ワキ次第「樒が原の道分けて。/\。愛宕の山 に参らん。詞「本山三熊野の山伏にて候。 我未だ愛宕山樒が原に分け入らず候ふ程 に。只今思ひ立ちて候。歌「西山や嵯峨野 の嵐音寒き。/\。音も小倉の嶺つゞき。 行方をさして行く程に。その名も高き愛 宕山。樒が原に着きにけり。/\。詞「あら 笑止や俄に雪降り来りて候。晴らさばや と存じ候。シテ「愛宕山。樒が原の雪のうち に。花摘み添ふる袂かな。寒林に骨を摧 き。霊鬼泣く/\前生の業を憾む。深夜に 花を供ずる天人。返す%\もきしやうの せんを悦ばん。詞「いつもの如く山に入り。 樒を手折らばやと思ひ候。ワキ「我等如き の行人だにも。ものすさまじき愛宕山。 然も女性の御身として花摘み給ふは不審

なり。シテ「それ後の世を歎く志。男女の 上下によるべきか。仏の為の花なれば。山 に入り樒を手折る事は。何の不審の候ふ べき。ワキ「いや花摘み給ふ事に不審はな けれども。その様け高き女性の御身とし て。御供の人をも伴ひ給はで。この山中 に只一人。花摘み給ふは不審なり。御名 を名宣り給ふべし。シテ「そも何と見給へ る様なれば。我を貴人と御覧ずらん。こ れにつけても昔の人は。能々つらね置き たるぞや。なき名のみ高雄の山と云ひた つる。人は愛宕の嶺に住むらん。この歌 の如くに人がましくも云ひたつる。人ぞ 中々我が為は。あたごの山伏よ知らぬ事 なの給ひそ。何事も云はじや聞かじ白雪 の。/\。道行ぶりの薄衣。白妙の袖な

れや。樒が原に降る雪の。花をいざや摘 まうよ。夕日かげろふ紅の。末摘花はこ れかや。春もまたきなば都には。野辺の 若菜摘むべしや。/\。ワキ詞「不思議やな 夜になるまでこの山中に只一人。花摘み 給ふは不審なり。いかさま化生の人なる べし。シテ「今は何をかつゝむべき。我は 六条の御息所なるが。我一天の虚空とし て。美女の誉慢心となり。又一乗妙経 を片時も懈る事なければ。これ又却つて 慢心となり。二の心の障故。魔道に落ち て天狗にとられ。この愛宕山をすみかと せり。すはまた時も。来るかは。/\。雲の 波山の波の。立ちくる粧愛宕の山の天 狗に。とられて失せし六条の。御息所とい はれしが。身は安からぬ魔道の苦患御覧 ぜよ。/\。地渡拍子「見渡せば。/\四方の 空も晴やかに。飛び行くや雲車のめぐる 雪や面白やな。/\。名にし負ふ/\。

愛宕の山の太郎坊。比良の嶽の次郎坊。名 高き比叡の大嶽。横川の杉村。比良の湊 の流松の。嵐も立ち帰り/\て。こゝは 花の都の六条の院と申すも。御身の故郷 なるものを。こゝに車を立て置きて。暫 しは休み給へや。シテ「恨めしの我が身や な。いかなる罪の報にか。かゝる魔道に をちこちの。山路にいつまで迷ふべき。 ツレ「何をか歎かせ給ふらん。御身より出 づる慢心なれば。心からとは思し召され ずや。はや/\狂ひ給へとよ。シテ「悲し や/\狂へとは。又その時の来れるか。 詞「今に始めぬ御苦。一日に三度の餌食 とて。熱鉄の金湯の丸かせ。シテ「服せん とすれば炎となつて。ツレ「御身を焼けば 痛はしや。シテ「叫ばんとすれば声出でず。 ツレ「しん/\忽ち炎となつて。シテ「五体 さながら。ツレ「大紅蓮の。烟の中に絶え絶 えと。形はさながら炭竃の。おき火となり

給ふ。あらさてこりの姿や。小天狗立ち 寄りて。/\。おき火となれる御身を撫 づれば。又人の形となつて。偶々生ある 姿となるを。大天狗立ち寄りて。御ぐし を手にからまいて一打二打打つと見えし が。微塵の如くに打ち砕きて。嵐に散り 行く木の葉の如く。ばつと散ると見えつ るが。虚空にことふの声ありて。どつと 笑ふと聞えしが。ありつる愛宕の樒が原 に。影の如くに御息所。影の如くに御息 所は。夢幻とぞなりにける。