旅僧 舟人 鵺の霊

ワキ次第「世を捨人の旅の空。/\。来し方何 処なるらん。ワキ詞「これは諸国一見の僧に て候。我此程は三熊野に参りて候。又こ れより都に上らばやと思ひ候。道行「程も なく。帰りきの路の関越えて。/\。な ほ行末は和泉なる。信太の森をうち過 ぎて。松原見えし遠里の。こゝ住の江や 難波潟。芦屋の里に着きにけり/\。 ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是は早津の国芦屋の 里に着きて候。日の暮れて候ふ程に。宿 を借らばやと思ひ候。 シテサシ一声「悲しきかなや身は籠鳥。心を知れ ば盲亀の浮木。唯闇中に埋木の。さらば

埋れも果てずして。亡心何に残るらん。 一セイ「浮き沈む。涙の波のうつほ舟。地「こ がれて堪へぬ。いにしへを。シテ「忍び。 はつべき。隙ぞなき。 ワキ詞「不思議やな夜も更方の浦波に。幽 に浮び寄る物を。見れば聞きしに変らず して。舟の形はありながら。唯埋木の如 くなるに。乗る人影もさだかならず。あ ら不思議の者やな。シテ詞「不思議の者と承 る其方は如何なる人やらん。もとより憂 き身は埋木の。人知れぬ身とおぼしめさ ば。不審はよさせ給ひそとよ。ワキ「いや これは唯此里人の。さも不思議なる舟人

の夜々来ると言ひつるに。見れば少し も違はねば。我も不審を申すなり。シテ「此 里人とは芦の屋の。灘の塩焼く蜑人の。 類を何と疑ひ給ふ。ワキ「塩焼く海人の類 ならば。業をばなさで暇ありげに夜々 来るは不審なり。シテ詞「実に/\暇のある 事を。疑ひ給ふも謂あり。古き歌にも芦 の屋の。ワキ「灘の塩焼き暇なみ。黄楊の 小櫛はさゝず来にけり。シテ「我も憂きに は暇なみの。ワキ「汐にさゝれて。シテ「舟 人は。地歌。「さゝで来にけりうつほ舟。 /\。現か夢か明けてこそ。みるめも。 刈らぬ芦の屋に。一夜は寝て蜑人の。心の 闇を弔ひ給へ。有難や旅人は。世を遁れ たる御身なり。我は名のみぞ捨小舟法の 力を。頼むなり法の力を頼むなり。 ワキ詞「何と見申せども更に人間とは見え ず候。如何なる者ぞ名を名乗り候へ。 シテ詞「是は近衛の院の御宇に。頼政が矢先

にかゝり。命を失ひし鵺と申しゝものの 亡心にて候。其時の有様委しく語つて聞 かせ申し候ふべし。跡を弔うて賜はり候 へ。ワキ「さては鵺の亡心にて候ふか。其 時の有様委しく語り候へ。跡をば懇に弔 ひ候ふべし。 地クリ「さても近衛の院の御在位の時。仁平 のころほひ。主上夜な/\御悩あり。 シテサシ「有験の高僧貴僧に仰せて。大法を修 せられけれども。そのしるし更になか りけり。地「御悩は丑の刻ばかりにてあり けるが。東三条の森の方より。黒雲一村立 ち来つて。御殿の上におほへば必ずおび え給ひけり。シテ「すなはち公卿詮議あつ て。地「定めて変化の者なるべし。武士に 仰せて警固あるべしとて。源平両家の兵 を選ぜられける程に。頼政を選び出され たり。クセ「頼政その時は。兵庫の頭とぞ申 しける。頼みたる郎等には。猪早太。唯一

人召し具したり。我が身は二重の狩衣に 山鳥の尾にてはいだりける。尖矢二筋重 籐の弓に取り添へて。御殿の。大床に伺 候して。御悩の刻限を今や/\と待ち居 たり。さる程に案の如く。黒雲一村立ち 来り。御殿の上におほひたり。頼政きつ と見上ぐれば。雲中に怪しき者の姿あ り。シテ「矢取つて打ちつがひ。地「南無八 幡大菩薩と。心中に祈念して。よつぴき ひやうと放つ矢に。手答してはたと当 る。得たりや。おうと矢叫して。落つ る所を猪早太つゝと寄りてつゞけさま に。九刀ぞ刺いたりける。さて火を灯 しよく見れば、頭は猿尾は蛇。足手は虎 の如くにて。鳴く声鵺に似たりけり。恐 ろしなんども。愚なる。形なりけり。 ロンギ地「実に隠なき世語の。その一念を翻 へし。浮ぶ力となり給へ。シテ「浮ぶべき。 たより渚の浅緑。三角柏にあらばこそ。

沈むは浮ぶ縁ならめ。地「実にや他生の縁 ぞとて。シテ「時もこそあれ今宵しも。地「な き世の人に合竹の。シテ「棹取り直しうつ ほ舟。地「乗ると見えしが。シテ「夜の波に。 地「浮きぬ沈みぬ見えつ隠れ絶々の。幾重 に聞くは鵺の声。恐ろしや凄しや。あら 恐ろしや凄ましや。中入間「。ワキ歌、待謡「御法の声 も浦波も。/\。皆実相の道広き。法を 受けよと夜と共に。この御経を。読誦する この御経を読誦する。出端「一仏成道観見 法界。草木国土悉皆成仏。 後シテ「有情非情。皆共成仏道。ワキ「頼むべ し。シテ「頼むべしや。地「五十二類も我同 性の。涅槃に引かれて。真如の月の夜汐 に浮びつゝこれまで来れり。有難や。 ワキ「不思議やな目前に来る者を見れば。 面は猿足手は虎。聞きしにかはらぬ変化 の姿。あら恐ろしの有様やな。シテ「さて も我悪心外道の変化となつて。仏法王法

の障とならんと。王城近く遍満して。東 三条の林頭に暫く飛行し。丑三ばかりの 夜な/\に。御殿の上に飛び下れば。 地「すなはち御悩しきりにて。玉体を悩ま して。おびえまいらせ給ふ事も我がな す業よと怒をなしゝに。思ひもよらざ りし頼政が。矢先に中れば変身失せて。 落々磊々と。地に倒れて。忽ちに滅せし 事。思へば頼政が矢先よりは。君の。天 罰を。当りけるよと今こそ思ひ知られた れ。其時。主上御感あつて。獅子王とい ふ御剣を。頼政に下されけるを宇治の。 大臣賜はりて。階をおり給ふにをりふし 郭公音づれければ。大臣とりあへず。 シテ「ほとゝぎす。名をも雲居に。上ぐる かなと。仰せられければ。地「頼政。右の 膝をついて。左の袖をひろげ月を少し目 に懸けて。弓張月の。いるにまかせてと。 仕り御剣を賜はり。御前を。罷り帰れ

ば。頼政は名をあげて。我は。名を流す うつほ舟に。押し入れられて。淀川の。よ どみつ流れつ行く末の。鵜殿も同じ芦の 屋の。浦わの浮洲に流れ留まつて。朽ちな

がらうつほ舟の。月日も見えず。暗きより 暗き道にぞ入りにける。遥に照せ。山の 端の。遥に照せ。山の端の月と共に。海 月も入りにけり。海月と共に入りにけり。 古相入力