源頼光 渡辺綱 保昌、貞光、季武、公時 鬼神(謡ナシ) 渡辺綱

ワキワキツレ次第「治まる花の都とて。/\風も音 せぬ春べかな。頼光詞「これは源の頼光とは 我が事なり。さても丹州大江山の鬼神を 従へしより此方。貞光季武綱公時。此人 人と日夜朝暮参会申し候。ことさらこの ほどは。晴れ間も見えぬ春雨にて候ふ程 に。酒をすゝめばやと存じ候。サシ「有難や 四海の安危は掌のうちに照し。百王の理 乱は心のうちに掛けたり。ワキツレ立衆上歌「曇なき

君の御影は久方の。/\。そらものどけ き春雨の。音も静かに都路の。七つの道 も末すぐに。八洲の波も音せぬ九重の春 ぞ。久しき/\。 頼光詞「いかに面々。さしたる興も候はねど も。この春雨の昨日今日。晴間も見えぬ つれ%\に。今日も暮れぬと告げ取る。 声も寂しき入相の鐘。上歌地「つく%\と。 春の長雨の寂しきは。/\。しのぶにつ

たふ。軒の玉水音すごく。独ながむる夕 まぐれ。ともなひ語らふ諸人に。御酒を すゝめて盃を。とり%\なれや梓弓。や たけ心の一つなる。つはものゝ交はり頼 みある中の酒宴かな。クセ「思ふ心のそこ ひなく。たゞうちとけてつれ%\と。降 り暮らしたる宵の雨。これぞ雨夜の物語。 頼光「しな%\詞の花も咲き。地「匂も深き 紅に。面もめでて人心。隔てぬ中の戯 は。面白やもろともに。近く居よりて語 らん。 頼光詞「余りに寂しき夜にて候ふ程に。皆々 近う寄つて御物語り候へ。ワキ「畏つて候。 仰にて候ふ程に。皆々近う御参り候へ。 頼光「いかに申し候。この程めづらしき事 はなく候ふか。保昌「さん候この頃不思議 なる事をン申し候。九条の羅生門に鬼神の 住んで。暮るれば人の通らぬ由を申し候。 ワキ「いかに保昌。条なき事な宣ひそ。さ

すがに羅生門は。都の南門ならずや。土も 木も我が大君の国なれば。いづくか鬼の 宿と定めんと聞く時は。たとひ鬼神の住 めばとて住ますべきにもあらず。かゝる 粗忽なる事を仰せ候ふぞ。保昌「さては某 詐を申すと思しめし候ふか。 其儀にて候はゞ。今夜彼の門に行き。真 か偽りかを見候ふべし。印を賜はり候へ。 ワキツレ三人「満座のともがら一同に。これは無益 とさゝへたり。ワキ「いや保昌に対し野心 は無けれども。一つは君の御為なれば。 しるしを賜べと申しけり。頼光詞「げに/\ 綱が申すごとく。一つは君の御為なれば。 しるしを立てゝ帰るべしと。札を取り出 で賜びければ。ワキ歌「綱はしるしを賜はり

て。地「綱はしるしを賜はりて。御前を立 つて出でけるが。立ち帰り方々は。人の 心を陸奥の。安達が原にあらねども。こも れる鬼を従へずは。二度また人に。面を向 くる事あらじ。これまでなりや梓弓。引 きはかへさじ武士の。やたけごころぞ恐 ろしき/\。ワキ中入。 後ワキ一声「さても渡辺の綱は。たゞかりそめの 口論により。鬼神の姿は見んために。物 の具取つて肩に懸け。同じ毛の兜の緒を しめ。重代の太刀を佩き。地「たけなる馬 に打ち乗つて。舎人をもつれず唯一騎。 宿所を出でて二條大宮を。美袋がしらに歩 ませり。地「春雨の。音もしきりに更くる 夜の。/\。鐘も聞ゆる暁に。東寺の前 を打ち過ぎて。九条おもてにうつて出で。 羅生門を見渡せば。物凄じく雨落ちて。 俄に吹きくる風の音に。齣も進まず。高 いなゝきし。身ぶるひしてこそ立つたり

けれ。上「その時馬を乗りはなし。/\。 羅生門の石段にあがり。しるしの札を取 り出し。段上に立ておき帰らんとする に。後ろより兜の。錏をつかんで引き留め ければ。すはや鬼神と太刀抜き待つて。 切らんとするに。取りたる兜の緒を引き ちぎつて。おぼえず段より飛びおりた り。上「かくて鬼神は怒をなして。/\。 持ちたる兜をかつぱと投げ捨てそのたけ 皐門の軒にひとしく両眼月日の如くに て。綱を〓{にら:目へんに敢えて}んで立つたりけり。 ワキ「綱は騒がず太刀さしかざし。地「綱は

騒がず太刀さしかざし。汝知らずや王地 を犯す。その天罰は。遁るまじとてかゝ りければ。鉄杖を振上げえいやと打つ を。飛び違ひちやうと斬る。斬られて組 みつくを。払ふ剣に腕打ち落され。ひる むと見えしがわきつぢにのぼり。虚空を さして上りけるを。慕ひゆけども黒雲お ほひ。時節を待ちて。又取るべしと。呼 ばはる声も。かすかに聞ゆる鬼神よりも 恐ろしかりし。綱は名をこそ。あげに けれ。