次第「急ぐ行方は隙の駒。/\。雲井に駈 ける心かな。シテ詞「これは羽柴筑前守秀吉 なり。さても我が君征夷将軍信長公。西 国追伐の事其仰を蒙り。天正十年の春よ り。備中表敵軍対陣候ふ処に。明智日向 守逆心を構へ。将軍を討ち奉る由注進候 ふ間。急ぎ光秀が頭を刎ねうずるにて候。 サシ「頃は水無月初つかた。多勢の敵を従 へつゝ。既に打ち立つ雲水の。流れて早 き年の矢の。勇む心に任せ行く。跡はる ばるの備中や。備前表をかへり見て。 歌「五更の天も明石潟。/\。須磨の浦風 立ち迷ふ。雲より落つる布引の。滝の流 も遥なる。芦屋の灘も打ち過ぎて。難波 入江のみをはやみ。芥川にも着きにけ り。/\。

シテ詞「暫く此処にて諸卒を揃へ。敵の中へ 切つて入り。彼の逆徒を討つて将軍の供 養に供へばやと存じ候。如何に誰かある。 トモ「御前に候。シテ「皆々近う寄つて物語 を聞き候へ。地クリ「抑人間界と申すは。佳 月光を顕せば。狂雲之を妬み。王者明か ならんとすれば。又讒臣之を掩ふとかや。 シテサシ「さて光秀が行跡といつぱ。外には柔 和忍辱の姿。地「内には逆心無道の。心の 奥は白真弓。シテ「もとより君の身を任せ。 地「やみ/\と討たれ給ふ。御運の程こそ 悲しけれ。 クセ「されば秀吉は。名におふ城の高松に。 水せきかけて攻めて寄る。波に沈めてう たかたの。あはれを掛けて後詰の。その 猛勢に取り向ひ。攻伐既に半なるに。将

軍討たれ給ふぞと。注進密かにありしよ り肝魂も消え返り。涙に咽ぶばかり なり。心弱くて叶はじと。いよ/\陣を 取り寄せ。味方の胸を静めんと。一首の 歌をかくばかり。シテ「両川の。一つになり て落ち行けば。地「もり高松も藻屑なりけ りと。詠む言の葉に違はず。城主腹を切 りぬれば。その援兵も退けて。文武の道 を兼ね備へ。涙の屯を引き払ひ。夜を日 についで登りつゝ。敵を討たん志。感ぜ ぬ人はよもあらじ。シテ「然るに楚国の懐 王の。項羽に討たれ給ふ時。詞「漢の高祖 は之を聞き。烏江の流打ち渡り。主君の 敵を打ち給ひ。四海を静め給ふ事。これ 天命にあらずや。それは七十余度の戦。 今は一戦にて本懐を。達すべきものゝふ の。やたけ心ぞ恐ろしき。 シテ「時刻移して叶ふまじ。日影を見れば 斜なる。雲の旗手の天つ空。水なき月の

水無瀬川。山もとつたひ山崎の。宿の東 に打ち出し。敵陣近く寄せて行く。 ワキ「抑これは。明智日向守光秀とは我が 事なり。詞「某一たび天下に心を掛け。名 を後代に留めんがため。将軍を打ち奉つ て候。然る処に羽柴筑前守馳せ向ひ候ふ 間。一戦に及び勝負を決すべしと。 地「言ひもあへぬに寄手より。/\。声々 鬨を作りかけ。刃を揃へてかゝりけり。 ワキ「其時光秀は。地「其時光秀は。先勢早 く崩るれば。叶ふまじとや思ひけん。ま づ勝竜寺に逃げ籠り。日もくれたけの夜 に入りて。物あひ見えずなり果てゝ。敵 の人数に打ちまぎれ。淀鳥羽さして落ち 行くを。秀吉追ひ掛け給ひつゝ。何くま でかは遁すべきと。甲の真向打ち割り給 へば。足弱車の廻る因果は。是なりけり と。思ふ敵に白波の。寄りては討ち返り ては討ち。たゝみ重ねて百たび千たび打

つ太刀に。今ぞ恨も晴れてゆく。天下に名 をも賜はる身の。忠勤こゝに顕るゝ。

威光の程こそゆゝしけれ。