ワキ次第「春を心のしるべにて。/\。うから ぬ旅に出でうよ。詞「かやうに候ふ者は諸 国一見の者にて候。我此程は都に上り。 洛陽の寺社に参りて候。又是より南都七 堂に参らばやと存じ候。道行「都より又旅 立ちて井手の里。/\。けふ三日の原泉 川。河風霞む春の空。影も長閑にめぐる 日の。南の都こゝなれや。はや奈良坂に 着きにけり。/\。シテ次第「苦しき老の坂なれ ど。/\。越ゆるや程なかるらん。サシ「花 は雨の過ぐるによつて紅正に老いたり。 柳は風に欺かれて。緑漸く垂れり。寒 林に骨を打つ。霊鬼泣く/\前生の業を 恨み。林野に花を供ずる天人。返す%\

もきしやうのせんを喜ぶなるは。只順 逆の因果なるべし。人間万事塞翁が馬何 か法ならぬ。げに隔なき世の習。歌「老の 鶯音もふりて。/\。身にしむ色の消え かへり。春の日の影ともに。遅き歩を辿 り来て。通ひ馴れたる奈良阪や。花の木 蔭に着きにけり。/\。ワキ詞「いかにこれ なる翁に尋ね申すべき事の候。シテ「何事 にて候ふぞ。ワキ「是は此所始めて一見の 者にて候ふが。仏閣の有様目を驚かして こそ候へ。シテ「実に/\我等は朝暮目な るゝ身にだにも。この奈良坂に上りて見 れば。目を驚かすばかりなり。殊更初め ての御事ならば。さこそと思ひやられて

候。見えつゞきたる仏閣御尋ね候へ。あ ら/\教へ申さう。ワキ「先是より東に当 り。大きなる御寺の見えて候ふは。承り 及びたる大仏殿候ふか。シテ「さん候。あ れこそ三国無双の大伽藍。東大寺大仏候 ふよ。シテ「又是より西に当り。塔婆の見え たる御寺をば。如何なる寺と申し候ふぞ。 ワキ「あれは遍昭が歌に。浅緑糸よりかけ て白露の。玉にもぬける春の柳と。西の 大寺の柳を詠めると。この事書にも記し たる。西大寺にて候。ワキ「衣ほすなる佐 保の川の。流につゞく寺は如何に。シテ「あ れはそのかみ唐の竜光法師が作り置き し。十一面の二仏像。法華寺と云へる尼 寺なり。ワキ「さて又南にあたりつゝ。見 えたる寺の名は如何に。法相流布の興福 寺。山科寺とも申すなり。ワキ「さてその 末に続きつゝ。見えたる寺の名は如何に。 シテ「あれは春日の御綸旨の使に。くだり

給ひし在中将の御建立。勤の声の不退寺 よ。ワキ「さてなほ遠く見えたるは。シテ「今 日も命は知らねども。地「飛鳥の寺の夜の 鐘。/\。鬼ぞ撞{大漢和:012586。てへん+堂}くなる恐ろしや。さても 音に聞きし鐘の音は。是ぞと思ひ。入相 もすさましや。げにや古に。なりにし奈 良の都路も。春に帰りて花ざかり。八重 桜木は面白や。/\。 ワキ詞「さらば御暇申さうずるにて候。 シテ「暫くこれなるしるしに向ひ。回向を なして御通り候へ。ワキ「回向の事は安き 間の事さりながら。誰と志し候ふべき。 シテ「重衡を御回向候へ。ワキ「重衡は此処 にて果て給ひて候ふか。シテ「さても重衡 は。一の谷にて生捕られ。関東下向とあ りしが。南都の訴訟強きによつて。あの 木津川にて斬られ給ふ。さしも栄花の門 を開き。一家累葉を連ねし身なれど。一 度は栄え一度は衰ふる事。まのあたりな

る有様なり。地「朝に紅顔ありて。世路に 楽しむといへども。夕には白骨となつて。 郊原に朽ち果てし。木津川の波と消えて。 あはれなる跡なれや。地「さては平の重衡 の。その名を聞くも痛はしや。御跡いざ や弔はん。シテ「跡をとふ人しなければ春 草の。かげ恥かしや露の身の。消えかへ り亡き跡の。姿見ゆるぞ悲しき。 地「げにや姿の生ける身は。いつの時をぞ 春の木の。シテ「その重衡の幽霊は。地「魂 は去れども。シテ「白髪の。地「霜の翁と御 覧ずるは。我が亡心の来れりと。夕の月 の影さすや。三笠山はあれぞかし。こ れもまた笠卒都婆の。花の蔭に隠れけ り。/\。中入「。ワキ歌「夢のごとくに仮 枕。/\。かたぶく月の夜もすがら。 かの重衡の御跡を。逆縁ながら弔ふとか や。/\。 後シテ「故郷と。なりにし奈良の都路も。春

を忘れず花は咲きけり。それは天子の御 詠なり。我はもとより数ならぬ。蓑代衣 春来ても。豊ならざる修羅道の責。あら 閻浮恋しや。一セイ「奈良坂の。この手に執 るや梓弓。地「八十氏人の数々に。シテ「名 をこそ流せ矢竹の人の。地「心の雲も晴れ ゆく月の。夜声の御法の有難さよ。 シテ「さても重衡は。一の谷にて生捕られ。 京鎌倉を渡されしに。南都の訴訟強きに 依つて。あの木津川にて斬られんとせし に。近藤左衛門の尉知時と云ひし者。重 衡最期を見んとて。貴賎立ち囲みし中を 掻き分け/\来り。如何に重衡。知時こ そ参りて候へと申せば。日頃のなじみ なれば来るは嬉しく。願はくは最期の際 に。仏一体拝まんとありしかば。安き間 の事とて。あたりに有りし木仏を一体迎 へ。河原の砂に据ゑ置き。見れば幸にも 阿弥陀にてぞおはしける。その時知時が

着たりける。直垂の袖のくゝりを解き。 仏の御手にかけ。中将に控へさせ奉り。 重衡より組み渡りぬれば。地「合掌し弥陀 仏に向ひて。懇に申させ給ひけるは。 クセ「伝へ聞く調達が。三逆を作りけん。 八万蔵の聖経。亡ぼしたりし悪心も。 天王如来の記別にて。罪業まこと深しと いへども。聖経値遇の順縁にて。却つて得 道の。因となりにけるとかや。今重衡が。 逆罪を犯す事。全く愚意の為すに無し。 世に随へる理なり。生を受くる者誰とて も。いかでか父の。命をば背かんや。心 中仏陀の。照覧もあるべしや。只三宝の。 教戒を受くる心なり。シテ「一念弥陀仏。 則滅無量罪と聞く時は。只今唱ふる声の 内。涼しき道に入る月の。光は西の空に。 到れども魄霊は。なほ木の下に残り居 て。こゝぞ閻浮の奈良坂に。帰り来にけ り三笠の森の。花の台はこれなれや。重

衡が妄執を助け給へや。 シテ「あら恨めしや。たま/\閻浮の夜遊 に帰り。心を澄ます所に。又嗔恚の起る ぞや。あれ御覧ぜよ旅人よ。ワキ「げに/\ 見れば東方より。灯火あまた数見えた り。あれは如何なる灯火やらん。シテ「あ れこそ例の名にし負ふ。春日の野守の飛 火なり。ワキ「げに飛火とは聞き及びたり。 何によりこの飛火やらん。 シテ「昔他国の軍起り。多くの軍兵あの 春日野に籠り。夜な/\ともす篝火の。 松明の火の働くが飛ぶやうなればとて。 飛火野とこゝを名づけたり。又修羅道の

折を得て。あの春日野にともすぞや。あ れ追つ払へ春日野の。地「野守は無きか出 でて見よ。/\。今いく程ぞ修羅の夜軍。 明けなば浅間山。燃え焦るゝ嗔恚の焔。 焼狩と見えつるは。シテ「武蔵野を焼きし 飛火のかげ。地「野守の水を照らしゝは。 シテ「鏡にうつる胸の焔。刃のまつさきを 磨きしは。地「すは一刀の剣の光。シテ「刺 し違へ切り払ふ。地「焔は剣の雨と降つて。 春日野の草薙や。叢雲の剣もかくやらん と。見えて飛火の数々に。山河を動かす 修羅道の。/\。苦の数は重衡が。嗔恚 を助けてたび給へ。/\。