獅子(前ハ樵童) 寂昭法師

ワキ詞「これは大江の定基といはれし寂昭 法師にて候。われ入唐渡天し。始めてか なたこなたを拝み廻り。唯今清涼山に 参り候。これに見えたるが石橋にてあり げに候。暫く人人を待ち委しく尋ね。此橋 を渡らばやと存じ候。シテ一セイ「松風の。花を 薪に吹き添へて。雪をも運ぶ山路かな。 シテ「山路に日暮れぬ樵歌牧笛の声。人間 万事様々の。世を渡りゆく身の有様。物 毎に遮る眼の前。光の影をや送るらん。

下歌「余りに山を遠くきて雲又跡を立ち隔 て。上歌「入りつる方も白波の。/\。谷 の川音雨とのみ聞えて松の風もなし。げ にや謬つて半日の客たりしも。今身の上 に知られたり/\。 ワキ詞「いかにこれなる山人に尋ぬべき事 の候。シテ「何事を御尋ね候ふぞ。ワキ「こ れなるは承り及びたる石橋にて候ふか。 シテ「さん候これこそ石橋にて候。向は文 殊の浄土清涼山。よく/\おん拝み候へ。

ワキ「さては石橋にて候ひけるぞや。さあ らば身命の仏力にまかせて。この橋を渡 らばやと思ひ候。シテ「暫く候。そのかみ 名を得給ひし高僧たちも。難行苦行捨身の 行にて。こゝにて月日を送り給ひてこ そ。橋をば渡り給ひしに。獅子は小虫を 食はんとても。まづ勢をなすとこそ聞 け。我が法力のあればとて。行く事難き 石の橋を。たやすく思ひ渡らんとや。あ ら危しの御事や。ワキ「謂を聞けばありが たや。唯世の常の行人は。左右なう渡ら ぬ橋よなう。シテ詞「御覧候へ此瀧波の。雲 より落ちて数千丈。瀧壺までは霧深うし て。身の毛もよだつ谷深み。ワキ「巌峨々 たる岩石に。シテ「僅にかゝる石の橋。 ワキ「苔は滑りて足もたまらず。シテ「渡れ ば目も昏れ。ワキ「心もはや。地上歌「上の空 なる石の橋。/\。まづ御覧ぜよ橋もと に。歩み望めば此橋の。面は尺にも足ら

ずして。下は泥梨も白波の。虚空を渡る 如くなり。危しや目もくれ心も。消え%\ となりにけり。おぼろけの行人は。思ひ もよらぬ御事。 ワキ詞「なほ/\橋のいはれ御物語り候へ。 地クリ「それ天地開闢のこの方。雨露を降し て国土を渡る。これ即ち天の。浮橋とも いへり。シテサシ「そのほか国土世界に於て。 橋の名所様々にして。地「水波の難を遁れ 万民富める世を渡るも。即ち橋の徳とか や。クセ「然るに此石橋と申すは。人間の 渡せる橋にあらず。おのれと出現して。 つゞける石の橋なれば。石橋と名をなづ けたり。その面僅に。尺よりは狭うして。 苔はなはだ滑かなり。其長さ三丈余。谷 のそくばく深き事。千丈余に及べり。上 には瀧の糸。雲より懸りて。下は泥梨も 白波の。音は嵐に響き合ひて。山河震動 し。天つちくれを動かせり。橋の景色を

見渡せば。雲に聳ゆる粧の。たとへば夕 陽の雨の後に虹をなせるすがた。又弓を 引ける形なり。シテ「遥に臨んで谷を見れ ば。地「足冷ましく肝消え。進んで渡る人 もなし。神変仏力にあらずは。誰か此橋 を渡るべき。向は文殊の浄土にて常に笙 歌の花降りて。笙笛琴箜篌夕日の雲に聞 え来目前の奇特あらたなり。しばらく待 たせ給へや。影向の時節も。今いくほど

によも過ぎじ。中入。 獅子上「獅子団乱旋の舞楽のみぎん。/\。 牡丹の花房にほひ満ち/\たいきんりき んの獅子頭。打てや囃せや。牡丹芳。牡 丹芳。黄金の蕊。現れて。花に戯れ枝に 伏し転び。げにも上なき獅子王の勢靡 かぬ草木もなき時なれや。万歳千秋と舞 ひ納め。万歳千秋と舞ひ納めて。獅子の 座にこそ直りけれ。