ワキ「これは紀州粉川寺の住僧にて候。偖 も当寺に於て。年に二度人を泊めぬ夜の 候。一夜が今夜に相当りて候ふ程に。此 由を委しく申し付けばやと存じ候。いか に能力。汝存知の如く当寺に於て年に二 夜旅人を泊めぬ夜の候。一夜が今宵に相 当つて候ふ程に。かまひて人を寺中に泊 め候ふな。其分心得候へ。シテ次第「その暁を 松風や。/\。高野の寺に参らん。詞「か やうに候ふ者は都の者にて候。さても我 多年の望候ふて高野山に参り候。それよ り粉川へも参らばやと存じ候。サシ「都出 でて今日瓶の原と詠めける。木津のこつ 川はこれかとよ。川風あまり身にしめば。 我にも衣を鹿背山に。思ひつゞけて行く

程に。シテ「さて奈良坂に着きしかば。こ こは法華般若寺。立衆「大聖文殊を拝み申 せば。罪障はつき雲井坂。左はいづく東 大寺。三国無双の大伽藍。まのあたりに拝 む有難さよ。下歌「月の三笠の山の端は。 今ぞ知らるゝ春日野の。鹿の音になどか 附けざらん。上歌「春ならば。花とやいは ん葛城の。/\。よそに見えたる峰の雲。 かゝる旅こそ宇野と聞け。なほ行く先は あふかの里。このあたりぞと夕煙。立ち 添ふ林を見渡せば。かせいちの森やかま やどの。森とも早く知られけり。/\。 詞「急ぎ候ふ程に。粉川の寺に着きて候。や がて御堂へ参らうずるにて候。いかに誰 かある。トモ「御前に候。シテ「早日の暮れ

て候ふ程に。寺中に宿を借りて来り候へ。 トモ「畏つて候。いかに案内申し候。狂言「誰 にてわたり候ふぞ。トモ「是は旅の者にて 候ふが。一夜の宿を借り申したく候。 狂言「此寺の習にて。年に二夜旅人に御宿 参らせぬ大法にて候。其一夜が今夜に相 当りて候ふ間。御宿は叶ひ候ふまじ。 トモ「寺中へ御宿の事を尋ねて候へば。当 寺の大法にて年に二夜旅人に御宿参らせ ず候。其一夜が今夜に相当りて候ふ程に。 何方にも御宿は叶ふまじき由申し候。 シテ「其義ならば苦しからず候。今夜は月 も面白く候ふ間。本堂の前の白砂にて一 夜を明かさうずるにて候。皆々近うより て物語り候へ。 子「あら痛はしや旅人の。未だ御宿もなげ に候。是御覧候へ。トモ「いかに申し候。 只今幼き人の御通り候ふが。御文を落し 申されて候。シテ「何と少人の文を落し給

ひたると申すか。殊に当寺は児観音にて 候ふ程に。若し御利生の事もや候ふらん。 先披いて見うずるにて候。未だ御目にか かりたる事は候はねども。旅に行き暮れ 疲れ給ひたる御有様。余りに御痛はしく 存じ一筆申し参らせ候。みづからが古郷 は近江の国高島と申し候。其方よりと仰 せ候ひて御尋ね候はゞ。御坊も対面ある べし。みづからも左様にあひしらひ申す べし。我が名は梅夜叉と申し候。返す%\ も御痛はしさの余りにかやうに思ひより て候。地「やさしの人の心や。いつ馴れ ぬ花の姿。色あらはれて此宿の。かり 言ぞ嬉しき。類なの人の心や。 シテ詞「さて何とし候ふべき。トモ「其御事に て候。只今御越なくは。梅夜叉御の御志も 徒になり候ふ間。仮名字にて御出あれか しと存じ候。シテ「さらば其由申し候へ。 トモ「畏つて候。いかに案内申し候。高島殿

の御宿坊はいづくにて候ふぞ。狂言「これ にて候。トモ「高島殿の只今御登山にて候。 狂言「其由申さうずるにて候。いかに申上 げ候。高島殿御登山にて候。ワキ「何と高島 殿の御登山と候ふや。あら思ひよらずや。 此方へと申し候へ。狂言「畏つて候。此方へ 御出で候へ。トモ「心得申し候。いかに申し 候。其旨申して候へば。あれに御通あれと の御事にて候。シテ「さらばかう参らうず るにて候。ワキ「御登山めでたう候。シテ「さ ん候とくにも登山致し御礼申すべきを。 公私隙なきについて遅なはり申し候。殊 に幼き者を参らせ置き。万御むつかしき 事恐れ入り存じ候。ワキ「委細承り候。只 今の御登山祝着申し候。いかに梅夜叉殿 此方へ御出で候へ。殊の外の成人にて候。 シテ「誠に殊の外成人仕りて候。ワキ「又梅 夜叉殿御舎兄は比叡山に御童形にて候ふ か。御出家を遂げらるゝとも申す。又御下

あつて家を御相続とも申し候ふが。何れ か一定にて候ふぞ。シテ「さん候いでそれ は。子「あら心なの仰せやな。暫し休ませ申 すべきに。地「長物語よしぞなき。明けな ば帰る故郷の。遠旅も痛はしやと。みづか ら酌を取り御客人に勧むる。シテ「げにや 情は有明の。地「月の都に住み馴れて。人 こそ多けれど。かゝるやさしき事はなし。 京に田舎あり。田舎にもまた都人の。心ざ まはあるべしや。道すがらの思出。げに 忘れがたの風情や。 トモ詞「はや鳥が歌ひて候。シテ詞「何とはや 夜の明方に候ふとや。さらば御暇申さう ずるにて候。ワキ「暫く。たま/\の御登山 にて候ふ程に。御逗留候ひて御慰み候へ。 シテ「御意にて候ふ程に逗留申したく候へ ども。路次に人と堅く契約申したる事候 ふ間。先此度は罷り帰り。又近日罷り下り 御礼申すべく候。ワキ「さては御立なうて

は叶ひ候ふまじきか。あら是非もなや候。 重ねて御登山を待ち申さうずるにて候。 いかに梅夜叉殿。はや御帰り候御門送り 候へ。子「心得申し候。 シテ「いかに申し候。偖も今夜は草の枕に 臥すべく候ふ処に。御憐により一夜を明 かさせ給ふ事。生々世々忘れ申すまじく 候。必ず十日の内には罷り下り。今夜の 御礼申すべし。さるにても昨日の暮の隠 し文。地「思はぬ方に節竹の。一夜の契夢 うつゝ。粉川の寺の鐘の声鳥の音。あら 忘れがたの面影や。 シテ詞「いかに誰かある。某が参りたる由申 し候へ。トモ「畏つて候。いかに御坊へ案内 申し候。狂言「誰にてわたり候ふぞ。トモ「高 島殿の御登山にて候。ヲカシ「いかに申上 げ候。又高島殿御登山にて候。ワキ「此方へ 入れ申し候へ。あらめでたや御下にて 候。シテ「先度の御礼の為参りて候。偖幼き

人は何処に御座候ふぞ。ワキ「これに渡り 候。シテ「情は人の為ならず。地「よしなき 人に馴れ初めて。出でし都も。忍ばれぬ程 になりにけり。ワキ詞「重ねて御登山祝着申 し候。以前は仮名字にて御出の由承り 候。此度は誠の御名字を御名乗り候へ。 シテ「仮名字につきて面白き曲舞の候ふ程 に諷ひ。その時名宣り候ふべし。 サシ「吉野山の花見の行幸には。妹背の中 を離れ。地「須磨明石の月に休らふとて も。三年の日数を徒らに過し。その後筑 紫筑前に下り。朝倉の里と云ふ処に。暫く 御座をなし給ふ。クセ「茆茨根を切らず。 さいてん削らずして。黒木に作る宮柱。 立つ木の枝もおのづから。すなほになれ ば君が代に。住む事やすき例とて。その まゝ住ませ給ひしかば。それより名づけ つゝ。木の丸殿と号すなり。世につゝむ べき事あり。たゞ人の如く天皇や。豊の

明の影凄く。忍びて住ませ給ひしに。参 る人は必ず。その名を名宣り帰るべし と。綸言の趣。和歌の浦波朝倉や。シテ「木 の丸殿に我が居れば。地「名宣をしつゝ行 くは誰が子ぞ。かやうに詠じ給ひしかば。 その後参る人は。言問はず名宣りけり。 げにやかしこき世語の。遠き喩も恐あり。 我等もいざや名宣りつゝ。名宣の為と木 綿附の。とりあへぬ御酒盛。いざ諷ひ奏 で遊ばん。 ロンギ地「げに面白やさこそげに。都人の舞 の袖。ゆかしやと囃せば。シテ「たをやか なりし舞の手も。今は老木の花ぞ無き。御 覧あれや方々。地「若木によらぬ舞の袖。 老木の花は珍しや。シテ「さらば思出に。 幼き人ともろともに。相舞ならば舞はう よ。地「げに相舞は殊更。互の心花染の。 シテ「恐ある御袖を。引き立つる袂も。 地「引かるゝ袖もたをやかに。豊なる君が

代なり。諷ひ奏で舞人の。さもめでたく ぞ覚ゆる。 シテ「いつか紀の路の山高み。地「雲こそつ づけ旅の空。舞「。ワキ詞「なう/\此度は実 名を早く御名宣り候へ。シテ「今は何をか つゝむべき。これこそ杉村弾正の少弼候 よ。ワキ「あらおびたゝしの大人や候。 シテ「偖も幼き人の御事を。我が君へ申し

上げ候へば。急ぎ御供仕れとの御事によ り。只今御迎に参りて候。ワキ「さては幼き 人只今が名残にて候ふよ。シテ「中々の事。 忘られぬ時忍べとや浜千鳥。地「ゆくへも 知らぬ。シテ「人を尋ねて。地「月の夕暮花 の曙。事によせ折々ごとに。忘るまじや 忘らるまじの。あらまし残す。有りし情 は露の玉章。言葉も尽きせぬ名残かな。