞「あら笑止や。 俄に日暮れ大雨降りて。しかも乗りたち駒さへ伏して。 前後をわきまへず候ふは如何に。 灯暗うしては数行虞氏か涙の雨の。 足をも引かず騅行かず。愚意如何すべき便もなし。

あら笑止や候。 シテサシアシラヒ出「瀟湘の夜の雨しきりに降つて。 遠寺の鐘の声も聞えず。何となく宮寺は。 深夜の鐘の声。御灯の光なんどにこそ。 神さび心も澄み渡るに。 社頭を見れば灯もなく。すゞしめの声も聞えず。 神は宜禰が習はしとこそ申すに。 宮守一人もなき事よ。よし/\御灯は暗くとも。

和光の影はよも暗からじ。 あら無沙汰の宮守どもや。 。ワキ詞「なう/\其火の光について申すべき事の候。 シテ詞「此あたりには御宿もなし。今すこし先ヘ御通あれ。 ワキ「今の暗さに行く先も見えず。 しかも乗りたる駒さへ伏して。 前後を忘じてさふらふなり。シテ「さて下馬は渡もなかりけるか。 ワキ「そもや下馬とは心得ず。 こゝは馬上のなき所か。シテ「あら勿体なの御事や。 蟻通の明神とて。物とがめし給ふ御神の。 かくぞと知りて馬上あらば。 よも御命は候ふべき。 ワキ「これは不思議の御事かな。さて御社は。シテ「此森の中。 ワキ「実にも姿は宮人の。 シテ「ともしの光の影より見れば。ワキ「実にも官居は。 シテ「蟻通の地「神の鳥居の二柱。立つ雲透に。 見ればかたじけなや。 実にも社壇の有りけるぞ。馬上に折り残す。江北の柳蔭の。

糸もて繋ぐ駒。 かくとも知らで神前を恐。 れざるこそはかなけれ恐れざるこそはかなけれ。 。 シテ詞「さて御身は如何なる人にて渡り候ふぞ。ワキ詞「これは紀の貫之にて候ふが。 住吉玉津島に参り候。 シテ「貫之にてましまさば。歌を詠うで神慮に御手向け候へ。 ワキ「これは仰にて候へども。 それは得たらん人にこそあれ。 われらが今の言葉の末。いかで神慮に叶ふべきと。 思ひながらも言の葉の。末を心に念願し。 雨雲の立ち重なれる夜半なれば。 ありとほしとも思ふべきかは。 シテ「雨雲の立ち重なれる夜半なれば。 ありとほしとも思ふべきかは。面白し/\。 我等かなはぬ耳にだに。おもしろしと思ふこの歌を。 などか納受なかるべき。 ワキ「心に知らぬ科なれば。何か神慮に背くべきと。 シテ「万の言葉は雨雲の。

ワキ「立ち重なりて暗き夜なれば。 シテ「ありと星とも思ふべきかはとは。あら面白の御歌や。 地「凡そ歌には六義あり。 これ六道の巷に定め置いて六つの色を見するなり。 地「されば和歌のことわざは。神代よりも始まり。 今人倫に普し。誰かこれをほめざらん。 中にも貫之は。御書所を承りて。 古今までの歌の品を撰びて。 喜をのべし君が代の直なる道を現せり。 クセ「およそ思つて見れば歌の心すなほなるは。これ以て私なし。 人代に及んで。甚だ起る風俗。 長歌短歌旋頭混本の類これなり。 雑体一つにあらざれば。 源流漸く繁る木の花のうちの鴬ま。 た秋の蝉の吟の声いづれか和歌の数ならぬ。されば今の歌。 我が邪をなさゞれば。などかは神も納受の。 心に叶ふ宮人も。シテ「かゝる奇特に逢坂の。 地「関の清水に影見ゆる。月毛の此駒を。 引き立て見れば不思議やな。

もとの如くに歩み行く。 越鳥南枝に巣をかけ胡馬北風にいばえたり。歌に和らぐ神心。 誰か神慮のまことを仰がざるべき。 ワキ詞「宮人にてましまさば。 祝詞を読うで神慮をすゞしめ御申し候へ。 シテ詞「承り候。いで/\祝詞を申さんと。 神の白木綿かけまくも。 ワキ「おなじ手向と木綿花の。シテ「雪を散らして。ワキ「再拝す。 シテ「謹上再拝。敬つて白す神司。 八人の八乙女。五人の神楽男。雪の袖を返し。 白木綿花を捧げつゝ。 神慮をすゞしめ奉る。御神託にまかせて。 猶も神忠を致さん。有難や。そも/\神慮をすゞしむる事。和歌よりも宜しきはなし。 其中にも神楽を奏し乙女の袖。返す%\も面白やな。神の岩戸のいにしへの袖。 思ひ出でられて。立廻「和光同塵は結縁のはじめ。 ワキ「八相成道は利物の終。 シテ「神の代七代。ワキ「すなほの人あつうして。

シテ「情欲分つ事なし。地「天地開け始まりしより。 舞歌の道こそすなほなれ。 シテ「今貫之が言葉の末の。地「今貫之が。 言葉の末の。妙なる心を感ずる故に。 仮に姿を見ゆるぞとて。

鳥井の笠木に立ち隠れ。あれはそれかと。 見しまゝにてかき消すやうに失せにけり。 貫之もこれを悦の。 名残の神楽夜は明けて旅立つ空に立ち帰る旅立つ空に立ち帰る 慧遠禅師 陶淵明 陸修静

シテサシ「普の慧遠廬山のもとに居して。 三十余年隠山を出でず。 白蓮社を結び並に十八の賢あり。其外数百人世を捨て。 栄を忘れて共に西方を修し。 六字を礼して此草庵に遊止す。地 下歌「かくて流を枕とし。 岩にロをすゝぎて。 上歌「行住坐臥の行に。/\。 座禅の床をもる月も西に傾くをりふしは。洞煙谷雲の内よりも。 瀑布の滝の白妙に。曙の山の姿。 譬へん方ぞなかりける。

ツレ二人一セイ「雲無心にして以て岫を出で。 鳥飛ぶが如くに倦んで。還ることをや。 知らすらん。上歌「頃もはや。霜降月の曙に。 /\。 野山の草の色もはや散るもみぢ葉に映ろひて。枯野になれど白菊の。 花はさながら紅の。 八汐に見ゆる気色かな八汐に見ゆる気色かな。 。 淵明詞「いかに此草庵に慧遠禅師の渡り候ふか。陶淵明陸修静これまで参りて候。 シテ「その時禅師は白蓮社を出で。

書を以て淵明を招きければ。 ツレ二人「二人は共に拝をなし。地 上歌「廬山のさかしき石橋を。 心静かに渡りつゝ。巌に腰をかけ。 瀑布を眺め給ヘり。三千世界は眼に尽き。 十二因縁は。心のうちにきはもなし。 淵明詞「いかに慧遠禅師に申すべき事の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 淵明「さて廬山に至らざらん者はこれ僧にあらずと申し候ふよなう。 シテ「げに/\左様に申し候。 淵明「扨々瀑布と云ふ事は。いかなる謂のあるやらん。 シテ「いや/\異なる事はなし。 万仭名を得て瀑布といふ。 修静「日香炉を照しで紫煙をなす。 シテ詞「遠く見れば織るが如くにして天台に掛く。 淵明「宝尺を疑ふ事を休めよ度りがたし。 シテ「たゞちに金刀の剪栽し易きを恐る。 修静「傾き来つて石上に春雷をなす。 淵明「知らんと欲すこれ銀河の水なる事を。シテ「人間に堕落して。 修静「合して。シテ「かへつて。淵明「廻る。

地「三国無双のこの滝を。 今まで拝せぬ心こそ愚なりけれ。 本より琴詩酒の友なれば。心静かに昔をいざや語らん。 クセ「抑この淵明と申すは。 彭沢の令となる。官にある事。八十余日。 印を解いて去るとかや。日夜に酒を愛し。 松菊を翫ぶ。菊を東籬の下に採つて。 南山を見る事も。君に忠ある故とかや。 シテ「又陸修静は。 地「宋の明帝の御時に仙の法を学んで。陸道士と申すとか。 後には当山の簡寂観に。隠居してましませり。 。 此人々は天下にも並ぶ方もなき事なれば。廬山の虎渓にも劣らぬ光なりけり。 シテ「菊の白露積り積つて。

不老不死の薬の泉。よも尽きじ。地「幾万代も限らじな。 さす盃の廻る夜も。/\明くれば暮るゝも白菊の。 花を肴に立ち舞ふ袂酒狂の舞とや。人の見ん。シテ「万代を。地「万代を。 /\。松は久しき例なり。/\。 シテ「年をおい松も緑は若木の姫小松。 地「四季にも同じ葉色の常磐木の。松菊を愛し。 か。 なたこなたへ足もとは泥々々々と苔むす橋を。よろめき給へば淵陸左右に。 介錯し給ひて。虎渓を遥に出で給へば。 淵明禅師にさて禁足は破らせ給ふかと。 一度にどつと手をうち笑つて。三笑の昔と。 なりにけり 箱崎領主 そんし、そいう 祖慶官人

ワキ詞「かやうに候ふ者は。

九州箱崎の何某にて候。

さても一年唐土と日本の船の争あつて。日本の船をば唐土にとゞめ。 唐土の船をば日本にとゞめ置きて候。 某も船を一艘とゞめ置きて候。 其船に祖慶官人と申す者を止め置きて候ふが。 早十三回に成り候。 某は牛馬をあまた持ちて候ふ程に。 彼の祖慶官人に申しつけ野飼をさせ候。今日も申しつけばやと存じ候。 唐子二人一セイ「唐土船の楫枕夢路ほどなき。 名残かな。ソンシ、サシ「これは唐土明州の津に。 そんしそいうと申す兄弟の者なり。 二人「さて。 も我父官人は一年日本の賊船にとらはれ。昨日今日とは思へども。 十三回に早なりぬ。余りに父の恋しさに。 いまだ此世にましまさば。今一度対面申さんと。 下歌「思ひ立つ日を吉日と船の。 纜解き始め。上歌「明州河を押し渡り。/\。 海漫漫と漕ぎ行けば。 はや日の本もほの見えて。 心つくしの果にある忍びし妻を松浦潟。波路はるかに行く程に。

名にのみ聞。 きし筑紫路や箱崎に早く着きにけり箱崎に早く着きにけり。狂言シカ%\ワキ詞「唐土の人のわたり候ふか。 ソンシ詞「これに候。祖慶官人いまだ存生にて。 箱崎殿に召し使はれ候ふ由承り候ふ程に。 数の宝に代へ連れて帰国仕るべき為に。 唯今此処に渡りて候。ワキ「さん候。 祖慶官人は未だ存生にて候。 唯今物詣とて御出で候。暫くそれに御待ち候へ。 御帰り候はば引き合はせ申し候ふべし。 ソンシ「さらばこれに待ち申さうずるにて候。 シテサシ、一声「いかにあれなる童ども。 野飼の牛を集めつゝ。早々家路に急ぐべし。 日本子二人「かゝる業こそ物うけれ。 シテ「よし我のみか天の原。一セイ七夕の。 たとへにも似ぬ身のわざの。三人「牛牽く星の。 名ぞしるき。日本子二人「秋咲く花の野飼こそ。 三人「老の心の。慰なれ。 シテ「これは唐土明州の津に。

祖慶官人と申す者なり。 詞我はからざるに日本に渡り。牛馬をあつかひ草刈笛の。 高麗唐土をば名にのみ聞きて過ぎし身の。 あら故郷恋しや。 詞かくて年月を送る程に二人の子を持つ。又唐土にも二人の子あり。

彼等が事を思ふ時は。 それも恋しく又これもいとほしゝ。一方ならぬ箱崎の。 二人の子供なかりせば。 下歌「老木の松は雪折れて此身の果は如何ならん。 地上歌「あれを見よ。野飼の牛の声々に。/\。 子故に物や。思ふらん。 況んや人倫に於て。 をや我が身ながらも愚なり我が身ながらも愚なり。いざや家路に帰らん/\。 ロンギ日本子二人「如何に父御よ聞しめせ。 さて住み給ふ唐土に。 牛馬をば飼ふやらん御物語り候へ。シテ「なか/\なれや唐土の。 華山には馬を放し。 桃林に牛をつなぐこれ花の名所なり。 日本子二人「さて唐土と日の本はいづれまさりの国やらん。 委しく語り給へや。シテ「愚なりとよ唐土に。 日の本をたとふれば。唯今尉が牽いて行く。 九牛が一毛よ。 日本子二人「さほど楽しむ国ならば。痛はしやさこそ実に。 恋しく思し召すらめ。シテ「いやとよ方々を。

儲けて後は唐衣。帰国の事も思はずと。 地「語り慰み行く程に。 嵐の音の少なきは松原や末。 になりぬらん箱崎に早く着きにけり箱崎に早く着きにけり。 ワキ詞「いかに祖慶官人。 何とて遅く帰りてあるぞ。 シテ「さん候余りに多き牛馬にて御座候ふ程に。さて遅く罷り帰りて候。 ワキ「尤もにて候。 又尋ぬべき事の候隠さず申すべきか。 シテ「これは今めかしき事を承り候ふものかな。 何事にてもあれ申し上げうずるにて候。 ワキ「さておことは唐土に二人の子を持ちてあるか。 シテ「さん候子を二人持ちて候。 ワキ「其名をそんしそいうと申すか。 シテ「あら不思議や。 何とて知しめされて候ふぞさやうに申し候。ワキ「そんしそいう。 汝未だ存生の由を聞き。 数の宝に代ヘ連れて帰国すべき為に。只今此処に渡りて候。 。

シテ「これは思ひもよらぬ事にて候ふものかな。さて其船はいづくに御座候ふぞ。 ワキ「此方へ来り候へ。 あれに繋かりたる船こそ。彼の両人の船にて候へ。 シテ「実にこれは某が船にて候。 ワキ「さちば対面し候へ。シテ「余りに見苦しく候ふ程に。 引き繕ひて賜はり候へ。 ワキ「心得申し候。 物着、シテ詞「やあいかにあれなるは唐土にとゞめ置きたる二人の者か。 唐子二人「さん候童名そんしそいうなり。 シテ「これは夢かや夢ならば。唐子二人「処は箱崎。 シテ「明けやせん。地「春宵一刻其値。 千金も何ならず子ほどの宝よもあらじ。 唐土は心なき。夷の国と聞きつるに。 かほどの孝子ありけるよと日本人も随喜せり。 尊とや箱崎の。神も納受し給ふか。 ソンシ詞「如何に申し候。 追風が下りて候ふ急ぎ御船に召され候へ。 シテ「いかに箱崎殿ヘ申し候。 追風がおりて候ふ程に船に乗れと申し候。御暇申し候ふべし。

ワキ「めでたうやがて御帰国候へ。 日本子二人「あら悲しや我等をも連れて御出で候へ。 シテ「げに。 げに出船の習とてはたと忘れてあるぞ此方へ来り候へ。ワキ「暫く。 祖慶官人の事は力なき事。此幼き者どもは。 此所にて生まれ相続の者にて候ふ程に。 いつまでも某召し使はうずるにてあるぞ。 此方ヘ来り候へ。日本子二人「あら情なの御事や。 大和撫子の花だにも。同じ種とて唐土の。 唐紅に咲く物を。薄くも濃くも花は花。 情なくこそ候へとよ。 唐子二人「時刻うつりて叫ふまじ。 急ぎ御船に召されよと。はや纜をとく/\と。 シテ「呼ぶ子もあれば。日本子二人「取リ留むる。 シテ「中にとゞまる。唐子「父ひとり。 地「たづきも知らず泣き居たり。 身もがな二つ箱崎の恨めしの心づくしや。たとへば親。 の子を思ふ事。人倫に限らず。 焼野の雉夜の鶴。梁の燕も皆子故こそ物思へ。

クセ「況んや我らさなきだに。 明日をも知らぬ老の身の。 子故に消えん命は何なかなかに惜からじと。 シテ「今は思へばとにかくに。 地「船にも乗るまじ留まるまじと。 巌にあがりて十念し既に憂き身を投げんとす。唐土や日の本の。 子供は左右に取りつきて。 これを如何にと悲しめば。さすが心もよわ/\となり行く事ぞ悲しき。 ワキ詞「よく/\物を案ずるに。 物のあはれを知らざるは。唯木石に異ならず。 殊更出船の障なれば。はや/\暇とらするぞ。とく/\帰国を急ぐべし。 シテ詞「余りの事の不思議さに。更に誠と思はれず。 ワキ「こはそも何の疑ぞや。 当社八幡も御知見あれ。偽更にあるべからず。 とく/\船に乗り給へ。シテ「これは誠か。 ワキ「なか/\に。地「ありがたの御事や。 誠に諸天納受して。此子を我等に。

与ヘ給ふか有難や。斯くて余りのうれしさに。 時刻を移さず。暇申して唐人は。 船に取り乗り押し出す。悦の余りにや。 楽を奏し舟子ども。棹のさす手も舞の袖。 をりから波の鼓の舞楽につれて面白や。 楽地キリ「陸には舞楽に乗じつゝ。/\。

名残おしてる海面遠く。なりゆくまゝに。 招くも追風。船には舞の。袖の羽風も。 追風とやならん。帆を引きつれて。 舟子ども。帆を引きつれて。舟子どもは。 悦び勇みて。唐土さしてぞ。急ぎける 盧生 邯鄲の宿の主 夢中の勅使 同大臣 同舞人

狂言口開シテ次第「浮世の旅に迷ひきて。/\。 夢路をいつと定めん。 サシ「これは蜀の国のかたはらに。盧生といへる者なり。 詞「われ人間にありながら仏道をも願はず。 たゞ茫然と明かし暮らすばかりなり。 誠や楚国の羊飛山に。 貴き知識のまします由承り及びて候ふ程に。 身の一大事をも尋ねばやと思ひ。唯今羊飛山へと急ぎ候。 道行「住み馴れし。国を雲路のあとに見て。

/\。 山又山を越えゆけばそことしもなき旅衣。野暮れ山暮れ里くれて。 名にのみ聞きし邯鄲の。 さとにもはやく着きにけり/\。 シテ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや邯鄲の里に着きて候。未だ日は高く候へども。 此処に旅宿せうずるにて候。 いかに案内申し候。狂言シカ%\、シテ「これは旅人にて候。 一夜の宿を御かし候へ。

狂言シカ%\、シテ「これは蜀の国のかたはらに。 廬生といへる者なり。 われ人間にありながら仏道をも願はず。 たゞ茫然と明かし暮らすところに。楚国の羊飛山に。 尊き知識のまします由承り及びて候程に。 身の一大事をも尋ねばやと。思ひ立ちて候。狂言シカ%\、シテ「さて其枕はいづくに御座候ふぞ。 。狂言シカ%\、シテ「さらば立ち越え一睡見うずるにて候。狂言シカ%\、シテ「さてはこれなるが聞き及びし邯鄲の枕なるかや。 これは身を知る門出の。世の試に夢の告。 天の与ふる事なるべし。 歌「一村雨の雨やどり。地「一村雨の雨やどり。 日はまだ残る中宿に。 仮寝の夢を見るやと邯鄲の枕に臥しにけり邯鄲の枕に臥しにけり。 ワキ詞「如何に廬生に申すべき事の候。 シテ詞「そもいかなる者ぞ。 ワキ「楚国の帝の御位を。廬生に譲り申さんとの。 勅使これまで参りたり。

シテ「思ひよらず王位には。そも何故にそなはるべき。 ワキ「是非をばいかではかるべき。 御身代をもち給ふべき。其瑞相こそましますらめ。 はや/\輿にめさるべし。 シテ「こはそも何とゆふ露の。 光。 りかゞやく玉の輿。 乗りも習はぬ身のゆくへ。 。 ワキ「かゝるべきとは思はずして。 。 シテ「天にもあがる。 ワキ「こゝちして。 地「玉の御輿にのりの道。 /\。 栄花の花も一時の。 夢とはしら雲の上人となるぞ不思議なる。真ノ来序「有難の気色やな。 /\。もとより高き雲の上。 月も光はあきらけき。雲龍閣や阿房殿。

光も満ち/\てげにも妙なる有様の。 庭には金銀の砂を敷き。四方の門辺の玉の戸を。 出で入る人までも。光を飾るよそほひは。 誠や名に聞きし寂光の都喜見城の。 たのしみもかくやと思ふばかりの気色かな。 。 下歌「千顆万顆の御宝の数をつらねて捧物。千戸万戸の旗のあし。 天に色めき地にひゞく。らいの声も。

夥しらいの声も夥し。シテ「東に三十余丈に。 地「白金の山を築かせては。 黄金の日輪を出されたり。シテ「西に三十余丈に。 地「こがねの山を築かせては。 しろかねの月輪を出されたり。たとへばこれは。 長生殿の内には。春秋をとゞめたり不老門の前には。 日月遅しと言ふ心をまなばれたり。 ワキツレ詞「如何に奉聞申すべき事の候。 御位に即き給ひては早五十年なり。 然らば此仙薬をきこしめさば。 御年一千歳まで保ち給ふべし。さる程に天の漿や〓〓{コウガイ}の盃。 これまで持ちて参りたり。 シテ「そも天の漿とは。ワキツレ「これ仙家の酒の名なり。 シテ「かうがいの盃と申す事は。 ワキツレ詞「同じく仙家の盃なり。 シテ「寿命は千代ぞときくの酒。ワキツレ「栄花の春も万年。 シテ「君も豊に。ワキツレ「民栄え。地「国土安全長久の。 /\。 栄花もいやましになほ喜は増り草の。菊の盃とり%\にいざや飲まうよ。

シテ「めぐれや盃の。地「めぐれや盃の。 流は菊水の流に引かれて疾く過ぐれば。 手まづ遮る菊衣の。 花の袂を翻して指すも引くも光なれや。盃の影の。 めぐる空ぞ久しき。子方「わが宿の。地「わが宿の。 菊の白露今日ごとに。 幾代つもりて淵となるらん。 よも尽きじよも尽きじ薬の水も泉なれば。汲めども/\いやましに出づる菊水を。飲めば甘露もかくやらんと。 心も晴れやかに。 飛び立つばかり有明の夜昼となき楽の。 栄花にも栄耀にもげに此上やあるべき。楽。 シテ「いつまでぞ。栄花の春も。常磐にて。 地「なほ幾久し有明の月。 シテ「月人男の舞なれば。雲の羽袖を。重ねつゝ。 喜の歌を。謡ふ夜もすがら。 地「うたふ夜もすがら日はまた出でて。明らけくなりて。 夜かと思へば。シテ「昼になり。 地「昼かと思へば。シテ「月又さやけし。

地「春の花さけば。シテ「紅葉も色こく。地「夏かと思へば。 シテ「雪もふりて。地「四季をり/\は目の前にて。春夏秋冬万木千草も。 一日に花咲けり。面白や。不思議やな。 歌「かくて時過ぎ頃されば。/\。 五十年の栄花も尽きて。誠は夢の中なれば。皆消え/\と失せ果てゝ。有りつる邯鄲の枕の上に。 眠の夢は。さめにけり。狂言シカ%\。 シテ「廬生は夢さめて。 地「「廬生は夢さめて。五十の春秋の。 栄花も忽ちにたゞ茫然と起きあがりて。 シテ「さばかり多かりし。地「女御更衣の声と聞きしは。 シテ「松風の音となり。地「宮殿楼閣は。 シテ「たゞ邯鄲の仮の宿。地「栄花のほどは。 シテ「五十年。地「さて夢の間は粟飯の。 シテ「一炊の間なり。 地「不思議なりや測りがたしや。シテ「つら/\人間の。有様を。 案ずるに。地「百年の歓楽も。 命終れば夢ぞかし。五十年の栄花こそ。

身の為にはこれまでなり。栄花の望も齢の長さも。 五十年の歓楽も。王位になれば。 これまでなりげに。何事も一炊の夢。 シテ「南無三宝南無三宝。

地「よく/\思へば出離を求むる。知識はこの枕なり。げに有難や。 邯鄲のげに有難や邯鄲の。 夢の世ぞと悟り得て。望かなへて帰りけり 魏文帝臣下 従者 慈童

ワキ、ワキツレ二人次第「山より山の奥までも。/\。 道あるや時世なるらん。 ワキ「これは・魏{ぎ}の・文帝{ぶんてい}に仕へ奉る・臣下{しんか}なり。 さても我が君の・宣旨{せんじ}には。 〓県山{大漢和:39753 麗+おおざと}の・麓{ふもと}より薬の水涌き出でたり。其・水上{みなかみ}を見て参れとの・宣旨{せんじ}を・蒙{かうむ}り。 唯今・山路{さんろ}に・赴{おもむ}き候。急ぎ候ふ程に。 これははや・〓県山{れきけんざん}に着きて候。 これに・庵{いほり}の見えて候。先づこのあたりに・徘徊{はいくわい}し。 事の子細を・窺{うかゞ}はゞやと存じ候。 シテサシ「・夫{そ}れ・邯鄲{かんたん}の枕の夢。楽むこと・百年{もゝとせ}。 ・慈童{じとう}が枕は・古{いにしへ}の。

・思寝{おもひね}なれば目もあはず。地「夢もなし。いつ楽を松が根の。 /\。嵐の・床{とこ}に・仮寝{かりね}して。 枕の夢は夜もすがら身を知る袖はほされず。頼めにし。 かひこそなけれひとり寝の・枕詞{まくらことば}ぞ。 ・恨{うらみ}なる枕詞ぞ恨なる。 ワキ詞「不思議やな此・山中{さんちう}は。 ・虎狼{こらう}・野干{やかん}の・栖{すみか}なるに。これなる・庵{いほり}の内よりも。 現れ出づる姿を見れば。其様・化{け}したる人間なり。 如何なる者ぞ名をなのれ。 シテ詞「・人倫{じんりん}・通{かよ}はぬ処ならば。 ・其方{そなた}をこそ・化生{けしやう}の者とは申すべけれ。

これは・周{しう}の・穆王{ぼくわう}に召し仕はれし。・慈童{じどう}がなれる・果{はて}ぞとよ。 ワキ「これは不思議の・言事{いひごと}かな。誠しからず・周{しう}の代は。 既に・数代{すだい}のそのかみにて。 王位も其・数{かず}移り・来{き}ぬ。 シテ「不思議や我はそのまゝにて。昨日や今日と思ひしに。 次第に変る・往昔{そのかみ}とは。さて・穆王{ぼくわう}の位は如何に。 ワキ「・今{いま}・魏{ぎ}の・文帝{ぶんてい}前後の間。 ・七百年{しちしやくねん}に及びたり。・非想{ひさう}・非々想{ひゝさう}は知らず人間に於て。 今まで生ける者あらじ。 いかさま・化生{けしやう}の者やらんと。身の・怪{あやし}めをぞ為しにける。 シテ「いやなほも・其方{そなた}こそ。 ・化生{けしやう}の者とは申すべけれ。忝なくも・帝{みかど}の御枕に。 ・二句{にく}の・偈{げ}を書き添へ賜はりたり。 立ち寄り枕を御覧ぜよ。 ワキ「これは不思議の事なりと。・各{おの/\}立ち寄り読みて見れば。 シテ「枕の・要文{えうもん}・疑{うたがひ}なく。シテワキ二人「・具一切功徳慈眼視衆生{ぐいつさいくどくじげんじしゆじやう}。 ・福寿海無量是故応頂礼{ふくじゆかいむりやうぜこおうちやうらい}。 地「此・妙文{めうもん}を菊の葉に。置く・滴{したゞり}や露の身の。 不老不死の薬となつて七百歳を送りぬる。

・汲{く}む人も汲まざるも。 ・延{の}ぶるや・千年{ちとせ}なるらん。おもしろの・遊舞{いうぶ}やな。楽。 シテ「ありがたの・妙文{めうもん}やな。 地「すなはち此・文菊{ぶんきく}の葉に。/\。悉く現る。 さればにや。・雫{しづく}も・芳{かうば}しく・滴{したゞり}も匂ひ。 淵ともなるや。谷陰の水の。処は・〓県{れきけん}の山の・滴{したゞり}。 菊水の・流{ながれ}。泉はもとより酒なれば。 酌みては勧め。掬ひては施し。 我が身も飲むなり飲むなりや。月は宵の・間{ま}其身も・酔{ゑひ}に。 引かれてよろ/\/\/\と。 たゞよひ寄りて。枕を取り上げ戴き奉り。 実にも有難き君の・聖徳{せいとく}と・岩根{いはね}の菊を。

・手折{たを}り伏せ手折り伏せ。・敷妙{しきたへ}の袖枕。 花を・筵{むしろ}に・臥{ふ}したりけり。 シテ「もとより薬の酒なれば。地「もとより薬の酒なれば。 ・酔{ゑひ}にも・侵{をか}されず其身も変らぬ。七百歳を。 保ちぬるも。此御枕の故なれば。 いかにも久しき・千秋{せんしう}の・帝{みかど}。 ・万歳{ばんせい}の我が君と祈る・慈童{じどう}が七百歳を。我が君に・授{さづ}け置き。 所は・〓県{れきけん}の。・山路{やまぢ}の・菊水{きくすゐ}。 汲めや・掬{むす}べや飲むとも飲むとも尽きせじや尽きせじと。 菊かき分けて。・山路{やまぢ}の仙家に。 そのまゝ慈童は。・入{い}りにけり 慈童仙人 漢皇帝臣下

ワキ次第(三人)「山より山の奥までも。/\。 道あるや時代なりけり。ワキ詞「そも/\これは漢の皇帝の臣下なり。

偖も此程南陽の〓{レキ}県の山の麓より。薬の。水流れ出づ。 其水上を見て参れとの宣旨を被り。 唯今山路に赴き候。道行三人「心なき。

山がつまでもたふとみて。山賎までもたふとみて。 迎へ靡くや草恙さへもなくして速に。 分けつゝ行けばほどもなく。 尋ぬる山に着きにけり/\。 ワキ詞「これは早〓県の山に着きて候。此谷川は薬の水にて候ふべし。 岸に添ひて水上を尋ねばやと存じ候。 シテサシ「山・〓〓{イダ}として霜侵せる紅樹。 水・〓回{エイカイ}として露潤す黄菊。 あら面白のをりからやな。ワキ「不思議やな。 是なる菴の内を見れば。いと美しき童子あり。 そも御身はいかなる人ぞ。 シテ「われは周の代に慈童といつし者なり。 さて又御身は何のため。この深山には分け入り給ふぞ。 ワキ「これは漢の皇帝の臣下なるが。 薬の。 水の水上を尋ねよとの宣旨を被り来りたり。まづ/\かの周の代は。 八百年の昔なるに。しかも妙なる童子の姿。 こはそもいかなる事やらん。 シテ「われ古あやまつて。

御枕を越えしによりこゝに移さる。然れども我が君猶浅からぬ御恵。 御枕に妙文を記しまして賜はりぬ。 さればわれこの水を以て。 菊の葉にかの妙文。 を写し流に浮むれば則ち葉の水となつて。寿命を延ぶるのみならず。 神道を得て。楽のみに暮せるなり。詞「まづ/\これなる御枕。拝み給へや人々よ。 ワキ「これは不思議の事なりと。 各立ち寄り御枕の。妙文を拝し奉る。シテ「いで/\舞楽を奏しつゝ此まれ人を慰めんと。 地上歌「西に向ひてうち招けば。/\。 崑崙山に住居なす。

王母にかしづく仙女の数数楽器を手に手に携へて。 雲に乗じて忽ち来り。聞きもなれざる仙薬を奏せば。 慈童は立ち出でて。舞をかなづる姿も。 たをやかにおもしろや。 楽「本より薬の水なれば。/\。其身も変らず八百歳を。 既に経たりや猶ことぶきは。限あらじな。 限あらじな此御楽を。奉らんと。 玉の甕を取り出でて。 薬の水をみづから汲み入れ勅使にこれを捧げつゝ。 処は〓県の山路の菊の水。 汲めや掬べや飲むとも尽きじ。汲めや掬べや飲むとも尽きせぬ。 齢を延ぶる。めでたさよ 勅使 老人王伯 天鼓

。 ワキ詞「これは唐土後漢の帝に仕へ奉る臣下なり。さても此国の傍に。 王伯王母とて夫婦の者あり。かの者一人の子を持つ。

其名を天鼓と名づく。 彼を天鼓と名づくる事は。 彼が母夢中に天より一つの鼓降り下り。

胎内に宿ると見て出生したる子なればとて。その名を天鼓と名づく。 その後天より誠の鼓降り下り。 打てばその声妙にして。聞く人感を催せり。 この由帝聞し召され。 鼓を内裏に召されしに。天鼓ふかく惜み。 鼓を抱き山中に隠れぬ。然れどもいづくか王地ならねば。 官人を以て捜し出し。 天鼓をば呂水の江に沈め。鼓をば内裏に召され。 阿房殿雲龍閣に据ゑ置かれて候。 又その後かの鼓を打たせらるれども更に鳴る事なし。 。 いかさま主の別を歎き鳴らぬと思し召さるゝ間。 彼の者の父王伯を召して打たせよとの宣旨に任せ。 唯今王伯が私宅へと急ぎ候。 シテ一セイ「露の世に。 なほ老の身のいつまでか。又此秋に。残るらん。 サシ「伝へ聞く孔子は鯉魚にわかれて。 思の火を胸に焚き。白居易は子を先だてゝ。 枕に残る薬を恨む。これ皆仁義礼智信の祖師。

文道の大祖たり。我等が歎くは科ならじと。 思ふ思に堪へかぬる。涙いとなき。 袂かな。下歌「思はじと思ふ心のなどやらん。 夢にもあらず現にも。なき世の中ぞ。 悲しき/\。上歌「よしさらば。 思ひ出でじと思寝の。/\。闇の現に生れ来て。 忘れんと思ふ心こそ忘れぬよりは思なれ。 唯何故の憂き身の命のみこそ。 うらみなれ命のみこそうらみなれ。 ワキ詞「如何に此屋の内に王伯があるか。 シテ詞「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「これは帝よりの宣旨にてあるぞ。 シテ「宣旨とはあら思ひよらずや何事にて御座候ふぞ。 ワキ「さても天鼓が鼓内裏にめされて後。 。いろ/\打たせらるれども更に鳴る事なし。 如何さま主の別を歎き鳴らぬと思し召さるゝ間。 王伯に参りて仕れとの宣旨にてあるぞ。急いで参内仕り候へ。 シテ「仰畏つて承り候さりながら。

勅命にだに鳴らぬ鼓の。 老人が参りて打ちたればとて。何しに声の出づべきぞ。 いや/\これも心得たり。 勅命を背きし者の父なれば。 重ねて失はれんためにてぞあるらん。よし/\それも力なし。 我が子の為に失はれんは。 それこそ老の望なれ。 あら歎くまじややがて参り候ふべし。ワキ「いや/\左様の宣旨ならず。 唯唯鼓を打たせんとの。 そのためばかりの勅諚なり。急いで参り給ふべし。 シテ歌「仮令罪には沈むとも。 地「仮令罪には沈むとも。又は罪にも沈まずとも。 憂きながら我が子の形見に帝を拝み。 参らせん帝を拝み参らせん。 ワキ詞「急ぐ間程なく内裏にてあるぞ。此方へ来り候へ。 シテ詞「勅諚にて候ふ程に。 これまでは参りて候へども。老人が事をば。 御免あるべく候。ワキ詞「申す所は理なれども。 まづ鼓を仕り候へ。

鳴らずは力なき事急いで仕り候へ。 シテ「さては辞すとも叶ふまじ。勅に応じて打つ鼓の。 声もし出でばそれこそは。我が子の形見とゆふ月の。 上に輝く玉殿に。始めて臨む老の身の。 地次第「生きてある身は久方の/\。 天の鼓を打たうよ。 地クリ「その磧礫にならつて。 玉淵を窺はざるは。驪龍の蟠る所を知らざるなり。 。 シテ「実にや世々ごとの仮の親子に生れ来て。地「愛別離苦の思深く。 恨むまじき人を恨み。悲しむまじき身を歎きて。 我と心の闇深く。 輪廻の波にたゞよふ事生々世々のいつまでの。シテ「思のきづな。 長き世の、地「苦の海に沈むとかや。 クセ「地を走る獣。 空を翔る翅まで親子のあはれ知らざるや。況んや仏性。 同体の人間此生に。 此身を浮べずはいつの時か生死の海を渡り山を越えて。 彼岸に至るべき。シテ「親子は三界の首枷と。

地「聞けば誠に老心。別の涙の雨の袖。 しをれぞ増る草衣身を恨みてもそのかひの。 なき世に沈む罪科は唯命なれや明暮の。 時の鼓の現とも思はれぬ。身こそ恨なれ。 ロンギ地「鼓の時も移るなり。 涙を止めて老人よ。急いで鼓打つべし。シテ「実に/\これは大君の。忝しや勅命の。 老の時も移るなり。急いで鼓打たうよ。 地「打つや打たずや老波の。立ち寄る影も夕月の。 シテ「雲龍閣の光さす。地「玉の階。 シテ「玉の床に。 地「老の歩も足弱く薄氷を踏む如くにて。心も危き此鼓。 打てば不思議やその声の。心耳を澄ます声出でて。 実にも親子のしるしの声。 君もあはれと思し召して。龍顔に御涙を。 浮べ給ふぞ有難き。 ワキ詞「如何に老人。 只今鼓の音の出でたる事。誠にあはれと思し召さるゝ間。 老人には数の宝を下さるゝなり。

又天鼓が跡をば。 管絃講にて御弔あるべきとの勅諚なり。心やすく存じ。まづ/\老人は私宅へ帰り候へ。 シテ詞「あら有難や候。 さらば老人は私宅に帰り候ふべし。中入間「。 ワキ「さても天鼓が身を沈めし。 呂水の堤に御幸なつて。おなじく天の鼓をすゑ。 歌待謡「糸竹呂律の声々に。/\。 法事をなして亡き跡を。御弔ぞ有難き。 頃は初秋の空なれば。はや三伏の夏たけ。 水滔滔として。波悠々たり。 後シテ一声「あら有難の御弔やな。 勅を背きし天罰にて。呂水に沈みし身にしあれば。 後の世までも苦の。 海に沈み波に打たれて。呵責の責も隙なかりしに。 思はざる外の御弔に。浮み出でたる呂水の上。 曇らぬ御代の。有難さよ。 ワキ「不思議やな早更け過ぐる水の面に。

化したる人の見えたるは。 如何なる者ぞ名を名のれ。 シテ詞「是は天鼓が亡霊なるが。御弔の有難さに。 これまで現れ参りたり。 ワキ「さては天鼓が亡霊なるかや。詞「しからばかゝる音楽の。 舞楽も天鼓が手向の鼓。打ちて声出づならば。 実。にも天鼓がしるしなるべしはや/\鼓を仕れ。シテ「うれしやさては勅諚ぞと。 夕月かゝやく玉座のあたり。 ワキ「玉の笛の音声すみて。 シテ詞「月宮の、昔もかくやとばかり。ワキ「天人も影向。 シテ「菩薩もここに。シテワキ二人「天くだります気色にて。 同じく打つなり天の鼓。 地歌「打ち鳴らす其声の。/\。呂水の。波は滔々と。 打つなり打つなり汀の声の。 より引く糸竹の手向の舞楽は。有難や。楽「。 シテ「おもしろや時も実に。地「おもしろや時も実に。/\。 秋風楽なれや松の声。 柳葉を払つて月も涼しく星も相逢ふ空なれや。

烏鵲の橋の下に。紅葉を敷き。二星の。館の前に風。 冷かに夜も更けて。夜半楽にも早なりぬ。 人間の水は南。星は北にたんだくの。 天の海面雲の波立ち添ふや。 呂水の堤の月に嘯き水に戯れ波を穿ち。袖を返すや。

夜遊の舞楽も時去りて。 五更の一点鐘も鳴り。鳥は八声のほの%\と。 夜も明け白む。時の鼓。数は六つの巷の声に。 又打ち寄りて現か夢か。 又うち寄りて現か夢幻とこそなりにけれ 秦始皇帝 花陽夫人 荊軻 秦舞陽 大臣 官人

真ノ来序シテ「そも/\此咸陽宮と申すは。 都のまはり一万八千三百余里。 地「内裏は地より三里高く。雲を凌ぎて築きあげて。 鉄の築地方四十里。 シテ「又は高さも百余丈。雲路を渡る雁も。 雁門なくては過ぎがたし。地「内に三十六宮あり。 真珠の砂瑠璃の砂。黄金の砂を地には敷き。 。 シテ「長生不老の日月まで甍を並べておびたゞし。地「帝の御殿は阿房宮。 銅の柱三十六丈。シテ「東西九町。地「南北五町。

シテ「五丈の旗矛。地「りうしやの雲居。 シテ「さながら天に。地「飄り。 地歌「のぼれば玉の階の。/\金銀を研きて輝けり。 。 たゞ日月の影を踏み蒼天をわたる心地して。おの/\肝を消すとかや/\。 ワキ、ワキツレ二人 一声「思ひ立つ。朝の雪の旅衣。 落葉重なる嵐かな。 ワキ「山遠うしては雲行客の跡をうづみ。 ワキツレ「松高うしては風旅人の夢を破る。 ワキ「たとひ轅門は高くとも。ツレ「思の末は。ワキ「石に立つ。

ワキ、ワキツレ二人 歌「弥猛の心あらはれて。/\。 遠山の雲に日を重ね。やう/\行けば名も高き。咸陽宮に着きにけり。 咸陽宮に着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。咸陽官に着きて候。 まづ奏聞申さうずるにて候。 如何に奏聞申し候。燕の国の傍に。 荊軻秦舞陽と申す両人の者。高札のおもてに任せ。 燕の指図の箱。 ならびに樊於期が頭を持ちて。是まで参内申して候。狂言シカ%\大臣「何と申すぞ。燕の国の民に。 荊軻秦舞陽と申す両人の者。燕の指図の箱。 なら。 びに樊於期がかうべを持ちて参内したると申すか。かゝるめでたき事こそなけれ。 やがて奏聞申し候ふべし。 いかに奏聞申し候。燕の国の民に。 荊軻秦舞陽と申す両人の者。燕の指図の箱。 ならびに樊於期がかうべを持ちて只今参内申して候。 シテ「何と燕の国の傍に。

荊軻秦舞陽と申す両人の者。指図の箱。 ならびに樊於。 期がかうべを持ちて参内したると申すか。大臣「さん候。 シテ「急いで参内させ候へ。大臣「畏つて候。 唯今のよしを奏聞申してあれば。 急いで参内させよとの宣旨にてあるぞ。さりながら御大法の如く。 太刀刀を汝あづかり候へ。 狂言「畏つて候。如何に方々ヘ申し候。 急いで御参内あれとの御事にて候さりながら。 御大法の事にて候ふ間。 面々の太刀刀をあづ。 かり申して参内させ申せとの御事にて候ふぞ。太刀刀を賜はり候へ。 ワキ「いかに秦舞陽。 太刀刀を参らせよと承り候ふが。何と仕り候ふべき。 ワキツレ「御大法にて候はゞ唯まゐらせられ候へ。 ワキ「さらば参らせうずるにて候。狂言シカ%\ワキ「荊軻は佩剣を解いて威儀をなし。 節会の儀式に従ひて。 雲上遥に見わたせば。ワキツレ「金銀珠玉の御階を踏み。

三里が間をのぼりゆけば。 ワキ「薄氷を踏む心地して。荊軻は既にのぼれども。 ワキツレ「後に立ちたる秦舞陽。 身体わなゝき手を押して。のぼり兼ねてぞ休らひける。 。 ワキ詞「あゝ不覚なりとよ秦舞陽。 。 燕のいやしき住居にならつて。 。 玉殿を踏む恐ろしさに。 臆して。 あがりかねけるか。 ワキツレ 詞「それを。 なさのみ諌め給ひそ。 其磧礫に。 習つて玉淵を窺はざるは。驪竜の蟠る所を知らず。 地「げに理とて典獄は。 さしも厳しき禁中に。轅門を解いてゆるしけり/\。 大臣「帝は之を聞しめし。

臨時の節会を執り行ひ。燕使の参内を待ち給ふ。 ワキ「舞陽荊軻は大床の。胡床に参着申しけり。 ワキツレ「まづ秦舞陽すゝみ出でて。 樊於期がかうべを皇帝の。 上覧にそなへ立ちのけば。大臣「帝は笑める御気色。 御心も釈けて見え給ふ。 ワキ詞「其時荊軻すゝみよつて。燕の指図の箱の蓋を開き。 上覧に供へ立ちのけば。

シテ詞「不思議やな箱の底に剣の影。氷の如く見えければ。 既に立去り給はんとす。 地「荊軻は期したる事なれば。御衣の袖にむんずと縋つて。 剣を御胸にさしあて奉りけり。 ツレ「あさましや聖人人にまみえずとは。 今此時にてありけるぞや。あらあさましの御事やな。 シテ詞「いかに荊軻。 秦舞陽もたしかに聞け。我三千人の后を持つ。 其中に花陽夫人とて琴の上手あり。 されば毎日おこたる事なし。 然れども今日は汝等が参内により。いまだ琴の音を聞かず。 ことさら今は最期なれば。片時の暇をくれよ。 彼の琴の音を聞いて。 黄泉の道をも免れうずると思ふは如何に。 ワキ「いかに秦舞陽。さて何とあるべきぞ。 ツレ「これ程まで手ごめ申す上は。 片時の御暇ならば参られ候ヘ。 ワキ「さらば片時の御暇をまゐらせうずるにて候。 シテ「いかに花陽夫人。急ぎ秘曲を奏し給へ。

后琴ノ段「さらば秘曲を奏すべし。本より妙なる琴の音に。 飛ぶ鳥も地に落ち武士も。 やはらぐ程の秘曲なれば。ましてや今は玉のを琴。 さこそは御手も尽されけめ。 地「花の春の。 琴曲は花風楽に柳花苑柳花苑の鴬はおなじ曲の囀。 月の前の調は夜寒を告ぐる秋風。雲居に渡れる雁琴柱におつる。 声々も涙の露の玉章。たまさかに。/\。 人はよもしら糸の。調を改めて。 君きけや君きけや。七尺の屏風は。 躍らば越えつべし。 羅穀の袂をも引かばなどか切れざらん。謀臣は。有無に酔へり群臣は。 聖人の。御たすけと。押し返し。/\。 。 二三返の琴の音を君は聞し召さるれども荊軻は聞き知らでたゞ緩々と。侵されて。

眠れるが如くなり。時うつる/\と。 秘曲たび/\かさなれば。 シテ「荊軻がひかへたる。地「御衣の袖を。引つ切つて。 屏風を躍りこえ。 電光の激するよそほひ霰。 の白玉盤に落ちて欄干をはしる心地して。銅の御柱に。 たちかくれさせ給ひしかば。ワキ「荊軻は怒をなして。 地「劔を帝に投げ奉れば。番の医師は。 薬の袋を劔に合はせて投げとめければ。 シテ「帝又劔を抜いて。地「帝又劔を抜いて。 荊軻をも秦舞陽をも。 八裂にさせ給ひ忽ちに失ひおはしまし。其後燕丹太子をも。 程なく滅し秦の御代万歳をたもち給ふ事。 唯これ后の琴の秘曲。 ありがたかりける例かな 景清母 悪七兵衛景清 源頼朝 従者 従者

シテ次第「わすれは草の名に聞きて。/\。 忍ぶや我が身なるらん。 詞「これは平家の侍悪七兵衛景清にて候。 われ此間は西国の方に候ひしが。宿願の子細あるにより。 。 此程まかり上り清水に一七日参篭申して候。又承り候へば。 南都大仏供養の由申し候。 某も若草辺に母を一人持ちて候ふ程に。かやうの折節貴賎に紛れ。 向顔のため唯今南都へと急ぎ候。 サシ「あはれやげに古は。さしも栄えし花紅葉の。 寿永の秋のいかなれば。思はぬ風に誘はれて。 さしも馴れにし都の空。 引きかへ鄙の憂きすまひ。下歌「繋がぬ船のかひもなく。 弓矢の家に生まれ来て。 上歌「三笠の森のかげ頼む。/\。 其はゝきゞのながらへて。未だ此世の御すまひ。 神も教の牡鹿鳴く。春日の里に着きにけり/\。 詞急ぎ候ふ程に。南都若草辺に着きて候。 此あたりにて御ゆくへそ尋ねばやと存じ候。

ツレ「偖も我が子の景清は。 此程いづくに在るやらん。南無や三世の諸仏。 我が子の景清に。二たび逢はせて賜び給へ。 シテ詞「いかに案内申し候。 ツレ「我が子の声と聞くよりも。覚えず枢に立ち出でて。 景清なるかと悦べば。シテ「暫く。 あたりに人もや候ふらん。 某が名をば仰せられまじいにて候。 母「まづこなたへ渡り候へ。さて此程はいづくに候ひつるぞ。 シテ「さん候西国の方に候ひしが。 宿願の子細有るにより。 都に上り清水に参篭申し候ふ処に。 大仏供養の由承り候ふ程に。かやうのをりふし貴賎に紛れ。 御音信の為に参りて候。 ツレ「偖は嬉しくも来り給ひて候。 又尋ね申すべき事の候つゝまず申すべきか。 シテ「是は今めかしき仰かな。 何事にても候ヘ申し上げうずるにて候。ツレ「真や人の申すは。 頼朝をねらひ申すと聞き及びて候ふが真にて候ふか。

。 シテ「是はおもひもよらぬ仰にて候さりながら。西海にて亡び給ひし御一門の。 御弔にもなるべきかと。 思へばねらひ申すなり。ツレ「申す処はさる事なれども。 明日をも知らぬ老の身の。 果をも見届け給へかし。シテ「風に漂ふ浮舟の。 教経の御供申さずして。ツレ「物を思へば。 シテ「起きもせず。 地「寝もせで夜半を明かしかね。此身を隠すかひもなく。 景清が心のうち母も哀と思し召せ。 上歌「一門の船のうち。/\に肩を比べ膝をくみて。 処狭く澄む月の。景清は誰よりも。 御座船になくて適ふまじ。 一類その以下武略さまざまに多けれど。名をとり楫の船に乗せ。 主従隔なかりしは。 さも羨まれたりし身の。 麒麟も老いぬれば駑馬におとるが如くなり。 シテ詞「早夜の明けて候ふ程に御暇申し候。 ツレ「かまへて御身をよく/\慎みて。

重ねて来り給ふべし。 シテ「げにありがたき母の慈悲。御詞の末も頼もしき。 地上歌「柞の森の雨露の。/\。 梢も濡らす我が袖を。しほりかねたる涙かな。 いつしか親心。かなしむ母の門送り。 景清も跡を見返りて涙と共に別れけり/\。 中入立衆一セイ「世に隠れなき大伽藍。 仏の供養急ぐなり。子方サシ「抑これは源家の官軍。 右大将頼朝とは我が事なり。 立衆「忝くも此御寺は。聖武皇帝の御建立。 大仏殿にておはします。ワキ「又この君の御威光。 今此寺にあひにあふ。立衆上歌「大伽藍の御供養。 /\。光かゞやく春の日の。 三笠の山に影高き。法の御声の様々に。 供養をなすぞ有難き/\。 シテサシ一声「面白や奈良の都の時めきて。 いろいろ飾る物詣。 詞我はそれには引きかへて。敵を討たん謀を。 思ふ心は己が名の。悪七兵衛景清と。

詞よそにもそれと人やもし。白張浄衣に立烏帽子。 げにわれながら思はざる。 上「姿に今は楢の葉の。時雨降り置く天が下に。 身を隠すべき便なき。 憂き身の果ぞあはれなる。宮人の。姿を暫し狩衣。 地「今日ばかりこそ翁さび。 シテ「人なとがめそ神だにも。地「塵に交はる宮寺の。 供養の場に立ち出づる。 ワキ詞「こは何者なれば御前まぢかく参るぞそこ退き候へ。 シテ「これは春日の御奴なるが。けふの仏の御供養。 場を清めの役人なるを。 何しにとがめ給ふらん。ワキ「春日祭にあらばこそ。 詞これは仏の御供養。 シテ「なう水波の隔と聞く時は。仏も神も同一体。 其上貴賎の事なるに。何とて簡び給ふべき。 ワキ「包むとすれど神は猶。君を守りの御威光。 シテ「あらはれけるが白張の。 ワキ「脇より見ゆる具足の金物。シテ「光をはなつ。 ワキ「打物の。地「鞘つまりたる詞の末。

名のれ/\と責めければ。 現れたりと思ひつゝ。さらぬやうに立ち帰り。 又人影に隠れけり。 ワキ詞「言語道断の事。 唯今の者をいかなる者ぞと存じて候へば。 平家の侍悪七兵衛景清にて候。 正しく我が君をねらひ申すと存じ候ふ程に。 警固の者に申付け討ち取らせばやと存じ候。 いかにやいかに警固の兵たしかに聞け。 唯今見えししれ者を。はや打つ取つて参らせよと。 さも高声に下知すれば。 地「畏つて候ふとて。かねて用意の警固の兵。 皆一同に立ち騒ぐ。 シテ詞「其時景清又立ち出でて思ふやう。 こ。 こ立ち退きては弓矢の恥辱となるべきなれば。今一太刀は打ちあひて。 重ねて時節を待つべしと。 大音上げて呼ばはりけり。 抑これは平家の侍悪七兵衛景清と。地「名のりもあへずあざ丸を。/\。

するりと抜き持ち立ち向ひ。 大勢にわつて入れば。 さしも固めし警固なれども四。 方へばつとぞ遁げにける中に若武者進み出で。走り懸つてちやうと切れば。 ひらりと飛んで。手もとにより。

忽ち勝負を見せにけり今は景清是までなりと。 少し祈念を致しつゝ。かのあざ丸を。 さしかざせば。霧立ち隠すや春日山。 茂みに飛び入り落ちけるが。 又こそ時節を待つべけれと。虚空に声して失せにけり 曽我五郎時致 同十郎祐成 団三郎 鬼王 御所の五郎丸 軍兵(三人又ハ五人)

シテツレ三人次第「其名も高き富士の嶺の。/\。 御狩にいざや出でうよ。 十郎詞「是は曽我の十郎祐成にて候。 偖も我が君東八個国の諸侍を集め。 富士の巻狩をさせられ候ふ間。我等兄弟も人なみにまかりいで。 唯今富士の裾野へと急ぎ候。 サシ四人「今日出でていつ帰るべき故郷と。 思へば猶もいとどしく。上歌「名残を残す我が宿の。/\。 垣根の雪は卯の花の。 咲き散る花の名残ぞと。我が足柄や遠かりし。

富士の裾野に着きにけり。/\。 十郎詞「急ぎ候ふ程に。 これははや富士の裾野にて候。いかに時致。 然るべき処に幕を御打たせ候へ。シテ詞「畏つて候。 十郎「いかに時致。今に始めぬ御事なれども。 我が君の御威光のめでたさは候。 打ちならべたる幕の内。 目を驚かしたる有様にて候。かほどに多き人の中に。 我等兄弟が幕の内程物さびたるは候ふまじ。 シテ「さん候今に始めぬ君の御威光にて候。

偖かのあらましは候。 十郎「あらましとは何事にて候ふぞ。シテ「あら御情なや。 我等は片時も忘るゝ事はなく候。 彼の祐経が事候ふよ。十郎「げに/\某も忘るゝ事はなく候。 偖いつをいつまでながらへ候ふべき。 ともかくも然るべきやうに御定め候へ。シテ「御諚の如く。 いつをいつとか定め候ふべき。 今夜夜討がけに彼の者を討たうずるにて候。 十郎「それが然るべう候。さらばそれに御定め候へ。や。 思ひ出したる事の候。我等故郷を出でし時。 母にかくとも申さず候ふ程に。 御嘆あるべき事。これのみ心にかゝり候ふ間。 鬼王か団三郎か。 兄弟に一人形見の物を持たせ。故郷に帰さうずるにて候。 シテ「げにこれは尤にて候さりながら。 一人帰れと申し候はゞ。 定めてとかく申し候ふべし。 たゞ二人ともに御かへしあれかしと存じ候。十郎「尤にて候。

さらば二人ともに此方へ参れと御申し候へ。 シテ「畏つて候。いかに団三郎。 鬼王此方へ参り候へ。団三郎「畏つて候。 シテ「団三郎兄弟これへ参りて候。十郎「いかに団三郎。 鬼王もたしかに聞け。 汝兄弟に申すべき事を承引すべきか。 又承引すまじきか真直に申し候へ。 団三郎「これは今めかしき御諚にて候。 何事にても候へ御意を背く事はあるまじく候。十郎「あらうれしや。 さては承引すべきか。団三郎「畏つて候。 何事も御諚をば背き申すまじく候。 十郎「此上は委しく語り候ふべし。 さても我等が親の敵のこと。 彼の祐経を今夜夜討がけに討つべきなり。兄弟空しくなるならば。 故郷の母嘆き給はん事。 あまりに痛はしく候ふ程に。形見の品々を持ちて。 二人ながら故郷へかへり候へ。 団三郎「これは思もよらぬ御諚にて候ふものかな。 御意も御意にこそより候へ。此年月奉公申し候ふも。

。 此御大事に真先かけて討死仕るべき為にてこそ候へ。何と御諚候ふとも。 此儀においては罷り帰るまじく候。 鬼王さやうにてはなきか。鬼王「なか/\の事尤にて候。 まかり帰ることはあるまじく候。十郎「何と帰るまじいと申すか。 団三郎「ふつつとまかり帰るまじく候。 。 十郎「これは不思議なる事を申すものかな。さてこそ以前に詞を固めて候ふに。 さてはふつつと帰るまじきか。 団三郎「さん候。十郎「汝は不思議なる者にて候。 なう五郎殿あれを御帰し候へ。 シテ「畏つて候。 やあ何とてまかり帰るまじとは申すぞ。 さやうに申さうずると思し召してこそ。始より詞を固めて仰せられ候ふに。 何とて帰るまじいとは申すぞ。 しかと帰るまじきか。 鬼王「まづ畏つたると御申し候へ。団三郎「畏つて候。 シテ「しかと帰らうずるか。

団三郎「まかり帰らうずるにて候。シテ「あうそれにてこそ候へ。 まかり帰らうずると申し候。 十郎「何と帰らうずると申すか。団三郎「さん候。 いかに鬼王に申し候。鬼王「何事にて候ふぞ。 団三郎「さて何と仕り候ふべき。 まかり帰れば本意に非ず。又帰らねば御意に背く。 とかく進退こゝに窮つて候。 鬼王「仰の如くまかり帰れば本意に非ず。 又帰らねば御意に背く。我等も是非を弁へず候。 但し急度案じ出したる事の候。 いづくにても命を捨つるこそ肝要にて候へ。 恐れながら団三郎殿とこれにて刺し違へ候ふべし。 。団三郎「げに/\いづくにても命をすつるこそ肝要なれ。いざさらば刺しちがへう。 鬼王「尤にて候ふ。シテ「あゝ暫く。 これは何としたることを仕り候ふぞ。 十郎「やあ兄弟の者帰すまじきぞ帰すまじきぞ。 まづ/\心を静めて聞き候へ。 今夜此処にて祐経を討ち。我等兄弟空しくならば。

。 さて故郷にまします母には誰か斯くと申すべきぞ。敬ふ者に従ふは。 君臣の礼と申すなり。之を聞かずは生々世々。 永き世までの勘当と。地「かきくどき宣へば。 /\。鬼王団三郎。 さらば形見を賜はらんと。いふ声の下よりも。 不覚の涙せきあへず。 地クリ「夫れ人の形見をおくりし例には。 彼の唐土の樊〓{カイ:大漢和4407}が。母の衣を着替へしは。 永き世までの例かや。 十郎サシ「今当代の弓取の。母衣とはこれを名づけたり。 地「然れば我等が賎しき身を。 譬ふべきにはあらねども。恩愛の契の。あはれさは。 我等を隔てぬ習なり。クセ「さる程に兄弟。 文こま%\と書きをさめ。これは祐成が。 いまはの時に書く文の。 文字消えて薄くとも。形見に御覧候へ。皆人の形見には。 手跡に勝る物あらじ。 水茎の跡をば心にかけて弔ひ給へ。

老少不定と聞く時は若き命も頼まれず老いたるも残る世の習。 飛花落葉の理と思し召されよ。 其時時致も。膚の守を取り出し。これは時致が。 形見に御覧候へ。形見は人のなき跡の。 思の種と申せども。せめて慰む習なれば。 時致は母上に添ひ申したると思し召せ。 今までは其主を。守仏の観世音。 此世の縁なくと来世をば助け給へや。 十郎「既に此日も入相の。地「鐘もはや声々に。 諸行無常と告げ渡る。さらばよ急げ/\使。涙を。文に巻きこめて其のまゝやる。 文の干ぬ間にと。詠ぜし人の心まで。 今更思ひ白雲の。かゝるや富士の裾野より。 。曽我に帰れば兄弟すご/\と跡を見送りて泣きて留まる。 あはれさよ泣きて留まるあはれさよ。早鼓「。中入間「。 後ツレ一セイ「寄せかけて。打つ白波の音たかく。 鬨を作つて騒ぎけり。早鼓「。 後シテ「あらおびたゝしの軍兵やな。

詞「我等兄弟うたんとて。多くの勢は騒ぎあひて。 こゝを先途と見えたるぞや。十郎殿/\。 何とて御返事はなきぞ十郎殿。 宵に新田の四郎と戦ひ給ひしが。 さては早討たれ給ひたるよな。 口惜しや死なば骸を一所とこそ思ひしに。物思ふ春の花ざかり。散り%\になつてこゝかしこに。 骸をさらさん無念やな。 地歌「味方の勢はこれを見て。/\。 打物の。 鍔元くつろげ時致を目がけてかゝりけり。シテ「あら物々しやおのれ等よ。 地「あら物々しやおのれらよ。先に手並みは。 知るらんものをと太刀取りなほし。 立つたるけしき誉めぬ人こそなかりけれ。 かゝりける所に。/\。御内方の古屋五郎。 樊〓{カイ:大漢和4407}が。 怒りをなし張良が秘術を尽しつつ。五郎が面に。切つてかゝる。時致も。 古屋五郎が抜いたる太刀の。鎬を削り。 しばしが程は戦ひしが。

何とか切りけん。 古屋五郎は二つになつてぞ見えたりける。かゝりける処に/\。 御所の五郎丸御前に入れたてかなはじものをと。 肌には鎧の。袖を解き。草摺軽げに。 ざつくと投げかけ上には薄衣引きかづき。 唐戸の脇にぞ待ちかけたる。カケリ「。 シテ「今は時致も運槻弓の。 地「今は時致も運槻弓の。力も落ちて。 まことの女ぞと油断して通るを。

やり過し押しならべむんずと組めば。シテ「おのれは何者ぞ。 ツレ「御所の五郎丸。地「あらもの/\しとわだがみつかんで。えいや/\と組みころんで。時致上になりける所を。 下よりえいやと又押し返し。 其時大勢おり重なつて。千筋の縄を。かけまくも。 かたじけなくも。君の御前に。 追つ立て行くこそめでたけれ 弁慶太刀持 牛若 弁慶

。 シテ詞「これは西塔の傍に住む武蔵坊弁慶にて候。われ宿願の子細あつて。 五条の天神へ。丑の時詣を仕り候。 今日・満参{まんさん}にて候ふ程に。唯今参らばやと存じ候。 いかに誰かある。トモ「御前に候。 シテ「五条の天神へ参らうずるにてあるぞ。

その分心得候へ。トモ「畏つて候。 又申すべき事の候。昨日五条の橋を通り候ふ所に。 十二三ばかりなる幼き者。 小太刀にて斬つて廻り候ふは。 さながら・蝶鳥{てふとり}の如くなる由申し候。先々今夜の御物詣は。 思し召し御止まりあれかしと存じ候。

シテ「言語道断の事を申す者かな。 たとへば天魔鬼神なりとも。大勢には適ふまじ。 おつとり込めて討たざらん。 トモ「おつとりこむれば不思議にはづれ。 ・敵{かたき}を手元に寄せ付けず。シテ「手近く寄れば。トモ「目にも。 シテ「見えず。地「・神変{じんべん}奇特不思議なる。 /\。・化生{けしやう}の者に寄せ合はせ。 かしこう御身討たすらん。都広しと申せども。 これ程の者あらじ。げに奇特なる者かな。 。 シテ詞「さあらば今夜は思ひ止まらうずるにてあるぞ。いや弁慶ほどの者の。 聞き遁げは無念なり。今夜夜更けば橋に行き。 化生の者を平らげんと。 地上歌「夕程なく暮方の。/\。雲の気色も引きかへて。 風すさまじく更くる夜を。 遅しとこそは待ち居たれ/\。 中入早鼓間子方一声「さても牛若は母の仰の重ければ。 詞「明けなぱ寺へのぼるべし。 今宵ばかりの名残なれば。五条の橋に泣立ち出でて。

川波添へて立ち待ちに。 月の光を待つべしと。夕波の。気色はそれか夜嵐の。 夕程なき秋の風。地上歌「面白の気色やな。 /\。そゞろ浮き立つわが心。 波も玉散る白露の。夕顔の花の色。 五条の橋の橋板を。とゞろ/\と踏み鳴らし。 音も静かに更くる夜に。 通る人をぞ待ち居たる/\。 後シテ詞一声「すでにこの夜も明方の。 山塔の鐘もすぎまの雲の。光り輝く月の夜に。 着たる鎧は黒革の。をどしにをどせる大鎧。 草摺長に着なしつゝ。 もとより好む大薙刀。・真中{まんなか}取つて打ちかつぎ。ゆらり/\と出でたる有様。 いかなる天魔鬼神なりとも。・面{おもて}を向くべきやうあらじと。 我が身ながらも物頼もしうて。 手に立つ敵の恋しさよ。 子方「川風もはや更け過ぐる橋の面に。 通る人もなきぞとて。

心すごげにやすらへば。シテ「弁慶かくとも白波の。 立ちより渡る橋板を。さも荒らかに踏み鳴らせば。 子方「牛若彼を見るよりも。 すはやうれしや人来るぞと。・薄衣{うすぎぬ}なほも引き被き。 傍に寄り添ひ佇めば。 シテ「弁慶彼を見付けつゝ。立廻り、詞をかけんと思へども。 見れば女の姿なり。われは出家の事なれば。 思ひ煩ひ過ぎて行く。 子方「牛若彼をなぶつて見んと。行き違ひざまに薙刀の。 柄元をはつしと蹴上ぐれば。 シテ「すはしれ者よもの見せんと。 地「薙刀やがて取り直し。/\。いでもの見せん手なみの程と。 斬つてかゝれば牛若は。 少しも騒がず突つ立ち直つて。薄衣引き除けつゝ。 しづしづと太刀抜き放つて。 つつ支へたる薙刀の。切先に太刀打ち合はせ。 つめつ開いつ戦ひしが。何とかしたりけん。 手許に。 牛若寄るとぞ見えしがたゝみ重ねて打つ太刀に。さしもの弁慶合はせ兼ねて。

橋桁を二三間しさつて。 肝をぞ消したりける。あら物々しあれ程の。/\。 ・小姓{こしやう}一人を斬ればとて。 手並にいかで洩らすべきと。薙刀柄長くおつ取りのべて。 走りかゝつてちやうと切れば。そむけて右に。 飛びちがふ取り直して裾を。薙ぎ払へば。 跳りあがつて足もためず。 宙を払へば・頭{かうべ}を地に付け。千々に戦ふ大薙刀。 打ち落されて力なく。 組まんと寄れば切り払ふすがらんとするも便なし。 せん方なくて弁慶は。 希代なる・少人{せうじん}かなとて呆れはててぞ立つたりける。 ロンギ「不思議や御身誰なれば。 まだ・稚{いとけな}き姿にて。かほどけなげにましますぞ。 委しく名乗りおはしませ。 子方「今は何をか包むべき。我は源牛若。地「義朝の御子か。 子方「さて汝は。地「西塔の武蔵。弁慶なり。 互に名告り合ひ。/\。 降参申さん御免あれ少人の御事。われは出家。

位も氏もけなげさも。 よき・主{しう}なれば頼むなり。 粗忽にや思しめすらんさりながら。 これ又三世の奇縁の始。今より後は。・主従{しうじう}ぞ。

と。契約堅く申しつゝ。 薄衣・被{かづ}かせ奉り弁慶も薙刀打ちかついで。 九条の御所へぞ参りける 常磐 羽田十郎秋長 牛若

ワキ詞「かやうに候ふ者は。 義朝の・御内{みうち}にありし羽田の十郎秋長にて候。 扨も義朝の・御子{おんこ}常磐の御腹には三男。 牛若殿と申して御座候ふを。 学問の為に鞍馬の寺へ御のぼせ御座候ふ所に。学問をばし給はで。 夜な/\五条の橋に出で。 ・数多{あまた}の人を御切り候。上下のわづらひかた%\以て然るべからず候ふ程に。常磐の御方に参り。 此事を御教訓させ申さばやと存じ候。 いかに申し上げ候。秋長が参りて候。 シテ「何秋長と申すか此方へ参り候へ。 さて唯今は何のために来リたるぞ。

ワキ「唯今参る事余の儀にあらず。 鞍馬の寺に御座候ふ牛若殿。夜な/\五条の橋に御出あつて。 数多の人を御切り候。 上下のわづらひ方方もつて然るべからず候へば。 此方へ御申しあつて。 御教訓あれかしと存じ候シテ「さて年若殿はいづくに渡り候ぞ。 ワキ「あれに御座候。 シテ「此方へと申し候へ。ワキ「畏つて候。こなたへ御参り候へ。 シテ「いかに牛若殿。 此程は寺にあるかとこそ思ひしに。 何とて此方へは下りたるぞ。 子方「さん候久しく母上を見参らせず候ふ程に参りて候。

シテ「いや/\おことの心を見るに。思ふといふも・空言{そらごと}よ。 。 此程平家の公達の肩をならべしを争ひ。同じ寺中にありとても。 学問にだにすぐれなば。他山の・聞{きこえ}・寺家{じけ}の覚。 かたがた母も嬉しう思ふべきに。 学問をこそせざらめ。夜な/\五条の橋に出で。 人を失ふよしを聞くぞとよ。 誠さやうにあるならば。母と思ふな子とも又。 地「思ふまじ実によしなやな。 かほどに母は思へども。そのかひ更になき上は。 しかりてもよしぞなきうたての者の心や。 上歌「よしやよし親子をも。よしやよし親子をも。 思ひ思はぬ中ならば。なか/\に安からぬ。御身のためは然るべし。 いかなれば畜類。又は空飛び翔ける鳥も。 その理を知ればこそ。鳩に三枝の礼をなし。 烏きう/\の。孝行なるはいかばかり。 などや御身は不孝なると。しかれば牛若も。 。

手を合はせ立ちよりて許し給へと泣き居たり。 クセ「おことまた・稚{いとけな}かりし時よりも。父に離れてむざんやな。 敵の手にも渡りなば。いかなる渕川の。 瀬にも沈みもやせましと。心に懸けて思ひ寝の。 夢の・一時{ひととき}。花の夕の山颪。声高く泣く時は。 六波羅の人やもし。 助くらんものを悲しやと。 忍びて落しも今思出の涙かな。 子方ロンギ「母の仰の重ければ。 明けなば寺へ登るべし。さりながら此笛に。 えたる便のあるぞとは。いかなる・謂{いはれ}候ふぞ。 シテ「げに理の不審かな。 これは弘法大師とて。貴き人の御笛を。 伝へたる故なれば。かやうにわれもいふぞとよ。 子方「そもや大師の御事は。 久しき事と聞くものを。伝へ給ふはいかならん。 シテ「これはもと・入唐{につたう}の。 ・商人{あきうど}もてる笛なるにその・虫食{むしぐひ}のあるぞとよ。 子方「さてはしるしの何ぞとも。現し給ふ文字やらん。 委しく語りおはしませ。

シテ「これ御覧ぜよ今までは。人にも隠し御身にも。 子方「見せさせ給ふ事もなきに。 地「今こそ委しくは。見も明石潟島隠。 並ぶや蝉のもとに。巻き隠したる錦を。 解きてよく見れば。不思議やな虫食の。壹万五千。 三百余歳経て。 弘法大師の御手に渡りその後に。 義朝の末の子牛若が手に渡るべしと。たしかなる虫食。 かたじけなやと戴き。明けなば寺に登るべし。 かまひておこと偽るな。

又よく母は云ひ捨てゝ常の住家に。 入りにけり常の住家に入りにけり。子方詞「いかに羽田。 母の仰の重ければ。明けなば寺へ登るべし。 今宵ばかりの名残なれば。 五条の橋に出で忽ちに月を桃めうずるにてあるぞ。 ワキ「畏つて候。 。  コレヨリ常ノ「橋弁慶」ニナリ前シテヲ。  除キ 湛海 鬼一法眼 従者 法眼家人 牛若

子方「偖も牛若母の仰の重ければ ト続クワキ詞「かやうに候ふ者は。 二条堀川に住居仕り候ふ。鬼一法眼とは我が事なり。 さて。 も故左馬の頭義朝の八男沙那王殿と申すは。某師弟の契約仕り候へども。 いさゝかの子細候ふ間。

ひそかに討つて捨てばやと存じ候。然れども兵法勝れ給ひ。 麁忽には叶ひ難く候ふほどに。 聟にて候ふ長谷部の湛海。 彼は器量第一の者にて候ふほどに。彼を頼み討たせばやと存じ候。 いかに誰かある。太刀持「御前に候。

ワキ「汝は北白川湛海坊へ参り。 少し談ずべき事の候ふ間。御出あれと申し候へ。 太刀持「畏つて候。いかに此内へ案内申し候。 シテ「誰にて渡り候ふぞ。 太刀持「鬼一法眼よりの御使にて候。申し談ずる事の候ふ間。 唯今御出あれとの御事にて候。 シテ「心得てある。やがて参らうずるにて候。 太刀持「いかに申し上げ候。湛海の御出にて候。 ワキ「此方へと申せ。太刀持「畏つて候。 かうかう御通りあれとの御事にて候。 。 シテ「さて唯今は何の為の御使にて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今申し入るゝ事余の儀にあらず。内々申す如く。 沙那王殿某が秘蔵の兵法の一巻を盗み取り候ふ程に。 かの者をひそかに討ち取り。 巻物をも奪ひ返さばやと存じ候。誰々と申すとも。 貴。 方ならでは沙那王を討つべき人はおぼえず候ふ間。さて申し入れ候。 シテ「言語道断の事にて候ふものかな。

此上は某が手にかけ討ち取り候ふべし。 御心安く思し召され候へ。たとひ猛威を振ふとも。 やはか討ち損ずる事の候ふべき。 ワキ「誠に頼もしき御事にて候。 さらば沙那王をすかし出し。 五条の天神へつかはし候ふべし。御身も跡より御忍あつて。 あれにて討つて賜はり候へ。 シテ「実に此上はともかくも。片時も急ぎ申すべし。 御心安くおぼしめせ。地「御心安くおぼしめせ。 さらばよ鬼一これまでぞ。 彼の小冠者を討たずは。此後御目に懸るまじ。 手取りにせんと広言し。 座敷を立つて湛海は帰る心ぞ恐ろしき帰る心ぞ恐ろしき。中入間「。 子方一セイ「さても沙那王は師匠の仰に従ひて。 五条の天神へ参らんと。 地「夕顔の花の宿。/\。 五条あたりのあばらやの其跡訪へば黄昏に。よそ目はせじな一筋に。 頼む誓の末清き。 五条の神に詣でけり/\。

後シテ一声「待つほどは。苦しきものか郭公。 一声急げ。暁の空。 されば湛海其夜の出立には。黒糸威の腹巻に。 白柄の長刀うちかたげ。沙那王おそしと待ち居たり。 子方「かくとも知らで沙那王は。 神前を拝し奉り。立ち帰らんとせし所に。 シテ詞「湛海早く見つけつゝ。 すはやこれぞと近づきより。いかに沙那王殿。 夜陰の帰るさの覚束なさに。御迎に湛海参りたりと。 さもあらけなく云ひければ。 子方「あら思ひよらずや。 我が身に取つて湛海に意趣はなし。さては鬼一が下知に従ひ。 某が討手に向ひしよな。いかに湛海。 いかなる意趣のありて。我を討たんと思ふぞや。 シテ「あら事々しや意趣までもなし。 お事のたくみ顕れたり。尋常に勝負あれ。 日頃の広言唯今なるぞと。 長刀やがて取り直し。地「長刀やがて取り直し。 無慙や。

小冠者嵐となさんと踊り上つて切り払ふ。元より沙那王騒がばこそ。 日頃ならひし秘術は今こそこゝにあらはし衣の。 。 飛鳥の翔に左足をつかつて切り給へば。湛海も大長刀を。 水車に廻してかゝれば。ちやう/\と透間を切り。 さばか。 り猛き湛海も御曹司の小太刀に切り立てられて呆れ果てゝぞ立つたりける。 さても無念の次第やな。/\と。

走りかゝつて突けばはづし。討てば飛び。 乗すれば乗つて手もとにより。 しさつて払へば飛び上 。 飛行自在に戦ひ給へば今は湛海勢力尽きて。頼む長刀打ち落され。 組まんとすれば切り払ふ。 かげろふ稲妻姿を失ひたゞよふ所を首打ち落し。 喜び勇みて牛若は。/\。 鞍馬へ帰らせ給ひけり 法師武者 源義経 佐藤忠信 伊勢三郎 従者

ワキ詞「これは判官殿の御内に。 伊勢の三郎義盛にて候。さても我が君判官殿は。 此吉野を頼み御座候ふ所に。 衆徒の詮議変り。 今夜夜討すべき事一定の様に申し候ふ間。此事申し上げばやと存じ候。 如何に申し上げ候。義盛が参りて候。 ツレ「此方へ来り候へ。ワキ「畏つて候。

判官「さて唯今は何の為に来りてあるぞ。 ワキ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。 当山の者ども心変し。 今夜夜討すべき事一定のやうに申し候ふ間。 此事申し上ぐべき為に参りて候。ツレ「これは真にてあるか。 ワキ「さん候。 判官「口惜しや我幾ばくの難を遁れ。命を重んずる事も。

朝敵の虚名を晴さん其為なり。 それに当山の衆徒夜討すべきを告げ知らする条。 これひとへに天の御加護なり。 とにかくわれは夜に入り此処を開くべし。 誰か一人留まり防矢を射。其後命を全うして。 路次にて追つ付くべき者やある。義盛計らひ候へ。 ワキ「御諚畏つて承り候さりながら。 某を。 始め皆いづくまでも御供とこそ存じ候ふべけれ。 恐れながら誰にても召し出されて。直に仰せ付けられよかしと存じ候。 ツレ「それこそ我等が思ふ所なれ。 さらば佐藤忠信を此方へと申し候。 ワキ「畏つて候。 いかに此家の内に忠信の渡り候ふか。シテ「誰にてわたり候ふぞ。 ワキ「君よりの御使に義盛が参じ候。 少し御用の事候へば。御参あれとの御事にて候。 シテ「畏つて候。ワキ「忠信参りて候。 ツレ「いかに忠信。当山の者ども心変し。 今夜夜討すべき事一定のやうに申し候。

とにかく我は夜に入り此処を開くべし。 汝一人留まり防ぎ矢を射。其後命を全うして。 路次にてやがて追つ付き候へ。 シテ「御諚畏つて承り候さりながら。 某が事は何処までも御供に召し具せられ候ひて。 余人に仰せ付けられ候へ。若し辞し申す者あらば。 其時御意をば背き申すまじく候。 ツレ「いや汝を頼む上は。 とかくの事はあるまじく候。シテ「御意をばいかで背くべき。 しかも一人選まれ申し。防矢仕れとの御諚。 弓矢取つての面目なれば。 忝うこそ候へとよさりながら。我が君を始め奉り。 皆人々に御名残こそ惜しう候へ。 地「不覚の涙をおさへて。御前を立つ。 皆哀にぞ覚ゆる。 上「かくては時刻移るとて。/\。 我が君を始め奉り。門前を出でて間道より。 密にしのび出で給へば。 シテ「忠信暫しは御供し。地「御暇申し留まれば。

かまへて命を全うして。御供に参らずは。 不忠なるべしと心得よと。涙を流させ給へば。 か。 たじけなしと忠信は唯ひとり留まる心の便も涙なるらん/\。物着又ハ中入「。 立衆一声「吉野川。水のまに/\騒ぎ来て。 波うち寄する嵐かな。 立衆詞「いかに此坊中へ案内申し候。シテ「今は夜更け人静まるに。 案内申さんとはいかなる者ぞ。 立衆「わりなく頼朝よりの仰に従ひ。 当山の者ども判官殿の御迎に参りたり。疾う/\出でさせ給ふべし。シテ「あらはか%\しや忝くも。我が君に思ひかゝらんとや。 よしまづ戦の試に。 此矢一条受けて見よと。地「高櫓に走りあがり。/\。 中差取つてうちつがひ。よつ引いて放つ矢に。 真先かけたる武者あまた。 一矢にどうど転べば。目を驚かし肝をけして。 一度にどつとぞ褒めたりける。 地「刀を抜き持ちて。/\。弓手の脇より馬手の脇へ。

一文字に切るとぞ見えしが虚腹切つて。 櫓より後の谷にぞころび落つ。 敵の兵是を見て。寄れや者共首を取れと。 一度はばつと寄り。打ち破り乱れ入り。 喚き叫んで震動すれば。シテ「其隙に忠信は。 地「其隙に忠信は。かねて用意の小太刀おつ取り。 密かに忍び出で。茨からたち。 分けつくゞりつ慕ひゆくを。怪しむる者ありて。 あれはいかにと呼ばはりかへれば。 地に伏し隠れ。闇きを便に忍ばんとするを。 遁すまじと。 走りかゝつて払ふと見えしが。真向わられて二つになれば。 続く兵大太刀かざし。 打つ太刀を受け流し諸膝かけて。切り放し通つて。 今はかうよと遥の谷を。蝶鳥の如くに飛び翔り。 蝶鳥の如くに飛び翔つて。 都をさしてぞ急ぎける 泉三郎妻 泉三郎 錦戸太郎 大勢

ワキ詞「かやうに候ふ者は。 奥州の住人秀衡が子に。錦戸の太郎にて候。 扨も頼朝義経御中不和にならせ給ふにより。 判官殿は親にて候ふ者を御頼あり。 是まで御下向候ふ間頼まれ申し候ふ所に。 御運の尽きさせ給ふにや。 親にて候ふ者空しくなりて候。其際にわれらを近づけ。 君に心変申すなと。堅く申しつけ・金打{きんちやう}せさせて候。 尤も其儀違変なく候ふ所に。 いかなる者の申し候ふやらん。 我等君に心変申す由を聞しめし。日々に出仕申すといへども。 更に御対面もなく候ふ間。 此上は力及ばぬ事と存じ候ふ所に。 頼朝より御教書をなされ。 急ぎ参るべき由を度々仰せられ候ふ程に。泰衡我等は同心仕り。

相朝へ参るべきに定めて候。 未だ此由を三男泉の三郎に申さず候ふ間。 唯今泉が館に行き。か様の事をも談合せばやと存じ候。 いかに案内申し候。シテ「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「某が参りて候。シテ「や。 此方へ御いで候へ。 さて唯今の御出は何の為にて候ぞ。 ワキ「さん候唯今参ること余の儀にあらず。 偖もわれら日々に出仕申し候へども。更に御対面もなく候ふ間。 力及ばぬ事と存じ候ふ所に。 頼朝より御教書をなされ。急ぎ参れとの御事にて候ふ程に。 泰衡われら同心し。 相朝へ参るべきに定めて候ふが。・御分{ごぶん}は何とか思ひ給ひ候ふぞ。 シテ「仰畏つて承り候ひぬ。 我が君も人の申しなしにて。

一旦の御恨事にてこそ候ふらめ。其上御遺言の事にて候ふ間。 唯思しめし御止り候へ。 ワキ「申す所はさる事なれどもさりながら。 我等他門へ参らばこそ。世の人口もあるべけれ。 同じ主君に仕へん事。何の苦しう候べき。 唯々同心し給へとよ。 シテ「いや頼朝への御忠節。我が君の奉公になるべからず。 其上今まで頼まれ申す。 主君に心を引きかへて。・敵{かたき}とならせ給はんは。 御兄弟のたとへは入るべからず。 一家の恥はいかならん。 ワキ「さてはおことは承引あるまじきか。シテ「恐れながら身に於て。 まことに同心申しがたし。ワキ「いや/\御身は詞をたくみ宣へども。順儀の法は違ひたり。 シテ「いや順儀を存ずる身なればこそ。 親の遺言背かぬなり。 ワキ「それは何とて正しき兄の・言事{いひごと}をば聞き給はぬぞ。 シテ「仰を背くと承れども。親の遺言承引なきは。 不孝の科にてましまさずや。

ワキ「不孝の科は数多あり。汝は兄の言事を。 シテ「承引なきは主君の・命{めい}。ワキ「其外親子。 シテ「兄弟の。地「たがひの論は槻弓の。/\。 力及ばぬ事なれば。 これまでなりや今ははや。兄と思ふな弟とも。 見る事さらにあるまじと。座敷を立ちて錦戸は。 帰る心ぞあさましき/\。ワキ中入。 シテ詞「言語道断の事にて候ふものかな。 先先妻にて候ふ者を呼び出し。 此事を申し聞かさばやと存じ候。 いかにわたり候ふか。ツレ「何事にて候ふぞ。 シテ「先此方へわたり候へ。 偖も我が君の御運こそ末にならせ給ひて候。 ツレ「そも我が君の御運の末にならせ給ひたるとは。 何と申したる御事にて候ふぞ。 シテ「さん候我が君御対面なき事を。錦戸泰衡無念に思ひ。 兄弟はや・敵{かたき}となり。 某にも同心せよと宣へども。まづ案じても御覧ぜよ。 今まで頼まれ申す主君に心を引きかへて。

親の遺言背かん事。弓矢取つての恥辱なるべし。 さればある詞にいはく。 賢人二君に仕へず。貞女両夫にまみえずと。 地下歌「此理を聞く時は。・男女{をとこをんな}によるまじや。 殊に・弓馬{きうば}の家に生れ。二人の主君には。 いかでか仕へ申さん。 シテ詞「や。何と申すぞ。 某同心せざる事を錦戸泰衡無念に思ひ。 唯今討手に向ふと申すか。あら何ともなや。 某が事は親の遺言にて候ふ程に。 一足も落つる事は候ふまじ。不覚を見えんも口惜しければ。 御身は何方へも御忍び候へ。ツレ「げに/\敵はよせ来る。いかに心は猛くとも。 女の身にて候へば。思ひ切らせ給ひたる。 御身の障ともなるべきなり。まづ/\妾はともかくも。自害に及び候ふべし。 御心安く御覧じ置きて。討死めされ候へ。 シテ詞「げに健気なる・言事{いひごと}かな。 さらば自害に及び給へ。ツレ「承りて候ふとて。

心づよくもゆふ日の影の。シテ「西に向ひて。 シテツレ二人「手を合はせ。 地上歌「弥陀仏助け給へと祈念して。/\。 心づよくも自害せんと。思ひ定めたる。 夫婦の身こそあはれなれ。其時腰刀を。 抜き持ちて立ちより。 われもこれにて腹切らん御身も自害し給へと。いへば刀を受けとりて。 胸の。あたりに突き立てゝよろ/\と倒れ伏しければ。泉は死骸にとりつきて。 泣くより外の事ぞなき。/\。物着。 後ワキ、ワキツレ(数人)一セイ「藤波の。 かゝれる松の梢をば。嵐やよせて散らすらん。 ワキ詞「いかに泉の三郎たしかに聞け。 水は逆さまに流るゝものか。順逆二列の境に迷ひ。 われと其身を失ふなり。 恨と更に思ふべからず。尋常に腹切り給へ。 シテ詞「何錦戸の討手とや。ワキ「なか/\の事。 シテ「あら珍しや。詞「いで/\対面申さんと。 物の具取つて肩にかけ。

大太刀おつとり櫓にあがり。大音揚げて名のるやう。 君親ふたつは二体の義。君を重んじ親子の孝行。 賢人無双の弓取に。 却つてとかくの仰はいかに。あら腹立や無念やな。 ワキ詞「いや/\とかくの問答は無益。 はや討ちとれやつはものと。 地上歌「下知を加ふる下よりも。/\。われも/\と面々に。 ・結橋{ゆひばし}や堀の・埋草{うめくさ}。沈めつゝ乗り越え/\。 ・断崖{きりぎし}に寄せつけて。 喚き叫んで攻めたりけり。シテ「われながら兄弟に。 地「矢を放さんは恐なれども。 さりながらこれは又。主君のために捨てん命。 何かは科ならん。 惜しからぬ我が身なりとくよりて討てや人々。其時寄手の勢は。/\。 われ真先にと進みけるに。

泉は少しも騷がずして。もとより好む。 大太刀を・柄長{つかなが}におつとり延べて。 ・多勢{たぜい}が中に割つて入りつゝ。ひだりみぎりに合ひつけて。 鎬を削つて戦ひけるに。 ひとりと進める武者の。 甲の真向ちやうと{ど?}打ち引く太刀にて。 諸膝かけずながれてかつぱと倒れてどうと{ど?}伏す。シテ「今はこれまでなり。 地「さこそは妻も待つらんものを。 いで追つ付かんといふまゝに。 物の具取つてかしこに投げ捨て日頃念ぜし持仏堂の。 床の上に走りあがり。 浄土に迎へ給へと腹十文字にかき切り床よりも転び落ちけるを。 敵のつはものおり重なつて。 追つ立て行くこそ哀なれ 木曽義仲 恩田師重 兵士

シテツレ、義仲次第「淵は瀬となる飛鳥川。/\。 早きや報なるらん。 義仲詞「これは木曽義仲なり。我いやしくも弓馬の家に生れ。 君に仕ふると申せども。 ツレ「平家は既に世を取つて。/\。二十余年の春の花。 秋の紅葉と栄えしに木曽の山風吹きおろし。 我が身の運を開けしに。 乱れがはしき世の中は。唯身の程ぞ恨なる/\。 義仲詞「皆々かう来り候へ。いかに巴。 これまで参る事神妙なりさりながら。 今日は義仲が最期にてあるぞ。何方へも落ち候へ。 シテ「これは仰にて候へども。 君には片時も放れ参らせず候。今此際に御暇とは。 巴を未練者と思し召し候ふか。 義仲「いや其儀にてはなし。 義仲は最期まで女武者を連れたりと。他の人口も憚なれば。 急いで落ち候へ。シテ「御詞を返すは恐なれども。 御最期の際となりて。 他の人口も入るまじや。同じ枕に討死して。

二世の御供申すべし。義仲詞「実に/\それは汝軍なれども。誠の心あるならば。 形見を持ちて故郷へ帰り。様かへ跡弔ひ申すべしと。 地「泪に咽び宣へども。理や故郷を。 出でて越路の道までも。巴は命ながらへて。 今此際になりぬれば。 落ちよと仰せ候ふは情なの御事や。何れの国の果までも。 命の。 あらん其程は御供に参るべし情なの今の御定やな。時刻移りて叶ふまじ。 早々帰れ帰るとて。座敷を立たせおはしませば。 力なくして巴は。行くも行かれぬ御名残。 泪に咽ぶばかりなり/\。中入間「。 ワキ立衆一セイ「寄せかくる。汀の波のおのづから。 音も烈しく夕嵐。シテ「抑これは木曽殿の御内に。 其名を得たる女武者。

今日を限の軍ぞと寄来る勢をぞ。待ちかけたる。 地「敵はこれを見るよりも。/\。あれは巴の女武者。 余すな。洩らすな討取れとて。我も/\と進みけり。 働 シテ「一騎当千の秘術を尽し地「一騎当千の秘術を尽し。 防ぎ戦ひ追払ひ。討たるゝ者は数を知らず。 唯一人に切り立てられて。続く兵なかりけり。 ワキ「ここに武蔵の住人に。 地「恩田の八郎師重とて。 巴に組まんと飛んで懸るをわだがみ握むで引き寄せて。 首捻ぢ切てぞ捨てにける。シテ「今は巴もこれまでなり。 地「今。 は巴もこれまでなりと長刀おつ取り駒引き寄せて。 ゆらりとうち乗り木曽の浅茅生かけし中の。 よしなかりける契の末ぞと行方も知らずなりにける  牛若丸  従者  関東?原?与市  従者 <490c>。 。シテツレ二人次第「身はさだめなきうたかたの/\消えぬぞ恨なりける。 シテ「これは義朝の末の子。牛若とは我が事なり。 さても此度平家の栄。安芸守清盛が子供。 一寺の賞翫他山のおぼえ。 立ち交はるも口惜しけえば。 二人「東とかやに下らんと忍びて出づる鞍馬寺。上歌「心つくしの春の夜の。 /\。 行方も知らぬ旅衣消えぬ限りは白雲の。 野山を分けて美濃国山中に早く着きにけり山中に早く着きにけり。 ツレ詞「御急ぎ候ほどに。 これは早美濃国山中と申す在所に御着にて候。 是より東へは程遠く候程に。 御心静かに御下向あれかしと存じ候。シテ「げにこれは尤なる。 さらば心静かに下らうずるにて候。狂言シカ%\ツレ「唯今の早打を能々聞き候へば。 関原与市が美濃国中川庄を公方より給はりて。 唯今入部仕ると申すか。 是は一大事の御事にて候 <491a>。 此由我が君に申し上げうずるにて候。いかに申し上げ候。 関原与市美濃国中川の庄を賜はりて。 唯今入部仕り候ふ所に。かの在所に柵を引き。 城郭かまへる由申し候ふ間。 手勢七十騎にてだゞ今かの在所へさしかけ候。 偖も当国中川の。其城郭を落さんと。 ワキツレ「まだ夜深きに関原の。/\。 山の岩かど踏みならし。駒の打ち続く武士の。 猛き心をしるべにて。 急ぎて行けば程もなく山中に早く着きにけり山中に早く着きにけり。 ワキ詞「急ぎ候ふほどに。 これは早山中と申す在所にて候。いかに誰かある。 ワキツレ「御前に候。ワキ「いまだ中川へは程遠く候ふ間 <491b>。 人馬に息をつがせ候へ。ワキツレ「畏つて候。 シテ「不思議や見れば侍なるが。 旅の衣に馬の蹴上を懸くる事。存外なる振舞なり。 いかに与市。 馬乗り得ずはおりて下人にひかせ候へ。ワキツレ「いかに申し上げ候。 あれなる冠者が申す事には。 与市殿馬乗得ずは。おりて下人にひかせよと申し候。 ワキ「何と申すぞ。 近頃にくき事を申す者かな。急ぎ其冠者討ち取つて。 けふの軍の血祭にせよと。与市が下知に従ひて。 地「究竟の兵七十四騎。/\。 切先を揃。 へて切つてかゝれば牛若すこしもさわがずして <491c>。シテ「しづ/\と太刀ぬきそばめ。地「しづ/\と太刀ぬきそばめ。 敵を手近く待ちかくれば。我も/\とかゝる敵を左手にうち伏せ右手に切りふせ。 蝶鳥稲妻石の火の。 見あへぬ程にきり給へば。嵐に木の葉の散る如く。 大勢乱れ散つて。四方へばつとぞ逃げたりける。 其時与市は怒をなして。/\。もの/\しあれ。 程の小姓一人を手並にいかでもらすべきと。駒かけ寄せてえいやとうつ太刀を。 飛びちがひ切り落し駒引き寄せて。 ゆらりと打ち乗り。太刀さしかざし。 我は知らずや源の牛若と。 名のりのゝしり美濃の中道。東路さしてぞ下りける 曽我兄弟の母 鬼王 団三郎 九上禅師 伊東祐宗 伊東祐宗 団三郎鬼王次第「散りにし花の名残には。/\香ばかり送る嵐かな。 団三郎詞「これは曽我兄弟の人々に仕へ申す鬼王団三郎にて候。 さても兄弟の人々は。 過ぎにし二十八日の夜。井手の館へ忍び入り。 易々と敵を討ち。其身も即座に討たれ給ひて候。 われら兄弟も御供申し候へども。 形見の品々を持ちて。 古里は下れとの御事にて候ふ程に。かひなき命助かり。 御形見を持ち只今古里へ下り候。 団三郎鬼王道行「使の泣きて帰りしは。/\。花を見捨つるかりがね。 。 それは越路に帰る山これは名高き富士の嶺の。煙見えたる東屋に。 帰りかねたる心かな。/\。 団三郎詞「急ぎ候ふ程に。 これは早曽我の里に着きて候。先々案内を申さうずるにて候。 いかに案内申し候。 鬼王団三郎が参りたる由それ/\御申し候へ。 母「なに鬼王団三郎と申すか。 人までもあるまじ此方へ来り候へ。 さて唯今は何の為に来りたるぞ。 団三郎「さん候面目もなき御使に参りて候。母「面目もなき使とは。 いかなる事にてあるやらん。 団三郎「過ぎにし二十八日の夜。井手の館へ忍び入り。 易々と敵を討ち。御身も即座に討たれ給ひて候。 又御形見の物を持ちて参りて候。これ/\御覧候へ。母「祐経を打つ程なれば。 何とて落ち延びざりけるぞ。 敵を討つは父がため。母をば思はぬ子どもの形見。 恨めしや。鬼王詞「げに/\御歎尤にて候。 まづ箱根へ人を御上せ候へ。 母「箱根へと聞けば思ひ出したり。まづ/\九上の寺へ参り候へ。団三郎「げに/\禅師の御事よなう。仮令御身は捨人なりとも。 母「いかなる目をも。団三郎「水茎の。 地「筆の立てども覚えねば。涙ながらにかきくれて。 九上の寺に送りけり。/\。 ツレ仲入シテ詞「これは九上の禅師にて候。 われ此間別行の子細候ふ間。 百座の護摩を焚かばやと存じ候。 立衆一セイ「藤波の。懸れる木々の梢をば。 嵐や寄せて。散らすらん。 ワキ詞「これは伊東の九郎祐宗なり。 さても過ぎにし二十八日の夜。曽我兄弟の者。 井手の館に忍び入り。 親の敵を討ち其身も即座に討たれて候。其弟に九上の禅師と申して候ふを。 幼。 少の時より某養子として出家させ申し候ふを。いかなる者の申し候ふやらん。 君聞しめし及ばせ給ひ。 急ぎ搦め捕つて参らせよとの御事にて候ふ程に。 唯今九上の寺に押し寄せ候。 これははや九上の寺にて候。まづ/\案内を請はうずるにて候。 いかに案内申し候。 伊東の九郎祐宗が参りたり。急いで門を開き候へ。 シテ「祐宗は何の為に御出にて候ふぞ。 ワキ「鎌倉殿より搦め捕つて参れとの御事なり。 疾う疾う出で候へ。シテ「や。 祐宗は某が討手のためな。よし/\尋常に討死し。 御名を揚げて参らせん。 抑これは河津の三郎が末の子に。九上の禅師。 地「墨染の下に。忍辱の鎧。悪魔降伏の剣。 三尺の長刀。指し翳したり。 討つべき様こそなかりけれ。 地「心得給へ祐宗と。 城戸を開いて切つて出づれば。手許に近づき過すな。 射とれや射とれ梓弓。 疋田の小三郎が進んでかかるを長刀取り延べ。 法師の切るとて袈裟がけなり。南無仏無慙やな。 シテ「縦へば沙門の体とて。 地「思ひゆるすも事にこそよれ。唯一命の勝負をせんと。 狩野の。源六其外若武者われも/\と懸りけれども禅師は騒がず打物合はせ。 こゝやかし。 こに切り立てられ門前の外まで引き退けば。これまでなりと長刀投げ捨て。 護摩の壇上に走り上り。 御本尊に向ひて阿毘羅。吽欠に。つなぬかれ。 礼盤の上より落ちけるを。生捕にせんとて利剣を奪ひ。 。 鎌倉へこそ上せけれ鎌倉へこそは上せけれ 源義経 静御前 江田源三 熊井太郎 武蔵坊弁慶 土佐坊正尊 姉和光景 人数定マリナシ

ワキ詞「是は西塔の武蔵坊弁慶にて候。 さても我が君判官殿は。 鎌倉殿より大名十人付け申され候へども。 内々御中不和になり給ふにより。

心を合はせて一人づつ皆下りはてゝ候。 さても去年の正月木曽義仲追討せしよりこの方。 度々平家を攻め落し。此春亡ぼし果てゝ候。 一天を静め四海を澄ます勤賞行はるべき所に。

渡。 辺にて梶原が逆艪の意見を承引し給はざりし遺恨により。我が君を讒奏申し。 御兄弟の御中不仲になり給ひて候。 又鎌倉より土佐正尊と申す者。 昨日都へ上つて候ふが。 是は我が君を狙ひ申さんためと聞しめされ。 急ぎ召し連れて参れとの御諚にて候ふ程に。 只今土佐が旅宿へと急ぎ候。いかに案内申し候。 判官殿より御使に武蔵が参じて候。 正尊はこの屋の内に御入り候か。 シテ詞「武蔵殿かやあら珍しや。まづ此方へ御入り候へ。ワキ「承り候。 まづ以て御上めでたう候。 これは君よりの御使にて候。 上洛のよし聞しめし及ばれ。何とて御伺候は候はぬぞ。 鎌倉殿の御意も聞しめされたく候ふ間。 急いで御参あれとの御事にて候。 シテ「さん候宿願の子細候ひて。 熊野参詣のためにふと罷り上りて候。昨日京着仕り候へども。 。

路次より違例仕り散々の事にて候ふ程に。今まで遅なはり申して候。 ワキ「委細承り候。仰はさる事なれども。 唯今御供申せとの御事にて候。 シテ「畏つては候へども。今少し養生を加へ。 必ず伺候申し候ふべし。ワキ「いや/\片時も早く国の御事をば聞しめされたく思し召せば。 ただ/\御供申さんと。 シテ「是非をいはせぬ武蔵殿に。ワキ「さしも剛なる。 シテ「土佐坊も。地「否にはあらず稲舟の。/\。 上れば下る事もいさ。 あらましごとも徒に。なるともよしや露の身の。 消えて名のみを残さばや。/\。 ワキ詞「畏つて候。こなたへ参られ候へ。 判官「如何に土佐坊珍しや。 さて何のために上りてあるぞ。 鎌倉殿より御文はなきか。 シテ「さん候さしたる御事も御座なく候ふ間。御文は参らず候。

詞に申せと候ひしは。都に別の子細なく候ふ事。 偏に御渡り候ふ故と思しめし候。 かまへてよく守護させ給へとこそ御諚候ひつれ。 判官「よもさはあらじ。 義経討ちに上りたる御使とこそ覚えたれ。 ワキ「御諚の如く。 大名共をさし上せられ候はゞF治瀬田の橋をも引き。 都鄙の騒となつてはあしかりなんと思しめし。 土佐坊上つて物詣するやうにて。 たばかつて討ち申せとこそ仰せ付けられ候ひつらめ。 和僧に於てはこの法師。 手なみの程を見すべきなり。シテ「あら勿体なや。 たとひ人の讒言により。君こそ仰せ出さるゝとも。 さすがに武略の武蔵殿。 さはあるまじきと申されてこそ。御兄弟の御中に。 ものいひさがなき事あるまじけれ。 まづ静まつて事のわけを。委しく聞き給へ武蔵坊。 これは御諚にて候へども。 何によつて唯今さる御事の候ふべき。

聊宿願の事の候ふ間。熊野参詣の為に罷り上りて候。 判官「梶原が讒奏により。 義経を鎌倉へも入れられず。 道より追ひ帰されし事はいかに。 シテ「その事はいかゞ御座候ふやらん。身に於ては全く緩怠あらざる趣。 起請文に書き表し。 唯今御目に懸くべしと。地上歌「当座の席を遁れんと。 土佐は聞ゆる文者にて。自筆に是を書き付け。 弁慶にこそは渡しけれ。 シテ起請文「敬つて申す起請文の事。 上は梵天帝釈。 四大天王閻魔法王五道の冥官泰山府君。下界の地には。 伊勢天照大神を始め奉り伊豆箱根。富士浅間。 熊野三所金嶺山。王城の鎮守稲荷祇園賀茂貴船。 八幡三所。松の尾平野。 総じて日本国の大小の神祇冥道講じ驚かし奉る。 殊には氏の神。全く正尊討手に罷り上る事なし。 この事偽これあらば。 この誓言の御罰を中り。

来世は阿鼻に堕罪せられんものなり仍つて。 起請文かくの如し文治元年九月日。正尊と読み上げたるは。 身の毛もよだちて書いたりけり。 地「もとより虚言とは思へども。文を揮うて書いたる。 器用を感じ思しめし。御盃を下さるゝ。 折節御前に。磯の禅師が娘に。 静と云へる白拍子。今様を謡ひつゝ。 お酌に立ちて花かづら。かゝる姿ぞたぐひなき。 舞の袖。中ノ舞三段「。 子方静「君が代は。千代に一度ゐるちりの。 地「白雲かゝる山となるまで。 山となるまで/\。静「変らぬ契りを頼むなかの。 地「変らぬ契りを頼むなかの。 隔てぬ心は。神ぞ知るらんよく/\申せと静に諫められ。土佐坊御前を罷り帰れば。 君も御寝所に入らせ給へば。おの/\退出申しけり。中入、狂言シカ%\「。 ワキ詞「如何に申し上げ候。 唯今土佐が宿所を見せに遣はし候ふ所に。

幕の内には矢を負ひ弓を張り。兵ども皆武具をし。 唯今打つ立つ気色見えて。 更に物詣の気色は見えぬ由申し候。 判官殿「固より覚悟の前なれば。何程の事のあるべきぞと。 ワキ「そのまゝやがて御座を立ち。 静「静は着背長まゐらする。 地「義経之を召されつつ。/\。御佩刀を取つてしづ/\と。 中門の廊に出で給ひ。門を開かせ諸共に。 寄せ来る勢を待ち給ふ。/\。 ツレ物着シテ立衆一セイ「白浪と。 よそにや聞かんわたづみの。深き心はある物を。 シテ詞「その時正尊駒しづ/\と打ち寄せて。 大音上げて名乗るやる。そも/\これは鎌倉殿の御使。 土佐坊正尊とは我が事なり。 九郎太夫判官殿の。討手の大将たまはつたり。 とうとう御腹めされよと。 大音上げてぞ呼ばはりける。地「味方の勢は之を見て。/\。 あの土佐坊を打ち取らんと。われも/\と進む中に。江田の源三熊井太郎。

弁慶を先として。門外に切つて出づれば。 寄手の兵渡り合ひ。 をめき叫んで戦ふたり。 ワキ詞「その時弁慶表に進み。 いかに土佐坊たしかに聞け。 さても書きつる虚起請の。罰を忽ち与ふべし。 いざ一太刀と呼ばはれば。ツレ姉和「大将討たせて叶はじと。 好む打物ひつさげて。 弁慶を目懸けて懸りければ。ワキ「天晴器量の仁体かな。 さて汝は誰そと尋ぬれば。 姉和「ものその物にあらねども。正尊が内に名を得たる。 陸奥の国の住人に。 姉和の平次光景なりと。大音上げてぞ名乗りける。 ワキ詞「げにゆゝしくも名のるものかな。 さては汝は土佐が郎等。 われには不足の者なれども。志をば報ぜんと。 地「薙刀やがて取り直し。/\。無慙や汝。 手にかけんと。こむ薙刀を打ちはらひ。 受け流せば又とり直し。ちやうと打てば。

はつたと合はせ。重ねて打つに。打ち込まれて。 。 何かはたまらん唐竹割に二つになつてぞ失せにける。正尊これを見るよりも。 /\。むねとも郎等数輩討たせて。 今は適はじと馬よりおり立ち。乱れ入るを。 義経打物とり直し給ひ。

すきまを有らせ。 ず戦ひ給へば静も諸共に切り払ひ切り払ふ正尊適はじと引き立ちけるを。 弁慶追つ詰め戦ひけるが。 押しならべむずと組。 みえいやと投げ伏せ大勢取り込め縄打ち懸けて。悦び勇み囚人を引かせ。 御門の打ちにぞ入り給ふ 恵心僧都 花売男 花売女 日本武尊の霊 橘姫の幽霊

。 ワキ詞「これは比叡山に住む恵心僧都にて候。我此程尾張の国熱田に参り。 一七日参籠申し最勝王経を講じ奉り候。 又こゝにいづくとも知らず男女の候が。 草花を持ちて来り候。今日も来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテツレ二人一セイ「ほとゝぎす。花橘の香をとめて。 鳴くやさ月の。あやめ草。 シテサシ「是は上野に見ゆるかの岡に草をかり。

うりて命の露をつぐ・広村{くわうそん}の野人にて候ふなり。 ツレ「これもたちそふ夏衣。・襲{かさね}の袖は碓氷山。 隔てし中を忘れねば。 実さへ花さへときはに売る。橘の貧女にて候。 シテ「夫れ人間の容貌は。朝に栄え夕に衰へ。 ・電光{でんくわう}・石化{せきくわ}の光の影。・時{とき}人を待たぬ芦の屋の。 。 下歌「いるより早く明け暮れて限や涙なるらん。 上歌「月は見ん月には見えじながらへて。/\。浮世をめぐる。

影も恥かしの。 森の下草咲きにけり花・乍{なが}ら刈りて売らうよ。日比へて待つ日はきかず・郭公{ほとゝぎす}。 匂求めて尋ねくる。花橘や召さるゝ/\。 ワキ詞「いかに申すべき事の候。 方々の持ち給ひたる・草花{さうくわ}の名を承りたう候。 ツレ「なうなう此橘召され候へ。 シテ「此・草花{くさばな}召され候へ。色々の。地「色々の。 草木の数はしら露の。 枝に霜はおくともなほときはなれや橘の。めさまし草の戯。 御僧の身には何事もつゝむとしはなくとも。 説き置く法の古を。 忍ぶ草を召されよや忍ぶ草をめされよ。ワキ詞「・草花{さうくわ}の数は承り候。 扨。 扨御身はいかなる人ぞ名を名乗り候へ。シテ「先かやうに承り候。 御身はいかなる人にて御座候ふぞ。 ワキ「是は比叡山にすむ恵心の僧都にて候ふが。 当社に参り一七日最勝王経を講じ奉り候。 ツレ「さては有難や我らが望む御経なり。 シテ詞「我久しく当社の権扉を押開き。

とこしなへに国家を守る。 二人「然りといへどもなほ五穀を成就せしめ。 ・人寿{にんじゆ}円長なる事を求むるに。唯此経の徳ならずや。 シテ詞「又我等二人は夫婦の者。 或は草薙の神剣をまもる神となる。ツレ「又は蓬が島とかや。 とこ世のこのみの名をとめて。 齢を延ぶる仙女となる。 シテ「七日の御経・結願{けちぐわん}の夜。地「燈の影に立添ひて。 姿をまみえ申すべしと。語れば・白鳥{しろとり}の。 嶺の薄雲立ちわたり。風・冷{すさま}じく雨落ちて。 暮れ行く空は薄墨。 のかき消すやうに失にけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ワキ詞「御殿忽ち鳴動し。/\。日月光り雲晴れて。 山のは出づる如くにて。現れ給ふ不思議さよ/\。 後シテ「あら有難の御経やな。 燈火の影に姿をまみえ。 五衰の・眠{ねぶり}を無上・正覚{しやうがく}の月にさまし。衆生らも同じく。 息災の延命なる事をまもるなり。 ツレ「我は熱田の源太夫が娘。橘姫の幽魂なり。

シテ「我はこれ景行天皇第三の皇子。日本武尊。 地「神剣を守る神となる。是・素盞鳴{そさのを}の神霊なり。 サシ「抑人皇十二代。景行天皇十一年。 東夷しきりに起りしかば。 よつて関の東おだやかならず。急ぎ退治すべしと。 第三の皇子日本武尊を下し奉る。 シテ「其後伊勢皇太神宮へ申させ給ひて。 地「熱田の神剣をも下し奉り給ふ。 シテ詞「かくて東夷を平げんと発向する処に。 出雲の国にて素盞鳴尊に斬られし・大蛇{だいじや}。 件の剣をたぶらかさんと。・大山{たいさん}となつて道を塞ぐ。 されども事ともせず。駈け破つて通りしより。 今の・二村山{ふたむらやま}となる。 其後駿河の国まで責め下るに。夷敵十万余騎。甲をぬぎ鉾をふせて降参し。 しきりに御狩の御遊をすゝむ。頃は神無月十日あまりの事なれば。 冬野の・景{けい}の面白さに。 何心なく打出でたりしに。・夷{えびす}・四方{しはう}の囲をなし。 枯野の草に火をかくれば。地「・余煙{よえん}しきりにもえ来り。

/\。遁れ出づべき方もなく。 ・敵{かたき}・責鼓{せめづつみ}をうち懸けて火焔を放してかゝりけるに。 シテ「尊・剣{つるぎ}をぬいて。地「尊剣をぬいて。 敵を払ひ忽ちに。焔もたち退けと。 四方の草を薙ぎ払へば。剣の精霊嵐となつて。 焔も草も吹きかへされて。 天にかゝやき地にみち/\て夷の陣に吹き・暗{くら}がつて。 ・猛火{みやうくわ}はかへつて敵を焼けば。数万の夷ども。 皆焼け死にて其跡の。 おきは積つて山の如し。 それより名づけつゝこゝをおきつといふしほの。 御剣もをさまり尊もつゝがましまさず。 ・代{よ}を治め給ひし草薙の剣はこれなり。キリ「其後四海おだやかに。 /\。国に・飛火{とぶひ}の名をきかず。 当社ふりぬる御剣の。久しき代々に末を・経{へ}。 ・神道{しんたう}も栄え国も富み。人も息災なる事は。 唯此経の徳とかや/\ 天女 泰山府君

シテ詞「わが好ける心にあくがれて。 青陽の春の朝には。花山に入つて日を暮らし。 秋は龍田のもみぢ葉の。 色に染み香にめでて。情を四方にめぐらせば。 心に洩るゝ方もなし。然れども恨は花盛。 三春だに経ずして。唯一七日の間なり。 余りに名残惜しく候へば。 泰山府君の祭を執り行ひ。花の命を延べばやと存じ候。 サシ「有難や治まる御代の習とて。 何か望は荒磯海の。浜の真砂の数々に。 事を尽すや栄花の家。 地「花の命をのばへんと。/\。これも手向と夕露の。 白木綿懸けて咲く花の影明らかに春の夜の。 月の光も曇らじな。金銀珠玉色々の。 花の祭をなしにけり花の祭をなしにけり。

シテ一声「花におり立つ白雲の。嵐や空に。 帰るらん。 サシ「天つ風雲の通路吹きとぢよ。乙女の姿しばしだに。 とゞめかねたる春の夜の。色香妙なり花盛。 よそめに見るさへ。 面白や。 地「い。 ざ桜われも。 散りなん一盛。/\。 。 誘ふ嵐も心。 して松に残る薄雪の。 。 盛とも夕暮の。 月も曇らぬ天の原。

霞の衣来て見れば。妙なる花の。 気色かな妙なる花の気色かな。 シテ詞「あら面白の花盛やな。 一枝手折り天上へ帰らばやと思ひ候。 宴やむで紅燭なほ余れり。花一枝を手折らんと。忍び/\に立ち寄れば。ワキ「春宵一時値千金。 花に清香月に影。見る目ひまなき花守の。 心は空になりやせん。

シテ「折らばやの花一枝に人知れぬ。我が通路の関守は。 宵宵ごとにうちも寝よ。 ワキ「寝られんものか下枕。花より外は夢もなし。 シテ「実に実に見れば木の本に。 人を寄せじと花の垣。ワキ「隔てぬ月の影ともに。 シテ「花の光の。ワキ「照り添ひて。 地「中々木蔭はくらからねば。何と手折らん花心。 月の夜桜の影。あさまなり恥かしや。 ロンギ地「実に有難や此春の。/\。 花の祭の時過ぎば。 今少しこそ松の風終には花の跡とはん。シテ「今手折らずは一枝の。 後の七日を松の風。 雪になり行く花ならば跡とふとても由なし。 地「よしや吉野の山桜。こゝも千本の花の影。 シテ「月も折しも春の夜の。地「霞の光。シテ「花の色。 地「何か今宵の。 思ひ出ならぬさりながら。あはれ一枝を天の羽袖に手折りて。 。 月をもともに眺めばやの望は残れり此春の望残れり。

。 シテ詞「あま。 りに月のさやかにて。 。 手折るべき便なければ。 。 徒に更くる。 夜の間を待ちつるに。 。 地「うれしや。 月も入りたりや。/\梢は花に曇らねど。木の下闇に忍び寄り。 。 さしも妙なる花の枝手折りて行くや乙女子が。 天つ羽衣立ち重ね雲居遥に昇りけり。雲居遥かに昇りけり。中入間「。 後シテ出端「そも/\これは。五道の冥官。 泰山府君なり。 詞「我人間の定相を守り明闇二つを守護する所に。 上古にも聞かざりし。花の命を延べん為我を祭る。

唯色に染むひと花心に似たれども。よく/\思へば道理々々。 煙霞跡を埋むでは花の暮を惜み。祚国まさに身を捨てゝ。 後の春を待たず。詞「かゝる例もある花を。 手。 折れる者は何者ぞと通力を以てよく見るに。欲界色界無色界。 化天夜魔天にてもなく。 らくてん下天の天人がこのはな手折りつるか。地「山河草木震動して。

虚空に光り満ち満てり。 シテ「天上清しと見る所に。何ぞ偸盗の雲の上。 地「天つ乙女の羽衣の。花のかつらの春を待て。 シテ「待たじはや/\。 地「花ひとときの栄花の桜。シテ「かざしの花のたま/\なるに。 地「花実の種も中空の。 天つ御空は雲晴れて。らくてん下天天人忽ち現れたり。 天女の舞「天女はふたゝび天降り。/\。 さしも心に懸けし花の。 かつらもしぼむ涙の雨より散りくる花を慕ひ行けば。 シテ「天上にてこそ栄花の桜。地「散れども枝に。 のこりの雪の。消えせしものを花の齢。 梵釈十王閻魔宮。 五道の冥官泰山府君の力を種の継木の桜。 あつぱれ奇特の花盛。働「。 シテ「通力自在の遍満なれば。 地「通力自在の遍満なれば。 花の命は七日なれどももとより鬼神に横道あらんや。 花の梢に飛び翔つて。

嵐を防ぎ雨を漏らさず四方に護る例を見せて。七日に限る桜の盛。

三七日まで残りけり 龍女(前ハ里女) 日蓮上人

ワキサシ「それ世尊の教法は。 五時八教に配立し。権実二教に分てり。 さる程に滅後の弘経も正像末に次第して。 今後五百歳の時なれば。時機に適ふ此妙経を弘めつゝ。 国土安全の勧をなせしその甲斐の。 身延の山に引き籠り。 寂寞無人の樞の内には。読誦此経の声絶えず。 一心三観の窓の前には。第一義天の月まとかなり。 地上歌「尾上の風の音までも。/\。 皆法の声ならずや。 おち瀧つ瀬の響も唯懸河流潟の御声にて。鷲の御山も余所ならず。 八巻の法の花の紐。時知る風に立ち渡る。 。 身の浮雲も晴ぬれば心の月ぞさやかなる心の月ぞさやかなる。

ワキ詞「われ法華修行の身なれば。 読誦礼賛を怠る事なき所に。 いづくともなく女性の絶えず詣で候。 今日も亦来りて候はば。名を尋ねばやと思ひ候。 シテ次第「法の教を身に受けて。/\誠の道に入らうよ。サシ「ありがたの霊地やな。 漢土にては四明の洞。 和朝にては我が立つ杣と詠じけん。 御山もいかでまさるべき。さて又大白波木井の河風に。 波の立ち居もおのづから。随縁真如を現せり。 下歌「谷の戸出づる鴬も。 法を唱ふる花の枝。上歌「来ても見よ。 身延の山の深雪だに。/\。春を迎へて消えぬれば。 これ。

も慧日の光かと思へば我がつくりにし罪科も。かくこそ消えめ頼もしやと。 信心。 はいやましにげにありがたき御山かなげにありがたき御山かな。 ワキ詞「怪しやな此山は。 花より外は知る人もなき庵なるに。 そもや女性の御身ながら。御経読誦のをり/\に。 歩をはこび花水を仏に捧げ給ふ。 さておことはいかなる人にてましますぞ。 シテ「これは此あたりに住む者なるが。 かくありがたき御法に逢ふ事。盲亀の浮木優曇華の。 花待ち得たる心地して。悦の涙の露。 かかるをりしも縁を結び。 後の世の闇を晴らさずは。又いつの世を松の戸を。 明暮あゆみを運びつゝ。 上人に結縁をなすばかりなり。ワキ「げに奇特なる信心かな。 此法華経を保ちぬれば。若有問法者。 無一不成仏と説き給ひて。 二乗闡提悪人女人おしなめて。成仏する事疑なし。 シテ「偖はことさらありがたや。

地上歌「其名をだにも未だ聞かぬ。/\。 御法を既に保つまで。いかで契を結びけん。 実に頼。 もしき折からや猶も女の仏となる謂を示しおはしませ。ワキ詞「なか/\の事草木国土。悉皆成仏の法華経なれば。 女人の助かりたる所をも語つて聞かせ候ふべし。 地クリ「そも/\法華経と云つぱ。 釈尊久遠劫の其昔。初成道の時悟り得給ひし。 妙法華経なり。ワキサシ「然るに華厳の朝より。 般若の夕に至るまで。 地「抑止在懐し給ひて。種々の方便機に随ひ。 終に一乗を説き給はねば。十界差別。まち/\なり。 クセ「さる程に女人は。外面は菩薩に似て。 内心は。夜叉の如しと嫌はれし。 その言の葉はもろ/\の。経の内にし陸奥の。 安達が原の黒塚や。 荒れたる宿のうれたきに。仮にも鬼のすだくなると。 詠みしも女の事とかや。 かゝる憂き身の浮まん事いつの時をか松山や。袖に涙の浪越えて。

作り重ねし罪科を。 悔の八千度身をかこち。仏の御法の言の葉さへ。 恨めしとのみ嘆きけり。ワキ「然るに此法華経は。 地「仏七十余歳にて。 始めて説かせ給ひしに。そよや一味の法の雨。 ひとしく濺ぐ潤に。敗種の二乗闡提も。 皆々同じ悟を得。殊に文殊の教にて。 龍女は須臾に法を得て。 此世ながらの身を捨てず本の悟の古里に。立ち帰る有様や。 錦の袂なるらん。 ロンギ地「此の妙典の理を。説く唐糸の一条に。 仰ぎて保ち給へや。 シテ「ありがたの御事や。さてはわらはも隔なき。 御法の水を手に掬び。絶えず苦しき三熱の。 炎を早く免かれん。地「そも三熱の苦を。 免かるべしと宣ふは。さては御身は霊神の。 仮に女となりたるや。 シテ「今は何をか包むべき。われは七面の池に。 澄む月並の数知らぬ。年経たる蛇身なり。

地「さらば懺悔の其為に。もとの姿を見せ給へ。 シテ「恥かしながら報恩に。ありし姿を現さんと。 地「夕風も烈しく。立つや黒雲の。 ゆくへも早き雨の足。踏み轟かし鳴神の。 稲光して冷ましき。 音にまぎれて失せにけり/\。中入「。 ワキ上歌待謡「かゝる不思議に逢ふ事も。/\。 唯これ法の力ぞと。 心をすましひたぶるに。読誦をなして待ち居たり/\。 出端又ハ早笛「。地「あら不思議やな今までは。/\。 。 妙に優なる女人と見えつるがさも冷ましき。大蛇となつて。 日月の如くなる目を開き。上人の高座を幾重ともなくくる/\と引き纏ひ。慚愧懺悔の姿を現し。 高。 座へ頭をさし上げて瞻仰してこそ居たりけれ。ワキ「其時上人御経を取り上げ。 地「其時上人御経を取り上げ。 於須臾頃便成正覚と。高らかに。 唱へ給へば忽ち蛇身を変じつゝ。/\。

イロエ(物着)「如我等無異の身となれば。空には紫雲たなびき。 四種の花降り。虚空に音楽聞えきて。 きねが鼓にたぐふなる。報謝の舞の袂も。 異香薫じて吹き送る。松の風颯々の。 鈴の音も更け行く夜半の月も霜も白和幣。 振り上げて声すむや。シテ「謹上。 地「再拝。神楽「。 シテ「鷲の山。いかにすみける。月なれば。 地「入りての後も。世を照すらん。

シテ「嬉しや妙経信受の功力。 地「嬉しや妙経信受の功力。三身円満の妙体を受けて。 和光同塵結縁の姿をあらはし。垂跡示現して。 此山の。鎮守となつて火難水難もろ/\の難を除き。七福則生の願を満てしめ。 代々を重ねて衆生を広く。済度せんと。 約諾かたく申しつゝ。 ゆくへも白雲に立ち紛れて。虚空に上がらせ給ひけり 箱根別当 従僧 工藤祐経 源頼朝 従者 箱王丸 不動明王

シテツレ立衆次第「海山かけて行く雲の。/\。 箱根の寺に参らん。 ツレ詞「抑これは兵衛佐頼朝とは我が事なり。 立衆「夫れ治まれる御代のしるし。 東南に雲をさまつて西北に風静かなり。ツレ「ことさら当時一統の。

道も直なる文武の二つ。 立衆「何れも叶ふ時代とて。ツレ「国見もこれかさが峰や。 立衆「箱根詣の御ために。 ツレ「明くるを待つや星月夜。シテツレ立衆道行「鎌倉山を朝立ちて。/\。 まだ有明の影残る。雲こそ匂へ朝日影。

西に向ひて行く雲の。 富士の高根の程を程を知る。足柄山を分けすぎて。 梢に波を湖や。箱根山にも着きにけり/\。 シテ詞「やがて御社参あらうずるにて候。 ワキサシ「此程の日数待たれて今日すでに。 鎌倉殿の御参詣。これを物見と此寺の。 老若の衆徒児童。数をつくして我も/\と。 皆面々に誘へば。子方「人なみ/\に箱王も。かたへの児にさそはれて。 講堂の庭に立ちいづる。 詞「如何に申すべき事の候。ワキ詞「何事にて候ふぞ。 子方「鎌倉殿の御参詣。たまさかの御事にて候。 御供の人々の名を知らず候。教へて賜はり候へ。 ワキ「易き間の事御尋ね候へ教へ申さう。 子方「先一番に風折召され。 念誦気高く見え給ふは。鎌倉殿にて御座候ふか。 ワキ「あれこそ鎌倉殿候ふよ。 なんぼういみじき御威光にて候ふぞ。 子方「さて御供の人々の。二行に列座せられたり。

まづ左の座上をば誰と申し候ふぞ。 ワキ「あれは鎌倉殿の御舅北条殿候ふよ。 子方「左巴は。ワキ「宇都宮の弥三郎。子方「右巴は。 ワキ「小山の判官。子方「松川は。 ワキ「小笠原。子方「さて又中座の一番は。 ワキ詞「諸司の別当梶原父子。 子方「香の直垂二人はたそ。ワキ詞「一人の大男は和田の左衛門。 今一人は秩父の庄司重忠。 子方「さて其次につき出したる扇づかひ。 ワキ「今此方を見候ふや。子方「あれをば誰とか申し候ふぞ。 ワキ「あれこそ工藤一郎。子方「祐経候ふか。 ワキ「暫く。 かやうの所に久しくは御座なきものにて候。此方へ御入り候へ。 シテ「あら珍しや箱王殿。 御身の父河津殿は。赤沢山の狩くらにて。 尾越の矢にあたりて空しくなり給ひたるを。 某がしわざとばつと風聞仕り候。 弓矢八幡箱根権現も照覧あれ。某は存ぜず候。 子方「さてみづからが敵をば誰とか申し候ふぞ。

シテ「いや敵とは夏引の糸。 筋なき人の言事を。かまひて用ひ給ふなよ。 子方「用ひはせずと世がたりの。 天に口なし人の言事。シテ詞「それをも承引し給ふなと。 子方「彼の古武者の祐経に。 シテ詞「泣いつ笑うつすかされて。子方「さばかり猛き。 シテ「箱王も。地「幼き身のかなしさは。 誠しやかに言ひなされて。心もよわ/\と。 呆れはてたる気色かな。 地「さて頼朝は御座を立ち。/\。 早御下向ありしかば御供の侍面々に。 門前さして出でければ。子方「箱王は唯一人。 地「講堂の庭に彳みて。 敵の跡を見送りて泣。 くより外の事はなし泣くより外の事はなし。子方詞「よく/\物を按ずるに。 げに我ながら後れたり。 今此時の折を得て祐経が手にかゝらんと。 同宿の太刀を盗みとり。地「敵の跡を慕ひつゝ。 駒の蹄にかゝらんと。門前さして追うて行く/\。

ワキ詞「言語道断。 かゝる聊爾なる御事にて候。さやうの御心中あるならば。 敵の前のたふれなるべし。唯先帰りたまへとて。 地「手とり足どりいざなひ別当の坊に。 帰りけり別当の坊に帰りけり。中入間「。 ワキ「抑仏陀の御誓願。 本より衆生の所願を満てゝ。ワキツレ「是も年月思ひ深き。 ワキ「箱根の海の恨をなす。 ワキツレ「敵を亡ぼしたび給はゞ。ワキ「悪魔降伏の御誓。 ワキツレ「悪しきを平らげ善きを助くる。 ワキ「其御威光を頼まんと。ワキツレ「こゝはの行者。ワキ「十余人。 地「護摩の壇上を構へつゝ。/\。 凡そ飛ぶ鳥をも。落すばかりと面々に。 刃の験徳を顕して。 年頃たのみを懸くる大聖不動明王の。火焔に愚老が其身を焦し。 五智の如来に五体を投げ。 大威徳の乗り給ふ水牛の角に命をかけ。 頭を傾け数珠をもみ。薬師の真言千手の陀羅尼。 妙音声を高くあげ。ワキ「東方。

後シテ「抑これは。 中央に立つて悪魔を降伏し衆生をまもる。大聖不動明王。 矜伽羅制多伽を始として。地「五壇の上に顕れ給へば。 シテ「護摩の煙。地「不動の火焔。 シテ「光明赫奕として。地「気色もあらたに五大尊の。 四面の仏前に顕れ給ひてかの形代を。 調伏し給ふ。あら有難や怖ろしや。 地「山河草木震動し。山河草木震動して。 箱根の海山の。 御法もおのづから実相の色を顕し。自性の月の。光を添へて。 護摩の煙の上も隈なき。 鈴の声耳に通じて。明々とすみやかなり。 シテ「東方の降三世明王は。地「降三世明王は。

青蓮のまなじりに。悪魔を降伏して。 壇上に翔り給へば。南方の軍荼利夜叉は。 火焔のほのほを吹きかけ給へば大威徳は水牛の。 角振りたてゝ顕れ給へば。 北方の金剛夜叉は。 寒風の鉄雨を降らして大紅蓮の責をなせば。 中央の大聖不動は索の縄にて祐経が。 形代を巻き縛り護摩の壇上に引き伏せて。利剣を振りあげ刺し通して。 なほ厳重の奇特を見せんと。 形代が首を切つて。剣の先につらぬき給へば。 身の毛もよだちて面々に。 目をおどろかす有様なり。さてこそ遂には箱王も。/\。 其本望をば遂げにけれ 花若 安田荘司の妻 小沢刑部友房 望月秋長 望月従者

シテ「かやうに候ふ者は。 近江の国守山の宿甲屋の亭主にて候。

扨も某本国は信濃の国の者にて候ふが。 さる子細候ひて此甲屋の亭主となり。

往来の旅人を留め申して身命をつぎ候。 今日も旅人の御通り候はゞ。御宿を申さばやと存じ候。 ツレ子方次第「波の浮鳥住む程も。/\。 した安からぬ心かな。 ツレサシ「これは信濃の国の住人。安田の庄司友治の妻や子にて候。 さても夫の友治は。 同国の住人望月の秋長に。あへなく討たれ給ひし後は。 多かりし従類も散り%\になり。 頼む木蔭も撫子の。花若ひとり隠し置かんと。 敵の所縁の恐ろしさに。思子を伴ひ立ち出づる。 二人下歌「いづくとも定めぬ旅を信濃路や。 月を友寝の夢ばかり。/\。 名残を忍ぶ古里の。 浅間の煙立ち迷ふ草の枕の夜寒なる。 旅寝の床の憂き涙守山の宿に着きにけり守山の宿に着きにけり。 ツレ詞「急ぎ候ふ程に。 近江の国守山の宿に着きて候。 此処にて宿を借らばやと思ひ候。いかに此家の内へ案内申し候。 シテ「誰にてわたり候ぞ。

女「これは信濃の国より上る者にて候。一夜の宿を御かし候へ。 シテ「易き間の事にて候。 此方へ御入り候へ。 不思議やなこれに留め申して候ふ御方を。いかなる人ぞと存じて候へば。 某。 が古の主君の北の御方。 幼き人。 は御子息花若殿。 にて御座候ふはいかに。 あら痛。 はしの御有様や候。 頓て某と名。 乗つて力を附け。 申さばやと存じ候。 いかにお旅。 人に申すべき事の候。信濃の国よりと仰せ候ふにつきて。 古御目にかゝりたるやうに存じ候。 女「いやこれは行方もなき者にて候ふほどに。 思もよらぬ事にて候。

シテ「何を御つゝみ候ふぞ。先某名のつて聞かせ申すべし。 これこそ古御内に召し仕はれ候ひし。 小沢の刑部友房にて候へ。 ツレ「さては古の小沢の刑部友房か。あら懐しやとばかりにて。 涙にむせぶばかりなり。 子方「父に逢ひたるこゝちして。花若小沢に取りつけば。 シテ「別れし主君の面影の。 残るも今は怨めしや。子方「こはそも夢か現かと。

主従手に手を取り交し。地上歌「今までは。 行方も知らぬ旅人の。/\。 三世の契の主従と。 頼む情もこれなれやげに奇縁あるわれらかな/\。 シテ詞「あれなる一間に御入りあつて御休あらうずるにて候。 ワキ次第「帰る嬉しき故里を。/\。 誰憂き旅と思ふらん。詞「これは信濃の国の住人。 望月の何某にて候。さても同国の住人。 安田の庄司友治と申す者を。 某が手にかけ生害させて候ふ科により。 此十三年が間在京仕り候ふ処に。 されども緩怠なきよし聞し召し開かれ。 安堵の御教書を賜はり悦の色をなし。 只今本国信濃に下向仕り候。急ぎ候ふ間。 近江の国守山の宿に着きて候。今夜は此宿に泊らばやと存じ候。 いかに誰かある。狂言「御前に候。 ワキ「今夜は此宿にとまるべし。宿を取り候へ。 又存ずる子細のある間。 某が名をば申すまじく候。狂言「畏つて候。

いかに此家の主の渡り候ふか。シテ「誰にて御座候ふぞ。 。 狂言「これは信濃の国へ御下向の御方にて候。御宿を申され候へ。シテ「心得申し候。 。 さて御名字をば何と申す人にて御座候ふぞ。 狂言「これは信濃の国に隠れもなき大名。望月の秋長殿では御座ないぞ。 シテ「苦しからず候。此方へ御入り候へ。 狂言「心得申し候。いかに申し上げ候。 此方へ御通り候へ。 シテ「言語道断の事。 我頼み申して候ふ人の北の御方。 同じく御子息花若殿此家にとゞめ申して候ふ所に。花若殿御親の敵。 望月が泊りて候ふ事は候。 やがて此由申し上げばやと存じ候。や。いかに申し候。 不思議なる事の候。 今夜此処に望月が着きて候。子方「何望月と申すか。 シテ「暫く。あたり近く候。 まづ静まつて聞しめされ候へ。只今申す如く。 望月が此家に泊りて候。是は天の与ふる所と存じ候。

いかにもして今夜の中に。 御本望達せさせ参らせうずるにて候。 御心やすく思しめされ候へ。 きつと思案仕りたることの候。 今頃此宿にはやり候ふものは盲御前にて候。何の苦しう候ふべき。 夜にまぎれ杖にすがり。 花若殿に御手を引かれさせ給ひ。盲の振舞にて座敷へ御出で候へ。 某彼の者に酒を勧め候ふべし。 又何にても候へ御謡ひあれと申し候はゞ。 そと御謡ひ候へ。 花若殿は八撥を御打ちあらうずるにて候。某は獅子舞をまなび。 其まぎれに近づきて。 本望を遂げさせ申さうするにて候。 ツレ「ともかくもよきやうに計らひてたまはり候へ。 シテ「何事も某に御任せ候へ。ツレ子方物着「。 ツレサシ「嬉しやな望みし事のかなふよと。 盲の姿に出で立てば。 子方「習はぬ業も父のため。女「竹の細杖つきつれて。 地「彼の蝉丸の古。/\。たどりたどるも遠近の。

道のほとりに迷ひしも。今の身の上も。 思はいかで劣るべき。 かゝる憂き身の業ながら。盲目の身の習。 歌きこしめせや旅人よ聞しめせや旅人。 シテ詞「いかに申すべき事の候。 狂言「何事にて候ふぞ。シテ「此家の亭主にて候ふが。 めでたき御下向にて候ふ間。 御祝の為に酒を持たせて参りて候。 然るべきやうに御申し候へ。狂言「心得申し候。 いかに申し上げ候。 此家の亭主御下向めでたきよし申し候ひて。御樽を持たせ参りて候。 ワキ詞「此方へと申せ。狂言「畏つて候。 此方へ御参り候へ。 又これなる人達はいかなる人にて候ふぞ。 シテ「さん候是は此宿に候ふ盲御前にて候。 かやうの御旅人の御着の時は。罷り出で謡などを申し候。 御前にてそと御うたはせ候へ。 狂言「日本一の事にて候。やがて申し上げうずるにて候。 いかに申し上げ候。ワキ「何事ぞ。

狂言「あれに候ふは。 此宿にある盲御前にて候ふが。けしからず面白く謡ふ由を申し候。 謡はせられ候へ。ワキ「汝所望し候へ。 狂言「畏つて候。なうこれなる人たち。 御所。 望にて候ふぞ面白からんずる所を一節御謡ひ候へ。 ツレ「一万箱王が親の敵を討つたる処をうたひ候ふべし。狂言「いや/\思も寄らぬことにて候。 ワキ「何事を申すぞ。 狂言「これなる人達に謡を所望仕り候へば。 一万箱王が親の敵を討つたる所を謡はうずるよし申され候ふ程に。 御前にてはいかゞと存じいやと申して候。 ワキ「何の苦しう候ふべき急いで謡はせ候へ。 。 狂言「さらば今の仰せられたる所を御謡ひ候へ。 。 ツレクリ「それ迦陵頻伽は卵の内にして声諸鳥にすぐれ。 地「鷙といふ鳥は小さけれども。虎を害するちからあり。 ツレサシ「こゝに河津の三郎が子に。一万箱王とて。

兄弟の人のありけるが。 地「五つや三つの頃かとよ。父を従弟に討たせつゝ。 既に年ふり日を重ね。七つ五つになりしかば。 いとけなかりし心にも。 父の敵を討たばやと。思の色に出づるこそ。 げに哀には覚ゆれ。クセ「ある時おとゞひは。 持仏堂に参りて。兄の一万香を焼き。 花を仏に供ずれば。弟の箱王は。本尊をつく%\とまもりて。いかに兄御前きこしめせ。 本尊の名をば我が敵。工藤と申し奉り。 剣を堤げ縄を持ち。われらを睨みて。 立たせ給ふが憎ければ。 走りかゝりて御首をうち落さんと申せば。 兄の一萬これを聞きて。ツレ「いはげなや。 いかなる事ぞ仏をば。地「不動と申し敵をば。 工藤といふを知らざるか。 さては仏にてましますかと。抜いたる。刀を鞘にさし。 宥させ給へ南無仏。敵を討たせ給へや。 子方詞「いざ討たう。狂言「おう討たうとは。

シテ「暫く候。何事を御騒ぎ候ふぞ。 狂言「御用心の時分にて候ふに。 是なる幼き者がいざ討たうと申し候ふ程に候ふよ。 シテ「子細を御存じ候はぬ程に尤にて候。 此者の謡を申したる後にては。 また幼き者八撥を打ち候。 其八撥を打たうずると申す事にて候。 狂言「日本一の事頓て打たせうずるにて候。いかに申し上げ候。 これ。 なる幼き者が八撥を打つべきよしを申し候。ワキ「急いで打たせ候へ。 又亭主は何にても能はなきか。 子方「獅子舞を御所望候へ。ワキ「あら面白の事を申すものかな。 いかに亭主。是なる幼き者の申すは。 亭主は獅子舞が上手なる由を申し候。 そと一指舞ひ候へ。 シテ「これは幼き者の条なき事を申し候。思もよらぬ事にて候。 ワキ「ひらに舞うて見せ候へ。 シテ「此上は御意にて候ふ程に。 そと御前にて舞はうずるにて候。

此まゝにては如何にて候ふ間。獅子頭を被きてまゐらうずるにて候。 。 其間にこの幼きものに八撥を打たせ候ふべし。皆々かう渡り候へ。中入「。 地(謡掛)「獅子団乱旋は時を知る。雨叢雲や。 騒ぐらん。羯鼓「。乱序「。獅子舞「。 上「余りに秘曲の面白さに。/\。 猶々めぐる盃の。酔も勧めばいとゞ猶。 眠もきたる。ばかりなり。 シテ「さる程に/\。 地「折こそよしとて脱ぎおく獅子頭。又は八撥打てや打てと。 目を引き袖を振り。 立ち舞ふけしきに戯れよりて。敵を手ごめにしたりけり。 此年月の怨の末。 今こそ晴るれ望月よとて思ふ敵を討つたりけり。 キリ「かくて本望遂げぬれば。/\。かの本領に立ち帰り。 子孫に伝へ今の世に。 その名隠れぬ御事は。弓矢のいはれなりけり/\ 清澄の僧 従僧 鵜飼の老人 閻魔王

。 ワキ詞「是は安房の清澄より出でたる僧にて候。我いまだ甲斐の国を見ず候ふ程に。 此度甲斐の国行脚と志して候。 サシ「行くすゑいつと白波の。 安房の清澄立ちいでて。六浦のわたり鎌倉山。 歌三人「やつれはてぬる旅姿。/\捨つる身なれば恥ぢられず。一夜仮寝の草莚。 鐘を枕の上に聞く。都留の郡の朝立つも。 日たけて越ゆる山道を。過ぎて石和に。 着きにけり過ぎて石和に着きにけり。 シテ一セイ「鵜舟にともす篝火の。後の闇路を。 如何にせん。サシ「実にや世の中を。 うしと思はゞ捨つべきに。其心更に夏河に。

鵜使ふ事のおもしろさに。 殺生をするはかなさよ。詞「伝へ聞く遊子伯陽は。 月に誓つて契をなし。夫婦二つの星となる。 今の雲の上人も。 月なき夜半をこそ悲み給ふに。我はそれには引きかへ。 月の夜頃を厭ひ。闇になる夜をよろこべば。 歌「鵜舟にともす篝火の。 消えて闇こそかなしけれ。 上歌「つたなかりける身の業と。/\。今は先非を悔ゆれども。 かひも波間に鵜舟漕ぐ。これ程惜めども。 かなはぬ命つがんとて。営む業の。 物憂さよ。いとなむ業のものうさよ。 。

シテ詞「いつもの如く御堂に上り鵜を休めうずるにて候。や。 是は往来の人の御入り候ふよ。 ワキ詞「さん候往来の僧にて候ふが。里にて宿を借り候へば。 禁制の由申し候ふ程に。さてこの御堂に泊りて候。 。シテ「実に/\里にて御宿参らせうずる者は覚えず候。 ワキ「さて御身は如何なる人にてわたり候ふぞ。 シテ「さん候これは鵜使にて候ふが。 いつも月の程はこの御堂に休らひ。月入りて鵜を使ひ候。 ワキ「さては苦しからぬ人にて候ふぞや。 見申せばはや抜群に年たけ給ひて候ふが。 かゝる殺生の業勿体なく候。 あはれ此業を御とまりあつて。 余の業にて身命を御つぎ候へかし。シテ「仰も尤にて候へども。 若年より此業にて身命を助かり候ふ程に。 今更止まつゝべうもなく候。 ワキツレ「如何に申し候。 この人を見て思ひ出したる事の候。この二三ヶ年先に。 此川下岩落と申す所を通り候ひしに。

かやうの鵜使に行き逢ひ候ふ程に。 科の中の殺生の由を申して候へば。実にもとや思ひけん。 我が家に連れて帰り。 一夜けしからず摂して候ひしよ。 シテ「さては其時の御僧にてわたり候ふか。 ワキツレ「さん候其時の僧にて候。 シテ「なう其鵜使こそ空しくなりて候へ。 ワキ「それは何故空しくなりて候ふぞ。 シテ「恥かしながら此業にて空しくなりて候。 其時の有様語つて聞かせ申し候ふべし。後を弔うて御やり候へ。 ワキ「心得申し候。シテ語「抑此石和川と申すは。 上下三里が間は堅く殺生禁断の所なり。 今仰せ候ふ岩落辺に鵜使は多し。夜な/\此処に忍び上つて鵜を使ふ。 憎き者のしわざかな。彼を見現はさんとたくみしに。 それをば夢にも知らずして。 又或る夜忍び上つて鵜を使ふ。 ねらふ人々ばつとより一殺多生の理にまかせ。 彼を殺せと言ひあへり。其時左右の手を合はせ。

かゝる殺生禁断の所とも知らず候。 向後の事をこそ心得候ふべけれとて。 手を合はせ歎き悲めども。助くる人も波の底に。 ふしづけにし給へば。 叫べど声が出でばこそ。詞「その鵜使の亡者にて候。 ワキ「言語道断の事にて候。さらば罪障懺悔に。 業力の鵜を使うて御見せ候へ。 後をば懇に弔ひ候ふべし。 シテ「あら有難や候。 さらば業力の鵜を使うて御目にかけ候ふべし。後を弔うて賜はり候へ。 ワキ「心得申し候。 シテ「既に此夜も更け過ぎて。 鵜使ふ頃にもなりしかば。いざ業力の鵜を使はん。 ワキ「これは他国の物語。 死したる人の業により。かく苦の憂き業を。 今見る事の不思議さよ。シテ詞「しめる松明ふり立てゝ。 ワキ「藤の衣の玉だすき。 シテ詞「鵜籠を開き取り出し。ワキ「島つ巣おろし荒鵜ども。 シテ詞「此河波にばつと放せば。

地「おもしろの有様や。底にも見ゆる篝火に。 驚く魚を追ひまはし。かづき上げすくひあげ。 隙なく魚を食ふ時は。罪も報も。 後の世も忘れはてゝおもしろや。 漲る水の淀ならば。 生簀の鯉やのぼらん玉島河にあらねども。小鮎さばしるせゞらぎに。 かだみて魚はよもためじ。不思議やな篝火の。 燃えても影の暗くなるは。思ひ出でたり。 月になりぬる悲しさよ。 鵜舟のかゞり影消えて。闇路に帰る此身の。 名残をしさを如何にせん名残をしさを如何にせん。中入間「。 ワキ、ワキツレ二人歌待謡「河瀬の石を拾ひ上げ。/\。 妙なる法の御経を一石に一字。 書きつけて。波間に沈め弔はゞ。 などかは浮まざるべき/\。 後シテ早笛「夫れ地獄遠きにあらず。 眼前の境界。悪鬼外になし。抑かの者。 若年の昔より。江河に漁つて其罪おびたゝし。 されば鉄札数を尽し。金紙をよごす事もなく。

無間の底に。詞「堕罪すべかつしを。 一僧一宿の功力に引かれ。 急ぎ仏所に送らんと。悪鬼心を和らげて。 鵜舟を弘誓の船に為し。法華の御法の助舟。 篝火も浮むけしきかな。地「迷の多き浮雲も。 シテ「実相の風あらく吹いて。 地「千里が外も雲はれて。真如の月や出でぬらん。 ロンギ地「有難の御事や。奈落に沈む悪人を。 仏所に送り給ふなる。其瑞相のあらたさよ。 シテ「法華は利益深き故。 魔道に沈む群類を救はん為に来りたり。地「実に有難き誓かな。 妙の一字はさて如何に。

シテ「それは褒美の言葉にて。妙なる法と説かれたり。 地「経とはなどや名づくらん。シテ「それ。 聖教の。都名にて。地「二つもなく。 シテ「三つもなく。地「唯一乗の徳によりて。 奈落に沈みはてゝ。浮びがたき悪人の。 仏果を得ん事は此経の力ならずや。 地「是を見彼を聞く時は。/\。 たとひ悪人なりとても。慈悲の心を先として。 僧会を供養するならば。其結縁に引かれつゝ。 仏果菩提に到るべし。実に往来の利益こそ。 他を助くべき力なれ/\ 旅人 鍾馗 鍾馗

。 ワキ詞「これは唐終南山の麓に住まひする者にて候。 さてもわれ奏聞申すべき事の候ふ間。唯今帝都に赴き候。

道行「終南山を立ち出でて。/\。 野草の露を分け行けば。遠村に煙満ち人屋しるき眺望の。 海路遥に過ぐれば釣の小舟も帰る浪。

夜程もなき眺かな。/\。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる旅人に申すべき事の候。ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「我昔誓願の子細あるにより。 悪鬼を亡ぼし国土を守らんとの誓あり。 君賢人をなし給はゞ。宮中に現じ奇瑞をなすべきとの。 この事を奏してたび給へ。 ワキ「これは不思議の御事かな。さて/\御身はいかなる人ぞ。シテ「今は何をか包むべき。 われは鍾馗といへる進士なるが。 及第のみぎんに亡ぜし。その執心を翻へし。 後世になほ望あり。ワキ「げに/\鍾馗の御事は。世に隠なき進士なるが。 その亡心にてましますか。シテ「なか/\なりと夕暮の。ワキ「物冷ましき。シテ「折からに。 上歌「草虫露に声しをれ。/\。 尋ぬるに形なく。 老松既に風絶えて問へども松は答へず。げにや何事も。 思ひ絶えなん色も香も。

終には添はぬ花紅葉いつをいつとか定めんいつをいつと定めん。 クセ「一生は風の前の雲。 夢の間に散じ易く三界は水の泡光の前に消えんとす。 綺〓{大漢和:。}殿の内には有為の悲びを告げ。 翡翠の帳の内には有漏の願力ありとかや。 栄花はこれ春の花。昨日は盛なれども。 今日は衰ふわんりきの。秋の光。朝に増じ。 夕に滅すとか。春去り秋来りて。 花散じ葉落つ時移り気色変じて。 楽既に去つて。悲び早く来れり。シテ「朝顔の。 花の上なる露よりも。 地「はかなき物はかげろふの。あるかなきかの心地して。 世を秋風の打ち靡き。 群れゐるたづの音を鳴きてしでの田長の一声も。 誰がよみぢをか知らすらん。 あはれなりける人界をいつかは離れはつべき。 ワキ詞「これは不思議の御事かな。 急ぎ帝都に赴きつゝ。委しく奏聞申すべし。 暫く待たせ給へとよ。

シテ「とても見みえし夢の中。真の姿を現はさんと。 ワキ「云ふより早く。シテ「気色変りて。 地「伝え聞く仏在世の。/\。浄蔵浄眼の如くに。 その高さ七多羅樹。 虚空にあがりては坐せしめ。地に入つては火焔を放して。 水を踏む事陸地の如くに。さら/\と走り去つて。形はさながら山彦の。/\。 声ばかりして失せにけり/\。中入間「。 ワキ詞「苔の席に法をのべ。/\。 さもすさまじき山陰の。嵐と共に声立てゝ。 この妙経を。読誦する/\。 後シテ早笛「鬼神に横道なしといふに。 何ぞみだりに騒がしく。汝知らずや我が心。 国土を守る誓あり。地「宝剣光すさまじく。 日月影おろそかに。 松嵐梢を払ふが如く。悪鬼の乱れ恐れ去つて。 実にも鍾馗の精霊たり。 ロンギ「有難の御事や。 そも君道を守らんの。その誓願の御誓。

如何なる謂なるらん。シテ「鍾馗及第の。 鍾馗及第のみぎんにて。われと亡ぜし悪心を。 翻へす一念発起菩提心なるべし。 地「げに真ある誓とて。国土をしづめ分きてげに。 シテ「禁裏雲居の楼閣の。 地「こゝやかしこに遍満し。シテ「或は玉殿。地「廊下の下。 御階の下までも。/\。剣をひそめて忍び/\に。 求むれば案の如く。鬼神は通力失せ。 現はれ出づれば忽ちに。づだ/\に切り放して。まのあたりなる。 その勢唯此剣の威光となつて。天に輝き地に遍く。 治まる国土となる事治まる国土となる事も。 げに有難き誓かな。/\ 熊坂長範

。ワキ次第「憂しとは言ひて捨つる身の/\行方いつとか定むらん。 ワキ詞「これは都方より出でたる僧にて候。 われ未だ東国を見ず候ふ程に。 只今思ひ立ち東国修行と志し候。道行「山越えて。 近江路なれや湖の。/\。 粟津の森も見え渡る瀬田の長橋うち過ぎて。 野路篠原に夜をこめて朝立つ道の露深き。 名こそ青野が原ながら。色づく色か赤坂の里も暮れ行く。 日影かな/\。 。シテ詞呼掛「なう/\あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ「こなたの事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「けふはさる者の命日にて候弔ひて賜はり候へ。 ワキ「それこそ出家の望なれ。

さりながら誰と志して回向申すべき。シテ「たとひ其名は申さずとも。 あれに見えたる一木の松の。 少し此方の茅原こそ。唯今申す古墳なれ。 往復ならねば申すなり。ワキ「あら何ともなや。 誰と名を知らで回向はいかならん。 シテ「よしそれとても苦しからず。 法界衆生平等利益。ワキ「出離生死を。 シテ「離れよとの。地「御弔ひを身に受けば。/\。 たとひその名は名告らずとも。受け喜ばゝ。 それこそ主よ有難や。 回向は草木国土まで。もらさじなれば分きてその。 主にと心あてなくとも。 さてこそ回向なれ浮まではいかゞあるべき。 シテ詞「さらば此方へ御入り候へ。 愚僧が庵室の候ふに一夜を明して御通り候へ。

ワキ「さらばかう参らうずるにて候。いかに申し候。 持仏堂に参り勤を始めうずると存じ候ふ所に。 安置し給ふべき絵像木像の形もなく。 一壁には大薙刀。柱杖にあらざる鉄の棒。 其外。 兵具をひつしと立て置かれ候ふは何と申したる御事にて候ふぞ。 シテ「さん候此僧は。未だ初発心の者にて候ふが。 御覧候ふ如く此あたりは。垂井青墓赤坂とて。 その里々は多けれども。間々の道すがら。 青野が原の草高く。青墓子安の森繁れば。 昼ともいはず雨のうちには。 山賊夜盗の盗人等。高荷を落し里通ひの。 下女やはしたの者までも。 うち剥ぎとられ泣き叫ぶ。さやうの時にこの僧も。 例の薙刀ひつさげつゝ。こゝをば愚僧に任せよと。 呼ばはりかくればげには又。 一度はさもなき時もあり。さやうの時はこの所の。 便にもなる物ぞかしと。 悦びあへば然るべしと。思ふばかりの心なり。

なんぼうあさましき世を捨て者の所存候ふよ。 クセ「しせうなき手柄。 地「似合はぬ僧の腕立。さこそをかしと思すらん。 さりな。 がら仏も弥陀の利剣や愛染は方便の弓に矢を矧げ。多門は鉾を横たへて。 悪魔を降伏し災難を払ひ給へり。 シテ「されば愛著慈悲心は。地「達多が五逆に勝れ。 方便の殺生は。菩薩の六度に優れりとか。 これを見かれを聞き。 他を是非知らぬ身の行方。迷ふも悟るも心ぞや。 されば心の師とはなり。 心を師とせざれと古き詞に知られたり。かやうの物語。 申さば夜も。 明けなましお休みあれや御僧たちわれもまどろまんさらばと眠蔵に。 入るよと見えつるが。 形も失せて庵室も草むらとなりて松蔭に夜を明したる。 不思議さよ/\。中入間「。 ワキ「一夜臥す。牡鹿の角の束の間も。 /\。寝られんものか秋風の。

松の下臥夜もすがら。声仏事をやなしぬらん/\。 。 後シテ出端「東南に風立つて西北に雲静ならず夕闇の。夜風烈しき山陰に。 地「梢木の間や騒ぐらん。シテ「有明頃かいつしかに。 。

地「月は出でても朧夜なるべし切り入れ攻めよと前後を下知し。 弓手や馬手に心を配つて。人の宝を奪ひし悪逆。 娑婆の執心これ御覧ぜよ。浅ましや。 ワキ詞「熊坂の長範にてましますか。 その時の有様御物語り候へ。 シテ「さても三条の吉次信高とて。黄金を商ふ商人あつて。 毎年数多の宝を集めて。 高荷を作つて奥へ下る。詞「あつぱれこれを取らばやと。 与力の人数は誰々ぞ。 ワキ「さて国々より集まりし。中に取りても誰がありしぞ。 シテ「河内の覚紹。詞「磨針太郎兄弟は。 表討には並なし。 ワキ「さてまた都のそのうちに。多き中にも誰がありしぞ。 シテ詞「三条の衛門壬生の小猿。 ワキ「火ともしの上手分け切りには。 シテ「これらに上はよも越さじ。ワキ「さて北国には越前の。 シテ「浅生の松若三国の九郎。 ワキ「加賀の国には熊坂の。シテ詞「この長範を始として。 究竟の手柄のしれ者等。七十人は与力して。

ワキ「吉次が通る道すがら。 野にも山にも宿泊に。目付を附けてこれを見す。 シテ詞「この赤坂の宿に着く。 こゝこそ究竟の所なれ。退き場も四方に道多し。 見れば宵より遊君すゑ。数百の遊時をうつす。 ワキ「夜も更け行けば吉次兄弟。 前後も知らず臥したりしに。シテ「十六七の。 詞「小男の。目の内人に勝れたるが。 障子の透間物間の。そよともするを心にかけて。 ワキ「少しも臥さでありけるを。 シテ詞「牛若殿とは夢にも知らず。 ワキ「運の尽きぬる盗人等。シテ「機嫌はよきぞ。ワキ「はや。 シテ「入れと。地「云ふこそ程も久しけれ。 /\。みなわれさきにと松明を。 投げ込み/\乱れ入る。勢は妖疫神も。 面を向くべきやうぞなき。然れども牛若子。 少しも恐るゝ気色なく。 小太刀を抜いて渡り合ひ。獅子奮迅虎乱入。 飛鳥の翔の手をくだき。攻め戦へばこらへず。

面に進む十三人。同じ枕に切り伏せられ。 その外手負太刀を捨て。具足を奪はれ這ふ/\遁げて。命ばかりを免るもあり。 熊坂云ふやう。この者どもを手の下に。 討つ。 はいかさま鬼神か人間にてはよもあらじ。盗も。 命のありてこそあらしえうや引かんとて。 薙刀杖につきうしろめたくも引きけるが。シテ「熊坂思ふやう。 地「熊坂思ふやう。もの/\しその冠者が。 斬るといふともさぞあるらん。熊坂。 秘術。 を奮ふならばいかなる天魔鬼神なりとも。宙につかんで微塵になし。 討たれたるものどもの。いで供養に報ぜんとて。 道より取つて返し例の薙刀引きそばめ。 折妻戸をこだてに取つて。かの小男を。 ねらひけり。牛若子は御覧じて。 太刀抜きそばめ物あひを。少し隔てゝ待ち給ふ。 熊坂も薙刀かまへ。 互にかゝるを待ちけるが。いらつて熊坂早足を蹈み鉄壁も。

徹れと突く薙刀を。はつしと打つて。 弓手へ越せば。 追つかけ透かさず込む薙刀に。ひらりと乗れば刃向になし。 しさつて引けば。馬手へ越すを。 おつ取り直してちやうと切れば。 中にて結ぶをほどく手に。却つて払へば飛び上つて。 そのまま見えず形も失せて。 此処や彼処と尋ぬる所に思ひもよらぬ後より。 具足の透間をちやうと斬れば。 こはいかにあの冠者に。斬らるゝ事の腹立ちさよと。 云へども天命の。運の極ぞ無念なる。 地「打物わざにてかなふまじ。/\。 手取にせんと薙刀投げ捨て。 大手をひろげてこゝの面廊かしこのつまりに。 追つかけ追つつめ取らんとすれども。 陽炎稲妻水の月かや姿は見れども手に取られず。 シテ「次第々々に重手は負ひぬ。 地「次第次第に重手は負ひぬ。猛き心。力も弱り。 弱り行きて。シテ「此松が根の。

地「苔の露霜と。消えし昔の物語。 末の世助けたび給へと。夕つけも告げ渡る。

夜も白々と。 赤坂の松蔭に隠れけり松蔭にこそは隠れけれ 草刈男 虞氏 項羽

ワキ、ワキツレ二人次第「ながめ暮らして花に又。/\。 宿かる草を尋ねん。 ワキ詞「これは烏江の野辺の草刈にて候。 今日も草を刈り唯今家路に帰り候。 下歌三人「野辺は錦の小萩原刈萱まじる烏江野に。 上歌「草刈るをのこ心なく。/\。花を刈るとや思草。 家づとなればいろ/\の。草花の数を刈りもちて。 帰れば跡は秋暮れて。 枯野にすだく虫の音も花を惜むか心あれ。/\。 ワキ詞「便船を待ち向へ越さうずるにて候。 シテ、サシ一声「蒼苔路滑かにして僧寺に帰り。 紅葉声乾いて牡鹿鳴くなる夕まぐれ。 心も澄める面白さよ。一セイ「秋ごとに。

野分を船の追風にて。地「荻の穂かくる露の玉。 。ワキ詞「なう/\その船に乗らうずるにて候。シテ「おふ召され候へ。さて船賃は候。 。 ワキ「われら如き者の船賃参らせたることはなく候。 シテ「船賃なくばこの船には適ひ候ふまじ。 ワキ「さらば上の瀬へ廻らうずるにて候。シテ「なう/\道理は申しつ船に召され候へ。 ワキ「乗りおくれじと草刈は。もとの渚に立ち寄れば。 シテ「とく乗り給へとさし寄する。 上歌同「露刈りこめて秋草の。/\。 葉ごとに影やどる月をや船に乗せつらん。天の河。 たな渡りして七夕の。たな渡りして七夕の。

年に一夜は心せよ。秋風吹けば波の音。 湊に近き蜑小船。 水音なしにゆく船の水馴棹をさゝうよ水馴棹をさゝうよ。 シテ詞「船が着いて候御上り候へ。 ワキ「御船恐れて候。シテ「さて船賃は候。 ワキ「又船賃と仰せられ候ふよ。 其為にこそ向ひにて申し定めて候ふに。 何とて聊爾なる事をば承り候ふぞ。 シテ「いや船賃と申せばとて別の子細にても候はゞこそ。 それ程多き草花をなど一本賜はり候はぬぞ。 ワキ「あら優しや。 いづれにても召され候へ。 シテ「さらばこの花を賜はらうずるにて候。 ワキ「不思議やなこれ程多き草花の中に。何とて其花を撰つて召され候ふぞ。 シテ「さん候これは美人草と申して。 故ある花にて候。 ワキ「あら面白や美人草とは何と申したる謂にて候ふぞ。 シテ「是は項羽の后虞氏と申せし人の。 身を投げ空しくなり給ひしを。

取り上げ土中につきこめ候へば。 その塚より生ひ出でたる草なればとて。さて美人草とは申し候。 ワキ「さらば項羽高祖の戦のやうを。 御存じ候はばそと御物語り候へ。 シテ「さらば語つて聞かせ申し候ふべし。 物語「さても項羽高祖の戦。 七十余度に及ぶといへども。始は項羽うち勝ち給ひ。 一度も高祖の利無かりしに。 ある時項羽の兵心変りし。 却つて項羽をばせめつつ。四面に鬨の声あぐれば。 虞氏は思ひに堪へかねて。いかゞはせんと伏し給ふ。 又望雲騅といふ馬は。 一日に千里を駈くる名馬なれども。主の運命尽きぬれば。 膝を追つて一足も行かず。 その時項羽はちつとも騒がず。馬よりしづ/\と下り立つて。いかに呂馬童。 我が首取つて高祖に捧げ。名を揚げよやと呼ばはれども。 地「呂馬童は。 恐れて近づかず不覚なる者の心かな。これ見よ後の世に。

語り伝へよといひあへず。剣を抜いてあへなくも。 われと我が首を掻き落し。 呂馬童にあたへその侭この原の露と消えにけり。 望雲騅は膝を折り。 黄なる涙を流せばさのみ語れば我が心。昔に帰る身の果。 今は包まじ我こそは。 項羽が幽霊現れたり跡弔ひてたび給へ跡弔ひてたび給へ。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「様々に。弔ふ法の声立てゝ。/\。 波にうきねの夜となく。 昼ともわかぬ弔の。般若の船のおのづから。 その纜をとく法の。心を静め声をあげ。一切有情。 殺害三界不堕悪趣。 後シテ出端「昔は月卿雲客うちかこみ。 今は樵歌野田の月。爛体霧深し。古松下の影。 地「苔紛々として旧名を埋む。 シテ「紫の雲間横ぎるいでたちは。 地「天つ少女の調かな。各々伎楽を奏しつゝ。/\。 夢の黄楊櫛弾く琴琵琶の。 四面の鬨の声を上ぐれば又執心の攻め来るぞや。

あら苦しの苦患やな。 ツレ「虞氏は思ひに堪へかねて。 地「虞氏は思ひに堪へかね給ひて高楼に昇りて。落つるはさながら涙の雨の。 身を投げ空しくなり給へば。働「。 シテ「項羽は虞氏が別と我が身の。 詞「なりゆく草葉の露諸共に。消えはてし悲しさ。 思ひ出づれば。剣も鉾も皆投げ捨てゝ。 身を焼くばかりに口惜しかりし。夢物語ぞ。 哀なる。シテ「あはれ苦しき瞋恚の焔。 地「あはれ苦しき瞋恚の焔の立ちあがりつゝ。 味方を見れば。 高祖に属して寄せ来る波の。荒き声々聞けば腹立ち。 いで物見せんとみづからかけ出で敵を近づけ。 取つては投げ捨て。 又は引き伏せ捻首とりど。 りに恐ろしかりける勢なれども運尽きぬれば。烏江の野辺の。 土中の塵とぞなりにける 昭君幽霊 王母(姥) 白桃(尉) 単于幽霊 里人

。 ワキ詞「これは唐土かうほの里に住居する者にて候。 さても此処に白桃王母と申す夫婦の候ふが。一人の息女を持つ。 其名を昭君と名づく。 帝に召されて御寵愛限なかりし所に。 さる子細あつて胡国へうつされて候。 夫婦の人の歎たゞ世の常ならず。近所の事に候ふ程に。 立ち越え訪はゞやと思ひ候。シテ、ツレ二人一セイ「散りかゝる。 花の木蔭に立ち寄れば。空に知られぬ。 雪ぞ降る。 シテサシ「これは唐土かうほの里に住まひする。白桃王母と申す。 夫婦の者にて候ふなり。 ツレ「かほどに賎しき身なれども。美名をあらはす息女あり。 二人「昭君とかれを名づけつゝ。 容顔人に勝れたり。されば帝都に召されて後。

明妃と其名を改めて。天子にまみえおはします。 シテ「かほどいみじき身なれども。 猶も前世の宿縁離れやらざる故やらん。 二人「諸人の中に撰ばれて。胡国の民に移され。 漢宮万里の外にして。 見馴れぬかたの旅の空。思ひやるこそ悲しけれ。 シテ「されども供奉の官人ども。旅行の道の慰に。 絃管の数を奏しつゝ。 二人「馬上に琵琶を弾く事も此時よりと聞くものを。 下歌「画。 図にうつせる面影も今こそ思ひ知られたれ。上歌「かの昭君の黛は。/\。 緑の色に匂ひしも。 春や暮るらん糸柳の思ひ乱るゝ折毎に。 風諸共に立寄りて木蔭の塵を掃はん木蔭の塵を掃はん。 シテ「いざ/\庭を清めんと。

老夫は箒をたづさへたり。ツレ「げにや心も昔の春。 老の姿もさゝがにの。 いと苦しとは思へども。風結ぶ涙の袖の玉だすき。 かゝる思も子故なり。 シテ「たゞ世の常の賎の男と。人もや見るらん恥かしや。 ツレ「日は山の端に入相の。 シテ詞「かねて知らする夕嵐。ツレ「袖寒しとは思へども。 シテ「子の為なれば。ツレ「寒からず。 シテ、ツレ次第「落葉の積る木蔭にや嵐も塵となりぬらん。 地「落葉の積る木蔭にや。/\。 嵐も塵となりぬらん。 上歌「げに世の中に憂き事の。/\。 心に懸かる塵の身は。掃ひもあへぬ袖の露。 涙の数や積るらん。風に散り。 水には浮ぶ落葉をも。しばし袖に宿さん。 下歌「涙の露の月の影。 それかと見ればさもあらで。 小笹の上の玉霰音もさだかにきこえず。シテ詞「あまりに苦しう候ふ程に。 休まばやと思ひ候。

。 ワキ「いかにこの家の内に白桃の渡り候ふか。シテ「誰にて御入り候ふぞ。 ワキ「いや某が参りて候。シテ「こなたへ御出で候へ。 ワキ「如何に申し候。 さても昭君の御事御心中察し申して候。 シテ「御訪ありがたう候。ワキ「又申すべき事の候。 この柳の木の本を立ち去らずして清め給ふは。 何と申したる御事にて候ふぞ。 シテ「昭君胡国へ遷されし時。この柳を植ゑ置き。 われ胡国。 にて空しくならばこの柳も枯れうずると申しつるが。 御覧候へはや片枝の枯れて候。ワキ「げに/\御歎尤にて候。 扨々昭君は何しに胡国へは遷され給ひ候ふぞ。 シテクリ「さても昭君胡国へ遷されし。 その古をたづぬるに。地「天下を治めし始なり。 シテ「然れば胡国の軍こはうして。 従ふ事期し難し。地「されば互に和睦して。 其印一つなからんやとて。 美人を一人つかはすべき。御約束のありしに。

クセ「そも漢王の宣旨には。三千人の寵愛。 いづれをわくる方もなし。もろ/\の宮女の。 紅色紅衣の姿を。 賢聖の障子に似せ画にこれを現し。中に劣れるさまあらば。 則ち彼を撰みて。胡国の為につかはし。 天下の運を静めんと。綸言ならせ給へば。 数数の宮女達。これをいかにと悲み。 絵かける人を談らひ。皆賂を贈りつゝ。 御約束のありし故。 シテ「されば写せる其姿。地「何れを見るも妙にして。 柳髪風にたをやかに。 桃顔露を含んで色猶深き姿なり。中にも昭君は。 ならぶ方なき美人にて。帝の覚えたりしなり。 それを頼める故やらんたゞうち解けてありしに。 画図に写せる面影の。 余りいやしく見えしかば。さこそは寵愛。 甚だしゝとは申せども。君子に私の。詞なしとや思しけん。 力なくして昭君を胡国に送り遣さる。 シテ詞「昔桃葉といひし人。

仙女と契浅からざりしに。仙女空しくなりて後。 桃の花を鏡に映せば。 則ち仙女の姿見えけるとなり。此柳もさながら昭君の姿。 いざさせ給へ鏡に映して影を見ん。 ツレ「それは仙女の姿なり。いかでこれには譬ふべき。 シテ「いやそれのみならず鏡には。 恋しき人の映るなり。ツレ「夢の姿を映しゝは。 シテ「しんやうが持ちします鏡。 ツレ「古里を鏡に映しゝは。 シテ詞「とけつといひし旅人なり。ツレ「それは昔に年をへて。 シテ「花の鏡となる水は。 地「散りかゝる花や曇るらん。思はいとゞます鏡。 もしも姿を見るやと。鏡に向つて泣き居たり/\。中入「。 昭君「これは胡国に遷されし。 王昭君の幽霊なり。さても父母別を悲み。 春の柳の木の本に。泣き悲み給ふ痛はしさよ。 急ぎ鏡に影を映し。父母に姿を見え申さん。 春の夜の。朧月夜にあらはれて。 地「曇りながらも。影見えん。

ツレ「恐ろしや鬼とやいはん面影の。 身の毛もよだつばかりなり。いかなる人にてましませば。 鏡には映り給ふらん。 後シテ「これは胡国の夷の大将。呼韓邪単于が幽霊なり。 ツレ「胡国の夷は人間なり。今見る姿は人ならず。 目には見ねども音にきく。 冥途の鬼か恐ろしや。 シテ「呼韓邪単于も空しくなる。 同じく昭君が父母に。対面の為に来りたり。 ツレ「よしなかりける対面かな。 姿を見るも恐ろしや。 シテ詞「そも恐るべき謂はいかに。 ツレ「心に知らぬ我が姿。鏡に寄りて見給へとよ。 シテ「いで/\。詞「鏡に影をうつさん。 真に気疎き姿かと。詞「鏡に立ち寄りよく/\見れば。恐れ給ふもあら道理や。 地太鼓頭「荊棘をいたゞく髪筋は。/\。 シテ「主を離れて空に立ち。 地「元結更にたまらねば。シテ「さね葛にて結びさげ。

地「耳には鎖を下げたれば。シテ「鬼神と見給ふ。 地「姿も恥かし。鏡に寄りそひ立つても居ても。 鬼とは見れども人とは見えず。 その身かあらぬかわれならば。 恐ろしかりける顔つきかな面目なしとて立ち帰る。

キリ「ただ昭君の黛は。/\。柳の色に異ならず。 罪をあらはす浄玻璃は。 それも隠はよもあらじ。花かと見えて曇る日は。 上の空なる物思。影もほのかに三日月の。 曇らぬ人の心こそ。誠を写す鏡なれ/\ 母の霊 倶生神

。 ワキ詞「これは越後の国松の山家に住まひする者にて候。 さても某久しく添ひなれし妻におくれ。 昨日今日とは存じ候へども。はや三年になりて候。 又忘形見に姫を一人持ちて候ふが。 余りに母が事を歎き候ふ程に。対の屋を造り傍に置きて候。 又今日は彼が母の命日にて候ふ程に。 持仏堂に立ち出で。焼香せばやと思ひ候。 子方サシ「雲となり雨となり。 陽台の時留め難く。花と散り雪と消え。

金谷の春行くへもなし。月日の道に関守なければ。 母御に離れて今年は早。既に三年の其日なり。 ワキ詞「あら無慙や。 何事やらん姫が独言を申し候。いかに姫があるか。 父が来りたるぞ。持仏堂をあけ候へ。 あら不思議や。何やらん物を立ち隠すやうに候。 いかに姫。さても汝が母におくれし時。 元結切り遁世せばやと存じ候ひつれども。 一族どもの諌により。 今までうき世の住まひたり。

汝男子ならば父と一所にあるべけれども。 女子なれば対の屋を造り置くなり。それに父が来りて姫よと呼ばゝ。 さ。 も嬉しげにて立ち迎ふべきにさはなくして。 何やらん物を立ち隠す気色の見えて候。 さては人の申すも真にて候ひけるぞや。げに汝は今の母を木像に作り。 明暮呪咀するといふは真か。 何とて左様に浅ましき心をば持ちてあるぞ。 母を恋しく思はゞ。経念仏し弔ひてこそ。 死したる母も成仏し。 御事も同じ蓮の縁となるべきにさはなくして。 左様に恐ろしき事を謀まば。正しく浮むべき母も奈落に沈み。 御事も同じ罪に沈むべき事の浅ましさよ。 何とて物をば申さぬぞ。 姫「左様に御叱り候はゞ。隠さず申し候ふべし。 痛はしや母御前。今を限の御時。 此鏡を和御前に取らするなり。母が姿を残す形見なり。 恋しき時は見るべしと。仰せ候ひし程に。 ある時此鏡を見れば。母の面立映りしより。

猶若やぎて見え給へば。 地上歌「偖はなからん跡までも。/\。添ひ添はれんと面影を。 残させ給ひける。母御の慈悲ぞ有難き。 不審に思し召されば。 見せ参らせん鏡山立ち寄り給へ父御前立ち寄り給へ父御前。 。 ワキ詞「これは不思議なる事を申すものかな。 空しくなりし母の何しに鏡に映りて見え候ふべき。 但しきつと思ひ出したる事の候。漢の武帝の后。 李夫人なくならせ給ひて後。帝后のおん別を悲み給ひ。 御姿を甘泉殿の壁に写し。 明暮叡覧ありしかども。もとより絵に書ける形なれば。 物云はず笑はず。なか/\憂ぞ増さると悲み給ふ。ある時仙人の告げて曰く。 真后の御姿を叡覧ありたく思し召さば。 月の夜の隈なからんに。 反魂香を焚き給へとありしかば。 教に任せて月の夜のくまなきに。反魂香を焚き給へば。 煙の内に后の御姿まみえ給ひしためしもあり。

又わが朝の聖武皇帝の后。 光明皇后なくならせ給ひて後。 是も后の御別を悲み給ひ。梵天に祈誓し給へば。 閻王憐み給ひ。玉の輿に乗せ奉り。 二たび娑婆に送り給ひしためしもあり。 さりながらそれは上代の事。これは末世の今の世に。 左様の事のあるべきとは存じ候はねども。 。 かれが母も姫に名残を深く惜み候ひしほどに。若し又さやうの事もや候ふらん。 立ち寄りて鏡を見ばやと存じ候。や。 さればこそ条なき事を申し候。やあいかに姫。 此鏡に母が鏡のうつる事はなきぞとよ。 何とて条なき事をば申すぞ。 姫「怨めしやあれ程の母のましますを。 思ひ隔てゝ山鳥の。愚に見させ給ふかと。 鏡の前に泣き居たり。クドキ「げにや別れての。 涙もいまだ干ぬ袖に。異妻を重ね給ひぬれば。 。 その怨にや恋衣の見えじとおぼしめさるらめ。よし父にこそ疎くとも。

地「われには見えよ垂乳根の。親の飼ふ蚕の眉墨の。 いと細し誰をかも。 恋ひ痩せ顔ぞ見ても泣く。涙がすみの悲しやな。 底より曇り真澄鏡。あれこそ母よ御覧ぜよと。 我が影に指をさす。 げに哀なりさればこそ幼き身の心なれ/\。 ワキ詞「言語道断の事。 我が影の鏡に映るを見て。 母が影にてあるよしを申し候ふはいかに。総じてこの松の山家と申すは。 無仏世界の処にて。 女なれども歯鉄漿をつけず。色を飾る事もなければ。 まして鏡などと申すものをも知らず候ひしを。 某一年都に上りしとき。 鏡を一面買ひとりてかれが母に取らせて候へば。 世になき事に悦び候ひしが。今はの時姫を近づけ。 我を恋しく思はん時は。 此鏡を見よと申ししほどに。 我が影の映るを見て母と思ひ歎くことの不便さは候。いや/\所詮鏡。

のいはれを語つて歎をとゞめばやと思ひ候。やあいかに姫。 総じて鏡といふ物には。 何にてもあれ向ふ物の影の映るぞとよ。これ/\見候へ。 父が立ちよれば父が影。扇を映せば扇の影。 こゝを以て思ひ知れ。子方「げに/\父の仰の如く。 今こそかくとも三吉野の。 ワキ「岸の山吹風吹けば。子方「底なる影も散れば散り。 ワキ「靡けば靡く款冬の。姫「影をあやまつ。 ワキ「はかなさよ。 地「子ながらもこれほど母に似けるよと。我が影ながらなつかしや。 ワキ「父は涙にかきくれてや。 地「われこそは曇らすれ。面目なの鏡や。ワキ入「。 ツレ(母)アシラヒ出「子は親に。 似るなるものと思はれて。恋しき時は鏡をぞ見る。 地「往時渺茫としてすべて夢に似たり。 旧遊零落して半泉に帰す。 ツレサシ「これを水といはんとすれば。 地「則ち漢女が粉を添ふる鏡清瑩たり。 ツレ「花といはんとすれば蜀人文を洗ふ錦。

地「我とても娑婆の故郷に立ち帰らば。錦の袴君が為。 ツレ「昔を語り申すべし。地「夢驚かし。給ふなよ。 クセ「唐土に陳氏とて。賢女の聞えありけるが。 世のならひ思はずも。夫遠行の子細あり。 これや限と思ひけん。 形見の鏡破りて猶。光ぞ残る三日月の。 宵に待ち明けて恨み。文を絶え主も来ず。 憂き年月を古里の。軒端の荻の秋更けて。 風の便のつて聞けば。 夫はその国の主となりあらぬ妹背の川波の。立ち帰るべきやうもなし。 さては逢ふ事も形見の鏡我独。 涙ながらに影見れば。半月の山の端に。 打ち傾いて泣くならで。 せんかたもなきをりふしに。ツレ「いづくよりとも知らざりし。 地「鵲一つ飛び来り。 陳氏が眉に羽を休め。飛びめぐり飛びさがり。 舞ふよと見しが不思議やな。ありし鏡のわれとなり。 もとの如くになりにけり。 満月の山を出で。碧天を照らす如くなり。

是や賢女の名を磨く鏡なるべし。早笛「。 シテ「いかに罪人何とて遅きぞ。詞「片時の暇といひつるに。 冥官怒をなし給へば。 倶生神急ぎ苦患を見せよとの仰を蒙り。 瞋恚の燃えたつ熱鉄の笞を振り上げて。地太鼓頭「空蝉の。 /\。殻は娑婆にやとまるらん。 霊は冥途にもぬけのころもの。玻璃の鏡の。 いさぎよき面前に。引つさげ引き向け。 あれ見よ娑婆にての。罪科よ。舞働「。

シテ「こはいかに不思議やな。 地「こはいかに不思議やな。孝子の弔ふ功力によつて。鏡の影を。 よく/\見れば。頭に玉釵。 膚は金色両臂をかゞみて手を合はすれば。 さながら菩薩の。 坐像かと御空に花ふり虚空に音楽。聞かず見もせぬ冥途の奇特。 すはや地獄に帰るぞとて。 大地をかつぱと踏み鳴らし。大地をかつぱと踏み破つて。 奈落の底にぞ。入りにける 山伏 野守尉 鬼神

ワキ次第「苔に露けき袂にや。/\。 衣の玉を含むらん。 ワキ詞「これは出羽の羽黒山より出でたる山伏にて候。 われ大峰葛城に参らず候ふ程に。この度和州へと急ぎ候。 道行「この程の。宿鹿島野の草枕。/\。 。

子に臥し寅に起き馴れし床の眠も今さらに。仮寝の月の影ともに。 西へ行方か足曳の。大和の国に着きにけり/\。 詞「急ぎ候ふ程に。和州春日の里に着きて候。 人。 を待ちてこのあたりの名所をも尋ねばやと存じ候。シテ一声「春日野の。 飛火の野守出でて見れば。今幾程ぞ若菜摘む。

サシ「これに出でたる老人は。 この春日野に年を経て。山にも通ひ里にも行く。 野守の翁にて候ふなり。有難や慈悲万行の春の色。 三笠の山に長閑にて。五重唯識の秋の風。 春日の里に音づれて。真に誓も直なるや。 神のまに/\行きかへり。 運ぶ歩もつもる老の。栄行く御影仰ぐなり。 下歌「唐土までも聞えある。この宮寺の名ぞ高き。 上歌「昔仲麿が。/\。 我が日の本を思ひやり。天の原。ふりさけ見ると詠めける。 三笠の山陰の月かも。 それは明州の月なれや。こゝは奈良の都の。 春日長閑けき気色かな。/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。シテ詞「何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「御身は此処の人か。 シテ「さん候是は此春日野の野守にて候。 ワキ「野守にてましまさば。 これに由ありげなる水の候ふは名のある水にて候ふか。

シテ「これこそ野守の鏡と申す水にて候へ。 ワキ「あら面白や野守の鏡とは。何と申したる事にて候ふぞ。 シテ「われら如きの野守。 朝夕影を映し申すにより。野守の鏡と申し候。 又真の野守の鏡とは。 昔鬼神の持ちたる鏡とこそ承。 り及びて候へ ワキ「何とて鬼神の持ちたる鏡をば。野守の鏡とは申し候ふぞ。 シテ「昔此野に住みける鬼のありしが。 昼は人となりてこの野を守り。 夜は鬼となつてこれなる塚に住みけるとなり。 さ。 れば野を守りける鬼の持ちし鏡なればとて。野守の鏡とは申し候。 ワキ「謂を聞けば面白や。さてはこの野に住みける鬼の。 持ちしを野守の鏡とも云ひ。 シテ「又は野守が影を映せば。 水をも野守の鏡と云ふ事。ワキ「両説いづれも謂あり。 シテ「野守がその名は昔も今も。ワキ「変らざりけり。 シテ「御覧ぜよ。地上歌「立ち寄れば。 げにも野守の水鏡。/\。

影を映していとゞなほ。老の波は真清水の。 あはれげに見しまゝの。昔のわれぞ恋しき。 実にや慕ひても。かひあらばこそ古の。 野守の鏡得し事も年古き世の例かや。/\。 ワキ詞「いかに申すべき事の候。 箸鷹の野守の鏡と詠まれたるも。 この水につきての事にて候ふか。 シテ「さん候ふ此水につきての謂にて候。 語つて聞かせ申し候ふべし。ワキ「さらば御物語り候へ。 シテ詞「昔この野に御狩のありしに。 御鷹を失ひ給ひ。彼方此方を御尋ありしに。 一人の野守参りあふ。 翁は御鷹の行方や知りてありけるぞと問はせ給へば。かの翁申すやう。 。 さん候これなる水の底にこそ御鷹の候へと申せば。 何しに御鷹の水の底にあるべきぞと。狩人ばつと寄り見れば。 げにも正しく水底に。 地「あるよと見えて白斑の鷹。/\。 よく見れば木の下の水に映れる影なりけるぞや。

鷹は木居に在りけるぞ。さてこそ箸鷹の。/\。 野守の鏡得てしがな。思ひ思はず。 よそながら見んと詠みしも。木の鷹を映す故なり。 真に畏き時代とて。御狩も繁き春日野の。 飛火の野守出であひて。 叡慮にかゝる身ながら老の思出の世語を。 申せばすゝむ涙かな/\。 ロンギ「げにや昔の物語。 聞くにつけても真の野守の鏡見せ給へ。 シテ「思ひよらずの御事や。それは鬼神の鏡なれば。 いかにして見すべき。 地「さてや鏡のあり所。聞かまほしき春日野の。 シテ「野守といふもわれなれば。地「鏡はなどか。 シテ「持たざらんと。 地「疑はせ給ふかや。鬼の持ちたる鏡ならば。 見ては恐れやし給はん。 真の鏡を見ん事はかなふ。 まじろの鷹を見し水鏡を見給へとて塚の内に。入りにけり。 塚の内にぞ入りにける。

ワキ「かゝる奇特にあふ事も。 これ行徳の故なりと。思ふ心を便にて。 鬼神の住みける塚の前にて。肝胆を砕き祈りけり。 われ年行の功を積める。 その法力の真あらば。鬼神の明鏡現して。 われに奇特を見せ給へや。南無帰依仏。 。 後シテ出端「有難や天地を動かし鬼神を感ぜしめ。地「土砂山河草木も。 シテ「一仏成道の法味に引かれて。地「鬼神に横道曇なく。 野守の鏡は現れたり。 ワキ「恐ろしや打火輝く鏡の面に。 映る鬼神の眼の光。面を向くべきやうぞなき。 シテ「恐れ給はゞ帰らんと。 鬼神は塚に入らんとす。ワキ「暫く鬼神待ち給へ。 夜はまだ深き後夜の鐘。 シテ「時はとら臥す野守の鏡。ワキ「法味にうつり給へとて。 シテ「重ねて数珠を。ワキ「押しもんで。 地「台嶺の雲を凌ぎ。/\年行の功を積む事。 一千余箇日。屡々身命を惜まず採果。

汲水にひまを得ず。一矜伽羅二制多伽。 三に倶利伽羅七大八大金剛童子。 ワキ「東方。舞働「。シテ「東方。 降三世明王もこの鏡に映り。地「又は南西北方を映せば。 シテ「八面玲瓏と明かに。地「天を映せば。 シテ「非想非々想天まで隈なく。 地「さて又大地をかがみ見れば。シテ「まづ地獄道。

地「まづは地獄の有様を現す。 一面八丈の浄玻璃の鏡となつて。罪の軽重罪人の呵責。 打つや鉄杖の数々。 悉く見えたりさてこそ鬼神に横道を正す。明鏡の宝なれ。 すはや地獄に帰るぞとて。 大地をかつぱと蹈みならし。大地をかつぱと蹈破つて。 奈落の底にぞ入りにける 帥阿闍梨 梅若 日野資朝 本間三郎 本間の従者 不動明王 船頭 追手

本間詞「これは佐渡島の御家人。 本間の三郎にて候。 扨も此度元弘の合戦に公家うち負け給ひて候。 中にも壬生の大納言資朝卿は。 囚人となり此島へ流され給ひて候ふを。某預り申して候。 色々痛はり申す所に。昨日鎌倉より飛脚立て。 資朝卿は大事の囚人にて候ふ間。

急ぎ誅し申せとの御事にて候ふ程に。 痛はしながら明日浜の上野にて誅し申し候。 此由を資朝卿へ申さばやと存じ候。 本間狂言セリフアリ「。 ワキ子方次第「親の行方を尋ね行く。/\。 越路の旅ぞはるけき。ワキ詞「かやうに候ふ者は。 都今熊野梛の木の坊に。 帥の阿闍梨と申す山伏にて候。又これに御座候ふ御方は。

壬生の大納言資朝の卿の御子息。 梅若子と申し候ふが。 さる子細あつて我等が坊に御座候。 資朝の卿は流人の身となり給ひ。佐渡の島に流され給ひて候。 梅若子。 いまだ父のこの世に御座候ふ由を聞し召し。 今一度御対面ありたき由仰せられ候ふ間。余りに御心中いたはしく存じ。 我等御供申し。唯今佐渡の島へと急ぎ候。 道行二人「名残ある都の空は遠ざかり。/\。 末は遥の越の海。 今ぞ始めて白真弓敦賀の津より舟出して。波路遥の旅衣。 浦々泊重なりて行けば沖にも里見ゆる。 佐渡の島にも着きにけり/\。 ワキ本間狂言セリフアリ「。 。 本間詞「都よりの客僧は何処に渡り候ふぞ。ワキ「これに候。 唯今申し入れ候ふ如く。これは都今熊野梛の木の坊に。 帥の阿闍梨と申す山伏にて候。 又これに渡り候ふ幼き人は。資朝の卿の御子息。 御名をば梅若子と申し候。

資朝の卿は流人となり。此島に御座候ふ由聞しめし及ばれ。 今一度御対面ありたき由仰せ候ふ程に。 遥々これまで御供申して候。 然るべきやうに御申し候ひて。 引き合はせ申されて賜はり候へ。本間「委細承り候。 総じて囚。 人のゆかりなどに対面は堅く禁制にて候へども。幼き人のはる%\これまで御下向にて候ふ程に。 其由資朝の卿へ申し候ふべし。暫くそれに御待ち候へ。 ワキ「さらばこれに待ち申し候ふべし。 ツレサシ「籠鳥は雲を恋ひ。 帰雁は友をしのぶ心。それは鳥類にこそ聞きしに。 人間に於て我ほど物思ふ者はよもあらじ。 詞「実にや科なうして配所の月を見る事。 古人の望む所なれども。 住みはつまじき世の中に。明暮物を思はんより。 天晴とう斬らればやと思ひ候。 。 本間詞「あら痛はしや何事やらん独言を仰せ候ふよ。いかに申し候。

本間が参りて候。 ツレ「本間殿と仰せ候ふか此方へ御出で候へ。本間「唯今参る事余の儀に非ず。 昨日鎌倉より飛脚立つて。 急ぎ誅し申せとの御事にて候ふ程に。 明日浜の上野に御供申し。 御痛はしながら誅し申し候ふべし。御最後の御用意あらうずるにて候。 ツレ「唯今も独言に申し候ふ如く。 かくてながらへ人に面をさらさんより。 天晴とう斬らればやと望みし事。 さては叶ひて候ふよ。本間「又御悦のあるべき事の候。 都今熊野梛の木の坊に。 帥の阿闍梨と申す山伏の。御子息を伴ひ遥々御下向候。 そと御対面候へ。 ツレ「これは思ひもよらぬ事を承り候ふものかな。 以前も事の序に申す如く。 某は総じて子を持たぬ者にて候。定めて門たがひにて候ふべし。 急いで追つ帰され候へ。 本間「何と御子は持たれぬと仰せ候ふか。ツレ「なか/\の事。 本間「さては聊爾なる事を申す者にて候。

やがて追つ帰し候ふべし。ツレ「暫く。 都の者と聞けばなつかしく候ふ間。 そと見申したく候。 本間「さらば物越より御覧候へ。あれなる人の事にて候。 あら不思議や。 御子息にてはなき由仰せられ候ふが。何とて御落涙候ふぞ。 ツレ「御不審尤にて候。 かの者の親も我等如きの流人にて候はんが。 配所を聞きちがへ来りたるかと。かの者の心中不便に存じ。 さて落涙仕りて候。 本間「さあらば追帰し申し候ふべし。ツレ「急いで御帰し候へ。 本間「心得申して候。 最前の客僧は何処に渡り候ふぞ。ワキ詞「これに候。 本間「仰の通りを資朝の卿へ申して候へば。 総じて資朝の卿に御子は御座なきよし仰せられ候。 何とて聊爾なる事をば承り候ふぞ。 ワキ「あら不思議や。 某が申しつる通おほせ候はば。やはか左様には仰せられ候ふまじ。 本間「言語道断。

かゝる口惜しきことを承り候ふものかな。 弓矢八幡氏の神も御照覧あれ。懇に申して候。 その上資朝の卿に御子は御座なき上は候。 近頃聊爾なる事を承り候ふものかな。 此上は某は一向に存ずまじく候。 ワキ「なう/\暫く。あら笑止や。 いかに梅若殿。 唯今本間が申しつる事を聞し召されて候ふか。思もよらぬ御事にて候。 子方「悲しやな遥々尋ね下りたる。 かひも渚のかたし貝。あはぬ思を如何にせん。 ツレ「我も恋しく思子を。 最期に見たくは思へども。我が子と名のらば敵とて。 もしや命を失はれんと。 思へば他人と言ひつるこそ。中々思ふ心なれ。 子方「一世と兼ねたるこの世にだに。 添ひもはてざる親子の中。ツレ「況してやいはん後の世の。 ツレ子方二人「契もさぞな逢ふ事も。 泣くや涙にかき曇り。地「姿みゝえぬ親と子の。隔の雲霞。 立ち添ひながらも実に逢はぬ事ぞ悲しき。

ロンギ地「今日御最期に定まれば。 痛はしながら力なく。 武士輿に乗せ申し浜の上野に急ぐなり。 ツレ「かねて期したる事なれば。惜しき命にあらざれど。 さすが最期の道なれば心すごきけしきかな。 子方「梅若父の御最期と。聞くより目くれ肝消え。 起。きつまろびつ泣く/\御輿の跡につきて行く。地「御輿を早め行く程に。 浜の上野も近くなる。ツレ「波路たゞよふ磯千鳥。 。 ワキ「沖の鴎も音をそへてあはれさや増さるらん。地「御首の座敷これなりと。 輿よりおろし申せば資朝敷皮の。 上に直らせ給へば。武士立ち寄り。 御後ろに立ちまはり御十念と勧めけり御十念と勧めけり。 。 子方詞「なうみづからこそこれまで参りて候へ。ツレ「何とて是までは下りたるぞ。 。 最期は今にてはなきぞかたはらへ忍び候へ。いかに客僧まづ其方へ召され候へ。 いかに本間殿へ申し候。

近頃面目もなき申し事にて候へども。 まことは某が子にて候。この上は本間殿を頼み申し候。 いまだ幼き者の事にて候ふ程に。 あはれ御心得を以て。かの者を助け給ひ。 都へ送り給ひ候へかし。 本間「かゝる痛はしき事こそ候はね。 我等も始よりさやうに見申して候へども。 深く御隠し候ふほどに申さず候。梅若殿の御事は。 明けなば早船を拵へ。都へ送り付け申し候ふべし。 御心安く思し召され候へ。 ツレ「これは真にて候ふか。本間「なか/\の事。 弓矢八幡も御知見あれ。 都へ送り付け申さうずるにて候。 ツレ「さては此上に思ひ置く事もなく候。はや/\首を打ち給へと。 地「西に向ひて手を合はせ。/\。 南無阿弥陀仏と高らかに。 称へ給へばあへなく御首は前に。 落ちにけりおん首は前に落ちにけり。 本間詞「如何に客僧へ申し候。

資朝の卿の御事は。 囚人にて御座候ふ間力なき事にて候。梅若子の御事は御遺言の如く。 明日御船を申し付け。 都へ送り申し候ふべし。御心安く御休み候へ。 ワキ「懇に承り有難う候。明日都へ御送り頼み申し候。 又御死骸を賜り孝養申したく候。 本間「なか/\の事御心静に御孝養候へ。 我等は私宅に帰り候ふべし。 梅若子を御供あつて。やがて御出あらうずるにて候。 ワキ「心得申し候。本間「いかに面々聞き候へ。 此間の番にさぞくたびれ候ふらん。 今夜は皆々私宅に帰り休み候へ。 某も臥所に入。 つて心静に夜を明かさうずるにてあるぞ。其分心得候へ。 ワキ「いかに梅若子へ申し候。 これは本間殿の館にて候。 今夜は御心静に御休み候へ。 明けなば舟を仕立て送り申すべき由申され候。御心安く思し召され候へ。 子方「いかに申すべき事の候。

ワキ「何事にて候ふぞ。子方「本間を討つて賜はり候へ。 ワキ「あゝ暫く候。 まづ御心をしづめて聞し召され候へ。 本間は一旦囚人を預りたるまでにてこそ候へ。真の親の敵は。 相模の守高時こそ敵にて御座候へ。 それは都へ御上り候ひて。 自然の時節を御待ち候へ。 子方「いや目の前にて討ちたるこそ親の敵にて候へ。ワキ「実に/\仰は尤にて候へども。この島国にて人を討つては。 さて御命をば何と召され候ふべき。 唯思し召し御止まり候へ。 子方「たとひ命は失ふとも。討たでは叶ひ候ふまじ。 ワキ「仮。 令命は捨つるとも討たでは叶ふまじきと仰せ候ふか。 かゝるけなげなる事を仰せ候ふものかな。 此上は討つて参らせ候ふべし。しかもかの者申し候ふは。 内の者共も。此程の番にくたびれてぞあるらん。 先々私宅に帰れ。 其身も臥所に入つて夜を明かさうずる由申し候ひし程に。

討つべき夜には日本一の夜にて候。 御本望にて候ふ程に。 一の刀をば梅若子あそばされ候へ。二の刀をば此客僧仕るべし。 もし又かの者起き合はせ。 討ち損ずる物ならば。人手にはかゝるまじ。 梅若子と刺しちがへ申し候ふべし。 こなたへ御入り候へ。あら笑止や。 いまだ火が消えず候ふはいかに。何のためにか夏虫の。 身を焦がすべき火を取らんと。 子方「明り障子に飛び付きたり。 ワキ詞「これこそ消すべき便なれと。障子を細目に明けゝれば。 子方「虫は喜び内に入り。 ワキ「すは火はばつと消えたるは。 地「灯ともに敵の命今こそ消えて失すべけれ。 ひそかにねらひより。/\。守刀を抜き持つて。 本間の三郎が。胸のあたりに乗りかゝり。 三刀まで刺し通し。縁を飛びおり逃げければ。 追手は声々に。留めよ/\と追つかくる。狂言「やるまいぞ/\。

さればこそ京より下りたる山伏の。 帥の阿闍梨とやらん。粗忽を仕出さうずると存じ候。 まづ浦々へ追手を懸け候へ。 船頭詞「此程風を待ち候ふ所に。 日本一の追手が吹き候ふ程に。 舟を出さばやと存じ候。 ワキ「はや抜群にのび来りて候。 又あれに出船の候。 あの船にのせ申さうずるにて候。なう/\その船に便船申さうなう。 船頭「御覧候へこれは柱を立て。 帆を引きたる船にて候ふ程に。 未だ出でぬ舟に仰せ候へ。ワキ「これは親の敵を討つて。 跡より追手のかゝる者にて候へば。 ひらに乗せて賜はり候へ。 船頭「殊更さやうの科人ならば。なほ此舟には叶ひ候ふまじ。 ワキ「よし科人は此客僧。 よし客僧をば乗せずとも。此児ひとり乗せて給べ。 船頭「児も法師も知らぬとて。 なほ此舟を押して行く。

ワキ詞「あゝ其船よせずは悔しき事のあるべきぞ。船頭「何の悔しくあるべきぞ。 舟棹だにも忘るゝは。風に出舟の習なり。 ワキ「さてこの風は。船頭「東風の風。 ワキ「向うて西に為さうぞえい。 船頭「あら忌はしや聞かじとて。 なほ此舟を押して行く。ワキ「暫しと言へど。 船頭「留めもせず。ワキ「暫しと言へど。船頭「音もせず。 。 地「舟は波間に遠ざかれば追手は後に近づきたり。 ワキ詞「あら笑止や。 頼みたる舟は遠ざかる。追手は後に近づく。 さて御命をば何と仕り候ふべき。 某急度案じ出したる事の候。 我この年月三熊野の権現へ歩をはこびしも。かやうの為にてこそ候へ。 海上に三所権現を勧請申し。 ならびに不動明王の索にかけて。 あの舟をふゝたび祈り戻さうずるにて候。やあ/\其舟戻せとこそ。よせずは祈り戻さうずるぞ。 船頭「何此舟を祈り戻さうとや。

ワキ「なかなかの事。 船頭「山伏は物の怪などをこそ祈れ。舟祈つたる山伏は未だ聞かぬよ。 ワキ「いやいかに云ふとも悔まうぞ。 悔むな男。地「台嶺の雲を凌ぎ。/\。年行の。 。功を積む事一千余箇日しば/\身命を捨て熊野。権現に頼を掛けば。 などか験のなかるべき。一矜羯羅二制多伽。 三に倶利迦藍七大八大金剛童子。東方。早笛「。 ロンギ地「不思議や東の風変り。 西吹く風となる事は如何なる謂なるらん。 シテ「本宮証誠殿。阿弥陀如来の誓にて。

西吹く風となし給ひて舟をとゞめ給へり。 地「さて又西の風も止み。こち吹く風となる事は。 シテ「新宮薬師如来の。 浄瑠璃浄土は東にて。東風吹く風となし給ふ。 地「さて又飛龍権現は。シテ「波路に飛んで影向す。 地「滝本の千手観音は。シテ「二十八部衆の。 風変舟を早めたり。地「さて飛行夜叉は。 不動明王の。索の縄を船につけて。 万里の蒼波を片時が程に。若狭の浦に引きつけて。 それより都に帰し給ふ。 実に有難き三熊野の。/\。誓の末こそ久しけれ。 牛若丸 烏帽子屋の妻 烏帽子屋の亭主 三条の吉次 弟吉六 手下共(大勢) 熊坂長範

ワキ、ワキツレ次第「末も東の旅衣。/\日も遥々と急ぐらん。 ワキ詞「これは三条の吉次信高にて候。われ此程数の財を集め。

弟にて候ふ吉六を伴ひ。唯今東へ下り候。 如何に吉六。 高荷どもを集め東へ下らうずるにて候。ワキツレ「委細心得申し候。

やがて御立ちあらうずるにて候。 子方呼掛「なう/\あれなる旅人。 奥へ御下り候はゞ御供申し候はん。 ワキ「やすき間の御事にて候へども。御姿を見申せば。 師匠。 の手を離れ給ひたる人と見え申して候ふ程に。思ひも寄らぬ事にて候。 子方「いや我には父もなく母もなし。 師匠の勘当蒙りたれば。たゞ伴ひて行き給へ。 ワキ「此上は辞退申すに及ばずして。 此御笠を参らすれば。子方「牛若此笠おつ取つて。 今日ぞ始めて憂き旅に。地下歌「粟田口松坂や。 四の宮河原逢坂の。 関路の駒の後に立ちて。いつしか商人の主従となるぞ悲しき。 上歌「藁屋の床の古。/\。 都の外の憂き住まひ。 さこそはと今思ひ粟津の原を打ち過ぎて。駒もとゞろと踏みならし。 勢田の長橋うち渡り。野路の夕露守山の。 下葉色照る日の影もかたぶくに向ふ夕月夜。 鏡の宿に着きにけり/\。

ワキ詞「急ぎ候ふ程に。鏡の宿に着きて候。 此処に御休あらうずるにて候。狂言シカ%\「。 子方「唯今の早打をよく/\聞き候へば。 我等が身の上にて候。 此侭にては適ふまじ。急ぎ髪を切り烏帽子を着。 東男に身をやつして下らばやと思ひ候。 詞「いかに此内へ案内申し候。 シテ「誰にて渡り候ふぞ。子方「烏帽子の所望に参りて候。 シテ「何と烏帽子の御所望と候ふや。 夜中の事にて候ふ程に。 明日折りて参らせうずるにて候。子方「急の旅にて候ふ程に。 今宵折りて賜り候へ。 シテ「さらば折りて参らせうずるにて候。まづ此方へ御入り候へ。 さて烏帽子は何番に折り候ふべき。 子方「三番の左折に折りて賜はり候へ。 シテ「これは仰にて候へども。 それは源家の時にこそ。今は平家一統の世にて候ふ程に。 左折は思ひもよらぬ事にて候。 子方「仰は尤にて候へども。思ふ子細の候ふ間。

唯折りて賜り候へ。 シテ「幼き人の御事にて候ふ程に。折りて参らせうずるにて候。 此左折の烏帽子について。 嘉例目出度き物語の候。 語つて聞。 かせ申さうずるにて候。 子方「さ。 らば御物語り候へ。 シテ詞「さても。 某が先祖にて候ふ者は。 もと。 は三条烏丸に候ひしよな。 いで。 其頃は八幡太郎義家。 阿部の貞。 任宗任を御追罰あつて。 程なく都に御上洛あり。某が先祖にて候ふ者に。 この左折の烏帽子を折らせられ。 君に御出仕ありし時。帝なのめに思し召され。

其時の御恩賞に。奥陸奥の国を賜つて候。 われらもまた其如く。 嘉例めでたき烏帽子折にて候へば。 此烏帽子を召されて程なく御代に。地「出羽の国の守か。 陸奥の国の守にかならせ給はん御果報あつて。 世に出で給はん時。

祝言申しゝ烏帽子折と。 召されでめでたう引出物たばせ給へや。あはれ何事も。 昔なりけり御烏帽子の左折のその盛。 源平両家の繁盛花ならば梅と桜木。四季ならば春秋。 月雪の眺いづれぞと。争ひしにやいつの間に。 保元のその以後は。平家一統の。 世となりぬるぞ悲しき。よしそれとても報あらば。 世変り時来り。をり知る烏帽子桜の花。 咲かん頃を待ち給へ。 シテ「かやうに祝ひつゝ。地「程なく烏帽子折り立たてゝ。 花やかに三色組の。烏帽子懸緒取り出し。 。 気高く結ひすまし召されて御覧候へとて。 お髪の上に打ち置き立ち退きて見れば。天晴御器量や。 これぞ弓矢の大将と申すとも不足よもあらじ。 シテ詞「日本一烏帽子が似合ひ申して候。 牛若「さらば此刀を参らせうずるにて候。 。シテ「いや/\烏帽子の代は定まりて候ふ程に。思ひもよらず候。

子方「唯御取り候へ。シテ「さらば賜らうずるにて候。 さこそ妻にて候ふ者の悦び候はん。 いかに渡り候ふか。ツレ「何事にて候ふぞ。 シテ「幼き人の烏帽子と御所望と仰せ候ふ程に。 折りて参らせ候へば。此刀を賜りて候。 なんぼう見事なる代にてはなきか。 よくよく見候へ。あら不思議や。 かやうの事をば天の与ふる事とは思ひ給はで。 さめざめと落涙は何事にて候ふぞ。 ツレ「恥かしや申さんとすれば言の葉より。 まづ先だつは涙なり。クドキ「今は何をか包むべき。 これは野間の内海にて果て給ひし。 鎌田兵衛正清の妹なり。常磐腹には三男。 牛若子生れさせ給ひし時。 頭の殿より此御腰の物を。 御守刀にとて参らさせ給ひし。その御使をば。 わらは申してさぶらふなり。痛はしや世が世にてましまさば。 かく憂き目をば見まじき物を。 あらあさましや候。

。 シテ詞「何と鎌田兵衛正清の妹と仰せ候ふか。ツレ「さん候。シテ「言語道断。 この年月添ひ参らすれども。 今ならでは承らず候。 さてこの御腰の物をしかと見知り申されて候ふか。 ツレ「こんねんだうと申す御腰の物にて候。シテ「げに/\承り及びたる御腰の物にて候。 さては鞍馬の寺に御座候ひし。牛若殿にて御座候ふな。 さあらば追つつき。 この御腰の物を参らせ候ふべし。おこともわたり候へ。や。 未だこれに御座候ふよ。これに女の候ふが。 此御腰の物を見知りたる由申し候ふ程に。 召し上げられて給はり候へ。 子方「不思議やな行くへも知らぬ田舎人の。 われに情の深きぞや。 シテツレ二人「人違へならば御許あれ。鞍馬の少人牛若君と。 見奉りて候ふなり。子方「げに今思ひ出したり。 もし正清がゆかりの者か。 ツレ「御目のほどのかしこさよ。妾は鎌田が妹に。

子方「あこやの前か。ツレ「さん候。 子方「げに知るは理われこそは。地「身のなる果の牛若丸。 人がひもなき今の身を。語れば主従と。 知らるゝ事ぞ不思議なる。 ロンギ地「はやしのゝめも明け行けば。/\。 。 月も名残の影うつる鏡の宿を立ち出づる。シテツレ二人「痛はしの御事や。 さしも名高き御身の。商人と伴ひて。 旅を飾磨の徒歩はだし。目もあてられぬ御風情。 子方「時代に変る習とて。世のため身をば捨衣。 怨と更に思はじ。 シテ「東路のおはなむけと思し召され候へとて。 地「この御腰の物を強ひて参らせ上げければ。 力なしとて請け取り我もしも世に出づならば。 思ひ。 知るべしさらばとて商人と伴ひ憂き旅に。 やつれはてたる美濃の国赤坂の宿に着きにけり/\。中入「。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 赤坂の宿に着きて候。いかに吉六。此処に宿を取り候へ。

吉六詞「畏つて候。狂言シカ%\「。 ワキ「これは何と仕り候ふべき。 吉六「我等も是非を弁へず候。子方「面々は何事を仰せ候ふぞ。 ワキ「さん候我等此処に泊り候ふを。 此辺の悪党ども聞き付け。 今夜夜討に討たうずるよし申し候ふ程に。左様の談合仕り候。 子方「たとひ大勢ありとても。 表にたゝん兵を。五十騎ばかり斬り伏すならば。 やはか退かぬ事は候ふまじ。 ワキ「これは頼もしき事を仰せ候ふ物かな。 悉皆たのみ候。子方「面々は武具して待ち給へ。 我は大手に向ふべしと。地「夕も過ぎて鞍馬山。 /\。年月習ひし兵法の術を今こそは。 現し衣の妻戸を。 開きて沖つ白波の打ち入るを遅しと待ち居たり/\。早鼓「。 後ツレ大勢「寄せかけて。打つ白波の音高く。 鬨を作つて騒ぎけり。 後シテ詞「如何に若者ども。後ツレ「御前に候。 シテ「大手がくわつと開けたるは。内の風ばし早いか。

ツレ「さん候内の風早くして。或は討たれ。 又は重手負ひたると申し候。 シテ「不思議やな内には吉次兄弟ならではあるまじきが。 さて何者かある。 ツレ「投げ松明の影より見候へば。年の程十二三ばかりなる幼き者。 小太刀にて切つて廻り候ふは。 さながら蝶鳥の如くなる由申し候。 シテ「さて摺鉢太郎兄弟は。ツレ「是は火振の親方として。 一番に斬つて入りしを。 例の小男わたり合ひ。兄弟の者の細首を。 唯一討に打ち落したるよし申し候。シテ「えい/\何と/\。 かの者兄弟は余の者五十騎百騎にはまさうずるものを。あゝ斬つたり/\。 詞「彼奴は曲者よ。 ツレ「高瀬の四郎はこれを見て。 今夜の夜討悪しかりなんとや思ひけん。手勢七十騎にて退いて帰りて候。 シテ「彼奴は今に始めぬ臆病者。 さて松明の占手はいかに。 ツレ「一の松明は斬つて落し。二の松明は踏み消し。

三は取つて投げ返して候ふが。 三つが三つながら消えて候。シテ「それこそ大事よ。 それ松明の占手といつぱ。一の松明は軍神。 二の松明は時の運。三はわれらが命なるに。 三つが三つながら消ゆるならば。 今夜の夜討はさてよな。ツレ「御諚の如く。 此まゝにては鬼神にてもたまるまじく候。 唯退いて御帰り候へ。シテ「実に/\盗も命のありてこそ。いざ退いて帰らう。 ツレ「尤もにて候。シテ「いや熊坂の長範が。 今夜の夜討を仕損じて。 何くに面を向くべきぞ。唯攻め入れや若者どもと。 大音あげて呼ばはりけり。 地「鬨を作つて斬つて入りけり。 地「あら。物々しや己等よ。/\。 先に手並は知りつらん。 それにも懲りず打ち入るか。 八幡も御知見あれ一人も助けてや。 らじものをと小口に立つてぞ待ちかけたる。カケリ「。上「熊坂の長範六十三。/\。

今宵最後の夜討せんと。鉄屐を踏ん脱ぎ捨て。 五尺三寸の大太刀を。 するりと抜いてうちかたげ。をどり歩みにゆらり/\と歩み出でたる有様は。 いかなる天魔鬼神も面を向くべきやうぞなき。 上「あらはかばかしや盗人よ。/\。 めだれ顔なる夜討はするともわれには適はじものをとて。 隙間あらせず斬つてかゝる。 熊坂も大太刀遣の曲者なれば。 さそくをつかつて十方切。八方払や腰車。破圦の返し。 風まくり。剣降らしや獅子の歯がみ。紅葉重。

花重三つ頭より火を出して。 しのぎを削つて戦ひしが。秘術を尽す。 大太刀も御曹司の小太刀に斬り立てられ。 請太刀となつてぞ見えたりける。太鼓歌「。 上地「打物業にて適ふまじ。/\。 組んで力の勝負せんとて太刀投げ捨てゝ。 大手を広げて飛んでかゝるを。背けて諸膝薙ぎ給へば。 斬られてかつぱと転びけるが。 起き上らんとてつゝ立つ所を。 真向よりも割りつけられて。 一人と見えつる熊坂の長範も二つになつてぞ失せにける 山伏 鞍馬東谷の僧 能力 牛若丸 大天狗

シテ詞「かやうに候ふ者は。 鞍馬の奥僧正が谷に住居する客僧にて候。 さても当山において。 花見の由うけたまはり及び候ふ間。

立ち越えよそながら梢をもながめばやと存じ候。 。 狂言「これは鞍馬の御寺に仕へ申す者にて候。 さても当山において毎年花見の御座候。殊に当年は一段と見事にて候。

さる間東谷へ唯今文を持ちて参り候。 いかに案内申し候。 西谷より御使にまゐりて候。これに文の御座候御らん候へ。 ワキ詞「何々西谷の花。 今を盛と見えて候ふに。など御音信にもあづからざる。 一筆啓上せしめ候ふ古歌にいはく。 けふ見ずはくやしからまし花ざかり。 咲きものこらず散りもはじめず。 げにおもしろき歌の心。たとひ音づれなくとても。 木蔭にてこそ待つべきに。地歌「花咲かば。 告げんといひし山里の。/\。 使は来たり馬に鞍。鞍馬の山の雲珠桜。 たをり枝折をしるべにて。奥も迷はじ咲きつゞく。 木蔭に並み居ていざ/\花をながめん。 狂言「いかに申し候。 あれは客僧の渡り候。これは近頃狼藉なる者にて候ふ。 追つ立てうずるにて候。ワキ詞「しばらく。 さすがに此御座敷と申すに。 源平両家の童形達各御座候ふに。

かやうの外人は然るべからず候。 しかれども又かやうに申せば人を選び申すに似て候ふ間。 花をば明日こそ御らん候ふべけれ。まづ/\此処をば御立ちあらうずるにて候。 狂言「いやい。 やそれは御諚にて候へども。 あ。 の客僧を追ひ立。 てうずるにて候。 ワキ「いやた。 だ御立あらうずるにて候。 。 シテ「遥に人家を。 見て花あれば即ち入る。 論ぜ。 ず貴賎と親疎と。 を弁へぬをこそ。春の習と聞くものを。 浮世に遠き鞍馬寺。本尊は大悲多聞天。 慈悲に洩れたる人々かな。

子方「げにや花の下の半日の客。月の前の一夜の友。 それさへ好みはあるものを。 あら痛はしや近うよつて花御らん候へ。シテ詞「思ひよらずや松虫の。 音にだに立てぬ深山桜を。 御訪の有難さよ此山に。子方「ありとも誰かしら雲の。 立ち交はらねば知る人なし。 シテ詞「誰をかも知る人にせん高砂の。子方「松も昔の。

シテ「友烏の。地「御物笑の種蒔くや。 言の葉しげき恋草の。 老をな隔てそ垣穂の梅さてこそ花の情なれ。花に三春の約あり。 人に一夜を馴れそめて。 後いかならんうちつけに心空に楢柴の。 馴れは増らで恋のまさらん悔しさよ。 シテ詞「いかに申し候。 唯今の児達は皆々御帰り候ふに。 何とて御一人是には御座候ふぞ。 子方詞「さん候唯今の児達は平家の一門。 中にも安芸の守清盛が子供たるにより。 一寺の賞翫他山のおぼえ時の花たり。みづからも同山には候へども。 よろづ面目もなき事どもにて。 月にも花にも捨てられて候。シテ「あら痛はしや候。 さすがに和上臈は。常磐腹には三男。 毘沙門の沙の字をかたどり。 御名をも沙那王殿と付け申す。 あら痛はしや御身を知れば。所も鞍馬の木蔭の月。 地「見る人もなき山里の桜花。

よその散りなん後にこそ。 咲かばさくべきにあら痛はしの御事や。 地歌「松嵐花の跡訪ひて。/\。 雪と降り雨となる。哀猿雲に叫んでは。 腸を断つとかや。心凄のけしきや。 夕を残す花のあたり。鐘は聞えて夜ぞ遅き。 奥は鞍馬の山道の。 花ぞしるべなる此方へ入らせ給へや。 さても此程御供して見せ申しつる名所の。ある時は。愛宕高雄の初桜。 比良や横川の遅桜。吉野初瀬の名所を。 見のこす方もあらばこそ。 ロンギ子方「さるにても。 如何なる人にましませば。我を慰め給ふらん。 御名を名のりおはしませ。シテ「今は何をか包むべき。 我此山に年経たる。大天狗は我なり。 地「君兵法の。 大事を伝へて平家を亡ぼし給ふべきなり。さも思しめされば。 明日参会申すべし。さらばといひて客僧は。 大僧。

正が谷を分けて雲を踏んで飛んでゆく立つ雲を踏んで飛んでゆく。来序中入間「。 後子方一声「さても沙那王がいでたちには。 肌には薄花桜の単に。顕紋紗の直垂の。 露を結んで肩にかけ。 白糸の腹巻白柄の長刀。地「たとへば天魔鬼神なりとも。 さこそ嵐の山桜。 はなやかなりける出立かな。後シテ大〓{大漢和:22529。べし}「そも/\これは。 鞍馬の奥僧正が谷に。年経て住める。大天狗なり。 地「まづ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。 シテ「彦山の豊前坊。地「四州には。シテ「白峯の。 相模坊。大山の伯耆坊。 地「飯綱の三郎富士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。 よそまでもあるまじ。邊土においては。 シテ「比良。地「横川。シテ「如意が嶽。 地「我慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。 霞とたなびき雲となつて。 月は鞍馬の僧正が。地「谷に満ち/\峯をうごかし。 嵐こがらし滝の音。 天狗だふしはおびたたしや。

シテ詞「いかに沙那王殿。 只今小天狗をまゐらせて候ふに。 稽古の際をばなんぼう御見せ候ふぞ。 子方詞「さん候只今小天狗共来り候ふ程に。薄手をも切りつけ。 稽古の際を見せ申したくは候ひつれども。 師匠にや叱られ申さんと思ひ止まりて候。 シテ「あらいとほしの人や。 さやうに師匠を大事に思しめすに就いて。 さる物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。 語「さても漢の高祖の臣下張良といふ者。 黄石公にこの一大事を相伝す。 ある時馬上にて行きあひたりしに。 何とかしたりけん左の履を落し。 いかに張良あの履とつてはかせよといふ。 安からずは思ひしかども履を取つてはかす。 又其後以前の如く馬上にて行きあひたりしに。 今度は左右の履を落し。 やあ如何に張良あの履取つてはかせよといふ。 なほ安からず思ひしかども。

よし/\この一大事を相伝する上はと思ひ。落ちたる履をおつとつて。 地「張良履を捧げつゝ。/\。 馬の上なる石公に。 はかせけるにぞ心とけ兵法の奥儀を伝へける。シテ「そのごとくに和上臈も。 地「そのごとくに和上臈も。 さも花やかなる御有様にて姿も心も荒天狗を。 師匠や坊主と御賞翫は。 いかにも大事を残さず。 伝へて平家を討たんと思し召すかややさしの志やな。 地歌「抑武略の誉の道。舞働「。 抑武略の誉の道。

源平藤橘四家にも取りわきかの家の水上は。清和天皇の後胤として。 あらあら時節を考へ来るに。 驕れる平家を西海に追つ下し。 煙波滄波の浮雲に飛行の自在を受けて。敵を平らげ。 会稽を雪がん。御身と守るべし。これまでなりや。 御暇申して立ち帰れば。牛若袂に。 すがり給へば実に名残あり。 西海四海の合戦といふとも。 影身を離れず弓矢の力を添へ守るべし。 頼めやたのめと夕かげくらき。頼めやたのめと。夕かげくら馬の。 梢に翔つて。失せにけり (是界、是我意などとも書く) 大唐の善界坊 愛宕の太郎坊 比叡山僧 従僧

シテ次第「雲路を凌ぐ旅の空。 雲路を凌ぐ旅の空出づる日の本尋ねん。 詞「是は大唐の天狗の首領善界坊にて候。 扨も我が国に於て。育王山青龍寺。般若台に至るまで。

少しも慢心の輩をば。 皆我が道に誘引せずと云ふ事なし。誠や日本は。 粟散辺地の小国なれども神国として。 仏法今に盛んなる由承り及び候ふ間。

急ぎ日本に渡り。仏法をも妨げばやと存じ候。 道行「名にしおふ。豊芦原の国津神。/\。 青海原にさし下ろす。天の瓊矛の。 露なれや秋津島根の朝ぼらけ。 其方もしるく浮ぶ日の。神の御国は。 これかとよ神の御国はこれかとよ。 シテ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや日本の地に着きて候。 先承り及びたる愛宕山に立ち越え。 太郎坊に案内を申さばやと存じ候。これは早愛宕山にてありげに候。 山の姿。木の木立。 これこそ我等が住むべき処にて候へ。如何に案内申し候。 ツレ「誰にて渡り候ふぞ。 シテ「これは大唐の天狗の首領善界坊にて候ふが。 御目にかゝり申し談ずべき子細の候ひて。 これまで遥々参りて候。 ツレ「さては承り及びたる善界坊にて渡り候ふか。 先某が庵室へ御入り候へ。 さて唯今は何のために御出にて候ふぞ。シテ「さん候。

唯今参る事余の儀にあらず。我が国に於て。 育王山青龍寺。般若台に至るまで。 少しも慢心の輩をば。 皆我が道に誘引せずと云ふ事なし。 誠や日本は小国なれども神国として。仏法今に盛なる由承り候ふ間。 少し心にかゝり。遥々これまで参りて候。 同じくは御心を一つにして。 自他の本意を達し給へ。 ツレ「さてはやさしくも思し召し立ち候ふものかな。 それ我が国は天地開闢より此方。まづ以て神国たり。 されば仏法今に盛なり。まづ/\間近き比叡山。あれこそ日本の天台山候ふよ。

心のまゝに窺ひ給へ。 シテ「さてはいよ/\便あり。それ天台の仏法は。 権実二教に分ち。ツレ「又密宗の奥義を伝へ。 シテ「顕密兼学の所なるを。 ツレ「我等如きの類として。シテ「たやすく窺ひ。 ツレ「給はん事。 地「蟷螂が斧とかや猿猴が月に相同じ。かくは知れどもさすがなほ。 我慢増上慢心の。便を得んと思ふにも。 大聖の威力をいよ/\案じ連ねたり。 。地クリ「それ明王の誓約まち/\なりと云へども。其利益余尊に超え。 正しく火生。 三昧に入り給ひて一切の魔軍を焚焼せり。 シテサシ「外には忿怒の相を現ずといへども。地「内心慈悲の御恵。 凝念不動の理を顕し。但住衆生心想之中。 げにありがたき悲願かな。クセ「然りとはいへども。 輪廻の道を去りやらで。魔境に沈むその歎。 思ひ知らずや我ながら。過去遠々の間に。 さすが見仏聞法の。その結縁の功により。

三悪道を出でながら。 なほも鬼畜の身を借りて。 いとゞ仏敵法敵となれる悲しさよ。今此事を歎かずは。 未来永々を経るとても。いつか般若の智水を得て。 火生三昧の。焔を遁れ果つべき。 シテ「世の中は。夢か現か現とも。 詞「夢ともいさや白雲の。 かゝる迷を翻し帰服せんとは思はずして。いよ/\我慢の旗矛の。 靡きもやらで徒に。行者の床を窺ひて。 降魔の利剣を待つこそはかなかりけれ。 ロンギツレ「かくては時刻移りなん。 いざ諸共に立ち出でて。比叡の山辺の案内せん。 シテ「法の為。今ぞ愛宕の山の名に。 頼を懸けて思ひ立つ雲の。桟うち渡り。 地「我が名やよそに高尾山。東を見れば大比叡や。 シテ「横河の杉の梢より。 地「南に続く如意が嶽鷲の御山の。 雲や霞も嵐と共に失せにけり嵐と共に失せにけり。来序中入前。 ワキ、ワキツレ二人一声「勅を受け。

我が立つ杣を出でながら。急ぐも同じ名に高き。大内山の。 道ならん。ワキ「かくてやう/\大比叡を。 下りつゝ行けば不思議やな。 あれに見えたる下り松の。地歌「梢の嵐吹きしをり。 /\。雲となり雨となり。 山河草木震動し。天に輝く電光。大地に響く雷は。 肝魂を暗まかす。こはそも何の。 故やらんこはそも何の故やらん。 後シテ大〓{大漢和:22529。べし}「そも/\これは。 大唐の天狗の首領。善界坊とは。我が事なり。 詞「あら物物しや如何に御坊。 今更何の観念をかなせる。それ若作障碍即有一仏。 魔境と説けり。あら痛はしや。欲界の。 内に生るる輩は。地「悟の道や其まゝに。 魔道の巷と。なりぬらん。 地歌「不思議や雲の中よりも。/\。 邪法を唱ふる声すなり。本より魔仏。 一如にして。凡聖不二なり。 自性清浄天然動なき。これを不動と名づけたり。イロエ「。

ワキ詞「聴我説者得大智恵。吽多羅〓{大漢和:03302。た}干満。 地「その時御声の下よりも。/\。 明王現れ出で給へば。矜迦羅制多伽十二天。 各降魔の力を合はせて。御先を払つて。 おはします。働。 シテ「明王諸天はさて置きぬ。地「明王諸天はさて置きぬ。 東風吹く風に。東を見れば。シテ「山王権現。 地「南に男山。西に松の尾北野や賀茂の。 山風神風吹き払へば。 さしもに飛行を翅も地に落ち力も槻弓の八洲の波の。 立ち去ると見えしが又飛び来り。さるにても。 かほどに妙なる。仏力神力今より後は。 来るまじと。云ふ声ばかりは虚空に残り。 言ふ声ばかり。虚空に残つて。姿は雲路に。 入りにけり 天狗(前ハ天狗) 車僧

ワキ次第「後の世かけて車僧。/\常寝の眠いつまで。上歌「降り曇る。 空は小倉の嶺の雪。/\。散るや嵯峨野の嵐山。 瀧の響も声そへて。重なる雲の大井川。 筏の床の浮枕かたしく袖も白妙の。 空も程なくめぐる日の。西山本に着きにけり/\。 詞「暫く其処に車を立て。 四方の景色を詠めうずるに候。 シテ「いかに車僧。ワキ「何事ぞ。 シテ「浮世をば。ワキ「浮世をば。シテ「浮世をば。 何とか廻る車僧。 まだ輪のうちにありとこそ見れ。ワキ「浮世をば廻らぬものを車僧。 詞「乗りも得るべきわがあらばこそ。 シテ「乗。 りも得るべきわがあらばこそと云ふは誰そ。ワキ「空洞風涼し。

シテ「我が名のみ高雄の山にいひ立つる。 ワキ「人は愛宕の峯に住むな。シテ「さてお僧の住家は。 ワキ「一所不住。シテ「車は如何に。 ワキ「火宅の出車。シテ「廻れど。ワキ「廻らず。 シテ「押せど。ワキ「押されず。シテ「引くも。 ワキ「引かれぬ。シテ「車僧の。 地「三界無安猶如火宅をば。出でたる三つの。車僧かな。 廻る。 も直なる道なりけりおう乗り得たり乗り得たり。地上歌「見聞く人。心空なる雲水の。 /\。ふかだつ空も冷まじく。 嵐の声ゝに愛宕山。嶺どよむまで響き合ひて。 車路はなけれども。我が住む方は愛宕山。 太郎坊が庵室に。御入りあれや車僧と。 呼。 ばはりて夕山の黒雲に乗りて上がりけり/\。来序中入。

後シテサシ「愛宕山樒が原に雪積り。 花摘む人の跡だにもなし。 詞「実に雪中に山路なし。さて車輪はいかに車僧。 われ程貴き者あらじと。慢心の心路跡なからんや。 然らば無着法欲心に。引くか移るか車僧。 魔道にも心を寄せよ車僧。 地「善悪二つは両輪の如し。シテ「仏法あれば世法あり。 地「煩悩あれば菩提あり。 シテ「仏あれば衆生もあり。地「車僧あれば。 シテ「太郎坊の行者もあり。地「祈らば祈るべし。 行ぜば行徳も。劣るまじとよ/\いざ車僧行較べせん。 ワキ詞「いかに汝妨ぐるとも。 それには寄らじ争はじ。われはもとより不増不滅。 あら面白の時節やな。 シテ詞「げに面白き時節ならば。雪中の車を廻らし。 嵯峨野の原にいざ遊ばん。 ワキ「遊ばは?遊べいとゆふの。我が心をば引かれめや。 シテ「などかは引かであるべきと。

笞を振り上げ車を打つ。 ワキ「おう車を打たば行くべきか。牛を打たば行くべしや。シテ「げに/\車は心なし。 さて牛を打たんもあらばこそ。ワキ「愚や汝人牛の道。 見えたる牛をばなど打たぬ。 シテ「見えたる牛とはさていかにそも人牛は。 ワキ「打つとも行かじ。シテ「さて御僧の打たば行くべきか。 ワキ「中ゝの事。いで/\さらば露地の白牛を打つて見せんと。 払子を上げて虚空を打てば。地「不思議やなこの車の。/\。 ゆるぎ廻りて今までは。 足弱車と見えつるが。牛も無く人も引かぬにやす/\と遣りかけて飛ぶ。車とぞなりにける。

ロンギ上「小車の。山の蔭野の道すがら。 法の道の辺遊行して。 貴賎の利益なすとかや。シテ「処から。 こゝは浮世の嵯峨なれや。雪の古道跡深き。車の轍は足引の。 大雪にはよも行かじ。 地「げに雪山の道なりと。法の車路平かに。 シテ「行くか行かぬか此原の。地「草の小車雨そへて。 シテ「打てども行かず。地「とむれば進む。 シテ「此車の。地「法の力とて。嵯峨小倉大井嵐の。 山河を飛び翅?つて。 眩惑すれども騒がばこそ。真に奇特の車僧かな。 あら貴や恐ろしやと。魔障を和らげ大天狗は。 合掌してこそ失せにけれ 里女(神霊) 里女(神霊) 解脱上人 素盞嗚尊 第六天魔王 従僧。

ワキ次第(三人)「心の花を手向とて。/\。 大神宮に参らん。

ワキ詞「是は解脱と申す沙門にて候。われ未だ大神宮に参らず候ふ程に。 此度思立ち伊勢参宮と志し候。道行「旅衣。

けふ九重を立ち出でて。末は音羽の山桜。 花の瀧川これぞこの。 行くも帰るも逢坂の。杉の木の間に波よする。湖向ふ鏡山。 やう/\行けば鈴鹿路や。 多気の都の程もなく度会の宮に。着きにけり/\。 シテ、ツレ二人、真ノ一声「神路山。 御裳濯川のそのかみに。契りし事の末は違はじ。 ツレ二ノ句「永き代までも仕へ来て。 二人「尽きぬ恵はたのもしや。 シテ「見渡せば千木も曲まずかたそぎも反らず。 二人「これ正直捨方便の象を現すかと見え。古松枝を垂れ。 老樹緑を添へ。皆これ上求菩提の相を表す。 ありがたかりし。宮居かな。下歌「神風に。 心安くぞ任せつる。上歌「桜の宮の花盛。/\。 花の白雲立ち迷ひ空さへ匂ふ月読の。 洩り来る影も長閑にて。 知るも知らぬも道のべの。 行きかふ袖の花の香に春一入の気色かな春一しほの景色かな。 。

シテ「これなる御僧はいづくよりの御参詣にて候ぞ。 ワキ「是は都方より出でたる沙門にて候。 和光同塵の本願は結縁の始。 濁世のわれら何ぞ神力の妙薬を蒙らざらんや。神秘を委しく語り給へ。 シテ「優しき人のいひごとや。 懇に語り参らせうずるにて候。 地クリ打掛「それ御裳濯川といつぱ。倭姫の命。 七百余歳に至るまで。 宮居を尋ねおはします。シテサシ「然れば当国二見の浦に上り。 地「裳濯のけがれ給ひしを。 此川にて洗ひしにより。御裳濯川と申すなり。 クセ「そも/\当社は垂仁の御宇にはじめて。 下津岩根に宮柱ふとしき立てゝ。 日神月神を。あがめ申すなり。蛭子素盞嗚は。 枝を連ぬる御神。高天の原の昔より。 シテ「今も変らぬ神徳の。地「その品々の方便を。 語るも。いかで尽さまし。 仰ぎてもなほあまりあり。かゝる恵をおしなべて。 頼めや頼め神の告。木綿四手に榊葉添へ。

御法の障碍あるべしと。夢に来りて申すとて。 かき消すやうに失せにけり/\。 来序中入。 ワキ「かくて神前に心を澄ますをりふしに。地「俄に大空さえかへり。 風雨雷電肝を消し。六種の。震動夥しや。 大■{やまいだれに悪}後シテ「抑これは仏法を破却する。 第六天の魔王とは我が事なり。 地「さて又供奉は誰々ぞ。シテ「六天には煩悩の悪魔。 地「陰魔死魔。シテ「天子業魔。 地「其外従類悟の道を。障碍の群鬼は。さま%\なり。 ワキ「其時解脱合掌して。 地「其時解脱合掌して。観念をなしければ。

不思議や天つ空よりも。素盞嗚現れ出で給へり。 早笛上「即ち素盞嗚現れ給ひ。 即ち素盞嗚現れ給へばさしもに猛き。 六天なれども恐をなしてぞ。見えたりける。 舞働 後ツレ「素盞嗚猶も怒り給ひ。 地「素盞嗚猶も怒り給ひて。宝棒を取り直し打たんとせしに。 飛び違ひ須弥に。 上らんとするを引きとゞめ大地に打ち伏せて。忽ちさん%\に苦を見せ給へば今より此土に来るまじと。 誓をなせば。尊は雲居に上らせ給ひ。 魔王は通力つき果てゝ。虚空に跡なく。 失せにけり 山僧 山伏 天狗 帝釈天王

ワキサシ「それ一代の教法は。 五時八教をけづり。教内教外を分たれたり。 五時と云つぱ華厳阿含方等般若法華。

四教とはこれ蔵通別円たり。遮那教主を受け。 五想成身の峰を開きしより以来。 たれか仏法を崇敬せざらん。げに有難き。

御法とかや。地歌「鷲の御山をうつすなる。/\。 一仏乗の嶺には。真如の恵日まどかなり。 鳥三宝を念じて。風常楽と音づるゝ。 げにたぐひなき。 深山かなげにたぐひなき深山かな。 シテサシ「月は古殿の灯をかゝげ。 風は空廊の箒となつて。石上に塵なく滑らかなる。 苔路をあゆみよるべの水。 あら心すごの山洞やな。 詞「いかに此庵室の内へ案内申し候。ワキ「我禅観の窓に向ひ。 心を澄ます所に。 案内申さんとは如何なるものぞ。 シテ「これは此あたりに住居する客僧にて候。我すでに身まかるべきを。 御憐により命たすかり申すこと。かへす%\も有難う候。 この事申さん為にこれまでまゐりて候。 ワキ「これは思ひもよらぬ事を承り候ふ物かな。 命をたすけ申すとは更に思ひもよらず候。 シテ「都東北院のあたりにての御事なり。

定めて思し召し合はすべし。かばかりの御志。 などかは申し上げざらん。詞「此報恩に何事にてもあれ。 御望の事候はゞ。刹那に叶へ申すべし。 ワキ「げにさる事のありしなり。 又望を叶へ給はん事。此世の望更になし。 たゞし釈尊霊鷲山にての御説法のありさま。 まのあたりに拝み申したくこそ候へ。 シテ「それこそ易き御望なれ。 まことさやうに思し召さば。 すなはち拝ませ申すべしさりながら。貴しと思し召すならば。 必ず我が為悪しかるべし。 かまへて疑ひ給ふなと。地歌「かへす%\も約諾し。/\。 さあらばあれに見えたる。 杉一村に立ちよりて。目をふさぎ待ち給ひ。 仏の御声の聞えなば。其時。両眼をひらきて。 よくよく御覧候へと。いふかとみれば雲霧。 。ふりくる雨の足音ほろ/\とあゆみ行く道の。木の葉をさつと吹きあげて。 梢にあがり。谷にくだり。かき消すやうに。

。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。来序中入間「。 後シテ出端(又ハ大〓{やまいだれ+悪})「それ山は小さき土くれを生ず。 かるが故に高き事をなし。 海は細き流を厭はず故に。深き事をなす。 地歌「ふしぎや虚空に音楽ひゞ。/\。仏の御声。 あらたに聞ゆ。両眼をひらき。 あたりを見れば。シテ「山はすなはち霊山となり。 地「大地は金瑠璃。 シテ「木はまた七重宝樹となつて。地「釈迦如来獅子の座に。 あらはれ給へば。普賢文殊。左右に居給へり。 菩薩聖衆。雲霞の如く。 砂の上には龍神八部。おの/\拝し囲繞せり。 シテ「迦葉阿難の大声聞。地「迦葉阿難の大声聞は。 一面に座せり。空より四種の。 花ふりくだり。天人雲に。連り微妙の音楽を奏す。 如来肝心の。法文を説き給ふ。 実に有難き。景色かな。ワキ「僧正其時たちまちに。 地「僧正其時たちまちに。信心を発し。

随喜の涙。眼に浮び。一心に合掌し。 帰命頂礼大恩教主。釈迦如来と。 恭敬礼拝するほどに。俄に台嶺。 ひゞき震動し帝釈天よりくだり給ふと見るより天狗。 おのおのさわぎ。恐をなしける。不思議さよ。イロエより早笛「。 地歌「刹那が間に喜見城の。/\。 帝釈現れ数千の魔術を。あさまになせば。 ありつる大会。ちり%\になつてぞ見えたりける。舞働「。ツレ「帝釈此時いかり給ひ。

地「帝釈此時いかり給ひ。 かばかりの信者をなど驚かすと。たちまちさん%\に苦を見せ給へば羽風をたてゝ。翔らんとすれども。 もぢり羽になつて。飛行も叶はねば。 おそれ奉り。拝し申せば。 帝釈すなはち雲路をさして。あがらせ給ふ。 其時天狗は岩根をつたひ。くだるとぞ見えし。 岩根をつたひ。下ると見えて。深谷の岩洞に。 入りにけり 山伏 同行天狗 天狗の眷属 大天狗 役行者 伎楽 童子

ワキ、ワキツレ次第「法のためにと篠懸は。/\。 山又山を分けうよ。 ワキ詞「これは峯入先達の山伏にて候。此度又諸国の山伏達を伴ひ。 唯今峯入仕り候。道行三人「葛城や。

高間の嶺の朝朗。/\。 花かと見えて白雲の行衛はるけき岨伝なべてとふべき旅にやは。 我は法にとそみかくだ。 苔の筵もいとはじや/\。

。シテアシラヒ出「とう/\たる山路いづれの時かつきん。けつ/\たるけいせん到る処にきく。 風えうせいを動かしてさんけんぽふ。いづれのしようくわし雲をへだつ。 あら心すごの山洞やな。 ワキ詞「我観念の眼の前には。 三密の月すみやかにして。れう/\とあるをりふしに。 忽然と。来る者をみれば。 さも不思議なる人体なり。 シテ「御身いくばくの法力を得。かばかりの慢心を具足せし。 其妄念はいかならん。ワキ「うゝ扨は心得たり。 我が行力を妨げんとて。 魔軍の霊鬼来りたるな。おろかなりとよ法性の。 月は曇らぬ山陰に。現れ出づる名を名乗れ。 シテ「我。 は此山陰に年経て住める大天狗の眷属なり。まづ此よしを師匠に申さん。 其程はこゝに待ち給へと。地「夕の雲も凄じく。 /\。嵐はげしき高根より。 らうせいの高声にて帰れといへば谷嶺も。

響き渡れる山びこの。呼べば答へて失せにけり/\。 来序中入間「。「山河草木震動し。 風は木を折つて磐石を崩す天狗だふしに。 心も乱るゝばかりなり。 早笛、地「不思議や高根に吹き乱れ。/\。 嵐木がらしうづまくと見えしが現れ出でたる大天狗の。 はしあし剣の如くにて両眼日月に。異らず。 イノリ、ワキ三人「旋陀摩訶〓{口へん+魯}遮那。娑婆多耶吽多羅化漢満。 旋陀摩訶〓{口へん+魯}遮那。娑婆多耶吽多羅化漢満。 旋陀摩訶〓{口へん+魯}遮那。娑婆多耶吽。 地「行者の加持力隙もなく。/\。 もみ掛け責めかけ祈り給へば。其時窟は鳴動して。 大石左右へ。 聞くと見えしが各眷属二行に坐して役の行者は現れたり。 ツレ「汝知らずや我はこれ今末の世に至るまで。 仏法を守護し衆生を守る。開山役の優婆塞なり。 地「大天狗はこれを見て。/\。 驚き高根にのぼらんとするを。伎楽童子は追詰め給ひ。 散々。

に打ちふせ苦を見せたまへば梢にすがり遥の谷に下りけるを。 。 ツレ「行者は御杖を取直し 地「汝知らずや神国たり。など仏法に妨をなしゝと。 怒。

り給へば今より後は仏法を守護神となるべしと。約諾かたき岩根をかけり。 かけり。行けば。優婆塞は眷属を伴ひ給ひ。 優婆塞は眷属を伴ひ給ひて。 また巌窟にぞ入り給ふ。 西行法師 老人 崇徳院の霊 相模坊

ワキ次第「風の行方をしるべにて。/\松山にいざや急がん。 詞「これは嵯峨の奥に住居する西行法師にて候。 さても新院本院位を争ひ。新院うち負け給ひ。 讃岐の国へ流され。 松山と申す処にてほどなく崩御ならせ給ひたる由承り及び候ふほどに。 御跡弔ひ申さんために。 唯今讃岐の国へと急ぎ候。 道行「思ひ立つ心も西に行く月の。/\。幾夜な夜なの仮枕。 その数いざや白雲の。かゝる旅路を過し来て。 讃岐の国に着きにけり。/\。

詞「急ぎ候ふほどに。讃岐の国に着きて候。 人を相待ち新院の御廟所松山を尋ねばやと思ひ候。 シテ一声「道芝の。露踏み分くる来る通路の。 山風さそふ。心かな。 ワキ詞「いかにこれなる尉殿。 御身は此あたりの人にてましますか。 シテ詞「さん候これは此あたりの者にて候。 御僧は何くより何方へ御通り候ふぞ。 ワキ「是は都嵯峨の奥に住居する西行と申す者にて候ふが。 新院此讃岐の国へ流され給ひ。 程なく崩御ならせ給ひたる由承りて候ふ程に。

御跡を弔ひ申さん為これまで参りて候。 松山の御廟所を教へて賜はり候へ。 シテ「さ。 ては天下に隠なき西行上人にてましますかや。 先づあれに見えたる大山は白峯と申す高山なり。 少しあなたに見え候ふこそ。新院の御廟所松山にて候へ。 御道しるべ申さんと。御僧を誘ひ奉り。 地「行方も知らぬ旅人に。/\。 はや馴れそめて色々の。情ある言の葉の。 心の中ぞありがたき。まだ踏みも見ぬ山道の。 岩根を伝ひ谷の戸の。 苔の下道たどり来て。 風の音さへ冷ましき松山に早く着きにけり松山に早く着きにけり。 。 シテ詞「これこそ新院の御廟所松山にて候へ。 なんぼうあさましき御有様にて候ふぞ。 ワキ「さてはこれなるが新院の御廟にてましますかや。昔は玉楼金殿の御住居。 百官卿相にいつかれ給ひし御身の。 かかる田舎の苔の下。

人も通はぬ御廟所のうち。涙も更にとゞまらず。 あら御痛はしや候。詞「かくあさましき御有様。 涙ながらにかくばかり。 よしや君昔の玉の床とても。 かゝら。 ん後は何にかはせん。 シテ詞「あ。 ら面白の御詠歌や。 賎しき身にも思ひやりて。 。 西行を感じ奉れば。 ワキ「実にや処も天ざかる。 。 地「鄙人なれどかくばかり。 /\。 心知らるる老の波の立ち舞ふ姿まで。 さもみやびたる気色かな。春を得て咲く花を。 見る人もなき谷の戸に。 鳴く鴬の声までも処からあはれを催す春の夕かな。

ワキ詞「いかに尉殿。君御存命の折々は。 い。 かなる者か参り御心を慰め申して候ふぞ。シテ「君御存命の折々は。 都の事を思し召し出し。御逆鱗のあまりなれば。 魔縁みな近づき奉り。 あの白峰の相模坊にしたがふ天狗ども。 参るより外は余の参内はなく候。かやう申す老人も。

常々参り木蔭を清め。御心を慰め申しゝなり。 詞「さても西行唯今の詠歌の言葉。 肝に銘じて面白さに。老の袂をしぼるなり。 地「暇申してさらばとて。 又立ち帰る老の波。 翁さびしき木の本に立ち寄ると見えしが影の如くに失せにけり。中入間「。 後シテ出端「五薀もとより皆これ空。 何によつて平生の身を愛せん。 躯を守る幽魂夜月に飛ぶ。詞「いかに西行。 これまで遥々下る志こそ。返す%\も嬉しけれ。 又唯今の詠歌の言葉。肝に銘じて面白さに。 いでいで姿を現さんと。 地「云ひもあへねば御廟しきりに鳴動して。 玉体あらはれおはします。真に妙なる玉体の。/\。 花の顔ばせたをやかに。こゝも雲井の都の空の。 夜遊の舞楽は。/\。面白や。舞「。 地「かくて舞楽も時過ぎて。/\。 御遊の袂を返し給ひ。舞ひ遊び給へば。 又古の都の憂き事を。思し召し出し。

逆鱗の御姿。あたりを払つて。恐ろしや。 地「あれ/\見よや白峯の。/\。 山風あらく吹き落ちて。 神鳴り稲妻しきりに満ち/\雨遠近の雲間より。 天狗の姿は現れたり。早笛「。 ツレ「そも/\これは。 白峯に住んで年を経る。相模坊とは我が事なり。 詞「さても新院思はずも。此松山に崩御なる。 常々参内申しつゝ。御心を慰め申さんと。 小天狗を引き連れて。地「翅をならべ数々に。

/\。此松山に随ひ奉り。 逆臣の輩を悉く取りひしぎ。 蹴殺し会稽を雪がせ申すべし。叡慮を慰め。おはしませ。働「。 シテ「其時君も悦びおはしまし。 地「其時君も悦びおはしまし。御感の御言葉数々なれば。 天狗もおの/\頭を地につけ拝し奉り。 これまでなりとて小天狗を。 引きつれ虚空にあがるとぞ見えしが。 明け行く空も白峯の。/\梢に。又飛びかけつて。 失せにけり 韋駄天 足疾鬼(前ハ里人) 旅僧 寺僧

。 ワキ詞「これは出雲の国美保の関より出でたる僧にて候。 われ未だ都を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち洛陽の仏閣一見せばやと思ひ候。道行「朝たつや。 空行く雲の美保の関。/\。心はとまる古里の。

跡の名残も重なりて。都に早く着きにけり/\。 詞「日を重ねて急ぎ候ふ間。 程なく都に着きて候。 まづ承り及びたる東山泉涌寺へ参り。大唐より渡されたる十六羅漢。 又仏舎利をも拝み申さばやと存じ候。

これなる寺を泉涌寺と申すげに候。 寺中の人に委しく案内をも尋ねばやと思ひ候。 いかに誰かわたり候。 狂言「何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「これは遥の田舎より上りたる僧にて候。 当寺の御事を承り及び遥々参りて候。大唐より渡りたる十六羅漢。 又仏舎利をも拝み申したく候。 狂言「げにげに聞しめし及ばれて御参り候ふか。 聊爾に拝み申す事適はず候。 但し今日かの御舎利の御出である日にて候。 われら当番にて唯今戸を明け申さんとて。 鍵を持ちてまかり出で候。 まづこの舎利を御拝あつて。 其後山門に登りて十六羅漢をも拝ませ申し候ふべし。こなたへ御出で候へ。 がら/\さつと御戸を開き申して候。 よく/\御拝み候へ。 ワキ「あらありがたや候。さらば御供申し参り候ふべし。 。 サシワキ「げにや事として何か都の愚なるべきなれども。ことさら霊験あらたなる。

仏舎利を拝み申す事の貴さよ。 これなん足疾鬼が奪ひしを。韋駄天取り返し給ひし。 現住奇特の牙舎利の御相好。 感涙肝に銘ずるぞや。一心頂礼万徳円満釈迦如来。 上歌地「ありがたや。 今も在世のこゝちして。/\。まのあたりなる仏舎利を。 拝する事のあらたさを。 何にたとへん墨染の袖をもぬらす気色かな/\。 シテ「ありがたや仏在世の御時は。 法の御声を耳にふれ。聞法値遇の結縁に。 一劫をも浮ぶ此身ながら。 二世安楽の心を得るに。後五の時代の今更に。 猶執心の見仏の縁。嬉しかりける。時節かな。 ワキ「われ仏前に観念し。 寥々とあるをりふしに。御法を貴む声すなり。 いかなる人にてましますぞ。 シテ「これは此寺のあたりに住む者なるが。 妙なる法の御声を受けて。こゝに立ち寄るばかりなり。 ワキ「よし誰とてもその望。

仏舎利を拝まん為ならば。同じ心ぞ我も旅人。 シテ「きたるもよそ人。ワキ「処も亦。 シテワキ二人「都のほとり東山の。末に続ける峯なれや。 上歌地「月雪の。古き寺井は水澄みて。/\。 庭の松風さえかえり。更け行く鐘の声までも。 心耳に澄す夜もすがら。 げに聞けや峰の松。 谷の水音澄み渡る嵐や法を称ふらん/\。 クリ「それ仏法あれば世法あり。 煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生もあり。 善悪又不二なるべし。 シテサシ「然るに後五百歳の仏法。既に末世のをりを得て。 地「西天唐土日域に。時至つて久方の。 月の都の山並に。仏法流布のしるしとて。 仏骨を納め奉り。シテ「げに目前の妙光の影。 地「此御舎利に如くはなし。 クセ「然るに仏法東漸とて。三如来四菩薩も。 皆日域に地を占めて。衆生を済度し給へり。 常在霊山の秋の空。

わづかに二月に臨んで魂をけし。 泥〓{大漢和17421:をん}双樹の苔の庭遺跡を聞いて腸を断つ。ありがたや仏舎利の。 御寺ぞ在世なりける。げにや鷲の御山も。 在世のみぎんにこそ草木も法の色を見せ。 皆仏身を得たりしに。 シテ「今はさみしく冷ましき。地「月ばかりこそ昔なれ。 こさんの松の間には。よそ/\白毫の秋の月を礼すとか。蒼海の波の上に。僅に四諦の。 暁の雲を引く空の。 さみしささぞな鷲の御山。それは上見ぬ方ぞかし。 こゝはまさに目前の。仏舎利を拝する御寺ぞ。 貴かりける。 。 ワキ詞「不思議やな俄に晴れたる空かき曇り。堂前に輝く電光。 こはそもいかなる事やらん。シテ「今は何をか包むべき。 其古の疾鬼が執心。猶この舎利に望あり。 許し給へや御僧達。 ワキ「こはそも見れば不思議やな。面色かはり鬼となりて。 シテ詞「舎利殿に臨み昔の如く。

ワキ「金冠を見せ。シテ「宝座をなして。地「栴檀沈水香。 栴檀沈水香の。 上に立ち上る雲煙を立てて。電の光に飛び紛れて。 もとより足疾鬼とは。足早き鬼なれば。 舎利殿に飛び上りくる/\/\と。 見る人の目をくらめて。其紛に牙舎利を取つて。 天井を蹴破り。 虚空に飛んであがると見えしが行くへも知らず失せにけり/\。中入「。 イロヱ(シテ出)早笛(ツレ出)ツレ「抑これは。 此寺を守護し奉る韋駄天とは我が事なり。 詞「こゝに足疾鬼といへる外道。在世の昔の執心残つて。 また此舎利を取つて行く。 いづくまでかは遁すべき。その牙舎利置いて行け。 後シテ「いや適ふまじとよ此仏舎利は。

誰も望の。あるものを。地「欲界色界無色界。 /\。化天耶摩天他化自在天。 三十三天攀ぢ上りて。帝釈天まで追ひあぐれば。 梵王天より出であひ給ひて。 もとの下界に。追つ下す。シテ「左へ行くも。 地「右へ行くも。前後も天地も塞がりて。 疾鬼は虚空にくる/\/\と。渦巻い廻るを。 韋駄天立ち寄り宝棒にて。 疾鬼を大地に打ち伏せて。首を踏まへて牙舎利はいかに。 出せや出せと責められて。なく/\舎利を指し上ぐれば。 韋駄天舎利を取り給へば。さばかり今までは。足早き鬼の。 いつしか今は。足弱車の力も尽き。 心も茫々と起き上りてこそ。失せにけれ 源翁 能力 里の女 野干。

ワキ次第「心をさそふ・雲水{くもみづ}の。/\。

浮世の旅に出でうよ。

詞「これは源翁といへる道人なり。我知識の・床{ゆか}を立ち去らず。 一大事を歎き・一見所{いつけんしよ}を開き。 終に拂子を打ち振つて世上に眼をさらす。 此程は奥州に候ひしが。 都に上り・冬夏{とうげ}をも結ばばやと思ひ侯。道行「雲水の。 身はいづくとも定なき。/\。浮世の旅に迷ひゆく。 心の奥を白河の。結びこめたる下野や。 ・那須野{なすの}の原に着きにけり/\。狂言シカ%\。 。 シテ詞呼掛「なう其石の・辺{ほとり}へな立ち寄らせ給ひそ。 ワキ「そも此石のほとりへよるまじき・謂{いはれ}の候ふか。 シテ「それは那須野の殺生石とて。人間は申すに及ばす。 鳥類畜類までもさはるに命なし。 かく恐ろしき殺生石とも。・知{しろ}し召されて御僧達は。 求め給へる命かな。詞「そこ立ちのき給へ。 ワキ「さ。 て此石は何故かく殺生をばいたすやらん。シテ「むかし鳥羽の院の・上童{うへわらは}に。 ・玉藻{たまも}の前と申しゝ人の。 執心の石となりたるなり。ワキ「不思議なりとよ玉藻の前は。

・殿上{てんじやう}の交はりたりし身の。此遠国に魂を。 留めし事は何故ぞ。 シテ「それも謂のあればこそ。昔より申し習はすらめ。 ワキ「御身の・風情{ふぜい}言葉の末。 いはれを知らぬ事あらじ。 シテ「いや委しくはいさ白露の玉藻の前と。ワキ「聞きし昔は・都住居{みやこずまひ}。 シテ「今魂は・天離{あまざか}る。ワキ「鄙に残りて悪念の。 シテ「猶もあらはす此野辺の。 ワキ「・往来{ゆきき}の人に。シテ「・仇{あだ}を今。 地歌「・那須野{なすの}の原に立つ石の。/\。苔に朽ちにし跡までも。 ・執心{しうしん}を残し来て。又立ち帰る草の原。 もの・凄{すざま}しき秋風の。・梟{ふくろふ}・松桂{しようけい}の。 枝に鳴きつれ狐・蘭菊{らんぎく}の花に隠れ住む。 此原の時し。 もものすごき秋の・夕{ゆうべ}かなもの・凄{すご}き秋の夕かな。 地クリ「そも/\この玉藻の前と申すは。 ・生出{しゆつしやう}・出世{しゆつせ}定まらずして。 いづくの・誰{たれ}とも・白雲{しらくも}の。・上人{うへびと}たりし身なりしに。 シテサシ「然れば・好色{こうしよく}を事とし。

地「容顔美麗なりしかば。・帝{みかど}の叡慮浅からず。 シテ「ある時玉藻の前が智恵をはかり給ふに。

一事とゞこほる事なし。地「・経論聖教{きやうろんしやうけう}和漢の才。 詩歌管絃に至るまで。問ふに答の暗からず。 シテ「・心底{しんてい}くもりなければとて。 地「玉藻の前とぞ。召されける。 クセ「或時帝は。清涼殿に・御出{ぎよしゆつ}なり。 月卿雲客の。堪能なるを召し集め。 管絃の・御遊{ぎよいう}ありしに。頃は秋の末。 月まだ遅き宵の空の雲の気色すさましく。 うちしぐれ吹く風に。御殿の・燈{ともしび}消えにけり。 雲の・上人{うえびと}立ち騒ぎ。・松明{しようめい}とくと進むれば。 玉藻の前が身より。光を放ちて。 清涼殿を照らしければ。光・大内{おほうち}に満ち/\て・画図{ぐわと}の屏風萩の戸闇の夜の錦なりしかど。 光にかゝやきて。ひとへに月の如くなり。 シテ「帝それよりも。 ・御悩{ごなう}とならせ給ひしかば。地「安倍の泰成占なつて。 勘状に申すやう。 これはひとへに玉藻の前が・所為{しよゐ}なりや。・王法{わふぼう}を傾けんと。 ・化生{けしやう}して来りたり・調伏{てうぶく}の祭あるべしと。奏すれば忽ちに。

叡慮もかはり引きかへて。 玉藻化生を本の身に。那須野の草の露と。 消えし跡はこれなり。 ワキ詞「かやうに委しく語り給ふ。 御身はいかなる人やらん。 シテ「今は何をか包むべき。其・古{いにしへ}は玉藻の前。 今は那須野の殺生石。その・石魂{せきこん}にて候ふなり。 ワキ「実にや・余{あまり}の悪念は。かへつて・善心{ぜんしん}となるべし。 然らば・衣鉢{えはつ}を授くべし。同じくは・本体{ほんたい}を。 再び現し給ふべし。 シテ詞「あら恥かしや我が姿。昼は浅間の・夕煙{ゆふけぶり}の。 地歌「立ち帰り・夜{よ}になりて。/\。懺悔の姿現さんと。 夕闇の夜の空なれど。この夜は明し燈火の。 我が影なりと思し召し。 恐れ給はで待ち給へと石に隠れ。 失せにけりや石に隠れ失せにけり。中入間「。 ワキノツト「・木石{ぼくせき}心なしとは申せども。 詞「草木国土悉皆成仏と聞く時は。 本より仏体具足せり。況んや衣鉢を授くるならば。

成仏・疑{うたがひ}あるべからずと。花を手向け焼香し。 ・石面{せきめん}に向つて仏事をなす。 汝元来殺生石。問ふ石霊。何れの処より来り。 今生かくの如くなる。急々に去れ去れ。 自今以後汝を成仏せしめ。 仏体真如の善心となさん。摂取せよ。 後シテ出端「石に精あり。水に音あり。 風は大虚に渡る。地「形は今ぞ・現{あらは}す石の。 二つに割るれば石魂忽ち現れ出でたり。恐ろしや。 ワキ「不思議やな此石二つに割れ。 光の内をよく見れば。・野干{やかん}の形はありながら。 さも不思議なる仁体なり。 シテ「今は何をか包むべき。 天竺にては・班足太子{はんぞくたいし}の塚の神。・大唐{たいたう}にては・幽王{いうわう}の后褒〓{大漢和:6177}と現じ。 我が朝にては鳥羽の院の。 玉藻の前とはなりたるなり。詞「我王法を傾けんと。 仮に優女の形となり。 玉体に近づき奉れば御悩となる。 既に御命を取らんと・悦{よろこび}をなしし所に。安倍の泰成。詞「調伏の祭を始め。

壇に五色の幣帛を立て。玉藻に。 詞「御幣を持たせつゝ。肝胆をくだき祈りしかば。 地「やがて五体を苦しめて。/\。 幣帛をおつ取り飛ぶ空の。 雪居を・翔{かけ}り海山を越えて此野に隠れ住む。シテ「・其後{そののち}勅使立つて。 地「其後勅使立つて。三浦の介。 上総の介両人に。綸旨をなされつゝ。 那須野の化生の者を。退治せよとの勅を受けて。 野干は犬に似たれば犬にて稽古。 あるべしと。 て百日犬をぞ射たりけるこれ・犬追物{いのおふもの}の始とかや。シテ「両介は狩装束にて。

地「両介。 は狩装束にて数万騎那須野を取り込めて草を分つて狩りけるに。 身を何と那須野の原に。・顕{あらは}れ出でしを狩人の。 追つつまくつつさくりにつけて。矢の下に。 射伏せられて。即時に命を徒らに。 なす野の原の。露と消えてもなほ執心は。 此野に残つて。殺生石となつて。 人を取る事多年なれども今逢ひがたき。 ・御法{みのり}を受けて。此後悪事をいたす事。 あるべからずと御僧に。約束固き。石となつて。 約束固き石となつて。鬼神の姿は失せにけり 稲荷明神(前ハ童子) 三条宗近 橘道成

。 ワキツレ詞「これは一条の院に仕へ奉る橘の道成にて候。 さても今夜帝不思議の御告ましますにより。 三条の小鍛冶宗近を召し。

御剣を打たせらるべきとの勅諚にて候ふ間。唯今宗近が私宅へと急ぎ候。 いかに此家の内に宗近があるか。 ワキ「宗近とは誰にてわたり候ふぞ。 ワキツレ「是は一条の院の勅使にてあるぞとよ。

さても帝今夜不思議の御告ましますにより。 宗近を召し御剣を打たせらるべきとの勅諚なり。 急いで仕り候へ。ワキ「宣旨畏つて承り候。 さやうの御剣を仕るべきには。 われに劣らぬもの相鎚を仕りてこそ。 御剣も成就候ふべけれ。これはとかくの御返事を。 申しかねたるばかりなり。ワキツレ「げに/\汝が申すところは理なれども。 帝不思議の御告ましませば。頼もしく思ひつゝ。 はや/\領承申すべしと。 重ねて宣旨ありければ。ワキ上歌「此上は。 とにもかくにも宗近が。地「とにもかくにも宗近が。 進退ここに谷まりて。 御剣の刃の乱るゝ心なりけり。さりながら御政道。 直なる今の御代なれば。若しも奇特のありやせん。 それのみ頼む心かな/\。 ワキ詞「言語道断。 一大事を仰せ出されて候ふものかな。 かやうの御事は神力を頼み申すならではと存じ候。

某が氏の神は稲荷の明神なれば。 これより直に稲荷に参り。祈誓申さばやと存じ候。 。シテ呼掛「なう/\あれなるは三条の小鍛冶宗近にて御入り候ふか。 ワキ「不思議やななべてならざる御事の。 我が名をさして宣ふは。いかなる人にてましますぞ。 シテ「雲の上なる帝より。剣を打ちて参らせよと。 汝に仰せありしよなう。 ワキ「さればこそそれにつけても猶々不思議の御事かな。 剣の勅も唯今なるを。 早くも知し召さるる事。返す%\も不審なり。 シテ「げにげに不審はさる事なれども。 われのみ知ればよそ人までも。ワキ「天に声あり。 シテ「地に響く。上歌地「壁に耳。 岩の物いふ世の中に。/\。隠はあらじ殊になほ。 雲の上人の御剣の。光は何か闇からん。 唯頼めこの君の。 恵によらば御剣もなどか心に適はざる。などかは適はざるべき。 クリ「それ漢王三尺の剣。

居ながら秦の乱を治め。又煬帝がけいの剣。 周室の光を奪へり。 シテ「その後玄宗皇帝の鍾馗大臣も。地「剣の徳に魂魄は。君辺に仕へ奉り。 シテ「魍魎鬼神に至るまで。 地「剣の刃の光。 に恐れて其寇をなす事を得ず。 。 シテ「漢家本朝に於て剣の威徳。 。 地「申すに及ばぬ奇特とかや。 。 クセ「また我が朝のそのはじめ。 人皇十二代。 景行天皇。 みこと。 のりの御名をば日本武と申しゝが。東夷を。 退治の勅を受け。関の東も遥なる。 東の旅の道すがら。伊勢や尾張の海面に立つ波までも。 帰る事よと羨み。いつかわれも帰る波の。

衣手にあらめやと。 思ひつゞけて行くほどに。シテ「こゝやかしこの戦に。 地「人馬巌窟に身を砕き。 血は〓{タク:大漢和17609}鹿の川となつて。 紅波盾流し数度に及べる夷も兜を脱いで矛を伏せ。皆降参を申しけり。 尊の御宇より御狩場を始め給へり。 頃は神無月。二十日余りの事なれば。 四方の紅葉も冬枯の。遠山にかゝる薄雪を。

眺めさせ給ひしに。シテ「夷四方を囲みつゝ。 地「枯野の草に火をかけ。 余炎しきりに燃え上がり。かたき攻鼓を打ちかけて。 火炎を放ちてかゝりければ。 シテ「尊は剣を抜いて。地「尊は剣を抜いて。 あたりを払ひ。忽ちに。炎も立ち退けと。四方の草を。 薙ぎ払へば。剣の精霊嵐となつて。 炎も草も。吹き返されて。 天にかゞやき地に充ち/\て。猛火は却つて敵を焼けば。 数万騎の夷どもは。 忽ちこゝにて失せてんげり。其後。 四海治まりて人家戸ざしを忘れしも。その草薙の故とかや。唯今。 汝が打つべき其の瑞相の御剣も。 いかでそれには劣るべき。伝ふる家の宗近よ。 心安く思ひて下向し給へ。 ワキ詞「漢家本朝に於て剣の威徳。 時に取つての祝言なり。さて/\御身は如何なる人ぞ。シテ「よし誰とてもたゞ頼め。 まづ/\勅の御剣を。

打つべき壇を飾りつつ。その時我を待ち給はゞ。 地「通力の身を変じ。通力の身を変じて。 必ずその時節にまゐり会ひて御力を。 つけ申すべし待ち給へと。夕雲の稲荷山。 行くへも知らず失せにけり/\。中入「。 ワキノツト「宗近勅に随つて。 即ち壇にあがりつつ。不浄を隔つる七重の注連。 四方に本尊をかけ奉り。幣帛を捧げ。 仰ぎ願はくは。宗近時に至つて。人皇六十代。 一条の院の御宇に。其職の誉を蒙る事。 これ私の力にあらず。伊弉諾伊弉冉の。 天の浮橋を踏みわたり。 豊芦原を探り給ひし御矛より始まれり。 その後南瞻僧伽陀国。波斯弥陀尊者より此方。 天国ひつきの子孫に伝へて今に至れり。願はくは。 地「願はくは。宗近私の功名にあらず。 普天卒土の勅命によれり。 さあらば十方恒沙の諸神。 唯今の宗近に力を合はせてたび給へとて。幣帛を捧げつゝ。

天に仰ぎ頭を地に付け。骨髄の丹誠聞き入れ納受。 せしめ給へや。ワキ「謹上再拝。早笛「。 地「いかにや宗近勅の剣。/\。 打つべき時節は虚空に知れり。頼めや頼め唯たのめ。 舞働「。後シテ「童男壇の。上にあがり。 地「童男壇の。上にあがつて。 宗近に三拝の膝を屈し。扨御剣の。鉄はと問へば。 宗近も恐悦の心をさきとして。鉄取り出し。 教の鎚をはつたと打てば。シテ「ちやうと打つ。 。地「ちやう/\/\と打ち重ねたる鎚の音。天地に響きて。おびたゝしや。 ワキ詞「かくて御剣を打ち奉り。 表に小鍛冶宗近と打つ。シテ「神体時の弟子なれば。 小狐と裏にあざやかに。 地「打ち奉る御剣の。刃は雲を乱したれば。 天の叢雲ともこれなれや。シテ「天下第一の。 地「天下第一の。二つの銘の御剣にて。 四海を治め給へば。五穀成就も此時なれや。 即ち汝が氏の神。稲荷の神体小狐丸を。

勅使に捧げ申し。これまでなりと言ひ捨てゝ。 又群雲に飛び乗り又群雲に。

飛びのりて東山稲荷の峯にぞ帰りける 旅僧 舟人 鵺の霊。

ワキ次第「世を捨人の旅の空。/\。 来し方何処なるらん。 ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我此程は三熊野に参りて候。 又これより都に上らばやと思ひ候。 道行「程もなく。帰りきの路の関越えて。/\。 なほ行末は和泉なる。 信太の森をうち過ぎて。松原見えし遠里の。 こゝ住の江や難波潟。芦屋の里に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 是は早津の国芦屋の里に着きて候。日の暮れて候ふ程に。 宿を借らばやと思ひ候。 シテサシ一声「悲しきかなや身は籠鳥。 心を知れば盲亀の浮木。唯闇中に埋木の。

さらば埋れも果てずして。亡心何に残るらん。 一セイ「浮き沈む。涙の波のうつほ舟。 地「こがれて堪へぬ。いにしへを。シテ「忍び。 はつべき。隙ぞなき。 ワキ詞「不思議やな夜も更方の浦波に。 幽に浮び寄る物を。 見れば聞きしに変らずして。舟の形はありながら。 唯埋木の如くなるに。乗る人影もさだかならず。 あら不思議の者やな。 シテ詞「不思議の者と承る其方は如何なる人やらん。 もとより憂き身は埋木の。 人知れぬ身とおぼしめさば。不審はよさせ給ひそとよ。 ワキ「いやこれは唯此里人の。

さも不思議なる舟人の夜々来ると言ひつるに。 見れば少しも違はねば。我も不審を申すなり。 シテ「此里人とは芦の屋の。灘の塩焼く蜑人の。 類を何と疑ひ給ふ。 ワキ「塩焼く海人の類ならば。 業をばなさで暇ありげに夜々来るは不審なり。シテ詞「実に/\暇のある事を。疑ひ給ふも謂あり。 古き歌にも芦の屋の。ワキ「灘の塩焼き暇なみ。 黄楊の小櫛はさゝず来にけり。 シテ「我も憂きには暇なみの。ワキ「汐にさゝれて。 シテ「舟人は。地歌。「さゝで来にけりうつほ舟。 /\。現か夢か明けてこそ。みるめも。 刈らぬ芦の屋に。一夜は寝て蜑人の。 心の闇を弔ひ給へ。有難や旅人は。 世を遁れたる御身なり。 我は名のみぞ捨小舟法の力を。頼むなり法の力を頼むなり。 。 ワキ詞「何と見申せども更に人間とは見えず候。如何なる者ぞ名を名乗り候へ。 シテ詞「是は近衛の院の御宇に。

頼政が矢先にかゝり。 命を失ひし鵺と申しゝものの亡心にて候。 其時の有様委しく語つて聞かせ申し候ふべし。 跡を弔うて賜はり候へ。ワキ「さては鵺の亡心にて候ふか。 其時の有様委しく語り候へ。 跡をば懇に弔ひ候ふべし。 地クリ「さても近衛の院の御在位の時。 仁平のころほひ。主上夜な/\御悩あり。 シテサシ「有験の高僧貴僧に仰せて。 大法を修せられけれども。 そのしるし更になかりけり。 地「御悩は丑の刻ばかりにてありけるが。東三条の森の方より。 黒雲一村立ち来つて。 御殿の上におほへば必ずおびえ給ひけり。 シテ「すなはち公卿詮議あつて。地「定めて変化の者なるべし。 武士に仰せて警固あるべしとて。 源平両家の兵を選ぜられける程に。 頼政を選び出されたり。クセ「頼政その時は。 兵庫の頭とぞ申しける。頼みたる郎等には。猪早太。

唯一人召し具したり。 我が身は二重の狩衣に山鳥の尾にてはいだりける。 尖矢二筋重籐の弓に取り添へて。御殿の。 大床に伺候して。御悩の刻限を今や/\と待ち居たり。さる程に案の如く。 黒雲一村立ち来り。御殿の上におほひたり。 頼政きつと見上ぐれば。 雲中に怪しき者の姿あり。シテ「矢取つて打ちつがひ。 地「南無八幡大菩薩と。心中に祈念して。 よつぴきひやうと放つ矢に。 手答してはたと当る。得たりや。おうと矢叫して。 落つ。 る所を猪早太つゝと寄りてつゞけさまに。九刀ぞ刺いたりける。 さて火を灯しよく見れば、頭は猿尾は蛇。 足手は虎の如くにて。鳴く声鵺に似たりけり。 恐ろしなんども。愚なる。形なりけり。 ロンギ地「実に隠なき世語の。 その一念を翻へし。浮ぶ力となり給へ。シテ「浮ぶべき。 たより渚の浅緑。三角柏にあらばこそ。

沈むは浮ぶ縁ならめ。 地「実にや他生の縁ぞとて。シテ「時もこそあれ今宵しも。 地「なき世の人に合竹の。 シテ「棹取り直しうつほ舟。地「乗ると見えしが。シテ「夜の波に。 地「浮きぬ沈みぬ見えつ隠れ絶々の。 幾重に聞くは鵺の声。恐ろしや凄しや。 あら恐ろしや凄ましや。中入間「。 ワキ歌、待謡「御法の声も浦波も。/\。皆実相の道広き。 法を受けよと夜と共に。この御経を。 読誦するこの御経を読誦する。 出端「一仏成道観見法界。草木国土悉皆成仏。 後シテ「有情非情。皆共成仏道。 ワキ「頼むべし。シテ「頼むべしや。 地「五十二類も我同性の。涅槃に引かれて。 真如の月の夜汐に浮びつゝこれまで来れり。有難や。 ワキ「不思議やな目前に来る者を見れば。 面は猿足手は虎。 聞きしにかはらぬ変化の姿。あら恐ろしの有様やな。 シテ「さても我悪心外道の変化となつて。

仏法王法の障とならんと。王城近く遍満して。 東三条の林頭に暫く飛行し。 丑三ばかりの夜な/\に。御殿の上に飛び下れば。 地「すなはち御悩しきりにて。 玉体を悩まして。 おびえまいらせ給ふ事も我がなす業よと怒をなしゝに。 思ひもよらざりし頼政が。矢先に中れば変身失せて。 落々磊々と。地に倒れて。 忽ちに滅せし事。思へば頼政が矢先よりは。君の。 天罰を。 当りけるよと今こそ思ひ知られたれ。其時。主上御感あつて。 獅子王といふ御剣を。頼政に下されけるを宇治の。 大臣賜はりて。 階をおり給ふにをりふし郭公音づれければ。大臣とりあへず。 シテ「ほとゝぎす。名をも雲居に。 上ぐるかなと。仰せられければ。地「頼政。 右の膝をついて。 左の袖をひろげ月を少し目に懸けて。弓張月の。いるにまかせてと。 仕り御剣を賜はり。御前を。

罷り帰れば。頼政は名をあげて。我は。 名を流すうつほ舟に。押し入れられて。淀川の。 よどみつ流れつ行く末の。 鵜殿も同じ芦の屋の。浦わの浮洲に流れ留まつて。

朽ちながらうつほ舟の。月日も見えず。 暗きより暗き道にぞ入りにける。遥に照せ。 山の端の。遥に照せ。山の端の月と共に。 海月も入りにけり。海月と共に入りにけり。 。 古相入力 菅公の霊(後ハ雷神) 法性坊

ワキサシ「比叡山延暦寺の座主。 法性坊の律師僧正にて候。 詞偖もわれ天下の御祈祷のため。百座の護摩を焚き候ふが。 今日満参にて候ふ程に。 頓て仁王会を取り行はゞやと存じ候。サシ「げにや恵も新たなる。 影も日吉の年古りて。誓ぞ深き湖の。〓{大漢和:18155。 さざなみ}寄する汀の月。地「名にしおふ。 比叡の御嶽の秋なれや。/\。 月は隈なき名所の都の富士と三上山。法の燈火自ら。 影明らけき恵こそ。人を洩らさぬ誓ひなれ/\。 シテ「ありがたや此山は。

往古より仏法最初の御寺なり。 げにやかりそめの値偶も空しからず。 我が立つ杣に冥加あらせてと。望を適へ給へとて。 満山護法いちれつし。中門の扉を敲きけり。 ワキ詞「深更に軒白し。 月はさせども柴の戸を。敲くべき人も覚えぬに。 いかなる松の風やらん。あら不思議の事やな。 シテ詞「聞けば内にも我が声を。 怪め人の咎むるぞと。重ねて扉を敲きけり。 ワキ「あまりの事の不思議さに。物の隙よりよく/\見れば。

これは不思議や丞相にてましますぞや。心騒ぎておぼつかな。 シテ詞「頃しも今は明け易き。月にひかれてこの庵の。 樞を敲けば内よりも。 ワキ「不思議や偖は丞相か。はや此方へと。シテ「夕月の。 地「影珍しや客人の。/\。稀にあふ時は。 なか/\夢の心地して。 いひやる言の葉もなし。上人の丞相も。心解けて物語。 世に嬉しげに見え給ふ。あはれ同じ世の。 逢瀬とこれを思はめや/\。 。 ワキ詞「さて御身は筑紫にて果て給ひたるよし承り候ふ程に。 種々に弔ひ申して候ふが届き候ふやらん。シテ「なか/\の事御弔悉く届きてありがたう候。 秋に後るゝ老葉は風なきに散り易く。 愁を弔ふ涙は問はざるにまづ落つ。 されば貴きは師弟の約。ワキ「切なるは主従。 シテ「睦しきは親子の契なり。 是を三悌といふとかや。シテ「中にも真実の志の深き事は。 師弟三世に若くはなし。

地「忝しや師の御影をばいかで踏むべき。 クセ「いとけなかりし其時は。父もなく母もなく。 ゆくへも知らぬ身なりしを。菅相公の養ひに。 親子の契いつの間に。 有明月のおぼろけに。憐み育て給ふこと真の親の如くなり。 さて勧学の室に入り。僧正を頼み奉り。 風月の窓に日を招き。蛍を集め夏虫の。 心のうちも明かに。シテ「筆の林も枝茂り。 地「詞の泉尽きもせず。 文筆の堪能上人も。悦び思しめし。 荒き風にもあてじと御志の今までも。 一字千金なりいかでか忘れ申すべき。 シテ詞「われ此世にての望は適ひて候。 死しての後梵天帝釈の憐を蒙り。 鳴雷となり内裏に飛び入り。 われに憂かりし雲客を蹴殺すべし。 其時僧正を召され候ふべし。かまへて御参り候ふな。 ワキ「縦令宣旨はありといふとも。 一二度までは参るまじ。シテ「いや勅使度々重なるとも。

かまへて参り給ふなよ。 ワキ「王土に住める此身なれば。勅使三度に及ぶならば。 いかでか参内申さゞらん。 シテ「其時丞相姿俄に変り鬼のごとし。 ワキ「をりふし本尊の御前に。 柘榴を手向け置きたるを。地「おつ取つて噛み砕き。/\。 妻戸にくわつと。 吐きかけ給へば柘榴忽ち火焔となつて扉にばつとぞ燃え上る。 僧正御覧じて。騒ぐ気色もましまさず。 灑水の印を結んで。鑁字の明を。 唱へ給へば火焔は消ゆる。煙の内に。 立ち隠れ丞相は。ゆくへも知らず失せたまふ/\。 中入(来序中入ニモ)。 ワキ「偖も僧正は紫宸殿に坐し。 珠数さらさらとおし揉んで。 普門品を唱へければ。地「さしも黒雲吹き塞がり。 闇の夜の如くなる内裏。俄かに晴れて明々とあり。 。 ワキ詞「さればこそ何程の事のあるべきぞと。油断しける所に。

地太鼓頭「不思議や虚空に黒雲覆ひ。/\。 電四方にひらめき渡つて。内裏は紅蓮の闇の如く。山も崩れ。 内裏は虚空に溯るかと。 震動ひまなく鳴神の。雷の姿は。現れたり。 ワキ詞「其時僧正雷に向ひて申すやう。 卒土四海のうちは王土に非ずと云ふ事なし。 況んや菅丞相昨日までは。君恩を蒙る臣下ぞかし。 内恩外忠の威儀未練なり静まり給へ。 あらけしからずや候。 シテ「あら愚や僧正よ。われを見放し給ふ上は。 僧正なりとも恐るまじ。われに憂かりし雲客に。 地「思ひ知らせん人々よ。/\とて。 小龍を引き連れて。黒雲にうち乗りて。 内裏の四方を鳴りまはれば。いな光電の。 電光頻りにひらめき渡り。 玉体危く見えさせ給ふが。不思議や僧正の。 おはする所。 を雷恐れて鳴らざりけるこそ奇特なれ。紫宸殿に僧正あれば。 弘徽殿に神鳴する。弘徽殿に移り給へば。

清涼殿に雷なる。清涼殿に移り給へば。梨壷梅壷。 昼の間夜の殿を。行き違ひ廻りあひて。 われ劣らじと祈るは僧正。鳴るは雷。 も。みあひ/\追つかけ/\互の勢たとへんかたなく恐ろしかりける有様かな。 千手陀羅尼をみて給へば。 雷鳴の壷にもこらへず。荒海の障子を隔て。

これまでなれやゆるし給へ。 聞法秘密の法味に預かり帝は天満自在。天神と贈官を。 菅丞相に下されければ。 嬉しや生きての怨死。 しての悦これまでなりやこれまでとて。 黒雲にうち乗って虚空にあがらせ給ひけり 松若 帥阿闇梨(先達) 小先達 同行山伏 伎楽鬼神

ワキ詞「是は今熊野梛の木の坊に。 帥の阿闇梨と申す山伏にて候。 さても某弟子を一人持ちて候ふが。かの者の父空しくなり。 母ばかりに添ひて候。 又某は近き間に峯入りを仕り候ふ程に。 暇乞の為に唯今出京仕り候。いかに案内申し候。 子方「誰にて御入り候ふぞ。や。師匠の御出にて候ふよ。 ワキ「いかに松若。

何とて久しく寺へは上り給ひ候はぬぞ。 子方「さん候母御の風の心地にて候ふ程に参らず候。 ワキ「言語道断。ゆめ/\さやうの事をも存ぜず候。 まづ/\某が参りたる由御申し候へ。 子方「いかに申し候。師匠の御出にて候。 シテ「此方へと申し候へ。子方「御入り候へ。 ワキ「久しく参らず候。 又松若申され候ふは。風の心地の由承り候。

いかさまに御座候ふぞ。シテ「風の心地は苦しからず候。 御心安く思しめされ候へ。 ワキ「偖はめでたう候。又近き間に峯入りを仕り候ふ程に。 御暇乞の為に参りて候。シテ「げに/\峯入とやらんは。大事の行とこそ承りて候へ。 偖松若も御供にて候ふか。 ワキ「幼き者の供すべき道にてはなく候。 シテ「扨はめでたうやがて御帰り候へ。 ワキ「さらばやがて参らうずるにて候。 子方「いかに申すべき事の候。ワキ「何事にて候ふぞ。 子方「松若も峯入の御供申さうずるにて候。 ワキ「いやいや唯今も母御に申し候ふ如く。 此道は難行捨身の行体にて。 思ひもよらぬ事にてあるぞ。 其上母の風の心地を見捨つべきにあらず。かた%\思ひもよらぬ事。 唯止り給へ。 子方「いや母の風の心地にて候へば。御祈のために参らうずるにて候。 。 ワキ「さあらばこのよしを母御に申さうずるにて候。又参りて候。

松若峯入の供せうずるよし申され候ふ間。 母御の風の御心地といひ。難行捨身の道と申し。 かたがた叶ふまじき由申して候へば。 御祈のために供すべき由申され候。 いかゞ候ふべき。シテ「仰承り候。 まづは松若申す如く。峯入の御供申さん事こそ。 最も望む所なれども。御身の父におくれし日より。 唯独子のひたすらに。 身に添ふ時だに見ぬひまは。露程だにも忘られず。 思ふ心を思へかし。唯思ひとまり候へ。 子方「仰はさる御事にて候へども。 身は難行の道に出でて。母の現世を祈らんと。 思ひ立ちたるばかりなりと。 下歌地「かきくどきたる其景色。師匠も母ももろともに。 あはれ孝行の。深きや涙なるらん。 シテロンギ「此上なれば力なし。 さらば師匠の御供して。とく/\帰り給へや。 子方「帰るさの。心をとめて出づる日も。 やがて急ぐや足引の。大和路遠き思かな。

シテ「思を尽す手向には。 子方「つゞりの袖も切るべきに。地「別はさま%\の。 行末知ればよそにのみ。見てや止みなん葛城や。 高間の山の峯の雲。 晴れぬは親の思子の名残惜しさをいかにせん。/\。中入「。 ワキ「かくて少童思のほか。 峯入の姿山伏の。兜巾篠懸苔の衣。 ワキツレ上歌「今日思ひ立つ道の辺の。/\。たよりぞ深き志。 唯孝行の心力に。馬はあれども徒歩に行く。 こは誰が為ぞ宇治の里。都出て。 けふ瓶の原泉川。 河風寒み千鳥鳴く声こそ今日の。夕なれ/\。 ふりさけ見れば春日なる。/\。三笠の山をさし過ぎて。 布留の神杉過ぎがてに。 三輪の山もとよそに見て。誰我が庵と定めけん。 峯の巌の苔衣。 かたしき初むる葛城の露こそ宿なりけれ。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早一の室に着きて候。暫くこれに在らうずるにて候。

重ツレ(小先達)「承り候。 子方「いかに申すべき事の候。ワキ「何事にて候ふぞ。 子方「道より風の心地にて候。ワキ「暫く。 この道に出でてさやうの事をば申さぬ事にて候。 それは習はぬ旅の疲にてあるべし。よく/\休み候へ。 。 重ツレ「松若殿道より風のこゝちの由承り候。先達に尋ね申さうずるにて候。 ツレ「尤もにて候。 重ツレ「松若殿風の心地と承り候ふは。何と御座候ふぞ御心もとなく候。 。 ワキ「さん候これはならはぬ旅の疲れにてありげに候。苦しからず候。 重ツレ「さては御心安く候。ツレ「いかにかた%\へ申し候。松若殿旅の疲の由仰せられ候ふが。 以ての外に見え給ひて候。 何とて大法の如く谷行に行ひ給ひ候はぬぞ。 重ツレ「げにげにこれは尤もにて候。 さらば先達へ其由申さうずるにて候。如何に申し候。 先に松若殿の御事を尋ね申して候へば。

旅の疲と承り候ふが。 今ははや以ての外に見えさせ給ひて候。 憚り多き申し事にて候へども。昔よりの大法にて候へば。 谷行に行ひ申さうずる由皆々申され候。 。 ワキ「何と松若を谷行に行はれうずると候ふや。重ツレ「さん候。 ワキ「大法の事にて候ふ程に。是非をば申さず候さりながら。 かの者の心中余りに不便に候へば。 大法のよしを懇に申し聞かせうずるにて候。 重ツレ「尤もにて候。 ワキ「いかに松若慥に聞け。 此の道に出でてかやうに違例をする者をば。谷行とて忽ち命を失ふ事。 これ昔よりの大法なり。御身に代るものならば。 何か命の惜しからん。進退極まりて候。 子方「仰承り候。 此道に出でて命を捨てん事こそ。最も望む所なれども。 母の御歎の色。それこそ深き悲なれ。 又仮初も他生の縁。 皆人々に御名残こそ惜しう候へ。地「何と言ひ遣る方もなく。

皆声を上げ涙にむせぶ心ぞ哀れなる。 重ツレ地ツレサシ「かくて面々一同に。あはれ悲しき世の習。 殊更これは大法の。冥見私なきまゝに。 谷行にこそ行ひけれ。 ワキ「先達も師弟の契の中なれば。何と言ひ遣る方もなく。 唯くれ/\と目もあやなく。 地「泣く涙せかれぬ道なれば。身も諸共にともかくも。 ならばやと思ふさへ。 適はぬ事ぞ悲しき。悲の。至りて悲しきは。 生別離の心なり。なか/\死別ならば。 かほどの歎よもあらじ。クセ「一切有為の世の習。 如夢幻泡影如露亦如電。 応作如是観の心をも。思ひ知らずやさしもこの。 行者の道には出でながら。 火宅の門を去りやらで。猶安からぬ三界の。親子恩愛の。 歎に等しかりけり。 重ツレ「かくて時刻も移るとて。地「皆面々に思ひきり。 邪見の剣身を砕く心をなしてかの人を。 険しき谷に陥れ。上に被ふや石瓦。

雨土くれを動かせる。心を痛め声を上げ。 皆面々に泣き居たり。/\。重ツレ詞「はや日のたけて候。 急ぎ御立ちあらうずるにて候。 ワキ「愚僧は罷り立つまじく候。 重ツレ「先達の御立なく候ひては。我々は何と仕り候ふべき。 唯急いで御立ち候へ。 ワキ「まづ案じても御覧候へ。われら都へ上り。 かの者の母には何と申すべきぞ。 所詮病気も歎も同じ事にて候へば。 われらをも谷行に行ひて賜はり候へ。重ツレ「御歎尤もにて候。 いかにかた%\へ申し候。 先達の仰せ候ふは。病気も歎も同じ事なれば。 先達も谷行に行ひ申せと仰せ候。 さて何と仕り候ふべき。ツレ「げに/\御歎尤もにて候。 われわれ存じ候ふは。 この年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。開山役の優婆塞。 ならびに大聖不動明王の索にかけ。 松若。 殿の御命を二度蘇生させ申さうずるにて候。重ツレ「これは尤もにて候。

いかに申し候。皆々申され候ふは。 この年月の行徳もかやうの時にてこそ候へ。 開山役の優婆塞。殊には大聖不動明王の索にかけ。 。 松若殿の御命を蘇生させ申さうずるよし皆々申され候。 ワキ「さやうの事こそ聞かまほしう候へ。 われらもこれにて祈念申さうずるにて候。 重ツレツレ地「さても師匠の其歎。 理過ぐるありさまを。見聞くも同じ心かな。 ワキ「さりとも年月頼を掛くる。大聖不動明王の威力。 重ツレツレ地「又は山神護法善神。 わき「殊には開山役の優婆塞。 重ツレツレ地「哀愍納受垂れ給ひ。地「使者の鬼神伎楽伎女を。 遣はし助けおはしませ。早笛「。

地「伎楽鬼神は飛び来り。 伎楽鬼神は飛び来つて。行者のお前に跪ついて。 頭を傾け仰を受けて。谷行に飛びかけつて。 上に被へる土木盤石。 押し倒し取り払つて。上なる土をばやはら/\と静かにかへしてかの小童を。恙もなく抱きあげ。 行者のお前に参らすれば。 行者は喜悦の色をなし。慈悲の御手に髪を撫で。 善哉善哉孝行切なる。心を感ずるぞとて。 帰らせ給へば伎楽も共に。 御前を払つてさかしき道を。 分けつ潜りつ上るや高間の雲霧つたふや葛城の。 人の目にこそかゝらざれども。真は渡せる岩橋を。 大峯かけて遥々と。虚空を渡つて失せにけり 大海人皇子 神霊(前ハ姫後ハ天女) 蔵王権現(前ハ老翁) 供奉の臣 従者

ワキ、ワキツレ一セイ「思はずも。 雲居を出づる春の夜の月の都の。名残かな。 ワキ「道々たらば位山。ワキワキツレ「上らざらめや。唯頼め。 ワキサシ「神風や五十鈴の古き末を受くる。 御裳濯川の御流。 やごとなき御方にておはします。ワキワキツレ「此君と申すに御譲として。 天津日嗣を受くべき所に。 御伯父なにがしの連に襲はれ給ひ。都の境も遠田舎の。 馴れぬ山野の草木の露。 分け行く道の果までも。行幸と思へば頼もしや。 下歌「身を秋山や世の中の。 宇陀の御狩場余所に見て。牡鹿伏すなる春日山。/\。 水層ぞまさる春雨の。音はいづくぞ吉野川。 よしや暫しこそ。花曇なれ春の夜の。 月。 は雲居に帰るべし頼をかけよ玉の輿/\。ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 いづくとも知らぬ山中に御着にて候。 まづ此処に御座をなされうずるにて候。 シテ「姥や見給へ。ツレ「何事にて候ふぞ。

シテ「あのおほぢが伏屋の上に。 紫雲のたなびいたるを拝まい給うたか。 ツレ「げにげにあたりに紫雲たなびき。 たゞならぬ空の気色やな。 シテ「あうたゞならぬ気色候ふよ。昔より天子の御座所にこそ。 紫雲は立つと申せ。 詞「もしも不思議に尉が住家に。 ツレ「さやうの貴人やおはすらんと。シテ「舟さしよせて我が家に帰り。 ツレ「見れば不思議やさればこそ。 シテ「玉の冠直衣の袖。 ツレ「露霜に萎れ給へども。シテ「さすが紛れぬ御粧。 地「さもやごとなき御方とは。疑もなく白糸の。 釣竿をさしおきて。 そもやいかなる御事ぞ。かほど賎しき柴の戸の。 暫しが程のおましにも。 なりける事よいかにせんあら忝なの御事や/\。 。 シテ詞「これはそも何と申したる御事にて候ふぞ。 ワキ「これはよしある御方にて御座候ふが。まぢかき人に襲はれ給ひ。

これまで御忍びにて候。 何事も尉を頼に思しめさるゝとの御事にて候。 シテ「さては由ある御方にて御座候ふか。 幸これは此尉が庵にて候ふ程に。

御心安く御休あらうずるにて候。ワキ「いかに尉。 面目もなき申し事にて候へども。 此君二三日が程供御を近づけ給はず候。 何にても供御にそなへ候へ。 シテ「其よし姥に申さうずるにて候。いかに姥聞いてあるか。 此二三日。 が程供御を近づけ給はず候ふとの御事なり。何にても供御に奉り給へ。 ツレ「をりふしこれに摘みたる根芹の候。 シテ「それこそ日本一の事。 われらもこれに国栖魚の候。 これを供御に備へ申さうずるにて候。ツレ「姥は余りの忝さに。 胸うちさわぎ摘み置ける。根芹洗ひて老が身も。 心若菜を揃へつゝ。供御に供へ奉る。 それよりしてぞ三吉野の。 菜摘の川と申すなり。 シテ詞「おほぢも色濃き紅葉を林間に焚き。国栖川にて釣りたる鮎を焼き。 同じく供御に供へけり。 地「吉野の国栖といふ事も此時よりの事とかや。 蓴菜の羮魯魚とても。

これにはいかで勝るべき間近く参れ老人よ/\。 ワキ詞「いかに尉。 供御の御残を尉に賜はれとの御事にて候。 シテ「あらありがたや候。 さらばうち返して賜はらうずるにて候。 ワキ「そもうち返して賜はらうずるとは。何と申したる事にて有るぞ。 シテ「うち返して賜はらうずると申すこそ。 国栖魚のしるしにて候へ。いかに姥。 供御の残を尉に賜はれとの御事にて候ふが。 此魚はいまだ生き/\と見えて候。 ツレ「げに此魚はいまだ生き/\と見えて候。 シテ「いざ此吉野川に放いて見やう。 ツレ「条なき事な宣ひそ。 放いたればとて生き返るべきかは。シテ「いや/\昔もさる例あり。 神功皇后新羅を従へ給ひし占方に。玉島川の鮎を釣らせ給ふ。 その如くこの君も。二度都に還幸ならば。 此魚もなどか生きざらんと。 地「岩切る水に放せば。/\。さしも早瀬の滝川に。

あれ三吉野や吉瑞を。現す魚のおのづから。 。 生き返るこの占方頼もしく思しめされよ。早鼓「。 ワキ詞「いかに尉。追手が掛りて候。 シテ詞「こなたへ御任せ候へ。いかに姥。 あの舟舁いて来う。ツレ「心得申し候。狂言シカジカ「。 シテ「何清み祓。 清み祓ならば此川下へ行け。狂言シカジカ「。 シテ「偖は清見原とは人の名よな。あら聞き馴れずの人の名や。 其上此山は。兜卒の内院にもたとへ。 又五台山清涼山とて。 唐土まで遠く続ける吉野山。隠れが多き所なるを。 何処まで尋ね給ふべき。速に帰り給へ。狂言シカジカ「。 シテ「何と舟が怪しいとや。 これは乾す舟ぞとよ。狂言シカジカ「。 ツレ「何と舟を捜さうとや。 漁夫の身にては舟を捜されたるも家を捜されたるも同じ事ぞかし。 身こそ賎しく思ふとも。 此処にては翁もにつくき者ぞかし。孫もあり曾孫もあり。

山々谷谷の者ども出で合ひて。 あの狼藉人を打ち留め候へ打ち留め候へ。狂言シカジカ「。 。 ツレ「なう聞し召せ追手の武士は帰りたり。シテ「今はかうよとおほぢ姥は。 ツレ「嬉しや力を。シテ「えいや。二人「えいと。 地「舟引き起し尊体の。/\。御恙なく川舟の。 かひある御命。助かり給ふぞ有難き。 クリ「それ君は舟臣は水。 水よく舟を浮むとは。此忠勤のたとへなり。 ワキ「ありがたやさしも姿は山賎の。地「心は高き謀。 げに貴賎にはよらざりけり。 ワキ「積善の余慶かぎりなく。地「流たえせぬ御裳濯川。 濁れる世には住み難し。 子方「されば君としてこそ。民をはごくむ習なるに。 却つて助くる志。上歌「身は宿善のかひぞなき。 身は宿善のかひぞなき。 一葉の舟の行末。蟠龍の雲居終になど。 至らざらめや都路に。立ち帰りつゝ秋津州の。 よしや世の中治まらば。命の恩を報ぜんと。

綸言肝に銘じつゝ。 夫婦の老人は忝さに泣き居たり。クセ「さる程に。 更け静まりて物凄し。 いかにとしてか此程の御心慰め申すべき。しかも処は月雪の。 三吉野なれや花鳥の。色音によりて音楽の。 呂律の調琴の音に。峰の松風かよひ来る。 天つ少女の返す袖。 五節の始これなれや。中入「。 楽地「少女子が。/\。其唐玉の琴の糸。 ひかれかなづる音楽に。神々も来臨し。

勝手八所此山に。木守の御前蔵王とは。 後シテ「王を蔵すや吉野山。 地「即ち姿を現して。即ち姿を現し給ひて。 天を指す手は。シテ「胎蔵。地「地を又指すは。 シテ「金剛宝石の上に立つて。 地「一足を引つ提げ東西南北十方世界の虚空に飛行して。 普天の下。卒土の内に。 王威をいかでか軽んぜんと。大勢力の力を出し。 国土を改め治むる御代の。天武の聖代畏き恵。 新たなりける。ためしかな 明恵上人 従僧 宮守 龍神

ワキ、ワキツレ二人次第「日の行方も其方ぞと。/\。 日の入る国を尋ねん。 ワキ詞「是は栂尾の明恵法師にて候。 我入唐渡天の志有るにより。 御暇乞の為に春日の明神に参らばやと思ひ。唯今南都に下向仕り候。

道行三人「愛宕山。樒が原をよそに見て。 /\。 月に・双{ならび}の岡の松。 緑の空も長閑なる都の山を跡に見て。是も南の都路や。 奈良坂越えて三笠山。春日の里に着きにけり/\。 シテ一セイ「晴れたる空に向へば。和光の光。

あらたなり。 サシ「夫れ山は動かざる形を現じて。古今にいたる神道を現し。 里平安の巷を見せて。人間長久の声満てり。 真に御名も久方の。 天の児屋根の世々とかや。下歌「日に立つかげも鳥居の二柱。 上歌「御社の。誓もさぞな四所の。/\。 神の代よりの末受けて。 澄める水屋の御影まで塵に交はる・神慮{かみごころ}。 三笠の森の松風も。枝を鳴らさぬ。 気色かな枝を鳴らさぬ気色かな。 。 ワキ詞「いかにこれなる宮つこに申すべき事の候。シテ「や。 これは栂尾の明恵上人にて御座候ふぞや。唯今の御参詣。 さこそ・神慮{しんりよ}に嬉しく思し召し候ふらん。 ワキ「さん候唯今参詣申す事余の儀にあらず。 我入唐渡天の志あるにより。 御暇乞のために唯今まゐりて候。 シテ「これは仰にて候へども。さすが上人の御事は。 年始より四季折々の御参詣の。

時節の少しの遅速をだに。待ち兼ね給ふ神慮ぞかし。 されば上人をば太郎と名付け。 笠置の解脱上人をば次郎とたのみ。 左右の眼両の手の如くにて。 昼夜各参の擁護懇なるとこそ承りて候ふに。 日本を去り入唐渡天し給はん事。いかで神慮に叶ふべき。 唯思し召しとまり給へ。ワキ「実に/\仰せはさる事なれども。入唐渡天の志も。 仏跡を拝まんためなれば。何か神慮に背くべき。 シテ「これ又仰とも覚えぬものかな。 仏在世の時ならばこそ。 見聞の益も有るべけれ。今は春日の御山こそ。 即ち霊鷲山なるべけれ。其うへ上人初参の御時。 奈良坂の此手を合はせて礼拝する。 人間は申すに及はず心なき。 地歌「三笠の森の草木の。/\。風も吹かぬに枝を垂れ。 春日山野辺に朝立つ。鹿までも。皆こと%\く出で向ひ。 膝を折り角を傾け上人を礼拝する。

かほどの奇特を見ながらも真の浄土は何処ぞと。問ふは武蔵野の。 果しなの心や。唯返す%\我が頼む。 神のまに/\とゞまりて。 神慮をあがめおはしませ神慮をあがめおはしませ。 。ワキ詞「なほ/\当社の御事委しく御物語り候へ。シテサシ「然るに入唐渡天といつぱ。 仏法流布の名を留めし。 地「古跡を尋ねんためぞかし。天台山を拝むべくは。 比叡山に参るべし。五台山の望あらば。 吉野筑波を拝すべし。シテ「昔は霊鷲山。 地「今は衆生を度せんとて。大明神と示現し。 此山に宮居し給へば。シテ「即ち鷲の。 御山とも。地「春日の御山を。拝むべし。 クセ「我を知れ。・釈迦牟尼仏{しやかむにぼとけ}世に出でて。 さやけき月の。 世を照らすとはの御神詠もあらたなり。然れば誓ある。 慈悲万行の神徳の。迷を照らすゆゑなれや。 小機の衆生の益なきを。慈しみ給ふ御姿。 瓔珞。細軟の衣を脱ぎ。麁弊の。

散衣を着しつゝ。 四諦の御法を説き給ひし鹿野苑もこゝなれや。 春日野に起き臥すは鹿の苑ならずや。シテ「其外当社の有様の。 地「山は三笠に影さすや。春日そなたに。 現れて。誓を四方に春日野の。 宮路も末あるや曇なき西の大寺月澄みて。 光ぞまさる七大寺。御法の花も八重桜の。 都とて春日野の春こそ長閑けかりけれ。 ワキ詞「実に有難き御事かな。 即ちこれを御神託と思ひ定めて。 此度の入唐をば思ひ留まるべし。さて/\御身は如何なる人ぞ。御名を名乗り給ふべし。 シテ詞「入唐渡天をとゞまり給はゞ。 三笠の山に五天竺を写し。摩耶の誕生伽耶の成道。 鷲峰の説法。 地「双林の入滅まで悉く見せ奉るべし暫くこゝに待ち給へと。 ゆふしでの神の告。 我は時風秀行ぞとてかき消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。

ワキ、ワキツレ二人歌待謡「神託まさにあらたなる。/\。 声の内より光さし。春日の野山金色の。 世界となりて草も木も仏体となるぞ。 不思議なる仏体となるぞ不思議なる。早笛「。 地「時に大地。震動するは。 下界の龍神の参会か。後シテ「すは。八大龍王よ。 地「難陀龍王。シテ「跋難陀龍王。地「娑伽羅龍王。 シテ「和修吉龍王。地「徳叉迦龍王。 シテ「阿那婆達多龍王。地「百千眷属引き連れ/\。 平地に波瀾を立てゝ。 仏の会座に出来して。御法を聴聞する。 シテ「其ほか妙法緊那羅王。地「また持法緊那羅王。 シテ「楽乾闥婆王。地「楽音乾闥婆王。 シテ「婆稚阿修羅王。地「羅〓{目へん+候}阿修羅王の。 恒沙の眷属引連れ/\。これも同じく坐列せり。 龍女が立ち舞ふ波欄の袖。/\。 白妙なれやわだの原の。払ふは白玉立つは緑の。 空色も映る海原や。沖行くばかり。 月の御舟の。佐保の・川面{かわづら}に。浮み出づれば。

シテ「八大龍王。舞働「。シテ「八大龍王は。 地「八つの冠を傾け。所は春日野の。 月の三笠の雲に上り。飛火の野守も出で見よや。 摩耶の誕生。鷲峰の説法。双林の入滅。 ことごとく終りてこれまでなりや。 明恵上人さて入唐は。ワキ「とまるべし。 地「渡天は如何に。ワキ「渡るまじ。地「さて仏跡は。 ワキ「尋ぬまじや。地「尋ねても/\此上嵐の雲に乗りて。 龍女は南方に飛び去り行けば。龍神は猿沢の池の青波蹴立て/\て。其丈千尋の大蛇となって。 天に群がり。地に蟠りて池水を返して。 失せにけり 素盞鳴尊 従者 老人(手摩乳) 老女(足摩乳) 大蛇 稲田姫

ワキ、ワキツレ二人次第「始めて旅に行く雲の。/\治まる国を尋ねん。ワキ詞「そも/\これは伊奘諾の御子素盞嗚神とは我が事なり。 ワキツレ「夫治まれる国の始。 混沌未分に分れしより。新羅の国に天降り。 それよりやがて旅衣の。 ワキ、ワキツレ道行「思ひ立つあしたの原もはる%\と。/\。 見えて漕がるゝ海士小船のその水馴棹さしてなほ。 行くへの波も八雲立つ。 出雲の国に着きにけり/\。 シテサシ「ながらへて生けるを今は歎くかな。 憂きは命の科ならず。 とは思へども思ひ子の。別を慕ふ世の習。 我等夫婦に限らめや。身は老鶴の音にたてゝ。 泣くより外の。事ぞなき。

下歌「見るからに袂ぞ濡るゝ桜花。上歌「空より外に置く露の。 /\。身は幼き嬰児を。 誘ふ嵐は風よりも烈しきものを川上の。 大蛇の為に失はん子の別をば。 如何にせん子の別をば如何にせん。 ワキ詞「我此国に来りつゝ。 四方の景色を眺むる所に。こゝに怪しき疎屋の内に。 いみじく涕哭する声あり。 これは如何なる神やらん。 シテ「我ならで訪ふ人もなき柴の戸の。明暮泣く音を今更に。 尋ね給ふは誰やらん。ワキ「誰とも知らじ久方の。 天より降る神なるが。 此国始めて見そなはし。こゝに尋ねて来りたり。 シテ「そもや天より降ります。 神とは何と木綿四手の。かゝる泣く音ははづかしの。

もりける事よ如何にせん。 ワキ「何をか包み給ふらん。早々姿を現して。 謂を語り給ふべし。シテ「仰に従ひ夫婦ともに。 歎を止めて柴の戸を。地「おし明方の雲間より。 /\。神代の月の影清く。尊の御姿。 あら有難の気色やな。かくて夫婦の老人。 中に少女を据ゑ置き。 歎き悲しむ有様の心元なき気色かな心もとなき気色かな。 ワキ詞「如何に夫婦の老人。 我はこれ伊奘諾伊奘冊の第四の御子素盞嗚神なり。 されども如何なる故にや御憎まれを蒙り。 既に根の国とこの国に赴く。 いまし達は如何なる神ぞ。少女を撫でて啼哭する事。 そも何の歎ぞや。 シテクリ「その時答へて申さく。やつはこれ此国津神なり。 地「名は手摩乳。妻の名は。脚摩乳と申す夫婦なり。 シテサシ「然るに此乙女はこれ我が子なり。 名をば櫛稲田姫と申す。 地「かやうに歎く其故は。先に我が子八人の乙女あり。

年毎に簸の川上の大蛇に呑まれ。 今また此姫取られんとす。 免るゝによしなしと言ふ。クセ「其時素盞嗚詔して宣はく。 実に理や老人の歎く心を憐の。 恵ぞ深き川上の。 大蛇を従へ治まる国となすべし少女を我にたび給へと。宣へば老人は。 喜悦の色をなし給ふ。 シテ「すなはち乙女を奉る。地「やがて尊は稲田姫の。 湯津の爪櫛取りなして。鬢づらにさし給ふ。 其侭治まる国津神。こゝに宮居の二柱。 立つや八雲の妻ともに。 八重垣造る言の葉の。三十一文字の詠歌の始なるべし。 ロンギ地「実に有難き詔。/\。 さてや大蛇を従へん其御方便如何ならん。 ワキ「畜類。 の心も兼ねて白真弓八しぼりの酒を取り合はせ。 さすき八間を結ひおき酒船に酒をたゝへん。地「さてや八艘の酒舟を。 簸の川上に浮めつゝ。 ワキ「乙女の姿うつさんと。

地「夕の雲の波煙も立つや簸の川上に。 稲田姫を伴ひ上らせ給ふ有難や上らせ給ふ有難や。中入間「。 ワキ、ワキツレ一声「光散る。玉の御輿を先立てゝ。 尊は馬上に威儀をなし。簸の川上にと。 急ぎけり。ワキ「そも/\これは。 伊奘諾伊奘冊の御子。素盞嗚神なり。 簸の川上の大蛇を従へ。 国土豊になすべきなり。地「八雲立つ出雲八重垣妻ともに。 /\。鳥上の嶽にうち上り。 簸の川上はこれなれや。山聳え岸高く。 嵐も波も声声に。もの凄じき川岸に。稲田姫を。 一人すゑ奉り。波間に浮める酒船に。 御影をうつし給へば。尊は馬より下り立ちて。 。 岸に上つてひそかに出づる大蛇を待ち居たり出づる大蛇を待ち居たり。 早笛地「川風暗く水渦まき。/\。 雲は地に落ち波立ち上り。山河も崩れ鳴動して。 。 現れ出づる大蛇の勢年ふる角には雲霧かかり。松柏そびらに生ひ伏して。

眼はさながらあかゞちの。 光を放ち角を振りたてさも恐ろしき。 勢なれどもさすが心は畜類の。 舟にうつろふ御影を呑まんと頭。 を舟に落し入れて酔ひ伏したるこそ恐ろしけれ。 ワキ「尊は十握の神剣を抜き持ち。地「尊は十握の神剣を抜き持ち。 遥の。 岸より下り給へば大蛇は驚き怒をなせども。毒酒に酔ひ伏し通力失せて。 山河に。 身を投げ漂ひめぐるを神剣を振り上げ斬り給へば。斬られてその尾は雲を穿ち。 尊を巻かんと覆へば飛び違ひ。 巻き付けば斬り払ひ廻ればめぐる。 互の勢神は威光の力を現し大蛇を斬り伏せ忽ちに。 その尾に有りし剣を取つて。叢雲の剣とは。 名づけたり 空也上人 老人 龍神

。ワキ次第「心の月の行末や/\西の山路に急がん。 ワキ詞「これは念仏の行者空也と申す者にて候。 我いまだ愛宕山に参らず候ふ程に。唯今思ひ立ちて候。 サシ「昨日も徒らに暮らさず口に名号を唱へ。 今宵も空しく明さず。心に極楽を願ふ。 無常の虎の声近づくにも。 臨終の夕の唯今ならん事をよろこぶ。雪山の鳥の囀を思ふにも。 来迎の朝を待つ。 下歌「一度も南無阿弥陀仏と唱ふれば。上歌「蓮の上に登るなる。 /\。露の此身を誘ふべき。 嶺の嵐や谷川の水の流もなるたきの。 川路につきて尋ね行く。雲も上るや月の輪を。 過ぎて愛宕に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早愛宕のお山に着きて候。

先々地蔵権現へ参らばやと思ひ候。 げにや都に。 て承り及びたるよりも尊き霊地にて御座候ふ物かな。南無や地蔵大菩薩。 六道能化にてましませば。迷の衆生を導き給へ。 詞「又これなる法華八軸は。 帝より賜りたる御経なれば。 まづ仏前にて読誦申さばやと思ひ候。昔在霊山名法華。 今在西方名阿弥陀。地「衆生済度の観世音。/\。 頼め唯三つの世も唯一仏ぞ一乗の。 法も妙なる一念。弥陀仏と唱へたまへや/\。 。 シテ「谷静かにしてははづかに{づママ}聞く山鳥の語。梯危うしては斜に踏む猴猿の声。 聞くも悲しき老の身の。 足弱車法にひかれて。火宅を出づべき嬉しさよ。 地クリ「夫れ始の御法さま%\なれども。

いはうべつりき四十余年。未顕真実と。説き給ふ。 シテサシ「されば余経の瓦礫を捨てゝ。 地「妙法一味の玉を拾はんが為に。 ろくずゐげきを現し。信心不動の禅定に入り給ひ。 一切衆生の迷はざる以前。 本来の面目妙法金剛不壊の正体に。導き入れんと。 思惟し給ふ。クセ「されば此経を説き給ふに。 天より四華下り。 大地六しゆも震動し地神龍神も現れ霊山の会座に列りしに。 眉間白毫を放ち給ひ。天地十方を照しつゝ。 光に当る物皆悉く成仏す。 シテ「かゝる大乗功徳の。地「妙なる法を聞く時は。 霊山会場もこゝなれや。この山松の夕嵐。 ふくそくぼさつぢゆじやくじやう。 しやう%\心を起せとの。 教は様々の御法ぞあらたなりける。 シテ詞「いかに上人に申すべき事の候。 徒らに朽ち果てぬべき老木の桜の。今上人の御法の雨に。 うるほひを得て花咲く春に。

逢はん事の嬉しさよさりながら。一つの望を叶へ給へ。 ワキ「不思議やなこれなる老人忽然と来り。 法華を聴聞する気色。唯人ならず見る所に。 そも望とは何事ぞ。シテ「さん候。 上人の感得し給ふ。仏舎利を我にたび給へ。 ワキ「安き間の事なれども。 空也は舎利を感得せず。・先々{まづ/\}御身はいかなる人ぞ。 シテ「今は何をかつゝむべき。 我はこの山に住む龍神なるが。 仏舎利を持すれば三熱を免かる。つゝみ給ふか上人の。 唯今読誦し給ひし。 御経の軸の中に仏舎利あり。則ちこれをたび給へ。 ワキ「不思議の事を申す者かな。此御経は忝くも。 延喜の帝より賜りたる八軸なれば。 仏舎利ありとも知らざりしと。則ち経を開きつゝ。 軸を放つてよく見れば。 地「不思議や軸の其中に。/\。水晶の箱にいれ。 しやう色の仏舎利赫奕として見え給へば。 則ち取り出し老翁に与へたび給ふ。

見る人奇異の思をなして。 上人の御奇特まのあたりなるあらたさよ。 シテ詞「実にありがたき御事かな。此仏舎利を保つならば。 熱気熱風金翅鳥の。三つの苦を免るべし。 此報恩に何事なりとも。望を叶へ申すべし。 ワキ「空也が身には望なしさりながら。 此山上に水なくして。遥の谷より汲み運ぶ。 御身は龍神にてましまさば。 水は心に任すらん。此山上に・清水{せいすゐ}を出し。 たえぬ流となし給へ。シテ「是また安き御事なり。 三日が間に老翁が。真の姿を現して。 山上に水を出すべし。地「暇申して帰るとて。 /\御前を立つて山深み。 行くかと見れば姿は。夢の如くに失せにけり/\。中入間「。 ワキ「偖もありつる翁の言葉。 地「真しからず思へども。その約諾の今日の空。 歌「気色かはりて雲霧の。/\。 立添ふ影も鳴神の。声も落ち来る雨の足。 乱るゝ空の気色かな/\。早笛。

地「谷風はげしき雲の波。/\に。浮・び{ミ}出でたる龍神の勢。 遥の谷より上ると見えしが。 上人に向ひ渇仰するこそ。有難けれ。 シテ「角を傾け上人を礼し。地「角を傾け上人を礼し。 龍王嶺。 に上ると見えしが古木を倒し岩根を砕き。 大石を引きわりえいやとなぐれば岩もる清水玉ちりてさゞ波立つてぞ。 流れける。舞働。ワキ「空也は奇異の思をなし。 地「空也は奇異の思をなして。 巌に上りて水を結び。 天地に供じ十方の諸仏に手向くるしや水。 善哉々々と悦び空也は帰り給へば龍王忽ち雲をおこし。 愛宕の嶺の梢にかければ谷には流るゝ白浪の。 浮めば沈み上れば下る龍王の姿も次第に遠く。 /\。遥の谷にぞ。帰りける 旅僧 従僧 樵夫

ワキ、ワキツレ二人次第「法の道にと思ひ立つ。/\。 波路遥けき船路かな。 ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我若年の時よりも。 諸国修行の志あるにより。 日本をば残らず見廻りて候。 又承り及びたる仏法流布の跡を尋ね。入唐渡天の望あつて。 此間は九州博多の津に候ふ所に。よき便船の候ふ間。 此春思ひ立ち渡唐仕り候。道行三人「天の原。 八十島かけて漕ぎ出づる。/\。 船路の末も不知火の。筑紫を後になしはてゝ。 。 行くへにつゞく雲の波霞を分くる海原に。又山見えて程もなく。 早唐土に着きにけり/\。ワキ詞「あらうれしや候。 遥々と思ひしに。仏神の御加護もや有りけん。 。

行人安穏に布帆恙もなく渡唐つかまつりて候。 心静かに処々を一見せばやと存じ候。実にや江霞浦を隔てゝ人煙遠し。 湖水天に連なつて雁点遥なり。 詠めやる遠山本の群竹の。霞こめたる面白さよ。 又これなる岨づたひを山人の来り候。 此者を待ち名所をも尋ねばやと存じ候。 シテツレ二人一セイ「折を得て。春の薪にさす花の。 にほひを運ぶ。山颪。 ツレ「谷の下庵はるばると。二人「霞に遠き眺かな。 シテサシ「五嶺蒼々として雲往来す。たゞ憐む大〓{大漢和:9398。 ゆ}万株の梅。二人「梢も殊に色深き。 木蔭によれば心なき。 身にもあはれは有明のつれなき命ながらへて。又廻り逢ふ春べかな。 誠に知んぬ老も。風情少なき。有様を。 歌「見る度に。かはる姿やます鏡。/\。

移る月日は程もなく。 昨日は少年今日白頭の雪とのみ。積り/\て老が身の。 春の光に当れども。わびしき業を柴取りて。 帰る山路の。 苦しさよ帰る山路のくるしさよ。 。 ワキ詞「如何にこれなる山人に尋ね申すべきことの候。 シテ「不思議やな見馴れ申さぬ御姿なり。 いかさまこれは入唐の沙門にて御座候ふな。 ワキ「実によく御覧じて候ふものかな。我日本より此国に渡り。 仏法流布の古跡を尋ね。 これより渡天の志あるにより。遥々思ひ立ちて候。 シテ「さては渡天の御為かや。 昔は聞きつ近き世には。有難かりける御事かな。 ツレ「実に痛はしや遥々と。行くへも遠き旅衣の。 シテ詞「立ち出で給ひし日本の。 仏法東漸を振り捨てゝ。ワキ「去り来し法の跡遠き。 シテ「昔語を今さらに。ワキ「誰か委しく。 シテ「夕月夜。地歌「星の国にと行く雲の。

/\。果しはあらじ人心。心せよ胸の月。 よその光を尋ねても。 何にかはせんまのあたり。見るを尋ぬるはかなさよ/\。 ワキ詞「かゝる面白き御答こそ候はね。 先々尋ね申したき事の候。 見え渡りたる山河の景色。何れも妙なる眺の中に。 あれに霞める遠山本の。向に見えたる竹林に。 俄に雲の打ち掩ひ。 風凄まじく吹き落ちて。さながら気疎き其けしき。 これは如何なる事やらん。 シテ「実に御不審は御理。あの竹林の巌洞は。 虎の住家にて候ふを。向に見えたる高山より。 常々雲の掩ひつゝ。龍虎の戦あるものを。 ワキ「不思議の事を聞くものかな。 音に聞きしをまのあたり。 龍虎のあらそふ其有様を。今見る事の不思議さよ。 シテ詞「畜類なれどもかくの如し。其勢を顕して。 ワキ「何をかさのみ。シテ「争の。 地歌「蝸牛の角の上にして。はかなや何事を。

争は人の身も。かはらぬものを世の中の。 習なればや畜類の。戦ふ事も。 理や戦ふ事も理や。 。ワキ詞「なほ/\龍虎の戦の有様委しく御物語り候へ。地クリ「それ生を受くる者。 その身の威勢を争ふ事。 人間以てこれに同じ。必ず龍虎に限るべからず。 シテサシ「然れば金龍雲を穿ち。猛虎深山に風を起す。 地「何れも勢妙にして。 互の勢を争ふ事畜類といへども位高く。 雲居に住めば龍虎の紋。シテ「帝の御衣にも之を織り。 。 地「殊に天子の御顔を龍顔と申し御乗物を。龍駕とも又。名づけたり。 クセ「さて又虎はかりそめに。 住むも千里の道しめて。住家と定むとか。 もとより竹は直にして。内の清きを我が友と。 頼む千尋の影清く。曇らぬ法の道を知る。 羅漢に仕へ奉る。又は四睡の一つにも。 顕はれけると聞くものを。龍吟ずれば雲起り。

虎嘯けば風生ずと。 聞きしもまのあたり見るこそ不思議なりけれ。 シテ「これぞ和国の物語。地「委しくなほも見給はゞ。 此山陰に岨づたひ。竹の林の此方なる。 巌の陰に立ちよりて。身を隠し見給へと。 夕日も傾きぬ。暇申さんと結ふ柴の。 薪を肩に打ち懸けて。谷の下道はる%\と。 家路をさして下りけり/\。来序中入間「。 ワキ「さても不思議や山人の。 教のまゝに山路を分け。竹林を遥に見渡せば。 煙葉蒙籠として夜の色を侵す。 風枝蕭颯として。秋の声より凄じや。地歌「あれ/\嶺より雲起り。/\。俄に降りくる雨の音。 鳴神稲妻天地に耀く光の中に。 現れ出づる。金龍の勢。遥によそめも肝を消し。 身の毛もよだつばかりなり。 地「かくて黒雲竹林におほひ。/\。 おほひかゝると見えつるが。 竹林の巌洞にこもれる虎の。

現れ出づれば岩屋の内より悪風を吹き出し。一方に雲を。 吹き返し。敵を追風にいきほひ勇む。 恐ろしかりける。気色かな。かゝりける所に。 /\。金龍雲よりおり下つて。 悪虎を取らんと飛んでかゝり。飛龍の戦。 隙もなし。舞働「。シテ「もとより虎乱の勢猛く。 地「もとより虎乱の勢猛く。左も右も。

剣の如くに竹枝を折つて。金龍にかゝれば。 悪虎を巻かんと。 おほひかゝるを背けて追つつめ食はんとすれば。 金龍雲居に遥に上れば。悪虎はいきほひ巌に上り。 遥に見送り無念の勢あたりを払ひ。 又竹林に飛び帰り。又竹林に。飛び帰つて。 其まゝ巌洞に入りにけり 鬼神(前ハ老樵夫) 山伏

ワキ三人次第「遥けき国を三熊野の。/\苔路や旅のはじめなる。 ワキ詞「これは本山三熊野の山伏にて候。 我未だ羽黒山に参らず候ふ程に。唯今羽州に下向仕り候。 道行三人「行末も。遠山伏の摺衣。/\。 遥々きぬる旅をしぞ。 思の末もいく日数幾夜重なる麻衣。木曽の掛橋谷深み。 かけ路の末も暮れかゝる。雲の八重山いかばかり/\。

ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これは早木曽路に着きて候。暫く此処に休まうずるにて候。 シテ一セイ「馴れつゝも。 つま木の道の苦しきや。重なる老の。坂ならん。 詞「余りに苦しう候ふ程に。 薪をおろし休まばやと思ひ候。 ワキ「不思議やなこれなる山賎を見れば。処こそ多きに。 分きて紅葉の蔭に休む気色。心あり顔にて優しうこそ候へ。

シテ「元より賎しきしづの男の。 何の心の候ふべき。彼の黒主が歌の心は。 薪を負へる山人の。花の木蔭に休むけしきを。 残し置きたる筆の跡。 われらが休むも紅葉の木蔭。いたづら事にて候ふなり。 ワキ詞「げに心ある答かな。まづ/\紅葉の名所々々。彼方此方に多けれども。 彼の業平の心には。 神代も聞かずといひおきし。シテ「名にも龍田の紅葉の色。 ワキ「初瀬の山は桧原が木の間に。 色洩れ出づる村紅葉。シテ「又は八入の岡のもみぢ葉。 ワキ「其外高雄。シテ「嵐山。上歌地「色々を。 四方に染めなす秋の日の。/\。 朝には雪としぐれ夕には雨とそゝぎ。 このもかのもの草木の。はや下染も時過ぎて。 百入千入に薄き濃き。 梢の秋はおもしろや。シテ「白露も。地「白露も。 時雨もいたくもる山は。下葉残らぬもみぢ葉を。 かたしく今宵山伏の。一夜を明し給はゞ。

我も帰りて夜もすがら。夜遊を。 慰め申さんと谷の戸深く入りにけり/\。来序中入「。 ワキ「あら恐ろしの気色やな。 小夜も半に更け方の。ワキツレ二人「月影くらき山中に。 ワキ「行くべき方もあらざれば。 ツレ「あらたなりける夢の告と。ワキ「頼をかけて。 ワキツレ二人「読誦する。 ワキワキツレ三人「南無や開山役の優婆塞。殊には三熊野三所権現。 力を添へてたび給へ。 地「不思議や峨々たる石根に。/\。黒雲一叢起ると見えしが。 谷峰一同に響き震動し。 盤石を砕き木を折る嵐に。先立ち飛ぶ雲の光の中に。 現れ出づる鬼神の姿。 面をむくべきやうぞなき。舞働「。 ワキ「東方に降三世明王。 ワキツレ二人「南方に軍荼利夜叉明王。ワキ「西方に大威徳明王。 ワキツレ二人「北方の金剛夜叉明王。 ワキ「中央に大日大聖不動明王。 三人「〓{おん:口へんに俺のつくり}呼〓{口へんに魯}々々旋荼利摩登枳。〓{おん}阿毘羅吽剣蘇〓{は:口へんに縛る}訶。

地「鬼神の通力忽ちに。/\。 明王の繋縛にかゝると見えしが飛行をなして。 上らんとすれども大地に倒れ伏し。 起きつまろびつ己と身を責め苦しむ気色に行者の威力。 い。よ/\増さり珠数さら/\と押しもんで。見我見者。発菩提心。/\。 聞我名者。断悪修善。聴我説者。得大智恵。 智我心者。即身成仏。即身成仏と祈り伏せ。

行者は遥に立ちのけば。 ワキ「不思議や今までは。 地「不思議や今までは大勢力の鬼神と見えしが。立ち所に弱り伏して。 唯茫然と起き上りて。 たゞよひ行くと見えつるが。ありつる姿は雲煙。 ありつる姿は雲煙と立ち消えて。 鬼神の姿は失せにけり 酒呑童子(後ハ鬼神) 源頼光 独武者 同行山伏 童子侍女 能力

ワキワキツレ一セイ「秋風の。音にたぐへて西川や。 雲も行くなり。大江山。 ワキ「抑これは源の頼光とは我が事なり。 さても此度丹波の国。大江山の鬼神の事。 占方の詞に任せつゝ。頼光保昌に仰せつけらる。 ワキツレ地「頼光保昌申すやう。 たとひ大勢ありとても。人倫ならぬ化生の者。

いづこを境に攻むべきぞ。 ワキ「思ふ子細の候ふとて。山伏の姿に出で立ちて。 ワキツレ詞「兜にかはる兜巾を着。ワキ「鎧にあらぬ篠懸や。 ツレ「兵具に対する笈をおひ。 ワキ「其ぬし/\は頼光保昌。ワキツレ地「貞光季武綱大公時。 ワキツレ独武者「又名を得たる独武者。 ワキツレ地「かれこれ以上五十余人。

ワキ「まだ夜の内に有明の。ワキワキツレ地「月の都を立ち出でて。/\。 行く末問へば西川や。 波風立てゝ白木綿の。御祓もたのもしや。 鬼神なりと大君の。恵に洩るゝ方あらじ。 唯分け行けや足引の。大江の山につきにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。大江山に着きて候。 いかに誰かある。狂言「御前に候。 ワキ「此処にて童子の栖を尋ねて宿をとり候へ。 狂言「畏つて候。いかに童子の御座あるか。 シテ「童子と呼ぶはいかなる者ぞ。 狂言「山伏たちの御入り候ふが。 一夜のお宿と仰せられ候。 シテ「何と山伏たちの一夜のお宿と候ふや。 恨めしや桓武天皇に御請申し。 われ比叡山を出でしより出家には手をさゝじと。固く誓約申せしなり。 中門の脇の廓にとめ申し候へ。狂言シカ%\。 いかに客僧たち。 いづくよりいづかたへ御通り候へば。 此隠家へは御出にて候ふぞ。

ワキ「さん候これは筑紫彦山の客僧にて候ふが。麓の山陰道より道に踏み迷ひ。 前後を忘じ佇候ふ処に。 今宵のお宿何より以て祝著申し候。 さて御名を酒呑。 童子と申し候ふは。 何と申した。 るいはれにて候ふぞ。 シテ「我が。 名を酒呑童子と云ふ事は。 明暮酒。 をすきたるにより。 眷属どもに。 酒呑童子と呼ばれ候。 さればこ。 れを見かれを聞くにつけても。 。 酒ほど面白きものはなく候。客僧達聞しめされ候へ。 。 ワキ「仰にて候ふ程に一つ下され候ふべし。

又此山をばいつの頃よりの御居住にて候ふぞ。 シテ「われ比叡の山を重代の住家とし。年月を送りしに。 大師坊と云ふえせ人。嶺には根本中堂を建て。 麓に七社の霊神を斎し無念さに。 一夜に三十余丈の楠となつて奇瑞を見せし処に。 大師坊一首の歌に。阿縟多羅三〓三菩提の仏たち。

。 詞「我が立つ冥加あらせ給へとありしかば。仏たちも大師坊にかたらはされ。 出でよ/\と責め給へば。 力なくして重代の。比叡のお山を出でしなり。 ワキ「さて比叡山を御出ありて。 其まゝこゝに御座ありけるか。 シテ詞「いやいづくとも定なき。霞にまぎれ雲に乗り。 ワキ「身は久方のあまざかる。鄙の長路や遠田舎。 シテ「御身の故郷と承る。 筑紫をも見て候ふなり。ワキ「さては残らず天が下。 天ざかる日のたてぬきに。 シテ「飛行の道に行脚して。ワキ「あるひは彦山。 シテ「伯耆の大山。ワキ「白山立山富士の御嶽。 シテ詞「上の空なる月に行き。ワキ「雲の通路帰りきて。 シテ詞「猶も輪廻に心ひく。 ワキ「都のあたり程近き。シテ「此大江の山に籠り居て。 ワキ「忍び/\の御住まひ。 シテ詞「隠れすましてありし処に。 今客僧達に見顕れ申し。通力を失ふばかりなり。

ワキ「御心安く思しめせ。人に顕すことあるまじ。 シテ詞「嬉しゝ/\一条に。 頼み申すぞ一樹の蔭。ワキ「一河の流を汲みて知る。 心は本より慈悲の行。シテ「人を助くる御姿。 ワキ「われはもとより出家の形。 シテ「童子もさすが山育。 ワキ「さも童形の御見なれば。シテ「憐み給へ。ワキ「神だにも。 地「一児二山王と立て給ふは。 神を避くるよしぞかし。御身は客僧。 我は童形の身なれば。などか憐み給はざらん。 かまへてよそにて物語りせさせ給ふな。 上歌「陸奥の。安達原の塚にこそ。/\。 鬼こもれりと聞きしものを。真なる/\こゝは名をえし大江山。 生野の道は猶遠し。天の橋立与謝の海。大山の天狗も。 われに親しき。友ぞと知しめされよ。 いざ/\酒を飲まうよ。/\。 偖お肴は何何ぞ。頃しも秋の山草桔梗刈萱破帽額。 紫苑といふは何やらん。鬼の醜草とは。

誰がつけし名なるぞ。シテ「げに真。 地「げに真。丹後丹波の境なる。鬼が城も程近し。 頼もし/\や。飲む酒の科ぞ。 鬼とな思しそよ。恐れ給はで。われに馴れ/\給はば。興がる友と思しめせ。 われもそなたの御姿。出ち見には。/\。 恐ろしげなれど。馴れてつぼいは山伏。 猶々めぐる盃の。度重なれば有明の。 天も花に酔へりや。足もとはよろ/\と。 たゞよふかいざよふか。 雲折り敷きて其まゝ目に見。 えぬ鬼の間に入り荒海の障子おし明けて。夜の臥処に入りにけり/\。中入。 ワキ、アシラヒ「すでに此夜も更け方の。 空なほ闇き鬼が城。鉄の扉を推し開き。 見れば不思議や今までは。人の形と見えつるが。 地「その丈二丈ばかりなる。/\。 鬼神のよそほひ眠れるだけも勢の。 あたりを払ふけしきかな。かねて期したる事なれば。

とても命は君のため。又は神国氏社。 南。 無や八幡山王権現われらに力をそへ給へと。頼光保昌綱公時貞光季武独武者。 こゝろを一つにして。 まどろみ臥したる鬼の上に。剣を飛ばする光の影。 稲妻震動。おびたゝし。 シテ「情なしとよ客僧たち偽あらじと云ひつるに。 鬼神に横道なきものを。 ワキツレ詞(独武者)「何鬼神に横道なしとや。シテ「なか/\の事。 ワキツレ(独武者)「あら空言やなどさらば。王地に住んで人を取り。 世の妨とはなりけるぞ。 われをば音にも聞きつらん。保昌が館に独武者。 鬼神なりと遁すまじ。ましてやこれは勅なれば。 土も木も。我が大君の国なれば。 いづくか鬼の。宿なるらん。 地「あますな洩すな攻めよや攻めよ人々とて。 切先を揃へて切つてかゝる。山河草木震動して。 /\。光満ちくる鬼の眼。たゝゞ日月の。 天の星。照りかゞやきてさながらに。

面を向くべき様ぞなき。働。 ワキ「頼光保昌もとよりも。 地「頼光保昌もとよりも。 鬼神なりともさすが頼光が手なみにいかで。洩すべきと。 走りかゝつてはつたと打つ手にむずと組んで。 えいや/\と組むとぞ見えしが頼光下に。

組み伏せられて。鬼一口に。食はんとするを。頼光下より刀を抜いて。 二刀三刀刺し通し刺し通し。 刀を力にえいやとかへし。さも勢へる。 鬼神を推しつけ怒れる首を。出ち落し。大江の山を。 又踏み分けで。都へとこそ帰りけれ 源頼光 渡辺綱 保昌、貞光、季武、公時 鬼神(謡ナシ) 渡辺綱

ワキワキツレ次第「治まる花の都とて。/\風も音せぬ春べかな。 頼光詞「これは源の頼光とは我が事なり。 さても丹州大江山の鬼神を従へしより此方。貞光季武綱公時。 此人人と日夜朝暮参会申し候。 ことさらこのほどは。 晴れ間も見えぬ春雨にて候ふ程に。酒をすゝめばやと存じ候。 サシ「有難や四海の安危は掌のうちに照し。 百王の理乱は心のうちに掛けたり。

ワキツレ立衆上歌「曇なき君の御影は久方の。/\。 そらものどけき春雨の。音も静かに都路の。 七つの道も末すぐに。 八洲の波も音せぬ九重の春ぞ。久しき/\。 頼光詞「いかに面々。 さしたる興も候はねども。この春雨の昨日今日。 晴間も見えぬつれ%\に。今日も暮れぬと告げ取る。 声も寂しき入相の鐘。上歌地「つく%\と。 春の長雨の寂しきは。/\。

しのぶにつたふ。軒の玉水音すごく。 独ながむる夕まぐれ。ともなひ語らふ諸人に。 御酒をすゝめて盃を。とり%\なれや梓弓。 やたけ心の一つなる。 つはものゝ交はり頼みある中の酒宴かな。 クセ「思ふ心のそこひなく。たゞうちとけてつれ%\と。 降り暮らしたる宵の雨。これぞ雨夜の物語。 頼光「しな%\詞の花も咲き。 地「匂も深き紅に。面もめでて人心。 隔てぬ中の戯は。面白やもろともに。 近く居よりて語らん。 頼光詞「余りに寂しき夜にて候ふ程に。 皆々近う寄つて御物語り候へ。ワキ「畏つて候。 仰にて候ふ程に。皆々近う御参り候へ。 頼光「いかに申し候。 この程めづらしき事はなく候ふか。 保昌「さん候この頃不思議なる事をン申し候。 九条の羅生門に鬼神の住んで。暮るれば人の通らぬ由を申し候。 ワキ「いかに保昌。条なき事な宣ひそ。

さすがに羅生門は。都の南門ならずや。 土も木も我が大君の国なれば。 いづくか鬼の宿と定めんと聞く時は。 たとひ鬼神の住めばとて住ますべきにもあらず。 かゝる粗忽なる事を仰せ候ふぞ。 保昌「さては某詐を申すと思しめし候ふか。 其儀にて候はゞ。今夜彼の門に行き。 真か偽りかを見候ふべし。印を賜はり候へ。 ワキツレ三人「満座のともがら一同に。 これは無益とさゝへたり。 ワキ「いや保昌に対し野心は無けれども。一つは君の御為なれば。 しるしを賜べと申しけり。頼光詞「げに/\綱が申すごとく。一つは君の御為なれば。 しるしを立てゝ帰るべしと。 札を取り出で賜びければ。

ワキ歌「綱はしるしを賜はりて。地「綱はしるしを賜はりて。 御前を立つて出でけるが。立ち帰り方々は。 人の心を陸奥の。安達が原にあらねども。 こもれる鬼を従へずは。二度また人に。 面を向くる事あらじ。これまでなりや梓弓。 引きはかへさじ武士の。 やたけごころぞ恐ろしき/\。ワキ中入。 後ワキ一声「さても渡辺の綱は。 たゞかりそめの口論により。鬼神の姿は見んために。 物の具取つて肩に懸け。 同じ毛の兜の緒をしめ。重代の太刀を佩き。 地「たけなる馬に打ち乗つて。舎人をもつれず唯一騎。 宿所を出でて二條大宮を。 美袋がしらに歩ませり。地「春雨の。 音もしきりに更くる夜の。/\。鐘も聞ゆる暁に。 東寺の前を打ち過ぎて。九条おもてにうつて出で。 羅生門を見渡せば。物凄じく雨落ちて。 俄に吹きくる風の音に。齣も進まず。 高いなゝきし。

身ぶるひしてこそ立つたりけれ。上「その時馬を乗りはなし。/\。 羅生門の石段にあがり。 しるしの札を取り出し。 段上に立ておき帰らんとするに。後ろより兜の。 錏をつかんで引き留めければ。すはや鬼神と太刀抜き待つて。 切らんとするに。 取りたる兜の緒を引きちぎつて。 おぼえず段より飛びおりたり。上「かくて鬼神は怒をなして。/\。 。 持ちたる兜をかつぱと投げ捨てそのたけ。 皐門の軒にひとしく両眼月日の如くにて。綱を〓{にら:目へんに敢えて}んで立つたりけり。 ワキ「綱は騒がず太刀さしかざし。

地「綱は騒がず太刀さしかざし。 汝知らずや王地を犯す。その天罰は。 遁るまじとてかゝりければ。 鉄杖を振上げえいやと打つを。飛び違ひちやうと斬る。 斬られて組みつくを。払ふ剣に腕打ち落され。 ひるむと見えしがわきつぢにのぼり。 虚空をさして上りけるを。 慕ひゆけども黒雲おほひ。時節を待ちて。又取るべしと。 呼ばはる声も。 かすかに聞ゆる鬼神よりも恐ろしかりし。綱は名をこそ。 あげにけれ 頼光従者 胡蝶 頼光 独武者

胡蝶次第「浮き立つ雲の行くへをや。/\。 風のこゝちを尋ねん。 サシ「これは頼光の御内に仕へ申す。胡蝶と申す女にて候。

詞「さても頼光例ならず悩ませ給ふにより。 典薬の頭より御薬を持ち。 唯今頼光の御所へ参り候。いかに誰か御入り候。

従者詞「誰にて御座候ふぞ。 胡蝶詞「典薬の頭より御薬を持ちて。胡蝶が参りたるよし御申し候へ。 従者詞「心得申し候。 御機嫌を以つて申し上げうずるにて候。 頼光サシ「こゝに消えかしこに結ぶ水の泡の。 浮世に廻る身にこそありけれ。げにや人知れぬ。 心は重き小夜衣の。恨みん方もなき袖を。 かたしきわぶる思かな。従者詞「いかに申し上げ候。 典薬。 の頭より御薬を持ちて胡蝶の参られて候。頼光詞「此方へ来れと申し候へ。 従者詞「畏つて候。此方に御参り候へ。 ツレ詞「いかに申し上げ候。 典薬の頭より御薬を持ちて参りて候。御心地は何と御入り候ふぞ。 頼光詞「昨日よりも心地も弱り身も苦みて。 今は期を待つばかりなり。ツレ「いや/\それは苦しからず。 病うは苦しき習ながら。療治によりて癒る事の。 例は多き世の中に。頼光「思ひも捨てず様々に。 地「色を尽して夜昼の。/\。

境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。 。 げにや心を転ぜずそのまゝに思ひ沈む身の。胸を苦しむる心となるぞ悲しき。 僧(土蜘蛛)一声「月清き。夜半とも見えず雲霧の。 かゝれば曇る。心かな。詞「いかに頼光。 御心ちは何と御座候ふぞ。 頼光「不思議やな誰とも知らぬ僧形の。 深更に及んでわれを訪ふ。その名はいかにおぼつかな。 僧詞「愚の仰候ふや。 悩み給ふも我がせこが。来べき宵なりさゝがにの。 頼光「くもの振舞かねてより。 知らぬといふに猶近づく。姿は蜘蛛の如くなるが。 僧詞「かくるや千条の糸条に。頼光「五体をつゞめ。 僧「身を苦しむる。 地上歌「化生と見るよりも。/\。枕にありし膝丸を。 抜き開きちやうと切れば。 そむくる所をつゞけざまに。足もためず。薙ぎ伏せつゝ。 得たりやおうとのゝしる声に。 形は消えて失せにけり。/\。僧中入?早鼓?。

。 ? ?<早鼓>独武者詞「御声の高く聞え候ふ程に馳せ参じて候。何と申したる御事にて候ふぞ。 頼光詞「いしくも早く来たる者かな。 近う来り候へ語つて聞かせ候ふべし。 物語「偖も夜半ばかりの頃。 誰とも知らぬ僧形の来。 り我が心ちを問ふ。 何者なるぞと尋ねしに。 我。 がせこが来べき。 宵なりさゝがにの。 蜘蛛の振舞。 かねてしるしも。 といふ古歌を連ね。 即ち七尺ば。 かりの蜘蛛となつて。我に千条の糸を繰りかけしを。 枕にありし膝丸にて切り伏せつるが。 化生の者とてかき消すやうに失せしなり。 これと申すもひとへに剣の威徳と思へば。

今日より膝丸を蜘蛛切と名づくべし。 なんぼう奇特なる事にてはなきか。 独武者詞「言語道断。今に始めぬ君の御威光剣の威徳。 かた%\以つてめでたき御事にて候。 また御太刀つけのあとを見候へば。 けしからず血の流れて候。此血をたんだへ。 化生の者を退治仕らうずるにて候。 頼光?詞?「急いで参り候へ。独武者「畏つて候。早鼓中入。 独武者立衆一声「土も木も。我が大君の国なれば。

いづくか鬼の。やどりなる。 独武者「其時独武者進み出で。 彼の塚に向ひ大音あげていふやう。これは音にも聞きつらん。 頼光の御内に其名を得たる独武者。 いかなる天魔鬼神なりとも。 命魂を断たん此塚を。地「崩せや崩せ人々と。 呼ばはり叫ぶ其声に。力を得たる。ばかりなり。 地ノル「下知に従ふ武士の。/\。 塚を崩し石をかへせば。塚の内より火焔を放ち。 水を出すといへども。大勢崩すや古塚の。 怪しき岩間の陰よりも。鬼神の形は。顕れたり。 後シテ「汝知らずやわれ昔。 葛城山に年を経し。土蜘蛛の精魂なり。 猶君が代に障をなさんと。頼光に近づき奉れば。 却つて命を断たんとや。 独武者「其時独武者進み出で。ワキ地「其時独武者進み出でて。 汝王地に住みながら。君を悩ます其天罰の。 剣にあたつて。悩むのみかは。 命魂を断たんと。手に手を取り組みかゝりければ。

蜘蛛の精霊千条の糸を繰りためて。 投げかけ/\白糸の。手足に纏り五体をつゞめて。 仆れ臥してぞ見えたりける。舞働「。 独武者「然りとはいへども。 地「然りとはいへども神国王地の恵を頼み。

かの土蜘蛛を中に取りこめ大勢乱れ。かゝりければ。 剣の光に。少し恐るゝ気色を便に切り伏せ/\土蜘蛛の。首うち落し喜び勇み。 都へとてこそ。帰りけれ 源三位頼政 近衛院の臣下 猪早太

。 大臣詞「抑これは近衛院に仕へ奉る臣下なり。君此間御悩にて渡らせ給ひ候。 ある人。奏していはく。東三条の林頭より。 黒雲一むら飛び来り。 御殿の上に覆へばおびえさせ給ふ由を奏す。 昔冷泉院御悩にて渡らせ給ひし時。 前の陸奥守源義家君を守護し申すに。 たとひ天魔鬼神なりとも。いかでか近づけ奉らんとて。 弓の弦うち三度せられければ。 御悩たちまちおこたらせ給ふ其例にまかせ。

兵庫頭源の頼政を召させ。 彼の化生のもの。 を射させらるべきとの宣旨を蒙り候ふ間。頼政を召し出し。 宣旨の趣申し付けばやと存じ候。いかに頼政。 ワキ「御前に候。大臣「これは宣旨にて候。 君此程御悩に渡らせ給ひ候。ある人奏していはく。 東三条の林頭より。黒雲一むら飛び来り。 。 御殿の上におほへば則ちおびえさせ給ふ由を申す。 頼政を召し彼の化生のものを射させらるべきとの御事にて候。

ワキ「宣旨畏つて承り候。さりながら。 いまだ目に見ぬ化生のもの。射よとの宣旨こそ。 然るべからず候へ。 大臣「実に/\申す所は。さる事なれども。 。 伝へ聞く紀の国にも化生を滅ぼしゝ先例あり。ワキ「実に/\聞けば紀の国に。 山蜘蛛多く集まりし。 これ朝敵のはじめといへり。 大臣「今は国土も治りて。 ワキ「靡き従ふ時なれや。地「万代の例にぞ引く桑の弓。 /\。蓬の八しま治りて。 国豊なる御代とかや民も栄ふる時ありて。 道々たれば家々の。風を伝ふる有難や/\。 ワキサシ「然れば天神七代地神五代の世々までも。 地「なゝしの雉も矢にあたりて。天下を治めし。 ためしとかや。 。 クセ「げ?ゐやう射術を伝へては其名を雲の上にあぐ。ワキ「されば愛染明王は。 地「定の弓の恵の矢にて悪魔を払ひ給へり。

神功皇后新羅を徇へ給ひし其昔。 御弓の筈に。 て巌窟に異国の夷は日の本の狗なりと書きし文字の姿。 今の代に残るこそ動きなき国の例なれ。 大臣「いかに頼政。 急ぎ我が屋に帰り用意仕り候へ。ワキ「畏つて候。早鼓中入間「。 ワキ一声「扨も頼政思はざる宣旨を蒙り。 ぎよりやう。 の狩衣に重藤の弓持つて山鳥の尾にて矧いだる尖矢二つ取りそろへ。 頼みたる郎等には。ワキツレ「遠江の国の住人猪早太に。 ワキ「ほろのかざ切にて矧いだる矢負はせて。 唯一人ぞ召具したる。 地「かゝれば夜も更けて。俄に落ちくる雨風の音。 すはや時節と。待ちかけたり。 早笛「不思議や更け行く月影の。/\。 シテ「光をますかと見えつるが。地「東三条の林頭よりも。 黒雲一むら飛び来り御殿の上にぞ。懸りける。舞働「。 ワキ「其時頼政祈念して。 地「其時頼政祈念して/\。南無屋八幡大菩薩。 化生のまん中射させて給べと。 眼を開き能々見れば。頭は猿尾はくつなは。 足手は虎の如くなるが。啼く声鵺に似たりけり。 尖矢つがつてよつぴきしぼり。 化生のまん中ひやうづばと射通され。 起きつまろびつ御殿の上を。 はしりめぐるが暫しもたま。 らず逆様に落ちけるを猪早太つと寄り九刀に刺し留めければ。 弓箭の家に頼政が勢。誉めぬ人こそなかりけれ (観世流以外にては黒塚といふ) 東光坊祐慶 同行山伏 老女 鬼女

ワキ、ワキツレ二人 次第「旅の衣は篠懸の。/\。

露けき袖やしほるらん。

ワキサシ「これ那智の東光坊の阿闍梨。祐慶とは我が事なり。 ワキツレ二人「夫れ捨身抖〓{大漢和:12912 ソウ}の行体は。山伏修行の便なり。 ワキ「熊野の順礼廻国は。 皆釈門の習なり。三人「然るに祐慶此間。 心に立つる願あつて。廻国行脚に赴かんと。 歌「我が本山を立ち出でて。/\。 分け行く末は紀の路がた塩崎の浦をさし過ぎて。錦の浜の。 をり/\は。なほしほりゆく旅衣。 日も重れば程もなく。名にのみ聞きし陸奥の。 安達が原に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 これははや陸奥の安達が原に着きて候。あら笑止や日の暮れて候。 このあたりには人里もなく候。 あれに火の光の見え候ふ程に。 立ちより宿を借らばやと存じ候。 シテサシ「実にわび人の習ほど。 悲しきものはよもあらじ。かゝる憂き世に秋の来て。 朝けの風は身にしめども。 胸を休むる事もなく。昨日も空しく暮れぬれば。

まどろむ夜半ぞ命なる。あら定めなの生涯やな。 ワキ詞「いかにこの屋の内へ案内申し候。 シテ詞「そも如何なる人ぞ。 ワキツレ「いかにや主聞き給へ。我等始めて陸奥の。 安達が原に行き暮れて。宿を借るべき便もなし。 願はくは我等を憐みて。 一夜の宿をかし給へ。シテ「人里遠き此野辺の。 松風はげしく吹きあれて。 月影たまらぬ閨の内には。いかでか留め申すべき。 ワキ「よしや旅寐の草枕。今宵ばかりの仮寐せん。 ただ/\宿をかし給へ。 シテ「我だにも憂き此庵に。ワキ「たゞ泊らんと柴の戸を。 シテ「さすが思へば痛はしさに。 地歌「さらばとゞまり給へとて。 樞を開き立ち出づる。異草も交る茅莚。 うたてや今宵敷きなまし。強ひても宿をかり衣。 かたしく袖の露ふかき。草の庵のせはしなき。 旅寐の床ぞ物うき/\。 。

ワキ詞「今宵の御宿かへす%\も有難うこそ候へ。 またあれなる物は見馴れ申さぬ物にて候。 これは何と申したる物にて候ふぞ。シテ詞「さん候。 これはわくかせわとて。 いやしき賎の女のいとなむ業にて候。ワキ「あらおもしろや。 さらば夜もすがら営うでお見せ候へ。 シテ「実に愧かしや旅人の。 見る目も恥ぢずいつとなき。賎が業こそものうけれ。 ワキ「今宵とどまる此宿の。主の情深き夜の。 シテ「月もさし入る。ワキ「閨の内に。 地次第「真麻苧の絲を繰返し。/\昔を今になさばや。 シテ「賎が績苧の夜までも。 地「世わたる業こそものうけれ。 シテ「あさましや人界に生を受けながら。 かゝる憂き世に明け暮らし。身を苦しむる悲しさよ。 ワキサシ「はかなの人の言の葉や。まづ生身を助けてこそ。 仏身を願ふ便もあれ。 地「かゝる憂き世にながらへて。明暮ひまなき身なりとも。 心だに誠の道にかなひなば。

祈らずとても終になど。仏果の縁とならざらん。 クセ「唯これ地水火風の仮にしばらくも纏りて。 。 生死に輪廻し五道六道にめぐる事唯一心の迷なり。凡そ人間の。 あだなる事を案。 ずるに人更に若きことなし終には老となるものを。 かほどはかなき夢の世をなどや厭はざる我ながら。 あだなる心こそ恨みてもかひなかりけれ。 。 ロンギ地「扨そも五条あたりにて夕顔の宿を尋ねしは。シテ「日陰の糸の冠着し。 それは名高き人やらん。 地「賀茂のみあれにかざりしは。シテ「糸毛の車とこそ聞け。 地「糸桜。色もさかりに咲く頃は。 シテ「くる人多き春の暮。地「穂に出づる秋の糸薄。 シテ「月に夜をや待ちぬらん。 地「今はた賎が繰る糸の。シテ「長き命のつれなさを。 。 地「長き命のつれなさを思ひ明石の浦千。 鳥音をのみひとり泣き明かす音をのみひとり鳴き明かす。

シテ詞「如何に客僧達に申し候。 ツレ詞「承り候。シテ「あまりに夜寒に候ふ程に。 上の山に上り木を取りて。 焚火をしてあて申さうずるにて候。暫く御待ち候へ。 ワキ「御。 志ありがたうこそ候、さらば待ち申さうずるにて候。やがて御帰り候へ。 シテ「さらばやがて帰り候ふべし。や。 いかに申し候。 妾が帰らんまで此閨の内ばし御覧じ候ふな。ワキ「心得申し候。 見申す事は有るまじく候。御心安く思し召され候へ。 シテ「あらうれしや候。 かまへて御覧じ候ふな。此方の客僧も御覧じ候ふな。 ワキツレ「心得申し候。中入間「。 ワキ「ふしぎや主の閨の内を。 物の隙よりよく見れば。膿血忽ち融滌し。 臭穢は満ちて膨脹し。膚膩こと%\く爛壊せり。 人の死骸は数しらず。 軒とひとしく積み置きたり。いかさまこれは音に聞<。 安達が原の黒塚に。籠れる鬼の住所なり。

。 ワキツレ二人「恐ろしやかゝる憂き目をみちのくの。安達が原の黒塚に。 鬼こもれりと詠じけん。歌の心もかくやらんと。 三人歌「心も惑ひ肝を消し。/\。 行くべき方は知らねども。足に任せてにげて行く/\。 出端又ハ早笛後シテ「如何にあれなる客僧。 詞とまれとこそ。さしもかくしゝ閨の内を。 あさまになされ参らせし。恨申しに来りたり。 胸を焦がす炎。咸陽宮の煙。紛々たり。 地「野風山風吹き落ちて。 シテ「鳴神稲妻天地に満ちて。地「室かき曇る雨の夜の。 シテ「鬼一口に食はんとて。 地「歩みよる足音。シテ「ふりあぐる鉄杖のいきほひ。 地「あたりを払って恐ろしや。 イノリ ワキ「東方に降三世明王。 ツレ「南方の軍荼利夜叉明王。ワキ「西方に大威徳明王。 ツレ「北方に金剛夜叉明王。 ワキ「中央に大日大聖不動明王。三人「〓{大漢和:03770 アン}呼〓{大漢和:04502}々々旋荼利摩登枳。 〓{大漢和:03770 アン}阿毘羅吽欠娑婆呵。吽多羅〓{大漢和:03302 タ咤}干〓{大漢和:49288 バン}。

地「見我身者。発菩提心。見我身者。発菩提心。 聞我名者。断悪修善。聴我説者。 得大智恵。知我心者。即身成仏。 即身成仏と明王の。繋縛にかけて。責めかけ/\。 祈り伏せにけりさて懲りよ。 シテ「今まではさしも実に。 地「今まではさしも実に。怒をなしつる。鬼女なるが。 忽ちによわりはてゝ。

天地に身をつゞめ眼くらみて。足もとは。よろ/\と。 たゞよひめぐる。安達が原の。 黒塚に隠れ住みしもあさまになりぬ。 あさましや愧づかしの我が姿やと。云ふ声はなほ。 物冷まじく。 云ふ声はなほ冷まじき夜嵐の音に。立ちまぎれ。 失せにけり夜嵐の音に失せにけり 侍女 平維茂 従者 息女

シテツレ次第「時雨を急ぐ紅葉狩。/\。 深き山路を尋ねん。 シテ「これは此あたりに住む女にて候。 シテツレ四人「げにやながらへて浮世に住むとも今は早。誰しら雲の八重葎。 茂れる宿の淋しきに。 人こそ見えね秋の来て。庭の白菊。移ふ色も。 うき身の類と哀なり。シテ「あまり淋しき夕まぐれ。

しぐるゝ空を眺めつゝ。 四方の梢もなつかしさに。 シテツレ四人下歌「伴ひ出づる道のべの草葉の色も日に添ひて。上歌「下紅葉。 夜の間の露や染めつらん。/\。 あしたの原は昨日より。 色深き紅を分け行くかたの山深み。げにや谷河に。 風のかけたる柵は。流れもやらぬもみぢ葉を。渡らば錦。

中絶えんと。まづ木の本に立ちよりて。 四方の梢をながめて暫く休み給へや。 。 ワキサシ一声「面白やころは長月廿日あまり四方の梢もいろ/\に。錦を色どる夕時雨。 濡れてや鹿の独り鳴く。 声をしるべの狩場の末。げに面白き景色かな。 ワキツレ一セイ「明けぬとて。野辺より山に入る鹿の。 跡吹き送る風の音に。駒の足並。勇むなり。 ワキ、ワキツレ上歌「大丈夫が。やたけ心の梓弓。 /\。いる野の薄露分けて。 行くへも遠き山陰の。鹿垣の道のさかしきに。 落ちくる鹿の声すなり。風のゆくへも。 心せよ風のゆくへも心せよ。 ワキ詞「如何に誰かある。ワキツレ詞「御前に候。 ワキ「あの山陰にあたつて人影の見え候ふは。 如何なる者ぞ名を尋ねて来り候へ。ワキツレ「畏つて候。 名を尋ねて候へば。やごとなき上臈の。 幕うちまはし屏風を立て。 酒宴なかばと見えて候ふ程に。懇に尋ねて候へば。

名をば申さず。只さる御方とばかり申し候。 ワキ「あら不思議や。 此あたりにてさやうの人は思ひもよらず候。 よし誰にてもあれ上臈の。道のほとりの紅葉狩。 ことさら酒宴の半ならば。かた%\乗打叶ふまじと。 地歌「馬よりおりて沓をぬぎ。/\。 道をへだてゝ山陰の。岩のかけ路を過ぎ給ふ。 心づかひぞ。 たぐひなき心づかひぞたぐひなき。 。 シテ「げにや数ならぬ身ほどの山の奥に来て。人は知らじとうちとけて。 独り眺むるもみぢ葉の。 色見えけるか如何にせん。ワキ「我は誰とも白真弓。 たゞやごとなき御事に。恐れて忍ぶばかりなり。 シテ「忍ぶもぢずり誰ぞとも。 知らせ給はぬ道のべの。便に立ち寄り給へかし。 ワキ詞「思ひよらずの御事や。 何しに我をばとめ給ふべきと。 さらぬやうにて過ぎ行けば。シテ「あら情なの御事や。

一村雨の雨宿。ワキ「一樹の蔭に。 シテ「立ち寄りて。地「一河の流を汲む酒を。 いかでか見捨て給ふべきと。 恥かしながらも袂にすがり留むれば。 さすが岩木にあらざれば。心弱くも立帰る。 所は山路の菊の酒何かは苦しかるべき。 地クリ「げにや虎渓を出でし古も。 志をば捨てがたき。人の情の盃の。 深き契のためしとかや。 シテサシ「林間に酒を煖めて紅葉を焼くとかや。地「げに面白や所から。 巌の上の苔筵。 片敷く袖も紅葉衣のくれなゐ深き顔ばせの。ワキ「此世の人とも。 思はれず。地「胸うち騒ぐばかりなり。 クセ「さなきだに人心。乱るゝふしは竹の葉の。 露ばかりだに受けじとは。 思ひしかども盃に。向へばかはる心かな。 されば仏も戒の。道はさま%\多けれど。 殊に飲酒を破りなば。邪淫妄語ももろともに。 乱心の花かづら。斯かる姿はまた世にも。

たぐひあらしの山桜。 よその見る目も如何ならん。 シテ「よしや思へばこれとても。地「前世のちぎり浅からぬ。 深き情の色見えて。かゝるをりしも道のべの。 草。 葉の露のかごとをもかけてぞ頼む行末を。契るもはかな打ちつけに。 人の心もしら雲の立ちわづらへるけしきかな。 かくて時刻も移りゆく。雲に嵐の声すなり。 散るか正木の葛城の。神の契の夜かけて。 月の盃さす袖も。雪をめぐらす袂かな。 堪へず紅葉。中ノ舞「。 シテワカ「堪へず紅葉青苔の地。 地「堪へず紅葉青苔の地。又これ涼風暮れゆく空に。 雨うちそゝぐ夜嵐の。もの凄ましき。 山陰に。月待つほどのうたゝ寐に。 かたしく袖も露深し。夢ばし覚まし。 給ふなよ夢ばし覚まし給ふなよ。来序中入間「。 ワキ「あらあさましや我ながら。 無明の酒の酔心。まどろむ隙もなき内に。

あらたなりける夢の告と。 地「驚く枕に雷火乱れ。天地も響き風遠近の。 たづきも知らぬ山中に。おぼつかなしや。恐ろしや。 歌「不思議や今までありつる女。/\。 とり%\化生の姿をあらはし。 あるひは巌に火焔を放ち。または虚空に焔を降らし。 咸陽宮の。烟の中に。 七尺の屏風の上になほ。あまりて其たけ一丈の鬼神の。 角はかぼく眼は日月。 面を向くべきやうぞなき。

ワキ「維茂すこしも騒がずして。 地「維茂すこしも騒ぎ給はず。南無や八幡大菩薩と。 心に念じ。剣を抜いて待ちかけ給へば。 微塵になさんと。飛んでかゝるを。 飛び。 違ひむずと組み鬼神の真中さしとほす所を。頭をつかんで上らんとするを。 切り払ひ給へば。剣に恐れて巌へ上るを。 引きおろし刺し通し。 忽ち鬼神を従へ給ふ。威勢の程こそ恐ろしけれ 武蔵坊弁慶 義経の従者 源義経 静御前 平知盛の幽霊

ワキ、ワキツレ二人次第「今日思ひ立つ旅衣。/\帰洛をいつと定めん。ワキ詞「かやうに候ふ者は。 西塔の傍に住居する武蔵坊弁慶にて候。 さても我が君判官殿は。 頼朝の御代官として平家を亡ぼし給ひ。

御兄弟の御中日月の如く御座候ふべきを。 ゆひかひなき者の讒言により。御中たがはれ候ふ事。 かへす%\も口惜しき次第にて候。 然れども我が君親兄の礼を重んじ給ひ。 一まづ都を御開きあつて。

西国の方へ御下向あり。 御身に過なき通りを御歎きあるべき為。今日夜をこめ淀より御船に召され。 津の国尼が崎大物の浦へと急ぎ候。 ワキ、ワキツレ二人サシ「頃は文治の初めつかた。 頼朝義経不会の由。すでに落居し力なく。 子方「判官都ををち近の。道狭くならぬ其さきに。 西国の方へと志し。 ワキ、ワキツレ二人「まだ夜深くも雲居の月。出づるも惜しき都の名残。 一年平家追討の。都出には引きかへて。 唯十余人。すご/\と。 さも疎からぬ友舟の。 下歌「上りくだるや雲水の身は定めなき習かな。上歌「世の中の。 人は何とも石清水。/\。清み濁るをば。 神ぞ知るらんと。高き御影を伏し拝み。 行けば程なく旅心。 潮も波も共に引く大物の浦に着きにけり大物の浦に着きにけり。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 これははや大物の浦に御着にて候。某存知の者の候ふ間。 御宿の事を申しつけうずるにて候。

いかに此屋の主の渡り候ふか。 狂言「誰にて御入り候ふぞ。ワキ「いや武蔵にて候。 狂言「さて只今は何の為の御いで候ふぞ。 ワキ「さん候我が君をこれまで御供申して候。 御宿を申し候へ。 狂言「さらば奧の間へ御通り候へ。 御用心の事は御心安く思しめされ候へ。ワキ「如何に申し上げ候。 恐れ多き申し事にて候へども。 正しく静は御供と見え申して候。 今の折ふし何とやらん似合はぬ様に御座候へば。 あつぱれこれより御かへしあれかしと存じ候。 子方「ともかくも弁慶はからひ候へ。 ワキ「畏つて候。 さらば静の御宿へまゐりて申し候ふべし。 ワキ詞「いかに此屋の内に静の渡り候ふか。 君よりの御使に武蔵が参じて候。 シテ詞「武蔵殿とはあら思ひよらずや。 何のための御使にて候ふぞ。 ワキ「さん候唯今参る事余の儀にあらず。我が君の御諚には。

こ。れまでの御参かへす%\も神妙に思しめし候。去りながら。 唯今は何とやらん似合はぬやうに御座候へば。 これより都へ御帰あれとの御事にて候。 シテ「これ。 は思ひもよらぬ仰かな。 いづく。 までも御供とこそ思ひしに。 頼。 みても頼みなきは人の心なり。 。 あら何ともなや候。 ワキ「扨御返。 事をば何と申し候ふべき。 。 シテ「自ら御供申し。 君の御大事になり候はゞ留まり候ふべし。ワキ「あら事々しや候。 たゞ御とまり有るが肝要にて候。シテ「よく/\物を案ずるに。

これは武蔵殿の御はからひと思ひ候ふ程に。 わらは参り直に御返事を申し候ふべし。 ワキ「それはともかくもにて候。さらば御参り候へ。 ワキ詞「如何に申し上げ候。 静の御参にて候。子方「いかに静。 此度思はずも落人となり落ち下る所に。是まで遥々来る志。 かへす%\も神妙なりさりながら。 はる。

ばるの波涛をしのぎ下らん事然るべからず。先此度は都に上り。時節を待ち候へ。 。 シテ「さては誠に我が君の御諚にて候ふぞや。 よしなき武蔵殿を恨み申しつる事の恥かしさよ。返す%\も面目なうこそ候。 へ。ワキ「いや/\これは苦しからず候。 唯人口を思しめすなり。 御心変るとな思しめしそと。涙を流し申しけり。 シテ「いやとにかくに数ならぬ。 身には恨もなけれども。これは舟路の門出なるに。 地歌「浪風も。静を留め給ふかと。/\。 涙を流し木綿四手の。神かけて変らじと。 契りし事も定なや。げにや別より。 まさりて惜しき命かな。 君に二たび逢はんとぞ思ふ行末。 子方詞「いかに弁慶。静に酒をすゝめ候へ。 ワキ「畏つて候。げに/\これは御門出の。行末千代ぞと菊の盃。 静にこそすゝめけれ。シテ「妾は君の御別。 やる方なさにかきくれて。涙にむせぶばかりなり。

。ワキ詞「いや/\これは苦しからぬ、旅の舟路の門出の和歌。唯一さしと勧むれば。 シテ「其時静は立ち上り。 時の調子を取りあへず。渡口の郵船は。 風静まつて出づ。地「波頭の謫所は。日晴れて見ゆ。 ワキ詞「これに烏帽子の候召され候へ。物着。 シテ「立ち舞ふべくもあらぬ身の。 地「袖打ち振るも。恥かしや。イロエ「。 シテサシ「伝へ聞く陶朱公は勾踐をともなひ。 地「会稽山にこもりゐて。 種々の智略をめぐらし。終に呉王を亡ぼして。 勾踐の本意を。達すとかや。 クセ「しかるに勾踐は二度代を取り会稽の恥を雪ぎしも。 陶朱攻を成すとかや。されば越の臣下にて。 政を身に任せ。功名富み貴く。 心の如くなるべきを。 功成り名遂げて身退くは天の道と心得て。小船に棹さして五湖の。 煙涛をたのしむ。シテ「かゝる例も有明の。 地「月の都をふりすてゝ。

西海の波涛に赴き御身の科のなきよしを。 歎き給はゞ頼朝も。終にはなびく青柳の。 枝を連ぬる御契。などかは朽ちし果つべき。 地「唯たのめ。中ノ舞「。 シテワカ「唯頼め。しめぢが原の。さしも草。 地「我世の中に。あらん限りは。 シテ「かく尊詠の。偽なくは。 地「かく尊詠の偽なくは。やがて御代に出舟の。船子ども。 はや纜をとく/\と。/\。 勧め申せば判官も。旅の宿を出で給へば。 シテ「静は泣く/\。地「烏帽子直垂ぬぎ捨てゝ。 涙にむせぶ御別。 見る目もあはれなりけり/\。中入間「。 ワキ詞「静の心中察し申して候。 やがて御舟を出さうずるにて候。 ワキツレ「いかに申し候。ワキ「何事にて候ふぞ。 ワキツレ「君よりの御諚には。今日は浪風荒く候ふ程に。 御逗留と仰せいだされて候。 ワキ「何と御逗留と候ふや。ワキツレ「さん候。

ワキ「これは推量申すに。静に名残を御惜あつて。 御逗留と存じ候。先御思案有つて御覧候へ。 今此御身にてかやうの事は。 御運も尽きたると存じ候。 其上一年渡辺福島を出でし時は。以ての外の大風なりしに。 君御舟を出し。平家を亡ぼし給ひし事。 今以て同じ事ぞかし。急ぎ御舟を出すべし。 ワキツレ「げに/\これは理なり。 いづくも敵と夕浪の。ワキ「立ち騒ぎつゝ舟子ども。 地「えいや/\と夕汐に。つれて舟をぞ。 出しける。狂言シカ%\「。 ワキ詞「あら笑止や風が変つて候。 あの武庫山颪弓絃羽が嶽より吹きおろす嵐に。 此御舟の陸地に着くべき様もなし。 皆々心中に御祈念候へ。 ワキツレ「いかに武蔵殿此御舟にはあやかしが憑いて候。 ワキ「ああしばらく。 さやうの事をば船中にては申さぬ事にて候。シカ%\「。 あら不思議や海上を見れば。西国にて亡びし平家の一門。

おの/\浮み出でたるぞや。かゝる。 詞「時節を伺ひて。恨をなすも理なり。 子方「いかに弁慶。ワキ「御前に候。 判官「今更驚くべからず。たとひ悪霊恨をなすとも。 そも何事の有るべきぞ。 悪逆無道の其積り。神明仏陀の冥感に背き。 天命に沈みし平氏の一類。 地「主上を始め奉り一門の月卿雲霞の如く。 波に浮びて見えたるぞや。 後シテ早笛「抑これは。桓武天皇九代の後胤。 平の知盛。幽霊なり。 詞「あら珍らしやいかに義経。思ひもよらぬ浦浪の。 地「声をしるべに出舟の。/\。 シテ「知盛が沈みし其有様に。地「又義経をも。 海に沈めんと。夕浪に浮べる長刀執り直し。 巴浪の紋あたりを払ひ。 潮を蹴立て悪風を吹きかけ。眼もくらみ。心もみだれて。 前後を忘ずるばかりなり。舞働「。 子方「その時義経少しもさわがず。

地「その時義経少しもさわがず。打物抜き持ち。うつゝの人に。 向ふが如く。言葉をかはし。戦ひ給へば。 弁慶おしへだて打物業にて。叶ふまじと。 数珠さら/\と押しもんで。東方降三世。 南方軍荼利夜叉。西方大威徳。 北方金剛夜叉明王。中央大聖。 不動明王の索にかけて。祈り祈られ悪霊次第に遠ざかれば。 弁慶舟子に力を合せ。 御船を漕ぎのけ汀によすればなほ怨霊は。慕ひ来るを。 追つぱらひ祈りのけ又引く汐に。 ゆられ流れ。また引く汐に。ゆられながれて。 跡白波とぞ。なりにける 二位尼 平知盛(前ハ老舟人) 旅僧

ワキ次第「雲をしるべのよそに見て。/\。 月のゆくへを尋ねん。 詞「これは都方より出でたる僧にて候。偖も平家の一門は。 長門の浦にて果て給ひて候。 われらも平家のゆかりの者にて候ふ程に。 一門の御跡を弔ひ申さんと思ひ。 唯今長門の国へと志し候。道行「本よりも。 浮世の旅にまた出でて。/\。 宿定なく捨つる身の行末なればそことしも。 波に落ちくる汐風早鞆の浦に着きにけり/\。 詞急ぎ候ふ程に。早鞆の浦に着きて候。 暫く舟を相待ち。便船を乞はゞやと存じ候。 シテ一声「磯千鳥。友呼びかはす声すなり。 海士の子供も。心せよ。ワキ詞「なう/\あれなる舟に便船申さう。

シテ「なか/\の事召され候へ。さて船賃は候。 ワキ「さん候出家の事にて候へば船賃は持たず候。 シテ「門司赤間や波風の。 早鞆といひて恐ろしき処を。船賃なくて渡らんとは。 無道心なる僧たちかな。 ワキ「不思議の事を聞くものかな。無縁の僧に船賃を。 とらんと思ふ人々こそ。無道心とはいふべけれ。 シテ「げに/\これは御理。 さて又首に懸け給ふは。いかなる物にてあるやらん。 ワキ「これは一乗妙典なり。 御望あらば読誦せん。シテ「さては嬉しや御僧の。 読誦をわれらが船賃にて。 ワキ「今此船に法の道。シテ「いざ聴聞せん法華経の。 門司の関の戸あかせや篝火。 ワキ「妙法蓮華経薬王菩薩品。如子得母如渡得船。

シテ「こは渡に舟を得たりとや。 あらたふとや此御法。地「と/\召され候へ。とく/\召され候へと。いふや願もみつの舟に。 上人の御法こそ。よき船賃と覚えたり。 げにやもらさじの。 誓の舟に法の人他生の縁は有難や他生の縁は有難や。 ワキ詞「いかに尉殿。まづ/\船より御上り候へ申すべき事の候。シテ「心得申し候。 。 ワキ「何とやらん似合はぬ申し事にて候へども。 古この浦にての軍物語が承りたく候。 シテ「易き間の事語つて聞かせ申し候ふべし。語「偖もこの壇の浦の合戦。 今はかうよと見えし時。門脇殿の次男。 能登の守教経小船に取り乗り。 大薙刀を茎長にとりのべ。此処彼処を薙ぎ給ふにぞ。 兵多く亡びにけり。 其時新中納言使者を立て。せんなき能登殿のふるまひかな。 。 さればとてよき敵にてもあらばこそと宣ひければ。偖は此詞は。

大将と組めといふ事にてやあるらんとて。 敵の舟に紛れ入り。九郎判官を尋ね給ふ。 地上「いかゞはしたりけん。判官の舟に乗り移りぬ。 シテ「能登殿悦び打つてかゝる。 地上「判官これを見て。/\。適はじとや思ひけん。 薙刀脇にかい挟んで。 二丈ばかりの味方の舟に。ゆらりと飛び乗れば。 教経はせんかたもなく。薙刀なげすて。 腹立てしかりあたりをはらつて立つたりけり。 シテ「かゝりける所に。地「かゝりける所に。 安藝の太郎同じき次郎。 兄弟二艘の舟をおしよせ能登の守とぞ闘ひける。 シテ「物物しおのれらに。 地「太刀も刀も入るまじや。いざや冥途のともにつれんと。 左右の腕をさし出し。 彼等を掴んで引きよせて。 左右の脇に挟んで波の底に沈みけり。シテ「さてこそ人々の。 地「幽霊ぞとは白波の。 あと弔ひてたび給へなき跡とひてたび給へ。中入。

。 ワキ「さてもわれ夜も静かなるをりふしに。この海ぎはのほとりにて。 平家の跡を弔ふ所に。詞 不思議やな今までは。 無かりし大船浮み出でて。 上 さも早鞆の海なれども。流れもやらず漕ぎもせず。 潯陽の江のほとりならねど。 舟船のうちにて弾ずる秘曲。松風にも岩こす波にも。 更に紛れぬ琴の爪音。あら不思議の事やな。 後ツレ サシ「いかに大納言の局。 今宵は波も静かなれば。月を叡覧あらんとの御事なり。 あの苫取れと申せ。地上歌「揖枕。 せめては月を松風の。/\。 吹くもよしなや苫取りて。夜舟に月を待たうよ。 クリ「それ身を観ずる時は岸上の草。命を知れば。 江のほとりに繋がざる舟。 ツレサシ「さるほどに壇の浦の合戦。今は頼もなかりしかば。 地「新中納言知盛。 二位殿に向ひ宣ふやう。今はこれまで候。 御痛はしながら行幸を。浪の底になしまゐらせ。

一門供奉し申すべしと。クセ「涙を抑へて宜へば。 二位殿は聞しめし。心得て候ふとて。 しづしづと立ち給ひ。 いまはの出立とおぼしくて。白き御袴の。つま高う召されて。 神璽を脇に挟み。宝剣を腰にさし。 大納言の局に。内侍所を戴かせ。 皇居に参り脆き。いかに奏聞申すべし。 此国と申すに。逆臣多き処なり。 見えたる波の底に。龍宮と申して。めでたき都の候。 行幸をなし申さんと。泣く/\奏し給へば。 シテ「さすが恐ろしと思しけるか。 地「龍顔に御涙を。浮めさせ給ひて。 東に向はせおはしまし。天照大神に。 御暇申させ給ひ。其後西方にて。御十念も終らぬに。 。 二位殿歩みより玉体を抱き目をふさぎて波の底に入り給ふ。 恨めしかりし事どもを。語るもよしなや跡弔へや僧たちと。 夜すがらくどき給ひしに。 俄にかきくもり。虚空に鬨の声きこゆ。

シテ「すは又修羅の。地「合戦の始まるぞや。 シテ詞「波の上に浮び出でたるは何者ぞ。 なに修羅の大将無明王とや。あらもの/\し上北面下北面。宰相三位弁の蔵人。 物故の百官たてをつき。あれ逐つ払へ。 又修羅の嗔恚が起るぞとようらめしや。 地「修羅の戦始まれば。/\。 源氏の軍兵其数浮びてかの御坐舟を。 中にとりこめせめ戦ふ事おびたゝし。シテ「平家の公達艫へに廻り。

地「平家の。 公達艫へに立ち渡り矢さきを揃へ切先を並べて寄せくる敵を待ちかけたり。 中にも知盛進み出でて。大薙刀を。 茎長に取りのべ左を薙ぎては右を払ひ。 多くの敵を亡ぼしけるが。今はこれまで沈まんとて。 鐙二領に兜二はね。 猶も其身を重くなさんと。遥なる沖の。碇の大綱いや/\と引き上げて。兜の上に。 碇を戴き碇を戴きて。海底に飛んでぞ。入りにける 張良 黄色公 張良 黄石公 龍神(謡ナシ)

。 ワキ詞「これは漢の高祖の臣下張良とは我が事なり。われ公庭に隙なき身なれども。 或る夜不思議の夢をみる。 これより下〓{ヒ 大漢和 39340}といふ所に土橋あり。 彼の土橋に何となく休らふ所に。 一人の老翁馬上にて行き逢ふ。彼の者左の沓を落し。

某に取つて履かせよと云ふ。 何者なればわれに向ひかく言ふらんと思ひつれども。 かれが気色たゞものならず。 その上老いたるを貴び親と思ひ沓を取つてはかせて候。 その時彼の者申すやう。汝誠の志あり。 今日より五日に当らん日こゝに来れ。

兵法の大事を伝ふべきよし申して夢さめぬ。 やう/\日を考へ候へば。 今日五日に相当り候ふ程に。 唯今下〓{ヒ 大漢和 39340}の土橋へと急ぎ候。道行「五更の天も明けゆけば。/\。 時やおそきと行く程に。 道は遥に山の端も。白み渡れる川波や。 下〓{ヒ 大漢和 39340}の土橋に着きにけり。/\。 シテ「あらおそなはりやいかに張良。 年老いたるものと契りおきし。 その言の葉もはやたがひぬ。 われは先刻よりこゝに来り。暁鐘をかぞへ待ちつるに。 はや其時刻も杉の門。 上歌詞「待つかひもなしはや帰れ。/\。汝誠の志。 あらば今日より五日に。当らんその日夜ふかく。 来らばわれも又こゝに。 かならず出で逢ひ約束の如く伝へん。後れ給ふな張良と。 怒をなして老翁は。 かき消すやうに失せにけり。/\。シテ中入「。 ワキ詞「言語道断。

以ての外の機嫌にて候はいかに。又我ながらかくの如く。 行方も知らぬ御事に。かやうに恐れ従ふ事。 その故なきには似たれども。 大事を伝へて末世に遺し。兵法の師といはれんと。 地「思ふ心を見んためと。/\。 知れば帰るも恨なし。又こそこゝに来らめと。 勇をなして帰りけり。/\。ワキ中入「。 後ワキ一声「瑶台霜満てり。 一声の玄鶴空に鳴く。巴峡秋深し。五夜の哀猿月に叫ぶ。 物凄じき山路かな。地「有明の。 月も隈なき深更に。/\。山の・峡{かひ}より見渡せば。 所は下〓{ヒ 大漢和 39340}の川波に。渡せる橋におく霜の。 白きをみれば今朝はまだ。 渡りし人の跡もなし。うれしや今ははや。 思ふ願も満つ潮の。暁かけて遥に。 夜馬に鞭うつ人影の。駒をはやむる気色あり。 後シテ大〓{カク 大漢和 22529}「そも/\これは。黄石公といふ。 老人なり。 詞「こゝに漢の高祖の臣下張良といふ者。たゞ公庭を見て君臣を重んじ。

義を全うして心猛く。賢才人に超え。 器量すぐれ。地「国を治め氏をあはれぶ志。 シテ「天道に通じて忽ちに。 地「諸仏も感応まのあたり。 シテ「大事を伝へて高祖につかへ。 地「敵を平。 らげ味方をいさめ。 天下を治めんはかりごと。 汝に伝へんと。 駒をはやめて。 。 来り給ふを張良遥に。 見奉れば。 ありしに変れる。 石公の・粧{よそおひ}。 眼の光もあたりを払ひ。 姿もかゞやく威勢に恐れて。橋本にかしこまり。待ち居たり。 シテ詞「いかに張良。 いしくも早く来るものかな。近づき給へものいはん。

ワキ「その時張良立ちあがり。 衣冠正しく引きつくろひ。土橋を遥に上りゆけば。 シテ「天晴器量の人体からと。 思ひながらも今一度。心を見んと石公は。 地「はいたる沓を馬上より。/\。遥の川に落し給へば。 張良つゞいて飛んで下り。流るゝ沓を。 取らんとすれども所は下〓{ヒ 大漢和 39340}の。 巌石いはほに。足もたまらず早き瀬の。

矢を射る如く落ちくる水んい。 浮きぬ沈みぬ流るゝ沓を。取るべき様こそなかりけれ。 上「不思議や川浪立ち帰り。 早笛(龍神出)「不思議や川浪立ち帰り。 俄に河霧立ち暗がつて。浪間に出づる。蛇体の勢。 くれなゐの舌振りたて。 張良を目がけてかゝりけるが。流るゝ沓を。おつ取り上げて。 面もふらず。かゝりけり。 ワキ「張良さわがず剣を抜きもち。 地「張良騒がず剣を抜きもち蛇体にかゝれば。大蛇は剣の光に恐れ。 持つたる沓を。さし出せば。 沓をおつ取り剣を納め。又川岸に。えいやと上り。

さて彼の沓を取り出し。 石公に履かせ奉れば。シテ「石公馬より静かにおり立ち。 地「石公馬とり静かにおり立ち。 さるにても汝。善哉々々と彼の一巻を取り出し。 張良に与へ。給ひしかば。則ち披き。 悉く拝見し。秘曲口伝を残さず伝へ。 又彼の。 大蛇は観音の再誕汝が心を見んためなれば。 今より後は守護神となるべしと大蛇は雲居に・攀{よ}ぢ上れば。 石公遥の高山にあがり。金色の光を虚空にはなし。 忽ち姿を黄石とおらはし残し給ふぞ。有難き 玄宗皇帝 大臣 老人 楊貴妃 病鬼 鍾馗

。 ワキサシ真ノ来序「春は春遊に入つて夜は夜を専らとし。後宮の佳麗三千人。 三千の寵愛一身にあり。かくたぐひなき貴妃の紅色。

芙蓉の紅。色かへて。 未央の柳も力なし。地下歌「たゞよわ/\と伏柴の露の命もいかならん。上歌「心づくしの春の夜の。

心づくしの春の夜の。 木の間の月も朧にて。雲居に帰る雁も。 我が如くにや鳴き渡る。霞の内の樺桜ひとへに惜しき。 姿かなひとへに惜しき姿かな。 シテ詞「如何に奏聞申すべき事の候。 ワキ「不思議やな宮中しづまり物さびて。 心を澄ますをりふしに。 御階の下に来るを見れば。さも不思議なる老人なり。 そも汝はいかなる者ぞ。シテ「是は伯父の御時に。 鍾馗と云ひし者なりしが。 及第叶はぬ事を歎き。玉階にて頭を打ち砕き。 身を徒になしゝ者の。亡心これまで参りたり。 ワキ「実にさる事を聞きしなり。 其まゝ都の内にをさめ。贈官せられし大臣の。 其亡心は何のため。唯今こゝに来れるぞ。 シテ「実によくしろし召されたり。 贈官のみか緑袍を。死骸に蒙る旧恩に。 今かく君の寵愛し給ふ。貴妃の病を平らげて。 奇特見せしめ申すべし。

然らば件の明王鏡を。かの御枕に立て置き給はゞ。 必ず姿を現さんと。地「直奏かたく申し上げ。 /\。我通力を起しつゝ。 楊貴妃の花の姿誘ふ風を静めんと。 申しもあへず其姿御階の下に。 失せにけり御階の下に失せにけり。中入間「。 ワキ詞「いかに貴妃。 今日はいつしか曇る日の。暮るゝ夕も朧月夜の。 晴れぬ心は如何なるぞ。 貴妃「実にや衣を取り枕を推すべき力もなく。苦しき心にせきかぬる。 涙の露の玉鬘。かゝる姿は恥かしや。 ワキ「かはるにかはるものならば。 かく苦を見るべきかと。 力を添へてゆふ四手の。貴妃「髪をも上げず。ワキ「ひれふすや。 地「翠翅金雀とり%\に。 かざしの花もうつろふや。 枕破の斜紅の世に類なき姿かな。実にや春雨の。 風に従ふ海棠の眠れる花の如くなり。 クセ「然るに明皇。栄花を極め世を保ち。

色を重んじ給ふ故。類なき貴妃にかく。 契をこめて年月の。春宵短きを苦みて。 日高く起き出で朝政も絶え%\に。 移る方なき中なれど。 ワキ「遁れ難しや世の中は。地「思はぬ限り有明の。 月の都の舞。 楽まで学び残せる方もなく秘曲を伝えし笛竹の。寿なれや此契。 天長く地久しくて尽くる時もあるまじ。 ワキ詞「実に今思ひ出したり。 かの老人の教の如く。明王鏡を取り出し。 彼の御枕に置くべきなり。 大臣「勅諚尤も然るべしと。月経雲客一同に。 明王鏡を取り出し。御枕近き御几帳に。 立ち添へてこそ置きたりけれ。 地「かくて暮れ行く雲の足。/\。漂ふ風も冷ましく。 身の毛もよだつをりふしに。 不思議や鏡のそのうちに。鬼神の姿ぞうつりける。 早笛地「九華の帳を押し除けて。/\。 かの御枕により竹の。

笛をおつ取りさし上げて。勇み喜ぶ其気色。 鏡にうつり見えければ。帝はこれを叡覧あつて。 さては病鬼よ遁さじと。剣を抜いて。立ち給へば。 天に上り。地に又下り。 飛行自在を現して。帝に向ひ。怒をなせば。 剣を振り上げ切り給へば。 御殿の柱に立ち隠れて姿も見えず失せにけり。 ワキ「不思議や曇る空晴れて。 宮中光りかかやきて。地「鳴動するこそ恐ろしけれ。 後シテ大〓{大漢和:22529。べし}「そも/\これは。 武徳年中に贈官せられし。鍾馗大臣の精霊なり。 詞「さても此君寵愛し給ふ。貴妃の病を平らげんと。 通力を以て奇瑞を見す。南無天形星王。 我剣降鬼と。秘文を称え駒に乗じ。 虚空を翔つて参内せり。 地「悪鬼はこれを見るよりも。/\。 驚きさわぎ。かの真木柱に。隠れけるを。 鍾馗。 の精霊馬よりおり立ち利剣を引つ提げ袂をかざし。明王鏡に向ひ給へば。

鬼神の姿は隠れもなし。舞働「。 鬼神「鬼神は通力自在も失せて。地「鬼神は通力自在も失せて。 起きつ転びつ。走り出づるを。 追詰め給へば御殿を飛びおり六宮の玉階に。 走り上るを。遁さじものをと引き下し。

利剣を降り上げずた/\に切り放し。 庭上に投げ捨て忽ちに。貴妃も息災なほ此君の。 恵を仰ぎ。まもりの神と。なるべしと。 玉体を拝し。奉り。玉体を拝し奉りて。 姿は夢とぞ。なりにける 竜神 旋陀夫人 一角仙人 官人

。 ワキ詞「これは天竺波羅那国の帝王に仕へ奉る臣下なり。偖も此国の傍に。 一人の仙人あり。 鹿の胎内に宿り出生せし故により。額に角一つ生ひ出でたり。 これによつて其名を一角仙人と名づく。 さる子細あつて竜神と威を争ひ。 仙人神通を以て諸竜を悉く岩屋の内に封じこむる間。 数月雨下らず候。帝此事を歎き給ひ。 いろ/\の御方便をめぐらし給ひ候。 こゝ。

に旋陀夫人とて並びなき美人の御座候ふを。踏み迷ひたる旅人の如くにして。 仙境に分け入り給はゞ。夫人に心を移し。 。 神通を失ふ事もあるべきとの御方便により。夫人を具し奉り。 唯今彼の山路に分け入り候。 一セイ(立衆)「山遠うしては雲行客の跡を埋み。松寒うしては風旅人の。 夢をもやぶる。仮寝かな。上歌「露時雨。 もる山陰の下紅葉。/\。色そふ秋の風までも。 身にしみまさる旅衣。 霧間を凌ぎ雲を分け。たづきも知らぬ山中に。

おぼつかなくも踏み迷ふ。 道の行くへはいかならん/\。 詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。 いづくとも知らぬ山路に分け入りて候ふぞや。 こゝに怪しき巌の陰より。 吹き来る風のかうばしく。松桂の枝を引き結びたる庵あり。 若し彼の仙境にてもや候ふらん。 暫く此あたりに徘徊し。 事の由を窺はゞやと思ひ候。シテサシ「瓶には谷漣一滴の水を納め。 鼎には青山数片の雲を煎ず。 曲終へて人見えず。江上数峯青かりし。梢も今は。 紅の。秋の気色はおもしろや。 ワキ詞「いかに此庵の内に申すべき事の候。 シテ「不思議やこゝは高山重畳として。 人倫通はぬ処なり。 そも御身はいかなる者ぞ。 ワキ「これは唯山路に踏み迷ひたる旅人なるが。日もやう/\暮れかゝり前後を忘じて候。一夜の宿を御貸し候へ。 。

シテ「さればこそ人間の交あるべき処ならず。とく/\帰り給へとよ。 ワキ「そも人間の交なきとは。 さては天仙の栖やらん。まづ/\姿をみせ給へ。 シテ「此上は恥かしながら我が姿。 旅人にまみえ申さんと。地上歌「柴の扉を推し開き。/\。 立ち出づる其姿。緑の髪も生ひ上る。 牡鹿の角の。束の間も仙人を。 今見る事ぞ不思議なる。 ワキ詞「唯今思ひ出して候。 これは承り及びたる一角仙人にて御座候ふか。 シテ「さん候これこそ一角と申す仙人にて候。 さてさて面々を見申せば。 世の常の旅人にあらず。さも美しき宮女の貌。 桂の黛羅綾の衣。更に唯人とは見え給はず候。 これはいかなる人にてましますぞ。 ワキ「さきに申す如く。踏み迷ひたる旅人にて候。 旅の疲の慰に。酒を持ちて候。 一つ聞しめされ候へ。 シテ「いや仙境には松の葉を好き。苔を身に着て桂の露を嘗め。

年経れども不老不死の此身なり。 酒を用ふる事あるまじ。 ワキ「尤も仰はさる御事なれども。唯志を受け給へと。 夫人は酌に立ち給ひ。仙人に酒を勧むれば。 シテ詞「げに志を知らざらんは。 鬼畜には猶劣るべしと。地上歌「夕の月の盃を。/\。 受くる其身も山人の。折る袖匂ふ菊の露。 うち払ふにも千代は経ぬべき。 契はけふぞ始なる。ツレ「おもしろや盃の。 地「面白や盃の。めぐる光も照りそふや。 紅葉襲の袂を共に翻し翻す。 舞楽の曲ぞおもしろき。 楽地「糸竹の調とり%\に。/\。さす盃も。 度々廻れば。夫人の情に心を移し。 仙人は次第に足弱車の。 廻るもたゞよふ舞の袂を片しき臥せば。 夫人は悦び官人を引き連れ遥々なりし山路を凌ぎ。 帝都に帰らせ給ひけり。ツレワキ入。 。

地「かゝりければ岩屋の内頻に鳴動して天地も響く。ばかりなり。 シテ「あら不思議や思はずも。 人の情の盃に。酔ひ臥したりし其隙に。 竜神を封じこめ置きし。岩屋の俄に鳴動するは。 何の故にてあるやらん。 子方二人「いかにやいかに一角仙人。人間に交はり心を迷はし。 無明の酒に酔ひ臥して。神力を失ふ天罰の。 報の程を思ひ知れ。 地上歌「山風あらく吹き落ちて。/\。 空かき曇り。 岩屋も俄にゆるぐと見えしが磐石四方に破れ砕けて。諸竜の姿は。

現れたり。 シテ「其時仙人驚き騒ぎ。 地「其時仙人驚き騒ぎ。利剣をおつとり立ち向へば。 竜王は黄金の甲冑を帯し。 玉具の剣の刃先を揃へ。一時が程は闘ひけるが。 仙人神通の力も竭きて。次第に弱り。倒れ伏せば。 竜王悦び雲を穿ち。雷鳴電天地に満ちて。 大雨を降らし。洪水を出して。 立つ白浪に。飛び移り。立つ白波に。飛び移つて。 また竜宮にぞ帰りける 旅僧 老人 左大臣源融

。 ワキ詞「これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち都に上り候。 下歌「おもひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路をわたり山を越え。

千里も同じ一足に。/\。 上歌「夕を重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く。 着きにけり都に早く着きにけり。 詞「急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて候。

此あたりをば六条河原の院とやらん申し候。 暫く休らひ一見せばやと思ひ候。 シテ一セイ「月も早。・出汐{でじお}になりて塩釜の。 うらさび渡る。気色かな。 サシ「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。 よるべもいさや定なき。 心も澄める水の・面{おも}に。照る月並を数ふれば。 今宵ぞ秋の最中なる。実にや移せば塩釜の。 月も都の最中かな。下歌「秋は・半{なかば}身は既に。 老いかさなりてもろ白髪。上歌「雪とのみ。 積りぞ来ぬる年月の。/\。 春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。 風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。 浦わの秋の夕かな浦わの。秋の夕かな。 ワキ詞「如何にこれなる尉殿。 御身は此あたりの人か。 シテ詞「さん候この処の汐汲にて候。 ワキ「不思議やこゝは・海辺{かいへん}にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。 シテ「あら何ともなや。

さてこゝをば何処としろし召されて候ふぞ。 ワキ「この処をば六条河原の院とこそ承りて候へ。 シテ「河原の院こそ塩釜の浦候ふよ。 融の大臣陸奥の・千賀{ちか}の塩釜を。 都の内に移されたる海辺なれば。名に流れたる河原の院の。 ・河水{かすゐ}をも汲め・池水{ちすゐ}をも汲め。 こゝ塩釜の浦人なれば。汐汲となどおぼさぬぞや。 ワキ詞「実に/\陸奥の千賀の塩釜を。 都の内に移されたる事承りおよびて候。 さてはあれなるは籬が島候ふか。 シテ「さん候あれこそ籬が島候ふよ。 融の大臣常は・御舟{みふね}を寄せられ。御酒宴の・遊舞{いうぶ}さま%\なりし所ぞかし。や。月こそ出でて候へ。 ワキ「実に/\月の出でて候ふぞや。 あの籬が島の森の梢に。鳥の・宿{しゆく}し囀りて。 しもんに移る月影までも。孤舟に帰る身の上かと。 思ひ出でられて候。 シテ詞「何と唯今の面前の景色が。・御僧{おそう}の御身に知らるゝとは。 若しも賈島が言葉やらん。

鳥は宿す池中の樹。ワキ「僧は敲く月下の門。シテ「推すも。 ワキ「敲くも。シテ「古人の心。 今目前の秋暮にあり。地「実にやいにしへも。 月には千賀の塩釜の。/\。浦わの秋も半にて。 。 松風も立つな。 りや霧の籬の島隠れ。 いざ我も立ち渡り。 昔の跡を。陸奥の。 千賀の浦わを。 。 眺めんや千賀。 の浦わを詠めん。 。 ワキ詞「塩釜の浦。 を都に移されたる・謂{いはれ}御物語り候へ。 シテ詞「嵯峨の天皇の御宇に。 融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。 この処に塩釜を移し。あの難波の・御津{みつ}の浦よりも。

日毎に潮を汲ませ。 こゝにて塩を焼かせつゝ。一生・御遊{ぎよいう}の便とし給ふ。 然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。 浦はそのまゝ・干汐{ひしほ}となつて。 ・池辺{ちへん}に淀む溜水は。雨の残の古き江に。 落葉散り浮く松蔭の。月だに澄まで秋風の。 ・音{おと}のみ残るばかりなり。されば歌にも。 君まさで煙絶えにし塩釜の。

うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。 地「実にや眺むれば。月のみ満てる塩釜の。 浦。 さびしくも荒れはつる跡の世までもしほじみて。老の波も帰るやらん。 あら昔恋しや。地歌「恋しや恋しやと。 したへども歎けども。 かひも渚の浦千鳥・音{ね}をのみ。 鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。 ワキ詞「如何に尉殿。 見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。 シテ詞「さん候皆名所にて候。 御尋ね候へ教へ申し候ふべし。 ワキ「先あれに見えたるは音羽山候ふか。 シテ「さん候あれこそ音羽山候ふよ。ワキ「音羽山音に聞きつゝ逢坂の。 関のこなたにとよみたれば。 逢坂山も程近うこそ候ふらめ。 シテ「仰の如く関のこなたにとはよみたれども。 あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。 此辺よりは見えぬなり。

ワキ「さて/\音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。 名所々々を語り給へ。 シテ詞「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。 今熊野とはあれぞかし。ワキ「さてその末につゞきたる。 里一村の森の木立。 シテ詞「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。 紅葉も青き稲荷山。ワキ「風も暮れ行く雲の端の。 梢も青き秋の色。 シテ詞「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。 ワキ「緑の空もかげ青き野山につゞく里は如何に。 シテ「あれこそ夕されば。 ワキ「野辺の秋風シテ「身にしみて。ワキ「鶉鳴くなる。 シテ「深草山よ。 地「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。 ロンギ地「眺めやる。・其方{そなた}の空は白雲の。 はや暮れ初むる遠山の。 嶺も・木深{こぶか}く見えたるは。如何なる所なるらん。 シテ「あれこそ大原や。・小塩{をしほ}の山も今日こそは。 御覧じ初めつらめ。なほ/\問はせ給へや。

地「聞くにつけても秋の風。 吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。 シテ「秋も早。/\。 半更け行く松の尾の嵐山も見えたり地「嵐更け行く秋の夜の。 空澄み上る月影に。シテ「さす汐時もはや過ぎて。 地「隙もおし照る月にめで。 シテ「興に乗じて。地「身をば実に。忘れたり秋の夜の。 。 長物語よしなやまづいざや汐を汲まんとて。持つや田子の浦。東からげの汐衣。 汲めば月をも袖にもち汐の。 ・汀{みぎは}に帰る波の夜の。 老人と見えつるが・汐雲{しほぐもり}にかきまぎれて跡も見えず。 なりにけり跡をも見せずなりにけり。中入間「。 ワキ待謡「磯枕。苔の衣を片敷きて。/\。 岩根の床に夜もすがら。 猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。 夢待ちがほの旅寐かな。 後シテ出端「忘れて年を経し物を。 又いにしへに帰る波の。満つ塩釜の浦人の。

今宵の月を陸奥の。千賀の浦わも遠き世に。 其名を残すまうちきみ。 融の大臣とは我が事なり。我塩釜の浦に心を寄せ。 あの籬が島の松蔭に。明月に舟を浮べ。 ・月宮殿{げつきうでん}の白衣の袖も。三五夜中の新月の色。 ・千重{ちへ}ふるや。雪を廻らす雲の袖。 地「さすや桂の枝々に。シテ「光を花と。散らす・粧{よそほひ}。 地「ここにも名に立つ白河の波の。 シテ「あら面白や曲水の盃。地「・浮{う}けたり/\遊舞の袖。早舞「。 ロンギ地「あら面白の遊楽や。 そも明月の其中に。まだ初月の宵々に。 影も姿も少なきは。如何なる謂なるらん。 シテ「それは・西岫{さいしう}に。入日のいまだ近ければ。 其影に隠さるゝ。 たとへば月の有る夜は星の薄きが如くなり。地「青陽の春の初には。 シテ「霞む夕の遠山。 地「黛の色に三日月の。シテ「影を舟にも譬へたり。 地「又水中の・遊魚{いうぎよ}は。シテ「釣と疑ふ。

地「・雲上{うんしやう}の・飛鳥{ひてう}は。シテ「弓の影とも驚く。 地「一輪も降らず。シテ「・万水{ばんずゐ}も昇らず。地「鳥は。 池辺の樹に宿し。シテ「魚は月下の波に伏す。 地「聞くとも飽かじ秋の夜の。

シテ「鳥も鳴き。地「鐘も聞えて。シテ「月も早。 地「影傾きて明方の。雲となり雨となる。 此光陰に誘はれて。月の都に。入り給ふ粧。 あら名残惜しの面影や名残惜しの面影 光源氏(前ハ老樵夫) 藤原興範

ワキ三人次第「八重の潮路の旅の空。/\。 九重いづくなるらん。 ワキ詞「抑これは日向の国宮崎の社官。藤原の興範とは我が事なり。 偖もわれ鄙の住まひなるによつて。 未だ伊勢大神宮へ参らず候ふ程に。 此度思ひ立ち。伊勢参宮と志して候。道行三人「旅衣。 思ひ立ちぬる朝霞。/\。 弥生の空も半にて。日影長閑に行く舟の。 浦々過ぎて遥遥と。波の淡路をよそに見て。 須磨の浦にも着きにけり/\。ワキ詞「やう/\急ぎ候ふ程に。津の国須磨の浦に着きて候。

こ。 の処は聞き及びたる源氏の大将住み給ひし在所にて候。 又承り及びたる若木の桜をも一見せばやと思ひ候。 シテ一セイ「憂世の業にこりずまの。 猶こり果てぬ。塩木かな。 二ノ句「松ならでまた煙と見ゆる。これや真柴の。影ならん。 サシ「これは須磨の浦に。旦暮に釣を垂れ。 焼かぬ間は塩木を運び。 憂世をわたる者にて候ふなり。 詞「又この須磨の山陰に一木の花の候。名におふ若木の桜なるべし。 いにしへ光る源氏の御旧跡も。

この処にてありげに候。 下歌「われら賎しき身なれども。ありし雨夜の物語。 聞くにも袖を湿ほして。/\。山の薪の重きにも。 思ひ樒を折りそへて。かの古墳ぞと木綿花の。 手向の梢をり/\に。 心をはこぶばかりなり。 詞「しばらく柴をおろし花をも眺めばやと思ひ候。 。 ワキ「いかにこれなる翁に尋ぬべき事の候。シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「其身は賎しき山賎なれども。 此花に眺め入り家路を忘れたる気色なり。 もし此花は故ある木にて候ふか。 シテ「賎しき山賎と承り候へども。恐れながらそなたをこそ。 鄙人とは見奉りて候へ。 さすがに須磨の若木の桜を。名木かとのお尋は。 事新らしうこそ候へとよ。ワキ「げに/\須磨の山桜。 名におふ若木の花ぞとて。はる%\こゝに分け入りて。シテ「わざと眺の御志。 ワキ「日もはや暮れて須磨の浦の。

シテ「さらばに里もお泊なくて。 ワキ「野を分け山に。シテ「来り給ふは。地上歌「関よりも。 花にとまるか須磨の浦。/\。 近き後の山里の。柴といふものまで。名をとり%\の業なるに。たゞ心なき住まひとて。 人な賎しめ給ひそよ人な賎しめ給ひそ。 ワキ詞「いかに翁。 いにしへこの処は光る源氏の御旧跡。 殊におことは年ふりたる者なれば。源氏の御事物語り候へ。 地クリ「忘れて過ぎし古を語らば袂やしをれなん。 われ空蝉の虚しき世を案ずるに。 桐壺の夕の煙堪えぬ思の。涙をそへ。 シテサシ「いとどしく虫の音繁き浅茅生の。 地「露けき宿に明け暮らし。小萩が本の寂しさまで。 はごくみ給ひし御めぐみ。 いとも畏き勅により。十二にて初冠。高麗国の相人の。 つけたりし始より。 光る源氏と名を呼ばる。箒木の巻に中将。 紅葉の賀の巻に正三位に叙せられ。花の宴の春の夜の。

行くへも知らで入る月の。朧けならぬ契故。 年廿五と申せしに。津の国須磨の浦。 あま人の歎を身に積みて。次の春。 播磨の明石の浦伝。 問はず語の夢をさへ現に語る人もなし。さるほどに天下に。 奇特の告ありしかば。また都に召し返され。 数の外の官を経て。シテ「其後うち続き。 地「澪標に内大臣少女の巻に。 太政大臣藤の裏葉に。 太上天皇かく楽を極めて光君とは申すなり。 ロンギ地「さてや源氏の旧跡の。 分きていづくの程やらん。委しく教へ給へや。 シテ「いづくとも。いさ白波のこゝもとは。 皆其跡と夕暮の。月の夜を待ち給ふべし。 もしや奇特を御覧ぜん。 地「そもや奇特を見んぞとは。何をか待たん月影の。 シテ「光源氏の御すみか。地「昔は須磨。 シテ「今は兜率の。 地「天に住み給へば月宮のかげに天降りこの海に影向あるべし。

かやうに申す翁も。其品々の物語。 源氏の巻の名なれや雲隠してぞ失せにける。 雲隠して失せにけり。中入「。 。 ワキ詞「さては源氏の大将かりに人間と現じ。われに詞を交し給ふか。 いざや今宵はこゝに居て。なほも奇特を拝まんと。 上歌三人待謡「須磨の浦。野山の月に旅寝して。 /\。心をすます磯枕。 波にたぐへて音楽の聞ゆる声ぞ。 ありがたき聞ゆる声ぞありがたき。 後シテサシ出端「あら面白の海原やな。 われ娑婆にありし時は。光源氏といはれ。 今は兜率に帰り。天上の住まひなれども。 月に詠じて閻浮にくだり。処も須磨の浦なれば。 青海波の遊舞楽に。 引かれて月の夜汐の波。一セイ「返すなる。波の花散る白衣の袖。 地「玉の笛の音声澄みわたる。 シテ「笙笛琴箜篌。孤雲のひゞき。 地「天もうつるや須磨の浦の。荒海の波風。〓{新字源:4545。えん}々たり。早舞「。

ロンギ「雲となり雨となり。 夢現とも分かざるに。天より光さす。 御影の中にあらたなる。童男来り給ふぞや。 さては名にしおふ。光源氏の尊霊か。 シテ「その名もよそに白波の。こゝもとは我がすみか。 猶も他生を助けんと。兜率天より。 二たびこゝに天降る。 地「あらありがたの御事や。処は須磨の浦なれば。

シテ「四方の嵐も吹き落ちて。地「薄雲かゝる。 シテ「春の空。地「焚釈四王のにんでんに。 降り給ふかと覚えたり。 処から山賎へきらといはれし。ゆるし色のきらなるに。 青鈍の狩衣たをやかに召されて。 須磨の嵐に翻へし。袂も青き海の波。 颯々と鈴も駅路の。 夜は山よりや明けぬらん夜は山よりや明けぬらん 藤原師長 老女 村上天皇(前は老翁) 師長従者 龍神

ワキ、ワキツレ次第「八重の潮路を行く舟の。/\唐土{もろこし}は何くなるらん。師長詞「そも/\これは太政大臣師長とは我が事なり。 ワキ詞「偖もこの君と申すは。 天下に隠れなき琵琶の御上手にて御座候ふが。 入唐の御望ましますにより。

此度思し召し立ち道すがら名所の月をも御覧ぜん為に。 唯今津の国須磨の浦に御下向にて候。 師長サシ「われはさていつの夕を都の空。 まだ夜深きに旅立ちて。末に見えたる山崎も。 過ぐれば跡にはやなりて。ワキ歌「波越す袖の湊川。/\。 まだ知らぬ。

方にも我は生田の漏り来る月は木の間にて。心尽しの旅の道。 されどもこれは唐土の。 門出と思へば勇ある。・高麗{こま}の林をよそに見て。 須磨の浦にも着きにけり/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 これははや津の国須磨の浦に御着にて候。暫く此処に御休あり。 事の由をも御尋あらうずるにて候。 シテツレ二人一声「持ちかかぬる。汐汲む桶の苦しきに。 また力づく老の杖。ツレ二ノ句「拙き業を須磨の浦。 二人「眺に憂きや忘るらん。 シテサシ「面白やうらに・入日{いりひ}は海上に浮み。須磨や明石の浦の様。 塩焼く・海士{あま}の心にも。さも面白う候ふなり。 ツレ「南を遥に眺むれば。 雲に続ける紀の・路{ぢ}の小島。シテ「由良の戸渡る早船も。 汐追風の吹上や。ツレ「遠浦ながら・住吉{すみよし}の。 松こそ見ゆれ海越しに。 シテ「・富島{とじま}の磯や・昆陽{こや}・難波{なには}。ツレ「名には絵島と云ひながら。 シテ「いかで筆にも及ぶべき。 二人「あら面白の浦の気色や。地下歌「げにや面白き。

海土の磯屋とは淡路潟。 あは沖舟の漕ぎ来るは。雨ごさめれいま一・返{かへり}も。 汐汲めや人々。上歌「そよや・陸奧{みちのく}の。/\。 千賀の塩竈は。名のみにて遠ければ。 いかゞ運ばん伊勢島や。 阿漕が浦の汐をば度重ねても汲み難し。 田子の浦の汐をばいざ下りたゝんわくらはに。訪ふ人あらば。 佗ぶと答へて。此須磨の浦の汐汲まん。/\。 シテ詞「塩屋に帰り休まうずるにて候。 ワキ「塩屋の・主{あるじ}の帰りて候。 御宿を借らばやと存じ候。 いかにこれなるは塩屋の主にてあるか。シテ「さん候。 塩屋の主にて候。 ワキ「是に御座候ふは太政大臣師長公と申して。 天下に隠れましまさぬ琵琶の御上手にて候ふが。 入唐の御望にて此浦に御下向にて候。 一夜の御宿を参らせ候へ。シテ「いやさやうの人にて御座候はゞ。 ・異浦{ことうら}にて御宿を召され候へ。 ワキ「あら何ともなや。

難波渡にてこそ異浦なんどとは申すべけれ。 是は須磨の浦にてはなきか。唯御宿を参らせ候へ。 シテ「見苦しく候へども。さらば御宿を参らせ候ふべし。 ツレ「されば一とせ雨の祈の御時。 神泉苑にして。琵琶の秘曲を遊ばされしかば。 シテ詞「龍神もめでけるにや。 さしもの晴天俄に曇り。・大雨{たいう}降る事・終日{しうじつ}。 それよりしてこの君を。雨の大臣とは申すとかや。 ツレ「かほどやごとなき此君に。 ・一夜{ひとや}の御宿を参らせて。 シテ「秘曲をも聴聞す{る脱カ}ならば。二人「例なき思出。 地下歌「かの蝉丸は逢坂や。藁屋にて琵琶を弾き給ふ。 今こ。 の君は須磨の塩屋露もたまらぬ軒の板間。逢ひ難き砌に逢ふぞ嬉しかりける。 上歌「里離れ。須磨の家居の習とて。/\。 何事を松の柱や竹あめる垣は一重にて。 。 風もたまらじ痛はしや海は少し遠けれども。 波たゞこゝもとに聞えきていつのまに。夢をも御覧候ふべき。

よし/\それも御琵琶を。寝られぬまゝに遊ばせや。 われらも聴聞申すべし我も聴聞申さん。 ワキ詞「いかに申し上げ候。 夜もすがら御琵琶を遊ばされ候へ。 師長「此須磨の巻の春かとよ。源氏此浦に流され給ひ。 初めて世の味の辛きを知るといへども。 まだ汐じまぬ旅衣。泣くばかりなる涙の露の。 玉の緒琴を弾き鳴し。 恋ひ佗びて泣く・音{ね}に紛ふ浦波は。思ふ方より。 風や吹くらん。地「それは浦波の。 ・音{おと}通ふらし琴の・音{ね}の。/\。これは弾く琵琶の。 をりからなれや村雨の。ふる屋の軒の板庇。 目覚すほどの夜雨や管絃の障なるらん。 シテ詞「や。 何とて御琵琶をば遊ばし止められて候ふぞ。 ワキ詞「さん候村雨の降り候ふ程に。さて遊ばし止められて候。 シテ「げに村雨の降り候ふぞや。いかに姥。 苫取り出し候へ。ツレ「それは何の為にて候やらん。 シテ「苫にて板屋を葺き渡し。

靜かに聴聞申さんと。シテツレ二人「祖父と姥は諸共に。 ツレ「苫取出し。シテ「さつと葺き。 地「塩竈の名の。近々と寄り居つゝ。 耳をそばだて聞き居たり。 ワキ詞「如何に主。 かほど漏らざる板屋の上を。何しに苫にて葺きてあるぞ。 シテ「さ。 ん候唯今遊ばされ候ふ琵琶の御調子は・黄鐘{わうしき}。 板屋を敲く雨の音は・盤渉{ばんしき}にて候ふ程に。苫にて板屋を葺き隠し。 今こそ一調子になりて候へ。 ロンギ地「さればこそ始より。 ・常人{たゞびと}ならず思ひしに。心にくしや琵琶琴を。 いかでか弾かであるべき。 シテツレ二人「処から江のほとり岩越す波の弾きやせん。琵琶琴の。 思もよらぬ御諚なり。 地「思よらずも琴の音の。押してお琵琶を給はりて。 シテ「おほぢは琵琶を調ぶれば。 ツレ「姥は・琴柱{ことぢ}を立て並べて。地「撥音爪音。 ばらりからりからりばらりと。

感涙もこぼれえいじも躍るばかりなりや弾いたり/\面白や。 師長「師長思ふやう。地「われ日の本にて。 琵琶の奥義を極めつゝ。大国を窺はんと。 思ひし事の浅ましさよや。 まのあたりかかる堪能ありける事よ。 所詮渡唐を止まらんと。忍びて塩屋を出で給へば。 それ。 をも知らで琵琶琴の心一つのたしなみにて。越天楽の・唱歌{しやうが}の声。 梅が・枝{えだ}にこそ鴬は巣をくへ。 風吹かばいかにせん花に宿る鴬。 ・宿人{やどりうど}の帰るをも知らで弾いたり琵琶琴。 ツレ詞「なう旅人の御立ち候。 シテ「何旅人の御立ち候ふとや。何とて留め申さぬぞと。 シテツレ二人「おほぢと姥は走りより。 地「琵琶琴よりも御袖を唯引けや/\横雲の。 夜はまだ深し浦の名のあかしてお立ち候へ。 師長ロンギ「何しに留め給ふらん。 まづ此度は帰洛して。重ねて尋ね申すべし。 御名を名のり給へや。

シテツレ二人「今は何をか包むべき我絃上の・主{ぬし}たりし。 村上の天皇梨壷の女御夫婦なり。地「御身の入唐止めん為。 夢中にまみえ須磨の浦。 故院の昔の夢の告。 思ひ出でよ人々とて掻き消すやうに失せ給ふ掻き消すやうに失せ給ふ。 来序中入後シテ出端「抑これは。延喜聖代の御譲。 村上の天皇とは我が事なり。 その聖代の御宇かとよ。唐土より三面の琵琶を渡さるゝ。 絃上青山獅子丸これなり。 さる程に獅子は龍宮へ取られしを。 いで召しいだし弾かせんと。漫々たる海上に向ひ。 いかに下界の龍神たしかに聞け。 獅子丸持参つかまつれ。 急早鼓地「獅子丸浮ぶと見えしかば。/\。 八大。 龍馬を引き連れ引き連れかの御琵琶を授け給へば。師長賜はり弾きならし。 八大龍王も絃管の役々或は波の。鼓を打てば。 或は琵琶の名にし負ふ。 ・獅子団乱旋{ししとらでん}に村上の天皇も。

奏で給ふ面白かりける秘曲かな。 早舞シテ「獅子には文殊や召さるらん。 地「獅子には文殊や召さるらん。

帝は・飛行{ひぎやう}の車に乗じ。八大龍馬に引かれ給へば。 師長も飛馬に鞭を打ち。馬上に琵琶を携へて。 /\。須磨の帰洛ぞ。ありがたき 房前大臣 大臣の従者 海士の霊 龍女

ワキ、ワキツレ二人次第「出づるぞ名残三日月の。/\都の西にいそがん。 ワキサシ「天地のひらけし恵ひさかたの。天の児屋根の御ゆづり。 子方「・房前{ふさざき}の大臣とは我が事なり。 さてもみづからが御母は。讃州志度の浦。 房崎と申す所にて。むなしくなり給ひぬと。 承りて候へば。急ぎ彼の所に下り。 追善をもなさばやと思ひ候。 ワキ、ワキツレ二人下歌「ならはぬ。 旅に奈良坂やかへりみかさの山かくす春の霞ぞ恨めしき。 上歌「三笠山今ぞ栄えん此岸の。/\南の海に急がんと。 ゆけば程なく津の国の。こや日の本の始なる。

淡路のわたり末ちかく。 鳴門の沖に音するはとまり定めぬ。蜑小舟。 とまり定めぬ蜑小舟。ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 これははや讃州志度の浦に御着にて御座候。 又。 あれを見れば男女の差別は知らず人一人来り候。彼の者を御待あつて。 此処の謂を委しく御尋あらうずるにて候。 シテ一セイ「海士の刈る。 藻に住む虫にあらねども。われから濡らす。袂かな。 これは讃州志度の浦。寺近けれども心なき。 あまのゝ里の・海人{かいじん}にて候。 げにや名におふ伊勢をの海士は夕波の。

うちとの山の月を待ち。浜荻の風に秋を知る。 また須磨のあま人は塩木にも。 若木の桜を折りもちて。春を忘れぬたよりもあるに。 此浦にては慰も。名のみあまのゝ原にして。 花の咲く草もなし。何をみるめ刈らうよ。 下歌「刈らでも運ぶ浜川の。/\。 潮海かけて流れ芦の。世を渡る業なれば。 心なしともいひがたきあまのゝ里に帰らん。 あまのゝ里に帰らん。 ワキ詞「いかに是なる女。 おことは此浦の海士にてあるか。 シテ詞「さん候此浦のかづきの海士にて候。ワキ「かづきの海士ならば。 あの水底のみるめを刈りて参らせ候へ。 シテ「痛はしや旅づかれ。 飢にのぞませ給ふかや。わが住む里と申すに。 かほどいやしき・田舎{でんじや}のはてに。 不思議や雲の上人を。みるめ召され候へ。 詞「刈るまでもなし此みるめを召され候へ。ワキ「いや/\さやうの為にてはなし。

あの水底の月を御覧ずるに。みるめ繁りて障となれば。 刈りのけよとの御諚なり。 シテ「さては月のため刈りのけよとの御諚かや。 昔もさるためしあり。 ・明珠{めいしゆ}をこの沖にて龍宮へ取られしを。かづきあげしもこの浦の。 地次第「天みつ月も満潮の。/\。 みるめをいざや刈らうよ。 ワキ詞「しばらく。 何と明珠をかづきあげしも此浦の海士にてあると申すか。 シテ詞「さん候此浦の海士にて候。 またあれなる里をばあまのゝ里と申して。 かのあま人の住み給ひし在所にて候。又これなる島は。 。 彼の珠を取り上げ始めて見そめしによつて。新しき・珠島{たましま}と書いて。 ・新珠島{しんじゆじま}と申し候。 ワキ「さてその玉の名を何と申しけるぞ。シテ「玉中に。釈迦の像まします。 いづ。 かたより拝み奉れども同じ面なるによつて。面を向ふに背かずと書いて。 ・面向不背{めんかうふはい}の珠と申し候。

ワキ「かほどの宝を何とてか。漢朝よりも渡しけるぞ。 シテ詞「今の大臣淡海公の御妹は。 唐土高宗皇帝の后に立たせ給ふ。 されば其御氏寺なればとて。興福寺へ三つの宝を渡さるゝ。 ・華原磐{くわげんけい}・泗浜石{しひんせき}。・面向不背{めんこうふはい}の珠。 二つの宝は・京着{きやうちやく}し。 明珠はこの沖にて龍宮へ取られしを。 大臣御身をやつし此浦に下り給ひ。いやしきあま・乙女{をとめ}と契をこめ。 一人の御子を設く。 いまの房前の大臣これなり。子方「やあこれこそ房前の大臣よ。 あらなつかしのあま人や。なほ/\語り候へ。シテ「あら何ともなや。 今まではよその事とこそ思ひつるに。 さては御身の上にて候ひけるぞやあら便なや候。 子方「みづから大臣の御子と生れ。 恵開けし藤の・門{かど}。されども心にかゝる事は。 此身残りて母知らず。 ある時傍臣語りて曰く。忝くも御母は。讃州志度の浦。 房前。

のあまり申せば恐ありとて言葉をのこす。さては卑しき海士の子。 賎の女の腹に宿りけるぞや。 地歌「よしそれとても帚木に。/\。 しばし宿るも月の光・雨露{うろ}の恩にあらずやと。思へば尋ね来りたり。 。 あらなつかしの海士人やと御涙を流し給へば。シテ「げに心なき海士衣。 地「さらでもぬらす我が袖を。 重ねてしほれとやかたじけなの御事や。 かゝる貴人の賎しき海士の胎内に。やどり給ふも一世ならず。 たとへば日月の。 ・潦{にはたづみ}にうつりて光陰を増す如くなり。われらも其海士の。 子孫と答へ申さんは。事もおろかや我が君の。 ゆかりに似たり紫の。 藤咲く門の口を閉ぢて。 いはじや水鳥の御主の名をば朽たすまじ。 ワキ詞「とてもの事に彼の珠を。 ・潜{かづ}きあげし所を。御前にてそと・学{まな}うで御目にかけ候へ。 。 シテ詞「さらばそと学うで御目にかけ候ふべし。その時あま人申すやう。

もし此珠を取り得たらば。 此御子を世継の御位になし給へと申しゝかば。 子細あらじと領掌し給ふ。扨は我が子ゆゑに捨てん命。 露ほども惜しからじと。 千尋の縄を腰につけ。もし此珠を取り得たらば。 此縄を動かすべし。其時人々力を添へ。 引きあげ給へと約束し。一つの利剣を抜きもつて。 地「かの海底に飛び入れば。 空は一つに雲の波。煙の波を凌ぎつゝ。 海漫々と分け入りて。直下と見れども底もなく。 ・辺{ほとり}も知らぬ海底に。そも神変はいさ知らず。 取り得ん事は不定なり。 かくて龍宮にいたりて宮中を見れば其高さ。 三十丈の玉塔に。 かの珠を籠めおき香花を供へ守護神は。八龍並み居たり其外悪魚鰐の口。 逃れ難しや我が命。 さすが恩愛の故郷の方ぞ恋しき。あの波の彼方にぞ。 我が子はあるらん父大臣もおはすらん。 さるにても此侭に。

別れはてなん悲しさよと涙ぐみて立ちしが又思ひ切りて手を合わせ。 。 南無や志度寺の観音薩〓{タ:大漢和05190}の力を合はせてたび給へとて。 大悲の利剣を額に当て龍宮の中に飛び入れば。 左右へばつとぞ退いたりける其隙に。宝珠を盗みとつて。 逃げんとすれば。 守護神おつかくかねてたくみし事なれば。 持ちたる剣を取り直し。 ・乳{ち}の下をかき切り珠を押し籠め剣を。 捨てゝぞ伏したりける龍宮の習に死人を忌めば。あたりに近づく悪龍なし。 約束の縄を動かせば。 人々よろこび引きあ。 げたりけり珠は知らずあま人は海上に浮・び{み}出でたり。 シテ「かくて浮びは出でたれども。 悪龍の業と見えて。 五体もつゞかず朱になりたり。珠もいたづらになり。 主も空しくなりけるよと。大臣なげき給ふ。 其時息の下より申すやう。 我が乳のあたりを御覧ぜとあり。げにも剣のあたりたる痕あり。

。 その中より光明・赫奕{かくやく}たる珠を取りいだす。さてこそ御身も約束のごとく。 此浦の名に寄せて。房前の大臣とは申せ。 今は何をかつゝむべき。 これこそ御身の母あま人の幽霊よ。 地「この筆の跡を御覧じて。不審をなさで弔へや。 今は帰らんあだ波の。夜こそ契れ夢人の。 明けて悔しき浦島が。 親子のちぎり朝潮の波の。 底にしづみけり立つ波の下に入りにけり。中入間「。 ワキ詞「いかに申し上げ候。 あまりに不思議なる御事にて候ふほどに。 御手跡を披いて御覧ぜられうずるにて候。 子方「さては亡母の手跡かと。 ひらきて見れば魂・黄壌{くわうしやう}に去つて一十三年。 ・骸{かばね}を・白沙{はくさ}に埋んで日月の算を・経{ふ}。冥路昏々たり。 我を弔ふ人なし。 君孝行たらばわが冥闇をたすけよ。げにそれよりは十三年。 地「さては疑ふ所なし。いざ弔はんこの寺の。

志ある手向草。 花の蓮の妙経色々の善をなし給ふ色々の善をなし給ふ。出端「。 地「・寂冥無人声{じやくまくむじんじやう}。 後シテ「あらありがたの御弔やな。此御経にひかれて。 五逆の・達多{だつた}は・天王記別{てんわうきべつ}を蒙り。 八歳の龍女は南方無垢世界に生を受くる。なほ/\転読し給ふべし。地「・深達罪福相{じんだつざいふくさう}。・偏照於十方{へんせうおじつほう}。 シテ「・微妙浄法身{みめうじやうほつしん}。・具相{ぐそう}三十二。

地「・以八十種好{いはちじつしゆかう}シテ「・用荘厳法身{ゆうしやうごんほつしん}。地「・天人所載仰{てんにんしよたいがう}。 ・龍神咸恭敬{りうじんげんくきやう}あらありがたの・御{おん}経やな。早舞「。 シテ「今此経の徳用にて。 地「今この経の徳用にて。・天龍八部{てんりうはちぶ}。・人与非人{にんよひにん}。・皆遥見彼{かいえうけんぴ}。 ・龍女成仏{りうによじやうぶつ}さてこそ讃州・志度寺{しどじ}と号し。 毎年・八講{はつかう}。朝暮の勤行。 仏法繁昌の霊地となるも。この孝養と。承る 念仏行者 従僧 老尼 中将姫の精魂

ワキ、ワキツレ二人次第「教うれしき法の門。/\。 ひらくる道に出でうよ。 ワキ詞「これは念仏の行者にて候。我此度三熊野に参り。 下向道に赴きて候。又これより大和路にかゝり。 当麻の御寺に参らばやと思ひ候。 道行三人「程もなく。帰り紀の路の関越えて。/\。 こや三熊野の岩田川。波も散るなり朝日。

影夜昼わかぬ心地して。 雲も其方に遠かりし。二上山の麓なる。 当麻の寺に着きにけり/\。 。 シテサシ一声「一念弥陀仏即滅無量罪とも説かれたり。 ツレ「八万諸聖教皆是阿弥陀ともありげに候。シテ「釈迦は遣り。 ツレ「弥陀は導く一筋に。

シテツレ二人「心ゆるすな南無阿弥陀仏。 シテ一セイ「唱ふれば、仏も我もなかりけり。ツレ「南無阿弥陀仏の。声ばかり。 シテ「すゞしき。道は。シテツレ二人「たのもしや。 シテツレ二人次第「濁にしまぬ蓮の糸。/\の。 五色にいかで染みぬらん。 シテサシ「ありがたや諸仏の誓様々なれども。 わきて超世の悲願とて。 迷の中にも殊になほ。二人「五つの雲は晴れやらぬ。 雨夜の月の影をだに。 知らぬ心の行方をや西へとばかり頼むらん。実にや頼めば。 近き道を。何遥々と思ふらん。 下歌「すゑの世に迷ふ我等が為なれや。上歌「説き遺す。 御法はこれぞ一声の。/\。 弥陀の教を頼まずは。末の法。 万年々経るまでに余経の法はよもあらじ。たま/\此生に浮まずは。又いつの世を松の戸の。 明くれ。 ば出でて暮るゝまで法の場に交るなり御法の。場に交るなり。 。

ワキ詞「いかにこれなる方々に尋ね申すべき事の候。シテ詞「何事にて候ふぞ。 ワキ「これは当麻の御寺にて候ふか。 シテ「さん候当麻の御寺とも申し。 又当麻寺とも申し候。ツレ「又是なる池は蓮の糸を。 すゝぎて清めし其故に。 染殿の井とも申すとかや。シテ「あれは当麻寺。ツレ「これは染寺。 シテ「又此池は染殿の。 シテツレ二人「色々様々所所の。法の見仏聞法ありとも。 それをもいさやしら糸の。 唯一筋ぞ一心不乱に南無阿弥陀仏。 ワキ「実に有難き人の言葉。 即ちこれこそ弥陀一教なれ。詞「さて又これなる花桜。 常の色にはかはりつゝ。 これも故ある宝樹と見えたり。 ツレ「実によく御覧じ分けられたり。あれこそ蓮の糸を染めて。 シテ詞「掛けて乾されし桜木の。 花も心のある故に。蓮の色に咲くとも云へり。 ワキ「なか/\なるべし本よりも。 草木国土成仏の。色香に染める花心の。

シテ「法の潤種添へて。ワキ「濁にしまね蓮の糸を。 シテ「すゝぎて清めし人の心の。 ワキ「迷を乾すは。シテ「緋桜の。地歌「色はえて。 掛けし蓮の糸桜。/\。花の錦の経緯に。 雲の絶間に晴れ曇る雪も緑も紅も。 唯一声の誘はんや西吹く秋の。 風ならん西吹く風の秋ならん。 。ワキ詞「なほ/\当麻の曼陀羅の謂委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\此当麻の曼陀羅と申すは。人皇四十七代の帝。 廃帝天皇の御宇かとよ。 横佩の右大臣豊成と申しゝ人。シテサシ「その御息女中将姫。 此山にこもり給ひつゝ。地「称讃浄土経。 毎日読誦し給ひしが。心中に誓ひ給ふやう。 願はくは生身の弥陀来迎あつて。 我に拝まれおはしませと。 一心不乱に観念し給ふ。シテ「然らずは畢命を期として。 地「此草庵を出でじと誓つて。 一向に念仏三昧の定に入り給ふ。

クセ「所は山陰の。松吹く風も涼しくて。 さながら夏を忘れ水の。音も絶々に。 心耳を澄ます夜もすがら。称名。 観念の床の上。座禅円月の窓の内。 寥々とある折節に。一人の老尼の。 忽然と来りたゝずめり。これは如何なる人やらんと。 尋ねさせ給ひしに。老尼答へて宣はく。 誰とはなどや愚なり。 呼べばこそ来りたれと。仰せられける程に。 中将姫はあきれつゝ。シテ「我は誰をか呼子鳥。 地「たづきも知らぬ山中に。声立つる事とては。 南。 無阿弥陀仏の称ならでまた他事もなきものをと。答へさせ給ひしに。 それこそ我が名なれ声をしるべに来れりと。 宣へば姫君もさては此願成就して。 生身の弥陀如来。実に来迎の時節よと。 感涙肝に銘じつゝ。綺羅衣の御袖も。 しをるばかりに見え給ふ。 ロンギ地「実にや貴き物語。即ち弥陀の教ぞ。

と。思ふにつけてありがたや。 シテツレ二人「今宵しも。二月中の五日にて。 しかも時正の時節なり。 法事をなさん為今此寺に来りたり。地「法事のために来るとは。 そもや如何なる御事ぞ。 シテツレ二人「今は何をか包むべき。其古の化尼化女の。 地「夢中に現じ来れりと。シテツレ二人「言ひもあへねば。 地「光さして。花降り異香薫じ。音楽の声すなり。 恥かしや旅人よ暇申して帰る山の。 二上の嶽とは二上の。山とこそ人はいへど。 真は此尼が上りし山なる故に。 尼上の嶽とは申すなり老の坂を登り登る雲に乗りて。 上りけり紫雲に乗りて上りけり。中入間「。 ワキ詞「かく有難き御事なれば。 重ねて奇特を拝まんと。 三人歌待謡「いひもあへねば不思議やな。/\。妙音聞え光さし。 歌舞の菩薩の目のあたり。現れ給ふ。 不思議さよ現れ給ふ不思議さよ。 後シテ出端「たゞ今夢中に現れたるは。

中将姫の精魂なり。我娑婆に在りし時。 称讃浄土経。朝々時々に怠らず。 信心誠なりし故に。微妙安楽の結界の衆となり。 本覚真如の円月に坐せり。然れども。 こゝを去る事遠からずして。 法身却来の法味をなせり。地「ありがたや。 尽虚空界の荘厳は。眼は雲路にかゝやき。 シテ「転妙法輪の音声は。聴宝刹の耳に充てり。 地「蕭然とある暁の心。シテ「真に涼しき。 道に引かるゝ光陰の心。地「惜むべしやな/\。 時は人をも。待たざるものを。 すなはちこゝぞ。唯心の浄土経。 いたゞきまつれや/\。摂取不捨。シテ「為一切世間。 説此難信。地「之法。是為。甚難。 シテ「実にも此法甚だしければ。 地「信ずる事も難かるべしとや。シテ「唯頼め。地「頼めや頼め。 シテ「慈悲加祐。地「令心不乱。 シテ「乱るなよ。地「乱るなよ。シテ「十声も。 地「一声ぞ有難や。早舞「。

シテ「後夜の鐘の音。地「後夜の鐘の音。 鳧鐘の響。称名の妙音の。 見仏聞法の色色の法事。

実にも普ねき光明遍照十方の衆生を。唯西方に。迎へ行く。 御法の舟の。水馴棹。御法の舟の。さを投ぐる間の。 夢の。夜はほの%\とぞなりにける 法性坊僧正 従僧 菅丞相 天満天神

ワキサシ「比叡山延暦寺の座主。 法性坊の律師僧正にて候。詞「偖も我天下の御祈祷の為。 百座の護摩を焚き候ふが。 今日満参にて候ふ程に。 頓て仁王会を執行はゞやと存じ候。サシ上「実にや恵もあらたなる。 影も日吉の年ふりて。誓ぞ深き湖の。 小浪よする汀の月。 上歌「名にしおふ比叡の御獄の秋なれや。/\。 月は隈なき名所の都の富士とみかさ山。法の灯自ら。 影明けき恵こそ。人をもらさぬ誓なれ/\。 シテサシ「有難や此山は往古より。仏法最初の御寺なり。 実にや仮初の値遇も空しからず。

我が立つ杣に冥加あらせてと。 望を叶へ給へとて。満山護法一列し。 中門の扉を叩きけり。ワキ「深更に軒白し。 月はさせども柴の戸を。叩くべき人も覚えぬに。 いかなる松の風やらんあら不思議の事やな。 シテ「聞けば内にもわが声を。 怪しめ人の咎むるぞと。重ねて扉を叩きけり。 ワキ「余の事の不思議さに。物の隙よりよく/\見れば。 是は不思議や丞相にてましますぞや。 心騒ぎて覚束な。 シテ詞「頃しも今は明けやすき。月にひかれてこの庵の。 扉を叩けば中よりも。

ワキ「不思議や扨は丞相か。はや此方へと。シテ「夕月の。 地「影珍しや稀人の。/\。まれに逢ふ時は。 な。か/\夢の心地していひやる言の葉もなし。上人も丞相も。心解けて物語。 世に嬉しげに見え給ふ。 あはれ同じ世の逢瀬とこれを思はめや/\。 。 ワキ詞「さて御身は築紫にて果て給ひたる由承り候ふ程に。 色々に弔ひ申して候ふが届き候ふやらん。シテ「なか/\の事御弔忝くありがたう候。 サシ「秋におくるゝ老葉は風なきに散りやすく。 ワキ「愁をとむらふ涙はとはざるにまづ落つ。 シテ「されば尊きは師弟の約。ワキ「切なるは主従。 シテ「睦じきは親子の契なり。 シテワキ二人「これを三ていといふとかや。 シテ「中にも真実志のふかき事は師弟三世に如くはなし。 地「忝しや師の御影をばいかで踏むべき。 クセ「幼かりし当時は。 父もなく母もなく。行方も知らぬ身なりしを。

菅相公の養に親子の契いつの間に。 有明月のおぼろげに憐み育て給ふ事真の親の如くなり。 扨勧学の室に入り僧正を頼み奉り。 風月の窓に月を招き。 蛍を集め夏虫の心の中も明かに。シテ「筆の林も枝茂り。 地「言葉の泉尽きもせず。文筆の堪能上人も。 悦び思し召し。荒き風にもあてじと。 御志の今までも。 一字千金なりいかでか忘れ申すべき。シテ詞「扨も我無実の罪を蒙る事。 偏に時平の讒奏と思へば。 恨は今によもつきじ。ワキ「実に/\仰は理なりと。 いふより早く色変り。シテ「をりふし本尊の御前に。 ワキ「柘榴を手向け置きけるを。 地「おつ取つて噛み砕き。/\。 妻戸にくわつと吐き。 かけ給へば柘榴忽ち火焔となつて扉にくわつとぞ燃え上る。僧正御覧じて。 騒ぐ気色もましまさず。灑水の印を結んで。 鑁。 字の明を称へ給へば火焔は消ゆる煙の中に。立ち隠れ丞相は。

行方も知らず失せ給ふ行方も知らず失せ給ふ。中入間「。 ワキ「なほも奇特を松梅の。/\。 色香妙なる音楽の。聞ゆる事ぞ有り難き/\。 後シテ出端「抑これは。是善卿の。第三子なり。 詞「扨も我延長元年に。 大富天神と神号を賜る。其君恩の恵を普く。 道ある御代の有難さよ。地「其時虚空に管弦聞え/\。

神さび渡れる折からなれば舞曲を奏して。 舞ひ遊ぶ。早舞「。 地「風雅の舞曲も時過ぎて。/\。光を四方にあま満てる。 神霊北野に移らせ給ふ。実に有難や神と君。 国土安全長久と。 幾千代までも栄うる春の。/\。神の末こそ久しけれ 遊女山姥 従者 山姥

ワキ、ツレ二人次第「善き光ぞと影たのむ。/\仏の御寺尋ねん。 ワキ詞「これは都方に住居仕る者にて候。又これに渡り候ふ御事は。 百魔山姥とて隠なき遊女にて御座候。 かやうに御名を申すいはれは。 山姥の山廻りするといふ事を。 曲舞につくつて御謡あるにより。京童の申しならはして候。 。

また此頃は善光寺へ御参ありたき由承り候ふ程に。某御供申し。 唯今信濃国の善光寺へと急ぎ候。 サシ「都を出でて小波や。志賀の浦船こがれ行く。 末は有乳の山越えて。袖に露散る玉江の橋。 かけて末ある越路の旅。思ひやるこそ遥なれ。 歌「梢波立つ汐越の。/\。 安宅の松の夕煙。消えぬ憂き身の。 罪を斬る弥陀の剣の砥並山。雲路うながす三越路の。

国の末なる里問へば。いとゞ都は遠ざかる。 境川にも着きにけり/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふほどに。 これははや越後越中の境川に御着にて候。 暫くこれに御座候ひて。なほ/\道の様体をもおん尋あらうずるにて候。狂言シカ%\ ツレ詞「げにや常に承る。 西方の浄土は十万億土とかや。これはまた弥陀来迎の直路なれば。 あげろの山とやらんに参り候ふべし。 とても修行の旅なれば。 乗物をばこれにとどめ置き。徒はだしにて参り候ふべし。 道しるべして給び候へ。 ワキ詞「あら不思議や。 暮るまじき日にて候ふが俄に暮れて候ふよ。さて何と仕り候ふべき。 シテ呼掛「なう/\旅人御宿まゐらせうなう。 。 詞「これはあげろの山とて人里とほき所なり。日の暮れて候へば。 わらはが庵にて一夜を明させ給ひ候へ。 ワキ「あらうれしや候。俄に日の暮れ前後を忘じて候。

やがて参らうずるにて候。 シテ「今宵の御宿参らする事。とりわき思ふ子細あり。 。 詞「山姥の歌の一節うたひて聞かさせたまへ。年月の望なり鄙の思出と思ふべし。 其ためにこそ日を暮らし。 御宿をも参らせて候へ。いかさまにも謡はせ給ひ候へ。

。 ワキ詞「これは思ひもよらぬことを承り候ふものかな。さて誰と見申されて。 山姥の歌の一節とは御所望候ふぞ。 シテ「いや何をか包み給ふらん。 あれにまします御事は。 百魔山姥とてかくれなき遊女にてはましまさずや。 まづ此歌の次第とやらんに。よし足引の山姥が。 山めぐりすると作られたり。あら面白や候。 詞「これは曲舞に依りての異名。さて真の山姥をば。 如何なる者とかしろしめされて候ふぞ。 。 ワキ「山姥とは山に住む鬼女とこそ曲舞にも見えて候へ。シテ「鬼女とは女の鬼とや。 よし鬼なりとも人なりとも。 山に住む女ならば。妾が身の上にてはさぶらはずや。 年頃色にはいださせ給ふ。 言の葉草の露ほども。御心には掛け給はぬ。 詞「恨申しに来りたり。道を極め名を立てゝ。 世情万徳の妙花を開く事。 此一曲の故ならずや。然らば妾が身をも弔ひ。

舞歌音楽の妙音の。声仏事をもなし給はゞ。 などか妾も輪廻をのがれ。 帰性の善所に至らざらんと。恨をゆふ山の。 鳥獣も鳴きそへて。声をあげろの山姥が。 霊鬼これまで来りたり。 ツレ「不思議の事を聞くものかな。 さては真の山姥の。これまで来り給へるか。 シテ詞「我国々の山めぐり。 今日しもこゝに来る事は。我が名の徳を聞かん為なり。 謡ひ給ひてさりとては。 我が妄執を晴らし給へ。 ツレ「此上はとかく辞しなば恐ろしや。もし身の為や悪しかりなんと。 憚りながら時の調子を。 取るや拍子をすゝむれば。シテ詞「しばさせ給へとてもさらば。 暮るゝを待ちて月の夜声に。 謡ひ給はゞ我もまた。真の姿を現すべし。 すはやかげろふ夕月の。歌「さなきだに。 暮るゝを急ぐ深山辺の。地「暮るゝを急ぐ深山辺の。 雲に心をかけ添へて。

この山姥が一節を夜すがら謡ひ給はゞ。其時わが姿をも。 あらはし衣の袖つぎて。 移舞を舞ふべしと。いふかと見れば。 そのまゝ掻き消すやうに。 失せにけりかき消すやうに失せにけり。中入間「。 ツレ「あまりの事のふしぎさに。 さらに真と思ほえぬ。鬼女が詞をたがへじと。 ワキ、ワキツレ二人待謡「松風ともに吹く笛の。/\。 声すみわたる谷川に。 手まづさへぎる曲水の。月に声すむ。 深山かな月に声すむ深山かな。 後シテ一声「あらもの凄の深谷やな。/\。 寒林に骨を打つ。霊鬼泣く/\前生の業を恨む。深野に花を供ずる天人。かへす%\も幾生の善をよろこぶ。いや。善悪不二。 何をか恨み。何をか喜ばんや。 詞「万箇目前の境界。懸河渺々として。巌峨々たり。 山又山。いづれの工か。青巌の形を。 削りなせる。水また水。

誰が家にか碧潭の色を。染め出せる。 ツレ「恐ろしや月も木深き山陰より。 其さま怪したる顔ばせは。 其山姥にてましますか。 シテ詞「とてもはや穂に出でそめし言の葉の。気色にも知し召さるべし。 我にな恐れ給ひそとよ。 ツレ「此上は恐ろりながらうば玉の。 闇まぎれよりあらはれ出づる。姿詞は人なれども。 シテ詞「髪にはおどろの雪を戴き。ツレ「眼の光は星の如し。 シテ「さて面の色は。ツレ「さにぬりの。 シテ「軒の瓦の鬼の形を。 ツレ「今宵始めて見る事を。シテ「何にたとへん。ツレ「古の。 地歌「鬼一口の雨の夜に。/\。 雷なりさわぎ恐ろしき。其夜を。 思ひ白玉か何ぞと問ひし人までも。 我が身の上になりぬべき。浮世がたりも。 恥かしや浮世語も恥かしや。 シテ詞「春の夜の一時を千金に換へじとは。 花に清香月に影。これは願のたまさかに。

行き違ふ人の一曲の。 其ほどもあたら夜に。はや/\謡ひ給ふべし。 ツレ「げに此上はともかくも。いふに及ばぬ山中に。 シテ詞「一声の山鳥羽をたゝく。 ツレ「鼓は滝波。シテ「袖は白妙。 ツレ「雪をめぐらす木の花の。シテ「何はのことか。 ツレ「法ならぬ。地次第「よし足引の山姥が。/\山めぐりするぞ苦しき。 シテクリ「それ山と謂つば。塵泥より起つて。 天雲かゝる千丈の峯。 地「海は苔の露よりしたゞりて。波涛を畳む。万水たり。 シテサシ「一洞空しき谷の声。梢に響く山彦の。 地「無声音を聞くたよりとなり。 声にひゞかぬ谷もがなと。望みしもげにかくやらん。 シテ「殊に我が住む山家の景色。 山高うして海近く。谷深うして水遠し。 地「前には海水〓{18716 ジョウ、さんずいに襄}々として。月真如の光をかゝげ。 。 後には嶺松巍々として風常楽の夢をやぶる。シテ「刑鞭蒲朽ちて蛍むなしく去る。

地「諫鼓苔深うして。鳥驚かずとも。 いひつべし。 クセ「遠近の。だづきも知らぬ山中に。 おぼつかなくも呼子鳥の。声すごき折々に。 伐木丁々として。山さらに幽なり。 法性峯そびえては。 上求菩提をあらはし無明谷深きよそほひは。 下化衆生を表して金輪際に及べり。そも/\山姥は。 生所も知らず宿もなし。 たゞ雲水を便にて至らぬ山の奥もなし。 シテ「しかれば人間にあらずとて。地「隔つる雲の身をかへ。 仮に自性を変化して。 一念化生の鬼女となつて。目前に来れども。 邪正一如と見る時は。色即是空そのまゝに。仏法あれば。 世法あり煩悩あれば菩提あり。 仏あれば衆生あり衆生あれば山姥もあり。 柳は緑。花は紅の色々。さて人間に遊ぶ事。 ある時は山賎の。樵路にかよふ花の蔭。 。

休む重荷の肩を貸し月もろともに山を出で。里まで送るをりもあり。 又ある時は織姫の。五百機立つる窓に入つて。枝の。 鴬糸くり紡績の宿に身を置き。 人を助くるわざをのみ。 賎の目に見えぬ鬼とや人のいふらん。シテ「世を空蝉の唐衣。 。 地「払はぬ袖に置く霜は夜寒の月に埋もれ。打ちすさぶ人の絶間にも。 千声万声の。砧に声の。 しで打つはたゞ山姥がわざなれや。 都に帰りて世語にせさせ給へと。思ふはなほも妄執か。 唯うち捨てよ。 何事もよしあし引の山姥が山めぐりするぞ苦しき。 シテ「あしびきの。地「山めぐり。立廻リ(働トモ又カケリトモ)「。 シテ「一樹の蔭一河の流。 皆これ他生の縁ぞかし。ましてや我が名を夕月の。 浮世をめぐる一節も。狂言綺語の道すぐに。 賛仏乗の因ぞかし。あら。御名残惜しや。 いとま申して帰る山の。 地「春は梢に咲くかと待ちし。シテ「花を尋ねて。山めぐり。

地「秋はさやけき影を尋ねて。 シテ「月見る方にと山めぐり。 地「冬はさえ行く時雨の雲の。シテ「雪をさそひて。山めぐり。 地「めぐり/\て。輪廻を離れぬ。 妄執の雲の。塵つもつて。山姥となれる。

鬼女が有様。みるや/\と。峯にかけり。 谷に響きて今迄こゝに。 あるよと見えしが山又山に。山めぐり。山又山に。 山めぐりして。行方も知らず。なりにけり 獅子(前ハ樵童) 寂昭法師

。 ワキ詞「これは大江の定基といはれし寂昭法師にて候。われ入唐渡天し。 始めてかなたこなたを拝み廻り。 唯今清涼山に参り候。 これに見えたるが石橋にてありげに候。暫く人人を待ち委しく尋ね。 此橋を渡らばやと存じ候。シテ一セイ「松風の。 花を薪に吹き添へて。雪をも運ぶ山路かな。 シテ「山路に日暮れぬ樵歌牧笛の声。 人間万事様々の。世を渡りゆく身の有様。 物毎に遮る眼の前。光の影をや送るらん。

。 下歌「余りに山を遠くきて雲又跡を立ち隔て。上歌「入りつる方も白波の。/\。 谷の川音雨とのみ聞えて松の風もなし。 げにや謬つて半日の客たりしも。 今身の上に知られたり/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる山人に尋ぬべき事の候。シテ「何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「これなるは承り及びたる石橋にて候ふか。 シテ「さん候これこそ石橋にて候。 向は文殊の浄土清涼山。よく/\おん拝み候へ。

ワキ「さては石橋にて候ひけるぞや。 さあらば身命の仏力にまかせて。 この橋を渡らばやと思ひ候。シテ「暫く候。 そのかみ名を得給ひし高僧たちも。 難行苦行捨身の行にて。 こゝにて月日を送り給ひてこそ。橋をば渡り給ひしに。 獅子は小虫を食はんとても。 まづ勢をなすとこそ聞け。我が法力のあればとて。 行く事難き石の橋を。たやすく思ひ渡らんとや。 あら危しの御事や。 ワキ「謂を聞けばありがたや。唯世の常の行人は。 左右なう渡らぬ橋よなう。シテ詞「御覧候へ此瀧波の。 雲より落ちて数千丈。 瀧壺までは霧深うして。身の毛もよだつ谷深み。 ワキ「巌峨々たる岩石に。シテ「僅にかゝる石の橋。 ワキ「苔は滑りて足もたまらず。 シテ「渡れば目も昏れ。ワキ「心もはや。 地上歌「上の空なる石の橋。/\。 まづ御覧ぜよ橋もとに。歩み望めば此橋の。

面は尺にも足らずして。下は泥梨も白波の。 虚空を渡る如くなり。危しや目もくれ心も。消え%\となりにけり。おぼろけの行人は。 思ひもよらぬ御事。 ワキ詞「なほ/\橋のいはれ御物語り候へ。 地クリ「それ天地開闢のこの方。 雨露を降して国土を渡る。これ即ち天の。 浮橋ともいへり。シテサシ「そのほか国土世界に於て。 橋の名所様々にして。 地「水波の難を遁れ万民富める世を渡るも。 即ち橋の徳とかや。クセ「然るに此石橋と申すは。 人間の渡せる橋にあらず。おのれと出現して。 つゞける石の橋なれば。 石橋と名をなづけたり。その面僅に。尺よりは狭うして。 苔はなはだ滑かなり。其長さ三丈余。 谷のそくばく深き事。千丈余に及べり。 上には瀧の糸。雲より懸りて。 下は泥梨も白波の。音は嵐に響き合ひて。 山河震動し。天つちくれを動かせり。

橋の景色を見渡せば。雲に聳ゆる粧の。 たとへば夕陽の雨の後に虹をなせるすがた。 又弓を引ける形なり。 シテ「遥に臨んで谷を見れば。地「足冷ましく肝消え。 進んで渡る人もなし。神変仏力にあらずは。 誰か此橋を渡るべき。 向は文殊の浄土にて常に笙歌の花降りて。 笙笛琴箜篌夕日の雲に聞え来目前の奇特あらたなり。 しばらく待たせ給へや。影向の時節も。

今いくほどによも過ぎじ。中入。 獅子上「獅子団乱旋の舞楽のみぎん。/\。 。牡丹の花房にほひ満ち/\たいきんりきんの獅子頭。打てや囃せや。牡丹芳。 牡丹芳。黄金の蕊。現れて。 花に戯れ枝に伏し転び。 げにも上なき獅子王の勢靡かぬ草木もなき時なれや。 万歳千秋と舞ひ納め。万歳千秋と舞ひ納めて。 獅子の座にこそ直りけれ 鮫人の精(前ハ童子) 里人

。 ワキ詞「これは唐土合甫と申す處に住まひする者にて候。 今日は日もうらゝに候ふ程に。 浦に出て釣するを眺めばやと存じ候。狂言シカ%\シテ一セイ「わたづみの。 そこともいさや白浪の龍の都を。出づるなり。

詞 いかにこの屋の内に主やまします。 一夜の宿を貸し給へ。ワキ「日もはや暮れて戸ざしつるに。 宿とは誰にてましますぞ。 シテ「よし誰なりともその情に。一村雨の雨宿。 一夜の宿を貸し給へ。 ワキ「叩く水鶏の外面に立つや久方の。

埴生の小屋に小雨降る。シテ「床冴えぬれば。ワキ「我妹子が。 地上歌「ひぢ笠の。雨は降り来ぬ雨宿。 雨は降り来ぬ雨宿の。頼む木蔭かや。 一樹の蔭の宿も。此世ならぬ契なり。 一河の流を汲みて知る。 合甫の浦の江のほ。 とり魚類もなどや命恩のその情をば知らざらん/\。 。 ワキ詞「何と見申せども更に人間とは見え給はず候。名を御なのり候へ。 シテ「今は何をか包むべき。 われは鮫人といへる魚の精なり。命をつがれ参らせし。 報謝の為に来りたり。我が泣く涙の露の玉。 絶えぬ宝となるべきなり。地「鮫人涙に。 玉をなして命恩を。 宝珠を猶も捧げて合甫にも入らせ給へと前なる。渚の波の上に。 いるよと見えつるが。 白魚となつて其侭に。 ひれふして失せにけり跡ひれふして失せにけり。来序中入。 後シテ「龍女は如意の宝珠を釈尊に捧げ。

変成就の法をなし。地「奈落や奈落の底の。 白魚なれどもなど命恩を。報ぜざらんと。 波立ち騒ぎ。潮うづまいて。 うたかたの上にぞ現れたる。舞働。 シテ「是こそ真如の玉の緒の。地「これこそ真如の玉の緒の。

寿命長遠息災延命の宝の玉は。 当来までの。二世の願も。 成就なるべしこれまでなりや。織りつる綾の。浦は合甫。 玉は二度かへる波の。千秋万歳の宝の玉は。 /\。合甫の浦にぞをさまりける 高風 猩々

ワキ詞「これは唐土かね金山の麓。 揚子の里に高風と申す民にて候。 さても我親に孝あるにより。或夜不思議の夢を見る。 揚子の市に出でて酒を売るならば。 富貴の身となるべしと。教のまゝになす業の。 時去り時来りけるにや。 次第々々に富貴の身となりて候。 詞「又こゝに不思議なる事の候。市毎に来り酒を飲む者の候が。 盃の数は重なれども。 面色は更にかはらず候ふ程に。余りに不審に存じ。

名を尋ねて候へば。 海中に住む猩々とかや申し候程に。今日は潯陽の江に出でて。 かの猩々を待たばやと存じ候。 歌「潯陽の江の辺にて。/\。 菊をたゝへて夜もすがら。月の前にも友待つや。 又傾くる盃の。影をたゝへて待ち居たり/\。 地下端「老せぬや。/\。 薬の名をもきくの水。盃も浮み出でて友に逢ふぞ嬉しき。 此友に逢ふぞうれしき。シテ「御酒と聞く。 地「御酒と聞く。名も理や秋風の。

シテ「吹けども/\。地「さらに身には寒からじ。 シテ「理や白菊の。地「理や白菊の。 着せ綿を温めて。酒をいざや汲まうよ。 シテ「客人も御覧ずらん。地「月星は隈もなき。 シテ「処は潯陽の。地「江の内の酒盛。 シテ「猩猩舞を舞はうよ。地「芦の葉の笛を吹き。 波の鼓どうと打ち。 シテ「声澄み渡る浦風の。地「秋の調や残るらん。中ノ舞「。

シテ「有難や御身心すなほなるにより。 此壺に泉をたゝへ。唯今返し与ふるなり。 よも尽きじ。地「よも尽きじ。 万代までの竹の葉の酒。汲めども尽きず。 飲めども変らぬ秋の夜の盃。影も傾く。 入江に枯れ立つ足元はよろ/\と。 ゑひに臥したる枕の夢の。 覚むると思へば泉はそのまま。尽きせぬ宿こそ。めでたけれ 猩々 猩々(前ハ童子) 高風

ワキ詞「是は唐土金山の麓に。 高風と申す民にて候。我親に孝あるにより。 次第々々に富貴の家と罷り成りて候。 また此間何處とも知らず童子数多来り。 某が酒を買ひとり候。けふも来りて候はゞ。 いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。 シテ「わたづみの。そことも知らぬ波間より。

現れ出づる日影かな。 ワキ詞「今日の市人は何とて遅く来り給ふぞ。 シテ「うれしやさらばと内に入り。いつもの酒を愛しけり。 地上歌「琴詩酒と。聞くも隔てぬ友人の。 /\。いつも変らぬ酒功賛に。 酒を愛せし来し方の。人の心に引きかへて。 これは琴にも盃。詩を作るにも盃。

唯酒のみの友ばかり。恥かしやさこそげに。 市人の我を笑ふらん。 ワキ詞「此程はいづくの人とも弁へず。 今日は御名をなのりおはしませ。シテ「今は何をか包むべき。 これは潯陽の江に年久しき。 猩々と云へる者なるが。御身親に孝あるにより。 天の憐ふかければ。泉の壺を与へんなり。 疑ひ給ふ高風と。地「夕の空も近ければ。/\。 暇申してさらばとて。 行くかと見ればさにぬりの。面も赤く様変りて。 市人に立。 紛れて跡も見えずなりにけり跡をも見せずなりにけり。来序中入。 下リ端地(一段)ツレ出「御酒と聞く。/\。 名も冷ましく秋の来て。暖め酒と菊月の。 頃もはや紅葉の。はや色付くか一重山。 薄きもみぢ葉いろ/\の。菊の盃据ゑ置き。 秋の夜深く待ちけるん。ツレ二人「不思議や此友の。 地「不思議やこの友の。 来らぬはおぼつかな。沖に向ひて我が友の。

など遅なはり給ふぞや。急ぎ給へ友人。 下リ端(二段)後シテ出「又猩々現れ出でて。/\。かの高風に。 妙なる泉を与へんとて。 波間を分けて潯陽の江の。汀も近く現れたり。 上「頃は秋の夜月面白く。/\。 汀の波も更け静まりて。数多の猩々大瓶に上り。 泉の口を。とるとぞ見えしが。 涌き上りわき流れ汲めども/\尽きせぬ泉。 いづれも戯ぶれ。舞ふとかや。中ノ舞「。

シテ「菊の露。積りて尽きぬこの泉。 地「尽きせぬ宿に。シテ「返し授け置き。 地「これ迄なりや。酔伏す夢の。 覚むると思へば又起き上り。命長柄の柄杓の酒を。 道俗男女に残さず勤め。 もとの泉に納まりければ。いづれも/\足もとはよろ/\よろよろと。繰言しげく。 千秋万歳君千代迄と。/\。栄ふる御代こそ。 めでたけれ

次第「誓直ぐなる神まうで。/\。 宮路や絶せざるらん。 ワキ詞「抑これは延喜聖主に仕へ奉る。 壬生の忠岑とは我がことなり。 我未だ九州箱崎の八幡へ参らず候ふ程に。この秋思ひ立ち九州の旅に赴き候。 歌「上野に通ふ秋風の。/\。 音もふけいの浦つたひ。明石のとよりかくよりて。 実に定なき旅の道。なほ遥なる播磨潟。 室の友君きぬ%\の。朝妻舟や不知火の。 筑紫の地にも着きにけり。/\。 シテ「箱崎の松の葉守の神風に。月もさやけき。 夕かな。浦波までもうち時雨。 秋ふかげなるけしきかな。 面白やなれて聞くだにものすごき。この一浦の松の風。

かはらぬ色はこれとても。神の誓の恵かと。 なほ色めける箱崎の。浦はの秋も神さびて。 松蔭清き社かな。 歌「木の間の月もかげろひて。白妙につゞく通ひ路の。 直にまもりのその誓。/\。隔はあらじ神垣の。 みづから運ぶあしたづの。立居の心怠らぬ。 宮路すぐなる頼かな。/\。 ワキ詞「いかにこれなる女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「何事にて候ふぞ。 恥しやさも月の夜といひながら。 暗き木蔭にたち寄りて人には見えじと思ひしに。 現れけりなした松の。蔭見えけるか恥しや。 ワキ詞「何をかつゝませ給ふらん。 女性の御身としてこの松一木に限り。

蔭を清め給ふ事不審にこそ候へ。 この所に於て箱崎の松とはいづれの木を申し候ふぞ。 シテ「これこそ箱崎の松にて候へ。 ワキ詞「さらばこの箱崎の松の謂を御物語り候へ。 シテ「抑この箱崎の松と申すは。 忝くも神功皇后異国退治の御時この国に下り。 戒定恵の三学の妙文を。 金の箱に入れてこの松の下に埋め給ふにより。箱崎とは申すなり。 さればある歌にも。箱崎の松吹く風も浪の音も。 たぐへて聞けば。歌「しとくはらみつの。 法の験の松蔭の。塵を払ひ清めてこそ。 五障の曇なき眞如の月も漏るべけれ。 秋なかば吹く風の。/\。 時雨がほには音すれど。曇はあらじ月影の。 霜を払ひし落葉をば。いざや掻かうよ。 いつをかいつとて松の風。驚くべしや世の中は。 夢のうちの夢ぞや。煩悩の塵を払はん。 払へどもよも尽きじ。吹けばぞ落つる松の風。 所は箱崎の。汀も近し浦波の。

もしほ草やよるらん。それならばかくと人や見ん。 あまにてはなきものを。只神松ぞ清めん。 ロンギ地「しるしの松の葉風には。 一しほ昔もすむやらん。 シテ「実に声も妙なりや。/\。御法の声の松風。 地「実相の嵐ふけ過ぎて。月も心も澄み行くや。 シテ「これぞ眞如の玉まつ。 地「霜さえまさる暁の。鐘の響に音添ふは。 シテ「実に妙なりやかの岸に。うつ浪はばう/\たり。金の名ある箱崎の。松風颯々たり。 げによく聞けば法の声の験の松なれや。 有難の御影かなやな。 シテ「いかに壬生忠岑に申すべき事の候。ワキ「何事にて候。 。 シテ「かの戒定恵の三学の妙文は拝み度はましまさぬか。ワキ「さん候。 拝み度は候へども。我は迷の凡夫として。 か程に妙なる法の箱を。 いかでかたやすく拝むべき。シテ「御身一心清浄にて。 この松蔭に坐し給はゞ。

必ず奇特を見すべきなり。ワキ「そもや奇特を見すべきとは。 御身はさても誰人ぞ。 シテ詞「よし誰なりとも唯頼め。 それ諸仏の誓様々なりといへども。殊に誓は世に超えて。 悪きをだにも泄らさじの。他の人よりは我人と。 誓はせ給ふ御神の。御母は我なりや。 汝多年の信心を守るそれ故に。 かゝる奇特を見すべし。今半時ばかり待つべしや。 松の葉の木隠に。 かき消すやうに失せにけり。/\。 ワキ歌「うれしきかなやいざさらば。/\。この松蔭に旅居して。 風も嘯く寅のとき。神の告をも待ちて見ん。/\。 後シテ「眞妙平等の松風は。

地「般若のしんもんをかしう。シテ「法性随縁の月の光は。 地「箱崎の波に。影清し。 シテ「利益しよ衆生。現世しやうせつ後生しゆ菩提。 説妙法華。示現大菩薩の誓によつて。 をさめし法の箱崎の。二度開くや法の花。 願もみつの光さし。/\て。 弥陀誓願の誓を顕し。衆生の願を充てしめ給ふ。 さる程に海原や。博多の沖にかゝりたる。 唐土舟もときつくり。 鳥も音を鳴き鐘も聞ゆる。明けなばあさまに玉手箱。 又埋み置く験の松の。もとの如くに納まる嵐の。 松の蔭こそ久しけれ

ワキ次第「伊勢や日向の神なりと。/\。 誓は同じかるべし。 詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。さても九州鵜戸の岩屋は。

神代の古跡にて御座候ふ程に。 此度君に御暇を申し。只今九州に下向仕り候。 道行「旅衣。なほ立ち重ね行く道の。/\。

浦山かけて遥々と。馴れて心を筑紫潟。 鵜戸の岩屋に着きにけり。/\。 シテ、ツレ一声「鵜の羽吹く。 今日の御祓ぞ神の小屋。立つ浪風も心せよ。 ツレ「鵜戸の岩屋の神の代を。二人「思へば久しあきつ国。 。 シテサシ「ありがたや過ぎし神代の跡とめて。聞けば昔に帰る浪の。 二人「白木綿かけて秋風の。松にたぐへて磯の宮。 鵜の羽葺くなり浜庇。久しき国の例かや。 下歌「実に名を聞くも久方の。 その海人乙女数々の。手向草を捧げん。 上歌「誰も実に。神に頼みをかけまくも。/\。 忝しやこの御子の。御母の名を聞くも。 豊玉姫のいにしへ。げに心なき我等まで。 海士の刈る藻の露ほども。 恵になどか遇はざらん。/\。 。 ワキ詞「いかにこれなる方々に申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。ワキ「不思議やな。

これなる仮殿を見れば。鵜の羽にて葺き。 今一方をば葺き残されて候ふは。 何と申したる謂にて候ふぞ。シテ「実に/\御不審御理にて候。 。 鵜の羽にて葺きたる事につきてめでたき謂の候。 委しく語つて聞かせ参らせ候ふべし。ワキ「あら嬉しや懇に御物語り候へ。 シテ「抑地神五代の御神をば。 鵜の羽葺き合はせずの尊と申し奉る。 その父の御神釣針を魚に取られ。 龍宮まで尋ね行き給ひ。豊玉姫と契をこめ。 釣針に満干の珠を添へ取りて帰り給ふ。 程なく豊玉姫御懐妊ありしかば。この磯辺に仮殿を作り。 未。 だ葺き合はせざるに尊生れさせ給ふにより。鵜の羽葺き合はせずの尊と申し奉る。 。 さればその誕生の日もこの秋の今日に当りたれば。 嘉例に任せて仮殿を作り鵜の羽にて葺き候ふなり。 ワキ「謂を聞けば有りがたや。遠き例も今こゝに。 宮居もさぞな千早振る。ツレ「神の御祓の政。

すぐなる御代に跡垂れて。 ワキ「今も日を知る神祭。シテ「いそげや磯の浪に鳴く。 ワキ「千鳥もおのが翅添へて。シテ「鵜の羽重ねて。 ワキ「葺くとかや。地「浦風も松風も。/\。 ひかたやはやち浪おろし。 音を添へ声を立て。〓{トボソ:漢字源2783}も軒の鵜の羽風。吹けや/\疾く吹け。吹くや心にかゝるは。 花のあたりの山颪。更くるまを惜むや。 稀に逢ふ夜なるらん。この稀に逢ふ夜なるらん。 面白やこれとても。実に世の中の品々。 如何なれば陸奥には。鳥の羽を糸にして。 衣を織るとかや。如何なればこの国は。 鵜の羽葺くなり神の小屋の。 恵庇のありしかや。世の節を顕はすもや。 神の誓なるらん。 ロンギ地「はや夕暮の秋の空。 浪も散るなり白露の。玉を連ねて葺くとかや。 シテ「軒の雨。古き言の葉取り添へて。 手向ぞまこと真鳥住む。うなでの杜の落葉を。

拾ひ上げいざや葺かうよ。 地「拾ふ汐干のたま/\も。折を得たりと夕暮の。 シテ「月すでに出で汐の。影ながら葺かうよ。 地「影もしげきの八重榊。 葉色を添へて葺く程に。シテ「重なる軒の忍草。 地「忘れたり葺きさして。シテ「少しは残せ。 地「名を聞くも。葺き合はせ。地「ずの。 神の御仮屋。葺き残せ/\。しかも月の夜すがら。 影もろともに我も出で。 洩る影は天照らす。神代の秋の月を。いざや眺め明さん。 。 ワキ詞「鵜の羽葺き合はせずの謂委しく承り候ひぬ。 さて干珠満珠の玉のありかは何くの程にて候ふぞ。 シテ詞「さん候玉のありかもありげに候。 誠は我は人間にあらず。暇申して帰るなり。 ワキ「そも人間にあらずとは。いかなる神の現化ぞと。 袖を控へて尋ぬれば。 シテ「終にはそれと白浪の。龍の都は豊かなる。 玉の女と思ふべし。ワキ「龍の都は龍宮の名。

又豊かなる玉の女と聞けば豊玉姫かとよ。 シテ「あら恥かしや白玉か。 歌「何ぞと人の問ひし時。露と答へて消えなまし。 なまじひに顕はれて。人の見る目恥かしや。 隔てはあらじ芦垣の。よし名を問はずと神までそ。 唯頼めとよ頼めとよ。玉姫は我なりと。 海上に立つて失せにけり。/\。中入「。 ワキ歌「嬉しきかなやいざさらば。/\。 この松蔭に旅居して。風もうそぶく寅の時。 神の告げをも待ちて見ん。/\。 。 後シテ「八歳の龍女は宝珠を捧げて変成就し。我は潮の満干の瓊を捧げ。 国の宝となすべきなり。南無や帰命本覚真如の玉。 地「或は不取正覚の台の玉。 シテ「または無量寿法界。円満神通の珠。地「おの/\様々多けれど。山海増減の満干の珠。 実に妙なれやあら有難や。 地「干珠を海に沈むれば。/\。さすや潮も干潟となりて。 寄せ来る浪も浦風に。

吹きかへされて遠干潟。千里はさながら雪を敷いて。 浜の真砂は平々たり。 シテ「さて又満珠を汐干に置けば。 地「さて又満珠を汐干におけば。音吹きかへて沖つ風。 汐をも浪をも吹き立てゝ。 平地に波瀾を立て寄せ立て寄せ山も入海海をも山に。 成す事やすき満干の珠。かほどに妙なる宝なれども。 たゞ願はしきは聖人の。 直なる心の真如の玉を。授け給へや授け給へと。 願もふかき海となつて。 そのまゝ浪にぞ入りにける <正花風>

。 〈山伏二人ばかり〉次第「法の力をしるべにて。/\心の道を尋ねん。 。 詞「これは九州彦の山より出でたる行人にて候。われ国々を廻り。 霊仏霊社度々順礼仕りて候。 此度は都より大和路を経て。吉野熊野に参らばやと存じ候。 歌子「神無月時雨降り置く楢の葉の。/\。 。 名に負ふこれぞ春日山三笠の原を分け過ぎて。行けば程なく石上。 布留の社に着きにけり。布留の社に着きにけり。 詞「是なる鳥居を見れば。 石上の明神と額に見えたり。急ぎ参社申さばやと存じ候。 。 〈布を持ちて出ずべし〉一声女「日の光。やふしわねは石上。 布留野も晴るゝ。けしきかな。 二句「袖ゆく水のあさ衣を。洗うて風も。 なほ寒し。

。 さし声「げにや名にし負ふ布留のわさ田のかりなりし。秋暮れ冬の初とて。 はや薄雪の山陰に。時雨すぎ間の朝嵐。 瀧の響も音そふ水の。心も澄める。をりからかな。 歌子「いざ/\布を洗はん。/\。七夕の。 五百機立てゝ織る布の。/\。 秋さり衣誰とても。あはで身を知るあめとてや。 涙も袖を洗ふらん。岸の柳を洗ひしは。 玉島川の秋の水。 それさへ心つくしかや。/\。 法師詞「不思議やなこれなる御手洗川に。 由ありげなる女の童の。 さしてみづしとも見えざるが。 布を洗ひながら神前を拝み礼をなす由なり。世に不思議なる粧。 これはそもいかなる事候ふぞ。 女「さん候これはこの神職の人に仕へ参らする女なり。

この布は神の御衣なり。 その上この布留の川水にて女の布を洗ふ事。 何の不審か候ふべき。 法師「こはいかに女人の布を洗ふ事。この川にては不審なしとは。 いかさま様ある事なるべし。 その謂をも語り給へ。 女「むつかしとお尋ねあるものかな。 布留。 とは布に留まると書きたる謂によりて。神の御衣とは申すなり。まづ/\流石に名を得たる処の有様をば。 知ろし召さぬか旅人よ。法師「承りは及びたれども。 今始めたる事なれば。 委しく名所を教へ給へ。女「まづ御覧ぜよ名にし負ふ。 布留の山風ふゆたてるの〈からをののともがしわ〉。 木の間に見ゆるは石上寺。法師「かくるや雲の梯と。 見えたる山の名は如何に。 女「げによく御覧じとがめたり。 雲ともはしとも御覧じたる。法師「をりから景色も。女「面白や。 同音歌ふ「初み雪。布留の高橋見渡せば。

/\。誓かけてや神の名の。 布留野に立てる。 三輪の神杉と詠みしもその験見えて面白や。か様にながめせば。 さなきだにさも暮れ易き冬の日の。 けふの細布にあら・ねども〈ざれど〉。 われも身のはたばりはなき。麻衣の営を。 かけ副へて洗はん営かけて〈いとなみをかけて〉洗はん。 。 詞法師「嬉しくも名所々々を教へ給ふものかな。さて/\先に承る。 布留とは布に留ると書きたる謂。承り度くこそ候へ。 女「さては未だ知ろし召さゞりけり。 当社の御神体は剣にて御渡り候。 この川にて洗ひし布に流れ留まり給ひし御剣なり。 委しく語り参らせ候はん。 上郎同音「抑この御剣と申し奉るは。 地神第一の御代天照大神のこのかみ。 素盞鳴尊の。神剣なり。 さし声「八雲立つ出雲の国。 簸の川上にして。大蛇を従へ給ひし。

十握の剣これなるべし。その後神の代々を経て。 国家を守る神剣として。神変飛行を顕し給ふ。 曲舞「人皇第一の帝をば。 神武天皇と名付け奉りしなり。筑紫日向の宮崎に。 多年を送り給ひしが。この八洲の国には皆。 即ち王地なればとて。 御船を調へ軍兵を集め・給ひ〈おはしまし〉て悪神を鎮め給ひしも。 この剣をふりさけし。みかげの威徳なるとかや。 さればこの剣を。とよふと神と号すなり。 終には当国この石上に。をさまり給ふより。 。 国家をまほりの神となり怨敵を鎮め給ふ事誠にめでたかりけり。又その御名を。 布留の剣と申す事。この川上の流水より。 流れ出で給ひてしつしの。洗ひし麻布に。 かゝり留まり給ひしより。 布に留まる故をもて。布留の神・と〈とは〉申すなり。 かゝる霊地にいそのかみ。 布留の瀧つ瀬いさぎよき。水滔々として浪。悠々たりとかや。 洗へば布は白妙の。浪も濁さじ煩悩の。

垢をもすゝ・ぎて〈ぐや。〉神の・御そきぬになさうよ〈御いはれなるらん〉。 。 詞法師「有難くも委しく承りて候ふものかな。さて/\この神剣は。 稀にも人間は拝み申すまじきにて候ふやらん。 女「いや/\思も寄らずさりながら。 微妙発心の法力には。 ひかれて示現し給ふ事あり。そのかみ熱田の宝剣は。 道行法師が法味にひかれて。 筑紫まで出現ありしぞかし。法師「それは異国の行人なれば。 さしも法力も高かるべし。 女「あら愚や法力には。和国異朝の隔あらんや。 それ一如法界の内には。神もなく仏もなし。 暫く済度の方便を設けて和光。 下まい同音「同塵の結縁たり。 神と云ひ仏と云ふも。水波にひたしつるけんふに。 留りしうたかたの。あはれみ衆生を度・せんと〈すべきなり〉。 夢中なりとも御剣を。 拝まん事は信不信の。心によるべのみづがきを。 越。

ゆると見えて失せにけりみづ垣を越ゆると見えて失せにけり。 をかし「不思議の御事にて候。 昔もけぢよのこの川にて。布を洗ひたりしに。 御剣の流れ留まり給ひたりし。 その因縁によりて。布留とは申して候ふが。 いかさま貴き聖にて御渡り候ふ程に。 かゝる御告も渡らせ給ひ候ふか。 今夜は神前に御籠り候ふて。御勤も候はゞ。 また不思議の御告もや候ふべきと存じ候。シカ/\「。 。 法師詞「有難や・和光同塵の始〈げにや末世と申しながら〉八相成道は利物の終とかや。あらたに奇特を拝む事よ。 このまゝ社頭に一七日。 籠りて念誦を致さんとて。舞「御手洗や。 心も澄める夜毎に。/\。月もろともに明らけき。 みひの光も照り添ふや。 和光の御かげなるらんや。/\。 。 〈女体の神体剣にきぬを四尺ばかり付けて持ちて出づべし。布に留る姿なるべし。 頭はわかふりなんどの体なべし。 太鼓を三つかえ打ち立つべし。

〉。 神さし声「千。 早振神の。 御剣曇なく。 なほ。 いちはや。 き一たう。 のかいばの現相。 。 行徳の法。 味にやう。 かんたれ。 りとかや。 あら。 貴の妙音やな。 。 一声「代々。 をのみ布。 留の神垣。

名も高き。法師「空もみどりか杉立てる。 神「石上の神山。ふるの中道。 同音「今に絶えぬ誓の末。あらあらたの出現やな。 法師「有難や。夜も深更の鐘の声。 心を澄ます折節に。 ありつる女人と見えながら。金色妙なる御衣の袂に。 光輝く御剣を。捧げ給ふぞ有難や。 神「いかなれば尾州熱田の宝剣は。 道行が法味にひかれしなり。これも汝が法味故。 夢中に現れ給ふなり。 法師「げに夢中とは云ひながら。 さながら現の境界かと。ゆふはな添へて白幣。 神「かゝるやむ杉の青幣。法師「雪の榊葉。 庭火のかげ。同音舞「面白や白妙の。/\。 日の光や剣のみかげ。

何れも/\さえ氷りて。げにも天照らす神の剣も今に。 曇なき霊験かな。 はや節、神「思ひ出でたり神代のふる事。/\。聞けばその夜も久方の。 簸の川上の八色の雲の。 稲田姫の玉のかんざし。ゆづの爪櫛光もさすや。 面影映る酒水の船に。件の大蛇蟠れるを。 尊十握の剣を抜きて。ずだ/\に斬り給へば。 生贄も絶え果てゝ。天長く地久しくて。 国土豊に安全なるも。 唯この利剣の恩徳なり。あら有難やと戴きまつる。 光も輝くや。影より白みて烏羽玉の。 夜はほの。%\とあけの玉垣夜はほの%\とあけの玉の戸。押し開きて。御殿の内に。 剣はをさまり給ひけり。/\

ワキ次第「頃待ち得たる桜狩。/\。

山路の花を尋ねん。

詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。さても。帝の宣旨には。 山々の花を見て参れとの宣旨に任せ。 唯今摂州に赴き候。道行「思はずも。 花見がてらの道すがら。/\。これまで来ぬる旅衣。 今日鶯の声なくは。まだ雪消えぬ山里の。 春ゆく事と知るべしや。/\。 シテ一声「折り持つや。花の薪の折からと。 心のあると人や知る。 サシ「面白や四季折折は様々なれども。分きて長閑き春の色。 四方の国々長閑にて。 戸ざし忘るゝ関守の。道の道たる時世とて。 下万民の我等までも。安く楽むばかりなり。 有難や治まる国の習とて。山河草木春を得て。 寒暑時をも違へねば。花にをさまる松の風。 千声の例静かなり。 歌「松は君子の徳ありて。雨露霜雪も侵さず。十返りの。 花を含むや若緑。なほ万歳の春の空。 君の御蔭も筑波嶺に。 このもかのもに立ち寄りて。老を忘るゝ詠して。

春も栄行く山路かな。/\。 。 ワキ詞「いかに是なる山賎に尋ぬべき事の候。シテ詞「何事にて候ふぞ。 ワキ「この所をば津の国に取りても。 いかなる在所とか申し候ふぞ。 シテ「津の国に取りても鼓の山と申して。 めでたき在所とこそ申し候へ。ワキ「さて/\鼓の山とは。 取り分きたる在所の候ふか委しく教へ候へ。 シテ「国の名所は天ざかる。 鄙の都の古き歌にも詠まれたる名所は。 取り分きめでたかるべし。されば歌にも津の国の。 鼓の山の打ちはへて。 楽しき御代に逢ふぞ嬉しきとあり。ワキ「さては嬉しや音に聞く。 鼓の滝を来て見れば。げに面白き滝なりけり。 シテ「あらうたてしや津の国の。 鼓の滝を来てみればとは。 御言葉とも覚えぬものかな。古き歌人の言葉にも。 地「音に聞く鼓の滝を打ち見れば。/\。 唯山河の中にも有りけると。さしもよみし言の葉の。

跡なれや此山の。嵐も雪も落ち来るや。 鼓の滝も花の滝も。糸を添へて白浪の。 あら面白の景色やな。/\。 シテサシ「抑春の夜の一時。 花に清香月に陰。惜まるべしや時も実に。 及ぶかたなき上旬の空。色も長閑けき春の日の。 流にひかるゝ盃の。手まづさへぎる心かな。 。 クセ「花前に酒を酌んで紅色を飲むとかや。実に面白や盃の。 光もめぐる春の夜の。有明桜照りまさり。 天花に酔へりや。流水も雪なり。 げにあくがるゝ春なれや。我と心に誘はれて。都は遥々と。 跡に霞の薄衣。日も夕暮は過ぐれども。 そのまゝに長居して。花に名残は有馬山。 鼓の滝に時移り。宿を花に刈藻かく。 猪名野も近かりき。床は露の笹枕。 シテ「深山がくれの暁に。 地「遠寺の鐘も幽かにて。深洞に風すぼく。老槐悲む。 声も袂を霑すや。猿子を抱いて。

清湘のかげに帰りぬ。鳥花を含んで。 碧巌の前に落つなるも。今更思ひ知られたり。 花見ずはいかでか。この山に一夜明かさん。 ロンギ地「実にや妙なる花の蔭。 聞くにつけても今日しもに。酒宴をなすぞ嬉しき。 シテ「とても夜遊の折しもに。 花をかざして旅人の。舞楽をいざや進めん。 地「そもや舞楽の遊とは。その舞人は誰やらん。 シテ「我は山河を守るなる。 山神こゝに現れて。地「舞楽を調ふる鼓の。 滝祭の老人は。この翁なりと云ひ捨てゝ。 花をかざし浪を踏みて。滝壺に入りにけり。 この滝壺に入りにけり。中入「。 ワキ歌「あら有難の御事や。/\。 滝の響も声澄みて。音楽聞え花ふれり。 これ唯事と思はれず。/\。 後シテ「花の下に帰らん事を忘るゝは。 美景によつてなり。樽の前に酔を勧めては。 これ春の風をさまつて。

枝を鳴らさぬ花の粧。梢も白妙の。雪を廻らす袂かな。 有難や花に声ある松の風。 地「滝の響も声澄みて。シテ「月の夜神楽花の粧。 地「心耳を驚かす夜神楽の。花落つるや。 滝浪もとう/\と。打つなり/\鼓の滝。 ロンギ地「あら有難や。有難や。 天下太平楽とは。いかなる舞を申すぞ。 シテ「怨敵の難を遁れて。上下万民舞ひ給ふ。

地「扨万歳楽と申すは。シテ「都卒天の楽にて。 見仏菩薩舞ひ給ふ。地「春立つ空の舞には。 シテ「春鶯囀を舞ふべし。地「秋来る空の舞にては。 シテ「秋風楽を舞ふとかや。 地「舞に颯々といふ声は。楽々の声とかや。嶺の松風。 又谷の響声々。かざしは雲の花笠。 春来にけりな小忌の袖。手風足拍子の。 鼓の滝も花の滝。治まる御代ぞめでたき。/\

ワキ次第「四方の山なみ時雨ゆく。/\。 梢の秋を尋ねん。詞「これは藤原実方なり。 我さる事ありて・陸奥{みちのく}に下りぬ。 頃しも長月紅葉の盛にて候へば。 山々の紅葉を見ばやと存じ候。道行「しのぶ山。 忍びて通ふ道もがな。/\。 あまざかる都人の心の中は知らずとも。馴れなばさぞな陸奥の。 安積の沼の花がつみ。かつ見る人や。

友ならんかつ見る人や友ならん。 ワキ詞「あれに見えたる老人は山人ござめれ。 近う来れ尋ぬべき子細あり。 ツレワキ「あの山人此方へ参り候へ。 シテ詞「あれなる山人は荷が軽きかかへさ故か。 嵐の寒さにとく行くか。同じ山に入らば。 同じか。 ざしの木をこれとこそいふにつれて行け。一セイ二人「かさなる嶺の梢より。

雲をも凌ぐ。山路かな。 ツレ「薪のしばし休むとも。二人「秋の日影に。心せよ。 シテサシ「奥山の岩がき紅葉散りにけり。 照る日の光見る時なくて。 二人「実にも群山の重なる奥は何処とて。 ものうからぬはあらじかし。ましてや・是処{こゝ}はその名さへ。 陸奥山の山奥の。岩根こゞしき伝ひ路を。 辿るにたへぬ。身の業は。 下歌「足曳の山賎なれや道のべの。上歌「たよりの桜折々の。 /\。時はあれども心なき。 身の代衣はるとだに知らぬ身なれば秋とても。 あはれもなくて夕露の。おくとも知らぬ。 袂かなおくとも知らぬ袂かな。 ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。 シテ詞「何事を御尋ね候ふぞ。 ワキ「都にて聞き及びし。当国阿古屋の松の・在所{ざいしよ}を教へ候へ。 シテ「当国の阿古屋の松とは知らず候。 ワキ「汝は賎き者なれば。 古歌を知らぬは理なり。

陸奥の阿古屋の松とこそ古き歌に見えたれ。 シテ「仰の如くもとより賎しき山賎なれば。朝夕こり置く薪ならで。 阿古屋の松とやらんは。いさしら雪の。 詞「ふるからん人に御尋ね候へ。 ワキ詞「さればこそ始より。 古き人と見たればこそ尋ねつれ。シテ「今思ひ出して候。 阿古屋の松は昔は当国今は・出羽{では}の国に候。 ワキ「不思議の事を申す者かな。 詞「いかで久しき名所の松の。 昔は陸奥今は出羽にあるべき由あらんや。 シテ「あらうたてしや本よりも。身は心なき山賎の。 老いひがみたるこの尉が。ワキ「頭は白く。 シテ「面は黒き。地「山烏。人な笑はせ給ひそよ。/\。 砂に黄金泥に蓮。 濁にしまぬも人の心によるものをと。夕霜の翁草の。 腹立てる気色にて。御前近く歩み寄りて。 シテ詞「抑・日本{ひのもと}は。 昔は三十余ヶ国にて候ひけるが。中頃六十六ヶ国に分たれたり。 されば三十余ヶ国にてありし時は。

陸奥出羽の国は一国なりしを。 分ちて出羽の国となりしに。阿古屋の松の在り所も。 出羽の国へ入れられたれば。 それより後は陸奥の。阿古屋の松とは申さぬなり。 。実に/\。 聞けば謂あり。 阿古屋の松の在り所。 。 詞「昔はこの国の。 中の西の方。 シテ「今は。 分ちて出羽の国の。 阿古屋。 の松にてあるべければ。 。 地「出羽の阿古屋の。松と申さんによも僻事は候はじ。 勝るにもへつらはざれ劣るをも。 賎しむなとは知しめさずや山賎なればとて。

さのみな下し給ひそ。実には名にし負ふ。 心の奥はありけりと。/\。 今こそ思ひ知られたれ。か程賎しき翁さび。 人な咎めそ理や。なほ物語。 申せとよなほ物語申せとよ。 ワキ詞「さらば阿古屋の松のもとに往きて見ばやと思ふなり。 早々老人導きて。阿古屋の松を見せ候へ。

シテ詞「翁はもとより老足の。歩も遅き道なりとも。 御意なれば御供申さんとて。 誘ひ出づる旅衣。ワキ「又遙々と。シテ「名にし負ふ。 地次第「阿古屋の松は何処ぞや。/\いで羽の国を尋ねん。地「野くれ山くれ里過ぎて。 /\。そことしもいさしらま弓の。 本の身を知る雨ならば。袖こそ濡れめ秋の風。 雲を払ひて天津空。同じ緑の蔭高き。 阿古屋の松はこれぞとよ/\。 ワキ詞「あら面白や聞きしにも超えたる木立なりけり。 嬉しくもしるべしたり老人。 ロンギシテ「これまでなりや老人は。 地「これまでなりや老人は。御暇申し候ひて。・宿{やどり}にいざや帰らん。 ワキ「いかに老人たしかにも。 道しるべ申したれ。住家はいづくなるらん。 シテ「翁が住家は何処とか。夕影深し松島や。 地「をじまの月も照り添ひて。 シテ「山こそ見ゆれ。地「我が方の。 家路もさのみ遠からずちかの塩竃の明神とは。

この翁よと云ひ捨てゝ。 帰るそなたか煙立つ塩竃の浦に。 行きにけり塩竃の浦に行きにけり。ワキ詞「さて塩竃の明神の。 この松を教へ給ひけるぞや。 いざさらば今宵は是処に。待謡「かり枕。松の・下臥{したぶし}秋の夜の。 /\。風もろともに更け行くや。 月をとも寝の草筵。心をのぶる。 けしきかな心をのぶるけしきかな。 後シテ「面白や霜のたて。霜のぬきに錦をなして。 四方に色添ふ梢の秋。雲のはた手の夕ま暮。 緑の空も薄霧の。 籬の島は是処ぞかしさしも遙けき都人。げに珍しき友なるぞや。 一セイ「いで羽なる。 阿古屋の松の木の間より。地「出づべき月の。出でやらぬ。 シテ「光待つ間は塩竃の。地「浦も淋しく。 見え渡るかな。 ワキ「不思議やな夢現ともわかざるに。いと年老いたる御姿にて。 現れ出でさせ給へるは。 如何なる人にてましますぞ。

シテ詞「我はこの夕阿古屋の松の道しるべ申しつる。塩竃の翁なり。 夢ばし覚まし給ふなよ。ワキ「夢覚ますなと承る。 とても夜すがら下臥の。 松吹く風に驚かされて。いをぬるとしもなきものを。 シテ詞「何と宣ふ実方よ。 松吹く風に驚かされて。さらに寝ぬとは空言や。 地「ぬればこそ。驚かすらめ松の風。/\。 音に聞えし名所の。昔は陸奥の松なれど。 今は出羽に有明の。 影高き阿古屋の松の月は面白や。地クリ「それ十八公の・栄{えい}は。 霜の後に顕れ。又一千年の色は。 雪の中に深し。シテサシ「千代を重ねて万代を。 ふる木の枝も若緑。 地「誠なるかな松花の色十返のみか・春秋{はるあき}の。幾世久しき色ならん。 クセ「実にや雪降りて。 年の暮れぬる時までも。終にもみぢぬ松が枝の。 老木になれども年々に。 又若緑立ち枝の幾春の恵なるべき。秦の始皇の御爵に。 あづかる程の木なりとて。異国にも本朝にも。

人挙つて。この木を賞翫す。 シテ「千年まで。かぎれる松も今日よりは。 地「君にひかれて。万代までの春秋を。 送り迎へて御影山。高砂住の江辛崎や。 田子の浦に打出でて。三保の松原くり原や。 あねわの松の人ならば。都のつとにさそひなん。 あはれ阿古屋の松が枝の名高きや。 類なかるらん。シテ「月の夜影も。 地「更け過ぎて。シテ「いかに実方思ひいづや。 詞「都にて賀茂の臨時の祭の舞。 聞き及びにし事ぞかし。今も思はぬ旅居の・夜遊{やいう}。 これも臨時の舞ぞかし。塩竃の。地「忘れめや。

シテワカ「忘れめや。御手洗川に。うつり舞。 地「影を見てしや。シテ「実方のさかりの。 地「実方のさかりの。 花やかにたへなりし舞姿。 シテ「これは引きかへて老木の松の。地「姿は実にも。シテ「老龍の枝垂れて。 地「松根によつて腰をすれば。 千年のみどり。手にみてり。シテ「松が根の枕して。 地「松が根の枕して。下臥も程なく。 有明方の松の風吹かるゝ袖もさす枝の。 よわよわと見えしまゝに。 ありつる翁は阿古屋の松の木蔭に。 見え隠れにぞなりにける/\

ワキ次第「花の雪路をしるべにて。/\。 吉野の奥を尋ねん。 詞「抑これは紀貫之とは我が事なり。 我未だ三吉野を見ず候ふ程に。此春思ひ立ち吉野参詣仕り候。

道行「三吉野の。・象{きさ}の山風長閑にて。/\。 分け入る影にそなれ行く。 松の響も朝立つや。雲も桜も一色の。 吉野の山に着きにけり。/\。

シテツレ一声「みよしのゝ。山辺に咲ける桜花。 雪かとも見る梢かな。 ツレ「重き薪を老の身の。シテ「花とも知らぬ心かな。 サシ二人「古里の吉野は花に住みあかで。 春を友なる山賎の。採るや薪のしば/\も。 あはれんものかと思ひしに。定なき世の中々に。 住めば住まるゝ身なりけり。 かくてもいつと限らまし。 歌「春の山辺に行き暮れて。/\。木のもとに立ちよれば。 嵐もつらし花もうし。/\。 ワキ詞「いかにこれなる山賎。 御身はこの吉野山に住み給へば。 賎しきながら心にくうこそ候へ。然ればこの吉野山。 何くも花の名所なるべし教え給へ。 シテ「御姿を見奉れば。 何とやらん此あたりの人とは見え給はず。 もし都より御参詣候ふやらん。ワキ「実によく見給ひたり。 これは紀貫之なるが。始めて参詣申して候。 シテ「何と紀貫之にて御座候ふとや。ワキ「中々の事。

シテ「かしこうぞ長いきして。 天が下に隠。 もましまさぬ歌人紀貫之を見奉る事の有難さよ。よく/\思へばこれもたゞ。 名所に住める故なりけるぞ。 たゞ尋常の山里ならば。 歌人もいかで御入あるべき。実にや頃しも吉野の花の。 ひとへに名所の徳なるぞや。 ワキ「実にや勧学院の雀は蒙求を囀るとかや。 さしも賎しき山賎なれども。名所の人とてかくばかり。 心言葉のやさしさよ。 さらば老人このままにて。吉野の奥のしるべせよ。 シテ「しるべはあらじ都にても。 吉野の花は御覧ずらん。地「千本の花に嵐山。 音に聞えて皇の。治めし三吉野や。 種とりし外までも。花は吉野の名ぞ高き。 実にやさしもこそ。厭ふ浮名の嵐山。 花の所となりそめし。時の春さへ面白や。/\。 ワキ詞「近頃心ある山賎にて候ふ間。 いで貫之歌物語して聞かせ候ふべし。

シテ「さらば承り候はん。 地クリ「それ敷島の国つわざは。天の浮橋の下にして。 二柱の神代より。起り伝はる道とかや。 ワキサシ「抑大和島根の内に置きて。 百千の君の政を助けしより。 地「明らけき時には必ずこれをおこし。 治まれる世には頻にこれを集め給へり。 ワキ「実に目に思ひ心に見て。地「うつし現す言の葉の。 直きを先として其くせなきが如しと。 歌人も詠吟しけるとかや。クセ「難波津の。 流れは浅くして。底を測り難く。浅香山の道は又。 狭くして際を知らざりき。 水無瀬川の霞の中には。秋のあはれを忘れ。 高円山の風の前。雲なき月を望みつゝ。 おどろが下葉を踏み分けて。 道ある世を知らせんと。閨の衾の冴ゆるにも。 藁屋の風を憐みの。恵みなれや大君の。御心内に動き。 詞外に満つとかや。 ワキ「龍田川のもみぢ葉は。地「濃きも薄きも錦にて。

吉野の山桜は。嶺にも尾にも雲の端の。 かゝる詠は尽きぬ世の。君も人も身を合はせ。 心を述べて花衣。 野べの葛の這ひかゝり。林に繁き木の葉の。天長く地久に。 幾万代の道ならん。 ロンギ地「げに奥深き三吉野の。 花の下道踏み分けて。山のあなたのしるべせよ。 シテツレ「しるべとも。 いづく岩根の松の葉の。白きは雲か花の雪の。 幾代積りて年浪の。帰る方を御覧ぜよ。 地「帰るやいづく三吉野の。吉野の奥のしるべとて。 二人「行かんとすれば花盛。 地「咲き埋れて。二人「吉野山。 地「出でつる道だにも見えねども。去年の枝折をしるべにて。 花を分けつくゞりつゝ。 さながら雲に子守の。神よとて失せにけり。 神よとて失せにけるとかや。中入「。 ワキ歌「声よりやがて松の風。/\。 長閑に吹きて夜桜の。光輝き音楽の。

花に響くぞ有難き。/\。 地シテ「あら有りがたの和歌の人や。 誠に発心説法の妙文。せんせいなれや久方の。 天よりおこる詠歌の道。 地「昔に帰る舞歌の例。シテ「これぞこの五節のかなでの神。 地「左右左左右さかゆくや。 花の遊楽夜も更けて。月澄み渡り。松風も静なる。

花の梢に天くだる粧。 実に目前の妙風を顕す。シテ「姿も妙なるや。 地「姿も妙なるや。昔の神女の舞の袖。返す五節の例の。 尽きもせず朽ちもせぬ。 この金峯の神慮を。見聞くにつけてめでたき。 この遊楽の妙文。真如実相の月の夜。 明くるや名残なるらん。/\

大臣次第「道ある御代の秋とてや。/\。 国々豊なるらん。 ワキ地「抑これは藤原の興範とは我が事なり。 我勅命に依りて九州に下向仕り候。 歌「波風も治まる四方の海なれや。/\。漕ぎ行く舟の水馴棹。 さしてそなたやつくし路の。 末ある波の水落や。香椎の浜に着きにけり。/\。 詞「面白の浦の体やな。 眺めの末は箱崎の松原平平として。

向は鹿の島故ある山海なるべし。あれを見れば人あまた来り候。 これ。 に相待ちこのあたりの名所をも委しく尋ねばやと存じ候。シテ「さゝぐりの。 しばしば残る老が身の。露をも払ふ。袂かな。 なほ行く末はしらぬひの。 シテツレ二人「筑紫の和田の原なれや。これは九州香椎の浜に。 年経て住める浦人なり。 面白やいづくも故ある名所なれども。 わきて名に負ふ香椎の浜に。一木の梢ものさびて。

浦風つゞく眺めより。月も明けゆく箱崎の。 松の緑も空色の。常磐の秋を見せつらん。 歌「是処は香椎の浜びさし。 久しき国の名をとめて。海原や博多の沖に懸りたる。/\。 唐土船の時を得て。道ある国の例かや。 三韓も靡く君が代の。昔に帰る政事。 我等が為は有難や。/\。 ワキ詞「いかにこれなる浦人。御身はこの里人か。 持ちたる柴を見れば。常の真柴にはあらで。 木の実のなりたる柴栗といふ木の実なるか。 シテ「さん候。 これは九州にては名物にて候。これはさゝ栗と申す木の実にて候。 ワキ「何さゝ栗とや。シテ「さん候。 ワキ「不。 思議やさゝ栗と申す名物は聞き及びたれども。これはさゝ栗とは見えず。 ただ柴栗とこそ見えたれ。 シテ「恐れながら篠栗と申す事。私に申さば。 何とてか名物にては候ふべき。 あの安閑寺の天神の御詠歌にも。筑紫人そら事しけりさゝ栗の。

さゝにはならで柴にこそなれと。 かやうに御詠に候へば。私ならぬさゝ栗の。 名にし負ひたる名物なり。一枝御賞翫候へとよ。 ワキ「げに/\失念したりけるぞ。 この御詠歌を聞きながら。 とかく申すは僻事なり。さりながら。御詠の心を知る時は。 正しく柴になりたるを。 さゝ栗と名づけ初めし事は。古よりの空事よなう。 ツレ「それはげに/\我とても。 数にはあらねど筑紫人の。何と御返事申すべき。 只空事の物よなう。ワキ「いや/\それもかくの如く。空ごとしてこそ天神の。 御詠にもかゝり後代にも。シテ「世語となるさゝぐりの。 ワキ「身はしらぬひの筑紫うどの。 シテ「我にも限らじ。ワキ「昔より。 地「久しくも空ごとしけり筑紫人。/\。 然も所は浦の名の。 香椎の木陰にさゝ栗の遠近人の今とても。 とはせ給へばお答を申す老人のなほしも空ごとと思し召さるゝや。

御心つくしなるらん。/\。ワキ詞「げに/\さゝ栗の戯事。 これ又筑紫の名にし負ひたる故事なり。さて/\此香椎の浦とは。 これも名にある名所にて候ふやらん。 シテ「この香椎の浦は。 昔神功皇后この海上にて舞楽を調べ。住吉鹿島香取。 其外三百七十所余の神々。神楽を奏し給ひしに。 滄海の小龍干珠満珠を載せて。 出現したりし浦なり。 又この香椎につきてもその謂候。語つて聞かせ申し候はん。 抑南膽部州。秋津島。 神功皇后の宣旨に依つての勅使なりと。海中に向つて宣へば。 沙伽羅龍王是を聞き。小龍を出し。 此方へ入らせ給へと申されしかば。 勅使三人小龍の後につき。龍宮城へ入り給ふ。 シテ「皇后の宣旨の趣。審らかに申しければ。 日本は神国たり賢王なり。 いかで宣旨を背くべき。然も龍女の身として。 人王の后に立たん事。

かつうは面目たるべしとて。この二つの玉を奉りけり。 曲「干珠といふは白き玉。満珠といふは青き玉。 豊姫と右大臣に持たせ参らせて。 三日と申すに龍宮を出で。 皇后に参らせさせ給ひけり。かの豊姫と申すは。 川上の明神の御事。あとへのいそらと申すは。 筑前の国にては。志賀の島の明神。 常陸の国にては鹿島の大明神。 大和の国にては春日の大明神。一体分身同体異名現れて。 御代を守り給へり。その後皇后は。 仲哀天皇の御笏を。忝くも取出し。 かす井の浜にある。椎の木の三枝に。 置き奉り給ひしに。シテ「この香椎の香ばしき事。 諸方に充ち/\て。 ぎやくふうにも薫ずなる。ゑんしやう樹にも異らず。 偖こそこの浦もとはかす井と言ひけるを。 香ばしき椎の字に。書き改めて今までも。 香椎の浦風の治まる御代となるとかや。 ワキ「不思議やか様に語り給ふ。

御身は如何なる人やらん。シテ「今は何をかつゝむべき。 我は尋常の海神ならず。いで/\名宣りて聞かせ申さん。ツレ女「我はこれ。 神功皇后の妹。川上の明神豊姫。シテ「我はまた。 滄海の使。 磯の童とも云はれし海神なり。唯今現れよる波の。 たつの都より来りたり。昔神功皇后の。 この海上の舞歌の曲。こよひの月にあらはし。 都の人に見せ申さんと。いふ波の川上に。 豊姫は帰り給へば。磯の童は磯の波に。 立ちかくれ失せにけり。波立ち隠れ失せにけり。 天女「滄海の。そこともいさや白波の。 たつの都の秋久し。西の海。 檍が原の波間より。現れ出でし住吉鹿島香取志賀の島。 何れも/\影向なりて。 満干の玉を待ち給ふに。などや遅きぞ磯の童よ。 急げや/\沖津風。シテ「白玉か。 何ぞと人の問ふやらん。光を見ても知れや知れ。 すはすはすでに波間より。/\。

天女「光さしでの磯の童は。地「人の願は満干の玉の。 折からなれや明暮の。 シテ「有明の月は入汐に。地「吹くは塩風。 シテ「響くは波おろし。地「はやち干潟。シテ「あひの風。 吹き曇れども二つの玉の。 光は天に満ち地に輝きて。赫奕{かくやく}とある海原の。 波を蹴立て潮に乗つて。飛びまわり飛び上がり。 舞台を踏み鳴らし駈けり舞ひ遊ぶ。 あら面白や。女「豊玉姫を受取りて。/\。 先々干珠の御影をうつせば。潮も引き波も去つて。 万里の眺は平々として。

金輪際かと見えたる浜辺に。磯の童は走り廻りて。 鱗魚も躍る。玉を散らして。 目を驚かす有様なり。シテ「さる程に/\。夜もほの%\とあけ方になれば。 今は夜遊もこれまでなり。又龍宮に帰らんとて。 満珠の御影を干潟に移せば。潮満ち波湧きて。 たつの都路便ありとて。磯の童は豊姫に。 暇申して又漫々たる海中に。 又漫々たる海中に。飛び入ると見えしが。 波の底を潜つて龍宮に帰りけり

ワキ次第「九重出づる旅衣。/\八重の汐路に急がん。詞「そも/\これは亀山の院に仕へ奉る臣下なり。さても丹州水の江に。 浦島の明神とて霊神おはします。 急ぎ参詣申せとの勅諚により。

唯今丹後の国水の江の浦に下向仕り候。 道行「曙に出でし都の月もはや。/\。 入野の末や丹波路の。 ほすの山本よそに見て雲路に遠き与謝の海。末の名所今こそは。 見川の里や白糸の。浜風わたる橋立や。

はや九世の戸に着きにけり/\。 シテツレ二人一声「譬ふべき。 方こそなけれ松が枝に。雪降りつもる。朝ぼらけ。 シテサシ「面白やこの一浦の朝もよい。 二人「昨日もなしゝ身のわざを。人なとがめそ大船の。 ゆたのたゆたに尽す心。 野渡人なうしておのづから。浮ぶやかゝる船ならん。 下歌「いざ/\釣に出でうよ釣の暇も波の。 上わりなくも暮るゝ日に。 上歌「帰るさの道をいづくと人問はゞ。/\。 何と答へん白玉の。 乙女の姿をこの浦の島根の波も心せよ。げにや幾度か。都ならばと夕波に。 釣人多き船路かな/\。 。 ワキ詞「いかに是なる釣垂れ給ふ女性に尋ね申すべき事の候。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ「見申せば女性の身として。 釣垂れ給ふ事不審にこそ候へ。是は処の習にて候ふか。 シテ「御不審は御理にて候さりながら。

忝くも神功皇后。 新羅とやらんを従へ給ひし占方にも。 玉島川にて三尺の鮎を釣らせ給ひし御事ぞかし。二人「それは玉島これは又。 其名を聞くも浦島の。答へ申さん言葉をも。 知りて賎しき海人乙女に。 不審な為させ給ひそとよ。ワキ「実に面白き答かな。 さらば蜑人の浦島の。 宮居を教へてたび給へ。シテ「汀は満ちくる夕汐に。 その通路も定かならず。とても我らが世渡る船に。 恥かしながら乗り給へ。 ワキ「これは嬉しき事なるぞや。いざこの船に乗らんとて。 シテ「汀の波に。二人「裳裾をひたし。 地「海士ならぬ身も袖濡らす旅衣。/\。 幾野の道の遠ければ。 まだ踏みも見ぬ蜑人の。情ゆゑ白糸の。浜路の末も遥なる。 知らず范蠡が船の内呉王。 一国の憂を載す。 これは引きかへて小船に至る都人の。恵の縁ある我が身の程ぞ有難き。 シテ「船が着いて候御上り候へ。

ワキ「御船恐れて候。 シテ「これこそ浦島の明神にて候よく/\御拝み候へ。 ワキ「承り及びたるよりも有難う候。なほ/\当社の謂委しく御物語り候へ。 。 地クリ「花は雨の過ぐるによつて紅まさに老いたり。柳は風に欺かれて。 緑漸く垂れり。 シテサシ「ことわりやさては仙女のはからひにて。地「行くや月日をこの箱に。 畳み隠して年並の。 老いせず死せぬ薬を籠めて。あさまになさじとさしもげに。 明。 くなと教へ給ひける言葉を変へて明くる箱の。 再び返すかひもなく老となるこそ不思議なれ。 シテ「北州の千年天上の五衰。地「身に白露の玉手箱。 明けて悔しき。心かな。 クセ「明けて見るべきは雨の夜に。残る朝の月咲くも見せぬ夜桜。 まだ時ならぬ鶏の。空音を聞きし関の戸は。 明けしぞうれしかりける。 明けて何より悦の。御代となりしは久方の。

天照大神の。 素盞嗚の尊に襲はれ出でて千早振る。神も世の中の。交や浮雲の。 高天の原の岩座に。天の戸を閉ぢて跡は早。 常闇の世となりし間は六つの年。 こゝに月神の御子にうねみの命其時の。 御供に洩れ残り。闇中に身を欺き。 諸神を集め神歌や。シテ「御声も妙なる舞の袖。 地「真榊とりて香具山の。むすきが本つ葉や。 青和幣白和幣日形の鏡天照らす。 神も御影を写して磐戸を去りて出で給へば。 天地二度ひらけて国土豊かになる事も。 岩戸を明けし故ぞかし。それは神代の古。 これは人の今の代かしこは明けて悦び。 こゝは明けて悔しき浦島が箱ぞよしなき。 ワキ詞「さて/\かやうに承る。 御身は如何なる人やらん。 シテ詞「今は何をかつゝむべき。我は蓬莱の仙女なるが。 地「この君を守りつゝ。不死の薬を与へん。 暫く待たせ給へやと。夕の空の雲の浪。

帰るも見えずなりにけり/\。中入「。 天女「有難や。かゝる聖主の代に引かれ。 地「ありし昔の。舞歌の袖。いで/\夢中に浦島の。/\。 昔を語る神託を見せんと五色の亀の寄る白波は。 いかさま龍神の参会なるかやあれ/\汀の。波の上。 龍神「そも/\これは。 下界に住んで神を敬ひ君を守り。 殊には大慈大悲の悲願を行ふ。海龍王とは我が事なり。 シテ「我はまた玉の手箱を守る。浦島の神。 地「互に姿を現して。/\。 龍神みぎはの浪に坐して。 折柄を守護し又は神風に雲霧を払つて。あたりも耀く玉の手箱を。 かの旅人の。稀なる故に夢中に現し。見せ給ふ。 シテ「夢ばし覚すな客人よ。

地「夢ばし覚すな客人よ。シテ「夜はまだ明けじ玉手箱。 地「早くも治まる君が代の。 勅使を慰の夜遊ぞかし海龍王も。心せよ。働「。 龍神「海龍王も神勅に応ず。 地「海龍王も神勅に応ず。今この君の御政徳。 猶も客人に奇特を見せんと木綿四手の神心。 龍神も心を一つに成相の。 松風も吹き寄せよ。 さす汐も寄せよと互に寄る波の潮の上に。 蓬莱山を浮べ浮ぶれば草木もゆるぎ合ひ五色の亀も。勇み/\て汀によりそひ不死の薬を君にさゝげ。 勅使に与へこれまでなりと神は社内。 龍神は海中に入るとぞ見えし。 まことに君の威光にひかるゝ/\神の奇瑞の有難さよ

ワキ次第「誓すぐなる神詣。/\。

宮路や絶えせざるらん。

詞「そも/\これは藤原の俊家とは我が事なり。 さても和州春日の明神は。氏の神にて御座候ふ程に。 此度参詣仕り。七堂の順礼事終り。 今は下向道なれば。 宇治より川舟に乗り伏見の社に参詣申さばやと存じ候。 道行「朝日影さすや三笠の山高み。/\。 佐保の川霧立ちこめて。 梢の秋もなほ深き四方の眺も時めきて。なほ行く末は泉川。 河風寒み宇治の里。過ぐればこれぞ程もなく。 伏見山にも着きにけり/\。 シテツレ二人「異色は。しをるゝ露の翁草。 花ひとりなる気色かな。 ツレ「これも山路の秋なれや。二人「伏見の沢の。秋の水。 シテサシ「それ世界に於て国の数。 その品多き人界なれども。 二人「生まれて安き瑞穂の国。海原や波静かなる八島潟。 天照神の御末を受け。代々の天皇国を治め。 民静かなる我等までも皆朝恩の故ぞかし。 殊更にこゝは所も九重に。

近き伏見の宮造。古きにかへる政事。 道ある御代のそのためし。唯然るべき時とかや。 下歌「幣取り持ちて手向草いく年々の秋ならん。 上歌「すべらぎの万代までにまさり草。 /\。盛り栄ゆく御影山。 たれも頼をかけまくも忝しや民として。 そら恐ろしき地の恩また天の恐数々に。 漏るゝ事なきこの君の。幾久しさも限られず/\。 ワキ詞「如何にこれなる老人。 御事を見れば柴取りやらんと見る所に。 まことに盛なる白菊の。異なる花の種と見えたり。 この花の在所ゆかしくこそ候へ。 シテ詞「さん候。この白菊は。 伏見山の谷水の辺に候ひしを。 神に手向の為に手折り持ちて候。 ツレ「うたてやな所からなる花と申し。しかも老人が持ちたる花なるを。 などや翁草とは召され候はぬ。 御心なきやうにこそ候へ。ワキ「実に/\菊をば翁草とも申すとかや。

又所からなる花と申すは。この伏見の里に翁草を。 詠みたる在所のあるやらん。 シテ「いやこの伏見の里。 を必ず歌人の詠みたる在所にてはなけれども。昔伏見の翁と云つし人。 一花を捧げこの伏見山に出来す。 かの翁国の助となりしより。 世上に於てその名を得たり。ツレ「そのうへ伏見の翁の事。 禁裏雲井の上人こそ。尤も知し召さるべけれ。 シテ「古桓武天皇の。 この伏見の里に宮作せしに。翁一人現れ出でて。 一首の歌を申しゝかば。帝叡感甚しくて。 伏見の翁と召されしより。 ツレ「されば昔の伏見の翁の。嘉例に任せてこの里に。 シテ「今もかはらでこの尉が。 よしあり顔に持ちたる花を。二人「翁草とは召されずして。 たゞ白菊と御覧ぜば。 せめてはまさり草となりとも。など御賞翫なかるらん。 ワキ「げにや名所に住む人とて。 世の常ならぬ心言葉。理すぐる有様なり。

そもこの花を手向とは。 いかさま当社の為なるべし。いでこの宮居はいづれの神ぞ。 シテ「これは桓武の御願所。 伊勢の御札の宮居とて。御名も替らぬ霊社なり。 ワキ「実に/\聞きしに変らずして。 粧異なる宮柱の。シテ「鳥居も朱の玉垣に。 ワキ「玉の村菊立て添へて。 シテ「神前に捧ぐる手向草の。ワキ「其草の名も。シテ「尉が名をも。 地「白菊の花や伏見の翁草。/\。 白木綿添へて小忌衣の。 宜禰が立ち舞ふ粧神感。 にたへぬ納受もさぞなと思ふ夕神楽夜を待つか月の都人。先御神拝候へ。/\。 。ワキ詞「なほ/\伏見の翁の事委しく御物語り候へ。地クリ「そも/\伏見の翁の事。 名も久方の天照らす。 神の代よりの末受けて。君道を守る。ためしとかや。 シテサシ「然れば人皇代々を経て。 時雨降り置ける楢の葉の。地「名におふ宮路正しくて。 移り行くなり雲の上。花の都の春の空。

平安城に治まれり。シテ「中にも伏見の宮作。 地「国家を守る神心。 知るや阿古根の浦までも。四海のはらうは静なり。 クセ「人皇五十代。桓武天皇の御宇かとよ。 当国伏見ての里に移らせ給ひて。 大宮作始めつゝ。皇居を定め給ひしに。伏見の。 翁は現れて。 いざこゝに我が世は経なん菅原や。伏見の里の。 荒れまくも惜しと詠めけるとかや。 其後巫に託しつゝなは重ねての詔。 我は神風や伊勢の阿古根の浦の波。治まる御代の為ならん。 伏見に見そなはして。 君辺に住むべしとの御神勅にまかせつゝ。 大宮作し給へり。シテ「そも/\伏見といふ事は。 地「まづ我が朝の総名にて。伊弉諾伊弉冊の。 。 天の岩座の苔莚に伏して見てし国なれば伏見と名づけ給ふなり。 さればにや国富み民豊にて。誰も我が世にあひ竹の。 伏見の里を守らんとの御誓。

百王万歳に平の都なるべし。 ロンギ地「実にや伏見の古の。/\。 神の祭の夜神楽に心を述ぶる有難や。 ツレ二人「折節月晴れて。和光の影も明らけき。 古の宮はじめ伏見の夢をおぼすなよ。 地「夢の伏見の宮はじめ。其代を今に現して。 二人「磨き添へたる玉殿に。地「今の翁の。 二人「立つと見れば。 地「天より金色の光さして。此庭に満ち/\て。 伏見の里のあれまくも惜しと思ふ故。又宮作改めたり。 我は伏見の翁なるが御代を守り申すなり。 君は千代ませ千代ませと。 申し捨てゝ失せにけりや申し捨てゝ失せにけり。中入「。 ワキ歌「受くるや神の御心を。/\。 白木綿花の色々に。神楽の鼓声すみて。 月も異なる今宵かな/\。 後シテ「あら有難の宮作や。 我をば誰とか思ふ。御代を守の聖賢には。 伏見の翁と現れ。神道にては伊勢の海。

阿古根の浦に宮居して。古今妙文の詠をのべん。 かざはへの神とは我が事なり。 地「実に有難や今宵しも。空晴れ雲も収まりて。 明々とある夜神楽に。 シテ「焚くや庭火も照り添ひて。重なる霜の木綿畳。 地「満てるや花も村菊の。シテ「紫の雪。 地「緑の空の。シテ「月澄むや。伏見の沢の秋の水。 地「竹田も見えて稲葉の雲の。 シテ「深草の野べ。稲荷山の。地「紅葉の秋も柳桜の。 花の都は曇もなく見えたり/\や。 平安城の。おもしろや。働「。 ロンギ地「早曙の天の戸に。/\。 光を添へて有明の月澄み渡るめでたさよ。 シテ「もとよりも我が代は経なん菅原や。 伏見の里を守らんと。 またこの山に現れ伏見の翁なるとかや。地「実に有難き神の代の。 昔を今にかへすなる。 シテ「その海原の波の露。地「こりかたまりし種なれや。 シテ「今もゆるがぬ秋津根の。地「その神の代の。

シテ「物語。 地「伊弉諾伊弉冊の岩枕に臥して。見出したりし故に。 伏見とこの国を。名づけ染められし神の代の。

跡明らかに今まで天下泰平の政事。 絶えぬ伏見の翁草の。 雪を廻らすや舞の袖万歳の御代にかへらん万歳の御代にかへらん

次第「神や仏と隔つれど。/\。 誓は同じかるらん。 ワキ詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。さても津の国天王寺は。 我が朝精舎の最初なれども。 未だ参詣申さず候ふ程に。此度君に御暇を申し。 只今津の国天王寺に参詣仕り候。道行「夜をこめて。 竹田の里を立ち出でて。/\。 淀山崎や石清水。八幡の社伏し拝み。 猪名の笹原分け過ぎて。行けば程なく津の国や。 難波の浦に着きにけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。津の国天王寺に着きて候。 処の人を相待ち謂を尋ねばやと存じ候。 シテツレ「法の花。散りし筵に臨みてや。

光を増しゝ難波江の。 ツレ「松の下枝も物さびて。二人「緑に見ゆる朱の垣。 サシ「それ我が朝はもとよりも。 粟散遍地{ぞくさんへんち}の小国なれども。 二人「或は神明又は仏陀と現れ給ふ。皆これ同体異名にて。 譬へば水波の隔の如し。 殊にこの上宮太子と申し奉るは。救世観音の御垂跡にて。 仏法王法を起し給ふ。げに有難き恵かな。 下歌「いざ正身{しゃうじん}の観音の。御影をなほも拝まん。 上歌「まのあたりなる仏恩は。/\。 衡山の峯よりも高くして。 阿僧祇劫を経るとても。いかでか之を報謝せん。 たゞ頼め/\。衆生済度の御誓。

などかは仰がざるべき。/\。 。 ワキ「如何に是なる老人に尋ね申すべき事の候。シテ「此方の事にて候ふか。 何事にて候ふぞ。ワキ「処の人にてましまさば。 太子の御事御物語り候へ。 シテ「事も愚かや上宮太子と申し奉るは。 本地救世観音にておはしますが。 仏法興隆の為に此土に御出現あり。 即ち日の本の釈尊とも崇め申し候。 ワキ「さて又此天王寺御建立はいつの頃にて候ふぞ。 シテ「抑天王寺御建立の事は。昔弓削の守屋といひし逆臣ありしが。 河内の国稲村に城廓を構へ。 廿九万三千の勢にて立て籠る。 太子の御勢終に二百五十騎を以て向ひ給ふ。 さるは大敵の事なれば。初は太子討ち負け給ふ。 されども太子は恐れ給はす。 仏法興隆の為の戦なれば。 願力にあらずんば勝軍を得難しと思召され。 勝軍木{ぬるで}にて四天の像を作り。甲の上に安置し給ふ。

さて又迹見{とみ}の臣に命じて。定の弓恵の矢を以て。 稲村が城に放させ給へば。 この矢則ち守屋が胸板に当つて。櫓の上より逆様に落つ。 その時秦の河勝内毛の剣を以て。 守屋が頸を討ち落せば。残党も悉く亡びぬ。 その後この処に一宇を建立まし/\て。 四天王の像を安置し給ふに依りて。 即ち天王寺とは申し候。 ワキ「謂を聞けば有難や。さて/\先に聞えつる。 上宮太子と申すことは。いかさま故ある御名やらん。 シテ「げによく御不審候。御父用明天皇は。 太子を御寵愛の余りに。 南殿の上宮に居ゑ置かせ給へば。上宮太子と申すなり。 ワキ「さてまた八耳の皇子と申すことは。 。 シテ「八人の訴をも一時に聞し召されしかば。八耳の皇子とも申すなり。 ツレ「或は豊聡。シテ「又は耳聡。ツレ「その外厩戸。 シテ「聖徳とも。 地「只この太子の御事なり。本より救世の観音の。

無縁の衆生済度せんと。九品の蓮台の。 浄土を出でて日域の。粟散遍地に出生し。 仏法流布の霊地となり。今末の代に至るまで。 誰か恵を受けざらん。/\。 ワキ「なほ/\太子の御出生。 謂委しく御物語り候へ。 地クリ「それ我が朝に其威光を広め。 西天唐土にその名を顕し給ひしは。上宮太子にておはします。 シテサレ「かの欽明天皇三十二。 睦月一日の夜半に御夢相の告あり。地「金色の僧来り給ひ。 后に告げて宣はく。我に救世の願あり。 則ち后の御胎内に。宿るべしとありしかば。 クセ「后答へて宣はく。 妾が胎内は垢穢{くゑ}なり。いかで貴き御体を。 宿し給はんとありしかば。僧重ねて宣はく。 我は垢穢を厭はず。唯望むらくは人間に。 着倒せんが為なり。后辞するに処なし。 兎も角もとありしかば。この僧大きに悦んで。 后の御口に。飛入り給ふと御覧じて。

暁月軒に輝き。松風夢を破つて。 五更の天も明けにけり。帝この由聞し召し。 悦の色をなし給ふ。后必ずしやうらんを。 生み給ふべしとありしかば。 シテ「隙{ひま}ゆく駒を繋がねば。地「大抜提河の池の水。 澄まで濁れる如くにて。十二月と申すには。 南殿の御厩にて。御産平安。 皇子御誕生なり。厩戸の皇子と申すも。 上宮太子の御事。 ロンギ地「げに有難き物語。 御身如何なる人やらん。その名を名乗り給へや。 シテ「今は何をか包むべき。その古は秦の。 河勝といはれしが。時代{ときよ}とて今は又。 大荒の神は我なり。地「そも河勝の御事は。 太子の臣と聞くものを。只今こゝに来現は。 如何なる故にましますぞ。 シテ「愚なりとよ君臣の。礼を重んず心なれば。 常に来り拝すなり。地「暇申して帰るとて。 夕波の難波江の。海人の小舟に飛び乗りて。

風に任せて西の海。 沖に浮ぶと程もなく。播磨の岸に着くと見えて。 かき消すやうに失せにけり。/\。 中入ワキ「さては只今の老人は。 秦の河勝にてまし/\けるぞや。 今宵はこゝに休らひて。猶も奇特を拝まんと。 歌「思ふ心も住吉の。/\。松の隙より妙音の。 月に聞えて光さす。景色ぞ新なりける。/\。 地「不思議や沖の方よりも。/\。 異香薫じ。紫雲たなひくその内に。 光も照り添ふ天乙女。紅の弊を捧げつゝ。 和歌を詠じて舞ひ給ふ。 げに有難き奇瑞かな。 三段の舞地「その時御堂は鳴動して。/\。 扉も朱の玉垣も。輝き渡れる端厳の御姿。 さながら菩薩の影向かや。 後シテ「抑これは。 世尊の御法を日本に弘通せし。上宮太子とは我が事なり。 われ在世の昔定め置きし。

三宝供養の舞楽を奏し。かの稀人を慰めんと。 地「糸竹{しちく}の調さまざまに。未来成仏の曲を奏で。 法性真如の声をなす。法会の舞楽は有難や。 楽ロンギ地「あら面白の音楽や。 そもや舞楽のその功徳。広大無辺なるとかや。 シテ「まづ舞楽とは極楽の。菩薩聖衆の遊にて。 妙音菩薩は十方の。 伎楽を集め舞ひ給ふ。地「さて天竺の音楽は。 シテ「釈尊都卒内院の。万秋樹下に居して。 弥勒灌頂の陀羅尼を。楽にうつして奏しければ。 万秋楽と名づけたり。 地「げに伝へ聞くこの楽を。 シテ「見聞の人は決定。往生都卒と説かれたり。 地「又我が朝に伝へしは。シテ「推古天皇の御時。 百済国の伶人。来りて舞楽管絃の。 秘曲を伝へ尽しければ。地「其時我も悦びて。 普く四方に弘めけり。四天王寺の楽人も。 此時よりぞ始まれり。是特脱の誘引。 往生の梯ひとへに。唯音楽の徳とかや。/\

ワキ次第「影明らけき日の本や。/\。 国民豊なりけり。 詞「抑これは当今に仕へ奉る臣下なり。さても大閤大相国。 本朝を心のまゝに治め三韓を平げ。 剰へ唐土よりも懇款を入るゝにより。 武勇功を終へ還御ならせ給ひ。 山城の国伏見の里に大宮作し給へり。 又この春は吉野の花見として御参詣の御事なれば。只今供養仕り候。 道行「頃は早花の都の春の空。/\。 風ものどけき淀川や。舟さし下す曙の。 月を江口の跡に見て。大江の岸や住吉の。 松の木の間の淡路島。 境の津をも打ち過ぎて。信田の森の梢より。 なほ白雲の立田山。越えて程なく名にし負ふ。 吉野の山に着きにけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に吉野山に着きて候。

処々の旧跡をも尋ねばやと存じ候。 二人一セイ「春は又。花の都となりにけり。 桜に匂ふ吉野山。ツレ「嵐も白き白雲の。 梢を包む高嶺かな。シテサシ「雪漠々花漫々。 たいしゆ花に喩へば花に語あり。 二人「君がため開け始めし天地の。 久しき世々の花の色。浅からざりける匂かな。 下歌「時つ風枝をならさぬ春の日に。 上歌「鶯の声ほころぶる朝もよひ。/\。 木々の梢の色々に。霞み渡れる川面の。 波にも山路近ければ。花のうつらぬ水もなし。/\。 ワキ詞「如何に老人に尋ぬべき事あり。 シテ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 ワキ詞「是は都の人にて御座候ふが。 当山の花初めて御覧ぜられ候。 この辺の名所旧跡。

又千本の桜の謂など聞し召さるべく候ふ間。近づきて言上致し候へ。 シテ詞「さん候都の雲の上人ならば。 清見原の天皇の昔などは知し召されぬ事あらじ。 又千本の桜の事。古人の歌にも。 昔誰かかゝる桜の種を植ゑて。 吉野の花の山となしけんと詠じ給ふなれば。今は誰かは白雲の。 色香をいかで答ふべき。 ワキ「あら面白の答やな。されども神代の昔より。 伝へいひおく謂はなきか。 ツレ「もとよりこゝは天皇を。隠すといへる宮所。 シテ「同じ勝手の神社。ツレ「深き恵は吉野川。 シテ「岩切り通し行く水の。 二人「澄める心は神の代を。移す鏡と御覧じて。 なほ疑はせ給ふなよ。ワキ「げに理を木綿四手の。 かゝる奇特を今聞くも。シテ「さも疎からぬ。 ワキ「人心や。地「花の都の稀人の。/\。 衣の色も唐錦。折から花のかざしにて。 かざり車の下簾。 なほたゞならぬ景色かな。/\。

地クリ「抑この山と申すは。 徳漢土に通ひて道五台山に続ける。 シテ「こゝにましまして。猶もうしろに現せり。 シテ「然れば和歌の言葉にも。 唐土の吉野山と云はれしは。事の喩にいひながら。 又故なきにあらず。クセ「かの五台山はもとよりも。 山のあはひにて。氷雪常に満ち/\て。 夏も寒力甚だし。されば人倫道絶えて。 おのづからなる世の中に。 隠家とこそ聞えけれ。 シテ「大和路や吉野の山の奥はなほ。地「岩のかけ道末細く。 人の往来のあらざれば。松横たはり橋朽ちて。 一鳥鳴かず山更に。幽かなる処から。 天降ります神心。賢き神代を仰がんの。 誓の末の山高み。今を盛の花の蔭。都の人の御車。 寄せ来る道のすなほなる。御心ぞ有難き。 御心の程ぞ有難き。 ロンギ地「かの老翁の姿をば。/\。 山のかせきと見しものを。心の花を現して。

よしある今の物語。 その名如何なる人やらん。シテ「今は何をかつゝみ井の。 此瑞垣の内に住む。神とは云はじ千早振る。 宮つこと御覧ぜよ。 地「そもや山路の奥ながら。隠れて跡を垂れ給ふ。 神体こゝに現じつゝ。言葉をかはす不思議さよ。 シテ「げにや天下の政。 例少なき御代なれば。神も守を添ふべしと。 地「云ひしもあらず山陰に。翁さびたる狩衣。 日も夕暮の花曇の。雲にまぎれて登りけり。 高嶺の雲に登りけり。 ワキ歌「不思議や花の木の間より。/\。 咲く花ながら中空に。花降り異香薫じつゝ。 。 音楽聞え吹く風に仮寝の夢を覚ますなり。/\。 天女「あら面白や面白や。 誰かいつし霜葉は。二月の花よりも紅なりとは。 車をとどめてそゞろに愛せば。 色こそ花の木蔭なれ。地「天つ乙女の天降り。/\。

五節の舞の羽袖を返せば。 花の色香は満ち満ちたり。舞「。地「糸竹呂律の声々に。/\。 妙なる舞楽の中に又。 不思議や花の木蔭より。金色の光輝き渡るは。 蔵王権現の来現かや。 。 後シテ「人老いて花をかんざしにして人恥ぢす。花は恥づべし老人の。 頭にのぼる事を。花盛九重の雲の上。 大位の光駕に月卿雲客悉く。袂を連ねて花やかなり。 地「この折節を窺ひ給ひ。/\。 蔵王権現も形を現し。運ぶ歩もみつきなれや。 もとより吉野は千本の桜。 中に色よき一枝を。 君に捧ぐるまのあたりなる奇特かな。シテ「珍しの遊学や。/\。 価はあらじ春の夜の。花に清香月は霞める。 曙の空かけて。乙女は雲路に攀れば。 蔵王権現は吉野の宮に留まり給ひ。 都に還御の道を守り。都に還御の道を守りの。 神徳こそめでたけれ

ワキ次第「春を心のしるべにて。/\。 うからぬ旅に出でうよ。 詞「かやうに候ふ者は諸国一見の者にて候。我此程は都に上り。 洛陽の寺社に参りて候。 又是より南都七堂に参らばやと存じ候。 道行「都より又旅立ちて井手の里。/\。 けふ三日の原泉川。河風霞む春の空。 影も長閑にめぐる日の。南の都こゝなれや。 はや奈良坂に着きにけり。/\。 シテ次第「苦しき老の坂なれど。/\。越ゆるや程なかるらん。 サシ「花は雨の過ぐるによつて紅正に老いたり。 柳は風に欺かれて。緑漸く垂れり。 寒林に骨を打つ。霊鬼泣く/\前生の業を恨み。林野に花を供ずる天人。

返す%\もきしやうのせんを喜ぶなるは。 只順逆の因果なるべし。 人間万事塞翁が馬何か法ならぬ。げに隔なき世の習。 歌「老の鶯音もふりて。/\。 身にしむ色の消えかへり。春の日の影ともに。 遅き歩を辿り来て。通ひ馴れたる奈良阪や。 花の木蔭に着きにけり。/\。 ワキ詞「いかにこれなる翁に尋ね申すべき事の候。 シテ「何事にて候ふぞ。 ワキ「是は此所始めて一見の者にて候ふが。 仏閣の有様目を驚かしてこそ候へ。シテ「実に/\我等は朝暮目なるゝ身にだにも。 この奈良坂に上りて見れば。目を驚かすばかりなり。 殊更初めての御事ならば。

さこそと思ひやられて候。見えつゞきたる仏閣御尋ね候へ。 あら/\教へ申さう。 ワキ「先是より東に当り。大きなる御寺の見えて候ふは。 承り及びたる大仏殿候ふか。シテ「さん候。 あれこそ三国無双の大伽藍。 東大寺大仏候ふよ。シテ「又是より西に当り。 塔婆の見えたる御寺をば。如何なる寺と申し候ふぞ。 ワキ「あれは遍昭が歌に。 浅緑糸よりかけて白露の。玉にもぬける春の柳と。 西の大寺の柳を詠めると。 この事書にも記したる。西大寺にて候。 ワキ「衣ほすなる佐保の川の。流につゞく寺は如何に。 シテ「あ。 れはそのかみ唐の竜光法師が作り置きし。十一面の二仏像。 法華寺と云へる尼寺なり。ワキ「さて又南にあたりつゝ。 見えたる寺の名は如何に。 法相流布の興福寺。山科寺とも申すなり。 ワキ「さてその末に続きつゝ。見えたる寺の名は如何に。 シテ「あれは春日の御綸旨の使に。

くだり給ひし在中将の御建立。 勤の声の不退寺よ。ワキ「さてなほ遠く見えたるは。 シテ「今日も命は知らねども。 地「飛鳥の寺の夜の鐘。/\。鬼ぞ撞{大漢和:012586。てへん+堂}くなる恐ろしや。 さても音に聞きし鐘の音は。是ぞと思ひ。 入相もすさましや。げにや古に。 なりにし奈良の都路も。春に帰りて花ざかり。 八重桜木は面白や。/\。 ワキ詞「さらば御暇申さうずるにて候。 シテ「暫くこれなるしるしに向ひ。 回向をなして御通り候へ。 ワキ「回向の事は安き間の事さりながら。誰と志し候ふべき。 シテ「重衡を御回向候へ。 ワキ「重衡は此処にて果て給ひて候ふか。 シテ「さても重衡は。一の谷にて生捕られ。 関東下向とありしが。南都の訴訟強きによつて。 あの木津川にて斬られ給ふ。 さしも栄花の門を開き。一家累葉を連ねし身なれど。 一度は栄え一度は衰ふる事。

まのあたりなる有様なり。地「朝に紅顔ありて。 世路に楽しむといへども。夕には白骨となつて。 郊原に朽ち果てし。木津川の波と消えて。 あはれなる跡なれや。 地「さては平の重衡の。その名を聞くも痛はしや。 御跡いざや弔はん。 シテ「跡をとふ人しなければ春草の。かげ恥かしや露の身の。 消えかへり亡き跡の。姿見ゆるぞ悲しき。 地「げにや姿の生ける身は。 いつの時をぞ春の木の。シテ「その重衡の幽霊は。 地「魂は去れども。シテ「白髪の。 地「霜の翁と御覧ずるは。我が亡心の来れりと。 夕の月の影さすや。三笠山はあれぞかし。 これもまた笠卒都婆の。 花の蔭に隠れけり。/\。中入「。 ワキ歌「夢のごとくに仮枕。/\。かたぶく月の夜もすがら。 かの重衡の御跡を。 逆縁ながら弔ふとかや。/\。 後シテ「故郷と。なりにし奈良の都路も。

春を忘れず花は咲きけり。 それは天子の御詠なり。我はもとより数ならぬ。 蓑代衣春来ても。豊ならざる修羅道の責。 あら閻浮恋しや。一セイ「奈良坂の。 この手に執るや梓弓。地「八十氏人の数々に。 シテ「名をこそ流せ矢竹の人の。 地「心の雲も晴れゆく月の。夜声の御法の有難さよ。 シテ「さても重衡は。一の谷にて生捕られ。 京鎌倉を渡されしに。 南都の訴訟強きに依つて。 あの木津川にて斬られんとせしに。近藤左衛門の尉知時と云ひし者。 重衡最期を見んとて。 貴賎立ち囲みし中を掻き分け/\来り。如何に重衡。 知時こそ参りて候へと申せば。 日頃のなじみなれば来るは嬉しく。 願はくは最期の際に。仏一体拝まんとありしかば。 安き間の事とて。 あたりに有りし木仏を一体迎へ。河原の砂に据ゑ置き。 見れば幸にも阿弥陀にてぞおはしける。

その時知時が着たりける。直垂の袖のくゝりを解き。 仏の御手にかけ。中将に控へさせ奉り。 重衡より組み渡りぬれば。 地「合掌し弥陀仏に向ひて。懇に申させ給ひけるは。 クセ「伝へ聞く調達が。三逆を作りけん。 八万蔵の聖経。亡ぼしたりし悪心も。 天王如来の記別にて。 罪業まこと深しといへども。聖経値遇の順縁にて。 却つて得道の。因となりにけるとかや。今重衡が。 逆罪を犯す事。全く愚意の為すに無し。 世に随へる理なり。 生を受くる者誰とても。いかでか父の。命をば背かんや。 心中仏陀の。照覧もあるべしや。只三宝の。 教戒を受くる心なり。シテ「一念弥陀仏。 則滅無量罪と聞く時は。 只今唱ふる声の内。涼しき道に入る月の。光は西の空に。 到れども魄霊は。 なほ木の下に残り居て。こゝぞ閻浮の奈良坂に。 帰り来にけり三笠の森の。花の台はこれなれや。

重衡が妄執を助け給へや。 シテ「あら恨めしや。たま/\閻浮の夜遊に帰り。心を澄ます所に。 又嗔恚の起るぞや。あれ御覧ぜよ旅人よ。ワキ「げに/\見れば東方より。 灯火あまた数見えたり。あれは如何なる灯火やらん。 シテ「あれこそ例の名にし負ふ。 春日の野守の飛火なり。ワキ「げに飛火とは聞き及びたり。 何によりこの飛火やらん。 シテ「昔他国の軍起り。 多くの軍兵あの春日野に籠り。夜な/\ともす篝火の。 松明の火の働くが飛ぶやうなればとて。 飛火野とこゝを名づけたり。

又修羅道の折を得て。あの春日野にともすぞや。 あれ追つ払へ春日野の。 地「野守は無きか出でて見よ。/\。今いく程ぞ修羅の夜軍。 明けなば浅間山。燃え焦るゝ嗔恚の焔。 焼狩と見えつるは。 シテ「武蔵野を焼きし飛火のかげ。地「野守の水を照らしゝは。 シテ「鏡にうつる胸の焔。 刃のまつさきを磨きしは。地「すは一刀の剣の光。 シテ「刺し違へ切り払ふ。地「焔は剣の雨と降つて。 春日野の草薙や。 叢雲の剣もかくやらんと。見えて飛火の数々に。 山河を動かす修羅道の。/\。苦の数は重衡が。 嗔恚を助けてたび給へ。/\

ワキ次第「あまの関路も鳥がなく。/\。 あづまの旅に急がん。 詞「これは都くわりん院より出でたる僧にて候。

我未だ東を見ず候ふ程に。 此春思ひ立ち東国行脚と志して候。道行「法の道教の声も様々の。/\。 心ぞしるべ雲を分け。霞に交る山なみの。

うらゝに行くや春の日の。 衣川にも着きにけり。/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 奥州に着きて候。此所に暫く休らひて。 心静かに一見せばやと思ひ候。シテ詞「なう/\御僧に申すべき事の候。御姿を見奉れば。 都の人と見え給ひて候。 若しくわりん院より出で給ひて候ふか。ワキ「あら不思議や。 くわりん院より出でたるかとは。 何とて知し召されて候ふぞ。 シテ「げに御不審は御理。昔安倍の貞任と云つし者は。 この衣川にて討たれぬ。 既にいくさ破れし時。 討手の大将歌の下の句を詠みかけ給へば。貞任東の夷ながら。 さすが心の有りけるか。上の句をつぎ申しゝかば。 大将御感あつて。 今の情に此関をば許すぞと仰有りしかば。其時貞任。 命は義によつて軽き故。貞任終に亡びしかど。 永代弔はれ申す事。余りに/\忝なさに。 か様に申し候ふなり。

ワキ「実に/\貞任の菩提を。くわりん院に於て永代弔はるゝ事。 今に絶えせず。 然れども東始めて行脚の者を。くわりん院の住侶かとは。 何と云ひたる事やらん。 シテ「其御不審は御理なれどもさりながら。 山川万里を隔つれども。御弔の直道は。 刹那に通ずるこの身なり。ワキ「そも弔の。通ずる身とは。 さてはおことは貞任の。 その亡心にてましますか。シテ「あう亡心とも魄霊とも。 いさしら雪の消えし跡に。 ワキ「幻ながら現れて。シテ「言葉をかはすは昔の人。 ワキ「我は旅人の身にしあれば。 不思議や互に他生の縁にて。シテ「一樹の蔭や。 ワキ「一河の流を。シテ「汲みて知るかや。 ワキ「御姿も。地「墨染の色にぞ移る衣川。 /\。夕波立ちてうたかたの。 あはれ昔の跡ならば。などかは弔はせ給はざる。 ロンギ地「偖は古の。人の名残の跡ならば。 其名を名宣り給へや。

シテ「古き名を云はんとすれば憚の。有明になる月なれや。 入る方を御覧じて人に問はせ給へや。 地「何とか問はん旅人の。 まだ馴れもせで陸奥の。シテ「忍ぶ文字摺誰ぞとは。 地「いかでか知らん。シテ「この上は。 地「われ貞任が魄霊ぞと。云ひ捨てゝ夕月夜。 覚束なくも衣川の波に立ち帰りて。 見え隠れにぞなりにける。/\。 ワキ待謡「衣川袖の苔をもかたしきて。/\。 頃しもなれや春の夜の。月の影も朧なる。 この川隈の波おろし。更け行くまゝに宿して。 御法の声も川音も。澄み渡りたるけしきかな。 /\。後シテ「一張の弓の勢。 半月胸の間にかゝり。さんぜきの剣の影は秋の霜。 腰のまはりに横はり。 昔にかへる衣川の河風も。音しき波のよるの空。 地「閻浮の秋や忍ぶ山。シテ「忍びて通ふ道もがな。 地「人の心の奥に来て。 かく弔の有難さよ。

ワキ「偖は安倍の貞任にてましますかや。 なほも昔の物語を懺悔に語り給ふべし。 シテ「偖も安倍の貞任を誅罰せられし御事。身の上なれどもさりとては。 天下泰平の始とかや。 東夷西戎南蛮北狄までも。四海の激浪治まつて。 万歳の今に至るまで。道の道たる代々とかや。 シテ「然れども今かりそめの旅宿の枕に。 昔の跡を現さんと。夢物語申すなり。 クセ「さる程にいくさのをのこども。 鎮守府を打ち立つて。間の城に赴けば。まだ月残る曙に。 雪はかたひらに降りしきて。 せいばいばえみだれたる。矢並をつくろふに及ばず。 皆白妙の旗の足。白雲にたぐへて。 万天に靡くばかりなり。 かくて日数も移り来て。衣川の城廓に。 波もろともに押し寄せて。鬨の声矢叫。人馬の噪ぎ轡の。 おどろ/\しき有様は。 摩醯首羅道もかくやと思ひ知られたり。シテ「魚鱗鶴翼の。 翼の羽風声立てゝ。

我も/\と責め戦ふ。剣を飛ばせ。 矛先をさゝへて数もしらま弓。射る矢は雨の如くなれば。 楯をかづきて兜とし。楯を浮かべて筏として。 乗り懸かりかづきあげ。 一命を捨て責めければ。一陣破れて残党も。 またからで衣の城は既に崩れ破れぬ。 地「かゝりければ城の内の兵。皆後より散乱して。 我も/\と引き立ちたり。 シテ詞「我も力なく人なみに引かれ。魚鱗より河原より。 河原表に打出でたりしに。後を見れば。 大将の御声と覚しくて。 いかに貞任正なきものかな。物云はん/\と。 高声に呼ばはりかくれば。高声の御声にて。

いかに貞任もの云はん。 衣の関はほころびにけり。/\と。 歌の下の句を詠みかけ給へば。シテ「貞任轡を引き返し。 兜をふりあふのけて。上の句をついで云く。 年頃は楯を揃へて居りしかど。 衣の関はほころびにけり。 地「大将御感の余りにや。汝は違勅の輩なれば。 終には遁すまじけれども。 今の情に此矢一つを宥すぞと宣ひて。はげたる御矢をはづし給へば。 シテ「貞任畏り。佩剣を脱いて君に捧げ。 只今の御芳志なりと馬上ながら。 合掌して又引き返し行く雲の。 衣の関も旅寝の夢も。/\。共に破れてあけにけり

次第「露と消えにし夏草の。/\。 茂みが原を尋ねん。 ツレ「これは大磯の虎と申す女にて候。

さても曽我の祐成過ぎにし五月の末つ方に。 富士の裾野にて討たれ給ひぬ。妹背の中とてなどやらん。 唯かりそめの袖の移香。なれし涙も晴れやらぬ。

雨も程経る日数経て。七日々々の弔も。 名残程なくはやなりぬ。 せめては彼の兄弟の。果てにし跡を尋ね行きて。 一返の念仏をも申さんと。今日思ひ立つ旅衣。 袖しをれ行く朝露に。 野を分け山をこゆるぎの。急ぐ心ぞあはれなる。 歌「別れし空は五月雨の。別れし空は五月雨の。 古屋の軒の忍草。かれ%\なりし契の。 末はそことも白雲の。裾野の狩くらの。 跡はいづくの程やらん。/\。 ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。 是は早富士の裾野井手の里にてありげに候。 又あれより狩人の来り候。暫く御待あつて。 所のやうをも御尋ねあらうずるにて候。 シテサシ「夕日西に絶え残つて。鳥の声幽かに。 狩場の末もほのかなる。 山は富士浦はおりたつ田子の海。 一声「浮島が払ひかねたる草の露。地「しげみが原の狩衣。 シテ「袂冷しき気色かな。

ワキ詞「いかにこれなる狩人。 富士の裾野井手の里とはいづくを申し候ふぞ。 シテ詞「不思議やなさして人をも伴ひ給はで。 此山中に分け入り給ふは。 いかさま曽我の祐成に情深かりし。 大磯の虎御前にてましますな。 ツレ「恥かしや何とて知し召したるらん。此有様にてそれと名宣らば。 この世に亡き人までの。 名も如何ならんつゝましや。シテ「いや包めども。 袖にたまらぬ白玉は。人を見ぬ目の涙のおもて。 ツレ「袖のけしきも打ち煙る。 シテ「よそめ知らるゝ富士の嶺の。 ツレ「思内にあれば。地「色外に顕れて。/\。 隠れなかりし祐成の。その妻衣と菊の名の。 曽我の人々の。御跡ならば痛はしや。 此方へ入らせ給へや。御道しるべ申さん。 。 シテ詞「これこそ富士の裾野井手の里にて候へ。又是なる草の少し見え候ふこそ。 。

祐成兄弟の果て給ひたるしるしの塚にて候へ。よく/\御弔ひ候へ。 ツレ「過ぎにし五月の頃なれば。 蓬薄の少々生ひて。いたくも繁らぬ所なれば。 疑ふべきにもあらず。 我も同じ苔の下に埋れなば。今更かゝる思はせじ。 火の中水の底なりとも。 この世の中にましまさば。などか言葉をかはさゞらん。 地「黄泉いかなる所ぞや。 一たび行きて帰らざる。中有の別にたへこがれ。 悲しび給ふ有様は。よその見る目も痛はしや。 げにや胸は富士。袖は清見が関なれや。 烟も浪も立たぬ日も。なしと詠みしも理や。 かくて夕陽たえ%\の。雪のけ富士颪の。 音も早くれはとり。 あやしき人と見えつるが。其まゝ軈て佑成の。 墓所に立ち寄り叢の。露消え/\となり果てゝ。 ゆくへも見えずなりにけり。/\。中入「。 ツレ詞「不思議や今の狩人の。 かき消すやうになりたるぞや。

歌「これにつけてもなつかしや。/\。今宵はこゝに草莚。 思を述ぶる面影の。添寝の枕片敷きて。 夢の契を待たうよ。/\。 後シテ「松蔭の涼しき道はあるなるに。 修羅の巷はもの憂かりけり。いかに虎御前。 祐成こそ参りて候へ。ツレ「不思議やな草の枕も露の間の。 まどろむ隙もなきうちに。 祐成の来り給ふぞや。あら不思議の事や。 シテ「志の至る時は山川万里も遠からず。 ましてやここは亡き跡の。 ツレ「うき身の露の置き所の。シテ「草の野原の夜のけしき。 ツレ「風時々の夜の雨に。 シテ「神さへ鳴りてけうとけれども。 ツレ「それにはよらじ妹背の契の。シテ「たま/\逢ふ夜に。 ツレ「鳴る神も。地「思ふ中をばよも避けじ。 たとひ野の末山の奥の。雲の果なりとても。 君と住まば唐土の。虎臥す野辺はなほ。 草の枕も懐しや。いつまでも/\。 長かれかしと思ふ夜の。明け易き頃ぞ恨なる。

地クリ「げにや輪廻の妄執の。 業に拙き恋慕の思。涙に暮るゝ暗路のうちに。 夢物語申すなり。 シテサシ「昔在原の業平この東路に下り。地「時知らぬ雪を。 かのこまだらと詠めける。夏野の鹿を取らんとて。 富士の裾野に御出あり。 シテ「在鎌倉の輩は申すに及ばず。地「遠国遠里の人々まで。 雲霞の如く棚引きて。 浮島が原の草も木も。靡き洩れたる方もなし。 クセ「我等野に伏し山に隠れ。敵の通路よそながら。 見る時もあれば思ひかくれども。 猛勢なれば叶はずして。過し/\て年月を。 故郷の曽我に帰りては。唯兄弟。 泣くより外の事ぞなき。 シテ詞「かくて七日の狩くらも。名残の日にもなりしかば。 あつぱれ敵の祐経に。逢はゞやと便隙を待つ所に。 男鹿二つ女鹿一つ。 三頭連れて落ち来る。射手も三騎其中に。大柏の水干に。 地「秋二毛の行騰に。烏黒なる馬に乗り。

花やかなるは誰やらんと。 見れば敵の祐経なり。嬉しき心もそゞろぎて。 鞭に鐙を揉み合はせ。物あひ近くなりしかば。 弓打ち上げて引かんとするに。 不運の至にや。伏木に馬を乗りかけて。 屏風をかへしてかつぱと転べば。 弓手に下り立ちて。手綱にすがり馬を引つ立てゝ。 又打ち乗りておくれを見れば。 敵はしがきに隔たりて。まぶしの射手に馳せ加はつて。 物あひ遥にのびたりけり。 弓折れ矢尽きてせん方もなく。日も既に呉竹の。 その夜の夜半ばかりにや。 井手の屋形に忍び入りて。やす/\と敵を討ち終る。 本望遂げし身の。其まゝ土中の屍となつて。 裾野の草に埋もれぬれども。 名をば富士の嶺の。雲井に揚げて。人の誉は大磯の。 虎のうそぶく松の風。 虎のうそぶく松風や。富士颪に夢は覚めてぞ明けにける

次第「急ぐ行方は隙の駒。/\。 雲井に駈ける心かな。 シテ詞「これは羽柴筑前守秀吉なり。さても我が君征夷将軍信長公。 西国追伐の事其仰を蒙り。 天正十年の春より。備中表敵軍対陣候ふ処に。 明智日向守逆心を構へ。 将軍を討ち奉る由注進候ふ間。急ぎ光秀が頭を刎ねうずるにて候。 サシ「頃は水無月初つかた。 多勢の敵を従へつゝ。既に打ち立つ雲水の。 流れて早き年の矢の。勇む心に任せ行く。 跡はるばるの備中や。備前表をかへり見て。 歌「五更の天も明石潟。/\。 須磨の浦風立ち迷ふ。雲より落つる布引の。 滝の流も遥なる。芦屋の灘も打ち過ぎて。 難波入江のみをはやみ。 芥川にも着きにけり。/\。

シテ詞「暫く此処にて諸卒を揃へ。 敵の中へ切つて入り。 彼の逆徒を討つて将軍の供養に供へばやと存じ候。如何に誰かある。 トモ「御前に候。 シテ「皆々近う寄つて物語を聞き候へ。地クリ「抑人間界と申すは。 佳月光を顕せば。狂雲之を妬み。 王者明かならんとすれば。又讒臣之を掩ふとかや。 シテサシ「さて光秀が行跡といつぱ。 外には柔和忍辱の姿。地「内には逆心無道の。 心の奥は白真弓。シテ「もとより君の身を任せ。 地「やみ/\と討たれ給ふ。 御運の程こそ悲しけれ。 クセ「されば秀吉は。名におふ城の高松に。 水せきかけて攻めて寄る。 波に沈めてうたかたの。あはれを掛けて後詰の。 その猛勢に取り向ひ。攻伐既に半なるに。

将軍討たれ給ふぞと。 注進密かにありしより肝魂も消え返り。 涙に咽ぶばかりなり。心弱くて叶はじと。いよ/\陣を取り寄せ。味方の胸を静めんと。 一首の歌をかくばかり。シテ「両川の。 一つになりて落ち行けば。 地「もり高松も藻屑なりけりと。詠む言の葉に違はず。 城主腹を切りぬれば。その援兵も退けて。 文武の道を兼ね備へ。涙の屯を引き払ひ。 夜を日についで登りつゝ。敵を討たん志。 感ぜぬ人はよもあらじ。 シテ「然るに楚国の懐王の。項羽に討たれ給ふ時。 詞「漢の高祖は之を聞き。烏江の流打ち渡り。 主君の敵を打ち給ひ。四海を静め給ふ事。 これ天命にあらずや。それは七十余度の戦。 今は一戦にて本懐を。 達すべきものゝふの。やたけ心ぞ恐ろしき。 シテ「時刻移して叶ふまじ。 日影を見れば斜なる。雲の旗手の天つ空。

水なき月の水無瀬川。山もとつたひ山崎の。 宿の東に打ち出し。敵陣近く寄せて行く。 ワキ「抑これは。 明智日向守光秀とは我が事なり。詞「某一たび天下に心を掛け。 名を後代に留めんがため。 将軍を打ち奉つて候。 然る処に羽柴筑前守馳せ向ひ候ふ間。一戦に及び勝負を決すべしと。 地「言ひもあへぬに寄手より。/\。 声々鬨を作りかけ。刃を揃へてかゝりけり。 ワキ「其時光秀は。地「其時光秀は。 先勢早く崩るれば。叶ふまじとや思ひけん。 まづ勝竜寺に逃げ籠り。 日もくれたけの夜に入りて。物あひ見えずなり果てゝ。 敵の人数に打ちまぎれ。 淀鳥羽さして落ち行くを。秀吉追ひ掛け給ひつゝ。 何くまでかは遁すべきと。 甲の真向打ち割り給へば。足弱車の廻る因果は。 是なりけりと。思ふ敵に白波の。 寄りては討ち返りては討ち。

たゝみ重ねて百たび千たび打つ太刀に。今ぞ恨も晴れてゆく。 天下に名をも賜はる身の。忠勤こゝに顕るゝ。

威光の程こそゆゝしけれ

。 ワキ「これは尾張の国末もりより出でたる僧にて候。我未だ北国を見ず候ふ程に。 此度越路に赴き候。 道行「行末はまだ越え馴れぬ不破の関。/\。 関の藤川打ち渡り。宿はと問へば木の本の。 草の枕を賎が嶽。跡に心はかへる山。 浮身の果は白露の。玉江の芦を遥々と。 北の庄にも着きにけり。/\。 詞「これは早北の庄に着きて候。 先年この処にて打死し給ひし柴田修理亮勝家のゆかりの者にて候へば。 処の人を相待ち。一本ゆゑの草の原の。 道しるべをも頼まうずるにて候。 シテ一セイ「胡蝶夢中の春も過ぎ。 杜鵑枝上の夏は来て。

サシ「時鳥鳴く声きけば別れにし。故郷さへぞ恋草の。 茂の中の玉鉾の。道絶え%\に成り果てゝ。 あはれ跡とふ人もなし。人知れず。 独袂を行く水の。地「かすかなる。 野中の竹の一むらの。/\。里離れなる遠方に。 高嶺の雲は晴れながら。猶村雨の音にたゞ。 まがふや風の山松の。 木の間に残る夕日かな。/\。 ワキ詞「如何に老翁。 このあたりにて柴田。 勝家の果て給ひし旧跡を教へて給はり候へ。シテ詞「勝家の空しくなりし処は。 あれに見えたる城郭なりしを。 死灰を集めこの野に移し。旧跡となして候。 ワキ詞「その古塚のしるべして給はり候へ。

シテ「此方へ御入り候へ。これ勝家の古墳なり。 さて/\かやうに跡とひ給ふ。 御僧の生国こそは聞かまほしけれ。 ワキ「もとより出家の身。一所不住の事なれば。 旧里と云はん方もなし。 さりながら世に亡き人のゆかりの末の。 末もりの昔を思ひ出づるにも。苔の衣を濡らしけり。 シテ「程なう日の暮れて候。此方へ御入り候へ。 ワキ「御憐愍ありがたう候。 さらば御供申さうずるにて候。 シテ「いとゞだに賎が伏屋のいぶせきに。蚊遣の煙立ち添へば。 暫しも宿り給ふべきか。 ワキ詞「先年柴田果て給ひし。最期の有様知らせ給はゞ。 語つて御聞かせ候へ。 シテ詞「委しくは知らず候へども。語つて聞かせ申さうずるにて候。 地クリ「さる程に柴田勝家は。 信長公の幕下に仕へ奉り。 軍旅に於て切耳を献ずる事はあまたゝび。誉を云ふに比類なし。 シテサシ「されば羽柴筑前守秀吉は。

花の都を敷島に。望のありと白糸の。 とけし心を引きかへて。彼一人を滅ぼさば。 我を欺く人あらじと。俄に謀叛を企てゝ。 近江の国に切つて出で。 只一戦に打ち負けて。又この城に立て籠る。 さて我が妻を近づけて。運命既に尽き果てゝ。 この暁を限りなり。よし/\御身には。 なす罪科もあらばこそ。敵のゆかりを頼みつゝ。 夜半にまぎれて落ち給ひ。 暫しこの世に存へて。亡き跡とひてたび給へ。 対の御方は聞き給ひ。一樹の蔭の宿さへ。 他生の縁と聞くものを。 シテ「況んやもろともに。地「比目の枕翡翠の衾。 重ねし夜々の私語。尽きせじとこそ契りしに。 思も寄らぬ只今の。言葉の末を恨みつゝ。 同じ心に自害せし。憂き身の果ぞあはれなる。 ロンギ地「げに老翁の物語。 私語まで伝へ知る。その身如何なる人やらん。 シテ「さて御僧は勝家が。

ゆかりの末と聞くなれば。ふりにし里のゆかしさに。 この妄執のあらはれて。御物語申すなり。 ワキ「不思議やさては勝家が。 その面影に立ち向ひ。言葉をかはす嬉しさよ。 シテ「頃は卯月の末つ方。空しくなりし年月も。 けふに廻り来にけり。 地「五月待つ花橘の香をかげば。昔の人の袖に只。 名残は猶も有明の。月のかげ野の草がくれに。 かき消すやうに失せにけり。/\。 ワキ歌「夏の夜の月も傾く山の端の。/\。 風もの凄き曙に。松の下道分け入りて。 亡き跡いざや弔らはん。/\。 南無幽霊輪廻出離悪念掃除。 後シテ「蒼顔白髪五更の月。 黄葉紅花一夢の風。輪廻の妄念晴らしつゝ。 涼しき道に行末の。心に残る塵もなし。 ワキ「不思議やななべて茂れる草の原に。 蛍のともす火影より。さもいかめしき老武者の。 甲冑を帯し色めく姿の見え給ふ。

もし勝家にてましますか。 シテ詞「我勝家が幽霊なるが。浮世の妄執晴れながら。 御弔の報恩に。二度まみえ申すなり。 ワキ「げにや輪廻を放れても。 悟了は未悟に同じければ。あはれ勝家最期の体。 只今学びて見せ給へ。 シテ「さても我北国勢を引卒し。江州表に取り出でて。 敵の陣も乱れ入る。先手のつはもの討ち取りて。 けふの軍に勝家が。 その名を揚げて居たりしに。地「秀吉自ら馳せ向へば。/\。 数万の味方は切り立てられて。 力およばず梓弓。もとの住家に立ち帰る。 無念限はなかりけり。 シテ「その儘敵は押し寄せて。 前には狼煙天をかすめ。後に鯨波地をひたす。 四面に楚歌の声々なり。 とても遁れぬ物ゆゑに。切つて出でんと太刀抜き持つて。 扉を開けば。矢先を揃へて勝家が。 鎧の胸板いかり猪の。

臥戸をかへて天守にあがり火を掛けて。腹十文字に切り破り。 焔に飛び入り果てし身の。

御法の功徳に夜の月影。暗からぬ修羅道の。 影くらからぬ修羅道の。苦を遁るゝこそ有難けれ

。 ワキ詞「これは五山の傍に住居する僧にて候。我小学の年よりも。 内典外典に心をかけ候ひしも。 近年撥草参玄の為に西国行脚仕り候。又当年は東国へと志し候。 サシ「花洛を出でて逢坂の。 山の東に鳰の海。胆吹颪に荒れ残る。 不破の関屋も跡に又。鳴海の浦を打ち過ぎて。 三河の国の八橋や。上歌「なほ行末は遠江。/\。 駿河の富士を北に見て。 伊豆の三島を伏し拝み。足柄箱根越え暮れて。 小田原近くたどりけり。/\。 詞「急ぐ道とは云ひながら。 大山を越え候へば早暮に及び候。人に宿を借るまでもなし。 これなる辻堂に一夜を明さうずるにて候。

幽思極まらず。深巷に人なき処。 愁腸絶えんとす。閑窓に月ある時。 稀に知る夜半も悲しき松風を。絶えずや苔の下道に。 聞くらん人の古を。思ひやるこそ哀なれ。 。シテ詞「なう/\御僧は何くの人にてましませば。 程近からん人家をば尋ね給はで。この草深き松蔭に。 露の宿をしめ給ふぞ。ワキ詞「これは捨身の事なれば。 樹。 下石上の住居こそおのづからなる座禅の床なれ。何かこの身に厭ふべき。 シテ詞「げにも捨身の御僧の。心の中こそ奇特なれ。 さも愚なる身の上に。真如実相参得の。 教を示し給へとよ。 ワキ「もとより心外無別法。満目青山これこそは。

教の外の伝なれ。シテ「いざさらば立ち寄りて。 ワキ「なほ参学を。シテ「極めんと。 地「岩がねの苔の緑を片敷の。/\。 袖の白露こぼれそひ。一むら薄ほの%\と。 月落ちかゝる山の端に。秋風吹きて虫の音を。 誘ふは荻の上葉かな。/\。 ワキ詞「如何に尉殿。 この国は北条家年久しく守護し給ひし処と承り及びて候。 北。 条の氏政父子果て給ひし由来を語つて御聞かせ候へ。シテ「心得申し候。 懇に御物語申さうずるにて候。 地クリ「さても当家は先祖より。東の方を残らずも。 従へ来つつあたりには。恐をなさぬ人もなく。 心にまかせ居たりしに。 シテサシ「秀吉公は日本の。世の政あづかりて。 靡かぬ草木もなかりけり。シテ「氏政も此度は。 都に上り礼譲を。なし申さんと定めしを。 家中の者に云ひなされ。又上洛を違変する。 クセ「然れば都には。

この由聞し召されつつ。相国大に逆鱗の。書状を下し氏政が。 父子の頭を刎ねん事。 踵を廻らすべからずと。書きとゞめけん言の葉に。 無念を起し反逆の。色を現し韮山や。 なほ山中を固とし。足柄箱根の切所には。 乱杭逆茂木柵を築き。たとひ大軍寄するとも。 ゆめ/\叶ふべからずと。 思ひ定めし半天の。雲を嵐の吹く如く。 敵の人数に襲はれて。はかなくなりし氏政が。 運の極まる処なり。シテ「つら/\之を案ずるに。 地「昔周の代息侯は。鄭の荘公に。 約を違ヘて戦ひしに。息の軍は破れつゝ。 息侯滅びける事は。随ふべきに随はず。 力も絶えて偽の。報とこそは聞えけれ。 北条もその如く。正理に背く天命は。 後にぞ思ひ知られたる。 ロンギ地「げに老人の夜もすがら。/\。古事がたり聞きしより。 故ある人と覚えたり。 その名現し給へかし。

シテ「我はもとより埋木の朽ち果てたりし身なれども。夢にまみえて御僧の。 教を頼むばかりなり。 地「身は朽ち果てゝ跡にしも。名は残りつゝ武士の。 シテ「八十氏人の氏政が。地「幽霊なれや。 シテ「今こゝに。地「忍ぶとすれど名取川。 現れ渡る埋木の。はかなき水のあはれ世の。 面影消えて失せにけり。/\。 ワキ歌「麻衣草の苔路の露の世に。/\。 不測不説の理も。妙なる文字の跡見する。 水鳥樹林自ら。声法事をやなしぬらん。/\。 後シテ「周孔盗跖塵の世の。 迷悟善悪もろともに如夢幻泡影如露亦如電。 応作如是観。詞「さて御僧の示し給ふ。 禅法なほも参得の志にて再来を。 いかでか咎め給ふべき。 ワキ「さては氏政の幽霊夢幻に来れるかや。さらば過ぎ来し秋の夜の。 最期を現し見せ給へ。 。 シテ詞「お僧の仰に背かじと語るにつけて無念さの。数も限もなかりけり。

既に官軍寄せくれば。かの山中の固には。 我が身に変らぬ一類の。 兵選び入れ置きて。こゝを先途と待ちかけしに。 地「近江の国の中納言秀次の卿。 此度の先陣を望み。険難の谷峯いはず攻め登れば。 味方の兵防矢射る矢下にかゝりて。 堀をば飛び越えいかきはね越え。 秀次真先かけ給ひ。向ふ者をば切つて捨て。 逃ぐるを追掛け残さず亡ぼし給ひけり。 相国城に入り給ひ。 如何に秀次いしくも励ます戦功かな。この軍忠の恩恵に。 世の政譲らんと。固く契約ましませば。 秀次の卿拝請し。名をも雲井に揚げ給ふ。 その時相国は。勢に依つて破れとの。 その先言に任せつゝ今度は相国先掛にて。 この小田原に攻め寄する。 切つて出でんと思ひしに。同名なりし陸奥守。 諫めて曰くこの城を。離れて打ち出で給ふならば。 雑兵の手にかゝりつゝ。

かならず不覚あるべし。我介錯を申さんと。 涙を流し申せしを。シテ「尤と同心し。地「尤と同心し。 自害をせんと剣を抜き。 弓手へさし立て馬手へ引く。うしろより陸奥守。 首打ち落し我も又。腹切り果てし事こそは。 比類もあらぬ心なれ。これより相国は。 関八州従へ。陸奥まで御動座にて。 蝦夷が千島に至るまで。心のまゝに治め置き。 還御なるこそ奇特なれ。 我もお僧の教化にて。現成脱体本分の。 道に入りぬる嬉しさよ。/\

ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。此度都に上り。 寺社古跡をも一見せばやと思ひ候。 道行「身の憂きを。思ひ知らずは如何にせん。/\。 厭ふながらも廻る世は。 かゝる旅寐の浮枕。野に臥し山を分け過ぎて。 いとゞ見つゝも急がるゝ。 月の都に着きにけり。/\。 ワキ詞「我都に上りこゝを問へば。 三条京極中川の宿とやらん申し候。 実にや昨日今日秋の始の庭の面に。 まだなつかしき水の心ばへ。田舎家だつ柴垣して。 そこはかとなき虫の声。梢の蝉の声々まで。 実にあはれなる気色かな。

古言の思ひ出でられたるぞや。 空蝉の葉に置く露の木隠れて。忍び/\に濡るゝ袖かなと詠じけんも。この所にての事なるべし。 あら面白や候。シテ詞「なう/\あれなる御僧に申すべき事の候。 ワキ詞「此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。 シテ「唯今口ずさび給ふ言の葉ぐさの末の露。 本の心を思し召さば。光源氏の御歌をば。 何とて詠じ給はざらん。ワキ「いやこれは唯所から。 梢の蝉の声に催され。 唯何となく思ひ出でたり。さて/\源氏の御歌は如何に。 シテ「空蝉の身をかへてける木の本に。 猶人からのなつかしきかなと。 詠じ給ひし御返事は。ワキ「忍び/\に濡るゝ袖。

さては空蝉の御歌よなう。 シテ「中々なれやあはれ実に。是処ははかなき中川の。 御方違の跡ぞかし。よく/\弔ひたまふべしと。 地「夕暮に。命かけたる蜻蛉の。/\。 有りやあらずや問ふ人も。 無き世なりけり。あはれと思し召されよ。 実にや名残をば。庭の浅茅に留めて。 もの凄き夕なりけり。/\。 地クリ「実にや葛城に。 かゝる久米路の岩橋や。絶えにし跡は白雲の。 遠き世語申すべし。 シテサシ「光源氏中将と申せし頃ほひかや。地「彼の中神のかごと故。 この中川の御宿。忍の乱浅からず。 クセ「その夜や憂かりけん。何心なき空までも。 見る人からの天の原。月の光さへ。 収まれるものから。影さやかなる有明の。 シテ「つれなさを。恨みも果てぬ東雲の。 地「取りあへぬまで驚かす。 衣々の御名残いかゞあるべき身の憂さを。

嘆くに飽かで明くる夜も。それのみならす空蝉の。 もぬけも汐馴れし。古を弔はせ給へや。 ロンギ地「昔語を聞くからに。 いとゞ心も法の門。出づる名残を如何にせん。 シテ「旅人の。着るてふ笠のすげなくも。 一村雨と振り捨てゝ。何方に日も暮れぬ。 この宿にも留めまほし。 地「星の逢瀬も程近き。御住家とはこれやらん。 シテ「恥かしながら中川の。地「宿はこゝも。 シテ「軒旧りて。地「数ならぬ伏屋に。 生ふる名のみな箒木の。梢に鳴くは空蝉の。 あるかと見ればそのまゝ。 道にあやなくなりにけり。/\。中入「。 ワキ詞「さてはこの世別れし空蝉の。 現に顕れ給ひけるぞや。いざや御跡弔はんと。 歌「夜もすがら。思ふや法の苔衣。/\。 袂に月の隅もなき。この妙経を読誦して。 彼の御跡を弔ふとかや。/\。 後シテ「あら有難の御弔やな。

この御経は有情悲情も。漏るゝ方なき妙典の。 功力に引かれて空蝉の。うつゝなき世を忘草。 菩提の種となりたるぞや。有難や。 。 ワキ「不思議やなまどろむとしもなき東雲に。夢か現か空蝉の。姿顕し給ふ事。 シテ「唯これ法の不思議なれば。 ワキ「即ち歌舞の菩薩の舞。シテ「恥かしや。 声も仏事をなす蝉の。 地「羽袖を返し舞ふとかや。舞「。

シテ「山の端に。雲のよこぎる宵の間は。 地「出でても月の待たれこそすれ。 シテ「待たれし月も遠方の。 地「待たれし月も遠近人に。言葉をかはす法の縁も。 隔なき軒端の荻の。露うちはらふ風に乱るゝ。 蝉の諸声こゑ%\に。 鶏の音も明け行く空の。月の小莚敷妙の。 風の手枕袖触れて。月のさむしろ風の手枕の。 夢は覚めてぞ明けにける

ワキ次第「紅葉を分くる竜田ごえ。/\。 高安の里を尋ねん。 詞「これは都方より出でたる者にて候。 我未だ春日立田に参らず候ふ程に。此度思ひ立ち春日立田に参り。 そ。 れより河内路を経て都に上らばやと存じ候。道行「立田路の末の山越え雲霧の。 /\。嶺立ちならし鳴く鹿の。

声遥々と行く程に。麓に見えし高安の。 里にも早く着きにけり。/\。シテ詞「なう/\あれなる旅人はいづくより来り給ひて候ぞ。 ワキ「これは都の者にて候ふが。 春日立田に参り。只今此所に来りて候。 扨爰をばいづくと申し候ふぞ。 シテ「さん候此所をば高安の里と申し候。ワキ「此所に於て。

笛吹の松とは何れを申し候ふぞ。 シテ「あれなるこそ笛吹の松にて候。 ワキ「扨何の謂にて。笛吹の松とは申し候ふぞ。 シテ「往昔在原の業平。忍び通ひの立田越に。 ある松蔭にて。笛を吹き給ひしによつて。 笛吹の松とは申しならはして候。 ワキ「扨は古業平の。 笛吹き給ひたる木の本なるぞや。業平は石上より立田越に。 この所に通ひしよなう。シテ「さればこそ忍び/\の道なれども。有常が娘の歌故に。 余所にも人や白波の。 ワキ「盗人の居る山路なれば。覚束なさに詠みし歌の。 シテ「沖つ白浪立田山。 ワキ「夜半にや君が独り行くらんと。シテ「其言の葉の。 ワキ「隠なければ。地「高安の女も名にやたつた山。/\。 夜半にまぎれて盗人の。 襲ひやせんと思ふ故。それを名に立てゝ。 沖津波と詠みしなり。 凡そ白波と申すは海賊の事といへども。海賊も山賊も。

只同じ名ぞと白浪の心を寄せて詠みしなり。/\。 ワキ「扨は誠に業平は。 あの松蔭にて笛を吹き給ひて候よなう。 シテ「中々の事今宵はこの松の下臥して。 若し笛の音の聞ゆる折からを待ちて御覧候へ。 ワキ「是は不思議なる事を御申し候さりながら。 今宵は爰に松がねの。シテ「枕の夢を待ち給はゞ。 其時妾も現れて。昔を語り参らせん。 ワキ「そもや昔を語らんとは。 扨々御身はいかなる人ぞ。シテ「あら恥かしや誰ぞとは。 地「夕影草のかりの世に。/\。 昔も今も変らじな。高安の女とは。 昔も云はれ今とても此里に住む身なれば。 高安の女ぞかし。 疑はせ給ふなとて人にまぎれ失せにけり。人影にまぎれ失せにけり。 ワキ待謡「高安の此松蔭に仮寝して。/\。 昔の跡を白露の。 苔の莚をかたしきて又ねの夢を待つとかや。/\。 後シテ「あら有難の御弔や。その名ばかりは。高安の。

浅からざりし妄執の。憂名も立つや恋衣の。 うらみの身にて明暮らし。 その夜は今にかへる夢の。幻に現れ出でたるなり。 ワキ「不思議やな松の響も冴え渡る。 そなたを見れば人影の有るかなきかに見え給ふは。 いかなる人にてましますぞ。 シテ「御弔の有難さに。高安の女と名に古りし。 其幽霊にて候ふなり。ワキ「不思議や扨は往昔の。 其高安の女姿。なほ執心は爰に来て。 シテ「閻浮の昔の故郷に。 ワキ「帰り来にけり。シテ「君があたり。 地「見つゝをゝらん生駒山。/\。雲な隠しそ。 雨は降るとも秋の夜の。嵐も鐘も松の声も。 高安の里なるに。夢ばし覚し給ふな。 実にや稀にして。逢ふこと難き松蔭や。 これも一樹の縁ならん。/\。 地クリ「実にや命には遠き昔もなかりけり。 見ぬ世語の言の葉の。露のかごとに人や知る。 シテ「名にだにも昔男の跡とめて。

この高安の里人の。宿の軒端の花薄。 ほの見え初めし面影の。シテ「其名をとめて今迄も。 地「なき世語は恥かしや。地「凡そかゝる身に。 有明月のよにふるゝ。譬もさぞな在原の。 業平のいもとせに。紀の有常が娘の。 妬む気色もなかりしを。男怪しめ思ひ寝の。 胸の烟の立つや立たずや不知火の。 ひさげの水の湧きかへり。思ぞくゆる埋火の。 こがれける夜の恨をば誰か知るべき。 さる程に志。深き情の色見えて。 よその二道一方に。移ろふ色もなかりしを。 稀々通ひて高安の。有りし住家を今見れば。 女はいつしか賎くも飯貝取つて様々の。 世の業を賎の女が縫ふてふ糸の麻衣の。 面にも似ぬ人心。憂しとて思ひ捨てし身の。 妬む心の例なり。よしなや思ひ忘れん。 さる程に夜更け人静まつて。 松風澄める折からに。すは笛の音の聞ゆるぞや。 夜半楽にやなりぬらん。地「笛竹の。

夜声も澄める月影に。雲の袖をや返すらん。 折から松も名に負ふ高安の。地「花岡山の。 シテ「雪を廻らす袖の粧。地「手の舞ひ足の。 シテ「踏む所。実にも妙なりや。/\。

夜遊の折から松風は颯々村雨はほろ/\と。 程経る夜遊の曙の鳥も鳴き。 鐘も聞え嵐も靡く松が根枕の夢覚めて。 高安の山風ばかりや残るらん

大臣次第「御幸絶えにし嵯峨の山。/\。 千代のふる道を尋ねん。 ワキ詞「これは当今に仕へ奉る臣下にて候。秋も半に成り候ふ程に。 嵯峨野の原の花の色。 西山もとの梢をも尋ねばやと存じ候。 歌「玉笥二たびすめる堀川の。/\。水行橋を打渡り。 跡なつかしき桃園の。春や昔に神さぶる。 標の内野をうち過ぎて。西こそ秋と同じ身も。 よそより深き紅葉ばの。 類あらしを尋ねん。嵐の山を尋ねん。詞「急ぎ候ふ程に。 是は早嵯峨の院に着きて候。 此所に暫く休らひ。

野山の色をも心静かに詠めばやと存じ候。シテサシ声「若人散乱心乃至以一花。 供養於絵像漸見無数仏。有難の妙文やな。 。 下歌「折りとればたぶさに穢る立てながら。三世の仏に奉る花の千種も色々の。 上歌「嵯峨野をやがて庭なれば。/\。 大井の川も程近く。小倉の山の篠すゝき。 ほのかに見えて鹿の音も。 同じ心に啼き尽す。淋しき宮の夕かな。/\。 ワキ詞「これなる女人の経を読誦し。 花を手折りて立休らふは。 いかさま由ありげに見えて候。立寄り尋ねばやと存じ候。 いかにあれなる女性に尋ぬべき事の候。

シテ「此方の事にて候ふか。 ワキ「見れば野もせの色々に。花こそ名にし負はゞ。 五つの障あると聞え。女郎花の花を過ぎてしも。 仏の花と折り給ふは。 如何なる謂のあるやらん。 シテ「さん候昔この院に狭衣の御門行幸の時。立帰り折らで過ぎうき女郎花。 詞「なほ休らはん霧の籬にと。 詠め給ひしその跡の。籬の花の名にし負ふ。 折れるばかりと御覧ぜよ。 ロンギ地「不思議やさても遠き世の。その狭衣のうらぶれて。 跡弔ふは草の蔭。露のゆかりの人やらん。 シテ「ゆかりとも。云はぬ色なる女郎花。 萎れ果てたる秋の野の。 草の袂は恥かしや。地「云はぬは云ふに勝るとは。 袖の。 よそ目にしら露のさのみなつゝみ給ひそ。女「よしさらば今は名宣らん郭公。 鳴くや五月の雲の上。其笛竹のかごとにて。 一夜のふしも数ならぬ。 身のしろ衣たちかへて。あまの袂の徒らに。

朽果てし身と思し召せ。/\。それ思はざるを思ひ。 思ふを思はず。定むる妹背の中は疎く。 許さぬ人の契を慕ふ。皆あだし世の。 習なり。昔狭衣の君まだ中将と聞えし時。 頃は五月のあやめ草。 音も類なく吹く笛の。響にめでて久方の月の都の御迎。 天つ空にとさそひしに。曲「様々の詔。 下れば登るあま人の。 跡を慕ひて此世には。住み果て難き狭衣の。 心を染むるつまにもと。女二の宮を賜はんの。 御定ありしかど。色々に重ねては着じ人知れず。 思ひ染めてき紫の。色に心を砕きしに。 遁れぬ契かや知らざりし。 あしの迷のたづの音を。雲の上にもとゞめ置き。 又立帰る恋路なれど。 身は憂きものと思ひとり。浮世のさがに墨染の。 幾夕暮をながめ来し。昔語はよしなしと。 云ひ捨てゝ見えざりき。 云ひ捨てゝ見えず成りにけり。歌「秋風も更け行く夜半の嵐山。/\。

隈なき月も照り添ひて。水も緑の大井川。 浪にたゝへて浪の音の。 雲に響くぞ不思議なる。/\。残星いくばく点ぞ。 雁塞に横たはる。長笛一声人楼に倚る。 さんかのしらしきちやうてんと一色にして。 天上人間たま/\相見る。 あら面白の折からやな。夕月夜暁やみの空晴れて。 地「稲妻の影隙もなく。 来し方嵐吹き合はすめる。笛の音もまぢかく聞えたり。 紫の雲の戸張をあげまきの。 雲のびんづら打乱れ雪を廻らす袂かな。 シテ「あめわかみこの舞の袖。昔を今に返すなり。 花の都の旅人も心をとめて見給へや。 地「みのしろ衣我脱ぎ着せん返しつと。 シテ「思ひな佗びそ。天の羽衣稀にきて。 なづとも尽きぬ巌ぞと。例に動かぬ此君の。 天つ日嗣の遠き世を。 守りの神のあめわかみこの舞の袂を翻し。 また雲分けて入り給ふ。/\

ワキ次第「誉も今は中々に/\。 あだと成り行く浮世かな。 詞「これは当今に仕へ奉る滝口の何某にて候。 さても昨日月見の御会御座候ふ処に。帝の御歌をば。 わきてとり%\衆議判の御事にて候。 さる間小野の小町も。 其席に連なりて御入り候ふを。ある人讒{ざん}を構へて帝の御製を。 小町様々すさみ申したりと奏聞す。 君この由聞し召し入れられ。 急ぎ河内の国高安の里へ。籠居させよとの勅諚に任せ。 痛はしながら輿に載せ。 只今河内の国へと急ぎ候。道行「もろともに。 出でし月こそ忘られね。/\。都の空を立ち隠す。 淀の川霧晴れやらぬ。思もかゝる綾簾。 網代の輿の来し方も。夢や現と隔て来て。 こゝぞ関戸の宿ならん。/\。

シテ「悲しやな身には犯せる罪なうして。 思はぬ方にさすらひけるぞや。 クドキ「げにやつく%\と世の有様を思ふに。 月明かなりといへども。浮雲{ふうん}には影暗く。 人素直なりといへども。 さかしらの為には身を失ふ。あら浅ましや候。 詞「如何に滝口に申し候。ワキ「何事にて候ふぞ。 シテ「向ひに拝まれさせ給ふは。 其名も高き石清水にて御入り候ふか。 ワキ「さん候あれこそ石清水八幡宮にて御入り候ふ。 帰洛の祈に御参詣候へ。某案内し候ふべし。 シテ「南無や八幡大菩薩。本地は久遠の如来。 三界我有悉是吾子{がいがうしつぜごし}。 能為救護{のうゐぐご}の御誓空しからずは。無実の難を晴し給へと。 地「涙とともに念誦して。又立ち出づる道の末。 渚の森を早過ぎて。勇む心はあらねども。

生駒の山の麓なる。 高安の里に着きにけり。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 高安の里に御着きにて候ふ。此里の長{ちやう}が許へ御入り候へ。 さらばかう御通り候へ。 シテ「さて御身は是より御帰り候ふか。此程の御名残と申し。 かた%\便なう候。 ワキ「さのみな御嘆き候ひそ。 我等も此処に留まりよく痛はり申せとの御事にて候。御心安く思し召し。 何事をも某に御申しあろうずるにて候。 。 シテ「さるにても思もよらぬ無き名を負ひ。辛き憂き目に逢ふ事よ。 秋風に逢ふ田の実こそ悲しけれ。 我が身空しくなりぬと思へば。地「思ひ慰む方もなき。 生駒の山の峰の雲。晴間なき涙の。 雨と降らん露の身は。如何なる草に結ぶらん。 庵寒き秋の風。ありし雲井の伝をば。 渡る雁にや問ふべき。いつまでかゝる古簾。 都には無き眺かな。/\。

ワキ詞「如何に申し候。 シテ「何事にて候ふぞ。ワキ「古在原の業平。 奈良の京よりこの高安の里へ忍妻にあくがれ。 通ひ給ふと承り及びて候。 かゝる折ならでは承り難う候ふ程に。 御物語あつて御聞かせ候へ。シテ「それは遙々年を隔てし事にて。 委しくは知らずさぶらへども。 御慰の為語り参らせ候はん。 地クリ「それ在原の業平は。 平城天皇の御孫。阿保親王の五男。風月の才に長じ。 帝の御覚も他に異にして。 今は昔に奈良の京。春日の里に紀の有常の。 娘と契り住み給ひしが。時めく花に移り行く。 あだし心のうたてさよ。 サシ「花紅葉いづれの色にめでぬらん。 地「この高安の忍妻に。いつの頃よりかいまみて。 雲の旗手に物を思ひ。明けぬ暮れぬとあくがれて。 妻木こりにし片岡の。 深き山路となりにけん。クセ「妹背語らひし。有常の娘は。

振分髪の石の上。井筒によりて水鏡。 竹田の早苗ふし立ちて。色ある秋の天つ空。 牽牛織女の変らぬ中と誓ひつゝ。 よしや吉野川。帯となるまで結びぬる。 契をよその夕暮と。この高安に情知る。 女の許へ通路の。沖つ白波龍田越。 鬼一口も何ならで。ほのめきあへる始には。 女も粧ひて。得{え}ならぬ衣の色々に。 薫物すとは知りながら。なべてならざる移香の。 身に添ふまゝに月日経て。 シテ「稀に高安に来て見れば。始こそ。 心にくゝも作りつれ。いつしか打ちとけて。 物のけはひも疎かに。飯匙{いひがひ}取りて折毎の。 かれひ進めしすさみにぞ。程なく秋の風立ちて。 本荒の萩ふたゝび。花咲き実なる世の例。 終{つひ}の花を忘れて。時の花を愛するは。 人間皆酔へり。あだなる色に引き替へて。 賢きに本づく。浮世の人ぞ少なき。 ロンギ地「げにやあだなる物語。

かゝる折ならで。かほど委しく白真弓。 引き帰るさを朝夕に。頼みて聞くや松の声。 シテ「立ち別れ。いなば名残や惜まれん。 さりとては高安の。安からぬ身の置き処。 地「理過ぐる身の嘆。暫しは村雲の。 かゝる無実の名を負ふと。 終には晴れん本の月。シテ「今は秋の末。菊の宴も早過ぎ。 紅葉の賀もやありぬらん。 大内の様ぞなつかしき。地「げに大内の御遊に。 漏れぬ人の如何なれば。 鄙の住居のいとゞしき。松の柱に竹の垣。 柴といふ物折り焚きて。 徒然わぶる涙を何れの日にか乾すべき。/\。 ワキ詞「や。何と申すぞ。 都より帰洛の綸旨を下されたると申すか。 こは有難き勅諚かな。なう急いで御拝み候へ。 シテ詞「あら有難や候。 神は正直の頭に舎{やど}り給ふなれば。これと申すも石清水の。 御利生にてこそ候へ。

ワキ「げに/\御身の素直なる心故。神明の加護顕れてこそ候へ。 この祝に舞をまひ。神をすゞしめ給ふべし。 折節これに烏帽子の候。疾く/\召され候へ。 シテ「嬉しさを何に包まん袖の色。 烏帽子けたかくたをやかに。 和歌をあげつゝ舞ふとかや。唐国の。 聖の代にも越えつべし。地「五日の風や十日の雨。 枝を鳴らさぬ千代の秋。 舞シテワカ「高き屋に上りて見れば煙たつ。 民の竈は賑ひて。地「さるにてもこの里へ。 移りし時は君をも身をも。 うらみ葛の葉の。ねたき心も今は早。 風の前の木の葉の散る如く。大津の舟の綱解く如くに。 憂きを晴らして。勇む心は鳥屋の鷹の。 二たび雲井に立ち帰り。 同じ御空の月をも眺め。雪をもめぐらす舞の曲。 左右颯颯の袂をかざして。都に帰るぞ有難き

シテツレ次第「嵐を埋む松の雪。/\。 木蔭や静かなるらん。シテ「是は磯の前司が娘。 静と申す女にて候。 二人「さるにても計らざるに義経に相馴れ。 唐の吉野の山の奥までは。御供申して有りしかども。 妹背の滝の中にも似ず。流かはりて契の末。 それを歎と思ひしに。鎌倉までの鄙の長路。 よしそれも飽かで別れし義経の。 下歌「形見に残る罪科と。思へば余所の恨無し。 /\。上歌「関の清水に影見えて。/\。 かゝらざりせば斯かる身に。 逢坂の山越えて余所に音あるさゝ波や。 瀬田の唐橋打ち渡り。野路篠原の草枕。 夢に昔や帰るらん。老曽の森と聞くよりも。 いつを限と白川や。はや鎌倉に着きにけり。 /\。ワキ頼朝「いかに静。

扨も汝は情深き者にて。 義経に芳野の奥まで具足しけるとな。 さあらば義経に与みしたる者ども国々に有るべし。 包まず真直ぐに申し候へ。シテ「仰委しく承り候さりながら。 女の身には習なき籠輿の禁。 余りに情なき事をも御巧み候ふものかな。返す%\も御うたてしうこそ候へ。 ワキ「扨は頼朝を深く恨むるよな。一旦は道理に似たれども。 朝敵なれば討手を向けて滅亡せり。 静が罪過は遁るまじ。 シテ「いかなる罪過も義経の。御為ならば恨なし。 ワキ「何と問へども口無の。シテ「言はぬ思の苦しきに。 疾く失はせ給へやと。 君の御前に参りつつ。涙ながらに頼朝を見れば。 義経の御面影の残るぞや。実にや栴檀は。 二葉よりこそ匂ふなれ。片枝は残り片枝の。

散りにし花ぞ恋しき。/\。 ワキ「いかに実平。静は隠なき舞の上手なり。 若宮殿の御前にて。法楽の舞一さしと申し候へ。 実「如何に静御前。 御身は隠なき舞の上手なり。若宮殿の御前にて。 舞一さしと御諚にて候。 シテ「なう何のいみじさに舞をば舞ひ候ふべき。 思も寄らぬ事にて候。実「歎の中の舞の所望。 謂なきには似たれども。この直衣烏帽子は。 義経の着馴れ給ひし御けしなれば。 神明仏陀も納受あるべし。 よしかれこれもしようなき人に添ふと思し召して。 先々之を着給へとて。烏帽子直垂打ち懸けけり。 シテ「静はこれぞ着馴れし人の。 懐しきまゝに身に添へて。涙ながらに立ち上る。 ワキ「花の都に隠なき。 静と云ひし白拍子。シテ「時の見物何か実に。 ワキ「このみぎんには優るべき。 シテ「その香ぞ残る橘の。昔覚ゆる形見かな。

実に面影に橘の。袖や涙を残すらん。 げにやそうらんもせんとすれば。秋の風之を破る。 王者直ならんとすれば。讒臣国を乱すとは。 今この時の譬かや。 シテ「上に居て奢らざれば賢王の聖徳。 地「下として乱らざる時は。天下危き所なし。 シテ「義経随分の忠を致すといへども。 地「讒臣の諫を用ひ給ひ。正しき兄弟を討たせ給ふ御事。 シテ「六親不和にましまさば。 地「三宝の加護も如何ならん。曲「痛はしや義経は。 いかにも祖父の会稽に。清盛を討つて源の。 家を興さん謀の。千里の外までも。 廻る車の因果にて。 攻められし平家を西海のはてに責め落し。寿永元年の春風の。 梢に絶えぬ山桜。散り%\に成り果てゝ。 思ふ事なき所に。か程の忠をさし措き。 不興し給ふうたてさよ。その後亀井片岡。 その外の人々。我等命を捨てゝこそ。 奢る平家を減ぼし。

鎌倉殿に頼朝をなし申すべき忠勤も。 徒らの讒奏御持用あらばよしなや。シテ「いざ鎌倉に乱れ入り。 地「讒臣を討ち取らんと。 勇み詈る此由を。義経聞し召されて。 何事あらば頼朝の。仰を背くべきものかと。 とゞめ給へば力なく。とまりけるこそ無念なれ。 シテ「日性盛なれども雲蔽ひぬれば暗し。 。 地「花尊しといふとも風破りぬれば物にあらず。義経心は賢けれども。 讒臣のちうとに帰り。兄弟連枝の容顔の。 引きかへ今はよしなや義経。 あら定なの世の中や。類なや/\。是程面白き静の舞に。 安達に鼓を打たせばやと。 皆面々に忍び給へば。安達「これに候。 地「安達の三郎これに候と。申しもあへず御前につつと。 上ると見えしが。鼓おつ取りうてば舞ひ。 舞へば打ち。花を散らし打返す舞の。 袂も鼓も劣り優りは見えざりけり。 さる程に/\時移り事去つて。

静は舞を納め給へば。安達は鼓を側に挟みて。 御暇申して帰る有様。見る人聞く人押しなべて。

誉めぬ人こそなかりけれ。/\

ワキ詞「これは都方より出でたる僧にて候。 我未だ東国を見ず候ふ程に。 此度思ひ立ち陸奥の終までも修行せばやと思ひ候。 下歌「咲き匂ふ花の都を立ち出でて。 月日重ねて行く末は/\。 上歌「秋風ぞ吹く白河や。/\。 こは陸奥の名をとむるしのぶ文字摺我が忍ぶ。小萩は今ぞ宮城野の。 露をも頼む。宿かな露をも頼むやどりかな。 詞「あら嬉しや程なく宮城野にて候。 承り及びたる白河にて候ふ程に。 心静かに一見せばやと思ひ候。シテ詞「なう/\御僧。 何とて此野には佇み給ひ候ふぞ。 ワキ詞「さ。 ん候これは都方より始めて来たりたる僧にて候。

折から小萩の面白きに眺め入りて休らひ候ふよ。 シテ「扨は都の人にて候ふぞや。さもあらば竜田初瀬の紅葉は。 見ねども歌人は知るなれば。 宮城野の小萩をも都にて御覧じ候ふべし。 ワキ「実に恥かしき詞かな。かゝる東の終にしも。 やさしき人のあるよなう。 シテ詞「うたてや都の人ばかり。情の心あるべきや。 いづくも同じ春秋の。ワキ「月と花とは。 シテ「隔なくて。地「眺むる人の心には。/\。 花も紅葉も月も雪も。皆折にあふよすがにて。 情にあらずや。実にも他生の縁ありて。 一夜かり寝の野道までも。名残ありける。 心かな名残ありける心かな。 ロンギ地「実に面白き言の葉の。

花のよしある人ならめ御名を名のり給へや。 シテ「我が名を何と夕露の。 草のかげ野に咲き添ふる花一時の姿かな。地「不思議や花の一時の。 姿と聞けばなほ更に。 いかなる人におはすらん。シテ「さのみは何と夕映の。 花に置くなる露の玉。移らふ末を問ひ給へ。 地「移らふものは世の中の。人の心の。 シテ「花の名を。地「名のるもよしなや。 よしや草木国土まで。皆成仏の姿なりと。 云ひ捨てゝそのまゝ草隠れにぞなりにける。 草隠れにぞなりにける。 ワキ詞「さては小萩の精かりに現れ。我に詞をかはしけるよ。 有情非情をへだてざる。 回向をなしていざさらば。待謡「草木までもうかべんと。 /\。 小萩がもとに夜もすがら露に宿かる月影を。よき灯と一筋に。 御経読誦なしにけり御経を。読誦なしにけり。 後シテ「秋萩の下葉。移らふ。今よりや。 ひとりある人の。寝ねがてにする。

如何に御僧。草の枕の露霜を。 いかゞ払はせ給ふらん。 ワキ「不思議やなかり寝の野辺の曙に。風うち匂ふ方を見れば。 いとなまめける女性一人。 佇み給ふはありつる人か。シテ詞「誰とはいかゞ夕露の。 消えぬ程こそ我が姿。人にもまみえ申すべけれ。 ワキ「さては昨日の夕暮に。 詞をかはせしその人は。小萩の精にてありしよなう。 シテ「恥かしながら我が姿。 匂はぬ花の袖をかざし。夢現とも長き夜の。 地「月の影にと。うつり舞。ワキシテ「ほの%\と。 有明の月の。月影に。地「紅葉も。まじる。 花衣。シテ「秋寒み衣。雁がねなくなんに。 地「萩の下葉は移ろひにけり。 さながら色も紫の。花の姿と現れしも。 真は小萩の精なるが。遥々きぬる。 旅の心をちまたに交はり。月に袖を触れ。慰め給へ。まれ人と。 云ふかと思へば。霧の籬。 いふかと思へば霧の籬に。小萩ばかりぞ。残りける

ワキ詞「是は都方にありし者にて候。 我若年の頃親に後れ。 それより浮世あぢきなく候うて。斯様の姿となり諸国を廻り候。 又都は故郷の事なれば懐しく候ふ程に。 この秋都に上り候。 道行「身をかへて後も待ち見よ此世にて。 後も待ち見よ此世にて。親を忘れぬ習ぞと。 思ひ切りたる黒髪の乱心を振り捨てゝ。 迷はぬ法の道問へば。本の悟の名にし負ふ。 都と聞くぞ頼もしき/\。詞「あら嬉しや。 急ぎ候ふ程に都に着きて候。このあたりをば一条大宮。 此の御寺を仏身寺とかや申すげに候。や。 俄に村雨の降り来り候。 これなる御寺に立ち寄り雨を霽らさばやと思ひ候。 籬を見れば秋の草。所争ふ其中に。

殊に萩朝顔の所々に咲き交りて候ふぞや。 この花を一枝手折らばやと思ひ候。 秋萩を折らでは過ぎじ月草の。花摺衣露に濡るとも。 故事ながら思ひ出でられて候。 シテ詞「なうなうあれなる御僧。 今の萩の歌にてさふらはずとも。 所につきたる古歌はあるべきぞかし。紫のゆかりのありて秋萩を。 折らでは過ぎじと宣ふやらん。 ワキ「いや。 ゆかりなんどと申すべき事は候はねども。唯何となく思ひ寄りたる古言なり。 咲く花にうつるてふ名は。つゝめども。 折らで過ぎうき朝顔と。 もてはやさるゝもあるものを。唯萩のみを御賞翫こそ。 地「恨は。数々多けれども。よし/\申すまじ。この花を御法の花になし給へ <701a>。 。 ワキ詞「扨はこの所は故ある御寺にて候ひけるぞや。 御身も如何なる人にてましますぞ名を御名のり候へ。 シテ「今は何をかつゝむべき。これは朝顔の花の精なるが。 。 かりそめにも此花を仏の前に手向くともなす人はなくて。 何なぞらふる事とし事は。恋慕愛執の種となる事。 歎の中の歎なり。偶々御僧に逢ひ来り。 一句をも聴聞申し。仏果を得んと思ふ故。 これまで現れ出でたるなり。 ワキ詞「扨は朝顔の花の精にてましますかや。 仏果の縁となる事も。懺悔に過ぎたる事はなし。 唐朝の古も。帽上の紅模とて。 紅の朝顔を簪の上に飾りつゝ。曲をなしたる例あれば。 急ぎ衣冠を着しつゝ。狂言綺語をなし給へ。 シテ「恥かしやかゝりと聞きし言の葉を。 今改めて申すならば。 諫むる神もありやせん。よし/\それはとも角も。 現れ出でて言の葉を。互いにかはすこの上は。

何をかつゝみ申すべき。 地「花衣重ねて着つつ語らん。其程は。暫く待たせ給へとて。 霧の籬に。立ち隠れ失せにけり。 跡立ち隠れ失せにけり。 ワキ待謡「古にこれやなるてふ桃園の。/\。あと遥々の遠き世を。 今聞く事の嬉しさよ <701c>。 暫く此処に休らひてその朝顔の色深き。 花のゆかりを尋ねん/\。後シテサシ「あら嬉しや衣冠を着し。 歌舞の菩薩の姿となつて。 諷ふ心や法の花の。台に到らん有難さよ。 弥々仏果を授け給へ。 ワキ「実にやたのめ置きし言の葉かへず。重ねて現れ給ふ事。

妄語のなきこそありがたう候へ。 同じくはこの寺の御謂。又御身の妄執なんどをも。 委しく語り給ふべし。 女クリ「抑この寺と申し奉るは。桐壺の帝の御弟。 地「式部卿と申しゝ人の住み給ひし。桃園の宮の御旧跡。 。シテサシ「その御息女のまし/\しは賀茂の斎にそなはりて。 地「朝顔の斎院と申しゝなり。シテ「光源氏は折々に。 地「露の情はかけまくも。忝なしと神職に。 かごとをなして靡かず。シテ「然りとは申せども。 地「戯に/\。紫の。色に砕きし御心も。 朝顔。 の浅からぬ恨とかや又は牽牛花とも申せば。星の契もよそならず。 クセ「遊子伯陽と云ひし人。偕老を契る事。 二八三四の旬なり。ともに玉兎を愛して夜もすがら。 東楼の辺にまします。夕には。 出づべき月を待ちて。遠境にさすらひ。 暁は入方の。月を惜みて尖峯の。高きに攀ぢ登る。 シテ「伯陽この世を去りしかば。

地「遊子は深く歎きて。月の前に佇むに互に。 姿を見みえしその執心に引かれて。 牽牛織女の二星となり烏鵲紅葉の。橋を辿る事も。 かゝるあさましき執心の基なりけり。 さりながら朝開暮落すべて閑事。 たゞ要す人色。これ空なる事を知ると。作れる。 詩の心は。色即是空なりあら面白の心や。 面白や。舞「。シテ「朝顔は。晦朔を知らず。 〓{大漢和:033610。けい}蛄は春秋を期せず。 斯様にあだなる譬なれども。よし/\それも厭はじや。 厭はじや。地「千年の松も終には枝朽ちぬ。

シテ「三千年になるてふ桃園の宮もなし。 地「一日の模花も。 シテ「一度の栄はあるものを。/\。地「彼も是もよく/\思へば。 夢の中なる夢の世ぞや。 シテ「唯嬉しきは御僧に逢ひ奉りて。 地「御供に値遇の縁となれば。草木国土悉皆仏身の。 この御寺は。あひに逢ひたる法の場かな。 シテ「法の場かなと。諷ひ捨てゝ。 地「野分の風に袖を翻し。松の梢にかゝると見えしが。 其まゝ姿は木の間の日影に。色消え/\とぞなりにける

。 ワキ詞「これは後鳥羽院の北面佐藤兵衛義清出家し。今は西行と申す法師にて候。 我未だ陸奥を見ず候ふ程に。 此度は陸奥行脚と志し候。 道行「陸奥はいづくはあれど塩竈の。/\。浦吹く風の松島や。

小島の蜑をよそに見て。月の為には塩煙。 絶えまがちなる気色かな。/\。 詞「日を重ねて急ぎ候ふ程に。程なう陸奥に着きて候。 こ。 れなる所を見れば由ありげなる塚の見え候。如何さま名のなき事は候ふまじ。

此あたりの人に尋ねばやと思ひ候。 詞「偖は実方の旧跡にて候ひけるぞや。 痛はしや世に名を留めし歌人なれども。 この遠国の道のべに。しるしばかりを見る事よと。 思ひつゞけてかくばかり。 くちもせぬ其名ばかりを残し置きて。 枯野の薄かたみとぞなる。シテ詞「なう/\西行は何方へ御通り候ふぞ。 ワキ「不思議やな人家も見えぬ方よりも。老人一人来り西行と仰せ候。 さて御身は如何なる人にてましますぞ。 シテ「さすがに西行の御事は。 世に隠なき有明の。影は雲井にあまざかる。 鄙の人までも何とてか御名を知らで候ふべき。 ワキ「たとひその名は聞ゆるとも。 いまだ向顔申さぬ人の。 見知りたまふは不審なり。シテ詞「いやそなたこそ知し召されね。 我は手向の言の葉の。 陰より見聞く西行の。御弔をば何とてか。 喜び申さであるべきぞ。ワキ「これは不思議の事なりと。

立ちより姿をよく/\見れば。 さながらけしきはこの世の人。 シテ「言葉も声もかはらねども。ワキ「亡者と聞けば。 シテ「何とやらん。歌「ものすさまじきこの野辺の。 /\。鳥獣の声までも。 誠にけうとき心地して。松風も身に沁みて。 虫の声もよわりぬ。さればとて夢ならじ。 誠によらば歌人の。他生の縁は有難や。/\。 シテ詞「いかに西行に申すべき事の候。 ワキ「何事にて候ふぞ。シテ「誠や承り候へば。 都には新古今とて。 珍しき集の出で来て候ふとなう。 ワキ「中々の事勅に応じて彼の集を撰ぜらる。住吉玉津島を始め奉り。 凡そ浅きより深きに入る光陰。 衆生済度の御方便。誠に有難うこそ候へとよ。 その外の人々は野辺の。かつらの葉。 林の木の葉の如くに多けれども。 歌とのみ心得て真を知らず。されば心を種として。 花も栄行く言葉の林。

紀の貫之も書きたるなり。クセ「在原の業平は。 その心余りて言葉は足らず。 譬へばしぼめる花の色なうて。匂残るに異ならず。 宇治山の喜撰が歌は。その言葉幽にて。 秋の月の雲に入る。小野小町は妙なる花の色好。 歌の様さへおうなにて。 唯弱々と詠むとかや。大伴の黒主は。 薪を負へる山人の花の蔭に休みて。徒らに日をや送るらん。 是等は和歌の言葉にて。心の花を現す。 千種を植うる吉野山。落花は道を埋めども。 去年の枝折ぞしるべなる。 シテ詞「いかに西行。偖も此頃都賀茂の臨時の舞。 実方が役にて候へども。既に年たけ老衰なり。 行歩も今は叶はねば。御許されも候へと。 辞し申せども叶はず。 嘉例をひける舞なれば。神勅更に背き難し。 今は都に帰るとて。/\。天に上がると見えつるが。 天の鳥舟の心地して。 雲の波路をやすやすと。行き過ぐる都路の。

しるべとなるや有明の。西へ行くべし。/\。 西行も追ひ着きて。臨時の舞を御覧ぜよ。 御覧ぜよ。ワキ詞「さては昔の歌人に。 交す言葉は現ぞと。思ひし事のはかなさよ。 歌「とは思へどもあだし世の。/\。 あだなる夢を見るやとて。 草の枕に伏しにけり。/\。その神山の葵草。 冬まだ神の恵かな。地「さても帝の宣旨には。 祭も臨時の祭なれば。臨時の舞仕れとの御事なり。 シテ詞「その時実方承つて。 あたりにありし竹葉をとつて冠にさす。地「そも/\竹は直にしてうち清し。 シテ「七賢もこの林に住み。地「白楽天は友と云へり。 シテ「その上竹は聖教の中の要文。 即心成仏疑なし。クセ「中にもこの竹は。 即心成仏の粧正直の相をあらはし。御代の春も長閑に。 国すなほなる道を見ず。 風せいすゐに音そひ。雲はくらうに残れり。 賀茂の河淀濁なき時ぞめでたき。爰に実方は。

粧花を負ひて盛今なかばなり。 君の恵の時めきて。色香上なき舞の袖。 花に戯れ月にめで。雪を廻らす舞の袖。げにも妙なる粧。 さもみやびたる梅が枝の。 花の顔ばせ匂やかなりし姿の。水に映る影見れば。 我が身ながらも美しく。心ならずに休らひて。 舞の手を忘れ水の。御手洗に向ひつゝ。 かげに見られて佇めり。 シテ「夢のうちなる舞の袖。地「現に返す。由もがな。舞「。 シテワカ「御手洗に。映れる影を。よく見れば。 地「我が身ながらも。 シテ「美しかりし粧の今は。地「昔に変る。シテ「老衰の影。

地「寄するは老波。乱るゝ白髪。 地「冠は竹の葉。シテ「眉鬚はさながら。 地「霜の翁の気色はたゞ。おどろに雪の降るかと見えて。 払ふも舞の袖とやな。シテ「さる程に/\。 舞楽も時移る糸竹の響。 峯どよむまで賀茂の神山の。本より臨時の。時ならぬ雷。 とゞろ/\と鳴りまはり鳴りまはる。 時もくるまの賀茂と思へば。 ありつる野辺の。実方の塚の。草の枕に夢覚めて。 枯野の薄かたみとぞなる。 跡とひ給へや西行よ

ワキ次第「花を手向の山の名の。/\。 高野の奥を尋ねん。 詞「抑これは太閤の御所に仕へ奉る者なり。 さてもこの御所三韓御退治のため。九州に御在国の砌。

北堂御不例以ての外なる由聞し召され。 今一たびの御対面と思し召し。 時日を移さず御急ぎなされ候へども。 無常の習にて空しくなり給ひぬ。

力及ばせ給はず御歌の候ひしは。 亡き人の形見の髪を手にふれて包むに余る涙悲しもと遊ばされ。 御葬礼を御つとめ有つて。重ねて御下国なされ。 三韓御退治にて。文禄二年八月の末還御候。 春立ち返り既に三回に当り候へば。 高野山に御登なされ。いよ/\御菩提をも弔らはせ給ふべきにて候ふ間。御供仕り候。 道行「小車に法の門出の遥々と。/\。 かへり都に立つ雲の。迷はぬ道は世の中の。 よし足曳の大和路や。 末を急ぎて紀の国の。高野の山に着きにけり。/\。 詞「御急ぎ候ふ程に。高野の山に御着にて候。 。 北堂春岩大禅定尼の御位牌所に御安座ありて。御焼香なさるべく候。 御車を寄せ候へ。 シテサシ「人の親の心は闇にあらねども。 子を思ふ道に迷ふなる。無明塵労即是菩提。 大道本来所染なし。白雲何ぞ心あらん。 歌「暁を高野の山に待つ程や。/\。

苔の下にも有明の。月の光は春の夜の。 花の木蔭に如くものは。 なき身の果と云ひながら。名は残る世の習かな。/\。 ワキ「春の夜の夢の浮橋とだえして。 峯に残れる暁の。ほのかに見ゆる面影は。 それかあらぬか思ほえず。 シテ詞「反魂香にあらねども。色の匂に誘はれて。 谷より出づる鶯の。声こそ道のしるべなれ。 ワキ「あ。 ら不思議や月の夜陰に老尼の姿の見えけるぞや。 こゝはもとより女人結界の山なるに。不浄の身にてまう登る。 故を如何にと答ふべし。 シテ詞「現にもあらぬ身なれば津の国の。ワキ「難波の浦のよしあしの。 二つの道も。シテ「一筋に。 地「頼む仏の御心に。/\。かゝる高野の山雲の。 浮世の中に罪科を。赦し給ふぞ有難き。/\。 。 ワキ詞「簾中近う参りこの処の謂委しく語り候へ。クセ地「抑金剛峯寺と申すは。 帝都を去つて二百里。郷里を離れて無人声。

八葉の峯八の谷。諸行無常の花をだも。 晴嵐枝を鳴らさず。 シテサシ「生滅々已の月をさへ。白雲影を隠さず。 おのづから静かなりける嶺の松。弘法大師その昔。 入唐ありし折からに。薩〓{大漢和:005190 た}に受けて仏法も。 東漸なりと日の本に。 三鈷を投げてこの行方。とまらん山を我があらん。 伽藍と定め申さんと。遥の空に投げ給ふ。 クセ「三鈷は落ちてこの嶺の。 梢に懸かるその故に。三鈷の松とは申すとかや。 されば星霜ふりにたる。大塔ことに金堂。 軒端傾き崩るゝを。悲み給ひ豊臣の。 御代の初にたらちねの。逆修の為に甍をも。 上人之を造営す。シテ「なほ陰深き奥の院。 地「古木怪巌苔むして。連なる道の右左。 石塔数もいさ知らず。 かゝげ添へたる灯火の。かげに晨鐘夕梵の。 心耳をすます霊地なり。 ロンギ地「げにや老尼の物語。

聞くにつけても懐しき。住家を知らせ給へや。 シテ「かかる貴きこの山の。浄土に登り住む事は。 賢き人の孝行の。道に引かるゝ心かな。 地「そもや浮世に亡き跡は。 色即是空なるものを。何の残りて呼子鳥の。 声をかはすも山中に。覚束なくぞ覚ゆる。 シテ「天が下。治むる雲の上人の。 かゝる山路に攀ぢ登る。心のほどの嬉しさを。 深山隠の老木の桜。花に現れ出づるぞや。 地「今の宣ふ言の葉は。 生ふし立てたる我が行方。千代もと祈るたらちねの。 春岩にてましますか。シテ「その原や/\。 伏屋に生ふる箒木の。ありとは見えてあはれ世の。 昔に帰る心地して。地「袖の涙は石の上。 ふるや雨夜の春の月。 霞にまぎれ失せにけり。/\。 ワキ詞「如何に誰かある。ツレ「御前に候。 。 ワキ「大相国今夜不思議の御霊夢を御覧ぜられて候ふ間。此寺の衆徒を召し出し。

春岩の御菩提を。いよ/\弔はせ申さうずるにて候。ツレ「畏つて候。 歌「暁の尾上の鐘の一声に。/\。僧は仰に随ひて。 清巌山に参りつゝ。座具を述べ香を焼き。 南無尊霊春岩大禅尼。一見阿字五逆消滅。 真言得果即身成仏。 後シテ「あら有難の御弔や。 この御経の功力により。いよ/\五障の苦を離れて。 たゞ今夢に現れけるぞや。 ワキ「それながら見しに変れる御容。 七宝荘厳の玉のかんざし。忍辱慈悲の御衣。 色も妙なる御声の中に。仏言を唱へ出で給ふ。 これや真に即身成仏。疑もなき有様なり。 シテ「これ孝行の道により。微妙の法を得る事の。 浅からざりける志。 いかで報謝をつくすべき。ワキ「見ればげに。 歌舞の菩薩となり給ふ。遊戯神通の事なれば。 そのかみ世尊の御前にて。阿難坐して歌へば。 シテ「迦葉立ちて舞ふ。

ワキ「その音楽の一ふしを。只今かなで見せ給へ。 地「さては昔在霊山の。妙なる法を翻す。 袂ゆたかに立ち舞へる。舞楽の遊は面白や。舞「。 地「思へば過去の宿縁なれや。/\。 ふさんかせんきう因縁の。 善根こゝに白雪の。花を散らせる高野山。瑞雲たなびき。 霊香四方に薫じつゝ。 笠笛琴箜篌琵琶鐃銅〓{大漢和:040271 はち}。思ひ/\の声はして。 廿五の菩薩只今こゝに影向なりて。 五色の旗は霞に棚引き。玉の御輿は日に輝きて。 来り迎ふるこの寺や。霊山会揚も目前たり。 この楽を譲り置く。君が齢は万歳の。 守護を加ふる志。只孝行の道による。/\。 行末こそは久しけれ

ツレ詞「かやうに候ふ者は。 隠岐の国より出でたる人商人にて候。 われ此程は都に候ひて。数多の人を買取りて候ふ間。 近日に罷下らばやと存じ候。 今日は東寺辺作道の辺にて。人を買はゞやと思ひ候。 シテ次第「忘れは草の名にあれど。/\。 忍ぶは人の面影。 詞「これは鳥羽のあたりに住む女にて候。 扨もわれ母におくれ父一人にそひ参らせ候へば。 去年の春御遁世にて候ふ程に。余りに方便もなく候へば。 都に知人の候ふを尋ねて参らばやと思ひ候。 歌「頃もはや。ふくる鳥羽田の秋の山。/\。 露も時雨もせきあへぬ。 衣手寒き夜もすがら。寝られぬまゝに思ひ立つ。

都はいづくなるらん。/\。 シテ詞「いかにあれなる人。都へは其方にて候ふか。 ツレ「是は田舎人と見えて候。 いや都へは此方がよく候ふ程に。此方へ御出で候へ。 シテ「あら何ともなや。 都へは此道をこそ人も上り候へ。此方にてありげに候ふものを。 男「いやいや悪しくあしらひて。 声を立てゝは叶ふまじと。髪をとつて引き伏せて。 さて綿轡をむずとはめ。 畜生道に落ち行くかと。泣く声だにも出でざれば。 心に人間はありそ海の。隠岐の国へと志し。 山陰道に急ぎけり。/\。 ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。 われ国国を廻り候ふが。此程隠岐の国に候ひて。

所々を見廻りて候。 また承り及びたる後鳥羽院の御廟に参らばやと思ひ候。 誰か渡り候。狂言「何事を仰せ候ふぞ。 ワキ「是は諸国一見の者にて候ふが。 この所初めて一見仕り候。 承り及びたる後鳥羽院の御廟を教へて給はり候へ。 狂言「これは思もよらぬ事を御尋ね候ふものかな。 此方へ御出で候へ教へ申し候ふべし。 又こゝに面白き事の候。女物狂の候。 此御廟へ毎日参り。 後鳥羽院の御事を曲舞に作りて歌ひ候ふは。是非もなく面白う候。 暫くこの所に御座候ひて。御覧ぜられ候へ。 ワキ「懇に承り候。近頃祝着に存じ候。 。 御廟に参り又かの物狂をも見うずるにて候。 シテ「あら遅なはりや今日はまだ。 かの御廟へも参らぬよなう。 わらはは都鳥羽の者。父に捨てられかやうになる。 この君の古も。後鳥羽院と申すなれば。

御なつかしさ故郷の恋しさ。君も昔や忍び給ふ。 されば古都より。 送り給ひし言の葉にも。思ひやれ聞かぬを聞きてさびしきは。 荒磯波の暁の声。地「思ひでや。 交野の御狩かり暮らし。 シテ「帰る水無瀬の山の端の月。いつかまた我も帰りて水無瀬川。 地「鳥羽田の月の秋の山。 シテ「手向の花のかぞいろあらば。 地「遅々たる春にあはせてたべ。此度は。ぬさ取りあへず手向山。 /\。紅葉の錦春はまた。花衣白妙の。 浦風や。浜松が枝の折々に。 声添へて沖津浪。海原の。緑の空も春めきて。 雁金の如くに。故郷に帰しおはしませ。/\。 。 ワキ詞「夫れ世間の無常は旅泊の夕にあらはれ。生死の転変は。 山林のちまたに知る。詞「この君の古も。 後鳥羽院と申すなれば。我等が故郷も一しほに。 御なつかしき心地して。忝うこそ候へとよ。 。

シテ詞「不思議やなこれなる旅人の口ずさび給ふ言の葉に。 後鳥羽院の昔を思ふ君が代の。跡なつかしき詞かな。 ワキ「君もこの君は。後鳥羽院とて君の代にも。 御名は越えにしすべらぎの。 シテ「すべら代なれど力なく。因果の来る時代とて。 ワキ「兵の乱に襲はれつゝ。 鳥羽田の面を立ち離れて。 シテ「こゝまでも名を刈田の郷に。ワキ「露ふるびたる草の庵を。 シテ「見るにつけても昔語を。 二人「思ひぞ出づる西行法師が。讃岐の院の御廟に参りて。 地「よしや君。昔の玉の床とても。/\。 かゝらん後は何にかはせんと。 よみ置く露の草村や。昔の玉の床ならん。 実にや海人の苫。松の垣ほの八重葎。 栄えん君の御宿に。なるべき事か定なや。/\。 狂言「いかに御僧へ申し候。 さきに申しつるは此女物狂の事にて候。 いつもの如く。 鳥羽殿の御事を歌はせて聞かせ申し候ふべし。

ワキ「いかにも面白う狂はせて御見せ候へ。狂言「なう/\鳥羽殿の御事を歌ひて御聞かせ候へ。 こゝに旅人の御入り候。御聞きありたきと仰せ候。 此烏帽子を召して。面白う歌うて見せ申され候へ。 シテ「実に/\これも狂言綺語を以て。 讚仏転法輪の誠の道にも入るなれば。 いざや歌はんこの君の。 昔を今にかへす浪の地「隠岐の海の荒磯の。/\。 新島守は誰やらん。シテ「春風に磯山桜咲くのみか。 地「沖には浪の花ぞ散る。 シテサシ「承久三年七月八日。 時氏鳥羽殿に参じて申しけるは。 世はかうにて渡らせ給ひ候ふなり。御出家なくては叶ふまじと。 情なく申し上ぐれば。 クセ「力及ばせ給はずして。やがて御ぐしをおろされたり。 綺羅の御姿を引きかへて。 衲衣を御身に奉り。御似せ絵を書かせ給ひて。 七条の女院に参らせらる。 女院御覧じあへずして。修明門院と。

御同車あつて鳥羽殿に。御幸ならせ給ひて。庭上に御車を。 立てられければ一院も。御簾をかゝげて。 御顔ばかりさし出して。たゞとく/\。 御かへりあれとばかりにて。 やがて御簾を下されけり。シテ「程なき一目の御契。 地「御身も心も燃えこがれ。 煙の内の苦も。かくやと思ひ知られたり。 さらでだに悲しかるべき。初秋の夕暮に。 あはれすゝむる折節もあり。 秋の山風吹き落ちて。御身にこそはしみ渡れど。 隠岐の海の荒磯の。新島守は誰やらん。 御出家の後は。かくても鳥羽殿に。 渡らせ給ふべきやらんと。御心やすく。 思し召さるゝ処に。時氏又参じて。 隠岐の国へ流し奉る。御供には。男女以上五人なり。 前蹕の警衛もなく。百官の扈従する者なし。 庶人の旅に異ならず。道すがらの御有様。 誠にあはれなりけり。さてもこの島に。 渡らせ給ひて海士の郡。

刈田の郷といふ所に。御座を構へたりければ。 只海人のすみかに異ならず。 昔は蟠洞紫山の内にして。春秋を送り迎へて。 楽尽くることなし。シテ「今は苫屋の。地「庇芦垣の。 月洩り風もたまらねば。 昼もつらし夜もまた。女御更衣のその拝所もなく。 月卿雲客の拝すもなし。只懐旧の御涙に。 まどろませ給ふ。夜半もなければこの。 浪只こゝもとに。立ち来る心地して。 須磨の浦の昔まで。思し召し出でらるゝ。 我こそは。新島守よ隠岐の海の。

荒き浪風心して吹けの。御詠もあはれにて。 感涙を押ふる。シテ「袂も舞の袖。地「汀は浪の。 シテ「雪を廻らす。地「桜衣の。 シテ「袂も袖も。地「いづれも白妙の白重。 御僧の衣は墨染の夕の。色こそかはれよく/\見れば。不思議やな親と子の。 別れて年を故里の。鳥羽の恋塚恋ひ得て。 父に逢ふぞ嬉しき。これも思へば親と子の。 契久しき玉の緒の。長き別となりもせで。 又めぐり逢ふ小車の。所を知るも沖つ波。 打ちつれて帰る嬉しさよ

シテ詞「これは丹後の国白糸の浜に。 岩井の何某と申す者にて候。 我いまだ子を持たず候ふ間。橋立の文珠に一七日参籠申し。 祈誓仕り候へば。ある夜の霊夢に。 松の枝に花を添へて給はると見て。

程なく男子をまうけて候。御霊夢に任せ。 名をも花松と付け申し候。また学問の為に。 あ。 たり近き成相寺と申す山寺に上せ置きて候。久しく対面せず候ふ程に。 寺より呼び下して候。

此方へ呼びいだし学問の様をも尋ねばやと存じ候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。 シテ「花松を寺より呼び下せよと申しつるが下りてあるか。 トモ「さん候はやゆうべこれへ御くだりにて候。 シテ「何とて某には申さぬぞ。 トモ「ゆうべは御酒気に御座候ひつる間。 さて申し入れず候。シテ「実に/\ゆうべはちと酔ひて候ふよ。さらば花松をこれへ呼び候へ。 トモ「畏つて候。いかに花松殿。 御前へ御参り候へ。 。 シテ「ひさしく見候はねば抜群に成人して候。いかに花松。 汝を寺より呼び下す事余の儀にあらず。 学問をばなんぼう御きはめ候ふぞ。子「われ学問の奥義は知らず。 経論聖教は申すに及ばず。 歌道の草子八代集。習ひ覚えて候。 たゞし法華には法師品。又内典には倶舎論のうち。 七巻未だ覚えず候。シテ「これは念なう覚えて候。 又花松が学問の事は申すに及ばず。

又ことなる事に何事か能のある。 トモ「さゝら八撥が御上手にて候。 シテ「やあかしましそれは汝が子の事にてあるか。 トモ「いや花松殿の御事にて候。シテ「これは誠か。 やあ花松心を鎮めて聞き候へ。 それ児の能には歌連歌の事は申すに及ばず。 鞠小弓などまでは子細なし。 さゝら八撥など申す事は。 鉾のもとにて囃す京童の業にてこそ候へ。学問のやうを尋ぬる処に。 法華経には法師品。 又倶舎論のうち七巻覚えぬと承る。そのさゝら八撥のひまに。 など七巻をば覚えぬぞ。いや/\言葉多きものは品少し。 総じて今日よりは某が子にてはあるまじいぞとよ。 急いで立てとこそ。いや/\得罷り立ち候ふまじ。 某罷り立てうずるにて候。中入「。 ワキ、子次第「旅に雪間を道として。/\。 我が古里に帰らん。ワキ詞「かやうに候ふ者は。 筑紫彦山の麓に住居仕る者にて候。

又これに御座候ふ御方は。 我一とせ丹後の国に上り候ひし時。 橋立の浦に御身を投げさせ給ひしを。 取り上げ助け申し筑紫に下り。彦山に登せ置き候ふ処に。 利根第一の人にて。今は学問の奥義を御極め候。 又ある日のつれ%\に。 我は丹後の国白糸の浜に。 岩井の何某と申しゝ人の只独子にて御座候ふが。かやう/\さる子細により此国に御下り候。今一度本国に帰り。 。 父母の御行方を御尋ありたきよし仰せられ候ふ程に。我等御供申し。 唯今丹後の国白糸の浜へと急ぎ候。はる%\の御旅にて候へども。 父母に御対面あるべく候ふ間。御心安く御急あらうずるにて候。 日を重ねて急ぎ候ふ間。 程なう白糸の浜に着きて候。これに暫く御待ち候へ。 父母の御在所を尋ね参らせうずるにて候。 いかにこのあたりの人のわたり候ふか。 ヲカシ「誰にて渡り候ふぞ。

ワキ「此処に岩井殿と申す人の御座候ふか。ヲカシ「さん候。 。 此処は岩井殿の御在処にて候へどもさる事あつて。 今は夫婦共に此処には御座なく候。 ワキ「それは何と申したる事にて候ふぞ。 ヲカシ「一子を失ひ夫婦共に行方知らずなり給ひて候。 ワキ「言語道断の事にて候。いかに申し候。 岩井殿の事を尋ね申して候へば。 夫婦共にこの処には御座なきよし申し候。実に/\御落涙尤もにて候。然らば父母の御ために。 この文珠堂にて一七日御説法あらうずるにて候。 も。 し未だこの世に御座候はゞ御逆修ともなり候べし。急いで御説法候へ。 いかにこのあたりの人々。 貴き知識の文珠堂にて一七日御説法候ふぞ皆々御参り候へ。 後シテ「物に狂ふも五臓故。 脈のさわぎと覚えたり。 春の脈は弓に弦をかくるが如く狂ふにぞ。ありかも匂もなつかしき。 咲き乱れたる花どもの。

物言ふことはなけれども。軽漾激して影唇を動かせば。 花の物いふは道理なり。如何に花松々々。 。なう/\そなたへ年よはひ十四五ばかりなる児や迷ひ行き候ひし。 何そなたへも見えぬとや。あら不思議や。 我が子の花松は。寺にも見えず里にもなし。 さていづくへ行きて候ぞ。あら何ともなや。 総。 じて親の子を思ふ程かたくなゝる物は候はじ。 我が子の花松を寺より呼び下し学問の様を尋ねしに。 そんじやうその文々習ひ覚えたると申す。 父が悦喜この事なりしに。よしなき者の候ひて。 あの児こそさゝら八撥の上手と申す。 児の能。 にさゝら八撥と申すがちと心にかゝりて。あら/\と叱りて候へば。 幼心にもあら情なや。たま/\寺より下りたるものをと思ひ。 父を恨みこの橋立の海に身を投ぐる。 酔ひさめて慌て噪ぎ行き見れども。

前世の事にや死骸をだにも見候はで。かやうに狂ひ廻り候。 その時は恨めしかりしさゝら八撥も。 今は我が子のかたみと思へば。懐しうこそ候へとよ。 あら我が子恋しや。あら我が子こひしや。 何文珠堂にて説法のあると申すか。 そと参りて聴聞申し候はん。ワキ「しばらく。 狂人にてある間。 御説法の場へは叶ふまじきぞ。シテ「仰尤にて候へども。 物狂も思ふ筋目と申す事の候へば。 御説法の間は狂ひ候ふまじ。 ワキ「さらば此所には静かに聴聞申し候へ。いかに申し候。 はや悉く聴衆も参りて候。 急いで御説法を御初あらうずるにて候。 子「既に時刻になりしかば。 導師高座にあがり。発願の鉦うちならし。 謹み敬つて白す。一代教主釈迦牟尼宝号。 三世の諸仏。十方の薩〓{大漢和:005190 た}に申してまうさく。 総神分に阿弥陀仏名。 シテ「阿弥陀南無阿弥陀。

地「阿弥陀南無阿弥陀仏と。狂ひながら申さば。 逆縁なりと浮まん。 。 ワキ詞「さらばこそ狂ふまじきと申しつるが。 狂うて説法の座敷をばつと醒まいて候。 かゝる思ふ事もなげなる物狂こそなけれ。 シテ「何思ふことなげなる物狂とや。ワキ「さて思ふ事なげなる物ぐるひよ。 シテ「あら面白し/\。 お叱あらば只も御しかりなうて思ふ事なしとは。 この橋立をよむ歌か。地「おもふ事。/\。 なくてや見まし与謝の海の。 天の橋立都なりせば。都鳥と申すは。在中将の筆の跡。 子を詠める歌なり。我等も子の弔にや。 南無阿弥陀仏。 ワキ「いかに狂人。我等も子の弔と申すが。 導師の御耳に障りて候。 まづ狂人の身の古を申し候へ。其後導師の身の古を。 。 因縁説法に御語あつて聞かせられうずるにてあるぞ。急いで物語申し候へ。

シテクリ「それ親の子を思ふ事。人倫に限らず。 地「焼野の雉夜の鶴。梁の燕に至るまで。 子故に命を捨つるなり。 サシ「我等ももとはこの国の。近きあたりに住みしなり。 地「わざとその名は申すまじ。 子のなき事を歎き。かの御本尊に祈をかけ。 ひとりの男子を設くる。シテ「たま/\相生す一子なれば。地「かざしの花掌の玉。 袖の上の蓮華と。又類なきあまりに。 憎まざるに叱り。思はざるに勘当せしは。 これぞ狂乱の始なる。 クセ「子は幼き心に。 諫むるをば知らずして。誠に憎むぞと心得。 夜にまぎれて家を出で。かの橋立に立ち渡り。 浦の波間に身を投ぐる。父母後悔千万にて。 せめて変れる姿をも。相見ばやと思ひて。 果てし所を尋ぬれども。うたかたの。 波間に消えて跡もなし。思のあまりに。 心空にあくがれて。狂人となりぬれば。

夫婦共に家を出で。国を廻りて尋ぬれど。 その面影のなければ。いとゞ涙も古里に。 二たび立ち帰りて。この橋立に参りつゝ。 シテ「うらめしの御本尊や。 地「かほどに縁のなき子をば。何しにたび給ふぞと。 故もなき文珠に。向ひて恨み喞ちて。 せめて我が子の沈みし。一つ所に身を投げて。 浄土の縁となりなんと。 思ひ切りたる我等なり。導師も憫みて。 我が跡とひてたび給へ。 ワキ詞「いかに申し候。 さらば急いで因縁説法を御述あらうずるにて候。 子「当国のうち白糸の浜に。 岩井の何某と申す人の候ひけるが。ひとりの子を持ち。 すこし学問に疎しとて勘当せられし程に。 父を恨みこの海に身をなげし所を。 折節筑紫舟の船頭取り上げ。筑紫に下り彦山に登り。 学問の奥義を極め。 又この国に帰りて問へば。父母の行方知らずと申す程に。

親の為に七日の説法を述べ。 その後身を投げ空しくなるべしと。思ひ切りたるは。 この法師が身の上にて候。 シテ「あれは我が子の花松と。云はまほしくは思へども。 姿に恥ぢて叶はず。子「よく/\見れば面影の。その古にたがはねば。

講座の上をこぼれ落つ。シテ「あれは我が子か。 子「父御前か。地「実に面影の花松かとて。 抱き合ひて倒れ伏す。 さてあるべきにあらざれば。/\。我が古里に立ち帰り。 本の如くに栄えけり。これも思へば橋立の。 大聖文珠の利生なり。/\

シテ詞「是は上野国光沢の何某にて候。 われ子を一人持ちて候ふを。 学問の為あたり近き山寺にのぼせ置きて候。 さる間童体にあらず候へども。未だ名をも改めず。 松若と申し候。よく/\承り候へば。 学問をば致さずして。 笛をのみ好き候ふ由承り及びて候。 呼び寄せ学問のやうをも訊ねばやと存じ候。いかに誰かある。 寺へ参り松若を連れて下り候へ。 トモ「松若殿はこの一両日これに御座候。

シテ「さらば此方へと申し候へ。 久しく見候はねば成人にてあるよ。いかに松若。 持ちたるは御経と見えたり。 笛に好きたるなど人の申ししは偽にて候。御経戴き候はん。や。 これは笛にてあり。言語道断の事。 かたの如くも親の身として。 学問の事申付けたるに。それをば心に入れずして。 笛をば誰が勧めけるぞ。いや/\詞は無益なり。 弓矢八幡も照覧あれ。 今日より親子の対面申すまじ。たま/\持ちたる一子は。

か様に候ふ事の口惜しさは候。 やあ誰かある。 今日より松若領内には叶ふまじき由。堅く申し付け候へ。 ワキ二人次第「我が身を憂きに任せ来て。/\。旅行く空ぞ久しき。 。 ワキ詞「これは上野国光沢のあたりに住居する者にて候。これに渡り候ふ御方は。 光沢殿の御子息にて渡り候ふを。 学問の為寺へ上せ申され候へば。 学問は人に勝れ給ひて候ふ処に。 或時父御に御対面の折節。 笛を持ち給ひて候ふを御気にかけられ候ふて。不孝の身と御成り候。 さる程に松若殿。某を御頼み候ふて。諸国を廻り。 名所旧跡一見あり度き由仰せ候ふ程に。 東国は悉く見せ申して候。又承り候へば。 松若殿の御事ゆゑ。夫婦共に狂乱し。 行方知らず成り給ひたる由申し候。 御痛ましさ申すばかりなく候。 又是より江州に立越え。比叡山を拝ませ申し。 其後都へ志し候。道行「しをれこし。袂も今は色朽ちて。

/\。それとばかりの旅衣。 野山海川越え過ぎて。はる%\遠き近江路や。 しなの渡に着きにけり。/\。 シテサシ一声「朝明の花の匂の山風は。曇りも果てぬ一むらの。 雁がね遠き半天に。 声をかはすや霞がくれの。鳥も親子を便ぞと。 我が身独のたづきなき。身のしろ衣うらめしく。 心も露も打ち乱れ。忍ぶの草の忘れ形見の。 子の面影ぞ涙なる。よゝのかむきうに。 てつてきの一せい前後の恨。 実にや笛竹のよよの契も徒に。一人々々の憂き身の果。 涙は尽きぬ露の世に。命や我を残すらん。 上歌「吹け嵐。またや寝ざらん霞む夜の。 /\。月の手枕散る花の。 さむしろ深き夜の。袖の匂もなつかしや。 野を分けて幽なる。樵歌牧笛の声までも。 ゆくへを頼む心かな。/\。 詞「かやうに狂ひありき候ふ程に。これは舟渡にて候。なう/\その舟に乗せて給はり候へ。

舟人「これは狂人にてありげに候。 一大事の渡にて候ふ程に。この船には叶ふまじく候。 シテ「何と叶ふまじいと候ふや。舟人「中々の事。 シテ「暫く。我を厭ひ給ふとも。 風の誘へば花も散る。あれ見給へや。 地「大比叡颪に散る花の。/\。色こき雲の。 一しきり水際に。花の漣岩越えて。 匂もなつかしく。船こぞるとも我一人。 乗せさせ給へと舷にすがり。 波に流れ裳裾も袂も散る花の。 浪に濡れまさる舟に乗せてたび給へ。さりとては乗せてたび給へ。 舟人詞「此上は乗せ申すべし。 船中にてお狂ひ候ふな。シテ「承り候。 ワキ「あら面白の夕日かな。今迄は霞み果てつる湖水の上に。 比良の根颪吹き晴れて。櫓声月に動かす粧。 興に乗ずる舟路かな。 詞「余りに面白き折節なれば。そと笛を吹き候へ。 子「うたてしき事を仰せ候ふや。 笛故かやうに成り候ふ事にて候ふ程に。恨めしく候ふ間。

思も寄らず候。其上持ち申さず候。 ワキ「仰はさる事にて候へども。 笛ゆゑ勘当申されさせ給ふにより。夫婦共に狂乱し。 行方知らす御成り候ふ由承り候へば。 笛こそ父母の御形見にて候へ。 そと吹きて御心をも御慰み候へ。自然の為と存じ。 笛をば某持ちて候遊ばし候。 子「げに恨めしや笛竹の。地「げに恨めしや笛竹の。 吹きも吹かずも松風の。霞む浦曲の夕まぐれ。 月もかげろふ浪の上。シテ詞「あら不思議や。 只今の笛は尋ぬる子にて候ふはいかに。 舟人「暫く候。 初より申しつるはこれにてこそ候へ。貴賎の中の笛の音を。 狂人の身として我が子などと申す事。 思も寄らぬ事にてあるぞとよ。 シテ「仰のごとく狂人にては候へども。 我が子の笛をば聞違へ候ふまじ。ひらに今一手御所望候へ。 舟人「是は奇特なる事を申し候。 さらば今一手所望申すべく候。

いかにあの旅人に申し候。余りに御笛面白く候ふ程に。 今。 一手遊ばされ候へかしと申さるゝ人の候ふ間。憚ながら所望申し候。 子「やすき間の御所望にて候。シテ「今は構ふ所もなし。 上野の国や光沢の辺の笛と聞くものを。 子「これは夢かや現かや。 笛の音故の勘当なれば。今吹く笛も音を絶えて。 身を投げばやとぞ悲しめば。

地「父はこの由見るよりも。遥の舟に飛び乗りて。 袖と袖とを取りかはし。今より後は笛竹の。 親の不孝をも赦すなりと。泣く/\すがりつく。 扨この舟を漕ぎ戻し。/\。 陸に上りて上野や。彼の光沢の故郷に。 もとの富貴の身と成るも。孝行深き親と子の。 契ぞ久しかりける。/\

。 ワキ詞「これは江州膳所に住居する者にて候。又これに渡り候ふ幼き人は。 何処ともなく人商人の。 都より連れて東へ下り候ふ処に。我等行きあひ歎の色を見申し。 余りに痛はしく候ふ程に。 買取り育て申す処に。利根第一の人にて渡り候。 今日は唐崎の辺へ伴ひ申し。 心をも慰めばやと存じ候。此方へ渡り候。狂言シカ%\「。

ワキ「その物狂を待ち申さうずるにて候。 シテ一声「人の親の心は闇にあらねども。 子を思ふ道に迷ふとは。今こそ思ひ白雪の。 地「消ゆるばかりの思草。恥かしながら心乱るゝ。 物狂とはなりたるなり。カケリ「。 シテサシ「これは都あたりに年経て住みし者なるが。 思はざるに独子を。いづくともなくかどはされ。 思の余に心乱れ。行方いづくと知らねども。

跡を慕ひて尋ねんと。地「花の都を出でしより。 音に啼き初めし賀茂河や。 末白川を打渡り。粟田口にも着きしかば。/\。 今は誰をか松坂や。四宮河原四の辻。 関の山路の村時雨。いとゞ袂や濡らすらん。 知るも知らぬも逢坂の。嵐の風の音寒き。 志賀辛崎に着きにけり。/\。 ワキ詞「いかにこれなる狂女。 おことはいづくよりいづ方へ行く人ぞ。 シテ「是は都方の者なるが。独子を失ひて尋ね出で候ふよ。 ワキ「あら痛はしや候。 たとへいかなる人なりとも。狂女ならば面白う狂ひ候へ。 今宵のお宿は我等申さうずるにて候。 シテ「うたてやな物や思ふと問ふ人は。 嬉しきものの又は苦しき。心の闇を晴らしては。 たばせ給はで狂へとは何事ぞ。 あら心なの人の言の葉や候。ワキ詞「狂女とは申せども。 。 都の人とて古言までをなぞらへ給ふやさしさよ。

先々名所を眺め心をも晴らし給へ。シテ「嬉しの今の仰やな。 かゝる名所の有様を。思もなくて慰まば。 いかばかりかは眺めんに。心に懸かる思ひ苦しさ。 いや拙しや我が心。島廻して思子に。 逢ひもやせんと立ち出づる。 狂言「さらばいつもの曲舞を御諷ひ候へや。 シテ「げにや親の子を思ふ事。人倫に限らず。 地「焼野の雉子梁の燕。夜の鶴。 子故に命を捨つる習。我も思子の行方尋ねんその為に。 これまで迷ひ来りたり。 シテサシ「この島の四方を遥に見渡せば。 地「漫々とある海上の水の煙は霞にて。里はそことも白波の。 汀の松は麓に見え。 山は高きより先づ近し。曲「北に向へば雁がねの。 雲路を分けて帰る山。荒乳の山のあら玉の。 年の始の頃なれば。待ちし花かと疑ふは。 消え残る雪の木の芽山。東は。 伊吹颪の烈しきに。霞まぬ月の余吾の海。 南を遥に見渡せば。三上犬上鏡山。

見馴れし夢の床の山。いさと答へはつゝめども。 契はよそに守山。なほもそなたの懐かしく。 忍ぶ思を志賀の故郷。 花園の花や散るらんと。思ひ長柄の旅に立ち。 心や物に狂ふらん。比叡山と申すは。 余り名高き山なれば。詞も及び難し。かの山に続きて。 次第に末を見渡せば。 シテ「横川の水の末かとよ。地「比良の湊の川音は。 嵐や共に流れ松。岩越す浪の打ちおろし。 神と祝ふも白髯の。沖なる松の高島や。 ゆるぎの森の鷺すらも。 我が如く一人は音をよも鳴かじ。かれよりもこれよりも。 唯この島で有難き。 とうなくくわちよが船の内。見ずは帰らじと誓ひけん。 蓬莱宮と申すとも。これにはよも勝らじ。 汀の青水。巌に懸かる青苔。 青山おほひ懸かつて何れも共に青き海。シテ「緑樹蔭沈むで。 地「魚も梢に登り。月海上に浮むでは。 兎も浪を走れり。

総て耳に触れ目に見る事のなければ。大慈大悲の。 誓願に漏るゝ事やある。シテ「かやうに尋ね廻れども。 我が子に似たる人もなし。 燐み給へ人々たちや。子詞「や。これなる物狂をよく/\見れば。別れし母にて御入り候。 あら悲しや候。 ワキ「扨は御身の母上にて御入り候ふか。子「中々。別れし母にて候。 ワキ「あら痛はしの御事や。これこそ御子竹若よ。 よく/\寄りて見給へや。 シテ「我が子ぞと。我が子ぞと聞けば夢かとおもほえて。 する/\と立ち寄りて。地「よく/\見れば我が子ぞと。 偏に御身の情の程ぞ有難しと。手を合はせ礼拝す。 手を合はせてぞ礼拝す。ワキ詞「これはめでたき御事なり。 さらば故郷へ伴ひて。早々帰り給ふべし。 シテ「あら有難や嬉しやな。 地「あら有難や嬉しやと。もりて余れる涙かな。 実に逢ひ難き親と子の。縁は尽きせぬ契にて。 我が故郷へ立ち帰り。

もとの如くに栄えける。心のうちぞ嬉しけれ。/\

。 ワキ詞「これは九州松浦の貞俊と申す者にて候。我さる子細あつてか様の姿となり。 この須磨の山里に住居仕り候。 又此所に霊験あらたなる観音の御座候ふ間。 毎日歩を運び候。 今日もまた参らばやと思ひ候。シテ女サシ「思出はうきより外になみ小船。 こがれ/\てきし方に。 移る月日の数添ひて。衰へ果つる姿かな。 あら故郷恋しや。詞「か様に狂ひありく程に。 これは早須磨寺とやらんに参りて候。 実にや此観世音は。 霊験あらたなる由承りて候ふ間。二世の所願を祈らばやと思ひ候。 衆生被困厄。無量苦逼身。観音妙智力。 能救世間苦。ワキ詞「いかにこれなる女。 汝は狂人と見えたり。早々立ち去り候へ。

シテ「現なや狂人と宣ふか。 我は物には狂はぬものを。あら恨めしの仰やな。 一セイ「夫故に。身を凩の森の露。 地「なほ消えがての。身ぞつらき。シテ詞「なう/\御僧。 都への道教へて給はり候へ。 ワキ「おことはいづくより来り給ひて候ふぞ。 シテ「我は是より遥なる。心づくしの者なるが。 夫の行方を尋ねんと。都に上り侍ふなり。 ワキ「実に痛はしや遥々の。 浪路を凌ぎ憂き旅に。シテ「思を須磨の浦なれや。 ワキ「光君もこの所にて。辛きうき世の有様を。 シテ「三年が程の御住居。 ワキ「袖もさながら。シテ「しほたるゝ。 地「あまの衣のうらふれて。/\。逢瀬をいつとしら波の。 立居隙なき思ひ妻頼めぬ暮をまつら潟。

馴れし昔ぞ恋しき/\。ワキ詞「なほ/\お事のこし方を委しく語り給へ。 シテ「さらば委しく語り候ふべし。 サシ「生国は筑紫肥前の者。 地「在所は松浦わざと名字をば申さぬなり。 シテ「ある人の妻にて候ひしが。地「夫は讒臣の申事により。 無実の科を蒙り。都へ上り給ひしが。 かつて音信聞かざれば。生死をだにも弁へず。 クセ「余り別の悲しさに。ある夕暮に我は。 唯一人玉島や松浦の浦に立ち出づる。 都の方へ行く船の。 便を待ち居し処に男一人きたりて。我この船の船頭なり御姿を。 見奉るに。 世の常ならぬ人なれば痛はしく思ひ申すなり。とく/\船に召さるべし。 都までは送り届け申さんと。懇に語れば。 誠ぞと心得て。手を合はせ礼拝し。 シテ「やがて船に乗り移る。 地「その時水主楫取ども。 順風に帆をあげて海路を走り行く程に。程なく津の国須磨の浦に着く。

波の関もる所なれば。 この浦に船をさしとゞむ。 ワキ詞「不思議やこれなる狂人をよくよく見れば。某が古人にて候ふはいかに。 。 われ思はずもこの所にきたり七年になり候。明暮観音に歩を運ぶ御利生により。 たゞ今この所に来りたると思ひ候。 名宣つて悦ばせばやと存じ候。いかに狂女。 これこそ松浦の貞俊よ見忘れてあるか。

シテ「これは夢かや現かと。 云はんとすれば涙に咽び。地「その面影も袖の色も。 かはりて今は墨衣の。 うらめしやと唯泣くのみの心かな。 さてあるべきにあらざれば。/\。我も姿を引きかへて。 夫もろともに後の世を。願ふぞ嬉しかりける。 これも思へば観音の。 弘誓の利益なりけり/\

ワキ次第「身を捨てゝ住む山にても。/\。 憂き時いづち行かまし。 詞「これは丹後の国より出でたる僧にて候。 我未だ都を見ず候ふ程に。此秋思ひ立ち都に上り候。 道行「大江山。生野の道の遠けれど。/\。 乗らでや過ぎし里の名の。 馬路河原路打過ぎて。跡より恋のおひの坂。 桂の川の渡舟。法の道をや尋ぬらん。/\。

詞「急ぎ候ふ程に。是は早都に着きて候。 我宿願の子細候ふ間。 先北野の経蔵に参らばやと思ひ候。所の人の渡り候ふか。 狂言シカ%\「。 ワキ「是はこの処始めて一見の者にて候。何事にても珍しき事候はゞ。 見せて給はり候へ。狂言シカ%\「。 ワキ「その和国とやらん参りて候はゞ見せ候へ。 シテ「桜木を。時雨や黄葉に染めつらん。

右近の馬場の秋の色。 ワキ「これは承り及びたる和国にてましますか。 シテ「見申せば旅の御僧と見えつるが。 我が名を和国と宣ふ事。返す%\も不審なり。 よしよしそれは兎も角も。 何の故にてあるやらん。ワキ「さて/\御身の住み給ひし。 在所はいづく何故に。 和国と名を付け給ふぞや。 シテ「これは一条桃園のあたりに住む者なるが。我歌の道に心を寄せ。 その道を極めし故にや。 少し慢ずる心ありて。かやうに現なくなりたるにより。 京童の言ひ習はしたる異名にて候。 ワキ「げに/\これは理なり。 されども天満御神の。誓は正に曇らねば。 直なる心となり給ふべし。我等は田舎の者なれば。 歌道の事は知らねども。都の土産に語り給へ。 シテ「いで/\語つて聞かせ申さん。 シテクリ「抑大和歌と申すは六義あり。 地「これ六道の巷に詠じ。千早振る神代の歌は。

文字の数も定なし。 サシ「その後天照大神の御弟。素盞嗚尊よりして。 三十一文字に定まる事。 八雲たつ出雲八重垣の御神詠より。この国のことわざとして。 シテ「人間のみか鳥類も。 地「高間の寺に来りつゝ。鳴く鶯の声聞けば。 歌の姿は備はれり。 クセ「さればにや畜類も。 歌を詠ずる例あり。浜の真砂を歩み行く。 蛙の道の跡見れば。住吉の。 海士のみるめにあらねども。仮にも人に。又訪はれぬると。 水に住む蛙まで。和国の風俗。 神の御代より始まれり。シテ「さればにや大国に。 地「詩を作る諸人は。三界を眺むるに。 花鳥風月。松風の私語。鼓は波の音。 笛は竜の吟を以て。舞楽をも作れり。唯人は。 乱舞歌道に交はりて。心を延ぶるこそ。 万年の齢なるべし。 ワキ「如何に申し候。

この人は面白う狂ふと仰せ候ふが。 さもなくして歌道の事を諷ひかなで。狂気の様はなく候。 狂言「さん候この人は忍妻の候ひしが。 その許へ通へと申し候へば。諷ひ狂ひ候。 ワキ「さあらば急いで御狂はせ候へ。 狂言「心得申し候。如何に和国。 かの御方より急いで御通あれと申し来り候。 シテ「何かなたより通へとや。通へば人や知る。 又通はねば中絶ゆる。琴の糸切らさじと。

夜々物を思はする。 狂言「何とて左様に仰せ候ふぞ。一夜なりとも御通ひ候へ。 シテ「一夜二夜は馴れ初めて。 三夜にもなれば住吉の。松は根毎にあらはるゝ。/\。 地「現れて。/\。 出づるは君と我と君と。枕の上に。かゝる涙の雨の夜も。 雪の暁別の鐘の音。 かれこれいづれも思ひ見れば。歌の種とやなりぬらん。/\

僧二人ばかり次第「唐船の名を止めし。 松浦は何くなるらん。サシコト「これは行脚の僧にて候。 我東国より都に上り。 又西国修行と志し候ふ程に。 筑紫に下り博多の浦に逗留仕りて候。肥前国松浦潟は。 聞えたる名所にて候へば。 急ぎ尋ね行き一見せばやと存じ候。二人「箱崎や明け行く空の旅衣。

/\。実に不知火の筑紫潟。 わたの原行く沖つ船。汐路遥の浦伝ひ。 松浦潟にも着きにけり。/\。 コトバ「これは松浦の浦にて候。 委しくは知らねども山の粧海の景色。世に勝れて面白く。見所多く候。 折節雪降りて。山河草木色めきたり。 あれに釣人の見え候立ち寄りて。

この処の有様委しく尋ねばやと思ひ候。 〈女釣竿持つべし、姿水衣〉。 一声「松浦潟海山かけて降る雪の。波も曇るや汐煙。 二ノ句「渚に拾ふ玉島の。川風冴ゆる。袂かな。 サシコト「玉島の此川上に家はあれど。さながら浦に住居して。 誰としもなき釣の糸の。 波より汐にひかれて。下「身は浮舟の友千鳥。 跡も渚に通ひ来て。海人乙女等が麻衣。 しほたれ馴るゝばかりなり。 下歌ウ「袖とふ風も折々の便なりけり松浦潟。 上「眺めよと思はずしもや帰るらん。/\。 月待つ浦のあま小舟。情なき心にも眺めらるゝ景色にて。 かゝる思のあるぞとも。 知らで慰む夕かな。/\。 僧詞「如何に釣人に申すべき事あり。 これは遠国の沙門なるが。抖〓{大漢和:012912。 そう}の行脚にこれまで来りたり。 これは名に聞きし松浦潟候ふよな。 女「さん候この浦は古よりの名所なり。海山。

川に至るまで名に流れた。 る所にて候御尋ね候へ。 。 僧「先これ。 なる流を。 ば何と申し候。 女「これ。 こそ松浦川にて候へ。 。 この湊にて佐用姫も。 。 鏡を抱きて。 身を投げけるとかや。 。 その魄霊のこつて。 今。 も鏡の宮と。 かや参りて。 をがませ給へとよ。

。僧「実に/\松浦の鏡の宮とは佐用姫の霊神なるべし。 さてあの雪の積りたるは松浦山候ふか。女「あれは松浦山。 ・領巾{れいきん}山と書いて・領巾振山{ひれふるやま}と読むなり。 抑この山を領巾振山と申す事は。 昔狭手彦と云つし人。君の宣旨に従ひて。 唐使の船出をせし時。佐用姫ときこえし遊女。 船のあとを慕ひ。 あの山の上に登つて沖行く船を見送りつゝ。衣の領巾を上げ。 袖をかざして招きしが。船影遠くなるまゝに。 招き弱りて伏し転びしを。 領巾振山とは申しけり。 然れば後人山上憶良が詠みし詠歌にも。 下「海原の沖行く船を帰れとや。領巾振らしけん松浦佐用姫。 同音歌ウ上「実にや今見るも。領巾ふる雪の松浦山。 /\。跡を知れとや詠み置きし。 その歌人の名を聞くも。山上憶良なれば。 領巾振ると。詠む歌のよみ人知るも面白や。 さぞな眺めせし。

沖の波間に行く船の絶え/\なりし古も。 今に知らるゝ哀かな。/\。 。 僧詞「嬉しくも云はれども承り候ふものかな。とてもの御事ならば。 佐用姫狭手彦の御謂をも委しく御語り候へ。 女「さらば委しく語り参らせ候はん。〈女は腰をかくべし〉。 序上「抑古き世語を。語るにつけて身の上に。 あうの松原待つ事の。 なほあり顔なる世の中かな。サシコト「昔上代の事かとよ。 狭手彦と云ひし遣唐使大君の勅に従ひて。 この松浦潟に下り暫しの旅宿ありし時。 国の采女の色に染む。花の香衣袖ふれて。 宿も一夜の仮枕。あだし契と思へども。 幾夜の数とも知らざりけり。 曲舞「その名を佐用姫と聞くからに。 小夜の寝覚の睦言も尽きぬ心の程見えて。 山風吹け行く松浦潟心づくしの秋なれや。 木の間の月もほのかなる。 朝顔朝寝髪打解くるとも寝なりけり。

かくて契も程経るや時節も早く日頃経て。唐船の纜を。 解くやよき日の門出とて。既に旅宿を出で給へば。 上「佐用姫いつしかきぬ%\の。 恨を添へて松浦潟。前の渚に立つ浪の。 声も惜まず啼くたづの。芦辺に休らひ。松が根の。 磯枕草莚しきりに。伏し沈みつゝ。 領巾山にあらねども。こゝにも領巾振る有様を。 松浦姫といはれしも。佐用姫が異名なり。 実にはづかしき世語。僧詞「実に/\領巾山の謂委しく承り候ひぬ。 さてこの鏡の謂は何事にて候ひけるぞ。 女「実にこの鏡は狭手彦の置きしかたみなり。 その後神と現れ給へども。真の鏡は御神体なり。 いかに御僧。妾に更衣の望あり。 その御袈裟を授け給へとよ。 僧「始より様ある人と見えつる上。更衣の望と承れば。 やすき間の事なりとて。 この袈裟を授け奉れば。女「妾は御袈裟授かりつゝ。 掌を合はせ座をなして。下同音「善哉解脱服。

無双福田衣。彼仏如来教。広度諸衆生。 歌ウ下「実に有難き法は得つ。この御布施挟手彦の。 形見の鏡を見せ申さん。 暫く待たせ給へとよ。誠は我は佐用姫の。 れい巾山に澄。 む月の雲隠にぞなりにける雲隠にぞなりにける。 をかし狂言詞しか/\「。〈佐用姫はこの船に乗りて沖に出で鏡をだいて身を投げたる由云ふべし〉。 僧詞「始より不思議なりつる海人乙女。 彼の佐用姫の幽霊かや。 いざや今宵は浦に臥して。教の如くもしは又。 かの神鏡をも拝むやと。 二人「夜もすがら月も真澄の水鏡。/\。影をうつすや松浦川。 高フ空も冴え渡り。 風もふけ行く旅寝かな。/\。 〈鏡を持ち練貫をかい取りたるべき心〉。 佐用姫サシコト「恋は山涙は海となるものを。またいつの世ぞ松浦潟。 下「人知れず。袖になみだの誘ふかな。 一声「唐船も寄せやせん。 同「西に山なきありあけの。佐用姫「松浦の朝日。鏡のおもて。

。 同二「向ふひかりも心曇らば我が影ながら恥かしや。〈そつそと働きて鏡を僧に渡す処にて〉。下、女「行く年の。 惜しくもあるかな十寸鏡。 見る影さへに暮れぬと思へば。 僧詞「不思議やな此神鏡を拝すれば。向ふ面はうつらずして。 さもなまめける男体の。冠正しき面色なり。 こはそも如何なる御事ぞ。女上「恥かしや。 。 その執心の報へばこそ契もはやく狭手彦の。恨はなほもます鏡に。 容を残して捨てやらぬ。恋慕の罪に沈めとなり。 僧「これは愚の御事や。煩悩即ち菩提心。 その一念を翻し早く仏果を得給ふべし。 女「承り候ひぬさりながら。 今宵一夜の懺悔を果し昔の有様見え申さんと。 云ふかと見れば沖に出づる唐船に喊つくる。 女「声は浪路に響き合ひて。女「松浦の山風。 灘の潮合。僧「千鳥。女「鴎の。僧「立ち立つ。 女「景色に。同音二人「海山に震動して。/\心。

もくれてひれ伏すや地に寄つて仆れ地に寄つて。立ち上り跡を見れば。 船は遠波に遥なり。せん方なみ木の。 松浦山の上に。登りて声を揚げ。 女上「なうその船暫し。同音切拍子「その船暫し留めよ/\と。 白絹の領巾を。揚げては招き。 かざしては招き。 こがれ堪え兼ねてひれ伏す姿は実にも領巾振る山なるべし。 上、女「世の中は何に譬へん。朝ぼらけ。 漕ぎ行く舟のあとの白浪。下拍子「。女「其まゝに狂乱となつて。 。 同音「そのまゝに狂乱となつて領巾山を降りて磯辺にさそらひけるが。 〈此所にて僧の持ちたる鏡をまた取るべし〉。形見の鏡を身に添へ持ちて。 塵を払ひ影をうつして。上「見る程に/\。 思へば恨めし形見こそ。 今は仇なれこれなくはと。思ひ定めて海人の小舟に。 下「こがれ/\出でて。上「鏡を胸に抱きて。 身をば波間に捨舟の。上「よりかつぱと。 下「身を投げて千尋の底に。下「沈むと見えしが。 上「夜も白々と。明くる松浦の。

下「浦風や夢路をさますらん。

浦風や夢路を覚ますらん

ワキ「これは紀州粉川寺の住僧にて候。 偖も当寺に於て。 年に二度人を泊めぬ夜の候。一夜が今夜に相当りて候ふ程に。 此由を委しく申し付けばやと存じ候。 いかに能力。 汝存知の如く当寺に於て年に二夜旅人を泊めぬ夜の候。 一夜が今宵に相当つて候ふ程に。 かまひて人を寺中に泊め候ふな。其分心得候へ。 シテ次第「その暁を松風や。/\。高野の寺に参らん。 詞「かやうに候ふ者は都の者にて候。 さても我多年の望候ふて高野山に参り候。 それより粉川へも参らばやと存じ候。 サシ「都出でて今日瓶の原と詠めける。 木津のこつ川はこれかとよ。川風あまり身にしめば。 我にも衣を鹿背山に。

思ひつゞけて行く程に。シテ「さて奈良坂に着きしかば。 ここは法華般若寺。 立衆「大聖文殊を拝み申せば。罪障はつき雲井坂。 左はいづく東大寺。三国無双の大伽藍。 まのあたりに拝む有難さよ。下歌「月の三笠の山の端は。 今ぞ知らるゝ春日野の。 鹿の音になどか附けざらん。上歌「春ならば。 花とやいはん葛城の。/\。よそに見えたる峰の雲。 かゝる旅こそ宇野と聞け。 なほ行く先はあふかの里。このあたりぞと夕煙。 立ち添ふ林を見渡せば。 かせいちの森やかまやどの。森とも早く知られけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。粉川の寺に着きて候。 やがて御堂へ参らうずるにて候。 いかに誰かある。トモ「御前に候。

シテ「早日の暮れて候ふ程に。寺中に宿を借りて来り候へ。 トモ「畏つて候。いかに案内申し候。 狂言「誰にてわたり候ふぞ。 トモ「是は旅の者にて候ふが。一夜の宿を借り申したく候。 狂言「此寺の習にて。 年に二夜旅人に御宿参らせぬ大法にて候。 其一夜が今夜に相当りて候ふ間。御宿は叶ひ候ふまじ。 トモ「寺中へ御宿の事を尋ねて候へば。 当。 寺の大法にて年に二夜旅人に御宿参らせず候。其一夜が今夜に相当りて候ふ程に。 何方にも御宿は叶ふまじき由申し候。 シテ「其義ならば苦しからず候。 今夜は月も面白く候ふ間。 本堂の前の白砂にて一夜を明かさうずるにて候。 皆々近うよりて物語り候へ。 子「あら痛はしや旅人の。 未だ御宿もなげに候。是御覧候へ。トモ「いかに申し候。 只今幼き人の御通り候ふが。 御文を落し申されて候。

シテ「何と少人の文を落し給ひたると申すか。 殊に当寺は児観音にて候ふ程に。若し御利生の事もや候ふらん。 先披いて見うずるにて候。 未だ御目にかかりたる事は候はねども。 旅に行き暮れ疲れ給ひたる御有様。 余りに御痛はしく存じ一筆申し参らせ候。 みづからが古郷は近江の国高島と申し候。 其方よりと仰せ候ひて御尋ね候はゞ。 御坊も対面あるべし。 みづからも左様にあひしらひ申すべし。我が名は梅夜叉と申し候。返す%\。 も御痛はしさの余りにかやうに思ひよりて候。地「やさしの人の心や。 いつ馴れぬ花の姿。色あらはれて此宿の。 かり言ぞ嬉しき。類なの人の心や。 シテ詞「さて何とし候ふべき。 トモ「其御事にて候。只今御越なくは。 梅夜叉御の御志も徒になり候ふ間。 仮名字にて御出あれかしと存じ候。シテ「さらば其由申し候へ。 トモ「畏つて候。いかに案内申し候。

高島殿の御宿坊はいづくにて候ふぞ。 狂言「これにて候。トモ「高島殿の只今御登山にて候。 狂言「其由申さうずるにて候。 いかに申上げ候。高島殿御登山にて候。 ワキ「何と高島殿の御登山と候ふや。あら思ひよらずや。 此方へと申し候へ。狂言「畏つて候。 此方へ御出で候へ。トモ「心得申し候。 いかに申し候。其旨申して候へば。 あれに御通あれとの御事にて候。 シテ「さらばかう参らうずるにて候。ワキ「御登山めでたう候。 シテ「さん候とくにも登山致し御礼申すべきを。 公私隙なきについて遅なはり申し候。 殊に幼き者を参らせ置き。 万御むつかしき事恐れ入り存じ候。ワキ「委細承り候。 只今の御登山祝着申し候。 いかに梅夜叉殿此方へ御出で候へ。殊の外の成人にて候。 シテ「誠に殊の外成人仕りて候。 ワキ「又梅。 夜叉殿御舎兄は比叡山に御童形にて候ふか。御出家を遂げらるゝとも申す。

又御下あつて家を御相続とも申し候ふが。 何れか一定にて候ふぞ。 シテ「さん候いでそれは。子「あら心なの仰せやな。 暫し休ませ申すべきに。地「長物語よしぞなき。 明けなば帰る故郷の。遠旅も痛はしやと。 みづから酌を取り御客人に勧むる。 シテ「げにや情は有明の。地「月の都に住み馴れて。 人こそ多けれど。かゝるやさしき事はなし。 京に田舎あり。田舎にもまた都人の。 心ざまはあるべしや。道すがらの思出。 げに忘れがたの風情や。 トモ詞「はや鳥が歌ひて候。 シテ詞「何とはや夜の明方に候ふとや。 さらば御暇申さうずるにて候。ワキ「暫く。たま/\の御登山にて候ふ程に。御逗留候ひて御慰み候へ。 。 シテ「御意にて候ふ程に逗留申したく候へども。 路次に人と堅く契約申したる事候ふ間。先此度は罷り帰り。 又近日罷り下り御礼申すべく候。

ワキ「さては御立なうては叶ひ候ふまじきか。あら是非もなや候。 重ねて御登山を待ち申さうずるにて候。 いかに梅夜叉殿。 はや御帰り候御門送り候へ。子「心得申し候。 シテ「いかに申し候。 偖も今夜は草の枕に臥すべく候ふ処に。 御憐により一夜を明かさせ給ふ事。 生々世々忘れ申すまじく候。必ず十日の内には罷り下り。 今夜の御礼申すべし。 さるにても昨日の暮の隠し文。地「思はぬ方に節竹の。 一夜の契夢うつゝ。粉川の寺の鐘の声鳥の音。 あら忘れがたの面影や。 シテ詞「いかに誰かある。 某が参りたる由申し候へ。トモ「畏つて候。 いかに御坊へ案内申し候。狂言「誰にてわたり候ふぞ。 トモ「高島殿の御登山にて候。 ヲカシ「いかに申上げ候。又高島殿御登山にて候。 ワキ「此方へ入れ申し候へ。 あらめでたや御下にて候。シテ「先度の御礼の為参りて候。

偖幼き人は何処に御座候ふぞ。 ワキ「これに渡り候。シテ「情は人の為ならず。 地「よしなき人に馴れ初めて。出でし都も。 忍ばれぬ程になりにけり。 ワキ詞「重ねて御登山祝着申し候。 以前は仮名字にて御出の由承り候。此度は誠の御名字を御名乗り候へ。 。 シテ「仮名字につきて面白き曲舞の候ふ程に諷ひ。その時名宣り候ふべし。 サシ「吉野山の花見の行幸には。 妹背の中を離れ。 地「須磨明石の月に休らふとても。三年の日数を徒らに過し。 その後筑紫筑前に下り。朝倉の里と云ふ処に。 暫く御座をなし給ふ。クセ「茆茨根を切らず。 さいてん削らずして。黒木に作る宮柱。 立つ木の枝もおのづから。 すなほになれば君が代に。住む事やすき例とて。 そのまゝ住ませ給ひしかば。 それより名づけつゝ。木の丸殿と号すなり。 世につゝむべき事あり。たゞ人の如く天皇や。

豊の明の影凄く。忍びて住ませ給ひしに。 参る人は必ず。 その名を名宣り帰るべしと。綸言の趣。和歌の浦波朝倉や。 シテ「木の丸殿に我が居れば。 地「名宣をしつゝ行くは誰が子ぞ。かやうに詠じ給ひしかば。 その後参る人は。言問はず名宣りけり。 げにやかしこき世語の。遠き喩も恐あり。 我等もいざや名宣りつゝ。 名宣の為と木綿附の。とりあへぬ御酒盛。 いざ諷ひ奏で遊ばん。 ロンギ地「げに面白やさこそげに。 都人の舞の袖。ゆかしやと囃せば。 シテ「たをやかなりし舞の手も。今は老木の花ぞ無き。 御覧あれや方々。地「若木によらぬ舞の袖。 老木の花は珍しや。シテ「さらば思出に。 幼き人ともろともに。 相舞ならば舞はうよ。地「げに相舞は殊更。互の心花染の。 シテ「恐ある御袖を。引き立つる袂も。 地「引かるゝ袖もたをやかに。

豊なる君が代なり。諷ひ奏で舞人の。 さもめでたくぞ覚ゆる。 シテ「いつか紀の路の山高み。 地「雲こそつづけ旅の空。舞「。ワキ詞「なう/\此度は実名を早く御名宣り候へ。 シテ「今は何をかつゝむべき。 これこそ杉村弾正の少弼候よ。ワキ「あらおびたゝしの大人や候。 シテ「偖も幼き人の御事を。

我が君へ申し上げ候へば。 急ぎ御供仕れとの御事により。只今御迎に参りて候。 ワキ「さては幼き人只今が名残にて候ふよ。シテ「中々の事。 忘られぬ時忍べとや浜千鳥。 地「ゆくへも知らぬ。シテ「人を尋ねて。 地「月の夕暮花の曙。事によせ折々ごとに。 忘るまじや忘らるまじの。あらまし残す。 有りし情は露の玉章。言葉も尽きせぬ名残かな

次第「あはでの森の名をとめし。/\。 親子の道に出でうよ。 ワキ詞「かやうに候ふ者は鎌倉かめがへがやつの者にて候ふが。 去年の春より都に上り。只今鎌倉へ下り候。 。 シテ「これは鎌倉かめがへがやつに住む女にて候。父は商人にて御入り候が。 去年の春都へ上り給ひ。 其年の暮には御下向あるべき由仰せ候ひしが。

此秋迄御下なく候ふ程に。余りに心許なく候へば。 父を尋ねて都へ上り候。 実にや本よりの憂世の旅に廻り来て。又いづくにかいな船の。 上れば下る都路の。末も七の星月夜。 鎌倉山の朝夕に。馴れてふるよの中にだに。 絶えてもそはぬ親と子の。 中々何に生れ来て。薄き縁こそ恨なれ。 シテ「余りに思ふも悲しさに。都とやらんはそなたぞと。

歌「夕月影の西の空。山又山を遥々と。 思ひ立つ旅の衣のうらかけて。/\。 野にも山にも行く道の。 末はまだしき宿々のかりなる夢の草枕。結びかへたる袖の露。 同じ命の身の行方。 尾張の国に着きにけり。/\。シテ詞「いかに案内申し候。 女「誰にてわたり候ぞ。 シテ「是は旅人にて候ふが。道より風の心地にて候。 一夜の宿を御貸し候へ。ツレ「承り候。 御宿を参らせうずるにて候。 実にこれは御もうきと見え給ひて候。奥の間へ御座あらうずるにて候。 やあ/\お旅人の御着にて有るぞ。 皆々出でて御もてなし仕り候へ。 お旅人は正しう道より風の心地と仰せられ候。 何とか渡り候ふやらん。 罷出でて尋ね申さばやと存じ候。いかに申し候。 これは此屋の主にて候。さきに仰せられ候ふは。 道より風の心地と仰せられ候。 御心元なう存じ候。何と御入り候ふぞ。

シテ「ならはぬ旅の疲にや。路道より風の心地にて候。 ツレ「げに/\さやうに見え給ひて候。 定めて旅の疲にて候ふべし。 苦しかるまじく候。御心易く思し召されうずるにて候。 さりながら自然の御為にて候。 いづくよりいづ方へ御通ひ候ふぞ。 女「是は鎌倉かめがへがやつの者にて候ふが。 父は商人にて御入り候ふが。 去年の春都へ上られて候。 其年の暮に下向申されべきと申されしが。此秋まで御下なく候ふ程に。 父を尋ねて都へ上り候ふが。 尋ぬる父には逢はずして行方も知らぬ旅の宿にて。 空しくならん悲しさよ。あら父恋しや。/\。 ツレ「御心安く思し召され候へ。 御宿を参らせ候ふ上は。 某がいぶんいたはり申さうずるにて候。御心を強くもたれ候へ。 ちとも苦しかるまじく候。 あら笑止や是ははや以外に御煩ひ候。なう/\。や。 言語道断。

早こときれ給ひて候ふは如何に。 由なき人に宿を参らせて候ふものかな。 この上はとかく申しても叶ふまじく候ふ程に。 森の御僧とて貴き人の御入り候ふ程に。 死骸を森の御僧の方へ送り申さばやと存じ候。 ワキ詞「是はこよひ此宿に泊りたる旅人にて候。 又此宿の隣に鎌倉の者と申して泊りて候ふが。 今宵空しく成りたる由申し候。 如何なる者ぞと尋ばやと存じ候。 いかに此屋の内へ申すべき事の候。ツレ「誰にて渡り候ふぞ。 ワキ「さん候これは旅人にて候。 又こよひ此御内に旅人の空しくなりたる由承り候ふは。 いづくの者にて候ふぞ。ツレ「其事にて候。 女性旅人の泊まり給ひて候ふが。 道より風の心地と仰せ候ひしが。 以ての外御煩ひ候ふ程に。自然の為と存じ候ひて。 国所を尋ねて候へば。 鎌倉亀がへがやつの商人の娘にて候ふが。 父は去年の春より都へ上り。此秋まで御下なく候ふ程に。

父を尋ねて都へ上ると申され候ひしが。 程なう空しくなり給ひて候。 若し思し召し合はする事の候ふか。 ワキ「何を秘し申し候ふべき。 某は鎌倉亀がへがやつの商人にて候ふが。去年の春より都に上り。 其年の暮に。必ず罷下るべき由を申して候へども。 。 都に去りがたき事の候ひて唯今罷下り候。ツレ「偖息女を持ち給ひて候ふか。 ワキ「さん候娘を一人持ちて候ふを。 人に預け都へ上りて候。 偖は疑ふ所もなき我が子にて候ふべし。 クドキ「いまふにいまはれぬ世の習。有るまじき事にもあらず。 胸騒して心も心ならず候。 詞「偖其死骸はいづくに候ふぞ。 ツレ「森の御僧と申して貴き人の御方へ送り申して候。 ワキ「言語道断なう若し未だ死骸が候ふらん。 一目見たう候。ツレ「御申しの所尤もに候。 さらばお供申して尋ねうずるにて候。 こなたへ渡り候へ。ワキ「承り候。

ツレ「いかに案内申し候。森の御僧の御座候ふか。 某が参じて候。僧「誰にて渡り候ふぞ。 アルジ「某が参じて候。僧「や。こなたへ渡り候へ。 ツレ「承り候。 偖今朝は思ひもよらぬ事を申し入れて候。僧「其事にて候。 ツレ「又只今参る事余の儀にあらず。 是に渡り候ふ御方は。其人の親父にて渡り候ふが。 都よりこよひ此所に御留にて候ふが。 此事聞き及び給ひ。 其死骸を一目見度き由仰せ候ふ程に。是まで御供申して候。其死骸は候。 僧「はや時が能く候ひし程に葬りて候。 ワキ「何とはや葬むられたると候ふや。 アルジ「さやうに仰せられ候。 ワキ「言語道断の次第にて候ふものかな。 僧「かゝる御痛はしき事こそ候はね。よし/\余所の事ならば御利益とも成るべし。 そと焼香あつて御通り候へ。ワキ「承り候。 さらば焼香いたさうずるにて候。 さてその所はいづくにて候ふぞ。

僧「さん候これなる森蔭にて候。急いで焼香あらうずるにて候。 ワキ「心得申し候。偖は疑ふ所もなく。 我が姫にてぞ有るらんと。 空しき跡に立ちよりて。僧「香を焼き念仏して。 ワキ「過去幽霊とは弔へども。僧「さすがに誠を。 ワキ「知らざれば。若しも我が子になかりせば。 あらいまはしや定なやと。 歎くべき事をだに。身を任せぬぞ悲しき。 実にやそれぞとは知れども見えぬ夜桜の。 別さこそと花散りし。森の木蔭もなつかしや。 /\。僧「いかに申し候。 余りに御痛はしく候ふ程に申し候。 此僧一とせ渡唐せし時。反魂香一たきとりて帰朝仕つて候。 此香と申すは。 恋しき人の姿を見んとては。八月十五夜隈なき月に。 この香を焼き候へば。 必ず亡き人の姿見ゆると申し候。 されば魂を反すと書きて反魂とよめり。や。 然もこよひ明月に相当つて候ふ程に。此香を焼き実否を御覧じ候へ。

ワキ「あら有難や候。 やがて此香を焼き候ふべし。名に聞きし反魂香の薄煙。 雲となりにし亡き跡の。魂を反すやと。 月の夜すがら経を読み念仏の声も添ふ。 森の松風更け過ぎて。ワキ「鳧鐘の響半夜の鐘。 女「中秋三五。めいせんの影。地「反魂香。 は。魂を。シテ「返す%\も。嬉しきぞや。 ワキ「あれはとも云はゞ形や消えなまし。 煙の中に現るゝ。姿を見れば我が姫なり。 シテ「人は只面影のみを見るやらん。 我は絶えず瞿麦の。草の蔭より見るものを。 ワキ「余の事の懐しさに。 身にも覚えず歩み寄りて。シテ「面影もたつ小夜衣の。 ワキ「袖に正しくすがりつけば。 二人「手にも溜らぬ白玉か。何ぞと見れば森の露の。 光は月姿は烟と。立ち去りて跡もなく。 形も消えて跡はたゞ。煙ばかりぞ反魂の。 か。う/\の子ならばなどやしばしも留まらぬ。曲「伝へ聞く漢王は。

李夫人の別故甘泉殿の床の上に。古き衾の恨を添へ。 九花帳の内にてはこの香の煙を立て。 月の夜更け行く風の声。えんようへん/\とけしき立つ。 玉殿にうつろひて李夫人の御形仄に見え給へり。 三五夜中の新月の。夜半の空隈なくて。 ちやうあんうむしやうの粧けしきに到る心地して。 皆感涙を沾せば。 君も竜顔に御顔を押しあてて。反魂の煙の中に立ちよらせ給へば。 又李夫人は消々と。時雨もまじる有明の。 見えつ隠れつかげろふの。 有るか無きかの御姿かくやと思ひ知られたり。

ロンギ「かかる例を聞く時は。空恐ろしき身の行方。 夢幻の面影を。かりにも見るぞ嬉しき。 シテ「見るかひも歎ぞしげきこの森の。 かげの如くは見ゆれども。 誠は逢はざれば。 亡き跡のその名にもあはでの森と云ひやせん。げにやあはでの名を残す。 森の梢の夜も明けば。今ぞ限の薄煙。 反魂香を又焼きて。名残の姿なほ見んと。 立つる煙の中に現るゝ。袂にとりよれば。 又消々となり失せて。 正しく見えしかひもなく。 終にあはでの森とはこの親子の謂なり。今の親子の謂なり

平岡立衆次第「山路を分くる紅葉狩。/\。 時雨やしるべなるらん。 平岡詞「これは河内の国平岡の何がしにて候。 さても竜田山の紅葉。今を盛なる由申し候ふ程に。

若き人々を伴ひ。只今竜田山に立ち越え。 紅葉を眺めばやと存じ候。 道行「頃も早名残の秋の朝まだき。/\。霧間に見ゆる村紅葉。 松の葉色も照りそひて錦を飾る秋の山。

嶺も小倉も名に残る。 竜田山にも着きにけり/\。平岡「急ぎ候ふ程に。 竜田山に着きて候。先明神へ参らうずるにて候。狂言シカ%\「。 平岡詞「げに/\美しき鶏にて候。 取りて帰り候へ。狂言シカ%\「。シテ「なう/\其鳥をば何しに召され候ふぞ。 平岡「是は拾ひたる鳥にて候ふ程に。取りて帰り候ふよ。 シテ「いや其鳥は世の常の鳥にあらず。 忝くも公より放し給へる鳥なれば。 たやすく思し召さるゝとも。君と神との放鳥。 是ぞ名におふゆふつけ鳥。 捕らせ給ふは僻事や。平岡詞「そも公の放鳥とは。 何といひたる事やらん。 シテ詞「いつぞや内裏にて四鶏の祭とて。さばへなす神を祭りつけ。 都の四方の関々に。鳥獣を放されし。 其うち一つの鳥なれば。公鳥とは申すなり。 平岡「さてその鳥は何くの関に。 放ち置かせ給ひけるぞ。 シテ詞「一つは逢坂一つはこの。鳥も紅葉の竜田山。

平岡「神の白ゆふ掛けし故に。ゆふつけ鳥とは異名の鳥。 シテ「又その外も名をかへて。 平岡「あるひはくだかけ。シテ「又はかけ鳥。 平岡「さまざまに名を。シテ「ゆふつけの。 地「とりどりにかはるその名の竜田山。/\。 夜半にあらねど鶏を。人に取られて行く道は。 別の鳥ぞかしあら。恨めしの鶏や。 さりとては人々よ。 その鳥返し給ひなば神も守らせ給ふべし神も守らせ給ふべし。 地クリ「抑この竜田の明神と申し奉るは。 神は何れと申せども。 分けて利生もいちはやき。滝祭にておはします。 シテサシ「然れば霊験あらたにて。末世の衆生の機を転じ。 地「思ひしるべのさへばなす。 神の為とて四鶏の一つに。此神を撰び奉り。 シテ「ここぞ竜田の山の陰に。地「御祓の鳥を。 放ち給ふ。クセ「然るに此処。 宝の山も程近く。神代の道も明らかに。 国富み民も直なるや。天の逆矛年ふりて。

守の神と現れて。君の代々まで曇らぬ。 御代ぞ久しき。さればかゝるべき。 鳥獣に至るまで。心あれとてゆふつけの。 鶏の垂尾の長き世の。例に今もなるとかや。 シテ「かかる奇特を聞きながら。 地「さなきだに竜田山沖の白波名の立つに。 主なき鳥とて鶏を。捕らせて行かせ給ひなば。 同じ。 かざしの名をおひて夜越えずとも竜田路の。盗人と言はれて。 後に悔ませ給ふな。よしそれまでぞ我も又。 さのみは言はじ庭鳥の。八声も立てじ竜田山の。 紅葉の木蔭に入りにけり。 紅葉の蔭に入りにけり。 平岡「急ぎ家路に帰らうずるにて候。中入「。 狂言「如何に申し候。 御女房達のあしやの前。俄に物に御狂ひ候ふが。 以ての外に御入り候ふ由申し候。 若し鶏ばし憑きたるかとの御事にて候。 平岡「思ひ合はする事あり。汝は信貴山の阿闍梨の御房へ参り。

申し入れたき子細のある由申して。 御供申して来り候へ。狂言「畏つて候。 如何に阿闍梨の御房へ案内申し候。 平岡殿より少し申し度き事の候。 急ぎ御出あれと申され候。ワキ「九識の窓の前。 十乗の床の辺に。瑜伽の法水を湛へ。 三密の月を澄ます所に。 案内申さんと云ふは如何なる者ぞ。 狂言「平岡殿より少し申し入れたき事の候。急ぎ御出あれと申され候。 ワキ「心得申して候。 さらばやがて参らうずるにて候。 狂言「さあらば某お先へ参らうずるにて候。 ワキ「夫れ山伏といつぱ。 役の憂婆塞葛城や。高間の峰を踏み分けて。 明王に逢ひ奉り。莚も同じ苔衣を。 片敷き伏し給ひしより以来。山伏と之を名づけたり。 仮令如何なる悪霊なりとも。 明王の索にかけば。など其験なかるべき。 南無帰依仏。地「ゆふつけの。鶏の垂尾の乱髪。

心も解けぬ。気色かな。 後シテ「鶏すでに鳴いて。忠臣朝を待つ。 君を守の御代のみさき。疑ふ人は愚やな。 あら恨めしの心やな。平岡「我ながら浮心はよりましの。 言の葉草の霜夜も明けて。 シテ「月はさながら白雪の。平岡「空に散り行く朝嵐。 羽音も冴えて打ち羽ふく。 平岡「その塒にはとまらずして。シテ「鶏寒うして木に登り。 地「鴨寒うして。水に入る。 ワキ「見我身者発菩提心。聞我名者断悪修善。 聴我説者得大智恵。知我身者即身成仏。 シテ「行者の加持力隙もなく。 地「行者の加持力隙もなく。のけや/\と責めらるれども。 シテ「こなたは負けじ神のみさき。 地「人に逢はせて鶏の勝鬨作るを御覧ぜよ。 ワキ「不思議やな行者が目前に。 化したる女庭鳥を戴き。行者に帰れと宣ふぞや。 不動明王の索にかゝらぬ先に。 早々帰り給へ。シテ「何我を帰れとや。

ワキ「中々の事。シテ「あら愚やな行者達。 神の使は帰るべきか。 ワキ「さればこそ怠り申さば神慮。などか和光のなかるべき。 シテ詞「いや如何に云ふとも帰るまじと。 しるしの御幣おつ取れば。 ワキ「そのみてぐらは命期のしるし。詞「取りて悔ませ給ふなよ。 シテ詞「何をかさのみ悔むべき。 祈らば祈れ足引の。ワキ「山伏の行こゝなりと。 シテ「重ねて数珠を。ワキ「押しもんで。 地「東方に降三世明王。/\と珠数さら/\と押しもめば。シテ「恐ろしや東より。 青色の鬼神来つて出でよ/\と責め給ふぞや。

恐ろしとて南を見れば。 シテ「南方軍荼利夜叉の雲風吹いて眼に入れば。 地「夕日の影と共に西の方に歩み行けば。 シテ「西方大威徳明王の。水牛来つて怒をなせば。 地「こゝも叶はで北に廻れば。 シテ「北方は金剛夜叉。地「さて中央は。シテ「大聖不動。 地「明王の繋縛にかゝれば。/\。 地神は地より責め。 天よりは梵王下つて行者は下より飛ぶ鳥をも。落ちよ/\と祈られて。忽ちに翼は落ちて。 ありつる御幣は返しつゝ。今より後は来るまじと。 ゆふつけ鳥か唐衣。/\。竜田の山にぞ帰りける

シテ次第「立つ旅衣はる%\と。/\。 東の奥に急がん。詞「かやうに候ふ者は。 都方に住居仕る者にて候。 扨も某如何なる宿縁にや。次第々々に衰へ。

都に住居も叶ひ難く候ふ間。東の方に知る人の候ふを頼み。 妻子を伴ひ只今東の奥へと急ぎ候。 道行「都をば。鳥が鳴く音に立ち出でて。/\。 東の旅に今日こそは。逢坂の関路吹く。

嵐の風は松本や。矢橋の渡程もなく。 近江路過ぎて行く旅の。 憂き身の終如何ならん。/\。 唐衣きつゝ馴れしと詠じけん。三河に渡す八橋の。 くもでに物を思へとや。なほ行末も遠江。 果てなき旅を駿河なる。吉原の宿に着きにけり。/\。 シテ詞「旅の者にて候宿を御借し候へ。 ワキツレ「宿と仰せ候ふか此方へ御入り候へ。 如何に申し候。 旅人は何処より御下り候ふぞ。 シテ「是は都より人を頼みて東へ下り候。宿主「あら痛はしや候。 また密かに申すべき事の候。今夜此宿に御泊り候ふ人は。 明日富士の御池の贄の御鬮に。 御出なくては叶はぬ事にて候ふ間。 御痛はしく存じ斯様に申し候。 夜の内に此宿を御通り候へ。是は我等が内証にて申し候ふぞ。 疾う/\御立ち候へ。シテ「あら嬉しや候。 さらば急いで罷り立ち候ふべし。 ワキ「如何に誰かある。トモ「御前に候。

ワキ「今夜此宿に旅人が三人泊りて候が。 夜の内に立ちたる由申し候。 急いで留め候へ。トモ「畏つて候。 如何にあれなる旅人御留り候へ。シテ「此方の事にて候ふか。 トモ「中々の事。 シテ「何とて御留め候やらん。その謂が承り度く候。トモ「げに/\。 御存なきは御理にて候当所に於て毎年富士の御池贄の御神事御座候。 即ち今日に相当りて候ふ間。御神事に御逢ひ候へ。 シテ「委細承り候。 譬へばその所の神事などをば。その郷に孕まれ。 またはその生。 氏人などこそ御神事に逢ふことにて候へ。 行方も知らぬ旅人が在所に泊りたればとて。 御神事に逢ふべき事更に心得がたう候。トモ「いや/\如何に仰せ候ふとも叶ひ候ふまじ。ワキ「なう/\暫く。 げにも其子細をご存じ候ふまじ。よく/\御聞き候へ。昔より此吉原の宿に。 今夜泊りたる旅人は。

何れも/\今日の池贄の御神事に御逢ひ候ぞとよ。 急いで御帰あつて。その御神事に御逢ひ候ひて。 めでたう頓て御かへり候へ。 シテ「委細承り候。以前も申し候ふ如く。 其所の神事などと申す事は。 その生が郷内の人などこそ執り行ふべけれ。 いづくともなき旅の者の。この池贄の御神事に逢ふべき事。 心得がたく候。 ワキ「さてこそ大法とは申し候へ。シテ「げに/\尤にて御座候へども。平に公の私を以て。 我等がことをば御免あらうずるにて候。 ワキ「扨は昔よりの大法を。貴方一人して御破り候ふな。 シテ「暫く。其儀にてはなく候。 此上にて候ふ程に。 恥かしながら真直に語り申し候ふべし。是は都の者にて候ふが。 如何なる宿縁にや某が代となつて。 事の外けいくわい仕り。世路をも営み難く候ふ程に。 東の方に知る人の候ふを頼み。 妻子伴ひ下る体にて候へば。平に通して給はり候へ。

ワキ「げに/\歎き給ふは理なれども。 昔より今に至るまで。 親を取られ子を取られ。 妻や夫の別をする者その数を知らず。よし/\前世の事と思し召し。 御池へ出でさせ給へとて。神主官人すゝむれば。 ツレ子方二人「いかゞはせんと母や姫は。 父の袂にすがりつけば。 シテ「父も云ひやる方もなく。たゞ茫然と呆れ居たり。 ワキ「かく休らひて叶ふまじと。 三人が中を押し分けて。トモ「先に追つ立て行く有様。 ワキ「物によく/\譬ふれば。 地「中有黄泉の罪人の。呵責のせめもかくやらんと。 思ひ白露の。消ゆるばかりの心かな。 これかや屠所に赴ける。羊の歩程もなく。 涙とともに行く程に。 富士の御池に着きにけり。/\。 ワキ「さて富士の御池に着きしかば。 神主を始め禰宜や乙女。 神楽をのこに至るまで。御池のあたり坐列せり。

地「贄の御鬮は一つなれども。 もし我にてやあるべきと。思ふ人数は数百人。 ワキ「胸を抱き手を握り。地「色を失ひ。ワキ「肝を消す。 地「誰が身の上と白雪の。 深くぞ頼む氏の神。守らせ給へと手をあはせ。 祈誓申しけり。 ワキ詞「神主やがて立ち上り。/\。 御鬮の箱の蓋をあけ。諸人に取らせ数を見る。 地「数の人々残なく。 御鬮を取りて立ち帰り。披きて見れば一の鬮。 なきは喜ぶその中に。因果非運はこれかとよ。 旅人の娘取り当り。 臥しまろびてぞ泣き居たる。/\。ワキ詞「旅人は三人あるか。 鬮は二つ出でてあるぞ。あの旅人の中に。 今一つの鬮を出せと申し候へ。 トモ「畏つて候。如何に旅人へ申し候。 三人御座候ふが鬮は二つ出で候。 今一つの鬮を御出しあれと神主殿より仰せられ候。 シテ「いや早悉く参らせて候。

トモ「いや幼い人の鬮が出で申さぬげに候。 さればこそこれに候。や。しかも一の鬮にて候ふよ。 母「げになうこれは一の鬮にて候ひけるぞや。 悲しやな都の内を迷ひ出でて。 知らぬ東に下る事も。 御身を人にもや成すと思ひてこそ。物憂き旅にも思ひ立ちたれ。 さて御身に離れては。母は何となるべきぞや。 あら浅ましや候。 姫詞「なうさのみな御嘆き候ひそ。 この鬮を母や父御の取り給はば。みづからは何となるべき。 さりながら只今別れ参らすべき。 御名残こそ惜しう候へ。シテ「げに/\けなげなる事を申し候ふものかな。 二人の親何れにても取り当りたらば。姫は何となるべきと。 孝行なる事を申し候。なう/\この貴賎群集の中にて。さのみな御嘆き候ひそ。 同じ親にて候へば。 何れも嘆は劣るまじく候へども。始よりこの御鬮に参るよりして。 。

三人が中に一人取り当らうずると覚悟仕りて候ふ程に。 某はちとも嘆くまじく候ふよ。母「妾も左様には思ひ候へども。 これは余りの事なれば。 現とも更に思はれず。シテ「父も弱げを見えじとて。 心づよくは言ひながら。 さすが親子の中なれば。忍ぶ涙はせきあへず。 母「こはそも夢か現かと。姫に取りつき悲しめば。 シテ「父もろともにすがりつき。 シテツレ二人「さても親子の契とは只今ばかりの対面なれば。 父母をもよく見よ。姫をもいま。 限と見ればかきくれて。いとゞ涙の搴セ。 地「富士の煙の上もなき。思や我に知らるらん。 げに別こそ悲しけれ。上歌「なげきには。 如何なる花の咲くやらん。/\。 身となりてこそ思ひ知らるれと。詠ぜし人の心も。 今身の上とあはれなる。 貴賎群集は之を見て。げに理や父母の。 思はさこそと夕露の。袖をしをりてもろともに。 歎き合ひたる気色かな。/\。中入「。

ワキ「既にその期になりしかば。 神主宮人のこりなく。御池のあたりに並み居たり。 地「さてかの船には御幣を飾り。 五重の荒菰その上に。贄の乙女を据ゑ置きたり。 ワキ「神主御幣おつとつて。 既に祝詞を申しけり。謹上再拝。敬つて白す大日本国。 駿州富士の郡下方の郷。 大蛇の御池にして。贄の乙女を供へ奉る処なり。 仰ぎ願はくは。青蓮の御眼鮮かに。 棹鹿の八つの御耳を振り立てゝ。 聞き入れ納受垂れ給へ。地「や本地覚王如来。 寂光の都を出でて。ワキ「かりに垂跡と現れ。 一業所感の迷の衆生を。救はん方便の殺生。 地「有難けれども願はくは。 池贄をとゞめて国土の人民の。憂を助けてたび給へ。 地「あれ/\見よや御池の面。/\。 さゞ波立てゝ水渦巻き。 風吹き荒れて朱の赭舟。おのれと沖にゆられて行けば。 父母あれはと舟を慕へば。

姫も互いに名残を惜み。招けば招く風情はさながら。 松浦佐用姫かくやらんと。 汀にひれ臥し泣き居たり。後シテ「抑これは。富士権現の御使。 日の御子の神なり。 さても此度贄の御鬮を。旅人の娘取り当り。 父母余の嘆にや。大願様々あり。 今よりして池贄を止め。国土安全になすべしと。 地「神託あらたに聞えしかば。/\。 曇る空晴れ風静まつて。白浪は平波となつて。 池水の面悠々たり。シテ「譬へばその昔。 出雲の国や簸の川上に。大蛇の池贄あつて。 稲田姫を取らんとせしに。 素盞嗚尊は居まして。剣を抜いて忽ちに。 毒蛇の八つの頭を。皆いち/\に打ち落して。 それより池贄止まりけり。其如くにこの悪蛇をも。 富士権現の御罰に依つて。 今より池贄とどまるべしと。告げ知らしめて此舟を。 もとの汀に漕ぎよせて。 姫を二親に与へつゝ。さて日の御子は白雲に。

輝き昇るや富士の嶽。雪や烟に立ちまぎれ。 雪や烟に立ちまぎれ内院に。

神は上らせ給ひけり

ツレ子次第「浮雲さそふ夜嵐や。/\。 月の行方を尋ねん。サシ「これは筑紫筑前の国。 苅萱殿と申す人の妻や子にて候。 さても苅萱殿。 たゞ仮初の物詣と偽り御出ありて後。かつて音づれましまさず。 過ぎにし秋の頃かとよ。風のたよりの音づれに。 紀の国高野とやらんに。 様かへ憂き世を厭ひおはしますと承りて候へば。 叶はぬまでも尋ね行き。 変れる御姿をも見参らせんと思ひ立つ。 道行「心を道のしるべにて。/\。親子誘ひ立ち出づる。 今日幾日。結びかへたる草枕。 夢に道行く心地して。遥々こゝに紀の国や。 高野の麓に聞えたる。かぶろの宿に着きにけり。

/\。子「いかに誰か御入り候。 一夜の宿を御貸し候へ。 ワキ「安き間の事御宿参らせうずるにて候。奥の間へ御入り候へ。 子「心得申し候。母「いかに松若。 子「御前に候。 母「妾は女の身なれば高野へは叶はず。御身はこれより寺に上り。 父の行方を尋ねて下り候へ。子「畏つて候。 遥々分け上り候へども。しん/\として人にも逢はず。あら心すごの道や候。 この所に休らひ人を待ち。 高野への道を尋ねばやと思ひ候。シテ一声「捨て果つる。 身を奥山の住居こそ。憂き世を厭ふ心なれ。 サシ「これは高野住山の沙門にて候。 夫れ人間のあだなる事。風の前の灯槿花一日。

人以て同じかるべし。 この理にまかせつゝ山林に交り。歌「採るや薪のしば/\も。 /\。有りと思はぬ心かな。 大師出世の時待ちて。我等如き者までも。 慈尊三会の暁に。生れん事ぞ頼もしき。/\。 シテ詞「あら痛はしや裾は露。 袖は涙に打ちしをれて。 さながら思ありと見え給ひて候。いかなる人にてましますぞ。 子「是は人を尋ねて高野へ上り候ふが。 在所を知らず候。シテ「あら何ともなや。 高野の広。 き事を語つて聞かせ申さうこなたへ渡り候へ。抑高野と申すは。 八葉の嶺八の谷に坊多し。まづ壇上より奥の院の道。 三十七町。則ち三十尊を表せり。 院を四十九院に分つ事。都卒の内院を現し。 或は念仏三昧の道場も有り。 其外堂塔甍を並べて夥し。皆これ真言一つの霊場にて。 鈴の声々もの凄く。 谷々嶺々より立ちのぼる。

護摩の煙雲や霞と等しうしてさんかうを潜め。誠は大師結界の地と見えて。 心も言葉も及ばれず。かほどに広き所を。 いづくを境に御尋ね候。 あまりに大やうに御入り候ふものかな。 子「先に人に尋ねて候へば。発心の人の集まる。 苅萱堂を尋ねよと申し候ひつる。 シテ「それはさる事も候ふらん。 我等如きの荒入道多く集まり。初心の程は木を切り水を汲み。 又ある時は里々に出で。 頭陀を行ずる人もあり。それも諸国の集にて。 左右なう尋ねあふ事難かるべし。 さて御身はいづくの人にて渡り候ふぞ。 子「是は筑紫筑前の者にて候。 シテ「筑前にては誰にて渡り候ふぞ。子「苅萱と申し候。 シテ「苅萱殿の為には何にて渡り候ふぞ。子「唯一子にて候。 シテ「言語道断。 これなる者を如何様なる者ぞと存じて候へば。 古郷に残し置きたる一子にて候。 何者か此山路を凌ぎ遥々来候ふべき。持つべきものは子にて候。

。 やがて父と名乗つて喜ばせばやと思ひ候。や。あら何ともなや。 一度切りたる恩愛の絆。三世不可得の内に。 誰やの者か子となつて来り候ふべき。 我持戒の身なれども。 妄語を出しこの者を返さばやと思ひ候。 何筑前の人にて渡り候ふとや。子「さん候。 シテ「たゞ今御尋の苅萱殿は。去年の秋の頃往生にて渡り候ふよ。 御歎尤にて候。やがて古郷に御下り候へ。 子「麓に母御の御入り候ふ程に。 此由申し候ふべし。 シテ「何と麓に母御の御入り候ふとや。急ぎ御下り候ひて。 此由御申し候へ。シテ「別れし我が子に行き合ひて。 共に言葉をかはせども。 子「父とも知らぬ心こそ。神ならぬ身の習なれ。 シテ「落つる涙をせき止めて。子「共に心を。 シテ「筑紫人。地「空言しける父ぞとは。 後にぞ思ひ白雲の。たづきも知らぬ山中の。 道より別れ立ち帰る。/\。

。 ワキ詞「たゞ今の女性の旅人は道より風の心地せしと仰せ候ひしが。 以ての外御煩の由に候。 罷り出でて尋ね申さうずるにて候。 誠に是は以ての外御煩と見え給ひて候。なう/\。や。言語道断。 由なき人に宿を参らせ迷惑仕りて候。 仮初の風の心地と仰せられ候ふ程に。 色々看病仕つて候へども。空しく成り給ひて候。 又御子息を寺へ登せ申されて候ふが。 未だ御下もなく候ふ程に。 路次まで御迎に参らばやと思ひ候。 御下待ち兼ね申して候。母御の風の心地と仰せられ候ふ程に。 色々看病仕りて候へども。 空しく成り給ひて候。かゝる面目も無き次第にて候。 こなたへ御出で候へ。 。 子「うらめしや我等程物思ふ者はよもあらじ。一方ならぬ身の歎。 さて自は何となるべきぞや。あら悲しや候。 ワキ「御歎尤にて候。

また御最期の時硯料紙を召されて。 この文をのこし置き給ひて候御覧候へ。ワキ「いかに誰かある。 狂言「御前に候。ワキ「汝は御寺に上り。 一大事の子細を申さう。 御客僧に御下あれと申せ。 。 ワキ「たゞ今呼び下し申す事余の儀にあらず。旅人に宿を貸して候へば。 仮初の風の心地と仰せ候ひしが。 今夜空しうなられて候。そと供養あつて給はり候へ。 シテ「安き間の事にて候。いづくに渡り候ふぞ。 ワキ「此方へ御入り候へ。 シテ「里へ下り候ふには。師匠聖人に十念を受けて下り候。 忘れて候ふ程に。 十念を受けやがて罷り下り候ふべし。 ワキ「これは仰にて候らへども。此際にて候ふ程に。 何の苦しう候ふべき。そと供養あつて御上り候へ。 シテ「いや我々が大法にて候ふ程に。 やがて罷り下らうずるにて候。ワキ「暫く。 此間申し承り候ふも。

斯様の一大事を申さうずる為にてこそ候へ。さやうに候はゞ。 大師も御照覧候へ。 今日より中を違ひ申さうずるにて候。シテ「なう/\心を静めて聞し召され候へ。 只今空しく成りたると承り候ふは。某が妻にて候。 又あれに候ふは一子にて候。 以前御寺にて某を尋ねて候へども。 父は空しく成りたる由を申して追つ返して候ふ程に。 何と思ふとも対面の事は思も寄らぬ事にて候。ワキ「言語道断。 不埓なる事を承るものかな。 なう不得心なるも事によりたる事にて候。 御出で候ひて御対面あらうずるにて候。 シテ「やあいかに松若。 以前寺にて父は空しく成り。 たると申し候ひつるは偽にてあるぞとよ。 子「実によく見れば別れし父にてまします不思議さよ。始のわかれは偽にて。 シテ「後の別は。子「誠なる。 地「同じくは母のわかれをも。又偽になさばや。 シテ「それに持ちたるは母が文にてあるか。

是へ持ちて来り候へ。諸共に読み候ふべし。 それ有為の転変を見るに。 芝蘭は散じ易く瑠璃は脆し。本の雫末葉の露の下草の。 後れ先だつ世の習。 今始めたる歎と思はずして。父にも尋ねあふならば。 同じ如くに様をかへ。 自が菩提を弔ひて得さすべし。それにつけては何よりも。 唯仮初と思ひし身の。今は帰らぬ道に出でて。 中有の闇に赴く憂の涙。 悲しみてもなほ余あり。又いにしへ人の御かたへも。 万申したき事のみ多けれども。 次第にこの身も弱り心定かならざれば。 さながら止め申すなり。高野山。 行かぬ習の道なれば。煙となりて立ちや上らんと。 地「書き流したる水茎の。跡を見るこそ涙なれ。 子「さこそ実に我が母の。 我を遅しと松風を。待たでも花や散りぬらん。 シテ「花は散りて根にあれば。又来ん春も頼あり。 子「月は出でて入るなれども。

世に尽きせずは見るべし。 地「それ人間の別は又いつの世にか逢ふべき。 かゝる憂き世にあだし身の。なに中々に生れ来て。 さのみに物や思ふらん。クセ「されば忝き。 我等が本師釈尊は。抜提河のほとりにて。 終に涅槃を遂げ給ふ。況や我等。 迷妄の衆生として。死をばいかで遁るべき。

シテ「凡そ人界の有様を。 地「暫く思惟して見れば。 くはいらいほうとうにひかを争ひ。まこと何れの処ぞや。 妄想転倒夢幻の世の中に。有るを有るとや思ふらん。 今よりしては速に。心の玉を磨きつゝ。 同じ如くに様をかへ。 母の菩提をもろともに。弔ふ事ぞ有難き。/\

。ワキ詞「やあ/\太子を討ちとめ申したるか。狂言「さん候。 この木の本まではめがけ申して候ふが。正しく御馬は天に上り。 太子はこの木の本にて見失ひ申して候。 ワキ「言語道断の事。 扨は此木不審候ふ程に。 杣を召してこの木をなほさせうずるにて候。ツレ「然るべう候。 急いで杣を召されうずるにて候。 このあたりに杣があるか急いで召し候へ。狂言「畏つて候。

いかに杣があるか急いで参り候へ。 シテ「杣と仰せられ候ふは。何の御用にて候ふぞ。 狂言「いかに申し候。杣を連れて参りて候。 ワキ「いかに杣この木を急いで伐り候へ。 。 シテ「この木は何の御為に伐らせられ候ふぞ。 ワキ「さん候太子を追つ駈け申して候へば。御馬は天に上り。 太子はこの木の蔭にて失せ給ひたる間。 この木のなか不審に候へば。急いでこの木を伐り候へ。

シテ「暫く候。これは仰にて候へども。 御馬は天に上る程の太子の御神変ならば。 。 この木を伐る隙に天にも上り地にも入らせ給ふべし。労して功なし。 あたら木な伐らせ給ひそとよ。 その上春日の明神の神託にも。人の参詣は嬉しけれども。 詞「木。 の葉の一葉ももすそに着きてや去りぬべきと。惜ませ給ふかんたうの。 伐ること勿れ春風の。 庭前の木を伐るも空にといへば目に見えぬ。鬼神よりも恐ろしき。 太子の御謀。にぐる由にてその跡に。 入れかへ勢や候ふらん。秋の夜の長追して。 怪我せさせ給ふな。あけぐれは。 かへさの道も如何ならんと。 諫めおどされ軍兵ども。皆退散しぬ嬉しやな。 扨こそ太子の御命。いきの松原今までの。 心尽も痛はしや。早々御出で候へと。ほと/\とうつぼ木の。箱を開けたる如くにて。 二つに割るれば忝なや。

太子は恙ましまさず。扨こそこの木をば。 神妙むくの奇特とて。花紅葉ならねど名木の。 名をば残すなれ。クセ「太子この木に御向ありて。 三度礼し給ひて。我を孕める木なれば。 へいさん木と名づくべし。 これぞ誠のははその。もりやが責を助けたりや。 誰か云つし花物いはずとは。 軽漾げきしんの害を遁るゝ嬉しさよ。一仏成道。 観見法界。草も木も成仏と。唱へさせ給へば。 あれ三日月の割れたりき。 このめ春草生ひ合ひて。もとの大木となりたりや。 この事聞き及び落ち散りたりし軍兵も。 皆皆参じけるにこそ。この老翁が志。 神妙むくのきどくとて。 仰がぬ人ぞなかりける。/\。 ツレ詞「かゝる有難き御事こそ候はね。太子の御神変により。 皆々御方に御参りめでたく存じ候。 ツレ「先々只今馳せ集つたる。御勢はいか程あるぞ。 急いで到着につけ候へ。狂言「畏つて候。

到着につけ申して候へば。四十八騎御座候。 。 ツレ「この御勢にては余りに無勢に候ふ程に。あの生駒の嶽に篝をたかせ。 国中の御勢を集めて。御合戦あれかしと存じ候。 翁も古き者なれば。 罷出でて意見を申し候へ。ゼウ「畏つて候。先各々御申の分を。 太子へ尋ね申されうずるにて候。 ツレ「げにげに太子の何と思召し候ふらん。 まづ尋ね申さうずるにて候。いかに申上げ候。 只今馳せ集つたる御勢。 四十八騎ならでは御座なく候ふ間。生駒が嶽に篝を焚せて。 国中の御勢を御待ちあれかしと存じ候。 但し何とか御座候ふべき。 太子「扨も此度の合戦身の為にあらず。 只仏法興隆の為なり。 然れども衆生の悪業に引かれ打ち負けぬれば力なし。 此度は守屋が矢先にかゝり命を失ふべし。志あらん人々は。 我を貢いでたび給へと。 直衣の袖を両眼に当てさせ給へば。

軍兵どもも鎧の袖を濡らしけり。 ツレ「さては太子の御心中委しく承り候。尤にて御座候。いかに翁。 然るべきやうに意見申し候へ。 ゼウ「仰承りて候。面々は静かにかゝつてと承る。 太子は偏に御討死となり。 されば君と臣との御手立てはたとかはれり。 かやうに申す翁も。逆臣どもにせばめられて。 あの生駒が嶽に候ひしが。 此度は太子の御手に属し申すべし。爰に一つの奇瑞あり。 只今馳せ集まる御勢四十八騎なり。 太子の御本地救世観音。 地「本地弥陀の御誓願も。四十八騎の仏弟子にて。 十万億の無明を滅ぼし。極楽城に立籠つて。 衆生を迎ヘ給へり。かう申す翁も。三笠の山守。 我が神力をかすがの藤。 かゝらせ給はゞ佐保の川波。寄手の人数に加はるべし。 /\とて。かき消すやうに失せにけり。 /\。ワキ「邪正二つの御争。 一如になれとぞ。責めたりける。

それ我が朝は神国なり。/\。神は非礼を受けたまはず。 仏法好の悪太子。 地「あますな泄らすな討ち取れや浦浪の。 ワキ「寄せつ返しつ秋の田の。稲村がじやうしちやうげし。 阿鼻獄の。底も動けと。 をめき叫んで戦うたり。地「かゝつし処に榎が城よりも。 さ。 も花やかなる武者一騎進み出でて名宣るやう。これは守屋が弟に。勝海の連。 かつうみと海に勝つといへば。 名詮自称にえらみ出されて。日の大将とぞ。 名宣りける。ツレ「只今名宣りたる者は。 守屋が弟に。勝海の連と名宣つて候。 又此方よりも名宣つて聞かせうずるにて候。 其時太子の御方より。 秦の河勝進み出でて名宣る様。抑君をば海に譬へ。 臣をば川に譬ふると言ふ。 その流を汲んで海内にをさむ。かう申す河勝も。 河に勝つといへば。これも名詮自称なり。/\。 いかなる宇治川淀川なりとも。

海に勝つべきやうやあるとて。 一度にどつとぞ笑ひける。その時守屋は腹を立て。/\。 うはざし握むで忝くも。 太子に向ひて申すやう。これは守屋が射る矢にあらず。 物部の明神の。 遊ばす矢なりとよつぴきひやうと。 いのめをすかせる黄金のあぶみの。鳩胸ふつと射ちぎりたり。 あぶみがなくば。あぶなき御命。 射はづしけるこそ安からね。太子も当の矢遊ばしけるが。 /\。これ自が射る矢にあらず。 四天の遊ばすおでうづなりとて。 放し給へば不思議やな。

この矢がすぐにも飛ばずして。天に上ると見えつるが。 守屋が首をなりまはつて。口の内にぞ立つたりける。 シテ「さしもに猛き守屋が強力。 さしもに猛き守屋の強力。さも弱々と老木の柳の。 緑の梢も朽榎木の。諍識も尽き果て。 我慢も倒れて。櫓より落つるを。秦の河勝。 頸を打たんと太刀振り上ぐれば。 守屋下より如我昔諸願。今在満足と。 法花経の一の巻を。息の下にて誦しければ。 気一切衆生皆令入仏道と。次の句を唱へて。 守屋が頸を打落とす。難波の寺の古。 残るや秋の月影

頼朝詞「いかに佐々木。 木曽が狼藉鎮めんため。皆西国にさし遣はしてあるに。 何とて高綱は後れてあるぞ。 シテ詞「仰畏つて承り候。唯今出仕申す事余の儀にあらず。

。 あの一のつほう立つたる生食の所望にて出仕して候。 頼朝「生食が事は昨日梶原来り。源太を乗すべき馬なければとて。 頻に乞ひ候ひつれども。

梶原にさへ出さぬ馬なれば。 まして高綱には思も寄らぬ事にてあるぞ。 。 シテ「さては梶原にさへ下されぬ御馬なれば。まして高綱には下さるまじきとや。 いで梶原には諸事の別当を仰付けられ。 かほどの分限の者さへ御馬を申す。 まして身不肖の高綱が御馬申したらんは。 やは僻事にては候。今更かゝる奉公だて。 畏多く候へども。 さても我が君流人の御身とならせ給ひ。 伊豆の国蛭が小島に御座ありし時。 某も十四の年より御配所の御供申し。又その後石橋山の合戦に。 院宣を御忘れ給ひしを。 某一人駈け戻して大勢に割つて入り。院宣を給はつて。 二度君の御用に立て申し。 やは御意のよき梶原。かほどの奉公をば申し候。 他の非を申せば身のあやまり。 御馬のほしきは余の儀にあらず。 江州は佐々木が故郷なれば。

定めて宇治勢田の案内者仰せ付けらるべし。さあらん時は疲馬に乗り。 底の水屑とならんも口惜しく。 又ふる朋輩の申さんは。いかなる御馬なればとて。 一命を参らせ置き侍る。 一疋を惜み給ふと申さんは。 かつうは君の御難にもなるべし。あつぱれ御門出にて候はずは。 御前にて腹十文字に掻き切り。 某はあの宇治瀬田よりもなほ恐ろしき。 死出三途の大河をも。などかは渡し申さゞらんと。 地「無念の余りに覚えず落ちる。 涙を抑へて御前を立つ。恥かしの後姿や。 と思ひながらも又出でて。 一度君に見えばやと。シテ「ひそかに口説くと思へども。 思ひ余りて言ふ声の。頼朝「いかに佐々木。 シテ「御前に候。 頼朝「源太に逢ひては心得よ。はや/\生食取らするぞ。 地「御諚の下に高綱は。かの生食を牽かせつゝ。 勇む心はありながら。かくて恨を春駒の。 勇をなして上りけり。/\。中入「。

源太一声「さても源太は磨墨を牽かせ。 小高き処に駒駈け上げ。前後を遥に見渡せども。 磨墨にます馬無ければ。 心も空に浮島が原。名をも揚ぐべき富士颪。 シテ「高綱も生食を牽かせて。 さも静々と登路の。地「足柄箱根明けぬに早越え。 海山二つの夜を日に。駿河の浮島が原に。 先立つ勢にぞ追ひ着きたる。 源太「いかに誰かある。トモ「御前に候。 源太「唯今の声は正しく生食が嘶声なり。 。 いかやうの者の賜はりたるぞ尋ねて来り候へ。トモ「畏つて候。いかに申し候。 唯。 今のいばひ声は生食がいばひ声にてあるが。いかやうの人の賜はりにて候ふぞ。 シテ「佐々木が賜はりて候。 トモ「尋ね申して候へば。佐々木殿の御賜と申し候。 源太「佐々木名字も数多あるべし。 いづれ。 の佐々木が賜はつたると重ねて尋ね候へ。トモ「畏つて候。

佐々木名字も数多あるべし。 何の佐々木殿の御賜にて候ふぞ。 シテ「佐々木の四郎高綱が賜と申せ。ちとも苦しかるまじきぞ。 トモ「佐々木の四郎高綱の御賜にて候。 源太「佐々。 木に逢ひて物一言いはんその分心得候へ。いかに佐々木殿。 シテ「源太殿か珍しう候。源太「あら羨ましの生食や候。 シテ「ああ慾がましや。生食にましたる磨墨は候。 源太「いや全く其馬ほしきにあらず候。 昨日親にて候ふ者我が君に参り。 御馬の事を申し上ぐるに賜はらず。 面目を失ひ罷り帰り候ふに。佐々木殿の御賜は。 にくい君の御贔屓候ふな。 日頃の遺恨なけれども。君を恨むる子細あり。 汝と爰にて刺し違へ。郎等二人失ひて。 地「君に損取らせ奉りて。思ひ知らせ申すと。 手綱かいとり駈け合はす。 シテ「あふ伊豆箱根弓矢八幡も御照覧あれ。この馬は賜はらず。 盗みたる馬にてあるぞ。

先づ静まつて事を聞き給へ。あゝ早まつたる男かな。 源太「さて子細はいかに。 シテ「昨日某君に参り。御馬の事を申す処に賜はらず。 面目を失ひ罷り帰りしに。 折節御馬屋を見てあれば。かひ%\しき番の者も無く。 唯生食が舎人ばかりなり。 某兎角の事をば言はず。腰の刀を抜いて取らせ。 この馬を盗みてくれよ。 此度江州に討つて上り。高名極むるならば。 汝をば高恩に誇らすべしと言ひければ。 下揩フ身の悲しさは。慾にめでけるか。 又その際兎角辞しなば悪しかりなんとや思ひけん。 子細あらじと領掌す。 即ち八幡の御引合と有難く思ひ。 そのまゝそこにて日を暮らし。思のまゝに盗み馬の。 追手もこそはあるらんと。地「いさ白波の盗人を。

駿河の海や浮島が原。今や景季。 この上は君に科はなし。何の恨も夏引の。 糸を乱すや山の富士。打ち連れてこそ上りけれ。 シテ「嬉しやな高綱は。 地「求めたる命生食に。磨墨を牽きつれて上りけりや。 地「さる程にこれぞ名残の酒宴かなと。 佐々木梶原に諫められて。皆々馬を打ち寄せて。 源太「おり立つや。田子の浦波富士颪。 地「靡かぬ事もなかりけり。男舞「。 地「さる程に鳥が鳴く。東の大勢攻め上れば。 木曽の一党。三島高梨都を巽。 宇治瀬田二つの橋を隔てゝ。シテ「渡さん様こそ渚に乱杭。 地「底に大綱。波の隙行く駒の足に。 流れかゝるを綱切の剣は。 いふ名も高綱が勢。誉めぬ人こそ無かりけれ

シテ詞「かやうに候ふ者は。 小松の三位の中将惟盛の御内に。斎藤五と申す者にて候。 扨も惟盛西海へ打立ち給ひし時。 我等兄弟を召され六代御の御事を。 我等兄弟に預け置かるゝ。野の末山の奥迄も。 御行方を見届け申せとの御諚に任せ。 某兄弟は都に留まりて候。 又我が君の御祈の為に。王城の鎮守へ日参仕り候。 又只今も参り候。有難や昔在霊山妙法花。 今在西方名阿弥陀。娑婆示現観世音。 三世利益同一体。げに有難き悲願かな。 歌「慈眼視衆生悉く。誓普き日の影の。 曇なきよの御誓。後の世かけて頼むなり。/\。 南無王城の鎮守。六代御の御ゆくへを。 安穏に守らせ給ひ候へ。 ツレ「いかに人々この先へ。 斎藤五ばし御とほりありけるか。なに祇園へ社参と申すか。 やがて参り候ふべし。や。これに御座候。 いかに申すべき事の候。

シテ「あらこと%\しや何事にて候ふぞ。 ツレ「偖もこの暁時政大将大覚寺へ押寄せ。我が君六代御を召取り。 関東へ下向仕つて候。シテ「言語道断の事。 これは予てより覚悟の前にて候へども。 さて何と仕り候ふべき。 ツレ「いや左様に延々にては叶ひ候ふまじ。 その為にこれへ御笠御佩刀を持ちて参りて候ふ間。 是より追ひかけ御参あらうずるにて候。 シテ「さらば此所にて烏帽子を脱ぎ。 直に追つかけて参り御供申さうずるにて候。 ツレ「尤も然るべう候。 シテ「扨あるべきにあらざれば。着たる烏帽子を脱ぎ捨てゝ。 ツレ「着馴れ衣の旅姿と。 シテ「始めてなるこそ。ツレ「悲しけれ。 歌「互に前後を争ひて。/\。時政の跡を東国の。 道をさしてぞ下りける。/\。 次第「定なき世は中々に。/\。憂き事や頼なるらん。 二人「実にや命は朝露の。/\。 深きや心なるらん。

それ三界輪廻妄執久しく六趣の衢に廻り。二度三途のいづくに赴く事ぞ。 返す%\も悲しけれ。 まうさうしよえんの有様。不断輪廻の里に生るゝ。 人如必滅の苦を受くる。しやうゑんの春の霞は。 万徳の月を隠し。一げの縁永く尽きぬ。 況やかゝる夢の世に。 いつ迄とてか迷ふらん。歌「別路に今あふ坂の関越えて。 今相坂の関越えば。都の名残や尽きぬべき。 暫く輿をかきすゑて。互に跡を眺めけり。 /\。シテ「御覧候へ神なし森に当つて。 人の多く見えて候ふは。 定めて我が君六代御にて御座あらうずると存じ候。 ツレ「げに/\疑もなき六代御にて御座候。 やがて御参り候へ。 ワキ「方々はいかなる人なれば事とはず。 御輿の辺へはよられ候ふぞ。シテツレ二人「畏つて候。 これは六代御の御。 めのと子斎藤五斎藤六と申す兄弟の者にて候。少しく物詣仕る間に。 六代御をとり給ひ。関東御下向の由承り候ふ間。

路次より直に参りて候。 此度の御供をさせられて給はり候へ。 ワキ「扨は承り及びたる兄弟の人にて渡り候ふか。 さりながら御供の事は。中々計ひ難く候。 シテツレ二人「御意尤にて候へども。 時政の御心得にて御供させられて給はり候へ。ワキ「げに/\仰せらるゝも尤にて候へば。 先づ今日ばかり御供あらうずるにて候。 シテツレ二人「畏つて候。又申し度き事の候。何時にても候へ。 。 六代御の御最期の際を我等にしらせられて賜り候へ。御介錯に参りたう候。 ワキ「心得申して候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。ワキ「六代御の敷皮しかせ申し。 西の方へ直し申し候へ。トモ「畏つて候。 ワキ「御十念南無阿弥陀仏。 シテツレ二人「暫く御最期の際を。我等に知らせられ候へと。 堅く申し合せて候ふが。御失念にて候ふか。 ワキ「げに御存なきは御理。関東下向の囚人をば。 この神なし森にて殺害の刀とて。

時のまなびにてあるを御存なく候ふか。 シテツレ二人「げに/\承り及びたる事にて候。 誠の御最期をしらせて給はり候へ。 ワキ「心得申して候。ツレ「いかに申すべき事の候。 シテ「何事にて候ふぞ。 ツレ「六代御の御事は世に隠なき御事にて御座候ふに。 見申せば雑兵共の御輿に参り候ふ間。 我等兄弟御輿に参らうずるにて候。 シテ「これは仰尤にて候。 頓て時政に伺ひ申さうずるにて候。いかに申し候。 我が君の都出もこれが限にて候ふ間。 我等兄弟御輿に参りたう候。ワキ「いや/\方々の御輿かゝれたる事は候ふまじ。 御輿舁をば申付けて候ふ間。御輿添に御参り候へ。 シテ「苦しからぬ事。只御輿に参らうずるにて候。 ワキ「ともかくもにて候。 シテ「御輿に参らうずるにて候。シテツレ二人「斎藤五斎藤六。 未だならはぬ御輿のこれを限の御供と。よろ/\とかいて行く。心のうちぞあはれなる。

迚も消ゆべき露の身の。/\。 あるを限らぬ命は。鐘より先に散るものを。 誰も昔の跡やある。いざ立ち寄りて見て行かん。 鏡の宿はこれかとよ。/\。 ワキ「これははや鏡の宿に着いてあるぞ。 六代御の御宿をばかうとやを申付け候へ。 又斎藤五斎藤六御宿へは御参り叶ふまじ。 兄弟一所にも叶ふまじ。他宿を取りて参せ候へ。 トモ「畏つて候。いかに斎藤五斎藤六へ申し候。 六代御の御宿へは御参あるまじく候。 又御兄弟一所にも叶ふまじ。 他宿をとりて参らせよと申付けられて候。 シテツレ二人「我等此度御供申す事も。 旅宿の奉公申さん為にてこそ候へ。只御宿へ御参り候へ。 。トモ「いや/\これは御用心の為に仰せられ候ふ間。只他宿にあらうずるにて候。 さらば明日参りあはうずるにて候。 これは斎藤五の御宿にて候。 此方は斎藤六の御宿にて候。御宿を申付けて候。

ワキ「斎藤五が宿へ立越え申すべきやうは。 此度の御供心得難く候へども。 神なし森にて余に承り候ふ間。御供の事は同心仕りて候。 六代御の御事は。 世に隠なき囚人の御事にて候。その御供を御沙汰候ふ上は。 囚人と等しき御事なれば。刀を御出しありて。 御供あれと申し候へ。 自然刀の事辞退せば。神なし森にて預り申す。 御佩刀返し申すべし。肝要は御供叶ふまじ。 急ぎ都へ御上あれと申し候へ。トモ「畏つて候。 御使に参りて候。シテ「此方へ御入り候へ。 トモ「時政申し候ふは。 此度御供心得難く候へども。 神なし森にて御兄弟余りに承り候ふ間。御供の事は同心仕り候。 六代御の御事は。世に隠なき囚人の御事にて候。 その御供御沙汰候ふ上は。 囚人と等しき御事にて候へば。御腰の物を出されて。 御供あれと申され候。シテ「委細承り候。 此度時政関東御下向。世に隠なく候へば。

我等が事は六代御の御内の者とも。 時政の御内の者とも。 存ずる者はあるまじく候ふに。 まつ盛なる者の刀をさゝではいかゞに候へば。刀の事は御免も候へかし。 トモ「左様に存じ候うて。 時政も詞を返し申し候。刀の事辞退あらば。 神なし森にて預り申す御佩刀返し申すべし。 肝要は御供叶ふまじ。 急ぎ都へ御上あれと申し候。シテ「この御詞に草臥れて候。 さあらば刀を参らせうずるにて候。 トモ「尤も然るべう候。刀を取りて参りて候。 ワキ「只今は刀の事申し候ふ処に。 安々と御出し我等に於て神妙に存じ候。 刀を御出しの上は。囚人の縄かゝらぬ例なく候へば。 縄をかゝつて御供あれと申し候へ。 自然縄の事辞退せば。 以前神なし森にて預り申す御佩刀。 又只今の御腰の物いづれも返し申すべし。肝要は御供叶ふまじ。 急ぎ都へ御上あれと申し候へ。トモ「畏つて候。

又御使に参りて候。シテ「又御出にて候ふか。 トモ「時政申し候ふは。 唯今刀の事申す処に。安々と御出し神妙に存じ候。 刀を御出しの上は。 囚人の縄かゝらぬ例なく候へば。縄を掛つて御供あれと申し候。 シテ「刀の事仰せられ候へば。 安々と参らせ置き候。縄の事は御使の御心得に預り候へ。 トモ「さやうに存じ候うて。 以前の如く詞を返し申して候。縄の事御辞退候はゞ。 最前神なし森に於て預り申す御佩刀。 又只今の御腰の物。いづれも返し申すべし。 肝要は御供叶ふまじ。 これより都へ御上あれと申し候。シテ「暫く。 とにかくに刀を参らせ候ふ上は。縄をもかゝり。 いづくまでも六代御の御供を仕らうずるにて候。 トモ「尤の御事にて候。 さらば縄をかけ申さうずるにて候。シテ「中々の事。 トモ「縄をかけて参りて候。ワキ「聞及びたるよりも。 健気なる者にて候。

是と申すも六代御の御行方を見届け申さん為に。 面々程の者に刀を出し。縄をかゝりたる不便さは候。 只今斎藤五をあひしらひたる如く。 斎藤六館へも立越え。 刀を取り縄をかけて来り候へ。トモ「畏つて候。 いかに斎藤六の渡り候ふか。ツレ「御使にて候ふか。 此方へ御出で候へ。トモ「時政申し候は。 此度の御供の事心得難く候へども。 御兄弟余に承り候ふ間。御供の事は同心申し候。 六代御の事は。世に隠なき囚人の御事にて御座候。 その御供を御沙汰候ふ上は。 囚人と等しき御事なれば。 刀を出し縄を御かゝりあつて。御供あれと申され候。 ツレ「扨兄にて候ふ者は。何と返事を申して候ふぞ。 トモ「安々と刀を御出しあり。 縄御かゝりにて候。ツレ「やはかやさうには候。 トモ「いや某が縄をかけ申して候。 ツレ「言語道断の事。惣じて兄にて候ふ者は。 時政の御意を背かじと仕るによりて。

かやうに深だつたる事を承り候。 某が事は刀をも出すまじ。縄の事は中々思も寄らず候。 トモ「まづ御思案も候へかし。 ツレ「弓矢八幡参らすまじ。 トモ「御使なれば申し罷り帰りてその由を申さう。いかに申し候。 かの者は兄にかはり。刀をも出すまじ。 縄の事はなか/\思も寄らぬ由を申し。 狼藉を申し候。 御出あつて御成敗あらうずるにて候。 ワキ「某立越え成敗せうずるにて候。トモ「これが斎藤六が宿にて候。 ワキ「いかにこの屋の内に斎藤六やある。 ツレ「斎藤六これに候。何事にて候ふぞ。 ワキ「誠やごぶんは刀をも出すまじ。 縄をもかゝるまじいと云ふは誠か。 ツレ「中々の事侍の差いたる一腰。弓矢八幡参らすまじ。 ワキ「いで打つて捨てう。 シテ「これは如何なる事にて候ふぞ。 ワキ「ごぶんの弟斎藤六刀をも出さず。 縄をもかゝるまじきと申す程に。成敗のため来るよ。

シテ「その上御出は軽々しく候。 定めて御使のあやまりたるべし。 某刀をも取り縄をかけて参らせうずるにて候。 ワキ「急ぎとつて出し候へ。シテ「心得申して候。 なう其方が唯今の振舞は。又例の健気だてな。 はや某健気だては。 抜群に事過ぎて候ふものを。 命を捨てゝ我が君の御用に立つべくは。某も貴方にちつとも劣るまじ。 その上惟盛西海へ打立ち給ひし時。 我等兄弟を召され。それ侍の戦場に出でて。 討死する事珍しからず。六代御の御事をば。 我等に預け置かるゝ野の末山の奥迄も。 御行方を見届け申せと御諚ありし時。 正しく貴方も畏つたと申されつるが。 早くも忘れ給ふものかな。 我等はこの耳の底に留まつて。ちつとも忘れず候。 又よたしに承り候へば。侍のさいたる一腰。 弓矢八幡出すまじきと申されしよな。 これまた珍しき侍詞かな。

我等が事は沙汰の外の事。親にて候ふ斎藤別当実盛は。 北国倶利加羅志保の谷の合戦に罷下りし時。 大臣殿に参り申す様。北国は故郷なり。 。 故郷へは錦を着て帰ると云へる本文あれば。 あつぱれ錦の御直垂を給はつて討死せんと望みしかば。 やすき間の事とて錦の直垂を賜はる。時の面目後記の名聞。 。 これに如かじと既にその期に打つて出でしが。道よりも思ふ様。いや/\今時の若武者は。 老武者を相手に嫌ふものをと思ひ。傍に忍び鬢鬚を墨に染め。 若やぎ討死せし事。やは天下に隠の候。 その子供に斎藤五斎藤六と申す者。 侍と名乗らず。今もやは凡下とけすしや候はん。 その上敵と逢うて討死をするとも。 思ふ敵には逢はずして。 雑兵の錆刀の尖にかゝつては。死んでも恥辱なり。御覧候へ某は。 刀をも出し縄をかゝりたる上。 某が恥は貴方が恥。ごぶんが恥は某が恥。

かやうの子細をも貴方はよく存すべけれども。 腹の立つのあまりにこそ申されつらめ。 唯刀を御出しあり縄をかゝつても。 六。 代御の御行方を見届け給はん事肝要にて候。はや/\御思案にも及ばぬ事たゞ御出し候へ。刀を取りて参りて候。 縄を御かけ候へ。 ワキ「かの者は兄にかはり一段縄をいましめ候へ。トモ「心得申して候。 ツレ「遥々の路次の事にて候ふ程に。 縄をば御宥免候へ。 子「あさましの身の果やな。一族共にとにもかくにも果てもせで。 憂き目を見る事の悲しさよ。 斎藤五斎藤六。迚も敵の手にかゝらば。 心の儘に討死し。名を後の代に揚ぐべきに。おめ/\と生捕られ候ふ事。偏に自ら故ぞかし。 二人にかけたる縄を解き。 六代を縛めおはしませと。歎けども/\かひもなぎさの涙かな。たが別とか鳴る鐘の。/\。 憂き世の名残や尽きぬべき。

朝たち行けば近江路の。末を急ぐぞ遥なる。/\。 ワキ「急ぐ。 間これははや駿河の国千本の松原に着きて候。文覚上人と申し合せたる日数は。 今日迄何十日にてあるぞ。 トモ「はや廿一日にて候。 ワキ「扨は鎌倉殿の御訴訟も叶はぬと存じ候。それを如何にと申すに。 文覚。 上人とは廿日の間とこそ申し合はせて候へ。早日数も相違ひたる事候ふ間。 痛はしながら六代御を。生害させ申すべし。 さ。 あらば斎藤五斎藤六兄弟の者共縄を免し申すべし。御介錯に御参あれと申し候へ。 トモ「畏つて候。いかに御兄弟へ申し候。 時政申し候ふは。 文覚上人と申し合せたる日数も相違ひ候ふ間。 痛はしながら六代御を。生害させ申さうずるにてある間。 御兄弟の縄を免し申すべし。 御介錯に御参あれと申され候。 シテツレ二人「委細承り届け申して候。トモ「いかに申し候。 六代御の御事は流石に平家の棟梁にてましますに。

自然太刀かげなどに怯え給ひては。 御家の御難になるべし。 そと御最期の暇を伺ひ御申し候へ。シテツレ二人「げに/\是は思し召しよりて候ふ物かな。 我等ははたと失念仕りて候。 さらば頓て伺ひ申さうずるにて候。いかに申し上げ候。 人の最期のさまを御存にて候ふか。 子「中々心得てあるぞ。シテ「伺ひ申して候へば。 いつよりも健気に。中々心得てあると御諚候。 我等が未練を窘まうずるにて候。 ツレ「尤にて候。シテツレ二人「いかに申し上げ候。 文覚上人の御訴訟叶ふものならば。 一度都へ御供申すべく候ふ処に。 御訴訟叶はねばこそ此所にて御生害候へ。 死出の山三途の川とて候ふをば。我等兄弟御供申すべく候。 御心安く思召され候へ。西方にて候ふ間。 かやうに合掌して御座候へ。 三人「かくて主従手を合せ。南無阿弥陀仏弥陀仏。 一仏浄土の縁と生れ。同じ蓮に迎へ給へと。

落つる涙におさふる袖。 よそに弱げを見えじとて。歌「かきなほし/\。 おさふる袖の涙かな。ワキ「心は猛き武士の。/\。 岩木ならねば斬りかねて。 共に涙を流しけり。/\。 ツレ「なうその児斬りて文覚恨み給ふな。/\とこそ。 シテツレ二人「不思議やな文覚と。呼ばはる声は聞えねども。 詞「笠にて招くは疑なし。嬉しや疾くと招きけり。 ワキ「いつまでかくてあるべきと。 太刀抜き持ちて斬らんとすれば。 シテ「暫く候文覚上人の御訴訟叶はぬものならば。 其時失ひ給へかしと。 とかく支ふるその隙に。ツレ「文覚馬より飛んでおり。 六代御はいづくにましますと。 時政をとつておしのけ。六代御を引立て奉れば。 かしこう失ひ申すらん。 ワキ「扨御教書はいづくにあるぞ。 ツレ「文覚身に添へ持ちたるなり。ワキ「扨はといひて立ち寄り見れども。 御判と覚しきものはなし。

偽り給ふ文覚かな。ツレ「先づ鎮まつて事を聞けと。 首に懸けたる御教書を。 これはと云ひてさし出せば。 ワキ「時政おつ取り披き見れば。執筆広元頼朝の御判疑なし。 ツレ「扨は文覚偽らず。児をば此方へ給はるなり。 ワキ「げに此上はともかくもと。 いふ声を聞くよりも。貴賎上下の一同に。 どつと喜ぶ其声は。 千本の松原も響き合ひたる気色かな。ツレ「さるにてもあぶなき。 御命かなと上人も。警固の兵も。 皆涙をぞ流しける。ツレ「いかに申し候。 余に嬉しう候ふ程に。酒をもたせて候。 聞し召されて関東へ御下向候へ。 我等も六代御を御供申し。都へ罷り上らうずるにて候。 ワキ「畏つて候。文覚余の嬉しさに。 地「悦の舞をぞ奏でける。時政時をうつさじと。/\。 暇申せば上人六代を伴ひ給ひ。 御輿を先立て。急げやいその浪もろともに。/\。 都に帰るぞありがたき

。 シテ詞「是は武蔵国の住人横山の十郎晴尚にて候。さる子細候ひて上意にちがひ。 本領悉く召し放されて。さん%\の疲労の身と罷成りて候。 然れども従子にて候ふ。 久米川を在鎌倉せさせ候うて公方へ此事を歎き申し候。 か様に零落れては候へども。我若年より馬に好いて候ふ程に。 馬をば一疋立て置きて候。 余りに徒然に候ふ程に。 厩に出でて馬を見て心を慰まばやと存じ候。やあ馬の足掻する音のし候。 誰もないか馬に草かへ。 ツレ「いや誰もなく候。シテ「何とて見え候はぬぞ。 ツレ「昨日まで候ひし物を皆ちり%\になりて候。 。 シテ「扨此屋の内には御身と唯二人ならでは候はぬよなう。あら笑止や候。 草の一筋も候はぬよ。

此馬は殊の外草臥れて足を立てかねて候。是は唯今飢死に候ふべし。 実にや身の憂きまゝに。 故事の思ひ出でられて候。漢の高祖楚の項羽。 七十余度の戦に。項羽討負け給ひし時。 望雲騅といふ馬は。 ひと足に千里をかける名馬なれども。 膝を折り黄なる涙を流し一足もゆかず。騅ゆかず/\。 ぐい如何せんと歎き給ひしとかや。 されば其時も虞氏といふ后望雲騅。我等も夫婦馬一疋。 唐土我が朝高き賎しき品こそかはれ。 数行虞氏。 が涙もやはか我等が涙にはまさり候ふベき。ツレサシ「実にや此事さりとも/\と。 思ふ月日は重なり。次第々々に衰へて。 今は寒窓に煙絶えて。 春の日いとゞ暮らし難う。永日に灯火消えては秋の夜なほ長し。 シテ「家貧にして親知少く。

身賎しうしては故人疎し。 二人「親しき者だに疎くなれば他人は何とて訪ふべき。 一疋馬の残るこそ。物言はぬものゝ心ありて。 我にそふよとなつかしさに。 夫婦厩に立ち寄りて。泣くより外の事ぞなき。 シテ「か様に時刻移りつゝ。此馬なほ/\弱り候ふべし。 あたり近き武蔵野へ立ち出で草を刈りて。此馬の命を助けばやと思ひ候。 ツレ「いや妾出でて刈り候ふべし。 シテ「それこそ思も寄らぬ事にて候へ。 侍の時にとつて馬に草かふ事は苦しからず候。 か。 まへてあやしさうに外面へばし御出で候ふな。やがて参り候ふべし。 是処は忍ぶの草枕名取の夢な覚しそ都の方を思ふに。 。初雪トモ二人次第「明方近き浮雲の/\横山をいざや尋ねん。初雪サシ「これは鎌倉亀がへが谷に。 初雪と申す女にて侍ふ。 こゝに武蔵国横山の十郎晴尚。古世にまし/\し時。 常に情をかけ橋の。うき世を渡る習ながら。

四季折々の衣更。朝夕の煙の絶間までも。 偏にこの人の扶持なりしが。 所領たがひてさん%\の。疲労の由承り候。 世にまし/\し時は訪ひ訪はれ。 疲労の時は尋ねゝば。さてこそ流の女とて。 思も知らであるべきぞと。今日思ひ立つ旅衣。 。 下歌二人「野は遥々と武蔵なる横山さして急ぐなり。上歌「まだ夜をこむる山の内。/\。 松にかゝれる藤沢や。 春も名残となく鳥のおのちの里は晴尚の。 本領なるが相違する。それ故なりと思へば。 なつかしかりしこの里の。 科なきまでも恨めしや/\。初雪「いかにこの内へ案内申し候。 ツレ「誰にて候ふぞ。 初雪「これは鎌倉亀がへが谷に初雪と申す女にて候ふが。 此やを承り及び。御訪の為にこれまで参りて候。 扨殿はいづくに御入り候ふぞ。 ツレ「殿は夏狩へ御いでにて候。 初雪「扨いつ御帰り候ふべき。

ツレ「今四五日は御帰り候ふまじ。狂言シカ%\「。初雪「暫く候。 恩を蒙りて知らざるは。林の鳥の枝を枯らし。 野鹿の草を踏むが如し。是処にて月日は送るとも。 。 御目にかゝらざらん程は帰る事は候ふまじ。ツレ「あら笑止や。 人のありとも知らで殿の御帰り候ふべし。 妾園生より出で迎ひ。此事を申さばやと思ひ候。 シテ一声「何事も。皆かはり行く世の中に。 身はいつまでか。残るらん。今刈る草の露よりも。 余りて落つる。涙かな。 サシ「実にや浮世転変たる事。我一人に限らねども。 憂き時は唯晴尚が身の上とこそ存じ候へ。 我弓箭をとつては陳平張良をも恥ぢず。 蕭何が勢をなしゝ身なれども。 公方の御意に背きぬれば。さしもに広き武蔵野に。 憂き身の果は極まりて。 天にせをくゞめ地に抜足をし。僅なる茅屋に身をかくす。 いつまでかくてあるべきぞと。 思ふにかひやなかるらん。

かの岡に草刈るをのこ心だに。なければ花とも白露の。 多かる草を刈り。 地「持ちて家路にいざや帰らん刈り持つ草は何々。 かく浅ましくなり果つる。/\。 憂き身はともも夏草の思しげみを刈らうよ。あはれ昔と忍草。 同じ名にあらばいつか思を忘草。 忘れんと思ふ身の科は。 誰を恨みん葛の葉の帰るを誰と人問はゞ。 もとあらぬ身と答へんと小萩を刈りて帰らん。 詞「何とてこれまで御出で候ふぞ。 なんぼうよく草を刈りて候ふぞ。さて馬は苦しうも候はぬか。 ツレ「いや馬は苦しうもなく候。 あれには人の候ふ程にさてこれへ参りて候。 シテ「人とは誰にて候ふぞ。 ツレ「鎌倉亀がへが谷に初雪とやらん申す女の。 此やを訪ねて来りて候。シテ「それは古世に候ひし時。 さる体にてあひしらひたる君にて候。 此体にては何として見参し候ふべき。 幸ひ他行の由をば仰せ候はぬか。

ツレ「其由申して候へば。 御目にかゝらざらん程は帰るまじきとて皆押入りて候。シテ「いや/\此体にて候ふ間。何として逢ひ候ふべき。 然るべき様に仰せ候へ。 ツレ「是は仰にて候へども。 女の身にて遥々来りたる志も切に候へば。そと御見参候へ。 シテ「和上揩フ身にては。 殊更さ様の者には対面は叶ふまじきとこそ仰せ候ふべきに。 遥々来りたる志も切なれば。 見参し候へと承り候ふが。 さらば見苦しく候へども見参し候ふべし。いや/\殊の外見苦しう候。 唯然るべき様に仰せ候ひて御帰し候へ。 。 ツレ「これに烏帽子直垂の候ふを召して御見参候へ。シテ「あら不思議や。 何としてさ様の物をば御持ち候ふぞ。 ツレ「自然御訴訟も叶ひ候はじと思ひて用意申して候。 シテ「あら有難の御志や候。 さらば之を着て見参し候ふべし。鏡を給ひ候へ。 ツレ「恥。

しながら左様の物を失ひてこそ此烏帽子直垂をば用意申して候へ。 シテ「扨は女性。 の手具足を失ひて烏帽子直垂を御用意候ふよ。さらば盥に水を入れて給はり候へ。 水鏡を見うずるにて候。 何としても散々のしたてにて候。 実にや親にて候ふ者は鎌倉一の男と云はれしよなう。 いで一年鎌倉殿若宮御参詣を御覧ぜられて候ふか。 。 ツレ「さん候我等もたてこしにて見物申して候。シテ「扨御供の人数は誰々ぞ。 ツレ「北条殿は御舅。一しほいみじく見え給ふ。 シテ「さてその外の人々には。 ツレ「新田南条。シテ「村田高橋。ツレ「吉河舟越。 シテ「横山の。地「よに越えたりと云はれしに。 その子と今は云ふべきか。 シテ「時移りては叶ふまじや見参し候ふべし。 はたと忘れたる事の候。扨客人に見参し。 酒を勧め候はではいかゞ候ふべきぞ。 ツレ「是に折節白き酒の候。 シテ「それこそ苦しからず候へ。

さて酌をば誰にとらせ候ふべきぞ。ツレ「酌をば妾出でて取り候ふべし。 。 シテ「いや亭主の出でて酌とる等と候へば似合はぬ事にて候。ツレ「こゝに謂の候。 さ。 きに人のなきまゝに出でてあひしらひて候。先に出でて今出でずは。 定めて妾と推量し候ふべし。 唯出でて酌を取り候ふべし。シテ「尤にて候。 さらば酌と申さん時御出で候へ。ツレ「心得申して候。 シテ「是まで遥々御出で候ふ御志。返す%\有難う候。 此体にて候ふ程に何の御肴も候はね共。酒を一つ勧め申し候ふべし。 唯志を御受け候へ。かの盧山の慧遠禅師。 虎渓を去らぬ禁足たりしに陶淵明かせうれい。 樽をいだきて虎渓に行き。 志を知らざらんは。鬼畜には劣るべし。 いざさらば酒を飲まんとて。地「昔の友にあふむ盃。/\の。酔にあやまり虎渓を出づ。 其酒はたくらうなり今此酒は上揩スちの。 御色にゑいするか。

殊更色の白きは志を肴にて今一つきこし召されよ。 初雪「いかに晴尚に申すべき事の候。シテ「何事にて候ふぞ。 初雪「扨先にあの上揩スちに尋ね候へば。 殿は夏狩へ御出と仰せ候。 夏狩とは何と申す事にて候ふぞ。ツレ「なう/\何と仰せ候ふぞ。 取敢へず夏狩へ御出と申して候。心得て御返事候へ。 シテ「何と夏狩の事を御尋ね候ふか。 此御肴に夏狩の事を語つて聞かせ申すべし。 クリ「抑御狩といつぱ。地「昔たうしう王とておはします。 めでたかりし御位も。鷹を叡慮にかけ給ふ。 シテサシ「其頃未だあら鷹の。 夜居の月の山に入り。地「野に出る日の暮るゝをも。 しらふの鷹を失ひて。鳥の落草かき分けて。 尋ぬる鷹を翁や知りて侍ると。 下す宣旨も重き鷹を。通別教に顕したり。 これぞ野守の鏡なる。又我が朝のその昔。 在原の中将。二条の后に参りしを。 いかな人か大君に。つげの小櫛の鬢の髪。

さしたる科に附せられ。遠流の身に業平は。 当国に下りて。入間の郡三吉野や。 今の川越の山かの庄に在りし時。 里の長のひとり姫。儲の君ともてなせば。 鄙人なりといへども。そのかたちらふたけて。 心に情あり明の。月にかゝる小夜時雨。 やもめ男のあこがれて。 宵々毎に通路の関。 守に姿を見えじと狩衣の袖を打ちかづき指貫のそばを高く取り。足早に歩みつゝ。 シテ「君が閨もる窓の隙。 地「かいま見ぬれば妻しある。遥々来ぬるきぬ%\の。 別となれば恋しくて。 三吉野のたのむの鷹もひたぶるに。君が方にぞ。 よるとなくなる。 それは秋かる鹿の声夫恋の歌の心なり。又夏狩の玉江の芦。 あしく語りなば。常座の恥辱家の恥。よし/\云はじ唯酒飲うで遊ばん。 シテ「吉野竜田の花紅葉。地「更科越路の。月雪。 シテ「さらばお肴にそと舞はふずるにて候。舞「。

ワキ「なう/\某が下つて候。 シテ「よき所へ御出でしものかな。 珍らしき御酌の候一つきこし召し候へ。 ワキ「某をば大事の訴訟に在鎌倉せさせ。 その身は在国とててうなみすゑての大酒は。 余りに似合はぬ。御風情候ふものかな。 シテ「御腹立尤もの事にて候へども。 珍らしき酌の候一つきこし召し候へ。 ワキ「さらば一つたべ候ふべし。なう/\安堵の御教書候ふよ。 シテ「あら有難や候。 殊の外たべ酔うて候そと遊ばし候へ。ワキ「将軍政所の下し。 横山の十郎晴尚。 本領武蔵国おのちの庄の事。 もとの如くかの地に附せらるゝ所也。建久三年五月日と読み上げたり。 。 地「かゝるめでたき御代なればや憂きもつらきも忘れ果て。 かのてうたちを伴ひて。はや鎌倉へ上りけり/\

狂言詞「か様に候ふ者は。 居鶴太夫季次にて候。扨も某が婿の磯屋の十郎治親は。 鎌倉殿につきて謀叛朝敵の者にて候ふ間。 召捕りて参らせよとの御事にて候ふ程に。 某御前にて領掌仕りて候。 兄弟の者を呼び出し談合仕らばやと存じ候。 いかに誰かある。トモ狂「御前に候。 狂言「太郎次郎に参れと申し候へ。トモ狂「畏つて候。 いかに。 太郎殿次郎殿急いで御参あれと仰せられ候。兄弟二人「扨我等をば何とて召され候ふぞ。 。 狂言「おことたち呼び出す事余の儀にあらず。 婿の治親を鎌倉殿より召捕つて参らせよ。 御感賞には上野下野両国を下されうずると仰せられ候ふ程に。 早々生捕りて参らせ候へ。 太郎「言語道断の事を仰せられ候。

侍が侍を頼むは斯様の事にてこそ候へ。我等は同心申し難く候。 狂言「いやいや左様に申しては叶ひ候ふまじ。 某御前にて領掌申す上は。

早々生捕りて参らせ候へ。太郎「某こそ斯様に存じ候へ。 扨次郎殿は何と思召し候ふぞ。 次郎「さん候親にて候ふ者。御前にて御領掌の上は。 何の子細の候ふべき。 太郎「扨は同心にて候ふか。次郎「中々の事。 太郎「扨かの者をば何と仕り生捕り候ふべきぞ。

次郎「さん候御前へ呼び出し生捕申さうずるにて候。 狂言「言語道断の事。 かの治親と申す者は大剛の者にて候。もし取り損じするならば。 おこと達は目にもかけまじ。 此尉が細頸ねぢ切つて捨てうずるは物にても候はず。 五里も十里も余所にて捕り候へ。 太郎「親。にて候ふ者の聊爾こそいよ/\あかつて候へ。次郎「我等もさ様に存じ候。 扨かの者をば何と仕り生捕り候ふべき。 太郎「さん候親にて候ふ者の仰には。 此所に永々逗留候へども。 何にても珍らしき事もなく候ふ程に。親にて候ふ者の茶事を興行中。 。 かの者の宿所へ立越え呼出し生捕らうずるにて候。 次郎「是は日本一の御たくみにて候。 太郎「いかに此屋の内に治親の御入り候ふか。シテ詞「か様に候ふ者は。 磯屋の十郎治親にて候。 今日は親にて候ふ者の命日にて候ふ程に。 持仏堂に参り焼香せばやと存じ候。

太郎「いかに治親の御入り候ふか。シテ「居鶴が声にて某を呼び候ふよ。 太郎「いかに治親の御入り候ふか。 シテ「治親と召され候ふは誰にて渡り候ふぞ。 太郎「居鶴が参りて候。シテ「や。 よく御出にて候。扨只今は何の為の御出にて候ふぞ。 太郎「さん候此所に御逗留候へども。 いか様なる興行も候はねば。 親にて候ふ者茶事を興行候ふ程に。 御出あれと申され候ふ間。御迎に参りて候。 シテ「何と仰せ候ふぞ。我此所に逗留申し候へども。 いか様なる慰も候はねば。茶事を御興行あり。 某に参れと候ふや。太郎「中々の事。 シテ「参りたうは候へども。ちと隙入る子細候ふ程に。 重ねて参らうずるにて候。 太郎「さ様に辞退あるべきと存ぜられ。 来頭を治親と御指しにて候。 シテ「何と某に来頭を御指しと候ふや。太郎「中々の事。 シテ「御聊爾こそ猶あかつて候へ。此度参り候はねば。 来頭。

を辞し申すにてこそ候へ参らうずるにて候。 太郎「日本一の事やがて御供申さうずるにて候。さあらば御出で候へ。 シテ「まづ御出で候へ。太郎「某参らうずるにて候。 次郎をばあとに召され候へ。 シテ「さあらば次郎殿御出で候へ。 シテ「扨珍らしからぬ事にて候へども。 某謀叛朝敵の身と准ぜられ。骸を塵芥に埋むといへども。 方々の御芳志たるによつて。 心は樊於期が謀を廻らす。太郎詞「何と謀叛と候ふや。 シテ「ああ音高う候。太郎次郎二人「御心安く思し召せ。 我等一類多ければ。 よき同意ありと思し召し。唯打ち解けよと諫むれば。 シテ「扨は同意か。太郎「中々に。 シテ「今の我等が謀を。上歌「人や聞くらん壁に耳。 地「人や聞くらん壁に耳。よそ目あらましの。 末さていつかしらま弓。いはじかしかまし。 人目をつゝむ身なるに。 太郎「やあ上意たるぞ。シテ「抑これは何事ぞ。 太郎「我等本意にあらねども。上意の趣搦め取り。

関東へ具足し申すべし。 シテ「上意の事はさる事なれども。たばかりけるは無念なりと。 引立て行けば。二人「引きすゆる。 シテ「をりあふ者は。二人「十余人。 地「前後左右よりをりあひて。やがて千筋の縄をかけ。 鎌倉へこそ上りけれ/\。 三人次第「散りにし花の名残ぞと。/\。 風やこのみを誘ふらん。サシ「扨も治親朝敵とて。 鎌倉に籠舎し給へば。これも敵と思ひ子の。 いとけなき身に縄をかけ。籠輿にのせ奉れば。 唯籠中の鳥ぞうき。 下歌「弓矢の家の名の為に。上歌「命なほ軽き例に思ひ子の。 /\。 いとけなやいたはしや慰め兼ねて旅心。急がぬ道の日数経て。 早鎌倉に着きにけり/\。居鶴太郎詞「急ぎ候ふ程に。 鎌倉に着きて候。 某が宿にて休め申さうずるにて候。シテ「猛虎深山にある時は。 悪竜おじをのゝくと云へども。暗洞の内に於て。 尾を振つて食を求むると云ふ。

古人の心も今身の上に知られたり。 あらいぶせの籠の内や。 太郎詞「言語道断さしもに猛き治親も。弱りたる声を出し籠の内にて。 独言を仰せ候。いかに籠中に案内申し候。 シテ「誰にて候ふぞ。太郎「居鶴が参りて候。 シテ「居鶴殿とや。籠守囲を取り候へ。 籠守「畏つて候。 シテ「扨只今は何の為の御出にて候ふぞ。 太郎「只今参る事余の儀にあらず。重ねての上意により。 御子の玉若同じく乳母の沢田ともに生捕り。 此所へ参りて候。シテ「何と仰せ候ふぞ。 重ねての上意たるによつて。我が子の玉若。 同じく乳母の沢田ともに生捕つて。 此所へ御出と候ふか。太郎「中々の事。 シテ「あうまづゆゝしう候。なう居鶴殿。 か様の身に罷り成りて。 申すは詮なき事なれども。 此事を某に露程も御知らせ候はゞ某腹を切るべし。腹切りて候はゞ。 首取つて関東へ上せ。

いかならん勲功にも与るべき身のさはなくして。 か様にたばかり詰籠に入れ置き。世上に面を曝す事も。 偏に御分の仕業と思へば。 草の蔭までも忘れ難う候。又玉若が事は。 正しく御身の為に甥。甥は子にてあらずや。 情なくも叔父の身にて子と云ひ親と云ひ。 重ねての勲功の賞に与るべきとや。あら愚や。 いやとよ弓取の。今日は人の上。 明日は我が身の上ぞかし。 さのみ慾にな住しそとよ。これはざれ事。 偖玉若はいづくに候ふぞ。太郎「未だ某が宿に置きて候。 シテ「さあらば一目見たう候。 太郎「心得申して候。いかに沢田。 玉若を同道申し籠のほとりへ御出で候へ。ワキ沢田「心得申し候。 かう/\渡り候へ。シテ「いかに沢田。 此程の路次すがらの辛苦推量してあり。 玉若は泣き候ふか。実に/\我だにいぶせき籠の内を見て。 さこそ親と思ひ泣くよな。実にや逢ひ見ても。

幾程そふべき親子の中。籠の格子の隙よりも。 手を触れ髪を撫でんとすれども。 制の縄の身を責めて。心に任せぬ悲しさよ。 髪をあまたに結ひわけて。 四方へつなげばさながらに。鉄城地獄の患たり。 又高手小手のいましめの縄に。涙をすべき便もなし。 我等が命も今は早。 今宵ばかりの名残なれば。心のまゝに添はゞやと。 地「猛き心も弱々と。 子を思ふ夜の鶴涙もしげき袂かな。クセ「あはれ父母が。 思ひ育てし玉若を。花に譬へ月によそへ。 行末まつのみどり子の。成人するを待ちつるに。 何をか科と夕露の。玉の賜キく添ひもせで。 夢の夜の間の契こそ程なかりけれ。 シテ「これをものに譬ふれば。地「御息所を恋心。 墨の衣の色深く。 忍ぶ文字摺誰故ぞと思ひなして恐ろしさに。 御手ばかりをさし出す。それにはかはる親と子の。 涙も尽きぬ名残なるに。武士あらけなく。

親子の中を引き分けて。帰れば我はすご/\と。跡を見送りて籠の中にて泣き居たり。 シテ「いかに沢田。 此暁は治親が最期にて候。安心を心静かに仕り候ふべし。 玉若にも心静かに安心をさせ候へ。 沢田「心得申して候。いかに玉若殿かう/\御入り候へ。此暁が治親が最後最期にて候。 御身も尋常に御斬られ候へ。 未練の御働あつて御家の名をばしおとされ候ふな。 子方「自が事は思ひ定めて候へども。 玉若故に沢田まで斬られん事こそ悲しう候へ。 沢田「何と仰せ候ふぞ。 御心底は思し召し定められ候へども。 玉若故に沢田まで斬られん事が不便なると仰せ候ふか。 あうやさしくも仰せ候ふものかな。 口惜しや故郷を出でし時は。玉若子の御事をさりとも/\とこそ思ひしに。今は頼もなでしこに。 離れ申さん悲しさよ。 実にや世の中はあだに咲きなす花なれや。定なのうき世や。

よし/\誰か世の中に。 住み果つべきか歎かじ/\。 沢田詞「いやきつと案じ出したる事の候。かう/\御出で候へ。 鎌倉にとりても此所は筋違橋と申し候。 此所にしつかとして御入り候へ。某罷り帰り。 父治親を御供申すべし。 さあらん時は物音高く人噪ぎ候ふとも。 沢田が参らんまではしつかとして御入り候へ。 いかに籠中へ案内申し候。シテ「誰にて候ふぞ。 沢田「沢田が参りて候。シテ「何沢田と申すか。 沢田「音高う候。シテ「さて何事ぞ。 沢田「最前この籠中を見申すに。かひ%\しき番の者もなく候。御力の程も覚えて候へば。 此籠一つ押し破り。おく陸奥の国に下り。 津軽合浦蝦夷が千島百島の勢を語らひ。 関東に切つて上り。 此度の会稽の恥を御そそぎあれかしと。 この儀を申さん為に参りて候。シテ「何と申すぞ。 最前も籠中を見てあれば。かひ%\しき番の者もなし。

又某が力の程も覚えてあれば。 此籠一つ押し破り。おく陸奥の国に下り。 此度の会稽の恥を雪げと申すか。沢田「さん候。 シテ「あうよく申してありさりながら。 流石天命が恐ろしきぞとよ。 沢田「か様の御身になり給ひては。何の天命の入り候ふべき。 シテ「何と天命は入らぬと申すか。 沢田「中中の事。シテ「さて夜は何時ぞ。 沢田「早夜半の頃にて候。シテ「玉若はいかに。 沢田「早筋違橋まで落し申して候。 シテ「さらば破つて見うずるにて候。いで/\籠を破らんと。金剛力士の力を出し。 四方に維げるかうべの縄。一ふり振れば何ならず。 皆ちうより切れて落つる。 沢田「さて高手小手のいましめ縄。 シテ「一度にふつつと引つ切つたり。 沢田「さて両足のほたしのかね。シテ「三つづつ打つたる大鑓。 皆抜き捨てゝ立ち上り。もの/\しやと足ふんばり。五体に力をゆり合はせて。

地「籠の柱に手をかけて。えいや/\と押しければ。 。 ごろくもたまらずばらりと砕けて四方へばつとぞのきにける。 籠を守れる兵は。あますまじとて追ひ駈くる。 治親こゝにありと。籠のくわんぬきおつ取つて。

走り廻れる其の勢。虚空をかける四天狗。 八金剛といふとも。 面を向くべきやうぞなき。今は治親これまでと。 主従三騎しづ/\と主従三騎しづ/\と。 陸奥さしてぞ下りける

ツレサシ「これは二の宮と申す女にて候。 さても曽我兄弟の人々は。親の敵討たんとて。 幼少竹馬の昔より。野に臥し山に臥し。 心を尽し給ひしかども。 終に願も空しく過ぎさせ給ふ。今日御狩場の御供に紛れ。 ねらひ給ふ御心の中。 おしはかり参らせて。わらはも遁れぬ中なれば。 御宮仕の隙を窺ひ。人々を導き申さんとて。 忍びてこれまで参りて候。 地「何くにかおはすらんと。彼方此方と尋ね行く。 心の中ぞ痛はしき。

シテ五郎二人「兄弟はかくとも知らで。 仮屋の前にたゝずめば。ツレ「さればこそ此方へと。 さて国々の武士の。 幕の内を委しく教へ参らせん。あれこそは人々の。 尋ぬる人の幕ぞとて。懇に教へ申し。 命めでたく候はゞ。又こそ御目に懸らんと。 地「涙と共に立ち別れ。/\。 稲葉の山の峰に生ふる。松とし聞かば今一度。 帰り来んと約束し。又御前へぞ出でにける。/\。 シテ詞「かくて兄弟の人々は。 二の宮の教により。祐経が仮屋に忍び入り。

地「年月の妄執。今宵こそ晴し給へ時致とて。 思ふ敵を討つたりけり。 五郎詞「其時時致立ち帰り。如何にや祐経たしかに聞け。 箱根山にて我に得させしこの太刀。 只今返すぞ受け取れとて。胸元に差し当て。 踊り上つて打ちければ。果報いみじき祐経も。 二つになりてぞ失せにける。 地「宿直の人々慌て騒ぎ。/\。 すはや夜討は曽我兄弟ぞ。 起き合へやつといふ声に。弓よ長刀太刀よ刀と。前後を失ひ。 上を下へと返しける。 地「されども御前の人々は。/\。 我も我もと切つて出で。面も振らず懸りければ。 本より兄弟は。命も惜まず切つて出で。 兄弟が手に掛けて。 やにはに三騎討ちけるを。すかさず追つ詰め懸りければ。 今は命限の切死と。仁王立に立ち並べば。 御前の武士は合ひ兼ねて。 その間遥に引いたりけり。

新開「かゝりける処に。新開と名乗つて。 地「祐成に討つてかゝりければ。 得たりやあうとさん%\に。 畳みかけられ叶はじと思ひけん。小柴垣を押し破つて。 後這しつゝ遁れ入りければ。時致は遁さじと。 御前をも憚らず。 逃げ行く敵を目に懸けて。跡を慕うて追うて行く。中入「。 新田詞「然る処に新田の四郎忠綱は。 君の仰に随ひ。 仮屋の前後を警固して居たりしが。見れば十郎祐成。 血刀振つてまつしぐろに打ち入りけるを。 地「留めんと思ひ打ち合ひけるが。無慙や祐成は。 宵より疲れし事なれば。新手に責め立てられ。 受太刀に為つて弱り行くを。 畳みかけて打ち伏せつゝ。太刀押し拭ひ鞘にさし。

心静かに立ち帰る。 クセ「無慙なるかな祐成は。 臥したる枕より。如何にや如何に忠綱。 我も遁れぬ中なれば。他人の見る目恥かしや。はや/\討ち取り。後の世弔ひてたび給へ。 時致はかくとも。知らで便や失はん。 死出の山。三途の川も一所にと。 誓ひし事も徒に。はやこれまでぞ首打てや。 南無阿弥陀仏と合掌す。 地キリ「移れば変る世の習。 今日此頃も膝を組み。互に隔てぬ中なれど。 武士のはかなさよ。切らで叶はぬ輪廻のきづな。 南無阿弥陀仏と。首打ち落し取り持ちて。 御所へとてこそ参りけれ。/\

ワキ詞「これは陸奥壺の碑を知行仕る。

甲斐の守何某にて候。

さてもこの所に千引の石とて大石の候。此石に魂有つて。 人を取る事数を知らず。 さる間この石を他国へ引き出し。 千々に割り捨てさせばやと存じ候。いかに誰かある。狂言シカ%\「。 ワキ「汝存じの如く。 かの石を他国へ引き出し。 千々に割り捨てさせうずるにてあるぞ。上六十下十五を限つて罷り出で。 石を引けと堅く申し付け候へ。 狂言シカ%\「。ツレ「誰にて渡り候ふぞ。狂言シカ%\「。 ツレ「此屋の内には又人もなく候。狂言シカ%\「。 。 ツレ「妾が事は女の事にて候ふ程に石は得引き候ふまじ。狂言シカ%\「。 ツレ「貧なる者にて候ふ程に。余の人もなく候。狂言シカ%\「。 。 ツレ「実にや世の中に貧程悲しき事はなし。女の身にて諸人に交はり。 石を引かんも恥かしければ。 あらざる人に暇を乞ひ。何方へも行かばやと思ひ候。 。シテサシ「面白や風は昨日の夜より声いよ/\かはり。人間の水南に流れ。

天上の星北に拱く。夜は幾程ぞ子一つより。 丑三つばかりの夜半の空。 あら心すごの通路やな。 ツレ「万草に露深し。 人静まつて更くる夜に。訪らふ人も楢柴の。〓{大漢和:011728。 とぼそ}を叩くは風やらん。シテ詞「面白や古き詩に。 夫を風と言ふ事あり。さなくは契も遠夫の。 通ふを風と宣ふかや。早此〓{大漢和:011728。とぼそ}を明け給へ。 ツレ「夜も深更になるまゝに。 何とて遅きぞおぼつかな。シテ「さればこそ通路の。 遠きを行くに夜は明けて。 さこそ遅しと松浦姫。ひれふる事を思ひやり。 地下歌「我が袖も涙ぞと。思ふと人はよも知らじ。 恨むるも中々に。頼ぞ残る人心。 上歌「実に待つは憂かるらん。/\。 頃しも秋の半過の。菴寒き秋風の。 打つ時雨凄き夜に。我も泣くなり鹿の音の。 夫待ち兼ぬる折しもに。 袖ばかり涙とや袂嬉しき月の夜。

シテ詞「如何に申し候。 是に酒を持ちて候一つ聞し召され候へ。あら思ひよらずや。 何とてさめ%\と御歎き候ふぞ。 ツレ詞「さん候何をか包み参らせ候ふべき。 此所は千引の石とて大石の候。 此石を他国へ引き出し。 千々に割り捨てよとの御事なり。 妾にも出でて石を引けとの仰にて候へども。女の身にて諸人に交はり。 石を引かんも恥かしければ。 何方へも行かばやと思ひ候ふ程に。 御名残も今宵ばかりにて候へば。かやうに歎き候。 シテ「さてはそれ故の御事にて候ふか。 さらば我が名を顕すべし。今は何をか包むべき。 我は千引の石の精なり。 御身と契をこめし事。昨日今日とは思へども。 早三年に奈良の帝の御宇かとよ。 万葉集にも入りぬれば。世上にその隠れなし。 されば石も生滅の境を遁れず。 かく木石に心なしとは申せども。今こそ情を見すべけれ。

定めてこの石を。 千人してぞ引かんずらん。名こそ千引の石なりとも。 我が悪念を起すならば。 如何に引くとも引かるまじ。其時御事立ち寄りて。 石の綱手を取るならば。我が石力を失ひて。 平砂を車輪の廻るよりもたやすく引かるべし。 さあらば不思議の人なりとて。 御身に宝を与へつゝ。地「早く富貴の身とならば。 /\。それぞ頼めし契の色。 千代かけて玉の獅フ。長き守となるべし。 ツレ「此程は誰ともさして白雲の。 かゝる奇特を聞くよりも胸うちさわぐばかりなり。 シテ「よしやよし誰とても。 前世の契なるべしと。 地「思へば今宵を限りと知れば一夜をも。千夜になさばやと。 思へど明くる東雲の。飽かぬ中の中々に。 何しに馴れ初めて今更悲しかるらん。狂喜シカ%\「。 ツレ詞「如何に申し候。皆々御のき候へ。 妾一人して石を引かうずるにて候。狂言シカ%\「。

ワキ詞「これは不思議なる事を申す者かな。 某出でて直に尋ねうずるにて候。 いかに女。 この石をひとりして引かうずると申すは汝が事か。 ツレ「さん候妾が事にて候。ワキ「不思議なる事を申す者かな。 既に千人して引くだに引かれぬ石を。 汝一人して引かうずるとは。 狂気したるか然らずは。上を嘲りて申すか。 ツレ「何しに上を嘲るべき。まこと不審に思し召さば。 石を引かせて御覧ぜよ。 ワキ「若しこの石を引き得ずは。汝が科は如何ならん。 ツレ「よしなき事を夕波の。 この身を沈めおはしませ。ワキ「実に/\か程に二つなき。命をかくるは様子あらん。 ツレ「もしこの石を引き得なば。 望を叶へおはしませ。ワキ「中々の事望を叶へ申すべし。 さらばこの石引き給へ。 ツレ「これはまことか。ワキ「中々に。 地「さらばと今は木綿だすき。/\。斯く不思議なる争の。

あることかたき石の綱手立ち寄りて引かうよ。 ツレ「我はあだ夫の。言の葉ばかり力にて。 地「えいやと引けば不思議やな。 石やがて動き出でて引かれ行くぞ嬉しき。 ツレ「引くに引かれて嬉しきは。地「人帰るさの。 袂かな。 後シテ「石に精あり水に音あり。 風は大虚に渡る。地「形を今ぞ。顕せる。 シテ「桜麻の。苧生の浦波立ちかへり。 地「影はそれかや。石鏡。 シテ「かはれる姿は恥かしや。地「恥かしの。/\。 洩りなば人も白波の。 シテ「立つ名もよしや君故なれば。 地「千引の石も一人に引かれて賎が苧環くる/\/\と引かれて廻るや。石車。 働「。シテ「かやうに石魂顕れて。 地「かやうに石魂顕れて。 さばかり妙なる大石なれども竜車の飛ぶよりなほ早く。 彼の石山。 を引き越し給へばそれより神の化現なりと。

囲繞渇仰富貴万福に恵を施し彼の貧宅を富貴の家に。建石宿の栄ふる事も。

/\。彼の石魂の情なり

。 ワキ詞「これは唐土寒山寺より出でたる僧にて候。 我未だ天台の国清寺を見ず候ふ程に。唯今思ひ立ち国清寺へと急ぎ候。 道行「月は落ち寒鴉枯木に音づれて。/\。 冷じかりし楓橋を夜深く辿り行末の。 江。 村の漁火もほのかにて客船に到り山を越え。朝な/\の数積もる。 夕の空はものすごや。/\。 シテサシ「面白や花あつて客を迎ふるに似たり。 ツレ「鳥啼いて人を呼ぶが如し。二人「実に石上に詩を題して。 緑苔払ふ。時とかや。歌「米汁を手に携へて。 /\。 花洛の塵に交はり白河の浪に裳裾を濡らし。万民に面を曝すも恨ならず。 法の為なれば身を捨つる。 吹く風の寒き山とて入る月に。

指を差しても留め難きは繋がぬ月日なりけりや/\。 ワキ詞「いかに是なる人々に尋ね申すべき事の候。 シテ「此方の事にて候ふか。 何事にて候ふぞ。 ワキ「天台の国清寺とは此所を申し候ふか。 シテ「さん候是こそ天台の国清寺にて候へ。 偖御僧はいづくより来り給ひて候ふぞ。 ワキ「是は寒山寺より出でたる僧にて候。 シテ「何とお僧は寒山寺より御出とや。それにつき思ひ出したる事の候。 古此所に寒山拾得と申せし人の。 住み給ひたる所なり。ワキ「実に/\是は貧士風狂の士として。 シテ「常の徒に之をおすべきに非ず。歌「ふ儒零落し。/\。 面貌枯衰して膚軽骨と衰へ。ある時は。様皮を。 冠とし。

又ある時は大なる木屐をはきて風狂の。 姿と見れど心は仏意に帰する人とかや/\。ワキ「いかに申し候。 豊干禅師の旧院はいづくの程にて候ふぞ。 シテ「豊干禅師の旧院は経蔵の後なり。 今はげきとして人なし。 さりながら此方へ御入り候へ。教へ申さう。 是こそ豊干禅師の旧院にて候へ。 ワキ「とてもの事に豊干禅師の謂委しく御物語り候へ。 地クリ「さても豊干禅師と申すは。天台の国清寺に帰す。 髪を切つて眉に等し。布裘又かたちを見ず。 シテサシ「人有りて借問すれば。 随時の二字を答へて他の語なし。 地「楽んで独り穀を碓つき。則ち菜炊に之をそふ。 シテ「曽て虎に乗じて松門に入れば。 地「各衆僧を。恐懼する。クセ「ある時豊干たま/\。 山行せしに不思議やな。 児の泣く声を聞きしかば。 立ちよりて委しく端倪を問ふに。舎なうして。孤なりと答へ申せば。 誠に哀を催し拾ひ得たりと心得。

拾得と彼を名付けつゝ。豊干さま%\養育す。 シテ「かゝりける所に。 地「いづくより来りけん。 拾得の如くなる寒山といへる童子来り。常に遊楽の戯の。 浅からざりし有様は。喝呵大笑して。 言語も更に常ならず。シテ「其時呂丘と云つし人豊干に向ひ。 。 国清に今兼学の輩ありもやと問ひ給へば。寒山は文殊なり。 拾得は普賢なりと答ふ。地「呂丘此時驚きさわぎ。 須臾に堂に入つてこれを礼す。曲「寒山拾得は。 何故に今更。我をば礼し給ふぞと。 問ふに呂丘は豊干の教かくぞと語れば。 シテ「二人此時驚きて。 にうせんの豊干こそ即ち弥陀の化現よと。 云ひ捨てゝ寒巌幽窟の内に入りにけり。誠は我は古の。 寒山拾得よ疑ふなと。 云ふかと見れば寒巌石根は雲と立ち騰り。縫目の内に入りにけり。 /\。ワキ歌「苔の莚に法をのべ。/\。 有りつる告を待たんとて。

袖をかたしき臥しにけり/\。後シテ「一声の山鳥曙雲の外。 虎降供して松門に入る。いかに沙門。 汝貴き故により。 忽ち夢中に豊干向顔をなす。同じく寒山拾得。 世上の信たる事を知らせんが為。石の縫目を説く法の。 仏体を顕し。給ふべし。 ツレ二人「石に精あり水に音あり。シテ「虎嘯けば。 風は大虚にわたる。 地「かたちせんせつたる石窟二つに割るれば。普賢文殊現れ給ふぞ。有難き。 ワキ「不思議やなまのあたりなる御姿を。 拝することの貴さよと。 掌を合はせて如我昔所願。今在已満足。 其時豊干は虎上より。/\。静かに下りて菩薩に向ひ。 迚も姿を顕す上は。 法恩微妙の舞楽をなさんと琴瑟鐘鼓。琵琶琴和琴。 笙篳篥虚空に舞楽を奏しけり。楽「。 地「舞楽も今は時過ぎて。/\。有明方の尽きぬ名残。 白むは東の山かつら。かゝる奇特はこの寺の。 。

仏法王法伽藍長久五穀成就のその誓願を夢中に見せて。普賢文殊は二巌に上り。 豊干は忽ち弥陀と現じ。 西方遥の雲に乗じ。 飛行自在を顕し給へば菩薩も獅子象にのりの姿。如来も金色の光を放つて。 紫雲のうちにぞ入りにける

。ワキ次第「山また山の行末や/\雲路のしるべなるらん。 詞「是は本山三熊野の客僧にて候。我此度松島平泉への志あるにより。 。 御暇乞の為に本宮証誠殿に通夜申して候へば。あらたに霊夢を蒙りて候ふ程に。 只今陸奥名取の里へと急ぎ候。 道行「雲水の行方も遠き東路に。/\。 今日思ひ立つ旅衣。袖の篠懸露結ぶ草の枕の夜な/\に。仮寢の夢を陸奥の。 名取の里に着きにけり/\。 シテ、ツレ二人一声「何くにも。崇めば神も宿木の。 御影を頼む心かな。 シテサシ「これは陸奥に名取の老女とて。年久しき巫にて候。 我幼かりし時よりも。他生の縁もや積りけん。

二人「神に頼を掛巻くも。忝くも程遠き。 かの三熊野の明神に仕ふる心浅からず。 身はさくさめの年詣。 遠きも近き頼かな。シテ「されども次第に年老いて。 遠き歩も叶はねば。かの三熊野を勧請申し。 こゝをさながら紀の国の。 二人下歌「牟婁の郡や音無の。 かはらぬ誓ぞと頼む心ぞ誠なる。上歌「こゝは名を得て陸奥の。/\。 名取の川の川上を。音無川と名づけつゝ。 。 梛の葉守の神こゝに証誠殿と崇めつつ。年詣日詣に。歩を運ぶ乙女子が。 年。 も旧りぬる宮柱立居隙なき宮仕かな立居隙なき宮仕かな。 ワキ詞「如何に是なる人に尋ぬべき事の候。

ツレ「何事にて候ぞ。 ワキ「承り及びたる名取の老女と申し候ふは。 この御事にて御座候ふか。 ツレ「さん候これこそ名取の老。 女にて御座候へ何の為に御尋ね申し候ふぞ。 ワキ「是は三熊野より出でたる客僧にて候ふが。 老女の御目に懸りて申し度き事の候。 ツレ「暫く御待ち候へ其由を申さうずるにて候。如何に申し候。 是は三熊野より御出で候ふ山伏の御座候ふが。 御目に懸り度き由仰せられ候。 シテ「あら思ひ寄らずや此方へと申し候へ。 ツレ「畏つて候。客僧此方へ御出で候へ。 シテ「三熊野よりの客僧は何くに御入り候ふぞ。 ワキ「是にて候。 何とやらん粗忽なるやうに思し召し候はんずれども。 夢想のやうを申さん為にこれまで参りて候。 さても我此度松島平泉への志あるにより。 御暇乞の為に本宮証誠殿に通夜申して候へば。 あらたに御霊夢を蒙りて候。

汝奥へ下らば言傅すべし。陸奥名取の里に。 名取の老女とて年久しき巫あり。 かの者若くさかんなりし時は年詣せしかども。 今は年老い行歩も叶はねば参る事もなし。 ゆかしくこそ思へ。 これなる物を慥に届けよとあらたに承り。 夢覚めて枕を見れば。梛の葉に虫喰の御歌あり。 有難く思ひこれまで遥々持ちて参りて候。これ/\御覧候へ。シテ「有難しとも中々に。 えぞ岩代の結松。露の命のながらへて。 かゝる奇特を拝む事の有難さよ。 老眼にて虫喰の文字さだかならず。 それにて高らかに遊ばされ候へ。 ワキ「さらば読みて聞かせ申し候ふべし。何々虫喰の御歌は。 道遠し年もやう/\老いにけり。 思ひおこせよ我も忘れじ。シテ「何なう道遠し。 年もやうやう老いにけり。 思ひおこせよ我も忘れじ。ワキ「げに/\御感涙尤もにて候さりながら。

二世の願望現れて羨ましうこそ候へ。シテ「仰の如くかほどまで。 受けられ申す神慮なれば。 崇めてもなほ有難き。二世の願や三つの御山を。 ワキ「移して祝ふ神なれば。 シテ「こゝも熊野の岩田川。ワキ「深き心の奥までも。 シテ「受けられ申す神慮とて。ワキ「思ひおこせよ。 シテ「我も忘れじとは。地「有難や/\。 げにや末世と言ひながら。 神の誓は疑も梛の葉に。見る神歌は有難や。 シテ「如何に客僧へ申し候。 此処に三熊野の勧請申して候御参り候へかし。 ワキ「やがて御供申し候ふべし。 シテ「此方へ御入り候へ。御覧候へ此御山の有様。 何となく本宮に似参らせ候ふ程に。 本宮証誠殿と崇め申し候。 又あれに野原の見えて候ふをば。飛鳥の里新宮と申し候。 又此方に三重に滝の落ち候ふをば。 名にし負ふ飛竜権現のおはします。 那智の御山とこそ崇め申し候へ。

地クリ「それ勧請の神所国家に於て其数ありといへども。 取り分き当社の御来歴。りよしんを以て専とせり。 シテサシ「もとは摩伽陀国のあるじとして。 地「御代を治め国家を守り。 大悲の海深うして。万民無縁の御影を受けて。 日月の波静かなり。シテ「然りとは申せども。 地「猶も和光の御結縁。普き雨の足引の。 大和島根に移りまして。 この秋津国となし給ふ。クセ「処は紀の国や。 牟婁の郡に宮居して。行人征馬の歩を運ぶ志。 直なる道となりしより。 四海波静かにて八天塵をさまれり。中にも本宮や。 証誠殿と申すは。本地弥陀にてましませば。 十方界に示現して光普き御誓。 頼むべし頼むべしや。程も遥けき陸奥の。 東の国の奥よりも。南の果に歩して。 終には西方の。台になどか座せざらん。 シテ「大悲擁護の霞は。地「熊野山の嶺に棚引き。 霊験無双の神明は音無川の川風の。

声は万歳が峰の松の。千とせの坂既に。 六十に至る陸奥の。名取の老女かくばかり。 受けられ申す神心。げに信あれば徳ありや。 有難し有難き告ぞめでたかりける。 ワキ詞「いかに老女へ申し候。 か程めでたき神慮にて御座候ふに。 臨時の幣帛を捧げて。神慮をすゞしめ御申し候へ。 シテ「心得申し候。いで/\臨時の幣帛を捧げ。 神慮をすゞしめ申さんと。 ワキ「天の羽袖や白木綿花。シテ「神前に捧げもろともに。 謹上再拝。 仰ぎ願はくは棹鹿の八つの御耳を振り立て。利生の翅を並べ。 空海の空に翔りては。一天泰平国土安全諸人快楽。 福寿円満の恵を普く施し給へや。 南無三所権現護法善神。早笛「。 。 シテ「不思議やな老女が捧ぐる幣帛の上に。化したる人の虚空に翔り。 老女が頭を撫で給ふは。 如何なる人にてましますぞ。

護法「事も愚や権現の御使護法善神よ。シテ「何権現の御使護法善神とや。 護法「中々の事。シテ「有難や。 まのあたりなる御相好。地「神は宜禰が習を受け。 護法「人は神の徳を知るべとして。 地「参りの道には。護法「むかひ護法の先達となり。 地「さて又下向の道に帰れば。 護法「国々までも送り護法の。 地「災難を去りつゝ悪魔を払ふ送迎の。護法善神なり。 それ我が国は小国なりと申せども。/\。 大神光をさし下ろし給ふ。 その矛のしただりに。 大日の文字あらはれ給ひしより。 大日の本国と号して胎金両部の密教たり。護法「然るにもとよりも。

地「然るにもとよりも。日本第一大霊験熊野三所。 権現と現れて。 衆生済度の方便を貯へて。発心の門を出で。 岩田川の波を分けて。煩悩の垢をすゝげば水のまに/\道をつけて。 危き崖路の苔を走れば下にも行くや。足早舟の。 波の打擢水馴棹下ればさし上れば引く。 綱手も三葉柏にかく神託の道は遠し。 年は旧りぬる名取の老女が。子孫に至るまで。 二世の願望三世の所望。皆悉く願成就の。 神託あらたに告げ知らせて。/\。 護法は上らせ給ひけり

ワキ詞「かやうに候ふ者は。 常陸の国鹿島の明神に仕へ申す者にて候。 さても当社に。

於て御神事さま%\御座候ふ中にも正月十一日の御神事をば。 常陸帯の御神事と申し候。今日に相当りて候ふ程に。 急ぎ社中に相触れ。

御神事を執り行ひ申さばやと存じ候。ワキ狂言セリフあり「。 シテ女立衆次第「これより出でし春の日の。/\。 宮居の祭急がん。 シテサシ「頃は正月の十日あまり。 霞あきらかに日落ちて万山紅なり。ツレ「実に面白や梅が枝に。 来ゐる鶯春かけて。鳴けども未だ薄雪の。 朝まつりする神垣や。隔てぬ恵頼むなり。 下歌「あ。 らありがたやこの神に頼を深くかけまくも。忝や偽の無き御心を頼むなり。 /\。上歌「常陸なる鹿島やいづく水上の。 /\。常世の波も深緑。 苔のむすきが岩船の出でしも遠き代々を経て。 国豊なる今までも。誓の船に身を浮けて。 御影を頼む春の日の。 今日長閑なるあしたかな/\。 ワキ「時を得て今日の手向か神祭る。 正月長閑けき空色の。手向も同じ袖はへて。 貴賎群集ぞ有難き。 ワキ「我はまた同じ手向のその内に。わきて心も色深き。

花田の帯の末長く。契結ぶの神の御前に。 信心を致して参りけり。 ワキ「よそ目にはそれとも知らぬ思ひ妻。或は花の手向草。 シテ詞「又は名におふ常陸帯の。 面に一首の歌を書く。 同じ世をかけて頼まん常陸帯の。結ぶかひある契なりせば。 地下歌「神は偽りましまさじ人やもしも空色の。 花田に染める常陸帯の。 契かけたりやかまひて守り給へよ。上歌「唯頼めかけまくも。 /\。忝しやこの神の。 恵も鹿島野の草葉に置ける露のまも。惜めたゞ恋の身の。 命ありてこそ同じ世を頼むしるしなれ。 ツレ「不思議やな手向も繁きその内に。 わきて心も色深き。 花田の帯のうつくしきを。御前に掛けたる不思議さよ。 よりて見れば歌を書きたり。 同じ世をかけて頼まん常陸帯の。 結ぶかひある契なりせば。心を知れば恋の歌なり。 そもこの手向に恋心を。

手向けば神も受け給ふべきか。返す%\も不審なるぞや。 シテ詞「嬉しやな今までは。つれなかりける御心の。 今はやはらぐ言の葉の。 結ぶ契の末頼もしうこそ候へ。 ツレ女「そも契の末の頼もしきとは。心得がたき言葉かな。 もし人たがへにてあるやらん。 シテ「何をか包み給ふらん。数書き贈りし玉章の。 返事をだにも白露の。身の置き処のなきまゝに。 当社に祈をかけし身の。 今日待ちえたる常陸帯の。我にかごとはよもあらじ。 ツレ「そも契の末の常陸帯とは。 御前に見えたる花田の帯に。 シテ詞「書く歌占を一番に。詠ぜん人を妹背ぞと。 昔より神の御告なり。ツレ「昔の事はさもありなん。 今は誠を白木綿の。 シテ「神は末世によもあらじ。唯信仰の誠あらば。 今は威光はよも尽きじ。 ツレ「いやとにかくに言葉づくし。よその人目も恥かしとて。 あらざる方へ立ちのけば。

シテ「あら情なの御事や。よし我にこそ疎くとも。 地「神は契の常陸帯。結びとめさせ給ふべし。 恐ろしや疑の。神罰あたり給ふな。 ロンギ地「実に疑はあらかねの。 島根はこれか鹿島野の。 神の御心頼むなりことわり給へ御誓。シテ「これやこの東路の。 道の果なる常陸帯の。 かごとばかりも逢ひ見んと。人陰にたゝずめば。 地「立ちよる陰も人繁き。 手向の袖も様々に神の御祭あがめよ。シテ「よしとても。/\今日よ。 りは人も我もむつび月の袖ふれて寄りて来よ。地「実にや睦月の空なれや。 緑立ちそふ青柳の。シテ「蔭ふむ道に休らひて。 地「貴賎の群集おし隔て。 シテ「後影も見えざれば。地「せん方もなく。 シテ「日も暮れぬ。 地「とにかくに恋はなどさのみ心を筑波嶺の。 このもかのもに道はあれど恋の道は迷へり。あらうたて御神。 常陸帯かへし給へや。中入「。

ワキ「これは不思議の神託とて。 宮人数々騒ぎあひ。神慮を疑ふ人あらば。 心中になどか知らざらん。 もしも包まば重ね%\。その神罰は疑あるまじ。 悔み給ふな人々と。参籠の中に触れければ。 ツレ女「思内にあれば色外に顕れ候ふぞや。 あら悲しや恐ろしや。神慮を疑ふ科により。 白蛇の責を蒙るぞや。 あら悲しの御事やな。 後シテ「神は非礼を受け給はず。 水上清しや鹿島の波。地「御殿しきりに鳴動して。 シテ「御神楽の鼓。灯の影。 地「和光同塵もかくやらんと。顕れ給ふぞ忝き。 シテ「われ劫初よりこのかた。 この秋津洲に住んで。そのかたち八尺の白蛇と現じ。 衆生の明闇を守り。陰陽のなかだちとなつて。

契の末や常陸帯の。 かごとなき事を守る処に。汝今更。疑ふべしや。 地「疑ふべしや心の馬の隙ゆく道や神の木綿四手。 結。 びとめよや結びとめよやさてこそ契の常陸帯。地「報は常の世の習。/\。 いかに。 廻るも小車のすぐなる道はかはらじたゞ狂へ/\狂女よ。シテ「そも/\恋路に於て。地「そも/\恋路に於て。 憐むべしや憐むべしや。 陰陽の二神くだつて天の八衢苔莚の。 岩枕を敷島の波を払ひねぐらを求め。鶺鴒の翼にたぐへ。 東西南北諸天善神十方国土を治めしより。 恋路の源なれや。汝などかは疑ふべきと。 神託あらたに聞えしかば。教の契の末かけて。 忝しや常陸帯の。/\。 結ぶ契となりにけり

ワキ「抑これは天智天皇の臣下。 紀友雄とは我が事なり。 爰に藤原の千方といへる逆臣あり。風鬼火鬼水鬼隠形鬼とて。 四色の悪鬼を従へつゝ。王位を掠め国を乱す。 万民の煩なるに依つて。 急ぎ追伐仕れと。某宣旨を蒙りて候。 いかに誰かある。トモ「御前に候。 ワキ「逆臣千方が有様を委しく聞きてあるか。 トモ「さん候かの千方と申すは無量無辺の通力を得。 殊に四性の鬼神を従へ。 天地を掠め国を侵す。凡人の身を以ては。 安々と従へ申さん事。覚束なく存じ候。 ワキ「汝が申すもさる事なれども。 もとより我が朝は神国と云ひ君の宣旨を帯しぬれば。 是非に勝負を遂ぐべきなり。扨かの四性の鬼神の事。 トモ「風鬼は風を起しつゝ。 黒塵人の目を晦ます。ワキ「水鬼は水を自在にし。 雨を降らせ浪を立て。 トモ「天地を返す術を得たり。ワキ「火鬼は火の雨猛煙を立て。

地「隠形鬼はもとよりも。/\。 隠るゝ術を身に享けて。霧や霞に変じて。 人の心をたぶらかす。四道の通力自在にて。 神変はいさ知らず。人間の身として。 討ち得ん事は不定なり。されども我が国は。 神代の昔より。淳なるみことのり。 大和の国と名づけては。 大きに和らぐと訓ませつゝ。人の心も直ければ。 悪鬼いづくに住むべきや。唯疑ふは人心。 ワキ「土も木も皆我が君の国なれば。 地「鬼神やたけに思ふとも。神の誓は有明の。 月の光の潔く。 影暗からぬ日の本の直なる法に引く弓の。やがて逆臣は亡び失せ。 民安全に栄ゆべし。狂言シカ%\「。 ワキ詞「さらばこの歌を持ちて。 千方が方へ行き四性の悪鬼に見せ候へ。トモ「畏つて候。 あ。 つぱれこれは大事の御使を承り候ふものかな。まづかう急ぎ候ふべし。狂言シカ%\「。 シテ立衆次第「光普く照る影の。/\。

月日も奪ふ威勢かな。 シテ詞「これは藤原の千方なり。いかに四性の鬼神はなきか。 鬼「御前に候。シテ「さても某此度の逆心。 天理を背くといひながら。運命強き験にや。 攻むるに背く者もなく。 招くに靡かぬ味方もなし。爰に一つの物語あり。 汝等に語つて聞かすべし。近う参り候へ。狂言シカ%\「。 詞「それ日本開闢の初は。 伊弉諾尊伊弉冊尊。天が下に降り下りて。 一女三男の神を生み給ふに。 一女と申すは天照太神宮の御事なり。然るに太神宮。 勢州度会の郡。 かみが瀬下津岩根に跡を垂れ給ひて。万代不易の利益を現し。 国土を治めみそなはしめ。神国となりし処に。 爰に第六天の魔王。 眷属無数の天魔を引具し。応化利生妨げしかば。 天照太神神勅あり。二度障礙をなさゞりせば。 我が三宝に近づかじと。誓を立てゝ神勅ある。 さるに依つて魔ども怒を抑へ天上せり。

こ。 れ我が朝へ天魔鬼神の障礙をなしゝ始とかや。其後神武の帝の御時。 紀伊の国に土蜘蛛住む。その手の長さ二丈余の。 千筋の糸の乱れあふ。網を張ること十重廿重。 改むるに力も尽きぬとかや。 是等をこそ世の人の。由々しき天下の患と。 思ひし事は何ならず。我はもとより通力に。 地「殊には無類の鬼神夜叉。/\。 忽然と従へば。その威勢みち汐の。 さしも貴き神の国。半に過ぎて従へば。 程なく日の本の。主とならん嬉しさよ。 主とならん嬉しさよ。トモ詞「いかに陣中へ案内申し候。 シテ「案内とはいかなる者ぞ。 トモ「これは。 右大将紀友雄が方より申すべき子細ありて。何某の士官が参りて候。狂言シカ%\「。 。 シテ「やあ面々はこの歌の心を存じ寄りてあるか。鬼「何々見れば。土も木も。 シテ「我が大君の国なれば。 二人「いづくか鬼の栖なるらん。

地「いづくか鬼の栖ぞや。実に理なり土も木も。 我が君の国なれば。障礙をなさじとや。 天七地五のみことのり。天つ日嗣の絶えせずも。 伝はり靡く日の本の。疎なり我々が。 望をかけし事よとて。一首の和歌の徳により。 四色の鬼神座を立ちて。 千方を見捨て雲を踏み。虚空に翔り失せにけり。 実に目に見えぬ鬼神。 猛き心も和ぎて国淳なる功は。大和歌の力なれ。/\。中入「。 後ワキ立衆「よせかけて。吹くや嵐の音高く。 梢も噪ぐけしきかな。ワキ「抑これは。 天智天皇の勅を受け。友雄唯今向ひたり。逆臣とく/\退散せよ。シテ「千方これを聞くよりも。 地「千方はこれを聞くよりも。あらもの/\しや何程の事あらん。いで物見せんとて。 鉾ひつさげ。傍を払つて出でたる形。 陽疫神も。面を向くべき様はなし。太鼓あり「。 寄手の兵是を見て/\。我討ち取らん。 討ち取らんと。切先を並べ寄せくる浪の。

打ち合ふ刃の光は秋の野の。尾花が末の。 乱るゝ有様と覚えたり。 シテ「さしもに勇む寄手の勢も。 地「千方が威勢にかけ立てられて。暫く後陣へ引きにけり。働あり「。 ワキ「友雄はこれを見るよりも。 地「友雄はこれを見るよりも。いで/\某千方と組むで。勝負をつけんと。 夕日に輝く剣をかざし。走りかゝつて。 二打三打は合ふよと見えしが。無手と組むで。 大地にかつぱと倒れふし柳。 よれつもつれつ二ころび三転。鎧の袖を打ち重ね。/\。 多くの軍兵落ち重なつて。 千方を生捕り悦の鬨を揚げ。さゞめき帰るやさゞ浪の。 志賀の都へ帰洛をなすこそめでたけれ

ワキ次第「山又山の行末や。/\。 雲路のしるべなるらん。 詞「抑これは本山三熊野の山伏にて候。 我松島平泉の志あるにより。唯今思ひ立ちて候。 道行「山なみのかかるや雲の嶺つゞき。/\。 日もたてぬきの空晴れて。霞もよそにかづらきや。 高間につゞく大和路や。 雪まだ残る山城の。国を過ぐれば近江路や。 園城寺にも着きにけり。/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 園城寺に着きて候。 心静かに参らばやと思ひ候。シテ「月重山に隠れぬれば。 扇をあげてこれを譬へ。 花きんしやうに散りぬれば。雪を集めて春を惜む。 実にも春宵一刻の。惜まるべしやくわしつのよの。 松風までも心して。有難かりける時節かな。 ワキ「われ一心にたしやうし。

護摩の壇上に念誦して。れう/\とある折節に。 御法を尊む声すなり。 いかなる人にてましますぞ。 シテ「これはこの寺のあたりに住む者なるが。妙なる法の御声にひかれて。 爰に立ち寄るばかりなり。ワ「実に/\爰は所から。しんせき年をふる寺の。 シテ「憂はかんしの古きに破れ。 二人「魂はさんかうの深きに痛ましむ。 所も近き湖の。 地「さゝ波や三井の古寺来て見れば/\。昔ながらの花も吹き。 月は隈なき春の夜の鐘ばかりこそ朧なれ。 面白の折からや。しかも妙なる法の声。 心耳を澄ます有難や。/\。ワキ「なほ/\泣不動の謂懇に御物語り候へ。 シテ「語つて聞かせ申し候ふべし。 抑園城寺のくわんしよ。ちこうないくうといつし人。

行功年古り法力たけて。 やいばの験僧と名を得たりしに。然れども。老既に時到つて。 命終らんとせし程に。 今生に於て五種の大願ありしが。未だ数終らざれば。 それのみ臨終の障ぞと。心中に思ふその心を。 せうくうといつし少僧の。 師匠の命に代らんとて。この明王の御前に参り。 願はくは我が一命を召されつゝ。 ないくうを助け給へとて。肝胆を砕きて祈誓せしに。 クセ「その願や成就したりけん。 ないくうの病は忽ち平癒し給ひて。 月に晴れゆくうき雲の。心も軽くなり給へば。 せうくうはその身も弱々と。未だ若木の初桜。 嵐に沈む如くにて。 花の顔ばせも面変してぞ臥しにける。今を最期の事なれば。 持仏堂に参りて明王に暇申しつゝ。 既に限と見えし時。夢ともなく現とも。 定め難き御声にて。あらたに示現し給へり。 せうくうは師匠の命に替り。

この世を去らんとの。志は誠なれば。 我また汝が命に代り。せうくうを助くべし。 然れば定業を転ずる事。仏も叶はねば。 三世れうたつの悲願にて。汝を今助くるとて。 御影の御眼に涙を流し給へば。 常住院の泣不動と御名を申せしは。 有難かりし奇特かな。 ワキ「偖々せうくうはそのまゝ蘇生ありけるか。 シテ「中々の事明王地獄に行き給ひ。せうくうに代りしその有様。 夢中に顕し見せ申さん。 地「今は何をかつゝむべき。今は何をかつゝむべき。 かの明王の御前なる。矜羯羅制〓{大漢和:003302。た}迦の一つなりと。 いふかと見れば仏前の。 護摩の壇上に飛び上り。 灯火の光も香の煙も立ち添ひて。明王の御影の陰に隠れけり。/\。 ワキ待謡「古りにしあとを改めて。/\。 三宝加持の行に。五道の罪も消えぬべき。 法の力ぞ有難き。/\。 地「五更の天も明けき。月の光や満ちぬらん。

後シテ「抑これは明王のつかはしめ。 矜羯羅とは我が事なり。偖も不思議や明王は。 冥途に到りせうくうが。こんしんに代るその心を。 鬼神は更に知らずして。 罪の軽重はからんとて。せうくうを提げ。浄玻璃の。 鏡の前に引き向くれば。 地「不思議やな鏡の面かき曇り。/\。罪人の影も見えず。 かくて一日一夜は。長闇となり果てゝ。 軽重の善悪とゞまりぬ。 シテ「こは如何にと見る処に。地「すは/\漸く霧晴れて。 浄玻璃の面も明くなりぬ。 偖罪人の影を見れば。せうくうにはあらずして。 降服悪魔の大聖明王。 赫奕としてうつり給へば。冥官冥衆。倶生神も。 冠を地に着けて礼拝する。シテ「理や明王の。 地「理や明王の。その本誓を尋ぬるに。 胎蔵界のけうりやうりんしんたり。 その誓願は余尊に勝れて。 不動を信ずる人並に不動の行者をば。

奴婢童僕となつて生々世々にきうしせんと。正に誓ひ給へり。 その御形は青黒色にして。童子肥満の姿なり。 火焔の中に立つては。 シテ「瞋恚の火を表し。地「三毒の煩悩をせつかいせんとて。 シテ「利剣を提げ。地「左の眼を閉ぢては。 シテ「衆生の苦患をかゞみ。 地「悉地菩提を表せんとては。シテ「髪をしつはに束ね。 地「生死をとうせずして。 シテ「涅槃に到る。地「偖浄土にも。シテ「地獄にも。 地「片時。シテ「離れず。地「動かず。シテ「守れり。 動せずと書いては不動と読む。 見我身者発菩提心。聞我名者。断悪修善。 聴我説者得大智恵。知我心者即身成仏。 実に有難き誓かな。/\

ワキ次第「樒が原の道分けて。/\。 愛宕の山に参らん。詞「本山三熊野の山伏にて候。 。 我未だ愛宕山樒が原に分け入らず候ふ程に。只今思ひ立ちて候。 歌「西山や嵯峨野の嵐音寒き。/\。音も小倉の嶺つゞき。 行方をさして行く程に。 その名も高き愛宕山。樒が原に着きにけり。/\。 詞「あら笑止や俄に雪降り来りて候。 晴らさばやと存じ候。シテ「愛宕山。 樒が原の雪のうちに。花摘み添ふる袂かな。 寒林に骨を摧き。霊鬼泣く/\前生の業を憾む。 深夜に花を供ずる天人。返す%\もきしやうのせんを悦ばん。詞「いつもの如く山に入り。 樒を手折らばやと思ひ候。 ワキ「我等如きの行人だにも。ものすさまじき愛宕山。 。

然も女性の御身として花摘み給ふは不審なり。シテ「それ後の世を歎く志。 男女の上下によるべきか。仏の為の花なれば。 山に入り樒を手折る事は。 何の不審の候ふべき。 ワキ「いや花摘み給ふ事に不審はなけれども。 その様け高き女性の御身として。御供の人をも伴ひ給はで。 この山中に只一人。花摘み給ふは不審なり。 御名を名宣り給ふべし。 シテ「そも何と見給へる様なれば。我を貴人と御覧ずらん。 これにつけても昔の人は。 能々つらね置きたるぞや。 なき名のみ高雄の山と云ひたつる。人は愛宕の嶺に住むらん。 この歌の如くに人がましくも云ひたつる。 人ぞ中々我が為は。 あたごの山伏よ知らぬ事なの給ひそ。 何事も云はじや聞かじ白雪の。/\。道行ぶりの薄衣。

白妙の袖なれや。樒が原に降る雪の。 花をいざや摘まうよ。夕日かげろふ紅の。 末摘花はこれかや。春もまたきなば都には。 野辺の若菜摘むべしや。/\。 ワキ詞「不思議やな夜になるまでこの山中に只一人。 花摘み給ふは不審なり。 いかさま化生の人なるべし。シテ「今は何をかつゝむべき。 我は六条の御息所なるが。 我一天の虚空として。美女の誉慢心となり。 又一乗妙経を片時も懈る事なければ。 これ又却つて慢心となり。二の心の障故。 魔道に落ちて天狗にとられ。 この愛宕山をすみかとせり。すはまた時も。来るかは。/\。 雲の波山の波の。 立ちくる粧愛宕の山の天狗に。とられて失せし六条の。 御息所といはれしが。 身は安からぬ魔道の苦患御覧ぜよ。/\。地渡拍子「見渡せば。/\四方の空も晴やかに。 飛び行くや雲車のめぐる雪や面白やな。/\。名にし負ふ/\。

愛宕の山の太郎坊。比良の嶽の次郎坊。 名高き比叡の大嶽。横川の杉村。 比良の湊の流松の。嵐も立ち帰り/\て。 こゝは花の都の六条の院と申すも。 御身の故郷なるものを。こゝに車を立て置きて。 暫しは休み給へや。 シテ「恨めしの我が身やな。いかなる罪の報にか。 かゝる魔道にをちこちの。山路にいつまで迷ふべき。 ツレ「何をか歎かせ給ふらん。 御身より出づる慢心なれば。 心からとは思し召されずや。はや/\狂ひ給へとよ。 シテ「悲しや/\狂へとは。又その時の来れるか。 詞「今に始めぬ御苦。 一日に三度の餌食とて。熱鉄の金湯の丸かせ。 シテ「服せんとすれば炎となつて。 ツレ「御身を焼けば痛はしや。シテ「叫ばんとすれば声出でず。 ツレ「しん/\忽ち炎となつて。 シテ「五体さながら。ツレ「大紅蓮の。 烟の中に絶え絶えと。形はさながら炭竃の。

おき火となり給ふ。あらさてこりの姿や。 小天狗立ち寄りて。/\。 おき火となれる御身を撫づれば。又人の形となつて。 偶々生ある姿となるを。大天狗立ち寄りて。 御ぐし。 を手にからまいて一打二打打つと見えしが。微塵の如くに打ち砕きて。 嵐に散り行く木の葉の如く。 ばつと散ると見えつるが。虚空にことふの声ありて。 どつと笑ふと聞えしが。 ありつる愛宕の樒が原に。影の如くに御息所。 影の如くに御息所は。夢幻とぞなりにける