玄宗皇帝 大臣 老人 楊貴妃 病鬼 鍾馗

ワキサシ真ノ来序「春は春遊に入つて夜は夜を専ら とし。後宮の佳麗三千人。三千の寵愛一 身にあり。かくたぐひなき貴妃の紅色。

芙蓉の紅。色かへて。未央の柳も力な し。地下歌「たゞよわ/\と伏柴の露の命も いかならん。上歌「心づくしの春の夜の。

心づくしの春の夜の。木の間の月も朧に て。雲居に帰る雁も。我が如くにや鳴 き渡る。霞の内の樺桜ひとへに惜しき。 姿かなひとへに惜しき姿かな。 シテ詞「如何に奏聞申すべき事の候。ワキ「不 思議やな宮中しづまり物さびて。心を澄 ますをりふしに。御階の下に来るを見れ ば。さも不思議なる老人なり。そも汝は いかなる者ぞ。シテ「是は伯父の御時に。 鍾馗と云ひし者なりしが。及第叶はぬ事 を歎き。玉階にて頭を打ち砕き。身を徒 になしゝ者の。亡心これまで参りたり。 ワキ「実にさる事を聞きしなり。其まゝ都 の内にをさめ。贈官せられし大臣の。其 亡心は何のため。唯今こゝに来れるぞ。 シテ「実によくしろし召されたり。贈官の みか緑袍を。死骸に蒙る旧恩に。今かく君 の寵愛し給ふ。貴妃の病を平らげて。奇 特見せしめ申すべし。然らば件の明王

鏡を。かの御枕に立て置き給はゞ。必ず 姿を現さんと。地「直奏かたく申し上げ。 /\。我通力を起しつゝ。楊貴妃の花の 姿誘ふ風を静めんと。申しもあへず其姿 御階の下に。失せにけり御階の下に失せ にけり。中入間「。 ワキ詞「いかに貴妃。今日はいつしか曇る日 の。暮るゝ夕も朧月夜の。晴れぬ心は如 何なるぞ。貴妃「実にや衣を取り枕を推す べき力もなく。苦しき心にせきかぬる。 涙の露の玉鬘。かゝる姿は恥かしや。 ワキ「かはるにかはるものならば。かく苦 を見るべきかと。力を添へてゆふ四手 の。貴妃「髪をも上げず。ワキ「ひれふすや。 地「翠翅金雀とり%\に。かざしの花もう つろふや。枕破の斜紅の世に類なき姿か な。実にや春雨の。風に従ふ海棠の眠れ る花の如くなり。 クセ「然るに明皇。栄花を極め世を保ち。

色を重んじ給ふ故。類なき貴妃にかく。 契をこめて年月の。春宵短きを苦みて。 日高く起き出で朝政も絶え%\に。移 る方なき中なれど。ワキ「遁れ難しや世の 中は。地「思はぬ限り有明の。月の都の舞 楽まで学び残せる方もなく秘曲を伝えし笛 竹の。寿なれや此契。天長く地久しくて 尽くる時もあるまじ。 ワキ詞「実に今思ひ出したり。かの老人の 教の如く。明王鏡を取り出し。彼の御 枕に置くべきなり。大臣「勅諚尤も然る べしと。月経雲客一同に。明王鏡を取り 出し。御枕近き御几帳に。立ち添へて こそ置きたりけれ。地「かくて暮れ行く雲 の足。/\。漂ふ風も冷ましく。身の毛 もよだつをりふしに。不思議や鏡のその うちに。鬼神の姿ぞうつりける。 早笛地「九華の帳を押し除けて。/\。かの 御枕により竹の。笛をおつ取りさし上げ

て。勇み喜ぶ其気色。鏡にうつり見えけ れば。帝はこれを叡覧あつて。さては病 鬼よ遁さじと。剣を抜いて。立ち給へば。 天に上り。地に又下り。飛行自在を現し て。帝に向ひ。怒をなせば。剣を振り上 げ切り給へば。御殿の柱に立ち隠れて姿 も見えず失せにけり。 ワキ「不思議や曇る空晴れて。宮中光りか かやきて。地「鳴動するこそ恐ろしけれ。 後シテ大〓{大漢和:22529。べし}「そも/\これは。武徳年中に贈官せ られし。鍾馗大臣の精霊なり。詞「さても 此君寵愛し給ふ。貴妃の病を平らげんと。 通力を以て奇瑞を見す。南無天形星王。 我剣降鬼と。秘文を称え駒に乗じ。虚空 を翔つて参内せり。 地「悪鬼はこれを見るよりも。/\。驚き さわぎ。かの真木柱に。隠れけるを。鍾馗 の精霊馬よりおり立ち利剣を引つ提げ袂 をかざし。明王鏡に向ひ給へば。鬼神の姿

は隠れもなし。舞働「。鬼神「鬼神は通力自在も 失せて。地「鬼神は通力自在も失せて。起 きつ転びつ。走り出づるを。追詰め給 へば御殿を飛びおり六宮の玉階に。走り 上るを。遁さじものをと引き下し。利剣

を降り上げずた/\に切り放し。庭上に 投げ捨て忽ちに。貴妃も息災なほ此君の。 恵を仰ぎ。まもりの神と。なるべしと。 玉体を拝し。奉り。玉体を拝し奉りて。 姿は夢とぞ。なりにける。