光源氏(前ハ老樵夫) 藤原興範

ワキ三人次第「八重の潮路の旅の空。/\。九重 いづくなるらん。ワキ詞「抑これは日向の国 宮崎の社官。藤原の興範とは我が事なり。 偖もわれ鄙の住まひなるによつて。未だ 伊勢大神宮へ参らず候ふ程に。此度思ひ 立ち。伊勢参宮と志して候。道行三人「旅衣。思 ひ立ちぬる朝霞。/\。弥生の空も半に て。日影長閑に行く舟の。浦々過ぎて遥 遥と。波の淡路をよそに見て。須磨の浦に も着きにけり/\。ワキ詞「やう/\急ぎ 候ふ程に。津の国須磨の浦に着きて候。こ

の処は聞き及びたる源氏の大将住み給ひ し在所にて候。又承り及びたる若木の桜 をも一見せばやと思ひ候。 シテ一セイ「憂世の業にこりずまの。猶こり果て ぬ。塩木かな。二ノ句「松ならでまた煙と見 ゆる。これや真柴の。影ならん。サシ「こ れは須磨の浦に。旦暮に釣を垂れ。焼か ぬ間は塩木を運び。憂世をわたる者にて 候ふなり。詞「又この須磨の山陰に一木の 花の候。名におふ若木の桜なるべし。いに しへ光る源氏の御旧跡も。この処にてあ

りげに候。下歌「われら賎しき身なれど も。ありし雨夜の物語。聞くにも袖を湿 ほして。/\。山の薪の重きにも。思ひ 樒を折りそへて。かの古墳ぞと木綿花の。 手向の梢をり/\に。心をはこぶばかり なり。詞「しばらく柴をおろし花をも眺め ばやと思ひ候。 ワキ「いかにこれなる翁に尋ぬべき事の 候。シテ「何事にて候ふぞ。ワキ「其身は賎し き山賎なれども。此花に眺め入り家路を 忘れたる気色なり。もし此花は故ある木 にて候ふか。シテ「賎しき山賎と承り候へ ども。恐れながらそなたをこそ。鄙人とは 見奉りて候へ。さすがに須磨の若木の桜 を。名木かとのお尋は。事新らしうこ そ候へとよ。ワキ「げに/\須磨の山桜。 名におふ若木の花ぞとて。はる%\こゝ に分け入りて。シテ「わざと眺の御志。 ワキ「日もはや暮れて須磨の浦の。シテ「さ

らばに里もお泊なくて。ワキ「野を分け 山に。シテ「来り給ふは。地上歌「関よりも。 花にとまるか須磨の浦。/\。近き後の 山里の。柴といふものまで。名をとり%\ の業なるに。たゞ心なき住まひとて。人 な賎しめ給ひそよ人な賎しめ給ひそ。 ワキ詞「いかに翁。いにしへこの処は光る源 氏の御旧跡。殊におことは年ふりたる者 なれば。源氏の御事物語り候へ。地クリ「忘 れて過ぎし古を語らば袂やしをれなん。 われ空蝉の虚しき世を案ずるに。桐壺の 夕の煙堪えぬ思の。涙をそへ。シテサシ「いと どしく虫の音繁き浅茅生の。地「露けき宿 に明け暮らし。小萩が本の寂しさまで。 はごくみ給ひし御めぐみ。いとも畏き勅 により。十二にて初冠。高麗国の相人の。 つけたりし始より。光る源氏と名を呼ば る。箒木の巻に中将。紅葉の賀の巻に正 三位に叙せられ。花の宴の春の夜の。行

くへも知らで入る月の。朧けならぬ契故。 年廿五と申せしに。津の国須磨の浦。あ ま人の歎を身に積みて。次の春。播磨の 明石の浦伝。問はず語の夢をさへ現に 語る人もなし。さるほどに天下に。奇特 の告ありしかば。また都に召し返され。 数の外の官を経て。シテ「其後うち続き。 地「澪標に内大臣少女の巻に。太政大臣藤 の裏葉に。太上天皇かく楽を極めて光君 とは申すなり。 ロンギ地「さてや源氏の旧跡の。分きていづ くの程やらん。委しく教へ給へや。シテ「い づくとも。いさ白波のこゝもとは。皆其 跡と夕暮の。月の夜を待ち給ふべし。も しや奇特を御覧ぜん。地「そもや奇特を見 んぞとは。何をか待たん月影の。シテ「光 源氏の御すみか。地「昔は須磨。シテ「今は 兜率の。地「天に住み給へば月宮のかげに 天降りこの海に影向あるべし。かやうに

申す翁も。其品々の物語。源氏の巻の名 なれや雲隠してぞ失せにける。雲隠して 失せにけり。中入「。 ワキ詞「さては源氏の大将かりに人間と現 じ。われに詞を交し給ふか。いざや今宵 はこゝに居て。なほも奇特を拝まんと。 上歌三人待謡「須磨の浦。野山の月に旅寝して。 /\。心をすます磯枕。波にたぐへて音 楽の聞ゆる声ぞ。ありがたき聞ゆる声ぞ ありがたき。 後シテサシ出端「あら面白の海原やな。われ娑婆に ありし時は。光源氏といはれ。今は兜率に 帰り。天上の住まひなれども。月に詠じ て閻浮にくだり。処も須磨の浦なれば。 青海波の遊舞楽に。引かれて月の夜汐の 波。一セイ「返すなる。波の花散る白衣の袖。 地「玉の笛の音声澄みわたる。シテ「笙笛琴 箜篌。孤雲のひゞき。地「天もうつるや須 磨の浦の。荒海の波風。〓{新字源:4545。えん}々たり。早舞「。

ロンギ「雲となり雨となり。夢現とも分か ざるに。天より光さす。御影の中にあらた なる。童男来り給ふぞや。さては名にし おふ。光源氏の尊霊か。シテ「その名もよ そに白波の。こゝもとは我がすみか。猶 も他生を助けんと。兜率天より。二たび こゝに天降る。地「あらありがたの御事 や。処は須磨の浦なれば。シテ「四方の嵐

も吹き落ちて。地「薄雲かゝる。シテ「春の 空。地「焚釈四王のにんでんに。降り給ふ かと覚えたり。処から山賎へきらといは れし。ゆるし色のきらなるに。青鈍の狩 衣たをやかに召されて。須磨の嵐に翻へ し。袂も青き海の波。颯々と鈴も駅路の 夜は山よりや明けぬらん夜は山よりや明 けぬらん。