ワキ「これは尾張の国末もりより出でた る僧にて候。我未だ北国を見ず候ふ程に。 此度越路に赴き候。道行「行末はまだ越え 馴れぬ不破の関。/\。関の藤川打ち渡 り。宿はと問へば木の本の。草の枕を賎 が嶽。跡に心はかへる山。浮身の果は白 露の。玉江の芦を遥々と。北の庄にも着 きにけり。/\。詞「これは早北の庄に着 きて候。先年この処にて打死し給ひし柴 田修理亮勝家のゆかりの者にて候へば。 処の人を相待ち。一本ゆゑの草の原の。 道しるべをも頼まうずるにて候。 シテ一セイ「胡蝶夢中の春も過ぎ。杜鵑枝上の 夏は来て。サシ「時鳥鳴く声きけば別れ

にし。故郷さへぞ恋草の。茂の中の玉鉾 の。道絶え%\に成り果てゝ。あはれ跡 とふ人もなし。人知れず。独袂を行く 水の。地「かすかなる。野中の竹の一むら の。/\。里離れなる遠方に。高嶺の雲 は晴れながら。猶村雨の音にたゞ。まが ふや風の山松の。木の間に残る夕日か な。/\。 ワキ詞「如何に老翁。このあたりにて柴田 勝家の果て給ひし旧跡を教へて給はり候 へ。シテ詞「勝家の空しくなりし処は。あれ に見えたる城郭なりしを。死灰を集めこ の野に移し。旧跡となして候。ワキ詞「その 古塚のしるべして給はり候へ。シテ「此方

へ御入り候へ。これ勝家の古墳なり。さ て/\かやうに跡とひ給ふ。御僧の生国 こそは聞かまほしけれ。ワキ「もとより出 家の身。一所不住の事なれば。旧里と云 はん方もなし。さりながら世に亡き人の ゆかりの末の。末もりの昔を思ひ出づる にも。苔の衣を濡らしけり。シテ「程なう 日の暮れて候。此方へ御入り候へ。ワキ「御 憐愍ありがたう候。さらば御供申さうず るにて候。シテ「いとゞだに賎が伏屋のい ぶせきに。蚊遣の煙立ち添へば。暫しも 宿り給ふべきか。ワキ詞「先年柴田果て給ひ し。最期の有様知らせ給はゞ。語つて御聞 かせ候へ。シテ詞「委しくは知らず候へど も。語つて聞かせ申さうずるにて候。 地クリ「さる程に柴田勝家は。信長公の幕下 に仕へ奉り。軍旅に於て切耳を献ずる事 はあまたゝび。誉を云ふに比類なし。 シテサシ「されば羽柴筑前守秀吉は。花の都を

敷島に。望のありと白糸の。とけし心 を引きかへて。彼一人を滅ぼさば。我を 欺く人あらじと。俄に謀叛を企てゝ。近 江の国に切つて出で。只一戦に打ち負け て。又この城に立て籠る。さて我が妻を 近づけて。運命既に尽き果てゝ。この暁 を限りなり。よし/\御身には。なす罪 科もあらばこそ。敵のゆかりを頼みつゝ。 夜半にまぎれて落ち給ひ。暫しこの世に 存へて。亡き跡とひてたび給へ。対の御 方は聞き給ひ。一樹の蔭の宿さへ。他生 の縁と聞くものを。シテ「況んやもろと もに。地「比目の枕翡翠の衾。重ねし夜々 の私語。尽きせじとこそ契りしに。思も 寄らぬ只今の。言葉の末を恨みつゝ。同じ 心に自害せし。憂き身の果ぞあはれなる。 ロンギ地「げに老翁の物語。私語まで伝へ知 る。その身如何なる人やらん。シテ「さ て御僧は勝家が。ゆかりの末と聞くな

れば。ふりにし里のゆかしさに。この 妄執のあらはれて。御物語申すなり。 ワキ「不思議やさては勝家が。その面影に 立ち向ひ。言葉をかはす嬉しさよ。シテ「頃 は卯月の末つ方。空しくなりし年月も。 けふに廻り来にけり。地「五月待つ花橘の 香をかげば。昔の人の袖に只。名残は猶 も有明の。月のかげ野の草がくれに。か き消すやうに失せにけり。/\。 ワキ歌「夏の夜の月も傾く山の端の。/\。 風もの凄き曙に。松の下道分け入りて。 亡き跡いざや弔らはん。/\。南無幽霊 輪廻出離悪念掃除。 後シテ「蒼顔白髪五更の月。黄葉紅花一夢 の風。輪廻の妄念晴らしつゝ。涼しき道 に行末の。心に残る塵もなし。ワキ「不思 議やななべて茂れる草の原に。蛍のとも す火影より。さもいかめしき老武者の。 甲冑を帯し色めく姿の見え給ふ。もし勝

家にてましますか。シテ詞「我勝家が幽霊 なるが。浮世の妄執晴れながら。御弔 の報恩に。二度まみえ申すなり。ワキ「げ にや輪廻を放れても。悟了は未悟に同じ ければ。あはれ勝家最期の体。只今学び て見せ給へ。シテ「さても我北国勢を引 卒し。江州表に取り出でて。敵の陣も乱 れ入る。先手のつはもの討ち取りて。け ふの軍に勝家が。その名を揚げて居たり しに。地「秀吉自ら馳せ向へば。/\。数 万の味方は切り立てられて。力およばず 梓弓。もとの住家に立ち帰る。無念限は なかりけり。 シテ「その儘敵は押し寄せて。前には狼煙 天をかすめ。後に鯨波地をひたす。四面 に楚歌の声々なり。とても遁れぬ物ゆゑ に。切つて出でんと太刀抜き持つて。扉 を開けば。矢先を揃へて勝家が。鎧の胸 板いかり猪の。臥戸をかへて天守にあが

り火を掛けて。腹十文字に切り破り。焔 に飛び入り果てし身の。御法の功徳に夜

の月影。暗からぬ修羅道の。影くらから ぬ修羅道の。苦を遁るゝこそ有難けれ。