頼朝詞「いかに佐々木。木曽が狼藉鎮めんた め。皆西国にさし遣はしてあるに。何と て高綱は後れてあるぞ。シテ詞「仰畏つて 承り候。唯今出仕申す事余の儀にあらず。

あの一のつほう立つたる生食の所望にて 出仕して候。頼朝「生食が事は昨日梶原来 り。源太を乗すべき馬なければとて。頻 に乞ひ候ひつれども。梶原にさへ出さぬ

馬なれば。まして高綱には思も寄らぬ事 にてあるぞ。 シテ「さては梶原にさへ下されぬ御馬なれ ば。まして高綱には下さるまじきとや。 いで梶原には諸事の別当を仰付けられ。 かほどの分限の者さへ御馬を申す。まし て身不肖の高綱が御馬申したらんは。や は僻事にては候。今更かゝる奉公だて。 畏多く候へども。さても我が君流人の 御身とならせ給ひ。伊豆の国蛭が小島に 御座ありし時。某も十四の年より御配所 の御供申し。又その後石橋山の合戦に。 院宣を御忘れ給ひしを。某一人駈け戻し て大勢に割つて入り。院宣を給はつて。 二度君の御用に立て申し。やは御意のよ き梶原。かほどの奉公をば申し候。他の非 を申せば身のあやまり。御馬のほしきは 余の儀にあらず。江州は佐々木が故郷な れば。定めて宇治勢田の案内者仰せ付け

らるべし。さあらん時は疲馬に乗り。底 の水屑とならんも口惜しく。又ふる朋輩 の申さんは。いかなる御馬なればとて。 一命を参らせ置き侍る。一疋を惜み給ふ と申さんは。かつうは君の御難にもなる べし。あつぱれ御門出にて候はずは。御 前にて腹十文字に掻き切り。某はあの宇 治瀬田よりもなほ恐ろしき。死出三途の 大河をも。などかは渡し申さゞらんと。 地「無念の余りに覚えず落ちる。涙を抑へ て御前を立つ。恥かしの後姿や。と思 ひながらも又出でて。一度君に見えばや と。シテ「ひそかに口説くと思へども。思 ひ余りて言ふ声の。頼朝「いかに佐々木。 シテ「御前に候。頼朝「源太に逢ひては心得 よ。はや/\生食取らするぞ。地「御諚の 下に高綱は。かの生食を牽かせつゝ。勇 む心はありながら。かくて恨を春駒の。 勇をなして上りけり。/\。中入「。

源太一声「さても源太は磨墨を牽かせ。小高き 処に駒駈け上げ。前後を遥に見渡せども。 磨墨にます馬無ければ。心も空に浮島が 原。名をも揚ぐべき富士颪。 シテ「高綱も生食を牽かせて。さも静々と 登路の。地「足柄箱根明けぬに早越え。海 山二つの夜を日に。駿河の浮島が原に。 先立つ勢にぞ追ひ着きたる。 源太「いかに誰かある。トモ「御前に候。 源太「唯今の声は正しく生食が嘶声なり。 いかやうの者の賜はりたるぞ尋ねて来り 候へ。トモ「畏つて候。いかに申し候。唯 今のいばひ声は生食がいばひ声にてある が。いかやうの人の賜はりにて候ふぞ。 シテ「佐々木が賜はりて候。トモ「尋ね申し て候へば。佐々木殿の御賜と申し候。 源太「佐々木名字も数多あるべし。いづれ の佐々木が賜はつたると重ねて尋ね候 へ。トモ「畏つて候。佐々木名字も数多あ

るべし。何の佐々木殿の御賜にて候ふ ぞ。シテ「佐々木の四郎高綱が賜と申 せ。ちとも苦しかるまじきぞ。トモ「佐々 木の四郎高綱の御賜にて候。源太「佐々 木に逢ひて物一言いはんその分心得候 へ。いかに佐々木殿。シテ「源太殿か珍し う候。源太「あら羨ましの生食や候。シテ「あ あ慾がましや。生食にましたる磨墨は候。 源太「いや全く其馬ほしきにあらず候。昨 日親にて候ふ者我が君に参り。御馬の事 を申し上ぐるに賜はらず。面目を失ひ罷 り帰り候ふに。佐々木殿の御賜は。に くい君の御贔屓候ふな。日頃の遺恨なけ れども。君を恨むる子細あり。汝と爰にて 刺し違へ。郎等二人失ひて。地「君に損取 らせ奉りて。思ひ知らせ申すと。手綱か いとり駈け合はす。シテ「あふ伊豆箱根弓 矢八幡も御照覧あれ。この馬は賜はらず。 盗みたる馬にてあるぞ。先づ静まつて事

を聞き給へ。あゝ早まつたる男かな。 源太「さて子細はいかに。シテ「昨日某君に 参り。御馬の事を申す処に賜はらず。面 目を失ひ罷り帰りしに。折節御馬屋を見 てあれば。かひ%\しき番の者も無く。 唯生食が舎人ばかりなり。某兎角の事を ば言はず。腰の刀を抜いて取らせ。この 馬を盗みてくれよ。此度江州に討つて上 り。高名極むるならば。汝をば高恩に誇 らすべしと言ひければ。下揩フ身の悲し さは。慾にめでけるか。又その際兎角辞 しなば悪しかりなんとや思ひけん。子細 あらじと領掌す。即ち八幡の御引合と 有難く思ひ。そのまゝそこにて日を暮ら し。思のまゝに盗み馬の。追手もこそは あるらんと。地「いさ白波の盗人を。駿河

の海や浮島が原。今や景季。この上は君に 科はなし。何の恨も夏引の。糸を乱すや山 の富士。打ち連れてこそ上りけれ。 シテ「嬉しやな高綱は。地「求めたる命生食 に。磨墨を牽きつれて上りけりや。地「さ る程にこれぞ名残の酒宴かなと。佐々木 梶原に諫められて。皆々馬を打ち寄せて。 源太「おり立つや。田子の浦波富士颪。 地「靡かぬ事もなかりけり。男舞「。地「さる程に 鳥が鳴く。東の大勢攻め上れば。木曽の 一党。三島高梨都を巽。宇治瀬田二つの 橋を隔てゝ。シテ「渡さん様こそ渚に乱杭。 地「底に大綱。波の隙行く駒の足に。流 れかゝるを綱切の剣は。いふ名も高綱が 勢。誉めぬ人こそ無かりけれ。