シテ詞「これは丹後の国白糸の浜に。岩井の 何某と申す者にて候。我いまだ子を持た ず候ふ間。橋立の文珠に一七日参籠申し。 祈誓仕り候へば。ある夜の霊夢に。松の 枝に花を添へて給はると見て。程なく男

子をまうけて候。御霊夢に任せ。名をも 花松と付け申し候。また学問の為に。あ たり近き成相寺と申す山寺に上せ置きて 候。久しく対面せず候ふ程に。寺より呼び 下して候。此方へ呼びいだし学問の様を

も尋ねばやと存じ候。いかに誰かある。 トモ「御前に候。シテ「花松を寺より呼び下 せよと申しつるが下りてあるか。トモ「さ ん候はやゆうべこれへ御くだりにて候。 シテ「何とて某には申さぬぞ。トモ「ゆうべ は御酒気に御座候ひつる間。さて申し入 れず候。シテ「実に/\ゆうべはちと酔ひ て候ふよ。さらば花松をこれへ呼び候へ。 トモ「畏つて候。いかに花松殿。御前へ御 参り候へ。 シテ「ひさしく見候はねば抜群に成人して 候。いかに花松。汝を寺より呼び下す事余 の儀にあらず。学問をばなんぼう御きは め候ふぞ。子「われ学問の奥義は知らず。 経論聖教は申すに及ばず。歌道の草子 八代集。習ひ覚えて候。たゞし法華には法 師品。又内典には倶舎論のうち。七巻未 だ覚えず候。シテ「これは念なう覚えて候。 又花松が学問の事は申すに及ばず。又こ

となる事に何事か能のある。トモ「さゝら 八撥が御上手にて候。シテ「やあかしまし それは汝が子の事にてあるか。トモ「いや 花松殿の御事にて候。シテ「これは誠か。 やあ花松心を鎮めて聞き候へ。それ児の 能には歌連歌の事は申すに及ばず。鞠小 弓などまでは子細なし。さゝら八撥など 申す事は。鉾のもとにて囃す京童の業に てこそ候へ。学問のやうを尋ぬる処に。 法華経には法師品。又倶舎論のうち七巻 覚えぬと承る。そのさゝら八撥のひまに。 など七巻をば覚えぬぞ。いや/\言葉多 きものは品少し。総じて今日よりは某が 子にてはあるまじいぞとよ。急いで立て とこそ。いや/\得罷り立ち候ふまじ。 某罷り立てうずるにて候。中入「。 ワキ、子次第「旅に雪間を道として。/\。我が古 里に帰らん。ワキ詞「かやうに候ふ者は。筑 紫彦山の麓に住居仕る者にて候。又これ

に御座候ふ御方は。我一とせ丹後の国に 上り候ひし時。橋立の浦に御身を投げさ せ給ひしを。取り上げ助け申し筑紫に下 り。彦山に登せ置き候ふ処に。利根第一の 人にて。今は学問の奥義を御極め候。又 ある日のつれ%\に。我は丹後の国白糸 の浜に。岩井の何某と申しゝ人の只独子 にて御座候ふが。かやう/\さる子細に より此国に御下り候。今一度本国に帰り。 父母の御行方を御尋ありたきよし仰せら れ候ふ程に。我等御供申し。唯今丹後の 国白糸の浜へと急ぎ候。はる%\の御旅 にて候へども。父母に御対面あるべく候 ふ間。御心安く御急あらうずるにて候。 日を重ねて急ぎ候ふ間。程なう白糸の浜 に着きて候。これに暫く御待ち候へ。父 母の御在所を尋ね参らせうずるにて候。 いかにこのあたりの人のわたり候ふか。 ヲカシ「誰にて渡り候ふぞ。ワキ「此処に岩井

殿と申す人の御座候ふか。ヲカシ「さん候。 此処は岩井殿の御在処にて候へどもさる 事あつて。今は夫婦共に此処には御座な く候。ワキ「それは何と申したる事にて候 ふぞ。ヲカシ「一子を失ひ夫婦共に行方知ら ずなり給ひて候。ワキ「言語道断の事にて 候。いかに申し候。岩井殿の事を尋ね申 して候へば。夫婦共にこの処には御座な きよし申し候。実に/\御落涙尤もにて 候。然らば父母の御ために。この文珠堂 にて一七日御説法あらうずるにて候。も し未だこの世に御座候はゞ御逆修ともな り候べし。急いで御説法候へ。いかにこ のあたりの人々。貴き知識の文珠堂にて 一七日御説法候ふぞ皆々御参り候へ。 後シテ「物に狂ふも五臓故。脈のさわぎと覚 えたり。春の脈は弓に弦をかくるが如く 狂ふにぞ。ありかも匂もなつかしき。咲 き乱れたる花どもの。物言ふことはなけ

れども。軽漾激して影唇を動かせば。花 の物いふは道理なり。如何に花松々々。 なう/\そなたへ年よはひ十四五ばかり なる児や迷ひ行き候ひし。何そなたへも 見えぬとや。あら不思議や。我が子の花 松は。寺にも見えず里にもなし。さてい づくへ行きて候ぞ。あら何ともなや。総 じて親の子を思ふ程かたくなゝる物は候 はじ。我が子の花松を寺より呼び下し学 問の様を尋ねしに。そんじやうその文々 習ひ覚えたると申す。父が悦喜この事な りしに。よしなき者の候ひて。あの児 こそさゝら八撥の上手と申す。児の能 にさゝら八撥と申すがちと心にかゝり て。あら/\と叱りて候へば。幼心に もあら情なや。たま/\寺より下りた るものをと思ひ。父を恨みこの橋立の海 に身を投ぐる。酔ひさめて慌て噪ぎ行き 見れども。前世の事にや死骸をだにも見

候はで。かやうに狂ひ廻り候。その時は 恨めしかりしさゝら八撥も。今は我が子 のかたみと思へば。懐しうこそ候へとよ。 あら我が子恋しや。あら我が子こひしや。 何文珠堂にて説法のあると申すか。そと 参りて聴聞申し候はん。ワキ「しばらく。 狂人にてある間。御説法の場へは叶ふま じきぞ。シテ「仰尤にて候へども。物狂 も思ふ筋目と申す事の候へば。御説法の 間は狂ひ候ふまじ。ワキ「さらば此所には 静かに聴聞申し候へ。いかに申し候。は や悉く聴衆も参りて候。急いで御説法を 御初あらうずるにて候。 子「既に時刻になりしかば。導師高座にあ がり。発願の鉦うちならし。謹み敬つて 白す。一代教主釈迦牟尼宝号。三世の諸 仏。十方の薩〓{大漢和:005190 た}に申してまうさく。総神 分に阿弥陀仏名。 シテ「阿弥陀南無阿弥陀。地「阿弥陀南無阿

弥陀仏と。狂ひながら申さば。逆縁なり と浮まん。 ワキ詞「さらばこそ狂ふまじきと申しつる が。狂うて説法の座敷をばつと醒まいて 候。かゝる思ふ事もなげなる物狂こそな けれ。シテ「何思ふことなげなる物狂と や。ワキ「さて思ふ事なげなる物ぐるひよ。 シテ「あら面白し/\。お叱あらば只も御 しかりなうて思ふ事なしとは。この橋立 をよむ歌か。地「おもふ事。/\。なくて や見まし与謝の海の。天の橋立都なりせ ば。都鳥と申すは。在中将の筆の跡。子 を詠める歌なり。我等も子の弔にや。 南無阿弥陀仏。 ワキ「いかに狂人。我等も子の弔と申すが。 導師の御耳に障りて候。まづ狂人の身の 古を申し候へ。其後導師の身の古を。 因縁説法に御語あつて聞かせられうずる にてあるぞ。急いで物語申し候へ。

シテクリ「それ親の子を思ふ事。人倫に限らず。 地「焼野の雉夜の鶴。梁の燕に至るまで。 子故に命を捨つるなり。サシ「我等ももと はこの国の。近きあたりに住みしなり。 地「わざとその名は申すまじ。子のなき事 を歎き。かの御本尊に祈をかけ。ひとり の男子を設くる。シテ「たま/\相生す一 子なれば。地「かざしの花掌の玉。袖の 上の蓮華と。又類なきあまりに。憎まざ るに叱り。思はざるに勘当せしは。これ ぞ狂乱の始なる。 クセ「子は幼き心に。諫むるをば知らずし て。誠に憎むぞと心得。夜にまぎれて家 を出で。かの橋立に立ち渡り。浦の波間 に身を投ぐる。父母後悔千万にて。せめ て変れる姿をも。相見ばやと思ひて。果 てし所を尋ぬれども。うたかたの。波間 に消えて跡もなし。思のあまりに。心空 にあくがれて。狂人となりぬれば。夫婦

共に家を出で。国を廻りて尋ぬれど。そ の面影のなければ。いとゞ涙も古里に。 二たび立ち帰りて。この橋立に参りつゝ。 シテ「うらめしの御本尊や。地「かほどに縁 のなき子をば。何しにたび給ふぞと。故 もなき文珠に。向ひて恨み喞ちて。せめ て我が子の沈みし。一つ所に身を投げて。 浄土の縁となりなんと。思ひ切りたる我 等なり。導師も憫みて。我が跡とひてた び給へ。 ワキ詞「いかに申し候。さらば急いで因縁説 法を御述あらうずるにて候。子「当国のう ち白糸の浜に。岩井の何某と申す人の候 ひけるが。ひとりの子を持ち。すこし学 問に疎しとて勘当せられし程に。父を恨 みこの海に身をなげし所を。折節筑紫舟 の船頭取り上げ。筑紫に下り彦山に登り。 学問の奥義を極め。又この国に帰りて問 へば。父母の行方知らずと申す程に。親

の為に七日の説法を述べ。その後身を投 げ空しくなるべしと。思ひ切りたるは。 この法師が身の上にて候。シテ「あれは我 が子の花松と。云はまほしくは思へども。 姿に恥ぢて叶はず。子「よく/\見れば面 影の。その古にたがはねば。講座の上を

こぼれ落つ。シテ「あれは我が子か。子「父 御前か。地「実に面影の花松かとて。抱き 合ひて倒れ伏す。さてあるべきにあらざ れば。/\。我が古里に立ち帰り。本の 如くに栄えけり。これも思へば橋立の。 大聖文珠の利生なり。/\。