ワキ次第「誉も今は中々に/\。あだと成り 行く浮世かな。詞「これは当今に仕へ奉る 滝口の何某にて候。さても昨日月見の御 会御座候ふ処に。帝の御歌をば。わきて とり%\衆議判の御事にて候。さる間小 野の小町も。其席に連なりて御入り候ふ を。ある人讒{ざん}を構へて帝の御製を。小町 様々すさみ申したりと奏聞す。君この由 聞し召し入れられ。急ぎ河内の国高安の 里へ。籠居させよとの勅諚に任せ。痛 はしながら輿に載せ。只今河内の国へと 急ぎ候。道行「もろともに。出でし月こそ 忘られね。/\。都の空を立ち隠す。淀 の川霧晴れやらぬ。思もかゝる綾簾。網 代の輿の来し方も。夢や現と隔て来て。 こゝぞ関戸の宿ならん。/\。

シテ「悲しやな身には犯せる罪なうして。 思はぬ方にさすらひけるぞや。クドキ「げに やつく%\と世の有様を思ふに。月明か なりといへども。浮雲{ふうん}には影暗く。人素 直なりといへども。さかしらの為には身 を失ふ。あら浅ましや候。詞「如何に滝口 に申し候。ワキ「何事にて候ふぞ。シテ「向 ひに拝まれさせ給ふは。其名も高き石清水 にて御入り候ふか。ワキ「さん候あれこそ 石清水八幡宮にて御入り候ふ。帰洛の祈に 御参詣候へ。某案内し候ふべし。シテ「南 無や八幡大菩薩。本地は久遠の如来。三 界我有悉是吾子{がいがうしつぜごし}。能為救護{のうゐぐご}の御誓空しか らずは。無実の難を晴し給へと。地「涙 とともに念誦して。又立ち出づる道の末。 渚の森を早過ぎて。勇む心はあらねども。

生駒の山の麓なる。高安の里に着きにけ り。/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。高安の里に御着きに て候ふ。此里の長{ちやう}が許へ御入り候へ。さら ばかう御通り候へ。シテ「さて御身は是よ り御帰り候ふか。此程の御名残と申し。 かた%\便なう候。ワキ「さのみな御嘆き 候ひそ。我等も此処に留まりよく痛はり 申せとの御事にて候。御心安く思し召し。 何事をも某に御申しあろうずるにて候。 シテ「さるにても思もよらぬ無き名を負 ひ。辛き憂き目に逢ふ事よ。秋風に逢ふ 田の実こそ悲しけれ。我が身空しくなり ぬと思へば。地「思ひ慰む方もなき。生駒 の山の峰の雲。晴間なき涙の。雨と降ら ん露の身は。如何なる草に結ぶらん。庵 寒き秋の風。ありし雲井の伝をば。渡る 雁にや問ふべき。いつまでかゝる古簾。 都には無き眺かな。/\。

ワキ詞「如何に申し候。シテ「何事にて候ふ ぞ。ワキ「古在原の業平。奈良の京よりこ の高安の里へ忍妻にあくがれ。通ひ給ふ と承り及びて候。かゝる折ならでは承り 難う候ふ程に。御物語あつて御聞かせ候 へ。シテ「それは遙々年を隔てし事にて。 委しくは知らずさぶらへども。御慰の 為語り参らせ候はん。 地クリ「それ在原の業平は。平城天皇の御 孫。阿保親王の五男。風月の才に長じ。 帝の御覚も他に異にして。今は昔に奈 良の京。春日の里に紀の有常の。娘と契 り住み給ひしが。時めく花に移り行く。 あだし心のうたてさよ。サシ「花紅葉いづ れの色にめでぬらん。地「この高安の忍妻 に。いつの頃よりかいまみて。雲の旗手 に物を思ひ。明けぬ暮れぬとあくがれて。 妻木こりにし片岡の。深き山路となりに けん。クセ「妹背語らひし。有常の娘は。

振分髪の石の上。井筒によりて水鏡。竹 田の早苗ふし立ちて。色ある秋の天つ空。 牽牛織女の変らぬ中と誓ひつゝ。よし や吉野川。帯となるまで結びぬる。契を よその夕暮と。この高安に情知る。女の 許へ通路の。沖つ白波龍田越。鬼一口も 何ならで。ほのめきあへる始には。女も 粧ひて。得{え}ならぬ衣の色々に。薫物すと は知りながら。なべてならざる移香の。 身に添ふまゝに月日経て。シテ「稀に高安 に来て見れば。始こそ。心にくゝも作り つれ。いつしか打ちとけて。物のけはひも 疎かに。飯匙{いひがひ}取りて折毎の。かれひ進め しすさみにぞ。程なく秋の風立ちて。本 荒の萩ふたゝび。花咲き実なる世の例。 終{つひ}の花を忘れて。時の花を愛するは。人 間皆酔へり。あだなる色に引き替へて。 賢きに本づく。浮世の人ぞ少なき。 ロンギ地「げにやあだなる物語。かゝる折な

らで。かほど委しく白真弓。引き帰るさ を朝夕に。頼みて聞くや松の声。シテ「立 ち別れ。いなば名残や惜まれん。さりと ては高安の。安からぬ身の置き処。地「理 過ぐる身の嘆。暫しは村雲の。かゝる 無実の名を負ふと。終には晴れん本の 月。シテ「今は秋の末。菊の宴も早過ぎ。 紅葉の賀もやありぬらん。大内の様ぞな つかしき。地「げに大内の御遊に。漏れぬ 人の如何なれば。鄙の住居のいとゞし き。松の柱に竹の垣。柴といふ物折り焚 きて。徒然わぶる涙を何れの日にか乾す べき。/\。 ワキ詞「や。何と申すぞ。都より帰洛の綸旨 を下されたると申すか。こは有難き勅諚 かな。なう急いで御拝み候へ。シテ詞「あら 有難や候。神は正直の頭に舎{やど}り給ふなれ ば。これと申すも石清水の。御利生にて こそ候へ。ワキ「げに/\御身の素直なる

心故。神明の加護顕れてこそ候へ。この 祝に舞をまひ。神をすゞしめ給ふべし。 折節これに烏帽子の候。疾く/\召され 候へ。 シテ「嬉しさを何に包まん袖の色。烏帽子 けたかくたをやかに。和歌をあげつゝ舞 ふとかや。唐国の。聖の代にも越えつべ し。地「五日の風や十日の雨。枝を鳴らさ ぬ千代の秋。舞 シテワカ「高き屋に上りて見れば煙たつ。民 の竈は賑ひて。地「さるにてもこの里へ。 移りし時は君をも身をも。うらみ葛の葉 の。ねたき心も今は早。風の前の木の葉 の散る如く。大津の舟の綱解く如くに。 憂きを晴らして。勇む心は鳥屋の鷹の。 二たび雲井に立ち帰り。同じ御空の月を も眺め。雪をもめぐらす舞の曲。左右颯 颯の袂をかざして。都に帰るぞ有難き。