大臣次第「道ある御代の秋とてや。/\。国々 豊なるらん。ワキ地「抑これは藤原の興 範とは我が事なり。我勅命に依りて九 州に下向仕り候。歌「波風も治まる四方の 海なれや。/\。漕ぎ行く舟の水馴棹。さ してそなたやつくし路の。末ある波の水 落や。香椎の浜に着きにけり。/\。詞「面 白の浦の体やな。眺めの末は箱崎の松原平 平として。向は鹿の島故ある山海なるべ

し。あれを見れば人あまた来り候。これ に相待ちこのあたりの名所をも委しく尋 ねばやと存じ候。シテ「さゝぐりの。しばし ば残る老が身の。露をも払ふ。袂かな。な ほ行く末はしらぬひの。シテツレ二人「筑紫の和田 の原なれや。これは九州香椎の浜に。年 経て住める浦人なり。面白やいづくも故 ある名所なれども。わきて名に負ふ香椎 の浜に。一木の梢ものさびて。浦風つゞく

眺めより。月も明けゆく箱崎の。松の緑も 空色の。常磐の秋を見せつらん。歌「是処 は香椎の浜びさし。久しき国の名をとめ て。海原や博多の沖に懸りたる。/\。 唐土船の時を得て。道ある国の例かや。 三韓も靡く君が代の。昔に帰る政事。我 等が為は有難や。/\。ワキ詞「いかにこれ なる浦人。御身はこの里人か。持ちたる 柴を見れば。常の真柴にはあらで。木の 実のなりたる柴栗といふ木の実なるか。 シテ「さん候。これは九州にては名物にて 候。これはさゝ栗と申す木の実にて候。 ワキ「何さゝ栗とや。シテ「さん候。ワキ「不 思議やさゝ栗と申す名物は聞き及びたれ ども。これはさゝ栗とは見えず。ただ柴栗 とこそ見えたれ。シテ「恐れながら篠栗と 申す事。私に申さば。何とてか名物にて は候ふべき。あの安閑寺の天神の御詠歌 にも。筑紫人そら事しけりさゝ栗の。さゝ

にはならで柴にこそなれと。かやうに御 詠に候へば。私ならぬさゝ栗の。名にし 負ひたる名物なり。一枝御賞翫候へとよ。 ワキ「げに/\失念したりけるぞ。この御 詠歌を聞きながら。とかく申すは僻事な り。さりながら。御詠の心を知る時は。正 しく柴になりたるを。さゝ栗と名づけ初 めし事は。古よりの空事よなう。ツレ「そ れはげに/\我とても。数にはあらねど 筑紫人の。何と御返事申すべき。只空事の 物よなう。ワキ「いや/\それもかくの如 く。空ごとしてこそ天神の。御詠にもかゝ り後代にも。シテ「世語となるさゝぐりの。 ワキ「身はしらぬひの筑紫うどの。シテ「我 にも限らじ。ワキ「昔より。地「久しくも空 ごとしけり筑紫人。/\。然も所は浦の名 の。香椎の木陰にさゝ栗の遠近人の今と ても。とはせ給へばお答を申す老人のな ほしも空ごとと思し召さるゝや。御心つ

くしなるらん。/\。ワキ詞「げに/\さゝ 栗の戯事。これ又筑紫の名にし負ひたる 故事なり。さて/\此香椎の浦とは。これ も名にある名所にて候ふやらん。シテ「こ の香椎の浦は。昔神功皇后この海上にて 舞楽を調べ。住吉鹿島香取。其外三百七 十所余の神々。神楽を奏し給ひしに。滄 海の小龍干珠満珠を載せて。出現したり し浦なり。又この香椎につきてもその謂 候。語つて聞かせ申し候はん。抑南膽 部州。秋津島。神功皇后の宣旨に依つて の勅使なりと。海中に向つて宣へば。沙 伽羅龍王是を聞き。小龍を出し。此方へ 入らせ給へと申されしかば。勅使三人小 龍の後につき。龍宮城へ入り給ふ。シテ「皇 后の宣旨の趣。審らかに申しければ。 日本は神国たり賢王なり。いかで宣旨を 背くべき。然も龍女の身として。人王の 后に立たん事。かつうは面目たるべしと

て。この二つの玉を奉りけり。曲「干珠と いふは白き玉。満珠といふは青き玉。豊 姫と右大臣に持たせ参らせて。三日と申 すに龍宮を出で。皇后に参らせさせ給ひ けり。かの豊姫と申すは。川上の明神の 御事。あとへのいそらと申すは。筑前の 国にては。志賀の島の明神。常陸の国に ては鹿島の大明神。大和の国にては春日 の大明神。一体分身同体異名現れて。御 代を守り給へり。その後皇后は。仲哀天 皇の御笏を。忝くも取出し。かす井の 浜にある。椎の木の三枝に。置き奉り給 ひしに。シテ「この香椎の香ばしき事。諸 方に充ち/\て。ぎやくふうにも薫ずな る。ゑんしやう樹にも異らず。偖こそこの 浦もとはかす井と言ひけるを。香ばしき 椎の字に。書き改めて今までも。香椎の浦 風の治まる御代となるとかや。ワキ「不思 議やか様に語り給ふ。御身は如何なる人

やらん。シテ「今は何をかつゝむべき。我 は尋常の海神ならず。いで/\名宣りて 聞かせ申さん。ツレ女「我はこれ。神功皇后 の妹。川上の明神豊姫。シテ「我はまた。 滄海の使。磯の童とも云はれし海神な り。唯今現れよる波の。たつの都より来り たり。昔神功皇后の。この海上の舞歌の 曲。こよひの月にあらはし。都の人に見 せ申さんと。いふ波の川上に。豊姫は帰 り給へば。磯の童は磯の波に。立ちかく れ失せにけり。波立ち隠れ失せにけり。 天女「滄海の。そこともいさや白波の。た つの都の秋久し。西の海。檍が原の波間 より。現れ出でし住吉鹿島香取志賀の島。 何れも/\影向なりて。満干の玉を待ち 給ふに。などや遅きぞ磯の童よ。急げや /\沖津風。シテ「白玉か。何ぞと人の問 ふやらん。光を見ても知れや知れ。すは すはすでに波間より。/\。天女「光さし

での磯の童は。地「人の願は満干の玉の。 折からなれや明暮の。シテ「有明の月は入 汐に。地「吹くは塩風。シテ「響くは波おろ し。地「はやち干潟。シテ「あひの風。吹き 曇れども二つの玉の。光は天に満ち地に 輝きて。赫奕{かくやく}とある海原の。波を蹴立て 潮に乗つて。飛びまわり飛び上がり。舞台 を踏み鳴らし駈けり舞ひ遊ぶ。あら面白 や。女「豊玉姫を受取りて。/\。先々干珠 の御影をうつせば。潮も引き波も去つて。 万里の眺は平々として。金輪際かと見え

たる浜辺に。磯の童は走り廻りて。鱗魚 も躍る。玉を散らして。目を驚かす有様な り。シテ「さる程に/\。夜もほの%\と あけ方になれば。今は夜遊もこれまでな り。又龍宮に帰らんとて。満珠の御影を 干潟に移せば。潮満ち波湧きて。たつの 都路便ありとて。磯の童は豊姫に。暇申 して又漫々たる海中に。又漫々たる海中 に。飛び入ると見えしが。波の底を潜つ て龍宮に帰りけり。