シテ次第「立つ旅衣はる%\と。/\。東の奥 に急がん。詞「かやうに候ふ者は。都方に住 居仕る者にて候。扨も某如何なる宿縁に や。次第々々に衰へ。都に住居も叶ひ難く

候ふ間。東の方に知る人の候ふを頼み。妻 子を伴ひ只今東の奥へと急ぎ候。道行「都 をば。鳥が鳴く音に立ち出でて。/\。 東の旅に今日こそは。逢坂の関路吹く。

嵐の風は松本や。矢橋の渡程もなく。 近江路過ぎて行く旅の。憂き身の終如何 ならん。/\。唐衣きつゝ馴れしと詠じ けん。三河に渡す八橋の。くもでに物を 思へとや。なほ行末も遠江。果てなき旅を駿 河なる。吉原の宿に着きにけり。/\。 シテ詞「旅の者にて候宿を御借し候へ。 ワキツレ「宿と仰せ候ふか此方へ御入り候へ。 如何に申し候。旅人は何処より御下り候 ふぞ。シテ「是は都より人を頼みて東へ下 り候。宿主「あら痛はしや候。また密かに申す べき事の候。今夜此宿に御泊り候ふ人は。 明日富士の御池の贄の御鬮に。御出なく ては叶はぬ事にて候ふ間。御痛はしく存 じ斯様に申し候。夜の内に此宿を御通り 候へ。是は我等が内証にて申し候ふぞ。 疾う/\御立ち候へ。シテ「あら嬉しや候。 さらば急いで罷り立ち候ふべし。 ワキ「如何に誰かある。トモ「御前に候。

ワキ「今夜此宿に旅人が三人泊りて候が。 夜の内に立ちたる由申し候。急いで留め 候へ。トモ「畏つて候。如何にあれなる旅人 御留り候へ。シテ「此方の事にて候ふか。 トモ「中々の事。シテ「何とて御留め候や らん。その謂が承り度く候。トモ「げに/\ 御存なきは御理にて候当所に於て毎年富 士の御池贄の御神事御座候。即ち今日に 相当りて候ふ間。御神事に御逢ひ候へ。 シテ「委細承り候。譬へばその所の神事な どをば。その郷に孕まれ。またはその生 氏人などこそ御神事に逢ふことにて候 へ。行方も知らぬ旅人が在所に泊りたれ ばとて。御神事に逢ふべき事更に心得が たう候。トモ「いや/\如何に仰せ候ふと も叶ひ候ふまじ。ワキ「なう/\暫く。げに も其子細をご存じ候ふまじ。よく/\御 聞き候へ。昔より此吉原の宿に。今夜泊 りたる旅人は。何れも/\今日の池贄の

御神事に御逢ひ候ぞとよ。急いで御帰 あつて。その御神事に御逢ひ候ひて。め でたう頓て御かへり候へ。シテ「委細承り 候。以前も申し候ふ如く。其所の神事な どと申す事は。その生が郷内の人などこ そ執り行ふべけれ。いづくともなき旅の 者の。この池贄の御神事に逢ふべき事。 心得がたく候。ワキ「さてこそ大法とは申 し候へ。シテ「げに/\尤にて御座候へど も。平に公の私を以て。我等がことを ば御免あらうずるにて候。ワキ「扨は昔よ りの大法を。貴方一人して御破り候ふな。 シテ「暫く。其儀にてはなく候。此上にて候 ふ程に。恥かしながら真直に語り申し候 ふべし。是は都の者にて候ふが。如何なる 宿縁にや某が代となつて。事の外けいく わい仕り。世路をも営み難く候ふ程に。東 の方に知る人の候ふを頼み。妻子伴ひ下 る体にて候へば。平に通して給はり候へ。

ワキ「げに/\歎き給ふは理なれども。 昔より今に至るまで。親を取られ子を取 られ。妻や夫の別をする者その数を知ら ず。よし/\前世の事と思し召し。御池へ 出でさせ給へとて。神主官人すゝむれば。 ツレ子方二人「いかゞはせんと母や姫は。父の袂 にすがりつけば。シテ「父も云ひやる方も なく。たゞ茫然と呆れ居たり。ワキ「かく 休らひて叶ふまじと。三人が中を押し分 けて。トモ「先に追つ立て行く有様。ワキ「物 によく/\譬ふれば。地「中有黄泉の罪人 の。呵責のせめもかくやらんと。思ひ白 露の。消ゆるばかりの心かな。これかや 屠所に赴ける。羊の歩程もなく。涙と ともに行く程に。富士の御池に着きにけ り。/\。 ワキ「さて富士の御池に着きしかば。神主 を始め禰宜や乙女。神楽をのこに至るま で。御池のあたり坐列せり。地「贄の御鬮

は一つなれども。もし我にてやあるべき と。思ふ人数は数百人。ワキ「胸を抱き手 を握り。地「色を失ひ。ワキ「肝を消す。 地「誰が身の上と白雪の。深くぞ頼む氏の 神。守らせ給へと手をあはせ。祈誓申し けり。 ワキ詞「神主やがて立ち上り。/\。御鬮の 箱の蓋をあけ。諸人に取らせ数を見る。 地「数の人々残なく。御鬮を取りて立ち 帰り。披きて見れば一の鬮。なきは喜ぶ その中に。因果非運はこれかとよ。旅人 の娘取り当り。臥しまろびてぞ泣き居た る。/\。ワキ詞「旅人は三人あるか。鬮は 二つ出でてあるぞ。あの旅人の中に。今 一つの鬮を出せと申し候へ。トモ「畏つて 候。如何に旅人へ申し候。三人御座候ふ が鬮は二つ出で候。今一つの鬮を御出し あれと神主殿より仰せられ候。シテ「いや 早悉く参らせて候。トモ「いや幼い人の鬮

が出で申さぬげに候。さればこそこれに 候。や。しかも一の鬮にて候ふよ。母「げに なうこれは一の鬮にて候ひけるぞや。悲 しやな都の内を迷ひ出でて。知らぬ東に 下る事も。御身を人にもや成すと思ひて こそ。物憂き旅にも思ひ立ちたれ。さて 御身に離れては。母は何となるべきぞや。 あら浅ましや候。姫詞「なうさのみな御嘆 き候ひそ。この鬮を母や父御の取り給は ば。みづからは何となるべき。さりなが ら只今別れ参らすべき。御名残こそ惜し う候へ。シテ「げに/\けなげなる事を申 し候ふものかな。二人の親何れにても取 り当りたらば。姫は何となるべきと。孝行 なる事を申し候。なう/\この貴賎群集 の中にて。さのみな御嘆き候ひそ。同じ 親にて候へば。何れも嘆は劣るまじく候 へども。始よりこの御鬮に参るよりして。 三人が中に一人取り当らうずると覚悟仕

りて候ふ程に。某はちとも嘆くまじく候 ふよ。母「妾も左様には思ひ候へども。 これは余りの事なれば。現とも更に思は れず。シテ「父も弱げを見えじとて。心づ よくは言ひながら。さすが親子の中なれ ば。忍ぶ涙はせきあへず。母「こはそも夢 か現かと。姫に取りつき悲しめば。シテ「父 もろともにすがりつき。シテツレ二人「さても親 子の契とは只今ばかりの対面なれば。父 母をもよく見よ。姫をもいま。限と見れ ばかきくれて。いとゞ涙の搴セ。地「富士 の煙の上もなき。思や我に知らるらん。 げに別こそ悲しけれ。上歌「なげきには。 如何なる花の咲くやらん。/\。身となり てこそ思ひ知らるれと。詠ぜし人の心も。 今身の上とあはれなる。貴賎群集は之を 見て。げに理や父母の。思はさこそと 夕露の。袖をしをりてもろともに。歎き 合ひたる気色かな。/\。中入「。

ワキ「既にその期になりしかば。神主宮人 のこりなく。御池のあたりに並み居たり。 地「さてかの船には御幣を飾り。五重の荒 菰その上に。贄の乙女を据ゑ置きたり。 ワキ「神主御幣おつとつて。既に祝詞を申 しけり。謹上再拝。敬つて白す大日本国。 駿州富士の郡下方の郷。大蛇の御池にし て。贄の乙女を供へ奉る処なり。仰ぎ願 はくは。青蓮の御眼鮮かに。棹鹿の八つ の御耳を振り立てゝ。聞き入れ納受垂れ 給へ。地「や本地覚王如来。寂光の都を出 でて。ワキ「かりに垂跡と現れ。一業所感 の迷の衆生を。救はん方便の殺生。地「有 難けれども願はくは。池贄をとゞめて国 土の人民の。憂を助けてたび給へ。 地「あれ/\見よや御池の面。/\。さゞ 波立てゝ水渦巻き。風吹き荒れて朱の赭 舟。おのれと沖にゆられて行けば。父母 あれはと舟を慕へば。姫も互いに名残を惜

み。招けば招く風情はさながら。松浦佐 用姫かくやらんと。汀にひれ臥し泣き居 たり。後シテ「抑これは。富士権現の御使。 日の御子の神なり。さても此度贄の御鬮 を。旅人の娘取り当り。父母余の嘆に や。大願様々あり。今よりして池贄を止 め。国土安全になすべしと。地「神託あら たに聞えしかば。/\。曇る空晴れ風静 まつて。白浪は平波となつて。池水の面 悠々たり。シテ「譬へばその昔。出雲の国 や簸の川上に。大蛇の池贄あつて。稲田 姫を取らんとせしに。素盞嗚尊は居まし て。剣を抜いて忽ちに。毒蛇の八つの頭 を。皆いち/\に打ち落して。それより池 贄止まりけり。其如くにこの悪蛇をも。 富士権現の御罰に依つて。今より池贄と どまるべしと。告げ知らしめて此舟を。 もとの汀に漕ぎよせて。姫を二親に与へ つゝ。さて日の御子は白雲に。輝き昇る

や富士の嶽。雪や烟に立ちまぎれ。雪や 烟に立ちまぎれ内院に。神は上らせ給ひ

けり。