大海人皇子 神霊(前ハ姫後ハ天女) 蔵王権現(前ハ老翁) 供奉の臣 従者

ワキ、ワキツレ一セイ「思はずも。雲居を出づる春の夜 の月の都の。名残かな。ワキ「道々たらば位 山。ワキワキツレ「上らざらめや。唯頼め。ワキサシ「神 風や五十鈴の古き末を受くる。御裳濯川 の御流。やごとなき御方にておはしま す。ワキワキツレ「此君と申すに御譲として。天津 日嗣を受くべき所に。御伯父なにがしの 連に襲はれ給ひ。都の境も遠田舎の。馴 れぬ山野の草木の露。分け行く道の果ま でも。行幸と思へば頼もしや。下歌「身を 秋山や世の中の。宇陀の御狩場余所に見 て。牡鹿伏すなる春日山。/\。水層ぞ まさる春雨の。音はいづくぞ吉野川。よ しや暫しこそ。花曇なれ春の夜の。月 は雲居に帰るべし頼をかけよ玉の輿 /\。ワキ詞「御急ぎ候ふ程に。いづくとも 知らぬ山中に御着にて候。まづ此処に御 座をなされうずるにて候。 シテ「姥や見給へ。ツレ「何事にて候ふぞ。

シテ「あのおほぢが伏屋の上に。紫雲のた なびいたるを拝まい給うたか。ツレ「げに げにあたりに紫雲たなびき。たゞならぬ 空の気色やな。シテ「あうたゞならぬ気色 候ふよ。昔より天子の御座所にこそ。紫 雲は立つと申せ。詞「もしも不思議に尉が 住家に。ツレ「さやうの貴人やおはすらん と。シテ「舟さしよせて我が家に帰り。 ツレ「見れば不思議やさればこそ。シテ「玉 の冠直衣の袖。ツレ「露霜に萎れ給へど も。シテ「さすが紛れぬ御粧。地「さもや ごとなき御方とは。疑もなく白糸の。 釣竿をさしおきて。そもやいかなる御事 ぞ。かほど賎しき柴の戸の。暫しが程の おましにも。なりける事よいかにせんあ ら忝なの御事や/\。 シテ詞「これはそも何と申したる御事にて 候ふぞ。ワキ「これはよしある御方にて御 座候ふが。まぢかき人に襲はれ給ひ。これ

まで御忍びにて候。何事も尉を頼に思 しめさるゝとの御事にて候。シテ「さては 由ある御方にて御座候ふか。幸これは此 尉が庵にて候ふ程に。御心安く御休あら

うずるにて候。ワキ「いかに尉。面目もな き申し事にて候へども。此君二三日が程 供御を近づけ給はず候。何にても供御に そなへ候へ。シテ「其よし姥に申さうずる にて候。いかに姥聞いてあるか。此二三日 が程供御を近づけ給はず候ふとの御事な り。何にても供御に奉り給へ。ツレ「をり ふしこれに摘みたる根芹の候。シテ「それ こそ日本一の事。われらもこれに国栖魚 の候。これを供御に備へ申さうずるにて 候。ツレ「姥は余りの忝さに。胸うちさ わぎ摘み置ける。根芹洗ひて老が身も。 心若菜を揃へつゝ。供御に供へ奉る。そ れよりしてぞ三吉野の。菜摘の川と申す なり。シテ詞「おほぢも色濃き紅葉を林間に 焚き。国栖川にて釣りたる鮎を焼き。同 じく供御に供へけり。地「吉野の国栖とい ふ事も此時よりの事とかや。蓴菜の羮 魯魚とても。これにはいかで勝るべき間

近く参れ老人よ/\。 ワキ詞「いかに尉。供御の御残を尉に賜は れとの御事にて候。シテ「あらありがたや 候。さらばうち返して賜はらうずるにて 候。ワキ「そもうち返して賜はらうずると は。何と申したる事にて有るぞ。シテ「う ち返して賜はらうずると申すこそ。国栖 魚のしるしにて候へ。いかに姥。供御の 残を尉に賜はれとの御事にて候ふが。此 魚はいまだ生き/\と見えて候。ツレ「げ に此魚はいまだ生き/\と見えて候。 シテ「いざ此吉野川に放いて見やう。 ツレ「条なき事な宣ひそ。放いたればとて 生き返るべきかは。シテ「いや/\昔もさ る例あり。神功皇后新羅を従へ給ひし占 方に。玉島川の鮎を釣らせ給ふ。その如 くこの君も。二度都に還幸ならば。此魚 もなどか生きざらんと。地「岩切る水に放 せば。/\。さしも早瀬の滝川に。あれ

三吉野や吉瑞を。現す魚のおのづから。 生き返るこの占方頼もしく思しめされ よ。早鼓「。 ワキ詞「いかに尉。追手が掛りて候。シテ詞「こ なたへ御任せ候へ。いかに姥。あの舟舁 いて来う。ツレ「心得申し候。狂言シカジカ「。 シテ「何清み祓。清み祓ならば此川下へ行 け。狂言シカジカ「。シテ「偖は清見原とは人の名 よな。あら聞き馴れずの人の名や。其上 此山は。兜卒の内院にもたとへ。又五台 山清涼山とて。唐土まで遠く続ける 吉野山。隠れが多き所なるを。何処まで 尋ね給ふべき。速に帰り給へ。狂言シカジカ「。 シテ「何と舟が怪しいとや。これは乾す舟 ぞとよ。狂言シカジカ「。ツレ「何と舟を捜さうと や。漁夫の身にては舟を捜されたるも家 を捜されたるも同じ事ぞかし。身こそ賎 しく思ふとも。此処にては翁もにつくき 者ぞかし。孫もあり曾孫もあり。山々谷

谷の者ども出で合ひて。あの狼藉人を打 ち留め候へ打ち留め候へ。狂言シカジカ「。 ツレ「なう聞し召せ追手の武士は帰りた り。シテ「今はかうよとおほぢ姥は。ツレ「嬉 しや力を。シテ「えいや。二人「えいと。地「舟 引き起し尊体の。/\。御恙なく川舟の。 かひある御命。助かり給ふぞ有難き。 クリ「それ君は舟臣は水。水よく舟を浮む とは。此忠勤のたとへなり。ワキ「ありがた やさしも姿は山賎の。地「心は高き謀。げ に貴賎にはよらざりけり。ワキ「積善の余 慶かぎりなく。地「流たえせぬ御裳濯川。 濁れる世には住み難し。子方「されば君と してこそ。民をはごくむ習なるに。却つ て助くる志。上歌「身は宿善のかひぞなき。 身は宿善のかひぞなき。一葉の舟の行 末。蟠龍の雲居終になど。至らざらめや 都路に。立ち帰りつゝ秋津州の。よしや 世の中治まらば。命の恩を報ぜんと。綸

言肝に銘じつゝ。夫婦の老人は忝さに 泣き居たり。クセ「さる程に。更け静まり て物凄し。いかにとしてか此程の御心慰 め申すべき。しかも処は月雪の。三吉野 なれや花鳥の。色音によりて音楽の。呂 律の調琴の音に。峰の松風かよひ来る。 天つ少女の返す袖。五節の始これなれ や。中入「。 楽地「少女子が。/\。其唐玉の琴の糸。 ひかれかなづる音楽に。神々も来臨し。

勝手八所此山に。木守の御前蔵王とは。 後シテ「王を蔵すや吉野山。地「即ち姿を現 して。即ち姿を現し給ひて。天を指す手 は。シテ「胎蔵。地「地を又指すは。シテ「金 剛宝石の上に立つて。地「一足を引つ提げ 東西南北十方世界の虚空に飛行して。普 天の下。卒土の内に。王威をいかでか軽 んぜんと。大勢力の力を出し。国土を改 め治むる御代の。天武の聖代畏き恵。新 たなりける。ためしかな。