源三位頼政 近衛院の臣下 猪早太

大臣詞「抑これは近衛院に仕へ奉る臣下な り。君此間御悩にて渡らせ給ひ候。ある 人。奏していはく。東三条の林頭より。 黒雲一むら飛び来り。御殿の上に覆へば おびえさせ給ふ由を奏す。昔冷泉院御悩 にて渡らせ給ひし時。前の陸奥守源義 家君を守護し申すに。たとひ天魔鬼神な りとも。いかでか近づけ奉らんとて。 弓の弦うち三度せられければ。御悩たち まちおこたらせ給ふ其例にまかせ。兵庫

頭源の頼政を召させ。彼の化生のもの を射させらるべきとの宣旨を蒙り候ふ 間。頼政を召し出し。宣旨の趣申し付 けばやと存じ候。いかに頼政。ワキ「御前 に候。大臣「これは宣旨にて候。君此程御 悩に渡らせ給ひ候。ある人奏していはく。 東三条の林頭より。黒雲一むら飛び来り。 御殿の上におほへば則ちおびえさせ給ふ 由を申す。頼政を召し彼の化生のものを 射させらるべきとの御事にて候。ワキ「宣

旨畏つて承り候。さりながら。いまだ目 に見ぬ化生のもの。射よとの宣旨こそ。 然るべからず候へ。 大臣「実に/\申す所は。さる事なれども。 伝へ聞く紀の国にも化生を滅ぼしゝ先例 あり。ワキ「実に/\聞けば紀の国に。山 蜘蛛多く集まりし。これ朝敵のはじめと いへり。 大臣「今は国土も治りて。ワキ「靡き従ふ時 なれや。地「万代の例にぞ引く桑の弓。 /\。蓬の八しま治りて。国豊なる御代と かや民も栄ふる時ありて。道々たれば家 々の。風を伝ふる有難や/\。ワキサシ「然れば 天神七代地神五代の世々までも。地「なゝ しの雉も矢にあたりて。天下を治めし。 ためしとかや。 クセ「げ?ゐやう射術を伝へては其名を雲の 上にあぐ。ワキ「されば愛染明王は。地「定 の弓の恵の矢にて悪魔を払ひ給へり。神功

皇后新羅を徇へ給ひし其昔。御弓の筈に て巌窟に異国の夷は日の本の狗なりと書 きし文字の姿。今の代に残るこそ動きな き国の例なれ。 大臣「いかに頼政。急ぎ我が屋に帰り用意 仕り候へ。ワキ「畏つて候。早鼓中入間「。ワキ一声「扨 も頼政思はざる宣旨を蒙り。ぎよりやう の狩衣に重藤の弓持つて山鳥の尾にて矧 いだる尖矢二つ取りそろへ。頼みたる郎等 には。ワキツレ「遠江の国の住人猪早太に。ワキ 「ほろのかざ切にて矧いだる矢負はせて。 唯一人ぞ召具したる。地「かゝれば夜も更 けて。俄に落ちくる雨風の音。すはや時 節と。待ちかけたり。早笛「不思議や更け行 く月影の。/\。シテ「光をますかと見えつ るが。地「東三条の林頭よりも。黒雲一む ら飛び来り御殿の上にぞ。懸りける。舞働「。 ワキ「其時頼政祈念して。地「其時頼政祈念 して/\。南無屋八幡大菩薩。化生のま ん中射させて給べと。眼を開き能々見れ ば。頭は猿尾はくつなは。足手は虎の如 くなるが。啼く声鵺に似たりけり。尖矢 つがつてよつぴきしぼり。化生のまん中 ひやうづばと射通され。起きつまろびつ 御殿の上を。はしりめぐるが暫しもたま らず逆様に落ちけるを猪早太つと寄り九 刀に刺し留めければ。弓箭の家に頼政が 勢。誉めぬ人こそなかりけれ。