草刈男 虞氏 項羽

ワキ、ワキツレ二人次第「ながめ暮らして花に又。/\。 宿かる草を尋ねん。ワキ詞「これは烏江の野 辺の草刈にて候。今日も草を刈り唯今家 路に帰り候。下歌三人「野辺は錦の小萩原刈萱 まじる烏江野に。上歌「草刈るをのこ心な く。/\。花を刈るとや思草。家づとな ればいろ/\の。草花の数を刈りもちて。 帰れば跡は秋暮れて。枯野にすだく虫の 音も花を惜むか心あれ。/\。ワキ詞「便船 を待ち向へ越さうずるにて候。 シテ、サシ一声「蒼苔路滑かにして僧寺に帰り。紅 葉声乾いて牡鹿鳴くなる夕まぐれ。心も 澄める面白さよ。一セイ「秋ごとに。野分を

船の追風にて。地「荻の穂かくる露の玉。 ワキ詞「なう/\その船に乗らうずるにて 候。シテ「おふ召され候へ。さて船賃は候。 ワキ「われら如き者の船賃参らせたること はなく候。シテ「船賃なくばこの船には適 ひ候ふまじ。ワキ「さらば上の瀬へ廻らう ずるにて候。シテ「なう/\道理は申しつ 船に召され候へ。ワキ「乗りおくれじと草 刈は。もとの渚に立ち寄れば。シテ「とく 乗り給へとさし寄する。上歌同「露刈りこめ て秋草の。/\。葉ごとに影やどる月を や船に乗せつらん。天の河。たな渡りし て七夕の。たな渡りして七夕の。年に一

夜は心せよ。秋風吹けば波の音。湊に近 き蜑小船。水音なしにゆく船の水馴棹を さゝうよ水馴棹をさゝうよ。 シテ詞「船が着いて候御上り候へ。ワキ「御 船恐れて候。シテ「さて船賃は候。ワキ「又 船賃と仰せられ候ふよ。其為にこそ向ひ にて申し定めて候ふに。何とて聊爾なる 事をば承り候ふぞ。シテ「いや船賃と申せ ばとて別の子細にても候はゞこそ。それ 程多き草花をなど一本賜はり候はぬぞ。 ワキ「あら優しや。いづれにても召され候 へ。シテ「さらばこの花を賜はらうずるに て候。ワキ「不思議やなこれ程多き草花の 中に。何とて其花を撰つて召され候ふぞ。 シテ「さん候これは美人草と申して。故あ る花にて候。ワキ「あら面白や美人草とは 何と申したる謂にて候ふぞ。シテ「是は項 羽の后虞氏と申せし人の。身を投げ空し くなり給ひしを。取り上げ土中につきこ

め候へば。その塚より生ひ出でたる草な ればとて。さて美人草とは申し候。ワキ「さ らば項羽高祖の戦のやうを。御存じ候は ばそと御物語り候へ。シテ「さらば語つて 聞かせ申し候ふべし。 物語「さても項羽高祖の戦。七十余度に 及ぶといへども。始は項羽うち勝ち給ひ。 一度も高祖の利無かりしに。ある時項羽 の兵心変りし。却つて項羽をばせめつ つ。四面に鬨の声あぐれば。虞氏は思ひ に堪へかねて。いかゞはせんと伏し給ふ。 又望雲騅といふ馬は。一日に千里を駈く る名馬なれども。主の運命尽きぬれば。 膝を追つて一足も行かず。その時項羽は ちつとも騒がず。馬よりしづ/\と下り 立つて。いかに呂馬童。我が首取つて高 祖に捧げ。名を揚げよやと呼ばはれども。 地「呂馬童は。恐れて近づかず不覚なる者 の心かな。これ見よ後の世に。語り伝へ

よといひあへず。剣を抜いてあへなくも。 われと我が首を掻き落し。呂馬童にあた へその侭この原の露と消えにけり。望雲 騅は膝を折り。黄なる涙を流せばさのみ 語れば我が心。昔に帰る身の果。今は包 まじ我こそは。項羽が幽霊現れたり跡弔 ひてたび給へ跡弔ひてたび給へ。中入間「。 ワキ三人上歌待謡「様々に。弔ふ法の声立てゝ。/\。 波にうきねの夜となく。昼ともわかぬ弔 の。般若の船のおのづから。その纜を とく法の。心を静め声をあげ。一切有情。 殺害三界不堕悪趣。 後シテ出端「昔は月卿雲客うちかこみ。今は樵歌 野田の月。爛体霧深し。古松下の影。 地「苔紛々として旧名を埋む。シテ「紫の雲間 横ぎるいでたちは。地「天つ少女の調か な。各々伎楽を奏しつゝ。/\。夢の 黄楊櫛弾く琴琵琶の。四面の鬨の声を上 ぐれば又執心の攻め来るぞや。あら苦し

の苦患やな。ツレ「虞氏は思ひに堪へかね て。地「虞氏は思ひに堪へかね給ひて高楼 に昇りて。落つるはさながら涙の雨の。 身を投げ空しくなり給へば。働「。シテ「項羽 は虞氏が別と我が身の。詞「なりゆく草葉 の露諸共に。消えはてし悲しさ。思ひ出 づれば。剣も鉾も皆投げ捨てゝ。身を焼 くばかりに口惜しかりし。夢物語ぞ。哀 なる。シテ「あはれ苦しき瞋恚の焔。地「あ はれ苦しき瞋恚の焔の立ちあがりつゝ。 味方を見れば。高祖に属して寄せ来る波 の。荒き声々聞けば腹立ち。いで物見せ んとみづからかけ出で敵を近づけ。取つ ては投げ捨て。又は引き伏せ捻首とりど りに恐ろしかりける勢なれども運尽き ぬれば。烏江の野辺の。土中の塵とぞな りにける。