天狗(前ハ天狗) 車僧

ワキ次第「後の世かけて車僧。/\常寝の眠い つまで。上歌「降り曇る。空は小倉の嶺の 雪。/\。散るや嵯峨野の嵐山。瀧の響 も声そへて。重なる雲の大井川。筏の床 の浮枕かたしく袖も白妙の。空も程なく めぐる日の。西山本に着きにけり/\。 詞「暫く其処に車を立て。四方の景色を詠 めうずるに候。 シテ「いかに車僧。ワキ「何事ぞ。シテ「浮世 をば。ワキ「浮世をば。シテ「浮世をば。何と か廻る車僧。まだ輪のうちにありとこそ 見れ。ワキ「浮世をば廻らぬものを車僧。 詞「乗りも得るべきわがあらばこそ。シテ「乗 りも得るべきわがあらばこそと云ふは誰 そ。ワキ「空洞風涼し。シテ「我が名のみ高

雄の山にいひ立つる。ワキ「人は愛宕の峯 に住むな。シテ「さてお僧の住家は。ワキ「一 所不住。シテ「車は如何に。ワキ「火宅の出 車。シテ「廻れど。ワキ「廻らず。シテ「押せ ど。ワキ「押されず。シテ「引くも。ワキ「引 かれぬ。シテ「車僧の。地「三界無安猶如火 宅をば。出でたる三つの。車僧かな。廻る も直なる道なりけりおう乗り得たり乗り 得たり。地上歌「見聞く人。心空なる雲水の。 /\。ふかだつ空も冷まじく。嵐の声ゝ に愛宕山。嶺どよむまで響き合ひて。車路 はなけれども。我が住む方は愛宕山。太 郎坊が庵室に。御入りあれや車僧と。呼 ばはりて夕山の黒雲に乗りて上がりけ り/\。来序中入。

後シテサシ「愛宕山樒が原に雪積り。花摘む人 の跡だにもなし。詞「実に雪中に山路な し。さて車輪はいかに車僧。われ程貴き 者あらじと。慢心の心路跡なからんや。 然らば無着法欲心に。引くか移るか車僧。 魔道にも心を寄せよ車僧。地「善悪二つは 両輪の如し。シテ「仏法あれば世法あり。 地「煩悩あれば菩提あり。シテ「仏あれば衆 生もあり。地「車僧あれば。シテ「太郎坊の 行者もあり。地「祈らば祈るべし。行ぜば 行徳も。劣るまじとよ/\いざ車僧行 較べせん。 ワキ詞「いかに汝妨ぐるとも。それには 寄らじ争はじ。われはもとより不増不滅。 あら面白の時節やな。シテ詞「げに面白き時 節ならば。雪中の車を廻らし。嵯峨野の 原にいざ遊ばん。ワキ「遊ばは?遊べいとゆ ふの。我が心をば引かれめや。シテ「などか は引かであるべきと。笞を振り上げ車

を打つ。ワキ「おう車を打たば行くべき か。牛を打たば行くべしや。シテ「げに/\ 車は心なし。さて牛を打たんもあらばこ そ。ワキ「愚や汝人牛の道。見えたる牛を ばなど打たぬ。シテ「見えたる牛とはさて いかにそも人牛は。ワキ「打つとも行か じ。シテ「さて御僧の打たば行くべきか。 ワキ「中ゝの事。いで/\さらば露地の白 牛を打つて見せんと。払子を上げて虚空 を打てば。地「不思議やなこの車の。/\。 ゆるぎ廻りて今までは。足弱車と見えつ るが。牛も無く人も引かぬにやす/\と 遣りかけて飛ぶ。車とぞなりにける。

ロンギ上「小車の。山の蔭野の道すがら。法 の道の辺遊行して。貴賎の利益なすとか や。シテ「処から。こゝは浮世の嵯峨なれ や。雪の古道跡深き。車の轍は足引の。 大雪にはよも行かじ。地「げに雪山の道な りと。法の車路平かに。シテ「行くか行か ぬか此原の。地「草の小車雨そへて。シテ「打 てども行かず。地「とむれば進む。シテ「此 車の。地「法の力とて。嵯峨小倉大井嵐の。 山河を飛び翅?つて。眩惑すれども騒がば こそ。真に奇特の車僧かな。あら貴や恐 ろしやと。魔障を和らげ大天狗は。合掌 してこそ失せにけれ。