ワキ詞「これは陸奥壺の碑を知行仕る。甲

斐の守何某にて候。さてもこの所に千引

の石とて大石の候。此石に魂有つて。人 を取る事数を知らず。さる間この石を他 国へ引き出し。千々に割り捨てさせばや と存じ候。いかに誰かある。狂言シカ%\「。 ワキ「汝存じの如く。かの石を他国へ引き 出し。千々に割り捨てさせうずるにてあ るぞ。上六十下十五を限つて罷り出で。 石を引けと堅く申し付け候へ。 狂言シカ%\「。ツレ「誰にて渡り候ふぞ。狂言シカ%\「。 ツレ「此屋の内には又人もなく候。狂言シカ%\「。 ツレ「妾が事は女の事にて候ふ程に石 は得引き候ふまじ。狂言シカ%\「。ツレ「貧なる 者にて候ふ程に。余の人もなく候。狂言シカ%\「。 ツレ「実にや世の中に貧程悲しき事は なし。女の身にて諸人に交はり。石を引か んも恥かしければ。あらざる人に暇を乞 ひ。何方へも行かばやと思ひ候。 シテサシ「面白や風は昨日の夜より声いよ/\ かはり。人間の水南に流れ。天上の星北

に拱く。夜は幾程ぞ子一つより。丑三つ ばかりの夜半の空。あら心すごの通路 やな。 ツレ「万草に露深し。人静まつて更くる夜 に。訪らふ人も楢柴の。〓{大漢和:011728。とぼそ}を叩くは風や らん。シテ詞「面白や古き詩に。夫を風と言 ふ事あり。さなくは契も遠夫の。通ふ を風と宣ふかや。早此〓{大漢和:011728。とぼそ}を明け給へ。 ツレ「夜も深更になるまゝに。何とて遅き ぞおぼつかな。シテ「さればこそ通路の。 遠きを行くに夜は明けて。さこそ遅しと 松浦姫。ひれふる事を思ひやり。地下歌「我 が袖も涙ぞと。思ふと人はよも知らじ。 恨むるも中々に。頼ぞ残る人心。上歌「実 に待つは憂かるらん。/\。頃しも秋の 半過の。菴寒き秋風の。打つ時雨凄き夜 に。我も泣くなり鹿の音の。夫待ち兼ぬ る折しもに。袖ばかり涙とや袂嬉しき月 の夜。

シテ詞「如何に申し候。是に酒を持ちて候一 つ聞し召され候へ。あら思ひよらずや。 何とてさめ%\と御歎き候ふぞ。ツレ詞「さ ん候何をか包み参らせ候ふべき。此所は 千引の石とて大石の候。此石を他国へ引 き出し。千々に割り捨てよとの御事な り。妾にも出でて石を引けとの仰にて候 へども。女の身にて諸人に交はり。石を 引かんも恥かしければ。何方へも行かば やと思ひ候ふ程に。御名残も今宵ばかり にて候へば。かやうに歎き候。シテ「さて はそれ故の御事にて候ふか。さらば我が 名を顕すべし。今は何をか包むべき。我 は千引の石の精なり。御身と契をこめ し事。昨日今日とは思へども。早三年に 奈良の帝の御宇かとよ。万葉集にも入り ぬれば。世上にその隠れなし。されば石 も生滅の境を遁れず。かく木石に心なし とは申せども。今こそ情を見すべけれ。

定めてこの石を。千人してぞ引かんずら ん。名こそ千引の石なりとも。我が悪念 を起すならば。如何に引くとも引かるま じ。其時御事立ち寄りて。石の綱手を取 るならば。我が石力を失ひて。平砂を車 輪の廻るよりもたやすく引かるべし。さ あらば不思議の人なりとて。御身に宝を 与へつゝ。地「早く富貴の身とならば。 /\。それぞ頼めし契の色。千代かけて 玉の獅フ。長き守となるべし。ツレ「此 程は誰ともさして白雲の。かゝる奇特を 聞くよりも胸うちさわぐばかりなり。 シテ「よしやよし誰とても。前世の契なる べしと。地「思へば今宵を限りと知れば一 夜をも。千夜になさばやと。思へど明く る東雲の。飽かぬ中の中々に。何しに馴 れ初めて今更悲しかるらん。狂喜シカ%\「。 ツレ詞「如何に申し候。皆々御のき候へ。妾一 人して石を引かうずるにて候。狂言シカ%\「。

ワキ詞「これは不思議なる事を申す者かな。 某出でて直に尋ねうずるにて候。いか に女。この石をひとりして引かうずると 申すは汝が事か。ツレ「さん候妾が事に て候。ワキ「不思議なる事を申す者かな。 既に千人して引くだに引かれぬ石を。汝 一人して引かうずるとは。狂気したるか 然らずは。上を嘲りて申すか。ツレ「何しに 上を嘲るべき。まこと不審に思し召さば。 石を引かせて御覧ぜよ。ワキ「若しこの石 を引き得ずは。汝が科は如何ならん。 ツレ「よしなき事を夕波の。この身を沈め おはしませ。ワキ「実に/\か程に二つな き。命をかくるは様子あらん。ツレ「もし この石を引き得なば。望を叶へおはしま せ。ワキ「中々の事望を叶へ申すべし。さ らばこの石引き給へ。ツレ「これはまこと か。ワキ「中々に。地「さらばと今は木綿だ すき。/\。斯く不思議なる争の。あるこ

とかたき石の綱手立ち寄りて引かうよ。 ツレ「我はあだ夫の。言の葉ばかり力にて。 地「えいやと引けば不思議やな。石やがて 動き出でて引かれ行くぞ嬉しき。ツレ「引 くに引かれて嬉しきは。地「人帰るさの。 袂かな。 後シテ「石に精あり水に音あり。風は大虚 に渡る。地「形を今ぞ。顕せる。シテ「桜麻 の。苧生の浦波立ちかへり。地「影はそれ かや。石鏡。シテ「かはれる姿は恥かし や。地「恥かしの。/\。洩りなば人も 白波の。シテ「立つ名もよしや君故なれ ば。地「千引の石も一人に引かれて賎が苧 環くる/\/\と引かれて廻るや。石車。 働「。シテ「かやうに石魂顕れて。地「かやうに 石魂顕れて。さばかり妙なる大石なれ ども竜車の飛ぶよりなほ早く。彼の石山 を引き越し給へばそれより神の化現なり と。囲繞渇仰富貴万福に恵を施し彼の貧

宅を富貴の家に。建石宿の栄ふる事も。

/\。彼の石魂の情なり。