昭君幽霊 王母(姥) 白桃(尉) 単于幽霊 里人

ワキ詞「これは唐土かうほの里に住居す る者にて候。さても此処に白桃王母と申 す夫婦の候ふが。一人の息女を持つ。其名 を昭君と名づく。帝に召されて御寵愛限 なかりし所に。さる子細あつて胡国へう つされて候。夫婦の人の歎たゞ世の常な らず。近所の事に候ふ程に。立ち越え訪 はゞやと思ひ候。シテ、ツレ二人一セイ「散りかゝる。 花の木蔭に立ち寄れば。空に知られぬ。 雪ぞ降る。シテサシ「これは唐土かうほの里に 住まひする。白桃王母と申す。夫婦の者に て候ふなり。ツレ「かほどに賎しき身なれ ども。美名をあらはす息女あり。二人「昭 君とかれを名づけつゝ。容顔人に勝れた り。されば帝都に召されて後。明妃と其

名を改めて。天子にまみえおはします。 シテ「かほどいみじき身なれども。猶も前 世の宿縁離れやらざる故やらん。二人「諸 人の中に撰ばれて。胡国の民に移され。 漢宮万里の外にして。見馴れぬかたの旅 の空。思ひやるこそ悲しけれ。シテ「され ども供奉の官人ども。旅行の道の慰に。 絃管の数を奏しつゝ。二人「馬上に琵琶を 弾く事も此時よりと聞くものを。下歌「画 図にうつせる面影も今こそ思ひ知られた れ。上歌「かの昭君の黛は。/\。緑の色 に匂ひしも。春や暮るらん糸柳の思ひ乱 るゝ折毎に。風諸共に立寄りて木蔭の塵 を掃はん木蔭の塵を掃はん。 シテ「いざ/\庭を清めんと。老夫は箒を

たづさへたり。ツレ「げにや心も昔の春。 老の姿もさゝがにの。いと苦しとは思へ ども。風結ぶ涙の袖の玉だすき。かゝる 思も子故なり。シテ「たゞ世の常の賎の男 と。人もや見るらん恥かしや。ツレ「日は 山の端に入相の。シテ詞「かねて知らする 夕嵐。ツレ「袖寒しとは思へども。シテ「子 の為なれば。ツレ「寒からず。シテ、ツレ次第「落葉 の積る木蔭にや嵐も塵となりぬらん。 地「落葉の積る木蔭にや。/\。嵐も塵と なりぬらん。 上歌「げに世の中に憂き事の。/\。心に 懸かる塵の身は。掃ひもあへぬ袖の露。 涙の数や積るらん。風に散り。水には浮 ぶ落葉をも。しばし袖に宿さん。下歌「涙 の露の月の影。それかと見ればさもあら で。小笹の上の玉霰音もさだかにきこえ ず。シテ詞「あまりに苦しう候ふ程に。休ま ばやと思ひ候。

ワキ「いかにこの家の内に白桃の渡り候ふ か。シテ「誰にて御入り候ふぞ。ワキ「いや某 が参りて候。シテ「こなたへ御出で候へ。 ワキ「如何に申し候。さても昭君の御事御 心中察し申して候。シテ「御訪ありがたう 候。ワキ「又申すべき事の候。この柳の木の 本を立ち去らずして清め給ふは。何と申 したる御事にて候ふぞ。シテ「昭君胡国へ 遷されし時。この柳を植ゑ置き。われ胡国 にて空しくならばこの柳も枯れうずると 申しつるが。御覧候へはや片枝の枯れて 候。ワキ「げに/\御歎尤にて候。扨々昭 君は何しに胡国へは遷され給ひ候ふぞ。 シテクリ「さても昭君胡国へ遷されし。その古 をたづぬるに。地「天下を治めし始なり。 シテ「然れば胡国の軍こはうして。従ふ事 期し難し。地「されば互に和睦して。其印 一つなからんやとて。美人を一人つかは すべき。御約束のありしに。クセ「そも漢

王の宣旨には。三千人の寵愛。いづれを わくる方もなし。もろ/\の宮女の。紅 色紅衣の姿を。賢聖の障子に似せ画にこ れを現し。中に劣れるさまあらば。則ち 彼を撰みて。胡国の為につかはし。天下 の運を静めんと。綸言ならせ給へば。数 数の宮女達。これをいかにと悲み。絵か ける人を談らひ。皆賂を贈りつゝ。御 約束のありし故。シテ「されば写せる其 姿。地「何れを見るも妙にして。柳髪風に たをやかに。桃顔露を含んで色猶深き姿 なり。中にも昭君は。ならぶ方なき美人 にて。帝の覚えたりしなり。それを頼め る故やらんたゞうち解けてありしに。画 図に写せる面影の。余りいやしく見えし かば。さこそは寵愛。甚だしゝとは申せ ども。君子に私の。詞なしとや思しけん。 力なくして昭君を胡国に送り遣さる。 シテ詞「昔桃葉といひし人。仙女と契浅か

らざりしに。仙女空しくなりて後。桃の花 を鏡に映せば。則ち仙女の姿見えけると なり。此柳もさながら昭君の姿。いざさせ 給へ鏡に映して影を見ん。ツレ「それは仙 女の姿なり。いかでこれには譬ふべき。 シテ「いやそれのみならず鏡には。恋しき 人の映るなり。ツレ「夢の姿を映しゝは。 シテ「しんやうが持ちします鏡。ツレ「古里 を鏡に映しゝは。シテ詞「とけつといひし旅 人なり。ツレ「それは昔に年をへて。シテ「花 の鏡となる水は。地「散りかゝる花や曇る らん。思はいとゞます鏡。もしも姿を見る やと。鏡に向つて泣き居たり/\。中入「。 昭君「これは胡国に遷されし。王昭君の幽 霊なり。さても父母別を悲み。春の柳の 木の本に。泣き悲み給ふ痛はしさよ。急 ぎ鏡に影を映し。父母に姿を見え申さん。 春の夜の。朧月夜にあらはれて。地「曇 りながらも。影見えん。ツレ「恐ろしや鬼

とやいはん面影の。身の毛もよだつばか りなり。いかなる人にてましませば。鏡に は映り給ふらん。後シテ「これは胡国の夷の 大将。呼韓邪単于が幽霊なり。ツレ「胡国 の夷は人間なり。今見る姿は人ならず。 目には見ねども音にきく。冥途の鬼か恐 ろしや。 シテ「呼韓邪単于も空しくなる。同じく昭 君が父母に。対面の為に来りたり。ツレ「よ しなかりける対面かな。姿を見るも恐ろ しや。 シテ詞「そも恐るべき謂はいかに。ツレ「心 に知らぬ我が姿。鏡に寄りて見給へとよ。 シテ「いで/\。詞「鏡に影をうつさん。真に 気疎き姿かと。詞「鏡に立ち寄りよく/\ 見れば。恐れ給ふもあら道理や。地太鼓頭「荊 棘をいたゞく髪筋は。/\。シテ「主を 離れて空に立ち。地「元結更にたまらね ば。シテ「さね葛にて結びさげ。地「耳には

鎖を下げたれば。シテ「鬼神と見給ふ。地「姿 も恥かし。鏡に寄りそひ立つても居ても。 鬼とは見れども人とは見えず。その身か あらぬかわれならば。恐ろしかりける顔 つきかな面目なしとて立ち帰る。キリ「た

だ昭君の黛は。/\。柳の色に異ならず。 罪をあらはす浄玻璃は。それも隠はよも あらじ。花かと見えて曇る日は。上の空 なる物思。影もほのかに三日月の。曇ら ぬ人の心こそ。誠を写す鏡なれ/\。