張良 黄色公 張良 黄石公 龍神(謡ナシ)

ワキ詞「これは漢の高祖の臣下張良とは我 が事なり。われ公庭に隙なき身なれども。 或る夜不思議の夢をみる。これより下〓{ヒ 大漢和 39340} といふ所に土橋あり。彼の土橋に何と なく休らふ所に。一人の老翁馬上にて行 き逢ふ。彼の者左の沓を落し。某に取つ

て履かせよと云ふ。何者なればわれに向 ひかく言ふらんと思ひつれども。かれが 気色たゞものならず。その上老いたるを 貴び親と思ひ沓を取つてはかせて候。そ の時彼の者申すやう。汝誠の志あり。今 日より五日に当らん日こゝに来れ。兵法

の大事を伝ふべきよし申して夢さめぬ。 やう/\日を考へ候へば。今日五日に相 当り候ふ程に。唯今下〓{ヒ 大漢和 39340}の土橋へと急ぎ 候。道行「五更の天も明けゆけば。/\。 時やおそきと行く程に。道は遥に山の端 も。白み渡れる川波や。下〓{ヒ 大漢和 39340}の土橋に着 きにけり。/\。 シテ「あらおそなはりやいかに張良。年老 いたるものと契りおきし。その言の葉も はやたがひぬ。われは先刻よりこゝに来 り。暁鐘をかぞへ待ちつるに。はや其時 刻も杉の門。上歌詞「待つかひもなしはや帰 れ。/\。汝誠の志。あらば今日より五 日に。当らんその日夜ふかく。来らばわ れも又こゝに。かならず出で逢ひ約束の 如く伝へん。後れ給ふな張良と。怒を なして老翁は。かき消すやうに失せにけ り。/\。シテ中入「。 ワキ詞「言語道断。以ての外の機嫌にて候

はいかに。又我ながらかくの如く。行方 も知らぬ御事に。かやうに恐れ従ふ事。 その故なきには似たれども。大事を伝へ て末世に遺し。兵法の師といはれんと。 地「思ふ心を見んためと。/\。知れば帰 るも恨なし。又こそこゝに来らめと。勇 をなして帰りけり。/\。ワキ中入「。 後ワキ一声「瑶台霜満てり。一声の玄鶴空に鳴 く。巴峡秋深し。五夜の哀猿月に叫ぶ。 物凄じき山路かな。地「有明の。月も隈な き深更に。/\。山の・峡{かひ}より見渡せば。 所は下〓{ヒ 大漢和 39340}の川波に。渡せる橋におく霜の。 白きをみれば今朝はまだ。渡りし人の跡 もなし。うれしや今ははや。思ふ願も満 つ潮の。暁かけて遥に。夜馬に鞭うつ人 影の。駒をはやむる気色あり。 後シテ大〓{カク 大漢和 22529}「そも/\これは。黄石公といふ。老 人なり。詞「こゝに漢の高祖の臣下張良と いふ者。たゞ公庭を見て君臣を重んじ。

義を全うして心猛く。賢才人に超え。器 量すぐれ。地「国を治め氏をあはれぶ志。 シテ「天道に通じて忽ちに。地「諸仏も感応 まのあたり。シテ「大事を伝へて高祖につ かへ。地「敵を平 らげ味方をいさ め。天下を治め んはかりごと。 汝に伝へんと。 駒をはやめて。 来り給ふを張 良遥に。見奉れ ば。ありしに変 れる。石公の ・粧{よそおひ}。眼の光も あたりを払ひ。姿もかゞやく威勢に恐れ て。橋本にかしこまり。待ち居たり。 シテ詞「いかに張良。いしくも早く来るも のかな。近づき給へものいはん。ワキ「そ

の時張良立ちあがり。衣冠正しく引き つくろひ。土橋を遥に上りゆけば。シテ「天 晴器量の人体からと。思ひながらも今一 度。心を見んと石公は。地「はいたる沓を 馬上より。/\。遥の川に落し給へば。 張良つゞいて飛んで下り。流るゝ沓を。 取らんとすれども所は下〓{ヒ 大漢和 39340}の。巌石いは ほに。足もたまらず早き瀬の。矢を射る

如く落ちくる水んい。浮きぬ沈みぬ流るゝ 沓を。取るべき様こそなかりけれ。 上「不思議や川浪立ち帰り。早笛(龍神出)「不 思議や川浪立ち帰り。俄に河霧立ち暗が つて。浪間に出づる。蛇体の勢。くれなゐ の舌振りたて。張良を目がけてかゝり けるが。流るゝ沓を。おつ取り上げて。面 もふらず。かゝりけり。ワキ「張良さわがず 剣を抜きもち。地「張良騒がず剣を抜きも ち蛇体にかゝれば。大蛇は剣の光に恐れ。 持つたる沓を。さし出せば。沓をおつ取 り剣を納め。又川岸に。えいやと上り。

さて彼の沓を取り出し。石公に履かせ奉 れば。シテ「石公馬より静かにおり立ち。 地「石公馬とり静かにおり立ち。さるにて も汝。善哉々々と彼の一巻を取り出し。張 良に与へ。給ひしかば。則ち披き。悉く 拝見し。秘曲口伝を残さず伝へ。又彼の 大蛇は観音の再誕汝が心を見んためなれ ば。今より後は守護神となるべしと大蛇 は雲居に・攀{よ}ぢ上れば。石公遥の高山にあ がり。金色の光を虚空にはなし。忽ち姿 を黄石とおらはし残し給ふぞ。有難き。