素盞鳴尊 従者 老人(手摩乳) 老女(足摩乳) 大蛇 稲田姫

ワキ、ワキツレ二人次第「始めて旅に行く雲の。/\治ま る国を尋ねん。ワキ詞「そも/\これは伊 奘諾の御子素盞嗚神とは我が事なり。 ワキツレ「夫治まれる国の始。混沌未分に分 れしより。新羅の国に天降り。それより やがて旅衣の。ワキ、ワキツレ道行「思ひ立つあしたの 原もはる%\と。/\。見えて漕がるゝ 海士小船のその水馴棹さしてなほ。行く への波も八雲立つ。出雲の国に着きにけ り/\。 シテサシ「ながらへて生けるを今は歎くかな。 憂きは命の科ならず。とは思へども思ひ 子の。別を慕ふ世の習。我等夫婦に限ら めや。身は老鶴の音にたてゝ。泣くより 外の。事ぞなき。下歌「見るからに袂ぞ濡

るゝ桜花。上歌「空より外に置く露の。 /\。身は幼き嬰児を。誘ふ嵐は風より も烈しきものを川上の。大蛇の為に失は ん子の別をば。如何にせん子の別をば如 何にせん。 ワキ詞「我此国に来りつゝ。四方の景色を眺 むる所に。こゝに怪しき疎屋の内に。い みじく涕哭する声あり。これは如何なる 神やらん。シテ「我ならで訪ふ人もなき柴 の戸の。明暮泣く音を今更に。尋ね給ふ は誰やらん。ワキ「誰とも知らじ久方の。 天より降る神なるが。此国始めて見そ なはし。こゝに尋ねて来りたり。シテ「そ もや天より降ります。神とは何と木綿四 手の。かゝる泣く音ははづかしの。もり

ける事よ如何にせん。ワキ「何をか包み給 ふらん。早々姿を現して。謂を語り給ふ べし。シテ「仰に従ひ夫婦ともに。歎を止 めて柴の戸を。地「おし明方の雲間より。 /\。神代の月の影清く。尊の御姿。あら 有難の気色やな。かくて夫婦の老人。中 に少女を据ゑ置き。歎き悲しむ有様の心 元なき気色かな心もとなき気色かな。 ワキ詞「如何に夫婦の老人。我はこれ伊奘諾 伊奘冊の第四の御子素盞嗚神なり。され ども如何なる故にや御憎まれを蒙り。既 に根の国とこの国に赴く。いまし達は如 何なる神ぞ。少女を撫でて啼哭する事。 そも何の歎ぞや。シテクリ「その時答へて申さ く。やつはこれ此国津神なり。地「名は手 摩乳。妻の名は。脚摩乳と申す夫婦なり。 シテサシ「然るに此乙女はこれ我が子なり。名 をば櫛稲田姫と申す。地「かやうに歎く其 故は。先に我が子八人の乙女あり。年毎

に簸の川上の大蛇に呑まれ。今また此姫 取られんとす。免るゝによしなしと言 ふ。クセ「其時素盞嗚詔して宣はく。実 に理や老人の歎く心を憐の。恵ぞ深 き川上の。大蛇を従へ治まる国となすべ し少女を我にたび給へと。宣へば老人は。 喜悦の色をなし給ふ。シテ「すなはち乙女 を奉る。地「やがて尊は稲田姫の。湯津の 爪櫛取りなして。鬢づらにさし給ふ。其 侭治まる国津神。こゝに宮居の二柱。立 つや八雲の妻ともに。八重垣造る言の葉 の。三十一文字の詠歌の始なるべし。 ロンギ地「実に有難き詔。/\。さてや大蛇 を従へん其御方便如何ならん。ワキ「畜類 の心も兼ねて白真弓八しぼりの酒を取り 合はせ。さすき八間を結ひおき酒船に酒 をたゝへん。地「さてや八艘の酒舟を。簸 の川上に浮めつゝ。ワキ「乙女の姿うつさ んと。地「夕の雲の波煙も立つや簸の川上

に。稲田姫を伴ひ上らせ給ふ有難や上ら せ給ふ有難や。中入間「。 ワキ、ワキツレ一声「光散る。玉の御輿を先立てゝ。 尊は馬上に威儀をなし。簸の川上にと。 急ぎけり。ワキ「そも/\これは。伊奘諾 伊奘冊の御子。素盞嗚神なり。簸の川 上の大蛇を従へ。国土豊になすべきな り。地「八雲立つ出雲八重垣妻ともに。 /\。鳥上の嶽にうち上り。簸の川上は これなれや。山聳え岸高く。嵐も波も声 声に。もの凄じき川岸に。稲田姫を。一 人すゑ奉り。波間に浮める酒船に。御影 をうつし給へば。尊は馬より下り立ちて。 岸に上つてひそかに出づる大蛇を待ち居 たり出づる大蛇を待ち居たり。 早笛地「川風暗く水渦まき。/\。雲は地に 落ち波立ち上り。山河も崩れ鳴動して。 現れ出づる大蛇の勢年ふる角には雲霧か かり。松柏そびらに生ひ伏して。眼はさ

ながらあかゞちの。光を放ち角を振りた てさも恐ろしき。勢なれどもさすが心は 畜類の。舟にうつろふ御影を呑まんと頭 を舟に落し入れて酔ひ伏したるこそ恐ろ しけれ。ワキ「尊は十握の神剣を抜き持 ち。地「尊は十握の神剣を抜き持ち。遥の 岸より下り給へば大蛇は驚き怒をなせど も。毒酒に酔ひ伏し通力失せて。山河に 身を投げ漂ひめぐるを神剣を振り上げ斬 り給へば。斬られてその尾は雲を穿ち。 尊を巻かんと覆へば飛び違ひ。巻き付け ば斬り払ひ廻ればめぐる。互の勢神は威 光の力を現し大蛇を斬り伏せ忽ちに。そ の尾に有りし剣を取つて。叢雲の剣とは。 名づけたり。