稲荷明神(前ハ童子) 三条宗近 橘道成

ワキツレ詞「これは一条の院に仕へ奉る橘の 道成にて候。さても今夜帝不思議の御告 ましますにより。三条の小鍛冶宗近を召 し。御剣を打たせらるべきとの勅諚にて

候ふ間。唯今宗近が私宅へと急ぎ候。いか に此家の内に宗近があるか。ワキ「宗近と は誰にてわたり候ふぞ。ワキツレ「是は一条の 院の勅使にてあるぞとよ。さても帝今夜

不思議の御告ましますにより。宗近を召 し御剣を打たせらるべきとの勅諚なり。 急いで仕り候へ。ワキ「宣旨畏つて承り候。 さやうの御剣を仕るべきには。われに劣 らぬもの相鎚を仕りてこそ。御剣も成就 候ふべけれ。これはとかくの御返事を。申 しかねたるばかりなり。ワキツレ「げに/\ 汝が申すところは理なれども。帝不思議 の御告ましませば。頼もしく思ひつゝ。は や/\領承申すべしと。重ねて宣旨あ りければ。ワキ上歌「此上は。とにもかくにも宗 近が。地「とにもかくにも宗近が。進退こ こに谷まりて。御剣の刃の乱るゝ心なり けり。さりながら御政道。直なる今の御 代なれば。若しも奇特のありやせん。そ れのみ頼む心かな/\。 ワキ詞「言語道断。一大事を仰せ出されて 候ふものかな。かやうの御事は神力を頼 み申すならではと存じ候。某が氏の神は

稲荷の明神なれば。これより直に稲荷に 参り。祈誓申さばやと存じ候。 シテ呼掛「なう/\あれなるは三条の小鍛冶宗 近にて御入り候ふか。ワキ「不思議やなな べてならざる御事の。我が名をさして宣 ふは。いかなる人にてましますぞ。シテ「雲 の上なる帝より。剣を打ちて参らせよと。 汝に仰せありしよなう。ワキ「さればこそそ れにつけても猶々不思議の御事かな。 剣の勅も唯今なるを。早くも知し召さる る事。返す%\も不審なり。シテ「げにげ に不審はさる事なれども。われのみ知れ ばよそ人までも。ワキ「天に声あり。シテ「地 に響く。上歌地「壁に耳。岩の物いふ世の中 に。/\。隠はあらじ殊になほ。雲の上 人の御剣の。光は何か闇からん。唯頼め この君の。恵によらば御剣もなどか心に 適はざる。などかは適はざるべき。 クリ「それ漢王三尺の剣。居ながら秦の乱

を治め。又煬帝がけいの剣。周室の光を 奪へり。シテ「その後玄宗皇帝の鍾馗大臣 も。地「剣の徳に魂魄は。君辺に仕へ奉り。 シテ「魍魎鬼神に至るまで。地「剣の刃の光 に恐れて其寇を なす事を得ず。 シテ「漢家本朝に 於て剣の威徳。 地「申すに及ば ぬ奇特とかや。 クセ「また我が朝 のそのはじめ。 人皇十二代。景 行天皇。みこと のりの御名をば 日本武と申しゝが。東夷を。退治の勅を 受け。関の東も遥なる。東の旅の道すが ら。伊勢や尾張の海面に立つ波までも。 帰る事よと羨み。いつかわれも帰る波の。

衣手にあらめやと。思ひつゞけて行くほ どに。シテ「こゝやかしこの戦に。地「人 馬巌窟に身を砕き。血は〓{タク:大漢和17609}鹿の川となつ て。紅波盾流し数度に及べる夷も兜を脱 いで矛を伏せ。皆降参を申しけり。尊の 御宇より御狩場を始め給へり。頃は神無 月。二十日余りの事なれば。四方の紅葉 も冬枯の。遠山にかゝる薄雪を。眺めさ

せ給ひしに。シテ「夷四方を囲みつゝ。 地「枯野の草に火をかけ。余炎しきりに燃 え上がり。かたき攻鼓を打ちかけて。火炎 を放ちてかゝりければ。シテ「尊は剣を抜 いて。地「尊は剣を抜いて。あたりを払 ひ。忽ちに。炎も立ち退けと。四方の草を。 薙ぎ払へば。剣の精霊嵐となつて。炎も 草も。吹き返されて。天にかゞやき地に 充ち/\て。猛火は却つて敵を焼けば。 数万騎の夷どもは。忽ちこゝにて失せて んげり。其後。四海治まりて人家戸ざしを 忘れしも。その草薙の故とかや。唯今。汝 が打つべき其の瑞相の御剣も。いかでそれ には劣るべき。伝ふる家の宗近よ。心安 く思ひて下向し給へ。 ワキ詞「漢家本朝に於て剣の威徳。時に取 つての祝言なり。さて/\御身は如何な る人ぞ。シテ「よし誰とてもたゞ頼め。ま づ/\勅の御剣を。打つべき壇を飾りつ

つ。その時我を待ち給はゞ。地「通力の身 を変じ。通力の身を変じて。必ずその時 節にまゐり会ひて御力を。つけ申すべし 待ち給へと。夕雲の稲荷山。行くへも知 らず失せにけり/\。中入「。 ワキノツト「宗近勅に随つて。即ち壇にあがりつ つ。不浄を隔つる七重の注連。四方に本 尊をかけ奉り。幣帛を捧げ。仰ぎ願はく は。宗近時に至つて。人皇六十代。一条 の院の御宇に。其職の誉を蒙る事。こ れ私の力にあらず。伊弉諾伊弉冉の。 天の浮橋を踏みわたり。豊芦原を探り給 ひし御矛より始まれり。その後南瞻僧伽 陀国。波斯弥陀尊者より此方。天国ひつ きの子孫に伝へて今に至れり。願はくは。 地「願はくは。宗近私の功名にあらず。 普天卒土の勅命によれり。さあらば十方 恒沙の諸神。唯今の宗近に力を合はせて たび給へとて。幣帛を捧げつゝ。天に仰ぎ

頭を地に付け。骨髄の丹誠聞き入れ納受。 せしめ給へや。ワキ「謹上再拝。早笛「。地「い かにや宗近勅の剣。/\。打つべき時節 は虚空に知れり。頼めや頼め唯たのめ。 舞働「。後シテ「童男壇の。上にあがり。地「童男 壇の。上にあがつて。宗近に三拝の膝を 屈し。扨御剣の。鉄はと問へば。宗近も恐 悦の心をさきとして。鉄取り出し。教の 鎚をはつたと打てば。シテ「ちやうと打つ。 地「ちやう/\/\と打ち重ねたる鎚の 音。天地に響きて。おびたゝしや。 ワキ詞「かくて御剣を打ち奉り。表に小鍛冶 宗近と打つ。シテ「神体時の弟子なれば。 小狐と裏にあざやかに。地「打ち奉る御剣 の。刃は雲を乱したれば。天の叢雲とも これなれや。シテ「天下第一の。地「天下第 一の。二つの銘の御剣にて。四海を治め 給へば。五穀成就も此時なれや。即ち汝 が氏の神。稲荷の神体小狐丸を。勅使に

捧げ申し。これまでなりと言ひ捨てゝ。 又群雲に飛び乗り又群雲に。飛びのりて

東山稲荷の峯にぞ帰りける。