シテ詞「是は上野国光沢の何某にて候。われ 子を一人持ちて候ふを。学問の為あたり 近き山寺にのぼせ置きて候。さる間童体 にあらず候へども。未だ名をも改めず。松 若と申し候。よく/\承り候へば。学問 をば致さずして。笛をのみ好き候ふ由承 り及びて候。呼び寄せ学問のやうをも訊 ねばやと存じ候。いかに誰かある。寺へ参 り松若を連れて下り候へ。トモ「松若殿は この一両日これに御座候。シテ「さらば此

方へと申し候へ。久しく見候はねば成人 にてあるよ。いかに松若。持ちたるは御経 と見えたり。笛に好きたるなど人の申し しは偽にて候。御経戴き候はん。や。こ れは笛にてあり。言語道断の事。かたの 如くも親の身として。学問の事申付けた るに。それをば心に入れずして。笛をば 誰が勧めけるぞ。いや/\詞は無益なり。 弓矢八幡も照覧あれ。今日より親子の対 面申すまじ。たま/\持ちたる一子は。

か様に候ふ事の口惜しさは候。やあ誰か ある。今日より松若領内には叶ふまじき 由。堅く申し付け候へ。ワキ二人次第「我が身を憂 きに任せ来て。/\。旅行く空ぞ久しき。 ワキ詞「これは上野国光沢のあたりに住居 する者にて候。これに渡り候ふ御方は。光 沢殿の御子息にて渡り候ふを。学問の為 寺へ上せ申され候へば。学問は人に勝れ 給ひて候ふ処に。或時父御に御対面の折 節。笛を持ち給ひて候ふを御気にかけら れ候ふて。不孝の身と御成り候。さる程に 松若殿。某を御頼み候ふて。諸国を廻り。 名所旧跡一見あり度き由仰せ候ふ程に。 東国は悉く見せ申して候。又承り候へば。 松若殿の御事ゆゑ。夫婦共に狂乱し。行方 知らず成り給ひたる由申し候。御痛まし さ申すばかりなく候。又是より江州に立 越え。比叡山を拝ませ申し。其後都へ志し 候。道行「しをれこし。袂も今は色朽ちて。

/\。それとばかりの旅衣。野山海川越 え過ぎて。はる%\遠き近江路や。しなの 渡に着きにけり。/\。シテサシ一声「朝明の花の 匂の山風は。曇りも果てぬ一むらの。雁 がね遠き半天に。声をかはすや霞がくれ の。鳥も親子を便ぞと。我が身独のたづ きなき。身のしろ衣うらめしく。心も露 も打ち乱れ。忍ぶの草の忘れ形見の。子の 面影ぞ涙なる。よゝのかむきうに。てつ てきの一せい前後の恨。実にや笛竹のよ よの契も徒に。一人々々の憂き身の果。 涙は尽きぬ露の世に。命や我を残すらん。 上歌「吹け嵐。またや寝ざらん霞む夜の。 /\。月の手枕散る花の。さむしろ深き 夜の。袖の匂もなつかしや。野を分けて 幽なる。樵歌牧笛の声までも。ゆくへを 頼む心かな。/\。詞「かやうに狂ひあり き候ふ程に。これは舟渡にて候。なう/\ その舟に乗せて給はり候へ。舟人「これは

狂人にてありげに候。一大事の渡にて候 ふ程に。この船には叶ふまじく候。シテ「何 と叶ふまじいと候ふや。舟人「中々の事。 シテ「暫く。我を厭ひ給ふとも。風の誘へば 花も散る。あれ見給へや。地「大比叡颪に 散る花の。/\。色こき雲の。一しきり 水際に。花の漣岩越えて。匂もなつかし く。船こぞるとも我一人。乗せさせ給へ と舷にすがり。波に流れ裳裾も袂も散る 花の。浪に濡れまさる舟に乗せてたび給 へ。さりとては乗せてたび給へ。舟人詞「此 上は乗せ申すべし。船中にてお狂ひ候ふ な。シテ「承り候。ワキ「あら面白の夕日か な。今迄は霞み果てつる湖水の上に。比 良の根颪吹き晴れて。櫓声月に動かす粧。 興に乗ずる舟路かな。詞「余りに面白き折 節なれば。そと笛を吹き候へ。子「うたてし き事を仰せ候ふや。笛故かやうに成り候 ふ事にて候ふ程に。恨めしく候ふ間。思

も寄らず候。其上持ち申さず候。ワキ「仰は さる事にて候へども。笛ゆゑ勘当申され させ給ふにより。夫婦共に狂乱し。行方知 らす御成り候ふ由承り候へば。笛こそ父 母の御形見にて候へ。そと吹きて御心を も御慰み候へ。自然の為と存じ。笛をば某 持ちて候遊ばし候。子「げに恨めしや笛竹 の。地「げに恨めしや笛竹の。吹きも吹か ずも松風の。霞む浦曲の夕まぐれ。月も かげろふ浪の上。シテ詞「あら不思議や。 只今の笛は尋ぬる子にて候ふはいかに。 舟人「暫く候。初より申しつるはこれにて こそ候へ。貴賎の中の笛の音を。狂人の 身として我が子などと申す事。思も寄ら ぬ事にてあるぞとよ。シテ「仰のごとく狂 人にては候へども。我が子の笛をば聞違 へ候ふまじ。ひらに今一手御所望候へ。 舟人「是は奇特なる事を申し候。さらば今 一手所望申すべく候。いかにあの旅人に

申し候。余りに御笛面白く候ふ程に。今 一手遊ばされ候へかしと申さるゝ人の候ふ 間。憚ながら所望申し候。子「やすき間の 御所望にて候。シテ「今は構ふ所もなし。 上野の国や光沢の辺の笛と聞くものを。 子「これは夢かや現かや。笛の音故の勘当 なれば。今吹く笛も音を絶えて。身を投 げばやとぞ悲しめば。地「父はこの由見る

よりも。遥の舟に飛び乗りて。袖と袖とを 取りかはし。今より後は笛竹の。親の不 孝をも赦すなりと。泣く/\すがりつく。 扨この舟を漕ぎ戻し。/\。陸に上りて 上野や。彼の光沢の故郷に。もとの富貴 の身と成るも。孝行深き親と子の。契ぞ 久しかりける。/\。