藤原師長 老女 村上天皇(前は老翁) 師長従者 龍神

ワキ、ワキツレ次第「八重の潮路を行く舟の。/\唐土{もろこし} は何くなるらん。師長詞「そも/\これは太 政大臣師長とは我が事なり。ワキ詞「偖もこ の君と申すは。天下に隠れなき琵琶の御 上手にて御座候ふが。入唐の御望ましま すにより。此度思し召し立ち道すがら名

所の月をも御覧ぜん為に。唯今津の国須 磨の浦に御下向にて候。師長サシ「われはさて いつの夕を都の空。まだ夜深きに旅立ち て。末に見えたる山崎も。過ぐれば跡に はやなりて。ワキ歌「波越す袖の湊川。/\。 まだ知らぬ。方にも我は生田の漏り来る

月は木の間にて。心尽しの旅の道。され どもこれは唐土の。門出と思へば勇あ る。・高麗{こま}の林をよそに見て。須磨の浦に も着きにけり/\。ワキ詞「御急ぎ候ふ程 に。これははや津の国須磨の浦に御着に て候。暫く此処に御休あり。事の由をも 御尋あらうずるにて候。シテツレ二人一声「持ちかかぬ る。汐汲む桶の苦しきに。 また力づく老 の杖。ツレ二ノ句「拙き業を須磨の浦。二人「眺に 憂きや忘るらん。シテサシ「面白やうらに・入日{いりひ} は海上に浮み。須磨や明石の浦の様。塩焼 く・海士{あま}の心にも。さも面白う候ふなり。 ツレ「南を遥に眺むれば。雲に続ける紀の ・路{ぢ}の小島。シテ「由良の戸渡る早船も。汐 追風の吹上や。ツレ「遠浦ながら・住吉{すみよし}の。 松こそ見ゆれ海越しに。シテ「・富島{とじま}の磯や ・昆陽{こや}・難波{なには}。ツレ「名には絵島と云ひながら。 シテ「いかで筆にも及ぶべき。二人「あら面 白の浦の気色や。地下歌「げにや面白き。海

土の磯屋とは淡路潟。あは沖舟の漕ぎ来 るは。雨ごさめれいま一・返{かへり}も。汐汲めや 人々。上歌「そよや・陸奧{みちのく}の。/\。千賀の 塩竈は。名のみにて遠ければ。いかゞ運 ばん伊勢島や。阿漕が浦の汐をば度重ね ても汲み難し。田子の浦の汐をばいざ下 りたゝんわくらはに。訪ふ人あらば。佗ぶ と答へて。此須磨の浦の汐汲まん。/\。 シテ詞「塩屋に帰り休まうずるにて候。 ワキ「塩屋の・主{あるじ}の帰りて候。御宿を借らば やと存じ候。いかにこれなるは塩屋の主 にてあるか。シテ「さん候。塩屋の主にて 候。ワキ「是に御座候ふは太政大臣師長公 と申して。天下に隠れましまさぬ琵琶の 御上手にて候ふが。入唐の御望にて此浦 に御下向にて候。一夜の御宿を参らせ候 へ。シテ「いやさやうの人にて御座候はゞ。 ・異浦{ことうら}にて御宿を召され候へ。ワキ「あら何 ともなや。難波渡にてこそ異浦なんどと

は申すべけれ。是は須磨の浦にてはなき か。唯御宿を参らせ候へ。シテ「見苦しく候 へども。さらば御宿を参らせ候ふべし。 ツレ「されば一とせ雨の祈の御時。神泉苑 にして。琵琶の秘曲を遊ばされしかば。 シテ詞「龍神もめでけるにや。さしもの晴天 俄に曇り。・大雨{たいう}降る事・終日{しうじつ}。それよりし てこの君を。雨の大臣とは申すとかや。 ツレ「かほどやごとなき此君に。・一夜{ひとや}の御 宿を参らせて。シテ「秘曲をも聴聞す{る脱カ}な らば。二人「例なき思出。地下歌「かの蝉丸は 逢坂や。藁屋にて琵琶を弾き給ふ。今こ の君は須磨の塩屋露もたまらぬ軒の板 間。逢ひ難き砌に逢ふぞ嬉しかりける。 上歌「里離れ。須磨の家居の習とて。/\。 何事を松の柱や竹あめる垣は一重にて。 風もたまらじ痛はしや海は少し遠けれど も。波たゞこゝもとに聞えきていつのま に。夢をも御覧候ふべき。よし/\それも

御琵琶を。寝られぬまゝに遊ばせや。 わ れらも聴聞申すべし我も聴聞申さん。 ワキ詞「いかに申し上げ候。夜もすがら御琵 琶を遊ばされ候へ。師長「此須磨の巻の春 かとよ。源氏此浦に流され給ひ。初めて 世の味の辛きを知るといへども。 まだ 汐じまぬ旅衣。泣くばかりなる涙の露の。 玉の緒琴を弾き鳴し。恋ひ佗びて泣く ・音{ね}に紛ふ浦波は。思ふ方より。風や吹く らん。地「それは浦波の。・音{おと}通ふらし琴の ・音{ね}の。/\。これは弾く琵琶の。をりか らなれや村雨の。ふる屋の軒の板庇。目 覚すほどの夜雨や管絃の障なるらん。 シテ詞「や。何とて御琵琶をば遊ばし止めら れて候ふぞ。ワキ詞「さん候村雨の降り候ふ 程に。さて遊ばし止められて候。シテ「げに 村雨の降り候ふぞや。いかに姥。苫取り出 し候へ。ツレ「それは何の為にて候やらん。 シテ「苫にて板屋を葺き渡し。靜かに聴聞

申さんと。シテツレ二人「祖父と姥は諸共に。 ツレ「苫取出し。シテ「さつと葺き。地「塩竈 の名の。近々と寄り居つゝ。耳をそばだ て聞き居たり。 ワキ詞「如何に主。かほど漏らざる板屋の上 を。何しに苫にて葺きてあるぞ。シテ「さ ん候唯今遊ばされ候ふ琵琶の御調子は ・黄鐘{わうしき}。板屋を敲く雨の音は・盤渉{ばんしき}にて候ふ程 に。苫にて板屋を葺き隠し。今こそ一調 子になりて候へ。 ロンギ地「さればこそ始より。・常人{たゞびと}ならず思 ひしに。心にくしや琵琶琴を。いかでか弾 かであるべき。シテツレ二人「処から江のほとり 岩越す波の弾きやせん。琵琶琴の。思も よらぬ御諚なり。地「思よらずも琴の音 の。押してお琵琶を給はりて。シテ「おほ ぢは琵琶を調ぶれば。ツレ「姥は・琴柱{ことぢ}を立 て並べて。地「撥音爪音。ばらりからりか らりばらりと。感涙もこぼれえいじも躍

るばかりなりや弾いたり/\面白や。 師長「師長思ふやう。地「われ日の本にて。 琵琶の奥義を極めつゝ。大国を窺はんと。 思ひし事の浅ましさよや。まのあたりか かる堪能ありける事よ。 所詮渡唐を止ま らんと。忍びて塩屋を出で給へば。それ をも知らで琵琶琴の心一つのたしなみに て。越天楽の・唱歌{しやうが}の声。梅が・枝{えだ}にこそ 鴬は巣をくへ。風吹かばいかにせん花 に宿る鴬。・宿人{やどりうど}の帰るをも知らで弾いた り琵琶琴。 ツレ詞「なう旅人の御立ち候。シテ「何旅人の 御立ち候ふとや。何とて留め申さぬぞと。 シテツレ二人「おほぢと姥は走りより。地「琵琶琴 よりも御袖を唯引けや/\横雲の。 夜は まだ深し浦の名のあかしてお立ち候へ。 師長ロンギ「何しに留め給ふらん。まづ此度は帰 洛して。重ねて尋ね申すべし。御名を名の り給へや。シテツレ二人「今は何をか包むべき

我絃上の・主{ぬし}たりし。村上の天皇梨壷の女 御夫婦なり。地「御身の入唐止めん為。夢 中にまみえ須磨の浦。故院の昔の夢の告 思ひ出でよ人々とて掻き消すやうに失せ 給ふ掻き消すやうに失せ給ふ。来序中入 後シテ出端「抑これは。延喜聖代の御譲。村上の 天皇とは我が事なり。その聖代の御宇か とよ。唐土より三面の琵琶を渡さるゝ。 絃上青山獅子丸これなり。さる程に獅子 は龍宮へ取られしを。いで召しいだし弾 かせんと。漫々たる海上に向ひ。いかに 下界の龍神たしかに聞け。獅子丸持参つ かまつれ。急早鼓 地「獅子丸浮ぶと見えしかば。/\。八大 龍馬を引き連れ引き連れかの御琵琶を授 け給へば。師長賜はり弾きならし。八大龍 王も絃管の役々或は波の。鼓を打てば。 或は琵琶の名にし負ふ。・獅子団乱旋{ししとらでん}に村 上の天皇も。奏で給ふ面白かりける秘曲

かな。早舞 シテ「獅子には文殊や召さるらん。地「獅子 には文殊や召さるらん。帝は・飛行{ひぎやう}の車に

乗じ。八大龍馬に引かれ給へば。師長も 飛馬に鞭を打ち。馬上に琵琶を携へて。 /\。須磨の帰洛ぞ。ありがたき。