ワキ詞「これは諸国一見の僧にて候。我未だ 都を見ず候ふ程に。此度都に上り。寺社古 跡をも一見せばやと思ひ候。道行「身の憂 きを。思ひ知らずは如何にせん。/\。 厭ふながらも廻る世は。かゝる旅寐の浮 枕。野に臥し山を分け過ぎて。いとゞ 見つゝも急がるゝ。月の都に着きにけ り。/\。 ワキ詞「我都に上りこゝを問へば。三条京極 中川の宿とやらん申し候。実にや昨日 今日秋の始の庭の面に。まだなつかしき 水の心ばへ。田舎家だつ柴垣して。そこ はかとなき虫の声。梢の蝉の声々まで。 実にあはれなる気色かな。古言の思ひ出

でられたるぞや。空蝉の葉に置く露の木 隠れて。忍び/\に濡るゝ袖かなと詠じ けんも。この所にての事なるべし。あら面 白や候。シテ詞「なう/\あれなる御僧に申 すべき事の候。ワキ詞「此方の事にて候ふか 何事にて候ふぞ。シテ「唯今口ずさび給ふ 言の葉ぐさの末の露。本の心を思し召さ ば。光源氏の御歌をば。何とて詠じ給は ざらん。ワキ「いやこれは唯所から。梢の 蝉の声に催され。唯何となく思ひ出でた り。さて/\源氏の御歌は如何に。シテ「空 蝉の身をかへてける木の本に。猶人から のなつかしきかなと。詠じ給ひし御返事 は。ワキ「忍び/\に濡るゝ袖。さては空

蝉の御歌よなう。シテ「中々なれやあはれ 実に。是処ははかなき中川の。御方違の 跡ぞかし。よく/\弔ひたまふべしと。 地「夕暮に。命かけたる蜻蛉の。/\。有 りやあらずや問ふ人も。無き世なりけ り。あはれと思し召されよ。実にや名残 をば。庭の浅茅に留めて。もの凄き夕な りけり。/\。 地クリ「実にや葛城に。かゝる久米路の岩 橋や。絶えにし跡は白雲の。遠き世語申 すべし。シテサシ「光源氏中将と申せし頃ほ ひかや。地「彼の中神のかごと故。この中 川の御宿。忍の乱浅からず。クセ「その 夜や憂かりけん。何心なき空までも。 見る人からの天の原。月の光さへ。収ま れるものから。影さやかなる有明の。 シテ「つれなさを。恨みも果てぬ東雲の。 地「取りあへぬまで驚かす。衣々の御名残 いかゞあるべき身の憂さを。嘆くに飽か

で明くる夜も。それのみならす空蝉の。も ぬけも汐馴れし。古を弔はせ給へや。 ロンギ地「昔語を聞くからに。いとゞ心も 法の門。出づる名残を如何にせん。シテ「旅 人の。着るてふ笠のすげなくも。一村雨 と振り捨てゝ。何方に日も暮れぬ。この 宿にも留めまほし。地「星の逢瀬も程近 き。御住家とはこれやらん。シテ「恥か しながら中川の。地「宿はこゝも。シテ「軒 旧りて。地「数ならぬ伏屋に。生ふる名の みな箒木の。梢に鳴くは空蝉の。あるか と見ればそのまゝ。道にあやなくなりに けり。/\。中入「。 ワキ詞「さてはこの世別れし空蝉の。現に顕 れ給ひけるぞや。いざや御跡弔はんと。 歌「夜もすがら。思ふや法の苔衣。/\。 袂に月の隅もなき。この妙経を読誦して。 彼の御跡を弔ふとかや。/\。 後シテ「あら有難の御弔やな。この御経は

有情悲情も。漏るゝ方なき妙典の。功力 に引かれて空蝉の。うつゝなき世を忘草。 菩提の種となりたるぞや。有難や。 ワキ「不思議やなまどろむとしもなき東雲 に。夢か現か空蝉の。姿顕し給ふ事。 シテ「唯これ法の不思議なれば。ワキ「即 ち歌舞の菩薩の舞。シテ「恥かしや。声も 仏事をなす蝉の。地「羽袖を返し舞ふとか や。舞「。

シテ「山の端に。雲のよこぎる宵の間は。 地「出でても月の待たれこそすれ。シテ「待 たれし月も遠方の。地「待たれし月も遠近 人に。言葉をかはす法の縁も。隔なき軒 端の荻の。露うちはらふ風に乱るゝ。 蝉の諸声こゑ%\に。鶏の音も明け行く 空の。月の小莚敷妙の。風の手枕袖触れ て。月のさむしろ風の手枕の。夢は覚め てぞ明けにける。