ワキ次第「あまの関路も鳥がなく。/\。あづ まの旅に急がん。詞「これは都くわりん院 より出でたる僧にて候。我未だ東を見ず

候ふ程に。此春思ひ立ち東国行脚と志し て候。道行「法の道教の声も様々の。/\。 心ぞしるべ雲を分け。霞に交る山なみの。

うらゝに行くや春の日の。衣川にも着き にけり。/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。奥州に 着きて候。此所に暫く休らひて。心静か に一見せばやと思ひ候。シテ詞「なう/\御 僧に申すべき事の候。御姿を見奉れば。都 の人と見え給ひて候。若しくわりん院よ り出で給ひて候ふか。ワキ「あら不思議や。 くわりん院より出でたるかとは。何とて 知し召されて候ふぞ。シテ「げに御不審は 御理。昔安倍の貞任と云つし者は。こ の衣川にて討たれぬ。既にいくさ破れし 時。討手の大将歌の下の句を詠みかけ給 へば。貞任東の夷ながら。さすが心の有 りけるか。上の句をつぎ申しゝかば。大 将御感あつて。今の情に此関をば許すぞ と仰有りしかば。其時貞任。命は義によ つて軽き故。貞任終に亡びしかど。永代 弔はれ申す事。余りに/\忝なさに。か様 に申し候ふなり。ワキ「実に/\貞任の菩

提を。くわりん院に於て永代弔はるゝ事。 今に絶えせず。然れども東始めて行脚の 者を。くわりん院の住侶かとは。何と云 ひたる事やらん。シテ「其御不審は御理 なれどもさりながら。山川万里を隔つれ ども。御弔の直道は。刹那に通ずるこの 身なり。ワキ「そも弔の。通ずる身とは。 さてはおことは貞任の。その亡心にてま しますか。シテ「あう亡心とも魄霊とも。 いさしら雪の消えし跡に。ワキ「幻ながら 現れて。シテ「言葉をかはすは昔の人。 ワキ「我は旅人の身にしあれば。不思議や 互に他生の縁にて。シテ「一樹の蔭や。 ワキ「一河の流を。シテ「汲みて知るかや。 ワキ「御姿も。地「墨染の色にぞ移る衣川。 /\。夕波立ちてうたかたの。あはれ昔 の跡ならば。などかは弔はせ給はざる。 ロンギ地「偖は古の。人の名残の跡ならば。 其名を名宣り給へや。シテ「古き名を云は

んとすれば憚の。有明になる月なれや。 入る方を御覧じて人に問はせ給へや。 地「何とか問はん旅人の。まだ馴れもせで 陸奥の。シテ「忍ぶ文字摺誰ぞとは。地「い かでか知らん。シテ「この上は。地「われ貞 任が魄霊ぞと。云ひ捨てゝ夕月夜。覚束 なくも衣川の波に立ち帰りて。見え隠れ にぞなりにける。/\。ワキ待謡「衣川袖の苔 をもかたしきて。/\。頃しもなれや春 の夜の。月の影も朧なる。この川隈の波 おろし。更け行くまゝに宿して。御法の 声も川音も。澄み渡りたるけしきかな。 /\。後シテ「一張の弓の勢。半月胸の間 にかゝり。さんぜきの剣の影は秋の霜。 腰のまはりに横はり。昔にかへる衣川の 河風も。音しき波のよるの空。地「閻浮の 秋や忍ぶ山。シテ「忍びて通ふ道もがな。 地「人の心の奥に来て。かく弔の有難さ よ。ワキ「偖は安倍の貞任にてましますか

や。なほも昔の物語を懺悔に語り給ふべ し。シテ「偖も安倍の貞任を誅罰せられし 御事。身の上なれどもさりとては。天下 泰平の始とかや。東夷西戎南蛮北狄まで も。四海の激浪治まつて。万歳の今に至 るまで。道の道たる代々とかや。シテ「然 れども今かりそめの旅宿の枕に。昔の跡 を現さんと。夢物語申すなり。クセ「さる程 にいくさのをのこども。鎮守府を打ち立 つて。間の城に赴けば。まだ月残る曙に。 雪はかたひらに降りしきて。せいばいば えみだれたる。矢並をつくろふに及ばず。 皆白妙の旗の足。白雲にたぐへて。万天 に靡くばかりなり。かくて日数も移り来 て。衣川の城廓に。波もろともに押し 寄せて。鬨の声矢叫。人馬の噪ぎ轡の。 おどろ/\しき有様は。摩醯首羅道もか くやと思ひ知られたり。シテ「魚鱗鶴翼の。 翼の羽風声立てゝ。我も/\と責め戦

ふ。剣を飛ばせ。矛先をさゝへて数もし らま弓。射る矢は雨の如くなれば。楯を かづきて兜とし。楯を浮かべて筏として。 乗り懸かりかづきあげ。一命を捨て責め ければ。一陣破れて残党も。またからで 衣の城は既に崩れ破れぬ。地「かゝりけれ ば城の内の兵。皆後より散乱して。我 も/\と引き立ちたり。シテ詞「我も力なく 人なみに引かれ。魚鱗より河原より。河 原表に打出でたりしに。後を見れば。大 将の御声と覚しくて。いかに貞任正なき ものかな。物云はん/\と。高声に呼ば はりかくれば。高声の御声にて。いかに

貞任もの云はん。衣の関はほころびに けり。/\と。歌の下の句を詠みかけ 給へば。シテ「貞任轡を引き返し。兜を ふりあふのけて。上の句をついで云く。 年頃は楯を揃へて居りしかど。衣の関は ほころびにけり。地「大将御感の余りに や。汝は違勅の輩なれば。終には遁すま じけれども。今の情に此矢一つを宥すぞ と宣ひて。はげたる御矢をはづし給へば。 シテ「貞任畏り。佩剣を脱いて君に捧げ。 只今の御芳志なりと馬上ながら。合掌し て又引き返し行く雲の。衣の関も旅寝の 夢も。/\。共に破れてあけにけり。