ワキ次第「山又山の行末や。/\。雲路のしる べなるらん。詞「抑これは本山三熊野の 山伏にて候。我松島平泉の志あるによ り。唯今思ひ立ちて候。道行「山なみのか かるや雲の嶺つゞき。/\。日もたてぬ きの空晴れて。霞もよそにかづらきや。 高間につゞく大和路や。雪まだ残る山城 の。国を過ぐれば近江路や。園城寺にも 着きにけり。/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。 園城寺に着きて候。心静かに参らばやと 思ひ候。シテ「月重山に隠れぬれば。扇をあ げてこれを譬へ。花きんしやうに散りぬ れば。雪を集めて春を惜む。実にも春宵一 刻の。惜まるべしやくわしつのよの。松 風までも心して。有難かりける時節かな。 ワキ「われ一心にたしやうし。護摩の壇上

に念誦して。れう/\とある折節に。御 法を尊む声すなり。いかなる人にてまし ますぞ。シテ「これはこの寺のあたりに住 む者なるが。妙なる法の御声にひかれて。 爰に立ち寄るばかりなり。ワ「実に/\ 爰は所から。しんせき年をふる寺の。 シテ「憂はかんしの古きに破れ。二人「魂 はさんかうの深きに痛ましむ。所も近き 湖の。地「さゝ波や三井の古寺来て見れば /\。昔ながらの花も吹き。月は隈なき 春の夜の鐘ばかりこそ朧なれ。面白の折 からや。しかも妙なる法の声。心耳を澄 ます有難や。/\。ワキ「なほ/\泣不動 の謂懇に御物語り候へ。シテ「語つて聞 かせ申し候ふべし。抑園城寺のくわん しよ。ちこうないくうといつし人。行功

年古り法力たけて。やいばの験僧と名を 得たりしに。然れども。老既に時到つて。 命終らんとせし程に。今生に於て五種の 大願ありしが。未だ数終らざれば。それ のみ臨終の障ぞと。心中に思ふその心を。 せうくうといつし少僧の。師匠の命に代 らんとて。この明王の御前に参り。願は くは我が一命を召されつゝ。ないくうを 助け給へとて。肝胆を砕きて祈誓せしに。 クセ「その願や成就したりけん。ないくう の病は忽ち平癒し給ひて。月に晴れゆ くうき雲の。心も軽くなり給へば。せう くうはその身も弱々と。未だ若木の初桜。 嵐に沈む如くにて。花の顔ばせも面変 してぞ臥しにける。今を最期の事なれば。 持仏堂に参りて明王に暇申しつゝ。既に 限と見えし時。夢ともなく現とも。定 め難き御声にて。あらたに示現し給へり。 せうくうは師匠の命に替り。この世を去

らんとの。志は誠なれば。我また汝が命 に代り。せうくうを助くべし。然れば定 業を転ずる事。仏も叶はねば。三世れう たつの悲願にて。汝を今助くるとて。御 影の御眼に涙を流し給へば。常住院の泣 不動と御名を申せしは。有難かりし奇特 かな。ワキ「偖々せうくうはそのまゝ蘇生 ありけるか。シテ「中々の事明王地獄に行 き給ひ。せうくうに代りしその有様。夢 中に顕し見せ申さん。地「今は何をかつゝ むべき。今は何をかつゝむべき。かの明王 の御前なる。矜羯羅制〓{大漢和:003302。た}迦の一つなりと。 いふかと見れば仏前の。護摩の壇上に飛 び上り。灯火の光も香の煙も立ち添ひ て。明王の御影の陰に隠れけり。/\。 ワキ待謡「古りにしあとを改めて。/\。三宝 加持の行に。五道の罪も消えぬべき。 法の力ぞ有難き。/\。地「五更の天も明 けき。月の光や満ちぬらん。後シテ「抑これ

は明王のつかはしめ。矜羯羅とは我が事 なり。偖も不思議や明王は。冥途に到り せうくうが。こんしんに代るその心を。 鬼神は更に知らずして。罪の軽重はから んとて。せうくうを提げ。浄玻璃の。鏡 の前に引き向くれば。地「不思議やな鏡の 面かき曇り。/\。罪人の影も見えず。 かくて一日一夜は。長闇となり果てゝ。 軽重の善悪とゞまりぬ。シテ「こは如何に と見る処に。地「すは/\漸く霧晴れて。 浄玻璃の面も明くなりぬ。偖罪人の影を 見れば。せうくうにはあらずして。降服 悪魔の大聖明王。赫奕としてうつり給 へば。冥官冥衆。倶生神も。冠を地に着 けて礼拝する。シテ「理や明王の。地「理や 明王の。その本誓を尋ぬるに。胎蔵界の けうりやうりんしんたり。その誓願は余 尊に勝れて。不動を信ずる人並に不動の 行者をば。奴婢童僕となつて生々世々に

きうしせんと。正に誓ひ給へり。その御 形は青黒色にして。童子肥満の姿なり。 火焔の中に立つては。シテ「瞋恚の火を表 し。地「三毒の煩悩をせつかいせんとて。 シテ「利剣を提げ。地「左の眼を閉ぢては。 シテ「衆生の苦患をかゞみ。地「悉地菩提を 表せんとては。シテ「髪をしつはに束ね。 地「生死をとうせずして。シテ「涅槃に到 る。地「偖浄土にも。シテ「地獄にも。地「片 時。シテ「離れず。地「動かず。シテ「守れり。 動せずと書いては不動と読む。見我身者 発菩提心。聞我名者。断悪修善。聴我説 者得大智恵。知我心者即身成仏。実に有 難き誓かな。/\。