ワキ詞「これは九州松浦の貞俊と申す者に て候。我さる子細あつてか様の姿となり。 この須磨の山里に住居仕り候。又此所に 霊験あらたなる観音の御座候ふ間。毎日 歩を運び候。今日もまた参らばやと思ひ 候。シテ女サシ「思出はうきより外になみ小船。 こがれ/\てきし方に。移る月日の数添 ひて。衰へ果つる姿かな。あら故郷恋し や。詞「か様に狂ひありく程に。これは早 須磨寺とやらんに参りて候。実にや此 観世音は。霊験あらたなる由承りて候ふ 間。二世の所願を祈らばやと思ひ候。衆 生被困厄。無量苦逼身。観音妙智力。能 救世間苦。ワキ詞「いかにこれなる女。汝は 狂人と見えたり。早々立ち去り候へ。

シテ「現なや狂人と宣ふか。我は物には狂 はぬものを。あら恨めしの仰やな。一セイ「夫 故に。身を凩の森の露。地「なほ消えがて の。身ぞつらき。シテ詞「なう/\御僧。都 への道教へて給はり候へ。ワキ「おことは いづくより来り給ひて候ふぞ。シテ「我は 是より遥なる。心づくしの者なるが。夫 の行方を尋ねんと。都に上り侍ふなり。 ワキ「実に痛はしや遥々の。浪路を凌ぎ憂 き旅に。シテ「思を須磨の浦なれや。ワキ「光 君もこの所にて。辛きうき世の有様を。 シテ「三年が程の御住居。ワキ「袖もさなが ら。シテ「しほたるゝ。地「あまの衣のうら ふれて。/\。逢瀬をいつとしら波の。 立居隙なき思ひ妻頼めぬ暮をまつら潟。

馴れし昔ぞ恋しき/\。ワキ詞「なほ/\お 事のこし方を委しく語り給へ。シテ「さら ば委しく語り候ふべし。サシ「生国は筑紫 肥前の者。地「在所は松浦わざと名字をば 申さぬなり。シテ「ある人の妻にて候ひし が。地「夫は讒臣の申事により。無実の科 を蒙り。都へ上り給ひしが。かつて音信 聞かざれば。生死をだにも弁へず。クセ「余 り別の悲しさに。ある夕暮に我は。唯一 人玉島や松浦の浦に立ち出づる。都の方 へ行く船の。便を待ち居し処に男一人き たりて。我この船の船頭なり御姿を。見 奉るに。世の常ならぬ人なれば痛はしく 思ひ申すなり。とく/\船に召さるべし。 都までは送り届け申さんと。懇に語れば。 誠ぞと心得て。手を合はせ礼拝し。シテ「や がて船に乗り移る。地「その時水主楫取ど も。順風に帆をあげて海路を走り行く程 に。程なく津の国須磨の浦に着く。波の

関もる所なれば。この浦に船をさしとゞ む。ワキ詞「不思議やこれなる狂人をよくよ く見れば。某が古人にて候ふはいかに。 われ思はずもこの所にきたり七年になり 候。明暮観音に歩を運ぶ御利生により。 たゞ今この所に来りたると思ひ候。名宣 つて悦ばせばやと存じ候。いかに狂女。 これこそ松浦の貞俊よ見忘れてあるか。

シテ「これは夢かや現かと。云はんとすれ ば涙に咽び。地「その面影も袖の色も。か はりて今は墨衣の。うらめしやと唯泣く のみの心かな。さてあるべきにあらざれ ば。/\。我も姿を引きかへて。夫もろ ともに後の世を。願ふぞ嬉しかりける。 これも思へば観音の。弘誓の利益なりけ り/\。