サシ「抑春の夜の一時。花に清香月に影。 惜まるべしや時も実に。及ぶかたなき上 旬の空。色ものどけき春の日の・流{りう}にひか るゝ。盃の。手まづさへぎる。心かな。 クセ「花前に酒を酌んで。紅色をのむとか や。実に面白の盃の。光もめぐる春の夜 の。有明ざくら照りまさり。天花に酔へり や。流水も雪なり。実にあこがるゝ春な れや。我と心に誘はれて。都はる%\ と後に霞の薄衣。日も夕暮は過ぐれども。 其まゝに長居して花に名残は有馬山。鼓 の瀧に時移り宿を花にかるもかく。猪名 野も近かりき床は霜の篠枕。 上「深山がくれの暁に。遠寺の鐘もかすか にて。深洞に風すぼく。・老檜{らうくわい}かなしむ声 も袂をうるほすや。猿子を抱いて清湘の

かげに帰りぬ。鳥花を含んで碧眼の前に 落つなるも。今更思ひ知られたり。花見 ずはいかでか。此山に一夜{よ}あかさむ。 ロンギ地「実にや妙なる花の蔭。/\。聞く につけてもけふしもに。酒宴をなすぞ 嬉しき。シテ「・迚{とても}夜遊の折しもに。花をか ざして桜人の舞楽をいざやすゝめん。 ワキ「そもやぶがくの遊とは。其舞人は誰 やらん。「今は何をかつゝむべき。我 は山河を守るなる。山神茲に現れて。舞 楽を調る鼓の。瀧祭の老人とは此翁なり と言ひ捨てゝ。花をかざし浪を踏んで。瀧 つぼに入りにけり。此瀧つぼに入りにけ り。歌「あら有りがたの御事や。/\。瀧 の響も声すみて。音楽きこえ花降つて。 是たゞ事と思はれず。/\。シテ「花のもと に帰らん事を忘るゝは。ひけいに依つて なり。そんのまへにゑひをすゝめては。 是春の風をさまつて枝を鳴らさぬ花の粧。

木末も袖も白妙の。雪をめぐらす袂か な。地「有難や花に声ある松の風。瀧の響 も有明の。シテ「月の夜神楽。花の粧。 ワキ「瞋恚を驚かす夜神楽の花。落つや瀧 浪も。とう/\と。うつなり。/\。鼓の 瀧。ロンギ地「あら有りがたや。天下泰平楽 とは。いかなる舞を申すぞ。シテ「怨敵の 難をのがれて。上下万民まひ給ふ。ワキ「偖 千秋楽と申すは。シテ「とそつ天の楽に て。化仏菩薩舞ひ給ふ。ワキ「春たつ空の まひには。シテ「春鶯でんを舞ふべし。 ワキ「秋来る空の舞には。シテ「秋風楽を舞 ふとかや。舞にさつ/\といふ声は。ら く/\の声とかや。嶺の松風又谷の響声 声落ちそひ。かざしは空の花笠。春きに けりな小忌の袖。手風足拍子の鼓の瀧に。 花の鼓風をさまる御代ぞめでたき。/\。

歌「涙を流す志。誠知られて早蕨の。手を 合せ礼拝し御僧の前に跪く。けにや昔 も少林の辺に立ちし雪の中の。芭蕉の偽 はあらじと見えてあはれなり。 クセ「然るに。宗門と申すは。一超直入如 来地。其故を如何なれば。十界は悉く唯 一心の上にあり。一念不生の直路には。 仏も衆生も何くにかさてあるべき。これ ぞ誠の空界。邪念みだりに起るとも。そ れをも敢て払はじ。 上「糸を乱せる柳は緑なる色を其まゝに。 錦を織るてふ花はまた紅の色の外ぞな き。かやうに悟ればたゞ未悟の時に違は ず此未悟に至るをこそ如来地とは申す なれ。

上歌「去ぬる保元に味方とありし清盛も平 治の今は敵となつて合戦数度に及びた り。平家は三千余騎味方は僅五百余騎。 されど軍には一度不覚の名を取らず。 クセ「平家の大将重盛が手勢五百余騎。信 頼が固めたる郁芳門にさし向ふ。陽明門 は僅に義平が手勢十六騎。たとへば。蟷 螂が斧を取つて龍車に向ふ如くなり。十 六騎の兵は鎌田兵衛政清。後藤兵衛実基 波多野次郎義通。佐々木の源三三浦の次 郎山内の須藤刑部俊通。上「岡部の六弥太 忠澄。長井の斉藤別当実盛猪俣の。小平 六範綱熊谷の次郎直実。金子の十郎平山 の武者季重。足立の右馬允。上総介広常。 関の次郎片桐小八郎。これらは一人当千 の兵悪源太十七騎これなり。

サシ「其頃いまだ荒鷹の。夜末の月の山に 入り。野に出づる日の暮るゝをも。白斑の 鷹を失ひて。鳥の落草かきわけて。尋ぬ る鷹を翁や知りてはんべると。下す宣旨 も。重き鷹を。通決鏡に顕したり。これ ぞ野守の鏡なる。 クセ「又我が朝の其昔。在原の中将。二条の 后に参りしを。如何なる人か大君に。黄 楊の小櫛の鬢の髪。さしたる科にふせら れ。遠流の身と業平は。当国に下りて入 間の郡三吉野や。今の川越の。山家の郷 にありしに。里の長のひとり姫。儲の君 ともてなせば。鄙人なりといへども。そ の形らふたけくし心に情有明の。月にか かる小夜しぐれ。やもめ男のあくがれて。 宵々ごとに通路の関守に姿を見えじと狩

衣の袖を打ちかづき指貫のそばを高く取 り足早に歩み行きつゝ。上「君が閨もる窓 の隙。かひまみぬれば妻しありはる%\ 来ぬる衣々の。別となれば悲しくて三吉 野の。たのむの雁もひたぶるに。君が方 にぞ。よると鳴くなるそれは秋狩る鹿の 声妻恋の歌の心なり。又夏狩の玉江の芦。 悪しく語りなば。当座の恥辱家の恥。よ し/\いはじたゞ酒飲うで遊ばん。 サシ「邪見偸盗は貧困の因縁。慈悲惻隠は 富貴栄花の基とかや。 クセ「世に四恩あり。天地の恩国王の恩。 衆生の恩父母の恩。中にも重きは。これ 父母の恩とかや。重華はかたくなゝる。 父に仕へし其故に。虞舜の君といつかれ。 郭巨は母を養ひ孝行の心深き故。金釜を

堀りしためしあり。酉夢父を討ち。天雷 終に身を裂き。斑婦は母を亡しつゝ。霊 蛇命を奪へり。 上「無上世尊もその昔。阿難に対しおはし まし。恩重経を説き給ひ。〓{新字源:2391 タウ}利天に上り ては。安居の法を説き給ふも。御母摩耶 夫人の。孝養のためなり。君子の五常。釈 門の五戒までも。たゞ孝行の。心ぞ基な りける。 クセ「さればにや畜類も。歌を詠ずる例あ り。浜の真砂を歩み行く。蛙の道の跡見 れば。住吉の。海士のみるめにあらねど も。かりにぞ人に。又とはれぬると水に住 める蛙まで。和国の風俗神の御代より始 まれり。さればにや唐土に。詩を作る諸人 花鳥風月。松は三界をながむるに。風の私

語。鼓は浪の音。笛は龍の吟を以て。舞楽 をも作れり。たゞ人は。乱舞歌道に交りて。 心を延ぶるこそ万年の。齢なりけれ。 クセ「そも/\天のうるほひに。雨露霜雪 の四つを見せ。同じく雪月花の三つの徳 を分つにも。雪こそ殊に勝れたれ。まづ 春は梅桜。咲くより散るまでの。雪を 忘るゝ色はなし。夏は五月雨の。ふるや の軒端暮れながら。庭は曇らぬ卯の花の。 垣根や雪にまがふらん。夜寒忘れてまつ 月の。山の端白き影までも。ふらぬ雪か と疑はれ。冬野に残る菊までもすは初雪 と面白さに。山路の憂きや忘るらん。

サシ「古人にあひ馴れて。偕老同穴浅か らず。同じ契りと思ひしに。人の心の花か とよ。葛城山の峰の雲。よそに通ふと聞 きしより。ひとり心は住吉の。ねたくも人 に待つといはれじと思ひしに。又男山の ・女道花{おみなへし}の。くねる心にあくがれ出でて。涙 の雨の故郷を。足に任せて立ち出づる。 クセ「由良の湊の泊舟。和泉の国に着きし かば。信太の森の葛の葉の。暫し待たん と思へども。我には人の帰らず。問はれ し程は待ち馴れし。夕の境の鐘を聞き難 波の寺に参れば。彼の国に生まるゝ心地し て。西を遥に伏し拝み。入り江の芦の仮の 世に。いつまで物を思ふべき。濃き墨染 に様かへ。誠の道に入らばやと。思ひな がらの橋柱。千度までくやしくは捨てざ りし身の古。過ぎにし方の旅衣。春も半 になりしかば。花の都に上りて清水寺に 参れば。

上「大慈大悲の日の光。艶々とある地主の 桜。誠に権現の誓かや。花のあたりは心 して松には風の音羽山。音に聞きしより もなほまさり。貴さ面白さに下向の道も 覚えず。 かくて夜に入れど。まどろむ隙もな くて。御名を唱へて居たりしに。同じや うに通夜して。近く寄り添ふ男あり。 語らひ寄りて申すやう。痛はしや御身 は。思ありと見えたり。思し召す事あ らば。心の中を語りて。御慰もあれか しと。懇に申せば。頼もしく思ひて。 立ち寄る蔭もなき身なり。様かへたき と申せば。痛はしき事かな。我が住む里 に暫く。足を休め給ひて。誠に様をかへ 給はゞ。然るべき尼寺に引きつけ奉るべ

し。疾く/\と誘はれて。身を浮草の根 を絶えて。清水寺を立ち出でて。なほも 思を志賀の浦大津とかやに下りぬ。 上「矢橋の浦の渡守。さしてそことは白波 を。盗人とは思はで東路さしてうられ行 く。過ぎにし方も覚えず行末は。なほ遠 江の掛川の宿に年たけて。又越ゆべしと 思ひきや。命なりけり小夜の中山なか なかに残る身ぞつらき。 サシ「皇后の宣旨の趣。詳かに申しければ。 日本は神国なり賢王たり。いかで宣旨を 背くべき。しかも龍女の身として。人皇 の后に立たん事。且は面目たるべしとて。 此二つの珠を奉りけり。 クセ「干珠といふは白き玉。満珠といふは 青き玉。豊姫と右大臣に。持たせ参らせ

て。三日と申すに龍宮を出で。皇居に参 らせさせ給ひけり。彼の豊姫と申すは。川 上の明神の御事。あとめの磯良と申すは。 筑前の国にては。志賀の島の明神。常陸の 国にては。鹿島の大明神。大和の国にて は。春日の大明神。一体分神同体異名あ らはれて御代を守り給へり。其後皇后は。 仲哀天皇の御笏を忝くも取り出し。かす ゐの浜にある椎の木の三枝に。置き奉り 給ひしに。 上「此香椎の香ばしき事。諸方に満ち/\ て。逆風にも薫ずなる。円生樹にも異な らず。さてこそ此浦もとかはす井といひ けるを。香ばしき椎の字に。書き改めて 今までも。香椎の浦風の治まる。御代と なるとかや。

サシ「されば頴川の水にて耳を洗ひ。首陽 山に蕨を折りし賢人も。勅命をば背かず。 其上心地観経の文を見るに。世に・四恩{しをん}・候{ざふらふ}。 天地の恩国王の恩。父母の恩衆生の恩。 其中に。最も重きは朝恩なり。普天の下 王土にあらずといふ事なし。 クセ「さればにや十善万乗の御位は。もろ もろの神たち結番の守り給ふとか。神だ にも遁れえぬ。王位を犯し給はんは。神 罰も恐ろしや。此上は事のよしを。伺ひ 給はゞ。など聞し召し直されで。嵐の山 松の幾久しさも限らじな。 上「其上これにより。君と臣とをくらぶる に。親疎を分く事なく。君につき奉るこ そ忠臣の法と聞くものを。道理と僻事を 並ぶるにいかで。道理につかざらんと。 涙を流して宣へば我が子に諫められ。心 ならずもとまりけり。

サシ「此島の四方を遙に見渡せば。漫々と ある海上の。水の煙は霞にて。里はそこ とも白波の。汀の松は麓に見えて。山は 高きより先近し。 クセ「北に向へば雁の。雲路を分けて帰 る山。有乳の山のあらたまの。年の初の 頃なれば。待ちし花かと疑ふは消え残る 雪の木の芽山。東は。伊吹おろしの烈し きに霞まぬ月の余呉の海。南を遙に見渡 せば。三上犬上鏡山。見馴れし夢のとこ の山。いざと答へて包めども契はよそに ・守山{まもるやま}。なほもそなたのなつかしく。忍ぶ 思を。志賀の故郷花園の花や散るらん と。思ひながらの旅に立つ心や物に狂ふ らん。比叡山と申すは。余り名高き山な れば。言葉も及びがたし。彼の山に続い

て。次第に末を見渡せば。 上「横川の水の末かとよ比良の湊の川音 は。嵐やともに流れ松。岩こす波の打ち おろし。神と祝ふも白髭の沖なる松の高 島やゆるぎの森の鷺すらも。我が如く独 は音をよも鳴かじ。彼よりも是よりも。 唯この島ぞありがたき。童男化女が舟の 中見ずは帰らじと誓ひけん。蓬莱宮と申 すともこれにはよも増らじ。汀の清水。 巌にかゝる青苔青山雲に懸って何れもと もに青き海。 上「緑樹かげ沈んでは。魚も梢にのぼり。 月海上に浮んでは兎も波を走れり。すべ て耳にふれ。目に見る事の何れかは。大 慈大悲の誓願に漏るゝ事やある。 クセ「周の帝の其昔。殷の代を取らんと

て。孟津を渡しゝに。八百の諸侯は。楽 をなして舞ひ遊ぶ。波の浮藻に住む魚の。 踊りて船に入りしかば。帝叡覧まし/\ て蒼天に祭り給ひしかば。其戦に打ち 勝ちぬ。天つ日継の御調物。幾万代とな る事も。一葉の船の徳。誰かは仰がざる べき。 サシ「前途程遠し。思を雁山の夕の雲に馳 すたましひを。ぜんやうべつりの月にい たましむ。クセ「心づくしの旅行の道。こ れや此北野の神の正体。其かみや家をは なれて三四月。落つる涙は百千行。万事 は皆夢と。さむる夜の月の都。故郷は浅 茅が原の。秋風にみながら。草や枯れて たえなん。

(蘇武ともいふ) 然るに胡国の軍破れ。或は討たれ。或は 生捕らる。中には蘇武はかひなき命たす かり。あるもあられぬ小田に出でて。落 穂を拾ひて心命をつぐ。田面の雁は人馴 れて人近をもさらざりければ。指をきり 玉柏に書き翼につけて放ちけり。 クセ「かひ%\しくも田面の雁。秋は必ず 南国に。通ふや天つ空の上。或時帝は南 殿の御遊ありしに。鳴く雁の数一つ。 半の雲に飛び下り。翼につけし玉柏を庭 上に落し飛び去りぬ。奇異の思をなし鳥 の跡を見給へば。古の蘇武がほまれの跡 なれや。古は岩窟の内にこめられ今は又 一足を切り。広き野中に放さるたとひ草 露に朽つるとも。魂は立ち帰つて君辺に 仕へん子卿が状と書きとゞむ。無慚やな

までも。蘇武は此世にありやとて。この 度は蘇武が子に。楊李といへる大将に。 百万騎を相副へ胡国に攻め遣はさる。此 度は引きかへて。胡国の軍破れけり。広 野に住める我が父を伴い帰りける事は翼 につけし書の徳。それよりふみを雁書と いひ使を雁使と名づけたり。されば唐土 の蘇武は旅雁に書をつけ。本朝の康頼は 潮路の浪に歌をよす。それは漢朝の古。 これは本朝の今の世。彼は雲路のうは空。 これは潮路の海の面。たとへ聞くも今更。 古事のみの思はれてなほも干されぬ袂 かな。 サシ「然れば妙なる法の教。唯これ仏果の 直道なれば。六趣震動して心を動かし。 四華下つて眼を驚かす。信心今に。目前

たり。 クセ「誰か知る照東方。万八千土の世界を 知るも遠からず。眉間の白毫の相光さし 顕せる其教。迷はじな曇なき誓に泄るゝ 方もなし。諸法実相なる時は。方便も十 法一理なるとかや。凡そ妙法の首題にて。 本釈始終の経巻色心の二字にきはまり て。迷ふ時は三界。火宅の裡と思へども 悟る時は。大百牛車に乗じて。真如の境 に遊ぶ事。一念信解の唯この経ぞありが たき。 サシ「あだし野の露消ゆる時なく鳥部山 の。煙立ちさらでのみ住み果つる習なら ば。いかにものゝあはれもなからん。世 は定なきこそいみじけれ。 クセ「命あるものを見るに人ばかり久しき

はなし。蜻蛉の夕を待ち。夏の蝉の春秋 を知らぬもあるぞかし。つく%\と一年 を。暮らす程だにもこよなう。のどけし やあかず惜しと。思はゞ千歳を過ごすと も。一夜の夢の心地こそせめ。住み果て ぬ世に醜き姿をまちえて何かはせん。・寿{いのち} 長ければ。恥多し長くとも四十に足らぬ 程にて死なんこそめやすかるべけれ。其 程過ぎぬれば。形を恥づる心もなく。人に 出で交らはん事を思ひ。夕の陽に子孫を 愛して。栄行く末を見んまでの。命をあら ましひたすら。世を貪る心のみ深く。物の あはれも知らずなりゆくなん浅ましき。 サシ「欽明天皇三十二年。睦月一日の夜半 に。御夢想の告あり。金色の僧来り給ひ。 后に告げて宣はく。我等救世の願あり。

則ち后の御胎内に。宿るべしとありし かば。 クセ「后答へて宣はく。妾が胎内は・垢穢{くえ}な り。いかで貴き御体を宿し給はんとあり しかば。僧。重ねて宣はく。我は垢穢を 厭はず唯望むらくは人間に。着到せんが ためなり。后辞するに所なし。ともかく もとありしかば。この僧大いに欽んで。后 の御口に。飛び入り給ふと御覧じて。暁 月軒に輝き松風夢を破つて五更の天も。 明けにけり。帝此由聞し召し欽の色を なし給ふ。后必ず・聖{しやう}らんを生み給ふべし とありしかば隙ゆく駒を繋がねば。大抜 提河の池の水まで濁れる如くにて。十 二月と申すには。南殿の御厩にて。御産 平安皇子御誕生なる厩戸の皇子と申すも 上宮太子の御事。

サシ「生国は筑紫肥前の者。在所は松浦わ ざと名字をば申さぬなり。ある人の妻に て候ひしが。夫は讒臣の申し事により。 無実の科を蒙り。都に上り給ひしが。か つて音信聞かざれば。死生をだにもわき まへず。 クセ「あまり別れの悲しさに。ある夕暮に我 等。唯二人玉島や松浦の浦に立ち出づる。 都の方へ行く舟の。便を待つべき所に男 一人来りて。我この舟の船頭なり。御姿 を。見奉るに。世の常ならぬ人なれば痛 はしく思ひ申すなり。とく/\船に召さ るべし。都までは送り届け申さんと。懇 に語れば。誠ぞと心得て。手を合わせ礼拝 す。急ぎ船に乗りうつる。其時水主楫取 ども。順風に帆を揚げて海路を走り行く

ほどに。程なく津の国須磨の浦につく。 波のせきもる跡なれば。この浦に船をさ しとゞむ。 サシ「昔壹岐の守なにがしと申し雲の上 人。あからさまなる此宮地に。行きとゞ まりし海士乙女の。仮の苫屋の板びさし。 久にもあらぬ一夜の契。思の妻となりた るなり。クセ「其まゝきぬ%\の。袖の名 残も引きとむる。心ならずも帰るさに。 年月つもる心地して。又此浦に立帰り。 問へば行方も白波の。哀はかなき契故。 俤のこる海ぎはに。たち出でし夕まぐれ。 浜の真砂をふみ渡る。蛙の道の跡見れば。 有りし言の葉現る。心を知れば疑も。 上「涙ながらもつく%\と。思へばよしな 人界も。水の底なる鱗や。藻に住む蛙う

たかたの。あはれ江による心なれば。六 趣四生にめぐりめぐる。車の輪の如く。 鳥の翅や花に啼く鶯も同じ御法なる。 言の葉を囀る蛙こそためしなりけれ。 サシ「石の白黒は夜昼の色。星目は九曜た り。目を三百六十目に割る事は。これ一 年の。日の数なり。クセ「碁は敵手にあう て手だてを隠さず。はづかに両三目に。 従来十九の道有り。ある時は四面をかこ まれ一生をもとめある時は。敵を攻めい と攻められ。恋しき時はうば玉の。夜の 衣をかへしても。寝ばまやすらん波枕。 浮木の亀のおのづから。一目劫なりと立 てゝいかゞ有るべき。されば生死の。二 つの河を渡りての中に白道をあらはし。 黒石はよしなや今打つ五障三従の。女の

身には遁れえぬ。業ふかき石だて心して いざや打たうよ。 ロンギ「源氏の巻や絵合の。勝負は知らねど も。名を聞くも竹川のふし有る石を桐壺。 箒木の巻の碁の勝負。打ちしめりたる雨 の夜に。手品をいざや定めん。夕顔の宿 に碁を打てば。たそかれ時もはや過ぎぬ。 そらめせし半蔀をおろすや中手なるら ん。絶ゆまじき筋を尋ねし玉かづら止長 にいざや掛けうよ。石は白名は髭黒の大 将の。真木柱名をぞ立つ。した煙胸くゆ る。火取の灰を。打ちかけられねたやな恋 の二道。梅が枝紅梅巻々の。匂ふもかをる も分きかぬる。身を宇治山や霜雪の。茂木 の下根春さむみ萌え出で兼ぬる早蕨の。 手を見せぬことぞ悲しき。急いで碁を打 たうよ/\。先一手二手。見ていざや目 算せん。四手五手六目ぶしとか七うち八 うち九うち。十市の里の碁の勝負砧にそ

へて打たうよ。砧は千声万声碁は百度千 度万手。空蝉は負けたり軒端の荻の秋来 ぬと。かつ穂に出づる芦分舟を押すこそ 恨なりけれ押すこそ恨なりけれ。 サシ「抑大和島根の中に於て。百地の君 の政を助けしより。明らけき時に必ず これを起し。治まれる世にはしきりにこ れを集め給へり。実に目に思ひ心に見て うつしあらはす言の葉の。直きを先とし てそのくせなきが如しと。歌人も詠吟。 しけるとかや。 クセ「難波津の流は浅くして底を測りがた く。浅香山の道はまたせばしくて際をし らざりき。水無瀬川の霞のうちには。秋 のあはれを忘れ。高円山の風の前。雲な き月を望みつゝ。おどろが下葉を踏み分

けて道ある代を知らせんと。閨の衾のさ ゆるにも。わら屋の風をあはれみの。恵 なれや大君の。御心中に動き言葉外にみ つかとや。龍田川のもみぢ葉は。濃きも薄 きも錦にて。吉野の山桜は峰にも尾にも 雲のはの。かくる眺めはつきぬ世の。君も 人も身を合せ心を延べて花衣。野邊の葛 のはひかゝり。林に茂き木の葉の。天長 く地久に。幾万代の道ならん。 クセ「抑定家の。一字の題に春は先。霞鶯 梅柳。蕨桜桃梨雉や〓{47164ヒバリ}なく蛙。菫箭 躑藤。夏にもなれば。葵。〓{47494ホトトギス}。霖たゝく 〓{66092クイナ}に橘。蛍や蝉に扇蓮。泉や秋は又。 上「荻萩露の薄蘭。雁鹿虫に霧の月。鶉や 鴫に菊蔦。〓{14726モミジ}や冬は又。〓{65888シグレ}ふりおく霜氷。 霰霙に雪鴨鷹。衾椎と書きたり。

(実方とも書く又六元或いは六源ともいふ) サシ「されば心を種として。花も栄行く言 葉の林。紀の貫之も書きたるなり。 クセ「在原の業平は。其心あまりて。言葉 は足らず喩へば。しぼめる花の色なうて。 匂残るに異ならず宇治山の喜撰が歌は。 その言葉幽にて秋の月の雲に入る。小野 の小町は妙なる花の色好。歌の様さへ。 女にてたゞ弱々とよむかとや。上「大友の 黒主は。薪を負へる山人の花の蔭に休み ていたづらに日をや送るらん。それらは 和歌の言葉にて。心の花をあらはす。千 種を植うる吉野山。落花は道を埋めども。 去年の枝折ぞしるべなる。 <636c> サシ「あれに見えたる比良の山。小松が原 に吹く嵐は。・山市{さんし}の晴嵐もかくやらんと 思はれ。真野の入江の洲崎の真砂は。雪 かと見えて江天の暮雪に異ならず。あら面 白やとみる程に。いとゞ心の澄み渡る。 クセ「堅田の浦の釣舟の。沖より家路に急 ぐをば。遠浦の帰帆かとうち眺め雲の一 むら。残れるは夜の雨の名残か。さて比 叡山の鐘の声を。遠寺の晩鐘かとうち聞 きそれ唐崎の洲崎に。翅を垂るゝ。・沙鴎{さあう} 平砂の落雁にこれをなぞらへ。さて洞庭 の月には。鏡の山を喩へたり。 上「誰を漁村の夕照に釣垂るゝ者とは。思 ふべし釣垂るゝ者と思ふべき。 クセ「つら/\浮世の有様は。夢に住んで 現とす。人界を案ずるに。水の上の淡雪

海上に残る捨小舟の。波に日を送りて。 風に迷ふ如くなり。 上「やうやく生死の海の面。煩悩の波しげ く。罪障の雲霧に真如の月は隠るとも。 一念称名の力にて。涼しき道に到りな ば。これやこの極楽の。弥陀光明を身 に受け得脱をまさに得んとなり。南無帰 命弥陀尊願いをかなへ給へや。

サシ「それ世間の無常は旅泊の夕にあらは れ。有為の転変は草露の風に滅するが如 し。詞「われ一所不住の沙門として。縁に 任せて諸国をめぐる。名所旧跡おのづか ら。捨てゝ交はる塵の世の。夢も現も隔 てなく。好去却来の境界に至る。詞「こゝ に大和の国初瀬の観世音は。霊験殊勝の 御事なれば。暫く参籠し山寺の致景を見

るに。 下歌「山聳え谷めぐりて人家雲に連なり晩 鐘雨に響きぬ。上歌「川隈も。なほ暮れか かる雲の波。/\。さながら海の如く にて。補陀洛{補陀落}も・隠口{かくらく}の。初瀬の寺は有難 や。げにや海人小船初瀬の山に降る雪と。 詠みしもさぞなかく川の浦の名もある。 景色かな浦の名もある景色かな。 詞「こゝにあはれなる事の候。御堂の西の つまに。局しつらひて女性の籠もりけるが。 誠に身に思ありと見えて。忍びかねたる 言の葉の。色に出で音に立てゝも。唯泣 くのみなる有様なり。詞「ある時女房達 と思しき人の。御堂の四面を廻り。千度 の歩を運ぶと見えしが。未だ数も終らざ るに。あわたゝしく局に走り。唯今あさ ましき事をこそ聞きて候へ。駿河の国の 千本の松原にて。平家の棟梁六代御前の 斬られさせ給ふを。見て候ふと申す者の

候ふと。申しもあへず臥しまろびたり。 その時主の女房。さりともとこそ思ひつ るに。さては早斬られけるかと。声も惜 まず臥し沈み給ふ。さては六代の母にて ましましけるよと。其時こそ人も思ひ けれ。 クリ「伝へ聞く孔子は鯉魚に別れて。思の 火を胸に焚き。白居易は子を先立てゝ。 枕に残る薬を恨む。サシ「これ皆仁義礼智 信の祖師。文道の大祖たり。況んや末世 の衆生といひ。しかも女人の身として。 恩愛の別を悲しむ事。げにも誠に理な れども。その理を過ぐるばかり。よそ の袂もうるほへり。やゝあって母御前。 涙を押へ宣ふやう。さるにても我が子を ば。上人の御助をこそ頼みつるに。其御 かひも無きやらん。もしは誠に斬られな ば。斎藤五斎藤六。走りも来りて申すべ きに。たゞよそ人の伝にだに。早くも聞

こゆる程なるに。何とて彼等は遅きやら んと。声もをしまぬ言の葉の。色も心も まさり草。何をか種と。思子の。浮世に 残る。身ぞつらき。 クセ「初瀬の鐘の声。つく%\思へ世の中 は。諸行無常の理。仮に見ゆる親子の。 夢まぼろしの時の間と。兼ねてはかくと 思へども誠別になる時は。思ひし心もう ち失せて。唯くれ/\と堪へかぬる。胸 の火は焦がれて身は消ゆる心のみなり。 さるにても我が子の失はれんとしけると は。知れどもなほやさりともの。頼を かけまくも。忝くもたゞ頼め。南無や大 非の観世音。願はくは本よりの御誓願に 任せつゝ。念彼。観音力。刀尋。段々の 功力げに。偽らせ給はずは。剣をも折ら せて我が子を助け給へや。 上「かゝりける所に。男一人来りつゝ。斎 藤五参りたりと。申せば御母も。如何に

如何にと宜へば。御喜になりたり。駿河 の千本にて既に。斬られさせ給ひしを。 上人其時に駒を早めて走り下り。喜び御 教書にて。助からせ給ふよし。申せば母 御も。あまりの事の心にや嬉しきとだに もわきまへず。たゞ茫然とあきれつゝ。 ありがたの事やと手を合せ宜ふ袂にも。 覚えず落つる涙の。嬉しき袖をだに乾さ ぬや涙なるらん。 (美人揃ともいふ) サシ「凡そ伊勢物語に見えたるは以上十二 人なり。第一は紀の有常が女。第二には 忠仁公の御息女。清和天皇の后宮に。染 殿の后これなり。クセ「第五には。長良の 卿の御女。第六は。筑紫の染川の里の女 なりけり第十は。増尾卿の妹に恋死の女 これなり。十一は周防の守。在原の仲平

が女なりけり十二には。大和の守継景が 息女に。今の伊勢にてありしが。其名の 所を書きかへて。后宮の上童に・猿子{ましこ}の前 とぞ召されける住吉の社に参りて。日数 を送り祈念する。懇請しきりに隙なくは。 感応いかでなからんと。頼み深くかけま くも。畏き神の御前にて静かに法施を参 らせ宮人とおぼしき老体に。この物語を 尋ねれば。いさとよ。対面のはじめに伊 勢物語の奥義を。くれ/\と語らんは。 且はそら恐ろし。且は道の。卒爾なり とて左右なうものをも云はざりけり。美 人の中にとりてはいづれか劣り勝らん。 (妻戸ともいふ) サシ「比叡山延暦寺の座主。法性坊の僧正 とて。貴き人おはします。此人は三伏の 夏の夜。五更も未だ明けざるに。九識の

窓の前。十乗の床の辺に。・瑜珈{ゆが}の法水を 湛えて。三密の月をすまし見るに。 クセ「妻戸をほと/\と。敲く声すなり。 誰なるらんと思し召し。戸を開き見給へ ば。過ぎにし二月や。後の五日に世を早 うすときこえし菅丞相にておはします。 不思議やと思し召し。請じ入れ奉り。深 夜の御光臨何事にかはとありしかば。菅 丞答へて宣はく。濁れる世に生れて無 実の讒言力なし讒臣の仇を報ぜんため。 雷とならん時。全身ばかりこそ。威光 めでたく候へ。いかなる勅使なりとも。 内裏に参り給はずは。生々世々に此恩を。 などかは報ぜざるべき。この御歎は申し ても余あるべし。いかなる勅使なりとて も。二度まではまゐるまじ。勅使三度に 及ばゝ。普天の下。卒土のうち王土にあ らずといふ事なし。さのみはいかゞと宣 へば。菅丞相の御色は。殊の外に変り

つゝ。をりふし御前に。榴柘をおかれた りしを。おつ取り口に含んで。はら/\と 噛み砕き妻戸にくわつと。吐きかくる。赤 き榴柘は忽ちに。火焔となって妻戸に。 三尺ばかり燃えあがる。僧正見給ひ洒水 の印を結んで。・鑁字{ばんじ}の明を誦せしかば。 火焔は消えにけりやなその妻戸は。山上 の本坊に。今もありと聞ゆる。 クセ「さるほどに夜に入れば。敵に大勢と 見えん為に千頭の牛を集めて皆角のさき に火をともし。追払ひ給へば。光虚空に 充ち満ちて。五月闇。おぼつかなくも暗 き夜も暗からぬ星を集むれば敵大勢と心 え。さうなうかゝり得ざりしを。今井の 四郎六千余騎。大手より閧をつくれば。 後の林の五万余騎。一度に閧を。どつと

合はすれば敵とる物も取りあへず倶利伽 羅が谷にばつと落つ。馬には人ひとには 馬。落ち重なり。七万余騎は倶利伽羅が。 谷の深きをも。浅くなるほど埋めたり けり。 サシ「承久三年七月八日の日。時氏鳥羽殿 に参じて申しけるは。世はかうにてわた らせ給ひ候ふなり。御出家なくてはかな ふまじと情なく申しあぐれば。クセ「力及 ばせ給はずして。やがて御ぐしをおろさ れたり。綺羅の御すがたを引きかへて。 納衣を御身に奉り御似絵を書かせ給ひて。 七條の女院に参らせらる。女院。御覧じ あへずして。修明門院と。御同車あって 鳥羽殿に。御幸ならせ給ひて。庭上に御 車を。立てられければ一院も。御簾をか

かげて。御顔ばかりさし出して。たゞと く/\御かへりあれとばかりにて。やが て御簾をおろされけり。 上「程なきひとめの・御喫{おんちぎり 契}。御身も心も燃え 焦れ煙の中の苦も。かくやと思ひ知られ たり。さらでだに。悲しかるべき。初秋 の夕暮に。あはれすゝむる。をりふしも あり。秋の山風吹き落ちて。御身にこそ はしみ渡れと隠岐の海のあら磯の新島守 は誰やらん。 御出家の後は。かくても鳥羽殿に。渡ら せ給ふべきやらんと御心やすく。思し召 さるゝ所に。時氏又参じて。隠岐の国へ。 流し奉る。クセ「御供には男女以上五人な り。前後の。警衛もなく。百官の。扈従 するもなし。庶人の旅にことならず。道

すがらの御有様まことにあはれなりけ り。扨も此島に。渡らせ給ひて。海士の 郡苅田の郷という処に。御座を構えたり ければ。ただ蜑人の住家にことならず。 昔は幡洞紫山のうちにして春秋を送り迎 えて楽尽くる事なし。 上「今は苫屋の。ひさし芦垣の月もり風 もたまらねば。昼もつらし夜もうし。女 御更衣のその拝所もなく。月卿雲客の。 拝趨もなし。唯懐旧の御涙にまどろませ。 給ふ夜半もなければこの。波たゞこゝも とに。立ちくる心地して。須磨の浦の昔 まで。おぼしめし出ださる。 クセ「げにや雪降りて。年の暮れぬる時ま でも。終に朽ちせぬ松が枝の。老木にな れども年々に。また若緑立枝の幾春の恵

なるらん。秦の始皇の御爵に。あづかる 程の木なりとて。異国にも本朝にも。今 もつて。此木を賞翫す。 上「千年まで。限れる松も今日よりは。君 に引かれて。万代までの春秋を。送り迎 へて御影山。高砂住の江辛崎や。都の富 士も東ぞと。三保の松原栗原や。あねは の松の人ならば。都のつとに誘ひなん。 あはれ阿古屋の松蔭の名高きや類なかる らん。 歌「立ち去りて跡もなく。形も消えて跡は たゞ。煙ばかりぞ反魂の。孝行の子なら ばなどや暫しもとゞまらぬ。 クセ「伝へ聞く漢王は。李夫人の別ゆゑ。 甘泉殿の床の上にふるき衾の恨を添へ。 九花帳の中にては此香の煙をたて。月の

夜ふけゆく鐘の声。艶容便々と気色だつ。 玉殿に映ろひて。李夫人の御姿。ほのか に見え給へり。 上「三五夜中の新月の。夜半の空隈なく て。長安雲上の粧気色に至る心地し て。みな感涙をうるほせば。君も龍顔に 御袖を押し当てゝ。反魂の煙の中に立ち 寄らせ給へば又李夫人は消え/\と。 時雨もまじる有明の。見えつ隠れつかげ ろふの。あるかなきかの御姿。かくやと 思ひ知られたり。 サシ「則ち一花開けぬれば。天下は皆春な りしに。梅花雪をおびて。白妙まじる青 柳の。梢に遊ぶ花鳥の。翼にかける花の 粧。鶯の笠に似たればとて。梅の花笠と は。名づけ給ふ。

クセ「御詠に青柳を片糸によりて鶯の。縫 ふてふ梅の花笠との。叡感あまねき御神 詠。末の世までも匂久しき山高み。梅の 香久に残ればとて。天の香久山と今は 名高き山とかや。かやうに叡感の。普き 花の姿をも。笠に似たりと詔り。妙なる 梅花の顔ばせ色美しき粧まで。濃ぞめの 気色匂そふ。柳の眉の飾までも。花笠の ぬふてふいとも畏き御詠なり。 上「御侍。御笠と申せ宮城野の。木の下露 は。雨にまさりて夕日影さすや三笠の山 高み。こゝにも薄青の。衣笠山も近かり き。処から此山陰の秋の暮。しぐるとも よも濡れじ。笠取山のもみぢ葉は。行き かふ人の袖のみぞ。照るや木の間の雨な らば払はずと袖やほさまし。

さても我が主木曾殿は。五万余騎を引率 し。この砥並山の北の林に陣をとる。平 家もその勢十万余騎。雲霞の如くたなび けり。こゝには源氏かしこには平家。両 陣相さゝへ。龍虎の威をふるひ。獅子象の 勢。帝釈修羅の恩をなし。月日をとるべき 勢たり。先づ味方よりの・計{はかりごと}には。軍は 明日と触れければ。敵はげにと心得て。 その夜はそこに陣をとる。 クセ「されば味方には。無勢にて多勢を亡 ぼすべき其はかりことを廻らすに。木曾 殿の御陣より。東の方を見渡せば。頃は 寿永二年。五月半の事なるに。夏山の繁 き青葉の陰よりも。朱の玉垣ほの見えて。 かたそぎ作の社壇あり。問へば当家の 御氏神。八幡大菩薩。羽生の宮と申すな り。木曾殿頼もしく思し召し。さては此 軍に。勝たん事は決定なり。急ぎ社壇に 参りて。願書をこめんと宣ひ。覚明とこ

そ召されけれ。覚明仰に隨ひ。甲をぬぎ 高紐に掛け。鎧の引合より畳紙を取り出 し。箙なる矢立の筆を墨に染め。願書を 書いて読み上ぐる。 上「抑この覚明は。本は南都の住侶にて。 法相儒学の其外和漢の才学ありしかば水 を流す如くに。願書を書いて読み上ぐる。 木曾殿喜びおはしまし。御鏑矢を宝前に。 参らせさせ給へば。御供の兵どもゝ。上 矢の鏑を一つづつ。彼の宝前に捧げて。南 無帰命頂礼八幡大菩薩とて皆り礼拝をた てまつる。 クセ「さる程に夜に入れば/\。敵に大勢 と見えん為に千頭の牛を集めて皆角の先 に火をともし。追つ払ひ給へば。光虚空に 満ち/\て。五月闇覚束なくも暗き夜に 暗からぬ星を集むれば敵大勢と心得て。 さうなう懸り得ざりしに。今井の四郎六 千余騎。追手より閧をつくれば。うしろ

の林の五万余騎。一度に閧を。どつと合 はすれば敵とる物も取りあへず倶梨加羅 が谷にばつと落つ。馬には人。人には馬。 落ちかさなり/\。七万余騎は倶梨加羅 が。谷の深きをも浅くなるほど埋めたり けり。 (那須ともいふ) クリ「昔漢の張良と聞えしは。黄石公が兵 術を伝へ。高祖皇帝の師範たり。サシ「其 後項羽高祖の戦。七十余度に及ぶといへ ども。謀を・帷幄{ゐあく}の内にめぐらし。勝つ 事を千里の外にあらはしぬ。これ張良が。 智謀にあらずや。 クセ「ある時張良。母に向ひて申すやう。 我戦場に臨みつゝ。謀をなす隙に。後に つゞく味方の勢。箙にさせる矢を抜きて 敵を射る事あり。如何はせんと申せば。

母之を聞きつけ。上衣を脱いで縫ひつゞ け。箙の矢に懸けしかば。八百万の軍神。 母衣の縫目にうつりて。将帥の名を輝か す。それより母衣は輝く衣と書きたり。 さて又母の衣と書きしも今の謂れなり。 上「かくて度々の戦に。其名をあげて漢の 御代。八百年の皇基を保たせ給ひ。其身 も。麒麟閣に名をとめし。二十八将の其中 の。第一将の功たり。唯これ母衣の故な れや。その如く我も又。一天に名を輝か し。忠孝第一の兵といざやいはれん。 クセ「悲しきかなや悪業は。山よりも高く。 善根は塵程も貯へず。かくて三途の故郷 に帰つて。本願の台に至らざらんは。・歎{なげき} の中の歎・悲{かなしみ}の中の悲なり。草露悉 く。春を迎へては。花葉共にほころび。

松風に先だつ山桜は早く無明の夢さめ。 月に落ちくる暁は。別離の雲にや沈む らん。 上「花橘の香をとめて。昔の人を尋ぬれ ば。親疎幾ばくか去りぬ。かゝる思の深 見草。妹と我がぬる常夏の花一時の夢の 世と。知らでや人の迷ふらん。 サシ「・初生娑婆世界朝立霧{ほの%\とあかしのうらのあさぎり}に。・四魔滅{しまがくれ}れゆ く舟をしぞ思ふ舟をしぞ思ふと。詠まれ たるは。これ三世不可得の道理なり。ほの は白しぼのは赤し。白骨は父の恩。赤肉 は母の恩。赤白二体なり。阿字門は即ち 父母の恩得なり。さればほの%\と和合 して。母の胎内に宿り始むる。月の間を 南無といふ。 クセ「二月の八葉の月。かの胎内に。人身

きたる所。無明。闇夜の中に。光明幽な るが如し。三月にりやうてんごす来る所。 三鈷の体。弥の字の形なるをば朝霧とは 詠まれたり。四月に成就すれば地水火風 の四大。有相。臨終を司つて。陀の字の 形をば島がくれゆくと詠まれたり。五月 に人形すれば。無相三身の法仏は。即ち 法の如くなり。無相無観。三昧なるをば 舟をしぞ思ふと詠まれたり。 上「されば身体五臓六腑を父母に受け。あ へて損ひ破らざりせば。三十二相。八十 種好の仏。南無阿弥陀仏これなり諸身は。 己心の弥陀唯心の。浄土とも観じ。又天 台伽訶羅縛に。表徳して信心妙法蓮華経 とも釈したり。仏未出世。父母未生以前。 本来の面目も此歌の心なり。さてこそ仏 法和歌の道。神慮に叶ふと詠まれたり。

サシ「見渡せば四方の眺も数々の。中に 名に負ふ吹上げの。風も静かに夜の雨。 クセ「音はまがはぬ折節に。誰を松江の秋 の月。影もさやかに隈もなき。空に落ち 来る鴈の声。芦辺をさして幾つらも。か た葉の芦に落ち来るや。峰高く。雲も嵐 に吹き落ちて。この金城の粧は。幾万代 も限らじな。葛城山の。雪の暮に。沖の小 舟も。帆を引きて。水門に帰る追風と。紀 の川つらにかけ渡す。橋に夕日の。照り 添ひて暮れやゝ近くなりぬれば。愛宕の山 に。入相の。鐘も響きて。面白き。眺尽 きせぬけしきかな。

サシ「然るに千年丹頂の鶴。万歳緑毛の亀 までも。地「今この御代に出現して。よは ひを捧げ奉るこそ。実に有難き。恵なれ。 クセ「こゝは巴園の橘の。昔も今も例なき。 常世の花の色かへぬ。げにや所から。年ふ る松の花までも。幾十かへりの色ならん。 鶴も巣かくる枝垂れて。巌の苔に流れけ る水に住む亀までも緑毛の色ぞ年をふ る。シテ「かゝる住家もこゝなれや。地「磐 石垂羅只是家。ひやうにはくだかけ泉の 水。又かなゑにぞ芙蓉ふく。火の沙を煉 る住居やまのあたり。見る目に。余る橘 の仙境に。到る心地して。帰るさも思は れず。眺にあかぬ心かな。 サシ「曙に惜みし月の夕はまた。山のは つかに影見えて。待ちえにけりな先高

き。梢の秋の色々に移り行くなり人心。 それは何とも。移らば移れ。我が御かげ を。頼むのみなり。クセ「天ざかる。鄙人 なりし御住居。思ひ出づるも忝なや。足 引の山里なれど君住めばこゝも雲井の都 ぞと。月もろともに出で入りし。松の戸 を柴垣のこれや九重の内ならん。か様に 申すをも。唯現なき言の葉とや思し召さ れ候はん。我が君未だ其頃は。皇子の御身 なれど。思へば有難き。朝毎の花を・供{くう}じ。 南無や天照皇太神宮。天長地久と。唱へ させ給ひつゝ。御手を合はせ給ひし。御 面影は身に添ひて。忘れ形見までもお懐 しや恋しや。陸奥の安積の沼の花がつみ。 かつ見し人を恋草の。忍ぶ文字摺誰故 ぞ乱れ心は君が為。こゝに来てだに隔あ る月の都は名のみにて。袖に移されず。 又手にも取られず。唯徒に水の月を望む 猿の如くにて。・喚{よ}び伏して泣き居たり喚

び伏して泣き居たり。 サシ「久方の雲の上にて見る菊は。天つ星 とぞあやまたれける。クセ「されば唐土の 賢き人の古も。東籬の菊を愛しつゝ南山 の見る東雲の。心あてに折らばや折らん 初霜の。置きまどはせる白菊の。花はあ やしき風情にて。なほ面白き気色なり。 その上花の雫までも。不死の薬となると かや。奥山の。深谷の下の菊の水。花を 洗ひし流を汲みて齢を。延ぶる山人の。 折る袖匂ふ菊の露。打ち払ふにも。千代 や経ぬべきと。詠みし姿は老いもせぬ薬 と菊の白露はよも尽きじ君が代の幾久し さも限らじな。

クセ「猿沢の池の面を見渡せば。汀の柳枝 垂れて。浅緑花も一つに霞みつゝ。朧に 見えし月影は。実に千金にかへじとは今 の時とかや。夏は涼しき佐保川の。流る る水に飛ぶ蛍浅瀬に深き。思を消えがて に。雲の上まで行くなるは。まだき秋風 の。空に吹くと知らるゝ。春日野に妻恋 ひ兼ねて小男鹿の。声かれ%\の草木ま で。三冬の色を三笠山。谷峯埋む白雪の。 花いつくしき寺の鐘の。入相も告げ渡れ ば駒も。轟の橋行く。おちかた人の急ぐ てふ。一村雨の雲井坂晴れ行く空は青丹 よし。奈良の都の致景こそ類なき眺なり けれ。

・八重葎{やへもぐら}茂れる宿の淋しきに。人こそ見え ね秋は来にけれ。実にも山里は。更けて も園の淋しきに。秋の景色は殊更に。萩 の上風音立てゝ。露吹き乱す萩枝の。花 も移らふ浅茅生や。草葉にすだく虫の音 も。涙催す此頃の。夕ま暮こそたゞなら ぬ。岩根踏み誰かは訪はんならの葉の。 そよぐは鹿の。渡るらんと詠ぜし人の心 まで。今更思ひ知られたり。世を厭う跡 の為は。里離れこそ住みよかれ。 クリ「抑この盛久と申すは。平家譜代の侍。 武略の達者なりしかば。鎌倉殿まで知し 召したる。・兵{つはもの}なり。

サシ「これにて計らひがたしとて。関東へ 渡し遣はさる。花の都を出でしより。音 に泣きそめし賀茂川や。末白河をうち渡 り。粟田口にも着きしかば。今は誰をか 松坂や。四の宮河原四つの辻。 クセ「関の山路の村時雨。いとゞ袂やぬら すらん。知るも知らぬも逢坂の。嵐の風 の音さむき松本の宿に打出の浜。湖水に 月の影見えて。氷に波やたゝむらん。越 を辞せしが范蠡が扁舟に棹を移すなる。五 湖の煙の波の上。かくやと思ひ知られた り。むかし長柄の。山里も都の名をや残 すらん。石山寺を拝めば。また救世の悲 願の。世に越え給ふ御誓。頼もしくぞや 覚ゆる。瀬田の長橋かげ見えて。・長虹{ちやうこう}波 に連なれり。浮世の中を秋草の。野路篠 原の朝露。おき別れゆく旅の道幾夜な幾 夜なを重ぬらん。 上「露も時雨も守山は。下葉残らぬもみぢ

葉の。夕日に色や増るらん。・古今{いにしへいま}を鏡山 形を誰か忘るべき。勇む心はなけれども。 其名ばかりは・武作{むさ}の宿。まだ通路も浅茅 生の。小野の宿より見渡せば。斧を磨き し・磨針{すりはり}や。番馬と音の聞えしは。此山松 の夕あらし。旅寝の夢も醒が井の。みづ から結ぶ草枕。誰か宿をも柏原。月も稀 なる山中に。不破の関屋の板庇。久しく ならぬ旅にだに都の方ぞ恋しき。樽井の 宿を過ぎ行けば。青野が原は名のみして 皆夕霜の白妙。枯葉に漏るゝ草もなし。 かゝる浮世に青墓や。捨てぬ心を・株瀬川{くひぜがは}。 洲の俣海馬の渡りして。下津かや津打ち 過ぎて。熱田の宮に参れば。 上「蓬莱宮は名のみして。刑戮に近き此身 の不死の薬や無かるらん。芦間の風の鳴 海潟。干汐につるゝ捨小舟。さゝで沖に は出でぬらん。 サシ「さゝがにの蜘蛛手にかゝる八橋や。

沢辺に匂ふ杜若。在原の中将の。はる%\ 来ぬと詠ぜしも。今身の上に知られたり。 クセ「なほ行末は白真弓。矢矧の宿赤坂。 松にかゝれる藤が枝の。梢の花を宮路山。 わたうと。今橋打ち渡り。雲と煙の二村 山は高師の名のみして野里に道やつゞく らん。 上「波の満干の汐見坂。上「蒼海天に連な りて。雲に漕ぎ入る沖つ舟呉楚東南にわ かれて乾坤日夜浮めり。帰らんことを白 須賀に暫しおりゐる水鳥の下安からぬ心 かな。夕汐のぼる橋本の。浜松が枝の年 年に。幾春秋を送りけん山はうしろの前 沢。夜は明方の遠山に。はや横雲の引馬 より天龍川も見えたり。衰へ果つる姿の。 池田の宿鷺坂。旅寝にだにも馴れぬれ ば。夢も見附の国府とかや。岸辺に波を 掛川。小夜の中山なか/\に。命のうち は白雲の又越ゆべしと思ひきや。憂き事

をのみ菊川や。旅の疲の駒場が原。変る 瀬淵の大井川。河辺の松に言問はん。 上「花紫の藤波の。幾春かけて匂ふらん。 馴れにし旅の友だにも。心岡部の宿とか や。蔦の細道分け過ぎて。着馴衣を。宇 津の山現や夢になりぬらん。湊に近く引 く網の。手越の川の朝夕に。思を駿河の 国府を過ぎ清見が関の中々にとまらぬ旅 や憂かるらん。薩〓{5190 さった}山より見渡せば。遠 く出でたる三保が崎。海岸そことも白波 の。松原越にながむれば。梢に寄する海 人小舟。あまりに袖やぬらすらん。由井 蒲原をも過ぎしかば。田子の浦わも近く なる。 上「西天唐土扶桑国。双ぶ山なき富士の嶺 や。万天の雲を重ぬらん。浮島が原を過 ぎしかば。左は湖水波寄せて。芦花浅水 の浮鳥の。上毛の霜を打ち払ふ。右は蒼 海遙にて漁村の孤帆かすかなり。頓教智

解の衆生の。火宅の門を出でかねし。・羊車{やうしや} ・鹿車{ろくしや}・大牛{だいご}の。車返はこれかとよ。 上「伊豆の国府にも着きしかば。南無や三 島の明神。本地大通智勝仏過去塵点の如 くにて。黄泉中有の旅の空。長闇冥の・街{ちまた} までも我等を照し給へと。深くぞ祈誓申 しける。雪の古枝の枯れてだに・二度{ふたたび}花や 咲きぬらん。 サシ「寿永二年秋の頃。平家西海に赴き給 ふ。城南の離宮に至り都を隔つる山崎や。 関戸の院に玉の御輿をかきすゑて。八幡 の方を伏し拝み。南無や八幡大菩薩。人 皇始まり給ひて十六代の尊主たり。御裳 濯川の底清く。末を受け継ぐ御恵。など か。捨てさせ給ふべき。 クセ「他の人よりも我が人と。誓はせ給ふ

なるものを西海の波の立ち帰り。・再{ふたゝび}。帝 都の雲を踏み。九重の月をながめんと。 深く祈誓申せども。悪逆無道のその・積{つもり}。 神明仏陀加護もなく。貴賎上下に捨てら れ帝城の外に赴く。何となりゆく水無瀬 川。山本遠くめぐり来て。昔男の音に泣 きし。鬼一口の芥川。弓やなぐひを携へ て駒に任せてうち渡す。 上「馴れし都を立ち出でて何くに猪名の 小笹原。一夜かりねの宿はなし。芦の葉 分の月の影。隠れて住める・昆陽{こや}の池。生 田の小野のおのづから。此川波に浮寝せ し。鳥はいねども如何なれば。身を限と や歎くらん千山の雨に水まさり。濁れる 時は名のみして。さらすかひなき布引の。 瀧津白波音たてゝ雲の何処に流るらん。 五手舟の名残に。・五百艘{いほえ}の舟を作りて。 御調を絶えず運びしも武庫の浦こそ泊な れ。福原の。故郷に着きしかば。人々の

家々も。年の三とせに荒れ果てゝ。上「・梟{ふくろふ} ・松桂{しようけい}の枝に鳴き。地「狐蘭菊の。草叢に隠 れ住む。馴れし名残も波風の荒磯館住み 捨てゝ唯海人の子の住所。宿も定めぬ暇 寝かな相国の作り置かれし処ゝも荒れ果 てゝ。古宮の軒端月漏り金玉を交へし粧。 花の・轅{ながえ}を集めしも唯今のやうに思はれて 昔ぞ恋しかりける。上「釈迦一代の蔵経五 千余巻を石に書き蒼海の底に沈めて。一 居の島を築きしかば。数千艘の舟をとゞ め風波の難を助けしは。有難かりしかた みなり世を浮波の寄るべなき身の行末ぞ 悲しき。 サシ「かくて主上を始め奉り。皆御舟に召 されけり。習はぬ旅の浮枕。思ひやるこ そ悲しけれ。 上「南殿の池の龍頭鶏首の御舟ぞと。思ひ ながらも寒江に。釣の翁の棹の歌まだ聞 馴れぬ声々に。沖なるかもめ磯千鳥友

呼びつれて立ち騒ぐ。風帆波にさかのぼ り。艪声は月を動かす。和田の岬をめぐ れば。海岸遠き松原や。海のみどりに続 くらん。須磨の浦にもなりしかば。四方 の嵐も烈しくて。関吹き越ゆる音ながら。 後の山の夕煙。柴といふものふすぶるも 見馴れぬ方のあはれなり。 上「琴の音に。引き留めらるゝと詠じけ ん。五節の君の此浦に。心をとめて筑紫 船。昔は上り今下る波路の末ぞはかなき。 傾く月の明石潟。六十あまりの年を経て。 問はず語の古を思ひやるこそゆかしけ れ。船より車に乗り移り。暫しこゝにと 思へども。須磨や明石の浦づたひ。源氏 の通ひし道なれば。平家の陣には。いか がとて又此浦を漕ぎ出す。汐瀬は波も高 砂や尾上の松の夕嵐。舟を何くに誘ふら ん。室の泊の苫館かげは隙もる夕月夜。 遊女の歌ふ歌の道。浮世を渡る一ふしも

誠にあはれなりけり。習はぬ旅は牛窓の。 瀬戸の落汐心せよ。げにあらけなき武士 の。梓の弓の鞆の浦。賑ふ民のかまどの関 夢路をさそふ浪の音。上「月落ち鳥鳴いて 霜天に満ちてすさましく江村の漁火もほ のかに半夜の鐘の響は。客の船にや。通 ふらん。蓬窓雨したゞりて知らぬ汐路 の楫まくら。片敷く袖やしをるらんあら 磯波の夜の月沈みし影は帰らず。 桑の弓蓬の矢の政。誠にめでたかりける。 あら有難や。/\。いざやさらば我等も ・〓養{げいやう}が射術を伝へては。弓張月のやさし くも。雲の上まで。名をあぐる。弓矢の 家を守らん/\。 武士の。八十氏川の流まで。水上清しや。 弓張の月。

あはれめでたかりける。治まれる御代の 時とかや。 釈尊は。/\。大悲の弓に智恵の矢をつ まよつて。三毒の眠を驚かし。愛染明王 は弓矢をもつて。陰陽の姿をあらはせり。 されば五大明王の文珠は。養由と現じて。 礼を取つて弓を作り。あいぜんを顕して 矢となせり。又我が朝の神功皇后は西土 の逆臣をしりぞけ民尭舜を栄えたり。応 神天皇八幡大菩薩。水上清き石清水。流 の末こそ久しけれ。