山伏 鞍馬東谷の僧 能力 牛若丸 大天狗

シテ詞「かやうに候ふ者は。鞍馬の奥僧正 が谷に住居する客僧にて候。さても当山 において。花見の由うけたまはり及び候 ふ間。立ち越えよそながら梢をもながめ

ばやと存じ候。 狂言「これは鞍馬の御寺に仕へ申す者に て候。さても当山において毎年花見の御 座候。殊に当年は一段と見事にて候。さ

る間東谷へ唯今文を持ちて参り候。い かに案内申し候。西谷より御使にまゐり て候。これに文の御座候御らん候へ。 ワキ詞「何々西谷の花。今を盛と見えて候ふ に。など御音信にもあづからざる。一筆 啓上せしめ候ふ古歌にいはく。けふ見ず はくやしからまし花ざかり。咲きものこ らず散りもはじめず。げにおもしろき歌 の心。たとひ音づれなくとても。木蔭に てこそ待つべきに。地歌「花咲かば。告げ んといひし山里の。/\。使は来たり馬 に鞍。鞍馬の山の雲珠桜。たをり枝折を しるべにて。奥も迷はじ咲きつゞく。木 蔭に並み居ていざ/\花をながめん。 狂言「いかに申し候。あれは客僧の渡り 候。これは近頃狼藉なる者にて候ふ。追つ 立てうずるにて候。ワキ詞「しばらく。さす がに此御座敷と申すに。源平両家の童形 達各御座候ふに。かやうの外人は然るべ

からず候。しかれども又かやうに申せば 人を選び申すに似て候ふ間。花をば明日 こそ御らん候ふべけれ。まづ/\此処を ば御立ちあらうずるにて候。狂言「いやい やそれは御諚に て候へども。あ の客僧を追ひ立 てうずるにて 候。ワキ「いやた だ御立あらうず るにて候。 シテ「遥に人家を 見て花あれば 即ち入る。論ぜ ず貴賎と親疎と を弁へぬをこ そ。春の習と聞くものを。浮世に遠き鞍 馬寺。本尊は大悲多聞天。慈悲に洩れた る人々かな。子方「げにや花の下の半日の

客。月の前の一夜の友。それさへ好みは あるものを。あら痛はしや近うよつて花 御らん候へ。シテ詞「思ひよらずや松虫の。 音にだに立てぬ深山桜を。御訪の有難 さよ此山に。子方「ありとも誰かしら雲の。 立ち交はらねば知る人なし。シテ詞「誰をか も知る人にせん高砂の。子方「松も昔の。

シテ「友烏の。地「御物笑の種蒔くや。言の 葉しげき恋草の。老をな隔てそ垣穂の梅 さてこそ花の情なれ。花に三春の約あり。 人に一夜を馴れそめて。後いかならんう ちつけに心空に楢柴の。馴れは増らで恋 のまさらん悔しさよ。 シテ詞「いかに申し候。唯今の児達は皆々 御帰り候ふに。何とて御一人是には御座 候ふぞ。子方詞「さん候唯今の児達は平家 の一門。中にも安芸の守清盛が子供たる により。一寺の賞翫他山のおぼえ時の花 たり。みづからも同山には候へども。よ ろづ面目もなき事どもにて。月にも花に も捨てられて候。シテ「あら痛はしや候。 さすがに和上臈は。常磐腹には三男。毘 沙門の沙の字をかたどり。御名をも沙那 王殿と付け申す。あら痛はしや御身を知 れば。所も鞍馬の木蔭の月。地「見る人も なき山里の桜花。よその散りなん後に

こそ。咲かばさくべきにあら痛はしの御 事や。 地歌「松嵐花の跡訪ひて。/\。雪と降り 雨となる。哀猿雲に叫んでは。腸を断つ とかや。心凄のけしきや。夕を残す花の あたり。鐘は聞えて夜ぞ遅き。奥は鞍馬 の山道の。花ぞしるべなる此方へ入らせ 給へや。さても此程御供して見せ申しつ る名所の。ある時は。愛宕高雄の初桜。 比良や横川の遅桜。吉野初瀬の名所を。 見のこす方もあらばこそ。 ロンギ子方「さるにても。如何なる人にましま せば。我を慰め給ふらん。御名を名のり おはしませ。シテ「今は何をか包むべき。 我此山に年経たる。大天狗は我なり。地「君 兵法の。大事を伝へて平家を亡ぼし給ふ べきなり。さも思しめされば。明日参会 申すべし。さらばといひて客僧は。大僧 正が谷を分けて雲を踏んで飛んでゆく立

つ雲を踏んで飛んでゆく。来序中入間「。 後子方一声「さても沙那王がいでたちには。肌 には薄花桜の単に。顕紋紗の直垂の。露 を結んで肩にかけ。白糸の腹巻白柄の長 刀。地「たとへば天魔鬼神なりとも。さこ そ嵐の山桜。はなやかなりける出立か な。後シテ大〓{大漢和:22529。べし}「そも/\これは。鞍馬の奥僧正 が谷に。年経て住める。大天狗なり。地「ま づ御供の天狗は。誰々ぞ筑紫には。シテ「彦 山の豊前坊。地「四州には。シテ「白峯の。 相模坊。大山の伯耆坊。地「飯綱の三郎富 士太郎。大峯の前鬼が一党葛城高間。よ そまでもあるまじ。邊土においては。 シテ「比良。地「横川。シテ「如意が嶽。地「我 慢高雄の峯に住んで。人の為には愛宕山。 霞とたなびき雲となつて。月は鞍馬 の僧正が。地「谷に満ち/\峯をうごかし。 嵐こがらし滝の音。天狗だふしはおびた たしや。

シテ詞「いかに沙那王殿。只今小天狗をま ゐらせて候ふに。稽古の際をばなんぼう 御見せ候ふぞ。子方詞「さん候只今小天狗共 来り候ふ程に。薄手をも切りつけ。稽古の 際を見せ申したくは候ひつれども。師匠 にや叱られ申さんと思ひ止まりて候。 シテ「あらいとほしの人や。さやうに師匠 を大事に思しめすに就いて。さる物語の 候語つて聞かせ申し候ふべし。語「さても 漢の高祖の臣下張良といふ者。黄石公に この一大事を相伝す。ある時馬上にて行 きあひたりしに。何とかしたりけん左の 履を落し。いかに張良あの履とつてはか せよといふ。安からずは思ひしかども履 を取つてはかす。又其後以前の如く馬上 にて行きあひたりしに。今度は左右の履 を落し。やあ如何に張良あの履取つては かせよといふ。なほ安からず思ひしかど も。よし/\この一大事を相伝する上は

と思ひ。落ちたる履をおつとつて。地「張 良履を捧げつゝ。/\。馬の上なる石公 に。はかせけるにぞ心とけ兵法の奥儀を 伝へける。シテ「そのごとくに和上臈も。 地「そのごとくに和上臈も。さも花やかな る御有様にて姿も心も荒天狗を。師匠や 坊主と御賞翫は。いかにも大事を残さず 伝へて平家を討たんと思し召すかややさ しの志やな。 地歌「抑武略の誉の道。舞働「。抑武略の誉 の道。源平藤橘四家にも取りわきかの家

の水上は。清和天皇の後胤として。あら あら時節を考へ来るに。驕れる平家を西 海に追つ下し。煙波滄波の浮雲に飛行の 自在を受けて。敵を平らげ。会稽を雪が ん。御身と守るべし。これまでなりや。 御暇申して立ち帰れば。牛若袂に。すが り給へば実に名残あり。西海四海の合戦 といふとも。影身を離れず弓矢の力を添 へ守るべし。頼めやたのめと夕かげくら き。頼めやたのめと。夕かげくら馬の。 梢に翔つて。失せにけり。