菅公の霊(後ハ雷神) 法性坊

ワキサシ「比叡山延暦寺の座主。法性坊の律師 僧正にて候。詞偖もわれ天下の御祈祷の ため。百座の護摩を焚き候ふが。今日満参 にて候ふ程に。頓て仁王会を取り行はゞ やと存じ候。サシ「げにや恵も新たなる。影 も日吉の年古りて。誓ぞ深き湖の。〓{大漢和:18155。さざなみ}寄 する汀の月。地「名にしおふ。比叡の御嶽 の秋なれや。/\。月は隈なき名所の都 の富士と三上山。法の燈火自ら。影明らけ き恵こそ。人を洩らさぬ誓ひなれ/\。 シテ「ありがたや此山は。往古より仏法最

初の御寺なり。げにやかりそめの値偶も 空しからず。我が立つ杣に冥加あらせて と。望を適へ給へとて。満山護法いちれ つし。中門の扉を敲きけり。 ワキ詞「深更に軒白し。月はさせども柴の戸 を。敲くべき人も覚えぬに。いかなる松の 風やらん。あら不思議の事やな。シテ詞「聞 けば内にも我が声を。怪め人の咎むるぞ と。重ねて扉を敲きけり。ワキ「あまりの事 の不思議さに。物の隙よりよく/\見れ ば。これは不思議や丞相にてまします

ぞや。心騒ぎておぼつかな。シテ詞「頃しも 今は明け易き。月にひかれてこの庵の。 樞を敲けば内よりも。ワキ「不思議や偖は 丞相か。はや此方へと。シテ「夕月の。 地「影珍しや客人の。/\。稀にあふ時は。 なか/\夢の心地して。いひやる言の葉 もなし。上人の丞相も。心解けて物語。 世に嬉しげに見え給ふ。あはれ同じ世の。 逢瀬とこれを思はめや/\。 ワキ詞「さて御身は筑紫にて果て給ひたる よし承り候ふ程に。種々に弔ひ申して候 ふが届き候ふやらん。シテ「なか/\の事 御弔悉く届きてありがたう候。秋に後 るゝ老葉は風なきに散り易く。愁を弔ふ 涙は問はざるにまづ落つ。されば貴きは 師弟の約。ワキ「切なるは主従。シテ「睦し きは親子の契なり。是を三悌といふとか や。シテ「中にも真実の志の深き事は。師 弟三世に若くはなし。地「忝しや師の御影

をばいかで踏むべき。クセ「いとけなかり し其時は。父もなく母もなく。ゆくへも 知らぬ身なりしを。菅相公の養ひに。親 子の契いつの間に。有明月のおぼろけ に。憐み育て給ふこと真の親の如くなり。 さて勧学の室に入り。僧正を頼み奉り。 風月の窓に日を招き。蛍を集め夏虫の。心 のうちも明かに。シテ「筆の林も枝茂り。 地「詞の泉尽きもせず。文筆の堪能上人 も。悦び思しめし。荒き風にもあてじと 御志の今までも。一字千金なりいかで か忘れ申すべき。 シテ詞「われ此世にての望は適ひて候。死 しての後梵天帝釈の憐を蒙り。鳴雷 となり内裏に飛び入り。われに憂かりし 雲客を蹴殺すべし。其時僧正を召され候 ふべし。かまへて御参り候ふな。ワキ「縦令 宣旨はありといふとも。一二度までは参 るまじ。シテ「いや勅使度々重なるとも。か

まへて参り給ふなよ。ワキ「王土に住める 此身なれば。勅使三度に及ぶならば。い かでか参内申さゞらん。シテ「其時丞相 姿俄に変り鬼のごとし。ワキ「をりふし 本尊の御前に。柘榴を手向け置きたる を。地「おつ取つて噛み砕き。/\。妻戸 にくわつと。吐きかけ給へば柘榴忽ち火 焔となつて扉にばつとぞ燃え上る。僧正 御覧じて。騒ぐ気色もましまさず。灑水 の印を結んで。鑁字の明を。唱へ給へば 火焔は消ゆる。煙の内に。立ち隠れ丞 相は。ゆくへも知らず失せたまふ/\。 中入(来序中入ニモ)。 ワキ「偖も僧正は紫宸殿に坐し。珠数さら さらとおし揉んで。普門品を唱へけれ ば。地「さしも黒雲吹き塞がり。闇の夜の 如くなる内裏。俄かに晴れて明々とあり。 ワキ詞「さればこそ何程の事のあるべきぞ と。油断しける所に。地太鼓頭「不思議や虚空

に黒雲覆ひ。/\。電四方にひらめき渡つ て。内裏は紅蓮の闇の如く。山も崩れ。 内裏は虚空に溯るかと。震動ひまなく鳴 神の。雷の姿は。現れたり。ワキ詞「其時僧 正雷に向ひて申すやう。卒土四海のうち は王土に非ずと云ふ事なし。況んや菅丞 相昨日までは。君恩を蒙る臣下ぞかし。 内恩外忠の威儀未練なり静まり給へ。あ らけしからずや候。シテ「あら愚や僧正 よ。われを見放し給ふ上は。僧正なりと も恐るまじ。われに憂かりし雲客に。 地「思ひ知らせん人々よ。/\とて。小龍 を引き連れて。黒雲にうち乗りて。内裏 の四方を鳴りまはれば。いな光電の。 電光頻りにひらめき渡り。玉体危く見え させ給ふが。不思議や僧正の。おはする所 を雷恐れて鳴らざりけるこそ奇特な れ。紫宸殿に僧正あれば。弘徽殿に神鳴 する。弘徽殿に移り給へば。清涼殿に雷

なる。清涼殿に移り給へば。梨壷梅壷。 昼の間夜の殿を。行き違ひ廻りあひて。 われ劣らじと祈るは僧正。鳴るは雷。も みあひ/\追つかけ/\互の勢たとへん かたなく恐ろしかりける有様かな。千手 陀羅尼をみて給へば。雷鳴の壷にもこら へず。荒海の障子を隔て。これまでなれ

やゆるし給へ。聞法秘密の法味に預かり 帝は天満自在。天神と贈官を。菅丞 相に下されければ。嬉しや生きての怨死 しての悦これまでなりやこれまでと て。黒雲にうち乗って虚空にあがらせ給 ひけり。