次第「あはでの森の名をとめし。/\。親子 の道に出でうよ。ワキ詞「かやうに候ふ者は 鎌倉かめがへがやつの者にて候ふが。去 年の春より都に上り。只今鎌倉へ下り候。 シテ「これは鎌倉かめがへがやつに住む女 にて候。父は商人にて御入り候が。去年 の春都へ上り給ひ。其年の暮には御下向 あるべき由仰せ候ひしが。此秋迄御下な

く候ふ程に。余りに心許なく候へば。父を 尋ねて都へ上り候。実にや本よりの憂世 の旅に廻り来て。又いづくにかいな船の。 上れば下る都路の。末も七の星月夜。鎌 倉山の朝夕に。馴れてふるよの中にだに。 絶えてもそはぬ親と子の。中々何に生れ 来て。薄き縁こそ恨なれ。シテ「余りに思ふ も悲しさに。都とやらんはそなたぞと。

歌「夕月影の西の空。山又山を遥々と。思 ひ立つ旅の衣のうらかけて。/\。野に も山にも行く道の。末はまだしき宿々の かりなる夢の草枕。結びかへたる袖の露。 同じ命の身の行方。尾張の国に着きにけ り。/\。シテ詞「いかに案内申し候。女「誰 にてわたり候ぞ。シテ「是は旅人にて候ふ が。道より風の心地にて候。一夜の宿を御 貸し候へ。ツレ「承り候。御宿を参らせうず るにて候。実にこれは御もうきと見え給 ひて候。奥の間へ御座あらうずるにて候。 やあ/\お旅人の御着にて有るぞ。皆々 出でて御もてなし仕り候へ。お旅人は正 しう道より風の心地と仰せられ候。何 とか渡り候ふやらん。罷出でて尋ね申さ ばやと存じ候。いかに申し候。これは此 屋の主にて候。さきに仰せられ候ふは。 道より風の心地と仰せられ候。御心元な う存じ候。何と御入り候ふぞ。シテ「ならは

ぬ旅の疲にや。路道より風の心地にて候。 ツレ「げに/\さやうに見え給ひて候。定 めて旅の疲にて候ふべし。苦しかるまじ く候。御心易く思し召されうずるにて候。 さりながら自然の御為にて候。いづくよ りいづ方へ御通ひ候ふぞ。女「是は鎌倉か めがへがやつの者にて候ふが。父は商人 にて御入り候ふが。去年の春都へ上られ て候。其年の暮に下向申されべきと申さ れしが。此秋まで御下なく候ふ程に。父を 尋ねて都へ上り候ふが。尋ぬる父には逢 はずして行方も知らぬ旅の宿にて。空し くならん悲しさよ。あら父恋しや。/\。 ツレ「御心安く思し召され候へ。御宿を参 らせ候ふ上は。某がいぶんいたはり申さ うずるにて候。御心を強くもたれ候へ。ち とも苦しかるまじく候。あら笑止や是 ははや以外に御煩ひ候。なう/\。や。 言語道断。早こときれ給ひて候ふは如何

に。由なき人に宿を参らせて候ふものか な。この上はとかく申しても叶ふまじく 候ふ程に。森の御僧とて貴き人の御入り 候ふ程に。死骸を森の御僧の方へ送り申 さばやと存じ候。ワキ詞「是はこよひ此宿 に泊りたる旅人にて候。又此宿の隣に鎌 倉の者と申して泊りて候ふが。今宵空し く成りたる由申し候。如何なる者ぞと尋 ばやと存じ候。いかに此屋の内へ申すべ き事の候。ツレ「誰にて渡り候ふぞ。ワキ「さ ん候これは旅人にて候。又こよひ此御内 に旅人の空しくなりたる由承り候ふは。 いづくの者にて候ふぞ。ツレ「其事にて候。 女性旅人の泊まり給ひて候ふが。道より 風の心地と仰せ候ひしが。以ての外御煩 ひ候ふ程に。自然の為と存じ候ひて。国所 を尋ねて候へば。鎌倉亀がへがやつの商 人の娘にて候ふが。父は去年の春より都 へ上り。此秋まで御下なく候ふ程に。父を

尋ねて都へ上ると申され候ひしが。程な う空しくなり給ひて候。若し思し召し合 はする事の候ふか。ワキ「何を秘し申し候ふ べき。某は鎌倉亀がへがやつの商人にて 候ふが。去年の春より都に上り。其年の暮 に。必ず罷下るべき由を申して候へども。 都に去りがたき事の候ひて唯今罷下り 候。ツレ「偖息女を持ち給ひて候ふか。 ワキ「さん候娘を一人持ちて候ふを。人に 預け都へ上りて候。偖は疑ふ所もなき我 が子にて候ふべし。クドキ「いまふにいまは れぬ世の習。有るまじき事にもあらず。胸 騒して心も心ならず候。詞「偖其死骸はい づくに候ふぞ。ツレ「森の御僧と申して貴 き人の御方へ送り申して候。ワキ「言語道 断なう若し未だ死骸が候ふらん。一目見 たう候。ツレ「御申しの所尤もに候。さらば お供申して尋ねうずるにて候。こなたへ 渡り候へ。ワキ「承り候。ツレ「いかに案内

申し候。森の御僧の御座候ふか。某が参じ て候。僧「誰にて渡り候ふぞ。アルジ「某が参 じて候。僧「や。こなたへ渡り候へ。ツレ「承 り候。偖今朝は思ひもよらぬ事を申し 入れて候。僧「其事にて候。ツレ「又只今参 る事余の儀にあらず。是に渡り候ふ御方 は。其人の親父にて渡り候ふが。都よりこ よひ此所に御留にて候ふが。此事聞き及 び給ひ。其死骸を一目見度き由仰せ候ふ 程に。是まで御供申して候。其死骸は候。 僧「はや時が能く候ひし程に葬りて候。 ワキ「何とはや葬むられたると候ふや。 アルジ「さやうに仰せられ候。ワキ「言語道断 の次第にて候ふものかな。僧「かゝる御痛 はしき事こそ候はね。よし/\余所の事 ならば御利益とも成るべし。そと焼香あ つて御通り候へ。ワキ「承り候。さらば焼香 いたさうずるにて候。さてその所はいづ くにて候ふぞ。僧「さん候これなる森蔭に

て候。急いで焼香あらうずるにて候。 ワキ「心得申し候。偖は疑ふ所もなく。我が 姫にてぞ有るらんと。空しき跡に立ちよ りて。僧「香を焼き念仏して。ワキ「過去幽 霊とは弔へども。僧「さすがに誠を。ワキ「知 らざれば。若しも我が子になかりせば。 あらいまはしや定なやと。歎くべき事 をだに。身を任せぬぞ悲しき。実にやそ れぞとは知れども見えぬ夜桜の。別さこ そと花散りし。森の木蔭もなつかしや。 /\。僧「いかに申し候。余りに御痛はし く候ふ程に申し候。此僧一とせ渡唐せし 時。反魂香一たきとりて帰朝仕つて候。 此香と申すは。恋しき人の姿を見んと ては。八月十五夜隈なき月に。この香を焼 き候へば。必ず亡き人の姿見ゆると申し 候。されば魂を反すと書きて反魂とよめ り。や。然もこよひ明月に相当つて候ふ 程に。此香を焼き実否を御覧じ候へ。

ワキ「あら有難や候。やがて此香を焼き候 ふべし。名に聞きし反魂香の薄煙。雲と なりにし亡き跡の。魂を反すやと。月の 夜すがら経を読み念仏の声も添ふ。森の 松風更け過ぎて。ワキ「鳧鐘の響半夜の鐘。 女「中秋三五。めいせんの影。地「反魂香。 は。魂を。シテ「返す%\も。嬉しきぞや。 ワキ「あれはとも云はゞ形や消えなまし。 煙の中に現るゝ。姿を見れば我が姫なり。 シテ「人は只面影のみを見るやらん。我は 絶えず瞿麦の。草の蔭より見るものを。 ワキ「余の事の懐しさに。身にも覚えず 歩み寄りて。シテ「面影もたつ小夜衣の。 ワキ「袖に正しくすがりつけば。二人「手に も溜らぬ白玉か。何ぞと見れば森の露の。 光は月姿は烟と。立ち去りて跡もなく。形 も消えて跡はたゞ。煙ばかりぞ反魂の。か う/\の子ならばなどやしばしも留まら ぬ。曲「伝へ聞く漢王は。李夫人の別故甘

泉殿の床の上に。古き衾の恨を添へ。九 花帳の内にてはこの香の煙を立て。月 の夜更け行く風の声。えんようへん/\ とけしき立つ。玉殿にうつろひて李夫人 の御形仄に見え給へり。三五夜中の新月 の。夜半の空隈なくて。ちやうあんうむ しやうの粧けしきに到る心地して。皆感 涙を沾せば。君も竜顔に御顔を押しあて て。反魂の煙の中に立ちよらせ給へば。 又李夫人は消々と。時雨もまじる有明の。 見えつ隠れつかげろふの。有るか無きか の御姿かくやと思ひ知られたり。ロンギ「か

かる例を聞く時は。空恐ろしき身の行方。 夢幻の面影を。かりにも見るぞ嬉しき。 シテ「見るかひも歎ぞしげきこの森の。 かげの如くは見ゆれども。誠は逢はざれ ば。亡き跡のその名にもあはでの森と云 ひやせん。げにやあはでの名を残す。森 の梢の夜も明けば。今ぞ限の薄煙。反 魂香を又焼きて。名残の姿なほ見んと。 立つる煙の中に現るゝ。袂にとりよれば。 又消々となり失せて。正しく見えしかひ もなく。終にあはでの森とはこの親子の 謂なり。今の親子の謂なり。